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ポストモダンの哲学は西洋のモダニティにおける伝統や合理性に対する強い批判を展開しており、カントやヘーゲルの哲学に見受けられる普遍的で合理的なシステムの探求に見られる啓蒙時代から受け継いだヨーロッパの哲学やイデオロギーにおける伝統を打ち破っていた。

ジャック・デリダはロゴス中心主義と呼ばれているものを脱構築することを提案しており、ロゴス中心主義はつまり非合理であるもの全てに対し理性が勝り、その理性は非合理なものを定義し、それを拒絶する権利を思いのままに行使していたとされ、そこには理性の優位性のみならず西洋の理性の優位性が含まれ、理性の優位性は男性の優位性へと置き換わっていったとされていた。

そしてポストモダンの哲学は西洋の形而上学や人文主義を支配する二項対立、例えば真と偽、精神と身体、社会と個人、自由と決定論、存在と無、支配と服従、男性と女性を問題にしており、これらの前提はニュアンス、区別、微妙な差を考慮していないとして批判されていた。

ドゥルーズ派の差異に関して、それは主にニーチェ派の永劫回帰とベルクソン派の多様性から生じており、フィリップ・サージェントによれば、ドゥルーズは弁証法的反論に対する還元できない差異を考慮していた。『ニーチェと哲学』の中でドゥルーズはヘーゲル派の弁証法に反対するニーチェを演じようとし、いわばロゴス、合理性、概念の中で決して還元できない差異を考慮しており、差異は実証的であり、複数性を示していた。

デリダ派の差延はシェリング、ハイデッガー、バタイユの試みの延長線上にあり、ヘーゲルのシステムを逸脱する絶対的否定は知識体系の内側に存在しており、デリダによれば、ヘーゲルは哲学的ロゴス自身の内に差異を考えさせる契機を残存させていた。

デリダは脱構築の創始者であり、エクリチュールに表れる不在や痕跡よりむしろ音声に表れる存在やロゴスを西洋の哲学が重視してきたことを批判しており、ロゴス中心主義を脱構築することを主張し、痕跡から切り離されたネットワークとしての人間の文化を形式化しようとしていた。

脱構築は、論理的整合性と概念的な対立や差異における弁証法的分解つまり同一性への分解を求める全てのテクストにおける意味の空間を開放する差延を明らかにすることを目的としていた。

リオタールによれば、近代の哲学は真実に対するその主張を論理や経験に基づいてではなく、ウィトゲンシュタインが言語ゲームと呼んだ知識や世界に関する容認された歴史に基づいて正当化しており、ポストモダンの状況ではこれらのメタナラティブはもはや真実に対する主張を正当化しないと主張していた。そして近代におけるメタナラティブの崩壊に続いて、絶対的な真実を主張するものではない永続的に変化する関係からなる世界が示唆されていた。

ポストモダンの哲学は『論理哲学論考』以降の分析哲学に対するルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる批判や『科学革命の構造』におけるトーマス・クーンの著作によって影響を受けており、分析哲学に対する合理的な拒絶を示していた。

リチャード・ローティはドナルド・デイヴィッドソンによってなされた概念的枠組と経験的内容における二元論に対して批判を行い、真実は妥当性や現実に対する表象の中に存在しておらず、社会的実践に属しており、言語は特定の期間における私たちの関心に仕えるものであり、現在使われていない語彙を含んでいるため古代の言語は時として現代語に翻訳できないことがあると主張していた。

他方で1997年10月にフレンチ・セオリーのフランス・メディアにおける隆盛とその扇動に対する批判や議論を基にしてアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンが『「知」の欺瞞』を出版するまで、アメリカにおける知的運動とフランスの哲学者たちの影響力はフランスではほとんど知られていなかった。ソーカルやブリクモンは言語学者であるノーム・チョムスキーや哲学者であるジャック・ブーヴレスを含む他の知識人たちによって支持されていたが、問題を呈された哲学者たちはその方法を批判し、物理学者であるアラン・ソーカルの置かれた状況が物理学や数学における用語を象徴や隠喩として用いることを許さなかったのだろうと主張していた。

またブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」ーー科学人類学は警告する』によれば、近代にもポストモダンにも反対することによって、ノンモダンと呼ばれるものが哲学の伝統の中に加えられていた。

ロマーン・ヤーコブソンやフェルディナン・ド・ソシュールの古典的な構造主義の時代の差異はポスト構造主義者たちによって明確に異なったものとして認識されており、古典的な構造主義者たちの理論的もしくは方法論的前提を引き継がず、歴史の不連続が古典的な構造主義者たち以上に強調されていた。

しばしば構造主義者によるアプローチとの関連でシニフィアンとシニフィエの関係が問題とされ、意味における前提の形成や意味の形成における不安定性や可変性を考慮せざるを得ないことを、デリダ派の脱構築やフーコー派の言説分析において、ポスト構造主義者たちは主張していた。

社会構造、知識体系、言説といったポスト構造主義者たちの前提は力の形成に関連しており、そのことはその妥当性や階層秩序を確立し、それに対する力関係を生み出し、その力関係を安定化させていった。したがって多くのポスト構造主義者たちにおける問題は創造的で新たな位置付けのために力の秩序が用いられることを可能にすることであり、カルチュラル・スタディーズを通じて分析されるように、マスメディア、大衆文化、日々の実践の分析が同様に重要な役割を担っており、ポストコロニアル理論やクィア理論においても、問題は意味における言説の力関係についての脱構築に向けられていた。

ポスト構造主義者たちのアプローチは隠喩、主題、合理性といったある古典的な概念に対する批判において意見が一致しており、全体主義、父権主義、差別主義、自民族中心主義を批判していた。

デリダの『グラマトロジーについて』は直接の会話において相手の固有の意図を理解できることは根拠のない間違った主張であるといったことを示そうとしており、『声と現象』は他者において記号化される行為や評価される行為によって時間の遅れが生じることを指摘していた。

ラカンはフロイトの理論を背景にして言語のように無意識が構造化されていることを強調し、精神的な出来事に対応する要素をシニフィエと呼び、欲動を背景にした小文字の他者と対照的に権威を象徴的に示す大文字の他者のように社会的な規範、法、権威、イデオロギーが関連している現象を考察していた。

象徴に関するラカンの考え方はルイ・アルチュセールによって補強され、幻想が有する役割に対する彼の発言はカルチュラル・スタディーズやビジュアル・スタディーズにおいて中心となる意味について新たな理論を構築することを促し、彼の思想の賛同者としてスロベニアの哲学者であるスラヴォイ・ジジェクがいた。

フーコーによれば、時代を特定した知の枠組はエピステーメーといった用語に縮約され、1970年代後半に彼の言説分析はカルチュラル・スタディーズ、歴史学、文学に波及し、主題や著者を古典的な解釈学の知識の中心に据えたアプローチと対照的に、著者の主題でなくその意図を中心に据えていた。そして著者の主題の確立は言説に関連した歴史的なそして文化的な変遷の結果であった。

言説は文化的知識の全体像であり、発話やテクストの形式で氷山の一角として姿を現すに過ぎず、思考や知覚は言説の秩序を通じて既に特徴付けられたものであり、知識の中にある形成されたエピステーメーを分析することや他方で自己認識や社会の秩序のメカニズムを把握することは文書を通じて可能であり、社会はテクストや文化的な創造物の上に形成されていた。

フーコーの後期の著作は特に自己への配慮をテーマにしており、それを彼はストア学派の理論に基づいて「セルフケア」と呼んでいた。

ポスト構造主義はさまざまな立場の人々によって批判されており、ユルゲン・ハーバーマスやマンフレッド・フランクによる反対やアラン・ソーカルによる実験が有名な例であった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツのWikipediaの「ポストモダン」や「ポスト構造主義」等の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Philosophie_postmoderne

ポストモダンの哲学

ポストモダンの哲学は特にフランスで1960年代に登場した多数の言説や業績の集合であった(「フレンチ・セオリー」[1]と呼ばれるアメリカでの理論を含む)。時代がその状況(ポストモダニティ)に直面しているといった概念を受け継ぎ、哲学者であるジャン=フランソワ・リオタール[2]によって広められたこの名称は、西洋のモダニティにおける伝統や合理性に対する強い批判を展開し、特にマルクス主義により影響を受けたテクストや歴史、キェルケゴール派やニーチェ派による合理性に対する批判、フッサールやハイデッガーの現象学、フロイトやラカンの心理学、レヴィ=ストロースの構造主義に対して、言語学や文芸批評によって問題を投げ掛ける新しい方法を提示した思想を統合したものであった[3]。

この名称の背景にはしばしばフーコー、ドゥルーズ、デリダ[4]といった哲学者たちのみならず、フランスではアルチュセール、カストリアディス、リオタール、ボードリヤール、ガタリ、イリガライ、バディウ、ナンシー、ラクー=ラバルト、ジュリア・クリステヴァ、アメリカではファイヤアーベント、カベル、ローティ、ジェイムソン、バトラー、ロネル、イタリアではヴァッティモ、ペルニオーラ、アガンベン、ドイツではスローターダイク、スロベニアではジジェク[5]も含まれており、彼らは自由やさらに西洋のモダニティにおけるイデオロギー上の伝統が直面している分断を批判し、それに対し不信の念を抱く姿勢を共有していた。しかしながらこれらの思想をある名の下に統合することは多くの異論を伴っていた。たとえばフーコーは個人的に「ポストモダン」といった名称を拒絶しており、むしろモダニティをそれに対して求めていた[6]。

ポストモダンの哲学はしばしば芸術運動であるポストモダニズムと混同されていた[7]。

1 共通の特徴と差異の特徴

1.1 共通の特徴

1.1.1 その起源と展開

ポストモダンの哲学は1950年代から1970年代さらには1980年代にかけて行われた批判的研究の集合であり、それは近代哲学の普遍主義や合理主義への偏りを部分的に拒絶し、より良い分析のためにそれらと距離を置くことを求めていた。それらは19世紀末から20世紀初頭の偉大な思想家たちに(マルクス[9]、ニーチェ[10]、フロイト[11]、ハイデッガー[12])問題を投げ掛ける研究や運動に当てはまり、ポスト構造主義、脱構築、多文化主義、そして哲学、文学、政治、科学等に関する言説の伝統的な展開に対して問題を示す文学論の一部が挙げられていた。

1.1.2 批評の態度と考え方

ポストモダンの研究は一般的に主題や理性による支配と例えばカントやヘーゲルの哲学に見受けられる普遍的で合理的なシステムの探求のような啓蒙時代から受け継いだヨーロッパの哲学やイデオロギーにおける伝統を打ち破っていた。この意味でジャック・デリダは「ロゴス中心主義」と呼ばれているものを脱構築することを提案しており[13]、そのロゴス中心主義はつまり「非合理」であるもの全てに対し理性が勝り、その理性は「非合理」なものを定義し、それを拒絶する権利を通常思いのままに行使していたとされていた[14]。デリダによればこのロゴス中心主義は常に「自民族中心主義」と重ね合わせられていた(理性の優位性のみならず「西洋の」理性の優位性が含まれていた)。それはそれから「ファロゴセントリズム」[15]になり、そこでロゴス、理性の優位性は男性の優位性へと置き換わっていった。

ポストモダンの哲学は西洋の形而上学や人文主義を支配するニ分法(二項対立)[16]に対して警戒しており、例えば真と偽、精神と身体、社会と個人、自由と決定論、存在と無、支配と服従、男性と女性が挙げられていた[17]。西洋の思想におけるこれらの前提はニュアンス、区別、微妙な差を考慮するために批判されていた。

さらにポストモダンの哲学者たち(特にフーコーやアガンベン)はその時代における言説の形成や「真実」であると普遍的に受け入れられている見解を構築する言説を個人に対して内面化することにおける力の関係の意味を強調していた。

ポストモダンの哲学といった思想は、特にフランスの著作を理解することを通じて、基本的にはアメリカによって形成されており、その思想の集合は「フレンチ・セオリー」といった用語によって認められていた[18]。

1.2 差異の哲学

1.2.1 概説

ポストモダンの哲学に影響を与えた最初の哲学者たちはジャン・フランソワ・リオタール[19]、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ[4]であった。彼らはこの風潮を肯定せず、否定していたけれども[20]、アレックス・カリニコスによれば、「それが栄える知的環境を創造することを手助けしていた」[21]。

これらの哲学者たちが異なった観点に立っていることが見出されるならば、しかしながら彼らは基本的な考え方を共有しているものの、(フーコー、ドゥルーズの)差異、(デリダの)差延、(リオタールの)争異が存在していた。差異の概念はこれらの哲学者たちによって異なっており、したがってそれらの特定の差異を再び問題として取り上げることはしないが、この差異の概念は、共通の核があらゆる客体化を避け、実社会や意味の領域の中にそれら自身を位置付ける役割を果たしていた。

