August 2012アーカイブ

タキス・フォトプロスによれば、経済的なグローバリゼーションを商品、資本、労働市場の開放や規制緩和として、政治的なグローバリゼーションを国家を超えたエリートの出現や国民国家の消失として、文化的なグローバリゼーションを文化の世界的な同質化として眺める視点が存在していた。

アメリカでは、アメリカ労働委員会が適切な労働条件と公正な競争のための法令を提案し、それは搾取された結果である商品を輸入し、販売し、輸出することを禁じることによって企業に対して人権と労働者の権利を尊重していたが、ギャップやナイキのような衣料品メーカーは現地やアメリカの法律に違反して児童労働を許していた工場と契約していたとの指摘が存在していた。

ブランコ・ミラノビックによれば、現在間違った数字であると知られているデータに基づいて、ここ10年間の間に各国の所得の集中と分散に関する文字通り数百の学術論文が発表されてきたとの指摘があり、新しい数字を用いれば初期の不平等を示すジニ係数は0.70に対して0.65周辺と推定されており、グローバルな貧困と不平等に対して先行される実証的な研究に対して疑念が投げ掛けられていた。

労働市場におけるグローバリゼーションは先進国において正の効果と負の効果を有しており、エンジニア、弁護士、科学者、教授、経営幹部、ジャーナリスト、コンサルタントのようなホワイトカラーの労働者たちは世界市場で巧みに競争することができ、高い賃金を維持しており、例えばボーイング社は2011年後半にその年に雇用した11,000人の労働者たちを守るためにアメリカの航空機に対する500億ドル以上の価値がある取り引きをまとめていたが、製造部門の労働者とサービス部門の労働者は途上国のかなり低コストの労働者と直接競合することができず、低賃金諸国は以前に富裕国で行われていた低付加価値の仕事を手に入れ、富裕国により高付加価値の仕事が残っており、アメリカの製造部門で雇用される人々の全体数は落ち込みを示していたが、1人あたりの付加価値は増加していたとの指摘が存在していた。

先進国内部における所得不平等の拡大のトレンドはアメリカにおいて拡大しているように思われ、それは1970年代後半にその兆候を示し始め、21世紀に入って加速し、現在多くの途上国で見受けられる格差と同様のレベルに達していた。

経済政策研究所の研究によれば、2001年から2008年の間においてアメリカは240万人分の仕事に相当する対中貿易赤字を増加させ、2000年から2007年にかけてトータルで320万人分の製造業の仕事を失っており、中国の成功は欧米同様に途上国における仕事においてもマイナス要因となっており、2005年4月26日時点で南アフリカにおいて中国製品の流入によって過去2年間において30万人の繊維労働者が仕事を失っていたことが指摘されていた。

プライスウォーターハウスクーパースの2007年のレポートによれば、2025年前後に中国が最大の経済大国であるアメリカを抜き、2050年にはインドによって追いつかれるだろうと予測されており、ゴールドマン・サックスの2010年のレポートによれば、2020年までに中国は日本を追い抜き、世界最大の経済になるだろうと予測されていた。

文化のグローバリゼーションは異文化交流の機会を増やしたが、孤立したコミュニティの独自性を減少させる可能性を存在させており、例えばスシは日本同様ドイツでも利用可能であったが、ユーロ・ディズニーはパリの都市の魅力を奪い、潜在的に本物のフランスの菓子に対する需要を減らす可能性を存在させており、他方で個人の伝統からの疎外に対するグローバリゼーションの寄与は、ジャン=ポール・サルトルやアルベール・カミュのような実存主義者たちによって伝えられるような近代そのものの影響と比較すると控えめになるかもしれないとの指摘が存在していた。

グローバリゼーションは主にアメリカから発信された文化及び経済活動の外へ向かうフローによって動かされているとの指摘が存在しており、アメリカの企業であるマクドナルドやスターバックスはグローバリゼーションの例として引用されるが、2008年の時点で世界にそれぞれ32,000ヶ所、18,000ヶ所以上の店舗を構えていたことが指摘されていた。

音楽的遺産について、グローバリゼーションはアーキビストたちにメロディーが環境に同化し変更される前にレパートリーを収集、記録、複製させることを促し、地域のミュージシャンたちはその信頼性のために闘い、地域の音楽の伝統を保護していたが、新しいアイデアや音を求める欧米の視聴者たちに地域で記録された音楽を届けることを通じて、ワールド・ミュージックに関する現象に対する支援を与えており、他方アングロ・アメリカのポップ・ミュージックがMTVを通じて世界中に拡散し、従属理論が世界が統合された国際システムであることを示していることを考慮すると、音楽的にこのことが地域の音楽のアイデンティティーの喪失として解釈されることが可能であった。

ブルデューによれば、消費に対する認識は自己認識やアイデンティティーの形成としてみなすことができると主張されており、音楽的にこのことは好みや嗜好に基づいたその人自身の音楽的アイデンティティーを個々が有していると解釈されていたが、このことは人の欲求や振る舞いに対する最も基本的な理由付けであるので、これらの好みや嗜好は主に文化によって影響され、個々人の文化の概念は現在グローバリゼーションによって変化の時代の中に置かれており、そのグローバリゼーションは政治的、個人的、文化的、経済的要因の相互依存性を増大させているとの指摘が存在していた。

また多くの工場が環境規制の少ない途上国に建設され、各国が外国資本を誘致するために環境や資源に対する保護法の役割を低下させたため、途上国における国際的な外国投資は底辺への競争を招いていたが、先進国がプラスの意味での環境政策を維持し、彼らが投資する国々にそれらの政策を与え、頂点への競争といった現象を作り出すならば、この理論の逆は真になるだろうとの指摘が存在し、ペルーやエチオピアのような途上国はエコツーリズムのような投資を通じて経済成長を促し、地域の経済的利得、訪問者にとっての教育的な体験、その影響が彼らの天然資源を活用し、保護することを可能にすることによって、彼らの独自の生態系を保護することを可能にしていた。

ポストマテリアリストの価値観に推移した社会は、経済安定性の高められたレベルや物質保全の信頼できるレベルに達する機会がなかったマテリアリストの社会以上に、天然資源の保全に価値を置いていたが、ポストマテリアリストの国々の生態学的現状は現在維持可能な状態でなく、他の国々に重荷をシフトすることができない周辺の国々に環境破壊の重荷をシフトすることによってのみ維持可能な状態であり、ポストマテリアリストの社会にとっての課題は維持可能なレベルにまで彼らの生態学的現状を改善させることであり、トランジション・タウン、パーマカルチャー、ゆりかごからゆりかごへを目指したデザインといった社会運動や地域のパイロット・スキームがある程度の維持可能な現状を達成しようとしていた。

フィリップ・ゴードンによれば、EUの労働者たちはグローバリゼーションにそれほど脅威を感じていないと指摘されており、EUの労働市場はアメリカより安定しており、賃金カットや福利厚生のカットをアメリカほど受け入れておらず、社会支出がアメリカよりはるかに高かったが、アメリカの労働者たちはヨーロッパ以上に自動化やアウトソーシングから影響を受け、アメリカの所得不平等はEU以上にかなり高いものになっていた。

日本ではその経済が小さくて脆いとの認識が存在しており、その不安が国際化やグローバリゼーションといった用語を日常の会話に登場させる原因となっていたが、日本の伝統は特に農業において可能な限り自給自足することであった。

2008年のBBCの世界世論調査によれば、世論調査はグローバリゼーションのペースが急であることに最も強く同意したのはフランス、スペイン、日本、韓国、ドイツであり、アメリカ以上に根強い反発であるように思われ、あまりにも急なグローバリゼーションが経済不安や所得の不平等を増大させるとの認識を抱かせる傾向と相関したものであったが、メキシコ、中央アメリカの国々、インドネシア、ブラジル、ケニアを含む国々においてはグローバリゼーションが非常にゆっくりと進行していると考えられていた。

ブルッキングス研究所によれば、グローバリゼーションに対する批判の多くは中流階級から生じており、彼らの経済的安全を脅かす低所得グループが上層へ移動していることを中流階級が認知したことによる現象であることが示唆されていたが、第三世界の多くの国々がグローバリゼーションを貧困から国を引き上げるプラスの力として捉えていた。

第三世界では中流階級が急速に成長していたが、都市化の拡大にともない、都市部と農村部の間の富の格差を増大させており、2002年のインドにおいて農村部での大衆運動が時としてグローバリゼーションのプロセスに対して反対の意思を示しており、中国では農村部と都市部の間で広まる富の格差の拡大を背景にして、工業地域に不満を持つ労働者の増加に加えて、リーダーシップに対する懸念を引き起こしていた。

ジョセフ・スティグリッツやアンドリュー・チャールトンによれば、社会的崩壊、民主主義の崩壊、より急速で激しい環境破壊、新しい病気の蔓延、貧困や疎外の増大といった多数の相互に関連した致命的な結果はグローバリゼーションの意図されざる帰結であったと主張されていた。

2005年のユネスコによるレポートによれば、西欧諸国は依然として文化的商品の主な輸出国であり続けていたが、2002年に中国はイギリスやアメリカに続く3番目に大きい文化的商品の輸出国になっており、1994年から2002年にかけて文化的輸出品における北米や欧州連合のシェアは落ち込みを示しており、アジアの文化的輸出品は北米を上回る成長を遂げていた。

ジャン・ジーグラーによる食糧の権利に関する国連特別報告書によれば、数百万人の農家たちが途上国における彼らの生活を失っていたが、先進国の小規模農家たちも同様に苦しんでいたとの指摘が存在しており、加盟国間の不平等なパワーのバランスを所与とすると、グローバルな貿易システムに関する現在の不平等はWTOの下で解決されるよりむしろ維持されることになると結論づけられていた。アクティビストたちによれば、WTOの内部で、表面的には多くの先進国で制定された農業に関する保護主義政策において、先進国と途上国の間に不平等な立場や権力が存在しているとの指摘が存在しており、国際市場で先進国の農産物に競争力を与えていた農業に対する補助や一部の先進国による輸出補助金の積極的な活用が多くの途上国における農業部門の衰退の主な理由になっていることが指摘されていた。

チョムスキーによれば、たまたま投資家であり、貸し手であった人々の権利に特権を与える国際的な経済統合の特定の形態に言及するため、グローバリゼーションという用語を用いることは現在権力を有している人々にとって適切なものであり、人権に特権を与えるような国際統合の形態を好む人々は反グローバリストと呼ばれ、これは馬鹿げているが、教育を受けた階級のこっけいでヒステリックな振る舞いに吹き出しを禁じ得ないものであるとの指摘が存在していた。

多国籍企業による製造現場や大衆文化におけるブランド主導型のマーケティングが世界中に氾濫していることを批判したカナダのジャーナリストであるナオミ・クラインによる著作である『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』は運動のマニフェストであり、インドでは運動に対する知的関心をエコロジストでありフェミニストであるヴァンダナ・シヴァの作品の中に見出すことができ、『バイオパイラシー――グローバル化による生命と文化の略奪』の中で、先住民やエコリージョンが保有する自然資本が、私的利用を共有せずしたがって簒奪される独占的な商業的財産として認識される知的資本の形態に転換される方法が示されており、作家であるアルンダティ・ロイは反核といった立場や世界銀行によって支援された巨大な水力発電ダムのプロジェクトに反対する活動で有名であり、フランスでは月刊紙であるル・モンド・ディプロマティークが反グローバリゼーションの立場を支持しており、トランスナショナル研究所のスーザン・ジョージは1986年から飢餓、債務、国際金融機関、資本主義に関する彼女の著作を通じて、この運動に対して長期にわたる影響を与え続け、ジャン・ジーグラー、クリストファー・チェイス=ダン、イマニュエル・ウォーラーステインの著作は資本主義体制によって支配された世界における低開発と依存について解説し、ノーム・チョムスキー、スーザン・ソンタグ、反グローバリストであるイエス・メンのようなアメリカの外交政策に対する批評家たちは広くこの運動の内側に受け入れられていた。

アマルティア・センは『自由と経済開発』の中で第三世界の発展は単に1人あたりの国民所得の増加ではなく、人間の潜在能力の拡大として理解されねばならず、したがって単にGDPと結びつけるのではなく、健康や教育に結びついた政策が必要とされていると主張しており、ジェームズ・トービンは金融取引に関する課税の提案を通じ運動の目標の一部を形成していた。

また成長は貧困層にとって良いことであるといったグローバリゼーション支持のスローガンは意図的に誤解を招いており、1950年から1975年のデータはグローバリゼーションに関連した新自由主義的な改革が行われた時期より前のことであるため、現実以上にグローバリゼーションに対する統計を良い数字に変えているとの指摘が存在していた。

ハジュン・チャンによれば、1人あたりの所得の伸びといったパラメーターに関して新自由主義的な政策を継続するための主張は支持できない見解であって、大雑把に言えば、途上国における1人あたりの所得は1960年から1980年にかけて年率で3%成長していたが、1980年から2000年にかけて約1.5%しか成長しておらず、先進国によって推進されていた自由貿易や産業政策を採用しなかったインドや中国を除外すれば、この1.5%という数字は約1%にまで低下するだろうとの指摘が存在しており、他方で世界銀行の統計で用いられている方法論に対して懸念が表明されており、貧困を測定するさらに詳細な変数が研究されるべきであるとの主張が存在していた。

