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The Beginning of the End

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「終わりの始まり」といったフレーズは20世紀後半の欧米の映画・テレビ番組・文学作品・音楽で使い古された言い回しになるが、その背景として、ナチスの台頭を許容したワイマール共和国の崩壊を叙述するのみならず、推論に用いる理論体系や科学的アプローチまで否定してしまったポストモダニズムやある種のフレンチ・セオリーが広く浸透していたことが挙げられるかもしれない。

そして現在の欧米においてポストモダニズムの終焉が論じられている中、日本の人文科学・社会科学は少なくともマッカーシズム以前のアメリカによる占領政策を通じて教授会の自治が再度保証されることになった戦後以降長らく停滞を続けており、その理由は大学における徒弟制度が後押ししている面もあるのだが、いずれにせよ「終わりの始まり」の終焉が論じられたことはなかったと記憶している。

論理を飛躍させるなら、その結果として例えば1980年代後半のバブルの絶頂期に見られる「終わりの始まり」に類するものが姿や領域を変えて繰り返し登場していることをちょいちょい目の当たりにしていると感じることになったのは気のせいであろうか。

で、今話題になっている改憲案だが、南麻布の日米合同委員会に参加しているメンバーが陰に陽にパニッシュメントとインセンティブを与えながら素案を論じていくのだろうといったことを想像することがあり、すると改憲案の最初のドラフトが英文で記述されているといったケースもあるだろうなといったことを憶測することもあり、国内の報道におけるトーンやトピックスの選び方もその視点から眺めてしまいがちになってしまうのも気のせいであろうか。

乱筆失礼!

オールド・メディアやインターネット・メディアを参考にする限り、ブレクシットの要因として、1. ラディカルと中道派の軋み、2. ロンドン・スコットランドと他の地方との異存、3. 老人と若者の相違をクローズ・アップする報道が大勢を占めているようだが、これらの枠組みは少なくとも国内のスピンがうまく機能した結果であるとの見方に説得力を与えてくれている議論を以下に抜粋する。そしてブレクシットが抱えている問題はそのまま日本の問題に投影されていることになる。

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ポスト・デモクラシーという語はウォーリック大学の政治学者であるコリン・クラウチによって『コウピング・ウィズ・ポスト・デモクラシー』といったタイトルの著作の中で2000年に作られた造語であった。ポスト・デモクラシーはしっかりと機能している民主主義システム(選挙が行われることによって政権が交代し、また言論の自由が存在している状況)によってもたらされる状態を示していたが、そのような民主主義の事例はまだ限定的であった。またこの議論の前提として器の小さいエリートが問題になる決定を行い民主主義の制度を濫用していることが指摘されていた。クラウチはロンドンのシンクタンクであるポリシーネットワークにおける『イズ・ゼア・ア・リベラリズム・ビヨンド・ソーシャル・デモクラシー?』といった論文や『ザ・ストレインジ・ノン・デス・オブ・ネオリベラリズム』といった著作の中でポスト・デモクラシーに関するアイデアを深化させていた。

バランスを欠いたディベート:多くの民主的な国々において、政党の立場は非常に似通っていた。このことは有権者にとって選択できるものがないことを意味していた。その影響は政治的キャンペーンが立場の違いを強調するための広告のように映っていることにあった。また政治家の私生活も選挙の重要な道具になっていた。そして時折「センシティブ」な問題が争点から外されることがあった。イギリスの保守派のジャーナリストであるピーター・オボーンは2005年総選挙のドキュメンタリーを通じて、争点を限定的にして多くの浮動票をターゲットにしたことを理由にして総選挙が民主的なものではなかったと論じていた。

公共部門と民間部門の交錯:政治とビジネスの間の金銭的な癒着が大きな問題であった。ロビー企業を通じて多国籍企業はその国の住民より上手に法律をくぐり抜けることが可能であった。そして企業と国家は緊密な関係にあり、その理由として企業が雇用に大きな影響を及ぼしている点で国家が企業を必要としていることが指摘されていた。しかし製造プロセスの多くがアウトソーシングされており、企業が他国に逃げることが容易であるため、労働者は低賃金労働に従事することになり、さらに納税の主役は企業から個人に移り、その目的は企業にとって有利な条件を生み出すことにあった。そして政治家と経営者が政府からビジネスへ他方でビジネスから政府へジョブをスイッチすることは非常にありふれた光景になっていた。

私有化:公共サービスを民営化することを推進する「新しい公共経営」(ネオリベラリズム流の)の考え方が広まっていたが、民営化された組織は民主的な手段によってコントロールすることが困難であった。

結果として:

政治家は国民投票や世論調査における好ましくない結果をよく無視していた。2005年にフランスとオランダの国民が欧州憲法に対してノーを突きつけたときに、少し修正を加えただけで、フランスやオランダはこの条約を批准していた。

排外主義の政党の登場は国民の不満を利用したものであった。

解決の道:

クラウチによれば、ソーシャルメディアには重要な役割があり、有権者が公のディベートに対して積極的に参加する可能性を広げていることが指摘されていた。この延長として有権者は特定の利害を擁護するグループに参加する必要に迫られるかもしれなかった。また市民が意思決定する場をその手に取り戻す必要が存在していた。クラウチはこのような市民参加をポスト・ポストデモクラシーと呼んでいた。

オキュパイ・ウォールストリートは組織化されないある種の抵抗運動であり、金融業界に関する不満から生じていた。

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ポスト・デモクラシーは民主主義のルールに則った状況を意味していたが、実際は民主主義のルールの適用を制限しているように考えられていた。例えば経済学者であるセルジュ・ラトゥーシュによれば、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー――格差拡大の政策を生む政治構造』を引き合いに出しながら、ポスト・デモクラシーは「私たちが今日経験しているようにメディアやロビー活動によって巧みに操作されながらでっち上げられた民主主義」を示していた[1]。

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イギリスの政治学者であるコリン・クラウチ[1]はポスト・デモクラシーを次のように定義していた。

「選挙を経験しない専門家の役割[...]、選挙期間中の公開討論はスピンドクターによってコントロールされており、その内容はエンターテイメントに堕しており、矮小化された問題のみを論じており、その論点はそのスピンドクターによって周到に選び抜かれていた」[2]。

グローバル企業と国家の連携がポスト・デモクラシーを進展させていた。クラウチによれば、国際協調を通じた賃金、労働権、環境基準の調整が企業活動のグローバル化より遅れていることが主要な問題であることが認識されていた。多国籍企業が税制や労働環境に満足しなければ、職場を海外に移転することをカードにして揺さぶりをかける可能性が指摘されていた。このような揺さぶりの舞台(底辺への競争)は政府の決定に対して企業の影響が市民の影響より強いことを背景にしていた[4]。主要な論点は西洋の民主主義がポスト・デモクラシーの状態に近づいており、その後「恵まれたエリートの影響力」[5]が増大する点にあった。

他の論点として1980年代から政府が民営化を促進しながら市民の責任を重くする新自由主義を採用していたことが指摘されていた。クラウチは次のような事例を示していた。「国家が市民の生活に対する関心を失い、市民の無関心を助長するならば、気付かれないように企業はこのような状況を活用してセルフ・サービス方式を普及させていた。新自由主義の根底にある見通しの甘さはこのような状況を認識していないことにあった」[6]。

リッツィーとシャールはポスト・デモクラシーを「完全な民主主義という枠組みにおける擬似民主主義として認識することを通じて」説明していた[7]。

クラウチはポスト・デモクラシーという語が状況を適切に表現していると考えていた。「この状況のような民主主義においてある種の怠慢、葛藤、失望感が広がっており、強力な利益集団の代表達は[...]大多数の市民よりはるかに積極的に行動しており、エリートは国民の要求を操るための方法を学習しており、市民に対して選挙に行くように広告キャンペーンを通じて「上から」説得していた。」[8] またクラウチはポスト・デモクラシーが非民主的な状況とは異なっていることを指摘していた。

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示しているもう1つの側面は「市場経済や自由競争のレトリックを口実にして特定の実業家に政治的な特権を付与していること」にあった[13]。そしてこのような特権の付与は「民主主義にとって深刻な問題」になっていた[14]。

クラウチは「ポスト・デモクラシーへの道」を回避するために3つのステップを指摘していた。それは「まず経済界のエリートによる支配を制限する手段を確立し、次に経済に左右される政治の状況を改革し、最後に一般人の活動の可能性を広げること」であった[17]。最後の点を言い換えるとそれは「新たなアイデンティティ」[18]を形成することであり、例えば地域の寄合いを通じて関係者の活動の可能性を広げることを含んでいた。民主主義のリバイバルに対する希望は一般人のアイデンティティに影響を及ぼす新しいタイプの社会的ムーブメントに内在していた。このムーブメントは成果を上げるためのロビー活動を通じた「ポスト・デモクラティック」な仕組みを活用しなければならなかった。そして政党は民主主義のリバイバルのための核となる部分を残す必要性に直面していた。また政党による支援はクラウチによれば民主的な変化にとって必要なものであった[20]。クラウチは「動物愛護のための過激なキャンペーン、アンチ・キャピタリストやアンチ・グローバリゼーションのアクティビスト、レイシズム団体、リンチと変わらない犯罪撲滅キャンペーン」に反対していた[21]。

政治学者であるローランド・ロスは自治体レベルでの市民の関与を深め、民営化された施設を再度公営化するようにパブリックスペースを国家を通じて再生し、アクターに参加を促すことを提案していた[23]。ダニエル・ライトチヒは市民の判断、リキッド・デモクラシー、セルフ・マネジメントへの回帰、より小さな行政単位、子供の頃からの社会参加の機会の拡大、対抗的な公共圏の構築に言及していた[24]。

ポスト・デモクラシー特有の傾向は国際的な統合の帰結から生じており、そこにはまだ共通の議論の土壌も国際紛争を民主的に解決するためのコンセンサスを形成する土台も存在していなかった。この事例は欧州連合になり、実際のところ欧州連合は民主主義の赤字を部分的に抱えていた。そして政治的な運動は欧州連合の政治システム特に欧州憲法における民主主義の赤字を具体的に改善する[28]ことを十分に考慮していなかった。

インタビューの中でクラウチはオバマの運動が「民主主義の内部崩壊についての私の主張を否定することになった」と述べていた。「そして「確かにオバマは民主党の候補者であったが、実際のところオバマは若者をホワイトハウスへ送ろうとする運動の中に位置付けられており、将来に対する希望であった」[29]。

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前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカ、フランス、ドイツのWikipediaの「ニュー・ケインジアン経済学」、「新しい新古典派総合」、「新古典派総合」、「新しい古典派マクロ経済学」、「AD-ASモデル」、「ポスト・ポリティクス」、「メタ・ポリティクス」、「ポスト・デモクラシー」、「第二の近代」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_Keynesian_economics

ニュー・ケインジアン経済学

ニュー・ケインジアン経済学はケインジアン経済学に対してミクロ経済学的基礎を与えるマクロ経済学の学派であった。そしてニュー・ケインジアン経済学は新しい古典派によるケインジアンマクロ経済学に対する批判を受け止めていた。

また2つの大きな仮定がマクロ経済学に対するニュー・ケインジアンのアプローチを特徴付けていた。つまり新しい古典派のようにニュー・ケインジアンによるマクロ分析は家計と企業が合理的に期待を抱くことを前提にしていた。しかし両者はニュー・ケインジアンが多様な市場の失敗を想定している点で異なっており、ニュー・ケインジアンは価格や賃金が経済状況に合わせて瞬時に調整されない「粘着性」を有していることを背景にした不完全競争を想定していた。

ニュー・ケインジアンのモデルが想定している賃金や価格の粘着性や多様な市場の失敗は経済が完全雇用を達成することに失敗していることを包含していた。したがってニュー・ケインジアンは政府や中央銀行によるマクロ経済の安定化(財政政策や金融政策の活用)が自由放任主義の政策より効率的にマクロの指標を改善することができると主張していた。

1 ニュー・ケインジアン経済学の展開

1.1 1970年代

ニュー・ケインジアン経済学の最初のウェーブは1970年代後半に登場していた。情報の粘着性に関する最初のモデルはスタンレー・フィッシャーの1977年の論文である『ロングターム・コントラクツ・ラショナル・エクスペクテーションズ・アンド・ザ・オプティマル・マネー・サプライ・ルール』[2]によって示されていた。スタンレー・フィッシャーは「タイムラグのある」ないし「オーバーラップする」契約モデルを採用していた。そこでは経済に2つの労働組合が存在していることが想定されており、順繰りに賃金が定められており、ある労働組合の番になるとその後の2つの期間分の賃金が決定されていた。また名目賃金が生涯を通じて一定であるようなジョン・B・テイラーのモデルとの違いはスタンレー・フィッシャーによる2本の論文つまり1979年の『スタッガード・ウェイジ・セッティング・イン・ア・マクロモデル』[3]と1980年の『アグリゲイト・ダイナミクス・アンド・スタッガード・コントラクツ』[4]の中に示されていた。テイラーとフィッシャーによる契約の概念によれば、ある労働組合は最新の情報を活用して現在の賃金を定めており、他の労働組合は古い情報に基づきながら賃金を定めていた。テイラーのモデルは名目賃金の粘着性に加えて情報の粘着性を採用しており、名目賃金は2つの期間を超えて一定であった。この初期のニュー・ケインジアンによる理論は、名目賃金を固定しながら金融当局(中央銀行)が失業率をコントロールできるとの前提に基づいていた。賃金が名目レートで固定されているので、金融当局はマネーサプライを調節することによって実質賃金(インフレを考慮した賃金)をコントロールすることができ、したがって失業率を調整していた[5]。

1.2 1980年代

1.2.1 メニュー・コストと不完全競争

1980年代に価格の粘着性を説明するために不完全競争の枠組みにおけるメニュー・コストを用いることが研究されていた[6]。価格の調節に相反する一括費用(メニュー・コスト)の概念は価格変更の頻度に対するインフレの影響に関する論文を通じてシェシンスキーとワイス(1977年)によって導入されていた[7]。名目賃金の硬直性についての一般理論としてメニュー・コストを適用するアイデアは1985年から1986年にかけて数人の経済学者によって提案されていた。そしてジョージ・アカロフやジャネット・イエレンはもし便益が大きくなければ限定合理性を通じて企業は価格の変更を望まないだろうといったアイデアを採用していた[8][9]。つまり限定合理性は本来なら変動するはずの名目価格や名目賃金の硬直化を促していた。グレゴリー・マンキューはメニュー・コストを取り上げながら、価格の硬直性がもたらす取引量の変化を通じた経済厚生に対する影響にフォーカスしていた[10]。またマイケル・パーキンも同じアイデアを提唱していた[11]。このアプローチは名目価格の硬直性に着目していたけれども、オリヴィエ・ブランチャードや清滝信宏による『モノポリスティック・コンペティション・アンド・イフェクツ・オブ・アグリゲイト・ディマンド』を通じて名目価格の硬直性は賃金や価格全般に拡張されていた[12]。ヒュー・ディクソンやクラウス・ハンセンは、メニュー・コストが経済の小さなセクターに適用されるケースでも名目価格の硬直性は残りのセクターに影響を及ぼしており、価格全般が需要の変化にあまり反応しない背景を示していた[13]。

そして複数の研究がメニュー・コストがトータルとして然程大きくないことを示唆していたが、ローレンス・ボールやデビッド・ローマーは1990年に実質価格の硬直性が大きな不均衡を生み出すほどの名目価格の硬直性と相互作用している可能性があることを示していた[14]。経済環境の変化に対して企業がゆったりと実質価格を調整しているときに実質価格の硬直化が生じていた。例えば企業が市場を支配しているか要素投入に対するコストが契約を通じて一定期間固定されているならば、その企業は実質価格の硬直性に直面していた[15]。ボールやローマーによれば、労働市場における実質価格の硬直性が企業のコストを高い水準で維持させており、企業が価格を切り下げることを躊躇わせていることが指摘されていた。つまり価格変更にともなうメニュー・コストに関連した実質価格の硬直化による損失は企業が需給ギャップに合わせて価格を切り下げる蓋然性を低減させていた[16]。

仮に価格全般が完全にフレキシブルであっても、不完全競争は乗数効果の面で財政政策に影響を与える可能性を包含していた。ヒュー・ディクソンやグレゴリー・マンキューは財政政策における乗数効果が生産物市場における不完全競争の程度に応じて増大する可能性があることを示す一般均衡モデルを別々に発展させていた[17][18]。これは生産物市場における不完全競争が実質賃金を押し下げ、家計が余暇から労働へ時間を振り向ける傾向があることを理由にしていた。概して政府支出が増加するときの課税の拡大は労働と余暇双方の減少の要因になっており(ここで労働と余暇が正常財であることを仮定している)、生産物市場における不完全競争の程度が大きくなるにつれて実質賃金が低下すると、余暇の減少は拡大し(つまり労働が拡大することによる)労働の減少は縮小していた。したがって財政政策の乗数は1より小さいものの不完全競争の程度に応じて増加する傾向を示していた。

1.2.2 ギジェルモ・カルボによるスタッガード・コントラクツ・モデル

1983年にギジェルモ・カルボは『スタッガード・プライシーズ・イン・ア・ユーティリティ・マキシマイジング・フレームワーク』を発表していた[19]。その元論文は連続時間を採用していたが今日では離散時間を用いている。カルボのモデルはニュー・ケインジアン流に名目価格の硬直性をモデル化するための一般的な方法を示していた。そこでは企業が任意の期間においてその価格リストを改訂する確率(危険率 h)と価格がその期間において改定されない確率(生存率 1-h)が与えられていた。その確率(h)は時として「カルボ確率」と呼ばれていた。契約期間が事前に知らされているテイラーによるモデルと対照的に、カルボ・モデルにおける重要な特徴はプライス・セッターが名目価格が改定されない期間を知らないことにあった。

1.2.3 協調の失敗

協調の失敗は不況や失業を説明する潜在力を有していたニュー・ケインジアン経済学におけるもう1つの重要な概念であった[21]。いったん不況になると例え人々が労働の意欲を有しており仕事のある人々が購買意欲を有していたとしても工場がアイドル状態になる可能性が存在していた。この筋書きによれば、経済的な陰りは協調の失敗の産物であり、見えざる手が生産と消費における最適なフローを調整することに失敗していたことが指摘されていた[22]。ラッセル・クーパーとアンドリュー・ジョンによる1988年の論文である『コーディネーティング・コーディネーション・フェイラーズ・イン・ケインジアン・モデルズ』はお互いの状況を改善する(少なくとも悪化させない)ために個々の経済主体が協調する可能性を示す複数均衡を有するモデルにおける協調を一般化していた[20][23]。クーパーとジョンによる研究はマッチング理論を包含した協調の失敗における事例をピーター・ダイヤモンドが1982年に示したココナッツ・モデルのような初期の研究に依存していた[24]。ダイヤモンドのモデルにおいて生産者は他の生産者が生産していれば生産に着手する傾向にあった。そして潜在的な取引企業の増加は取引相手を見つける蓋然性を高めていた。協調の失敗における他の事例として、ダイヤモンドのモデルは複数均衡を前提にしており、ある経済主体の経済厚生が他の経済主体による意思決定に依存していることが指摘されていた[25]。またダイヤモンドのモデルは多くの人や企業が参入すればするほど市場がうまく機能するようになるといった「市場厚の外部性」を示していた[26]。さらなる協調の失敗の事例として「自己実現性」が指摘されていた。もし企業が需要の落ち込みを予想しているならば雇用の削減に踏み切る可能性があり、その結果としての求人数の不足は労働者に不安をもたらし消費を一層落ち込ませる可能性を高めていた。つまり需要の落ち込みは企業にとって想定内であったが、その原因は企業の行動(想定)に起因していた。

協調の失敗のモデルにおいて、代表的企業(ei)はあらゆる企業(ē)の平均的な生産に依拠しながら生産を行っていた。代表的企業が平均的な企業と同じロットを生産するとき(ei=ē)、経済は45度線上にあり均衡していた。そして決定曲線は45度線と3箇所で交錯していた。企業は最適解である点Bで協調しながら生産する可能性を有しながらも、協調が存在しなければ、企業は効率性が劣る他の均衡点で生産する可能性も有していた[20]。

1.2.4 労働市場の失敗:効率賃金

ニュー・ケインジアンは労働市場の失敗を明示していた。ワルラス市場において失業者は労働者に対する需要が供給と釣り合うまで賃金を切り下げられていた[27]。市場がワルラス的であるならば、失業者のオーダーはジョブ・チェンジする労働者のオーダーに限定されており、低すぎる賃金では労働者が集まらないことが理由であった[28]。ニュー・ケインジアンは市場が自発的失業を促している背景を分析する理論を構築していた[29]。ニュー・ケインジアンによる理論の中で特筆すべきは効率賃金理論であり、短期的な失業の増加がトレンドになり長期的失業を高止まりさせるように、過去の失業に起因する長期的な影響を説明していた[30]。

シャピロ=スティグリッツのモデルによれば、労働者はサボタージュしないレベルの賃金を支払われており、その高賃金が失業を生じさせていた。サボタージュさせない条件を示す曲線(NSC曲線)は完全雇用に近づくにつれ無限大に発散していた。

効率賃金モデルにおいて労働者は労働市場の需給に合わせたレベルよりむしろ生産性を最大化するレベルの賃金を支払われていた[31]。例えば途上国の企業が労働者が生産性を高めるのに十分なリソースを有していることを保証する賃金以上の賃金を支払う可能性が指摘されていた[32]。また企業が忠誠心やモラルを高め生産性を向上させるために高い賃金を支払う可能性も指摘されていた[33]。さらに企業がサボタージュを回避するために市場の需給による賃金以上の賃金を支払う可能性も指摘されていた[34]。カール・シャピロとジョセフ・スティグリッツによる1984年の『イークウィリブリアム・アンエンプロイメント・アズ・ア・ワーカー・ディシプリン・デバイス』は企業が労働者の取組みをモニターしたりサボタージュしている労働者に解雇をチラつかせたりしなければ被雇用者が勤勉に仕事をしないモデルを呈示していた[35][36]。仮に経済が完全雇用の状態にあるのならばサボタージュによって解雇された労働者は単に新たなジョブに移るだけであった[37]。個々の企業は労働者がサボタージュやジョブ・チェンジのリスクより仕事をキープすることを歓迎していることを保証する賃金にプレミアムを加えて労働者に対して賃金を支払っていた。個々の企業は市場の需給による賃金以上の賃金を支払っているので、アグリゲートされた労働市場は需給調整に失敗していた。このメカニズムは失業者をプールさせており、解雇を増加させていた。労働者は収入低下のリスクに加えて失業者のプールにスタックされ続けるリスクに直面していた。しかし市場の需給による賃金以上の賃金をキープすることは確かに失業者を生じさせていたけれども労働者をサボタージュさせないインセンティブを与えていた[38]。

1.3 1990年代

1.3.1 新しい新古典派総合

1. 1990年代の初頭に経済学者たちは1980年代に進化していたニュー・ケインジアン経済学とリアルビジネスサイクル理論の中身を統合し始めていた。リアルビジネスサイクル理論は経時的変化を組み込んだ動学でありながら完全競争を仮定しており、ニュー・ケインジアンのモデルは経時的変化を組み込んでいない静学でありながら不完全競争に依拠していた。新しい新古典派総合はリアルビジネスサイクル理論の動学とニュー・ケインジアンのモデルにおける不完全競争や名目価格の硬直性を統合させていた。タック・ユンはカルボ型のモデルを採用しながら新しい新古典派総合を初めて実現していた研究者の1人であった[39]。グッドフレンドやキングは異時点間の最適化、合理的期待、不完全競争、メニュー・コスト等を考慮した価格調整のように新しい新古典派総合の核になる4つの要素を列挙していた[40][41]。グッドフレンドやキングによれば、コンセンサスモデルは政策的な含意を生み出しており、金融政策が短期的な実質GDPに影響を及ぼす可能性を有していながらも長期的な実質GDPに影響を及ぼすことを示しておらず、貨幣は短期において中立的ではなかったが長期において中立的であることが指摘されていた。そしてインフレは経済厚生に対してマイナスの影響を及ぼしており、インフレ・ターゲットのような政策を通じて中央銀行がクレディビリティを維持することが肝要とされていた。

1.3.2 テイラー・ルール

1993年に[42]ジョン・B・テイラーは、インフレ、GDP、他の条件における変動に応じて中央銀行が名目金利を調整すべきであるといった金融政策におけるルールであるテイラー・ルールのアイデアを定式化していた。特にテイラー・ルールによればインフレ率が1%上昇するたびに中央銀行は名目金利を1%以上上昇させることが想定されていた。そしてテイラー・ルールにおけるこのような想定はテイラー原理と呼ばれていた。

オリジナルのテイラー・ルールによれば名目金利は望ましいインフレ率と実際のインフレ率との差や実際のGDPと潜在GDPとの差に応じて調整されることが期待されていた。

eqn58.png

この式において、itは政策金利であり短期名目金利であり(アメリカにおけるフェデラル・ファンド金利やイギリスにおけるBOEBR)、πtはGDPデフレーターを用いたインフレ率であり、πt*は望ましいインフレ率であり、rt*は想定される実質金利の均衡であり、ytは実質GDPの対数であり、ytは線形のトレンドを通じて決定されていた潜在GDPの対数であった。

1.3.3 ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブ

ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブは1995年のロバーツの議論に由来しており、ニュー・ケインジアンのDSGEモデルの中で用いられていた[44]。ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブによれば現在のインフレは現在のGDPと将来のインフレに対する期待に依拠していた。このフィリップス・カーブは価格決定に関するカルボ型の動学モデルから導出されていた。

eqn59.png

将来のインフレに対する現在の期待がβ*Ett+1]として表されており、βはその割引率を示していた。定数κはGDPに対するインフレの変化を示しており、全期間における価格変動の確率hを通じて定められていた。

eqn60.png

名目価格の硬直性が小さければ(hが大きければ)現在のインフレに対するGDPの影響が増大することが示されていた。

金融政策に対する科学的アプローチ

1990年代に展開していたさまざまなアイデアが金融政策を分析するためのニュー・ケインジアンによる動学的確率的一般均衡(DSGE)を展開することを通じて統合されていた。DSGEモデルはジャーナル・オブ・エコノミック・リテラチャー誌におけるリチャード・クラリダ、ジョルディ・ガリ、マーク・ガートラーによる研究を通じてニュー・ケインジアンのモデルに依拠した3本の方程式に集約されていた[45][46]。DSGEモデルは最適化されたダイナミック・コンサンプション・ファンクション(家計におけるオイラー方程式)に由来する動学的IS曲線とニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブやテイラー・ルールからなる2本の方程式を統合していた。

eqn61.png

これらの3本の方程式は政策上の問題を理論的に分析することを考慮した比較的シンプルなモデルであった。しかしDSGEモデルはある面で単純化されすぎており(例えば資本や投資が登場していないことが指摘されていた)、現状を経験的にうまく説明していなかった。

1.4 2000年代

2000年代になってニュー・ケインジアン経済学における幾つかの進歩が見受けられていた。

1.4.1 不完全競争労働市場の導入

1990年代のモデルは生産物市場における価格の粘着性にフォーカスしており、2000年にクリストファー・エルツェッグ、デール・ヘンダーソン、アンドリュー・レビンはグループ化されていない労働市場に対するブランチャード=清滝モデルを採用しており、そのブランチャード=清滝モデルをニュー・ケインジアンのDSGEモデルに統合していた[47]。

1.4.2 複雑なDSGEモデルの展開

データと親和性があり政策に有用となるモデルにするために非常に複雑なニュー・ケインジアンのモデルは幾つかの特性を進化させていた。そして極めて重要な論文がフランク・スメッツやラファエル・ウーターズ[48][49]さらにローレンス・J・クリスティアーノ、マーティン・アイヘンバウム、チャールズ・エヴァンス[50]によって発表されていた。これらのモデルにおける共通点は次のようなものであった。

習慣の継続:消費の限界効用は過去の消費に基づいていた。

物価スライド制を伴う生産物市場におけるカルボ型の価格決定:賃金や価格が需給に合わせて調整されない中インフレに合わせて上昇していった。

資本調整コストと可変資本稼働率

新たなショック
1. 消費の限界効用に影響を及ぼす需要ショック
2. 限界費用に対する望ましい価格マークアップに影響を及ぼすマークアップ・ショック

テイラー・ルールに基づいた金融政策

ベイズ推定モデル

1.4.3 情報の粘着性

フィッシャーのモデルにおける情報の粘着性のようなアイデアはグレゴリー・マンキューやリカルド・レイスによって進化を遂げていた[51]。そしてマンキューやレイスはフィッシャーのモデルに次のような特性を組み込んでいた。各期間を通じて賃金や価格を変更することに対して一定の確率が与えられていた。そしてマンキューやレイスによれば四半期ごとのデータを通じてその確率が25%になるだろうといったことが想定されていた。つまり各四半期を通じてランダムに選ばれた企業や組合の25%が現在の情報に依拠して現在ないし将来の価格を変更するであろうといったことが前提とされていた。したがって仮の話になるが私たちは現在を次のように把握しており、価格の25%が利用可能な最新の情報に基づいており、残りの価格は過去の情報に依拠していた。マンキューやレイスによれば情報の粘着性を採用したモデルは長引くインフレをうまく説明していた。

情報の粘着性を採用したモデルは名目価格の硬直性を採用していなかった。企業や組合は各期間を通じて異なった価格や賃金を自由に選択していた。つまり情報は粘着的であったが価格は粘着的ではなかった。したがって企業が業績の向上を通じて現在ないし将来の価格を変更することを想定するならば、現在ないし将来において最適になると思われる価格の推移も選択されるであろう。そしてこの想定はあらゆる期間を通じてばらばらな価格を設定するケースを包含しており、価格決定に関する経験的な事実と相違していた[52][53]。他方でアメリカ[54]、ユーロゾーン[55]、イギリス[56]等の国々における価格の硬直性が研究されていた。これらの研究によれば、価格変更が頻繁に生じるセクターがある一方、ずっと価格が固定されているセクターも存在していた。情報の粘着性を採用したモデルにおける価格の硬直性の欠落は多くの経済における価格の振舞いと一致していなかった。そしてこの研究を通じて価格の硬直性と情報の粘着性を融合させた「デュアル・スティッキネス」が定式化されていた[53][57]。

2 政策的な含意

ニュー・ケインジアンは長期における古典派の二分法つまりマネーサプライの変動が中立的であることについて新しい新古典派と意見が一致していた。しかしニュー・ケインジアンのモデルによれば価格が硬直的であるために、マネーサプライの増大(もしくは金利の低下)が短期的にGDPを増加させ失業率を低下させることが指摘されていた。さらに一部のニュー・ケインジアンのモデルによればいくつかの条件を通じて貨幣の中立性が成立しないケースがあることが指摘されていた[58]。

しかし一方でニュー・ケインジアンは短期的なGDPや雇用のゲインを求めて金融政策を拡大することに賛同しておらず、つまりそれがインフレ期待を上昇させることを通じて将来に問題を先送りしていることが理由として指摘されていた。その代わりにニュー・ケインジアンは経済安定化のために金融政策を活用することを主張していた。つまり一時的なブームを生み出すために突然マネーサプライを増大させることは推奨されておらず、言い換えると膨らんだインフレ期待を鎮めるための景気後退が伴うことであろうことが理由として指摘されていた。

しかし経済が予想外の外的ショックに見舞われたときに金融政策を通じたショックによりマクロ経済に対する影響を相殺することは良いアイデアであると見做されていた。仮に予想外のショックがGDPやインフレを低下させる傾向にあるならば(消費需要の落ち込みのように)、金融政策を通じた相殺はこの良い事例であった。このようなケースにおいてマネーサプライの増加(金利を下げること等)はGDPの増大をもたらしており、インフレやインフレ期待を安定化させていた。

ニュー・ケインジアンによるDSGEモデルにおける最適な金融政策の研究はテイラー・ルールにおける金利の役割にフォーカスしており、どのように中央銀行がインフレやGDPの変動に応じて名目金利を調整しているのかについて論じていた。(より正確に言えば最適なルールは通常GDPギャップにおける変動に対してそのつど生じていた。) またニュー・ケインジアンによるいくつかの単純なDSGEモデルにおいて、安定したインフレがGDPや雇用を望ましい水準で安定させていることからインフレの安定化が望まれていることが示されていた。ブランチャードやガリはこの性質を「神のなせる偶然」と呼んでいた[59]。

しかしブランチャードやガリによれば、複数の不完全市場(雇用調整における摩擦的失業や価格の硬直性による)において「神のなせる偶然」は存在しておらず、その代わりにインフレの安定化と雇用の安定化におけるトレードオフが生じていた[60]。一部のマクロ経済学者によればニュー・ケインジアンによるモデルは四半期ごとの政策提言に対して辛うじて役に立つこともある状態であり、見解の不一致を抱えていた[61]。

近年「神のなせる偶然」は標準的なニュー・ケインジアンによる非線形モデルにおいて成立しなくなってきていることが示されていた[62]。この特徴は金融当局がインフレ目標をゼロに設定しているときにのみ成立していた。他のインフレ目標が設定されているときには、賃金の硬直性のような不完全市場の要因が存在していないときでさえインフレの安定化と雇用の安定化におけるトレードオフが生じており、「神のなせる偶然」はもはや存在していなかった。

3 他のマクロ経済学との関係

長年にわたりケインジアンに倣うかその反面ケインジアンと対立していた「新しい」マクロ経済学が影響力を与えていた[63]。ポール・サミュエルソンはケインズ経済学を新古典派経済学と統合するために「新古典派総合」という語を用いていた。このアイデアは政府と中央銀行が共に完全雇用を目指していることを包含しており、希少性を理論の中心に組み込んだ新古典派による概念を用いていた。そしてジョン・ヒックスによるIS-LMモデルは新古典派総合を核に据えていた。

消費と投資のミクロ的基礎を強調していたジェームズ・トービンやフランコ・モジリアーニのような経済学者による研究はネオ・ケインジアニズムと呼ばれていた。ネオ・ケインジアニズムはポール・デヴィッドソンによるポスト・ケインジアニズムと対照的であり、デヴィッドソンは民間設備投資に関連した減価償却における不確実性の役割を強調していた。

ニュー・ケインジアニズムはロバート・ルーカスや新しい古典派に対するリアクションであった[64]。新しい古典派は「合理的期待」の概念に基づいてケインジアニズムの矛盾を批判していた。また新しい古典派は合理的期待とただ1つの市場均衡(完全雇用の)を統合していた。ニュー・ケインジアンは価格の硬直性が市場価格の均衡を阻害することを示す「ミクロ的基礎」に依拠しており、合理的期待による均衡が1つに定まることが条件とされていないことを指摘していた。

新古典派総合は財政・金融政策が完全雇用を維持するために有用であろうことを期待しており、新しい古典派は価格や賃金の調整が短期的に完全雇用を達成するであろうと想定していた。他方でニュー・ケインジアンは価格が短期において「硬直的」であることを理由にして完全雇用を「長期において」達成されるものと見做していた。

そして2008年のリーマン・ショックを通じて世界銀行やIMFのような国際機関、国際貿易システム、マクロ政策(金融・財政政策のミックス)の協調の意義をケインズが強調していたことが指摘されていた。またIMFのエコノミスト[65]やドナルド・マークウェル[66]による研究にこのような政策の協調が反映されていた。

https://de.wikipedia.org/wiki/Neukeynesianismus

ニュー・ケインジアニズム

ニュー・ケインジアニズムはケインズ流の価格決定つまり賃金の硬直性を新古典派の均衡モデルと組み合わせた経済理論であった。ニュー・ケインジアニズムはミクロ的基礎を採用したモデル(新しい新古典派総合)を通じてそれまでの新古典派総合を塗り替えていた。そして金融政策とりわけ金利政策の有効性を強調していた[1]。

ニュー・ケインジアニズムは1980年代に始まり、国際マクロ経済学の主流となっていった[2]。1970年代のケインズ主義とマネタリズムの間の国民経済論争を経て、1980年代以降のニュー・ケインジアニズム、新しいケインジアニズム(合理的期待を考慮した新古典派の価格均衡モデル)、新しい古典派経済学(完全市場の想定を緩めている)の間に論争が生じていた[3]。

1 ニュー・ケインジアニズム以前の時代

ジョン・メイナード・ケインズは1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著しており、世界的な経済危機のその後を理論化していた。しかしこの著作は経済学者の間でも理解しにくいことで知られていた。1937年にジョン・R・ヒックスはIS-LMモデルを通じて一般理論の解釈を単純化していた。IS-LMモデル(後に修正されながら発展していった)は新古典派総合の一部を形成しており、多くの経済学者によって取り上げられており、1930年代の失策を回避することが可能であったことが指摘されており、新古典派の思想から影響を受けているとも考えられていた。新古典派総合における折衷主義によれば、長期においては新古典派の理論に意味があったが、短期においてはケインズ流の介入主義に価値があるとされていた。そして調整期間の後にフレキシブルな価格や賃金を採用している市場は完全雇用やパレート最適な状態に向かうとされていた。しかし価格や賃金の硬直性は必要とされている調整メカニズムを阻害しており、失業にともなう経済危機を先送りしていることが指摘されていた。他方で新古典派総合はケインズによる概念をカバーしており、数十年にわたり主流派の経済理論であり続けていた[4]。

しかし1970年代にスタグフレーションが生じたことについて、新古典派総合はそのインフレの上昇を説明することができなかった。他方マネタリズムはマネーサプライがインフレに作用するとの解釈を通じて主流派の経済理論に上りつめていた[4]。マネタリズムによれば名目GDPの増加に対してマネーサプライの増加を比例させるならば経済成長と適度なインフレが安定した水準で推移することが指摘されていた。しかしマネーサプライをコントロールするためには貨幣の流通速度を想定することが必要とされていた。貨幣の流通速度は過去のデータを用いた線形モデルによって推計されていた。しかし金融システムの規制緩和、マネー・マーケット・アカウントの導入、金融革新を通じて、1980年代以降の貨幣の流通速度は予測不能になり時として激しい変動を示していた。その結果として名目GDPとマネーサプライの相関は消えてしまっていた。この事実はマネタリー・ターゲットの有用性に疑問を投げかけており、多くの経済学者がマネタリズムから離れていった[5]。そして1980年代には新しい古典派マクロ経済学が主流になっており、合理的期待形成仮説や効率的市場仮説がマネタリズムより市場原理に適っていることが主張されていた[6]。合理的期待形成仮説を研究していたロバート・E・ルーカスは1980年代にケインジアニズムの終焉を宣言していた。

「自己の研究をケインジアンのものと見做す40才以下の経済学者はほとんど見受けられなかった。実際のところ人々はケインジアンと見做されることに対する苛立ちを隠していなかった。研究会の場で人々はケインジアンの理論構成をシリアスに受け止めておらず、聴衆はお互いにくすくす笑うだけであった。」

ちょうどこの頃ニュー・ケインジアン経済学の研究が始まっていた。そしてそれまでのフィリップス・カーブはインフレ期待を考慮したニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブに拡張されていた。また新古典派総合に代わってミクロ的基礎を強調したマクロモデルが展開されていた[1]。ニュー・ケインジアニズムが今日の北米のマクロ経済学を席巻している背景として、新しい古典派やマネタリズムが多くの経験的なエビデンスと矛盾しており、DSGEモデルのようなニュー・ケインジアンのモデルが現状を他のモデルよりうまく説明している事実が指摘されていた[7]。

2 名目価格の硬直性におけるミクロ的基礎

ニュー・ケインジアニズムはDSGEモデルに依拠していたが、新しい古典派のマクロ経済学とは基本的に異なっていた。そしてリアルビジネスサイクル理論(新しい古典派のマクロ経済学)はインフレ、失業、GDPを包含しない完全競争という現実的でない仮定に依拠していた[8]。そのためニュー・ケインジアンのモデルは企業が市場に反応した価格調整をすぐに行わず(価格の粘着性)、労働市場の変化に対して賃金の調整をすぐに行わないこと(賃金の粘着性)を考慮していた。古典的なケインジアニズムにおける賃金の硬直性は例えば労働者の名目賃金に対する想定に依拠していた。ロバート・E・ルーカスはこの想定を批判しており、その理由として人間の行動についてアドホックな前提しか示していないことが指摘されていた。とりわけルーカスによって提唱された新しい古典派マクロ経済学は市場参加者による合理的期待に依拠しており、価格や賃金が完全にフレキシブルであり、経済的変動が外生的に生じるのみであり、非自発的失業は考慮されていなかった。ニュー・ケインジアニズムは確かに合理的期待に依拠していたものの、それとは異なる合理的根拠を提示しており、他方で価格の硬直性を肯定していた[1][2]。

賃金はしばしば長期にわたって硬直的であった。

消費習慣はゆったりとした変化を示していた。

情報は入手困難な性質を示していた。

企業による投資は調整コストを生じさせる一因になっていた。

価格変更は調整コストを生じさせる一因になっていた(メニュー・コスト)。

例えば供給契約や団体協約のような契約上の義務によって価格はタイムラグを伴いながら調整されていた(スタッガード・プライシング)。

ヒステリシス(経済学における履歴効果)。

協調の失敗[9]。

新古典派の理論と異なり完全市場に依拠しておらず、つまり完全市場が現実に置いて稀であることを理由にしており、独占競争に根拠を求めていた。

3 広範な市場の失敗

ニュー・ケインジアンのモデルを通じて広範な市場の失敗が時折り取り上げられていたことが指摘されていた。

不完全な信用市場[10][11]。

モラル・ハザード[12]やマッチング理論における諸問題[13]による失業。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Nouvelle_économie_keynésienne

ニュー・ケインジアン経済学

ニュー・ケインジアン経済学は新しい古典派経済学に対する反応として1980年代に生じていた。もし新古典派の一般均衡理論との関連でニュー・ケインジアン経済学を理解するならば、完全情報の想定を緩めている点に特徴が見出されていた。さらにケインジアンの経済政策(財政赤字や低金利)[1]が市場を機能させることについての構造的な問題を十分に考慮していない点に対して批判的であった。

新しい古典派と対照的にニュー・ケインジアンは市場が需給に応じてすぐに調整されるとは考えていなかった。実際のところニュー・ケインジアンにとって賃金や価格はフレキシブルではなく硬直的なものであった。そして賃金や価格の粘着性は不完全情報に由来していることが指摘されていた[2]。ニュー・ケインジアンの視点は経済をよく機能させるために国家の機能を市場に代替していくことに対してプライオリティを置いていなかった。

代表的なニュー・ケインジアンの中にジョセフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ、ジェームズ・マーリーズ、マイケル・スペンス、ジャネット・イエレン、グレゴリー・マンキュー、IMFのチーフエコノミストであるオリヴィエ・ブランチャード、クリントン政権の財務副長官であったローレンス・サマーズ、ベン・バーナンキ(FRBの元議長であり、2013年にジャネット・イエレンとバトンタッチした)が含まれていた。

1 共通の枠組み

グレゴリー・マンキュー[5]にとって「新しい新古典派総合の核は短期における価格の「硬直性」や多くの市場における不完全性による資源の最適配分から派生したDSGEモデルを通じて経済を認識していることにあった」。

新しい古典派経済学にとって「ビジネスサイクルは予想外の金融ショックないし実物ショックをを通じて説明されており」[6]、ニュー・ケインジアン経済学にとって「景気後退は規模が大きい複数の市場の失敗によって引き起こされており、あるケースにおいて経済に対する政府の介入が肯定されていた」ことが指摘されていた[5]。また新しい古典派と異なりマネタリストのように[5]、ニュー・ケインジアンは金融政策が短期の雇用やGDPに影響を及ぼす蓋然性を想定していた。

協調の失敗に関連した市場の不完全性を抱える中で景気後退の要因は複数存在していた。

その1つはカタログの改定費(メニュー・コスト)であった。つまり価格を調整し続けることが困難であり、度重なる価格変更が企業や顧客の手間になるといった外部性を伴っていることが指摘されていた。

もう1つの問題は不完全情報に関連しており、情報の非対称やアドバース・セレクションがアカロフによって研究されており、シグナリングを通じてその解が与えられていた。

2 労働市場

ケインジアンのようにニュー・ケインジアンは労働市場の不均衡にかなりの関心を抱いていた。そしてニュー・ケインジアン経済学はいくつかの概念を発展させていた。

その1つは効率的賃金仮説であった。この仮説は経済学者であるカール・シャピロやジョセフ・スティグリッツによって1984年に[8]労働市場における失業を説明するために検討されていた。効率的賃金仮説によれば、市場の不均衡は情報に対するアクセスの問題に起因しており、雇用者が業務における従業員の取組みを完全に知り得ることができないといったことを包含していた。そして従業員に最大限に尽力してもらうために、雇用者がライバル企業より若干上回る賃金を従業員に提示する必要が存在しており、このマーケットで決定される額を上回る賃金は効率的賃金と呼ばれていた。また従業員は賃金がよい企業に残留するための取組みに関心を抱いているであろうことが想定されていた。その反対に従業員の賃金が市場清算価格であったならば、従業員にとって転職を通じて失うものは何もなく、従業員の取組みは待遇のよい企業に残留することだけに「縛られることもない」であろう。そして留保賃金といったものが存在しており、それによれば労働あたりの賃金は従業員の生産性と相関していた。

もう1つはインサイダー・アウトサイダー理論であった。このモデルは安定した雇用契約(フランスにおける無期限雇用契約)を交わしている従業員のようなインサイダーと不安定な雇用契約を交わしている従業員や失業者のようなアウトサイダーを対比させていた。この理論はポール・オスターマンによる二元論に依拠した労働市場を描き出していた。労働市場にまだ慣れていない若年層(18才から24才)の非熟練のアウトサイダーはインサイダーより低い賃金で就労する傾向にあり(若年層の留保賃金はより低い)、実際のところ私たちはアウトサイダーに十分なチャンスを与えてこなかった。

3 批判

もしニュー・ケインジアンがレッセフェールを求める新しい古典派に反論するならば、それ[9]は「ピュロスの勝利」でしかないと考えられており、その理由として市場の機能を歪めて認識している新しい古典派の厳格さに対してニュー・ケインジアンによる分析が異議を唱えていることが指摘されていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_neoclassical_synthesis

新しい新古典派総合

新しい新古典派総合は短期の変動を説明するためのコンセンサスとして近代のマクロ経済学の底流にある思想、新しい古典派経済学、ニュー・ケインジアン経済学を融合したものであった[1]。この新しい新古典派総合は新古典派経済学をケインジアンマクロ経済学と統合した新古典派総合と類似していた[2]。新しい新古典派総合は多くの現代の主流派経済学に対して理論的な基盤を提供していた。また新しい新古典派総合は連銀や他の中央銀行の業務における理論的な基盤の核を形成していた[3]。

新しい新古典派総合以前におけるマクロ経済学は小さな規模のモデルを通じた市場の不完全性に対するニュー・ケインジアンの研究とGDPの変動を説明している技術変化や一般均衡理論を包含したリアルビジネスサイクル理論に二分されていた[4]。新しい新古典派総合はニュー・ケインジアンと新しい古典派に由来していた。新しい古典派経済学はリアルビジネスサイクル理論の背後にある方法論を研究しており、ニュー・ケインジアン経済学は名目価格の硬直性(頻繁な価格変更というよりむしろ期間を置きながらのゆったりとした価格変更)を研究の対象にしていた[2]。

1 4つの要素

グッドフレンドとキングは新しい新古典派総合の核になる4つの要素をリストに挙げており[6]、異時点間の最適化、合理的期待形成、不完全競争、価格調整のコスト(メニュー・コスト)が列挙されていた[7]。またグッドフレンドとキングは新しい新古典派総合が政策上の含意を包含していることを指摘していた[6]。そして新しい古典派と対照的に、金融政策が短期の実質GDPに影響を及ぼす可能性を認めながらも長期におけるトレードオフが存在しておらず、つまり貨幣が短期において中立的でないものの長期においては中立的であることが指摘されていた。そしてインフレは負の厚生効果を有しており、インフレ・ターゲットのようなルールを通じて中央銀行が信用を維持することが重要な役割を担っていた。

2 5つの原則

近年マイケル・ウッドフォード(経済学者)は5つの要素を用いて新しい新古典派総合を描写しようとしていた。第一にウッドフォードは異時点間の一般均衡の基礎についてのコンセンサスが存在していると述べていた。そのベースは経済の変化による短期ないし長期のインパクトが単一のフレームワークを通じて検討されることを許容しており、ミクロとマクロの視点はもはや分離されていなかった。新しい新古典派総合の登場は部分的には新しい古典派に対するニュー・ケインジアンの勝利であり、短期におけるマクロの動学をモデル化するケインジアンの願望を内在させていた[8]。

第二に新しい新古典派総合は観察されたデータを用いることの意義を認識していたものの、経済学者は一般的な関係に注目することよりむしろ理論に依拠したモデルの方にフォーカスしていた[9]。第三に新しい新古典派総合はルーカス批判に焦点を当てており、合理的期待を用いていたが、粘着的価格や価格の硬直性を通じて、初期の新しい古典派によって示されていた貨幣の中立性を支持していなかった[10]。

第四に新しい新古典派総合はさまざまなショックが産出量の変動の原因になっていることの蓋然性を容認していた。この視点は貨幣量の変動が短期の実物経済に影響を及ぼすといったマネタリストの視点や需要が変動しながらも供給が安定しているといったケインジアンの視点とは異なっていた[11]。オールド・ケインジアンのモデルは計測された産出量と潜在産出量のトレンドの差として産出量ギャップを認識していた[5]。他方で産出量の変動を説明するためにリアルビジネスサイクル理論は産出量ギャップの可能性を考慮しておらず、ショック後の効率的な資源配分を想定した産出量の変動を検討していた。しかしケインジアンはリアルビジネスサイクル理論を否定しており、それは効率的な資源配分を仮定した産出量の変動が経済全体の変動を説明するほど十分に大きくないことを理由にしていた[12]。

そして新しい新古典派総合は新しい古典派とニュー・ケインジアンの論点を統合していた。新しい新古典派総合において産出量ギャップは是認されており、実際の産出量と効率的な資源配分を仮定した産出量の差として認識されていた。効率的な資源配分を仮定した産出量の想定は潜在産出量が綿々と成長する訳ではなくショックに応じて増減する可能性を内包していた[5][11]。また中央銀行が金融政策を通じてインフレをコントロールすることが可能であるとの認識が容認されていた。この認識は部分的にはマネタリストの勝利であったが、新しい新古典派総合はケインジアニズムに由来するフィリップス・カーブの進化を包含していた[13]。

https://en.wikipedia.org/wiki/Neoclassical_synthesis

新古典派総合

新古典派総合はジョン・メイナード・ケインズによるマクロ経済思想を新古典派経済学の中に取り込む第二次世界大戦以降の経済学の潮流であった。主流派の経済学はマクロ経済学におけるケインジアンとミクロ経済学における新古典派の統合を通じて収拾されていた[1]。

新古典派総合は主にジョン・ヒックスによって進歩を遂げ数理経済学者であるポール・サミュエルソンによって世に広められていき、サミュエルソンは新古典派総合という語を造りだし、部分的にはテクニカルライティングやテキストブックである『経済学』を通じて「新古典派総合」を浸透させていった[2][3]。新古典派総合の展開プロセスはケインズによる『一般理論』の公表を経てジョン・ヒックスによる1937年の論文に初登場したIS-LMモデル(財市場と貨幣市場の均衡モデル)を通じて形成されていた[4]。

新古典派総合は市場の需給モデルをケインズ理論に適用することから始まっていた。そして新古典派総合は意思決定プロセスにおいて重要な役割を担っているインセンティブやコストを包含していた。その具体例として個人の需要における消費者理論があり、この消費者理論は(コストとしての)価格と所得がどのように需要量に影響を及ぼすのかといったことを示していた。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_classical_macroeconomics

新しい古典派マクロ経済学

新しい古典派マクロ経済学は新古典派のフレームワークを分析するマクロ経済学の学派であった。そして新しい古典派マクロ経済学は合理的期待のようなミクロ経済学に依拠した基礎の意義を強調していた。

新しい古典派マクロ経済学はマクロ経済分析に対して新古典派ミクロ経済学を通じて基礎を提示していた。この新しい古典派マクロ経済学は初期のケインジアンに類似したマクロ経済学のモデルを成立させるために価格の粘着性や不完全競争のようなミクロ的基礎を用いていたニュー・ケインジアンと対照的であった[1]。

1 歴史

古典派経済学は近代経済学の始まりを示す語であった。1776年にアダム・スミスによって著された『諸国民の富』が古典派経済学の誕生を示していると考えられていた。その核となるアイデアは資源配分に最適であり修正を加え続ける市場の力を前提にしていた。またあらゆる個人が経済活動を最大化することが想定されていた。

そしてカール・メンガー、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、レオン・ワルラスによって19世紀後半のヨーロッパで引き起こされた限界革命が新古典派経済学として知られる潮流を生み出していた。この新古典派経済学の体系はアルフレッド・マーシャルによって詳述されていた。しかしワルラスの一般均衡が数学的な厳密さと公理からの演繹的な推論に依拠した科学としての経済学を方向付けており、ワルラスによる研究は新古典派経済学の核になり、今日でも主流派の経済学のテキストブックに取り上げられていた。

新古典派経済学は世界恐慌まで主流派であり続けていた。しかしその後1936年のジョン・メイナード・ケインズによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』の出版を経て、いくつかの新古典派経済学の前提が否定されるようになっていった。ケインズはマクロ経済学のパフォーマンスを示す集計量に依拠したフレームワークを提示しており、現在行われているようなミクロとマクロの区別を方向付けていた。またケインズ理論の功績は経済活動を「アニマル・スピリット」によって突き動かされるものとして認識している点にあった。この点でケインズ理論は人間の経済的役割をいわゆる(欲望を最大化する)合理的な経済主体に限定していた。

そして第二次世界大戦を通じてアメリカや西ヨーロッパにおいてケインズ政策が浸透するようになった。1970年代まで続いた主流派としてのケインズ経済学の地位は元アメリカ大統領であるリチャード・ニクソンや経済学者であるミルトン・フリードマンによる「我々は今や皆がケインジアンである」との発言にも示されていた。

そして厄介な問題が1970年代と1980年代初頭にスタグフレーションが引き起こされるにつれて表面化していた。スタグフレーションは失業とインフレが同時に高止まりすることを意味していた。ケインジアンはスタグフレーションの出現に戸惑っており、フィリップス・カーブが高いレベルのインフレと失業を想定していなかったことがその背景に存在していた。

1.1 スタグフレーションに対するレスポンス

ケインズ経済学がスタグレーションを説明することに失敗していたことに対応して、新しい古典派経済学が1970年代に登場していた。ロバート・ルーカスやミルトン・フリードマンのような新しい古典派やマネタリストによる批判がケインズ経済学に再考を促していた。とりわけルーカスはケインズモデルに疑問を投げかけるルーカス批判を行っていた。このルーカス批判はマクロモデルがミクロ経済学に依拠すべきであることを強調していた。

1970年代のケインズ経済学の明白な失敗を経て、新しい古典派はしばらくの間マクロ経済学の主流派になっていた。

2 分析の方法

新しい古典派による視点は経済成長の変動要因を3つに分類しており、生産性ファクター、資本ファクター、労働ファクターが挙げられていた。そして新しい古典派による視点やリアルビジネスサイクル理論を通じて分析がなされており、実体経済の変動が説明されていた。

生産性ファクターは集計された生産効率を意味していた。また世界恐慌との関連で生産性ファクターは経済が利用可能な資本や労働における遊休率を示していた。

資本ファクターは異時点間の消費における限界代替率と資本の限界生産力のギャップを包含していた。そして資本(貯蓄)課税のように資本蓄積や貯蓄の形成に作用した結果としての「社会的便益の」損失の存在が指摘されていた。

労働ファクターは余暇に対する消費の限界代替率と労働の限界生産性との比を意味しており、雇用の負担を増加させる労働税(労働市場におけるある種の軋轢)のように作用していることが指摘されていた。

3 論拠と前提

新しい古典派経済学はワルラスの法則に依拠していた。あらゆる経済主体は合理的期待に依拠した効用を最大化することを前提にしていた。そして経済は価格や賃金の調整による完全雇用における単一の均衡をつねに想定していた。つまり市場はいつも清算されていた。

新しい古典派経済学は代表的個人モデルを採用していた。代表的個人モデルは新古典派から厳しく批判されており、カーマン(1992年)によって指摘されているようにそのミクロ的行動とマクロ的プロセスの不整合が理由とされていた。

合理的期待の概念は当初ジョン・ミュースによって用いられており、その後ルーカスを経て世に広められていった。新しい古典派モデルの1つにリアルビジネスサイクル理論があり、エドワード・C・プレスコットやフィン・E・キッドランドによって展開されていった。

4 レガシー

正統派の新しい古典派モデルに関して現実を説明しながら予測することにおけるパフォーマンスが劣っていることが指摘されていた。新しい古典派モデルは現実の景気循環のサイクルと変動の大きさを両立させながら説明することに失敗していた。そして予期せぬ貨幣的変動のみが景気循環や失業に影響を及ぼすといった結論は経験的な事実と一致していなかった[2][3][4][5][6]。

また主流派経済学は新しい新古典派総合に移行していった。新しい古典派を含む多くの経済学者はいくつかの理由から賃金や価格が需給の長期均衡へスムーズに移行しないといったニュー・ケインジアンのアイデアを容認していた。そして金融政策が短期的に有効であるといったマネタリストやニュー・ケインジアンの視点も容認していた[7]。新しい古典派マクロ経済学は合理的期待形成仮説や異時点間の最適化といったアイデアをニュー・ケインジアン経済学に援用していた[8]。

ピーター・ガルバックスによれば[9]評論家たちは新しい古典派マクロ経済学に対して表面的で不十分な理解しか持ち合わせておらず、新しい古典派の前提における一定の特徴に注意すべきであることが指摘されていた。そして価格が完全にフレキシブルであり、世界や市場の期待が完全に合理的であり、実物経済のショックがランダムに生じるならば、金融政策は失業やGDPに影響を及ぼさず、実物経済をコントロールする政策はインフレ率の変化にしかならないことも指摘されていた。しかしこのような前提が成立しないケースでは金融政策は有効であった。また同様のケースではランダムな財政政策も有効であった。仮に政府が市場をコントロールする手段を有しているならば、ケインズ風に実物経済をコントロールすることは可能であった。そして実際のところ新しい古典派マクロ経済学は経済政策を有効にするための条件を強調しながらも無効にするための条件をなおざりにしていた。またランダムな財政政策の効果に対する誘惑が忘れ去られることはなかったが、新しい古典派によって経済政策の活躍の場は狭められていた。ケインズがランダムな財政出動の効果を肯定している一方で、財政政策の効果は新しい古典派においても新しい古典派が認めた条件を満たしているときのみ肯定されていた。

リアルビジネスサイクル理論に貢献しているベルント・ルッケは新しい古典派マクロ経済学モデルを「経済のカリカチュア」と呼んでおり、その前提が市場の失敗の蓋然性や非合理な行動を除外しており、価格がいつも完全にフレキシブルであり、市場が常に均衡していることを理由にしていた。そして現在の新しい古典派マクロ経済学のミッションはどの程度この経済のカリカチュアが景気循環を十分に予測することができるのかを研究することにあった[10]。

https://de.wikipedia.org/wiki/Neue_Klassische_Makroökonomik

新しい古典派マクロ経済学

新しい古典派経済学はとりわけロバート・E・ルーカス、トーマス・サージェント、ニール・ウォーレスによって研究されており、新古典派の理論を通じてミクロ的に基礎付けされたモデルを採用していた。その主な前提は合理的期待形成や絶えず市場が清算された状態にあることを包含していた。そして新しい古典派経済学は金融政策が想定の範囲内であれば無効であると論じていた。1970年代の論争がケインジアニズムとマネタリズムの論戦によって特徴付けられている一方、1980年代以降の論争はニュー・ケインジアニズムと新しい古典派マクロ経済学のそれに移行していた[1]。

1 前提

新しい古典派マクロ経済学は以下の前提に依拠していた[1]。

市場の清算が完全な価格のフレキシビリティに立脚していた。

失業は調整コストを通じた一時的なものであった(自然失業のみ存在していた)。そして長期において非自発的失業は想定されていなかった。

合理的期待形成仮説によれば経済主体があらゆる利用可能な情報を効率的に活用することが念頭に置かれていた。

完全な貨幣の中立性:想定内の金融政策は名目価格と名目賃金に対してのみ作用していたが、GDPや雇用に影響を及ぼすことはなかった。

大きなショックや想定外の財政・金融政策を通じたランダムな変動が不完全情報に依拠しながら生じていた。

2 他の学派との関係

ある経済学者はマネタリズムの派生を含む新しい古典派マクロ経済学を研究しており、他の経済学者は新しい古典派マクロ経済学内の差がマネタリズムとケインジアニズムの差より大きかったと論じていた[1]。

市場の清算が想定されており、新古典派総合やニュー・ケインジアニズムと対比させながら金融・財政政策の無効が論じられており、短期における金融政策の有効性が述べられていた。他方でニュー・ケインジアニズムは合理的期待形成や新しい古典派マクロ経済学に依拠したミクロ的基礎を包含していた。

3 評価

新しい古典派マクロ経済学はマクロ経済学の展開において重要な役割を担っていた。とりわけマクロ経済学のミクロ的基礎は経済主体の合理的行動に依拠しており、モデルにインフレ期待の影響を組み込んでいた。これらの要素はニュー・ケインジアニズム(新しい新古典派総合)に包含されていた。

そして実際のところ新しい古典派マクロ経済学におけるリアルビジネスサイクル理論は実体経済のトレンドを予測することに失敗していた。このリアルビジネスサイクル理論は改良を加えられながらニュー・ケインジアンのモデルに受け継がれていった[2][3][4]。

現在概して新しい古典派マクロ経済学の研究者を含む経済学者の中にコンセンサスが存在しており、それは賃金や価格が需給均衡を達成するのに十分なほど素早く調整されるといったことはないといったものであった。したがって金融政策の効果に対するいくつかの仮説は今日その支持基盤を失っていた[5]。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Nouvelle_économie_classique

新しい古典派経済学

新しい古典派経済学は1970年代に展開されたある経済思想の潮流を示していた。新しい古典派経済学はケインジアニズムを否定しており、全体として新古典派経済学に依拠していた。新しい古典派経済学の特徴はミクロ的基礎付けにあり、ミクロ経済学によってモデル化された経済主体の行動からマクロモデルを導き出していた。

新しい古典派の前提は次のようなものであった。

(効用を最大化する)経済主体の合理性。

合理的期待形成。

つねに経済は唯一の均衡にあり(完全雇用を果たしながら)、この均衡は価格と賃金の調整メカニズムによって達成されていた。

リアルビジネスサイクル理論は新しい古典派における核になる理論であった。

新しい古典派の経済学者を以下に列挙する。

ロバート・ルーカス(1995年ノーベル経済学賞受賞)
フィン・E・キドランド(2004年ノーベル経済学賞受賞)
エドワード・C・プレスコット(2004年ノーベル経済学賞受賞)
ロバート・バロー
ニール・ウォーレス
トーマス・サージェント(2011年ノーベル経済学賞受賞)

https://en.wikipedia.org/wiki/AD-AS_model

AD-ASモデル

AD-ASモデルないし総需要・総供給モデルは総需要と総供給の関係を通じて価格と産出量を分析するマクロ経済モデルになる。AD-ASモデルはジョン・メイナード・ケインズによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』に依拠していた。AD-ASモデルはマクロ経済学における単純化された例の1つであり、リバタリアンでありマネタリストでありレッセ・フェールの信奉者であるミルトン・フリードマンからポストケインジアンであり政府による介入主義者であるジョーン・ロビンソンまで幅広く採用されていた。

従来の「総需要・総供給モデル」は幅広く認知されたケインジアニズムをビジュアルで示していた。供給が需要を生み出すといったセイの法則に依拠している古典派の需給モデルは総供給曲線をつねに垂直に描いていた(長期の話ではない)。

1 モデル

AD-ASモデルは景気循環についてのケインズ・モデルを示していた。総需要曲線や総供給曲線のシフトは外生的な要因が実質GDPと価格水準に与える影響を想定するために用いられていた。またAD-ASモデルは動学(価格水準や実質GDPのような要素が時系列でどのように変動するかを示すモデル)の一部に組み込まれていた。そしてAD-ASモデルはインフレと失業の関係を示すフィリップス・カーブに関連していた。

2 総需要曲線

総需要曲線はIS-LM曲線上の均衡所得の推移と価格水準との関係によって定義されていた。右下がりのAD曲線はIS-LMモデルから導き出されていた。

総需要曲線は財市場と資産市場が同時に均衡している価格水準と産出量の水準の組合せを示していた。LM曲線がLM'曲線に右下方にシフトしたときのIS曲線とLM曲線を示している図によれば、財市場と貨幣市場が同時に清算されるE'に新たな均衡がシフトすることが示されており、シフトしたGDPであるY'はより低い価格水準P'に対応していた。したがって価格水準の低下は均衡支出の増加を導いていた。

総需要曲線の定式化

eqn62.png

Yは実質GDP、Mは名目マネーサプライ、Pは価格水準、Gは実質政府支出、Tは外生的な実質課税額、Z1はIS曲線のシフト(支出に対する外生的な影響)やLM曲線のシフト(貨幣需要に対する外生的な影響)に作用する外生変数を示していた。実質マネーサプライは総需要に対してポシティブに作用しており、実質政府支出も同様であった(独立変数が一定方向に変化するとき総需要も同方向に変化していた)が、税は総需要に対してネガティブに作用していた。

IS-LM分析では実質所得が横軸になり、利子率が縦軸であった。

AD-AS分析では実質所得が横軸になり、価格水準が縦軸であった。

3 総需要曲線のスロープ

総需要曲線のスロープは財市場と資産市場の均衡を考慮しながら実質残高が消費支出の均衡に影響を及ぼすさじ加減を反映していた。そして実質残高の増加は均衡所得と均衡支出を増大させ、貨幣需要の利子弾力性を低減させ、投資需要の利子弾力性を増大させていた。また実質残高の増大は所得と支出の水準を増大させ、乗数を増大させ、貨幣需要の所得弾力性を低減させていた。

この含意として、貨幣需要の利子弾力性が小さく、投資需要の利子弾力性が大きいほど、総需要曲線は水平に近づいていった。また乗数が大きく、貨幣需要の利子弾力性が小さいほど、総需要曲線は水平に近づいていった。

4 総需要曲線に対するマネーストックの拡大の影響

名目マネーストックの増大は各価格水準に対する実質マネーストックを増大させており、資産市場における金利の低下は実質残高の増大を後押ししていた。またマネーストックの拡大は総需要を刺激しており、均衡所得と均衡支出を増大させていた。つまり図を用いるならば、総需要曲線はマネーストックの拡大に応じて右方にシフトしていた。

5 総供給曲線

総供給曲線は労働市場の均衡ないし不均衡を反映しており、総供給曲線はさまざまな価格水準において企業がどれほど生産しているのかを示していた。そして総供給曲線は個々の価格水準に対して企業が生産する予定の産出量を表していた。