1.2.2 ドゥルーズ:差異

ドゥルーズ派の差異は主にニーチェ派の永劫回帰とベルクソン派の多様性から生じた省察であった[22]。フィリップ・サージェントによれば、ドゥルーズは「弁証法的反論に対する還元できない差異」を考慮していた[23]。『ニーチェと哲学』(1962年)の中でドゥルーズはヘーゲル派の弁証法に反対するニーチェを演じようとし、いわばロゴス、合理性、概念の中で決して還元できない差異を考慮しており、他方で差異は「否定の仕事」(訳者注:「否定表現が文章の意味にもたらす作用」といった意味で、例えばニュアンスを捨象し、断定的な側面を取り上げること等がある)から逃れ、純粋に実証的であり、複数性を有していた。

1.2.3 デリダ:差延

デリダ派の差延は2つの大きな論拠に基づいており、それはドゥルーズと異なっており、ドゥルーズが最も反対していたものと同じであり、ハイデッガーの『同一性と差異』(諸問題ⅠとⅡ、ガリマール出版社、1990年)やヘーゲルとシェリングの時代の反論が挙げられていた[24]。実際デリダ派は差延のプロセスを考慮しようとし、それはいわば差異を生じる分化や現時点との区別のプロセスであり、その試みはシェリング、ハイデッガー、バタイユの試み(至高性の概念)の延長線上にあり、ヘーゲルのシステムを逸脱するこの絶対的否定はこのシステムの外部やこのシステムに反対して存在しているのではなく、このシステムの内側に存在していた。デリダによれば、ヘーゲルは哲学的ロゴス自身の内にこのモデルを残存させており、差異を考えさせる契機を残存させていた:

「[...]おそらく哲学はこの曖昧さを仮定し、考慮に加えなければならず、哲学的な意味での純粋性の内に思索におけるその二重性や差異を受け入れなければならなかった。ヘーゲルが成した以上に深化していないならば、私たちは試みの段階にあると思われていた。」

— デリダ、『エクリチュールと差異』「暴力と形而上学」、スイユ、1967年、p.166

フィリップ・サージェントはドゥルーズ派に反対する言説の中で「デリダは思考における還元できない差異としての「弁証法的反論」に疑念を抱いていた」と述べたが、そのことはしかしながら差異の別の側面としてその弁証法的反論を形成し、それに対応していた:ドゥルーズやデリダのアプローチは、それらが対立するのと同じぐらい補完し合い、共通の「目標」や異なる前提から始まった類似の目標を共有していた。あらゆる真の差異がある真の差異に回帰していた:結局のところ同一性を肯定し、真実に到達することを主張する哲学に対してしか対立が存在しておらず、一方異なった形で(ヘーゲルの方法と同一ではなく)「差異」を主張する哲学は再び合流していた。

またデリダは脱構築の創始者であり、彼はテクスト批評の形式でその哲学を実践していた。エクリチュールに表れる不在や痕跡よりむしろ音声に表れる存在やロゴスを西洋の哲学が重視してきたことを彼は批判していた。したがってデリダは、例えば不在の痕跡によって印を付記されているならば現在のロゴスにおける西洋の理想はこの理想の表現によって損なわれることを主張することによって、ロゴス中心主義を脱構築することを主張していた。このパラドックスを強調するために、デリダは不在の表現を多く抱える痕跡や文章から切り離されたネットワークとして人間の文化を再度形式化しようとしていた。

脱構築は、論理的整合性と概念的な対立や差異における弁証法的分解つまり同一性への分解を求める全てのテクストにおける意味の(もしくは無意味の)空間を開放する差延を明らかにする(したがって客観化されないものを客観化する直観に隠されている)ことを主な目的としていた。

1.2.4 リオタール:争異

リオタールの著作は主に人間の文化の役割や特に「ポスト工業化」やポストモダンの状況に移行するためにモダニティから私たちが離れるときにどのようにこの役割は変化するのかについて関心を抱いていた。リオタールは、近代の哲学は真実に対するその主張を論理や経験に基づいてではなく(自己正当化として)、むしろウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」と呼んだ知識や世界に関する容認された歴史(もしくはメタナラティブ)に基づいて正当化していた。リオタールはポストモダンの状況ではこれらのメタナラティブはもはや「真実に対する主張」を正当化しないと主張していた。そして近代におけるメタナラティブの崩壊に続いて、人は新しい言語ゲームを展開し、そのゲームは絶対的な真実を主張するものではなく、むしろ永続的に変化する関係(人と人との関係や人と世界との関係)の世界を良しとするだろうといったことを彼は示唆していた[25]。

1.2.5 フーコー:エピステーメーの特異性

フーコーは構造主義に基づいて歴史的展望におけるポストモダンの哲学のアプローチを採用していたが、同時に歴史の形を作り直し、西洋の思想における哲学的構造を揺すぶることにおいて、彼は構造主義を拒否していた。また彼は力の行使によって知識が決定され、修正されるプロセスを検証していた。

デリダとフーコーはポストモダンの哲学者として引用されていたけれども、彼らは繰り返し互いの見解に対して反対していた[26]。そしてリオタールのように彼らは絶対的真実や普遍的真実に対する主張に対して懐疑的であった。しかしリオタールと異なり彼らは新しい言語ゲームから解放されるとの主張に対してむしろ悲観的であるように思われていた。そういった理由で一部の人々は彼らをポストモダニストというよりむしろポスト構造主義者として眺めていた。

1.3 アメリカにおけるポストモダニズム

1.3.1 ポストモダンの哲学とポスト分析哲学

『論理哲学論考』以降の分析哲学[27]に対するルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる批判や『科学革命の構造』におけるトーマス・クーンの著作によって、ポストモダンの哲学は同様にある程度影響を受けており、分析哲学に対する合理的な拒絶を一般的に示していた[28]。

1.3.2 ローティ

リチャード・ローティはアメリカのポストモダニストの中で最も有名であった。W・V・O・クワインによる分析命題と統合命題の区別に対する批判やウィルフリド・セラーズによる「所与の神話」に対する批判の統合は現実や外部世界の鏡としての思考や言語の概念を放棄させることを許容させると当初分析哲学者であったローティは考えていた。さらにドナルド・デイヴィッドソンによってなされた概念的枠組と経験的内容における二元論に対して批判を始め、彼は私たちの独自の概念が適切な方法で世界と関連付けられているのかといった問題や、それを成した方法と別の方法によって比較しながら世界を記述する方法を私たちは正当化できるのかといった問題を投げ掛けていた。そして真実は妥当性や現実に対する表象の中に存在しておらず、社会的実践に属しており、言語は特定の期間における私たちの関心に仕えるものである(現在使われていない語彙を含んでいるので古代の言語は時として現代語に翻訳できない)といったことを彼は主張していた。ドナルド・デイヴィッドソンは一般的にはポストモダニストとして考えられていなかったが、ローティや彼自身は彼らの哲学の間には小さな違いしか存在していないと考えていた。

1.3.3 カルチュラル・スタディーズとフレンチ・セオリー

http://fr.wikipedia.org/wiki/Cultural_studies

カルチュラル・スタディーズ

カルチュラル・スタディーズは社会学、文化人類学、哲学、民俗学、文学、メディア論、芸術等が交差する研究分野であった。学際的な観点から、それらは特に文化と力の関係に関連するものにおける批判において「専門化に対する対抗」として登場していた。アカデミックな文化に反して、カルチュラル・スタディーズは大衆文化、マイノリティ、抵抗する人々等における「横断的な」アプローチを採用していた。

1 カルチュラル・スタディーズの起源

この研究の動向は1960年代のイギリスに始まり、バーミンガムで1964年にリチャード・ホガートが現代文化研究センター(CCCS)を創立していた。その創立者に加えて一般的にこの動向にスチュアート・ホール(CCCSのセンター長でリチャード・ホガートの後継者)、シャーロット・ブランスドン、フィル・コーエン、アンジェラ・マクロービー、デビッド・モーリー、エドワード・トンプソン、レイモンド・ウィリアムズが関連していた。

1970年代にカルチュラル・スタディーズがアメリカに紹介され、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーのような哲学者の著作の中に示される表現とフレンチ・セオリーとの関係が研究されていた[1]。

1990年代以降カルチュラル・スタディーズは国際化していた。多くの動向がヨーロッパに登場し、ドイツにおけるカルチュラル・スタディーズやオランダにおけるカルチュラル・スタディーズが挙げられていた。

ジャン=クロード・パスロンは最初にフランスにカルチュラル・スタディーズを紹介し、その翻訳に貢献し、リチャード・ホガートの『読み書き能力の効用』の前文を記していた。しかしアメリカのカルチュラル・スタディーズにフレンチ・セオリーが適用されていたにもかかわらず、カルチュラル・スタディーズがフランスで発展したのは最近になってのことだった。

2 カルチュラル・スタディーズの射程を広げること

R・ホガートは緻密で具体的な「大衆階級」の生活を研究し、その力点は私生活、国内集団の価値観、直接的な快楽に対する嗜好に置かれていた。この研究における問題は特に社会によって課されるモデルからの解放における困難さに存在していた。

もし「カルチュラル・スタディーズ」の最初の研究が1990年代の大衆文化に関連していたならば、この研究の対象分野はパフォーマンス・スタディーズ、ビジュアル・スタディーズ、ポストコロニアル研究、ジェンダー研究に拡大し、人文科学における「文化的転回」とともに発展していたことになる[2]。

http://fr.wikipedia.org/wiki/French_Theory

フレンチ・セオリー

フレンチ・セオリーは、1960年代にフランスで、1970年代にアメリカで始まった哲学、文学、社会学における集成であった。フレンチ・セオリーは1980年代にアメリカの人文学部でブームになり、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダー研究、ポストコロニアル研究の登場に貢献していた。またフレンチ・セオリーは芸術やアクティビズムに強い影響を与えていた。

フレンチ・セオリーの主な哲学者たちの中に、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ジャン・ボードリヤール、ジャック・ラカン、フェリックス・ガタリ、ジャン=フランソワ・リオタール、ルイ・アルチュセール、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスス、クロード・レヴィ=ストロース、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、リュス・イリガライ、モニック・ウィティッグ、ジャック・ランシエールが挙げられていた。

1997年10月にフレンチ・セオリーのフランス・メディアにおける隆盛とその扇動に対する批判や議論を基にしてアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンが『「知」の欺瞞』を出版するまで、アメリカにおける知的運動とフランスの哲学者たちの影響力はフランスではほとんど知られていなかった。

フレンチ・セオリーを頻繁に参照したアメリカの哲学者たちの中に、ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァク、スタンリー・フィッシュ、エドワード・サイード、リチャード・ローティ、フレドリック・ジェイムソン、アヴァイタル・ロネルが挙げられていた。

1 アメリカの理論

フレンチ・セオリーという語におけるこれらの哲学者たちの分類はフランスにおいて非常に恣意的なものであった。同一の哲学の学派の中に集成することはその相違点やそれぞれの著作における理論の多様性を打ち消していた。フランソワ・キュセによれば、唯一の明白な類似点は批判的なアプローチと思われていることであった:

主題、表象、歴史的連続性に対する批判。

フロイト、ニーチェ、ハイデッガーを再検討すること。

ドイツの哲学の伝統である「批評」自体に対する批評。

キュセによれば、フレンチ・セオリーは多くの要因の集成から生まれていた:

その理論が容易に理解されうるアメリカの大学において既に存在している知的なもしくは政治的動向。

特定の出版の方法(著作を完全に翻訳することよりむしろ大学の出版物やアングラにおける冊子)、フランスの哲学者たちを交えたインタビューの優越性(均一な集成であるといった印象を与える)、翻訳にともなう困難、ジャーナルにおける引用から離れた用法等を通じて、それらを再構成し、それらの背景から離れることによって、フランス独自の概念をアメリカナイゼーションしたこと。

2 ポストモダニズムとポスト構造主義

ポストモダンの哲学はポスト構造主義に非常によく似ていた。両者を同一のものとしてみるか、基本的に異なったものとしてみるかは、これらの問題に対する個人の関わりに一般的には依存していた。ポストモダニズムやポスト構造主義に反対する人々はしばしば両者を1つのものとしてみなしていた。他方でこれらの学説の支持者たちはよりわずかな区別を行なっていた。

ジャック・デリダは1967年に『エクリチュールと差異』(特に「力と意味」と題された論文)の中で構造主義から出発し、エクリチュールや文の発見による彼自身の理論の中でその構造主義を適切にやり過ごしていた。

ミシェル・フーコーによる『言葉と物』といった著作は構造主義に関連していたけれども、フーコー自身は構造主義という知的動向を代表することを否定していた[29]。

3 ポストモダンの哲学に対する批判

ポストモダンの哲学によって採用された文章を書くための方法は物理学者であるアラン・ソーカルやジャン・ブリクモンによって激しく批判されていた。哲学や社会学における文脈で物理科学の用語を(彼によれば不適切な乱用であった)使用することに問題を呈するために、アラン・ソーカルは「ポストモダン」として考えられる著作や論文からの引用で構成された間違った論文を造り上げた。彼はこの論文をソーシャル・テキスト誌に送り、それは掲載されることになった。彼は次の論文の中でその欺瞞を明らかにした。この発表が「ソーカル事件」として知られる論争を引き起こしていた。『「知」の欺瞞』(1997年)の2人の著者たちは言語学者であるノーム・チョムスキーや哲学者であるジャック・ブーヴレスを含む他の知識人たちによって彼らの仕事について支持されていた。問題を呈された哲学者たちはその方法を批判し、物理学者であるアラン・ソーカルの置かれた状況が物理学や数学における用語を象徴や隠喩として用いることを許さなかったのだろうと主張していた。