他方、マイケル・ハートやアントニオ・ネグリは『<帝国>グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』の中で統合されない多数派つまり人間は共有された背景を理由にしてともに歩むが、「人」といった考え方に対して完全な同一性を保有することがないといった考えを拡張しており、運動に対する一般的な批判がそこに存在していた。

またエコノミスト誌のような反グローバリゼーション運動に対する反対の論壇によれば、反グローバリゼーションの支持者たちは合理性の仮定を外すか、グローバリゼーションは環境汚染といった負の外部性を生み出し、投資が伝統的な方法を除外して工場生産を促進するように市場に変更をもたらすかのいずれか一方であるといった指摘が存在し、エルナンド・デ・ソトによれば、第三世界の貧困の多くは欧米の法制度や明確に定義され普遍的に認識されている財産権の欠如を理由にしているとの主張が存在していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「グローバリゼーション」、「反グローバリゼーション運動」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Globalisation

グローバリゼーション

グローバリゼーションは文化、人、経済活動のグローバルな関係が拡大していることを示していた。この語は一般的に経済的なグローバリゼーションを示すために用いられており、関税、輸出手数料、輸入割当などの国際的な障壁を削減することを通じて、財・サービスの生産におけるグローバルな分布を示していた。グローバリゼーションは、分業の拡大や比較優位の原理を通じて、先進国や途上国の経済成長に貢献してきた[1][2]。この語は同様に思想、言語、大衆文化の国境を超えた流通に言及することが可能であった。

グローバリゼーションの批評家たちはグローバリゼーションの便益が過大に見積もられ、そのコストは過小評価されていると主張していた。批評家たちは、グローバリゼーションが文化の内部における触れ合いを減少させ、他方で国家間や国家内における対立の可能性を増加させていると論じていた。

1 外観

この用語は『新たな教育に向けて』と題された1930年の出版物の中で初めて採用され、教育における人間の経験に関する全体像を示していた[3]。1960年代になってこの用語は経済学者たちや他の社会科学者たちによって用いられ始めていた。この用語は1980年代後半に主要な活字メディアに登場していた。その端緒からグローバリゼーションの概念は15世紀以降のアジアやインド洋を超えた貿易や帝国の大きな動きに遡って競合する定義や解釈に影響を与えていた[4]。

チャールズ・テイズ・ラッセルは当時の大規模で国家的な企業合同や他の大企業を説明するために1897年に『巨大企業』といった関連する用語と同一視していた[5]。

国連西アジア経済社会委員会はグローバリゼーションを以下のように定義していた。

「広く用いられている用語は多くの異なった方法で定義されている可能性が存在していた。経済的な文脈で用いられるときに、それは、財、資本、サービス、労働のフローを容易にするために国家間における障壁を削減し除去することに言及しており...かなりの障壁が労働のフローに対して残っていたけれども...グローバリゼーションは新しい現象ではなかった。それは19世紀末から始まっていたが、第一次世界大戦の始まりから20世紀の第三四半期まで鈍化を示していた。この鈍化はそれぞれの産業を保護するために多くの国々によって採用された内向的な政策に起因している可能性があり...しかしながらグローバリゼーションのペースは20世紀の第四四半期に急速な上昇を示していた...」[6]。

ケイトー研究所のトム・G・パーマーはグローバリゼーションを「国境を超えた取り引きや結果として生じる生産や交換においてますます統合され複雑化するグローバルなシステムに対して国家が強制する制限の削減や除去」として定義していた[7]。

グローバル化された貿易、アウトソーシング、サプライチェーン、政治力が良くも悪くも世界を恒久的に変化させたと論じることによって、トーマス・L・フリードマンは「フラット化する世界」といった用語を普及させていた。彼は、グローバリゼーションのペースが早くなり、企業組織や企業活動に対するその影響が増大し続けるだろうと主張していた[8]。

タキス・フォトプロスは「経済的なグローバリゼーション」を、現在の新自由主義的なグローバリゼーションを導く商品、資本、労働市場の開放や規制緩和として定義していた。「政治的なグローバリゼーション」は国家を超えたエリートの出現や国民国家の消失として眺められていた。「文化的なグローバリゼーション」は文化の世界的な同質化であった。そして他の要素は「イデオロギー的なグローバリゼーション」、「技術的なグローバリゼーション」、「社会的なグローバリゼーション」を含んでいた[9]。

2000年にIMFはグローバリゼーションの4つの基本的な側面を定めていた[10]。

貿易や取り引き:途上国は世界貿易に占めるシェアを1971年の19%から1999年の29%に増加させていた。しかし主要な地域において大きな違いが存在していた。実際にアジアの新興工業国は繁栄していたが、他方アフリカの諸国は全体として不振に喘いでいた。国の輸出構造は成功のための重要な指標であった。工業製品の輸出は、先進国やNIEs諸国によって支配され、急騰していた。食料や原料などの輸出品はしばしば途上国で生産されており、この期間総輸出額に占める商品のシェアは低下していた。

資本と投資の動き:途上国への民間の資本フローは1990年代に上昇し、1980年代以降かなり落ち込んだ「支援」や開発援助を置き換えていった。そして外国直接投資(FDI)が最も重要なカテゴリーになった。ポートフォリオ投資と銀行融資の双方が増加したが、非常に変動が激しく、1990年代後半の金融危機には急速に落ち込んでいった。

移住や人の移動:1965年から1990年にかけて移民労働者の比率はおよそ2倍になった。ほとんどの移住は途上国と後発開発途上国(LDCs)の間に生じていた。そして進んだ経済の国々への移民のフローがグローバルな賃金がある一定の範囲に収束するための手段を与えているといったことが主張されていた。またこれらの国々の賃金が上昇するので、スキルが途上国へ向かって逆に流れる可能性があることが指摘されていた。

知識(と技術)の普及:情報と技術のやり取りはグローバリゼーションに不可欠な側面であった。技術革新(もしくは技術移転)は例えば携帯電話の登場のようにほとんどの途上国や後発開発途上国(LDCs)に便益をもたらしていた[11]。

2 歴史

グローバリゼーションの歴史的起源は議論の対象のままであった。一般的な用法では1970年代初めにそれは言及するが、一部の研究者たちはそれを全ての国際的な活動を含む古代史を有するものとしてみなしていた。

2.1 古代

おそらくグローバリゼーションの深い歴史的起源に対する最も極端な擁護者は従属理論に関連した経済学者であるアンドレ・グンダー・フランクであった。フランクはグローバリゼーションの形態が紀元前3000年におけるシュメールとインダス文明の間の貿易上のつながりから生じていたと主張していた[13]。

商業都市の中心部がアレクサンドリアや他のアレクサンダーの都市を含むインドからスペインに至るまでのギリシア文化の中枢を包んでいた頃、古代のグローバリゼーションはヘレニズム時代にも存在していた。他方でローマ帝国、パルティア帝国、漢王朝間の貿易上のつながりが指摘されていた。これらのパワーの間において拡大していた商業上のつながりはシルクロードの形態をとり、それは中国西部から始まり、パルティア帝国の国境に達し、ローマに続いていた[14]。また毎年300隻ほどのギリシアの船舶がグレコローマン世界とインドとの間を航海していた。毎年の貿易高は30万トンに及んでいる可能性が存在していた[15]。

2.2 イスラムとモンゴル時代

ユダヤ人とイスラム教徒の商人や探検家が交易ルートを確立した頃、イスラムの黄金時代はグローバリゼーションの別の段階を示しており、農業、貿易、知識、技術のグローバリゼーションがもたらされた。砂糖や綿花のような作物はこの時期にイスラム世界で広く栽培されるようになり、他方アラビア語やハッジの知識の普及がコスモポリタンの文化を生み出していた[16]。

モンゴル帝国の出現は、中東や中国における商業の中心を不安定にしたけれども、シルクロードに沿った交易を大幅に容易にしていた。13世紀のパクス・モンゴリカは、中央アジアにおける腺ペストのような伝染病の急速な拡大同様に、最初の国際郵便サービスを含んでいた[17]。しかし16世紀まで国際交易における最大のシステムはユーラシア南部(バルカン諸国やギリシアがトルコ、エジプト、レバント、アラビア半島と交流し、アラビア海からインドに続いていた)に限定されていた。

2.3 ヨーロッパの海上貿易

プロト・グローバリゼーションとして知られる次の局面は16世紀や17世紀のヨーロッパの帝国における海上貿易によって特徴づけられており、最初にポルトガル帝国とスペイン帝国が、次にオランダ帝国とイギリス帝国が続いていた。17世紀にオランダ東インド会社(1602年に設立される)同様にしばしば最初の多国籍企業として説明されるイギリス東インド会社(1600年に設立される)のような勅許会社が設立されたときに、グローバリゼーションは大きな発展を遂げていた。

大航海時代はこの現象に新大陸を加えていた[18]。ポルトガルとカスティーリャがアフリカの角やアメリカ大陸に最初の探検隊を送り、1492年にクリストファー・コロンブスによって到達された頃、15世紀後半にそれは始まっていた。グローバルな統合はヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地化とともに続き、コロンブス交換、つまり東半球と西半球の間における植物、動物、人間の集団(奴隷を含む)、伝染病、文化の交流を始めていた。16世紀にヨーロッパの船員によってアメリカ大陸から伝えられた新しい作物は世界人口の成長に大きく貢献していた[21]。

2.4 産業化

19世紀にグローバリゼーションは現代の形式に近づいていた。産業化は規模の経済により家庭用品の安価な生産を促し、他方急速な人口の成長が持続的な受容を生み出していた。この時代のグローバリゼーションは19世紀の帝国主義によって形成されていた。第一次そして第二次アヘン戦争やイギリスによるインドの征服が完了した後、広大な人口がヨーロッパの輸出品の消費者予備軍となっていた。またサハラ以南のアフリカや太平洋諸島の一部が世界システムに組み込まれていった。他方でヨーロッパ人による特にサハラ以南のアフリカを含む地球上の新たな地域の征服はゴム、ダイヤモンド、石炭のような貴重な天然資源の産出を促し、ヨーロッパの帝国の力、その植民地、アメリカの間における燃料の貿易や投資を促していた[22]。

貿易の拡大は第一次世界大戦や世界恐慌によって中断され、第二次世界大戦後に再び拡大を始めていた。この後者の拡大は貿易を妨げる障壁を低下させる政治家たちによる計画の結果であった。彼らの仕事はブレトンウッズ会議、つまり国際的な金融政策、商取引や金融取引のための枠組みや経済成長を促すいくつかの国際機関の創設を主要な政府がもたらすための協定を導いていた。このことは主にアメリカやヨーロッパに拠点を置く多国籍企業のグローバルな拡大を容易にしていた。

2.5 制度設計

国際復興開発銀行(世界銀行)、国際通貨基金(IMF)、世界貿易機関(WTO)を含む各機関は冷戦後のグローバリゼーションの爆発的な成長の基礎を築いていた。

貿易を開放するための複数の貿易交渉が簡素化され、貿易障壁を低下させていた。最初に関税および貿易に関する一般協定(GATT)が一連の協定を導き、貿易制限を取り除いていった。GATTの後継者は世界貿易機関(WTO)で、それは貿易システムを管理する機関を創設していた。輸出高は1970年の世界総生産の8.5%から2001年の16.2%にまでほぼ2倍になっていた[23]。貿易を進めるためにグローバルな協定を用いるアプローチはドーハ・ラウンドの失敗によって停滞していた[24]。当時多くの諸国が二国間もしくは小規模な多国間の協定に移行しており、例えば2011年の韓国とアメリカの自由貿易協定が挙げられていた。

1990年代には低コストの通信ネットワークの成長がコンピュータを用いてなされる仕事がその地球上の位置に依存しないことを可能にしていた。このことは会計、ソフトウェア開発、技術設計を含んでいた。2000年代後半には先進工業国の多くがいわゆる大不況を経験し[25]、少なくとも一時的にグローバリゼーションのペースを鈍化させていたかもしれなかった[11][26][27][28]。

3 影響

3.1 経済

工業製品の国際貿易は1955年から2007年の間に100倍以上(950億ドルから12兆ドル)に増加していた[32]。中国の対アフリカ貿易高は2000年から2007年の間だけで7倍に増加していた[33][34]。

21世紀初頭までに各国の通貨で1.5兆ドル以上が貿易と投資の拡大を支援するために日々取り引きされていた[35]。

新しいグローバルビジネスの市場での生存競争は企業が彼らの製品をアップグレードし、激化する競争に生き残るために技術を巧みに用いることを要求していた[36]。

グローバリゼーションに対する元国連アドバイザーであったジャグディーシュ・バグワティーによれば、過度に急速な発展に伴う明白な諸問題が存在しているけれども、グローバリゼーションは貧困から各国を浮上させるための推進力でった。彼によれば、それはより急速な経済成長に関連する好景気循環を引き起こしていた[1]。