ケインジアンの総供給曲線によれば、ある部分ではAS曲線は水平に近く、不況期の価格を前提にした財の需要量がどれほど多くとも、企業は供給を行うだろうといったことが想定されていた。このケインジアンの総供給曲線は失業が存在しており、企業が現在の賃金で望むがままの労働力を補うことができ、一切設備を増強することなく増産することができる(例えばアイドル状態の設備が多数存在している)といったことを前提にしていた。したがって生産に関する平均費用は生産量の変化にかかわらず一定であることが想定されていた。これらの想定はケインジアンが政府の介入を肯定するための根拠になっていた。また経済の総生産は価格水準を低下させることなく減少することが想定されていた。そしてケインジアンによる賃金の下方硬直性に関する経済的リアリティーは政府による刺激策の必要性を示していた。つまり総供給を拡大させるように低く賃金を調整できないため、政府が介入する必要が存在していた。ケインジアンの総供給曲線は総供給が価格水準の変化に応じて変化するカーブを描いていた。そのカーブは企業の生産に関する収穫逓減の法則に従っており、企業が成長するにつれて設備のキャパを改善すればするほどコストがかさむことが想定されていた。収穫逓減は天然資源の希少性にも依拠しており、その希少性は増産がコストの上昇につながることを示していた。ケインジアンの総供給曲線におけるバーティカルな部分は経済の物理的な限界に対応しており、ある限界を超えると増産が不可能になることが想定されていた。

古典的な総供給曲線は短期の総供給曲線とバーティカルな長期の総供給曲線で構成されていた。短期の総供給曲線はある価格水準で財・サービスを提供する産出の想定をビジュアル化していた。ここでいう「短期」は最終財の価格のみが調整され、労働や資本といった要素価格が調整されない期間を示していた。そして「長期」は要素価格がすでに調整されている期間を表していた。短期の総供給曲線は収穫逓減の法則や資源の希少性を理由にしてケインジアンの総供給曲線と同様に右上がりのカーブであった。長期の総供給曲線はバーティカルであり、要素価格がすでに調整済みであることが背景に存在していた。完全雇用から離れたポイントで生産を行うと要素価格が上昇し、短期の総供給曲線を内側にシフトさせ、均衡は完全雇用を達成するどこかのポイントで生じていた。しかしマネタリストによれば、ケインジアンに好まれる需要サイドの刺激策は単にインフレを引き起こすだけであった。また総需要曲線が外側にシフトするときに一般価格水準が上昇していた。そしてこの上昇した価格水準は家計や生産要素のオーナーが財・サービスの価格の上昇を求めることの要因になっていた。要素価格の上昇は企業の生産コストを押し上げ、短期の総需要は逆に内側にシフトすることを惹起されていた。つまりその理論的な帰結はインフレであった[1]。

5.1 総供給曲線のシフト

長期の総供給曲線が存在していないケインジアンのモデルや短期の総供給曲線に関する古典派のモデルは同じ要因から影響を受けていた。生産コストを変動させる要因は生産コストが低減すればカーブを外側へそして増加すれば内側にシフトさせていた。短期の生産コストに作用する要因は税や補助金、賃金、原材料の価格を包含していた。この短期の生産コストに作用する要因が短期の総供給曲線をシフトさせていた。また労働と資本の量と質の変化は長短期の総供給曲線に影響を及ぼしていた。労働や資本の量の増加はそれらの価格の下落に対応していた。そして労働や資本の質の向上は労働者や機械あたりの産出量の増大を促していた。

古典派における長期の総供給曲線は潜在産出量に作用する因子から影響を受けていた。このような因子は労働や資本の量と質の変化をその核に据えていた。

6 古典派やケインジアンにおける財政・金融政策

ケインジアンのケース:財政を拡大させ、政府支出の増加や減税を政策として採用するならば、総需要曲線が右方にシフトすることが想定されていた。この右方シフトは均衡産出量や雇用の増加を含意していた。

古典派のケース:産出量の水準が完全雇用のとき総供給曲線はバーティカルであった。そして企業は価格水準の如何にかかわらず均衡産出量の水準をキープしていた。

財政の拡大は総需要曲線を右方にシフトさせ、財に対する需要を増加させていたが、企業は利用可能な労働力を確保できないので産出量を増大させることに問題を抱えていた。企業がより多くの労働者を雇用する際に賃金や生産コストの上昇に直面することになり、結果として製品の価格が上昇することが促されていた。そして価格の上昇は実質マネーストックを減少させ金利の上昇や支出の減少を促していた。

労働市場の供給過剰をともなう総供給曲線つまり短期の総供給曲線は以下のように示されていた。

eqn63.png

Wは名目賃金率(短期の下方硬直性により外生的に与えられる)、Peは想定された(期待)価格水準、Z2は労働需要曲線の位置に影響を及ぼす外生変数のベクトル(資本ストックや技術の水準)を示していた。そして実質賃金は企業の雇用や総供給に対してネガティブに作用していた。価格の推移を読み間違えた企業による生産計画のミステイクを背景にすると想定された価格水準は総供給に対してポジティブに作用していた。

長期の総供給曲線は資本ストックが常に最適化されるような時間の流れと関係しておらず(ミクロ経済学で用いる「最適化」の意味)、賃金が労働市場を均衡させるように調整され価格に対する想定が適切であるような時間の流れに関連していた。また名目賃金率は外生的であり、総供給方程式の独立変数として作用していなかった。そして長期の総供給曲線は以下のように示されていた。

eqn64.png

長期の総供給曲線は産出量の水準が完全雇用のときにバーティカルであった。長期においてZ2は労働供給曲線の位置に作用する因子(例えば人口)を包含しており、労働市場の均衡における労働供給曲線の位置が雇用に影響していることを背景にしていた。

7 総需要曲線や総供給曲線のシフト

総需要曲線や総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示す。またその反対の外生的な因子は左方に曲線をシフトさせていた。

7.1 総需要曲線のシフト

総需要曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。そして総需要曲線の右方シフトの結果として価格水準は上昇するであろう。また短期において総供給曲線がバーティカルであるよりむしろ右上がりであるならば、実質産出量が増大することが想定されるが、長期において完全雇用が達成され総供給曲線がバーティカルであるならば、実質産出量が一定で変動しないことが想定されていた。

IS曲線に依拠した総需要曲線の右方シフト

消費支出の外生的な増大

物的な資本に対する投資支出の外生的な増大

意図された在庫投資の外生的な増大

財・サービスに対する政府支出の外生的な増大

政府から国民への移転支出の外生的な増大

課税額の外生的な減少

自国の輸出の外生的な増大

自国の輸入の外生的な減少

LM曲線に依拠した総需要曲線の右方シフト

名目マネーサプライの外生的な増大

マネーサプライに対する需要つまり流動性選好の外生的な減少

7.2 総供給曲線のシフト

短期の総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。そして総供給曲線の右方シフトの結果として価格水準は減少し実質GDPは増大するであろう。

賃金率の外生的な減少

物的資本ストックの増大

技術進歩 -- 資本や労働から産出する技術の進展

また長期の総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。

人口の増大

物的資本ストックの増大

技術進歩

7.3 推移プロセス -- 動学

経済が定常状態から最も離れているときに定常状態に戻るムーブメントが最も早くなることが指摘されていた。

つまり総供給がショックを受けると総供給は定常状態から離れるが、供給はゆっくりと定常均衡にシフトし、初めに大きな変動が生じた後、定常状態に達するまで小さな変動が続いていた。均衡に戻る変動は定常状態から最も離れているときに最も大きく、均衡に近づくにつれて小さくなっていった。

一例を挙げれば、生産者は生産要素(土地、労働、資本のような)の増大として石油価格の急騰を理解していた。この急騰はインフレ期待を上昇させることを通じて供給曲線を上方にシフトさせていた。このシフトは総供給曲線を定常状態を戻すようなゆっくりとした調整プロセスにあった。インフレがゆっくりと落ち込んでいくにしたがって総供給曲線は定常状態へと回帰していった。

8 マネタリズム

貨幣数量説によれば価格水準は貨幣数量に左右されていた。ミルトン・フリードマンは産出量や価格の変動に影響を及ぼす金融政策や貨幣の役割を強調したマネタリストと呼ばれる経済学者のリーダーとして認知されていた。貨幣数量説は短期の供給曲線がバーティカルになることを想定しない厳密な貨幣数量説に対して否定的であった。つまりフリードマンや他のマネタリストは短期と長期における貨幣数量の影響について異なった見解を有していた。フリードマン達は長期における貨幣の影響が中立的になることを主張していた。そして名目マネーストックの変動は実質マネーストックに一切影響を及ぼさず価格を変動させるだけであることが論じられていた。しかし短期においてフリードマン達はマネーストックの変動や金融政策が実質値に影響を及ぼす可能性があることについて言及していた。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Modèle_OG-DG

AD-ASモデル

AD-ASモデルは経済を説明するモデルであった。そして総需要・総供給モデルは時として準需要・準供給モデルと呼ばれていた。総需要・総供給モデルは財・サービス市場、貨幣市場、債券市場、労働市場における一般均衡を示していた[2]。短期において価格水準は変動せず調整されることもなかった[2]。時間の流れは基本的に短期の連続として想定されており、長期は価格水準が完全に調整された状態として理解されていた[2]。

総需要曲線

AD-ASモデルにおける総供給曲線はIS-LMモデルを通じて導かれていた。総需要曲線は一般価格水準と均衡国民所得の間の関係を描写していた。総需要曲線は右下がりになり、通貨の調整メカニズムによって一般価格水準の上昇が均衡国民所得の低下を促すことを理由にしていた[3]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-politics

ポスト・ポリティックス

ポスト・ポリティックスはポスト冷戦時代において地球規模のコンセンサス政治が登場していたことに対する批判を示しており、ベルリンの壁の崩壊を促した東ヨーロッパの共産圏の瓦解によって社会の基盤としての資本主義市場や自由主義国家を肯定するポストイデオロギーを容認するコンセンサスが形成されていたことを背景にしていた。ジャック・ランシエール、アラン・バディウ、スラヴォイ・ジジェクのようなラディカルな哲学者のグループやラディカルな平等の実現としての政治学に対する関心によって生み出された批判はポストイデオロギーを容認するコンセンサス政治が適切な政治的状況をつぶす原因になっていると主張しており、「ポスト・デモクラティック」な統治技術の確立を通じて、政治学は社会福祉行政学になっていることが指摘されていた。一方でポストモダニストによる「自己の政治学」の登場を通じて新たな「行為の政治学」が生み出されており、「行為の政治学」においては政治的価値観が道徳的価値観に入れ替わっていた(シャンタル・ムフは「道徳の領域における政治学」と呼んでいた)。

1 ポスト・ポリティカル・コンセンサスのルーツ

1.1 1989年以降のグローバルな政治状況

1989年のベルリンの壁崩壊に続く東欧の共産圏の瓦解は冷戦時代の終結に加えて東側と西側や共産主義者と資本主義者の間のイデオロギーを巡る膠着状態の幕切れを告げていた。資本主義は勝者になり、資本主義に対応した政治ドクトリンであるリベラル・デモクラシーも同様であった。危機に瀕していたシステムを一掃した共産主義国家の崩壊に伴って西側は社会民主主義やケインズ主義を放棄しながら、新自由主義に後押しされてグローバルに広がった新たな局面に直面していた。その端緒としてのフランシス・フクヤマによる『歴史の終焉』はポスト・ポリティカルでありポスト・イデオロギーの「時代風景」の登場を描いていた。そしてニューレイバーや「ラディカルな中道勢力」による第三の道を目指す政治がその先駆けとして示されていた。

1.2 知的状況

フクヤマによればさまざまな知的状況がポスト・ポリティカル・コンセンサスの形成に関連していた。脱工業化社会の社会学者であるアンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックによって提起されていた「再帰的近代化」は第三の道を目指す政治を反映した知的状況を示していた。「再帰的近代化」を通じてこれらの著者は政治活動の急務が社会福祉の問題(再分配の政治)からリスク管理(責任を分配する政治)へシフトしていたと述べていた。そしてその例として「環境の外部性」が挙げられており、それは産業の前進に伴う副産物であり望ましいものではなかった。ベックやギデンズにとってのリスク管理(責任を分配する政治)は必然の急務であり、時代に対応した新たな「社会的再帰性」を意味しており、それは手段合理性や決定的な政治衝突とは異なっており、それらのある種の利己主義がポスト冷戦における社会変化を導いていた。実際ギデンズにとってのリスク管理(責任を分配する政治)は「社会的再帰性」を念頭に置いており、社会技術に関する知識や「ポスト・トラディショナル」な社会におけるリスクの拡散を通じた個人が決定し活動できる能力の拡大を意味しており、次のような道を開いていた。 

ポスト・フォーディストによる生産(現在行われているフレキシブル生産や稟議制に基づいている)

討論や能動的信頼を通じて社会が権力と対峙していることを再構成すること(国内外の政治的な権力、専門家による権威、行政的な権力を含んでいる)。

ベックやギデンズによれば、これらの変化は政党や労働組合のような伝統的な団体を通じて組織された利害関係、階級、イデオロギーに基づく政治を時代遅れなものにしていた。私たちは新たな「自己の政治学」(ベックにおけるサブ政治やギデンズにおけるライフ・ポリティクス)の登場を目撃しており、幅広いポストモダンの転換点の一部として、以前は純粋に個人の問題として考えられてきた諸問題が政治学の舞台に姿を現していた[1]。

あらゆるコメンテーターがこの解釈に同意している訳ではなかったが、この批評のパースペクティブはポスト・ポリティカルな批評を生じさせている構成要素に包含されていると考えられていた。例えばニコラス・ローズ[2]はニューレイバーに影響されたイギリスにおける第三の道を目指す政治の登場と共に現実となった政治的主観性のカモフラージュを通じた政府による新たな「行為の政治」の役割を強調することによってベックやギデンズに反論していた(とくにそれは脱工業化社会を経験した先進国において顕著であった)。ギデンズの「社会的再帰性」に反対しており、この新たな「倫理政治」に関するローズの研究は、自律性、自由に対する希求、自己充足的な個人を強調している「国家を超えたガバナンス」といった新たな市場個人主義者(シュンペータリアン)による枠組みに対する非難を示唆していた。ローズによれば、「倫理政治」が有している基本的な特徴は政治的なアクターの政治的な感性よりむしろ倫理的な感性に関連しており、新自由主義の影響を受けながら政治学が引き受けている道徳的な役割に対応する傾向にあった。実際、イギリスのパブリック・セクターの衰退に関する研究を通じて、デイビット・マーカンド[3]はその道徳的な諸価値に言及しており、その価値観は「プライベート・セクター」からの巻き返しを通じて、サッチャーやブレア政権によって成された新自由主義的な改革や国有資産の売却を支持していた。この事実はポスト・ポリティカルな批判が対処していた重要なプロセスになり、ムフは「道徳の領域における政治学」に触れており、他方でランシエールによる政治的なるものの再構築は1980年代後半のアリストテレス的な「倫理学の」変化と共に生じていた政治哲学の脱政治化に対する挑戦でもあった[4][5]。

またベックは環境保護主義を政治のパーソナライゼーションを促進するパラダイムとして指摘しており、他方でエリック・スィンゲドーによれば、先進国に見られるように、環境に「悪い」とローカルに考えられているものによる影響に対して抵抗する個人のライフスタイルにおける選択や個人主義を強調している環境保護主義が自然と人間社会の構造的な関係における適切な政治的トピックスから注意をそらすためにうまく機能していることが指摘されていた[6]。そしてベックはリスク社会を特徴付ける地球規模の不確実性の展開の結果としてポストモダンでアイデンティティに根差した政治と関連した新たな懐疑論を歓迎していた[7]。対照的に、批評家たちは真実に対する反本質主義の立場が「大きなナラティブ」に対して作用していた深刻な結果を嘆いており(政治的目的論を参照せよ)、ポスト・ポリティカルな批評の支持者にとって、これらの大きなナラティブは政治の現実を示していた。

2 ポスト・ポリティカルな批評

ポスト・ポリティカルな批評の支持者は統一された理論を呈示していなかった。しかしムフを除いて、この批評に関連した哲学者たちは次のような共通点を有していた。

彼らがラディカルな左派の思想のリバイバルの端緒に対して近年築き上げた貢献、

アクティブでラディカルな平等(形式的な平等と対照的に公理的に与えられた平等)や人間の解放に対する関心、

広い意味での唯物論者は転向しており、後期の研究ではマルクス主義の色彩を多少なりとも残しているものの、初期の研究では皆マルクス主義から影響を受けていた。さらにマルクス主義の影響を残しながら、皆が実質的にポスト構造主義の立場から離れていた[9]。

ムフのようにランシエール、バディウ、ジジェクが一致していることは、現在のポスト・ポリティカルな危機において「適切な政治状況」をシステマティックに妨げているものが存在しており、「適切な政治状況」の再構築は政治的なるものに対する概念をラディカルに再提示することに依存するだろうといったことであった。

存在や経験の側面のみから政治を語ること、つまり「政治における事実関係」や「権力の行使と一般的な事柄に関する決定」[10]としての政治に対する関心の示し方の難しさの広がりに対して、彼らの再構成は政治の存在論つまり政治的なるものの本質に関心を寄せなければならないと論じていた[11]。彼らの各人が異なった方法で適切な政治的なるものを概念化しながら、彼らの皆が政治学が解決困難な対立感情を包含する状況に置かれていることに一致しており[12][13][14][15]、ジジェクはラディカルで先進的な視点が「政治的なるものの一部として対立感情を最初の問題として取り上げるべきだ」と論じていた[16]。定義に用いるロジックに対するコンセンサスについて、ポスト・ポリティックスが適切な政治的なるものを妨げていることが批判されていた。

2.1 政治的なるものに対するランシエールの説明

2.1.1 政治とポリス体制の比較

ランシエールは政治の概念を再度取り上げていた。ランシエールにとって、政治の概念は通常想定されているような「権力の行使や一般的な事柄に関する決定」の中になかった。むしろもし政治が共通の空間や共通の関心を共有することを事実にして出発しているならば、そしてもし「一般的な事柄に関するあらゆる決定が共通の土台の存在を求めているならば」、ランシエールによれば、適切な政治が土台を共有しながら競合する利益の代表の間に存在している固有の対立感情を描写することになることが指摘されていた[17]。

共通の土台を通じて、政治的なるものに対するランシエールの説明は適切な政治における概念(対立感情のようなもの)とランシエールがポリス体制と呼んでいるものとの間の違いから生じていた。適切な政治とポリス体制との間の根本的な違いは、ランシエールによれば、土台を共有した別々の利益の代表に現れていた。適切な政治は土台を共有した競合する性質を認め合うだけでなく引き出してさえもいた。他方でポリス体制は次のようなものであった。

「...(ポリス体制は)明確な論点、場、機能のアンサンブルやそれらに関連した特徴と力のアンサンブルとしての共同体を象徴しており、その全てが共同体のモノとプライベートなモノとの分配に配慮を加えることを前提にしており、その区別は明示されたものや暗黙のもの、ノイズや人間の言葉...等における秩序をともなう区分に依存していた。このような説明(論点、場、機能)は存在、行為、場に相応しい発言の意味を同時に決定していた。」[18]

この意味で(そしてランシエールは幾つかの重要な点でフーコーと意見を異にしていたけれども)、ポリスの概念に対するランシエールの説明はミシェル・フーコーの著作の中で与えられていた説明に類似していた。

2.1.2 感性の境界

ランシエールによる政治の概念化はフーコーの「ポリス」の概念をさらに一歩進めることを許容していた。ポリス体制の中で与えられた「構成要素」の定義が「存在、行為、発言の様式」を支配しているだけでなく[20](例えば、「場に相応しい」行動のルール)、むしろ名前が示唆しているように、特定の「感性の境界」は、理解できるものとできないもの言い換えるならばこの秩序の下で認識できるものとそれ以外との間に境界を引く行為でありポリス体制そのものであった。

この洞察は部分的には民主主義の起源に対するランシエールの問いに由来しており、部分的には対立感情の概念に対するランシエールの理論の役割に由来していた。それは「不和」と単に英語に訳される(政治における対立感情の構成要素を明示しながら)一方、フランス語の対立感情はある発言の状況における当事者間の誤解やより正確に言えばランシエールの意味において「過去をばらばらに語ること」を含意していた[21]。ランシエールの視点は誤解という事実が中立的なものではなく、むしろポリス体制の中で与えられた感性の境界が、理性的なディスコース(ユルゲン・ハーバーマスやジョン・ロールズの熟議民主主義のような)であるかもしくは動物の鳴き声であるかのように、ある見解の表明が言葉として聞こえるのかノイズとして聞こえるのかどうかを決定付けていることを強調していた。ランシエールによれば、「耳に入らない」声をラベリングする事実は(政治的な)アクターとしての声の内容を否定していることに関連していた。

2.1.3 ポリス体制の将来:過剰な構成要素、誤算、政治的主観

上述されたように、「理解」が「誤解」を伴う限り(例えばある社会的な課題が置かれた状況)、ポリス体制にとっての「適切なロジック」はランシエールによるアクティブでラディカルな平等を実現するロジックと一致していなかった。古代アテネ市民の主権の一部としてのデモを促していた不法な活動に対する説明の根拠として、ランシエールは民主主義を「権力を行使するためのばらばらの権利を有している人々にとっての特定の権力」として定義しており、「民主主義は考慮の対象外の人々にとっては矛盾に満ちた権力であり、その根拠は説明されていなかった。」[23] 適切な政治的な「行為」(バディウの言葉を借用すると)は稀なタイミングで起こり、その稀なタイミングで無党派の人々はこの権利を行使しており、その共通の利害関係において「侵害されたことに対する主張」を形成しており、「政治的主体化」の際つまり新たな政治的なアクターの誕生のときに、平等に対するロジックは適切なものに対する不平等主義を反映したポリス体制のロジックと重なっており、その声に耳を傾けることを主張している無党派の人々は感性の境界を決定する権利を侵害されており、説明責任を果たさない説明をするポリス体制によってなされた起点に該当する「誤り」を覆すことを行なっていた。

ランシエールにとって、「正当性と支配に基づく秩序の破綻」の瞬間[25]は1つの可能性であり、あらゆるポリス体制の究極の危機を前提にしていた。この主張はポリス体制との関係の性質によって無党派の人々に付与された作用によって説明されていた。ランシエールは労しながら、無党派の人々がある社会階級や排除された集団ではなく、状況に飲み込まれた混成集団であったことを強調しており、この混成集団は平等を手続き的に表現しているだけでなく、ポリス体制の中で予め与えられていたアイデンティティのように存在している新たな政治的アクターを含意しており、政治的な変動の前の段階ではこの2つの特徴はランシエールによれば政治で要求される水準に達していなかった[26][27]。その代わりに無党派の人々は「存在感なくどこにでもいる」脇役として考えられていた[28]。「...政治的なアクターはコミュニティの構成要素に包含することやその束に定義を与えている包含と排除の関係に疑念を呈している脇役のコミュニティであった。このアクターは...ある社会集団やアイデンティティに還元することができず、むしろ社会集団から外れたことを表明しているグループであった。」[29]

上記の特徴を概念化することを通じて、無党派の人々は力を生み出しており、適切なものに対するポリス体制のロジックは「これ以上何かを引き受けることが不可能な状況を前提にした」ロジックであり、「ある役割を果たし一定の空間を占有しているグループで構成される」全体像として社会を示すことが可能であることを仮定していた[30]。このロジックと反対の「全体は部分の総和に勝る」[31]といった古くからの格言を明示的ないし暗示的に示すものとして、必ずしも必要とされていない特徴を有した無党派の人々の存在が適切なものに対するポリス体制のロジックをラディカルに否定していることが指摘されていた。

2.1.4 ランシエール、ジジェク、バディウ、ムフにおける必ずしも必要とされていない特徴を有したものと普遍性

ランシエールの枠組みにはある矛盾点が存在していると思われていた。つまり政治的主体化はある場を肯定することをともなっているが、同時にその場のロジックや別の視点にとっての適切なロジックを否定していた。「コミュニティとともに」一体感を形成することを通じて一定程度「見えなかったものが見えるようになる」ことによって政治的な変動が引き起こされることを具体的に示していくことを通じてランシエールはこの問題を扱っていた[32]。ランシエールの主張によれば、明らかに普遍主義的な姿勢が社会空間をプライベートであり適切な場の集合に分割する個別主義的なロジックを否定するように機能しており、前述の矛盾点を解決していた。またランシエールによるポスト・ポリティカルなものに対する説明に関して、スラヴォイ・ジジェクは普遍的なものの役割を重視していた。ジジェクにとってある状況は以下のようなときに政治的になっていた。

...ある特定の要求...が権力を有している人々に対するグローバルないし普遍主義的な抵抗の暗示的な融合として機能し始めており、その抗議の含意はもはや単なるその要求そのものに留まらず、その特定の要求に共感するといった普遍主義的な次元を含んでいた。...ポスト・ポリティクスは特定の要求を暗示的に普遍化することを妨げるように作用していた[33]。

前述の矛盾点について、ジジェクによる「仮想化しきれない残余」[34]といった概念は普遍的なものを強調する以上に有益なことがあった。「残余」の意味はランシエールによる「余剰」と密接に関係していた。他方で「仮想化しきれないもの」といった概念は(社会空間等の公共空間を)分割することに対して強く抵抗することを含意していた(ランシエールが依拠している普遍主義的な姿勢以上に強く抵抗していた)。

この点でジジェクによる「残余」の存在論的状態はバディウによる『ノン・エクスプレッシブ・ダイアレクティクス』における特別な存在つまりジェネリックな集合に類似していた。数学における集合論に由来しており、ジェネリックな集合は「明確な説明や名前がなく分類上の位置付けを有しない数学的な対象...つまり名前を有していないことがその特徴である」に対してポール・コーエンによって与えられた名称であった。そのためそのジェネリックな集合が政治学における基本的な問題に対する対案を与えており、それはバディウによれば次のようなものであった。仮に法(ポリス体制)のロジックの紡ぎ合わせと欲望を解放するロジックとの衝突を通じて、欲望が法によって定められた存在論的宇宙を超えた何かに対して向けられているならば、政治活動における重要な問題は法や政治学の可能性に関する存在論的領域の下で規定されることのない欲望の対象を正確に表現する方法を見出すことであり、欲望の規定は欲望を否定することにつながっていた[35]。ジェネリシティ(一般性)がバディウの著作における普遍性に関連しながら、バディウによる普遍性はランシエールやジジェクにおける「余剰」や「残余」の概念を大きく発展させていた。またバディウによる普遍性はランシエールが社会全体を新たに概念化する際に適切な政治に対して現にそうしていた以上に強い方向性を示していた。もしくはジジェクは次のように述べていた。「...正統性のある政治...は一見不可能なテーマによる芸術であり、現状において「実現可能」と考えられている状況の背景を変更するものであった。」[36] したがってジジェクによれば対立感情の問題も同様に考えられていた。

余剰の概念は政治的なるものに対するムフの理論においてさまざまな目的を果たしており、それはムフやラクラウによるヘゲモニーについての概念に依存していた[37]。ディケージによれば、ラクラウやムフによるヘゲモニーは「完全に紡ぎ合わせられた社会ないし完全に閉ざされた社会」が存在し得ないことを仮定していた[38]。この理由としてヘゲモニーは対立感情を通じてのみ実現可能であったが、対立感情は何らかの欠落や余剰を通じてのみ存在しており、この視点によれば、コンセンサスは完全に閉ざされた世界のものではなく、むしろ「仮のヘゲモニーによる一時的な帰結」として存在していた[39]。飽和状態が存在し得ないことに依拠している点で、ムフによるポスト・ポリティクスに対する批判はランシエール、バディウ、ジジェクによる批判と重なる面を有していた。しかし飽和状態に対するムフの抵抗はポスト構造主義者の政治論やそれに付随する反本質主義によって示されていた。この点で政治的なるものに対するムフの理論はランシエール、バディウ、ジジェクと大きく異なっており、ランシエール、バディウ、ジジェクは影響を受けているポスト構造主義からの距離に配慮しており、少なくともポスト・ポリティカルな時代背景の確立に対する貢献を理由にしたものではなかった[40]。またムフによる理論は普遍主義的な態度をムフが示していなかったことを表していた。実際のところ、上述されているように、政治的なるものは普遍的なるものの代わりに対するヘゲモニーを巡る衝突であった。したがって正統性のある普遍性は存在し得ないものであった[41]。

2.1.5 飽和状態とポスト・ポリティクス

現在の危機は平等を否定しない条件下のポスト・ポリティカルな状況として特徴付けられており、その反対にポスト・ポリティクスの中心である先進国のリベラル・デモクラシーにおいては形式的平等が勝利を勝ち取っており、コミットし熟議するメカニズムを通じたデモクラシーの「成熟」が課題として残っていた。そして上述の哲学的展望からポスト・ポリティクスは、飽和状態を論じることや余剰を否定することを強調するグラデーションとして特徴付けられていた。したがって現在のリベラル・デモクラシーの危機において全てを民主的に組み込む方向性は飽和状態を付随するものであった[42][43]。他方で形式的平等の達成についての議論は「余剰」の事実を無視していた。コンセンサスに基づく受容と排除のストラテジーにもかかわらず、「余剰」の事実が現在明らかに示されており、第一に現実社会や物質的不平等の深化を通じて、第二にポスト・デモクラシーにおけるコミットメントについて条件付けられた状況に抵抗する適切な政治的態度を通じてなされており[44]、つまりそれはポスト・ポリティカルなコンセンサスについての承諾に対する抵抗であった。

3 ポスト・ポリティクスと環境

ジジェクやバディウが明らかに認識していたように、ポスト・ポリティカルなシナリオは環境分野でも進んでいた[45][46]。この認識によれば、環境地理学者であるエリック・スィンゲドーは環境政治学においてポスト・ポリティカルな状況の現れを認める研究を主導していた。

3.1 環境政治学におけるポスト・ポリティカルな状況の現れ

3.1.1 ポスト・イデオロギーにおけるコンセンサス

前述のようにポスト・ポリティカルな外観はコンセンサスによる抑制的な役割によって特徴付けられていた。市場とリベラルな状況が原理を形成し、現在におけるグローバルな「メタレベル」のコンセンサスはコスモポリタニズムや人道主義を(政治的なるものよりむしろ)対応している道徳的な価値システムに関する中心的で異論の余地のないドグマとして認識していた[47]。地球サミット(1992年)から約20年間にわたって、持続可能性は道徳的な秩序におけるこのような新たなドグマとして確立されることにとどまっていなかった。ドグマを形成しながら、グローバルなコンセンサスは現在におけるポスト・イデオロギー時代の「イデオロギー」の1例として歩み出しており、スィンゲドーが述べているように、持続可能性は適切な政治的対立を欠落しているため、達成目標に合意しない選択肢を持ち合わせていないことを背景に抱えていた[48]。

持続可能性の言説を通じた自然に対するある描写に関するスィンゲドーの分析はその理由を説明していた。スィンゲドーは持続可能性を通じた政治的な論争の対象になっている自然が人間の介入によって「調和を乱されて」存在論的に安定を前提にしたラディカルに保守的な存在として取り扱われていると論じていた。現実の自然における複数性、複雑性、予見不可能性を否定することを通じて、持続可能性は自然を「暗号に変えて」おり、どのような種類の社会環境の中で暮らしたいのかといった適切な政治的問いに対する論争を回避する(市場に基づいた)現状維持の解答を呈示していた[49]。 

3.1.2 管理主義とテクノクラシー

ポスト・ポリティカルな状況は専門家の登場によって特徴付けられていた[50]。ある程度の民主的な方法に立脚していたものの(ギデンズによる社会的再帰性についての論文によって示されている熟議を伴う関与を通じて[51])、専門家による決定が適切な政治的論争に取って代わるようになっていった。

この傾向は環境分野において特に顕著であった。ゲルト・フーミンネやカレン・フランソワによれば[52]、環境分野で増大している科学による「植民化」以上の関心は科学におけるラディカルなノンポリ化のロジックが植民化を進めていることにあった。ブルーノ・ラトゥールを引き合いに出しながら、フーミンネやフランソワの著作は科学に基づいた著作を問題の俎上に上げており、科学は「事実」を産み出している物質的世界を中立的に表現している訳でもなく、自然を表現する科学の正当性が緻密な検討を逃れるはずもなかった。それと対照的に、「...近代憲法における事実と評価の区別が現実を形成するプロセスを曖昧にするように作用しており」[53]、ポスト・ポリティカルな状況の形成を促しながら、政治は「コンセンサスに依拠した社会科学的な知識によって要素が決定されたプロセスの管理」に矮小化されていた[54]。環境政治学において、「意見の不一致が許容されていたが、技術の選択、組織の軌道修正、管理上の問題、タイミングの選び方においてだけ通用するものであった。」[55] グローバルな気候変動への対応に関して、気候学者による解釈を巡る論争が「気候における正義」についての疑問から注意を逸らしていることがその例であった。

そのため国家を超越した統治[56]へ向かう新自由主義的な移行を伴いながら始まったテクノクラートによる「ポスト・デモクラティック」な潮流はコンセンサスによる政治によって擁護されていた。そして特に環境分野は新自由主義的な統治における試行錯誤のための特別な領域になっていたため、ポスト・ポリティカルな潮流からの影響を非常に受け易かった。環境政策における新自由主義的なシフトは1990年代にニュー・パブリック・マネジメント(NPM)からの影響の増大[57]や新たな環境政策手法(NEPIs)に対する選好の増加によって特徴付けられていた。他方で特段示すべき内容は費用便益分析(CBA)のような量的分析が優勢であることや単位変更、会計、監査、性能測定に対する「ポスト・デモクラティック」な関心とミッチェル・ディーン[58]が呼んでいたものの例としての新たな炭素市場における規制機関の広がりだけであった。

また後者の関心についてバーバラ・クルックシャンク[59]やディーンは新たな「市民権のテクノロジー」と「ポスト・デモクラティック」な状況を結びつけていた。生権力の形態として、新たな「市民権のテクノロジー」が国家によって意図的に形成されてきた道徳的に責任があり自律的な主体に「規制する能力」[60]を移すように機能していた[61][62]。ウルリッヒ・ベックのようなコメンテーター達はこの新たな「市民権のテクノロジー」が誘導している政治を個人に引き付けることについての一歩進んだ可能性に対するパラダイムとしての環境保護主義を歓迎していた[63]。しかしスィンゲドーによれば、先進国によく見られるように環境保護主義が個人に立脚した道徳的な選択を強調していたこと(ライフスタイルのような)が人間社会と自然との構造的な関係についての適切な政治的問題から離れたところに注意を促すように機能している可能性が指摘されていた[64]。

3.1.3 特定の利益を巡る交渉としての政治

ジジェク[65]やランシエール[66]が論じているようにポスト・ポリティクスにおいて、特定のグループによるある政治的主張はそのグループにおける潜在的に普遍的な特徴を否定されていた。そしてウースターリンクやスィンゲドーがポスト・ポリティカルな議論をブリュッセル空港に関連した騒音公害を巡る論争に適用していたことがその例であった。騒音公害による地域差を包含した衝撃は住民同士の関係にひびを入れることになり、グローバルな「ジャストインタイム生産システム」(利潤追求の極みのひな形)に対抗する普遍的な主張が表面化する可能性を排除していた[67]。

3.1.4 ポピュリズムや適切な政治的なるもののリバイバル

適切な政治的なるものの残余としてのポピュリズムはポスト・ポリティカルな状況を示す前触れであった[68]。まずポスト・ポリティカルなコンセンサスは適切な政治的なるものに対する代わりとしてのポピュリストによる意思表明を指向していた[69]。そしてコンセンサスに依拠した政治の限界に対する人々のフラストレーションが、コンセンサスに依拠した秩序を脱政治化する試みに際して、ポピュリストの手によって具体化した代案に譲る形となっていた[70]。

ポピュリズムにおける最も際立った特徴の1つは共通した外部の脅威ないし敵を想起させることにあった。敵を想起させることを通じた同質化の影響によってポピュリストによる意思表明の核となる「国民」に対する反動的で硬直的な架空の概念が形成されていた。スィンゲドーによれば[71]、気候変動に関する政治において「国民」は人為的な気候変動に対処する能力や責任の違いを考慮されることなく共通の苦境に直面している一体化された「人間」になっていた。気候変動を巡る言説における警鐘的なトーンを分析した他の研究者によれば[72][73]、スィンゲドーは想起された終末論的な虚構が外部の脅威を形成しながらエリート主導で十字軍的な行動を促していたことを強調していた(エリート主導の十字軍的な行動はポピュリズムの古典的な特徴を備えていた)。そのため環境保護主義的なコンセンサスはポピュリストによる側面を含んでいるものであった。

他方でジジェクが示しているように[74]、コンセンサスに対する不満は極右運動を好む傾向があり、極右のポピュリストによる戦術は上述された適切な政治的なるものに代替する同様の必要性に対応しており、極右の暴力的な意思表明は対立感情を煽る適切な政治的プロセスを模倣していた。他方でコンセンサスに基づく企業戦略[75]とジジェクが「ポピュリストによる誘惑」と呼んでいるものの双方に抵抗している適切な政治的主張は暴力や暴動としてのみ表面化していた[76]。環境分野における「資源を巡る紛争」に対するメディアの報道は、中立性を装った適切な政治的側面(もちろんポピュリストによる側面を伴うかもしれないし、必ずしも進歩的である訳でないかもしれないが)をよく表しているかもしれない論争の好例であった[77]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Post-Politik

ポスト・ポリティクス

ポスト・ポリティクスは政治を脱政治学化した体裁を整えていた。そして議論の枠組みは既に想定されていたものであった。

その概念はフランスの政治哲学においてジャック・ランシエールによって深化されており、ルイ・アルチュセールに由来しており、適切に導かれ、国家によって政治的な力を律せられた「ポスト・デモクラシー」の概念と類似していた[1]。

1 語法

スラヴォイ・ジジェクによれば、ポスト・ポリティクスはあるプロセスであり、特定の利益を巡る交渉についてのプロセスを伴っており、[...]多少なりともの妥協を包含していた。公開討論や政治問題の形成が論点の対象ではなくて、(グローバル資本主義における)枠組みの中で機能している特定のイデオロギーにとらわれない理念が議論の対象であった。そして特定の政治的主張を行うための多くの専門家や(グローバルに活動する)ソーシャルワーカー他が問題に関与しているため、問題を普遍化する行為や中立的に作用する行為の蓋然性が否定されていた。「普遍的な関心は特定のグループによってそのグループの問題に収斂されていた」(ジジェク)。また問題の前提を普遍化する行為は特定のグループの利害関係抜きに形成されることはなかった。このことはジジェクによって明らかにされた訳ではなく、(パラドキシカルであるが)システムや組織内のグループを通じて示されていた。特定のグループによる要求は単純な主張を通じて論じられており、それが意味している中身が問われることはなかった。ポスト・ポリティクスは問題の(奥にある)前提を普遍化することに対して抵抗しようとしていた。例えば「新たな税制」を求める声に対して、公共の問題としての視点よりむしろ特定の視点からの普遍性が叫ばれており、その状況は政治的に扱われたものであった。

ポスト・ポリティクスにおけるもう1つの特徴は、行政の政策を「特定の利害を反映した」政策として「純粋に」行政の利害を反映した政策と見做している点にあった。そして一切の(不可避の)政治的な論争(ポレモス)なしに「最善の解決法」(ロゴス)を見出すことが重要であった。しかし政治学において財・サービスの分配や再分配の問題の帰結として、ポレモスのないロゴスは存在しておらず、また利害や特定の視点を形成することのない政策も存在していなかった。ジジェクによる選択肢は「正統性のある政治が一見不可能なテーマによる芸術であり」、「現状において「実現可能」と考えられている状況の背景を変更すること」にあった[2]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Metapolitics

メタ・ポリティクス

メタ・ポリティクスは政治に対するメタ言語学であった。そしてそれは政治そのものとの政治的なダイアローグであった。この意味でメタ・ポリティクスはさまざまな形の問いかけを意味しており、政治や政治的なるものに関する言説に対してオルタナティブな方法を採用していた。このメタ・ポリティクスは政治的な問いかけや政治そのものに関する分析的・規範的言語に影響を与える自意識の役割を前提にしていた。つまりメタ・ポリティクスは政治が政治と対話する方法についてのダイアローグであった。

もし研究者が言語を研究の対象にし分析を加えて説明するならば、その研究のために用いられる言語はメタ言語であった。現在メタ・ポリティクスという語は主体に関するポストモダンの議論やポストモダンの議論と政治学との関係に関連させてしばしば用いられていた[2]。広い意味でメタ・ポリティクスは国家と個人の関係を研究する方法論であった[3]。

現代の視点

メタ・ポリティクスにおける2名の重要な現代の思想家はアラン・バディウとジャック・ランシエールであった。バディウによるメタ・ポリティクスを論じながら、ブルーノ・ボスティールズは次のように述べていた。

「バディウは、言うまでもないことだが「政治的なるもの」でなく「政治」を思考のアクティブな姿ないし思想のプラクティスとして把握することを提唱することを通じて、ハンナ・アーレントやクロード・ルフォールに連なったグループに関連した政治哲学の伝統に対して反論していた。そしてバディウは民主主義、正義、テルミドーリアニズムに対する事例を研究する以前に、師であるルイ・アルチュセール、その同時代のジャック・ランシエール、シルヴァン・ラザロによる仕事の内容を「メタ・ポリティカルに」指向する議論の周辺を評価していた。」[4]

https://fr.wikipedia.org/wiki/Métapolitique

メタ・ポリティクス

「メタ」(ギリシア語の「向こうにある」)や「ポリティクス」(ギリシア語の「ポリス」であり、都市、政権を意味していた)という語の合成であるメタ・ポリティクスは文字通りに解釈すれば「政権の向こうに存在するもの」を意味していた。アリストテレスの時代(前4世紀)から用いられている「形而上学」といった語との違いに関して、18世紀までドイツやフランスの哲学者の目に触れられていなかったことが指摘されていた。しかし権力に関連しており長期政権を指向している政治の向こうに存在している活動や思考の場を示しているメタ・ポリティクスという語の実際の意味は20世紀後半に登場しており、イタリアのマルクス主義者であるアントニオ・グラムシの著作に依拠していた。

1 近代の概念の起源

フランスにおけるメタ・ポリティクスの概念はドイツの哲学者であるクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(1762-1836)やアウグスト・ルートヴィヒ・シュレッツァー(1735-1809)の語を援用していたジョゼフ・ド・メーストルの著作の中に初めて登場していた。

「私はドイツの哲学者たちが形而下学というよりむしろ形而上学としての政治的なるもののためにメタ・ポリティクスという語を考案しているのを耳にしたことがある。この新たな語は政治における形而上学を表現するために考案されており、一語であるがゆえに関心を集めやすいことが背景に存在していた。」[1]

レイモン・アベリオの難解な視点によって部分的に援用されている伝統的な意味において、国際政治学の発展はプロトタイプの神や政治の超越をなぞらえており、その意味を把握し具体化し将来を見据えるために認識し解釈することが問題であった。仮に世界を含めた維持可能な調和や善良な知性が存在していないならば、生活している個々ないし全員のために、メタ・ポリティクスのみが人間に対して社会を普遍的なロゴス(エコロジー経済学を含む)と対応させることを許容していた。

形而上学における概念がプラトンに関係しているように、メタ・ポリティクスにおける概念はソクラテスに関連しており、ソクラテスは教育を受けた市民による真の民主主義を通じた良い統治の原則を初めて明らかにしていた。

2 メタ・ポリティクスと右翼におけるグラムシズム

全く別の文脈において、イタリアの反体制派の共産主義者であるアントニオ・グラムシ(1920-30年代)の指摘から派生したメタ・ポリティクスの概念は1970年代に「新右翼」と呼ばれる思想の潮流によって発展していた。その政策は(政治における)実際の権力を手中に収める前にイデオロギーや文化の土俵で活動することから始まっていた[2]。

この政策は共同体や市民社会の価値観・思想に浸透していくことを含んでおり、手段やターゲットにする政治家を考慮しておらず、「グレーセ・ポリティーク」(ニーチェ)の延長にあり、歴史的な影響を追求する傾向にあった。

メタ・ポリティクスは「政治家による」政策を超越しており、その視点によれば政策には何らかの誇張があり、それはもはや政治のフィールドから離れたものであった。メタ・ポリティカルな政策は以前の価値観が流行り廃りを経て長期の影響をもたらす世界観を浸透させていた。またこの政策は短期の権力を手中に収めることと両立していなかった。仮に時代の精神の兆候として変化が求められていないならば、その定義によってメタ・ポリティクスは何らかのイデオロギーに基づいた動機をもたず、現在の政治に関心を寄せることを想定していなかった。

フランスにおけるメタ・ポリティクスの理論はアラン・ド・ブノワ、ジャック・マルロー、ピエール・ル・ビガンと共にヨーロッパの文明を研究の対象にしていた。

特にメタ・ポリティクスはイタリアの共産主義者であるアントニオ・グラムシの思想から影響を受けており、グラムシは「有機的知識人」による文化闘争を長期にわたる政治活動の成就の前提にしていた。

「グラムシアンの理論は基本的に市民社会を経済的基盤の状態に還元する古典的なマルクス主義と異なっていた。グラムシアンによれば、経済のカテゴリーは1つのセクターに過ぎず、文化のカテゴリーが権力を巡る闘争に影響を及ぼしていることが指摘されていた。文化は政治権力を批判することを通じた知的手段によって変化をもたらす必要がある基盤を構成していた。」[3]

メタ・ポリティクスを否定せずに、アラン・ド・ブノワは知的影響力や思想の影響力を技術進歩のような現代における変化の要因と比較し相対化していた。

「もちろん現在の世界において過去の役割と比較できる役割を思想が維持しているのか否かについては疑問の余地が残っていた。知識人が少なくともフランスを含む国々において真の意味での道徳的影響力を有している時代は明らかに過ぎ去っていた。大学はメディアを通じてその特権の多くを失っていた。そしてテレビのようなメインストリーム・メディアは込み入った思想を伝えることが苦手であった。このような時代において最も決定的な社会変革が古典的な政治の主体でなく技術革新によってもたらされていることは明らかであった。それでも思想には意義があり、その思想が価値観やグローバル社会に依拠した価値システムに影響を及ぼしていたことを理由にしていた。この時代の最大の特徴の1つであるネットワークの多元化がその思想の広がりを促す可能性を内在させていた[4]。」

3 アラン・バディウとメタ・ポリティクス

近年メタ・ポリティクスの概念が毛沢東主義者であるアラン・バディウによって取り扱われていた。

「メタ・ポリティクスを通じて、私は哲学が現実の政治思想から導き出している影響を理解していた。メタ・ポリティクスは政治に思想の影響がないことを望む政治哲学と対立しており、政治的なるものを考えるために哲学に回帰することになるだろう。」[5]

http://de.wikipedia.org/wiki/Metapolitik

メタ・ポリティクス

メタ・ポリティクス(ギリシア語の「向こうにある」と「政治」)は政治学や純粋な哲学的国家論であり、特定の国家の立場を通じて対象にされることもなければ、それらと関連することもなかった。

1 さまざまな思想

メタ・ポリティクスという語はフランス語圏のジョゼフ・ド・メーストルの著作の中に初めて登場していた。1985年の講演の中に「メタ・ポリティクス」というタイトルが含まれており、国際政治、環境政策、人類の発展における問題を扱っていた。

1.1 アラン・バディウのメタ・ポリティクス

『ユーバー・メタ・ポリティーク』という著作を通じてアラン・バディウは政治学における「解放のための」存在論に取り組んでいた。メタ・ポリティクスを通じて政治学は現実を検証する思想として理解されていた。バディウにとって政治の基本は民主主義にあり、民主主義は工場や土地の占有のような政治上の動きを通じて形成されていた。したがってバディウは制度化された民主主義を政治的特徴を喪失したものとして示していた。正義と平等は制度化された政治を通じて脱政治化され解体されており、個人の活動にしか実現されていない状況であった。バディウはアリストテレスの言葉である「平等を求める人々はたいてい暴動を掻き立てる」といった一節を引き合いに出しながら「平等を求める人々」と制度化された政治を比較していた[1]。

1.2 新右翼の思想

右翼メディア-特に『ユンゲ・フライハイト』誌-の言説分析からデュースブルク・インスティトゥート・フューア・シュプラーハ・ウント・ゾツィアールフォルシュング(DISS)までをカバーしながらアラン・ド・ブノワのような新右翼の思想家は「文化闘争」や「右からの文化革命」といった枠組みの中でメタ・ポリティクスの概念を用いながら「生命の意味より軽い存在はないとの前提を組み込んだ主張にともなうインターディスコースの発生」を説明していた。そして『ガイスト・ディー・ヴェルト・レギールト』といったアルミン・モーラーによる表現活動の後、右派の立場から精神的な土台を与えられた「グラムシズム」が形成されていった。シャルル・シャンプティエやアラン・ド・ブノワによれば、歴史は「たしかに人間の意思や活動から展開しているのだが、これらの意思や活動はその意味を与える前提によってすでに定められた枠組みの中で機能していた。」 フランスにおける新右翼はド・ブノワによれば「集合意識」としての国民や国家を想起させる神話や思想の形でリバイブしており、「新たな統合を通じた生命や意味を柱としながら」、「思想のつながり」を通じた「世界観」を与えていた。ロジャー・グリフィンはそこにある潮流を見出しており、それは「ファシズムから本物のメタ・ポリティカルな姿への移り変わり」を示していた。カールハインツ・ヴァイスマンによって『クリティコン』誌に公表された構想つまり『ユンゲ・フライハイト』誌における活動や「資本主義を通じて情報やライフスタイルに影響を与えるために」政治性を帯びる以前の枠組みによってもたらされる場は、DISSによれば、文化的なヘゲモニーを獲得することを狙ったメタ・ポリティカルな政策として認識されていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-democracy

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーという語はウォーリック大学の政治学者であるコリン・クラウチによって『コウピング・ウィズ・ポスト・デモクラシー』といったタイトルの著作の中で2000年に作られた造語であった。ポスト・デモクラシーはしっかりと機能している民主主義システム(選挙が行われることによって政権が交代し、また言論の自由が存在している状況)によってもたらされる状態を示していたが、そのような民主主義の事例はまだ限定的であった。またこの議論の前提として器の小さいエリートが問題になる決定を行い民主主義の制度を濫用していることが指摘されていた。クラウチはロンドンのシンクタンクであるポリシーネットワークにおける『イズ・ゼア・ア・リベラリズム・ビヨンド・ソーシャル・デモクラシー?』といった論文や『ザ・ストレインジ・ノン・デス・オブ・ネオリベラリズム』といった著作の中でポスト・デモクラシーに関するアイデアを深化させていた。

ポスト・デモクラシーという語は21世紀における民主主義の進化を説明するために登場していた。この語は論争を呼んでおり、その基盤の一部を喪失しながらある種の貴族社会を指向していると認識されている民主主義に対して関心を惹きつけていることが理由として指摘されていた。

1 背景

クラウチは次のような背景を示していた。

共通の目標の喪失:脱工業化社会に生きる人々にとって、特に下層階級の人々がグループに帰属することがますます困難になっており、結果としてそのような人々を代表する政党に焦点を当てることも困難になっていた。例えば労働者、農家、起業家はもはや政治活動に魅力を感じておらず、このことはグループの成員としての共通の目標が喪失されていることを意味していた。

グローバル化:グローバル化の影響は国家が自国の経済政策を機能させる力を損なわせていた。そのため大規模な貿易協定や超国家連合(例えばEU)が政策を形成するために用いられていたが、このような政治が民主的な手段によってコントロールされることは非常に困難なことであった。

バランスを欠いたディベート:多くの民主的な国々において、政党の立場は非常に似通っていた。このことは有権者にとって選択できるものがないことを意味していた。その影響は政治的キャンペーンが立場の違いを強調するための広告のように映っていることにあった。また政治家の私生活も選挙の重要な道具になっていた。そして時折「センシティブ」な問題が争点から外されることがあった。イギリスの保守派のジャーナリストであるピーター・オボーンは2005年総選挙のドキュメンタリーを通じて、争点を限定的にして多くの浮動票をターゲットにしたことを理由にして総選挙が民主的なものではなかったと論じていた。

公共部門と民間部門の交錯:政治とビジネスの間の金銭的な癒着が大きな問題であった。ロビー企業を通じて多国籍企業はその国の住民より上手に法律をくぐり抜けることが可能であった。そして企業と国家は緊密な関係にあり、その理由として企業が雇用に大きな影響を及ぼしている点で国家が企業を必要としていることが指摘されていた。しかし製造プロセスの多くがアウトソーシングされており、企業が他国に逃げることが容易であるため、労働者は低賃金労働に従事することになり、さらに納税の主役は企業から個人に移り、その目的は企業にとって有利な条件を生み出すことにあった。そして政治家と経営者が政府からビジネスへ他方でビジネスから政府へジョブをスイッチすることは非常にありふれた光景になっていた。

私有化:公共サービスを民営化することを推進する「新しい公共経営」(ネオリベラリズム流の)の考え方が広まっていたが、民営化された組織は民主的な手段によってコントロールすることが困難であった。

2 結果

結果として:

ほとんどの有権者が投票する権利を十分に活用していないか、投票に多くを期待していなかった。

政治家は国民投票や世論調査における好ましくない結果をよく無視していた。2005年にフランスとオランダの国民が欧州憲法に対してノーを突きつけたときに、少し修正を加えただけで、フランスやオランダはこの条約を批准していた。

排外主義の政党の登場は国民の不満を利用したものであった。

そして外国政府が主権国家の内政に影響を及ぼす可能性が存在していた。クラウチによれば、ユーロ危機の処理はポスト・デモクラシーにおいて物事が機能するための方法論を示す好例になっていた。ヨーロッパのリーダー達はイタリアの新政権に対して何とか守らせるべきものを守らせようとしており、特にギリシアでは国民に対する遥かに厳しい措置が取られていた。

3 解決の道

クラウチによれば、ソーシャルメディアには重要な役割があり、有権者が公のディベートに対して積極的に参加する可能性を広げていることが指摘されていた。この延長として有権者は特定の利害を擁護するグループに参加する必要に迫られるかもしれなかった。また市民が意思決定する場をその手に取り戻す必要が存在していた。クラウチはこのような市民参加をポスト・ポストデモクラシーと呼んでいた。

オキュパイ・ウォールストリートは組織化されないある種の抵抗運動であり、金融業界に関する不満から生じていた。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Post-démocratie

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーは民主主義のルールに則った状況を意味していたが、実際は民主主義のルールの適用を制限しているように考えられていた。例えば経済学者であるセルジュ・ラトゥーシュによれば、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー――格差拡大の政策を生む政治構造』を引き合いに出しながら、ポスト・デモクラシーは「私たちが今日経験しているようにメディアやロビー活動によって巧みに操作されながらでっち上げられた民主主義」を示していた[1]。

1 語の定義の試み

この語は21世紀における民主主義の進化の状況を説明するために登場していた。

この語は論争を引き起こしており、ある種の貴族主義的なルールを指向するために民主主義のルールの一部が喪失されていったことが理由として指摘されていた。

民主的な社会はそのための5つの基準と比較されていた:

自由な選挙を通じて権力を行使するリーダーシップを選択すること。

政治的な対立陣営や表現の自由の存在。

法に則った司法システムの存在。

少なくとも2つの選択肢(「実際に」民主主義を体現しているもの)を有していること。

自由で独立したメディアの存在。

これらの基準は次のように纏めることが可能であった:

代表者の選挙。

市民権を得ている人々や市民権を得ていない人々に対して法が保護している権利。

バランスの取れたディベートを認めること。

ポスト・デモクラシーは次のように纏められることが可能であった。

国民を代表していない人々を選択する選挙。

国家や権力によって尊重されていない法的権利。

少数のテーマに限定しており、ある一定の議論にしか賛同しないバランスを欠いたディベート。

2 スーブレイニストのビジョン

ポスト・デモクラシーを考察するもう1つのアプローチは、市民の論点がもはやローカルでなくグローバルのレベルで論じられていることに対して肯定的に反論することであった。

国家を超越した政治主体

多国籍企業の管理

スーブレイニストは民主的な議論のための理想的なレイヤーは国家であると考えていた。

3 事例

議会の事例:他の場所で決定された法の適用。

司法の事例:政府内の司法的な手段、意図されていない目的で活用されている国際仲裁裁判所。

排除された人々:民主主義のレベルを示すインデックスとして。

ディベートの内容:民主主義の健全性を示すインデックスとして。

民主主義に対する指標:民主主義のあらゆる側面を評価するために検証可能な基準を制定すること。

同じ視点から同じ情報しか解説していない独立系メディアの拡大。

http://de.wikipedia.org/wiki/Postdemokratie

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーは市民の参加(インプット)ではなく公共の福祉のために奉仕しながら公平な分配の基準を満たす成果(アウトプット)だけを問題にしていた政治システムを分析していた。集団に対する拘束力を有する決定について民主的なプロセスは脇役としての意味しか与えられていなかった。そして公共の福祉を尊重する政治を通じて多数決や民主的にコントロールされた決定が適切になされているときに民主的なプロセスに価値があると思われていた。

多元論と対照的にポスト・デモクラシーでは、公共の福祉の内容を客観的に認識することが可能であり、民主的なプロセスを通じて利害の対立を調整せずに経営管理の視点を通じて問題を解決することを前提としていた。

選挙で選ばれた代表達はその権限(責任も含めて)を専門家、委員会、民間企業に委ねていた。市民は主権者としてみなされておらず、専門家による決定を受け入れる必要があったが、同時に有能な存在でなければならず、グローバル市場の前提であり正義を実現するものとして実際は公共の福祉を口実にした専門家からの要求を受け入れていた。

1 コリン・クラウチ

イギリスの政治学者であるコリン・クラウチ[1]はポスト・デモクラシーを次のように定義していた。

「選挙を経験しない専門家の役割[...]、選挙期間中の公開討論はスピンドクターによってコントロールされており、その内容はエンターテイメントに堕しており、矮小化された問題のみを論じており、その論点はそのスピンドクターによって周到に選び抜かれていた」[2]。

クラウチによる民主主義の定義によれば「大多数の人々が真剣なディベートや論点の形成に関与しており、世論調査の回答に対して消極的でなく、ある意味で政治評論家の役割を果たしており、次に現れるであろう政治的課題に取り組んでいること」が想定されていた[3]。

グローバル企業と国家の連携がポスト・デモクラシーを進展させていた。クラウチによれば、国際協調を通じた賃金、労働権、環境基準の調整が企業活動のグローバル化より遅れていることが主要な問題であることが認識されていた。多国籍企業が税制や労働環境に満足しなければ、職場を海外に移転することをカードにして揺さぶりをかける可能性が指摘されていた。このような揺さぶりの舞台(底辺への競争)は政府の決定に対して企業の影響が市民の影響より強いことを背景にしていた[4]。主要な論点は西洋の民主主義がポスト・デモクラシーの状態に近づいており、その後「恵まれたエリートの影響力」[5]が増大する点にあった。

他の論点として1980年代から政府が民営化を促進しながら市民の責任を重くする新自由主義を採用していたことが指摘されていた。クラウチは次のような事例を示していた。「国家が市民の生活に対する関心を失い、市民の無関心を助長するならば、気付かれないように企業はこのような状況を活用してセルフ・サービス方式を普及させていた。新自由主義の根底にある見通しの甘さはこのような状況を認識していないことにあった」[6]。

リッツィーとシャールはポスト・デモクラシーを「完全な民主主義という枠組みにおける擬似民主主義として認識することを通じて」説明していた[7]。

クラウチはポスト・デモクラシーという語が状況を適切に表現していると考えていた。「この状況のような民主主義においてある種の怠慢、葛藤、失望感が広がっており、強力な利益集団の代表達は[...]大多数の市民よりはるかに積極的に行動しており、エリートは国民の要求を操るための方法を学習しており、市民に対して選挙に行くように広告キャンペーンを通じて「上から」説得していた。」[8] またクラウチはポスト・デモクラシーが非民主的な状況とは異なっていることを指摘していた。

1.1 政治的なコミュニケーションの変質

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示している他の特徴は広告業界やテレビの商業主義を通じた「政治的なコミュニケーションの変質」[9]にあった。メディア関連企業はある側面では「営利部門の担い手」[10]でしかなく、他方で「メディアに対する支配力はごく少数の人間に集中していた」[11]。その一例としてシルビオ・ベルルスコーニやルパート・マードックが指摘されていた。「このような状況は政策決定者が一般人とのコミュニケーションの問題を解決することを容易にしており、民主主義にとってよかれと思ってなされたことがかえって損害をもたらすケースを示唆していた」[12]。

1.2 少数者に付与された特権

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示しているもう1つの側面は「市場経済や自由競争のレトリックを口実にして特定の実業家に政治的な特権を付与していること」にあった[13]。そしてこのような特権の付与は「民主主義にとって深刻な問題」になっていた[14]。

1.3 階級の喪失

ポスト・デモクラシーの兆候は多くの人々によって「社会階級が消滅した」と考えられていたことを通じて確認されていた[15]。社会階級の消失は「伝統的な労働者階級が衰退していること」[14]や「他の階級が連帯しないこと」[16]に依拠していたが、欧米における富の格差は十分に認識されていた。

1.4 クラウチによる処方箋

クラウチは「ポスト・デモクラシーへの道」を回避するために3つのステップを指摘していた。それは「まず経済界のエリートによる支配を制限する手段を確立し、次に経済に左右される政治の状況を改革し、最後に一般人の活動の可能性を広げること」であった[17]。最後の点を言い換えるとそれは「新たなアイデンティティ」[18]を形成することであり、例えば地域の寄合いを通じて関係者の活動の可能性を広げることを含んでいた。民主主義のリバイバルに対する希望は一般人のアイデンティティに影響を及ぼす新しいタイプの社会的ムーブメントに内在していた。このムーブメントは成果を上げるためのロビー活動を通じた「ポスト・デモクラティック」な仕組みを活用しなければならなかった。そして政党は民主主義のリバイバルのための核となる部分を残す必要性に直面していた。また政党による支援はクラウチによれば民主的な変化にとって必要なものであった[20]。クラウチは「動物愛護のための過激なキャンペーン、アンチ・キャピタリストやアンチ・グローバリゼーションのアクティビスト、レイシズム団体、リンチと変わらない犯罪撲滅キャンペーン」に反対していた[21]。

これらの新たなムーブメントは「民主主義の活力」や「エリートによって操られる以前の政治[...]」に貢献すると考えられていた[22]。

1.5 ポスト・デモクラシーの派生

政治学者であるローランド・ロスは自治体レベルでの市民の関与を深め、民営化された施設を再度公営化するようにパブリックスペースを国家を通じて再生し、アクターに参加を促すことを提案していた[23]。ダニエル・ライトチヒは市民の判断、リキッド・デモクラシー、セルフ・マネジメントへの回帰、より小さな行政単位、子供の頃からの社会参加の機会の拡大、対抗的な公共圏の構築に言及していた[24]。

1.6 事例

クラウチによればニューレイバーは「ポスト・デモクラティックな政党」の例であった[25]。サッチャリズムによる新自由主義的な政策の継続を通じて「政党は[...]労働者階級からの社会的関心を失っていった」[25]。その例外は特定の女性差別に対する対応であった(「第三の道」を参照せよ)。クラウチによればオランダでは労働党が「オランダの奇跡」を実現していた[26]。しかしクラウチによれば「フォルタイン党が庶民に向けた「分かりやすさ」に対して抵抗しないオランダのリーダーが数多くの妥協を繰り返していたとオランダ人が考えるようになっていたこと」を通じて、2002年の選挙でフォルタイン党は成功を収めていた。「そして誰も特定の階級の利益を擁護しようとしていなかったことを背景にして、たった1つの表現を通じた「分かりやすさ」によって、移民やエスニック・マイノリティを排斥する「人々」や「国民」を動員していた」[27]。クラウチはベルルスコーニによるフォルツァ・イタリアを21世紀に特有の政党として分類していた。

ポスト・デモクラシー特有の傾向は国際的な統合の帰結から生じており、そこにはまだ共通の議論の土壌も国際紛争を民主的に解決するためのコンセンサスを形成する土台も存在していなかった。この事例は欧州連合になり、実際のところ欧州連合は民主主義の赤字を部分的に抱えていた。そして政治的な運動は欧州連合の政治システム特に欧州憲法における民主主義の赤字を具体的に改善する[28]ことを十分に考慮していなかった。

1.7 評価

インタビューの中でクラウチはオバマの運動が「民主主義の内部崩壊についての私の主張を否定することになった」と述べていた。「そして「確かにオバマは民主党の候補者であったが、実際のところオバマは若者をホワイトハウスへ送ろうとする運動の中に位置付けられており、将来に対する希望であった」[29]。

南ドイツ新聞の書評を担当しているイェンス・クリスチャン・ラーベは民主主義が本質的にエリートに起因する問題を抱えていると主張していた。そして連邦憲法裁判所を引き合いに出していた。イェンス・クリスチャン・ラーベは「ポスト・デモクラシーにおける[...]二重の現象つまり連邦憲法裁判所における規範に則した政治の理解と現実に則した政治の理解が二重に生じていたこと」を批判していた[30]。

またユルゲン・カウベはクラウチによる規範的なアプローチを批判していた。つまりクラウチはフォーディスト社会を理想としており、現在の多国籍企業によるインパクトを過大評価していると考えられていた[31]。ユルゲン・カウベはクラウチが示しているような民主主義のモデルを幻想の産物と考えていた。クラウチは著作の序章でその理想とするものが多大な労力を必要としていることを認めていた。しかしクラウチはハードルを少なくすることが発展に伴う負の側面を見逃すことになると主張していた[32]。

クラウス・オッフェはクラウチが「個々の国家や政治を極度に細分化しながら分析していたこと」[33]を批判していた。

パウル・ノルテは人々がクラウチによる批判を「歴史的に[...]そして長く語り継がれる民主主義の物語の中で理解している」と考えていた[34]。そして今日の民主主義は進歩していた。それは「リベラルや保守の視点」でもなければ「「左派やポスト・デモクラシー」の視点でもなく、それは薄暗い明かりの中に民主主義が照らし出されていることを理由にしており、困難な風景が忍び寄っていた」[35]。ノルテはさまざまな事柄の反映として「複数の民主主義」に依拠している今日に言及していた。「歴史的には熟議民主主義を指向していると考えられていた」[37]。

ディルク・イェルケによれば民主主義の危機はポスト・デモクラシーないし「民主主義の変質」として説明されていた。多くの批評家が「ファシリテーション、市民フォーラム、コンセンサス会議のような新たな参加の枠組みの形成を求めていた」[38]。イェルケは教育水準の高い中産階級のみがこれらの新たな機会を活用しており、「増加している底辺層」は参加の機会を活用していないことを論じていた。「結局のところ、全ての市民が社会参加に必要とされているリソースを有している訳ではなかった。特に時間、専門知識の基礎、レトリックの能力、自信の表れについてそうであった」[39]。イェルケは「社会の風通しを良くし、民主主義の不全に直面していたあらゆる人々を政治的なプロセスに取り込めるかどうか」が重要であると締め括っていた[40]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Second_modernity

第二の近代

第二の近代はドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックによる造語であり、モダニティ以後の時代を示していた。

モダニティは工業化社会を推し進め農村社会を崩壊させており、第二の近代は工業化社会を新しく柔軟なネットワーク社会や情報化社会へ転換させていた(フェ・チュアンキー、2011年)。

1 リスク社会

第二の近代はリスクに対する新たな意識によって特徴付けられており、あらゆる生命つまり植物、動物、人間に対するリスクは人間の希少性から派生した問題に対するモダニティの成功によって生み出されていた(キャリアー、ノルドマン、2011年)。自然や社会のリスクから保護すると想定されていたシステムは人間由来の新たなリスクを副産物としてグローバルにますます生み出していると考えられていた(フェ・チュアンキー、2012年)。そのようなシステムは問題の一部であり解決のための存在ではなかった。近代化と情報化の進歩はサイバー犯罪のような新たな社会的危機を生み出しており(フェ・チュアンキー、2012年)、科学の進歩はクローニングや遺伝子組換のような新たな分野を切り開いており、そこでの意思決定は長期的な影響を十分に検討することなく行われていた(アラン、アダム、カーター、1999年)。