ブルーノ・ラトゥールは1991年に『虚構の「近代」ーー科学人類学は警告する』を出版し、近代にもポストモダンにも反対することによって、彼が「ノンモダン」と呼ぶものを哲学の伝統の中に加えていった。

http://de.wikipedia.org/wiki/Poststrukturalismus

ポスト構造主義

ポスト構造主義という用語はさまざまな人文科学や社会科学におけるアプローチや方法を示しており、それは1960年代末にフランスに初めて登場し、言語的実践と社会的現実との関係を批判的に検討していた。さらに言語は現実を反映していないだけでなく、その分類や区別によって現実を生み出しているといった洞察が重要であった。典型的には社会における客観主義者の見解から離れることがこの見解と関連しており、それは社会的実践を必要なものとして考えており、社会の発展におけるさまざまな可能性(偶然性)が強調されていた。

ポスト構造主義の思想家として、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ジャン=フランソワ・リオタール、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ジャン・ボードリヤール、スラヴォイ・ジジェク、エルネスト・ラクラウ、ジュリア・クリステヴァ、シャンタル・ムフ、ジュディス・バトラー、エレーヌ・シクススが挙げられていた。

1 哲学史的位置付け

「ポスト構造主義」という用語は哲学史的名称であった。この縮約された用語に影響された思想家たちにとって、重要な共通の命題のみが表現されていた。この理由は、多くのポスト構造主義者たちが代わりに広まった哲学の位置付けでなく特定の方法や知的もしくは分析的態度が問題であることに気付いていたことを強調していたからであった。

ロマーン・ヤーコブソンやフェルディナン・ド・ソシュールの古典的な構造主義の時代の差異は個々のポスト構造主義者たちによって明確に異なったものとして認識されていた。古典的な構造主義者たちの理論的もしくは方法論的前提を引き継がないと決定することによって、たいていこの区別は見受けられていた。特にクロード・レヴィ=ストロースを育んだように、このことはとりわけ文化横断的、歴史横断的、厳格で抽象的な原理に関係していた。一般的に歴史の不連続が古典的な構造主義者たち以上に強調されていた。

しばしば構造主義者によるアプローチとの関連で特に記号論、(言語的な)記号(シニフィアン)と意味(シニフィエ)の関係が問題とされ、言語的そして言説的構造の可変性に対して注意が向けられていた。したがって、意味の単位が常に以前と関連した差異(デリダの差延を参照せよ)の結果としてのみ形成されることが可能であり[1]、そのことを通じて意味における前提の形成や同時にそのことに伴う意味の形成におけるより強い不安定性や可変性を考慮せざるを得ないことを、特にデリダ派の脱構築やフーコー派の言説分析において、多くのポスト構造主義者たちは主張していた。

社会構造、知識体系、文化の形成(言説)といった大半のポスト構造主義者たちの前提は基本的に力の形成に関連しており、そのことはその妥当性や階層秩序を確立し、それに対する力関係を生み出し、その力関係を安定化させていった。したがって多くのポスト構造主義者たちにおける主要な動機は、解体(弱体化)や介入主義者による(侵入的な)実践を通じて力の秩序が変更され、少なくとも創造的な新しい位置付けのために力の秩序が用いられることを可能にすることであった。それゆえ特にカルチュラル・スタディーズを通じて分析されるように、マスメディア、大衆文化、日々の実践の分析が同様に重要な役割を担っていた。この文脈における重要な思想家たちはバーミンガム現代文化研究センターにおけるスチュアート・ホールとジョン・フィスクであった。ポストコロニアル理論やクィア理論においてさえも問題は中心的な意味における言説の力関係についての脱構築に向けられていた。

多くのポスト構造主義者たちのアプローチは隠喩、主題、合理性といったある古典的な概念に対する批判において意見が一致していた[2]。したがって伝統的にこれらの用語に関連した立場はしばしば全体主義的、父権主義的、差別主義的、自民族中心主義的、「実体論的」または「自然主義的」(「書くことが有する自然固有の性質としてのアイデンティティ」における意味で)または西洋の「ロゴス中心主義」の主張であるとして批判されていた。

いくつかのポスト構造主義のテクストにおける共通の言葉は以下のとおりであった:曖昧さ、差延、(共有された)自己、「大文字の他者」等。

2 社会史的背景

ポスト構造主義の成立に関して人文主義(ジャン=ポール・サルトルの意味で)やマルクス主義が影響を及ぼしていた。初期のポスト構造主義者たちの見解ではそれはこれらの理論と関係しており、さらに多くの問題を残していた。2つの理論は不十分な問題に対して登場し、その問題は、ソビエト社会主義における全体主義の構造に直面し、スターリニズムに反対し、革命の主題であった労働階級の喪失に直面し、「社会民主主義」、ポストコロニアリズムにおける社会運動の弱さ、エコロジーにおける新たな緊急性を表現すること、都市部の青少年の自己破壊、新たな自信を創りだす運動の展開、「反対運動」にあまり満足していない現状:女性運動、アフリカ系市民の社会運動、ゲイやレズビアンの市民社会運動、市民権運動を前にして呈されていた。

3 ポスト構造主義の異なったアプローチ

3.1 ジャック・デリダ 文字学

ジャック・デリダは特に大きな影響力のある哲学者であった。彼は彼の方法を(彼は「実践」を好んでいたが)脱構築と呼んでいた。

直接の会話において相手の固有の意図を理解できることは根拠のない間違った主張であるといったことを、彼の初期の傑作である『グラマトロジーについて』は示そうとしていた。実際このことは見過ごされたままであり、「最期の手記」の形で存在していた。とりわけ古典的な言語の理論が研究の対象であった。

同様に、個(ある個人の意図)と一般(他者の意図)は直接的に必要なものであるといったことを、彼の初期の基礎となる著作である『声と現象』は示そうとしていた。この理由として他者においては記号化される行為や評価される行為によって時間の遅れが生じることが挙げられていた。

同様にこのような差異は、なぜ言語的な区別における原則の前にある主題に関する知識が自身に与えられることができず、(理想的な方法で)理論的な結果の推量に使われることができるのかを明らかにしていた。このことを初期のデリダはデカルトの「我、思う」のシーンに対して示そうとしていた。彼の初期の論文はジークムント・フロイト、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、フェルディナン・ド・ソシュール、エマニュエル・レヴィナスと議論を交わしていた。後者はデリダの批評を(特に彼の論文である「暴力と形而上学」の中で)部分的にだが初めて有名にしていた。

デリダの後期の仕事は哲学におけるほとんど全ての分野に充てられていた。試験段階の後、彼の後期の著作は実際の政治問題を全面に押し出していた。

デリダの相手は他に、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ミシェル・フーコー、リュス・イリガライ、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・ラカン、エルネスト・ラクラウ、ジャン=フランソワ・リオタールであった。

3.2 ジャック・ラカン 精神分析学

フランスでの精神分析の発展に中心的な役割を果たしたフランスの精神分析医であるジャック・ラカンは構造主義の方法を参照しジークムント・フロイトの著作を再度読み込むことに専心し、基本的なオントロジーの影響を考慮し、数学のトポロジーに関する後期の著作でグラフモデルを無意識のプロセスを表現するために用いていた。

ラカンは錯誤や冗談に関するフロイトの理論を背景にして「言語のように」無意識が構造化されていることを強調していた。無意識の仕事は隠喩、換喩、置換、推移といった言語的な法則にしたがって生じていた。精神的な出来事に対応する要素を彼はシニフィエと呼んでいたが、言語のように構造化された象徴の世界に加えて、表象と現実が精神の世界において中心的な役割を果たしていた。実際の構造の影響や精神分析療法が言語の分野において生じていた。欲動を背景にして決定的な役割を果たす「小文字の他者」や「対象a」と対照的に権威を象徴的に示す「大文字の他者」(「父の名」を参照せよ)といった用語において示される言語や象徴に関してラカンは社会的な規範、法、権威、イデオロギーが関連している現象を考察していた。

象徴に関するラカンの考え方はマルクス主義者のアプローチに対するイデオロギーやイデオロギー上の「願望」による分析を背景にして特にルイ・アルチュセールによって補強されていた。欲動として眺めることや精神的であるが社会的な出来事に対して幻想が有する重要な役割に対する彼の発言はカルチュラル・スタディーズやビジュアル・スタディーズの分野においてより中心的な意味について新たな理論を構築することに賛同していた。ラカンの思想の主な代表者としてスロベニアの哲学者であるスラヴォイ・ジジェクがいた。

3.3 ミシェル・フーコー 言説分析

部分的に構造主義に関連しているがミシェル・フーコーによって展開された言説分析はポスト構造主義者のツールとして基礎となるものであった。フーコーによれば1990年代の言説分析は比較的限定的に使われた方法として展開していった。

それらは差し当たりフーコーの主著である『知の考古学』において展開されていた。これは『言葉と物』における「人文科学的な」知識体系の誕生、疎外のメカニズム、同時に病気と狂気の定義に対する彼の具体的な研究に続き、この疎外行為は同時に固有のアイデンティティ、健康、合理性に関する社会の自己防衛を安定なものへ変えていった。その中で既に暗黙に用いられていた方法は部分的には批評に対する回答の中でフーコーによって言説分析として明示されていた。さらに構造の分析や知識体系を確立するための条件が問題とされ、それは知識の要素を許容することやその重要性に関する固有の伝統そして所与の「言説の規則性」に関連していた。それらの時代を特定した知の枠組は「エピステーメー」といった用語に縮約されていた。全体的な意味を用いることが可能で、意思の伝達が生じうるために、規則や規範のような文脈上の要素は不可欠なものとして理解されていた。特に言説以前の枠組が考慮され、それが規則を確立する戦略や規則の関係を位置付ける戦術に対する力関係によって構造上の組織のようなものを関連付け、そのレベルをフーコーは「マイクロポリティクス」と記述していた。

1970年代後半にこの方法はカルチュラル・スタディーズ、歴史学、文学に導入されていた。それらは主題や著者を古典的な解釈学の知識の中心に据えたアプローチと比べて際立っていた。中心には著者の主題でなくその意図が存在していた。著者といった考え方の導入はより大きな言説のユニットに印を付けるためだけに存在していた。著者の主題の確立は言説に関連した歴史的なそして文化的な変遷の結果であった[3]。特に著者の概念は所有権の概念に一致していた[4]。

著者たちの代わりに、フーコーは知識体系の構造を考慮の対象とし、それは彼にその用語の可能性を与えていた。言説においてそのために選ばれた用語は統合され、それは言説以前の文化的知識を構成するための条件、特に支配と制限を受けた知識体系に言及していた。「言説」は文化的知識の全体像であり、それは発話やテクストの形式で氷山の一角として姿を現すに過ぎなかった。思考や知覚はフーコーの仮定によれば言説の秩序を通じて既に特徴付けられたものであった。真実や現実は文化的な意思表明や、真実を確立し、意思表明によって「それを聞くことができる」と示す闘争の実践によって成立していた。知識は一般的に文書においてのみ利用することが可能であったが、このことはその中にある形成された言説(エピステーメー)を分析することを可能にしていた。自己認識や社会の秩序のメカニズムは少なくとも間接的に把握可能であった。また社会はテクストや文化的な創造物の上に形成されていた。

著者といった考え方を方法論として取り出すことはフーコーによる主題の批評に従えば特別な例として説明されていた。主題はフーコーによれば自己の言説に関する利用可能な戦略の中で主題自身を設計しており、その中で自己の位置付けに関する創造的な戦術によってさまざまな集合の形を取りながらそれは利用することが可能になっていた。この動きにおいてそれはフーコーにとって問題であり、それは古典的で実体論的な主題という用語を通じて早くから制約を受けていたからであった。フーコーの後期の著作は特に自己への配慮をテーマにしており、それを彼はストア学派の理論に基づいて「セルフケア」と呼んでいた。

4 批判

ポスト構造主義はあらゆる方向同様にさまざまな立場からの個々の代表者たちによって批判されていた。ユルゲン・ハーバーマス[5]やマンフレッド・フランク[6]による反対やアラン・ソーカルによる実験が有名な例であった:これはある雑誌で起こり、それはポスト構造主義的な理論の形成を支援していたおり、その雑誌がある論文を公表し、それはポスト構造主義の文章の固有のスタイルに支持されたものであったが、その論文は無意味な内容しか含んでおらず、ソーカルによって知的誠実さを欠落した論文であることが示されることとなった。

1949年4月11日のICJの見解によれば、あらゆる法システムにおける法の主体は必然的にその法の性質や範囲において同一ではなく、その法の性質はその社会の必要性に依存しているとされ、1815年以来徐々に新たな主体になりつつあった国際機関と共に協調する必要性を背景にして国連が国際法の主体となり、他の国際機関に主体が拡大され、人権を擁護する国際法のシステムの中で個人がますます重要な役割を担うようになっていた。