グローバリゼーションのコストと便益は各地域や各国家に等しく分配されていなかった。例えばアメリカの中西部における製造業の雇用は、途上国が指数関数的に成長している一方、落ち込みを示すばかりだった[37]。

頭脳流出

富裕国での機会は貧困国から熟練労働者たちを引き寄せ、頭脳流出を招いていた。例えばより貧しい国々からの看護師がアメリカに仕事に来ていることが挙げられていた[38]。この現象は毎年15万人の専門家を雇用することに対する41億ドル以上のコストを計上していた[39]。商工会議所は1年あたり100億ドルのコストをインドに対して計上していた[40]。

労働条件

いくつかの途上国では労働政策が先進国ほど労働者たちを保護していなかった。一例として製造現場の搾取が挙げられていた。ギャップやナイキのような衣料品メーカーは現地やアメリカの法律に違反して児童労働を許していた工場と契約していたことによって非難されていた[41]。

アメリカでは、アメリカ労働委員会が適切な労働条件と公正な競争のための法令を提案し、それは搾取された結果である商品を輸入し、販売し、輸出することを禁じることによって企業に対して人権と労働者の権利を尊重することを要求するものであった[42]。具体的にはこれらの核になる基準は労働条件を守る権利と同様に児童労働の禁止、強制労働の禁止、結社の自由、組織し、団体交渉する権利を含んでいた[43]。

外部化するビジネスプロセス

富裕国ではアウトソーシングは諸刃の剣であった。それはより安価なサービスを可能にしていたが、いくつかのサービスセクターの仕事が奪われていた。しかしインドのような低コストの国々では、アウトソーシング産業は「GDP成長、雇用拡大、貧困緩和に広く貢献し、次の20年から30年の間、国の発展の主要なエンジン」となっていた[44][45]。

所得の平等

世界銀行の数字は、極度の貧困に対する国際基準である1日あたり1ドル以下で生活する人々の数が1990年の12.5億人から2004年の9.86億人(総人口が増加しているが18%)に減少したことを示していた[46]。

批評家たちはグローバリゼーションが所得不平等を各国の間や内部において拡大させていると主張していた。8つの指標のうち7つにおいて所得不平等は2001年末までの20年間において拡大していた。同様に「世界所得分布の下位十分位における所得は1980年代以来確実に落ち込んでいた」。その記事は、バイアスのかかった方法論を理由にして、1日あたり1ドル以下で生活する人々の数が1987年から1998年にかけて12億人を保っていたとの世界銀行の主張に対して懐疑的であった[47]。

不平等に視覚化し理解できる形式を与えた図、いわゆるシャンパングラス効果[48]は1992年の国連開発計画のレポートに含まれており、それはグローバルな所得の分配が不公平であることを示しており、世界人口の最も豊かな20%が世界所得の82.7%を支配していることを示していた[49]。

2007年12月に世界銀行のエコノミストであるブランコ・ミラノビックは、途上国の生活が以前考えられていたよりも悪くなっていると購買力平価に対する改善された推定値が示しているので、グローバルな貧困と不平等に対して以前に行われた実証的な研究に対して疑念を投げかけていた。ミラノビックは「私たちが現在間違った数字であると知っているデータに基づいて、ここ10年間の間に各国の所得の集中と分散に関する文字通り数百の学術論文が発表されてきた」と発言していた。新たなデータはグローバルな不平等と貧困に対してかなり含意のある推定値を有していた。初期の不平等は新しい数字を用いれば0.70に対して0.65(ジニ係数)周辺と推定されていた[51]。

労働市場におけるグローバリゼーションは先進国において正の効果と負の効果を有していた。ホワイトカラーの労働者たち(エンジニア、弁護士、科学者、教授、経営幹部、ジャーナリスト、コンサルタント)は世界市場で巧みに競争することができ、高い賃金を維持していた。例えばボーイング社はアメリカ最大の輸出企業だった。2011年後半にその年に雇用した追加の11,000人の労働者たちを守るために、ボーイング社はアメリカの航空機に対する500億ドル以上の価値がある取り引きをまとめていた[52]。その反対に製造部門の労働者とサービス部門の労働者は途上国のかなり低コストの労働者と直接競合することができなかった[53]。低賃金諸国は以前に富裕国で行われていた低付加価値の仕事を手に入れ、富裕国にはより高付加価値の仕事が残っていた。実際にアメリカの製造部門で雇用される人々の全体数は落ち込んでいたが、1人あたりの付加価値は増加していた[54]。

このことは先進国内部における所得不平等の拡大をもたらしていた。このトレンドはアメリカでは拡大するように思われ、それは1970年代後半に兆候を示し始め、21世紀に入って加速し、現在多くの途上国で見受けられる格差と比較できるレベルに達していた[55]。

消費

アメリカ、ヨーロッパ、日本へのテレビ、ラジオ、自転車、繊維製品のような消費財の輸出はアジアの新興工業国の経済の拡大を促していた[56]。中国の輸出額は2011年10月において1575億ドルに達していた。その年の財・サービスの輸出は中国のGDPの39.7%を占めていた[57]。経済政策研究所(EPI)の研究によれば、2001年から2008年の間においてアメリカの対中貿易赤字の増加は240万人分のアメリカ人の仕事に相当するとされていた[58]。2000年から2007年にかけてアメリカはトータルで320万人分の製造業の仕事を失っていた[59]。中国の成功は欧米同様に途上国における仕事においてもマイナス要因となっていた。2005年4月26日時点で「地域の巨頭である南アフリカにおいても中国製品の流入によって過去2年間において30万人の繊維労働者が仕事を失っていた」[60]。

プライスウォーターハウスクーパースの2007年のレポートによれば、2050年までにE7(BRIC諸国:中国、インド、ブラジル、ロシアに加えてメキシコ、インドネシア、トルコ)と称される新興工業国の経済は現在のG7(アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、カナダ)よりも約50%程規模が拡大しているだろうとされていた。レポートは2025年前後に中国が最大の経済大国であるアメリカを抜き、2050年にはインドによって追いつかれるだろうと予測していた[61]。ゴールドマン・サックスによる2010年のレポートによれば、2020年までに中国は日本を追い抜き、世界最大の経済になるだろうと予測されていた[62]。

金融の相互依存

アメリカにおけるサブプライム住宅ローン市場の崩壊は、大恐慌以来経験したことがなかった規模でのグローバルな金融危機と景気後退を導いていた[63]。批評家たちによれば、政府の規制緩和とウォール・ストリートの投資銀行に対する規制の失敗がサブプライム住宅ローン危機に対する重要な要因であった[64][65]。

麻薬や違法商品の取り引き

2010年に国際連合薬物犯罪事務所(UNODC)はグローバルな麻薬取り引きが収益において1年あたり3,200億ドル以上も生み出していることを報告していた[66]。国連の推計によれば、世界的にヘロイン、コカイン、合成麻薬の常習者は5,000万人以上存在するとされていた[67]。また絶滅危惧種の国際取引は密輸業界では麻薬密売に次ぐとされていた[68]。伝統的な中国医学はしばしば植物の葉、茎、花、根といったあらゆる部分からの成分や動物と鉱物からの成分を取り込んでいた。絶滅危惧種(例えばタツノオトシゴ、サイの角、サイガアンテロープの角、虎の骨や爪など)の各部位の利用は保護動物を密漁する人々の闇市場を形成していた[69][70]。

3.2 政治

グローバリゼーションは国民国家の意義を低下させるように作用していた。EU、WTO、G8、国際刑事裁判所のような準国家もしくは超国家的な機関は国際協定によって国家の機能を置き換えていった[71]。一部のオブザーバーたちはアメリカのパワーの相対的な衰退の原因をグローバリゼーション、特にアメリカの高い貿易赤字によるものと認識していた。このことはアジア諸国、特に中国に対するグローバルなパワーのシフトを導いており、中国は市場を開放し、驚異的な成長率を達成していた。2011年時点では中国は2025年までにアメリカを追い抜く位置に存在していた[72]。

3.3 文化

北京語が一番話者の多い言語で8億4,500万人の話者がおり、続いてスペイン語(3億2,900万人の話者)、そして英語(3億2,800万人の話者)であった[73]。しかし最も人気のある言語は疑いなく英語でありグローバリゼーションにおける「共通語」であった。

世界のメール、テレックス、海外電報の約35%が英語であった。

世界のラジオ番組の約40%が英語であった。

約35億人の人々が英語の知人を有していた。

英語はインターネット上で最も有力な言語であった[75]。

文化のグローバリゼーションは異文化交流の機会を増やしたが、孤立したコミュニティの独自性を減少させる可能性が存在していた。スシは日本同様ドイツでも利用可能であったが、ユーロ・ディズニーはパリの都市の魅力を奪い、潜在的に「本物の」フランスの菓子に対する需要を減らす可能性が存在していた[76][77][78]。個人の伝統からの疎外に対するグローバリゼーションの寄与は、ジャン=ポール・サルトルやアルベール・カミュのような実存主義者たちによって伝えられるような近代そのものの影響と比較すると控えめかもしれなかった。

グローバリゼーションは特にインターネットや衛星テレビを通じてポップカルチャーを普及させることによってレクリエーションの機会を拡大していた。

WHOは現在あらゆる瞬間において50万人もの人々が飛行機に搭乗中であると推定していた[79]。2009年に6.5%成長し、2010年には国際的なツーリズムは9,190億ドルに達していた[80]。

2008年に[81]国際移住機関(IOM)は不法移民を含めて世界中に2億人以上の移民が存在することを確認していた[82][83]。2008年において途上国への送金のフローは3,280億ドルに達していた[84]。

非政府組織(NGO)は人道援助や開発援助を含めて国境を超えた公共政策に影響を及ぼしていた[85]。

宗教的な運動は、移民、伝道師、帝国主義者、商人の影響力によってグローバル化され、普及していった初期の文化の影響力の中に存在していた。キリスト教、イスラム教、仏教、さらにモルモン教のような最近の宗派はその起源から離れた場所に定着し、文化の普及に影響を及ぼしていた[86]。

反対論者は2010年に、グローバリゼーションは主にアメリカから発信された文化及び経済活動の外へ向かうフローによって動かされており、アメリカナイゼーションとしてよく理解されるものであったと主張していた[87][88]。例えば最も成功した2つのグローバルな飲食店はアメリカの企業であるマクドナルドとスターバックスであり、しばしばグローバリゼーションの例として引用されるが、2008年の時点でそれらは世界で操業するそれぞれ32,000ヶ所、18,000ヶ所以上の店舗を構えていたことが挙げられていた。

音楽

グローバリゼーションという用語は変化を暗示していた。伝統的な音楽を含む文化的慣習は失われるかまたは伝統の融合に変化されていった。グローバリゼーションは音楽的遺産の保護にとっての緊急事態のきっかけに過ぎなかった。アーキビストたちはメロディーが環境に同化し変更される前にレパートリーを収集し、記録し、複製しようとしなければならなかった。地域のミュージシャンたちは信頼性のために闘い、地域の音楽の伝統を保護していた。グローバリゼーションが演奏家たちに伝統的な楽器を捨てることを促す可能性が存在していた。フュージョンといったジャンルは分析のための興味深い対象になる可能性があった[91]。

グローバリゼーションは、新しいアイデアや音を求める欧米の視聴者たちに地域で記録された音楽を届けることによって、ワールド・ミュージックにおける現象に対する支援を与えていた。欧米のミュージシャンたちは離れた文化を起源とする多くのイノベーションを採用していた。

同様に音楽は欧米から外へ流れていた。アングロ・アメリカのポップ・ミュージックはMTVを通じて世界中に拡散していった。従属理論は世界が統合された国際システムであることを説明していた。音楽的にはこのことは地域の音楽のアイデンティティーの喪失として解釈されていた[92]。

ブルデューは、消費に対する認識は自己認識やアイデンティティーの形成としてみなすことができると主張していた。音楽的にはこのことは好みや嗜好に基づいたその人自身の音楽的アイデンティティーを個々が有していると解釈されていた。このことは人の欲求や振る舞いに対する最も基本的な理由付けであるので、これらの好みや嗜好は主に文化によって影響されていた。個々人の文化の概念は現在グローバリゼーションによって変化の時代の中に置かれていた。またグローバリゼーションは政治的、個人的、文化的、経済的要因の相互依存性を増大させていた[93]。

3.4 環境

気候変動、国際水域、大気汚染、海の乱獲のような環境における課題は国境を超えた地球規模の解決を必要としていた。途上国の工場が生産を増やし、環境規制が少ないので、グローバリズムは実質的に水資源に対する汚染とその影響を増大させていた[94]。

地球白書2006年版のレポートは、インドや中国の高い経済成長は維持可能でないと述べていた。

世界の生態系が許容する容量は、維持可能な方法で世界の残りの国々同様に、中国、インド、日本、ヨーロッパ、アメリカの欲望を満たすには十分ではなかった[95]。2006年の報道の中でBBCが述べているように、...もし中国やインドが2030年にアメリカや日本と同じくらいの1人あたりの資源を消費するならば、彼らは彼らの必要に合うだけのもう1つの地球を要求するだろうし[95]、長期においてこれらの影響は減少する資源[96]を巡る争いを増加させ、最悪の場合にはマルサスの大惨事を引き起こすだろうとされていた。