近代化の反作用がもたらすジレンマを認識しながら、ベックはもはや国家の利益を国家の力だけで十分に追求できない世界の困難を「コスモポリタン・レアール・ポリティーク」が克服するであろうことを示唆していた(ベック、2006年)。

2 知識社会

第二の近代は知識社会に関連しており、知識の複数性によって特徴付けられていた(キャリアー、ノルドマン)。知識社会はIT社会がもたらしている不確実性のような知識に依存したリスクを特徴としていた(ハーディング、2008年)。

3 抵抗

第二の近代に対する様々な抵抗が生じており、欧州懐疑主義はその一例であった(マルケッティ、ヴィドヴィチ、2010年)。

ベックは第二の近代に対する抵抗やその副産物としてITの活用やイデオロギーの統合の中にアルカイダを認識していた(ベック、2006年)。

http://de.wikipedia.org/wiki/Zweite_Moderne

第二の近代

第二の近代という語はハインリッヒ・クロッツによって1990年代初頭の現代美術と建築における第一の近代の秩序の表面的な崩壊を示すために生み出されていた。

この語はドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックによってグローバル化を通じて経済的・政治的に変質した世界を示すために用いられていた。

1 第一の近代

第一の近代は啓蒙時代から工業化以後の官僚体制までを示していた。第一の近代は18世紀から始まり、市民社会や国民国家が形成された時代であった。また第一の近代はマックス・ヴェーバー(『遺稿集 経済と社会』、1922年)やフェルディナント・テンニース(ガイスト・デア・ノイツァイト、1935年)のような社会学者たちによって明示されていた。

2 第二の近代

第二の近代を巡る理論は個人主義、合理主義、フォーディズムのような近代の原理をラディカルにする傾向を示唆していた。20世紀の後半に始まった第二の近代はグローバル社会の登場や雇用環境の問題をともなうグローバル化のプロセスを包含していた。また第二の近代はデジタル革命に対する文化的な反応として認識されていた。

第一の近代と第二の近代の違いとして「グローバル化」に手を施すことが不可能である状況が指摘されていた。またグローバル化に顕著な特徴は国民国家のような第一の近代における制度の軋轢が増していくことにあった。そしてグローバル化の進展とともに、トランスナショナルな組織がますます力を増しており、国民国家は力を失い主権を喪失していくプロセスにあった。このような状況は多くの問題を生み出しており、今日の至るところで経験されていた。

グローバル化の問題は現実社会の納税者とバーチャル世界の納税者との対立にも現れており、国民国家の力の縮小は社会的不平等の拡大を促しており、社会統合の喪失を招いていた。

第二の近代における問題はグローバル化、流動化、失業、環境汚染、政治・社会・文化のシステムにおける機能の喪失に対する解決の方法を見出すことにあった。

第二の近代に対する厳密な定義は現在のところ定まっておらず、発展途上の段階にあった。第二の近代が示す内容は、それが比較的新しいプロセスであるためさらなる研究を必要としているのかどうかや、近代の初期に存在していなかった要因としてのグローバル化にフォーカスしてもよいのか、そしてローマの観念論やドイツの観念論における200年前の批評を適用しても構わないのかどうかに依存していた。

ウルリッヒ・ベックは新たな問題についての言及を先鋭化させていた。欧米の資本主義社会で浮かび上がってきた新たな問題がダニエル・ベルやアンソニー・ギデンズのような社会学者によって指摘されていた。そのキーワードは例えばユルゲン・ハーバーマスによる「ノイエン・ウンユーバーズィヒトリヒトカイト」、ウルリッヒ・ベックによる「リスク社会」、リチャード・セネットによる「フレキシブル・パーソン」であった。ウルリッヒ・ベックやエディツィオーン・ツヴァイト・モデルネの著者たちによれば、人類は目標を達成するであろうし、人類の将来はグローバル化のような昨今の問題に対して理性に基づいて進歩を遂げていくであろうとの期待が存在していた。

「第二の近代」という語は社会科学において広がりを示していなかった。しかし上述のような広範な事例が多くの社会学者によって指摘されていた。多くの経済学者はグローバル化の影響を肯定的に捉えていた。

グッドチャイルドによれば、モダニズムは分断され均一的な都市の風景を生み出しており、その都市計画は都市のエコシステムから切り離された対象としてその建築物を扱っていた。モダニストによる都市計画の問題の1つは居住者の視点や世論の動向を軽視している点にあり、第二次世界大戦以降の都市が直面している問題であるスラム、過密化、悪化したインフラ、汚染、病気について詳しく知らない裕福なエキスパートといったマイノリティによる都市計画がマジョリティに押し付けられていたことが指摘されていた。これらの問題はモダニズムが解決するはずの都市の問題であったが、たいていの場合、都市計画における全てに対応するはずのアプローチは失敗しており、他方で住民は建築のエキスパートにのみ委ねられていた過去の決定の内容に関心を示し始めていた。そしてアーヴィングによれば、1960年代の都市計画における伝統的なエリート主義やテクノクラートによるアプローチに対抗するために住民参加型の都市計画が登場していた。さらに1960年代の都市計画の担当者によるモダニズムの欠点に対する歴史的評価によって、都市計画の関係者を拡大することを狙った住民参加型の都市計画が支援されていた。

そしてポスト構造主義者の著作は知識に対する体系的な視点の中に多様な分野からの主張をまとめていたが、学際的な構造主義者は、学際性を主張しているにもかかわらず、専門分野の枠組みを好ましく考えており、研究対象を分析するためのアプローチに対して他分野からの視点を介在させない専門分野の独立性に固執する傾向にあった。また構造主義者と異なりポスト構造主義者は、ある現象に対する複数の関係から成り立っているシステムを絶対視しておらず、独立した自己充足的な要素から成り立っている現実を反映したものというよりむしろある主張の狙いの帰結として複数の関係やシステムを認識する傾向にあった。

ポストモダニズムは第二次世界大戦後に認識されていたモダニズムの失敗に対する反応から生じており、モダニズムの芸術におけるラディカルなプロジェクトが全体主義に結びつきながら主流の文化に融合されていったことが指摘されていた。ポストモダニズムと呼ばれるものの萌芽は1940年代に散見されており、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが有名であった。しかし今日の多くの研究者は、1950年代後半にポストモダニズムがモダニズムと齟齬をきたし始めており、1960年代に優勢な地位を占めていったことに対して意見が一致していた。その後ポストモダニズムは、異論があるものの、芸術、文学、映画、音楽、ドラマ、建築、哲学において支配的になっていった。

そして1990年代後半以降の大衆文化やアカデミズムの世界においてポストモダニズムが廃れてきているとの考えが広まり始めていた。しかしポストモダニズムを継承する時代の名称や枠組みを定める取り組みはほとんどなく、提唱されていた名称も多数派からの支持を得ていなかった。

何が時代を形成しているのかについてのコンセンサスが得られておらず、時代自体がまだ始まりの段階にあった。しかしながらポスト・ポストモダニズムの枠組みを定める取り組みにおける共通のテーマは、信頼、対話、成果、誠意がポストモダンのアイロニーを超越して機能することにあった。

ポストミレニアリズムという語は2000年にアメリカの人文系の研究者であるエリック・ガンズによって紹介されており、倫理学や政治社会学におけるポストモダニズムに続く時代が示されていた。ガンズはアウシュビッツや広島の経験によって明らかになった加害者と被害者の倫理観の対立に基づく被害者を過度に偏重した考え方とポストモダニズムを密接に結びつけていた。ガンズの視点によれば、ポストモダニズムの倫理観は被害者の周辺に視点をおき、加害者側のユートピアを軽蔑することから生じていた。この意味におけるポストモダニズムは、近代のユートピアや全体主義に反対することについては有益であったが、和解のために長期的に役に立つ資本主義やリベラル・デモクラシーについて有益とならず被害者を過度に偏重した政治観によって特徴付けられていた。ポストモダニズムと比較して、ポストミレニアリズムは被害者を過度に偏重した立場をとらないことによって特徴付けられており、被害者を過度に偏重しないダイアローグを採用していた。

2006年にイギリスの研究者であるアラン・カービィはスードモダニズムと呼ばれているポスト・ポストモダニズムに対して社会文化的な評価を行なっていた。カービィはインターネットによって実現された文化の1つである世界一斉に表向き何かに直接関与する行為によって生じているうんざり感や中身の浅薄さとスードモダニズムとを関連付けており、スードモダニズムの時代において、人々はスマートフォンを利用し、クリックし、文字を入力し、サイトを眺め、選択肢から何かを選び、サイトを移動し、ダウンロードするだけになってしまったと述べていた。

スードモダニズムにおける典型的な知的状況は無知、熱狂、不安として描かれており、実質を伴わず「超」の語がついただけの現状を生み出すだけであった。どうでもいいことに世界一斉に参加してメディアに簡単に煽られてしまう浅薄さによって生じていた帰結はモダニズム特有の強迫観念的な細かさやポストモダニズム特有のナルシシズムと入れ替わった有意義な情報や意思を伝えることも感情的な交流をすることもない状況でしかなかった。カービィは美学的に価値のある結果がスードモダニズムから生じることはないと認識していた。

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはメタモダニズムをポスト・ポストモダニズムを巡る論争の行き着く場所として提案していた。ノーツ・オン・メタモダニズムの中で彼らは1980年代や1990年代のポストモダンの視点を生かしながら典型的な近代へ回帰する姿勢によって2000年代が特徴付けられていたと論じていた。彼らによれば、メタモダニズムの感性は、気候変動、金融危機、政情不安、デジタル革命のような現在のグローバルな状況に対する文化的な反応の特徴である多くの知識をもちながら知らないことも多く、プラグマティックな理想主義を示しているものとして考えられていた。彼らはポストモダン文化における相対主義、アイロニー、ゴチャ混ぜの文化が終焉を迎えており、積極的に関与し、共感し、中身を伝えることに価値を認めるポスト・イデオロギーの状況が生じていると述べていた。

バーミューレンとファン・デン・アッカーはメタモダニズムを多くの点の間を揺り動く振り子のようにモダニズムとポストモダニズムの間を揺れ動く心構えの構造として示していた。アートニュースの紙面におけるキム・レヴィンによれば、この揺れ動きは期待と落胆、誠意とアイロニー、愛情と反感、個人的な問題と政治的な問題、技術的観点とマニアの視点に対して等しく懐疑的な心構えを示していると思われていた。メタモダニズムの時代を迎えて、バーミューレンはかつてのメタナラティブが問題を抱えながらも必要とされており、理想がこれまでの歴史から信頼するに値しない幻滅の対象としてしか認識されない必然性はなく、愛情が馬鹿げた思い込みと必然的に同一である訳でもなかったことを示していた。

2006年にアムステルダム市立美術館とアムステル大学はダニエル・バーンバウムやアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を開催しており、その入門編としてメディアでの言説に対抗しながら、本物のよさ、積極的な自己表現、芸術の自己肯定のような伝統的なモダニストの価値観への回帰としての絵画のリバイバルについての講演を行なっていた。

スタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるチャールズ・トムソンやビリー・チャイルディッシュはリモダニズムの時代を切り開いていた。2000年3月1日にリモダニストによるマニフェストが公表されており、それは芸術の理想、本物のよさ、積極的な自己表現を肯定しており、絵画に力点を置きながらも芸術に新たな精神を取り込んでいた。その前提はモダニストによる理想がまだ十分に生かされていないことであり、その目標はその理想が誤用されている現状においてその役割を回復させ、再度定義させ、リバイバルさせることにあった。リモダニズムは真実、知識、その内容を肯定しており、形式主義に疑念を抱いていた。

そのイントロとしてポストモダンの戯言によってモダニズムはその意味を見失っていたといった言葉が紹介されていた。そしてニヒリズム、科学的唯物論、方向性の定まらない破壊に対抗して勇気、個性、一般性、コミュニケーション、人間性を強調した14の視点を示していた。その中の7番目の視点は次のようなものであった。

精神性の追求は魂の旅であり、最初にやるべきことは真実と向き合うために暗黙の意味を列挙することであった。真実は今実際に存在しているものであり、願望とは異なっていた。精神性を追求する芸術家であることは、善悪、美醜、迷いや自信をはっきりと述べることを意味していた。

そのまとめとして、きちんとした心がある人々にとって、支配階級であるエリートによって創作された芸術が明らかにしているように、現在発表されている芸術が理性による成果の失敗を示していることは明白であり、その解決法は精神性を追求しているルネサンスにあり、他に芸術が歩むべき道は存在しておらず、スタッキズムからの提案は精神性を追求するルネサンスを今すぐに始めることであった。

2002年1月にマニフィコ・アーツはニューメキシコ大学の大学院生による「リモ:リモダニズム」と題された展覧会を開催していた。芸術家による講演会の場で、カリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーはリモダニズムは後向きではなく常に前を向いていると述べていた。展示会の寄稿文の中でラドリーは以下のように記していた。

...芸術家の主張に自信が取り戻されており、芸術家が皮肉、冷笑、教訓に煩わされることなく個性を追求することが可能であるといった視点が蘇っていた。その狙いは存在の意味を再び取り上げ、美の意味を練り直し、共感することの必要性を再度取り上げることにあった。

展覧会のキュレーターであるヨシミ・ハヤシは次のように述べていた。

リモはモダニズム、アバンギャルド、ポストモダニズム由来の考え方を混在させており、芸術に対するオルタナティブと主流派のアプローチを統合していた。リモでは多文化主義、アイロニー、高尚さ、アイデンティティに関する問題が取り扱われていたが、それのみで芸術を確立している訳ではなかった。伝統に対する再考と再定義は単なる脱構築によって成された訳ではなく、概念の接点を探しつなげることによって成されていた。定義によればリモは基本的に細胞に例えられており、そのルーツは芸術の周縁部分に由来していた。

2008年8月27日にジェシー・リチャーズはリモダニスト・フィルム・マニフェストを発表しており、そのマニフェストは映画における新たな精神性を追求しており、映画製作に直感を導入しており、リモダニストによる映画をむき出しで必要最小限で叙情的でパンクの要素を含む映画製作であると表現していた。

その後の2009年にマングビーイング誌におけるリモダニストによる映画についてのエッセイの中で、リチャーズはプロと関連させながらリモダニズムを論じていた。

一般的にリモダニズムはアマチュアによる挑戦を肯定しており、プロを考察の対象として特殊な立場に置いていた。つまりこれまでのプロは失敗をなくすために励む存在であり、それゆえプロフェッショナルであったが、私はそうは考えていない。そして仮にプロが絶えず成長する可能性を有する存在であるのならば、私はそのプロを支持したい。絵を描き、演技をし、他の芸術家のためのモデルになり、宗教の仲立ちをし、意識のレベルに影響することを行い、他者を不快にさせることに対しても一歩足を踏み出し、外の世界での生活に触れ合い、見知らぬ大海に飛び込むことを実際に自分でやる映画製作者を支持したい。私はそれらがプロにとっての挑戦だろうと考えている。

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムが無意味であり、蒙昧主義にすぎないとの主張を包含していた。例えばノーム・チョムスキーは分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にしてポストモダニズムが無意味であると主張していた。チョムスキーは「理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのか...と尋ねられたときに、なぜポストモダニストの知識人は他分野の研究者のように答えようとしないのか」と尋ねていた。そして「仮にその答えがないのであれば、私は情熱に対する類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい」と続けていた。またキリスト教徒の哲学者であるウィリアム・レーン・クレイグは「私たちがポストモダンの文化の中で暮らしているというアイデアは幻想である。実際ポストモダンの文化はあり得ないものであった。そして人々に馴染まれるものではなかった。また科学、工学、技術の問題になると人々は相対主義の立場ではなかった。むしろ宗教や倫理の問題になったときに相対主義の立場を採用していた。そしてこの話から導き出されることはこのような立場はポストモダニズムではなくモダニズムであるということだ」と述べていた。

例えばイギリスの歴史家であるペリー・アンダーソンのような人々は、ポストモダニズムという語が有しているさまざまな意味が互いに矛盾し合っており、ポストモダニストを分析することが現代文化に対する洞察をもたらすだろうと述べていた。またカヤ・イルマズはポストモダニズムという語の定義が明確でなく筋が通っていないことを示していた。イルマズによれば、理論自体が反基礎付け主義であるためにポストモダニズムという語が基礎を有していないことが指摘されていた。

フレドリック・ジェイムソンによれば、ポストモダニティにおいて物事の尺度が喪失されており、ポストモダンの主体が我を見失ってしまうほどの多くの事柄の中に私たちが埋没してしまっていることが指摘されていた。この新たなグローバル空間はポストモダニティの正念場でもあった。ジェイムソンが認識しているポストモダンの他の特徴はグローバル空間における存在のある側面として示されていた。またポストモダンの時代は文化の社会的機能を変化させていた。ジェイムソンによれば、近代の文化は中途半端に自律的で、現実を超えた存在を仮定していたが、ポストモダンの文化はその自律性を奪っており、文化人の営みが社会全体を消費するまでに拡大しており、あらゆる人々が文化人になっていたことが指摘されていた。そして評論における物事の尺度であり左派の理論が依拠している巨大な資本という存在の蚊帳の外に文化が位置しているといった仮定は時代遅れになっていた。また多国籍資本の驚異的な拡大が資本主義に染まっていない地域(自然であれ意識であれ)を植民地化し尽くしてしまい、植民化される側は評論家にとって都合がよい状況を与えていたことが指摘されていた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「ポストモダニズム」、「ポスト・ポストモダニズム」、「メタモダニズム」、「リモダニズム」、「ポストモダニズムに対する批判」、「ポストモダニティ」、「ミシェル・フーコー」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Postmodernism

ポストモダニズム

ポストモダニズムは芸術、建築、モダニズムに対する批評をテーマにした20世紀後半のムーブメントの総称であった[1][2]。ポストモダニズムは文化、文学、芸術、哲学、歴史、経済学、建築、フィクション、批評における懐疑的な解釈を包含していた。脱構築やポスト構造主義とよく結び付けられる背景として、その語が20世紀のポスト構造主義的な思想の潮流とともに大きな人気を博していたことが指摘されていた。

ポストモダニズムという語は、モダニズム、つまりそれまでのスタイルを形成していた伝統的な要素に抵抗する芸術、音楽、文学のムーブメントを示していた[3]。

1 歴史

ポストモダンという語が初めて用いられたのは1870年代頃であり、ジョン・ワトキンス・チャップマンはフランスの印象主義から逃れる運動の一環として「絵画をテーマにしたポストモダンスタイル」を提示していた[4]。ザ・ヒバート・ジャーナル(哲学の季刊誌)に掲載された1914年の記事においてJ・M・トンプソンは、ポストモダンという語を宗教を批評する際の判断における変化を示すために用いていた。「ポストモダニズムの存在理由は、カトリックの伝統やカトリックの感情に対して神学が宗教をテーマとして取り上げるように、モダニズムに対する批評を徹底することによって、モダニズムにおける二項対立から逃れることにあった。」[5]

1921年や1925年にポストモダニズムという語は芸術や音楽における新たなスタイルを示すために用いられていた。1942年にH・R・ヘイズは新たな文学のスタイルとしてその語を用いていた。一方この語は1939年に歴史の潮流に対する包括的な理論として初めてアーノルド・J・トインビーによって採用されていた。「私たちが直面しているポストモダンの時代は1914年から1918年までの戦争によってすでに始まっていた。」[6]

1949年にポストモダニズムという語は近代建築に対する批判を示すために用いられており、その語はポストモダン建築をリードしており[7]、国際性を主張していた近代建築運動に対して呼応したものであった。建築におけるポストモダニズムは装飾を再評価し、都市建築において周囲の建造物を考慮し、装飾の歴史的な意味を重視し、直角や直方体に拘らない特徴を有していた。

1971年にICA(インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート、ロンドン)で行われた講演の中で、メル・ボックナーは芸術における「ポストモダニズム」を解説しており、それが「初めて芸術のベースとしてセンスデータや単一の視点に依存することを否定しており、批評として芸術を捉えていた」ジャスパー・ジョーンズから始まっていたことを指摘していた[8]。

近年、ウォルター・トルーエット・アンダーソンはポストモダニズムを4つの世界観の1つとして示しており、(a)真実が社会的に形成されたものであると見做しているポストモダンのアイロニストの立場、(b)真実が確立された方法論やよく練られた研究を通じて得られるとする科学的合理性を重視する立場、(c)真実が欧米の文明の遺産の中から得られるとする社会的伝統を重視する立場、(d)真実が自然との調和を保つことによって得られるとし、内なる自分を精神的に探求する新ロマン主義の立場を挙げていた[9]。

哲学におけるポストモダニズムや社会・文化の分析は批評の意味を拡大しており、文学、建築、デザインの原点になっており、マーケティング・ビジネスや歴史、法、文化の解釈においてはっきりとした姿を示しており、それらは20世紀後半に生じていた。これらの展開、つまり1950年代や1960年代から始まり、1968年の社会革命をピークとしていた西洋の価値体系(愛、結婚、大衆文化、工業化からサービス化への経済シフト)に対する再評価はポストモダニティという語によって示されており、ポストモダンの思想に影響を及ぼした人の中に、ある視点や政治的・社会的動向から言葉の意味が一般的に影響を受けているといったポストモダニズムを論じていたパウル・リュッツェラー(セントルイスの)が含まれていた。またポストモダニズムはポストモダニズムを展開させたポスト構造主義といった語と交換可能であり、ポストモダニズムやポストモダニストによる思想を適切に把握するためには、ポスト構造主義者やその支持者たちによる思想を理解することが求められていた。そしてポスト構造主義は構造主義の時代の後に生じていたポストモダニズムに類似していた。ポスト構造主義は逆説的であるが構造主義を通じて分析している新たなアプローチによって特徴付けられていた[10]。「ポストモダニスト」という語はある政治的・社会的ムーブメントを部分的に表現しており、「ポストモダン」という語は1950年代以降のムーブメントを示しており、そのムーブメントを現代史の一部に組み込んでいた。

2 芸術への影響

2.1 建築

建築におけるポストモダニズムは近代建築における失敗した理想主義や停滞していた状況に対する自然な反応として始まっていた。ヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエによって提唱されていた近代建築は理想的な完成型を追求しており、形と機能の調和を狙っており[11]、「浅薄な装飾」を否定していた[12][13]。モダニズムに対する批評家は、一般論としての完成像やミニマリズムを構成す要素が主観的な存在であり、近代のアナクロニズムであることを指摘しており、近代の哲学の業績に対して疑念を呈していた[14]。マイケル・グレイヴスやロバート・ヴェンチューリの作品を例に挙げればポストモダン建築は、建築で利用可能なあらゆる方法論、素材、色を活用しておらず、形としての「純粋さ」や「完成された」建築を追求することを否定していた。

モダニストであるルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは「より少ないことは、より豊かなこと」であるといった言葉で知られており、ヴェンチューリは「少ないほど、退屈である」との皮肉で知られていた。ポストモダニストの建築は、古く「絶対的な」モダニズムに対して疑念を呈するための美に関するムーブメントの1つであり、個人的な嗜好や客観的で究極的な真実や原理の多様性を求めるものであった。

批評、懐疑主義、全体とのずれを強調することを主張することの中に、ポストモダニズムの美の特徴が現れていた。この意味でこの語を用いている人々の中に、チャールズ・ジェンクスがおり、アーキテクチュアル・デザイン・マガジンによればチャールズ・ジェンクスは「その後の30年間におけるポストモダニズムを示しており」、「80年代におけるポストモダニズムを体現している国際的に評価された批評家」であった[15]。

2.2 都市計画

ポストモダニズムは都市計画が社会的背景や合理性と無関係に広く採用している「全体主義的な特徴」を否定していた。この意味でポストモダニズムはモダニズムの後継ではなかった。1920年代以降の近代化のムーブメントは大量生産という新たなモデルに依拠したデザインや都市計画を求めており、大規模なソリューション、美の標準化、プレハブ工法によるデザインを採用していた(グッドチャイルド、1990年)。さらにモダニズムは個の違いを認識することに失敗しており、均一な光景を目標とした都市の生活を生み出していた(シモンセン、1990年、57)。モダニズムを通じて都市計画はカオス・不安定・変化の中で安定感があり、システマティックであり、合理性を追求した建築を確立しようとする20世紀のムーブメントを代表していた(アーヴィング、1993年、475)。ポストモダニズム以前の都市計画のプランナーは、唯一の「正しい方法」を通じて新たな建築物の設計を実現することに対して自負を抱いている「最も妥当なエキスパート」として認識されていた(アーヴィング、1993年)。そして同時に1945年以降の都市計画はデベロッパーや企業の利潤を確保するための手段の1つになっていた(アーヴィング、1993年、479)。

モダニズムによれば都市計画は分断され均一的な都市の風景を生み出しており、都市のエコシステムから切り離された対象としてその建築物を扱っていた(グッドチャイルド、1990年)。モダニストによる都市計画の問題の1つは居住者の視点や世論の動向を軽視している点にあり、第二次世界大戦以降の現実の「都市」が直面している問題、例えばスラム、過密化、悪化したインフラ、汚染、病気(アーヴィング、1993年)について詳しく知らない裕福なエキスパートといったマイノリティによる都市計画がマジョリティに押し付けられていたことが指摘されていた。これらの問題は正確にはモダニズムが「解決する」はずの「都市の問題」であり、たいていの場合、都市計画における「総合的で」「全てに対応するはずの」アプローチは失敗しており、他方で住民は建築のエキスパートにのみ委ねられていた過去の決定の内容に関心を示し始めていた。そして1960年代の都市計画における伝統的なエリート主義やテクノクラートによるアプローチに対抗するために住民参加型の都市計画が登場していた(アーヴィング、1993年、ハートゥカ、ドーヘ、2007年)。さらに1960年代の都市計画の担当者によるモダニズムの「欠点」に対する歴史的評価によって、都市計画の関係者を拡大することを狙った住民参加型の都市計画が支援されていた(ハートゥカ、ドーヘ、2007年、21)。

1961年のジェイン・ジェイコブズの著作である『アメリカ大都市の死と生』はモダニズムの枠組みの中で発達してきた都市計画に対する批判であり、都市計画におけるモダニズムからポストモダニズムへの移行を示していた(アーヴィング、1993年、479)。しかしモダニズムからポストモダニズムへの移行は1972年7月15日の午後3時32分に生じたのだと言われており、その理由としてプルーイット・アイゴーつまりル・コルビュジエの言葉である「住宅は住むための機械である」といった思想から影響を受けた建築家であるミノル・ヤマサキによって設計されたセントルイスの低所得者向けの住宅が無人化したことが挙げられていた(アーヴィング、1993年、480)。その後ポストモダニズムは多様性を考慮しながら、不確実性、柔軟性、変化をもたらしていった(ハートゥカ、ドーヘ、2007年)。ポストモダンの都市計画は複数性を許容しており、マイノリティや立場が弱いグループの主張を容認するために社会的な差異に対する認識を促していった(グッドチャイルド、1990年)。モダニティの枠組みに収まった都市計画についての言説には注意することが重要であり、確かに資本の論理によって展開していたが、事実としてポストモダニティは異なった状況の下で発展していった。モダニティは一般大衆と標準化された生産や消費を歓迎するフォーディズムそしてケインジアンのパラダイムの背後にある資本主義の倫理によって形成されており、一方ポストモダニティは資本蓄積、労働市場、組織のフレキシブルな姿から生じていた(アーヴィング、1993年、60)。そして「ネオコンの」ポストモダニズムと「抵抗する」ポストモダニズムの間にも差異が存在していた。「ネオコンの」ポストモダニズムはモダニズムを否定しており、新たな文化に統合するために失われた伝統や歴史を取り戻そうとしていたが、「抵抗する」ポストモダニズムはモダニズムを再構築し、失われた伝統や歴史に回帰することなくその原点を批判していた(アーヴィング、1993年、60)。ポストモダニズムの帰結として都市計画の担当者は都市計画を行う唯一の「正しい方法」に対して固執することなく多彩なスタイルや多様な「都市計画の方法論」を受け入れていった(アーヴィング、474)[16][17][18][19]。

2.3 文学

文学におけるポストモダニズムは1972年に登場しており、「ジャーナル・オブ・ポストモダン・リテラチャー・アンド・カルチャー」といったサブタイトルが付いたバウンダリー2の創刊号によって示されていた。デヴィッド・アンティン、チャールズ・オルソン、ジョン・ケージ、ブラック・マウンテン・カレッジの人々は当時のポストモダニズムを知的ないし芸術的に表現する代表的な人物であった[20]。そしてバウンダリー2は今日のポストモダニストに対して影響力を有していた[21]。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編である『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メルナール』(1939年)はポストモダニズムを想定していたと考えられており[22]、究極のパロディであると考えられていた[23]。またサミュエル・ベケットはポストモダニズムの重要な先駆者であると考えられていた。そしてポストモダン文学に関連している作家の中に、ウラジーミル・ナボコフ、ウィリアム・ギャディス、ジョン・ホークス、ウィリアム・バロウズ、ジャンニナ・ブラスキ、カート・ヴォネガット、ジョン・バース、ドナルド・バーセルミ、E・L・ドクトロウ、ジャージ・コジンスキー、ドン・デリーロ、トマス・ピンチョン[24](ピンチョンの作品は「ハイモダン」として考えられていた[25])、イシュマエル・リード、キャシー・アッカー、アナ・リディア・ベガ、ポール・オースターが含まれていた。

1971年にアラブ系アメリカ人の研究者であるイーハブ・ハッサンはポストモダンの視点から文学を批評した初期の作品である『ザ・ディスメンバーメント・オブ・オーフィアス:トゥウォード・ア・ポストモダン・リテラチャー』を発表し、その作品の中でマルキ・ド・サド、フランツ・カフカ、アーネスト・ヘミングウェイ、ベケットらによる「沈黙の文学」や不条理演劇ないしヌーヴォー・ロマンの展開を表現していた。また『ポストモダニスト・フィクション』(1987年)の中で、ブライアン・マクヘイルはモダニズムからポストモダニズムへのシフトを描いており、ポストモダン以前の作品は認識論による支配によって特徴付けられていたが、ポストモダンの作品はモダニズムから発展していたものの主に形而上学に対する疑念に関連していると主張していた。そして次の著作である『コンストラクティング・ポストモダニズム』(1992年)を通じて、マクヘイルはポストモダンの著作やSFで知られている現代作家の作品に対する解釈を提示していた。マクヘイルの『何がポストモダニズムであるのか』(2007年)[26]は、ポストモダニズムを論じるときに現在時制の代わりに過去時制を用いる方が適当であるといったレイモンド・フェダマンの指摘に沿ったものであった。

2.4 音楽

ポストモダンの音楽はポストモダン期の音楽であり、ポストモダニズムが有する美学的ないし哲学的トレンドに沿った音楽であった。名が示すとおり、ポストモダニストによるムーブメントは部分的にモダニストによる理想に対抗しながら形成されていった。このためポストモダンの音楽はモダニストによる音楽に対する批判として定義されており、作品はモダニストによるものかポストモダニストによるものかの何れかであった。ジョナサン・クレイマーは、ポストモダニズム(音楽における)は表面上のスタイルや時代(つまり環境)の問題と言うよりむしろ考え方の問題であることを指摘していた。

ミニマリズムが登場した1960年代にポストモダンはクラシック音楽に対して影響を及ぼしていた。テリー・ライリー、ヘンリク・グレツキ、ブラッドリー・ジョセフ、ジョン・クーリッジ・アダムズ、ジョージ・クラム、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラス、マイケル・ナイマン、ルー・ハリソンといった作曲家達はエリート意識に対抗して、シンプルなテクスチュアや適度に協和したハーモニーを有する音楽を作曲することによって、調性を放棄したモダニズムによる不協和音に抵抗しており、よく知られているようにジョン・ケージはモダニズムに共通した客観性に対するメタナラティブに疑念を呈していた。一部の作曲家達はポピュラーミュージックや民族音楽の考え方から広く影響を受けていた。

クラシック音楽に対するポストモダンの影響は音楽のスタイルのみに限定されず、ポストモダン期の音楽全般を対象にしていた。そしてポストモダニティがポストモダニズムを生み出したように、ポストモダンの音楽が生み出されていた。またポストモダンの音楽はモダニズムに抗うポストモダンの芸術に固有な側面(以下は訳者の注になるが、言い換えるならば芸術家にとっての副業の問題)を共有していた。その一例はTシャツを販売しているロックバンドになり、一見するとそれは本来の音楽活動に付随したビジネスであるのだが、Tシャツはバンドの音楽以上にポピュラーな存在であり、バンドの音楽以上に「クール」に思われていた。

しばしば古典派音楽やロマン派音楽に分類される作曲の枠組みに回帰しながらも、全てのポストモダンの作曲家がモダニズムの楽理を回避している訳ではなかった。例えばオランダの作曲家であるルイ・アンドリーセンの作品は反ロマン主義としての実験音楽の特徴を示していた。モダニズムの完成度の限界やその見かけの厳格さに対して妥協しながらも表現の自由を追求することは作曲におけるポストモダンの影響の特徴であった。

3 影響力のあるポストモダンの哲学者

マルティン・ハイデッガー(1889-1976)

「主観」や「客観」といった概念の哲学的基盤を否定し、正反対の論理的基盤によってその両者が影響を及ぼし合っていると主張していた。それらを理解するためにこのパラドックスを認める代わりに、ハイデッガーは「解釈学的循環」と呼ばれる理解のプロセスを通じてそれらを把握していた。ハイデッガーは歴史的事実や概念の文化的構築を強調しており、時間と無関係に存在している内在的理解の必要性を主張していた。ここでハイデッガーは、ソクラテス以前の哲学の中に示されていたもののプラトン以後陰りを示していた現存在に対する疑念を再度取り上げることが現代の哲学の仕事であると明言していた。この仕事は現存在や思想史において忘却されたものを突き詰めることによって部分的に果たされていたが、それは何が人間の類似点に対する基礎的条件を構成しているのかについて私たちが再度考えなければならないことを意味していた。しかしこのためには、歴史と無関係に自己に対して言及するときに、以下に述べるような人間の姿(について必ずしも固定した考え方ではないが実在を示しているもの)を容認する思考、感情、実践に関わることが求められており、その人間の姿は一般的な人間であることだけでなくその後の成長に伴う個々の人間の違いを含めた可能な経験や可能な存在を許容するものであった。そのような結論はハイデッガーをフッサールの現象学から自由にさせており、その代わりに(時代に逆行しているが)形而上学の問題への回帰を促していたが、この回帰は一般的に物自体と現象もしくは物自体と実際に現れている物(クオリアを参照せよ)を区別していなかった。そして現存在になるプロセスを取り上げることは物自体と現象のギャップに対する橋渡しとなっていた。これによればハイデッガーはロマン主義の哲学者であるフリードリヒ・ニーチェから影響を受けていた。合理主義、経験主義、方法論的自然主義が内在している主体と客体もしくは感覚と知識の区別に対するハイデッガーの批評はポストモダニズムの思想家に影響を与えており、事実が思考のプロセスと別に存在しているといった考え方を否定しており(しかしハイデッガーは唯名論者ではなかった)、哲学や科学での前提は社会の期待からの影響を受けており、概念は、歴史的な精神や変化する経験(ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ハインリヒ・フォン・クライスト、コンストラクティビズムを参照せよ)から独立した論理的前提の派生物であることよりむしろ、実際に生じた歴史的な実践を表現したものであり、プラグマティストや悲観主義者の考えによれば、存在(拡大解釈すれば現実そのもの)は、控え目で肯定的で認められている状態、結果、実体そのものよりむしろ、行動、方法、方向性、可能性、疑問の提示であった(プロセス哲学、形而上学におけるダイナミズム。プラグマティズム、生気論を参照せよ)。

ジャック・デリダ(1930-2004)

テクストの構造的問題や哲学に対するその影響を再検討し、分析のためのアプローチとしての形而上学に疑念を呈し、ハイデッガーが用いた脱構築を出発点にして、デリダ流の脱構築はよく知られるようになっていった。デリダはハイデッガーのように前提と結論や表象の元と表象そのものの間の循環論法を示しているエポケーとアポリアのような哲学における懐疑論やソクラテス以前の哲学に関連したギリシア哲学に言及していたが、ジル・ドゥルーズに類似したアプローチでプラトン、アリストテレス、デカルトによる哲学を根本から再検討していた。

ミシェル・フーコー(1926-1984)

フーコーは、社会秩序の内部における意味、権力、社会的行動の関係を示すために(『言葉と物』、『知の考古学』、『監獄の誕生』、『性の歴史』を参照せよ)「エピステーメー」や「系譜学」のような概念を再検討していた。認識論におけるモダニストの視点と反対に、フーコーは、合理的な判断、社会的実践、「生権力」と呼ばれるものが不可分な関係にあるだけでなく、相互に関連した決定因子でもあると主張していた。フーコーは多くの進歩的な政治的動機を抱えており、極左のメンバーとの個人的な結びつきを保ちながら、当時の左翼の思想家と議論を交わしており、マルクス主義、左派のリバタリアニズム(例えば、ノーム・チョムスキー)の支持者、ヒューマニズム(例えば、ユルゲン・ハーバーマス)との緊張感を抱えながら、啓蒙時代の自由、解放運動、自己決定、人間の本性を示している考え方を否定していた。その代わりにフーコーは、そのような産物が文化的ヘゲモニー、文化的暴力、文化的疎外を助長していたシステムに着目していた。啓蒙時代のヒューマニズムが有する「肯定的な」主張を否定しながら、フーコーはジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリとともに反精神医学運動を精力的に行い、施設に依存した精神医学の現状を鑑みながら、精神分析の中心でありフロイトが示している抑圧された感情(フロイトが示している抑圧された感情といった概念は1960年代や1970年代にフランスで影響力を有していた)が誤りであったと主張していた。フーコーは論争を呼ぶ発言で知られており、彼の「言葉は悩みの種である」との発言は社会的な慣習を支える権力構造を損なうかもしれない無意味で誤った風潮を助長するように「言葉」が作用していることを意味していたが、そのような権力構造が権利の解放運動を支援しマイノリティを尊重しているときでさえもフーコーは同様の主張をしていた。そしてフーコーの著作はポストモダンの研究に大きな影響を与えていた。

ジャン=フランソワ・リオタール(1924-1998)

リオタールの思想は『ポストモダンの条件』の中でモダニズムを通じて人間科学が前提にしている考え方の危機を示しており、それらの問題は「コンピューター」化し「テレマティクス」化した時代の到来によって顕在化していた(情報革命を参照せよ)。アカデミズムにおけるこの危機は、研究の成果を肯定している暗黙の前提や価値観がもはや妥当でないかもしれないとの主張によって、18世紀後半以降の研究を正当化している価値観に対する疑念を呈していた(特に社会科学や人文科学において顕著であったが、リオタールは数学を例に挙げていた)。現実世界の問題に対する外形的な解釈は、結論の自動的な演繹、情報の蓄積、そしてそれらの検索と複雑に関連しており、そのような知識は情報の枠組みに含まれている知識人の手からますます「離れて」いった。知識は生産者と消費者の間で取引される商品に姿を変えており、それ自体が目的であるか自由や社会的便益をもたらすツールであることを否定しており、ヒューマニズムを肯定し超然とした側面を有することを否定されており、知識と教育の関係が遍在的で、具体的で、前提を課さない「データ」の交換として認識されていた[27]。そしてさまざまな学問分野でなされている主張の「多様性」が統合化された原理や洞察を欠いており、データベースを活用する研究が含意している内容の画一性を論じながら、研究の対象がますます専門分化を深めていったことを指摘していた。アカデミズムを擁護する価値観の前提はリオタールが人間の目的、人間の理性、人間の進歩に関する架空の想定であると考えていたものであり、この架空の産物をリオタールは「メタナラティブ」と呼んでいた。これらのメタナラティブは西洋の社会に深く浸透していたが、大学における急速な情報化の進展によってその基盤を揺るがされていた。知識人の洞察つまり人間の利益と真理に忠実であることを融和させた多様な知識を追求する理性から機械化されたデータベースや市場へと権威がシフトしていったことが、リオタールの視点によれば、知識の「正当化」の実態や人生、社会、価値に関する知識の理論的根拠を説明していた。現在の私たちは、コレクティブ・アイデンティティを規定する言語に表れない価値観に縛られることによってではなく、さまざまな「言語ゲーム」に自然に対応することを通じて行動する環境に置かれていた(リオタールはジョン・ラングショー・オースティンの発話行為に関する理論を援用していた)。この問題を解決するために、リオタールはユルゲン・ハーバーマスのようなヒューマニズムの立場を擁護している新カント派の哲学者の思想に認められている普遍性やコンセンサスの前提を否定しており、先験的な形而上学における調和を追求することよりむしろ、言語ゲームにおいてプラグマティックな評価を受けるための試行錯誤や多様性を維持することを主張していた。

リチャード・ローティ(1931-2007)

『哲学と自然の鏡』を通じてリチャード・ローティは、現代の分析哲学が科学の方法論を誤用していることを指摘していた。さらにローティは、現象から認知者と観察者が独立していることや意識との関連で自然現象を認知することを前提にしていた表象主義における伝統的な認識論の視点を批判していた。プラグマティストの枠組みにおける反基礎付け主義や反本質主義の支持者のようにローティは、規約主義や相対主義におけるポストモダンを支持していたが、他方で社会自由主義に関する活動についてのポストモダンを批判していた。

ジャン・ボードリヤール(1929-2007)

シミュラクラ現象によれば、デジタル技術を通じてコミュニケーションや意味付けが行われている時代においては、記号の交換可能性によって現実が単純化されていた。ボードリヤールによれば、主体が(政治的、文学的、芸術的、個人的な)産物から切り離され、その産物が主体を支配しておらず固定的な背景も有していない状況が想定されていた。そのためそれらの産物は産業化された社会における無関心や消極性を誘因していた。またボードリヤールによれば、読者や視聴者に直接的に影響を与えることがない外観はその外観と外観の中身との違いを感じさせておらず、皮肉なことであるが、存在しているはずの人間がその姿を消し去っており、バーチャルな世界は外観のみによって構成されていた。

フレドリック・ジェイムソン(1934-)

ホイットニー美術館でのレクチャーを通じて、ポストモダニズムを歴史、知的なトレンド、社会現象として最初に理論的に展開し、後に『ポストモダニズム・オア・ザ・カルチュラル・ロジック・オブ・レイト・キャピタリズム』(1991年)を記していた。折衷主義を採用していたが、ジェイムソンは、時代区分が人文科学における批評の前提に影響を与えていることを検証していた。ジェイムソンはモダニティの文化的運動における原動力としてユートピアニズムの意義を示しており、ポストモダニティの分析においてモダニティの運動を否定することから生じる政治的・実存的不確かさを指摘していた。スーザン・ソンタグと同様に、ジェイムソンは20世紀における大陸ヨーロッパの左派の思想をアメリカの読者に紹介しており、特にフランクフルト学派、構造主義、ポスト構造主義に関連した人々の思想が顕著であった。したがってアングロアメリカのアカデミズムの言葉でそれらの思想を「解釈している」ジェイムソンの仕事はそれらの思想を批評することと同等の意義を有していた。

ダグラス・ケルナー(1943-)

ポストモダニズムから誕生したジャーナルである『アナリシス・オブ・ザ・ジャーニー』の中で、ケルナーは「近代の理論における前提や方法」を捨て去らなければならないと主張していた。ポストモダニズムの流儀で定義されたケルナーの用語は進歩、変革、調整を基盤としていた。ケルナーは現実の経験や事例を考慮した理論で用いられている語を幅広く分析していた。ケルナーはそれらの分析に科学技術社会論(STS)を用いており、STSがなければ理論が完成しないと主張していた。その議論の射程はポストモダニズムの範囲を超えており、STSを核にしたカルチュラル・スタディーズを通じて解釈されていた。そしてアメリカ同時多発テロ事件がケルナーの解釈に影響を与えていた。その影響は計画的な襲撃と世界貿易センターと呼ばれた「グローバリゼーションの象徴」の崩壊といった事実に依拠した多数の表象であった。そしてポストモダニズムに対する多くの適切な定義や懸念が彼の解釈を確かなものにしていた。またケルナーはアメリカ同時多発テロ事件の影響を理解する上での問題を検証し続けていた。ケルナーは他者には理解できるが当事者には理解できないアイロニーといったポストモダンの限定的な枠組みを通じてのみ同時多発テロ事件が理解されることが可能であるのか否かといった疑問を呈していた[28]。さらにケルナーはポストモダンと整合する記号論の考え方を展開させていた。同時多発テロ事件の影響やポストモダンを通じて解釈されたシンボルを参考にしながら、ケルナーは人がその人生やその1ページを理解するために用いる「記号論の体系」のように同時多発テロ事件を表現し続けていた。記号が人の文化を理解するために必要であるといったケルナーの考え方は多くの文化が実存の代わりに記号を用いていたことから引き出されていた。そしてケルナーは多くのポストモダニズムの研究者がその考えに囚われていることを認めていた。またケルナーはボードリヤールやマルクス主義の考え方の中に可能性を見出していた。そして同時にケルナーはマルクス主義の終焉やその意義が失われていたことを認めていた。

ケルナーが示していた結論は明白であり、それはどんな現実の経験や記号が既に知られている現実と重なるのかについて今日用いられているポストモダニズムが決定的に関与しているであろうといったことであった[29]。

4 脱構築

最もよく知られたポストモダニストによる考え方の1つに「脱構築」があり、それはジャック・デリダによって提唱された哲学のテーマであり、文芸批評であり、テクスト分析であった。「脱構築」によるアプローチは、前提、イデオロギー上の基盤、ハイアラーキーによって支配された価値観、枠組みの中にあるテクストに対する既存の解釈に疑念を呈する分析を含んでいた。脱構築によるアプローチは、著者の見解のようなテクストの前提から引き出される著者の文化、イデオロギー、道徳的姿勢や知識に依拠することなく緻密にテクストを読み込む方法論を採用していた。またデリダは「テクスト以外には何も存在していない」と述べていた[30]。デリダは言語による世界は脱構築されたテクストの基本原理(文法)から影響を受けていることを示唆していた。デリダの方法論は、与えられたテクストの意味に対してある側面では異なっているが別の側面では類似している解釈やテクストの意味に限定された二項対立が内包している問題を認識することを含んでいた。デリダの哲学は建築では脱構築主義と呼ばれており、建築物のデザインにおける破片のような形状、要素の歪みやアンバランスさによって特徴付けられていたポストモダンのムーブメントに影響を与えていた。そして『コーラ・ル・ワークス』といった建築家のピーター・アイゼンマンとの共同プロジェクトの後、デリダはこのムーブメントに関与することから遠ざかることになった[31]。

5 ポストモダニズムと構造主義

構造主義は1950年代のフランスの研究者によって展開された哲学的な潮流であり、部分的にはフランスの実存主義に由来していた。構造主義はモダニズムの表出としても認識されていた。「ポスト構造主義者」は構造主義の厳密な解釈や適用から離れた立場の思想家であった。多くのアメリカの研究者はポスト構造主義をより広範に捉えており、ポスト構造主義がよく定義されていないもののポストモダンの一部であると認識していたが、多くのポスト構造主義者はその認識は間違っていると主張していた。構造主義者と呼ばれている思想家の中には、人類学者であるクロード・レヴィ=ストロース、言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュール、マルクス主義の哲学者であるルイ・アルチュセール、記号学者であるアルジルダス・グレマスが含まれていた。精神分析学者であるジャック・ラカンや文学者であるロラン・バルトの初期の著作も同様に構造主義に分類されることがあった。構造主義から始まりポスト構造主義者になった人々の中に、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズがおり、他のポスト構造主義者の中に、ジャック・デリダ、ピエール・ブルデュー、ジャン=フランソワ・リオタール、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスス、リュス・イリガライが含まれていた。彼らが影響を与えたアメリカの知識人の中に、ジュディス・バトラー、ジョン・フィスク、ロザリンド・クラウス、アヴィタル・ロネル、ヘイデン・ホワイトが含まれていた。

ポスト構造主義は、一般に共有された公理や方法論によって定義づけられるものではなく、日々の出来事から抽象的な理論に至るまで、ある文化の側面が他の側面をどのように決定づけているのかを示すことによって定められていた。ポスト構造主義の思想家は還元主義、随伴現象説、そして因果関係が階層構造を形成しているといった考え方を否定していた。構造主義者と同様に、ポスト構造主義者は、人々のアイデンティティ、価値観、経済状況が固有の特徴を形成していくことよりむしろお互いに影響を及ぼし合っているといった仮定を議論の出発点にしていた[32]。そしてフランスの構造主義者は相対主義や社会構築主義を提唱していることを自認していた。しかしそれにもかかわらずフランスの構造主義者は、どのように研究の対象が基本的な関係の集合として還元主義的に示されているのかを研究する傾向にあった(その例として『神話論理』におけるクロード・レヴィ=ストロースの神話変換の定式が挙げられる[33])。ポスト構造主義の思想家は物が最低限持っていなければならない性質と他の物に対する依存を区別する実存に対して疑念を呈していた。

5.1 ポスト構造主義

ポスト構造主義者は一般的に原始的な文化、言語、アリストテレスの心理学、観念論における「基本的な関係」の定式化を否定していた。またポスト構造主義の運動に関連していた思想家における別の共通点は、絶対主義や、原始的な文化、言語、心理の内部における作用以上に大きな影響を与えている官僚主義や工業化の進展に伴う構造的なバイアス[34]を内在させている構造主義者による科学的な主張に対する批判的な視点にあった。そのような現実は、価値観やパラダイムから独立して存在するシステムとして、構造主義者の方法論を通じて詳細に分析されておらず、原因と結果の相互作用として理解されていた[35]。したがって多くのポスト構造主義者は、システムの機能に対して構造主義者より幅広い解釈を採用しており、循環論法的な側面やあいまいな側面を時として批判していた。ポスト構造主義者は、それらを詳細に分析した上で、構造主義者による現象、現実、真実を示す主張が逆説的な循環論法による論証に依存していると反論していた。そして研究を通じて新たな視点が影響力をもち、その新たな理論が実現されていくことに見られる客観性の獲得のプロセスよりむしろ、その理論の中に登場する潜在的な循環論法やパラドックスのパターンを見出すことが重要であった。またある視点によれば、ポスト構造主義者はマルティン・ハイデッガーによる哲学の流れを組みながら、フリードリヒ・ニーチェの著作がもつ含意を敷衍していた。

ポスト構造主義者の著作は、経験、身体、社会、経済と知識との関係や知識に対する体系的な視点の中に多様な分野からの主張をまとめている傾向にあり、その体系的な視点に対してポスト構造主義の主張が関与しているとみなされていた。そして多少なりとも学際的な構造主義者は、学際性を主張しているにもかかわらず、専門分野の枠組みを好ましく考えており、研究対象を分析するためのアプローチに対して他分野からの視点を介在させない専門分野の独立性に固執する傾向にあった。構造主義者と異なりポスト構造主義者は、ある現象に対する「複数の関係」から成り立っているシステムを絶対視しておらず、独立した自己充足的な要素から成り立っている現実を反映したものというよりむしろある主張の狙いの帰結として「その関係」やシステムを認識する傾向にあった。どちらかと言えば一部の客観的な事実を取り上げてもそうであるが、ポスト構造主義の理論は社会秩序に関する統制における広範であいまいなパターンを示していたが、そのパターンを理論として無条件にまとめ上げることは不可能であった。このため一部のポスト構造主義者は反知性主義や反哲学を理由にしてリアリスト、自然主義者、本質主義者から批判されていた。構造主義者と比較してポスト構造主義者は、理論の前提が全体に対するバイアスや権力の影響から独立していることに対して懐疑的であり、社会に対する分析、記号論、哲学における推論において「純粋に理論的」で「科学的」なアプローチを否定する傾向にあった。ポスト構造主義者によれば、理論を通じて人間社会や心理学におけるいかなる現象も基本的なシステムや抽象化されたパターンに分解することは不可能であり、抽象化されたシステムを基本的な性質を保持した副産物として処理することも不可能であり、体系化された理論、現象、価値観がお互いの一部分を形成していた。

6 ポスト・ポストモダニズム

近年になってメタモダニズム、ポスト・ポストモダニズムや「ポストモダニズムの終焉」が幅広く論じられていた。2007年に「アフター・ポストモダニズム」と題されたザ・ジャーナル・トゥエンティース・センチュリー・リテラチャーの特別号のイントロダクションの中でアンドリュー・ホーボレックは「ポストモダニズムの終焉に言及することはありふれた批評の姿になっている」と述べていた。一部の評論家はポストモダニズムを通じて文化や社会を記述することを目的とした理論の限界を示しており、著名な研究者の中にラウル・エシェルマン(パフォーマティズム)、ジル・リポヴェツキー(ハイパーモダニティ)、ニコラ・ブリオー(アフターモダン)、アラン・カービィ(以前はスードモダニズムと呼ばれていたディジモダニズム)が含まれていた。これらの新しい理論や名称は今までのところ幅広く認められていた訳ではなかった。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催されていた「ポストモダニズムースタイルと破壊 1970-1990」(ロンドン、2011年9月24日-2012年1月15日)はポストモダニズムを歴史上の運動として記録した最初の展覧会であった。

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ポスト・ポストモダニズム

ポスト・ポストモダニズムは、批評理論、哲学、建築、芸術、文学、文化における幅広い展開を示しており、それはポストモダニズムの影響を受けており、ポストモダニズムから生じていた。そして他の類似の語はメタモダニズムであった。

1 歴史

多くの研究者は、モダニズムが19世紀後半に始まり、20世紀中頃まで西洋文化の知的サークルに文化的な影響を与え続けてきたことに対して意見が一致していた[1]。あらゆる節目を通じて明らかなように、モダニズムは多くの問題を含む視点を抱えており、統一された個々の集合として定義することが不可能であった。しかしその主な特徴は、人間関係における確からしさ、芸術の抽象化、理想主義の追求についての研究に見られるように、「ラディカルな美学、テクニカルな実験、時間軸よりむしろ空間軸、自意識の反映」[2]を強調していたと考えられていた。これらの特徴はポストモダニズムにおいて除外されており、アイロニーの対象として考えられていた。

ポストモダニズムは第二次世界大戦後に認識されていたモダニズムの失敗に対する反応から生じており、モダニズムの芸術におけるラディカルなプロジェクトが全体主義に結びつきながら主流の文化に融合されていったことが指摘されていた[3]。ポストモダニズムと呼ばれるものの萌芽は1940年代に散見されており、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが有名であった[4]。しかし今日の多くの研究者は、1950年代後半にポストモダニズムがモダニズムと齟齬をきたし始めており、1960年代に優勢な地位を占めていったことに対して意見が一致していた[5]。その後ポストモダニズムは、異論があるものの、芸術、文学、映画、音楽、ドラマ、建築、哲学において支配的になっていった。ポストモダニズムの特徴は、スタイル、台詞の引用、語り方においてアイロニックな演劇[6]、西洋の文化のメタナラティブに対する懐疑主義やニヒリズム[7]、真実を犠牲にした現実の選択(正確に言えば「真実」は何によって成立しているのかといった根本的なことに対する問題意識)[8]、スキゾフレニアに類似した意識の状態を含むさまざまな現実の相互作用から影響を受けている[10]主体の局所的な「ウェイニング・オブ・アフェクト」[9]を含んでいると考えられていた。

そして1990年代後半以降の大衆文化やアカデミズムの世界においてポストモダニズムが「廃れてきている」との考えが広まり始めていた[11]。しかしポストモダニズムを継承する時代の名称や枠組みを定める取り組みはほとんどなく、提唱されていた名称も多数派からの支持を得ていなかった。

2 定義

何が時代を形成しているのかについてのコンセンサスが得られておらず、時代自体がまだ始まりの段階にあった。しかしながらポスト・ポストモダニズムの枠組みを定める取り組みにおける共通のテーマは、信頼、対話、成果、誠意がポストモダンのアイロニーを超越して機能することにあった。その深さ、焦点、範囲に違いがあるものの以下にその定義を時系列順に並べることにする。

1995年に都市計画家であるトム・ターナーは、ポスト・ポストモダンを都市計画に適用することについて本一冊分の主張を述べていた[12]。ターナーは「何でもあり」というポストモダンの立場を批判しており、「建造環境のエキスパートが推論に信頼を加えるポスト・ポストモダニズムの夜明けを目の当たりにしていた」ことを示唆していた[13]。特にターナーは都市計画において時間を超越した構造や形についてのパターンの活用を主張していた。そのようなパターンとしてターナーは、老荘思想に影響されたアメリカの建築家であるクリストファー・アレクサンダーによる作品、ゲシュタルト心理学、心理学者であるカール・ユングの思考の枠組みを引用していた。名称に関して、ターナーは「ポスト・ポストモダニズムを採用しながらも、さらに良い名称を求める」ことを促していた[14]。

ロシアのポストモダニズムに関する1999年の著作の中で、ロシア系アメリカ人であるミハイル・エプシュテインは、ポストモダニズムが「「ポストモダニティ」と呼ばれている大きな歴史の産物であった」と述べていた[15]。エプシュテインは、結局のところポストモダニストの美学はありきたりなものになり、アイロニーと異なる新たな詩歌のための基礎を固めるであろうと考え、そのことを「超」といった接頭語を用いて示していた。

「ポストモダニズム」に続く新たな時代を示す名称を考慮するときに、「超」といった接頭語が顕著になるだろうと考えられていた。20世紀の後半は「ポスト」といった語が顕著であり、そのことは「真実」や「客観性」、「精神」や「主観性」、「ユートピア」や「理想」、「原点」や「オリジナリティ」、「誠実」や「感傷」のようなモダニティにおける概念の崩壊を意味していた。そしてこれらの概念の全てが「超主観性」、「超理想主義」、「トランスオリジナリティ」、「超叙情性」、「トランスセンチメンタリティ」等といった形で現在再登場していた[16]。

例としてエプシュテインは現代のロシアの詩人であるティムール・キビーロフの作品を引用していた[17]。

「ポストミレニアリズム」という語は2000年にアメリカの人文系の研究者であるエリック・ガンズによって紹介されており[18]、倫理学や政治社会学におけるポストモダニズムに続く時代が示されていた。ガンズはアウシュビッツや広島の経験によって明らかになった加害者と被害者の倫理観の対立に基づく「被害者を過度に偏重した考え方」とポストモダニズムを密接に結びつけていた。ガンズの視点によれば、ポストモダニズムの倫理観は被害者の周辺に視点をおき、加害者側のユートピアを軽蔑することから生じていた。この意味におけるポストモダニズムは、近代のユートピアや全体主義に反対することについては有益であったが、和解のために長期的に役に立つ資本主義やリベラル・デモクラシーについて有益とならず被害者を過度に偏重した政治観によって特徴付けられていた。ポストモダニズムと比較して、ポストミレニアリズムは被害者を過度に偏重した立場をとらないことによって特徴付けられており、「被害者を過度に偏重しないダイアローグ」を採用していた[19]。ガンズはウェブ上のクロニクルズ・オブ・ラブ・アンド・リゼントメントを通じてポストミレニアリズムの考え方をさらに発展させており[21]、その語はジェネラティブ・アンソロポロジーに対する理論や歴史観と密接に結びついていた[22]。

2006年にイギリスの研究者であるアラン・カービィは「スードモダニズム」と呼ばれているポスト・ポストモダニズムに対して社会文化的な評価を行なっていた[23]。カービィはインターネットによって実現された文化の1つである世界一斉に表向き何かに直接関与する行為によって生じているうんざり感や中身の浅薄さとスードモダニズムとを関連付けており、「スードモダニズムの時代において、人々はスマートフォンを利用し、クリックし、文字を入力し、サイトを眺め、選択肢から何かを選び、サイトを移動し、ダウンロードするだけになってしまった」と述べていた[23]。

スードモダニズムにおける「典型的な知的状況」は「無知、熱狂、不安」として描かれており、実質を伴わず「超」の語がついただけの現状を生み出すだけであった。どうでもいいことに世界一斉に参加してメディアに簡単に煽られてしまう浅薄さによって生じた帰結は「モダニズム特有の強迫観念的な細かさやポストモダニズム特有のナルシシズム」と入れ替わった「有意義な情報や意思を伝えることも感情的な交流をすることもない状況」でしかなかった。カービィは美学的に価値のある結果が「スードモダニズム」から生じることはないと認識していた。スードモダニズムのくだらなさの例として、カービィはテレビ、双方向型ニュース、一部のウィキペディアでのデマ、ドキュソープ、マイケル・ムーアやモーガン・スパーロックの映画を引き合いに出していた[23]。2009年に出版された『ディジモダニズム:ハウ・ニュー・テクノロジーズ・ディスマントル・ザ・ポストモダン・アンド・リコンフィギュア・アワー・カルチャー』の中で、カービィはポストモダニズム後の文化に対する視点を仄めかしていた。

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはポスト・ポストモダニズムに関する議論を収斂させるためにメタモダニズムという語[24]を用いていた。『ノーツ・オン・メタモダニズム』という記事の中で、彼らは近代の視点とポストモダンの視点の間で揺れ動いている感性の登場によって2000年代が特徴付けられていると述べていた。メタモダンに影響された感性の例として、バーミューレンとファン・デン・アッカーは気候変動、金融危機、政情不安に対する反応によって示されている「多くの知識をもちながら知らないことも多い」、「プラグマティックな理想主義」、「節度を意識している熱狂」を引き合いに出していた。

美学的視点からメタモダニズムはヘルツォーク&ド・ムーロンによる建築、ミシェル・ゴンドリー、スパイク・ジョーンズ、ウェス・アンダーソンによる映画、ココロージー、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ、ジョルジュ・レンツ、デヴェンドラ・バンハートによる音楽、ピーター・ドイグ、オラファー・エリアソン、ラグナル・キャルタンソン、セイラ・カメリッチ、ポーラ・ドープフナーによる作品、村上春樹、ロベルト・ボラーニョ、デヴィッド・フォスター・ウォレス、ジョナサン・フランゼンによる著作のように多様な芸術として示されており、絶え間ない想念の揺れ動きや近代とポストモダンに対する態度や考え方における真ん中の立ち位置によって特徴付けられており、それらのどれにも属さない感性を示唆しており、意味を求めながら意味を疑い、希望と悲嘆を抱え、誠意とアイロニーを同居させ、多くの知識を持ちながら知らないことも多く、構築と破壊を同時に行いながら、普遍的な真実の追求と相対主義の対立の克服を示していた[25]。

接頭語である「メタ」は思索的な立場ではなくプラトンが述べていた中間者に関係しており、議論の両端を揺れ動く態度を示していた[26]。

「一般的に「ポスト・ポストモダニズム」はポストモダニズムに対峙する概念と考えられていたが、ムハンマド・ジアウル・ハックは、ポスト・ポストモダニズムがポストモダニズムと対立する時代を示している訳ではなく、それがポストモダニズムの副産物であることを示しており、両者を区別するものは「想像力」にあった。言い換えるならばポスト・ポストモダニズムは、哲学、批評、構造デザイン、芸術、文化、文学におけるポストモダンの拡張を含んでおり、新機軸を打ち立てるために制度として確立された制約を打破することを目指していた[27]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Metamodernism

メタモダニズム

メタモダニズムはポストモダニズムに対する反応として生じていた哲学、美学、文化の潮流の1つであった。ある定義によればメタモダニズムはモダニズムとポストモダニズムの対立を克服しており、メタモダニズムはポスト・ポストモダニズムに類似していた。

1 語の史的展開

メタモダニズムという語は1975年前後に登場しており、ザーヴァルザーダは1950年代中頃からアメリカ文学に生じているある種の美学や視点を示すためにその語を用いていた[1]。

1999年までにメタモダニズムは「モダニティやポストモダニティにおける妥当性を保ちながら、超越し、解体し、ひっくり返し、抜け道を探し、よく調査し、棚上げする」ための「モダニズムやポストモダニズムの拡張やそれらに対する疑念」として描かれていた[2]。そして2002年に文学のメタモダニズムは「モダニズムを通じた今後の...そして出発点として不滅の」美学として示されていた[3][4]。メタモダニズムとモダニズムの関係は「対立関係を超越しており、モダニズムの射程から外れた主体に焦点を当てるためにモダニストの方法論に再度対峙していく」ものとして示されていた[3]。

2007年の時点ではメタモダニズムはポストモダニズムと部分的に重なり合い、ある部分ではその派生であったが、別の部分ではポストモダニズムに対する反応として示されており、「相互の関連や永続的な変化といった枠組みの中でのみ現代文化や現代文学の特徴を理解することができるといった視点を肯定していた。」[5]

1.1 バーミューレンとファン・デン・アッカー

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはメタモダニズムをポスト・ポストモダニズムを巡る論争の行き着く場所として提案していた[6][7]。ノーツ・オン・メタモダニズムの中で彼らは1980年代や1990年代のポストモダンの視点を生かしながら典型的な近代へ回帰する姿勢によって2000年代が特徴付けられていたと論じていた。彼らによれば、メタモダニズムの感性は、気候変動、金融危機、政情不安、デジタル革命のような現在のグローバルな状況に対する文化的な反応の特徴である「ある面では多くの知識をもちながら知らないことも多く、プラグマティックな理想主義を示しているものとして考えられていた」[6]。彼らは「ポストモダン文化における相対主義、アイロニー、ゴチャ混ぜの文化」が終焉を迎えており、積極的に関与し、共感し、中身を伝えることに価値を認めるポスト・イデオロギーの状況が生じていると述べていた[8]。

「メタ」という接頭語は思索的な立場を示している訳ではなく、プラトンが述べていた中間者に関係しており、議論の両端を揺れ動く態度を示していた[6]。バーミューレンとファン・デン・アッカーはメタモダニズムを「多くの点の間を揺り動く振り子」のようにモダニズムとポストモダニズムの間を揺れ動く「心構えの構造」として示していた[9]。アートニュースの紙面におけるキム・レヴィンによれば、この揺れ動きは「期待と落胆、誠意とアイロニー、愛情と反感、個人的な問題と政治的な問題、技術的観点とマニアの視点に対して等しく懐疑的な心構えを示している」と思われていた[8]。メタモダニズムの時代を迎えて、バーミューレンは「かつてのメタナラティブが問題を抱えながらも必要とされており、理想がこれまでの歴史から信頼するに値しない幻滅の対象としてしか認識されない必然性はなく、愛情が馬鹿げた思い込みと必然的に同一である訳でもなかった」ことを示していた[10]。

バーミューレンは「メタモダニズムは枠組みの中の存在論を示唆している哲学と言うより、政治経済から芸術まで私たちの身の回りで何が起こっているのかを説明するオープンソースのドキュメントのような試みである」と述べていた[10]。ロマン主義の感性に回帰することがメタモダニズムの主な特徴であり、バーミューレンとファン・デン・アッカーによるヘルツォーク&ド・ムーロンの建築物や、バス・ヤン・アデル、ピーター・ドイグ、オラファー・エリアソン、ケイ・ドナチー、チャールズ・エイブリー、ラグナル・キャルタンソンのような芸術家の作品の中にメタモダニズムを認めることが可能であった[6]。

2 文化的な支持

2011年11月にニューヨークにあるミュージアム・オブ・アーツ・アンド・デザインはバーミューレンとファン・デン・アッカーによる影響を示しており、ピルヴィ・タカラ、グイド・ヴァン・デル・ワーブ、ベンジャミン・マーティン、マリーヒェン・ダンツの作品を扱った『ノー・モア・モダン:ノーツ・オン・メタモダニズム』といったタイトルの展覧会を開催していた[11]。