そして国際公法の法典は存在しておらず、成文化されているか否かに関して異なった法源の間におけるハイアラーキーしか存在しておらず、このことは国際的に確立された法的秩序が存在していないことの結果であるかもしれなかったが、国際法におけるさまざまな法源は国際司法裁判所規程の第38条に記されていた。

法の一般原則またはPGDは国際的な裁判官や仲裁人が新たに設けずに適用できる法の規則であり、権利濫用の禁止、当事者の平等、既判力、誰しも自身に関することで裁判官になることはできないといった国内法から引き出されており、これはイギリス法の禁反言の法理にも対応しており、1962年6月15日にICJによってプレアビヒア遺跡の領有権問題に関して、法に反して以前に当事者によって採用された立場に反しているならば、その当事者の言動における承認できない異議申し立てに反対してもよいといったことが述べられていた。また国際公法特有のPGDとして、合意は拘束する、国家間の平等、国家は近隣諸国に干渉する可能性がある活動をその領域内で許すべきではないといったことが挙げられていた。

ジェラルド・フィッツモーリス卿によれば、もしお互いに補完し合わなければ、法と平等は正義を達成することができず、平等にはバランスを保つ要因となる可能性があり、キケロによれば、理の高じたるは非の一倍であり、過度な法の整備は不正義をもたらすものであり、法は終わりなく残されてはならないものであった。

1969年の条約法に関するウィーン条約は第53条や第64条の中で国際的な規範におけるハイアラーキーを認識しているように想定され、強行規範と呼ばれているものによって正当化され、強行規範を有している規範は義務的であり、他の国際規範よりも優越されるように想定され、例えばジェノサイドの禁止は強行規範に含まれるように想定される可能性が存在していた。

ハンス・ケルゼンによれば、国内法を国際法が支配する可能性や、国際法を憲法のようなある特定の国内規範が従属させる可能性が指摘されており、ジョルジュ・セルはこの立場にあったが別の方法を正当化していたが、ハインリッヒ・トリーペルやディオニシオ・アンツィロッティによれば、国際法や国内法は2つの分離された法秩序であって、一方は国家や国際組織を主体にしており、他方は個人に対してのみ適用されるので、分離が可能であるとされていた。

1969年のウィーン条約の第27条によれば、国際的な義務を回避するためにいかなる国家も国内法の規則を援用することはできないとされていたが、このことは裁判官が国内法の規則を無効にすることを意味しておらず、国際レベルでそれが効力を有する際に、単にその効力を無効にするだけだった。

したがってノッテボーム事件において、ICJは、グアテマラ当局はリヒテンシュタインの国籍を取得したこの国の市民をドイツ人としてみなすことができ、この新しい国籍は効力を有しないとみなすことができると述べていた。そうすることでICJは、ノッテボーム氏からリヒテンシュタインの国籍を剥奪し、それゆえこの国による規範や行為を無効にしていないが、グアテマラのような他国におけるその適用を不可能にしていたとされていた。

1946年のフランス憲法の前文に、フランス共和国は伝統に対して忠実であり、国際公法の規則を遵守するといったことが記載されていることから、合意は拘束するといった規則が示されており、それは国際慣習を含んでいたが、1958年憲法の第55条によれば、条約が他国によって批准され、承認され、公布され、適用される必要が存在していた。ドイツやイタリアでは同様に国際慣習は直接適用可能であったが、条約に効力をもたせるために法律の制定を必要としていた。フランスでは条約は法律に優越する効力を有しており、判例は徐々にそれらが批准後に制定された法に優越されることを示していたが、ドイツやイタリアでは条約は法律と同じ効力を有しており、原則として単なる法律によって繰り返し言及されるだけであった。

イギリスでは慣習を含む国際法はブラックストンの学説の下に適用されており、競合が発生した場合には国内法が優越されていた。もし1998年の欧州人権条約が直接適用されるならば、それをイギリスの人権法の中に統合するための法律が必要とされていた。アメリカでは正確で条件を付されていない条約はそれ以前の法律に優越されるが、その後の法律との関係は議会の意思に依存していた。

法律以上の存在である条約と憲法の関係は複雑であり、フランスでは国務院の判例によれば、フランスによって署名された条約とは関係なく憲法は国内法に適用されるべきであるとされていたが、憲法評議会は、特定の規則を対象にした欧州共同体法を遵守しているかを検証する必要はないと考えており、ベルギーでは破毀院や国務院での判例は条約が憲法に優越することを確立していたが、憲法裁判所はベルギーが憲法に反した条約を締結することができないと考えていた。

アメリカ法の域外適用はキューバ、リビア、イランへの禁輸措置の法律であるダマト法やヘルムズ・バートン法を通じて具体化され、これらの法律の域外適用によってアメリカ企業であれ他国の企業であれこれらの国々に投資する企業はすべてアメリカの裁判所によって処分される可能性が存在しており、1999年2月11日にEU議会の代表団によって提出されたアメリカとEUの経済関係に関するレポートはアメリカの法律の域外適用に関して問題を投げ掛けていた。

紛争を解決する裁判所にとっては紛争当事国が明示的に裁判所の決定を信任する必要が存在しており、それは選択的な裁判管轄条項として考えられており、それは仲裁条項との関連で理解されていたが、条約に含まれる裁判所の管轄権を信任することを宣言することや裁判所の資格を一般的に信任することを宣言することは稀であり、しばしば多くの留保を抱えており、常任理事国ではイギリスだけがこのような宣言に署名しており、アメリカはニカラグアのコントラ事件の後その宣言を撤回しており、フランスは核実験の後にその宣言を撤回しており、そのような合意の適用はそれに拘束される国々の意思に大きく依存していた。

国際紛争における平和的な解決のための交渉、調停、仲裁や司法的解決は結局のところ国家による対抗措置を導くかもしれず、この法は必然的に保障されたものではなく、ICJの判決を遵守することを拒否した場合には、損害を被った国家は初めに安全保障理事会に事件を付託しなければならなかったが、国際刑事法に関してはこれと明確に異なり、ローマ規程が人道に対する罪に対して国際刑事裁判所を創設していた。

強大な国家によって課される対抗措置が政治的もしくは経済的に弱い国家によって課される措置より効果的であることは明白であり、実際のところ強い国家のみが署名された合意を実行に移すことが可能であり、法の支配といった概念は国際関係には完全には当てはまっておらず、国際法は適者生存の論理が姿を変えただけであるように思われていたが、外交関係の重みや世界におけるその姿が国家に与える意味を無視することはできず、国家にはその義務を遵守するインセンティブが存在していた。

強力な実定法のシステムを有する国家において国際法は合憲性の中に姿を表す憲法上の権利に依存しており、規範のハイアラーキーにおけるより低い水準にある法律に対して課されるものであった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、国連安保理決議第1373号、テロ対策委員会、国連安保理決議第1540号によれば、テロとの闘いを全ての加盟国に影響を及ぼす適用可能な法として説明することやいわゆる強行規範を導入することはまだ全ての国連加盟国によって認められていなかった。そして安全保障理事会の概念は行政機関としての役割を期待されておらず、個々の紛争に対する解決を処理すべきであり、世界立法府として振る舞うべきではないといった懐疑的な見解が示されていた。

国際法の主体は本質的には国家であり、ゲオルグ・イェリネックの三要素によれば領土、国民、主権からなる3つの特徴が国家を構成していたが、今日の国際法の主体は国家や国際組織によって設立される国際機関を含む可能性が存在しており、NGOは基本的に国際的な法人格を有していなかったが、ますます多くの多国籍企業、NGO、個人が国際的な権利と義務に関わっており、歴史的理由から赤十字国際委員会やマルタ騎士団は国際法の独立した主体であった。

法の一般原則はあらゆる国内の法秩序から構成されており、その固有の法秩序には、例えば合意は拘束すること、特別法は一般法に優先すること、後法が前法を廃止すること、矛盾行為禁止原則等が挙げられ、それらに国際法の特徴や法理の原則は依存していた。

ドイツではドイツ連邦共和国基本法第25条第1項に従って慣習国際法と法の一般原則は直接適用が可能であり、連邦法より上位に位置しており、ドイツ基本法第59条第2項によれば、国際条約は変形を必要としており、一般的には国内の批准によってその規則の中に包含され、それは連邦法より上位に位置していた。

国際刑事裁判所またはICCに関して139ヶ国によって1998年7月17日に採択されたローマ規程の批准を通じて、国際法の規範や条約を引き合いに出すことが認められており、ICCの規範は国際法における私法と公法に関してローマ法の精神を導入しており、そこで強行規範といった規範のハイアラーキーを強調していた。ICCにおける訴訟はドイツでは裁判所構成法第21条によって効力を有し、ICCの規範は刑事訴訟法第100条第a項の中に挿入されていた。

近代国際法の重要な側面の1つは戦争の放棄であるが、第一次世界大戦によって蔑ろにされていたが、戦後になって初めて関係各国の間におけるケロッグ=ブリアン条約または不戦条約の中で合意されることになり、それ以前は戦時になると残虐行為に歯止めをかけ市民を守る試みにおいて国際法はそれ自体の役割を制限しており、国際連盟や国際連合を通じて初めて共同の国際機関が創設され、それは全ての国家に義務を求める国際法を遵守することを求めていた。

国際法における規範は神の意思や理性等を法源にする自然法から生じており、主意主義的理論は、その時その時の法規範に賛同する国際法の主体の意思にそれらを帰していた。ヘーゲルやエーリッヒ・カウフマンによれば部分的には国家のコミットメントに、トリーペルによれば部分的には国家における合意にそれは合わせたものであった。ハンス・ケルゼンはそれを仮想の基本的な規範に戻し、そのことは他の研究者たちによって純粋なフィクションであるとして批判されることになり、彼の著作によれば、当事者の意思に依存する便利なフィクションにすべての法秩序の妥当性は依存しているので、それはまさしく純粋なフィクションであり、この自己満足は非論理的であるかもしれなかったと述べられていた。他方ジョルジュ・セルのように社会学的なアプローチは人間の社会的性質や人々における自然な社会的連帯に焦点を当てていた。

国際法の法的性質は多くの研究者たちによって議論されていた。H・L・A・ハートは確かに国際法の法的性質を否定していなかったが、一次的ルールに対してそれを保持しているのみで、少なくとも彼の時代において一般的に認められた二次的ルール(承認のルール)に対してそれを欠いていると主張していた。今日一部のアメリカの研究者たちは国際法の規範性を否定しており、ニューヘブン学派は国際法における限定的な規範性を認めており、ジャック・ゴールドスミスやエリック・A・ポズナー他のような法の経済分析の支持者がかなり存在していた。彼らによれば国際法は純粋に随伴現象的であり、その安全やそのパワーを増大させることに関心を抱いている国家の行動が慣習法を支えているならば、これは国家の関心に影響を及ぼさないとされ、国家はその評判が損なわれることに対して一切の憂慮を抱いていないとされていた。ジョエル・トラハトマンやアンドリュー・グスマンによれば、特定の状況において国際法は国家の行動に対して一定の影響力を有し、潜在的に違法行為を許容する国家は少なくともその評判が失われることを考慮の対象にすると結論づけられ、国際法は限定的ではあるけれども規範性を有しているとされていた。一部の批判法学は覇権的なパワー・ポリティクスの姿を粉飾する操作が行われていることを認めており、懐疑論に対してその規範的な理由を与えていた。

大陸ヨーロッパではそれに対して国家間の合意に基づいた法実証主義を基礎としており、国際法の規範性は問題とされていなかった。

国際社会に関する議論は2001年から現在に至る国連国際法委員会における国家責任条文第33条第1項等におけるこれらの用語の使用を通じてなされており、国際社会の存在は人権や環境保護のような共通の価値観から導かれる法秩序から派生しており、その共通の価値観の存在は規範のハイアラーキーに対する根拠やその意思に反する国家の義務が生じることに対する通説を与えており、それは古典的な解釈によれば国家間の協調や国際法に一致した協調に関して考えられないことであった。

国際法の憲法化については、国際関係の入り組んだネットワークに基づいた国家の憲法は、それは国家に内包されているものの、今日の国家における政府の法的基盤を部分的に表現しており、国家の憲法は国際法秩序の関与の下でのみ理解されることが可能であるとの視点と、規範のハイアラーキーや国連憲章が有する憲法的な性格に対する問題のように憲法が国際法におけるさまざまな展開を許容し、そこで憲法の要素が取り決められているとの視点に基づいていた。通説における含意は、どの程度国家は国内管轄事項を有するのかや投票行動を通じて法の抵触が解決されてもよいものかといった問題における憲法化における議論を含んでいた。

これらの大陸ヨーロッパで行われている2つの議論にともない、相当数存在している懐疑論について見過ごすことはできず、多くは国家の中に国際法の中心となる主体を見出していたが、国際社会の制度的弱さのみならず国際法の中に価値判断を示す要素を導入することを含む恣意性のリスクについても指摘が行われていた。

また国際法はますます断片化の方向へ向かうのかといったことが問題視されており、第一にそれは国際取引法、国際環境法、投資保護法、人権のような法の抵触が増加するさまざまな国際レジームから生じ、第二にそれは管轄領域の重複をともなう国際司法裁判所や仲裁裁判所から生じており、MOX工場事件における国際海洋法裁判所と欧州司法裁判所における管轄権争いや非国家主体の行動の帰属事件における国際司法裁判所と旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷における異なった判決に繋がっており、2006年に国連国際法委員会は法の抵触の取り扱いに関する報告を採択していた。