生態系

国際協力で解決されるかもしれない地球環境の課題が出現し、それは気候変動、国際水域、大気汚染、海の乱獲、外来種の拡散を含んでいた。多くの工場が環境規制の少ない途上国に建設されているので、グローバリズムや自由貿易は貴重な淡水資源に対する汚染やその影響を増大させるかもしれなかった[94][97]。

各国が外国資本を誘致するために環境や資源に対する保護法の役割を低下させたため、途上国における国際的な外国投資は「底辺への競争」を招いていた[98][99]。しかしながら先進国がプラスの意味での環境政策を維持し、彼らが投資する国々にそれらの政策を与え、「頂点への競争」といった現象を作り出すならば、この理論の逆は真になるだろう[98]。

同時にペルーやエチオピアのような途上国は、エコツーリズムのような投資を通じて経済成長を促し、地域の経済的利得、訪問者にとっての教育的な体験、その低い影響が彼らの天然資源を活用し、保護することを可能にすることによって、彼らの独自の生態系を保護することに従事していた[100]。

大気

先進国や途上国が地域の規模よりむしろ地球の規模で問題を解決する方法を見出していることを背景にして、グローバリゼーションによって、大陸と大陸のそして国と国の間の距離が縮んでいた。以前は地域のガバナンスで十分であったが、現在は国連のような機関が汚染に対して地球規模の規制を行わなければならなかった[101]。京都議定書、クリーン・エアー・イニシアティブ、大気汚染と公共政策の研究を通じて、大気汚染を監視し、減少させるために、国連によるアクションがとられていた[102]。

地球規模での交通、生産、消費が地球規模での大気汚染の増加の原因となっていた。北半球は一酸化炭素や硫黄酸化物の主要な生産国であった[103]。

経済が自給自足の農業から工業化と都市化に切り替えられたので、中国やインドは実質的に化石燃料の消費量を増大させていた[104][105]。中国の石油消費量は2002年から2006年までに毎年8%成長し、1996年から2006年までに2倍になっていた[106]。2007年に中国はCO2の最大排出国としてアメリカを追い抜いていた[107]。欧州連合によると、2007年において都市の住民5億6,000万人が呼吸する大気の内わずか1%のみが安全であるとみなされていた。このように先進国は汚染集約型産業が移転した国々で消費に関連する汚染のいくらかを外部化していた。

森林

森林破壊の主要な原因は中国と日本における木材産業であった[109]。

現在のペースではインドネシアの熱帯雨林は10年以内に、パプアニューギニアは13年から16年以内に収奪されるだろう[110]。

経済発展を維持可能なレベルにするために、社会は森林資源を活用してきた。歴史的に、周囲の社会がより発達し、工業化し、輸入を通じて主要な伐採元を他の国々にシフトするので、初期の途上国における森林は「森林の遷移」つまり森林の破壊と森林の再生の期間を経験していた。しかしグローバル化されたシステムの周辺国にとって、伐採元をシフトする他国は存在しておらず、森林の劣化は衰えることなく継続されることになった。森林の遷移は、新しい森林の再成長、二番目、三番目の森林の再成長を通じて、水質や温室効果ガスの蓄積に影響を及ぼすことによって、水文学、気候変動、地域の生物多様性に対する影響を有している可能性が存在していた[111]。

鉱物

さらなるリサイクルがなければ、亜鉛は2037年までに、インジウムやハフニウムは2017年までに、テルビウムは2012年以前に使い尽くされる可能性が存在していた[112]。

ポストマテリアリズムとマテリアリズム

社会は、達成された発達段階や経済安全保障の段階に従って、異なったレベルの意味合いで環境保護を担ってきた。市民が基本的な物質保全を当然のことと考えることができる「ポストマテリアリスト」の価値観に推移した社会は、経済安定性の高められたレベルや物質保全の信頼できるレベルに達する機会がなかった「マテリアリスト」の社会以上に、天然資源の保全に価値を置いていた[113]。しかしポストマテリアリストの国々の生態学的足跡はそれにもかかわらず現在維持可能な状態でなく、地球は有限であるので、他の国々に重荷をシフトすることができない周辺の国々に環境破壊の重荷をシフトすることによってのみ維持可能な状態であった。したがって「ポストマテリアリスト」の社会にとっての課題は維持可能なレベルにまで彼らの生態学的な足跡を低減させることであった。これを達成した国はまだ存在していないが(2012年時点)、ある程度の維持可能な足跡を達成しようとするポストマテリアリストの国々の中での社会運動や地域のパイロット・スキーム(例えばトランジション・タウン、パーマカルチャー、ゆりかごからゆりかごへを目指したデザイン)の数は増大していた。

食料供給に対する人口増加の影響

ここ30年間で魚介類に対する人間の消費量が倍増し、複数の魚介類の漁場が深刻に破壊され、結果として海洋生態系が破壊されたことによって、さらに維持可能な魚介類の供給を生み出すためのステップを促すことへの意識が芽生えてきた[114]。

2008年に国際食糧政策研究所の所長は、新しく登場した豊かな人口集団の中における食に関するゆっくりとした変化は世界の食料価格の上昇を支える最も重要な要因であると述べていた[115]。1950年から1984年に至る緑の革命は世界中の農業を変え、穀物生産は250%以上も増加していた[116]。緑の革命の開始以来、世界の人口は約40億人ほど増加し、それが起こらなければ、国連が現在文書にしているより(2005年におよそ8億5千万人が慢性的な栄養失調に苦しむとされていた)、大きな飢饉や栄養失調が生じるとされていた[117][118]。

ピーク・オイル、ピーク・ウォーター、ピーク・ファスファラス、ピーク・グレイン、ピーク・フィッシュといった「ピーク」現象の集合によって悩まされる世界の食料安全保障を維持することはますます困難になるだろう。英国政府主席科学顧問であるジョン・ベディントンによれば、2030年までに人口の増加、エネルギー源の減少、食料不足が「完全な混乱」を生じさせるだろうとされていた。彼は、2050年まで食料の貯蔵が50年間低い水準で、世界は50%多いエネルギー、食料、水を必要としているだろうと述べていた[119][120]。国連食糧農業機関(FAO)によれば、所得を上昇させるように、さらなる23億人を養うために、2050年までに世界は70%多い食料を生産しなければならないだろうとされていた[121]。社会科学者たちは、化石燃料の減少や結果として生じる輸送と食料生産における危機によって、世界文明は収縮し、再び地域に分化する期間を迎えるだろうといったことの可能性について警告を発していた[122][123][124]。ヘルガ・フィアリッヒは、維持可能な地域の経済活動の回復は狩猟や採集に基づき、園芸や牧畜にシフトするだろうとの予測を行なっていた[125]。

2003年において外洋漁業の29%が崩壊状態にあった[126]。2006年11月にサイエンス誌は4年間の研究を発表し、それは現行のトレンドで世界が2048年に野生の海産資源を使い尽くすだろうと予測していた[127]。しかし逆にグローバリゼーションは養殖業に対するグローバルな市場を創出し、それは2009年の時点では世界漁獲量の38%を占めており、潜在的に捕獲への圧力を減少させていた[128]。

3.5 健康

グローバリゼーションは致命的な感染症を拡大させていた[129]。アジアで始まった黒死病は14世紀にヨーロッパの人口の3分の1以上を奪っていた[130]。ヨーロッパ人の開拓はアメリカ大陸にさらに悪い影響を与えていた。またヨーロッパの植民地化によってもたらされた天然痘によって、アステカ、マヤ、インカなどの「新大陸」の文明の90%の人口が奪われていた。現代の輸送の方法はより多くの人々や製品を世界中に素早く移動させることを可能にしていたが、感染症の大陸移動にも道を開いてしまっていた[131]。この一例はHIVであった[132]。移民によってアメリカ国内のおよそ50万人の人々がシャーガス病に感染していると考えられていた[133]。2006年には、アメリカ国内の外国生まれの人々の結核(TB)率がアメリカ生まれの人々より9.5倍も大きかった[134]。

4 世論

グローバリゼーションの擁護者と反対者の間に共通の背景はほとんど存在していなかった[135]。

4.1 アメリカ

1993年にフィスらが世論を調査した。彼らの調査は、1993年において回答者たちの40%以上がグローバリゼーションの概念についてよく知らないことを示していた。1998年にこの調査が繰り返されたとき、回答者たちの89%が良い影響や悪い影響といったグローバリゼーションに対する二極化した見方を抱いていた。同時に、支持者たちや幻滅した学生と労働者たちの間における白熱した議論にシフトする以前に、グローバリゼーションに関する議論は金融界において始められていた。1995年のWTOの設立後、この二極分化は激しさを増し、WTOの設立とその結果に対する抗議活動は大規模な反グローバリゼーション運動を引き起こしていた[136]。

当初大学教育を受けた労働者たちはグローバリゼーションに賛成する傾向にあった。移民や途上国の労働者たちと競合する可能性があるそれほど教育を受けていない労働者たちは反対しがちだった。2007年の金融危機以降、状況は一変していた。1997年の世論調査によれば、大卒の58%がグローバリゼーションはアメリカにとって良いことだと述べていた。2008年にはわずか33%がそれが良いことだと考えていた。高卒の回答者たちはさらに反対の姿勢を強めていた[137]。

4.2 他の先進国

フィリップ・ゴードンは(2004年の時点で)「ヨーロッパの明らかな多数派はグローバリゼーションが彼らの生活を豊かにしてくれると信じており、欧州連合がグローバリゼーションの恩恵を活用する手助けをしてくれ、彼らをその負の影響から保護してくれると考えていた」と述べていた[138]。その主な反対者は社会主義者、環境団体、ナショナリストによって構成されていた。

アメリカの労働者たちはヨーロッパ以上に自動化やアウトソーシングから影響を受けていた。アメリカの所得不平等はEU以上にかなり高いものになっていた[55]。ゴードンは、EUの労働者たちはグローバリゼーションにそれほど脅威を感じていないと指摘していた。EUの労働市場はアメリカより安定しており、賃金カットや福利厚生のカットをアメリカほど受け入れていなかった。社会支出はアメリカよりはるかに高かった[139]。

日本ではその議論が別の様相を示していた。竹中平蔵や千田亮吉によれば1998年時点での日本の経済は「小さくて脆い」との認識が存在していた。しかし日本は資源小国であり、原料の輸入のために輸出を行なっていると考えられていた。彼らの自身の立場に対する不安が国際化やグローバリゼーションといった用語を日常の会話に登場させる原因となっていた。しかし日本の伝統は特に農業において可能な限り自給自足することであった[140]。

2007年の金融危機以降、状況は変わったかもしれなかった。危機が始まったばかりの2008年のBBCの世界世論調査は先進国におけるグローバリゼーション対する反対意見が増加しているといったことを示唆していた。BBCの世論調査はグローバリゼーションのペースが急であるかどうかを尋ねていた。最も強く同意したのはフランス、スペイン、日本、韓国、ドイツだった。これらの国々のトレンドはアメリカ以上に根強い反発であるように思われた。同様にこの世論調査は、あまりにも急なグローバリゼーションが経済不安や所得の不平等を増大させるとの認識を抱かせる傾向と相関したものであった[141]。

4.3 途上国

多くの世論調査は途上国の住民が先進国より好ましくグローバリゼーションを捉える傾向にあることを示していた[142]。BBCはグローバリゼーションがあまりにも急速に進行しているとの途上国での認識が拡大していることを見出していた。メキシコ、中央アメリカの国々、インドネシア、ブラジル、ケニアを含むわずかばかりの国々において、多数派はグローバリゼーションが非常にゆっくりと進行していると考えていた[141]。

第三世界の多くの国々がグローバリゼーションを貧困から国を引き上げるプラスの力として捉えていた[1]。反対派は一般的に環境に対する懸念をナショナリズムと結びつけていた。反対派は政府を多国籍企業に従属する新植民地主義のエージェントとして眺めていた[143]。批判の多くは中流階級から生じており、ブルッキングス研究所は、これは彼らの経済的安全を脅かす低所得グループが上層へ移動していることを中流階級が認知したことによる現象であるといったことを示唆していた。

多くの批評家たちが先進国の中流階級の衰退を理由にしてグローバリゼーションを批判していたけれども、第三世界で中流階級は急速に成長していた[145]。都市化の拡大にともない、このことは都市部と農村部の間の富の格差を増大させていた[146]。2002年においてインドでは、人口の70%が農村部で生活しており、生活のために天然資源に直接的に依存していた[143]。結果として、農村部での大衆運動は時としてグローバリゼーションのプロセスに対して反対の意思を示していた[147]。

中国経済の急速な成長は人口の0.4%が国富の70%を所有する結果を導いていた[148]。中国の農村部で広まる不安は農村部と都市部の間で広まる富の格差の拡大を背景にしていた[149]。工業地域に不満を持つ労働者の増加に加えて、このことは国のリーダーシップに対する懸念を引き起こしていた[150]。