2012年3月にベルリンにあるギャラリー・ターニャ・ワーグナーはバーミューレンとファン・デン・アッカーと共同でディスカッシング・メタモダニズムを企画しており、メタモダニズムを扱ったヨーロッパで初めての展覧会を開催していた[12][13][14]。その展覧会は、ウルフ・アムアインド、ヤエル・バルタナ、モニカ・ボンヴィチーニ、マリーヒェン・ダンツ、アナベル・ダウ、ポーラ・ドープフナー、オラファー・エリアソン、モナ・ハトゥム、アンディ・ホールデン、セイラ・カメリッチ、ラグナル・キャルタンソン、クリス・レムサル、イッサ・サント、デビッド・ソープ、アンジェリカ・J・トロイナースキ、ルーク・ターナー、ナスティア・ロンッコの作品を扱っていた[14]。

映画を通じて「独特の」感性を表現することについて、研究者であるジェームズ・マクダウェルは、ウェス・アンダーソン、ミシェル・ゴンドリー、スパイク・ジョーンズ、ミランダ・ジュライ、チャーリー・カウフマンの作品を「新しい意味での誠意」をベースにしながら「アイロニーと誠意」のバランスを保っている心構えを表しているメタモダンの構造を具体化したものであると述べていた[9]。

アメリカン・ブック・レビューの2013年号はメタモダニズムを扱っており、ロベルト・ボラーニョ、デイヴ・エガーズ、ジョナサン・フランゼン、村上春樹、ザディー・スミス、デヴィッド・フォスター・ウォレスをメタモダニストとして認める一連のエッセイを含めていた[15][16]。PMLAの2014年の論文の中で、文学者であるデイビッド・ジェームズやウルミラ・セシャジリは「トム・マッカーシーのような21世紀の作家を論じながら、メタモダニストの著作が初期の文化的ムーブメントによる美学の遺産を取り入れながら適応しており、他方でその遺産に反応しながら問題を複雑にしている」と述べていた[17]。

大学の教員でありアートパルスで執筆しているスティーブン・クヌーセンは、メタモダニズムが「ばらばらな他のテクストとの関係からあらゆるものの意味を定めることに対するリオタールの苦悩やポスト構造主義者による主観性の脱構築に共感を寄せており、他方で本物の主張やクリエイターを積極的に擁護しており、モダニズムの美点に回帰していた」と記していた[18]。

2014年5月にカントリー・ミュージックのスターギル・シンプソンはカントリー・ミュージック・テレビジョンの中で『メタモダン・サウンズ・イン・カントリー・ミュージック』というアルバムがメタモダニズムについての記事をハフィントンポストで書いているセス・アブラムソンから部分的な影響を受けていると語っていた[19][20]。シンプソンは「技術の変遷が今まで以上に早くなっているにもかかわらず、アブラムソンはノスタルジーを感じさせるような環境で暮らしている」と述べていた[19]。J・T・ウェルシュによれば、「アブラムソンはこれまでの知的財産がモダニズムやポストモダニズムの影響によって分断されていた現状を超越する方法論として「メタ」という接頭語を理解していた」[21]。

2.1 メタモダニスト・マニフェスト

2011年にルーク・ターナーはメタモダニスト・マニフェストを発表していた[21]。マニフェストは「さまざまな主張の中での揺れ動きは当然のことである」と認識しており、その揺れ動きは「1世紀に及ぶモダニストの認識の甘さとアイロニーとの対立から生じていた惰性的な議論に」終焉を求めていた[21][22]。そして代わりにそのマニフェストは「ばらばらな複数の土台を求めることによって、誠意とアイロニーを同居させ、多くの知識をもちながら知らないことも多く、普遍性を否定しながら普遍性を求め、楽観的な態度を取りながら懐疑的な姿勢でもある揺れ動く心構え」としてのメタモダニズムを論じていた[23]。またそのマニフェストはバーミューレンとファン・デン・アッカーの作品を引き合いに出し、「私たちは開拓を継続し、揺れ動き続けなければならない」と締めくくっていた[24][10]。その後ターナーはマニフェストに対して俳優であるシャイア・ラブーフが芸術面で貢献していたことに言及していた[25][26]。

2014年の初めにシャイア・ラブーフはターナーやナスティア・ロンッコとの共同制作を始めており、デイズドによれば『名声や名誉の危うさを考察するためのプラットフォーム』と題されており、共同制作者によればメタモダニストによるパフォーマンスアートとして認識されていた[27]。これは『#アイ・アム・ソーリー』と題されていたロサンゼルス - ギャラリーでのパフォーマンスを含んでおり、ラブーフは6日間静かに座りながら観客の前で泣き続け、タキシードを着用しながら『私はもう有名人ではない』と記された茶色の紙袋を頭に被っていた[28]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Remodernism

リモダニズム

リモダニズムは特に初期のモダニズムのある側面を取り上げており、ポストモダニズムに倣いながらもポストモダニズムを対比する視点を有していた。リモダニズムの支持者はリモダニズムが前衛的でラディカルな側面を有しているものの単なる反動ではないことを主張していた[1][2]。

2000年にスタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるビリー・チャイルディッシュとチャールズ・トムソンはリモダニズムを取り上げており、その声明によれば、シニカルで精神的に荒廃していたポストモダニズムに代わって、リモダニズムが芸術、文化、社会に新たな精神を取り込むための試みであることが述べられていた。2002年に開催されたリモダニズムの展覧会に向けてカリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーによるエッセイが寄せられており、アイロニーやシニシズムによる限界を超えた新たな芸術が存在しており、新たな美の感性が存在していることが示されていた。

2006年にアムステルダム市立美術館とアムステル大学はダニエル・バーンバウムやアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を開催しており、その入門編としてメディアでの言説に対抗しながら、本物のよさ、積極的な自己表現、芸術の自己肯定のような伝統的なモダニストの価値観への回帰としての絵画のリバイバルについての講演を行なっていた[4]。2008年にロンドンイブニングスタンダードの評論家であるベン・ルイスは3つのターナー賞にリモダニズムを採用しており、20世紀初頭の形式主義のリバイバルとしてその3つのターナー賞を位置づけていた。ベン・ルイスは節度、寛大な態度、本物の感情に基づく美学といった価値観を支持していた[5]。

1 歴史

スタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるチャールズ・トムソンやビリー・チャイルディッシュはリモダニズムの時代を切り開いていた[3]。2000年3月1日にリモダニストによるマニフェストが公表されており、それは芸術の理想、本物のよさ、積極的な自己表現を肯定しており、絵画に力点を置きながらも「芸術に新たな精神を」取り込んでいた。その前提はモダニストによる理想がまだ十分に生かされていないことであり、その目標はその理想が誤用されている現状においてその役割を回復させ、再度定義させ、リバイバルさせることにあった。リモダニズムは真実、知識、その内容を肯定しており、形式主義に疑念を抱いていた。

そのイントロとして「ポストモダンの戯言によってモダニズムはその意味を見失っていた」といった言葉が紹介されていた。そしてニヒリズム、科学的唯物論、方向性の定まらない破壊に対抗して勇気、個性、一般性、コミュニケーション、人間性を強調した14の視点を示していた。その中の7番目の視点は次のようなものであった。

精神性の追求は魂の旅であり、最初にやるべきことは真実と向き合うために暗黙の意味を列挙することであった。真実は今実際に存在しているものであり、願望とは異なっていた。精神性を追求する芸術家であることは、善悪、美醜、迷いや自信をはっきりと述べることを意味しており、それは私たち自身と他者との関係さらに神との関係を知ることを含んでいた。

9番目の視点によれば、「精神性を追求する芸術は宗教と異なっており、精神性を追求することは自身を理解することや芸術家の明晰さや芸術の高い完成度を通じてその哲学を見出すことを念頭に置きながら人間性を追求することを意味していた。」 12番目の視点によれば、「神」という語の用法はギリシア語の「神によって所有された」を意味する「情熱」と結び付けられていた。

そのまとめとして、「きちんとした心がある人々にとって、支配階級であるエリートによって創作された芸術が明らかにしているように、現在発表されている芸術が理性による成果の失敗を示していることは明白であり」、その解決法は精神性を追求しているルネサンスにあり、「他に芸術が歩むべき道は存在しておらず、スタッキズムからの提案は精神性を追求するルネサンスを今すぐに始めることであった。」[6]

チャイルディッシュやトムソンはリモダニズムのマニフェストをニコラス・セロタ卿、テート・ギャラリーの理事に送っていたが、「あなた方は私があなた方の手紙やリモダニズムのマニフェストにコメントしないことを知っても特段驚くことはないでしょう」との返事があったのみであった[8][9]。

2000年3月にスタッキストは、『ザ・レジグネイション・オブ・サー・ニコラス・セロタ』と題した展示によって彼らがリモダニストによる初めての芸術グループであることを宣言していた。4月にリモダニズムは『ザ・ガルフ・ニューズ(UAE)』に引用されていた[10]。5月にオブザーバー紙はスタッキストによる展覧会を告知していた。「リモダニズムと呼ばれる芸術的ムーブメントに関わっているグループは明白な概念論に反対しており、形のある絵画を通じて感情や精神性の完成度を高めることを主張する展覧会のチケットの販売に経済面で依存していた。」[11]

6月にトムソンやチャイルディッシュはインスティチュート・オブ・アイデアズによって主催されたケンジントンにあるサロン・デ・ザールでスタッキズムやリモダニズムについての講演を行っていた[12]。同月に「スチューデンツ・フォー・スタッキズム」は「リモダニストによる講演会」を行なっていた。ザ・インスティチュート・オブ・リモダニズムはカテレ・アーマディによって設立されていた。

2001年にトムソンはイギリスの総選挙に立候補しており、「スタッキスト党は政治の場にスタッキズムやリモダニズムの考え方を導入する目的で結成された」と述べていた[13]。

2002年1月にマニフィコ・アーツはニューメキシコ大学の大学院生による「リモ:リモダニズム」[14]と題された展覧会を開催していた。芸術家による講演会の場で、カリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーは「リモダニズムは後向きではなく常に前を向いている」と述べていた[2]。展示会の寄稿文の中でラドリーは以下のように記していた。

...芸術家の主張に自信が取り戻されており、芸術家が皮肉、冷笑、教訓に煩わされることなく個性を追求することが可能であるといった視点が蘇っていた。その狙いは存在の意味を再び取り上げ、美の意味を練り直し、共感することの必要性を再度取り上げることにあった[15]。

展覧会のキュレーターであるヨシミ・ハヤシは次のように述べていた。

「リモ」はモダニズム、アバンギャルド、ポストモダニズム由来の考え方を混在させており、芸術に対するオルタナティブと主流派のアプローチを統合していた。「リモ」では多文化主義、アイロニー、高尚さ、アイデンティティに関する問題が取り扱われていたが、それのみで芸術を確立している訳ではなかった。伝統に対する再考と再定義は単なる脱構築によって成された訳ではなく、概念の接点を探しつなげることによって成されていた。定義によれば「リモ」は基本的に細胞に例えられており、そのルーツは芸術の周縁部分に由来していた[16]。

2003年に独立団体であるザ・スタッキスト・フォトグラファーズがアンディ・ブロックとラリー・ダンスタンによってリモダニズムに対する賛同を目的として設立されていた[17]。

2004年にアイルランドのクリエイター集団であるザ・デファスニスツはリモダニストのグループであることを宣言していた[18]。リモダニストの美術館であるザ・ディートリック・ギャラリーはケンタッキー州のルイビルに設立されていた。アメリカの映画製作者およびカメラマンであるジェシー・リチャーズとハリス・スミスはリモダニストの映画や写真についての新たなグループを共同設立しており、感情が意味するものを強調しており、ヌーベルバーグ、ノー・ウェーブ、表現主義、超越を映画製作の要素に組み込んでいた。

スタッキズムの芸術家であるビル・ルイスは2004年のリバプール・ビエンナーレでのBBCによるインタビューの中で、リモダニズムは「厳密な意味での芸術的ムーブメントではなく」、新たなパラダイムへ芸術を押し進めるためにモダニズムの原点に回帰することを意味していると述べていた[1]。リモダナイズすることは「再び原点に戻ること」であり、絵画から始まり...そして芸術がどこへ向かうのかを俯瞰することであった[1]。ビル・ルイスは、リモダナイズすることはポストモダンに対する自然な反応であると言われているが、「語の本当の意味においては」ラディカルな内容を指していると述べていた[1]。ニューヨークのスタッキズムの芸術家であるテリー・マークスは、リモダニズムを通じてモダニズムが良い方向へ向かうことになったのだが、そこから「純粋な理念」へ方向転換して未開拓のオルタナティブを目指すための原点に回帰する必要があり、「より多くの人々が享受でき、より具体的な創作を追求し、私たちをどこに導くのかを示すことがその目標に含まれている」と述べていた[19]。

2004年にルーク・ヘイトンはザ・フューチャー・マガジンの中で、「リモダニズムは私たちがその芸術に対して好みを述べることを許容しているのではないか」と述べていた[20]。フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノスは「リモダニズムにとっても芸術家が魂を掲げることにとっても2004年が記念すべき年であった」と宣言していた[21]。

2005年8月に『アドレシング・ザ・シャドウ・アンド・メイキング・フレンズ・ウィズ・ワイルド・ドッグズ』と題された展覧会(スタッキストによるリモダニズムのマニフェストに由来している)がニューヨークのCBGBの313ギャラリーで開催されていた[22]。芸術家でありブロガーであるマーク・バレンは、「1970年代の半ばにパンクはCBGBと呼ばれていたニューヨークの湿っぽい場所にある小さなナイトクラブから生まれていた。そしてテレヴィジョン、ラモーンズ、パティ・スミスのようなロッカー達が商業ロックの流れに対して正面攻撃を加えていたときに、すべてが始まっていた。現在、音楽における第二の抵抗運動としてリモダニズムがパンクの聖地から商業ロックの流れに対して攻撃を加えようとしている」と述べていた[22]。

2006年5月10日にアムステル大学市立近代美術館とアムステル大学はアートフォーラムの編集者であるダニエル・バーンバウムやグッゲンハイム美術館のアシスタント・キュレーターであるアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を行なっていた[4]。その要旨は次のように示される。

近年私たちは絵画に対する関心がこれまでとは別の形で再度高まっているのを目の当たりにしており、私たちは芸術の自己肯定、本物のよさ、積極的な自己表現のような伝統的なモダニストの価値観に回帰する古代からの営みのリバイバルを経験しているのであろうか。仮に私たちがモダニズム(リモダニズム)への回帰を話題にできるなら、これは芸術における立ち位置が真ん中にある学際的な試みをどこへ向かわせるのであろうか[4]。

2006年8月に「ザ・リモダニスツ・オブ・デヴィアントアート」と呼ばれるインターネット上のグループがクレイ・マーティンによって設立されていた。このグループはデヴィアントアート・ドットコムで活動する芸術家によって構成されていた。

2006年に芸術家であるマット・ブレイは「俺はスタッキストであるとは思われたくなく、たぶんいてもいなくても構わないピエロのような存在だろう。ザ・スタッキストは一番名の通ったリモダニストのグループだし、そのマニフェストに心が惹かれている。そして彼らには感謝している」と述べていた[23]。2007年5月にマット・ブレイはパンクのアダム・ブレイと一緒にイギリスのフォークストンでザ・マッド・モンク・コレクティブを立ち上げており、リモダニズムを広めていた[24]。

2008年1月にイブニングスタンダード紙の評論家であるベン・ルイスは、2008年が「モダニストのリバイバルを表現するための新たな語である『リモダニズム』」を経験する年になるだろうと述べており[25]、マーク・レッキー、ルナ・イスラム、ゴシュカ・マキュガを「20世紀初頭の形式主義のリバイバル」としてターナー賞にノミネートしており、「心が感じられるささやかで寛大な美学であること」を理由にしてマキュガを賞賛しており、それこそが今日必要とされていると述べていた[5]。2009年4月にベン・ルイスは「ノスタルジックな」16mmフィルムを用いるルーマニアの芸術家であるカタリナ・ニクレスクをモダニズムの余韻を嗜好する芸術の大きな流れの中に位置付けており「それをリモダニズムと呼ぼう」と述べていた[26]。

2008年8月27日にジェシー・リチャーズはリモダニスト・フィルム・マニフェストを発表しており、そのマニフェストは「映画における新たな精神性」を追求しており、映画製作に直感を導入しており、リモダニストによる映画を「むき出しで、必要最小限で、叙情的で、パンクの要素を含む映画製作である」と表現していた。そしてそのマニフェストはデジタル映像を用いた映画製作者であるスタンリー・キューブリックやドグマ95を批判していた。4番目の視点は次のようなものであった。

日本の意識の1つである侘・寂(不完全さを活かした美)や物の哀れ(移り行く物に対する感慨・過ぎ行く物に対するほろ苦い感情)は存在の真実を示すことの可能性を有しており、そのことはリモダニストによる映画が制作されるときにに常に念頭に置かれていた[27]。

その後の2009年にマングビーイング誌におけるリモダニストによる映画についてのエッセイの中で、リチャーズはプロと関連させながらリモダニズムを論じていた。

一般的にリモダニズムはアマチュアによる挑戦を肯定しており、プロを考察の対象として特殊な立場に置いていた。つまりこれまでのプロは失敗をなくすために励む存在であり、それゆえ「プロフェッショナル」であったが、私はそうは考えていない。そして仮にプロが絶えず成長する可能性を有する存在であるのならば、私はそのプロを支持したい。絵を描き、演技をし(内向的であるならば特に)、他の芸術家のためのモデルになり、宗教の仲立ちをし、意識のレベルに影響することを行い、他者を不快にさせることに対しても一歩足を踏み出し、外の世界での生活に触れ合い、見知らぬ大海に飛び込むことを実際に自分でやる映画製作者を支持したい。私はそれらがプロにとっての挑戦だろうと考えている[28]。

2009年にニック・クリストスとフロリダ・アトランティック大学の学生がマイアミ・スタッキスト・グループを設立していた。クリストスは「スタッキズムはモダニズムのルネサンスであり、リモダニズムである」と述べていた[29]。

7 批判

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムが無意味であり、蒙昧主義にすぎないとの主張を包含していた。例えばノーム・チョムスキーは分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にしてポストモダニズムが無意味であると主張していた。チョムスキーは、「理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのか...」と尋ねられたときに、なぜポストモダニストの知識人は他分野の研究者のように答えようとしないのかと尋ねていた。「仮にその答えがないのであれば、私は「情熱に対する」類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい」[36]。キリスト教徒の哲学者であるウィリアム・レーン・クレイグは「私たちがポストモダンの文化の中で暮らしているというアイデアは幻想である。実際ポストモダンの文化はあり得ないものであった。そして人々に馴染まれるものではなかった。また科学、工学、技術の問題になると人々は相対主義の立場ではなかった。むしろ宗教や倫理の問題になったときに相対主義の立場を採用していた。そしてこの話から導き出されることはこのような立場はポストモダニズムではなくモダニズムであるということだ」と述べていた[37]。

ポストモダニズムに対する表立ったアカデミズムからの批判は例えば『ビヨンド・ザ・ホウクス・アンド・ファッショナブル・ナンセンス』のような作品の中に確認されている。

そしてアメリカのアカデミズムは大陸の哲学、特にフレンチ・セオリーを採用している研究者に対して「ポストモダニスト」のレッテルを貼る傾向にあった。そのような傾向はアメリカの比較文学部に由来しているかもしれなかった[38]。構造主義者やポストモダニストの世界観が同時に心理、社会、環境の領域を十分に説明できるほど融通がきくものではないと主張することによって「ポストモダニスト」と考えられていたフェリックス・ガタリがその理論の前提を否定していたことは興味深いことであった[39]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Criticism_of_postmodernism

ポストモダニズムに対する批判

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムに意味がなく、蒙昧主義を後押ししているに過ぎないとの考えを含めていた。

1 あいまいさ

哲学者であるノーム・チョムスキーはポストモダニズムが分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にして意味がないと主張していた。チョムスキーはなぜポストモダニストである知識人が他分野の研究者のように問いに答えようとしないのかと尋ねていた。

その問いとは、理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのかといったことであり、これらの問いは誰が投げ掛けても正当なものであった。仮にその答えがないのであれば、私は「情熱に対する」類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい[2]。

類似の立場から、リチャード・ドーキンスはアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる『「知」の欺瞞』を肯定的に評価していた[3]。

あなたが主張することがないにもかかわらず、アカデミズムの世界で成功し、弟子を集め、あなたの記述に対して世界中の学生から黄色の蛍光ペンでアンダーラインを引いてもらいたいと願う知的欺瞞を抱えているとしよう。あなたはどんな種類の文学のスタイルを確立しようとするだろうか。もちろん明快な答えがないことはあなたに中身がないことを示すことになろう。

ドーキンスはフェリックス・ガタリからの引用を「中身がないこと」の例として用いていた。

「ポストモダニズム」という用語が無意味なバズワードでしかないことが示唆されていた。例えば、ディック・ヘブディジは『ハイディング・イン・ザ・ライト』の中で次のように記していた。

人々が「ポストモダン」の枠組みの中に、インテリア、建物のデザイン、映画における物語空間、作品の構成や「スクラッチ」ビデオ、テレビコマーシャルや芸術のドキュメンタリー、間テクスト性、ファッション誌や批評誌におけるページのレイアウト、認識論における反目的論、「存在に対する形而上学」への批評、感情の意味を弱めること、中年の幻滅に対抗しようとするベビーブーマーである戦後世代の失意や不健全さ、反動の中の「苦境」、ひとまとまりの比喩、上辺だけの表現や関係の増加、日用品に対する愛着に対する新たな局面、イメージ、内輪の習わし、スタイルに魅了されること、文化・政治・存在の細分化、主体を「話題から外すこと」、「メタナラティブに対する警戒」、力の複数性によって一元的な力を置き換えること、「意味の内面を解体すること」、文化的なハイアラーキーの崩壊、個の自滅の脅威に対する不安、大学の没落、新たに細分化されたテクノロジーの影響、メディア・消費者・多国籍を包含する局面への社会経済のシフト、「場に囚われない」感覚や「場に囚われない」意識の放棄、一時的な座標空間に対する代替物を含めるならば、私たちがバズワードに囲まれていることは明白であった[4]。

例えばイギリスの歴史家であるペリー・アンダーソンのような人々は、「ポストモダニズム」という語が有しているさまざまな意味が互いに矛盾し合っており、ポストモダニストを分析することが現代文化に対する洞察をもたらすだろうと述べていた[5]。またカヤ・イルマズはポストモダニズムという語の定義が明確でなく筋が通っていないことを示していた。イルマズによれば、理論自体が反基礎付け主義であるためにポストモダニズムという語が基礎を有していないことが指摘されていた[6]。

2 道徳的相対主義

ある評論家はポストモダン社会が道徳的相対主義の言い換えであり、行動の逸脱を促していると解釈していた[7][8][9]。右派の作家であるチャールズ・コルソンは道徳的相対主義や状況倫理にあふれる不可知論と同様に不信の目でポストモダニズムの時代を眺めていた[10]。ジョシュ・マクドウェルとボブ・ホステトラーはポストモダニズムに対して次のような定義を与えており、「客観的な意味において真実は存在しておらず発見されるのではなくでっち上げられるといった信念に基づいた世界観」があり、真実は「一部の文化によってでっち上げられ、その文化でしか通用しなかった。そのため真実を語ろうとすることは力技であり、他の文化を支配する試みでもあった。」[11]

多くの哲学的ムーブメントは存在の健全な説明としてのモダニティやポストモダニティを否定していた。その一部は文化的ないし宗教的右派と関連しており、その右派はポストモダニティが基礎となる精神ないし当然の真実を否定しており物質的な満足を強調しながら内なるバランスや精神性を否定してきたと認識していた。これらの多くは、受け入れがたいポストモダンの条件[12]である「客観的な真実を放棄する」傾向を批判しており、真実を与えるメタナラティブを示すことを意図する傾向にあった。

3 マルクス主義による批判

カリニコスはボードリヤールやリオタールのようなポストモダンの思想家を批判しており、ポストモダニズムが「1968年5月の失望に終わった革命世代が「新たな中産階級」を形成していることを反映しており、知的ないし文化的な現象よりむしろ政治的なフラストレーションや社会的流動性の低下の兆しとして解釈されることが妥当である」と論じていた[13]。

美術史家であり社会主義労働者党のメンバーであるジョン・モリニューは「ブルジョア歴史家による古くからの主張の繰り返し」であることを理由にしてポストモダニストを批判していた[14]。

アメリカ文学の評論家でありマルクス主義者であるフレドリック・ジェイムソンはポストモダニズムを批判しており、資本主義やグローバル化の進展を支えるメタナラティブに関与することを否定しており、ポストモダニズムが「文化における後期資本主義のようなもの」であると主張していた。そしてポストモダニズムが支配と搾取につながっていると主張していた[15]。

ザ・アメリカン・インターナショナル・ソーシャリスト・オーガニゼーションのメンバーであるシェリー・ウルフは2009年の『セクシュアリティ・アンド・ソーシャリズム』の中でゲイ解放のための手段としてのポストモダニズムを否定していた[16]。

4 アート・バラックス

アート・バラックスは1999年4月のアート・レビューにおけるブライアン・アシュビーによる記事であった[17]。アシュビーは「ポストモダン」芸術における言語の意義を指摘していた[17]。アシュビーによるポストモダン芸術は「インスタレーション、写真、コンセプチュアル・アート、映像」の形式を採用していた。タイトルに含まれるバラックスはナンセンスに関連していた。

5 ソーカル事件

ニューヨーク大学の物理学教員であるアラン・ソーカルは事件を引き起こしており、ポストモダニストによる論文に類似したスタイルで意図的にナンセンスな論文を投稿していた。その論文は『ソーシャル・テキスト』誌によって受理され掲載されていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Postmodernity

ポストモダニティ

ポストモダニティは一般に経済や文化の姿やモダニティの後に存在している社会状況を説明するために用いられてきた。ある学派は20世紀後半の80年代から90年代初頭にかけてモダニティが終焉を迎えポストモダニティに移行したと主張していたが、他の学派はモダニティがポストモダニティによる展開を包含していると述べ、さらに他の学派はモダニティが第二次世界大戦によって終焉を迎えていたと主張していた。ポストモダンの条件はモダニズムの精神に反して自律的に機能する能力を奪う文化として特徴付けられていた[1]。

ポストモダニティはポストモダン社会つまりポストモダンを生み出している社会状況やポストモダン社会と関連している存在の現れ方に対する個々の反応を示していた。多くのコンテクストにおいて、ポストモダニティはポストモダニズム、芸術、文学、文化、社会におけるポストモダンの特徴と区別されていた。

1 語の用法

ポストモダニティはポストモダンを生み出す社会状況や条件であり、ポストモダン芸術ではモダンに対する反応であった。モダニティは進歩主義時代、産業革命、啓蒙時代と重なる時代として定義されていた。哲学や批評においてポストモダニティはモダニティの後に存在している社会状況やモダニティの終焉の要因となる歴史的状況を示していた。この用法は哲学者であるジャン・フランソワ・リオタールやジャン・ボードリヤールに由来していた。

ハーバーマスによれば、近代の「プロジェクト」は社会活動や芸術活動に合理性やハイアラーキーを導入することによって進歩を促していた(ポスト工業化、情報化時代を参照せよ)。リオタールは進歩の追求による確かな変化によって特徴付けられた文化の姿としてモダニティを位置づけていた。ポストモダニティは確かな変化が現れており進歩の概念が廃れきった状況を示していた。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる絶対的な知の可能性に対する批判によれば、リオタールは実証主義、マルクス主義、構造主義のようなメタナラティブが進歩のための方法論として機能していないことを論じていた。

文学研究者であるフレドリック・ジェイムソンや地理学者であるデヴィッド・ハーヴェイはポストモダニティを「後期資本主義」や「フレキシブルな資本蓄積」、金融資本主義以降のヒトやモノが自由に移動する資本主義、ハーヴェイが「時間と空間の凝縮」と呼んでいるものと同一視していた。彼らはポストモダニティが第二次世界大戦以降の経済秩序とされるブレトンウッズ体制の崩壊と重なっていることを示唆していた(消費主義や批評理論を参照せよ)。

アウシュビッツや広島のような惨事を導いたヒューマニティの欠陥を取り上げてモダニティが完全な失敗であったと捉えている人々はポストモダニティをあるべき姿であると認識していた。近代のプロジェクトに自身を含めている多くの哲学者はポストモダニズムの帰結を示唆するためにポストモダニティを用いていた。ユルゲン・ハーバーマスを含む多くの研究者は近代のプロジェクトが未完に終わり普遍性が不要とされる反啓蒙主義の現れとしてポストモダニティを認識していた。このコンテクストでポストモダンの思想の帰結であるポストモダニティはネガティブな用語として用いられていた。

2 ポストモダニズム

ポストモダニティは制度や作品の変化(ギデンズ、1990年)やグローバルな視点を通じて特に1950年代の欧米における社会経済の推移に関連した状況を示しており、ポストモダニズムは美学、文学、政治哲学、社会哲学、特に1920年代の新たな芸術的ムーブメント以降の「文化的ないし知的現象」を含んでいた。ポストモダニティやポストモダニズムといった語は哲学者、社会科学者、そして現代文化、経済学、20世紀後半から21世紀初頭の生活を反映した社会の側面を批評する評論家によって用いられており、権威の分断化や知識の商品化を含んでいた(モダニティを参照せよ)。

そしてポストモダニティと批評理論、社会学と哲学の関係が問題になっていた。「ポストモダニティ」や「ポストモダニズム」といった語を区別することは難しく、ポストモダニティはポストモダニズムの帰結であった。そのプロセスは多様な政治的影響を内包しており、「反イデオロギー」がフェミニスト運動、人種差別撤廃運動、ゲイ・ライツ・ムーブメント、20世紀後半の多くのアナーキズム、平和運動、反グローバリゼーション運動とのハイブリッドと関連していた。これらの運動はポストモダンのムーブメントを肯定していなかったけれども、コアとなるアイデアのいくつかをポストモダンのムーブメントから借用していた。

3 歴史

リオタールやボードリヤールのような研究者はモダニティが20世紀後半に終焉を迎えていたと想定し、モダニティ以後をポストモダニティとして定義していたが、バウマンやギデンズのような研究者はモダニティの意味を拡張しながら、ポストモダニティによって示されているその後の展開を解釈していた。他の研究者はモダニティが1900年代のビクトリア朝時代に終焉を迎えていたと述べていた[2]。

ポストモダニティは1940年代後半や1950年代の初期から冷戦の終結にかけての段階(限られた帯域のアナログメディアが少数のメディアとして権威を維持していた時代であった)や冷戦の終結以降の段階(ケーブルテレビやデジタル時代の「新たなメディア」の普及によって特徴付けられた時代)といった2つの局面を通じて説明されていた。

ポストモダニティの最初の段階はモダニティの終焉と重なり、近代の一部として認識されていた(分類学や時代区分を参照せよ)。テレビが主なニュースの情報源になり、製造業が欧米の経済におけるその意義を低下させ、貿易が話題の中心を占めつつあった。1967年から1969年の先進国において文化が急速に発展し、それは社会の中でポストモダニティを経験しながら成長したベビーブーマーが政治、文化、教育の権力構造に参加することを求め始めていた時期でもあった。非暴力や文化的な活動からテロまでを含んでいるデモや抵抗運動は前の世代による政治や議論の設定に対する若い世代の異議申立てを示していた。アルジェリア戦争やベトナム戦争、人種差別を容認する法律、女性差別を助長する法律、離婚の制限に対する抵抗、マリファナや麻薬の使用の増加、ロックを含む音楽やドラマにおけるポップカルチャー、オーディオ・テレビ・ラジオの普及が幅広い文化のコンテクストの中で顕在化していた。60年代後半から70年代初頭の特徴は、メディア文化に囲まれた生活の帰結に注目しながら、マスメディア文化に参加することが社会規範の権威を揺るがすことを通じて自由をもたらしていたと述べていた哲学者であるマーシャル・マクルーハンの著作の中に示されていた。

ポストモダニティの次の段階は「デジタル化」によって特徴付けられており、ファックス、モデム、ケーブル、高速回線のインターネットといったコミュニケーションの手段がパーソナル化やデジタル化の影響力を増大させ、ポストモダニティの状況を劇的に変化させており、デジタル情報を通じて個人の力がこれまでメディアが有していたあらゆる側面に対して現実の力として作用していた。このことは知的財産権を巡る製作者と消費者の衝突を促しており、ニューエコノミーの支持者は情報コストの激しい低下が社会を根本的に変化させるだろうと述べていた。

そしてデジタル化ないしエスター・ダイソンによるデジタル化がポストモダニティと異なる状況として登場してきたことが指摘されていた。この立場の論者は、ポピュラー・カルチャーのアイテム、ウェブ、知識をインデックス化している検索エンジンの活用やテレコミュニケーション可能な力がヘンリー・ジェンキンスによる「参加型文化」の登場やAppleのiPodのようなデバイスの普及を通じた「過度の一極集中」を生み出していると論じていた。

この時代におけるシンプルではっきりとした境界線は1991年のソ連崩壊や中国の自由化であった。1989年にフランシス・フクヤマはベルリンの壁の崩壊を予想させる『歴史の終焉』を発表していた。フランシス・フクヤマによれば、政治哲学の問題は解決されており、価値観を巡る大規模な戦争はもはやあり得ないものであり、その理由として「あらゆる対立が解消され、あらゆる人間が円満な状況を必要としていること」が挙げられていた。そしてこれはある種の「エンディズム」であり、1984年にアーサー・ダントーはアンディ・ウォーホルによるブリロ・ボックスが形式主義を否定して芸術が終焉を迎えたことを歓迎していた。

4 論評

4.1 哲学と批評理論の区別

ポストモダニティに対する論争にはよく混同される2つの要素が存在していた。(1)現代社会の特徴と(2)現代社会に対する評論の特徴であった。前者は20世紀後半に端を発した変化の特徴であった。そして3つの代表的な分析が存在していた。カリニコス(1991年)やカルフーン(1995年)のような研究者は現代社会の特徴に対して保守的な立場を示しており、社会経済的変化の意義や程度を軽視しており、過去との連続性を強調していた。次にある領域の研究者は「近代」のプロジェクトが依然として「モダニティ」の段階のままである現在を分析しようとしていた。この意味での現在はウルリッヒ・ベックによれば「第二の」ないし「リスク」社会と呼ばれ(1986年)、ギデンズによれば「後期の」ないし「高度な」モダニティとして示されており(1990年・1991年)、ジグムント・バウマンによれば「リキッド」モダニティであり(2000年)、カステルによれば「ネットワーク」社会であった(1996年・1997年)。さらに別の研究者は現代社会がモダニティと異なるポストモダンの段階に移行していると論じていた。この立場を採用している研究者はリオタールやボードリヤールであった。

別の問題は評論の特徴に起因しており、モダニズムが普遍主義を示しておりポストモダニズムが相対主義を示していることを前提にしていたために、その普遍主義と相対主義の間における論争がしばしば生じていた。セイラ・ベンハビブ(1995年)やジュディス・バトラー(1995年)はこの論争をフェミニスト政治学と関連させ、ベンハビブはポストモダン批評が3つの要素から構成されていると論じており、主体やアイデンティティに対する反基礎付け主義者の考え方、目的論や社会の進歩といった概念や歴史の終焉、客観的な真理を求める形而上学の終焉を挙げていた。ベンハビブはこれらの視点に反論しており、これらの視点がフェミニスト政治学の基盤を損なっており、保護団体の可能性、自己の意味、解放の名の下に女性史が簒奪されてきたことを考慮していないと主張していた。規範としての理想の否定はユートピアの可能性、倫理の中心、民主主義に根差した活動を否定することにつながっていた。

バトラーはベンハビブに対してポストモダニズムという語の用法が反基礎付け主義やポスト構造主義を超えた妄想を含んでいると述べていた。

そして多くの視点がポストモダニズムに依拠していた。ディスコースが全てであり、ディスコースが全てを構成しているある種の一元論であるかのようであった。主体が喪失され、私が「私」に言及することができなかった。現実は存在しておらず、表象のみが存在していた。これらの論拠はポストモダニズムやポスト構造主義にあり、互いに関連し合い、脱構築とも関連し、フランスのフェミニズム、脱構築、ラカンの精神分析、フーコディアンの分析、ローティの対話主義、カルチュラル・スタディーズとして認識されていた。実際にはこれらのムーブメントは矛盾し合っていた。フランスにおけるラカンの精神分析はポスト構造主義と対立しており、フーコディアンはデリディアンとほとんど関連しておらず...リオタールはポストモダニズムという語を擁護していたが、それはその他大勢の自称ポストモダニストが行なっていることと異なっていた。またリオタールの研究はデリダのそれと異なっていた。

バトラーは、一方でどのように哲学が権力関係に関与しているのかを示しており、他方で問いの始まりが「普遍性」や「客観性」を疑うことであることを理由にして主体に対する批評が話の始まりであって終わりではないと述べているポスト構造主義者を支持しているポストモダニストによる批評の特徴を論争の対象にしていた。

ベンハビブとバトラーの論争はポストモダニティの定義自体が議論の対象であることから示されるようにポストモダニストに対する単純な定義が存在していないことを示していた。ミシェル・フーコーはインタビューの中でポストモダニズムのレッテルを貼られることを拒否していたが、ベンハビブを含む多くの人々は、啓蒙運動における普遍的な規範に疑念を呈することによってユートピアを示している「近代」の評論を否定していることを理由にしてフーコーが「ポストモダン」の評論を支持していると考えていた。ギデンズ(1990年)はこのように定義された「近代の」評論の特徴を認めておらず、啓蒙時代の普遍性に対する評論が近代の哲学者とりわけニーチェにとって主要な問題であったことを指摘していた。

4.2 ポストモダン社会

ジェイムソンはポストモダニティとモダニティの違いを示唆している多くの現象を認識していた。ジェイムソンは「新たなタイプの浅薄さ」や「深みのなさ」について言及しており、(解釈学、論理学、フロイトの抑圧、本物と偽物に対する実存主義者による区別、シニフィアンとシニフィエに対する記号論による区別において)「内側」と「外側」の視点を通じて人々や物事を説明しているモデルを否定していた。

そしてモダニストの「ユートピアに対する姿勢」やファン・ゴッホにおいてそうであるが芸術において苦悩を美に昇華することが否定されており、他方でポストモダニズムのムーブメントを通じて物質世界が「根本的な変化」を経験しており、「テキストや見てくれのごった煮になって」しまっていた(ジェイムソン、1993年)。モダンアートが世界を取り戻し、それを理想に据えて、魂をもたらすことを希求する一方で(グラフによれば、科学や宗教の没落が世界における価値を退廃させていた)、ポストモダンアートは世界に破滅を与えており、ポストモダンの破滅は、趣旨としては破滅と無関係であるのだが、見る側の視点を崩壊させていた。グラフは科学や合理主義の登場によって損なわれていた意味を与えるために宗教の代わりにアートを用いることの中にアート特有の変化を訴求するミッションを位置付けていたが、他方でポストモダンにおけるアートの役割が不毛であると認識していた。

さらにジェイムソンはポストモダンの特徴を「ウェイニング・オブ・アフェクト」として示しており、あらゆる感情がポストモダンが支配する時代から失われている訳ではなく、ポストモダンの時代がある特定の感情を失っていることを示しており、それは例えば「(あなたの方に振り向いてくれる)ランボーのマジカル・フラワーズ」のようなものであった。ジェイムソンは「その人の流儀が通用しない」「ごった煮となった権威の没落におけるパロディ」がそのごった煮に普遍性を与えていることを示唆していた。

ジェイムソンによれば、ポストモダニティにおいて物事の尺度が「喪失されて」おり、私たちが「ポストモダンの主体が我を見失ってしまうほどの多くの事柄の中に埋没してしまっている」ことが指摘されていた。この「新たなグローバル空間」はポストモダニティの「正念場」でもあった。ジェイムソンが認識しているポストモダンの他の特徴は「グローバル空間における存在のある側面として示されていた」。またポストモダンの時代は文化の社会的機能を変化させていた。ジェイムソンによれば、近代の文化は「中途半端に自律的」で、「現実を超えた存在」を仮定していたが、ポストモダンの文化はその自律性を奪っており、文化人の営みが社会全体を消費するまでに拡大しており、あらゆる人々が「文化人」になっていたことが指摘されていた。そして「評論における物事の尺度」であり左派の理論が依拠している「巨大な資本という存在」の蚊帳の外に文化が位置しているといった仮定は時代遅れになっていた。また多国籍資本の驚異的な拡大が資本主義に染まっていない地域(自然であれ意識であれ)を植民地化し尽くしてしまい、植民化される側は評論家にとって都合がよい状況を与えていた(ジェイムソン、1993年、54)。

4.3 社会科学

ポストモダン社会学は20世紀後半の先進国の生活に着目しており、マスメディアと大量生産・大量消費、グローバル・エコノミーの登場、製造業からサービス業へのシフトを視野に収めていた。ジェイムソンやハーヴェイはその生活を消費主義として描いており、製造、流通、その結果としての幅広い普及に要するコストは安価になっていたが、社会におけるつながりやコミュニティは一層希薄になっていた。他の思想家によれば、ポストモダニティは大量生産・ポピュリズムを前提とした社会におけるマスメディアに対する当然の反応であることが指摘されていた。アラスデア・マッキンタイアの著作はマーフィー(2003年)やビールスキス(2005年)のような著者によるポストモダニズムを紹介しており、マーフィーやビールスキスにとってアリストテレスの哲学に対するマッキンタイアによるポストモダン流の解釈は資本蓄積を加速させているある種の消費主義に対する抵抗として映っていた。

ポストモダニティに対する社会学的な視点は迅速な移動手段、コミュニケーションの範囲の拡大、断念せざるを得なかった大量生産のための標準化に原因を求めており、それらは以前より幅広い資本に価値を置き、その価値が多様な形で蓄積されることを許容するシステムを生み出していた。ハーヴェイによれば、ポストモダニティは「フォーディズム」からの脱却であり、それはアントニオ・グラムシによる造語であるが、1930年代初頭から1970年代までのOECD諸国においてケインズ政策を採用していた時代の産業の規制や資本蓄積のプロセスを説明していた。ハーヴェイにとってのフォーディズムは、アントニオ・グラムシによる語が大量生産や労使関係の方法に関連している点でケインズ主義と関係していたが、経済政策や産業の規制と関係していた。したがってポスト・フォーディズムはハーヴェイの視点によればポストモダニティの基本的な側面の1つを構成していた。

ポストモダニティの産物はテレビやポピュラー・カルチャーによる支配、情報に接する利便性の拡大、マスメディアの役割の拡大を含んでいた。またポストモダニティは環境保護や反戦運動に見られるような進歩の名の下の犠牲に対する抵抗運動を示していた。工業化におけるポストモダニティはフェミニズムや多文化主義のようなムーブメントと同様に公民権運動や他の抵抗運動に焦点を当てていた。政治におけるポストモダンは抑圧や疎外(性や民族における)に対するさまざまな抵抗運動を通じた公民権や政治活動の可能性や多様な場によって特徴付けられていたが、政治におけるモダニストは階級闘争に囚われたままであった。

ミシェル・マフェゾリのような研究者は、ポストモダニティが存在を支える枠組みを崩壊させており、個人主義の弱体化や新部族主義の登場をもたらすだろうと考えていた。

現在の経済状況や技術環境はメディアによって支配されたばらばらな社会を生み出しており、その内容は見せかけにすぎず、相互言及的なアイデアの集合であり、意味に関して客観的な実体のない中身を真似し合う状況であった。意思の疎通、製造プロセス、輸送手段におけるイノベーションによってもたらされたグローバリゼーションはばらばらな近代的生活に拍車をかける推進力のようなものであり、政治・意見交換・知的活動の中心が欠落しており、文化的な複数性を有しており、相互に関連したグローバル・コミュニティを生み出していた。ポストモダニストの視点によれば、客観的とは言いがたい間主観的な知識が支配的な言説になり、情報の普及の偏りによって人々と情報や消費者と生産者の関係が根本的に変化していることが指摘されていた。

『スペース・オブ・ホープ』の中でハーヴェイは、政治におけるポストモダンは(マルキストの意味で)弱者の問題やフォーディズムの時代以上に重要になっていた現在の政治に対する批評の意識に間接的に関係していた。ハーヴェイにとって階級闘争は解決に程遠いものであった(彼の説明によればポストモダニストはこの問題を無視していたのだが)。グローバリゼーションによって権利が保護されない低賃金労働の問題に労働組合が取り組むことが一層困難になっていたのだが、欧米の消費者が支払っている商品の価格と東南アジアの労働者が稼いでいる低賃金のギャップによって企業の収益は一層大きなものになっていた。

5 批判

ポストモダンに対する批判は大きく4つに分かれており、モダニズムを否定する視点を理由にしたポストモダニティに対する批判、ポストモダニティが近代のプロジェクトに含まれる公共性や合理性を欠いていると考えているモダニストによる批判、ポストモダニズムに対する理解に依拠した変化を求めているポストモダニティの内部からの批判、現在の社会を鑑みるとポストモダニティが過去のものになっているといった批判であった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Michel_Foucault

ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコー(1926年10月15日-1984年6月25日)はフランスの哲学者、思想史の研究者、社会理論の研究者、文学研究者、文芸評論家であった。フーコーの理論は権力と知識の関係に言及しており、どのように権力と知識が組織的に社会統治の道具として用いられてきたのかを示していた。ポスト構造主義者ないしポストモダニストと呼ばれているフーコーはこの呼び名を承諾しておらず、彼の思想がモダニティにおける批評史に分類されることを好んでいた。フーコーの思想は研究者とアクティビスト・グループの双方に大きな影響を与えていた。

ポワチエの上流階級の家庭に生まれ、フーコーはアンリ4世高校で教育を受け、その後エコール・ノルマルで学び、哲学に対する関心が強くなり、ジャン・イポリットやルイ・アルチュセールといった師から影響を受けていた。民間外交官として外国で数年過ごした後、フーコーはフランスに戻り、最初の著作である『狂気の歴史』を発表していた。1960年から1966年にかけてオーベルニュ大学に職を得た後、フーコーは2冊の著作を仕上げ、『臨床医学の誕生』や『言葉と物』がそれらであり、構造主義や後に距離を置くことになる社会人類学に対する関心を示していた。これらの著作は「考古学」と名付けられ歴史を研究するためのアプローチの例を示していた。

1955年から1968年にかけてフーコーはフランスに戻る前にチュニス大学で講義をしており、その後ヴァンセンヌ実験大学の哲学科の教員になった。1970年にフーコーはコレージュ・ド・フランスの教員になり、生涯を通じそのメンバーシップを保持していた。またフーコーは多くの左派グループのアクティビストでもあり、反レイシズム運動、人権擁護運動、刑法改正運動に関わっていた。さらにフーコーは『知の考古学』、『監獄の誕生』、『性の歴史』を発表していた。これらの著作を通じてフーコーは社会的な言説の変化において権力が担っている役割にフォーカスした考古学的ないし系図的アプローチを採用していた。その後パリでフーコーはエイズに付随した神経組織の病気で死去することになり、エイズで亡くなった最初のフランスの公人になり、フーコーのパートナーであるダニエル・ドフェールはエイズ基金を設立していた。

1 若い頃

1.1 青年期:1926年-1946年

ポール=ミシェル・フーコーは1926年10月15日にフランス西部のポワチエで保守的な中産階級の家庭の二番目の子供として誕生していた。フーコーは父であるポール・フーコーに因んで名付けられており、それが家庭の伝統であったが、母は二つの名前から成るファーストネームである「ミシェル」を主張しており、学校では「ポール」であったが、生涯を通じてフーコーは「ミシェル」を好んでいた[3]。フーコーの父(1893年-1959年)は地元の外科医であり、ポワチエに移る前にフォンテーヌブローで生まれており、そこで開業しながら、地元の女性であるアン・マラペールと結婚していた[4]。アン・マラペールは外科医であるプロスペル・マラペールの娘であり、プロスペル・マラペールは開業医でありポワティエ大学の医学部で解剖学を教えていた[5]。ポール・フーコーは義理の父の病院を引き継ぎ、アン・マラペールはヴォンドゥーヴル=デュ=ポワトの村にあるル・ピロワールと呼ばれる19世紀の大きな住居を守っていた[6]。3人の子供であるフランシーヌと名付けられた娘とポール=ミシェルやデニスと名付けられた2人の息子と同様に、彼らは全員金髪で明るい青い目をしていた[7]。子供たちは表面的にはカトリック教徒として育てられており、サン・ポルチェールの教会のミサに参加しており、短期の間ミシェルは侍祭の役を務める少年であったが、家族は敬虔ではなかった[8]。

その後の人生を通じてフーコーは少年時代についてほとんど語ることがなかった[10]。「非行少年」であったと述べながら、フーコーは彼の父が厳しい罰を与えるいじめを行なっていたと主張していた[11]。1930年にフーコーは地元のアンリ4世高校で2年早く学校生活を始めていた。フーコーは2年間でリセに入る前の初等教育を終えており、リセには1936年まで在籍していた。そして同じ学校での中等教育を4年間で終えており、フランス語、ギリシア語、ラテン語、歴史を得意としながらも、数学が苦手であった[12]。1939年に第二次世界大戦が始まり、1945年までフランスはナチスドイツに占領されていた。フーコーの両親はドイツによる占領とヴィシー政権に反対していたが、レジスタンスには参加していなかった[13]。1940年にフーコーの母はイエズス会によって運営されていた厳格なカトリックの機関であるサン・スタニスラス学院にフーコーを通わせていた。フーコーはそこでの生活を「厳しい試練」と表現していたが、特に哲学、歴史、文学において優れた成績であった[14]。1942年にフーコーは最終学年になり、哲学の研究に専念しながら、1943年にバカロレアに合格した[15]。

地元のアンリ4世高校に戻り、1年間フーコーは歴史と哲学を研究しており[16]、哲学者であるルイ・ジラールから助力を得ていた[17]。そしてフーコーを外科医にさせる父の希望を否定しており、1945年にフーコーはパリに行き、アンリ4世高校として知られている最も有名な中等学校の1つに通っていた。またフーコーは哲学者であるジャン・イポリットの下で研究しており、ジャン・イポリットはヘーゲルやカール・マルクスの弁証法と実存主義を融合させる19世紀ドイツの哲学者であるヘーゲルの研究の専門家であり、実存主義者であった。これらの思想はフーコーに影響を与えており、哲学は歴史の研究を通じて研究されなければならないといったイポリットの信念をフーコーは受け継いでいた[18]。

1.2 エコール・ノルマル:1946年-1951年

優秀な成績で1946年の秋にフーコーはエコール・ノルマル(ENS)に入学していた。入学のためにフーコーはジョルジュ・カンギレムとピエール・マクシム・シュールから口頭試問を受けていた。ENSに入学した100名の内、フーコーは入学試験の結果では上から4番目で、高い競争率を経験していた。多くのクラスメイトと同じ様にフーコーはユルム街の寄宿舎で暮らしていた[19]。フーコーは人気がない学生で、1人で過ごすことが多く、貪欲に読書をしていた。フーコーの友人たちは暴力やグロテスクなものに対するフーコーの執着心に感づいていた。フーコーはスペインの芸術家であるフランシスコ・デ・ゴヤがナポレオン戦争の時に描いた拷問や戦争の挿し絵を使って寝室を装飾しており、時として仲間を短剣で追い回していた[20]。伝聞によればフーコーは自殺に失敗しており、それを理由にしてフーコーの父はサンタンヌ病院の精神科医であるジャン・ディレイの所にフーコーを連れていった。自傷行為や自殺行為が後をひき、フーコーは何度かそれらを繰り返しており、後年の著作の中で自殺行為を肯定していた[21]。ENSの医師はフーコーの精神状態を鑑定しており、フーコーの自殺の傾向がホモセクシュアリティに対する悩みに起因しており、同性間の行為が当時のフランスでタブーであったことが背景に存在していた[22]。またフーコーは薬物の使用を含めてパリのゲイとの行為に耽ることがあった。伝記作家のジェームス・ミラーによれば、フーコーは危険な行為のスリルを楽しんでいた[23]。

さまざまなテーマを研究しているにもかかわらず、フーコーの関心は哲学にあり、ヘーゲルやマルクスだけでなく、イマヌエル・カント、エトムント・フッサール、特にマルティン・ハイデッガーを読み込んでいた[24]。フーコーは哲学者であるガストン・バシュラールの著作を読み始めており、科学史の研究に関心を示していた[25]。1948年に哲学者であるルイ・アルチュセールがENSのチューターになった。マルキストであるルイ・アルチュセールはフーコーや他の多くの学生達に影響を与えており、彼らをフランス共産党(PCF)に勧誘していた。1950年にフーコーはフランス共産党に入党していたが、特別な活動をしていた訳ではなく、マルキストの視点を取り入れたこともなく、階級闘争のようなマルキストの教義に対して反論していた[26]。フーコーはすぐに共産党で経験した偏狭さに不満を抱くようになっていた。個人的にフーコーは同性愛恐怖症を経験しており、ソ連共産党幹部暗殺計画を通じて示されていた反ユダヤ主義に恐怖を感じていた。1953年にフーコーは共産党から離党したが、アルチュセールとの親交はそのままであった[27]。1950年に1回失敗したけれども、1951年の2回目に哲学のアグレガシオンに合格した[28]。医学的な観点から兵役を免除された後、フーコーはティエール財団で博士号のために研究する決意を固めており、それは心理学における哲学にフォーカスしたものであった[29]。

1.3 初期のキャリア:1951年-1955年

その後数年、フーコーはさまざまな研究と教育に携わっていた[30]。1951年から1955年にかけてフーコーはアルチュセールの招きでENSの哲学の講師を務めていた[31]。パリでフーコーは兄弟とアパートをシェアしており、フーコーの兄弟は外科医になる研修を受けていたが、フーコーは1週間の内3日間は北部の都市であるリールに通勤しており、1953年から1954年までリール・ノール・ド・フランス大学で心理学を教えていた[32]。フーコーの講義は多くの学生から好意的に見られていた[33]。一方でフーコーは学位論文を執筆しており、イワン・パブロフ、ジャン・ピアジェ、カール・ヤスパースのような心理学者の著作を読み込むために毎日フランス国立図書館に通っていた[34]。サンタンヌ病院の精神科での研究を引き受け、フーコーは非公式のインターンになり、医師と患者の関係について研究しており、脳波検査室での研究を支援していた[35]。フーコーは精神科医であるジークムント・フロイトによる理論の多くを採用しており、自己の夢に対して精神分析を行い、仲間にロールシャッハ・テストを行なっていた[36]。

またアヴァンギャルドなパリ市民を自認しており、フーコーは作曲家であるジャン・バラケとのロマンスに浸っていた。彼らは人間の思考力の限界を拡大し、最も素晴らしい作品を制作しようとしていた。重度の薬物依存であり、彼らはサドマゾの関係にあった[37]。1953年8月にフーコーとバラケはイタリアで休暇を過ごしており、ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェによる4編のエッセイから構成されていた『反時代的考察』(1873-1876)に耽っていた。後にニーチェの著作を「啓示である」と表現したフーコーは著作を深く読み込むことが自身に影響を与えていたと感じており、読書が転機になっていた[38]。そして1953年にフーコーはサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のパリ公演を観劇したときに新たな自己を見出していた[39]。

文学に関心があり、フーコーは『新フランス評論』における哲学者であるモーリス・ブランショによる書評の熱心な読者であった。ブランショの文体や批評理論に魅了されており、後期の作品の中でフーコーは自身を「取材・検討する」ブランショのアプローチを取り入れていた[40]。またフーコーはヘルマン・ブロッホによる『ウェルギリウスの死』(1945年)に出会い、それはフーコーとバラケを魅了していた。バラケは『ウェルギリウスの死』をエピック・オペラにしようとしていたが、フーコーは人生を肯定した死の描写を理由にしてブロッホの文章を賞賛していた[41]。フーコーとバラケはマルキ・ド・サド、フランツ・カフカ、ジャン・ジュネのような作家の作品に対しても関心を抱いており、それらは性と暴力をテーマにしていた[42]。

そしてスイスの精神科医であるルートヴィヒ・ビンスワンガーの著作に関心を示しており、フーコーは友人であるジャクリーヌ・ヴェルドーがその作品をフランス語に翻訳することを支援していた。特にフーコーは自殺するに至ったエレン・ウェストに対するビンスワンガーの研究に関心を抱いていた[44]。1954年にフーコーはビンスワンガーの論文である『夢と実存』のイントロダクションを執筆しており、夢が「世界の誕生」と「剥き出しの感情」で構成されており、理性の奥深い欲望を表していると主張していた[45]。同じ年にフーコーは最初の著作である『精神疾患と心理学』を出版しており、その著作の中でマルキストやハイデッガリアンの思想からの影響を示しており、パブロフの反射理論による心理学からフロイトによる古典的な精神分析まで幅広いテーマを扱っていた。エミール・デュルケームやマーガレット・ミードのような社会学者や人類学者の著作を引き合いに出しながら、フーコーは病気が文化と関連しているといった理論を示していた[46]。伝記作家であるジェームス・ミラーによれば、その著作は「博識と明白な知性」を示していたが、フーコーがその後の著作で示している「ある種の情熱」に欠けていた[47]。著作は評論として見向きもされていなかったが、当時ただ1つからレビューを受けていた[48]。フーコーはそのことから影響を受けて、英語への翻訳と再版を思いとどまろうとしていたが、そうはならなかった[49]。

1.4 スウェーデン、ポーランド、西ドイツ:1955年-1960年

フーコーはその後の5年間を海外で過ごしており、初めはスウェーデンのウプサラ大学で民間外交官として勤務しており、その仕事は宗教史を専門にしているジョルジュ・デュメジルの知人を通じたものであった[50]。ウプサラでフーコーはフランス文学の助手に着任しており、同時にメゾン・ド・フランスのディレクターとして勤務しており、それをきっかけにして民間外交官のキャリアを切り開いていた[51]。北欧の薄暗く長い冬を気に入っていなかったが、フーコーは生化学者であるジャン・フランソワ・ミケルや物理学者であるジャック・パーペ=レピーヌと親しくなり、さまざまな人々とロマンスに耽っていた。ウプサラではフーコーは大酒飲みで知られており、ジャガーを乗り回していた[52]。1956年の春にバラケはフーコーとの関係を終わりにし、「狂気のなせる混乱」から逃れたいと告げていた[53]。ウプサラでフーコーは大学のカロリーナ・レディヴィヴァ・ライブラリーで長時間を過ごしており、医学史の研究のためにビブリオテーカ・ワレリアーナ・コレクションを利用していた[54]。医学論文を執筆し終え、フーコーはウプサラ大学に論文が受理されることを願っていたが、科学史を専門にしているステン・リンドロスは否定的な見解を示し、推論の一般化が多く歴史としては中途半端であると主張していた。ステン・リンドロスはウプサラ大学で博士号を出すことに反対しており、それを理由にしてフーコーはスウェーデンを去ることになった[55]。

デュメジルに認められて、1958年10月にフーコーはポーランドのワルシャワに到着し、ワルシャワ大学のフランス語センターに着任した[56]。第二次世界大戦の荒廃に伴う物資やサービスの欠乏により、フーコーはポーランドでの生活における困難に直面していた。学生が共産主義のポーランド統一労働者党による支配に抗議していたポーランド十月革命の結末を目の当たりにして、フーコーは多くのポーランド人がソ連の傀儡としてのポーランド政府を軽蔑していたことを感じ取っており、システムが「誤って」機能していると考えていた[57]。大学を自由の場として考えており、フーコーは自由に講義ができる国に移ることになった。その評判を示すことによって、フーコーは事実上の文化担当官に着任していた[58]。フランスやスウェーデンでは同性愛は合法であったが、ポーランドでは社会的に肩身が狭いものであり、フーコーは多くの男性と交友しており、1人はフーコーを罠にかけるためのポーランドのエージェントであり、そのことがフランス大使館に悪影響を及ぼしていた。外交上のスキャンダルに苦しめられて、フーコーはポーランドから次の地へ移ることになった[59]。さまざまな立場が西ドイツにはあり、フーコーはハンブルクに移りウプサラやワルシャワで担当していたコースを受け持つことになった[60]。そしてレーパーバーンで多くの時間を過ごしており、フーコーは女装の趣味を有する人々との交友を広げていた[61]。

2 円熟期のキャリア

2.1 『狂気の歴史』(1960年)

西ドイツでフーコーは博士論文を仕上げ、その学位論文である『狂気の歴史』は医学史に対する彼の研究に依拠していた。その著作はどのように西欧社会が狂気を取り扱ってきたのかを論じており、その西欧社会は精神疾患の人々から完全に切り離されたものであったと論じていた。フーコーは3つのフェーズを通じた狂気の概念の展開をトレースしており、それらはルネサンス、17世紀から18世紀、近代を指していた。その著作はフランスの詩人であり劇作家であるアントナン・アルトーの作品を想起させており、アントナン・アルトーは当時のフーコーの思想に大きな影響を及ぼしていた[63]。

『狂気の歴史』は包括的な著作であり、それは943ページからなり、付録と参考文献一覧が付随していた[64]。フーコーはパリ大学に学位論文を提出していたが、博士号を授与するための学則は主要な論文と補足的な論文の双方を提出することを求めていた[65]。当時のフランスで博士号を取得することは多段階のステップを必要としていた。最初のステップはラポーターと著作のスポンサーを探すことであり、フーコーはジョルジュ・カンギレムを選んでいた[66]。二番目のステップは出版社を探すことであり、『狂気の歴史』はガリマール出版社に拒否された後にフランス大学出版局を通じてフーコーが選んだプロン出版社から1961年5月にフランス語で出版されることになった[67]。1964年に簡約版がペーパーバックで出版され、翌年英語に翻訳されることになった[68]。

『狂気の歴史』はフランスでの出来事にフォーカスした外国誌やフランスでさまざまな受けとめ方をされていた。ブローショ、ミシェル・シェール、ロラン・バルト、ガストン・バシュラール、フェルナン・ブローデルによって賞賛されていたが、フーコーを悩ませていたことに『狂気の歴史』が左派による論壇から無視されていたことが挙げられていた[69]。『狂気の歴史』は形而上学を支持していたことを理由にして1963年3月のパリ大学での講義の中で若手の哲学者であるジャック・デリダによって批判されていた。悪意に満ちた返事に対して、フーコーはデリダの論点を無視することで対抗しており、デリダの主張はルネ・デカルトに対するフーコーの解釈を批判することに焦点を絞っていた。1981年に和解するまで2人は険悪なままであった[70]。英語圏では『狂気の歴史』は1960年代の反精神医学運動に大きな影響を与えていた。フーコーは反精神医学運動に対して入り混じったアプローチを採っており、多くの反精神医学者に影響を及ぼしていたが、彼らの多くが『狂気の歴史』を誤解していると主張していた[71]。

フーコーの副論文はドイツの哲学者であるイマヌエル・カントによる『実用的見地における人間学』(1798年)を翻訳し注釈を付したものであった。カントのテクストにおける考古学といったテクストの時代設定を論じたフーコーによる議論で構成されており、フーコーは哲学的に大きく影響を受けていたニーチェを想起しながら論文を纏めていた[72]。この著作におけるラポーターは昔のチューターとENSのディレクターであるイポリットになり、イポリットはドイツの哲学者によく知られた存在であった[64]。これらの2つの論文がレビューされた後、フーコーはディフェンスを組み立て、1961年5月20日に口頭審査を受けることになった[73]。フーコーの著作をレビューした研究者はフーコーの主論文の型破りな特徴に懸念を示しており、レビュアーであるアンリ・グイエはフーコーの主論文が歴史におけるお約束の原稿でないことを指摘しており、その著作が十分な各論を展開しないで包括的な一般化を行っており、フーコーが「寓意を用いて論理を展開している」ことを付け加えていた[74]。しかしレビュアーはそれらの論文が優れていることを認めており、「留保を付けながら」、フーコーに博士号を授与していた[75]。

2.2 オーベルニュ大学、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』:1960年-1966年

1960年10月にフーコーはオーベルニュ大学の哲学の講座でテニュアを得て、毎週パリからクレルモン=フェランへ通勤しており[76]、パリのファンレイ街の高層住宅で暮らしていた[77]。哲学科で心理学を教えることを担当しており、フーコーはオーベルニュ大学では「面白い」が「やや型にはまった」教員と考えられていた[78]。哲学科はジュール・ヴュイユマンによって運営されており、ジュール・ヴュイユマンはフーコーとすぐに親しくなっていた[79]。1962年にヴュイユマンがコレージュ・ド・フランスの教員に選任された後、フーコーはヴュイユマンの仕事を引き継いでいた[80]。このポジションに就いてからフーコーはあるスタッフを嫌っており、その軽視されていたスタッフの中にフランス共産党の幹部であるロジェ・ガロディが含まれていた。フーコーはガロディによって大学での人生が危うくなっており、ガロディをポワチエに移籍させていた[81]。またフーコーは哲学者であるダニエル・ドフェールのために大学での仕事を確保したために論争を引き起こしており、ダニエル・ドフェールと一夫一婦制の枠に収まらない関係を続けていた[82]。

フーコーは文学に対する関心を失っておらず、文学雑誌である『テル・ケル』や『新フランス評論』にレビューを載せており、『クリティーク』の編集委員を務めていた[83]。1963年5月にフーコーは詩人、作家、脚本家であるレーモン・ルーセルに捧げた著作を出版していた。それは2ヶ月で書き上げられており、ガリマール出版社から出版され、伝記作家であるデイビット・メイシーによってルーセルの著作との「特別な関係」から生じた「内輪の著作」として紹介されていた。その著作は1983年に『死と迷宮:レーモン・ルーセルの世界』として英語で出版されていた[84]。レビューはほとんどなく、それはほぼ無視されていた[85]。同じ年にフーコーは『狂気の歴史――古典主義時代における』の続編である『ネサーンス・ドゥ・ラ・クリーニク』を発表しており、後にそれは『臨床医学の誕生』として翻訳されていた。前作より短く、『臨床医学の誕生』は18世紀後半から19世紀初頭の医学界の変遷にフォーカスしていた[86]。前作のように『ネサーンス・ドゥ・ラ・クリーニク』は批評の対象から外されていたが、後に一時の熱狂を獲得することになった[85]。またフーコーは1963年11月から1964年3月まで国民教育大臣であるクリスティアン・フーシェによって指揮された大学改革を議論するために招集された「18人委員会」の委員に選ばれていた。大学改革は1967年に行われており、スタッフによるストライキや学生による抗議活動に発展していた[87]。

1966年4月にガリマール出版社はフーコーの『言葉と物』を出版しており、後に英語に翻訳していた[88]。どのように人間が知の対象になっていったのかを研究しながら、『言葉と物』は、あらゆる時代の歴史が科学のディスコースとして容認できるものを形成している真実の背後にある特定の状況を示唆していることを論じていた。フーコーはこれらの真実の背後にある特定の状況がある時代のエピステーメーから次の時代のエピステーメーへと変化してきたと述べていた[89]。専門家向きの著作であったけれども、それはメディアから注目を集めて、フランスのベストセラーになった[90]。新たな思想家がジャン=ポール・サルトルによって人気を博していた実存主義を一掃したことから、構造主義に対する関心が高まり、フーコーは研究者であるジャック・ラカン、クロード・レヴィ=ストロース、ロラン・バルトと共に行動していた。当初はこういった説明を容認していたが、フーコーはすぐにそうした説明を激しく否定していた[91]。フーコーとサルトルはメディア上で互いを批判し合っており、サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「中産階級」に立脚したフーコーの思想を批判していたが、フーコーは「マルクス主義は19世紀の思想としては妥当であったのだが、現在は死に絶えているに等しい」と述べることによってマルキストの信念に対して反論していた[92]。