人道的介入について多くの意見は非常に政治的に色付けされているだけでなく、特に度重なる混乱が生じていた。第一に自国民を救助する介入と他国民を救助する介入が区別されていた。外国領土で自国民を救助する介入は完全には認容しがたいものとして部分的には見なされており、国家による国際法違反であれば、そこで外国人は抑留されることになるが、介入が外国の国家による暴力ではなく犯罪組織を目標に据えたものであるならば、正当な根拠があるとの視点が存在していた。他方、他国民を救助する人道的介入については安全保障理事会によって決議されたものとその決議を受けていないものは区別されなければならなかった。

国連憲章は安全保障理事会に世界平和に対する脅威として認定される国家の行動に対して最終的には軍事的制裁を課す権限を与えていた。ジェノサイドの禁止は強行規範に含まれ、国際法上の義務的な規範になったが、それは常に全ての国際社会に関係しており、同様のことは基本的人権に対する深刻な侵害にも当てはまっていた。

しかしながら特に常任理事国の拒否権や政治的状況によって安全保障理事会はしばしば議決不能に陥ることがあり、国家は安全保障理事会の機能が麻痺した状況で最後の手段として単独または多国間による武力の使用を行うことが可能であるのかといった問題を生じさせていたが、ある見解は暴力の禁止や虐待の危険性に対する武力の使用を断定的に否定しており、それに対する反論は、ジェノサイドを傍観することを言い渡す法秩序は存在していないといった自然法の基盤によって、国連憲章における暴力の禁止に関する目的論に基づいた制限によって、国連憲章の上位にある慣習法や国民の自己決定権によって、まさに生じているジェノサイドに関して、安全保障理事会の決定がなくとも単独あるいは多国間による人道的介入を正当化しており、これらは部分的に国際法の主体としての性格を与えており、このことによって他に救済を求めることが可能であった。

またアデンによれば、人間は国際法の主体であり、そのようなものとして国際法上の権利や義務を有しているといった指摘がなされており、この理論によれば、明示的な国際条約がないときでさえ、人間にとっての公共財を損ない、排他的にそれを要求することは違法であり、全ての個人はどの出自であろうとも同一の法的保護や公平な裁判官、公正な意見聴取、スムーズな手続き等といったある枠組みにおける最低限のルールを享受することを、どの国家に対しても人はそのようなものとして主張できることが指摘されていた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランスとドイツのWikipediaの「国際公法」、「国際法」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Droit_international_public

国際公法

国際法は国家や国際機関のような法システムの主体間の関係を規定していた。この法律の法源は条約や慣習であった。特別な法源は国際慣習、法の一般原則、判例、最も優秀な国際法学者の学説を示していた。

国際法は2つのカテゴリーに分けることができ、1つは国際公法であり、他方はさまざまな国籍の人々の間の関係を規定する国際私法であった。単に国際法と言うときに、それは通常国際公法を指していた。

伝統的に国際法の主体は国家のみであったが、過去百年における国際機関の多様化はそれらを国際法の主体として認識するようになっていた。

国際人道法、人権、国際取引法における最近の発展は個人や国境を超える組織が国際公法の主体として認識される可能性があることを示唆していた。人権、国際人道法、国際取引法同様に、国際法の主体のみがこの法の規則を生み出し、適用し、その違反に対して責任を負うことが可能であるので、この解釈は伝統的な国際法の正当性に反するものであった。それゆえ今日国際法システムの主体として自然人や法人を認識することは容易なことではなかった。

1 歴史的起源

もし国際法が主に近代の創造物であるならば、古代における法的な国際関係を見出すことが可能であった。

1.1 古代

古代において国家間の関係はパワーによって本質的に支配されていたけれども、国際関係における法が一定程度確認されていた。最初の国際条約の1つは紀元前1300年頃のエジプトのファラオであるラムセス二世とヒッタイトの王との間で締結されたパーリイ条約(平和条約)であった。この条約は特に「政治難民」の引渡と不可侵において合意しており、各々の国々におけるさまざまな神々に対する信仰に基づいていた[1]。

ギリシアの都市は戦争捕虜の取扱いに関する規則を定め、聖域であるデルファイの管理のような機能を共同で管理していた。

ガイウスと共にローマ人は人類の全てに適用される万民法を考案していた。しかし国内における外国人たちの取扱いと保護を対象としていたので、それは今日理解されているような国際公法ではなかった。

1.2 中世

中世のヨーロッパはキリスト教のコミュニティによって近代と基本的に異なっており、国家の主権と平等の絶対性が存在していなかった。しかしA.D.1000年以降、国際関係は発展し、交易や大使の交換に関する規則を発展させる必要性に直面していた。理論上、異教徒に対する場合を除いて、戦争の危険性は神の名の下における停戦や神の名の下における平和のような規範によって低減させられていた。

1.3 ルネサンスと近代

国際法の形成に寄与した指導的な人々の中には次のような人々が含まれていた。

フランシスコ・デ・ビトリア(1483-1546)はアメリカの発見に起因する状況に関心を抱いていた。

フランシスコ・スアレス(1548-1617)は、国際社会の道徳的基盤はキリスト教による慈善活動にあり、国家の正当性は道徳や法律によって制限されるといった原理を導入していた。

フーゴー・グローティウス(1583-1645)は現代の国際法に対しておそらく最も影響力を有していた。彼は国際法における体系的な原理を示していた。彼は自然法(人間の常識)と自由意志に基づく法(万民法)、つまり全ての国々もしくは大多数の国々の自発性と義務を生じさせる法を区別していた。

同様にアルベリコ・ジェンティーリ、エメール・ド・ヴァッテル、ザミュエル・フォン・プーフェンドルフに言及することも可能であった。

近代国家の構成要素は特にイギリスやフランスで採用されており、系統立てられた力は各制度に存在しており、その保持者、国民、領土同様に人に対して存在している訳ではなかった。協調を促し国家を共存させるために、著者たちは条約を尊重する必要性を導き出していた(合意は拘束する)。しかしながらグローティウスのような著者たちにとって戦争は可能な選択肢のままであった。

1648年のウェストファリア条約はヨーロッパ諸国における主権の平等や近代国際法の基本原則を認めていた。

2 国際公法の主体

国際法の主体はこの法に義務を負い、それを使用することができねばならなかった。元来、国家は国際法の唯一の主体であった(ケルゼンによれば、国際法の唯一の主体は国家であった)。

1949年4月11日の国際司法裁判所の見解によれば、「あらゆる法システムにおける法の主体は必然的にその法の性質や範囲において同一ではなく、その法の性質はその社会の必要性に依存していた」。

しかし確かに国家は元々の主体であったけれども、1815年以来徐々に新たな主体になりつつあった国際機関と共に協調する必要性を感じていたので、この考え方は過去のものとなっていた。国連は国際法の主体となり、その後他の国際機関に主体が拡大されていった。

人権を擁護する国際法のシステムの中で、個人はますます重要な役割を担うようになっていった。

国際法の枠組みにおける国家

国際機関

国際法の枠組みにおける個人

3 国際法の法源

国際公法の法典は存在しておらず、成文化されているか否かに関して異なった法源の間におけるハイアラーキーしか存在していなかった。国際紛争における国連の役割にもかかわらず、このことは国際的に確立された法的秩序が存在していないことの結果であるかもしれなかった。

国際法におけるさまざまな法源は国際司法裁判所規程の第38条に記されていた。

提出された紛争を国際法に従って解決する国際司法裁判所は以下の事項を適用する。

国際的条約は一般的であれ特定的であれ紛争当事国によって明白に認識される規則を確立する。

国際慣習は法として容認される一般慣行であることを示す証拠である。

法の一般的な原則は文明国によって認識されている。

第59条の規定によれば、さまざまな国々の司法判断や最も優秀な国際法学者の学説を法の規則の補助として用いている。

もし当事者が合意するならばそれは正しく衡平に扱われ、この規程は国際司法裁判所の権限に関与しない。

この規程によれば、2種類の法源に区別することが可能であった。

成文化されていない法源は、平等のような法の一般原則であり、成文化された法源は条約、国家や国際組織や裁判所による単独行為、国際裁判であった。

3.1 成文化されていない法源

3.1.1 慣習

慣習の構成要素は、一般慣行、法的効力をもつ慣行、言い換えると国際社会のメンバーによって繰り返され、類似の方法で達成された、多様に解釈されないさまざまな法律行為の集合、そして心理的要素であるが法的確信、言い換えると法の規則を順守することから成り立っていた。ディオニシオ・アンツィロッティによれば「国際関係において国家が現在実際に行なっているような法的慣習が存在しており、国家はそれを強制されていると考えていた」。

慣習が不文法の法源であるといった事実はその強制力に疑念を投げ掛けていた。言い換えれば、どのように慣習が存在することを証明するのかといった問題につながっていた。慣習法を示す方法は多様であった:外交文書(暗号や外電等)、国際司法裁判所や常設仲裁裁判所における判決(ICJ、1969年2月20日、北海大陸棚事件:等距離原則は国家に対する慣習法ではない)。

一般的な慣習において立証責任は原告側にあった。しかしながらもしそれが証明されているならば原告が裁判所に対して慣習を示すことは不必要である可能性が存在していた(ICJ、1950年11月20日、庇護事件(ペルー対コロンビア)。さらに物質的な要素(一般慣行)が確立されているときに、心理的要素(法的確信)が生じる可能性が存在していた(ICJ、1959年3月21日、インターハンデル事件(アメリカ対スイス))。

地域間や二国間の慣習においてそれらが明白でないために、立証責任は厳密には原告側に存在していた。上記の亡命の権利に関する事件において国際司法裁判所は以下のように述べていた。「慣習に基づく原告は[ ... ]それが構成されていることを証明しなければならず、したがってそれは被告に対する義務であった[ ... ]それは一定の援用に則しており[ ... ]疑念を呈されながらも国家によって行動されており、この援用は国家に属する権利を反映し、亡命と国家に対する義務を与えるものである」。

さらにこのことに「合意に含まれる慣習法の原則はそれらが慣習法の原則として存在していないことを意味していない(ICJ、1986年、国境近辺での軍事活動)」が付け加えられていた。

1899年における戦争の法規に関する最初の法典化以来、慣習の法典化の問題が生じていた。それは20世紀後半以降、国連等の登場により加速されていた。1947年11月15日の国連総会によって設立された国連国際法委員会の規定第15条によれば「国際法を法典化する表現が採用され[ ... ]国家慣習、判例、学説が既に存在している分野での国際法の規則を体系化し、より高い精度で定式化し、事件をカバーする」ことが示されていた。ジョルジュ・アビザーブによれば法典化は「法律的に必要な活動」であった。

慣習国際法の法典化は法の規則の意味を明白に確立し、司法的な規則の断片化を防ぐ利点を有していた。しかしながら成文法は融通が利かず、法の規則の変更を困難にしていることが指摘されるべきであった。さらに極端に手間がかかり、失敗のリスクが高かった。

この法典化は着手される可能性を有していた。

国家自身(ハーグでの第1回会議における戦争問題の法に関する法典化(万国平和会議とも呼ばれる)はロシア皇帝のニコライ2世の意思を継いで開催されていた)。

国連のような国際機関:1924年に法律家委員会を創設し、それは法典化できる分野を定めていった。そして1927年に3つの大きな分野(領海、外国人の被害に対する国家の義務、国籍)が選択された。その後1947年に国連国際法委員会が前身となる委員会の後を引き継いだ。

今日5つの大きな分野が法典化されていた。

1958年のジュネーヴ四条約とともにある平時における海洋法や1994年11月16日に発効したモンテゴ・ベイでの国連海洋法条約。

1954年9月28日のニューヨーク条約後の無国籍。

1961年(外交任務)、1964年(領事任務)、1975年(NGOとの国際関係)におけるウィーン条約に関する国家の代表権。

1969年5月23日の条約法に関するウィーン条約や1975年の条約に関する国家承継に関するウィーン条約における条約法。

軍備に関する条約のような前述のハーグ会議に関する戦争の法と2001年の国際違法行為に対する国家の責任条約。

3.1.2 法の一般原則

PGDもしくは法の一般原則は国際的な裁判官や仲裁人が新たに設けずに適用できる法の規則であった。学説はPGDが国際法における独立したもしくは直接の法源かどうかで分かれていた。私たちは2種類のPGDを区別することが可能であった。

それは司法手続きや技術に関する国内法から引き出されていた(権利濫用の禁止、当事者の平等、既判力、誰しも自身に関することで裁判官になることはできないこと等)。PGDは単一の法システムから引き出されている可能性が存在していた:これはイギリス法の禁反言の法理に対応していた。ICJ(国際司法裁判所、1962年6月15日、プレアビヒア遺跡の領有権問題、タイ対カンボジア)は基本的に以下のように述べていた。「法に反して以前に当事者によって採用された立場に反しているならば、その当事者の言動における承認できない異議申し立てに反対してもよい」。