5 メディアの報道

ピア・フィスやポール・ハーシュによる2005年の研究は過年度におけるグローバリゼーションに対する否定的な記事の大幅な増加を見出していた。1998年までに否定的な記事は2対1で肯定的な記事を上回っていた[136]。2008年にグレッグ・イップは、グローバリゼーションに対する反対意見の増加が少なくとも部分的には自己に対する経済的利益によって説明されることが可能であると主張していた[137]。否定的な枠組みを示す新聞記事の数は1991年の約10%から1999年の55%にまで増加を示していた。グローバリゼーションに関する記事の総数がほぼ2倍になった期間において、このような増加は生じていた[136]。

6 解釈

6.1 肯定派

新自由主義者たちは一般的に、先進国の民主主義や資本主義において政治的及び経済的自由の高度な水準はそれ自体が目的であり、同様にそれらは高い水準の物質的富を生産していると主張していた。彼らはグローバリゼーションを自由と資本主義の有益なる拡大として眺めていた[151]。

1962年の初めにマーシャル・マクルーハンはグローバル・ヴィレッジという用語に脚光を浴びさせていた[152]。彼の見解は、グローバリゼーションが世界中の人々が統合され、共通の利益に気づき、人間性を共有するようになる1つの世界を導くだろうといったことを示唆していた[153]。

民主的なグローバリゼーションの支持者たちは、経済発展がグローバリゼーションの最初の局面で、次にグローバルな政治機関の設立に移行するはずであると考えていた。ローマクラブ合衆国協会のディレクターであるフランチェスコ・スティポ博士は、1つの世界政府の下に各国家を統合することを支持し、それは「世界各国の政治的及び経済的バランスを反映させるべきであり、世界連合は政府の権限に取って代わるのではなく、むしろ国家と世界の権力が彼らの能力の及ぶ範囲内でパワーを保有するように、政府の権限を補完する役割を担う」ことを示唆していた[154]。

カナダの元上院議員であるダグラス・ロウチはグローバリゼーションを避けられないものとして眺めており、選挙によらない国際機関を監視するために直接選挙される国連議会のような機関を創設することに賛成していた。

経済学者であるポール・クルーグマンはグローバリゼーションと自由貿易の忠実な支持者であり、グローバリゼーションに対する多くの批評家たちと意見が一致していなかった。彼は、その批判の多くが比較優位が何であるかに対する基本的な理解を欠いていると主張していた[155]。

6.2 否定派

1995年のWTOの設立は反グローバリゼーション運動を導き、それは途上国におけるグローバリゼーションのマイナスの影響と本質的に関連していた。彼らの関心は環境問題から、民主主義、国家の主権、労働者の搾取のような問題にまで至っていた。

先進国の反対派は不釣り合いだが中産階級で大学で教育を受けた人々だった。これは途上国の状況と著しく対照的であり、そこで反グローバリゼーション運動は数百万人の労働者たちや農家たちを含む幅広いグループを含めることに成功していた[156]。

「反グローバリゼーション」の活動は主権を表明し、民主的意思決定を実践し、人、物の国際的な移転や特に自由市場の規制緩和といった好まれない考え方を制限する試みを含んでいた。ナオミ・クラインは、この用語は単一の社会運動を示すか、ナショナリズムや社会主義のような複数の社会運動を含めているかのいずれかであると主張していた[157]。

ハーストやトンプソンはこの用語を非常に曖昧であるとして拒否していた[158][159][160]。ポードブニックは「これらの抗議に参加しているグループの大多数は支援のための国際的なネットワークを参考にし、民主的な代表、人権、平等主義を高めるグローバリゼーションの形態を求めていた」と述べていた。

他の用語はグローバル・ジャスティス運動、反コーポレート・グローバリゼーション、運動の運動(イタリア)、オルター・グローバリゼーション(フランス)、カウンター・グローバリゼーションを含んでいた。

ジョセフ・スティグリッツやアンドリュー・チャールトンはこう述べていた。

反グローバリゼーション運動はグローバリゼーションに対して認知された負の局面に反対して発展していた。そのグループは幅広い利益や問題を表明しており、反グローバル運動に関わった多くの人々は、例えば援助、難民の支援、グローバルな環境問題のように、世界中のさまざまな人々や文化の間のより緊密な結びつきを支援していたので、「反グローバリゼーション」といった用語は多くの意味で誤った呼称であった[161]。

経済的なグローバリゼーションに対する批判は一般的に、人間に対するコスト同様に地球に対する損害の双方を考慮していた。彼らはGDPのような伝統的な指標に対して直接疑問を投げ掛け、例えば地球幸福度指数のような他の指標を眺めていた[162][163]。彼らは「社会的崩壊、民主主義の崩壊、より急速で激しい環境破壊、新しい病気の蔓延、貧困や疎外の増大といった多数の相互に関連した致命的な結果」[164]を指摘しており、それらがグローバリゼーションの意図されざる結果であると彼らは主張していた。

グローバリゼーションや反グローバリゼーションといった用語はさまざまな方法で用いられており、ノーム・チョムスキーはこう述べていた。

国際的な経済統合の特定の形態、つまり偶発的な利益であり、投資家の権利に基づいたものに言及するために、「グローバリゼーション」という用語は力がある人々にとっては適切なものだった。そういう理由で、より率直に言えば、ビジネス向けの出版物は「自由貿易協定」を「自由投資協定」として言及していた(ウォール・ストリート・ジャーナル)。したがってグローバリゼーションの他の形態の支持者たちは「反グローバリゼーション」として説明され、それは嘲笑を伴いながら却下されるべきプロパガンダの言葉であるけれども、一部は不幸にもこの用語を受け入れてしまってさえいた。つまり正気でない人々がグローバリゼーションつまり国際統合に反対していたと。もちろん国際的な連帯の原則に基づいて設立された左派でもなければ労働運動でもない、それがグローバリゼーションであり、個人的な権力のシステムではなく、人々の権利を尊重する形態に従っていた。

好まれ、たまたま投資家であり、貸し手であった人々の権利に特権を与える国際的な経済統合の特定の形態に言及するために、支配的なプロパガンダのシステムは「グローバリゼーション」という用語を適切なものとして認定していた。この言葉の用法にしたがって、人権に特権を与えるような異なった国際統合の形態を好む人々は「反グローバリスト」と呼ばれるようになっていた。これは、反体制派に言及するために最も嫌われていた共産党の役員によって用いられていた「反ソ連」といった用語のような、単なる品のないプロパガンダに過ぎなかった。それは単に品がないだけでなく馬鹿げていた。プロパガンダのシステムの中で「反グローバリゼーション」と呼ばれる世界社会フォーラムを例にとれば、それは若干の例外はあるにせよメディア、教育を受けた社会階層などを含めて至るところで生じていた。世界社会フォーラムはグローバリゼーションというパラダイムの一例であった。世界経済フォーラムで会合し、プロパガンダのシステムから「グローバリゼーション支持」と呼ばれている極端に狭い分野で高い特権を与えられていたエリートたちから離れて、それは世界中からの多くの人々の集まりだった。火星からこの茶番を見ている傍観者なら、教育を受けた階級のこっけいでヒステリックな笑いにどっと吹き出してしまうだろう[165]。

批評家たちはグローバリゼーションの結末について議論していた。

不利な条件に苦しむ貧困国:自由貿易が各国の間におけるグローバリゼーションを促進することは事実であったが、一部の国々は国内の業者たちを保護しようとしていた。貧困国の主な輸出品は通常農産物であった。大国はしばしば彼らの農家たちに対して補助金を出し(例えばEUの共通農業政策など)、それは外国の作物に対する市場価格を低下させていた[166]。

アウトソーシングへのシフト:グローバリゼーションは企業が製造やサービスに関する仕事を高いコストを支払う地域から移転することを許容しており、最も競争的な賃金や労働者の福利厚生にともなう経済的機会を創出していた[44]。

弱い労働組合:移行過程にある企業の数の増大と重なった安い労働力の余剰は高いコストがかかる地域の労働組合を弱体化させていた。組合への加入が減少していったときに、労働組合はその効率性と組合に対する労働者たちの熱意を失っていった[166]。

児童労働といった搾取の増加:児童に対する保護が弱い国々は児童を搾取する不正な企業や犯罪組織による横行に対して脆弱だった。例として、人身売買、奴隷、強制労働、売春、ポルノ同様に採石業、サルベージ、農作業が挙げられていた[167]。

批評家たちはグローバリゼーションが企業の利益に従って発展してきたと批判していた。また彼らは環境問題同様に貧しい階級や労働階級のための道徳的な主張を行うと考えていたグローバルな機関や政策を擁護していた[168]。

批評家たちは教会のグループ、民族解放派たち、農民組合たち、知識人たち、芸術家たち、保護主義者たち、アナーキストたち、地域回帰を支持する人々(例えば近くで作られた産品を消費することなど)、他を含んでいた。一部は改革主義者であり(より穏健な形の資本主義を主張していた)、一方、他は革命的であるか(民間部門から公共部門へパワーをシフトすること)、反動的であった(民間部門に対する公共部門といった具合に)。

フェアトレードの理論家たちによる経済的な議論は、制限のない自由貿易は貧しい人々を犠牲にしてより大きな資産を保有する人々(豊かな人々)に恩恵を与えるだけであると主張していた[169]。

アメリカナイゼーションは大きなアメリカの政治的影響力、他の国々にもたらされるアメリカの店舗、市場、商品の高い成長力と関連していた。したがってはるかに多様な現象であるグローバリゼーションは多国間の政治、お互いの国々にもたらされる商品、市場などの増大に関連していた。

グローバリゼーションの批評家たちは西洋化のことをよく話していた。2005年のユネスコによるレポート[170]は、文化的交流が東アジアでより活発になっていたが、西欧諸国は依然として文化的商品の主な輸出国であり続けていたことを示していた。2002年に中国はイギリスやアメリカに続く3番目に大きい文化的商品の輸出国になっていた。1994年から2002年にかけて文化的輸出品における北米や欧州連合のシェアは落ち込みを示しており、他方アジアの文化的輸出品は北米を上回る成長を遂げていた。関連する要因としてアジアの人口や地域の広さが北米の数倍であるといったことが挙げられていた。

グローバリゼーションに対する一部の反対者たちはこの現象を企業主義者の利益の拡大として眺めていた[171]。また彼らは企業による支配力と強さの増大が各国の政策を形成していたと主張していた[172][173]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Anti-globalization_movement

反グローバリゼーション運動

反グローバリゼーション運動やカウンター・グローバリゼーション運動[1]はコーポレート・キャピタリズムによるグローバリゼーションに対する批判であった。またこの運動は一般的にグローバル・ジャスティス運動[2]、オルター・グローバリゼーション運動、反グローバリスト運動、反コーポレート・グローバリゼーション運動[3]、新自由主義的なグローバリゼーションに対する運動を指していた。

参加者たちはその批判を多くの関連した考えに基づかせていた[4]。共有されているものは規制を受けない政治力を有する巨大多国籍企業や貿易協定と規制緩和を進める金融市場を通じて行使されるパワーに反対の立場をとっていることであった。表面的に企業は、労働の安全条件や基準、雇用、補償基準、環境保護の原則、国家の立法機関、独立、主権の整合性を犠牲にして、利潤を最大化することを求めていたことで批判されていた。グローバル経済における予期しない変化として認識される最近の展開は「ターボ資本主義」(エドワード・ルトワック)、「市場原理主義」(ジョージ・ソロス)、「カジノ資本主義」(スーザン・ストレンジ)[5]、「病める資本主義」(ジョン・マクマートリー)、「マックワールド」(ベンジャミン・バーバー)として特徴づけられていた。

多くの反グローバリゼーションのアクティビストたちは、民主的な表現、人権の進歩、フェアトレード、維持可能な発展を与えるグローバルな統合の形態を一般的に求めており、そのために「反グローバリゼーション」という用語は誤解を招いていると考えていた[6][7][8]。

1 イデオロギーとその原因

支持者たちは、20世紀後半までには「支配階層のエリートたち」として特徴づけられている人々は自分の利益のために世界市場の拡大を利用しようとするだろうと考えており、ブレトンウッズ体制、国家、多国籍企業の組み合わせから導かれるものが「グローバリゼーション」または「上からのグローバリゼーション」と呼ばれていた。その反応として、さまざまな社会運動が彼らの影響力に疑念を投げかけるために登場し、これらの運動は「反グローバリゼーション」または「下からのグローバリゼーション」と呼ばれていた[9]。

1.1 国際金融機関や多国籍企業への反対運動

一般的に言えば、抗議する人々はグローバルな金融機関やその協定が地域の意思決定方法を損なっていると考えていた。企業は人間である市民が行使できない特権を行使していた。

自由に国境を超え、望むだけの天然資源を採掘し、多様な人的資源を利用していた。

当の国民には不可能な方法で、国の天然資源や生物多様性を永続的に用いた後、彼らは去ることができた。アクティビストたちの目標は、「企業の人格」に対する法的地位を改め、自由市場原理主義や世界銀行、国際通貨基金、世界貿易機関による急進的な民営化の措置を改めさせることにあった。