2.3 チュニス大学とヴァンセンヌ大学:1966年-1970年

1966年9月にフーコーは北アフリカのチュニス大学で心理学を教えることになった。その決定は主にドフェールが兵役でチュニジアに赴任することを理由にしていた。フーコーはチュニスからシディ・ブ・サイドまで数キロメートル移動しており、シディ・ブ・サイドには研究者仲間のジェラルド・デレダルが奥さんと共に暮らしていた。到着してすぐにフーコーはチュニジアが「歴史に恵まれた国」であることに触れており、「ハンニバルやアウグスティヌスが暮らしていた土地でもあるので、永住する価値がある」と述べていた[94]。フーコーの講義は人気があり、出席者が多かった。多くの学生がフーコーの講義に夢中になり、保守派の政治観であると考えていたものに対して批判的になり、フーコーを「ド・ゴール派のテクノクラシーの代表」として眺めていたが、フーコーは自身を左派として捉えていた[95]。

フーコーは1967年の反政府・親パレスチナの暴動がチュニスに衝撃を与えた頃のチュニスに滞在しており、その暴動は1年間続いていた。多数の抗議者による暴力、極右、反ユダヤ主義に対して批判的であったけれども、フーコーは自身の立場を用いて過激派左翼の学生の一部がアジで逮捕され拷問にあうことから救おうとしていた。フーコーは自宅の庭に学生の印刷物を隠して、学生に対する裁判で学生を擁護するために証言しようとしていたが、裁判が非公開になったためにそれはなくなった[96]。チュニスに滞在している間フーコーは執筆し続けていた。シュルレアリスムの画家であるルネ・マグリットとの文通に触発されて、フーコーは印象派の画家であるエドゥアール・マネについての本を執筆し始めていたが、それは未完に終わった[97]。

1968年にフーコーはパリに戻り、ヴォージラール通り沿いのアパートに引っ越していた[98]。フランスの五月革命以後、国民教育大臣であるエドガー・フォーレは自治を拡大した新たな大学を設立することによる教育改革を決定していた。この改革で最も有名なものはパリ郊外のヴァンセンヌにあるヴァンセンヌ実験大学であった。著名な研究者のグループに対してヴァンセンヌ実験大学を運営するための教員を選ぶようにとの要請があり、カンギレムは哲学部長としてフーコーを推薦していた[99]。ヴァンセンヌでテニュアを持った教員になり、フーコーの希望はその学部で「今のフランス哲学でのベスト」の布陣を敷くことであり、ミシェル・セール、ジュディス・ミラー、アラン・バディウ、ジャック・ランシエール、フランソワ・ルニョー、アンリ・ウェーバー、エティエンヌ・バリバール、フランソワ・シャトレを採用しており、彼らの多くはマルキストや極右活動家であった[100]。

1969年1月から大学での講義が始まったのだが、学生やフーコーを含むスタッフが占拠や警察との衝突に巻き込まれて、逮捕されてしまっていた[101]。2月にフーコーはミュチュアリテのカルチェラタンでの抗議活動に対する警察の挑発を非難する演説を行なっていた[102]。そのような活動はフーコーによる極左に対する支援として特徴付けられており[103]、確かにドフェールの影響であり、ドフェールはヴァンセンヌ実験大学社会学部で職を得ており、毛沢東主義者であった[104]。フーコーの哲学科で提供しているコースの多くはマルクス・レーニン主義を指向していたが、フーコー自身はニーチェの『形而上学の終焉』や『セクシュアリティの言説』のコースを担当しており、それらは人気が高く、定員を大幅に超過していた[105]。右派のプレスがこの新しい組織や制度を批判していたけれども、新しい国民教育大臣であるオリヴィエ・ギシャールはその理念の歪みや無試験であることに立腹しており、学生は何ら考えることなく学位を与えられていた。オリヴィエ・ギシャールは学位の国家認定を拒否しており、フーコーは公開の場で反論していた[106]。

3 その後の生活

3.1 コレージュ・ド・フランスと『監獄の誕生』:1970年-1975年

フーコーはヴァンセンヌ実験大学を離れることを希望して、コレージュ・ド・フランスの一員となった。フーコーはその一員となることに関して『思考システムの歴史』と呼ばれる講座を担当することを希望しており、そのフーコーの案はデュメジル、イポリット、ヴュイユマンから支持されることになった。1969年11月に公募が始まり、フーコーはコレージュの一員に選ばれることになったが、ラージ・マイノリティはその選出に反対していた[107]。1970年12月の講義がその初回になり、『言説表現の秩序』として出版されていた[108]。フーコーは年12週の講義を担当し、以後それが続くことになり、当時フーコーが研究していたトピックスを取り上げていた。フーコーの講義は「パリっ子の知的生活におけるひとコマ」になり、頻繁に定員を超えていた[109]。毎週月曜日にフーコーは学生向けのゼミを開いており、その多くが「フーコディアン」になり、フーコーと共に研究していた。フーコーは学生との共同研究を楽しんでおり、共同で多くの短編を出版していた[110]。コレージュでの研究はフーコーの活躍の場を広げることになり、ブラジル、日本、カナダ、アメリカで14年以上講演を行なっていた[111]。

1971年5月にフーコーは歴史家であるピエール・ヴィダル=ナケやジャーナリストであるジャン=マリー・ドームナクと共に監獄情報グループ(GIP)を共同設立していた。GIPの目的は監獄の劣悪な環境を調査し公開し、フランス社会で囚人や元囚人が発言権をもてるようにすることであった。彼らは刑罰のシステムに批判的であり、刑罰のシステムが軽犯罪を重罪に変えてしまうと考えていた[112]。GIPは記者会見を行い、他の刑務所の暴動に伴った1971年12月のトゥール刑務所の暴動についての出来事に対して抗議をしており、それを理由にして彼らは警察によるガサ入れや逮捕を味わうことになった[113]。GIPはフランス全土で活動しており、メンバーは2,000人から3,000人前後いたが、1974年以前に解散することになった[114]。死刑に反対するキャンペーンを行い、フーコーは処刑された殺人の加害者であるピエール・リヴィエールの事例についての短編を共著していた[115]。刑罰のシステムを研究しながら、1975年にフーコーは『監獄の誕生』を出版しており、西欧における監獄システムの歴史を描き出していた。伝記作家であるディディエ・エリボンは『監獄の誕生』をフーコーの著作の中で「最も秀逸なもの」として示しており、評論家の中でも好意的に受けとめられていた[116]。

またフーコーは反レイシズム運動に参加しており、1971年11月に明らかなレイシストがアラブからの移民であるドゥジュラリ・ベン・アリを殺害したことに対して抗議するリーダーの1人になった。この運動においてフーコーはかつてのライバルであるサルトル、ジャーナリストであるクロード・モーリアック、作家の1人であるジャン・ジュネとともに活動していた。この運動はル・コミテ・ドゥ・デファンス・ドゥ・ラ・ヴィ・エ・デ・ドゥロワ・デ・トラヴァイユール・イミグレ(CDVDTI)を形成していたが、フーコーが多くのアラブ人労働者や毛沢東主義者による反イスラエル感情に反論していたので、その会合にはある緊張が存在していた[117]。1972年12月に警察がアラブ人労働者であるモハメド・ディアブを殺害したことに対する抗議活動で、フーコーとジュネは逮捕されており、その経緯が広く世に知られることになった[118]。またフーコーはアージャンス・ドゥ・プレス・リベラシォン(APL)の設立に関与しており、それは左派のジャーナリストのグループであり、メインストリーム・メディアで無視されているニュースを伝えることを目的にしていた。1973年に彼らは日刊紙のリベラシオンを設立し、フーコーは彼らがニュースを収集し報道を提供するためにフランスをカバーするリベラシオン委員会を創設することを提案しており、『プー・ユヌ・クローニク・ドゥ・ラ・メモワール・ウーヴリエール』として知られるコラムを投稿し、労働者が意見を表明することを受け入れていた。フーコーは新聞に活動的なジャーナリズムを求めていたがその活動を擁護し切れないと考えてからリベラシオンに幻滅しており、その理由として報道が事実を歪めていることを指摘しており、1980年までコラムを投稿することはなかった[119]。

3.2 『性の歴史』とイラン革命:1976年-1979年

1976年にガリマール出版社はフーコーによる『性の歴史』を出版しており、その小著はフーコーが「抑圧に対する仮説」と呼んでいる枠組みを探求していた。その著作は権力の概念を巡る分析を展開しており、フーコーは精神分析や権力に対するマルキストの理論を否定していた。フーコーはそれらのテーマに対する7分冊の内の初めの1冊として『性の歴史』を位置付けていた[120]。それはベストセラーになりプレスから好意的な評価を受けていたが、一方で知識層の無関心がフーコーの悩みであり、彼らの多くはフーコーの仮説に対して誤解を抱いていた[122]。フーコーはシニアスタッフであるピエラ・ノヴァから不快感を与えられガリマール出版社に対して不満を抱くなるようになった[122]。ポール・ベイヌとフランソワ・ヴァールとともにフーコーはソイル社を通じて『デ・トラヴォー』として知られる専門書の新たなシリーズに着手しており、フランスにおけるアカデミズムの改善を願っていた[123]。またフーコーはエルキュリーヌ・バルバンによる手記の序文を書いていた[124]。

フーコーは政治的なアクティビストであり続け、国内外の政府による人権侵害を注視していた。フーコーはスペイン政府が公正な裁判を行わずに11名の過激派を処刑したことに対する1975年の抗議活動において中心的な役割を果たしていた。彼らは記者会見を行うために6名の仲間とともにマドリードに到着したが逮捕されパリに送還されることになった[126]。1977年にクラウス・クロワッサンを西ドイツに引き渡すことに抗議していたときに、フーコーは機動隊との衝突で肋骨を骨折していた[127]。また1977年7月にソ連の共産党書記長であるレオニード・ブレジネフがパリを訪問したことに合わせて、フーコーは東側の反体制派の集会を組織しており[128]、1979年にはベトナムの反体制派がフランスに亡命することに対して賛同を示す運動を展開していた[129]。

1977年にイタリアの新聞であるコリエーレ・デラ・セラはフーコーにコラムを依頼していた。そしてフーコーはイラン革命におけるブラック・フライデーの直後になる1978年にテヘランに渡っていた。イラン革命の展開を記事にしながら、フーコーはムハンマド・カゼム・シャリアトマダリやメフディー・バーザルガーンのような対抗勢力のリーダーに会うことを通じてイスラム主義に対する国民的な支持を見出していた[130]。フランスに帰国するとフーコーはルーホッラー・ホメイニーと会ったことのあるジャーナリストの1人になっており、それは再度テヘランを訪問する以前のことであった。フーコーによる記事はホメイニーによるイスラム主義運動に対する敬意を示しており、それを理由にリベラル派のイラン反体制派やフランスのメディアから批判を受けることになった。それに対するフーコーの回答はイスラム教が中東において大きな政治的影響力を有するべきであり欧米は敵対的な姿勢よりむしろ敬意をもってイスラム教に接するべきであるといったことであった[131]。1978年4月にフーコーは日本を訪問しており、上野原にある青苔寺で大森曹玄を通じて禅宗を研究していた[111]。

3.3 晩年:1980年-1984年

力関係に対する批判を継続していたけれども、フーコーは1981年の総選挙によって成立したフランソワ・ミッテランによる社会党政権に対する支援を自重しながら表明していた[132]。しかし社会党政権に対するフーコーの支援は社会党政権が1982年に行われた連帯によるデモに対するポーランド政府による弾圧を非難することを拒んだとき以降変質していった。フーコーと社会学者であるピエール・ブルデューはミッテランの不作為を非難する文書を執筆しており、それはリベラシオン紙上で公表され、フーコー達は社会党政権の不作為に対する幅広い抗議活動に参加していた[133]。フーコーは連帯に対する支援を継続しており、仲間であるシモーヌ・シニョレとともに「世界の医療団」のメンバーとしてポーランドに渡り、アウシュビッツ強制収容所を訪問していた[134]。またフーコーは学術調査を継続しており、1984年6月にガリマール出版社は『性の歴史』の第2巻と第3巻を出版していた。第2巻の『快楽の活用』は倫理に関連した古代ギリシアの一般市民の道徳によって規定されている「テクニーク・ドゥ・ソワ」を扱っており、第3巻の『自己への配慮』は西暦200年までのギリシアやローマのテクストにおける同様のテーマを探求していた。第4巻の『肉の告白』は初期のキリスト教における同じテーマを追求していたが、フーコーの死によって未完で終わった135]。

1980年10月にフーコーはUCバークレーの客員教授になり、「真実と主観性」について講義を行い、11月にはニューヨーク大学のヒューマニティーズ・インスティチュートで講義を担当していた。アメリカの知的サークルにおけるフーコーの人気はタイム誌によって取り上げられており、その当時1981年にフーコーはUCLAで講義を行なっており、1982年にはバーモント大学、1983年には再度バークレーで講義を担当しており、その講義は学生で満員であった[136]。カリフォルニアにいた頃フーコーはサンフランシスコ・ベイエリアのゲイ・シーンでよく夜を過ごし、サドマゾ・クラブによく通い、常連との関係が深かった。フーコーはゲイメディアにおけるインタビューの中でサドマゾを肯定しており、それを「新たな楽しみの一環」として認識していた[137]。この当時の関係を通じてフーコーはHIVに感染し、それがAIDSに至っていた。当時はそのウイルスについて分かっていることがほとんどなく、最初の症例は1980年になって漸く認識され始めていた[138]。1983年の夏にフーコーはよく空咳をしており、パリの友人は心配していたが、フーコー自身は単なる肺感染のせいだと主張していた[139]。入院して漸くフーコーは正式な病名を知らされ、抗生物質を処方される中、コレージュ・ド・フランスで連続最終講義を行なっていた[140]。フーコーはサルペトリエール病院に入院しており、『狂気の歴史』の中でその病院を研究していたのだが、1984年6月9日に敗血症に付随した神経症状を呈していた。そして6月25日にフーコーは病院で永眠につくことになった[141]。

6月26日にリベラシオン紙はフーコーの他界を公表しており、それがAIDSによってもたらされていたことに言及していた。翌日ルモンドはHIV/AIDSに言及していないがフーコーの家族によって明らかにされていた経緯についての記事を報じていた[142]。6月29日にフーコーの葬儀が行われ、棺は病院の安置室から運ばれていた。アクティビストや研究者を含む数百人が参列しており、ジル・ドゥルーズは『性の歴史』からの一節を引用しながら式辞を述べていた[143]。その亡骸はささやかにヴォンドゥーヴルの地に埋葬されていた[144]。その後フーコーのパートナーであったダニエル・ドフェールはフランスのHIV/AIDSに関する最初の組織であるAIDESを創設しており、その名称はフランス語で「援助(複数形)」を意味する「aides」と頭字語であるAIDSの語呂合わせに由来していた[145]。フーコーの一周忌にドフェールはカリフォルニアを拠点にしているゲイ・マガジンである『ジ・アドヴォカット』を通じてフーコーの死がエイズに関連していたことを公表していた[146]。

4 私生活

フーコーを最初に取り上げた伝記作家であるディディエ・エリボンはフーコーを「複雑で多面性のある個性の持ち主」として描いており、「常に1つの表情の下に別の表情が隠れている」とコメントしていた[147]。またエリボンはフーコーが「研究に対する大きな潜在能力」を顕在化させていると記していた[148]。ENSでのフーコーのクラスメートはフーコーを「常にごった煮を抱えた理解しづらい人物」もしくは「感情に突き動かされる労働者」と評していた[149]。しかしフーコーのパーソナリティーは年を取るにつれて変化を示しており、エリボンによればフーコーは「若さにもがいて」いたが、1960年代以降「輝き」を示してリラックスしながら周囲に幸せを与え始めており、一緒に仕事をしている人々によればダンディな存在であった[150]。1969年にエリボンはフーコーが「闘う知識人」の思想を体現していると記していた[151]。

フーコーはクラシックのファンで、特にヨハン・ゼバスティアン・バッハやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを好んでいた[152]。またフーコーはタートルネックのセーターを着ることでよく知られていた[153]。フーコーの死後、友人であるジョルジュ・デュメジルはフーコーのことを「深い思いやりをもちながら」、「文字通りの限界を知らない知性」を示してきた人間として描いていた[154]。

政治に関してフーコーは生涯を通じて左派の立場であったが、そのスタンスはしばしば変化していた。1950年代の前半においてフーコーはフランス共産党のメンバーであったが、正統派マルクス主義の視点に立ったことは一度もなく、3年後に共産党を去り、その理由として共産党内のハイアラーキーにおけるユダヤ人とLGBTに対する偏見に嫌悪感を抱いていたことが挙げられていた。当時ポーランド統一労働者党によって支配されていた社会主義国家であるポーランドでの勤務を経てフーコーは共産主義者のイデオロギーに対して一層幻滅することになった。その帰結として1960年代前半にフーコーは「強烈な反共産主義者」であるとして批判されていたが[155]、多くの学生や同僚とともにマルクス主義の運動に深く関与していた。

5 思想

フーコーの同僚であるピエール・ブルデューはフーコーの思想を「社会の限界を超える逸脱者の旅であり、いつも知識と権力を結びつけていた」と纏めていた[156]。

レディング大学の哲学者であるフィリップ・ストークスは、フーコーの仕事が「薄暗く悲観主義的」なものであるが、それは楽観論の余地を残していたと述べており、その理由として権力によって支配されている領域を強調するためにどのように哲学の訓練が活用されることができるのかをそれが示していることを挙げていた。ストークスによれば、哲学の訓練を通じて、私たちはどのように支配されているのかを理解することができるようになり、権力によって支配されるリスクを最小化する社会構造を構築するための努力を積み重ねることが可能になるといったことが指摘されていた[157]。この延長線上に細部に注意を払うことが含まれており、この細部が人々に個性をもたらしていた[158]。

5.1 文学

哲学に関する著作に加えて、フーコーは文学の仕事もしていた。1963年に『死と迷路 レーモン・ルーセルの世界』が出版され、1986年に英語に翻訳されていた。それは文学におけるフーコーの唯一の単行本であった。その著作についてフーコーは「イージーに楽しみながら短期間で書き上げることができた」と述べていた[159]。フーコーは実験的作品に関する最初の著者の1人であるレーモン・ルーセルのテクストを参照しながら理論、評論、心理学を探求していた。

6 影響

権力や言説に対するフーコーの議論は多くの評論家を触発しており、彼らは権力構造に対するフーコーの分析が不平等に対する闘いを支援していると考えていた。また彼らは、言説分析を通じてハイアラーキーが明らかにされ、ハイアラーキーを正当化している知識の該当分野を分析することによってそれに対する疑念が提起されるかもしれないと主張していた。このことはフーコーの仕事が批評理論に関連していることの表れの1つであった[160]。

2007年にフーコーはフランスの哲学者における「ISI Web of Science」によって人文科学における最も引用された研究者として認められており、「近代の学問に対してこれが示していることはその読者が価値を決定することであり、その評価は読者の視点によって賞賛から失望までさまざまなものになるであろうことが想像されている」とコメントされていた[161]。

6.1 批判

哲学者であるユルゲン・ハーバーマスはフーコーのことを隠れた規範主義者と呼んでおり、フーコーが脱構築している啓蒙時代の原理に暗に依拠していると批判していた(フーコーとハーバーマスの論争を参照せよ)。ハーバーマスが論じている問題の中心はフーコーが研究のアプローチに関してカントとニーチェの哲学の双方を維持しようとしていることの方法にあった。

哲学者であるリチャード・ローティはフーコーの『知の考古学』が基本的に悲観論であり、知の「新たな」理論や知そのものを打ち立てることに失敗していると論じていた。そしてむしろフーコーは歴史を理解することに関するいくつかの貴重な格言を与えており、そのことに関してローティはこう述べていた。

私が理解する限り、フーコーが成し遂げたことは過去を鋭く再度描写したことであり、史料編纂における古い仮定によってトラップに引っ掛かることを避ける方法についての有益なヒントを通じてその描写を補完していたことであった。具体的に言えばそれらのヒントは主に次のようなものであり、「歴史における進歩や意味を期待しないこと、過去の研究や文化のあらゆる要素に関する歴史を合理性や自由の帰結として認識しないこと、そのような研究の本質やその研究の目的を特徴付けるために哲学のボキャブラリーを用いないこと、現在の姿が過去の目標に対する手掛かりを与えていると考えないこと」であった[162]。

哲学者であるロジャー・スクルートンはフーコーが「まやかし」であり、その理由としてフーコーが「よく検討されていない前提を苦労を経た結論として示すために」哲学においてよく知られた問題を探求していたことを挙げていた[163]。

1988年にドイツの歴史家であるハンス=ウルリヒ・ヴェーラーはフーコーのことを激しく批判していた。ヴェーラーはフーコーのことを人文科学や社会科学から良い評価を間違って受けた間違った哲学者と見做していた。ヴェーラーによればフーコーの著作は経験的な歴史の側面において不十分であっただけでなく、しばしば矛盾を含んでおり、明晰さに欠けていた。例えばフーコーによる権力の概念は「しっかりと区分されておらず」、「学界」におけるフーコーの議論はヴェーラーによればフーコーが権威、影響力、権力、暴力、正当性を適切に区別していないときにのみ成立していることを指摘していた[165]。さらにフーコーの議論が論拠となるソースの一方的な選択に基づいており(監獄や精神病棟)、例えば工場のような対象を無視していると論じていた。またヴェーラーはフーコーの「フランス中心主義」を批判しており、その理由としてフーコーがマックス・ヴェーバーやノルベルト・エリアスのようなドイツ系の研究者を考慮に入れていなかったことを挙げていた。そしてヴェーラーはフーコーが「いわゆる実証研究における無数の不備を理由に挙げながら...知的な意味で誠実でなく、実証的に信頼できず、隠れた規範主義者であり、ポストモダニズムに魅了させる研究者」であるとして批判していた[166]。

啓蒙時代が始まる17世紀以降に自然法はその意義を認識され、その基盤は社会人類学にあり、「人間の本質」について言及していた。この人間像は、楽観主義(『統治二論』におけるジョン・ロック、社会契約論[人は生まれながらにして自由である...]におけるジャン=ジャック・ルソー)や悲観主義(トーマス・ホッブズやシャルル・ド・モンテスキュー‎)のいずれかを想定していた。そしていずれにせよ啓蒙時代の自然法では神の意志ではなく節度のある理性を想定していた。

前者では、「自然状態」が保たれるならば、楽観主義は自由で平等な人間の性質に由来しており、そのための基盤が求められていた。ルソーはあらゆる国家秩序のための基盤、「一般意志」における法の意味を認識しており、一般意志は国民の多数の意思と区別されなければならなかった。法は国家の横暴と対立する公益に含まれる自由に基づいていた。市民は生まれながらの自由を保護するために社会契約を結んでいた。そして絶対王政の支配からの解放が根底に存在していた。

後者では、悲観主義は悪意に満ちた人間に由来していた。悲観主義によれば人間は自然状態で他の人間に害をもたらしていた。そのため人間は人間から保護されなければならなかった。国家と法は社会の存立条件を保障しており、悪意に満ちた人間の自由を制限しており、一般市民のために個人の自由を抑圧しながら人間の自由を保護していた。したがってこの思想はパラドックスであり、前提条件を考慮する必要が存在していた。そしてこの悲観主義は保守派の思想の原型になっていた。

国家権力の正当性や法の妥当性の根拠は社会人類学から導かれており、それは国家組織の基盤になっており、あらゆる国家の行為についても同様であった。そして社会や人間の本性に関する想定を前提にして、法は効力を有していた。また規範の強制力は経験的な事実を背景にしていた。

自然法思想の基本構造は数百年にわたり大きく変化することがなかった。しかしその基盤となる人間像は変化していた。楽観的な視点や悲観的な視点に加えて、それらを融合した視点が登場しており、双方の視点が融合されていた(ジャン=ジャック・ルソーも同様であった)。

そして時代の変化とともにさまざまな形で自然法が登場していた。第二次世界大戦後、自然法は一方でラートブルフの定式の中に、他方で家族法に関する連邦裁判所の判決の中に登場していた。連邦通常裁判所民事判例集(BGHZ)の11や65において、その判決はドイツの家族像に関する非常に保守的な特徴を形成しており、男性と女性の間に存在している「当然の」差別の温床になっており、「あらゆる法に対して影響力を有した形で登場して」いた(ウヴェ・ベーゼルの『ユーリスティッシェ・ヴェルトクンデ(法の世界観)』、1984年、p72を参照)。

イマヌエル・カントの法哲学は1797年の『人倫の形而上学』の中に示されており、当時展開されていた社会人類学から法の内容や妥当性に対するいかなる推論をも導かないことによって、啓蒙時代の自然法によるアプローチと区別されていた。

デイヴィッド・ヒュームと同じくカントにとって「あるがままの姿とあるべき姿」の間に差が存在しており、それゆえ経験から示される人間の本性(あるがままの姿)からいかなる法や道徳におけるルール(あるべき姿)も導かれなかった(ヒュームの法則を参照せよ)。この点において自然法との違いが存在しており、法は(実践)理性に由来していた。そして経験主義と形而上学は法哲学において厳格に区別されていた。

自然法に対してカントは法の妥当性の基盤としての(政治的ないし物理的な)力を否定していた。カントにとって法はこの意味で偶然の産物や政治的産物(リアリズム法学における)ではなかった。またあらゆる法が正しいわけではないので、法の内容は特別な体裁を整えていなければならなかった。つまり法の内容は定言命法に従って(オトフリート・ヘッフェ)認識論にのみ基づいて決定されていた。少々奇妙だがこれと対照的に、カントによる抵抗権の否定は正当化できない規範に対する認識論を否定していた。

法実証主義は法に対する実証的な分析であった。この視点によれば、実定法のみがテーマとして取り上げられており、形而上学的に説明されるあるべき姿は除外されていた。そして国家権力(もしくは別の機関)による規範以外の法は存在していなかった。法規範は定められたプロセスを通じて形成されていた。したがって法実証主義は自然法の対極にあり、「排中律‎」とは異なっていた。

有名な法実証主義者の中には、ジェレミ・ベンサム、ジョン・オースティン、H・L・A・ハート(『法の概念』)、ジョセフ・ラズ、ノーベルト・ヘルスター、ハンス・ケルゼン(『純粋法学』)が含まれていた。

ハートによれば、法規範には2つのタイプがあり、一次的ルールは実体法を含み、二次的ルールは一次的ルールの形成を対象にしていた。一次的ルールは二次的ルールを満たしているときのみ有効であった。したがって、二次的ルールが有効であるための根拠に対する問題が生じており、正当化された規範が求められていた。ハンス・ケルゼンはいわゆる根本規範を通じてこの根拠に対する問題を解決していた。

近年、法実証主義はかなりの批判を浴びていた。その批判はアングロ・サクソンの国々で特に見受けられていた。第二次世界大戦について、新カント派のグスタフ・ラートブルフは、ナチスの犯罪に対して法実証主義が責任を有している(ラートブルフの定式に対する、H・L・A・ハートの『実証主義と法・道徳分離論』、71、ハーバード・ロー・レビュー 593(1958年)を参照せよ)と述べており、ドイツ連邦共和国基本法は純粋な法実証主義の概念に根差したものにはならなかった(法実証主義を拒絶していた)。したがって司法や行政は、ドイツ連邦共和国基本法の第20条第3項によって、法律のみならず「法と正義」によって支配されていた。1970年代から主にアメリカのロナルド・ドウォーキン(『権利論』)やドイツのロバート・アレクシー(『ベグリッフェ・ウント・ゲルトゥング・デス・レヒツ』)は純粋な法実証主義に対して反論を行っており、解釈を積極的に支持し、解釈は「ルール」や「権利」と同列であり、国家に対して国民はその解釈を引き合いに出すことが可能であり、解釈は国家の法律に対する抵抗権の根拠になっていた。しかしこの主張は部分的に法実証主義に反論しているにすぎず、大半の法実証主義は認識論における問題を取り上げるのみであり、「正しい法」に向きあっていなかった。

リアリズム法学が法を認識するときに、法は政治的な力の行使のための手段として眺められていた。そのため法は現実を反映しており、個人の利害によって変更される可能性が存在していた。法の目的は正義や「正しさ」を強調しておらず、特定の(政治的)目的を反映していた。

リアリズム法学の一例はニッコロ・マキャヴェッリ(『君主論』)やトマス・ホッブズ(『リヴァイアサン』)であり、彼らは人間を悲観的に眺めていた。

「真理でなく権威が法を作る」といった言葉はホッブズによるものであった。絶対王政の国家は、共同体の人々をその共同体の人々から守るために(人間は人間にとっての狼である)、全ての力を集めなければならなかった。国家のみがどの法を適用するのかを決定していた。そして実定法のみが存在していた。

このケースにおいて人間は悪であった。そのためマキャヴェッリにとって、貴族の力を支援している法は狡猾さの産物として認識されていた。

近年この見解は、アメリカ連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアのそれであり、「ザ・パス・オブ・ザ・ロー」(10、ハーバード・ロー・レビュー、457(1897年))の中に見受けられ、悪意のある人間が想定され、裁判所が論争中の法的論点を整理するときのように、法や正義の内容に対する関心を低下させていることが指摘されていた。これは論理的整合性を有した法的概念であり、「実際に裁判所が行っていることに対する想定は法に対する1つの考え方であった。」

ホームズの立場はシニカルなものではなく現実に根差したものであった。法は狡猾さの産物であり、国によって異なっていた。そのため法の執行に合わせて法的概念を定めることが必要であった。

この視点は法実証主義と並んでアングロ・サクソンにおける法哲学の大きな潮流であった。

近年、法実証主義や分析哲学に基づいて学際的に法理論が展開しており、それらは非常に多様であり、共通項を見出すことは不可能であった。そしてそれらは規範や社会を取り巻く状況から独立したシステムとしての法を論じている点で共通したアプローチを採用していた。またこれらは法に対する言説分析やシステム理論を包含していた(以下を参照せよ)。

そして規範に対する研究や言語哲学、意味論、記号論を通じた解釈がその出発点になっていた。またこれらは認識論や形式論を通じて法を理解することに立脚していた。ハンス=ヨアヒム・コッホやヘルムート・リュスマンは「法的根拠」に対するアプローチを展開していた。

これらの法理論は(実証主義では)明示できない非科学的なアプローチを採用している法の正当性を問題としておらず、法的概念や法的ルールの構造に対する研究、公理から派生されたシステマティックな秩序の問題を取り扱っていた。そしてユルゲン・レーディッヒ、アイク・フォン・サヴィニー、ノーベルト・ヘルスター、ロバート・アレクシーがその代表者として挙げられており、立法についての学説を形成していた。

したがってテーマは絶対的なものではなく、むしろ新たな展開を歓迎しており、法に対して意味を形成していれば、自然科学や医学からのアプローチも採用していた。

法に対する言説分析は新しいアプローチであり、いわゆる言説分析を基盤にしており、『コミュニケイション的行為の理論』の中でユルゲン・ハーバーマスによって展開されており、『事実性と妥当性――法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究』の中で完成度を高めていた。

言説分析の核心はいわゆる「理想的言論の状況」の形成にあり、すべての参加者が事実に触れることができ、平等に発言することができ、お互いに結果を共有しており、特定の言説によって形成される価値を考慮して、平等な「価値」のために一切不利に扱われることのない事実に即した主張に価値を置いていた。

そして法の価値は言説に依存した参加者のコンセンサスから影響を受けていた。

言説分析は社会的規範の価値に対するアプローチであり、現代の多元的な社会を想定していたが、あらゆるケースに該当するモデルを採用しておらず、あらゆる関係者がケースバイケースで議論に参加しながら、その結果を尊重することを必要としていた。

そしてこのアプローチは法に対して広く適用されていた。また司法を取り巻く状況について、合意つまり当事者間の「和解」を通じて解決される法廷外の紛争において言説分析における「理想的言論の状況」がほとんど実現されていないことが指摘されていた。さらに立法に関して別の問題が示されていた。

ロバート・アレクシーは『法的論証理論』の中で、司法判断が事実に即して適切に示されなければならないといった司法における言説に対して大きな期待を寄せていなかった。そして彼は多元的な言説を通じて立法や司法判断を認識していた。

最近100年の間に、法規制、司法的解決ないし行政上の決定による正義の実現に対してさまざまなアプローチが登場していた。

交換的正義と配分的正義の分類はアリストテレス(『ニコマコス倫理学、第5巻』)に由来していた。

交換的正義は権利の主体を同じ様に扱う状況を想定しており、それは、特に私法においては契約を通じて、他方で不法行為や不当利得に関する法を通じて実現されていた。相互の契約法(「合意は拘束する」)の意味における正義が求められており、権利の主体に及ぼされる損害に対して適切な補償が必要とされていた。

配分的正義は秩序を超越しており、公法のように、国民と国家のために存在していた。共同体における資産と負債の分配は合意による正義に基づく要求を満たしていなければならなかった。問題は例えば市民と企業の税負担や収入に応じた税を含んでおり、個々のケースを考慮しなければならなかった。またそれは平等の原則に関する問題を扱っていた。

そして正義の実現に対するプロセスが問題であった。裁判官の決定は「公正」であるべきであり、その関係者の利害関係や状況が「公正さ」を示さねばならなかった。国家は許容される目標のみ追求することが許されており、許容される手段のみを用いることが許されていた。しかしそれは公共部門に対してだけではなく、他の部門も同様であり、そうでなければ民間部門が他の民間部門に実際に力を行使するときに問題が生じる可能性が存在していた。現行法ではこのプロセスを比例原則として言及していた。

近年ジョン・ロールズによる『正義の理論』が注目を集めており、それはアングロ・サクソンの世界で優勢であった功利主義と異なり、正義を公正さの観点から眺めていた。

彼の理論は原初状態から始まっており、そこでは個々人について完全な平等が必要とされていた。そしてこの状態で社会契約が交わされていた。また不平等の原因は「無知のヴェール」によって覆い隠されていた。

ロールズは正義に関する2つの原理を主張していた。

各人は可能な限り幅広い市民権や自由を保持していなければならなかった。この原理は絶対的であったが、誰の権利も侵害していなかった。

また社会を構成するメンバー全員のためになるときのみに、社会的経済的不平等が正当化されていた。この基準は功利主義における「最大多数の最大幸福」ではなく、社会を構成するメンバー全員の福利であった。その社会的不平等はもっとも不遇な立場にあるメンバーを尊重しなければならなかった。そしてその不遇な立場にある人々に不利益をもたらしてはならなかった。またその不遇な立場にある人々の利益を向上させるときにのみ、不平等の利益が正当化されていた。したがってあらゆるメンバーが社会的な利益を有する立場に平等にアクセスできることを条件にしていた。

他方で法の経済分析によれば、合理的に振舞う人間は費用と便益の比較考量を通じて法的な決定を行っていた。例えば、効果のない方法でしか追求している目的を実現できないときのみに、合理的に振舞う人間は訴訟を用いていた。この場合の「効果」は投入する手段(資源)と具体的に達成される成果との比較の上で決定されていた。例えば、保護するべき羊が牧草地の草を食べ尽くす前に柵を設けることが隣に対して訴訟を起こすことよりも安価であれば、隣を尊重し、経済的に合理的な振舞いによって柵を設置するだろう。また、立法的な措置が有効であり目的を達成するために適しているか否かに対しても同様に、法の経済分析が役に立っていた。例えば環境法は経済的に振舞う汚染者に対して行動を変更することを促していた。しかし法の経済分析は環境法における規範に疑念を呈していた。果たして規範を逸脱することが汚染者にとって規範を遵守することより高く付くことになるのであろうか。そうでなければ、経済的に説明される規範の欠陥が環境汚染を促すことになるであろう。

規範に対する法の経済分析は法によって福利を向上させることを促していた。そして一般的な福利を向上させる法規範のみが「正当」であった。その出発点は「シカゴ学派」と呼ばれる経済学であった。個々のケースにおける「効率性」が「法理として」(アイデンミュラーの論文、1995年)認識されており、経済的な効率性が法秩序全体に対して求められていた。したがって法はある特定の社会目標つまり国民経済を向上させる目標を含んでいた。ポズナーは財産権にのみその正当性を認めており、財の分配に関する法が個々の社会的要求に依存せず経済的な便益を最大化させることに役立っていると考えていた。

当事者(訴訟を起こすべきか、不法行為に関わるべきかを考慮している)や裁判官の決定(訴訟を受理するべきか、棄却するべきかを考慮している)と同様に、行政が規範を遵守する判断を下すときに経済理論を援用できる可能性が存在していた。コッホやリュスマンによれば「司法的な根拠」に対する「便益」が法的な判断の際に考慮されていた。

特に社会全体に影響を及ぼす立法者の経済的な特徴が含意を形成していた。

法的責任に対するリスク(特に不法行為に伴う損害、善意取得、契約締結上の過失を通じた)を管理することによる「便益」は、例えば夫婦の観点から俯瞰するか裁判官の観点から俯瞰するかに依存することがない離婚による「便益」と比較すると小さいものであった。そして法の経済分析は経済法の中に明示されていた。例えばマイケル・アダムス(ベトリープス・ベラーター、1989年、781)による法の研究はよく知られており、マイケル・アダムスは契約の締結における当事者の「非対称な」利用可能情報を考慮した約款規制法を研究していた。

そして近年、法の経済分析の対象に公法が加えられており、行政法が注目されていた。

しかしアメリカにおいて法の経済分析は批判の対象となっていた。

法の経済分析に対する批判として、人間が経済合理性にのみ基づいて行動している訳ではないことが指摘されていた。そして法の経済分析は重要な点を欠落させており、それは法の経済分析が合理的行動のような経済的側面に限定されていることを理由にしていた。つまり問題を狭めて、法の内容や正当性をすべて経済効率に起因させていることが問題であった。モデルが取り上げていない側面として、例えば法感情(その法哲学はエルンスト・ブロッホに由来していた)や、法的な関係の形成による力の増大(政治的な力であれ経済的な力であれ個人の力であれ)を指向する意思が指摘されていた。そして宗教的な性格を有する人間は経済的便益を最大化せず、神の視線を意識するであろうとの視点が存在していた。しかし法の経済分析の研究者は、それらの説明には手段としての貨幣が果たす役割に着目した視点が欠落しており、数理経済学が説明するような想定が依然として存在していると理解していた。

また事例ごとに基準となる「便益」を定め、特定のアプローチを採用し比較することにも問題が存在していた。

法治国家は政治的な代表を制定した法によって民主的に選ぶことを内包していた。大多数の欧米の近代国家の基礎になっているモンテスキューによる権力分立の理論は三権(行政、立法、司法)の区別と相互牽制を含めていた。例えば議会民主制において立法府(議会)が行政府(政府)の権力を牽制しており、政府は勝手に行動できず、議会の意向を絶えず確認しなければならず、それは民意の表れであることが指摘されていた。同様に司法は行政的な決定に歯止めをかけていた(特にカナダにおいては「権利および自由に関するカナダ憲章」に基づいていた)。したがって法治国家は基本的権利を軽視する絶対王政、王権神授説、独裁制と対立していた。そして法治国家の憲法は必ずしも成文の体裁をとっていなかった。例えばイギリスの憲法は慣習を基にしており、成文規定を有していなかった。このような法体系において、政治的な代表は慣習法を尊重しなければならず、それは成文法と同様であった。

歴史を遡れば、法治国家は制度化されたシステムであり、公権力は法を遵守しなければならなかった。オーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンは20世紀初頭のドイツ由来の法治国家の概念を再度定義し、「国家の法規範は公権力を制限する目的で階層化されていた。」

このモデルでは、各規範は上位にある規範を満たすことによってその正当性を維持していた。

そして規範のハイアラーキーは法治国家を維持するシステムの一部であると考えられていた。

規範のハイアラーキーを通じて、国家のさまざまな機関の権限は明確に定義されており、制定された規範は上位に位置する法規範を遵守しているときにしか効力を有していなかった。このピラミッドの頂点にある憲法は法や規制による国際協調を念頭に置いており、ピラミッドの底部には行政的な決定や私人間の契約が存在していた。

法システムは法的主体にとって不可欠の存在であった。個人同様に国家は合法性の原理を軽視することができなかった。上位にある規範を尊重しないあらゆる規範や決定は法的制裁を招きやすかった。そして法を制定する権限を有する国家は、法的ルールを順守することによって、規制する権能に対する承認を受ける必要があった。

規範のハイアラーキーは規範を遵守する法的主体を平等に扱うことを想定していた。

法の下の平等ないし政治的権利の平等は法治国家であるための二番目の条件であった。実際法の下の平等は法的規範が上位の規範を満たしていないときにあらゆる個人や組織が法的規範の適用に異議を申し立てることができることを含意していた。したがって個人や組織は法的主体としての地位を有していた。まず自然人、次に法人に対してその言及がなされていた。

国家は法人に含まれ、国家による決定は法人と同じく合法性の原理に支配されていた。合法性の原理の遵守は立憲主義を尊重する合法性の原理に従わせることを通じて公権力の行動に枠をはめていた。この点において国家より上位に位置する法的な制約は大きな力を有していた。制定されたルールや決定は上位にある規範(法、国際的な合意、憲法)を尊重しなければならず、裁判所から特別の扱いを受けたり、慣習法の適用を除外されることもできなかった。私法における自然人や法人は公権力の決定に異論を申し立てることができ、制定された規範を通じて対抗することも可能であった。この点において裁判所の役割は重要なものであり、裁判所の独立は絶対不可欠であった。

実際に法治国家は、人々の紛争を解決する権限を有しており独立した司法の存在を想定しており、規範のハイアラーキーに由来する合法性の原理を尊重しており、合法性の原理は法人を特別扱いすることを認めていなかった。

そして法治国家は権力分立や司法の独立を想定していた。実際には司法機関は国家の一部を構成していたため、立法府や行政府から司法が独立していることによって法規範の適用における公平性を担保していた。

また裁判所は合法性を判断する規範を尊重しており、それはハイアラーキーの上部に位置するルールに適合するか否かを含めていた。

国際協定に照らして国内の規範の妥当性を認めることは、矛盾があるときに裁判官がその規範を適用しないことを許容しており、これは国際協定を通じた審査であった。また憲法に対する法の妥当性は、付託されていれば憲法院によって審査されることになり、これはすなわち合憲性の審査であった。したがって法治国家は国際協定を通じた審査や合憲性審査の存在を想定していた。

法治国家は理論的なモデルであったが、他方で政治的なテーマでもあり、今日では民主制の大きな特徴であると考えられていた。法を通じて政治や社会における組織のルールを優先するならば、それは合法性の原理を遵守していなければならなかった。そして法治国家はこのモデルを採用している各国の裁判所の役割を拡大させていた。

一方で法治国家はしばしば民主主義と混同されていた。実際には各レジームがどの程度法治国家を尊重しているのかがどの程度民主主義を尊重しているのかと必然的に関連している訳ではなかった。

例えばロシアがツァーリズムからソビエト体制に移行したときに法治国家の枠組みを強化したように、フランスは革命期から帝政期に移行したときに法治国家の枠組みを揺るぎないものにしていた。

『法の精神』の中でモンテスキューは、王が既存の法や行動の範囲を規定する不文憲法を尊重している点で、君主制を独裁制と区別していた。この点において君主制は独裁制より法治国家の色彩が強かった。

また現代の中国は法治国家の体裁を緩やかに採用していたが、そのレジームが民主主義へ向かうとは思われていなかった。

規範のハイアラーキーは法学者であるハンス・ケルゼン(1881-1973)によって提唱され、ハンス・ケルゼンは『純粋法学』の著者であり、法実証主義の提唱者であり、道徳や自然法に依存しない法の基盤を築き(価値中立、つまり想定された主観や道徳的な先入観から独立した)、法律学を展開させていた。ケルゼンによれば、あらゆる法規範は上位にある規範を遵守することで正当性を獲得しており、そこにハイアラーキーが形成されていた。規範の影響が大きければ、その数が減少し、規範の位置付け(通達、規則、法律、憲法)がピラミッド状であることから、この理論は規範のピラミッドとも呼ばれていた。

規範のハイアラーキーは一面では「固定化」されており、それは下位にある規範が上位にある規範を遵守しなければならなかったことを背景にしていたが、他方で「変更可能」な存在であり、それは、上位にある規範によって制定されたルールによって、規範が修正される可能性を存在させていたことを背景にしていた。そして憲法はピラミッドの頂点にあり法システムの内部に存在している規範であった。また憲法は上位にある規範やその時に存在していない規範に由来する内容を除いて法的義務を有していなかったので、そこにケルゼンは「根本規範」の概念を想定し、根本規範は法理論と矛盾しない性質を与えるために想定された方法論で構成されていた。

規範のハイアラーキーについての理論は「硬性」憲法にしか適用されていなかった。「軟性」憲法を採用している国家において一般的に憲法は、法律と同様に慣習法を採用する機関によって起草され投票を経て修正されていた。そして「硬性」憲法と「軟性」憲法は同一の法的価値を有しており、憲法は法律より下位に存在していなかった。他方で「硬性」憲法を採用している国家において、憲法は特定の機関(政府やワークグループ)によって起草され立法府による投票を経て、国民投票によって採択されていた。その改正手続は一般的に特定の機関や国民を介在させており、それらが憲法制定権力を有していた。また硬性憲法は特別な法的効力を有しており、それは他の規範より上位にあり、尊重されなければならなかった。

規範のハイアラーキーを研究している法学者の多くは合憲性審査基準の中に補助的な審査基準を含めており、無神論者にとって、その審査基準は「自然法」と呼ばれており、信仰を有する人々にとって、それは「神の法」と呼ばれていた。

違法性の抗弁は一般の裁判官によって行われていた。ある法規範に対する違憲性の懸念が訴訟を促し、その抗弁が検討に付されていた。このケースにおいて裁判官が抗弁された規範が違憲であると判断するならば、その規範を適用しない可能性が存在していた。しかしその規範が無効になることはなく、最高裁判所によるものでない限り、その判例が他の裁判所によって採用される可能性もなかった。このタイプの抗弁は例えばアメリカで見られていた。

問題に該当する規範が違憲であることを示しその法律効果を無効にするために、特別な機関が設置されていた。

1958年以前の憲法では、憲法や国際条約が法律より優越されながらも、立法府が最高機関であった。またいかなる裁判所も憲法や国際条約が有する超立法的性質を明示することがなかった。しかし1958年以後、憲法が法律より優越されることが、立法府が根本規範を遵守していることを審査する憲法院によって明示されることになった。

学説における重要な判決はフランス法が容認しているEU法のハイアラーキーに含まれていた。

そして、2004年6月10日のLCENに関する憲法院の決定は「EU法を国内法に置き換えることが憲法上の要請であり、明文の規定を考慮すると、憲法に反するときしかEU法は国内法の障害とならない」ことを示していた。

規範のハイアラーキーはEU法の将来の変化にしたがって判例を変更するかもしれない判決に影響を及ぼしていた。

現在の判例はフランスで批准されている国際法に対する憲法の優越に価値を認めており、1998年10月30日のサランとルヴァシェールのコンセイユ・デタの判決は原則に回帰していた。「フランス憲法55条によって示される国際条約に付与されている優越は、国内法の枠組みの中では、憲法の規定に対して適用されることがなかった。」

憲法は規範のハイアラーキーの頂点に位置していたが、そのハイアラーキーの基盤も構成していた。そして、法律はハイアラーキーの上位にあり効力を有するルールを遵守していた。また権力は権力が生み出す規範より上位の規範にしたがっていた。したがって立法権を有する機関は憲法にしたがっており、行政権は法律を遵守せねばならず、規範のハイアラーキーに含まれていた。このシステムは法治国家として認められており、法治国家はあらゆる個人や法人が法を遵守することを含意していた。

ロベスピエールやサン=ジュストは、立法権に対して司法権が干渉するように民主主義の枠組みの中で法律を用いることや、権力の分立を容認していなかった。そして上位にある規範を適用することを必要としていた(憲法のように)。

アメリカにおいて判例は大きな価値を有しており、裁判官(最高裁判所を除いて)は国民によって選任されており、彼らは国家や裁判所のルールを順守していた。

そして憲法が国際法より優位にあるとの判決によって国境を超えた訴訟が懸念されていた。これはキューバについて当てはまり、キューバは「知性の産物は制約を受けることがなく、あらゆる人々の財産である」ことを理由にして、著作物に対して金銭的な支払いを行うことを容認していなかった。

法律より国際条約や国際協定が優越されることはニコロ判決(1989年10月20日)によって認められており、「法律遮蔽」の理論を放棄し、国際条約に対する事後的な法律の規定を国際条約の下に置いていた(1968年5月、フランスのデュラム小麦における製造業者組合についての判決)。コンセイユ・デタはEU法の派生法に対してニコロ判決を敷衍させており、法律よりEU法(1990年9月24日、ボワデ判決)や欧州連合指令(1992年2月28日、S・A・ロスマン判決もしくはS・A・フィリップ・モリス判決)を優越させていた。しかしながら国際条約に対する憲法の優越(規範のハイアラーキーの頂点にある)は再度明示されていた(1998年10月30日、サランとルヴァシェールの判決)。他方で欧州司法裁判所の判決(ECJ、1978年3月9日、シンメンタール判決)は、国内法よりEU法や派生法を優越させており、国内の憲法も同様に扱っていた。しかし現在この判決はフランスの憲法に当てはまっていなかった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、ドイツ、フランスのWikipediaの「法哲学」、「法治国家」、「規範のハイアラーキー」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://de.wikipedia.org/wiki/Rechtsphilosophie

法哲学

法哲学は哲学の一部であり、法に関する基本的な問題を取り扱っていた。法哲学の問題には次のようなものが存在していた。

何が法であるのか。

「正義」と「法」はどのような関係にあるのか。

法規範と社会規範は道徳に対してどのような関係にあるのか。

法の中身はどのようなものか。

法規範はどのように生じたのか。

法が有する影響力の根拠は何であるのか(法的拘束力について)。

「法哲学」と「法」はどのような関係にあるのか。

法と道徳の関係、法規範の構造、法的拘束力に関するいくつかの問題は、19世紀中頃以降の法哲学と歩みを共にしていた。そして数世紀にわたる「一般法学」は、法哲学とは別の分野を形成していた。また法哲学と法理論の関係が細部にわたって議論されていた。

この「法哲学」の項目は、(ヨーロッパの法秩序やアングロアメリカの法のような)西洋の法システムにおける法哲学を取り扱い、他の法システムを取り扱わない(イスラム法の貢献など)。

1 テーマとその射程

法哲学は哲学の知識や方法論を援用しており、特に科学哲学や論理学、法を対象とした言語学や記号学を援用していた。ユルゲン・ハーバーマスやロバート・アレクシーによれば最近の事例として法的推論に対して言説理論を援用することが挙げられていた。そして近年、法理論についての言及が増加していたことから、法理論と法哲学を区別することが困難になっていた。

法哲学が扱うテーマは単なる法の応用分野(法律学の方法論)や法制度に対する社会的アプローチ(法社会学を参照せよ)に収まっていなかった。歴史的観点から法制史が法の展開を検証していた。また対照的に法理は現在の実定法における構造や要素を説明していた。

法哲学が扱うテーマは多岐にわたっていた。

法の概念。

社会に影響する法の意味。

法の中身に対する論評(ルドルフ・シュタムラーの意味で「正しい法」を見出すこと)。

どういった前提のもとで法規範が拘束力を有するのか(法的効力)。

何が法規範に拘束力をもたらすのか。

特に法の概念を巡る論争に、他の分野や基礎法学由来の考え方がつねに導入されていた。そのため他の哲学、法学、社会科学から厳密に区別することは不可能であった。

法哲学や政治学といった分野は国家理論(政治哲学)としての側面を有していた。そしてそれは法哲学が国家哲学以上の存在であり、法理論として法が研究されており、国家との関連のみに収まっていなかったことを理由にしていた。その一方で、個々の法哲学や個々の法理論は国家に関する基本的な仮定(国家の形態、統治、立法過程)を想定しており、その仮定は法の基盤や機能を説明していた。全体主義国家において法は民主主義国家とは別の機能を有しており、別の形式や内容を体現していた。

2 法哲学の方向性

次のように法哲学の方向性は示されていた。

2.1 自然法

自然法の思想家はさまざまな方法で数世紀にわたり自然法を議論していた。特に啓蒙時代が始まる17世紀以降に、自然法はその意義を認識され始めていた。

自然法の議論はつねに経験に依存していた。その基盤は社会人類学にあり、「人間の本質」について言及していた。この人間像は、楽観主義(『統治二論』におけるジョン・ロック、社会契約論[人は生まれながらにして自由である...]におけるジャン=ジャック・ルソー)や悲観主義(トーマス・ホッブズやシャルル・ド・モンテスキュー‎)のいずれかを想定していた。そしていずれにせよ啓蒙時代の自然法では神の意志ではなく節度のある理性を想定していた。

前者では、「自然状態」が保たれるならば、楽観主義は自由で平等な人間の性質に由来しており、そのための基盤が求められていた。ルソーはあらゆる国家秩序のための基盤、「一般意志」における法の意味を認識しており、一般意志は国民の多数の意思と区別されなければならなかった。法は国家の横暴と対立する公益に含まれる自由に基づいていた。市民は生まれながらの自由を保護するために社会契約を結んでいた。そして絶対王政の支配からの解放が根底に存在していた。

後者では、悲観主義は悪意に満ちた人間の性質に由来していた。悲観主義によれば人間は自然状態で他の人間に害をもたらしていた。そのため人間は人間から保護されなければならなかった。国家と法は社会の存立条件を保障しており、悪意に満ちた人間の自由を制限しており、一般市民のために個人の自由を抑圧しながら人間の自由を保護していた。したがってこの思想はパラドックスであり、前提条件を考慮する必要が存在していた。そしてこの悲観主義は保守派の思想の原型になっていた。

国家権力の正当性や法の妥当性の根拠は社会人類学から導かれており、それは国家組織の基盤になっており、あらゆる国家の行為についても同様であった。そして社会や人間の本性に関する想定を前提にして、法は効力を有していた。また規範の強制力は経験的な事実を背景にしていた。

自然法思想の基本構造は数百年にわたり大きく変化することがなかった。しかしその基盤となる人間像は変化していた。楽観的な視点や悲観的な視点に加えて、それらを融合した視点が登場しており、双方の視点が融合されていた(ジャン=ジャック・ルソーも同様であった)。

さらに関連した代表的な人物の中にクリスティアン・トマジウス、クリスチャン・ウォルフ、ザミュエル・フォン・プーフェンドルフが含まれていた。エルンスト・ブロッホは、マルクス主義に由来する「自然法や人間を尊重する考え方」において、人は生まれながらにして「自由で平等である」といった見解に反対しており、「生まれながらの権利など存在しておらず、すべてが獲得されたものであるか、闘争を通じて獲得されたものであると主張していた」。

そして時代の変化とともにさまざまな形で自然法が登場していた。第二次世界大戦後、自然法は一方でラートブルフの定式の中に、他方で家族法に関する連邦裁判所の判決の中に登場していた。連邦通常裁判所民事判例集(BGHZ)の11や65において、その判決はドイツの家族像に関する非常に保守的な特徴を形成しており、男性と女性の間に存在している「当然の」差別の温床になっており、「あらゆる法に対して影響力を有した形で登場して」いた(ウヴェ・ベーゼルの『ユーリスティッシェ・ヴェルトクンデ(法の世界観)』、1984年、p72を参照)。

2.2 カント

イマヌエル・カントの法哲学は1797年の『人倫の形而上学』の中に示されており、当時展開されていた社会人類学から法の内容や妥当性に対するいかなる推論をも導かないことによって、啓蒙時代の自然法によるアプローチと区別されていた。

デイヴィッド・ヒュームと同じくカントにとって「あるがままの姿とあるべき姿」の間に差が存在しており、それゆえ経験から示される人間の本性(あるがままの姿)からいかなる法や道徳におけるルール(あるべき姿)も導かれなかった(ヒュームの法則を参照せよ)。この点において自然法との違いが存在しており、法は(実践)理性に由来していた。そして経験主義と形而上学は法哲学において厳格に区別されていた。

自然法に対してカントは法の妥当性の基盤としての(政治的ないし物理的な)力を否定していた。カントにとって法はこの意味で偶然の産物や政治的産物(リアリズム法学における)ではなかった。またあらゆる法が正しいわけではないので、法の内容は特別な体裁を整えていなければならなかった。つまり法の内容は定言命法に従って(オトフリート・ヘッフェ)認識論にのみ基づいて決定されていた。少々奇妙だがこれと対照的に、カントによる抵抗権の否定は正当化できない規範に対する認識論を否定していた。

2.3 ヘーゲル

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、絶対的に正しい方法を通じた「客観的精神」の概念によって、彼の「法哲学」の中に自由の概念を位置付け、社会における自由意志の実現に言及していた(『法の哲学』)。ヘーゲルの法思想は、自治を相互に承認することから展開されており、さまざまな方法で、ノーベルト・ヘルスター、ギュンター・ヤコブス、クルト・ゼールマン達に影響を及ぼしていた。ヘーゲルによる法解釈は法治国家を論ずる思想の伝統に連なっていた。

2.4 ラートブルフ

グスタフ・ラートブルフの『法哲学』(1932年)は法哲学のモデルであり、民主的な憲法にしたがったドイツ法の枠組みの中で教えられていた。

ラートブルフの法哲学は新カント派に由来しており、あるがままの姿とあるべき姿に隔たりが存在していることに由来していた。したがって価値は明示されておらず、人が価値を認識するのみであった。そしてラートブルフはさらなる方法論を主張しており、法を含む科学は自然や理想的な価値から経験科学へとシフトしていた。また法哲学は哲学の一部であった。

ラートブルフにとって法の理念は正義を体現したものであった。これは平等、合目的性、法的安定性を含んでいた。

有名なラートブルフの定式によれば、「法が不正であるときに、実定法を優先させることを念頭におきながら、正義と法的安定性との対立が解決されなければならなかった。そして正義が「悪法」に屈服し、正義の対極にある法が許容できるレベルを超えているケースにおいて、法は効力を有さなかった。」 また法に関する「最低限の倫理」について言及がなされていた。

2.5 法実証主義

法実証主義は法に対する実証的な分析であった。この視点によれば、実定法のみがテーマとして取り上げられており、形而上学的に説明されるあるべき姿は除外されていた。そして国家権力(もしくは別の機関)による規範以外の法は存在していなかった。法規範は定められたプロセスを通じて形成されていた。したがって法実証主義は自然法の対極にあり、「排中律‎」とは異なっていた。

有名な法実証主義者の中には、ジェレミ・ベンサム、ジョン・オースティン、H・L・A・ハート(『法の概念』)、ジョセフ・ラズ、ノーベルト・ヘルスター、ハンス・ケルゼン(『純粋法学』)が含まれていた。

ハートによれば、法規範には2つのタイプがあり、一次的ルールは実体法を含み、二次的ルールは一次的ルールの形成を対象にしていた。一次的ルールは二次的ルールを満たしているときのみ有効であった。したがって、二次的ルールが有効であるための根拠に対する問題が生じており、正当化された規範が求められていた。ハンス・ケルゼンはいわゆる根本規範を通じてこの根拠に対する問題を解決していた。

近年、法実証主義はかなりの批判を浴びていた。その批判はアングロ・サクソンの国々で特に見受けられていた。第二次世界大戦について、新カント派のグスタフ・ラートブルフは、ナチスの犯罪に対して法実証主義が責任を有している(ラートブルフの定式に対する、H・L・A・ハートの『実証主義と法・道徳分離論』、71、ハーバード・ロー・レビュー 593(1958年)を参照せよ)と述べており、ドイツ連邦共和国基本法は純粋な法実証主義の概念に根差したものにはならなかった(法実証主義を拒絶していた)。したがって司法や行政は、ドイツ連邦共和国基本法の第20条第3項によって、法律のみならず「法と正義」によって支配されていた。1970年代から主にアメリカのロナルド・ドウォーキン(『権利論』)やドイツのロバート・アレクシー(『ベグリッフェ・ウント・ゲルトゥング・デス・レヒツ』)は純粋な法実証主義に対して反論を行っており、解釈を積極的に支持し、解釈は「ルール」や「権利」と同列であり、国家に対して国民はその解釈を引き合いに出すことが可能であり、解釈は国家の法律に対する抵抗権の根拠になっていた。しかしこの主張は部分的に法実証主義に反論しているにすぎず、大半の法実証主義は認識論における問題を取り上げるのみであり、「正しい法」に向きあっていなかった。

2.6 リアリズム法学

リアリズム法学が法を認識するときに、法は政治的な力の行使のための手段として眺められていた。そのため法は現実を反映しており、個人の利害によって変更される可能性が存在していた。法の目的は正義や「正しさ」を強調しておらず、特定の(政治的)目的を反映していた。

リアリズム法学の一例はニッコロ・マキャヴェッリ(『君主論』)やトマス・ホッブズ(『リヴァイアサン』)であり、両者は人間を悲観的に眺めていた。

「真理でなく権威が法を作る」といった言葉はホッブズによるものであった。絶対王政の国家は、共同体の人々をその共同体の人々から守るために(人間は人間にとっての狼である)、全ての力を集めなければならなかった。国家のみがどの法を適用するのかを決定していた。そして実定法のみが存在していた。

このケースにおいて人間は悪であった。そのためマキャヴェッリにとって、貴族の力を支援している法は狡猾さの産物として認識されていた。

近年この見解は、アメリカ連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアのそれであり、「ザ・パス・オブ・ザ・ロー」(10、ハーバード・ロー・レビュー、457(1897年))の中に見受けられ、悪意のある人間が想定され、裁判所が論争中の法的論点を整理するときのように、法や正義の内容に対する関心を低下させていることが指摘されていた。これは論理的整合性を有した法的概念であり、「実際に裁判所が行っていることに対する想定は法に対する1つの考え方であった。」

ホームズの立場はシニカルなものではなく現実に根差したものであった。法は狡猾さの産物であり、国によって異なっていた。そのため法の執行に合わせて法的概念を定めることが必要であった。

この視点は法実証主義と並んでアングロ・サクソンにおける法哲学の大きな潮流であった。

3 現在における法理論の方向性

3.1 概説

近年、法実証主義や分析哲学に基づいて学際的に法理論が展開しており、それらは非常に多様であり、共通項を見出すことは不可能であった。そしてそれらは規範や社会を取り巻く状況から独立したシステムとしての法を論じている点で共通したアプローチを採用していた。またこれらは法に対する言説分析やシステム理論を包含していた(以下を参照せよ)。

そして規範に対する研究や言語哲学、意味論、記号論を通じた解釈がその出発点になっていた。またこれらは認識論や形式論を通じて法を理解することに立脚していた。ハンス=ヨアヒム・コッホやヘルムート・リュスマンは「法的根拠」に対するアプローチを展開していた。

これらの法理論は(実証主義では)明示できない非科学的なアプローチを採用している法の正当性を問題としておらず、法的概念や法的ルールの構造に対する研究、公理から派生されたシステマティックな秩序の問題を取り扱っていた。そしてユルゲン・レーディッヒ、アイク・フォン・サヴィニー、ノーベルト・ヘルスター、ロバート・アレクシーがその代表者として挙げられており、立法についての学説を形成していた。

したがってテーマは絶対的なものではなく、むしろ新たな展開を歓迎しており、法に対して意味を形成していれば、自然科学や医学からのアプローチも採用していた。

3.2 法に対する言説分析

法に対する言説分析は新しいアプローチであり、いわゆる言説分析を基盤にしており、『コミュニケイション的行為の理論』の中でユルゲン・ハーバーマスによって展開されており、『事実性と妥当性――法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究』の中で完成度を高めていた。

言説分析の核心はいわゆる「理想的言論の状況」の形成にあり、すべての参加者が事実に触れることができ、平等に発言することができ、お互いに結果を共有しており、特定の言説によって形成される価値を考慮して、平等な「価値」のために一切不利に扱われることのない事実に即した主張に価値を置いていた。

そして法の価値は言説に依存した参加者のコンセンサスから影響を受けていた。

言説分析は社会的規範の価値に対するアプローチであり、現代の多元的な社会を想定していたが、あらゆるケースに該当するモデルを採用しておらず、あらゆる関係者がケースバイケースで議論に参加しながら、その結果を尊重することを必要としていた。

そしてこのアプローチは法に対して広く適用されていた。また司法を取り巻く状況について、合意つまり当事者間の「和解」を通じて解決される法廷外の紛争において言説分析における「理想的言論の状況」がほとんど実現されていないことが指摘されていた。さらに立法に関して別の問題が示されていた。

ロバート・アレクシーは『法的論証理論』の中で、司法判断が事実に即して適切に示されなければならないといった司法における言説に対して大きな期待を寄せていなかった。そして彼は多元的な言説を通じて立法や司法判断を認識していた。

3.3 オートポイエーシス的システムとしての法

近年における法理論の新たな展開は「オートポイエーシス的システム」として法を解釈したものになり、ニクラス・ルーマンによる社会システム理論に基づいていた。そしてルーマンは『社会の法』の中でその理論を示していた。またそこでは法社会学が問題とされており、隣接分野と法理論との関連が示されていた。

ルーマンによる法の社会学的解釈(例えばシステム)は実際のアクター(ステークホルダー、法学者、法律家、裁判官)をアクションの担い手としていた。彼の理論は高度に抽象化され、法の執行に対する視点を存在させていた。またアクター間の「コミュニケーション」が法システムの中に含まれ、ルーマンは「合法」と「違法」の差を「法システム」の中に含めていた。

結果として、法システム(アクター間のコミュニケーション)の自己再生産が行われていた。そしてこの法システムは絶えず更新されていた。つまり法規範が適用され、その法規範が妥当であるケースとそうでないケースがあり、法規範に変更が加えられ、判決が言い渡され、行政文書が公開されていた。このプロセスは言い換えるならば絶えざる「自触媒反応」ないしは法のオートポイエーシスとして示されていた。

ルーマンは概念としてサイバネティックスのモデルを用いており、従来とは別の意味で生物学のシステムを利用しており、特に「生命」や新陳代謝の一環としてエコロジーのモデルを通じて抽象的な説明を行なっていた。「生命」の自己再生(自己参照)は個体にフォーカスせず、生命の「コミュニケーション」や化学反応に注目していた。

他方でそのような説明が不完全であるとの批判が存在していた。個々の当事者/アクター/法曹関係者を考慮しないことによって、この法理論は法を自己目的化したものとして把握していた。根本的な規範は人間の尊厳の尊重を含んでいたが、それはただの抽象的な原理ではなく、その価値観を個々人のためにケースごとに明示しなければならなかった。この問題は根本的な法を研究する際に特に重要であったが、法理論の認識価値を損なわせる方へ作用していた。

ニクラス・ルーマンによる部分的に高度で抽象的な用語を用いた全体像は社会システムや法システムについての理論を示していた。

3.4 正義の理論

最近100年の間に、法規制、司法的解決ないし行政上の決定による正義の実現に対してさまざまなアプローチが登場していた。

交換的正義と配分的正義の分類はアリストテレス(『ニコマコス倫理学、第5巻』)に由来していた。

交換的正義は権利の主体を同じ様に扱う状況を想定しており、それは、特に私法においては契約を通じて、他方で不法行為や不当利得に関する法を通じて実現されていた。相互の契約法(「合意は拘束する」)の意味における正義が求められており、権利の主体に及ぼされる損害に対して適切な補償が必要とされていた。

配分的正義は秩序を超越しており、公法のように、国民と国家のために存在していた。共同体における資産と負債の分配は合意による正義に基づく要求を満たしていなければならなかった。問題は例えば市民と企業の税負担や収入に応じた税を含んでおり、個々のケースを考慮しなければならなかった。またそれは平等の原則に関する問題を扱っていた。