国際公法特有のPGDとして、合意は拘束する、国家間の平等、国家は近隣諸国に干渉する可能性がある活動をその領域内で許すべきではないといったことが挙げられていた。

3.1.3 平等

平等は個々の事件における正義の原則の適用のように自然的正義として定義されていた。平等は実定法を補完することが可能であった:

国際私法における隙間が存在していた(特に20世紀に)。

法の規則が裁かれるべき問題との関係で非常に抽象的になっていた。

紛争が厳密には法的問題でなく、仲裁に頼っていた。

ジェラルド・フィッツモーリス卿にとって、もしお互いに補完し合わなければ、法と平等は正義を達成することができなかった。また平等はバランスを保つ要因となる可能性があった。キケロによれば「理の高じたるは非の一倍」であり、過度な法の整備は最悪の不正義をもたらすものであった。このように法は終わりなく残されてはならないものであった。

3.2 条約

1969年5月23日に採択された条約法条約の第2条第1項第a号によれば「条約という用語は文書の形式で国家間において締結され、国際法によって規律された国際的な合意であり、単一の文書であるか複数の関連する文書であるかを問わず、その特定の名称を問うものでもなかった」。

条約にはいくつかの種類があり、1つは国際法における2つの主体の間で締結される二国間条約であり、他方は2つ以上の主体の間で締結される多国間条約である。条約には多くの呼称があり、組織を創設したとき憲章、軍事同盟を結んだとき協定、追加もしくは補正を意図した条約をプロトコル、国家と教皇庁との間の条約を政教条約と呼んでいた。

条約には第2条第1項第d号で定義される留保があり、「自国への適用において条約の特定の規定に関する法的効果を排除し変更する目的で、署名、批准、受諾、条約への加入の際に国家によってなされる単独の声明」を指していた。留保を行うことは常に可能であり(ICJ、1951年5月28日、集団殺害罪の防止および処罰に関する条約では「多国間条約を促進するためならば、大原則はいくつかの国家が留保することを必要としているかもしれない」とされていた)。しかし私たちは条約の主体や目的を考慮することを除外するかどうかに対して個々に調整しなければならなかった。ある条約は留保を禁止されており、運用上の性質(条約を遵守することが意図されている)ために最終規定が留保を受け付けないこともあった。留保を付した国家による通知から12ヶ月以内に留保に対する異議申し立ての声明がない場合には、留保は受諾されたものとみなされていた。

3.3 単独行為

3.3.1 国家

国家による単独行為は国家元首、政府の長、外務大臣によってなされる文書もしくは口頭での発言になる。他の閣僚の発言は除外されている(ICJ、1953年11月17日、マンキエ諸島とエクレウ諸島:フランスの海軍大臣の発言はフランスの国家に関連しているが、単独行為ではない)。私たちはいくつかの種類の単独行為を区別することが可能であった:

通告は行為であり、それによって国家は他の国家に法的結果を伴うかもしれない事実を知らさなければならなかった。

認定はある意思の宣言であり、それによって国家は他国による妨げをもたらす事実、状況、主張を考慮していることを示していた。例えば、国家、政府、戦争への波及に対する認定が挙げられていた。認定が強行規範(国際公法における絶対的な規範)に反していない限り、認定が覆ることはなかった。認定は明示もしくは暗示、口頭もしくは文書による可能性が存在していた。

他国に対して危険な状況になることを理由にして、抗議は明示される必要があった。それは抗議を主張する主体にとってある行為を実施することが不可能な状況を与えていた。

約束には約束する主体しか含まれていなかった。そしてむしろ人は言質や保証に言及していた。

放棄は国家による権利の喪失を示し、それゆえ推定することはできず、表明されねばならず、不明瞭に繰り返される行為から生じる可能性が存在していた。

3.3.2 国際組織

3.3.2.1 拘束力を有する行為

異なった名称があっても一定の範囲に収まっている行為が存在していた。国際機関の行為はいくつかの分野において拘束力を適用されていた:

組織の内規(例えば、内部規定):これらの行為はその組織やメンバーに対して比較的限定的であった。

目標の実現(予算等)。

国家に対して主張される行為。

合意を必要とするので、拘束力は限定的であった。さらに国家による棄権はそれが拘束されていないことを示していた。そして効果的な制裁のシステムは存在していなかった。

3.3.2.2 拘束力をもたない行為

それらは勧告のための価値観であり、ある見解であり、ある決議であった。それらはさらに政治的な機能を有しており、国際協調の要素であったが、拘束力を有していないがゆえにそれ程効果的ではなかった。万国国際法学会によれば、1987年9月17日のカイロでのセッションにおいて「国連憲章は相互の関係において国家を拘束する規則を採用する権限を付与していないけれども、国連総会は国際法、その統合、法典化の発展に寄与する勧告を行うことが可能であった。この可能性はさまざまな種類の決議を通じて実現されていた」ことが指摘されていた。

いくつかの種類の決議が存在していた:

一般的な規則を形成する行為。

これらの規則を適用する行為。

国家に対して勧告を行う行為。

国際的な条約を促すための下地を形成する行為。

3.3.3 司法と国際法廷

3.3.3.1 決定と判決

それらは最終的な決定であった:そのことは通常国際司法裁判所規程に記されていた(ICJ、第60条:「判決は終結であり、上訴を許さない。判決の意義や範囲について異議申し立てがあれば、裁判所はいずれかの当事者の要請によってこれを解釈する」)。判決に対する解釈を要請することは可能であった。救済の申し立ての存在は国際秩序の存在を前提としているが、法令は審判手続きを提供することにおいて可能であった。そして欧州人権裁判所に言及がなされるべきであった。国際刑事裁判所に関して、それは予備的審理、第一審、控訴審を有していた。判決は拘束力を有し、既判力の原理によって、それらは当事者たちの間において効力を有していた[2]。しかしながらこれは体系化されていなかった。

3.3.3.2 勧告的意見

それらは国際司法裁判所(国連憲章の第96条)や欧州人権裁判所(追加議定書である第11議定書や第4、6、7、12、13議定書によって修正された欧州人権条約の第47条から第49条)に提起された法的問題を取扱っていた。

学説や判例も国際法における副次的な2つの法源であった[3]。

3.4 国際法における法源のハイアラーキー

原則としてこれらの法源の間におけるハイアラーキーは存在していないが、1969年の条約法に関するウィーン条約は第53条や第64条の中で国際的な規範におけるハイアラーキーを認識しているように想定されていた。このハイアラーキーは国際弁護士が強行規範と呼んでいるものによって正当化されていた。強行規範を有している規範は義務的であり、他の国際規範よりも優越されるように想定されていた。例えばジェノサイドの禁止は強行規範に含まれるように想定される可能性が存在していた[4]。

3.5 国際的な条約の創設

国際的な条約の創設は以下の3つの方法を通じて行われ、それは蓄積を要するものであった:

交渉:国家は交渉に必要な全権を与えられた個人である全権委員によって代表されていた。例えば外務大臣や共和国における大統領であった。

署名:一般的には大臣級の行為であった。これは大抵署名を指すが、署名でない場合も存在していた。このレベルでは単純化された形式の条約を除いて国家はまだ約束している訳ではなかった。

批准:議会による批准を示す法律を通じてなされていた。文面には効力が存在し、国家はそれを遵守することを約束していた。

加入:論理的に多国間条約のみを指していた。それはダブル・ディグリー(署名と批准)といった標準的な手続きによって条約を採択することと同じ特徴を有していたが、国家が部分的に署名から生じる権利と義務を有している点に違いが存在していた。

4 国際法と国内法の関係

国際法と国内法の共存はハイアラーキーといった関係の可能性について問題を生じさせるものであった:2つの規範の内1つが他より優越されるべきであろうか。ここには2つの理論的な立場が存在していた:

一元論者の立場:ハンス・ケルゼンによって理論化されたピラミッド型の組織の規範における原則によって組織された単一の法秩序の中に、国際法の規則と国内法の規則が共存していた。この組織化は国内法を国際法が支配する可能性や、反対に国際法を憲法のようなある特定の国内規範や国内法に従属させる可能性に言及していた。ジョルジュ・セルはこの立場にあったが、ハンス・ケルゼンとは別の方法を正当化していた。

二元論者の立場はハインリッヒ・トリーペルやディオニシオ・アンツィロッティによって前提とされていた:国際法や国内法は2つの分離された法秩序であって、一方が他方に従属する関係は存在していなかった。一方は国家や国際組織を主体にしており、他方は個人に対してのみ適用されるので、分離は可能であった。

したがってイタリアで署名され批准された国際的な条約は国内法によって引き継がれる必要があり(二元論)、それゆえ国内の法秩序にそれらを統合する法律の承認が存在していた(一元論):それらはこの場合において国内法に対して優越される特定の立場を有していた。

実際国内法における複数のレベルや国際的な司法権と国内の司法権における二重性を考慮する必要が存在していた。そしていくつかの解決が引き出されていた。

4.1 国際機関の視点

一貫して司法裁判所や仲裁裁判所は国際的な義務を回避するためにいかなる国家も国内法の規則を援用することはできないと国際的に考えてきた。このことは1969年のウィーン条約(第27条)によって示されていた。したがって国内法の規則に矛盾していようとも、国際法は当該国家に対して課せられたものであった。このことは裁判官が国内法の規則を無効にすることを意味していなかった。国際レベルでそれが効力を有する際に、単にその効力を無効にするだけだった。

したがってノッテボーム事件[5]において、国際司法裁判所は、グアテマラ当局はリヒテンシュタインの国籍を取得したこの国の市民をドイツ人としてみなすことができ、この新しい国籍は効力を有しないとみなすことができると述べていた。そうすることで国際司法裁判所は、ノッテボーム氏からリヒテンシュタインの国籍を剥奪し、それゆえこの国による規範や行為を無効にしていないが、グアテマラのような他国への適用を不可能にしていたとみなしていた。

国際法廷は彼らの決定を国際法に委ねていた。それらは当該国の国内法に委ねられているとは考えておらず、憲法レベルを含めて、それを多くの中にある評価の一要素としか解釈されていなかった。

4.2 国家と国内法の視点

考慮された規範(憲法、法律、慣習)のレベルに応じたさまざまな実践や体制:国際的な規則を優越させ、それは後に文書によって法律に含まれ、単に国内の規範と平等に認識されていた。

4.2.1 国際法と国内法

一般的に国家は国内法における国際法の適用可能性を認識していた。したがって合意は拘束するという規則が1946年のフランス憲法の前文に記載され、それは今なお憲法の規則のままであった:「フランス共和国は伝統に対して忠実であり、国際公法の規則を遵守する」といった枠組みは国際慣習を含んでいた。しかしながら条約は他国によって批准され、承認され、公布され、適用されねばならなかった(1958年憲法の第55条)。ドイツやイタリアでは同様に国際慣習は直接適用可能であったが、条約に効力をもたせるために法律の制定を必要としていた。ある場合における批准と他における法律の制定の間の区別は規範の強さに依存していた。フランスでは条約は法律に優越する効力を有しており、判例は徐々にそれらが批准後に制定された法に優越されることを認識していった[6]。ドイツやイタリアではしかしながら条約は法律と同じ効力を有しており、原則として単なる法律によって繰り返し言及されるだけであった。

イギリスでは慣習を含む国際法はブラックストンの学説の下に適用されていた(1765年)。しかし競合が発生した場合には国内法が優越されていた。もし条約が直接適用されるならば、例えば1998年の欧州人権条約をイギリスの人権法の中に統合するための法律が必要とされていた。アメリカでは正確で条件を付されていない条約はそれ以前の法律に優越されるが、その後の法律との関係は議会の意思に依存していた。

4.2.2 国際法と憲法

条約や憲法の関係は複雑であった。双方は実際法律以上の存在であった。フランスでは国務院の判例によれば、フランスによって署名された条約とは関係なく憲法は国内法に適用されるべきであるとされていた[7]。しかしながら今日の憲法評議会は、特定の規則を対象にした欧州共同体法を遵守しているかを検証する必要はないと考えていた[8]。

ベルギーでは破毀院や国務院での判例は条約が憲法に優越することを確立していた。反対に憲法裁判所はベルギーが憲法に反した条約を締結することができないと考えていた[9]。

4.3 国法の域外適用

アメリカ法の域外適用はキューバ、リビア、イランへの禁輸措置の法律であるダマト法やヘルムズ・バートン法を通じて具体化されていった。そしてこれらの法律の域外適用によってアメリカ企業であれ他国の企業であれこれらの国々に投資する企業はすべてアメリカの裁判所によって処分される可能性が存在していた。