アクティビストたちは特に、倫理的な基準を顧みない新自由主義を促進していると彼らが述べているグローバリゼーションや国際機関によって継続されていると彼らが考えているさまざまな侵害に対して反対していた。共通のターゲットは世界銀行(WB)、国際通貨基金(IMF)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)と、北米自由貿易協定(NAFTA)、米州自由貿易地域(FTAA)、多数国間投資協定(MAI)、サービスの貿易に関する一般協定(GATS)のような貿易協定を含んでいた。富裕国と貧困国の経済格差に関して、運動の支持者たちは、環境、健康、労働者たちの福利厚生を保護する措置のない「自由貿易」は先進国の権益を強化するだけだろう(しばしば途上国の世界を示す「南」に対して「北」という用語が用いられていたが)と主張していた。

ジャン・ジーグラーによる食糧の権利に関する国連特別報告書は「数百万人の農家たちが途上国における彼らの生活を失っていたが、先進国の小規模農家たちも同様に苦しんでいた」と指摘し、「加盟国間の不平等なパワーのバランスを所与とすると、グローバルな貿易システムに関する現在の不平等はWTOの下で解決されるよりむしろ維持されることになる」と結論づけていた[10]。アクティビストたちは、WTOの内部で、表面的には多くの先進国で制定された農業に関する保護主義政策において、先進国と途上国の間に不平等な立場や権力が存在していると指摘していた。またこれらのアクティビストたちは、国際市場で先進国の農産物に競争力を与えていた農業に対する補助や一部の先進国による輸出補助金の積極的な活用が多くの途上国における農業部門の衰退の主な理由になっていることを指摘していた。

またアクティビストたちはしばしば、世界経済フォーラム(WEF)、トランス・アトランティック・ビジネス・ダイアログ(TABD)、アジア太平洋経済協力会議(APEC)のようないくつかのビジネス連携や、そのような協定や機関を促進している各国政府に反対の意思を表明していた。他は、もし国境が資本に対して開かれているならば、国境は同様に自由や法律の適用と居住地の選択を移民たちや難民たちに許容するために開かれるべきであると主張していた。これらのアクティビストたちは国際移住機関やシェンゲン情報システムのような組織を目標にしていた。

しばしば、アメリカはドルの優位性によってグローバル経済に対して特別に有利な条件を保持しており、ドルの支配は単なるアメリカ経済の優位性の結果ではないといったことが主張されていた。グローバリゼーションをテーマにする歴史家たちは、ドルの支配は、ブレトン・ウッズ協定や、アメリカが金本位制を維持できなくなった後、ドルによってのみ石油を取引できるOPECのような政治的協定によって達成されてきたと主張していた。

1.2 新自由主義に対するグローバルな反対運動

経済協力開発機構(OECD)が多数国間投資協定(MAI)を通じて国境を超えた投資や貿易制限の自由化を提案した際に、インターネットを通じて、運動は1990年代に広く明らかにされていた新自由主義のドクトリンに対する反対を展開し始めていた。この条約は途中で公衆の監視にさらされ、国内及び国際的な市民社会の代表者たちによる激しい抗議や批判に直面して、結果として1998年11月に放棄された。

新自由主義のドクトリンは、制約を受けない自由貿易や公共部門による規制の縮小が貧困国や先進国の恵まれない人々に恩恵をもたらすだろうと主張していた。反グローバリゼーションの支持者たちは、もし必要な措置が自由化に対して取られないならば、自然環境、人権(特に職場での権利や状態)、民主的機関の保護がグローバリゼーションによる過度のリスクにさらされる可能性があると主張していた。2002年にノーム・チョムスキーはこう述べていた。

国際的な経済統合の特定の形態、つまり偶発的な利益であり、投資家の権利に基づいたものに言及するために、「グローバリゼーション」という用語は力がある人々にとっては適切なものだった。そういう理由で、より率直に言えば、ビジネス向けの出版物は「自由貿易協定」を「自由投資協定」として言及していた(ウォール・ストリート・ジャーナル)。したがってグローバリゼーションの他の形態の支持者たちは「反グローバリゼーション」として説明され、それは嘲笑を伴いながら却下されるべきプロパガンダの言葉であるけれども、一部は不幸にもこの用語を受け入れてしまってさえいた。つまり正気でない人々がグローバリゼーションつまり国際統合に反対していたと。もちろん国際的な連帯の原則に基づいて設立された左派でもなければ労働運動でもない、それがグローバリゼーションであり、個人的な権力のシステムではなく、人々の権利を尊重する形態に従っていた[11]。

2005年6月のインタビューの中でチョムスキーはこう述べていた。

好まれ、たまたま投資家であり、貸し手であった人々の権利に特権を与える国際的な経済統合の特定の形態に言及するために、支配的なプロパガンダのシステムは「グローバリゼーション」という用語を適切なものとして認定していた。この言葉の用法にしたがって、人権に特権を与えるような異なった国際統合の形態を好む人々は「反グローバリスト」と呼ばれるようになっていた。これは、反体制派に言及するために最も嫌われていた共産党の役員によって用いられていた「反ソ連」といった用語のような、単なる品のないプロパガンダに過ぎなかった。それは単に品がないだけでなく馬鹿げていた。プロパガンダのシステムの中で「反グローバリゼーション」と呼ばれる世界社会フォーラムを例にとれば、それは若干の例外はあるにせよメディア、教育を受けた社会階層などを含めて至るところで生じていた。世界社会フォーラムはグローバリゼーションというパラダイムの一例であった。世界経済フォーラムで会合し、プロパガンダのシステムから「グローバリゼーション支持」と呼ばれている極端に狭い分野で高い特権を与えられていたエリートたちから離れて、それは世界中からの多くの人々の集まりだった。火星からこの茶番を見ている傍観者なら、教育を受けた階級のこっけいでヒステリックな笑いにどっと吹き出してしまうだろう[12]。

1.3 反戦運動

2002年までに運動の大部分が差し迫ったイラク侵略に広く反対していた。多くの参加者たちは、2003年2月15日の週末に差し迫ったイラク戦争に対するグローバルな抗議に参加し、ニューヨーク・タイムズの社説によって「世界第二位のスーパーパワーと呼ばれた1,100万人以上の抗議者たちに含まれていた[13]。他の反戦運動は、例えばイタリアのフィレンツェで2002年11月に開かれた最初のヨーロッパ社会フォーラムを締めくくった差し迫ったイラク戦争に対するデモのような反グローバリゼーション運動によって組織されていた[14]。

多くの民主主義国家(スペイン、イタリア、ポーランド、イギリス)の指導者たちがこの戦争を支持するようにその国民の大多数の意思と反対に行動していたので、反グローバリゼーションの過激派たちは民主的な制度を適切に機能させることに対して不安を抱いていた。チョムスキーは、これらの指導者たちは「民主主義に対する彼らの軽蔑の念を示していた」と主張していた。このタイプの議論に関する批評家たちは、これは代表民主制に対するありふれた批判に過ぎず、民主的に選ばれた政府は現在の民衆による最大の支持にしたがって常に行動する訳ではなく、これらの国々が議会民主制であることを所与としても指導者たちの立場に関して論理的矛盾が存在する訳ではないことを指摘する傾向にあった。

経済と軍事の諸問題は運動に関わっていた多くの人々にとって密接に結びついていた。

1.4 用語の適切さ

多くの参加者たち(上記のノーム·チョムスキーからの引用を参照せよ)は「反グローバリゼーション」という用語が誤った呼称であると考えていた。この用語はその支持者たちが保護主義やナショナリズムを支持しており、それは常に実情を反映したものではなく、事実反グローバリゼーションの一部の支持者たちはナショナリズムと保護主義の双方の強い反対者であり、例えばノー・ボーダー・ネットワークは制約を受けない移民やあらゆる国境管理の廃止を主張していた。S・A・ホセイニ(オーストラリアの社会学者でありグローバルな社会運動の研究における専門家である)は、反グローバリゼーションというこの用語は3つの他の洞察(反グローバリスト、オルター・グローバリスト、オルター・グローバリゼーション)に沿って見出される唯一のイデオロギー上の洞察に言及するときのみ通常理想的に用いられる可能性があると主張していた[15]。彼は、後者の3つの通常用いられている理想的な洞察はグローバル・ジャスティス運動の下に分類される可能性があると主張していた。彼によれば、最初の2つの洞察(オルター・グローバリズム、反グローバリズム)がそれぞれ現在のグローバリゼーションを背景にした新旧の左派イデオロギーを再構築した形態を表している一方、3番目のもののみが今日のグローバルな複雑さに対する知的必要条件により効果的に対応する能力を示していたと主張していた。ホセイニによる調節可能な正義[16]、コスモポリタニズムに向けた新しいアプローチ(コスモポリタニズムを横断している)、アクティビストの知識に関する新しい様式(調節可能な意識)、連帯または相互に影響し合う連帯と裏表の関係にある正義に対する新しい考え方がこの洞察の背後に存在していた。

「反グローバリゼーション」という用語は国際的に左派に属する反グローバリゼーションの立場を厳格なナショナリストの視点による反グローバリゼーションの立場と区別していなかった。フランス国民戦線のような多くのナショナリストによる運動は、グローバリゼーションに反対しているが、グローバリゼーションに代わるものは批評家によれば時として明示的に人種差別用語やファシストの用語を用いているが国民国家の保護であると主張していた。またサードポジションによって影響された他のグループ反グローバリゼーションとして分類されていた。しかし彼らの世界観の全体像はピープルズ・グローバル・アクションのようなグループやANTIFAのような反ファシストグループによって拒否されていた。

著名なデビッド・グレーバーのようなアクティビストたちは運動を新自由主義や「コーポレート・グローバリゼーション」に反対するものとして眺めていた。彼は、「反グローバリゼーション」という用語はメディアの造語であり、過激なアクティビストたちはIMFやWTO以上に「国境を喪失させ、人、財産、アイデアを自由に移動させる」意味でグローバリゼーションに実際に賛成していたと主張していた。また彼は、用語の混乱といった意味で、アクティビストたちは「グローバリゼーション運動」や「反グローバリゼーション運動」といった用語を同じ意味で用いていたと記していた[17]。「オルター・グローバリゼーション」という用語はこれを明確に区別する意味で用いられていた。

「反グローバリゼーション」という用語は自由貿易協定(それはしばしば「グローバリゼーション」と呼ばれている何かの一部として考えられている)に対する反対運動から生じている一方、さまざまな参加者たちは、彼らがグローバリゼーションのある側面に対してのみ反対しており、その代わりに彼ら自身を少なくともフランス語圏の組織では「反資本主義者」、「反財閥」、「反企業」として説明していたと主張していた。ル・モンド・ディプロマティークの編集者であるイグナシオ・ラモネによる「一方通行の思想」(独特の思想)といった表現は新自由主義に基づいた政策やワシントン・コンセンサスに対するスラングになっていた[18]。

この運動のために共通の用語を見出すために2つの主なアプローチが区別されることが可能であり、1つは「反グローバリスト」や「地域主義者」として説明され、もう1つは(新自由主義経済のような)他を否定する一方(国境を超えた情報の交換や国民国家の役割の消失のような)グローバリゼーションのいくつかの側面を含んでいた。双方のアプローチに対する支持者たちはしばしば協力し、同じ現象に対して1つの反応を示していたけれども、彼らの違いは共通の背景以上に実際には大きいものだった。前者のアプローチは(通常文化の「アメリカナイゼーション」として認識されるものを含む)率直な反グローバリストとして説明される一方、後者は「グローバリゼーションに対する批評家たち」とより適切に呼ばれているかもしれなかった。しかし実際にはこれらのアプローチの間に明確な境界は存在せず、「反グローバリゼーション」という用語はしばしば区別されないで用いられていた。

グローバル・ジャスティス運動は「運動の運動」としてしばしば言及される個人やグループのゆるやかな集合を示しており、彼らはフェアトレードの原則を主張し、世界貿易機関のようなグローバル経済における現在の国際機関を批判していた。この運動はしばしば主流派メディアによって「反グローバリゼーション」としてレッテルを貼られていた。しかし関係者たちはしばしば彼らが「反グローバリゼーション」の立場にあることを否定しており、彼らはコミュニケーションや人のグローバリゼーションを支持しており、企業の力のグローバルな拡大に対してのみ反対していると主張していた。さらにこの用語は反資本主義者や普遍主義者を示しており、政治が国家の主権を保守的に防衛することに基づいているといった意味でグローバリゼーションに反対する人々とこの運動は区別されていた。参加者たちは世界中の学生によるグループ、NGO、労働組合、信仰に基づくグループ、平和団体を含んでいた。しかし運動が北半球のNGOによって圧倒的に支配されていることや、南半球で人気のある組織がシステマティックに周辺化されていることは明白であった。