そして正義の実現に対するプロセスが問題であった。裁判官の決定は「公正」であるべきであり、その関係者の利害関係や状況が「公正さ」を示さねばならなかった。国家は許容される目標のみ追求することが許されており、許容される手段のみを用いることが許されていた。しかしそれは公共部門に対してだけではなく、他の部門も同様であり、そうでなければ民間部門が他の民間部門に実際に力を行使するときに問題が生じる可能性が存在していた。現行法ではこのプロセスを比例原則として言及していた。

近年ジョン・ロールズによる『正義の理論』が注目を集めており、それはアングロ・サクソンの世界で優勢であった功利主義と異なり、正義を公正さの観点から眺めていた。

彼の理論は原初状態から始まっており、そこでは個々人について完全な平等が必要とされていた。そしてこの状態で社会契約が交わされていた。また不平等の原因は「無知のヴェール」によって覆い隠されていた。

ロールズは正義に関する2つの原理を主張していた。

各人は可能な限り幅広い市民権や自由を保持していなければならなかった。この原理は絶対的であったが、誰の権利も侵害していなかった。

また社会を構成するメンバー全員のためになるときのみに、社会的経済的不平等が正当化されていた。この基準は功利主義における「最大多数の最大幸福」ではなく、社会を構成するメンバー全員の福利であった。その社会的不平等はもっとも不遇な立場にあるメンバーを尊重しなければならなかった。そしてその不遇な立場にある人々に不利益をもたらしてはならなかった。またその不遇な立場にある人々の利益を向上させるときにのみ、不平等の利益が正当化されていた。したがってあらゆるメンバーが社会的な利益を有する立場に平等にアクセスできることを条件にしていた。

3.5 法の経済分析

「法の経済分析」によって法理論は新たな展開を示しており、特にアメリカで顕著であった。またそれは「法と経済学」として知られていた。そのアプローチは法に対して経済学の理論を適用していた。そしてこの10年から15年にかけて経済法をテーマとしたドイツ語の出版物の数が増加していた。

アメリカの経済学者であるロナルド・コースの理論(『ザ・プロブレム・オブ・ソーシャル・コスト』、ジャーナル・オブ・ロー・アンド・エコノミクス 3 [1960]、p.1 ff)やリチャード・ポズナーの理論(『法の経済分析』、1973年、初版、ボストン、リトル・ブラウン)がその例であった。

ここでは経済的な決定に類似した法的な決定が合理的な費用便益分析によって説明されていた。この理論は合理的に振舞うホモ・エコノミクスを想定しており、矛盾のない選好に基づいた便益を意図的に最適化していた。そしてホモ・エコノミクスは決定を行う状況において限られた知識を活用していた。そこでホモ・エコノミクスは知れば知るほど「自信」を深め、知らなければ一層の「不安」を感じると想定されていた。

このように合理的に振舞う人間は費用と便益の比較考量を通じて法的な決定を行っていた。例えば、効果のない方法でしか追求している目的を実現できないときのみに、合理的に振舞う人間は訴訟を用いていた。この場合の「効果」は投入する手段(資源)と具体的に達成される成果との比較の上で決定されていた。例えば、保護するべき羊が牧草地の草を食べ尽くす前に柵を設けることが隣に対して訴訟を起こすことよりも安価であれば、隣を尊重し、経済的に合理的な振舞いによって柵を設置するだろう。また、立法的な措置が有効であり目的を達成するために適しているか否かに対しても同様に、法の経済分析が役に立っていた。例えば環境法は経済的に振舞う汚染者に対して行動を変更することを促していた。しかし法の経済分析は環境法における規範に疑念を呈していた。果たして規範を逸脱することが汚染者にとって規範を遵守することより高く付くことになるのであろうか。そうでなければ、経済的に説明される規範の欠陥が環境汚染を促すことになるであろう。

規範に対する法の経済分析は法によって福利を向上させることを促していた。そして一般的な福利を向上させる法規範のみが「正当」であった。その出発点は「シカゴ学派」と呼ばれる経済学であった。個々のケースにおける「効率性」が「法理として」(アイデンミュラーの論文、1995年)認識されており、経済的な効率性が法秩序全体に対して求められていた。したがって法はある特定の社会目標つまり国民経済を向上させる目標を含んでいた。ポズナーは財産権にのみその正当性を認めており、財の分配に関する法が個々の社会的要求に依存せず経済的な便益を最大化させることに役立っていると考えていた。

3.5.1 経済分析の応用

当事者(訴訟を起こすべきか、不法行為に関わるべきかを考慮している)や裁判官の決定(訴訟を受理するべきか、棄却するべきかを考慮している)と同様に、行政が規範を遵守する判断を下すときに経済理論を援用できる可能性が存在していた。コッホやリュスマンによれば「司法的な根拠」に対する「便益」が法的な判断の際に考慮されていた。

特に社会全体に影響を及ぼす立法者の経済的な特徴が含意を形成していた。

法的責任に対するリスク(特に不法行為に伴う損害、善意取得、契約締結上の過失を通じた)を管理することによる「便益」は、例えば夫婦の観点から俯瞰するか裁判官の観点から俯瞰するかに依存することがない離婚による「便益」と比較すると小さいものであった。そして法の経済分析は経済法の中に明示されていた。例えばマイケル・アダムス(ベトリープス・ベラーター、1989年、781)による法の研究はよく知られており、マイケル・アダムスは契約の締結における当事者の「非対称な」利用可能情報を考慮した約款規制法を研究していた。

そして近年、法の経済分析の対象に公法が加えられており、行政法が注目されていた。

3.5,2 法の経済分析に対する批判

しかしアメリカにおいて法の経済分析は批判の対象となっていた。

法の経済分析に対する批判として、人間が経済合理性にのみ基づいて行動している訳ではないことが指摘されていた。そして法の経済分析は重要な点を欠落させており、それは法の経済分析が合理的行動のような経済的側面に限定されていることを理由にしていた。つまり問題を狭めて、法の内容や正当性をすべて経済効率に起因させていることが問題であった。モデルが取り上げていない側面として、例えば法感情(その法哲学はエルンスト・ブロッホに由来していた)や、法的な関係の形成による力の増大(政治的な力であれ経済的な力であれ個人の力であれ)を指向する意思が指摘されていた。そして宗教的な性格を有する人間は経済的便益を最大化せず、神の視線を意識するであろうとの視点が存在していた。しかし法の経済分析の研究者は、それらの説明には手段としての貨幣が果たす役割に着目した視点が欠落しており、数理経済学が説明するような想定が依然として存在していると理解していた。

また事例ごとに基準となる「便益」を定め、特定のアプローチを採用し比較することにも問題が存在していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/État_de_droit

法治国家

法治国家もしくは法の支配は、あらゆる人々が権利だけでなく義務を有し、「権利を有している」といった認識によって、個人の権利や公権力に対して法を遵守させることを尊重する法的な立場であった[1][2]。それは規範のハイアラーキー、権力分立、基本的権利の尊重に関連し、また立憲主義とも関連していた。法治国家の概念と国家の存在理由を示す概念は伝統的に対立しており、あらゆる法治国家や類似したアクターは何よりも国益を優先させる傾向にあった。

法治国家は政治的な代表を制定した法によって民主的に選ぶことを内包していた。大多数の欧米の近代国家の基礎になっているモンテスキューによる権力分立の理論は三権(行政、立法、司法)の区別と相互牽制を含めていた。例えば議会民主制において立法府(議会)が行政府(政府)の権力を牽制しており、政府は勝手に行動できず、議会の意向を絶えず確認しなければならず、それは民意の表れであることが指摘されていた。同様に司法は行政的な決定に歯止めをかけていた(特にカナダにおいては「権利および自由に関するカナダ憲章」に基づいていた)。したがって法治国家は基本的権利を軽視する絶対王政、王権神授説、独裁制と対立していた。そして法治国家の憲法は必ずしも成文の体裁をとっていなかった。例えばイギリスの憲法は慣習を基にしており、成文規定を有していなかった。このような法体系において、政治的な代表は慣習法を尊重しなければならず、それは成文法と同様であった。

1 ケルゼンの理論、法治国家と規範のハイアラーキー

歴史を遡れば、法治国家は制度化されたシステムであり、公権力は法を遵守しなければならなかった。オーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンは20世紀初頭のドイツ由来の法治国家の概念を再度定義し、「国家の法規範は公権力を制限する目的で階層化されていた。」

このモデルでは、各規範は上位にある規範を満たすことによってその正当性を維持していた。

1.1 規範のハイアラーキーに対する尊重

規範のハイアラーキーは法治国家を維持するシステムの一部であると考えられていた。

規範のハイアラーキーを通じて、国家のさまざまな機関の権限は明確に定義されており、制定された規範は上位に位置する法規範を遵守しているときにしか効力を有していなかった。このピラミッドの頂点にある憲法は法や規制による国際協調を念頭に置いており、ピラミッドの底部には行政的な決定や私人間の契約が存在していた。

法システムは法的主体にとって不可欠の存在であった。個人同様に国家は合法性の原理を軽視することができなかった。上位にある規範を尊重しないあらゆる規範や決定は法的制裁を招きやすかった。そして法を制定する権限を有する国家は、法的ルールを順守することによって、規制する権能に対する承認を受ける必要があった。

規範のハイアラーキーは規範を遵守する法的主体を平等に扱うことを想定していた。

1.2 法の下の平等

法の下の平等ないし政治的権利の平等は法治国家であるための二番目の条件であった。実際法の下の平等は法的規範が上位の規範を満たしていないときにあらゆる個人や組織が法的規範の適用に異議を申し立てることができることを含意していた。したがって個人や組織は法的主体としての地位を有していた。まず自然人、次に法人に対してその言及がなされていた。

国家は法人に含まれ、国家による決定は法人と同じく合法性の原理に支配されていた。合法性の原理の遵守は立憲主義を尊重する合法性の原理に従わせることを通じて公権力の行動に枠をはめていた。この点において国家より上位に位置する法的な制約は大きな力を有していた。制定されたルールや決定は上位にある規範(法、国際的な合意、憲法)を尊重しなければならず、裁判所から特別の扱いを受けたり、慣習法の適用を除外されることもできなかった。私法における自然人や法人は公権力の決定に異論を申し立てることができ、制定された規範を通じて対抗することも可能であった。この点において裁判所の役割は重要なものであり、裁判所の独立は絶対不可欠であった。

1.3 司法の独立

実際に法治国家は、人々の紛争を解決する権限を有しており独立した司法の存在を想定しており、規範のハイアラーキーに由来する合法性の原理を尊重しており、合法性の原理は法人を特別扱いすることを認めていなかった。

そして法治国家は権力分立や司法の独立を想定していた。実際には司法機関は国家の一部を構成していたため、立法府や行政府から司法が独立していることによって法規範の適用における公平性を担保していた。

1.4 規範を比較するときの問題

また裁判所は合法性を判断する規範を尊重しており、それはハイアラーキーの上部に位置するルールに適合するか否かを含めていた。

国際協定に照らして国内の規範の妥当性を認めることは、矛盾があるときに裁判官がその規範を適用しないことを許容しており、これは国際協定を通じた審査であった。また憲法に対する法の妥当性は、付託されていれば憲法院によって審査されることになり、これはすなわち合憲性の審査であった。したがって法治国家は国際協定を通じた審査や合憲性審査の存在を想定していた。

1.5 注釈

法治国家は理論的なモデルであったが、他方で政治的なテーマでもあり、今日では民主制の大きな特徴であると考えられていた。法を通じて政治や社会における組織のルールを優先するならば、それは合法性の原理を遵守していなければならなかった。そして法治国家はこのモデルを採用している各国の裁判所の役割を拡大させていた。

2 法治国家と民主主義

一方で法治国家はしばしば民主主義と混同されていた。実際には各レジームがどの程度法治国家を尊重しているのかがどの程度民主主義を尊重しているのかと必然的に関連している訳ではなかった。

例えばロシアがツァーリズムからソビエト体制に移行したときに法治国家の枠組みを強化したように、フランスは革命期から帝政期に移行したときに法治国家を揺るぎないものにしていた。

『法の精神』の中でモンテスキューは、王が既存の法や行動の範囲を規定する不文憲法を尊重している点で、君主制を独裁制と区別していた。この点において君主制は独裁制より法治国家の色彩が強かった。

また現代の中国は法治国家の体裁を緩やかに採用していたが、そのレジームが民主主義へ向かうとは思われていなかった。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Hiérarchie_des_normes

規範のハイアラーキー

規範のハイアラーキーはハンス・ケルゼンによって提唱された概念であった。そして法規範のハイアラーキーに対して様々な解釈が論じられていた。このハイアラーキーはそれを裁判官が尊重するときにしか意味を有していなかった。ハンス・ケルゼンは頂点に憲法を据えてこのハイアラーキーを理解していた。そして法規範の審査は2つに分類され、違法性の抗弁による審査と違憲立法審査が存在していた。

1 概略

規範のハイアラーキーは法学者であるハンス・ケルゼン(1881-1973)によって提唱され、ハンス・ケルゼンは『純粋法学』の著者であり、法実証主義の提唱者であり、道徳や自然法に依存しない法の基盤を築き(価値中立、つまり想定された主観や道徳的な先入観から独立した)、法律学を展開させていた。ケルゼンによれば、あらゆる法規範は上位にある規範を遵守することで正当性を獲得しており、そこにハイアラーキーが形成されていた。規範の影響が大きければ、その数が減少し、規範の位置付け(通達、規則、法律、憲法)がピラミッド状であることから、この理論は規範のピラミッドとも呼ばれていた。

規範のハイアラーキーは一面では「固定化」されており、それは下位にある規範が上位にある規範を遵守しなければならなかったことを背景にしていたが、他方で「変更可能」な存在であり、それは、上位にある規範によって制定されたルールによって、規範が修正される可能性を存在させていたことを背景にしていた。そして憲法はピラミッドの頂点にあり法システムの内部に存在している規範であった。また憲法は上位にある規範やその時に存在していない規範に由来する内容を除いて法的義務を有していなかったので、そこにケルゼンは「根本規範」の概念を想定し、根本規範は法理論と矛盾しない性質を与えるために想定された方法論で構成されていた。

規範のハイアラーキーについての理論は「硬性」憲法にしか適用されていなかった。「軟性」憲法を採用している国家において一般的に憲法は、法律と同様に慣習法を採用する機関によって起草され投票を経て修正されていた。そして「硬性」憲法と「軟性」憲法は同一の法的価値を有しており、憲法は法律より下位に存在していなかった。他方で「硬性」憲法を採用している国家において、憲法は特定の機関(政府やワークグループ)によって起草され立法府による投票を経て、国民投票によって採択されていた。その改正手続は一般的に特定の機関や国民を介在させており、それらが憲法制定権力を有していた。また硬性憲法は特別な法的効力を有しており、それは他の規範より上位にあり、尊重されなければならなかった。

規範のハイアラーキーを研究している法学者の多くは合憲性審査基準の中に補助的な審査基準を含めており、無神論者にとって、その審査基準は「自然法」と呼ばれており、信仰を有する人々にとって、それは「神の法」と呼ばれていた。

2 審査のさまざまな形態

規範に対する審査は多くの形態を有していた。

2.1 違法性の抗弁

違法性の抗弁は一般の裁判官によって行われていた。ある法規範に対する違憲性の懸念が訴訟を促し、その抗弁が検討に付されていた。このケースにおいて裁判官が抗弁された規範が違憲であると判断するならば、その規範を適用しない可能性が存在していた。しかしその規範が無効になることはなく、最高裁判所によるものでない限り、その判例が他の裁判所によって採用される可能性もなかった。このタイプの抗弁は例えばアメリカで見られていた。

2.2 違憲立法審査

問題に該当する規範が違憲であることを示しその法律効果を無効にするために、特別な機関が設置されていた。

2.2.1 フランスのケース

フランスでは、法律が部分的ないし全体的に合憲であるか否かを審査し宣言するために、1958年に憲法院が創設されていた。審査は法律がまだ公布されていないときにのみ行われていた。憲法院の創設以前は、憲法は理論的な意味でしか最高法規としての地位を有しておらず、行政裁判官は法律の合憲性を審査することを認められていなかった(「法律遮蔽」を形成したコンセイユ・デタにおける1936年のアリギ判決)。

2008年7月23日の憲法改正は、事前審査に加えて、優先的憲法問題(QPC)のメカニズムによって事後の違憲立法審査を認めていた。そしてあらゆる裁判官が合憲性の問題に直面することになった。合憲性の問題はコンセイユ・デタ(行政訴訟に関して)や破毀院(司法訴訟に関して)に送られ、訴訟は留保されていた。そしてこの2つの最高裁判所は憲法院で受理する裁判官に合憲性の問題を移送していた。ここでの問題点は違法性の抗弁とは異なり先決性にあった。

憲法院がその公布前しか法律を審査することができないことに加え、今日の憲法裁判官はレファレンダムによって決定された法律の合憲性を審査しなかった。しかし新たな第11条によれば、2008年7月の憲法改正に基づき、レファレンダムによる法律は憲法を遵守していることを審査されなければならなかった(まだその効力は発生していない)。

最後に違憲立法審査は法律の合憲性に対する審査であり、アリギ判決ではまだ判例変更にまで言及がなされていなかった。そしてそれはコンセイユ・デタ(CE)が後法に対する条約の優越を承認する1989年まで(1989年のニコロ判決)待たねばならなかった(一方破毀院は1975年5月24日のジャック・バブル判決以降それを承認していた)。

3 各国の様相

3.1 フランス

1958年以前の憲法では、憲法や国際条約が法律より優越されながらも、立法府が最高機関であった。またいかなる裁判所も憲法や国際条約が有する超立法的性質を明示することがなかった。しかし1958年以後、憲法が法律より優越されることが、立法府が根本規範を遵守していることを審査する憲法院によって明示されることになった。

3.1.1 フランス法のスキーム

狭義の合憲性審査基準は、1958年憲法、1946年憲法の前文、1789年の人間と市民の権利の宣言、環境憲章(2005年5月以後の)、共和国の諸法律によって承認された基本原則(1971年の結社の自由判決を参照せよ)、憲法的価値を有する規範(例えば憲法の規定と矛盾しない法律に対して憲法上の根拠を与える抵触法)、憲法の原則を含んでいた。しかしこの見解は批判されており、その理由は、それらがコンスルの仕事であり、フランスの憲法典の中にいかなる根拠も有していなかったことにあった。

広義の合憲性審査基準は、憲法的価値を有する規範、組織法律、1998年のヌーメア協定に基づく原則を含んでいた。法律的観点から、議会(国民議会、元老院、上下両院合同会議)内部のルールが含まれることが明白であったが、憲法院は現在のところそのルールを含めることを否定していた。

「合憲性審査基準」といった用語はエクス・マルセイユ第三大学のルイ・ファヴォルーによって示されていた。この言葉は合憲性審査基準が規範のハイアラーキーにおいて憲法と同様のレベルに至っているといった事実を反映していた。

しかしこのスキームは特にジョルジュ・ヴェデルによって批判されており、憲法院が「憲法の一語一句」のみを適用することが求められていた。

条約適合性審査基準は国際法、具体的には慣習法を除いた国際条約や国際協定によって構成されていたが(EC、1997年6月6日、アクアローネ)、(EU加盟国としてのフランスにおける)EU法、つまり条約や派生法、指令や規則も同様であった。

そしてフランスでは規範に関する文書のデジタル化が進められていたが、2005年の定義によれば法律やデクレしか対象になっておらず、それは欧州指令を含んでおらず、その範囲は制限されたものであった。

3.1.2 規範とEU法とのハイアラーキー

学説における重要な判決はフランス法が容認しているEU法のハイアラーキーに含まれていた。

そして、2004年6月10日のLCENに関する憲法院の決定は「EU法を国内法に置き換えることが憲法上の要請であり、明文の規定を考慮すると、憲法に反するときしかEU法は国内法の障害とならない」ことを示していた。

規範のハイアラーキーはEU法の将来の変化にしたがって判例を変更するかもしれない判決に影響を及ぼしていた。

現在の判例はフランスで批准されている国際法に対する憲法の優越に価値を認めており、1998年10月30日のサランとルヴァシェールのコンセイユ・デタの判決は原則に回帰していた。「フランス憲法55条によって示される国際条約に付与されている優越は、国内法の枠組みの中では、憲法の規定に対して適用されることがなかった。」

4 備考

憲法は規範のハイアラーキーの頂点に位置していたが、そのハイアラーキーの基盤も構成していた。そして、法律はハイアラーキーの上位にあり効力を有するルールを遵守していた。また権力は権力が生み出す規範より上位の規範にしたがっていた。したがって立法権を有する機関は憲法にしたがっており、行政権は法律を遵守せねばならず、規範のハイアラーキーに含まれていた。このシステムは法治国家として認められており、法治国家はあらゆる個人や法人が法を遵守することを含意していた。

憲法の優越はしばしば限定的な方法で実現されていた。法システムは立法手続における違憲立法審査を含んでいたが、公布されており違憲である法律の適用を防止する手段を提供していなかった。フランスでは違憲立法審査が法律公布の前に憲法院によって行われており、訴訟当事者が法律の適用に対抗するために憲法に立脚すること(「合憲性審査基準」に該当する要素に基づいて)は不可能であった。その可能性は、基本原則を尊重する手段、立法権の行使による損害に対する司法権の行使、法律に対する継続的異議申し立ての可能性の中に見出すことが可能であった。こういった状況は2008年7月に生じており、1990年や1993年の段階では合憲性の優先問題はまだ見受けられていなかった。

ロベスピエールやサン=ジュストは、立法権に対して司法権が干渉するように民主主義の枠組みの中で法律を用いることや、権力の分立を容認していなかった。そして上位にある規範を適用することを必要としていた(憲法のように)。

アメリカにおいて判例は大きな価値を有しており、裁判官(最高裁判所を除いて)は国民によって選任されており、彼らは国家や裁判所のルールを順守していた。

そして憲法が国際法より優位にあるとの判決によって国境を超えた訴訟が懸念されていた。これはキューバについて当てはまり、キューバは「知性の産物は制約を受けることがなく、あらゆる人々の財産である」ことを理由にして、著作物に対して金銭的な支払いを行うことを容認していなかった。

法律より国際条約や国際協定が優越されることはニコロ判決(1989年10月20日)によって認められており、「法律遮蔽」の理論を放棄し、国際条約に対する事後的な法律の規定を国際条約の下に置いていた(1968年5月、フランスのデュラム小麦における製造業者組合についての判決)。コンセイユ・デタはEU法の派生法に対してニコロ判決を敷衍させており、法律よりEU法(1990年9月24日、ボワデ判決)や欧州連合指令(1992年2月28日、S・A・ロスマン判決もしくはS・A・フィリップ・モリス判決)を優越させていた。しかしながら国際条約に対する憲法の優越(規範のハイアラーキーの頂点にある)は再度明示されていた(1998年10月30日、サランとルヴァシェールの判決)。他方で欧州司法裁判所の判決(ECJ、1978年3月9日、シンメンタール判決)は、国内法よりEU法や派生法を優越させており、国内の憲法も同様に扱っていた。しかし現在この判決はフランスの憲法に当てはまっていなかった。

ヨーロッパの民主主義は国際公法の普遍的な解釈を支持する傾向にあったが、インド、イスラエル、アメリカを含む民主主義は、国際公法を領土に対する権利のように普遍的なものや条約や慣習から派生したものと見做す一方で、特定の側面を国際公法の対象として眺めていなかった。植民地時代を経験した途上国の民主主義は、しばしば内政不干渉を主張していたが、国連に見られるような多国間のレベルでの国際公法を支持しており、人権の基準、特定の制度、武力の使用、軍縮の義務、国連憲章の各条項を尊重していた。

国際公法は統治機構のない法的環境の中に存在していたので、規範に関してコースの定理が示唆している性質を有しており、国際情勢が変化しているならば、規範からの逸脱によって、その規範自体が慣習国際法の概念に従って実際に変化するかもしれなかった。例えば、第一次世界大戦以前の無制限潜水艦作戦は国際法の違反やドイツに対するアメリカの宣戦布告のための表面的な開戦事由として考えられていたが、ニュルンベルク裁判において、その行為が1936年に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約に対する明白な違反を構成しているにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を命じたドイツ海軍の元帥であるカール・デーニッツに対する告訴が取り下げられていた。

国連総会の決議は法的拘束力を認められておらず、勧告のみであり、1950年11月3日に採択された国連決議第377号による平和のための結集決議を通じて、国連総会は、安全保障理事会が常任理事国の拒否権によって事態を処理することに失敗したときに、平和の破壊や侵略行為に対して、国連憲章に従って、国連総会が武力を使用する権限を有していることを宣言していた。そしてソ連は、国連決議第377号の決議Aが与えた国連憲章の解釈に唯一反対した安全保障理事会の常任理事国であった。

紛争の平和的解決を勧告している国連憲章の第6章の下で、安全保障理事会は結果として決議を可決することが可能であったが、それらは拘束力を有しておらず、国連憲章の第7章の下で、平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動に関して、拘束力を有し、経済制裁、軍事行動、国連の支援を通じた武力の使用を認める決議を採択することが可能であった。

他方で第7章と無関係に可決された決議が拘束力を有する可能性があることが主張されており、その法的根拠は第24条第2項の下での理事会の広範な権限にあり、このような決議の義務的特徴はICJによるナミビア事件についての勧告的意見によって支持されていた。

また相互の合意に基づいて国家はオランダのハーグにあるICJの仲裁を求めて紛争を付託することが可能であった。ICJが扱う事件は数年かかり、仲裁を通じてなされた決定は仲裁に関する合意の性質に応じて拘束力を有していたり有していなかったりしていたが、係争から生じた決定は事前にICJが常に関係国を拘束していることを主張していた。

高次の法による支配は、法が普遍的な公正の原則、道徳、正義に適合していないならば、いかなる法も政府によって執行されてはならないことを意味していた。したがって、政府が明白に定義され適切に制定された法的ルールを順守して行動していても、多くのオブザーバーによって不公正と見做される結果を生じさせているならば、高次の法による支配が、政治的ないし経済的意思決定を制限するための現実的な法的指針として機能を果たしていた。

高次の法は国際公法の中に確立された神の法、自然法、基本的な法的価値観として解釈され、その選択はどういった観点によるのかに依存していた。しかし高次の法は明確に法の上に存在する法であり、コモン・ローと大陸法の司法権に対して同じ法的価値を有していたが、コモン・ローと関連している自然法と対立していた。

高次の法による支配は、法の支配に対する英米圏の学説、コモン・ローを採用している国々の伝統、法治国家に対するドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシアの学説の間における相互理解を橋渡しする高次の法理論を具体化するためのアプローチであった。大陸法の学説はドイツの法哲学を通じたヨーロッパ大陸の法思想の産物であり、法治国家の名称は、政府による権力の行使が、国家によって確立され常に変化する法よりむしろ、高次の法によって検証され続ける国家を常に意味していた。

南北戦争以前にアフリカ系アメリカ人は、主人と奴隷の関係を規定する公式な効力を有する法に準じて、白人系アメリカ人と同等の権利や自由を法的に否定されていた。これらの法は、執行にあたって完全に適法であり、当時のアメリカ政府によるこれらの法の執行は相当数の住民の基本的人権を侵害していた。ウィリアム・H・スワードは、奴隷制が憲法より高次の法の下で禁じられていると明確に言及していた。

一部の国々では、政治のリーダーは法の支配が手続上の概念であると主張していた。そのために彼らは、あらゆる政府がその国民から基本的な自由を奪い、適切に執行された法手続に従っている限り生命の権利を侵害してもよいと主張していた。例えばニュルンベルク裁判では、第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人やジプシーに対する犯罪を正当化するために、ナチス・ドイツの元リーダーは、ヒトラーが権力を握っていたときに効力を有していた法を一つとして破っていなかったことを抗弁していた。高次の法による支配によってのみ、連合国検察はそのような抗弁を正当に論破することが可能であった。

また他の国々では、逆に政治のリーダーは、全ての成文法が道徳、公正さ、正義といった普遍的な原則に沿って維持されなければならないことを主張していた。これらのリーダーは、誰もが法に従わなければならないといった原理の必然的な帰結として、法の支配が政府に対して法の下で全ての人々を平等に取り扱うことを求めていることを主張していた。しかし政府がある階級に属する個人や一般的な人権について十分なレベルの人権尊重、個人の尊厳、自治権を否定するたびに、平等に取り扱われる権利が侵害される傾向にあった。そのために平等権、自治権、個人の尊厳、人権尊重に関する不文の自明な原則が政府によって制定された従来の成文法を支配していることが言及されていた。これらの原則はしばしば自然法として言及されていた。これらの原則は同様に高次の法理の基礎を構成していた。

18世紀後半にアメリカやフランスで憲法が採用された後、イマヌエル・カントによって初めて法治国家に関する学説が紹介されていた。カントのアプローチは高次の法に関する原則を用いて形成された成文憲法の優越性に基づいていた。この優越性は、市民の幸福や繁栄のための基礎的な条件としての恒久的に平和な生活を求めるカントの考え方を実践に移すことを意味していた。

国家の憲法が市民の倫理に基づいており、市民の倫理が憲法の本質に基づいていたことを示すことによって、カントは高次の法を執行するための手段としての立憲主義の問題点を明確に指摘していた。

ワレリー・ゾリキンによれば、法治国家は合法的で公正な社会なくして存在することができず、国家は社会によって達成された成熟の程度を反映したものであった。

ジェームズ・M・ブキャナンによれば、立憲政治の枠組みの中であらゆる政府による介入や規制は3つの仮定によって条件付けられていなければならず、市場経済を機能させることに対するあらゆる失敗が政府の介入によって修正されることが可能であり、政治を職業としている人々や官職についている人々が、個人の経済的利益と無関係に、公共の利益を利他的に支持しており、政府がさらなる介入や支配を目指すことが社会的ないし経済的生活に対して影響を及ぼさないことが挙げられていた。

そしてブキャナンによれば、国家が知識に関して国家を構成する個人より優れているといった考え方は拒否されており、カントに沿って、少なくとも数世代の人々によって用いられることを考慮されていた高次の法としての憲法が、経済的意思決定のために、その憲法自身を修正することが可能であらねばならない一方で、個人の利益と対立する国家や社会の利益と、個人の自由や幸福に関して憲法上の権利のバランスを保っているとされていた。

自然法理論は国家の法を制定する力を誘導し、善なるものを促すための道徳的な方向を定めようとしており、人間の法体系の外部にある客観的な道徳的秩序といった概念が自然法の根底に存在しており、時として不正なる法は法にあらずという格言と同等に考えられていたが、ジョン・フィニスによれば、この格言は古典的なトマス主義の指針としては貧弱であったとされていた。

自然法と対照的に法実証主義は、法と道徳の間に必然的な関連はなく、法の力はいくつかの必要最低限な社会的事実に基づいているにすぎないと述べていた。しかしいかなる法実証主義者も、そのために法が何であれ遵守されなければならないものであるとは主張しておらず、法の遵守は全く別の問題であると考えていた。

ジョン・オースティンによれば、何が法であるのかに対する功利主義的な解答は、罰則によって裏付けられた服従する人々に対する主権者からの命令であったが、現代の法実証主義はこの見解を捨て去り、H・L・A・ハートはその過剰な単純化を批判していた。

ハンス・ケルゼンは20世紀における傑出した法学者の1人として考えられており、ヨーロッパやラテンアメリカに影響を与えていたが、コモン・ローを採用していた国々にはそれ程影響を与えていなかった。そしてハンス・ケルゼンの純粋法学は法学を政治学から切り離しており、法的規範の拘束力が形而上学上の存在を引き合いに出すことなしに理解されることが可能であると主張していた。

しかしH・L・A・ハートは法が社会的ルールを体系化したものとして理解されるべきであると主張しており、制裁が法にとって不可欠な存在であり、法のような社会規範が規範とならない社会的事実に基づけられることはできないとするケルゼンの見解を拒絶していた。

ジョセフ・ラズ、ジョン・ガードナー、レスリー・グリーンを含む現代の有力な実証主義者は、法と道徳の間に必然的な関連がないといった見解を拒否していた。ラズが指摘しているように、法制度を担う人々が暴行や殺人を犯すはずがないといった前提が現実と異なっていることは周知の事実であった。

そしてジョセフ・ラズは実証主義を擁護していたが、ハートのアプローチを批判しており、法が道徳的な裏付けを参照することなしに純粋な社会的事実を通じて確認される権威であることを主張していた。

しかしロナルド・ドウォーキンは、ハートや道徳の問題として法を取り扱うことを拒否したことに対して実証主義者を批判しており、法は解釈の後に得られる概念であり、慣習としての伝統を考慮しながら、法的紛争に対して最も妥当な解決を見出すことを裁判官に求めることを主張していた。ドウォーキンによれば、法は、社会的事実に全く基づいておらず、私たちが直感的に合法であるとみなしている制度的事実や法の執行を道徳的に最も正当化することを含んでいた。そして自然法理論と法実証主義の間に位置しているコンストラクティヴィストによる理論を支持していた。

リアリズム法学は北欧やアメリカの研究者に人気がある見解であり、現実の世界における法の執行が現在の法を決定づけるものであり、立法者、裁判官、行政官が法を通じて個人的な嗜好や偏見を実現することによって、法が力を行使していると主張していた。そしてあらゆる法が人間によって制定され、したがって人間の弱点の影響を受けやすいといった立場を基盤にしていた。

またカール・ルウェリンによれば、法は人間のバイアスに基づいた結果を形成する可能性がある裁判官の個人的な嗜好や偏見以上のものではないと考えられていた。

そしてジョン・ロールズは、もし私たちが無知のヴェールに覆われているならば、社会を構成する基本的な制度を設計するために、どのような正義の原理を私たちが選択するだろうかと尋ねていた。もし私たちが人種、性別、資産状況、階級といった要素を全く知らないならば、私たちは私たちの嗜好からバイアスを受けなかったであろう。この原初状態から、ロールズは私たちが言論の自由や投票の自由等のような全ての人々に対する同一の政治的自由を獲得するだろうといったことを主張していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「国際公法」、「国際法理論」、「高次の法による支配」、「法哲学」、「法の抵触」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Public_international_law

国際公法

国際公法は、主権国家やローマ教皇庁、政府間組織などの法的主体の構造や行動に関係していた。また国際法は多少なりとも多国籍企業や個人に影響を与えており、その影響は国内の法解釈や法執行の枠組みを超えて進化していた。国際貿易の拡大、世界規模での環境破壊、人権侵害に対する意識、急激で大規模な国際取引の増加、国境を超えたコミュニケーションの高まりによって、国際公法はその運用の機会や重要性を高めていた。

研究の対象は2つの大きな分野を合わせたものであった。全ての人に対する法である万民法と国際的な協定である諸民族間の法は異なった基盤であり、混同されるべきではなかった。

国際公法は、法の抵触を解決することに関する「国際私法」と混同されるべきではなかった。一般的な意味において、国際法は「国家や政府間組織の行動と、自然人や法人の関係同様に内々の関係を処理し、一般的に運用するための規則や原理によって構成されていた」[1]。

1 歴史

1648年に締結されたヴェストファーレン条約から始まり、17世紀、18世紀、19世紀は「国民国家」の主権の概念を構築し、それは政府による中央集権体制によって支配された国家によって構成されていた。人々が明確な国家のアイデンティティを有する特定の国家の市民として自身を眺めていたので、ナショナリズムの概念はますます重要になっていた。19世紀半ばまでに、国民国家間の関係は、力による場合を除くならば執行できず、名誉や信義の問題を除くならば拘束しない、他の国家に対して特定の方法で行動するための条約や協定によって支配されていた。しかし条約のみでは効果がなくなり、戦争は、市民に対して顕著であったが、一層破壊的になり、文化が成熟した人々はそれらの恐怖を非難し、特に戦時における国家の行動を規制することを主張していた。

おそらく近代の国際公法の最初の文書は、南北戦争における戦闘員の行動に適用するために、1863年にアメリカ議会によって制定されたリーバー法になり、戦時の規則や規約に関する文書であると考えられており、あらゆる文明国によって順守され、国際公法の萌芽でもあった。リーバー法の一部は以下の通りであった。

「近代の文明国によって理解されるように軍事力の必要性は、戦争の終結を確認するために不可欠であり、近代法や戦争についての慣行に従った合法的な対応の中に含まれていた。軍事力の必要性は、武装した敵や、戦時の武器を通じた争いの中で、偶発性を避けられず、他の人々の生命や身体に直接的に被害を生じさせることを許容していた。軍事力の必要性は、あらゆる武装した敵や、敵国の政府にとって意味があり、特に自国にとって危険なあらゆる敵を捕虜にすることを許容していた。軍事力の必要性は、財産に対してあらゆる侵害を行い、交通、移動、通信の経路を妨害し、敵のあらゆる生活手段を奪い、敵国が生存や軍の安全のために必要としているもの全てを強制収容し、戦争を開始する協定の中で明白に宣言され、近代の戦時国際法によって存在していると想定された信義を除外して相手を欺くことを許容していた。(しかし)この説明において、戦争において互いに武器を用いる人々は、互いや神に対して責任がある道徳な存在であることを止めていなかった。軍事力の必要性は残酷さを許容しておらず、それは、苦しみや復讐のために苦しみを与えるものではなく、戦争を除外して負傷を与えるものではなく、自白を引き出すために拷問を課すものでもなかった。軍事力の必要性はあらゆる場における毒物の使用を許容しておらず、都市を理不尽に廃墟にすることも許容していなかった。軍事力の必要性は相手を欺くこと許容していたが、背信行為を否定していた。そして一般的に、軍事力の必要性は平和に戻ることを不必要に困難にする戦闘行為を含んでいなかった。」

戦争に関する成文化されていない規則や条項に対する最初の声明は、戦争犯罪に関して、ジョージア州のアンダーソンビルでの残酷で劣悪な状況に置かれたアメリカの捕虜収容所に対して最初の訴追を行なっており、審理の後、収容所における南部連合の司令官は絞首刑に処され、南部連合の兵士は南北戦争の結果として死刑に処されていた。

その後他の州はその行動に制限を課すことに同意し、多くの協定や団体が互いに対してその行動を制限するために成立し、それらは1899年の常設仲裁裁判所、1907年に改定されたハーグ条約やジュネーブ条約、1921年に設立された常設国際司法裁判所、ジェノサイド条約、1990年代後半に設立された国際刑事裁判所を含んでいたが、それらによって制限されるものではなかった。国際法は比較的新しい分野の法であり、応用分野におけるその展開と発展はしばしば論争の対象であった。

2 国際法の法源

国際司法裁判所規程第38条の下で、国際公法は3つの主な法源を有しており、それは国際条約、慣習、法の一般原則であった。さらに判例や学説は「法準則を決定する補充的な手段」として適用されていた。

国際的な条約法は、国家が条約の中で互いに対して明示的にそして自発的に受け入れる義務で構成されていた。慣習国際法は法的確信を伴う一貫した国家による行動すなわち一貫した国家実行が法的義務によって求められていることに対する国家の確信から演繹されていた。学説や国際法廷の判決は伝統的に、国家の行動に対する直接的な証拠に加えて慣習に対する説得力のある法源として見られていた。慣習国際法を成文化する試みは、国連による支援の下で国際法委員会(ILC)を形成したことを伴いながら、第二次世界大戦後に支持を拡大していた。成文化された慣習法は、条約による合意に基づいた慣習として拘束力を有していると理解されていた。そのような条約の当事者ではなく国家に対して、ILCの仕事は国家に対して適用される慣習として容認されているかもしれなかった。法の一般原則は世界の主な法制度によって一般的に容認されていた。国際法における特定の規範は、一切の例外を許容せずにあらゆる国を含むものとして、絶対的な規範(強行規範)に対する拘束力を有していた。

3 国際条約

国際条約の正確な意味や国内法の適用についての議論において、法が意味するものを決定することは裁判所の責任であった。国際法において解釈は、それを主張している人々の活動領域の中にあったが、条約の条項や当事者間の合意によって、ICJのような司法機関に付与される可能性が存在していた。自己のために法を解釈することは一般的に国家の責任であったが、外交のプロセスや国家を超えた司法機関を利用することの可能性は、その目的を達成するために常に機能していた。条約に関連している限り、条約法に関するウィーン条約は以下の解釈に関するトピックを取り上げていた。‎

「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」(第31条第1項)

これは実際には解釈における3つの異なった学説の間の妥協であった。

限定的なアプローチである文書に基づくアプローチは文書の「通常の意味」に基づいており、実際の文書を重視していた。

主観的アプローチが考慮しているものは、i.条約の背後にある考え、ii.「文脈に含まれる」条約、iii.文書が書かれたときに作者が意図していたことであった。

3番目のアプローチは「その趣旨及び目的に照らした」解釈、すなわち「実用的な解釈」とも呼ばれていた条約の目的に最も適した解釈に基づいていた。

これらは解釈に関する一般的な規則であり、特定のルールが国際法の特定の分野においては存在していた。

4 国家の地位や責任

国際公法は、国際法システムにおける主要なアクターとしての国家を認識するためのフレームワークや基準を確立していた。国家の存在が領土に対する管轄権を前提としているので、国際法は領土の獲得、国家に対する免責、互いの行動における国家の法的責任を取り扱っていた。また国際法は国境の内側にいる個人の処遇に関係していた。したがって集団の権利、外国人の処遇、難民の権利、国際犯罪、国籍の問題、人権を一般的に取り扱う総括的なレジームが存在していた。さらにそれは、国際平和と安全保障の維持、軍備管理、紛争の平和的解決、国際関係における武器の使用に対する制限といった重要な機能を含んでいた。法が戦争の勃発を止めることができないときでさえ、それは戦闘行為や捕虜の取り扱いを支配する原則を展開していた。そして国際法は、地球環境、海洋や宇宙のようなグローバル・コモンズ、国際通信、国際貿易に関した問題に適用するために用いられていた。

理論的には全ての国が主権を有し、平等であった。主権の概念の結果として、国際法の価値や権威は、国際法の形成、遵守、執行における国家の自発的な参加に依存していた。例外が存在しているかもしれないが、高次の法の主体を支持することよりむしろ、自己の利益に基づいて多くの国々が他の国々に対して法的に関与していることが、多くの国際法学者によって想定されていた。D・W・グレイグが記したように、「国際法は国際関係に作用している政治的要因から切り離すことはできなかった」[2]。

伝統的に主権国家や教皇庁は国際法における唯一の主体であった。近年において国際機関が多様化し、その国際機関も同様に時として国際法における主体として認識されていた。国際人権法、国際人道法、国際貿易法(例えばNAFTA第11章)は企業や特定の個人を含んでいた。

4.1 国家主権

国際法と国家主権との対立は学会、外交、政治における論争の対象であった。確かに、国際法や国際基準に照らして、国家の国内の行動を判断する大きな流れが存在していた。現在多くの人々が国民国家を世界における最も重要な単位として眺めており、国家のみが国際法に対して自発的に関与することを選択してもよく、国家のコミットメントに対する解釈になると、国家は国家自身の意図に従う権利を有していると考られていた。特定の研究者や政治のリーダーは、国際法の発展が、政府から権力を奪い、国連や世界銀行のような国際的な主体に権力を譲ることになるので、国民国家を危機に陥れるだろうと感じており、単なる国家間の合意とは別に存在し、国内法の制定や司法プロセスと並行している国際法の制定や司法のプロセスを認識していた。このことは特に、国家が文明国によって遵守される行動基準から逸脱していたときに生じていた。

多くの国々が領土に対する主権を強調しており、国家が国内において自由に主権を有していると考えていた。他方で他の国家はこの見解に反対していた。多くのヨーロッパの国々を含めて、この見解に反対しているグループは、全ての文明国がジェノサイド、奴隷貿易、侵略戦争、拷問、海賊行為を禁止することを含めた行動規範を有しており、これらの普遍的な規範に対する違反が、個人の被害者に対するだけでなく、人類全体に対する犯罪であると主張していた。この見解に同意している国家や個人は、国際法に違反したことに対して責任を有する個人が「海賊や奴隷業者のように人類全体の敵になっており」[3]、普遍的な管轄権の執行を通じて、基本的にいかなる裁判においても公平な裁判を通じて起訴されるべきであると主張していた。

ヨーロッパの民主主義は国際法の普遍的な解釈を支持する傾向にあったが、多くの他の民主主義は国際法に対して異なった見解を有していた。インド、イスラエル、アメリカを含むいくつかの民主主義は、柔軟なアプローチを採用しており、普遍的なものとしての領土に対する権利のように国際公法の一部の側面を認めており、他の側面を条約や慣習から派生したものとして見做しており、特定の側面を国際公法の対象として全く眺めていなかった。過去の植民地時代の歴史に起因している途上国の民主主義はしばしば内政不干渉を主張しており、人権の基準や特定の制度を特に尊重していたが、国連に見られる二国間ないし多国間のレベルでの国際法を強く支持しており、武力の使用、軍縮の義務、国連憲章の各条項を特に尊重していた。

9 国際裁判とその判決の執行

国際法は紛争の解決や強制的な刑事システムのための義務的な司法システムを設けていなかったので、国内の法制度における違反を処理することほど容易ではなかった。しかし、その違反が国際社会の注目を集めるための手段や、その違反を解決するための手段が存在していた。例えば貿易や人権のような特定の分野において国際法には司法ないし準司法的な裁判所が存在していた。例えば国連の設立は、安全保障理事会を通じて国連憲章に違反する加盟国に対して国際社会が国際法を執行する手段を与えていた。

国際法は最も重要な「統治機構」(例えば国際規範を遵守することを外部から強制する力)のない法的環境の中に存在していたので、国際法の「執行」は国内法の施行と異なっていた。多くの場合において国際法の執行は、規範に関してコースの定理が示唆している性質を有していた。他の場合において、特に国際情勢が変化しているならば、規範からの逸脱が実際のリスクを生じさせていた。このことによって、強大な国家が継続して国際法の特定の側面を無視するならば、規範は慣習国際法の概念に従って実際に変化するかもしれなかった。例えば、第一次世界大戦以前の無制限潜水艦作戦は、国際法の違反やドイツに対するアメリカの宣戦布告のための表面的な開戦事由として考えられていた。しかし第二次世界大戦までに国際法の手続は、ニュルンベルク裁判において、その行為が1936年に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約に対する明白な違反を構成しているにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を命じたドイツ海軍の元帥であるカール・デーニッツに対する告訴を取り下げることにまで拡大していた。

9.1 国家による執行

特定の規範を維持したいという国家の意向とは別に、国際法の執行は、一貫した行動を取り、義務を遵守することを国家が他の国家に課していることの圧力から生じていた。あらゆる法体系と同様に、国際法の義務に対する多くの違反は見逃されていた。さらに言及を加えるならば、国際司法の決定[5][6]、仲裁[7]、制裁[8]、戦争を含む武力の使用[9]に対する服従は外交や国家の評判に対する影響を通じてなされていた。実際に国際法に対する違反は一般的であったけれども、国家は国際的な義務を無視する言動を避けようとしていた。経済関係ないし外交関係の断絶や報復行為を通じて、国家は一方的に相手国に対して制裁を採用するかもしれなかった。いくつかのケースでは、国際法が国内法と交差する複雑な分野であったけれども、国内の裁判所が外国(国際私法における)に対して損害を理由に判決を与えていた。

武力攻撃が発生した場合に全ての国家が個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることは、国民国家によるウェストファリアシステムの中に暗示されており、国連憲章の第51条の中に明示されていた。国連憲章の第51条は、安全保障理事会が平和の維持に必要な措置をとるまでの間(もしくはなくても)、国家の自衛権を保障していた。

9.2 国際的な主体による執行

国連加盟国による国連憲章に対する違反に対して、国連総会において侵害された国家によって問題提起される可能性が存在していた。国連総会の決議は法的拘束力を認められておらず、「勧告」のみであり、1950年11月3日に採択された国連決議第377号による平和のための結集決議を通じて、国連総会は、安全保障理事会が常任理事国の拒否権によって事態を処理することに失敗したときに、平和の破壊や侵略行為に対して、国連憲章に従って、国連総会が武力を使用する権限を有していることを宣言していた。国連決議第377号の決議Aを採用することによって、国連総会は同様に、穏やかな「平和に対する脅威」を構成する状況において、経済制裁や外交的な制裁のような他の集団的措置を求めることができることを宣言していた。

平和のための結集決議は、安全保障理事会でソビエトの拒否権を回避するために、朝鮮戦争の直後である1950年にアメリカによって発議されていた。決議の法的意味は不明確であり、拘束力のある決議を発布することはできなかった。そして国連総会に新たな力を与える議論を通じて決議案を提出することは「七理事国」によって一度も主張されたことがなかった。その代わりに安全保障理事会が膠着したときに、国連憲章に従って、すでに国連総会が影響するものについて、平和のための結集決議は単に宣言しているだけであると主張されていた[11][12][13][14]。ソ連は、国連決議第377号の決議Aが与えた国連憲章の解釈に唯一反対した安全保障理事会の常任理事国であった。

国連憲章に対する違反についての懸念は安全保障理事会の理事国によって同様に提起されることが可能であった。「紛争の平和的解決」を勧告している国連憲章の第6章の下で、安全保障理事会は結果として決議を可決することが可能であった。そのような決議は理事会の決定を表現していたけれども、それらの決議は国際法の下で拘束力を有していなかった。稀に安全保障理事会は、「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」に関して、国際法の下で法的拘束力を有し、経済制裁、軍事行動、国連の支援を通じた同様の武力の使用を認める、国連憲章の第7章の下で決議を採択することが可能であった。

第7章と無関係に可決された決議が拘束力を有する可能性があることが主張されており、その法的根拠は第24条第2項の下での理事会の広範な権限にあり、それは「前記の義務を果たすに当っては(国際の平和及び安全に関する主要な責任を負わせる)、安全保障理事会は国際連合の目的及び原則に従って行動しなければならない」と述べていた。このような決議の義務的特徴はICJによるナミビア事件についての勧告的意見によって支持されていた。このような決議の拘束力に関する特徴はその文言や意図の解釈から推測されることが可能であった。

また相互の合意に基づいて国家はオランダのハーグにあるICJの仲裁を求めて紛争を付託することが可能であった。決定を執行する手段を一切有していなかったけれども、これらの審理における裁判所の判決は拘束力を有していた。裁判所は、国連憲章に従って権限を与えられていた主体が何であれ、その要求に対して、法的問題について勧告的意見を与えることが認められていた。そして裁判所がもたらしたいくつかの勧告は裁判所の法的権限や管轄権に関して論争を残していた。

しばしば非常に複雑な問題であるため、ICJが扱う事件は(1945年に常設国際司法裁判所が創設されて以来150件以下であった)数年かかり、数千ページに及ぶ訴訟手続、証拠、最も優秀な国際法学者による学説を含んでいた。2009年6月の時点でICJでの係争中の事件は15件存在していた。仲裁を通じてなされた決定は仲裁に関する合意の性質に応じて拘束力を有していたり有していなかったりしていたが、係争から生じた決定は事前にICJが常に関係国を拘束していることを主張していた。

国家や国際機関は通常、国際法に対する違反を主張する地位を有する唯一の主体であったが、市民的及び政治的権利に関する国際規約のようないくつかの条約は、国際人権委員会に要請することを加盟国によって違反された権利を有する個人に対して許容する選択議定書を有していた。投資協定は一般的な個人や投資主体による履行の規定を設けていた[15]。そして主権を有する政府と外国人との商業協定が国際的に履行されていた[16]。

10 国際法理論

http://en.wikipedia.org/wiki/International_Legal_Theory

国際法理論

国際法理論は、国際公法や制度の内容、形成、実効性を説明し分析し、それを展開するために用いられていたさまざまな理論的ないし方法論的アプローチを含んでいた。いくつかのアプローチは、なぜ国家は法の遵守をもたらす強制力がないにもかかわらず国際法を遵守するのかといった法の遵守に焦点を当てていた。他のアプローチは、なぜ国家は世界立法府が存在していないにもかかわらず行動の自由を制限する国際法規範を自発的に採用しているのかといった国際的なルールの形成に焦点を当てていた。他の展望は政策中心であり、既存のルールを批判し、その方法を提示する理論的なフレームワークや手段を形成していた。これらのアプローチのいくつかは、国内法理論に基づいており、他は学際的であり、一方また別のアプローチは国際法を分析するために展開されていた。

1 国際法に対する古典的アプローチ

1.1 自然法

初期の多くの国際法学者は自然法に委ねられていると考えられていた公理的な原理に関心を抱いていた。16世紀の自然法学者であり、サラマンカ大学の神学部正教授であったフランシスコ・デ・ビトリアは、公正な戦争、南北アメリカに対するスペインの影響、ネイティブ・アメリカンの権利に焦点を当てていた。

1.2 折衷主義的ないしグローティウスのアプローチ

オランダの神学者であり、人文主義者であり、法学者であるフーゴー・グローティウスは近代国際法の発展に対して重要な役割を果たしていた。聖書やセントオーガスティンの公正な戦争論から見解を引き出した彼の1625年の著作である『戦争と平和の法』の中で(3冊の著作)、彼は、政治の主体間の関係がコミットメントの遵守を基礎にした「合意は拘束する」といった原則に基づく社会共同体によって設けられた万民法によって支配されるべきであることを主張していた。その中でクリスチャン・フォン・ヴォルフは、国際社会が世界共同体であるべきであり、加盟国に対して権限を保有していると主張していた。エムリッシュ・ヴァッテルはこの見解を拒否し、その代わりに18世紀の自然法によって示されていたような国家の平等を主張していた。『国際法』の中で、ヴァッテルは、万民法が一方で慣習や法によって、他方で自然法によって構成されていることを示していた。

17世紀に特に法的平等、領土に対する主権、国家の独立を示していたグローティウスや折衷主義の基本原則はヨーロッパの政治ないし法制度の基本原理になり、1648年のヴェストファーレン条約の中に明記されていた。

1.3 法実証主義

初期の実証主義学派は国際法の法源として慣習や条約の重要性を強調していた。初期の実証主義者であるアルベリコ・ジェンティーリは実定法が大多数の人々に共通している合意によって決定されていたことを前提とする歴史的事例を用いていた。他の実証主義学派の研究者であるリチャード・ズーチは1650年に『宣戦講和の法、または諸国民間の法』を出版していた。

法実証主義は18世紀に支配的な法理論になり、国際法哲学の中にその方法論を見出していた。当時コーネリアス・ヴァン・バインケルスフークは、国際法の基礎が慣習やさまざまな国家によって合意された条約であることを主張していた。ジョン・ジェイコブ・モーザーは国家が国際法を遵守する意義を強調していた。ゲオルク・フリードリヒ・フォン・マルテンスは『ヨーロッパにおける近代国際法概説』という実定国際法に対する最初の体系的な手引きを出版していた。19世紀に実証主義の法理論はナショナリズムやヘーゲル哲学によってさらに支配的なっていった。国際商法は国内法の一部になり、国際私法が国際公法から分離されていた。実証主義は法として認識されるかもしれない国際的な慣行の幅を狭めており、道徳観や倫理間を超えた合理性を肯定していた。1815年のウィーン会議は、ヨーロッパの状況に基づいた政治ないし国際法のシステムを公式に認知していたことを特徴としていた。

近代法実証主義者は国家の意思から生じたルールからなるシステムとして国際法を考えていた。現在の国際法は、「あるべき」法と区別されなければならない「事実に基づく」現実であった。古典的な実証主義は法的正当性に対する厳格な検証を求めていた。文書を伴い、体系的で、歴史的な基礎を有していない超法規的な主張は法的分析と無関係であると思われていた。ハードローのみが存在しており、ソフトローは存在していなかった[1]。実証主義者の法理論に対する批判はその厳格さ、解釈を考慮せずに国家の合意に焦点を当てること、国際規範に従っている限り国家の行動に関する道徳的判断を許容しないという事実を含んでいた。

2 国際関係論 - 国際法に基づくアプローチ

法学者は政治学や国際関係論の分野における4つの主要な学派に分かれており、何故そしてどの様に法制度が存在しており、何故効力を有しているのかを説明することを目的として、法的ルールや制度の中身を学際的なアプローチを通じて検証するために、リアリズム、リベラリズム、インスティチューショナリズム、コンストラクティビズムが挙げられていた[2]。これらの考え方は国際法を再構築することを研究者に促していた[3]。

2.1 リアリズム

リアリズムは、アナーキーな国際システムにおいて、国家がその領土やその存在を維持するために相対的なパワーを最大化するための生存競争を永続することを避けられないことを主張していた。パワーを最大化することに対する国家の関心に対応し、生存競争に勝ち残る見込みがある場合においてのみ、国際協調が可能であるので、国家は規範に対するコミットメントを基礎にして協調を追求していなかった[4]。リアリズムの法学者によれば、国家は、パワーを増大させ、弱小な国家を従属させることを制度化するか、故意に有利な条件のために違反しても構わない国際法規範のみを採用していた[5]。したがって国際法は国家のパワーや自治に影響を及ぼさない周辺的な問題のみを取り上げるかもしれなかった。その結果としてリアリストにとって国際法は「損なわれやすい義務を包む薄いネット」のようなものであった[6]。

リアリストのアプローチによれば、一部の研究者は、「明白なルールを周知し、その遵守を監視し、違反を罰する共通の手続を制度化し、安定的なパワーバランスに強制力をもたせる」限りにおいて、国際法規範が効力を有する「執行の理論」を提案していた[7]。したがって互恵と制裁の役割が強調されていた。例えばモローは以下のように記していた。

近代の国際政治は一般的に国民国家の上にいかなる権力も認めていなかった。国家間の協定は合意した国家によってのみ執行力を有していた。アナーキーの仮定は戦時における国際法違反を制限するための協定にとってのパラドックスを示していた。(...) 互恵は国際政治における協定を履行するための主要なツールとして活用されていた。協定の履行は当事国に委ねられていた。損害を被った当事国は協定の違反に対する制裁によって対応するオプションを有していた。相互に対する制裁の脅威は国際法違反を抑止するために十分なものである可能性があり、そのような協定は国際政治において履行される可能性が存在していた[8]。

2.2 リベラリズム

リベラルな国際関係論に基づくと、一部の研究者は、国際法に対する国家の立場は国内政治、特に法の支配に対する主要な国内の個人や集団の選好によって決定されていると主張していた。したがって民主的な政府を有する民主主義国家は、非民主主義国家より国内法や国際法による規制を受け入れる蓋然性が高く、国際法を遵守することを受け入れる蓋然性も高かった。さらに民主的な社会は、国家間の関係、国家を超えた関係、政府を超えた関係による複雑なネットワークを通じて繋がっており、外交政策に関する官僚や市民社会は、国際法規範の形成や遵守を通じて、国家を超えた協調を促進することに関心を抱いていた[9]。したがって民主主義国家間において国際法規範を採用し遵守することは、非民主主義国家における国際法の遵守より容易であるはずであった。この点に関して、スローターは以下のように記していた。

リベラルな国家間で締結されている協定は、相互の信頼や協定の履行を促す調整の中で締結される可能性が高かった。しかし特に、これらが関係国における個人や集団のネットワークを参加させる協定であり、これらの国家が国内の司法によって担保される法の支配にコミットしているとの前提は、国内の裁判所を通じたさらなる「上意下達の」執行を促すはずであった。この執行の形態は、国家の責務、互恵、対抗措置を含む伝統的な「水平的」形態と対照的であった[10]。

2.3 合理的選択とゲーム理論

法に対するこのアプローチは、市場の内外の最適化された行動に対する法的な含意を確認するための理論や経済学に適用されていた。経済学は限定された状況での合理的選択を研究していた[11]。合理的選択は個々のアクターが自身の効用を最大化することを求めることを前提にしていた[12]。ここで採用された経済理論の多くは、伝統的な新古典派経済学であった。その経済学はアクターの相互作用を評価するミクロ経済学を含んでいた[13]。経済学の取引コストは、ミクロ経済学における情報を収集し、交渉し、協定を遵守させるコストを含めていた。ゲーム理論は、どのように行動を最適化するアクターが利得を増大させる行動を取ることに失敗していたのかを示していた[14]。公共選択は市場の外部における問題に対して経済学を用いていた。これらの分析ツールは法を説明し評価するために用いられていた。これらのツールを用いて、法は経済的効率性を通じて検証されていた[15]。また経済理論は法の改善を提案するために用いられていた。このアプローチは富を最大化させる法の採択を促していた。このアプローチの潜在的な応用例は文字ベースの解釈から始まるだろうとされていた。そして次の懸念は、実際に「市場」がうまく機能しているのかどうかに対して存在していた。三番目に不完全市場を改善する方法が提案されていた。このアプローチは一般的な法的問題を分析するために用いられる可能性があり、このアプローチが高度に限定的なルールを与え、そのルールを与えるための理論的根拠を与えているからであった。このアプローチは、完全競争が存在し、個人が効用を最大化する仮定に依存していた。これらの条件の存在を経験的に決定することは総じて困難であった。

2.4 国際法手続

古典的な国際法手続は、どのように国際法が実際に運用され、国際政治の中で機能し、国際法の研究が進展していったのかを研究するための方法であった[16]。「そして国際法手続は、ルールとその内容に対する論評というよりむしろ、どのように国際法が外交政策の担当者によって実際に用いられているのかについて焦点を当てていた」[17]。国際法手続は「国際関係論を研究しているリアリスト」と共に展開していき[18]、リアリストは冷戦が始まると共にどれほど国際法が国際情勢に影響を与えているのかについての認識を抱いていた。国際法手続は1968年のチェイス、エールリッヒ、ローウェンフェルドによる『国際法手続』の事例集の中で正当な理論と見做されており、そこでアメリカの法手続のための方法論は国際法手続を創設するために変化していった[19]。国際法手続は国際法手続が機能する方法や外国の機関が国際法を組み込む公式ないし非公式な方法を説明していた[17]。また国際法手続は、どの程度個人が国際紛争における人権侵害に対して責任を有しているのかを評価していた[20]。国際法手続は国際法が意思決定者の行動を決定付けないことを認識していた一方、国際法が正当化、言動の制限、計画を準備することの手段になっていたことを示唆していた[20]。国際法手続が方法論に関して規範的性質を欠如していることに対する批判は新たな国際法手続を生み出していた[21]。新たな国際法手続(NLP)は手続としての法とそれぞれの社会の価値観としての法の双方を組み込んでいた。アメリカの法体系と異なり、新たな国際法手続は「フェミニズム、共和主義、法と経済学、人権、平和、環境保護のようなリベラリズム」のような民主主義以外の規範的価値観を念頭に置いていた[22]。新たな国際法手続は価値観の進化に柔軟に適合していくことに関して独特であった。時間を超えた法的基準の変化に対応するために、新たな国際法手続の方法論の各要素は重要な役割を担っていた。新たな国際法手続は、紛争時に生じることや生じるであろうことを主張することによって、国際法手続からの新たな展開を示していた。

3 政策に対する展望

3.1 ニューヘブン・アプローチ

ニューヘブン学派は、マイレス・S・マクドゥーガル、ハロルド・D・ラスウェル、W・マイケル・リースマンによって切り開かれた国際法における政策に対する展望であった[23]。その系譜はロスコー・パウンドによる法社会学やリアリズム法学者の改革主義に根差していた。ニューヘブン・アプローチによれば、法哲学は社会的な選択を行うための理論であった。国際法は、法的機関による支配によって生じた行動の一定のパターンについて、関連するアクターの期待を反映していた。主な法的ないし知的課題は、アクターの社会的目標に対して最大限に達成され同時に秩序を維持する方法で、政策を決定し実施することであった[24]。これらの社会的規範の目標やニューヘブン・アプローチの価値観は、富、啓発、スキル、幸福、好意、敬意、正直さのようなアクターの内部で共有された価値観を高めることを含んでいた[25]。ニューヘブン学派の法哲学の目的は、最適な秩序の中にある共有された価値観を高め、国際的な秩序を縮小させるシステムとして、国際法を解釈することであった。

3.2 批判法学

批判法学(CLS)は1970年代のアメリカの法理論として登場していた。批判法学は高度に理論的な観点から国際法を分析する方法として今日まで存在していた[26]。批判法学の方法論は、国際法の性質が政治や力の伝統的な構造から抜け出せなかった文言によって決定づけられているので、限定されていることを示していた[27]。批判法学の研究者は、これらの力の構造が法律用語の中に(男性対女性、多数派対少数派、等)存在している二元論の中に見出されることを主張していた[28]。国際法の政治的側面を認識すると、これらの研究者は、国際法の普遍性は達成不可能であると主張していた[29]。この方法論に対する批判は、批判法学を徹底的に適用することが現実に不可能であることを示唆していた。しかしながら文言に対する深い分析や批判法学が明らかにしている不公平を理由にして、批判法学は国際法に対する他のアプローチ(フェミニストや文化相対主義者等による)を発展させていた[30]。

3.3 セントラル・ケース・アプローチ

セントラル・ケース・アプローチは人権状況を俯瞰する方法論であった。このアプローチはある普遍的な権利の存在を容認していた[31]。このアプローチは、人権が認められる仮定に基づいた理想状態を想定することによって、人権問題や実情を反映した基準を分析していた。セントラル・ケース・アプローチは、どの程度そしてどのような方法で、現状が理想(もしくはセントラル・ケース)から逸脱していったのかについて探求していた[32]。セントラル・ケース・アプローチは分析に関する伝統的な二元論以上に複雑な性質を考慮していた[33]。二元論において、人権は単に侵害されるか遵守されるかのいずれかであった[34]。二元論は、表面的にそして単純に状況を把握しているに過ぎない人権侵害の重大さの程度を考慮していなかった。ジョン・フィニスは法体系を評価するために利用されるセントラル・ケースの概念を発展させていた[35]。タイ・ヘン・チェンは人権に対してセントラル・ケースの概念を初めて適用していた。もし意思決定者によってセントラル・ケース・アプローチが用いられているならば、そのアプローチは人権侵害の防止に効力を有する可能性が存在していた。セントラル・ケース・アプローチは人権侵害に加えて社会の政治的ないし社会的状況を考慮に入れていた[32]。この考慮はセントラル・ケース・アプローチが人権侵害の動向やその理由を示すことを可能にしていた。セントラル・ケースにおける分析は人権侵害のさまざまな程度を示しており、政策決定者が緊急に対処する必要がある人権侵害の最も深刻な状況に注目することを可能にしていた。セントラル・ケース・アプローチは刻々と変化する状況に対する正確なイメージを与えていた[36]。二元論がある時点で人権が侵害されているかどうかを決定している一方で、セントラル・ケース・アプローチは人権状況に微妙な差異を与える政治的ないし社会的状況におけるシフトを示すことを可能にしていた[36]。

3.4 フェミニズム法理論

フェミニズム法理論はそれが家父長的であることを主張することによって法律用語を批判しており、法律用語は男性を規範としてそして女性を規範からの逸脱として表現していた。フェミニズム法理論の支持者は、女性を法律用語の内部に包含し、法を完全に再構築するために、法律用語を変えることを提案しており、正義と平等に対する広範な目標を達成することを可能にしていた。フェミニストの方法論は、国際法を記した文言におけるバイアスや、男性より弱い立場にあり法の下で保護される必要がある女性という概念を明らかにすることを求めていた。フェミニストであるヒラリー・チャールズワースは、男性や国際法から保護される必要がある被害者としての女性を示している文言を批判していた。さらにヒラリー・チャールズワースは、支配的な文言のアイロニーが、女性を保護することを目的としている一方で、女性の名誉を保護することを強調していたが、女性の社会的、文化的、経済的権利を保護することを強調していないことを含意していたことに言及していた。