アメリカとEUの経済関係についてEU議会の代表団によって提出されたレポート(1999年2月11日)はアメリカの法律の域外適用に関して問題を投げ掛けていた。

5 国際法の限界

国際法はその適用に対して責任を負う中心的な構造が存在していないため国内法と区別されていた。国際的な警察が存在していないことは国際法が真の意味で法であるかについて疑念を抱かせていた。しかしながら国際法を適用するいくつかの仲裁裁判所同様にいくつかの国際裁判所が存在していた。それは主に国際司法裁判所(ICJ)であると考えられていた。しかし紛争を解決する裁判所にとっては紛争当事国が明示的に裁判所の決定を信任する必要が存在していた(そのような信任は選択的な裁判管轄条項として考えられており、それは仲裁条項との関連で理解されていた)。 紛争が生じた後の合意に署名することを含めて、条約に含まれる裁判所の管轄権を信任することを宣言することや裁判所の資格を一般的に信任することを宣言するようないくつかの方法によって、このことが成される可能性が存在していた。しかしながら一般的な管轄権に対する信任におけるこれらの宣言は稀であり、しばしば多くの留保を抱えていた。安全保障理事会の常任理事国の内イギリスだけがこのような声明に署名していた(アメリカはニカラグアのコントラ事件の後その声明を撤回しており、フランスは核実験の後にその声明を撤回していた)。そのような合意の適用はそれに拘束される国々の意思に大きく依存していた。

国際紛争において平和的な解決のためにいくつかの方法が存在していた。これは交渉、調停、仲裁から司法的解決までを含んでいた。規則に対するこれらの措置は結局のところ国家による対抗措置を導くかもしれなかった。しかしこの法は必然的に保障されたものではなかった。ICJの判決を遵守することを拒否した場合に、例えば損害を被った国家は初めに安全保障理事会に事件を付託しなければならなかった。

国際刑事法に関して国家間における国際法と明確に異なり、ローマ規程が人道に対する罪に対して国際刑事裁判所を創設していた。

強大な国家によって課される対抗措置が政治的経済的に弱い国家によって課される措置より効果的であることは明白であった。したがって実際真の意味で強い国家のみが署名された合意を実行に移すことが可能であった。法の支配といった概念は国際関係には完全には当てはまっていなかった。

このような状況下で国際法は適者生存の論理が姿を変えただけであるように思われていた。しかし私たちは外交関係の重みや世界におけるその姿が国家に与える意味を無視することはできなかった。例外を除いて国家にはその義務を遵守するインセンティブがあった。

強力な実定法のシステムを有する国家において、国際法はEU法(ヨーロッパにおいて)や各種の基本法に沿って月並な規範のピラミッドの集合の中に存在していた。それは合憲性の中に姿を表す憲法上の権利に依存しており、したがって原則として規範のハイアラーキーにおけるより低い水準にある法律に対して課されるものであった。

http://de.wikipedia.org/wiki/Völkerrecht

国際法

国際法(ラテン語に訳すと万民法)は平等の精神に基づいた国際法の主体(たいてい国家であるが)間の関係における法秩序であった。国際法の概念は19世紀以来その同義語を用いており、それは部分的には英語で言う「国際法」の影響を強く受けていた。

国際法における重要な実定法の法源は国連憲章であり、その義務の中に武力行使の禁止、それが国際慣習法として国連加盟国についても義務付けられていること、いかなる国家も侵略戦争を禁止されていることを記載していた。

超国家的な法が国際法の特徴として見なされており、それは同様に超国家的に組織されているので、特に国際システムに主権を委譲することを通じてその特徴を示しており、それは国際法を通じて完全に説明されることはなかった。

1 総論

国際法と国内法の主な違いは中央に立法機関が存在しないことであった。古典的な国際法は国家に課されるものではなく、国家間の協調を示していた。古典的な国際法の前には「キリスト教国」しか存在しておらず、次に「文明国」が続き、換言すれば、ヨーロッパ諸国を国際法の主体として眺めており、植民地主義を合法的な存在として眺めていた。今日の国際法秩序では特に国連憲章に見られるようにそれに対して全ての国家が平等な国際法の主体であった。そのため原則的には「一国家一票」であった[1]。

最近の10年において、国際法における中央の立法機関に関して発展が見られていた。特に2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、国連の安全保障理事会によって取り上げられる以前から、この傾向は認められており、まだ全ての国連加盟国によってテロとの闘いを全ての加盟国に影響を及ぼす適用可能な法として説明することや強制的な法、いわゆる強行規範を導入することは認められていなかった(国連安保理決議第1373号、テロ対策委員会、国連安保理決議第1540号を参照せよ)。この展開は部分的に批判され、時として懐疑的な見解も示されており、その理由として、安全保障理事会の概念は行政機関としての役割を期待されておらず、個々の紛争に対する解決を処理すべきであり、「世界立法府」として振る舞うべきではないことが挙げられていた。

平時と戦時の国際法を区別すると、平時の国際法は武力の合法的な使用を規制する規範(開戦法規)を含んでおり、他方戦時中の法は戦時国際法として呼ばれていた(交戦法規)。基本的にその国際法のいかなる部分も国際私法と異なっていた。この用語は国際背景を考慮してもその反対を示しており、状況がいくつかの国家の法規範に関連するならば、それが適用可能な法を決定していた。

1.1 国際法の主体

国際法の主体は本質的には国家であった(ゲオルグ・イェリネックの三要素によれば領土、国民、主権からなる3つの特徴が国家を構成していた)。しかし今日国際法の主体は国家や国際組織によって設立される国際機関を含む可能性が存在していた。NGO(私的団体によって設立された非政府組織)は基本的に国際的な法人格を有していなかった。しかしながらますます深く多国籍企業、NGO、個人が国際的な権利と義務に関わっていた。歴史的理由から赤十字国際委員会やマルタ騎士団は国際法の独立した主体であった。

1.2 国際法の法源

国際法の法源は二国間もしくは多国間の条約、慣習国際法、法の一般原則であった(国際司法裁判所規程、第38条第1項第a号第b号第c号を参照せよ)。

国際条約は関係する国際法の主体間における条約の締結とその後の批准によって発効していた。

慣習国際法は長期の国家実行(長期間もしくは比較的長期でない場合は管轄権の変化に即座に対応するといった慣行)、この国家実行が合法であること(法的確信)、そして共存していること(国際条約は成文化されているにもかかわらず慣習国際法に優先していない!)といった要素によって構成されていた。もし国家が創出の過程にある慣習国際法によってその基盤を喪失してしまうならば、その別の国家がその信念を硬直化させている限りにおいて、明示的に同様に繰り返し反論しなければならなかった(一貫した反対国)。

法の一般原則は原則に従ったあらゆる国内の法秩序から構成されており、その固有の法秩序には、例えば合意は拘束すること(条約は順守されなければならない)、特別法は一般法に優先すること(より特定化された法律は一般的な法律より優先される)、後法が前法を廃止すること(その後の法律が以前の法律より優先される)、矛盾行為禁止原則(過去の行動に反する行為をしない)等が挙げられ、それらに国際法の特徴や法理の原則は依存していた[1]。

しかしながら国際司法裁判所規程の第38条第1項に示されていなくとも、国際法のこれらの法源に加えて、国際法の法源として単独行為が同様に発展していた。そのような単独行為は国家同様国際機関によっても生じていた。しかしながらその法的拘束力は変化していた。いわゆる「ソフトロー」の法的特徴は論争を集めており、それは少なくとも間接的に拘束力を有しているかもしれなかった。

国際司法裁判所規程第38条第1項第d号にしたがって、国際司法の判決は国際的な判例や上述された法源の解釈に対する法源としての国際法に関する学説を用いるべきだった。

1.3 国際法と国内法の関係

国際法と国内法の関係は国家の法秩序との関連においてのみ示すことが可能であった。一元論(国際法と国内法は単一の秩序を形成している)や二元論(国際法と国内法は完全に分離された法秩序である)は2つの対極に存在している理論を示しており、それらは実際には純粋な形式で見受けられることはなかった。以下の図は異なったアプローチに対する概観を与えていた。

国内の法律家によって国際法の規範が順守されるべきかどうかといった問題は国内法がその遵守を必要としているかどうかによってのみ決定されていた。あらゆる法秩序において国際法の国内への適用は本来明確に十分に配慮された規範を必要としており、それは単に国家のみを主体としたものではなかったことが一般に指摘されていた。そのような規範は自動執行力のある条約として解釈されていた(より正確な見方によれば、この考え方は国際法ではなく国内法を対象としていた)。ドイツではドイツ連邦共和国基本法第25条第1項に従って慣習国際法と法の一般原則は直接適用が可能であり、連邦法より上位に位置していた。国際条約は変形を必要としており、それは一般的には国内の批准によってその規則の中に包含され(ドイツ基本法第59条第2項による条約法)、それは連邦法より上位に位置していた。

国際刑事裁判所(ICC)に関して139ヶ国によって1998年7月17日に採択されたローマ規程の批准を通じて、それは2002年7月1日に効力を発生していたが、国際法における新しい展開が生じており、国家における憲法上の要件を除いて、国際法の規範や条約を引き合いに出すことが認められていた。ICCの規範は国際法における私法と公法に関してローマ法の精神を導入しており、そこで強行規範といった規範のハイアラーキーを強調していた。ICCにおける訴訟はドイツでは裁判所構成法第21条によって効力を有し、ICCの規範は刑事訴訟法第100条第a項(国際法違反に対する刑事法の第10条)の中に挿入されていた。

2 国際法の歴史

古代においても停戦交渉は戦争を鎮静化させるために一般的であった。最初の国際法上の合意として、オリンピック期間中における戦争の禁止が挙げられており、それはギリシア全土における競技として認識されていた。

アレクサンダー大王による征服はヘレニズム世界を生み出し、その巧みな外交は地中海世界の法的基盤を生み出し、それはローマ帝国によって順応および展開され、ユスティニアヌス法典において最高潮に達していた。

1625年にフーゴー・グローティウスは彼の著作である『戦争と平和の法』の中でそれまでに展開されていた規範を統合していた。それらはさらにザミュエル・フォン・プーフェンドルフ、クリスチャン・ウォルフ他によって展開されていた。18世紀後半にエムリッシュ・ヴァッテルは国際法が置かれている状況を統合していた[2]。

1899年と1907年のハーグ平和会議において戦時国際法が規定され、常設仲裁裁判所が設立されていた。ハーグ陸戦条約は20世紀の二度の大戦における国際法の原則とされていた。

近代国際法の重要な側面の1つは戦争の放棄であるが、それは第一次世界大戦によって長い間蔑ろにされていたが[3]、第一次世界大戦後になって初めて関係各国の間におけるケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)の中で合意されることになった。それ以前は戦時になると残虐行為に歯止めをかけ市民を守る試みにおいて国際法はそれ自体の役割を制限していた。国際連盟(1919年に創設された)やその後継となる組織である国際連合(1945年から現在に至る)を通じて初めて共同の国際機関が創設され、それは全ての国家に義務を求める国際法を遵守することを求めていた。

実定国際法のマイルストーンとして以下のものが挙げられていた。

1648年のウェストファリア条約

1713年のユトレヒト条約

1815年7月9日のウィーン会議

1815年9月26日のいわゆる神聖同盟

1818年11月21日のアーヘン会議議定書

1856年3月30日のパリ条約

1864年8月22日のジュネーヴ条約

1868年12月11日のサンクトペテルブルク宣言

1878年7月13日のベルリン条約

1885年2月26日のベルリン会議

1899年および1907年のハーグ平和会議

1907年10月18日のハーグ陸戦条約

1919年と1920年のヴェルサイユ条約等

1928年8月27日のケロッグ=ブリアン条約

1933年のモンテビデオ条約

1945年6月26日の国連憲章

1949年8月12日のジュネーヴ諸条約

1949年のジュネーブ諸条約に対する1977年6月8日の2つの追加議定書

1982年12月10日の国連海洋法条約

1998年7月17日の国際刑事裁判所のローマ規程

3 国際法の理論

国際法の理論は、国際法の規範性に対する問題(そこでの法理の位置づけ)や一方で最も高度に通説化された抽象化の所産(その記述)や他方で法理の位置づけ(規範)に対して生じる可能性がある国際法の全体像に対する問題の双方に対して適用されていた。

3.1 国際法における規範性

国際法における規範は神の意思や理性等を法源にする自然法から生じていた。主意主義的理論は、その時その時の法規範に賛同する国際法の主体の意思にそれらを帰していた。それは部分的には国家のコミットメントに(ヘーゲル、エーリッヒ・カウフマン)、また部分的には国家における合意(トリーペル、法実証主義)に合わせたものであった。ハンス・ケルゼンはそれを仮想の基本的な規範に戻し、そのことは他の研究者たちによって純粋なフィクションであるとして批判されることになった(彼の最後の著作の中でケルゼンはこう述べていた:当事者の意思に依存する便利なフィクションにすべての法秩序の妥当性は依存しているので、それはまさしく純粋なフィクションであり、この自己満足は非論理的であるかもしれなかった)。社会学的なアプローチは人間の社会的性質や人々における自然な社会的連帯に焦点を当てていた(ジョルジュ・セル)。