1.5 影響

いくつかの影響力のある批判的な作品が反グローバリゼーション運動にインスピレーションを与えていた。多国籍企業による製造現場や大衆文化におけるブランド主導型のマーケティングが世界中に氾濫していることを批判したカナダのジャーナリストであるナオミ・クラインによる著作である『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』は運動の「マニフェスト」[19]になり、他の作品でより正確に展開されたテーマを単純な方法で示していた。インドでは運動に対する知的関心はエコロジストでありフェミニストであるヴァンダナ・シヴァの作品の中に見出すことができ、『バイオパイラシー――グローバル化による生命と文化の略奪』の中で、先住民やエコリージョンが保有する自然資本が、私的利用を共有せずしたがって簒奪される独占的な商業的財産として認識される知的資本の形態に転換される方法を彼女は示していた。作家であるアルンダティ・ロイは反核といった立場や世界銀行によって支援された巨大な水力発電ダムのプロジェクトに反対する活動で有名であった。フランスではよく知られた月刊紙であるル・モンド・ディプロマティークが反グローバリゼーションの立場を支持しており、その元編集総長であったイグナシオ・ラモネはATTACの創設をもたらしていた。またトランスナショナル研究所のスーザン・ジョージは1986年から飢餓、債務、国際金融機関、資本主義に関する彼女の著作を通じて、この運動に対して長期にわたる影響を与え続けてきた。ジャン・ジーグラー、クリストファー・チェイス=ダン、イマニュエル・ウォーラーステインの著作は資本主義体制によって支配された世界における低開発と依存について解説していた。ノーム・チョムスキー、スーザン・ソンタグ、反グローバリストであるイエス・メンのようなアメリカの外交政策に対する批評家たちは広くこの運動の内側に受け入れられていった。

彼らは彼ら自身を反グローバリストとして認識せず資本主義を擁護していたかもしれなかったけれども、一部の経済学者たちは国際経済機関による新自由主義的なアプローチがこの運動に強い影響を及ぼしていたことを共有しようとしなかった。アマルティア・センの『自由と経済開発』(1999年にノーベル経済学賞を受賞)は、第三世界の発展は単に1人あたりの国民所得の増加ではなく、人間の潜在能力の拡大として理解されねばならず、したがって単にGDPと結びつけるのではなく、健康や教育に結びついた政策が必要とされていると主張していた。金融取引に関する課税(彼に因んでトービン税と呼ばれている)を提案したジェームズ・トービン(ノーベル経済学賞受賞者)はこの運動の目標の一部を形成していた。

ジョージ・ソロス、ジョセフ・E・スティグリッツ(ノーベル経済学賞受賞者、元世界銀行上級副総裁、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』の著者)、デビッド・コーテンは、債務救済、土地改革、企業の説明責任のシステムを再構築することを目的とした大幅な透明性の改善について議論を行なっていた。コーテンやスティグリッツのこの運動に対する貢献は直接行動や街角での抗議に関与していたことを含んでいた。

マック名誉毀損事件のような注目された出来事は社会、労働関係、環境(マクドナルドの事件において)における多国籍企業の影響に対する懸念を強調していた。

イタリアのようなローマカトリック諸国では、特に長期にわたって第三世界に滞在していた宣教師(最も有名な人としてアレックス・ツァノテルリなど)からの宗教的影響が存在していた。

インディメディアのようなインターネットソースやフリーな情報サイトはこの運動のアイデアを拡散するための手段になっていた。現在インターネット上で利用できる精神的な運動、アナーキズム、リバタリアンの社会主義、緑の運動に関するマテリアルの幅広い存在はおそらく印刷物以上の影響力を有していた。アルンダティ・ロイ、スターホーク、ジョン・ゼルザンによる世に知られていない以前の著作は特にフェミニズム、コンセンサスのプロセス、政治からの離脱を支持する批判に影響を与えていた。

2 組織

過去数十年以上(資本主義者による)グローバリゼーションに対するグラスルーツによる代替案の再構築が強調されていたけれども、運動における最大のそして目に見える組織化の方法は直接行動や市民の抵抗といった集団的ではあるが中心を欠いたキャンペーンのままであった。時としてピープルズ・グローバル・アクション・ネットワークの旗の下にこの組織化の方法は多くの散り散りになった仲間たちを1つのグローバルな運動の中に結びつけようとしていた。多くの点で全体的な問題を組織化するプロセスは明白な目標や運動の成果を達成すること以上にアクティビストたちにとって重要になっていた。

企業のサミットに関して、大半のデモの明示された目標はその手続きを停止させることだった。デモは実際のサミットの時間を遅らせたり、不都合を生じさせたりする以上の成功をめったに収めることはなかったけれども、この活動は人々に動機を与え、目に見える短期の目的を与えていた。批評家たちは、この手の宣伝活動は警察の手を煩わせ、公共部門の支出を招くだけだと主張していた。この運動は多くの人々によって支持されていないけれども、暴動がジェノバ、シアトル、ロンドンで発生し、大きな損害が地域やマクドナルドやスターバックスを含む特に目標とされた企業に対して生じていた。

公式の調整機関を有していないにも関わらずもしくはそれ故かもしれないが、運動はグローバルな背景に基づいて大規模な抗議者たちを組織することに成功しており、情報を拡散し組織するために情報技術を活用していた。抗議者たちは彼ら自身を「アフィニティ・グループ」として組織し、それは通常近くに居住し共通の政治的目標を共有している人々による階層化されていないグループを示していた。それからアフィニティ・グループは企画会議に代表を送り込んでいた。しかしこれらのグループは法執行機関の諜報員を送り込まれる可能性を有していたので、抗議活動の重要な計画はしばしば直前までなされなかった。抗議活動の共通の戦術は法に触れる意思に基づいたとき抗議活動を分裂することだった。これは法の施行にともなう対立による物理的なそして法的な危険を回避するために成功を収めてきた方法であった。例えばプラハでの2000年9月の反IMF、反世界銀行デモは3つの明確に区別できるグループに分裂しており、1つは市民による抵抗のさまざまな形態に関わっており(イエローの行進)、1つ(ピンクもしくはシルバーの行進)は「戦術的な軽薄性」を伴いながら行進しており(仮装、ダンス、演劇、音楽、視覚表現)、1つ(ブルーの行進)は街路から小石を投げながら棍棒をもった警察と暴力的な摩擦を引き起こしていた[20]。これらのデモは彼ら自身の小規模な社会に類似していた。多くの抗議者たちは応急処置の訓練を受け、他の負傷者たちに対して衛生兵のように振舞っていた。アメリカでは、 全国法律家ギルドや、やや小規模であるが、アメリカ自由人権協会のようないくつかの組織が法執行機関の対立の場合に法的な証人を立ち会わせていた。抗議者たちはしばしば主要なメディアが適切に彼らを報じないと主張し、そのために彼らの一部は活動を報告する抗議者たちの集合体である独立メディア・センターを創設していた。

3 重要なグラスルーツに基づく組織

南アフリカのアブハラリ・バスエムジョンドロ
メキシコのEZLN
ハイチのラヴァラの家族
ブラジルのホームレス労働者運動
南アフリカの無産者運動
ブラジルの土地なし農民運動
アメリカのバリオの正義運動
アメリカのグラスルーツ・グローバル・ジャスティス
インドのナルマダを救う運動
南アフリカの西ケープ州立ち退き反対運動

4 デモとグループ

4.1 ベルリン88

1988年にベルリンで開催された国際通貨基金(IMF)や世界銀行の年次総会(当時はドイツ連邦共和国の一部であった都市で)は反グローバリゼーション運動の前身として分類される強い抗議活動を経験していた[21]。主要なそして失敗に終わった目的の1つは(将来においても度々そうであったが)会合を脱線させることであった[22]。

4.2 マドリード94

1994年10月にマドリードで開催されたIMFや世界銀行の50周年記念は後に反グローバリゼーション運動と呼ばれるアドホックな連合による抗議活動を経験していた。彼らは外部から銀行家たちを批判しており、「50年は長すぎた」をモットーにした他の公的な会合を開催していた。スペイン国王であるフアン・カルロスが巨大な会場にいる参加者たちに対して演説を行なっている一方、グリーンピースのアクティビストたちは会場の真上に登り、「オゾン層を破壊するドルはもうごめんだ」といったスローガンとともに、銀行家たちの上に偽のドル札をばら撒いていていた。多くのデモの参加者たちは悪名高いカラバンチェル刑務所に送られていた。

4.3 J18

最初の国際的な反グローバリゼーション抗議活動の1つは1999年6月18日に世界中の都市でロンドンやオレゴン州のユージーンでの抗議がしばしば最も引用されるが組織されていた。運動は資本に対するカーニバルまたはJ18フォー・ショートと呼ばれていた。ユージーンでの抗議活動は暴動に変わり、地元のアナーキストたちは小さな公園から警察を追い出していた。あるアナーキストであるロバート·サックストンは逮捕され、警察官に対して石を投げたことにより有罪判決を受けていた。

4.4 シアトルN30

ワシントン州シアトルでWTOの会議場へ向かう代表団の入り口を封鎖したときに、N30として知られる運動の中でも2番目に大きい規模の動員が1999年11月30日に生じていた。抗議活動は開会式をキャンセルさせ、会合が予定されていた期間である12月3日まで続いていた。アメリカ労働総同盟・産業別組合会議のメンバーによる大規模な許可を受けた行進やコンベンションセンター周辺に集まっていたさまざまな類縁団体による他の許可を受けていない行進が見受けられていた[23][24]。警察が、路上を封鎖し、散会することを拒んだデモ隊に対して催涙ガスを発射した後、抗議者たちとシアトルの機動隊が路上で衝突した。600人以上の抗議者たちが逮捕され、数千人が負傷した[25]。3人の警官が警官自身の発砲によって、1人が投石によって負傷した。一部の抗議者たちは大規模なナイキの店舗や多くのスターバックスの窓のようなターゲットにされている企業に関連したビジネス商店街の窓を破壊していた。市長は戒厳令同様の体制をしき、外出禁止令を宣言した。2002年に現在係争中の集団訴訟に関しシアトル市は暴行や不当逮捕についてシアトル市警に対して提起された訴訟の和解で20万ドル以上を支払っていた。

4.5 ワシントン A16

2000年4月に1万人から1万5千人ほどの抗議者たちがIMFや世界銀行に対してデモを行った[27][28][29]。グローバリゼーションに関する国際フォーラム(IFG)はファウンドリー合同メソジスト教会でトレーニングを行なっていた[30]。警察はフロリダ通りの集会用倉庫を捜索し[31][32][33]、678人の人々が逮捕された[34]。3度ピューリッツァー賞を受賞したワシントン・ポストのカメラマンであるキャロル・グージーは警察に拘留され、4月15日に逮捕され、またAP通信の2人のジャーナリストたちが警察から警棒で叩かれたと報告していた[35]。訴訟は不当逮捕を巡って行われた[36]。2009年11月に訴訟は1,300万ドルの損害賠償によって和解に持ち込まれた[37][38][39]。

4.6 ワシントン G-7 IMF

2002年9月に抗議活動のグループはアンチキャピタリスト・コンバージェンス、モビリゼーション・フォー・グローバル・ジャスティスを含んでいた[40]。649人の人々が逮捕されたと伝えられ、5人が器物損壊で起訴され、他は許可なしに行進したことや、解散せよとの警察の命令に従わなかったことにより起訴されていた[41][42]。また少なくとも17人の記者たちが検挙されていた[43][44]。抗議者たちは逮捕について連邦裁判所に提訴していた[45]。コロンビア特別区の司法長官は外部の弁護士に明白な証拠の損壊を調査させ[46][47]、法廷による調査が継続し[48][49][50]、警察長による宣誓証言が行われた[51]。集団訴訟の和解は約825万ドルに及ぶと公表されていた[52]。

4.7 法執行機関の対応

地元警察はN30の規模に驚いていたけれども、それ以来世界的に法執行機関は、数の力、計画を決定づけるためにグループに潜入すること、抗議者たちを排除するために力を利用するための準備を含む多様な戦術によって将来の妨げを防止しようと対応してきた。

一部の抗議者たちに対して警察は抗議者たちを追い払うために、催涙ガス、ペッパー・スプレー、脳震盪手榴弾、ゴムや木製の弾丸、警棒、放水銃、犬、馬などを利用していた。祝祭的な抗議を意図していたことによって多くの抗議者たちが叩かれ踏みにじられ逮捕された2000年11月のモントリオールでのG8に対する抗議の後、抗議活動を「グリーン」(許可されている)、「イエロー」(公式には許可されていないが、ほとんど対立がなく、逮捕のリスクが低い)、「レッド」(直接の対立に巻き込まれる)といったゾーンに分割する戦術が導入されていた。

ケベックではアメリカのサミットが開催される都市の周りに3メートル(10フィート)の高さの壁を築き、住民、サミットの参加者たち、特別に認定されたジャーナリストたちのみが通行を許可されていた。