3.5 LGBT法理論

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)に関する国際法理論は、国際法の欠点が認識されるようにクィア理論に統合して国際法理論を展開させた学派であった。現在、国際人権規約が平等や平等な機会を享受する人々を一般化することを始めている一方で、過去において、性の認識やジェンダーについてのアイデンティティに関するあらゆる議論が大部分においてタブーであった。LGBT国際法理論は、国際法の枠組みの中にクィア理論を統合することと同様に、LGBTの権利を包含し意識すること(さらに個人を保護すること)を中心に据えていた。LGBT理論がさらなる研究成果を挙げていたように、国際裁判所や国際機関(特に欧州連合理事会や国連)は、性別に基づいた職場差別、同性愛結婚による家族の定義から派生した問題、性の認識に問題を抱えたトランスセクシュアルの立場、一般的な健康支援やHIV/エイズ危機に関するLGBTの権利を認識する必要性、国連の中に(アドバイザーとして)LGBT支援グループを包含すること、同性愛に関わる人々に対する迫害を諸問題の中に含めていた[37]。研究者であるナンシー・レヴィットによれば、ゲイに関する法理論の課題は2つ存在していた。平等や従属理論に対する脆弱性を取り除くことや、LGBT国際法理論の要である幅広い文化的背景において、その価値が認められていないにせよ、許容されるセクシュアル・マイノリティを代表する方法論を発展させることであった[38]。

3.6 古代ローマにおける国際法

ローマ時代における国際法の概念は複雑なものであった。というのは、共和政ローマやそれ以降の帝国が歴史的に長期にわたって支配を続けていただけでなく、「国際法」という用語が正しい用語であるかどうかについての議論がいまだ結論に達していなかったからであった[39]。多くの研究者は国際法を「主権を有する領域国家の間における関係を支配する法」として定義していた[40]。ローマ法の中に同様の法を見出す取組みは、万民法の中にその出発地点を見出していた[41]。万民法は、当時の多くの国家に見られる法制度(奴隷制のような)のようなものに対するローマ人の認識から始まっていた[42]。この法は実際には私法に該当し、ローマ人の国家が国家でなく個人としての外国人を取り扱う方法を主に決定していた[42]。しかし212年に市民権が帝国内の全自由民に与えられると、万民法は本来の定義を維持することを止めて、国家全体に適用されていた[40]。そのため近代国際法の外観がこの変化の中に見出されることが可能であった。国際法の起源や近代国際法との関連は現時点では解明しきれていないトピックであった。

3.7 第三世界

国際法に対する第三世界からのアプローチ(TWAIL)は、「現在の法」に対して疑念を呈する厳密な意味での「方法」ではない、国際法に対する重要なアプローチであった。むしろ、それは特別な関心の対象や研究に必要な分析ツールによって統合された法に対するアプローチであった。TWAILは国際法と植民地の人々との衝突の歴史から引き出されたアプローチであった。TWAILは、ポストコロニアル研究、フェミニズム理論、批判法学、マルクス理論、批判的人種理論と多くの概念を共有していた。TWAILは研究において、第一世界と第三世界の綱引きや、第三世界の人々を従属させ抑圧することを正当化する国際法の役割を優先させていた。TWAILの研究者は、「第三世界」を統合された合理的な場として示すことを避けようとしており、発展途上や周縁化を共有している国民を示すためにその用語を用いていた。

現代のTWAILは、ジョルジュ・アビ=サーブ、F・ガルシア=アマドール・R・P・アナンド、モハメド・ベジャウイ、タスリム・O・エリアスのような法律家による著作に起源を有していた。長年にわたって欧米の研究者は第三世界の立場に理解を示しており、学術的な知識に対して重要な貢献をしており、C・H・アレクサンドロヴィッチ、リチャード・フォーク、ニコ・シュライバー、PJ・I・M・デ・ワールトのような研究者を含んでいた。デイヴィッド・ケネディやマルティ・コスケンニエミも同様に貢献していた。現在に至るまでに研究者の緩やかなネットワークとしてのTWAILは数度の会議を開催していた。

ジョンソンによる2009年の論文は、HIVに対する南部アフリカ開発共同体(SADC)議員フォーラムのモデル法が同時に国際人権法と対応しており、地域の特徴を反映している伝染病に対するリーダーシップと法哲学との連携を通じて、TWAILの目標に近づくことが可能であったと主張していた[43]。

アル・アッタールやミラーによる2010年の論文は、米州ボリバル同盟(ALBA)がTWAILを発展させるための潜在的な力を有しており、ALBAを「補完性や人間の連帯に関する概念に根差した国際法についての統合的な反論を有しているもの」として示していることを主張していた[44]。2011年の春にトレード・ロー・アンド・ディベロップメントはTWAILに関する特別号を出版していた[45]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Rule_according_to_higher_law

高次の法による支配

高次の法による支配は、もし法が普遍的な公正の原則(成文であれ不文であれ)、道徳、正義に適合していないならば、いかなる法も政府によって執行されてはならないことを意味していた[1]。したがって、政府が明白に定義され適切に制定された法的ルールを順守して行動していても、多くのオブザーバーによって不公正と見做される結果を生じさせているならば、高次の法による支配が、政治的ないし経済的意思決定を制限するための現実的な法的指針として機能を果たしていた[2]。

「高次の法」はこの文脈において、国際法の中に確立された神の法、自然法、基本的な法的価値観として解釈され、その選択はどういった観点によるのかに依存していた。しかし高次の法は明確に法の上に存在する法であった[3]。そして高次の法は、コモン・ローと大陸法の司法権に対して同じ法的価値を有しており、コモン・ローと関連している自然法と対立していた[4]。「理想としての法の支配と確立された立憲政治との必然的関係を考慮することは、全ての国家が同一の憲法構造を保持することが可能であることを暗示している訳ではなかった」[5]。

高次の法による支配は、法の支配に対する英米圏の学説、コモン・ローを採用している国々の伝統、法治国家に対するドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシアの学説の間における相互理解(普遍的な法的価値観に関する)を橋渡しする高次の法理論を具体化するためのアプローチであった[6]。大陸法の学説はドイツの法哲学を通じたヨーロッパ大陸の法思想の産物であった。法治国家の名称は英語に翻訳されたものであり、政府による権力の行使が、国家によって確立され常に変化する法よりむしろ、高次の法によって検証され続ける国家を常に意味していた。アマルティア・センは、古代インドにおける法哲学者が、単に制度や規則を評価する問題でなく社会自体を評価する問題であるといった意味で、古典サンスクリット語の「ニヤーヤ」という用語を用いていたことに言及していた[7]。

1 事例

南北戦争以前にアフリカ系アメリカ人は、主人と奴隷の関係を規定する公式な効力を有する法に準じて、白人系アメリカ人と同等の権利や自由を法的に否定されていた。これらの法は、執行にあたって完全に適法であり、当時のアメリカ政府によるこれらの法の執行は相当数の住民の基本的人権を侵害していた。ウィリアム・H・スワードは、奴隷制が「憲法より高次の法」の下で禁じられていると明確に言及していた。

一般的に言えば、「正当に制定された不公正な法」が制定されることは、法の支配の原則に対するその国の政治的リーダーシップが採用する見解に依存していた。

一部の国々では、政治のリーダーは法の支配が手続上の概念であると主張していた。そのために彼らは、あらゆる政府がその国民から基本的な自由を奪い、適切に執行された法手続に従っている限り生命の権利を侵害してもよいと主張していた。例えばニュルンベルク裁判では、第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人やジプシーに対する犯罪を正当化するために、ナチス・ドイツの元リーダーは、ヒトラーが権力を握っていたときに効力を有していた法を一つとして破っていなかったことを抗弁していた。高次の法による支配によってのみ、連合国検察はそのような抗弁を正当に論破することが可能であった[8]。

他の国々では、逆に政治のリーダーは、全ての成文法が道徳、公正さ、正義といった普遍的な原則に沿って維持されなければならないことを主張していた。これらのリーダーは、「誰もが法に従わなければならない」といった原理の必然的な帰結として、法の支配が政府に対して法の下で全ての人々を平等に取り扱うことを求めていることを主張していた。しかし政府がある階級に属する個人や一般的な人権について十分なレベルの人権尊重、個人の尊厳、自治権を否定するたびに、平等に取り扱われる権利が侵害される傾向にあった[9]。そのために平等権、自治権、個人の尊厳、人権尊重に関する不文の自明な原則が政府によって制定された従来の成文法を支配していることが言及されていた。これらの原則はしばしば「自然法」として言及されていた。これらの原則は同様に「高次の法理」の基礎を構成していた。

2 高次の法を執行する立憲政治

18世紀後半にアメリカやフランスで憲法が採用された後、ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントによって初めて法治国家に関する学説が紹介されていた。カントのアプローチは高次の法に関する原則を用いて形成された成文憲法の優越性に基づいていた。この優越性は、市民の幸福や繁栄のための基礎的な条件としての恒久的に平和な生活を求めるカントの考え方を実践に移すことを意味していた。カントはその学説を立憲主義や立憲政治のみに基づかせていた。

カントは次のように高次の法を執行するための手段としての立憲主義の問題点を明確に指摘していた。「国家の憲法は市民の倫理に基づいており、市民の倫理は憲法の本質に基づいていた。」 カントの考え方は21世紀の憲法理論の基礎を成していた。法治国家の考え方は例えばイマヌエル・カントの『人倫の形而上学の基礎付け』によって紹介された考え方に基づいていた。

「普遍的であり恒久的に平和な生活を確立することは、純粋理性の枠組みの中の法理論の一部であるだけでなく、それ自体で絶対的であり最も重要な目標でもあった。この目標を達成するために、国家は共通の憲法に基づいた財産権を法的に保障された中で生活している多数の人々で構成されるコミュニティであらねばならなかった。憲法の優越性は...公法の庇護の下で人々の生活を最も公正に守るといった絶対的な理想を達成することから論理的に引き出されなければならなかった。」[10]

19世紀にアレクサンドル2世の大改革による変化の結果として生じたロシアの法制度は、現在もそうであるが、本質的にドイツ法の伝統に基づいていた。ドイツ法の伝統からロシアは法治国家の考え方を採用していた。法治国家に類似した英語の表現は「法の支配」であった[11]。ロシアにおける法治国家の概念は国家の最高法規としての成文憲法(憲法による支配)を採用していた。基礎を支えているが定義されていない原則は、共産主義政権崩壊後のロシアの憲法の特徴を示している最も重要な条項の中に表れていた。「ロシア連邦は統治の形態として共和制を採用した民主的な連邦制の法治国家であった。」 同様にウクライナの憲法の特徴を示している最も重要な条項は「ウクライナは主権国家であり、独立国家であり、民主主義国家であり、社会国家であり、法治国家である」と宣言していた。したがって「法治国家」という言葉に意味を与えることは理論のための理論ではなかった。

2003年にロシアの憲法裁判所長官であるワレリー・ゾリキンは「法治国家になることが長らく私たちの最も重要な目標であり、私たちは過去数年間にわたってこの方向に向けて着実な進歩を続けてきた。しかし現在私たちがこの目標を達成したと述べることは誰もできなかった。そのような法治国家は合法的で公正な社会なくして存在することができなかった。この点で私たちの生活とは別に、国家は社会によって達成された成熟の程度を反映したものであった。」[12]

ロシアにおける法治国家の概念は、経済学の枠組みで高次の法理を執行する立憲経済学の大部分を採用していた。

経済学者であるジェームズ・M・ブキャナンは、立憲政治の枠組みの中であらゆる政府による介入や規制は以下の3つの仮定によって条件付けられていなければならないと主張していた。第一に、市場経済を機能させることに対するあらゆる失敗が政府の介入によって修正されることが可能であり、第二に、政治を職業としている人々や官職についている人々が、個人の経済的利益と無関係に、公共の利益を利他的に支持しており、第三に、政府がさらなる介入や支配を目指すことが社会的ないし経済的生活に対して影響を及ぼさないことであった。

ブキャナンは「国家が知識に関して国家を構成する個人より優れているといった考え方」を拒否していた。そしてその哲学的な立場は立憲経済学のトピックを取り扱っていた。立憲経済学によるアプローチは経済学と憲法的分析を組み合わせることを許容しており、一面的な理解を回避していた。カントに沿ってブキャナンは、少なくとも数世代の人々によって用いられることを考慮されていた高次の法としての憲法が、経済的意思決定のために、その憲法自身を修正することが可能であらねばならない一方で、個人の利益と対立する国家や社会の利益と、個人の自由や幸福に関して憲法上の権利のバランスを保っていると考えていた。

またブキャナンは憲法規範の根底にある道徳的な原則を保護する意義について言及していた。そしてブキャナンは、「憲法上の市民権に関わる倫理は、現在の体制によって課された枠組みの中において他の人々と相互作用している倫理的行動と直接対応することがなく、個人は、標準的な倫理の意味において、完全に合理的に考え行動しているかもしれなかったが、憲法上の市民権の要求を倫理的に満たすことに失敗していたかもしれなかった」と述べていた[13]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Jurisprudence

法哲学

法哲学は法学であり法に関する理論であった。法哲学の研究者(法に関する社会理論の研究者を含む)は、自然法、法的推論、法制度を深く理解することを望んでいた。近代の法哲学は18世紀に始まっており、自然法、大陸法、国際公法において最も重要な原則に焦点を当てていた[1]。一般的な法哲学は、研究者が抱いている疑問のタイプや、どのようにこれらの疑問が解決されるのかに関する法哲学の理論の双方によって、いくつかのカテゴリーに分割されていた。現代における一般的な法哲学は2つの大まかなグループに属する問題に焦点を当てていた[2]。

(1) 法や法制度内部の問題。

(2) 政治情勢や経済情勢に関連した社会制度としての法の問題。

これらの問題に対する解答は一般的な法哲学に関する思想における4つの学派に分かれていた[2]。

自然法は、立法者の力が合理的で客観的な制限に縛られているとの考え方を示していた。法の基盤は人間の理性を通じて理解されており、人間の手による法の制定はその力の源泉を自然法を通じて獲得していた[2]。

自然法と対照的に法実証主義は、法と道徳の間に必然的な関連はなく、法の力はいくつかの必要最低限な社会的事実に基づいているにすぎないと述べていた。法実証主義者はこれらの社会的事実を正義や善といった価値から切り離していた[3]。

リアリズム法学は法哲学における三番目の理論であり、現実の世界における法の執行が現在の法を決定づけるものであり、立法者、裁判官、行政官が法を通じて個人的な嗜好や偏見を実現することによって、法が力を行使していると主張していた。同様のアプローチは法社会学の視点を通じて多くの方法で展開されていた。

批判法学は最も新しい法哲学であり、1970年代から発展していた。批判法学は、法が大きく矛盾した存在であり、支配的な社会集団の政策目標の具体化として分析され得ることを示す否定的な見解であった[4]。

また現代の法哲学者であるロナルド・ドウォーキンの著作が著名であり、ロナルド・ドウォーキンは、自然法理論と法実証主義の間に位置しているコンストラクティヴィストによる理論を支持していた[5]。

この英語による用語はラテン語の法哲学に基づいており、"juris"は法を意味する"jus"の所有格であり、"prudentia"は哲学を意味していた(それは分別、洞察、配慮、慎重さであり、妥当な判断を下すことを示しており、現実の問題を解決することに対する注意を含んでいた)。現在"prudence"という用語に関して「分別に関する知識やスキル」といった意味は廃れていたが、1628年に初めて法哲学という言葉が英語で登場していた[6]。この法哲学という用語はフランス語の"jurisprudence"由来である可能性が存在しており、そうであれば1628年より早く登場したことになる。

1 法哲学の歴史

その起源においてこの学問分野は祖先の慣習に関する法(伝統的な法)や「父から息子へ」口頭で継承された口述の法や慣習を研究の対象としており、古代ローマにおいて法哲学はこの意味をすでに採用していた。古代ローマの執政官は、起訴され得る犯罪を毎年布告するか、特殊な事例を法令に追加するかのいずれかによって、特殊な事件を起訴することが可能であるのかどうかを判断することによって法を確立していた。そして判事は事件に関する事実に従って判決を下していた。

彼らの判決は伝統的な慣習を単純に解釈したものと考えられていたが、個々の事件について何が伝統的に法的慣習の中に含まれているのかを再考することとは別に、より公平な解釈を目指し、法を新たな社会状況に適合させていた。法は新たに適合し続ける制度(法的概念における)に基づいて執行されていたが、伝統的な枠組みの中に収まったままであった。紀元前3世紀に古代ローマの執政官は知識人の共同体と入れ替わっていた。知識人の共同体への参加は能力や経験を証明することによって条件付けられていた。

ローマ帝国においては法学校が開設されており、次第に学術的になっていった。初期のローマ帝国から3世紀に至るまでプロクルス派やサビヌス派が法に関する研究を行なっていた。その研究内容は古代において前例がないほど深いものであった。

3世紀以降、法哲学はより官僚的色彩を強くしており、ほとんど有名な研究者は現れなかった。東ローマ帝国の時代に(5世紀)、法学は再び深化し、この文化的運動からユスティニアヌスのローマ法大全が生まれていた。

2 自然法

自然法理論は、自然に内在している法が存在しており、制定された法が可能な限り自然と一致していると主張していた。この見解は、不正なる法は法にあらずという格言によってしばしば説明されており、「不正なる法は法にあらず」において「不正なる」は自然法の対立概念として示されていた。自然法は道徳と密接に関連しており、歴史的に説得力がある見方によれば、神の意思と関連していた。その概念を非常に単純化すると、自然法理論は国家の法を制定する力を誘導し、「善なるもの」を促すための道徳的な方向を定めようとしていた。人間の法体系の外部にある客観的な道徳的秩序といった概念が自然法の根底に存在していた。何が正しくて何が間違っているのかはフォーカスされた利益に従って変化する可能性が存在していた。自然法は時として「不正なる法は法にあらず」という格言と同等に考えられていたが、ジョン・フィニスのように現代の自然法学者において最も評価が高い人々は、この格言は古典的なトマス主義の指針としては貧弱であったと主張していた。

3 分析法学

分析法学は、法体系の側面を説明するときに、視点や記述に用いられる言語を中立的に用いることを意味していた。分析法学は、何が法であり、何が法であるべきかを融合させた自然法を拒否する哲学的議論であった[26]。デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』[27]において、そのために私たちが行動を決定しなければならないと世界が示すための行程にあることを人々が常に表明していると主張していた。しかし純粋なロジックの問題として、何かが争点となるので、私たちが何かをしなければならないと結論付けることは不可能であった。したがって世界の在り方を分析することは規範と評価を厳密に分離して取り扱われなければならなかった。

分析法学において最も重要な問題は、「何が法であるのか」「何が法学であるのか」「法と力ないし社会学との関係は一体何であるのか」「法と道徳との関係は一体何であるのか」であった。法実証主義は支配的な理論であったが、独自の解釈を与える多くの批評家に囲まれていた。

法実証主義者

実証主義は単に、法が「断定された」何かであることを意味しており、法は社会的に受け入れられたルールに従って正当に制定されていた。法実証主義は2つの大きな原則に従っていると考えられていた。第一に、法は正義、道徳、他の規範となる目標を実現することを目指していたが、それらの目標に対する成否は法の正当性を決定付けていなかった。法が社会に受け入れられる方法で適切に制定されているならば、他の基準によってその正当性を担保されているか否かに関わらず、法は正当な法であった。第二に、法は秩序や社会の統治をもたらすルールの集合以上の存在ではなかった。しかしいかなる法実証主義者も、そのために法が何であれ遵守されなければならないものであるとは主張していなかった。そしてこれは全く別の問題であると考えられていた。

現行法(lex lata)は歴史的なそして社会的な背景によって決定されていた。

あるべき法(lex ferenda)は道徳的な配慮によって決定されていた。

ベンサムやオースティン

一番初期の法実証主義者の1人としてジェレミ・ベンサムが挙げられていた。ベンサムは初期の忠実な功利主義者の1人であり(ヒュームとともに)、刑務所に対する熱心な改革者であり、民主主義の支持者であり、強固な無神論者であった。法や法哲学に対するベンサムの見解は弟子であるジョン・オースティンによって広められることになった。1829年からオースティンはロンドン大学の法学教授となっていた。「何が法であるのか」に対するオースティンによる功利主義的な解答は、法は「罰則によって裏付けられた服従する人々に対する主権者からの命令」であった[28]。現代の法実証主義はこの見解を捨て去り、特にH・L・A・ハートはその過剰な単純化を批判していた。

ハンス・ケルゼン

ハンス・ケルゼンは20世紀における傑出した法学者の1人として考えられており、ヨーロッパやラテンアメリカに影響を与えていたが、コモン・ローを採用していた国々にはそれ程影響を与えていなかった。ハンス・ケルゼンの純粋法学は、強制力のある規範を評価することを拒絶していたが、法を強制力のある規範として示すことを目指していた。それは「法学」を「政治学」から切り離していた。純粋法学の中心は法学者によって仮定された規範である「根本規範」にあり、憲法に始まる法体系におけるあらゆる「下位」規範が根本規範から「拘束力」を引き出していると理解されていた。ケルゼンは、表面的な「法的」性質の中に確認できる法的規範の拘束力が、神、擬人化された自然、擬人化された国家(当時重要であった)のような形而上学上の存在を引き合いに出すことなしに理解されることが可能であると主張していた。

H・L・A・ハート

英語圏の重要な研究者の中にH・L・A・ハートがおり、法は社会的ルールを体系化したものとして理解されるべきであると主張していた。ハートは、制裁が法にとって不可欠な存在であり、法のような社会規範が規範とならない社会的事実に基づけられることはできないとするケルゼンの見解を拒絶していた。ハートは『法の概念』を通じて20世紀における重要な論争として分析法学を取り上げていた[29]。オックスフォード大学の法哲学の教授として、ハートは法が「ルールの体系」に他ならないと主張していた。

ハートは、ルールが一次的ルール(人の行為に対するルール)と二次的ルール(一次的ルールを管轄するために当局者に対して向けられたルール)に分割されることに言及していた。また二次的ルールは、裁定のルール(法的紛争を解決するための)、変更のルール(法が変更されることを許容する)、承認のルール(法が妥当であると認められることを許容する)に分割されていた。「承認のルール」は、当局者(特に裁判官)による慣行がある一定の行動や決定を法源として認めていたことを含んでいた。1981年に(第二版は2007年に)ハートに関する著作がニール・マコーミックによって記されており、彼の理論(2007年に出版された著作が例として挙げられる)を展開させるための重要な批評が与えられていた。他の重要な批評はロナルド・ドウォーキン、ジョン・フィニス、ジョセフ・ラズによってなされていた。

近年法の性質に関する議論が精緻さを増してきていた。重要な議論の1つは法実証主義の中に存在していた。ある学派は時として排除的法実証主義と呼ばれており、規範に対する法的妥当性が道徳的な正しさに依存することがないといった見解に関連していた。2番目の学派は包含的法実証主義と呼ばれており、その主な支持者はウィル・ワルチャウであり、道徳的考慮が規範に対する法的妥当性を決定付ける可能性が存在していていたが、常にそうである訳ではないといった見解に関連していた。

ジョセフ・ラズ

ある哲学者たちは、実証主義が法と道徳の間に「必然的な関連がない」といった理論であることを主張していたが、ジョセフ・ラズ、ジョン・ガードナー、レスリー・グリーンを含む現代の有力な実証主義者はこの見解を拒否していた。ラズが指摘しているように、法制度に起因していないだろうと一般的に考えられている(例えば、法制度を担う人々が暴行や殺人を犯すはずがないといった)前提が現実と異なっていることは周知の事実であった。

ジョセフ・ラズは実証主義を擁護していたが、『法の権威』におけるハートのアプローチを批判していた[31]。ラズは、法が道徳的な裏付けを参照することなしに純粋な社会的事実を通じて確認される権威であることを主張していた。権威を超えたルールの分類は法哲学に対してよりも社会学に対して委ねられていた[32]。

ロナルド・ドウォーキン

『法の帝国』の中で、ドウォーキンは、ハートや道徳の問題として法を取り扱うことを拒否したことに対して実証主義者を批判していた。ドウォーキンは、法は「解釈の後に」得られる概念であり、慣習としての伝統を考慮しながら、法的紛争に対して最も妥当な解決を見出すことを裁判官に求めることを主張していた。ドウォーキンによれば、法は社会的事実に全く基づいておらず、私たちが直感的に合法であるとみなしている制度的事実や法の執行を道徳的に最も正当化することを含んでいた。ドウォーキンの見解によれば人は、人が社会において法の執行を正当化することに対する道徳的観点を知るまで、社会が執行されている法制度を有しているのかどうかや、個々の法が何であるのかを知ることができなかった。法実証主義者やリアリズム法学者と対照的に、誰も法の執行を最大限に正当化することを知っていないかもしれないので、社会における誰もが法が何であるのかを知らないかもしれないといったことはドウォーキンの見解と一致していた。

ドウォーキンによる純一性としての法によれば、解釈は2つの次元を有していた。解釈を考慮するために、法令や判例の文言を解釈することが正当化の基準に合致していなければならなかった。正当化される解釈に関してドウォーキンは、正確な解釈がコミュニティの政治に光を照らし、可能な限り最善のことを成していると主張していた。しかし多くの研究者は、あらゆるコミュニティにおける複雑な法の執行に対して唯一の正当化がなされることに対して疑念を呈しており、他の研究者は、仮に存在するにせよ、法の執行がコミュニティの法の一部として考慮されるべきであることに対して疑念を呈していた。

リアリズム法学

リアリズム法学は北欧やアメリカの研究者に人気がある見解であった。懐疑的な立場から、法は、ルールや学説が成文法や条約上で述べていることよりもむしろ、裁判所、法律事務所、警察署に属する人々の個人的な嗜好や偏見によって理解され、決定されてきたと主張していた。リアリズム法学は法社会学と親和性が高かった。リアリズム法学の基本的な考え方は、あらゆる法が人間によって制定され、したがって人間の弱点の影響を受けやすいといった立場を基盤にしていた。

最高裁判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアをアメリカのリアリズム法学の提唱者としてきたことは今日一般的であった(他に、ロスコー・パウンド、カール・ルウェリン、最高裁判事であるベンジャミン・カードーゾを含んでいた)。他のアメリカのリアリズム法学の提唱者であるカール・ルウェリンは同様に、法が人間のバイアスに基づいた結果を形成する可能性がある裁判官の個人的な嗜好や偏見以上のものではないと考えていた[34]。北欧におけるリアリズム法学は主にアクセル・ヘーガーシュトレームによる仕事であると考えられていた。その人気の凋落にもかかわらず、リアリズム法学は今日の法哲学に幅広い影響を与えており、批判法学、フェミニズム法理論、批判的人種理論、法社会学、法と経済学を含んでいた。

歴史法学派

歴史法学はゲルマン法の法典化に対するドイツにおける論争を通じて有名になっていた。『立法と法科学に関する現代の課題』の中でフリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーは、ドイツ人の伝統、慣習、信念が法典に対して信頼を置いていないため、ドイツが法典化を支援する法律用語を有していないと主張していた。歴史法学者は、法が社会から生じていると考えていた。

4 規範的法哲学

「何が法であるのか」といった問題に加えて、法哲学は法についての規範的理論に関連していた。法の目的は何であるのか。道徳や政治学は法の基礎に何をもたらしているのか。何が法の固有の機能であるのか。どんな種類の行為が処罰の対象であるべきであり、どんな種類の処罰が許容されるべきであるのか。何が正義であるのか。どんな権利を私たちは保持しているのか。法に従う義務は存在しているのか。どのような価値を法の支配がもたらしているのか。その学説と研究者を以下に記すことにする。

徳法学

徳倫理学のような規範倫理学は道徳性の役割を強調していた。徳法学は法が市民の手によって道徳性を向上させるといった見解であった。歴史的にこのアプローチは主にアリストテレスや後のトマス・アクィナスに関連していた。現代の徳法学は徳倫理学における哲学上の業績によって触発されていた。

義務論

義務論は「道徳的義務に関する理論」であった[36]。哲学者であるイマヌエル・カントは法についての義務論を構築していた。カントは、私たちが従っているあらゆるルールが普遍的に適用されることが可能であらねばならず、皆がそのルールに従うことを私たちが許容しなければならないと主張していた。現代の義務論的アプローチは法哲学者であるロナルド・ドウォーキンの業績の中に確認することが可能であった。

功利主義

功利主義は、法が最大多数の最大幸福を生み出すように制定されなければならないといった立場であった。歴史的に法に関する功利主義の思想家は哲学者であるジェレミ・ベンサムに関連していた。ジョン・スチュアート・ミルはベンサムの弟子であり、19世紀後半における功利主義の擁護者であった[37]。現代の法哲学において功利主義的なアプローチは法と経済学を研究していた人々によって支持されていた。同様にライサンダー・スプーナーを参照せよ。

ジョン・ロールズ

ジョン・ロールズはアメリカの哲学者であり、ハーバード大学の政治哲学の教授であり、『正義論』(1971)、『政治的リベラリズム』、『公正としての正義 再説』、『万民の法』の著者であった。ロールズは20世紀を代表する英語圏の政治哲学者の1人であると広く考えられていた。ロールズの正義論は、もし私たちが「無知のヴェール」に覆われているならば、私たちの社会を構成する基本的な制度を設計するために、どのような正義の原理を私たちが選択するだろうかと私たちに尋ねていた。もし私たちが人種、性別、資産状況、階級といった私たちを特徴付ける要素を全く知らないならば、私たちは私たちの嗜好からバイアスを受けなかったであろう。この「原初状態」からロールズは、私たちが言論の自由や投票の自由等のような全ての人々に対する同一の政治的自由を獲得するだろうといったことを主張していた。また私たちは、法制度が特に貧困者を含む全ての社会の構成員の経済厚生の向上に対する十分なインセンティブを与えているので、生じた不平等が許容される法制度を選択することになるだろう。これはロールズの有名な「格差原理」であった。選択における原初状態の公正さが原初状態において選択された原則の公正さを担保している意味において、正義は公正であった。

法哲学に対する規範的アプローチは他に多数存在しており、批判法学や法哲学におけるリバタリアニズムを含んでいた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Private_international_law

法の抵触

法の抵触(国際私法)は、どの法体系やどの管轄権が該当する紛争に適用されるのかを決定する手続規則の総体であった。「外国が関係する」要素がイギリス、アメリカ、オーストラリア、カナダといった管轄権を有する複数の国に存在しているけれども、法的紛争が異なった国の当事者によって合意された契約のような「外国が関係する」要素を扱っているときに、そのルールが一般的に適用されていた。

法の抵触という用語は、法的紛争の帰結がどの法が適用されるのかに依存している状況やこれらの法の衝突を解決するコモン・ローの裁判から生じていた。大陸法の枠組みにおいて法律家や法学の研究者は国際私法のような法の抵触に言及していた。国際私法は国際公法と現実において何ら関連しておらず、その代わりとして国ごとに異なる現地の法を特徴にしていた。

国際私法には3つの視点が存在していた。

管轄裁判所が紛争を解決する管轄権を有しているか否かといったこと。

紛争を解決するために適用される法の選択。

判決を出す裁判における管轄権の内部において外部の管轄裁判所からの判断を許容し執行する能力。

1 用語

法の抵触、私的国際法、国際私法といった異なった名称は一般的に交換可能であったが、それらは全体像を見る限り正確ではなく、適切に説明していなかった。法の抵触といった用語はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアといったコモン・ローの司法機関の中で用いられていた。私的国際法はイタリア、ギリシア、スペイン語圏、ポルトガル語圏と同様にフランスで用いられていた。国際私法はドイツ、ロシア、スコットランド(オーストリア、リヒテンシュタイン、スイスと同様に)で用いられていた。

アメリカやオーストラリアのような連邦国家における法の抵触がその抵触に対する解決を必要としていた連邦制において、その抵触は単なる国際問題を含んでいなかったので、法の抵触といった用語が好まれていた。したがって法の抵触は、関連する法体系が国際的であるか否かに関わらず、法の相違に言及するために好まれた用語であった。しかしながら法の抵触は、「抵触」よりむしろ競合する法体系の衝突を解決することに言及するときに、誤解を招く恐れがあった。英語における私的国際法という用語はアメリカの法学者であるジョセフ・ストーリによって創り出されていたが、コモン・ローの研究者によって実質的に放棄させられ、民法の研究者によって採用されていた。

2 歴史

英米法の伝統における法の抵触の最初の例はギリシア法に遡ることが可能であった。古代ギリシアは複数の国家に及ぶ問題を取り扱っていたが、抵触法を制定していなかった。ギリシア法は全ての国家の市民にとって平等に適用可能であったので、紛争の解決は国際的な紛争に対する裁判所の設置から地域の国内法の適用に至るまで様々であった[1]。

さらなる議論はローマ法に遡ることが可能であった。ローマの市民法は市民でない人々に適用されることができず、特別法廷が複数の国家に及ぶ事件に対する管轄権を有していた。これらの特別法廷の裁判官は外国人係法務官と呼ばれていた。外国人係法務官は適用すべき法の管轄を決定していなかった。その代わりに外国人係法務官は「万民法」を「適用」していた。万民法は国際的な規範に基づいた法について緩やかに定義されたものであった。したがって外国人係法務官は個々の事件に対する新たな実体法を制定していた[2]。今日実体法は抵触法の問題に対する「明文化された」解決方法として認識されていた。

近代における法の抵触は一般的に中世後期のイタリア北部、特にジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィアのような交易都市で始まったと考えられていた。異なった都市に属する貿易業者間の商取引に関わる問題を裁判する必要性は法に対する理論を発達させ、ある都市の法は影響を及ぼす人に「関する」人法として考えられており、他の都市の法は物法として考えられており、商行為が行われた都市の法を適用していた(所在地法を参照せよ)。

また海事法は国際法上のルールの原動力になっており、契約の履行、難破船の船員や財産の保護、港湾の維持管理を含んでいた[3]。

1834年にジョセフ・ストーリが『法の抵触註解』を発表した19世紀のアメリカにおいて、抵触法の現代版が登場していた。ストーリの著作はA・V・ダイシーのようにイギリスにおける抵触法の展開に大きな影響を及ぼしていた。そしてイングランド法の多くがイギリス連邦の大多数に対する法の抵触の基礎になっていた。

しかしながら20世紀半ばのアメリカにおいてストーリの著作は人気を博さなくなっていた。伝統的な法の抵触のルールは、第二次産業革命によって高度に流動化した社会からの要請に対して対応し切れていない非常に厳格なものとして広く認識されていた。そしてそれらのルールは多くの取り組みによって変更を加えられ、その取り組みの内、最も重要なものは、法学者であるブレイナード・カリーによって研究された政府の利益を分析したものであった。カリーを通じて、アメリカにおける法の抵触のルールは国際水準に耐え得るルールから大きく乖離していった。

3 抵触の段階

まず裁判所は管轄権を有しているかどうかを決定しなければならず、もし管轄権を有しているのならば、フォーラム・ショッピングの問題を抱えているが、裁判が適切な裁判地で行われているのかどうかを決定しなければならなかった。

次のステップは、付随する問題を生じさせるかもしれないが、訴訟を法的カテゴリーの中に分類することであった(例えば手続法と実体法の区別が必要であった)。

個々の法的カテゴリーは、競合する法のどれが個々の問題に適用されるべきかを決定するために、法を選択していた。この重要な要素は反致に関するルールになるかもしれなかった。

一旦準拠法が決定されると、その準拠法が管轄裁判所において明示され、判決を下すために適用されなければならなかった。

その後当事国は、国際間で共有する作業に関与している判決を執行しなければならなかった。

抵触法が発展途上の国々にとって、管轄権の決定はその場しのぎで行われる傾向があり、法の選択は私法の分野に分類され、法廷地法や現地の法を適用する傾向にあった。抵触法が成熟している国々にとって、抵触法は現地の私法から離れ、用語と概念の双方において国際的な視点を採用していた。例えばEUでは、あらゆる管轄権の問題がブリュッセルⅠ規則によって規定され、例えば加盟国における他の係争中の訴訟にブリュッセルⅠ規則を適用しており、その解釈は現地の裁判所よりむしろ欧州司法裁判所によって決定されていた。抵触法に関するルールにおける他の要素は、国家の枠組みを超えて形成され、条約や協定を通じて執行されていた。これらのルールは主権の問題と直接関係しており、締結国の裁判所において法をその領域外から適用しているので、私法と言うよりかは公法としての色彩を帯びており、その理由として、個々の国家が現地の裁判所を管轄とすることや、現地の法が現地の裁判所に適用されることを現地の人々が期待していることに対して妥協を促していたことが挙げられていた。このような公共的な側面は、ヨーロッパという共同体かもしくは、裁判所が憲法制定権のある国家や領域間のみならず州や連邦裁判所間、そして連邦外の他国由来の関連する法の間における管轄権や法の抵触の問題に取り組まなければならなかったアメリカ、カナダ、オーストラリアといった連邦国家に対して適用されるべきかどうかという憲法的意味を有していた[4]。

4 法の選択

法の選択の問題に直面していた裁判所は2段階のプロセスを辿っていた。

裁判所はあらゆる手続の問題(自明であるが法の選択の問題を含んでいる)に対して法廷地法を適用していた。

それは、法的問題を潜在的に関連している国家の法に関連させる要因であると考えられており、最も関連している法を適用しており、例えば、当事者の本国法や当事者の住所地の法が法律上の身分や行為能力を定義しており、目的物の所在地の法が所有権に関するあらゆる問題を判断するために適用されており、物理的に取引が行われた場所の法や行為地法が、問題が明文化されているときに、しばしば判決を左右する法になっていたが、準拠法がより一般的に選択されていた。

5 婚姻に関する法の抵触

離婚のケースで、裁判所が夫婦の財産を分割するときに、離婚する夫婦が現地におり、財産が現地にあるならば、裁判所は国内法である法廷地法を適用するだろう。現地の法が一夫多妻を許容しているならば、この問題は一層複雑になる。例えばカナダのサスカチュワン州は同時に複数の配偶者を許容している州として存在していた[5]。各州が同様の夫婦の財産に関わる法を有していたが、複数の州が連邦における一夫多妻に関する法を認めていないならば、何が生じるであろうか。このケースでは、彼らの地元の州が一夫多妻を許容しているかどうかに依存しているが、配偶者が複数の配偶者から同時に夫婦の財産を与えれたり与えたりする一方、その他の人々は唯一人の配偶者から夫婦の財産を与えられたり与えたりしていた。例えば、婚姻した場所が離婚手続をする場所と異なるとき、当事者の国籍と住所が一致していないとき、外国の管轄権の中に財産があるとき、当事者が婚姻期間中に何度も住居を移動していたときに、外国由来の要素が混在しているならば、この問題は一層複雑になっていた。配偶者が外国法の適用を求めるたびに、当事者が法の抵触の問題の概要や外国法の翻訳を伝えられるので、離婚手続はしばしば遅滞することになった。

異なった管轄権が異なったルールを適用していた。法の抵触を分析し始める前に、裁判所は、財産契約が当事者間の関係を支配しているかどうかを判断しなければならなかった。財産契約はその履行が求められる国で要求されているあらゆる手続を満たしていなければならなかった。

商業契約や婚前契約が一般的に遵守されるべき法的手続を求めていない一方、婚姻した夫婦が財産契約を結ぶときには厳格な要件が課されており、それは公証、証人、形式に対する特別な知識を含んでいた。ある国々では国内の裁判所にその概要を提出しなければならず、その際に用いる用語は判事によって「指定」されていた。このことは、不当な影響力が当事者の配偶者によって行使されないことを保証するためになされていた。配偶者間における裁判所に対する財産契約に関して、裁判所は一般的に以下の要素を認めており、それは、署名、法手続、その意思、その後の意思、自由意志、抑圧されていないこと、合理性や公平性、配慮、振る舞い、信頼、書面に対する後の評価、適用される契約の交渉経過を含んでいた。

有効な契約がない場合に、法の抵触のルールが機能することになった。

動産と不動産。一般的に適用可能な婚姻法は財産の性質に依存していた。配偶者の住所変更を考慮しなければ、目的物の所在地の法が不動産に対して適用され、また婚姻上の住所における法が動産に対して適用されていた。

完全に変更可能な立場を支持する学説(フル・ミュータビリティ・ドクトリン)。配偶者間の財産の帰属は、その最後の住所や婚姻の前後に獲得されていたかどうかによって決定されていた[6]。これはイギリスの規範であり、深刻な不公平が厳格な適用から生じるケースを例外にしていた。このケースにおいて、裁判所は新たに獲得された財産が婚姻以前に所有されていた財産に関係しているかどうかを検証していた。

変更不可能な立場を支持する学説(インミュータビリティ・ドクトリン)。婚姻時における当事者間の属人法は、居住地や国籍の変更に関わらず、新たに取得された財産を含むあらゆる財産を規定していた。これはフランス、ドイツ、ベルギーのような大陸法のアプローチであった。特定の留保を伴っているが、婚姻を通じた財産に関する1976年のハーグ条約の第7条を参照せよ。またイスラエルでは、「合意によって決定され、合意の際の居住地の法に従ってその財産の帰属を変更しているならば、配偶者間の財産の帰属は挙式時の居住地の法によって規定されていた。」[7] イスラエルが変更不可能な立場を支持する学説(インミュータビリティ・ドクトリン)を適用していることが、動産と不動産を区別していなかったことに注意せよ。そして動産と不動産の双方が婚姻時の居住地の法によって規定されていた。

部分的に変更可能な立場を支持する学説(パーシャル・ミュータビリティ)もしくは新たに取得された財産に関するミュータビリティ。これは夫婦財産の分割に関する法の抵触に対するアメリカのアプローチであった。婚姻中に取得されたあらゆる動産が、財産取得時の当事者の居住地の法によって規定され、以前の居住地や経由地の法によっては規定されていなかった。そして婚姻以前に取得された財産は婚姻時の当事者の居住地の法によって規定されていた。したがって、もし購入時の場所で財産に対する権利が与えられていたならば、その権利が後の居住地の変更によって影響されることはなかった。

法廷地法。例え外国からの要素を考慮する必要が存在していたにせよ、多くの場合において、裁判所は、当事者のあらゆる財産に対して現地の法を適用することによって、複雑な問題を回避していた。このことは、世界中の法が婚姻に関して基本的に類似しているとの仮定に基づいていた。パートナーシップが裁判所の管轄に含まれているので、その管轄権を有する法があらゆる側面に適用されていた。

法廷地法があらゆる手続法による救済に対して適用されていたことに注意せよ(実体法による救済とは異なっていた)。したがって出訴期限法と同様に公判前の救済、手続、形式を付与する能力に対する問題は「手続上の」問題として分類されており、常に離婚訴訟が係属している国内法の対象であった。

6 未婚のカップルの場合の法の抵触

国際的に認知された法的立場を有する婚姻と異なり、未婚のカップルの法的地位を認知する国際的な条約は存在していなかった。もし未婚のカップルが異なった国々に住居を移していたならば、そのカップルが最後に居住していた場所の法がそのカップルに対して適用されていた。この原則は、その関係における地位、権利、義務、国境を超えた動産や不動産を法的に取り扱っていた。その例外として、もし未婚のカップルが異なった国々に資産を所有していたならば、そのカップルは所有している動産や不動産の帰属を決定するために、それぞれの国における訴訟を必要としていたことが挙げられていた。

未婚のカップルに対する有効な協定がないので、法の抵触はこのように機能していた。

完全に変更可能な立場を支持する学説(フル・ミュータビリティ・ドクトリン)。未婚のカップルにおける財産関係は、以前に獲得されていたかどうかやその関係の後に獲得されていたかどうかに関わらず、最後の居住地によって決定されていた。

7 紛争前の条項

多くの契約や法的拘束力を有する合意は、管轄権や訴訟が係属する裁判所を当事者が選択する仲裁条項を含んでいた(管轄裁判所指定条項)。そして法律条項の選択は、裁判所がどの法を紛争における個々の側面に適用すべきかを決定するかもしれなかった。このことは契約自由の原則と対応していた。当事者がその取引に対して最も適切な法を選択することを、当事者自治の原則が許容していたことを、裁判官は認めていた。明らかに主観的な意思を司法が認めることは、伝統的に各要素と関係した事実に依存していたことを例外にしていたが、それは実際にはうまく機能していなかった。

8 外国法の地位

一般的に裁判所が外国法を適用する場合には、その外国法が外国法の専門家によって明示されていなければならなかった。裁判所は外国法を専門としておらず、どのように外国法が外国の裁判所において適用されているのかを熟知していないので、それは単なる訴訟ではなかった。そのような外国法は、主権の問題を抱えた法というよりむしろ、単なる証拠として考えられていた。仮に現地の裁判所が実際に外国法の域外適用を認めていたとしても、それは主権より小さなものであり、潜在的に違憲である方法で作用していた。この問題に対する理論的な解決は次のようなものであった。

(a) 個々の裁判所は、公正な結果を達するために必要な他国の法を適用するための、固有の管轄権を有していた。

(b) 現地の裁判所は外国法を適用するための独自の法的権利を有していた。この説明は維持可能な性質を示しており、法的拘束力のある判例を適用する州でさえ、紛争から生じたいかなる判例も将来の紛争に対して適用されていなかった。全て現地の事件で構成される枠組みの中で将来の訴訟を拘束する判決理由は存在しないであろう。

(c) 外国法を適用する裁判所は域外適用を許容するものではなく、「法の抵触」を通じて、その状況が外国法の適用を伴うことを許容していた。この主張を理解するには、まず最初にルールを域外適用することを定義しなければならなかった。ルールの域外適用は2つの異なる考え方の影響を受けていた。

一方でルールの域外適用は、現地の裁判所が法廷地法以外のルールを適用する状況を説明するために用いられていた。

他方でルールの域外適用は、そのルールが領土を超えて生じる状況に適用されることを意味する可能性が存在していた。この状況の例として、運転手と被害者の双方がイギリスの市民であったが、運転手の保険会社がアメリカ企業であったために、訴訟がアメリカでなされていたが、ロンドンでの自動車事故に対してアメリカの裁判所がイギリスの不法行為法や判例法を適用していたことが挙げられていた。事件がアメリカの裁判官がイギリス法を適用するイギリスの領土で生じていたので、アメリカの裁判官が外国法の域外適用を許容している訳ではないと主張することも可能であった。事実アメリカ法を適用するならば、アメリカの裁判官が域外適用で事件を処理しているとの主張も存在していた。

一旦準拠法が決定されれば、法廷地法を上書きするルールに反している場合を除いて、準拠法が尊重されていた。個々の裁判官は公序良俗の原則の番人であり、当事者は自身の行為によって、労働法、保険、競争規制、事業者のルール、禁輸、輸出入規制、証券取引規制のような分野を全般的に支えている地方自治体の法における基本原則を否定することができなかった。さらに、準拠法の適用が道徳にそぐわない結果をもたらすか、適用領域が限られた法を域外適用することを避けるために、法廷地法が用いられていた。

いくつかの国々では、外国法が「満足できる基準」を満たしていないならば、現地の法が適用されても構わないことを裁判所が決定する事例が時折見受けられていた。イギリスでは、根拠がないならば、外国法が準拠法と同等に推認されていた。同様に、明確な根拠がなければ、裁判官はその反対に、訴訟理由が生じた場所が特定の基本的な保護を与えることを想定しており、例えば、外国の裁判所が他人の過失により負傷した人を救済することが挙げられていた。最後にいくつかのアメリカの裁判所は、「法制度を有さない未開の場所」で負傷が生じたならば、アメリカの現地の法が適用されることを支持していた[8]。

もし事件が国の裁判所よりむしろ仲裁裁判所に持ち込まれていたならば、管轄裁判所指定条項によって、商業目的を否定しているときに、仲裁人は当事者による法の選択について現地の強制的な対応を適用しない決定を行っても構わなかった。しかし関連した公共秩序が適用されるべきであるという理由で、仲裁判断は、執行が一方の当事者によって求められた国における異議申立てを受ける可能性も存在していた。もし現地の仲裁が否定され、仲裁の場所と当事者によってなされた合意の間に本質的な関連がなかったならば、執行が求められる裁判所が仲裁を受け入れることが可能であった。しかしもし上訴が仲裁がなされた州の裁判所に対してなされたのであれば、裁判官は法廷地法の強行法規を無視することができなかった。

9 調和策

他国の法制度に対立するものとしてある国の法制度を適用することは、全体的に満足のいくアプローチではなかったかもしれなかった。当事者の利益が、国境を超えた現実を念頭においた法を適用することによって、常に適切に保護される可能性が存在していた。ハーグ国際私法会議は国際私法の統一を目的とした国際機関であった。ハーグ国際私法会議での協議は近年、電子商取引や名誉毀損に関する国境を超えた管轄権の範囲を取り扱っていた。そして国際契約法が必要とされていることを認識していた。例えば多くの国々は国際物品売買契約に関する国際連合条約を批准しており、 契約債務の準拠法に関するローマ条約は大まかな統一性を与えており、国境を超えた商行為を促進するインターネットや他の技術を生み出すための営みを肯定しているユニドロワ国際商事契約原則に対する支持が存在していた。しかし他の法はそれほど役割を果たしておらず、主な傾向は超国家的なシステムよりむしろ法廷地法の役割に留まっていた。直接的な影響をもたらす統一的なルールを生み出すことが可能である機関を有していたEUでさえ、共通市場を支える普遍的なシステムを形成することに失敗していた。それにもかかわらずアムステルダム条約は、超国家的な影響を有しているこの分野におけるブリュッセルⅠ規則に基づいて法を制定する機関に権限を付与していなかった。第177条は裁判所に解釈を行うための管轄権を与え、その原則を適用しており、したがって政治的意思が存在しているならば、その統一性が徐々に法の文言の中に現れる可能性を存在させていた。加盟国の国内の裁判所がこれらの文言を適用することにおいて矛盾を生じさせていないかどうかは推測の範囲内に留まっていた。

1997年にアイリス・チャンは日本の戦争犯罪に対するアメリカ人の考えを変化させ、なぜ日本人はナチスのように厳しく処罰されなかったのか、アメリカは日本の占領を円滑に行うために裕仁が戦争犯罪の責任を負うべきであったことを示す証拠を隠匿していたのかどうか、アメリカは人体実験に関する情報を入手するために日本の医療将校を保護していたのかどうかといった問題を提起していた。

女性の権利団体や人権団体と対立したときに、日本政府が1951年9月のサンフランシスコ平和条約の規定によって問題は解決済みであると主張し、保守的な政治家や高級官僚が歴史修正主義や日本叩きとして戦争犯罪についての批判を非難していたのは、保守党の候補者が侵略戦争を理由にして日本を批判すると選挙で勝つことができないといった戦争犯罪に対する国内の政治風土に根差していたが、その強硬路線は、日本の戦争犯罪や裕仁の役割を詳細に公言することが日本においてタブーであったことをアメリカに対して補強していた。

イアン・ブルマによれば、ヨーロッパの国々やイスラエルに謝罪していたドイツと異なり、日本は責任を果たさず、詭弁や婉曲表現を用いて、学校現場で侵略や残虐行為という歴史的事実を軽視し、関係諸国に謝罪しておらず、日本の保守強硬派のコメンテーターは戦争犯罪が日本国民を陥れるために誇張されたものであると主張していた。

1990年代に、冷戦初期にアメリカがソ連との対立について日本側の協力を必要としていたことや日本の商業的な利益に譲歩していたことを理由にして、日本の戦争犯罪が処罰を回避していたことが指摘されており、GHQによる裕仁の処遇は、1940年代の後半からあらゆる場で、日本ではよく論じられており、特にアメリカでは1990年代の初めから議論の対象となっていた。

中国や旧ソ連によって保管されていた日本軍の文書は、ほとんど例外なく、西側諸国にとっては入手不可能なものであり、僅かばかりの資料でさえ、多くの点で信憑性に欠ける共産主義者によるプロパガンダに溢れており、その判断の背景として、スターリン主義者が見せしめの裁判を行っていたので、西側の人々が証拠の信憑性を疑っていたことが挙げられていた。現時点で機密扱いの文書の量は未知であり、1990年代の後半まで人々は、アメリカが日本の戦争犯罪に関する文書を機密扱いにするのかどうかや、もし機密扱いにするならば、それは裁判を逃れていた日本人に関与していたのかどうかについて関心を抱いていた。

日本の戦争犯罪について歴史家の仕事は4つの大きなカテゴリーに分類される傾向があり、アジア全体に対する日本の残虐行為、捕虜や民間労働者に対する虐待、戦時中の生物化学兵器プログラム、慰安婦と呼ばれる強制売春が挙げられていた。そして近年になって多くの歴史家が麻薬密売や財産の盗取のような犯罪活動を調査し始めていた。

他方で中国、北朝鮮、ソ連は、日本が開発したものと類似していた生物兵器をアメリカが朝鮮戦争中に使用していたことを指摘していたが、これらの指摘は冷戦時代のプロパガンダとして却下されており、近年その主張が共産主義者のプロパガンダであることを示すソビエト側の文書が例として挙げられていた。

関東軍が人間を被験者にしており、全体の軍事予算が非常に高額であったことを考慮すると、軍部の中枢や裕仁が生物兵器に対して責任を負うべきであったとの主張が存在しており、常石敬一は、戦時中の日本の医療関係者全体が共犯関係にあり、生物兵器に関与した人々が日本で高い地位を独占することを許容してきたことについて、戦後の医療関係者が沈黙していたことを批判していた。

1945年に日本がベトナムから大量の米を徴用していたことが、ベトナム北部に大規模な飢餓をもたらしており、香港では軍票によって人々の貯蓄を収奪していた。スターリング・シーグレイブやペギー・シーグレイブによれば、日本の天皇家がアジアの占領地域から金や財産を強奪していた黄金の百合と呼ばれる組織の存在が確認されており、裕仁が占領していた国々から数千億ドルの価値がある金、プラチナ、ダイヤモンド、美術品、宗教的工芸品、他の財産を組織的に略奪していたのみならず、アメリカの投資家を保護することを考慮して、戦争が日本を破綻させたことを強調し、全ての補償を行うことを免除させることを、ハーバート・フーヴァー‎やダグラス・マッカーサーと議論していたとの指摘がなされていたが、これらの視点は個人の証言に依存しており、著作の信頼性に問題が残っているとの歴史家による指摘も存在していた。

2003年5月にナチス・日本帝国政府戦争犯罪記録省庁間作業部会は、日本帝国政府戦争犯罪情報公開法の下、強制労働や奴隷労働との関連を含む、連合国の捕虜や民間人抑留者に対する日本の虐待、戦時中の日本による生物化学兵器の開発及び利用、徴集され売春婦になることを強制された慰安婦を日本軍が利用していたこと、戦犯裁判に関連した連合国の政策や日本の戦犯に恩赦を与えた決定に調査をフォーカスしていた。

1945年11月1日のマレー・サンダースのレポートは、日本の関係者とのインタビューや実験記録に立脚しており、破棄されたと噂されていた証拠書類を除外することによって、日本の公式見解に近い見解を採用し、裕仁が人体実験を知らなかったと主張することを通じて、裕仁を弁護したい人々の利益になることを肯定していた。

GHQ/SCAPのレポートは裕仁が石井による生物兵器の研究を支援していたと述べていたが、細菌研究が平房区で行われていたと主張する海軍情報局の技術情報センターのレポートは裕仁が石井のプロジェクトを禁止していたと述べていた。

2005年の初めにCIAは日本の有力者に関係した文書の機密を公開していた。そしてアメリカの情報部門が、日本の保守派や軍の将校を共産主義の台頭に抵抗するためのプロジェクトに従事させており、保守強硬派のアジェンダを追求しているグループに対しても物質的ないし金銭的な援助を与えていたことが明らかにされていた。

占領当局が、時として証拠書類も存在していたが、軍事法廷におけるBC級戦犯のメンバーを多くの場合において起訴しなかったのは、戦後の国際政治、GHQ/SCAPの法務局が利用可能であったリソースが欠如していたこと、戦争から離れることを望んでいたアメリカの世論と比較して、それほど法的視点を考慮していなかったからであった。また憲兵隊やA級戦犯を支援していた人々の大多数は告発されていなかった。アメリカは特定の方法でこれらの日本人の活動を支援していた。

ダグラス・マッカーサーはOSSやその後身であるCIAを軽蔑しており、1950年までGHQの情報部門であるG-2はCIAが日本で自由に活動することを妨げていたが、日本におけるCIAのプレゼンスは急速に拡大し、冷戦が進行するにつれてCIAは日本における一大情報機関になっていた。

田中隆吉によれば、有末精三は三国同盟の推進勢力であり、日本を破滅的な戦争に導いた天皇周辺の軍の将校グループにおける中心的な人物であり、GHQ/SCAPの高官によれば、A級戦犯として起訴されるだろうと考えられていたが、G-2によって、戦争の遂行に深く関与した有末は逮捕されず、戦犯として起訴されなかった。

CIAの個人別ファイルは、幾人もの有名な戦犯や戦犯を疑われた人々によって行われていた作戦をG-2が支援していたことを確認していた。有末機関と河辺機関は、大きな犯罪活動によって戦時中の記録が傷付けられた多くの人々と大規模にコンタクトを取り、G-2は反共産主義を支持している日本人の傷付いた過去を見逃していた。児玉誉士夫と辻政信はG-2がエージェントの過去を意図的に見逃した例であった。

CIAの文書は、辻がシンガポール華僑虐殺事件の拡大に関与していたことを示す多くの証拠や、マレー半島で華僑を殺害する指令に関した連署を示しており、おそらく日本に抵抗する5,000名から25,000名の中国人やマレー人がシンガポール華僑虐殺事件で殺害されていた。

有末は、アメリカとの緊密な協力によって日本が再軍備することを主張し、G-2とのコネを獲得することによって彼の影響力を維持することを望んでいたが、裏目に出て河辺とも疎遠になり、児玉誉士夫や渡辺渡のみが古いインテリジェンスを支えていた。

アメリカが日本の戦犯を採用したことはG-2に限ったことではなく、アメリカは社会的地位のある元軍人を積極的に利用していた。1950年代後半にCIAとコンタクトを確立した賀屋興宣は重要な例であった。賀屋は将来の首相である岸信介に最も信頼されたアドバイザーの1人であった。

CIAによれば、アレン・ダレスに会うことを望んでいた賀屋は一流の情報提供者であったが、CIAはA級戦犯がDCIと協議することについて敏感になっていた。1959年に賀屋を直接インタビューした後で、日本のCIAは賀屋が公言していたアメリカ支持の姿勢は十分に真実味があったと述べていた。

1959年2月6日に賀屋はダレスに、日本は共産主義の浸透に関して脆弱であり、共産主義の浸透に対する抵抗を成功させることが仕事であると述べていた。そしてCIAと自民党の安全保障調査会との間でインテリジェンスを共有することをダレスに依頼していた。ダレスは異論を唱えていたが、CIAは日本で共産主義が浸透することを妨げる支援になると考えていた。その会合は反体制運動に関してCIAと日本人が協力することに合意しており、その細目に従って日本におけるCIAの工作が通知されることに同意していた。賀屋は、共産主義の脅威を取り除き、日米関係を強化するための取り組みにおいて成功を収めていた。

ダレスは個人的に主導して、賀屋をCIAの情報提供者にしていた。8月にダレスは賀屋に機密扱いの手紙を送り、日本の政治家に対するCIAのコミットメントを確認していた。その中でダレスは、日米関係を良好に維持するために行う全てのことについて懸念があると述べており、11月にCIA本部は賀屋の活動の進捗や、それを背景にしてエージェントが政治家と共に活動することに対して関心を抱いているのかどうかについて照会を行っていた。しかし8月から11月にかけて日本のCIAは賀屋について考えを改め始めていた。そして賀屋の政敵がその関係に気付いたときの政治的影響を恐れて、CIAは賀屋に対して手紙を返すように求めていた。

1965年12月にCIA本部が権限を与え、その3年後にCIAは、首相である佐藤栄作が掌握していた自民党のアドバイザーであった賀屋が自民党の情報を収集することや沖縄の選挙に反対する秘密活動を受け入れる可能性があり、賀屋に対するコンタクトが継続されるだろうといったことを報告していた。そして当時の沖縄は日本への返還に対する議論で混乱していた。

ヨーロッパでクラウス・バルビー、オットー・フォン・ボルシュビンク、ラインハルト・ゲーレンを利用していたアメリカ陸軍の情報部門が戦犯や戦犯を疑われた人々を利用して極東で情報を収集していたことに驚きはなかった。意図的にヨーロッパと極東の間でインテリジェンスを利用していたことに対する証拠は存在していなかったが、双方の地域において共産主義の拡大に対する恐怖が道徳的ないし政治的関心を煽っていたことは明らかであった。

諜報部員を利用することにおいて、G-2は社会的地位のある日本の保守派をターゲットにしており、それはウィロビーたちが諜報活動が可能であると考えていた唯一のグループであった。日本のスパイはもちろん諜報活動にとって不可欠であったが、CIAの見方によれば、G-2の将校は、作戦に対するリスクや重要性に関わらず、あらゆる潜在的なスパイを利用する意思を有していたように思われていた。

政策形成、諜報活動、犯罪行為といった分野におけるいくつかの基本的な問題が、日本政府と平和条約を交渉していたときのGHQ/SCAPの長期的な諜報戦略にどのように影響していたのかはまだ明らかではなかった。この文書における状況証拠は、ウィロビーが重要人物である日本人を戦犯として逮捕させることを妨げていたことを示唆していた。もしウィロビーが実際に戦争犯罪の調査を妨害していたならば、何をCIAはそれについて知っていたのか。事実、ウィロビーの指示に基づき、G-2は、ドーリットル隊のパイロットを死刑にする指示に署名し戦後にアメリカに協力するスパイになっていたと伝えられていた下村定を擁護していた。G-2は日本で下村を逮捕させるために中国での取り調べを妨害し、彼が収監された後に彼の釈放を主張し、その後すぐ彼を釈放させていた。CIAの個人別ファイルは、1950年代から1960年代にかけて首相になり戦犯を疑われていた岸信介のような社会的な地位のある右派とCIAがどのように関係していたのかについて僅かのことしか明らかにしていなかった。1994年10月9日のニューヨーク・タイムズ紙によれば、50年代、60年代に、CIAは日本の右派に対して数百万ドルを支援していた。現時点で文書による証拠は確認されていなかったけれども、CIAと国務省の元高官はCIAと自民党の間の関係を認めていた。また文書は、どのように朝鮮戦争が戦争犯罪に対するCIAの態度に影響を及ぼしていたのかについて明らかにしていなかった。

これが全てであるとは言及しないが、"Researching Japanese War Crimes Records Introductory Essays"の一部を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://www.archives.gov/iwg/japanese-war-crimes/introductory-essays.pdf

日本の戦争犯罪に関する記録に対する調査

序論

1 イントロダクション

エドワード・ドレー

第二次世界大戦以後の数十年間アメリカ人とほとんど無関係であった日本の戦争犯罪は、1931年から1945年におけるアジアや太平洋において行われていた。アジアの人々に対する日本の戦争犯罪は戦後のアメリカにおいて大きな問題となったことがなく、日本によって収容された元アメリカ人捕虜を除いて、日本の戦時における残虐行為に対する記憶は年月とともに薄れていく状況であった[1]。

日本の戦争犯罪に対するアメリカ人の考えは、1997年にアイリス・チャンが『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』を出版した後、大きく変化することになった[2]。1937年の南京における中国人の犠牲者に対するチャンの遺言は戦争犯罪の恐怖やその範囲を詳細に記しており、日本政府や日本人が戦時中の残虐行為に対して集団的健忘症に罹っていたことを示していた。ベストセラーとなった著作は、中国、朝鮮、フィリピン、東南アジア、その他太平洋地域における戦時中の日本人の行動に対する新たな関心を喚起していた。

『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』はさらなる説明を必要とする多くの問題を提起していた。なぜ日本人はナチスのように厳しく処罰されなかったのか。アメリカは日本の占領を円滑に行うために裕仁が戦争犯罪の責任を負うべきであったことを示す証拠を隠匿していたのかどうか。アメリカは人体実験に関する情報を入手するために日本の医療将校を保護していたのかどうか。

またチャンは、マイクロフィルム化する前に押収された戦時中の記録を「説明抜きに無責任に」日本に返還していたことについて、日本の犯罪の程度を決定することを不可能にしていたアメリカ政府の責任を追及していた[3]。そして他の人々は、疑いの余地なく日本の犯罪を立証し、日本政府や日本社会による高度なレベルの犯罪を示唆する高度な機密文書をアメリカ政府が保管していることを確信していた。

私はこの論考に対して洞察に溢れるコメントを与えてくれたキャロル・グラックとゲルハルト・ワインバーグに感謝している。

これらの問題は関係者に対して、メリーランド州のカレッジパークにあるアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)や他のアメリカ政府機関が保有している日本の戦時中の記録を調査することを促していた。日本の戦争犯罪や犯罪行為を示す完全な文書は利用不可能であると思われており、関係者による隠蔽工作を匂わせていた。研究者たちは、求めている記録を発見する代わりに、要求されている情報は存在していないとの知らせを受け取ることや、記録が「安全保障上の理由によって開示できない」ことを示すカードに遭遇したときに、アメリカ政府が意図的に暗い機密を隠蔽していたとの疑念を抱くことになった。

チャンの主張によって、日本の犯罪に目を向け被害者に正義と補償をもたらすために奮闘していた全く異なるグループが、それらの問題に対する答えや文書を探ることに対して刺激を受けていた。最新の証拠を与えられ、日本の戦争犯罪に対するアメリカ側の意識の高まりによって、被害者や支持者は、以前以上に強固な決意と高まった人気や政治的援助を伴いながら、真相を追及していた。

日本人によって捕虜にされたアメリカの軍人は正義と補償を求める主張を再度行い、長期にわたる収容の間に被った制度化された残虐行為に対する、日本政府による公式の謝罪を求めていた。他の人々は、彼らが日本軍の731部隊に支援された非道な人体実験の被害者であったことを主張しており、731部隊の医師や専門家が、石井四郎中将[4]の指示の下で、生物兵器を開発するために軍に支援された人体実験を行っていたと述べていた[5]。

軍の慰安所で若い女性に売春を強要する日本軍のシステムに対する論争、いわゆる「慰安婦」問題は特に韓国で沸騰寸前であった。1994年のジョージ・ヒックスによる『性の奴隷 従軍慰安婦』は英語でその問題に言及しており、売春を強要された女性が日本から補償を引き出すための苦労を示していた[6]。1990年代の後半までに「慰安婦」の窮状はアメリカの新聞の一面に登場するようになり、戦時中の人権侵害を日本政府が認めることを求める女性の権利団体や他のグループからの関心を惹くようになっていた。

日本による占領と1937年から1945年に至る戦争の間に最悪の略奪行為の被害を間違いなく被っていた中国は、日本による中国の占領を特徴付けていた略奪、放火、広範な殺害行為に対する日本政府の姿勢を繰り返し批判していた。1990年代に同様に、日本の人体実験による中国の被害者、満州にあった日本の捕虜収容所に収容されていたアメリカの軍人、中国系アメリカ人は、チャンの著作の中に鬱積した憤りを見出していた。

また日本は戦時中の奴隷労働や強制労働の釈明を行うことを求められていた。戦時中の日本政府は、朝鮮、中国、あらゆるアジアから労働者を強制的に連れ去り、炭鉱での危険な労働や厳しい建設業のための無給労働をさせるために日本に連れて来ていた。アメリカの戦争捕虜は、捕虜の権利を定めたジュネーブ条約に照らせば、違法で残酷な労働に従事していた。日本政府がこれらの犯罪を認めなかったことに対する抗議の声に、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人が加わっていた。