国際法の法的性質は多くの研究者たちによって議論されていた。国際法学者であるケルゼン[6]は、彼の時代の国際法に特に執行機関の欠如に関して形成途上の法に存在している性質のみを認めていた。H・L・A・ハートは確かに国際法の法的性質を否定していなかったが、一次的ルールに対してそれを保持しているのみで、少なくとも彼の時代において一般的に認められた二次的ルール(承認のルール)に対してそれを欠いていると主張していた。今日特に一部のアメリカの研究者たちは国際法の規範性を否定し、国家の行為に影響を及ぼす可能性がある固有の性質は存在していないとみなしていた。ニューヘブン学派は国際法における限定的な規範性を認めており、ジャック・ゴールドスミスやエリック・A・ポズナー他のような法の経済分析の支持者がかなり存在していた。彼らによれば国際法は純粋に随伴現象的であった:国家はその安全やそのパワーを増大させることに関心を抱いていた。この関心を背景にして国家はある状況において行動していた。この単調な国家の行動が「慣習法」を支えているならば、これは国家の関心に影響を及ぼしていないことを示していた。逸脱した行動をともなう国家がその関心を満足する状況が変化するならば、この国家はそれにしたがってその行動を変えるだろう。国家はその評判が損なわれることに対して一切の憂慮を抱いていなかった。経済分析における他の研究者たち(ジョエル・トラハトマン、アンドリュー・グスマン)は彼らのモデルによれば、特定の状況において国際法は国家の行動に対して一定の影響力を有し、潜在的に違法行為を許容する国家は少なくともその評判が失われることを考慮の対象にすると結論づけていた。彼らによれば国際法は限定的ではあるけれども規範性を有していた。一部の批判法学は覇権的なパワー・ポリティクスの姿を粉飾する操作が行われていることを認めており、懐疑論に対してその規範的な理由を与えていた。

大陸ヨーロッパではそれに対して国家間の合意に基づいた法実証主義を基礎としており、国際法の規範性は問題とされていなかった。

3.2 国際法総論

国際法秩序の理論における概説に対する現在の議論はヨーロッパでは2つの用語で説明されており、それらは「国際社会」と「憲法化」であった。議論はさまざまなレベルで行われ、国際法に対する記述(遡及的であり、通説を構成している)や規範(その哲学や展望)の双方における発言に関係しており、時には誤解を招いていた。

「国際社会」に関する議論は2001年から現在に至る国連国際法委員会における国家責任条文におけるこれらの用語の使用を通じてなされていた(第33条第1項等)。「国際社会」の存在は共通の価値観(人権や環境保護)から導かれる法秩序から派生していた。そのような共通の価値観の結果等の存在は規範のハイアラーキー(例えば、強行規範)に対する根拠やその意思に反する国家の義務が生じることに対する通説を与えていた。このことは古典的な解釈によれば国家間の協調や国際法に一致した協調に関して考えられないことであった。

並行して国際法の憲法化が論じられていた。この議論は細部においてはさまざまに別れるが2つの視点に基づいていた:一方で国際関係の入り組んだネットワークに基づいた国家の憲法は、それは国家に内包されているものの、今日の国家における政府の法的基盤を部分的に表現していた。したがって国家の憲法は国際法秩序の関与の下でのみ理解されることが可能であった。他方でそれは国際法におけるさまざまな展開を許容し、そこで憲法の要素が取り決められていた(例えば規範のハイアラーキーや国連憲章が有する憲法的な性格に対する問題等)。通説における含意は、どの程度国家は国内管轄事項を有するのかや投票行動を通じて法の抵触が解決されてもよいものかといった問題における憲法化における議論を含んでいた。ここに私たちは「国際社会」や「憲法化」における議論を重ね合わせていた。

これらの特に大陸ヨーロッパで行われている2つの議論にともない、国家の代表者たちや国際弁護士たちの下に広がっており相当数存在している懐疑論について見過ごすことはできなかった。彼らの多くは国家の中に国際法の中心となる主体を見出していた。彼らは「国際社会」の制度的弱さのみならず国際法の中に価値判断を示す要素を導入することを含む恣意性のリスクについても指摘を行なっていた。

他の議論は国際法がますます断片化の方向へ向かうかどうかに対する問題に焦点を当てていた。この議論は2つの視点に基づいていた:第一にそれは法の抵触が増加するさまざまな国際レジームから生じていた(例えば、国際取引法、国際環境法、投資保護法、人権)。第二にそれは管轄領域の重複をともなう国際司法裁判所や仲裁裁判所から生じており、それは管轄権争い(例えば、MOX工場事件における国際海洋法裁判所と欧州司法裁判所)や同一事件に対する異なった判決(例えば、非国家主体の行動の帰属事件における国際司法裁判所と旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷ーニカラグア事件とタディッチ事件)に繋がっていた。断片化の議論はよく知られているように多くの代表的な研究者たちによる憲法化の議論の枠の中に収まる国際法秩序の統合の主張に対する批判として理解されていた。2006年に国連国際法委員会は法の抵触の取り扱いに関する報告を採択した。

4 現在の展開

今日高度な論争が展開され国際法の将来の発展に資する分野は次の通りである:強行規範、暴力の禁止の例外としての人道的介入、(現在の危険に対する)予防的自己防衛。強行規範に含まれるどの規範も詳細について論争を抱えているが、どの場合であっても暴力の禁止や基本的人権の本質を国際法の義務的要素とみなしていた。国連国際法委員会(ILC)によってさらに多くのことが想定される例として、奴隷貿易、海賊行為、ジェノサイドのような行為、国家の平等や国民の自己決定権に対する侵害を含められていた。

4.1 人道的介入

人道的介入について多くの意見が非常に政治的に色付けされているだけでなく、特に度重なる混乱が生じていた。第一に自国民を救助する介入と他国民を救助する介入が区別されていた。外国領土で自国民を救助する介入は完全には認容しがたいものとして部分的には見なされており、他の研究者たちによれば国家による国際法違反(保護義務)であり、そこで外国人は抑留されることになるが、介入が外国の国家による暴力ではなく犯罪組織を目標に据えたものであるならば、正当な根拠があるとの視点が存在していた。他方、他国民を救助する人道的介入については安全保障理事会によって決議されたものとその決議を受けていないものは区別されなければならなかった。

国連憲章は安全保障理事会に「世界平和に対する脅威」として認定される国家の行動に対して最終的には軍事的制裁を課す権限を与えていた。この目的のために安全保障理事会の下に直接置かれた必要とされる軍隊は慣習法としては存在しておらず、その反対に国家に武力使用の権限を与えさせていた。いつから国内のオペレーションが世界平和を危険に晒すのかについては論争が多いが、ジェノサイドやいわゆる「民族浄化」が一連の流れとして生じ、それが隣国に広がったときに、安全保障理事会はこれらをルールに則って脅威として見なしていた。国内に広まったジェノサイドが隣国に影響を与えていないときでさえ(例えば、難民が生じていない等)、世界平和に対する脅威が与えられることが可能であった。その後広まった見解が「対世的に」ジェノサイドの禁止に影響を与えたために、国際社会における全ての国家に対する義務が創設された。さらにジェノサイドの禁止は「強行規範」に含まれ、したがってそれは国際法上の義務的な規範になった。ジェノサイドは常に全ての国際社会に関係していた。同じ事は基本的人権に対する深刻でシステマティックな侵害にもおそらく当てはまっていた。

しかしながら特に常任理事国の拒否権や政治的状況によって安全保障理事会はしばしば議決不能に陥ることがあった。これは次のような実際の問題で生じていた:国家は安全保障理事会の機能が麻痺した状況で「最後の手段」として単独または多国間による武力の使用を行うことが可能であるのか? ある見方は暴力の禁止や虐待の危険性に対する武力の使用を断定的に否定していた。その反対派の主張は、ジェノサイドを傍観することを言い渡す法秩序は存在していないといった自然法の基盤によって、国連憲章における暴力の禁止に関する目的論に基づいた制限によって、国連憲章の上位にある慣習法や国民の自己決定権によって、まさに生じているジェノサイドに関して、安全保障理事会の決定がなくとも単独あるいは多国間による人道的介入を正当化しており、これらは部分的に国際法の主体としての性格を与えており、このことによって他に救済を求めることが可能であった。

4.2 予防的自己防衛

決定的ではないが時として代表的な見解や多数派の見解によれば、明白な直接攻撃が迫っており、さらなる宥和が防衛の効果を損なうときにのみ、予防的自己防衛の権利が存在していた。

通説によれば現行の法に基づくと脅威の可能性に対して前もって防衛する権利は存在していなかったが、この問題に関する新たな慣習法が形成されていた。しかしある事件において以前の規則に反する行動のために準備を行い、同時にその行動が新しい法の規則を要請するといった慣習法が生じることが可能かどうかについては議論が行われていた。そのような事件において事実の規範力を認めることを可能にするためには、少なくとも国際社会の大部分によってそのような新たに要請されたルールが容認されなければならなかった。

4.3 国際法における自己防衛

国連憲章に従って個別的もしくは集団的自衛が攻撃や武力の行使に責任がある国家に対してのみ向けられることが可能であるかどうかは国際法における成文に部分的に記されていた。当該国がこれらの人々をそのイニシアチブに基づき派遣し、そのような活動を支持しており(例えば、軍事訓練や武器の供与)、効果的な統率によって発言がなされているときのみ、その私的行動を法の主体に組み込み、通説によればテロリストたちに適用することが可能であった。さらにこれらが「国家の構造の部分としての事実」と見なされる水準に達しているならば、政府とその領土の外で活動していたテロリストたちとの間の「組織的な関連」は同様に十分に示されていた[7]。

当該国に対して自衛権を用いるために領土内のテロリストたちに対していわゆる避難所同様に退避地を与えることが十分であるかどうかについては議論が重ねられていた。しかし自衛権の中には比例原則を遵守することが存在しており、さらにそれは軍事的強制力の使用に関して適切さ、必要性、乱用の禁止を考慮しなければならなかった。

4.4 国際法を適用することにおける問題

国際法は国家間の合意を含んでいたので、今日義務的な国際法が議論の対象となっており、それは人権規範を含んでいた。義務的な国際法は十分に定義されていなかった。欧州人権裁判所の指令、国連の条約、同様に人権に関する条約が義務的な国際法として理解されていた。大半の国連加盟国はそのような人権条約に署名していた。しかし問題は国際法の実践であった。実際のところ強制は不可能であった。歴史的な例としてベルギーは1940年のドイツによる攻撃以前は第二次世界大戦の間完全な中立国として守られていたが、この中立性は誰によっても保障されることができなかった。同様にグアンタナモでの拷問も考慮されるべきであった。したがって国際法上の規範はある程度の枠内でのみ成果を収めることが可能であった。

4.5 国際法における民主的正当性の問題

国際法は国の代表団による共同作業を通じた委員会において生み出されていた。しかしながらさまざまな国々からの代表団は政府レベルのメンバーや州政府レベルのメンバーから構成されていた。これらのメンバーが法律を制定し、後にそれらを施行していた。しかし民主主義国においては三権分立の原則が存在しており、行政府、立法府、司法府に分離されていた。したがって実際には法律の制定は立法府の問題であった。もちろん国連加盟国の全ての政府が国際法上の条約について助言を通じて関与しており、民主主義を採用していない国々においても同様であった。そのような条約から生じる決定はしかし他方で全てに対して適用されていた。同様に国民によって承認されることなくこのことはしばしば生じていた。複数の国民に対する法から複数の国家に対する法へ根本的に理解が変化するため、この展開は最近になって初めて問題とされるようになっていた。それに正当性を与えることなしに、このことから生じた法律は人々の個人的な生活に決定的な影響を及ぼしていた。

4.6 国際法の主体としての人間

国際法は一般的に権利と義務を国際法の主体に対してのみ生じさせており、国際人道法においてのみ(例えば、差別、拷問等の禁止)考慮された組織や個人に対して国際法上の規則が直接的な効力を生じていた。国際法の主体は国家や国家によって生じる国際機関、例えばEU、WTO等であった。世界で暮らしている全ての人間の全体のような存在は古典的な国際法による見解では国際法上の主体性そしてしたがっていかなる権利や義務をも有していなかった。確かに国際連合(UN)は存在していたが、これらは法的意味において国家の集合でしかなくそのような人間の代表ではなかった。そのような人間は国際法においては全く存在を認められていなかった。このことは例えば環境法の分野において困難を生じさせていた。例えば、温室効果ガスを排出するときに気候変動枠組条約に署名していない国家は違法に取引を行なっておらず、国連海洋法条約に署名していない国家は随意に海洋環境を汚染することが可能であり、気候や公海等は誰に対してでも所属しているものではなかった。しかし後にアデンは[8]、人間は国際法の主体であり、そのようなものとして国際法上の権利や必要が生じれば義務をも有しているといった主張を支持していた。したがってこの理論によれば、明示的な国際条約がないときでさえ、人間にとっての公共財を損ない、排他的にそれを要求することは違法であった。これらの人間にとっての公共財に、例えばピラミッドのような国民の文化財、歴史的事実に対する要求、情報に対する要求が含まれていた(例えば国家Xのアクターたちが特定の歴史的事件についてそれを要求すること)。

このことからアデンによれば次のような主張がもたらされていた[9]:全ての個人はどの出自であろうとも同一の法的保護や公平な裁判官、公正な意見聴取、スムーズな手続き等といったある枠組みにおける最低限のルールを享受することを、どの国家に対しても人はそのようなものとして主張することができる。もしある国家が革命、戦争、独裁的な政府のために国際法上の法治国家としての最低レベルを保障できなくなり、またはその意思が存在していないならば、他の国家は最大近接の原理(国際的な緊急事態における近接の原理)によってその立場で行動することが許されていた[10]。

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