4.8 ジェノバ

2001年7月18日から22日にかけてのジェノバ・グループ・オブ・エイト・サミットによる抗議活動は近年の西欧の歴史上最も流血に見舞われた抗議活動の1つであり、警官や自宅に閉じ込められた市民に対する数百人に及ぶ負傷や、警察車両に消火器を投げ込もうとしている間に銃で顔面を打ち抜かれた若いジェノバのアナーキストであるカルロ・ジュリアーニの死によって示されるように、抗議者たちによる一貫して平和的な集会には無関心な人々によって支持された過激なグループによる暴力や暴動にまで発展した2日の間に、幾人もの平和的なデモ参加者たちの入院が生じていたことが指摘されていた。法執行機関の隊列とあらゆる年代や背景を有する平和的な抗議者たちの影に繰り返し隠れていたさらに暴力的で残忍な過激な抗議者たちとの間に生じた衝突によって引き起こされた二次的な被害が示すように、その後警察は暴力的でない抗議者たちに対する残虐行為、拷問、干渉行為によって非難されていた。数百人の平和的なデモ参加者たち、暴動者たち、警官が負傷し、数百人がG8の会議場周辺で数日間の内に逮捕され、逮捕者の多くはイタリアの反マフィア、反テロリスト法の下における「犯罪組織」のいくつかの形式で起訴されていた。捜査が暴力的な抗議者たちに対して一貫して行われなかったのは主に、その多くがマスクを被っており身元確認が困難であったことと共産党や現在のロマーノ・プローディ首相のような左派政党によって議会が支配されているためであった。

8年が経過し、主に車の衝突、店に対する放火、銀行強盗、人や物に対して損傷を負わせる重く尖ったものの使用のように暴動者たちによって引き起こされた多くの損傷からジェノバの都市は回復しようとしていた。

継続する調査の一環として、社会センター、メディア・センター、組合の建物、法律事務所に対する警察の捜査はジェノバでのG8サミット以来イタリア全土で行われていた。G8サミットの間ジェノバにいた警察官や当局者たちの多くは現在イタリアの判事たちによって調査の対象とされており、彼らの一部は辞職していた。

4.9 国際社会フォーラム

2001年に行われた最初の世界社会フォーラム(WSF)はオデッド・グラジュー、チコ・ウィテカー、バーナード・カセンのイニシアチブによるものだった。それはポルト・アレグレという都市(そこで開催された)とブラジル労働者党によって支援されていた。その動機は同時期にダボスで行われていた世界経済フォーラムに対抗することにあった。WSFのスローガンは「もう1つの世界は可能だ」であった。国際評議会(IC)がWSFに関する主要な問題を議論し決定するために設立され、一方開催国の地元組織委員会はそのイベントの実際の準備のために責任を担っていた[53][54]。2001年6月にICは世界社会フォーラム憲章の原則を採択し、それは国際的な、国内的な、地元の社会フォーラムに対するフレームワークを世界的に提供していた[55]。

WSFは定期的な会合となり、2002年と2003年にそれは再びポルト・アレグレで開催され、アメリカによるイラク侵略に対する世界的な抗議活動の終結点になっていた。2004年にそれはムンバイ(以前のインドのボンベイとして知られている)に移動し、アジアやアフリカの住民に対してより利用しやすいものにしていた。この会合は7万5千人の参加者を迎えていた。2006年にそれは3つの都市、カラカス(ベネズエラ)、バマコ(マリ)、カラチ(パキスタン)で開催された。2007年にこのフォーラムはナイロビ(ケニア)で開催された。2009年にこのフォーラムはブラジルに戻り、ベレンで開催された。2011年にこのフォーラムはダカール(セネガル)で開催される予定である。

新自由主義に反対する組織や個人のための会合を創設するといった考えはすぐに他の地域で再現されるようになった。最初のヨーロッパ社会フォーラム(ESF)は2002年11月にフィレンツェで開催された。そのスローガンは「戦争反対、人種差別反対、新自由主義反対」であった。会合は6万人の参加者を迎え、戦争に反対する大規模なデモで終わった(主催者によれば100万人規模だった)。次のESFはパリ(2003)、ロンドン(2004)、アテネ(2006)、マルメ(2008)で開催された。その次のESFは2010年にイスタンブールで開催される予定である。

多くの国々で国や地元レベルの社会フォーラムが開催されていた。

最近社会フォーラムについて運動の背後でいくつかの議論があった。ある人々はそれらをグローバリゼーションの問題に気付かせてくれる機会となる「人気のある大学」として眺めていた。他方は参加者たちが彼らの労力を協調、運動組織、新しいキャンペーンの計画に集中させることを好ましく考えていただろう。しかし、支配された国々(世界の大半)においてWSFは先進国のNGOや寄付者たちによって運営される「NGOフェアー」でしかなく、彼らの大半は貧困層に対する運動の人気に対して敵意を抱いていることがしばしば議論されていた[56]。

5 批判

反グローバリゼーション運動は政治家たち、保守的なシンクタンク、多くの主流派エコノミストたちによって批判されていた[57]。

5.1 実証的データの不在

批評家たちは、実証的データは反グローバリゼーション運動の視点を支持していないと主張していた。これらの批評は、推奨されているグローバリゼーション、資本主義、経済成長の結果であると解釈される統計的なトレンドに対して行われていた。

東アジアにおいて(インフレーションや購買力によって調整されているが)、1日あたり1ドル以下で生活している途上国の人々のパーセンテージは絶対的に減少しているとの指摘が存在していた。また劣ったガバナンスの結果であり、グローバリゼーションにそれからそれほど影響を受けていないサハラ以南のアフリカでは貧困の増大が見受けられ、他方世界の他の地域ではその割合に変化は見受けられなかった[58]。

世界の1人あたりの所得は記録された他の期間よりも2002年から2007年の間にはるかに増加していた[59]。

普通選挙権の拡大は1900年の対象国なしから2000年の全ての国々における62.5%の割合にまで上昇していた[60]。

清潔な水にアクセスできる人口の割合同様に、1人あたりの電力、車、ラジオ、電話に対しても同様のトレンドが存在していた[61]。しかし14億人の人々がまだ清潔な飲料水なしで生活しており、世界人口の26億人が適切な衛生設備に対するアクセスを欠いていた[62]。世界で最も貧困な国々において清潔な水に対するアクセスは実際減少しており、しばしばこれらの国々はグローバリゼーションに関与していなかった[63]。

反グローバリゼーションのメンバーは、グローバリゼーション擁護のスローガンである「成長は貧困層にとって良いことである」は意図的に誤解を招いていると主張していた。彼らは、グローバリゼーションや資本主義と矛盾しない新自由主義的な政策は実際に貧困層に恩恵をもたらし、危機的な状況を改善する成長の原因になっていないかもしれないと主張していた。また一般的に言えば1950年から1975年のデータを含み、それはグローバリゼーションに関連した新自由主義的な改革の始まりより以前のことであるため、現実以上にグローバリゼーションに対する統計を良い数字に変えていたことを理由にして、彼らは、平均寿命、子供の死亡率、識字率のようなグローバリゼーション推進派の議論に付随する期間の問題を取り上げていた。

同様に彼らは、中国のような新自由主義的な政策を無視していた国々からの肯定的なデータを含めていたことがグローバリゼーション擁護者たちが主張する証拠に対する信頼性を失わせていたと主張していた。例えば1人あたりの所得の伸びといったパラメーターに関して、開発経済が専門であるハジュン・チャンは、最近20年のデータを考慮すると、新自由主義的な政策を継続するための主張は「単純に支持できない見解」であったと主張していた。そして「私たちが用いるデータに依存しているが、大雑把に言えば、途上国における1人あたりの所得は1960年から1980年にかけて年率で3%成長していたが、1980年から2000年にかけて約1.5%しか成長していなかった」と主張していた。さらに「先進国によって推進されていた自由貿易や産業政策を採用しなかったインドや中国を除外すれば、この1.5%という数字は約1%にまで低下するだろう」と言われていた[64]。ジャグディーシュ・バグワティーは中国やインドを開放する改革が1980年代や1990年代の高い成長に貢献していたと主張していた。1980年代から2000年まで彼らのGDPはそれぞれ平均して10%もしくは6%の成長を示していた。これは、1978年の28%から1998年の9%に中国で貧困が減少し、1978年の51%から2000年の26%にインドで貧困が減少していたことによるものだった[65]。ヘリテージ財団によれば、経済の自由化が小規模であっても劇的にプラスの効果を生むだろうといったことを予測していたミルトン・フリードマンによって中国の発展は予想されていた。中国経済はその経済的自由とともに成長していた[66]。企業によって導かれるグローバリゼーションに対する批評家たちは世界銀行の統計で用いられている方法論に対して懸念を表明しており、貧困を測定するさらに詳細な変数が研究されるべきであると主張していた[67][68]。経済政策研究センター(CEPR)によれば、1980年から2005年までの期間は経済成長、平均寿命、乳幼児死亡率、教育に対する改善といった点で停滞を示していた[69]。

5.2 組織の欠点

運動に対する最も一般的な批判の1つは単に、その批判から必然的に生じている訳ではないが、反グローバリゼーション運動が首尾一貫した目標を欠いており、抗議者たちの見解がしばしばお互いに対立していたことだった[70]。運動の多くの参加者たちは同様にこのことに気が付いており、共通の対立軸を有している限り、例え彼らが正確に同じ政治的ビジョンを共有していなくても、共に歩むべきであると主張していた。作家であるマイケル・ハートとアントニオ・ネグリは『<帝国>グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』の中で統合されない多数派つまり人間は共有された背景を理由にしてともに歩むが、「人」といった考え方に対して完全な同一性を保有することがないといった考えを拡張していた。

5.3 最良のオプションの欠落

反グローバリゼーション運動に対する反対者たち(特にエコノミスト誌)によってしばしばなされる主張の1つは、第三世界の農民たちの間にある貧困の主要な理由の1つは富裕国や貧困国によって課されている貿易障壁であるといったことだった。そのため実際に第三世界の窮状に関心を抱いている人々は自由貿易に対して抵抗するよりも自由貿易を促進するべきであることが主張されていた。また彼らは、第三世界の人々が二番目に良いオプション以上に良いオプションを有していないなら、いかなる仕事を得ることもないだろうと主張していた。したがってもし第三世界で生活している人々が一番良いオプションを奪われるならば、彼らの生活は一層悪化するだろうといったことが主張されていた。他が同じであると仮定して、合理的な人が厳密に言えばさらに多くのオプションを保有し裕福になるといった解釈に従っているので、反グローバリゼーションの支持者たちは合理性の仮定を外すか、グローバリゼーションは負の外部性(環境汚染)を生み出し、より良いオプションを除外する(例えば、投資は競合する伝統的な方法以外の工場生産を促進している)やり方で市場に変更をもたらすかのいずれか一方である可能性が存在していた。他方でグローバリゼーションの支持者たちは正の外部性や改善された効率が困窮した人々に対してより良いオプションを生み出すと主張していた。

資本主義に対する多くの支持者たちは、反グローバリゼーション運動によって必然的に支持される政策ではないけれども、今日の政策と異なった政策が追求されべきではないと考えていた。例えば一部の人々は、一切改革を行わない独裁者たちに繰り返し融資を行う腐敗した官僚として、世界銀行やIMFを眺めていた。エルナンド・デ・ソトのような一部の人々は、第三世界の貧困の多くは欧米の法制度や明確に定義され普遍的に認識されている財産権の欠如を理由にしていると主張していた。デ・ソトは、法的障壁のために、これらの国々で困窮している人々はより多くの富を生み出すために彼らの資産を活用することができないでいると主張していた[71]。

5.4 広範囲にわたる「第三世界」の支持の欠如

批評家たちは、グローバリゼーションに対する最大の反対は豊かな「先進国」のアクティビストたち、労働組合、NGOから生じている一方、貧困国(第三世界)の人々はグローバリゼーションを比較的受け入れ、賛同を示していると主張していた。『グローバリゼーションの神話』の著者であるアラン・シップマンは反グローバリゼーション運動を「途上国の工場に疎外や搾取をシフトすることによって欧米の階級闘争を拡散している」と非難していた。彼は後に、反グローバリゼーション運動は第三世界で困窮している人々や労働者からの広範囲にわたる支持を集めることに失敗しており、「その最も大きくて理解できない批評家たちは常に守ろうとしている雇用からの解放を願う労働者たちだった」と主張していた[72]。

これらの批評家たちは、第三世界の人々は反グローバリゼーション運動を彼らの仕事、賃金、消費のオプション、生活に対する脅威として眺めており、グローバリゼーションの中断や逆行は貧困国の多くの人々により大きな貧困を残すだけであると主張していた。元メキシコ駐米大使のジェスス・F・レイズ・ヘロエスは「私たちのような貧困国では、低賃金労働の代わりは支払いの良いものではなく、全く仕事がない状況だった」と述べていた[73]。

エジプトの国連大使は同様に「疑問は、なぜ突然そしていつ第三世界の労働が競争力をもっていると認識されるようになったのか、なぜ先進国は私たちの労働者たちに対して懸念を感じるようになったのか、いつ私たちの労働者たちの福利厚生が問題とされるようになったのかにあり、それは疑問のままである」と述べていた[74]。

他方で、タネの特許に抗議するインドの農民のように、第三世界の労働者たちによってある特定のグローバリゼーションを目指した政策に対して顕著な抗議活動が続けられていた[75]。

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