女性の権利団体や人権団体と対立したときに、日本政府は、これらの問題は1951年9月のサンフランシスコ平和条約の規定によって解決済みであると主張していた[7]。この問題についてこれ以上述べる必要性は存在していなかった。日本政府が戦時中の全ての責任を認めることを拒否しただけでなく、一部の保守的な政治家や高級官僚は歴史修正主義や日本叩きとして戦争犯罪についての批判を非難していた。もちろん戦争犯罪に対する国内の政治風土も存在していたが(保守党の候補者は侵略戦争を理由にして日本を批判すると選挙で勝つことができなかった)、強硬路線を採用する日本の公式見解は、日本の戦争犯罪や裕仁の役割を詳細に公言することが日本においてタブーであったことをアメリカに対して補強していた。

イアン・ブルマの『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(1994)はドイツと日本の戦争犯罪に対する戦後の対応を比較していた[8]。ブルマによれば、ドイツはナチス政権が犯した悪に対する責任を公式に受け入れ、学校の教科書や授業において下劣なナチスの歴史を論じることによって、将来の世代を教育していた。ドイツはヨーロッパの国々やイスラエルに謝罪していた。その反対に、日本は責任を果たさず、詭弁や婉曲表現を用いて、学校現場で侵略や残虐行為という歴史的事実を軽視し、関係諸国に謝罪していなかった。さらに悪いことに、日本の保守強硬派のコメンテーターは、仮に存在していたにせよ、その戦争犯罪は日本国民を陥れるために誇張されたものであると主張していた。

ドイツ人が行ったように、日本人は戦時中の行動に対峙してこなかったけれども、日本政府の否認は、アカデミズムで人気を博していた保守強硬的な反応を助長させていた。ダーキン・ヤンが第2章の中で指摘しているように、日本の研究者や特定の利益団体は日本の戦争犯罪について学術的に厳格に追及していた。大半の著作は翻訳されていなかったので、欧米にほとんどインパクトを与えていなかったけれども、そのような視点は日本の主流的なメディアに定期的に登場していた。有名な例外は、本多勝一の写真や中国における日本軍の残虐行為を描き出し大きな論争を引き起こした記述になり、それは1972年に日本で公表されていたが、1999年まで英語に翻訳されていなかった。日本の作家や歴史家はメディアで自由に意見を述べており、それらは広く読まれ、さまざまなメディアでオープンに議論されていた。

1990年代における日本の戦争犯罪に対する懸念は、日本の戦争犯罪が処罰を回避しているとの考えを補強しており、それは、冷戦初期にアメリカが、ソ連との対立について日本側の協力を必要としていたことや、日本の商業的な利益に譲歩していたことを理由にしていた。不幸にも一部の日本の戦争犯罪者は処罰されていなかった。おそらく最も悪評を買っていたのは731部隊の石井中将であり、残忍な人体実験の詳細をアメリカ政府に渡す代わりに、明白に論争の種であった戦後の訴追を逃れていた。他の人々は、訴追されていなかったものの、戦後の3人の日本の首相が戦争犯罪を犯していたと考えており、鳩山一郎(1954–1956)、池田勇人(1960–1964)、岸信介(1957)が挙げられていた。また有罪とされたA級戦犯であり、戦時中の外交官であり外務大臣であった重光葵は1954年に外務大臣として地位を回復していた。GHQによる裕仁の処遇は、1940年代の後半からあらゆる場で、日本ではよく論じられており、特にアメリカでは1990年代の初めから議論の対象となっていた。

多くの悪評を買った戦争犯罪者は処罰されておらず、繁栄し特権的な地位を謳歌していたけれども、数千件に及ぶ日本の戦争犯罪が起訴されていたことを認識することは重要であった。28名のA級戦犯は、平和に対する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪によって起訴されており、東條英機のような日本の戦時中のリーダーの大多数を含んでいた。ニュルンベルク裁判と比較される東京裁判は、1946年5月に開始され、1948年11月に終結し、被告の内25名を有罪としていた。東條を含む7名が絞首刑に処され、16名が終身刑に処され(その内4名が獄中死していた)、2名が有期禁固刑に処されていた。残り3名の内2名が手続き中に病死し、1名が訴追免除されていた。1956年までに日本政府は収監されていた全ての人々を仮釈放し、1958年4月に外務省は無条件で彼らを釈放していた。また連合国はアジア太平洋地域全体で戦争犯罪に関する裁判を行っていた。アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、フランス人、フィリピン人、中国人が1945年10月から1956年4月にかけて49ヶ所の地域で裁判を行っていた。イギリス人は東南アジアにおいて戦争犯罪を犯した多くの日本人を起訴しており、それはクウェー川を渡河する鉄橋を包含する泰緬鉄道の建設に関わった人々を含んでいた。オーストラリアの検察官は、オランダ領東インドのアンボイナやニューブリテン島のラバウルで多数の日本人に対して裁判を行うために、イギリスやアメリカの判事とともに任務を遂行していた。中国は、南京大虐殺に関与した人々を含む少なくとも800名の被告に対して裁判を行っていた。フランスとオランダは数百名以上に対して裁判を行っていた。フランス人は、軍部のために数十名の女性に売春を強要したジャワ在住の日本の民間人に対して裁判を行っており、オランダ人は、現地の人々やオランダ人の捕虜を殺害したことを理由にして、日本人に対して死刑を宣告していた[9]。また1949年後半にハバロフスクで、ソ連は生物兵器に関する戦争犯罪について12名の日本人に対して裁判を行っており、6名が731部隊のメンバーで、2名が独立した生物兵器に関する部隊であった100部隊のメンバーで、4名がそれ以外であり、後に中国に対する戦争犯罪の嫌疑をかけられた数百名の元軍人を移送し、中国は1950年代中頃に判決を下していた。BC級戦犯として、通例の犯罪、戦時国際法に対する違反、暴行、殺人、捕虜に対する虐待といった罪状を問われていた5,379名の日本人、173名の台湾人、148名の朝鮮人の内、約4,300名が有罪とされ、約1,000名が死刑を宣告され、数百名が終身刑を宣告されていた[10]。

これらの裁判に関わる文書はこれまでに1つの文書にまとめられてこなかった。連合国は当然それぞれの裁判のために日本の文書を集めており、その記録を保管していた。中国や旧ソ連によって保管されていた日本軍の部隊の記録や文書は、ほとんど例外なく、西側諸国にとっては入手不可能なものであり、それは冷戦がもたらす現実を背景にしていた。冷戦時に西側にもたらされた僅かばかりの資料でさえ、多くの点で信憑性に欠ける共産主義者によるプロパガンダに溢れていた。例えばソビエトがハバロフスクにおける1949年12月の裁判に関して1950年に公式の裁判記録を公表したとき、それらは731部隊が関連した文書を含んでいたが、長期間にわたってスターリン主義者が見せしめの裁判を行っていたので、西側の多くの人々は証拠の信憑性を疑っていた[11]。1991年12月における旧ソ連の崩壊や米中関係の改善によって、戦争犯罪についての情報が幾分入手しやすくなったが、まだ非常に限定的であった。そして日本側の入念な努力が731部隊や他の戦争犯罪に関する大部分の文書を隠匿しており、現時点で機密扱いの文書の量は未知であった。1990年代の後半まで多くの人々は、アメリカが日本の戦争犯罪に関する文書を機密扱いにするのかどうかや、もし機密扱いにするならば、それは裁判を逃れていた日本人に関与していたのかどうかについて関心を抱いていた。

特別に関心があるトピック

情報公開法に照らして機密文書を調査する際にIWGのガイドラインを遵守することに加えて、行政機関は、南京での暴行、「慰安婦」、捕虜や民間人に対する虐待、人体実験、731部隊、戦争犯罪人として裕仁を起訴しない決定をアメリカが下したことに関する記録のように、民間人に被害をもたらした日本の残虐行為についての情報を含んでいるかもしれない記録に特別な関心を寄せていた。しかしながら、第二次世界大戦以後において日本の戦争犯罪に関して全ての分野において徹底的な調査が行われていなかったことを記すことは重要であった。例えば「慰安婦」問題が現在大きな意味を有している一方で、アメリカ政府は戦中から戦後にかけて慰安婦に関連した記録を組織的に収集してこなかった[18]。結果としてアーカイブには慰安婦に関連した文書がほとんど存在していなかった。同じことは南京における暴行に関する記録にも当てはまっていた。

南京での残虐行為は、アメリカが参戦する4年前に生じていた。当時アメリカ政府は中国において大規模な軍事や外交に関する情報ネットワークを有していなかった。僅かばかりの熟練した軍や大使館の関係者は時として間接的にその事件を伝えており、センセーショナルな報道と比較すると、アメリカの公式文書は僅かであった。結果として、南京における暴行に対して責任を有していると思われる日本軍の司令官に対する戦後のA級戦争犯罪裁判の中で生じた記録を除外すると、国立公文書館にはこのテーマに関する文書がほとんど存在していなかった。

戦後直後にアメリカ人の関心は、真珠湾攻撃、アメリカ人の捕虜に対する虐待に関与した人々、暴行(特にフィリピンの女性に対する)や白人女性に対する強制売春を含む戦争犯罪に関連していた政府高官に対する日本の責任に向かっていた。1960年代に機密解除された記録の普及によって、帝国陸軍の売春宿システムが知らされることになった。しかしながら売春宿ネットワーク(特に中国)や売春宿に対する旧日本軍による正式な支援の規模はよく理解されていなかった。公娼は戦前の日本では合法であり、連合国の高官は、母国で行っていることを拡大したものとして、この国境を超えたシステムの一部を眺めていた。軍が占領したあらゆるところで生じていた暴行や悪評を買っていた犯罪を理由にして、連合国は日本兵を起訴することを「慰安婦」の状況を調査することよりも優先しており、慰安婦はプロの売春婦として認識されており、日本軍の雇用によって売春を強要された意図せざる被害者として認識されていなかった。例えば、日本政府を軍の売春宿と関連付ける重要な文書である"Amenities in the Japanese Armed Forces"は、1945年にATISによって翻訳され、1960年代に機密解除されていた[19]。数年間一般に公開されていたが、1990年代に「慰安婦」問題がこれらの犯罪に対して関心を集めるまで、それはほとんど注目されていなかった。

731部隊に関して研究者は、石井中将の人体実験や捕虜に対する虐待に関連して新たな機密文書を見出してこなかった。僅かながらも新しく公開された文書は収容者に対する日本の虐待について既存の文書に対して新たな証拠を付け加えていた。捕虜にされたアメリカ軍人に対して行われたと伝えられている731部隊の人体実験に対する問題に関して、複数の情報機関が、インテリジェンス、軍事、外交の記録を通じて徹底的に調査を行っていたが、決定的な証拠を見出してこなかった。このことは驚くべきことではなく、アメリカの捕虜に対して行われたと伝えられていた人体実験について、1970年代、1980年代、1990年代の初めに、議会が繰り返し照会を行ったことによって、アメリカ軍や他の政府機関の記録についての大規模な調査がようやく開始されていた。言い換えれば、特にアメリカの戦争捕虜に対して行われた日本の戦争犯罪に対する議会の関心が、アメリカ政府が保管していた731部隊に関する文書の存在を明らかにしており、それらの文書を一般に公開させることを促していた。

最後に、日本政府に配慮して、アメリカ政府が戦争犯罪に関する文書を隠匿していたとの主張が存在していた。IWGが課したガイドラインに従って、あらゆる外部からの政治的妨害から独立して、複数の政府機関によって機密文書に対する徹底的な調査が行われていた。それらの調査はそのような主張を支持する証拠を一切見出していなかった。処罰に関して複数の欠陥が存在しており、石井の事例が最も明白であり、裕仁の戦争責任に対する問題がアメリカや他のあらゆる場において論争の原因になっていた。しかしアメリカのアーカイブはこれらの論争に対していかなる新たな情報も与えてこなかった。この結果は有罪を示唆する文書が隠匿されていたと主張していた人々を満足させるものではなかったが、これまで関心がなかった人々は、IWGが日本の戦争犯罪に関した機密文書を公開し、一般の人々に対して証拠を利用可能にしたことをプラスに評価していた。また日本、中国、旧ソ連におけるアーカイブは、日本の残虐行為に対する理解を再解釈させることを促すかもしれない文書が存在している可能性を与えていた。

1 シェルダン・ハリス教授のような数名の研究者は1980年代に日本軍の731部隊の活動について調査を行っていた。

2 アイリス・チャン、『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』(同時代社、2007年)。

3 チャン、原著の177ページ。

4 日本の氏名は名字の後にファーストネームを記していた。

5 シェルダン・ハリス、『死の工場―隠蔽された731部隊』(柏書房、1999年)。ハリスは1994年に第一版を出版していた。

6 ジョージ・ヒックス、『性の奴隷 従軍慰安婦』(三一書房、1995年)。

7 条約は1952年4月28日に発効していた。

8 イアン・ブルマ、『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(阪急コミュニケーションズ、1994年)。

9 Robert Barr Smith, "Japanese War Crime Trials," World War II (September 1996)。

10 Philip R. Piccigallo, The Japanese on Trial (Austin, TX: University of Texas Press, 1979)はBC級戦犯を取り扱っていた。

11 Materials on the Trial of Former Servicemen of the Japanese Army Charged with Manufacturing and Employing Bacteriological Weapons (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1950)。

18 1948年2月にオランダ人は、12名の日本人に対して、オランダ領東インドにある捕虜収容所に収容されたオランダ人の女性に対する強制売春について裁判を行っていた。Narrelle Morris, review of Yuki Tanaka, Japan’s Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution During World War II and the U.S. Occupation(New York: Routledge, 2002)、http://wwwsshe.murdoch.edu.au/intersections/issue9/morris_review.html/。

19 連合国翻訳通訳部、"Amenities in the Japanese Armed Forces," Research Report 120, 15 Nov. 1945, 9–20、Formerly Security-Classified Intelligence Reference Publications ("P" File) Received from U.S. Military Attachés, Military and Civilian Agencies of the United States, Foreign Governments and Other Sources,1940–1945, NA, RG 165, Records of the War Department General and Special Staffs, entry 79, box 342。

2 日本の戦争犯罪に対する証拠書類と研究:中間報告

ダーキン・ヤン

歴史家が問題を明らかにしその問題にアプローチする方法は、ほとんどいつも社会における政治的ないし知的状況によって影響されていた。そして歴史家が集めた証拠のタイプが結論の説得力を決定付けていた。証拠と未解決問題はあらゆる歴史家の仕事である史料編纂において2本の柱を形成していた。第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の研究も例外ではなかった。この章は、最近の成果を検証し、このような史料編纂が置かれた状況の中にこれらの仕事を位置付けていた[1]。特に、歴史研究における新たな証拠のインパクトや証拠書類の利用可能性に影響を及ぼす要因を研究していた。そうする中で、最近特に関心を集めているいくつかの歴史的なトピックにおける学問の現状を明らかにしていた。

意外な新事実と論争

利用可能な証拠書類は第二次世界大戦中の日本の戦争犯罪に対する何を明らかにしているのか。新たな文書の発見は歴史家の仕事に対してどのような影響を及ぼすのか。日本の戦争犯罪について多くの仕事はいくつかの大きなカテゴリーに分類される傾向があり、(1)アジア全体に対する日本の残虐行為、(2)捕虜や民間労働者に対する虐待、(3)戦時中の生物化学兵器プログラム、(4)いわゆる「慰安婦」と呼ばれる強制売春が挙げられていた。そして近年になって多くの歴史家が麻薬密売や財産の盗取のような他の犯罪活動を調査し始めていた。これらのカテゴリーはしばしば重なり合っていたけれども、それらは日本の戦争犯罪に関して公表された歴史の大部分を構成しており、注目するに値していた。

生物化学兵器プログラム

中国政府は日本軍が生物化学兵器を使用していたと繰り返し主張しており、東京裁判でその主張を繰り返していたが、その件は起訴されていなかった[67]。同様にアメリカ軍も日本の生物化学兵器に関心を抱いていた。しかしそのような兵器に関する軍事行動の性質を考慮すると、決定的な証拠を入手することは困難であった。生物化学兵器について東京裁判では一切日本人が起訴されていなかったけれども、一部の人々がBC級戦犯として他の場所で起訴されていた。実際、第39師団第231連隊長である梶浦銀次郎は、戦闘中に毒ガスを用いたことにより、1947年に中国の軍事法廷で終身刑の判決を受けており、ソビエト政府は生物兵器に関与した12名の日本人将校を起訴し、日本語、英語、中国語、朝鮮語を含むいくつかの言語で裁判の記録を実質的に公開していた[69]。その公表は満州で入手された日本の文書のコピーを含んでいたけれども、その裁判は国際的な関心を集めることに失敗しており、その信憑性は西側にとって疑問の余地が残るものであった。また中国、北朝鮮、ソ連は、日本が開発したものと類似していた生物兵器をアメリカが朝鮮戦争中に使用していたことを指摘していた。これらの指摘は冷戦時代のプロパガンダとして却下されていた[70]。

誰が生物兵器に対して責任を負うべきかといった問題は決定的な証拠を欠いていた。関東軍が人間を被験者にしており、その全体の軍事予算が非常に高額であった(当時の1千万円、現在の90億円)ことを考慮すると、一部の人々は、当時の人体実験について知っていたかどうかに関わらず、東京の軍部の中枢や裕仁が責任を負うべきであったと主張していた[85]。常石敬一のような日本の研究者は長らく戦時中の日本の医療関係者全体の共犯性を強調しており、それに関与した人々が日本で高い地位を独占することを許容してきた戦後の医療関係者の沈黙を批判していた。

他のトピック

アジアに対する残虐行為、連合国の捕虜や民間人に対する虐待、生物化学兵器、従軍「慰安婦」といった日本の戦争犯罪に関する4つの分野における研究に加えて、他のテーマが近年関心を集めていた。

アジアの占領地域における経済問題が日本で比較的よく研究されている分野であった。1945年に日本がベトナムから大量の米を徴用していたことが、ベトナム北部に大規模な飢餓をもたらしたことで知られており、約200万人の人々が亡くなっていた[112]。また日本の研究者は、香港のような占領地域に居住していた多くの人々の貯蓄を収奪した軍票の研究を行っていた[113]。日本の占領当局によって徴用されたと伝えられていた秘密資金がどうなったのかについては未解明のままであった。これについて全てが強奪されたものではなかったが、かなりの部分が略奪されたものであった。今日に至るまで東南アジアでは、隠された日本の財産に関する物語がなお反響を呼んでいた。人気のある歴史作家であるスターリング・シーグレイブやペギー・シーグレイブは、日本の天皇家がアジアの占領地域から金や他の財産を強奪していたとする組織(コードネーム「黄金の百合」)の存在を主張していた。多くの秘密文書を入手していたと主張していた著者たちは、多くの重要な秘密文書の秘密を解除することを拒絶したアメリカ政府を批判していた[114]。証拠を無視し、個人の証言に依存する彼らの傾向は、歴史家の視点によれば、著作の信頼性を損なっていた。

65 例えば、"Japanese Use the Chinese as ‘Guinea Pigs’ to Test Germ Warfare," Rocky Mountain Medical Journal 39, no. 8 (August 1942): 571–72。日本の歴史家である吉見義明がマッカーサー記念館で発見したアメリカの文書によれば、アメリカ陸軍の参謀総長が東京裁判の検察官に対して、毒ガスの使用は国際法に違反していないとの陸軍の立場を伝えていた。45 (December 2004): 23。

68 Zhongyang Dang’anguan et al., Xijunzhan yu duqizhan, 621–24。

69 Materials on the Trial of Former Servicemen of the Japanese Army, Charged with Manufacturing and Employing Bacteriological Weapons (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1950)。

70 この主張に関して、Stephen Endicott and Edward Hagerman, The United States and Biological Warfare: Secrets From The Early Cold War and Korea (Bloomington, Indiana: Indiana University Press, 1998)を参照せよ。他の人々は近年、その主張が共産主義者のプロパガンダであることを示すソビエト側の文書を例として挙げていた。New Evidence on the Korean WarやDeceiving the Deceivers: Moscow, Beijing, Pyongyang, and the Allegations of Bacteriological Weapons Use in Korea, Cold War International History Project Bulletin 11 (Winter 1998): 176–99を参照せよ。

85 吉見義明、伊香俊哉、『七三一部隊と天皇・陸軍中央』(東京、岩波書店, 1995年)、粟屋憲太郎、吉見義明、『毒ガス戦関係資料』(東京、不二出版、1989年)、吉見義明、松野誠也、『毒ガス戦関係資料II』(東京、不二出版、1997年)。

114 彼らは、裕仁が第二次世界大戦中に占領していた国々から数千億ドルの価値がある金、プラチナ、ダイヤモンド、美術品、宗教的工芸品、他の財産を組織的に略奪していたのみならず、アメリカの投資家を保護することを考慮して、戦争が日本を破綻させたことを強調し、全ての補償を行うことを免除させることを、元アメリカ大統領であるハーバート・フーヴァー‎や連合国最高司令官であるダグラス・マッカーサーと議論していたと主張していた。The Yamato Dynasty: The Secret History of Japan’s Imperial Family (New York: Broadway Books, 1999)やGold Warriors: America’s Secret Recovery of Yamashita’s Gold (London: Verso, 2003)を参照せよ。900MBの文書や他の証拠を含んでいる2枚のCD-ROMは購入可能であった。

3 日本の戦争犯罪に関してアメリカ国立公文書館に保存され最近機密解除された記録

ジェームズ・ライド

2003年5月にナチス・日本帝国政府戦争犯罪記録省庁間作業部会(IWG)は、日本帝国政府戦争犯罪情報公開法(JIGDA)の下で、機密解除され公開された約10万ページに対して体系的な調査を始めていた。特に調査は次の問題に関連した文書を特定することにフォーカスしていた。

・強制労働や奴隷労働とのあらゆる関連を含む、連合国の捕虜や民間人抑留者に対する日本の虐待

・戦時中の日本による生物化学兵器の開発及び利用、特に石井四郎中将の役割や731部隊によって行われた生物兵器の実験

・占領地から徴集され売春婦になることを強制された「慰安婦」を日本軍が利用していたこと

・戦犯裁判に関連した連合国の政策や、後に日本の戦犯に恩赦を与えた決定

アメリカ国務省の記録 - RG 59

IWGによって公開された国務省の新たな記録の分量は、前述のOSSファイルよりかなり少ないものであった。これらの記録は、タイで収容されたアメリカ人の捕虜に関連した国務省特別戦争問題部からのファイルを含んでいた。その記録は捕虜収容所における情報を与えており、戦争末期に移送された捕虜に関連した多くの資料を含んでいた。しかしこれらの新たな文書の多くは、RG 226といった記録の中ですでに利用可能なOSSレポートで構成されていた[33]。

最後に戦争犯罪に関連した特別報告は1950年代における日本の戦犯に対する恩赦について論じていたいくつかの文書を含んでいた。これらの大部分は、アメリカ国務省の高官と東京裁判における他のメンバーの代表者や時には日本の高官の間における会合に関連した会話のメモで構成されていた。ある文書は、裕仁や4名の大将をC級戦犯として裁くソ連の提案を扱う方法についてのオーストラリアの外交官との会話を要約した1950年2月におけるメモであった。アメリカ人やオーストラリア人の双方が戦争犯罪についての問題を除外することを望んでいると表明しており、議論の大半は、ソビエトが示す新たな証拠が何であれそれらを検証せずに、どのように東京裁判がソビエトの提案を除外することができるのかについてフォーカスしていた[37]。

33 例えば、OSS reports on Thai railroad traffic in NA, RG 59, lot file 58D7, box 89, folder: Americans in Thailand (location: 250/49/22/1)を参照せよ。

37 Memorandum of Conversation re: Soviet War Criminals Proposal, 8 February 1950, NA, RG 59, lot file 61D33, box 23, folder: War crimes–Emperor (Japanese) (location: 250/49/25/5)。

4 国立公文書館における日本の戦争犯罪についての記録:研究の皮切り

国立公文書記録管理局(NARA)のスタッフによる

ケーススタディ:日本の生物兵器プログラムに対する知見を求めて

1932年の日本の満州占領から1945年の降伏に至るまで、日本の科学者は動物や人間に対して生物兵器の実験を行っていた。隔離された秘密の軍事基地で、彼らは帝国政府から高度で大規模な支援を受けていた。強力な占領当局による支配の下で、多数の被験者に加えて、満州は人目から逃れることができる場所を日本の研究者に提供していた。

1945年11月1日に中佐であるマレー・サンダースによって行われた日本の生物兵器プログラムに対する戦後の最初の詳細な研究は、石井の指示で1930年代初頭に日本軍が大規模な生物兵器の実験を行っていたことを記していた。1935年に満州の日本人に対して生物兵器を使用していたと伝えられた後、もし戦争になればソ連が再度生物兵器を使用するだろうといったことを日本人は恐れていたとサンダースは記していた。彼はそのレポートを日本の関係者とのインタビューや実験記録に立脚しており、戦争中に破棄されたと噂されていた証拠書類に立脚していなかった。そうすることで、彼は日本の公式見解に近い見解を採用し、裕仁は人体実験を知らなかったと主張することによって、裕仁を弁護したいと願う人々の利益になるように行動していた。また彼のレポートは、日本の生物兵器に対する関与、人体実験については言うまでもなく行われた実験のタイプ、日本が開発した兵器の広がりの歴史を含んでいた[56]。

一方で日本の生物兵器に対する開発能力や犯罪行為に関するアメリカ側の知識の蓄積が拡大し続けていた。1947年8月に海軍情報局の技術情報センターは、日本が中国人の被験者に対して免疫に関する実験を行い、その細菌研究は平房区で行われていたと主張する"Naval Aspects of Biological Warfare"との表題のレポートを編集していた。特にこのレポートは、アメリカ人やロシア人の捕虜が血液サンプルを提供させられていた一方、死刑を宣告された満州の捕虜に対して不快な人体実験が行われていたことを主張していた。裕仁が石井による生物兵器の研究を支援していたと主張する戦後のGHQ/SCAPのレポートと反対に、このレポートは裕仁が石井のプロジェクトを禁止していたと述べていた[66]。

56 NA, RG 165, Records of the War Department General and Special Staffs, entry 488, New Developments Division, Security-Classified Correspondence, File of Dr. G. W. Merck, Special Consultant to the Secretary of War, 1942–46, box 181, file "Final Board Report" (location: 390/40/1/5)。

66 NA, RG 330, Records of the Office of the Secretary of Defense, Central Decimal Files, 1943–53, Confidential through Top Secret Subject Correspondence File, entry 199, box 103, folder CD 23-1-4 (3 of 7) (location: 190/25/17/7)。

8 CIAの個人別ファイル、アメリカ陸軍、占領下の日本におけるインテリジェンスが十分に機能しなかったこと

マイケル・ピーターセン

2005年の初めにCIAは、第二次世界大戦時の日本の有力者に関係しており、日本にあるアメリカ陸軍の情報部門の上層部によって監督されていた極東における大規模なインテリジェンスを明らかにする文書の機密を解除し、公開していた。日本の陸海軍の元将校によって指示され、緩く連携し、絶えず変化していた複数の諜報グループは、少将であるチャールズ・ウィロビーの指揮の下、GHQの情報部門であるG-2のために働いていた。アメリカの諜報部員は、アジアに対する欧米のヘゲモニーに反対し容赦ない戦争を計画し遂行した懲りない日本の保守派や軍の将校を、地域におけるアメリカの安全保障を高め、共産主義の台頭に抵抗するためのプロジェクトに従事させていた。そうする中で、反共産主義という最も曖昧な目標をアメリカの高官と共有し、しばしば変化し競合していたが本質的には保守強硬派のアジェンダを追求していたグループに対して、アメリカは物質的ないし金銭的な援助を与えていた。そしてさらに軍の情報部門によって直接的ないし間接的に採用されていた日本のエージェントは、過去において犯罪を犯していたか、もしくは犯罪を疑われる立場であった。

日本帝国政府戦争犯罪情報公開法以前には、日本の陸軍や海軍の将校に対するG-2の関与について断片的な証拠が存在するだけであり、社会的な地位のある右派と関連したG-2の活動を示す証拠書類は一貫性がなく、不十分であった。アメリカ国立公文書館記録管理局(NARA)にあるGHQ/SCAPについての記録に関する文書は、実質的に存在していなかった。証拠書類を欠く中で、歴史家は、軍事的なインテリジェンスに対する専門的な勘や協力者による記憶とインタビューに頼らざるを得ず、それらは話半分で、彼らは恥ずべき詳細において虚偽を申し立てる傾向にあった。それらは部分的に広範で正確な結論を引き出すことが可能であったけれども、文書が入手閲覧不可であったことは、それらの知見が推測に過ぎない可能性があることを意味していた。いわゆる「地下」組織に所属する多くの人物、彼らの資金源、秘密のオペレーションに関する詳細、それに関与した日本の有力者の巧みな二枚舌に関する詳細な議論は、手の届かないところに存在していた。彼らの仕事は、大きな注目を集めたナチスの戦犯のように、情報を集めるために、アメリカが戦犯や戦犯の疑いのある人々を利用していたことに対する実質的な評価を含んでいなかった[1]。

戦争犯罪の定義は一部の日本人にとって論争の対象であった。この章では、日本の戦犯は東京裁判で有罪と宣告された人々や他の軍事法廷におけるBC級戦犯として定義されていた[2]。他の軍事法廷におけるBC級戦犯は曖昧としており、過去において目立った戦争犯罪を犯していた人々や、連合国によってしばらく拘束されていた被疑者を含んでいた。占領当局はしばしば犯罪の容疑で他の軍事法廷におけるBC級戦犯のメンバーを拘束しており、時として証拠書類も存在していたが、多くの場合において拘禁者を起訴していなかった。その理由は多岐にわたり複雑であり、それは、戦後の国際政治、GHQ/SCAPの法務局が利用可能であったリソースが欠如していたこと、戦争から離れることを望んでいたアメリカの世論と比較して、それほど法的視点を考慮していなかったからであった。冷戦がアメリカの政策決定者の関心を集めていたので、裁判の対象であった人々はその関心から除外され、一方新たな証拠を集めることが年々困難になっていき、潜在的な被告も亡くなっていった。最後にこれに関連したカテゴリーは、例えば憲兵隊(日本の軍事警察)のように戦争犯罪で悪評を買った組織のメンバーや、A級戦犯を支援していた人々を含んでいた[3]。このような人々の大多数は告発されていなかった。特定の方法で、アメリカは問題を抱えながら全ての3つのカテゴリーにおける日本人の活動を支援していた。これらすべての人々がナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報公開法における関係者とされていた。

同様にCIAの文書は、冷戦初期の日本におけるCIAの作戦の拡大に対する理解を促しているため、注目に値するものであった。ダグラス・マッカーサー元帥は戦略情報局(OSS)やその後身であるCIAを軽蔑していた。マッカーサーの支援で、1950年までGHQの情報部門であったG-2はCIAが日本で自由に活動することを妨げていた[4]。しかしその年の初めまでに、CIAは、日本や他の外国機関のみならずG-2の活動をも監視する情報収集機関を組織し始めていた。日本におけるCIAのプレゼンスは急速に拡大し、冷戦が進行するにつれて深まり、占領が終了した1952年までに、CIAは日本における一大情報機関になっていた。この拡大に関する詳細の一部は現在でも追跡することが可能であった。

GHQ/SCAPとCIAの組織的な競合は、2つの組織の関係に大きく影響していた。CIAによって収集された情報に基づいていたため、以下の話はCIAの観点から語られており、G-2の関心、根拠、意思決定のプロセスを反映していなかった。それにもかかわらず、この文書のパッケージはこのテーマに関して利用可能な最大限の情報を提供していた。この章は、CIAが最近機密解除した文書や、アメリカ占領当局と、多くが過去において戦犯であり名を知られていたギャング、右派の元日本軍の将校、そして政治家とのインテリジェンスを通じた関係を明らかにしたことに対して部分的に評価を与えるものであった。文書は、冷戦初期の日本における道徳的にグレーな諜報活動に対する詳細な調査を提供しており、極東においてG-2によって利用されていた容疑がある人々を明らかにしていた。

ウィロビー、日本でのインテリジェンス、タケマツ作戦

第二次世界大戦を経て、元日本軍の将校や保守強硬派は、戦前の天皇制を維持し(アメリカの占領による制限の中でできる限り)、日本軍を再建するための緩やかなネットワークを形成していた。このネットワークは部分的には、終戦期の大本営の参謀本部第2部長であった有末精三によって形成されていた。1917年に精力的で抜け目のない有末は任官していた。1929年から1931年まで彼はイタリアのトリノにある陸軍大学に通い、さまざまなイタリアの歩兵連隊について学んでいた。1936年から1939年まで、有末はイタリア大使館付武官を経て大佐になっていた。1939年から1945年までに有末は数多くのポストを経験し、北支那方面軍参謀に属していた。彼は中将に昇進し、結局のところ大本営の参謀本部第2部長になっていた[5]。

G-2と異なる立場であるGHQ/SCAPの高官は有末がA級戦犯として起訴されるだろうと考えていた。イタリアでの武官として、彼は日独伊三国軍事同盟を巡る交渉において重要な役割を担っていた。事実、最近公開されたCIAの個人別ファイルの中にあるアメリカ陸軍の文書は、戦後一部の日本人が、なぜ「戦争の遂行に深く関与した」有末が逮捕されず、戦犯として起訴されていないのかについて疑問を感じていたことを明らかにしていた[9]。これらの文書によれば、有末は日本を破滅的な戦争に導いた天皇周辺の軍の将校グループにおける中心的な人物であった。東京裁判の検察側の重要証人であった田中隆吉少将は、「有末は三国同盟に関して[首相である]平沼の意思の背景にあった推進勢力であった」と述べていた[10]。

戦犯とインテリジェンス

秘密を保持することにおいて日本人の諜報部員や軍の関係者を利用することに対する作戦上の問題は多数存在していた。さらなる弊害は(戦争犯罪との関連の点で)これらの作戦から派生した問題であった。有末機関と河辺機関は、大きな犯罪活動によって戦時中の記録が傷付けられた多くの人々と大規模にコンタクトを取り、彼らの多くはG-2によって資金援助されていた作戦に関わっていた。CIAの個人別ファイルは、幾人もの有名な戦犯や戦犯を疑われた人々によって行われていた作戦をG-2が支援していたことを確認していた。直接ないし間接的に反共産主義を支持している日本人の傷付いた過去をG-2が見逃す用意があったことを、それらは明らかにしていた。児玉誉士夫と辻政信は、G-2がエージェントの過去を意図的に見逃した有名な例の内の2名であった。

辻政信

太平洋戦争で最も悪評を買い不起訴であった戦犯の1人をアメリカ側の諜報活動に採用したことに有末が責任を有していたことをCIAの文書は示していた。歴史家によって「狂信的なイデオロギーの指導者で残忍な参謀であった」と評される大佐である辻政信は、1930年に石川県で生まれていた[64]。1931年に彼は陸軍大学を卒業し、1939年の悲惨なノモンハン事件のときの関東軍の参謀であった[65]。彼は太平洋戦争前に大本営で有末と顔見知りになっていた[66]。辻は後に、バターン死の行進、中国、フィリピン、シンガポールの民間人の大虐殺、同様にシンガポール華僑虐殺事件を命じていたと評されており、日本がシンガポールを占領している間に死刑執行されたアメリカのパイロットを食していたと伝えられていた。CIAの文書は、辻がシンガポール華僑虐殺事件の拡大に関与していたことを示す多くの証拠を呈示しており、マレー半島で華僑を殺害する指令に連署していたことを示していた[67]。また戦争末期に日本軍を再興するための資金として、日本陸軍がフランス領インドシナから3トンの金を没収していた可能性を、アメリカの当局は調査していた。東南アジアに長くいた辻が部下にこの一部を分け与え、彼らにそれを連合国の目から隠すように命じていたことを、複数のレポートが示していた[68]。

1952年までに、辻はアメリカとの協調が日本を速やかに再軍備するための最善の方法であると確信しており、軍の元同僚からの非難に晒された立場にあった[82]。服部卓四郎はその中に含まれていなかった。児玉誉士夫達に支援された2人は日本独自の軍を再建する代わりにアメリカ軍の保護に依存する吉田茂の政策を快く思っていなかった。服部は、追放された人々や保守派に対する首相の反感を理由にして、吉田を長い間嫌っていた。1952年7月に服部は、吉田を殺害し、共感を覚える鳩山一郎や緒方竹虎を首相に据えるクーデターを目論んでいた。当初の熱狂にもかかわらず、辻は保守的な自由党が権力を握っている限り、服部がクーデターを思い止まるだろうと考えており、それは、日本で最も有名な戦犯の1人によって保護されたアメリカに対する最も忠実な政治的協力者という皮肉を子孫に残すことになった。それにもかかわらず、このグループは他の政府要人を殺害することを計画しており、吉田にそのメッセージを送っていた(216-217ページを参照せよ)[83]。1954年に鳩山は吉田を退陣させることに成功していたが、仮にそうだとしても服部や辻が吉田の退陣に対してどのような役割を担っていたのかについては不明であった。1952年に辻は国会議員に選出され、政治における華やかなキャリアが始まっていた。

占領後:CIAと日本のスパイ

1950年から1951年には、日本のインテリジェンスはすでに分裂していた。有力なインテリジェンスのリーダーの大半が有末と袂を分かっており、有末の気取った利己的な性格は多くの人々にとって阻害要因となっていたが、G-2と有末の頻繁なコンタクトが他の人々の上に彼を君臨させており、そのことは唯一の懸念材料であった。支持が徐々に減っていき、有末は、アメリカとの緊密な協力によって日本が再軍備することを主張し、G-2とのコネを獲得することによって、彼の影響力を維持することを望んでいた。この計画は裏目に出て、河辺とも疎遠になった。児玉誉士夫や渡辺渡のみが古いインテリジェンスを支えていた。

アメリカが日本の戦犯を採用したことはG-2に限ったことではなく、アメリカは社会的地位のある元軍人を積極的に利用していた。1950年代後半にCIAとコンタクトを確立した賀屋興宣は重要な例であった。賀屋は1937年の第1次近衛内閣の大蔵大臣であり、東條内閣で再度大蔵大臣に就任していた。彼は極東における日本のヘゲモニーの正当性を主張しており、真珠湾攻撃直前に「イギリスやアメリカを東アジアから撤退させること」が日本の目標であると公言していた[98]。戦後の東京裁判は、侵略戦争遂行に関していくつかの法廷と同様に、彼をA級戦犯として起訴し(戦争遂行に関する謀議)、終身刑を言い渡していた。1955年9月に彼は仮釈放され、1957年に恩赦されていた[94]。1958年に、保守的な日本人から支持されていた賀屋は国会議員に選出され、自民党(LDP)のリーダーになっていた。さらに彼は将来の首相である岸信介に最も信頼されたアドバイザーの1人であった。彼は国会議員に選出された直後に、自民党の安全保障調査会に加わっていた。反共産主義者である賀屋はその役割を完全にこなしているように思われていた。彼は日本の国家安全保障に関する問題に深く精通しており、釈放直後に、アメリカと日本の同盟関係の強化を主張していた[95]。

1959年の2月に賀屋は、国務省や海軍の政策立案に関する部局を含むいくつかの政府機関出身の議員と日本の安全保障について議論するために、アメリカに渡航していた。特に賀屋はCIA長官であるアレン・ダレスに会うことを望んでいた。日米安全保障条約を改定することに対する日本の世論を考慮すると、彼の海外視察は日米関係における敏感な点を扱っていた。CIAによれば、国際情勢に精通しており、アメリカとの協調を歓迎しており、自民党内で最も影響力の大きい政治家の1人であった賀屋は、潜在的に一流の情報提供者であった。しかしCIAはA級戦犯が中央情報長官(DCI)と協議することについて当然のことながら敏感になっていた。彼らは「賀屋が公職に復帰してから適切に振舞わない」恐れはほとんどないと判断していた[96]。1959年に彼を直接インタビューした後で、日本におけるCIAのエージェントは、賀屋は「大きな影響力を有し、精力的であり、おそらくそれ以上の存在になるだろうし、動機が何であれ、彼が公言していたアメリカ支持の姿勢は十分に真実味があった」と述べていた[97]。

1959年2月6日に日本大使館付書記官に随行された賀屋は、中央情報長官(DCI)の執務室を訪問し、日本は共産主義の浸透に関して脆弱であり、共産主義の浸透に対する抵抗を成功させることが仕事であるとダレスに述べていた。賀屋は、CIAと自民党の安全保障調査会との間でインテリジェンスを共有することをダレスに依頼していた。ダレスは異論を唱えていたが、その提案をCIAは日本で共産主義が浸透することを妨げる支援になると考えていた。その会合において「皆が、反体制運動に関してCIAと日本人が協力することは最も望ましいことであり、このテーマはCIAにとって大きな利益の1つであったことに合意していた」ことが確認されていた。また、その協力に関連した細目が実際に作成されるべきであり、それに従って日本におけるCIAの工作が通知されることに、双方が合意していた[98]。賀屋は、共産主義の脅威を取り除き、日米関係を強化するための取り組みにおいて成功を収めていた。

ダレスは個人的に主導して、賀屋をCIAの情報提供者にしていた。その6ヶ月後の8月に、彼は賀屋に機密扱いの手紙を送り、日本の政治家に対するCIAのコミットメントを確認していた。その中でダレスは、日米関係を良好に維持するために行う「全てのことについて懸念がある」と述べていた。特に彼は「両国間の関係に影響を及ぼす国際情勢や日本の状況の双方に対するあなたの考えを知ることに私は非常に関心を抱いている...」と記していた[99]。11月にCIA本部はダレスの手紙の後に、賀屋の活動の進捗や、それを背景にしてエージェントが政治家と共に活動することに対して関心を抱いているのかどうかについて照会を行っていた[100]。しかし8月から11月にかけて日本のCIAは賀屋について考えを改め始めていた。

1960年代初頭までに日本における諜報部員は、賀屋を以前に考えていたほど信頼できない人物として結論付けていた。1959年の夏から秋にかけて、彼らは諜報活動を通じて賀屋を詳細に観察しており、彼が以前ほど影響力を有しておらず、深刻な火種になるかもしれないことに気付いていた。彼らは、なぜ彼らが賀屋を利用したくないのかについて、中央情報長官(DCI)を含む上層部に説明することを気詰まりな仕事であると考えていた。

[賀屋との]最近のコンタクトの中で、[賀屋が]非常に強く手前味噌を述べ、どれほどよく東西間の緊張を理解しているのか、どのように彼が「1人で」安全保障条約の改定の裏で自民党全体を操縦することができるのかについてアメリカ側を感心させようとする傾向があることに私たちは気が付いていた。私たちが現代の[議会政治]の機微や政治活動の方法を理解していると考えている「保守的な」政治家として、[賀屋は]堂々とし過ぎていた...これを記している時点で私たちは、この関係から生じるさまざまなことについて楽観的になれなかった。

日本のエージェントは、賀屋とのコンタクトは彼らの主導によってのみ続けられるべきであり、彼を情報提供者として活用するべきではないと判断していた[101]。

このエピソードの後、1961年の香港でCIAは賀屋と偶然会合することになったが、1964年中頃まで彼に対してさらなる関心を抱くことはなかった。その年の夏に情報部門は日本において左派の脅威と見做しているものについて議論するために、仲介者を通じて彼とコンタクトを取っていた。この時点で賀屋を評価していたCIAのエージェントは、賀屋は「非常に信用でき安全保障についての意識があり、この評価に対する証拠は、第二世界大戦以降の日本の政治スキームの中で、彼が行ってきた指導的な役割の中に見出される」と主張していた[102]。CIA本部はこの評価を認め、1965年12月に彼を利用する作戦上の権限を与えていた[103]。3年後にCIAは、首相である佐藤栄作が掌握していた自民党のアドバイザーであった賀屋が自民党の情報を収集することや沖縄の選挙に反対する秘密活動を受け入れる可能性があり、彼に対するコンタクトがこれらの目的に一致する形で継続されるだろうといったことを報告していた[104]。不幸にもこの点について賀屋の活動に関して利用できる文書はこれ以上存在していなかった。1975年に、活動的でなくなったことを理由にして、CIAは賀屋を利用する作戦上の権限を取り消していた。そしてその2年後に彼は亡くなっていた。

日本における情報収集の教訓

CIAによって公開された個人別ファイルは冷戦初期の東アジアにおける情報収集についてかなりの程度を明らかにしており、このテーマについて記された歴史家の結論を確認していた。そして諜報活動を行った日本人がアメリカの利益と関係していない動機を有していたことは驚くべきことではなかった。不幸にも、ヨーロッパでクラウス・バルビー、オットー・フォン・ボルシュビンク、ラインハルト・ゲーレンを利用していたアメリカ陸軍の情報部門が、戦犯や戦犯を疑われた人々を利用して極東で情報を収集していたことに驚きはなかった。意図的にヨーロッパと極東の間でインテリジェンスを利用していたことに対する証拠は存在していなかったが、双方の地域において共産主義の拡大に対する恐怖が道徳的ないし政治的関心を煽っていたことは明らかであった。

とりわけGHQは安定を必要としていた。諜報部員を利用することにおいて、G-2は社会的地位のある日本の保守派をターゲットにしており、それはウィロビーたちが諜報活動が可能であると考えていた唯一のグループであった。日本のスパイはもちろん諜報活動にとって不可欠であったが、CIAの見方によれば、G-2の将校は、作戦に対するリスクや重要性に関わらず、あらゆる潜在的なスパイを利用する意思を有していたように思われていた。そのような人々を広く利用したことはアメリカの諜報活動に対して数多くの問題をもたらしており、その全てが当時明確に理解されていた訳ではなかった。

日本に対するCIAの個人別ファイルは、過去において疑問が残る情報提供者について情報部門の考えを示していた。CIAのアナリストは、アメリカの利益に反している限り、そのような間違った結果を日本人にでっち上げさせるさまざまな動機や、諜報活動の結果に対する懸念を示していた。G-2が採用した日本人の情報提供者に対するCIAの批判は、関与した個人が戦犯や戦犯を疑われた人々であったことではなく、彼らが間違った情報を渡していたことにあった。CIAのアナリストはアメリカの利益に反する日本人について政治思想、イデオロギー、個人的な仔細をすぐに確認していたが、過去の犯罪者や潜在的な情報提供者に対しては穏やかに懸念を表明する程度であった。事実、彼らは、評価の対象になった情報提供者の潜在的な犯罪行為について僅かな評価しか与えていなかった。日本人の工作員の過去を無視することによる潜在的な安全保障上のリスクは、さらなる研究を行う価値を残していた。

この新たな情報にもかかわらず、政策形成、諜報活動、犯罪行為といった分野におけるいくつかの基本的な問題は未解決のままであった。これらの関係が、日本政府と平和条約を交渉していたときのGHQ/SCAPの長期的な諜報戦略にどのように影響していたのかはまだ明らかではなかった。この文書における状況証拠は、ウィロビーが重要人物である日本人を戦犯として逮捕させることを妨げていたことを示唆していた。もしウィロビーが実際に戦争犯罪の調査を妨害していたならば、何かあるならば、何をCIAはそれについて知っていたのか[105]。CIAの個人別ファイルは、1950年代から1960年代にかけて首相になり戦犯を疑われていた岸信介のような社会的な地位のある右派とCIAがどのように関係していたのかについて僅かのことしか明らかにしていなかった[106]。どの程度CIAが犯罪者や犯罪者に類似した人々とコンタクトを取っていたのかについては隠されたままであり、これらの関係がインテリジェンスにもたらす恩恵も隠されたままであった。また文書は、どのように朝鮮戦争が戦争犯罪に対するCIAの態度に影響を及ぼしていたのかについても明らかにしていなかった。しかし、これらの問題に対する疑問を残していたけれども、ナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報公開法の下でCIAによって公開された記録は、冷戦初期の日米関係に関するテーマに対して広範で新しいアプローチを取る可能性を示唆していた。

1 例えば、Stephen Mercado, The Shadow Warriors of Nakano: A History of the Imperial Japanese Army’s Elite Intelligence School (Washington, DC: Brassey’s, 2002)、マイケル・シャラー、『アジアにおける冷戦の起源――アメリカの対日占領』(木鐸社、1996年)、竹前栄治、『GHQ』(岩波書店、1983年)、John Welfield, An Empire in Eclipse: Japan and the Postwar American Alliance System, A Study in the Interaction of Domestic Politics and Foreign Policy (Atlantic Highlands, NJ: Athlone Press, 1985)、Richard Breitman, et al., U.S. Intelligence and the Nazis (Washington, DC: National Archives Trust Fund Board for the Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group, 2004)を参照せよ。

2 東京裁判や他の軍事法廷による戦争犯罪の定義は一部の人々にとって論争の対象であった。これは特に東京裁判におけるA級戦犯に対して当てはまっていた。歴史的な論争は当然如く裁判所における起訴を巡って生じており、特に侵略戦争を遂行した謀議に対する告発が例として挙げられていた。確かに被告の選定はある意味で物議をかもす独善的なものであったが、法廷による決定は、当時の時代背景を考慮すれば、軍事法廷に対する証拠について容認された基準に基づいて合意されており、ドイツにおけるニュルンベルク裁判をモデルにしていた。東京裁判は多数の問題を抱えていたが、法的問題として捉えるならば、有罪を示す証拠が起訴手続きに基づいている限り、その結果は合法的であった。不法行為には広範な前例があり、容易に犯罪であると識別できるB項やC項に対する被告の裁判は、同じレベルの批判を誘発していなかった。ジョン・ダワー、『昭和――戦争と平和の日本』(みすず書房、2010年)、461-469を参照せよ。

3 確かに、アジア太平洋地域で日本人によって行われた犯罪の大半は正規軍の人員によって行われていたが、憲兵隊は中国やマレー半島で犯罪行為を犯したことで悪評を買っていた。また多くのアメリカの捕虜は侮蔑しながら彼らを取り扱った憲兵隊のメンバーを思い出していた。日本の憲兵隊について多くの研究が存在していたけれども、英語の学術文書は利用不可能であった。

4 竹前、英語版の167ページ。

5 Arisue Biographical Sketch, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 7, folder: Arisue, Seizo。

9 G-2 Intelligence Section Notes, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 7, folder: Arisue, Seizo。

10 Tanaka Ryukichi Statement, NA, RG 331, International Prosecution Section, entry 319, numerical case files, box 31, folder: Cases 155–159。また田中は有末が中国でのアヘン貿易に関連していたと考えていた。皮肉だが、田中は戦後の諜報活動を行うために有末と緊密に行動していた。

63 児玉に関するCIAの個人別ファイルの中の文書は、CIAが児玉達を通じたロッキード事件に気付いていたのかについて明らかにしていなかった。

64 ダワー、『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』の原著の511-512ページ。

65 Saburo Hayashi and Alvin Coox, Kogun: The Japanese Army in the Pacific War (Quantico, Va: The Marine Corps Association, 1959), 238。

66 ダワー、『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』の原著の511-512ページ。

67 CIA Report, date unclear (likely April 1952), in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。おそらく日本に抵抗する5,000名から25,000名の中国人やマレー人がシンガポール華僑虐殺事件で殺害されていた。

68 Gold, 22 May 1946, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu Vol. I。

69 Undated CIA Report, in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu, Vol. I。

70 CIA Report, date unclear (likely April 1952), in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。

82 Japanese I.S. Personalities, 9 March 1951, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu。

83 Coup d’etat Allegedly Being Planned by Ex-Militarists and Ultranationalists, 31 October 1952, Activities of Hattori Takushiro, 10 December 1953, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。

95 CIA Cable 7082, 22 January 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori. ishi had been imprisoned from 1945 through 1948 on suspicion of war crimes。

96 CIA Cable 26893, 22 December 1958, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

97 CIA Cable 7144, 27 January 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

98 Memorandum for the Record, Visit of Mr. Kaya Okinori, 6 February 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

99 Dulles to Kaya, 13 August 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。賀屋の政敵がその関係に気付いたときの政治的影響を恐れて、CIAは賀屋に対して手紙を返すように求めていた。

100 Dispatch, Acting Chief Far East to Chief of Station [redacted], 10 November 1959, Posonnet/1 NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

101 Dispatch, Chief of Station [redacted] to Chief, Far East Section, Posonnet/1, 12 January 1960, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

102 CIA Personal Record Questionnaire (PRQ), 22 November 1965, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

103 CIA Memorandum, Chief, Far East Division, 6 December 1965 NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

104 CIA Report FJTA 55122, 25 September 1968, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。当時北ベトナムへのB-52による爆撃において重要な地域にあった沖縄は、日本への返還に対する議論で混乱していた。

105 事実、ウィロビーの指示に基づき、G-2は、ドーリットル隊のパイロットを死刑にする指示に署名し戦後にアメリカに協力するスパイになっていたと伝えられていた下村定を擁護していた。G-2は日本で下村を逮捕させるために中国での取り調べを妨害し、彼が収監された後に彼の釈放を主張し、その後すぐ彼を釈放させていた。Shimomura’s file in NA, RG 319, Assistant Chief of Staff, G-2, Intelligence, Records of the Investigative Records Repository Personal Name File, entry 134B, box 211, folder: Shimomura, Sadamuを参照せよ。

106 この疑わしい関係に対する報道が1994年後半にアメリカで公開されていた。1994年10月9日のニューヨーク・タイムズ紙の"C.I.A. Spent Millions to Support Japanese Right in 50s and 60s"、「(邦訳)50年代、60年代に、CIAが日本の右派に対して数百万ドルを支援していた」を参照せよ。現時点で文書による証拠は確認されていなかったけれども、CIAと国務省の元高官はCIAと自民党の間の関係を認めていた。

ミシェル・フェルネックスによれば、福島では汚染された地域においてチェルノブイリ以上に遺伝子の損傷が存在しているとされていた。

UNSCEARと異なり、多くの科学者たちは公式に発表された推定値やUNSCEARの委員長の見解を信じることはなかった。オーストリア気象地球力学局によれば、事故が生じてからの10日間におけるヨウ素131やセシウム137の放出量は、チェルノブイリと比較すると、それぞれ73%前後、60%前後と推定されていた。また憂慮する科学者同盟(UCS)は、格納容器が破壊されていなくても、放射性物質の膨大な放出が起こり得ることを指摘していた。

被曝の基準値は当初は6,000cpmに設定されており、検査を受けた162名の内、41名がこの基準値を超えていたが、除染処置を施すために実際に適用された基準値を13,000cpmに引き上げることによって、除染処置を施す必要がある住民の数を5名に減らしていた。そして3月20日に日本政府は除染処置を施すための基準値を100,000cpmにすることを表明し、検査を受けた福島県民198,676名に関して、基準値を超える住民の数を102名に減らしていた。

福島県は、原発周辺の12の市町村を対象にして、住民の外部被曝に対する推定値を示しており、その推定値が0.84mSvから19mSvの間にあり、飯舘村で最大であったと述べていたが、ジャパン・タイムズ紙は、危機の後しばらくしてから、避難することを決定したことが遅すぎた決断であったと結論付けていた。

被曝によるものではないが、2013年3月時点で施設における25,000名の作業員のうち、7名の死亡が確認されていた。そして福島第一原発の事故による死亡者数は5名以下であり、汚染地域の避難による死亡者数は40名から50名の間であり、事故による深刻な負傷者や20mSv以上の被曝による負傷者の数は20名以下であり、軽度の負傷者や20mSv以下の被曝による負傷者の数は100名以上1,000名以下であり、居住地を移動した人々の数は20,000名以上50,000名以下であった。

20mSvの基準値は、緊急事態を除くカテゴリーAの放射線業務従事者に対するフランスの労働法典(R4451-12条、R4451-13条、D4152-5条、D4153-34条)に基づく12ヶ月間連続で許容される実効線量の最大値であった。

60名に及ぶ寝たきりの人々が20km圏内の避難によって亡くなっており、2012年8月に公表された研究によれば、34名の主な死因が避難を強制されたことによるストレスであったことを示しており、多くの高齢者が生活環境の変化に悩んでいた。マルコム・グリムストンによれば、これらの知見はスリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故によって示されていた事実と一致していたが、この主張は甲状腺癌やリクビダートルに見られる死亡者数を除外していた。

他方で20km圏内の避難によって、約30,000頭の豚、約60,000頭の鶏、10,000頭以上の乳牛が放棄されていた。5月19日にレスキュー隊は、群れを成していた犬や猫を除いて、動物を救助するために避難区域に立ち入ることを許されていた。

3月27日にTEPCOは2号機の建屋のたまり水を分析しており、たまり水が29億Bq/ccに達しており、これはリアクター内を循環する水に含まれる放射性物質の1千万倍であることを示しているとしていたが、後にヨウ素134の測定値はその1000倍であったと訂正していた。そして日本政府のスポークスマンは、世論にパニックをもたらしたこの間違いについて、容赦できない不手際であったと言及していた。

枝葉末節にこだわった報道とは別に、このエピソードはTEPCOがそれまでに無視されていた水質や土壌の汚染の程度に意識を向けていたことを示しており、表面的には重要な問題を取り上げる方向性を示していた。

3月28日の発表によれば、土壌サンプルがプルトニウム238、239、240の存在を示しており、それは1945年から1964年までの核実験の結果堆積したものであるとされていたが、プルトニウム239や240に対するプルトニウム238の比率が高かったため、TEPCOによれば、それらは福島原発事故由来であるだろうと結論付けられていた。そして官房長官によれば、同位体の組成が3号機で用いられているMOX燃料と一致していたとの指摘があり、4月27日に公表された分析はそのことを確認していた。

3月13日に原発から2km圏内の空間線量率は平均値の約800倍であり、0.1mSv/hと測定されており、原発から数km圏内がすでにイエローゾーンであったことを含意していた。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会のジャーナリストによれば、2km圏内の測定値は10mR/hから100mR/hであり、それは0.1mSv/hから1mSv/hを示していた。

IRSNは、3月12日の爆発が多量の放射性物質を放出したことに対する懸念を示していたが、日本の首相によれば、それらが大量であることを示す証拠はなく、チェルノブイリ原発事故とは根本的に異なるとされ、NHKの英語放送によれば、0.17mSv/hの空間線量率が原発の北西30km地点で測定されていた。

チェルノブイリのプルームがフランスに最初に到達したときに0.6Bq/m³から4.2Bq/m³と測定されていたことを比較の対象にすると、群馬の高崎観測所によれば、3月15日に15Bq/m³に及ぶ放射性核種が検出されていた。東京では100Bq/m³以上の放出に対応する0.809µSv/hの空間線量率が一時的に検出されており、神奈川では通常の9倍の放射性物質が検出されており、千葉では10倍であった。そして夜まで続いた北部から北西部へのプルームの流入が東京周辺を放射性物質で汚染しており、汚染は通常の10倍の約0.3µSv/hに達していた。

IAEAのチームによれば、3月24日に浪江町で161μSv/hの空間線量率が記録されていた。この空間線量率で25日間被曝した住民の累積被曝線量は100mSvであり、世界で一番自然放射線量が高いイランのラムサールにおける140µSv/hと比較されることがあったが、クリラッドは被曝する可能性がある住民の防護のために警告を発していた。そして外的には皮膚や髪を通じ、内的には空気の吸入や消化を通じた被曝を考慮しており、大気に混じった放射性物質は風に乗って仙台や東京よりはるかに遠い地域に拡散していった。

3月21日に、南西方向の弱風によって、東京の大気中におけるヨウ素131による汚染のレベルは15.6Bq/m³に達し、セシウム137による汚染のレベルは6.6Bq/m³に達していたが、汚染のピークは3月15日であり、ヨウ素131は241Bq/m³であり、セシウム134は64Bq/m³であった。

クリラッドによれば、IRSNによる報告は実際の汚染のレベルを過小評価しており、それは、IRSNによって採用された検出技術が気体化したヨウ素を検出できず、気体化したヨウ素が福島原発から放出された汚染物質中に存在する放射性ヨウ素の大部分を占めていたことを理由にしていた。クリラッドはエアロゾルの分析が実際の大気中の放射性物質の量を過小評価していると考えていた。

TEPCOの分析によれば、4月6日から28日にかけてエアロゾル中の放射性物質が安定的に減少していたが、11月から12月にかけてヨウ素131が日本の複数の県で検出されていた。ヨウ素131はすぐに崩壊してしまうため、このウランの核分裂生成物である放射性同位体の存在は、原発で再臨界が生じていたことを示唆していた。

長期的に、放射性核種は太平洋の中央や南太平洋の西部にまで広まると考えられており、最大で10年から20年間残存する可能性があり、大西洋の南部はその拡散の影響を逃れるだろうと考えられており、日本原子力研究開発機構によれば、3月21日から4月30日までに15TBqのセシウム137やヨウ素131が太平洋を汚染しており、その希釈は2018年までかかるだろうと考えられていた。

ジャン・クロード・ゴデによれば、汚染地域は20km圏外に広がっており、日本政府が数十年にわたってその汚染を管理する必要があり、大気の状態に基づくと、汚染地域は数百km圏に拡大しているだろうとの指摘が存在していた。そして放射性物質による汚染は数世紀にわたる問題を残すだろうとの指摘が存在していた。

原発の北西部40km地点における土壌サンプルは、セシウム137による16.3万Bq/kgに及ぶ深刻な汚染を示しており、これはイエローゾーンが30kmの避難区域外に拡大していたことを示していた。

3月12日の朝に避難区域は10km圏に拡大し、45,000名の住民に対して避難指示が出されており、3月12日の夜にそれが20km圏に拡大し、IAEAによれば、10km圏内の30,000名以上と20km圏内の約110,000名が避難を行なっていた。マリー=ピエール・コメによれば、避難区域が70km圏に拡大する可能性が存在していた。3月25日に日本政府は30km圏内から避難することを指示していたが、リスクに対する同心円状のアプローチは実際の放射性物質の分布を反映していなかった。

文科省によれば、100km圏内に関して30ヶ所以上の敷地が148万Bq/m²以上のセシウムで汚染されていたことが指摘されており、その地域に居住することはチェルノブイリでは許されていなかった。また132ヶ所の敷地が55万Bq/m²以上のセシウムで汚染されており、それはチェルノブイリにおいて自主的な避難や農業の禁止を促すための基準値であった。しかしこのレポートは避難区域に関する新たな情報を与えるものではなかった。

経産省による除染の方針は2年間で汚染の50%から60%を減少させることを目標にしていたが、それはセシウム134の半減期と一致した削減目標であり、その目標の効果に対して、ジャパンタイムズ紙は懸念を示していた。

世田谷のようなホットスポットに関して、放射性セシウムをケルヒャーによって洗浄することは完全ではなく、洗浄されたセシウムの一部は大気中に再び戻り、土壌や排水口を汚染していた。また11月に田中俊一は日本政府が立入禁止区域を除染する手順を示していなかったことを批判しており、住民が立入禁止区域に帰還するタイムテーブルも存在していなかった。

ノータムによれば、原発から20km圏内の航空交通は制限されており、3月16日に多くの大使館が自国民を避難させるための勧告を出し、突発的なパニックに対する懸念を強調していたが、日本政府は東京に在住する日本人に対する避難の手順を考慮していなかった。

イギリス政府内で交わされた電子メールによれば、フランス電力会社、アレバ社、ウェスティングハウス社からの援助によって、世論に対する福島原発事故の影響を最小限に抑えることが確認されており、新たに原発を建設する協定に署名する準備が行われており、アンディ・マイルズは当時のエネルギー・気候変動大臣のクリス・ヒューンに辞任を求めていた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランスのWikipediaの「福島原発事故による公衆衛生に対する影響」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Conséquences_sanitaires_et_sociales_de_l'accident_nucléaire_de_Fukushima

福島原発事故による公衆衛生に対する影響

2011年3月11日にマグニチュード9の地震が東北地方の太平洋沿岸を被災させ、福島原発事故をもたらしていた。原発のプラントは損傷を受け、冷却システムが故障し、原子炉格納容器が破壊され、封じ込めに失敗し、放射性物質が全部ではないにせよ大気中に放出されていた。この事故は日本の公衆衛生に対して甚大な影響をもたらしていた。さらに海洋への放射性物質の放出が国際的な懸念材料になっていた。

日本の原子力安全委員会の推定によれば、この事故はチェルノブイリ原発事故で放出された放射性物質の10%と同量の放射性物質を放出していた。ヨウ素131は1.3×1017から1.5×1017Bqの間(チェルノブイリでは1.8×1018Bq)、セシウム137は6.1×1015から12×1015Bqの間(チェルノブイリでは8.5×1016Bq)であった[1]。20km圏内では約11万名の人々が避難していた。

1 放射性物質の放出の影響

福島原発事故は1986年のチェルノブイリ原発事故以来世界で最悪の原発事故であるとメディア上で考えられていた[2][3][4]。

日本の原子力安全委員会の推定によれば、この事故はチェルノブイリ原発事故で放出された放射性物質の10%と同量の放射性物質を放出していた。ヨウ素131は1.3×1017から1.5×1017Bqの間(チェルノブイリでは1.8×1018Bq)、セシウム137は6.1×1015から12×1015Bqの間(チェルノブイリでは8.5×1016Bq)であった[1]。20km圏内では約11万名の人々が避難していた。

同様の放出量に言及しているクリラッドは、チェルノブイリ原発の放出量や福島原発の真の放出量が何であれ、上記の推定値は迅速に住民を防護するために十分な意味を有していたと考えていた[5]。

医師であるミシェル・フェルネックスは「チェルノブイリ以上に福島では汚染された地域において数多くの遺伝子の損傷が存在している」と述べていた[6]。

UNSCEARの委員長は、福島がチェルノブイリ[7]と異なるのは放射性物質の放出量が少量であり、風がプルームの大部分を海洋上へ押し流していたことを考慮しながら、健康に対する影響を検討していた。

しかしながら多くの科学者たちは公式に発表された推定値やUNSCEARの委員長の見解を信じることはなかった。たとえばオーストリア気象地球力学局は、事故が生じてからの10日間における放出量が同じ期間のチェルノブイリと比較するとヨウ素131がその73%前後でセシウム137がその60%前後であったと推定していた[8][9][10]。同様にオーストリアのレポートに言及している憂慮する科学者同盟(UCS)は、災害と呼ぶことが明白である原発事故の影響は健康に対して深刻で受け入れがたいものであり、格納容器が破壊されていなくても、放射性物質の膨大な放出は起こり得ることを指摘していた[11]。

さらに2011年6月1日にその測定結果が、1号機周辺がチェルノブイリのデッドゾーンと同様の汚染レベルに達していたことを示していた[12]。

4月初旬に原発事故の社会経済的影響はさらに痛ましい状況を示していた[13]。プラントから20km圏内の避難区域の住民は避難しており、20kmから30km圏内の住民は屋内退避しているか「自主避難」していた[14]。他方で環境汚染によって多くの県(特に首都の北西部)で牛乳・乳製品、他の農産物、海産物を出荷制限しなければならなかった。その後不安から卸売業者や消費者はそれらの地域からの農産物を避け、そのことは農家の生活手段を奪っていた[15]。福島原発から最も近い市町村(特に飯舘村)では、住民は国からの援助や最終的な退避勧告を待ちながら数週間生活することになっていた[16][17]。4月11日に退避勧告が出され、その後住民は福島から「離れる」ことになった[18]。

2 避難区域の生活

2.1 人間に対する影響(経過)

3月12日にTEPCOは福島第一原子力発電所の2名の社員が行方不明であることを発表していた[19]。彼らは地震直後に4号機のタービン建屋を点検しに行っていた。彼らの遺体は4月3日に発見されていた[20][21]。福島原発では4名の社員が地震によって負傷していた[22]。福島第二原発ではタワークレーンの事故で協力会社に所属する1名が亡くなっており、1名が軽傷を負っていた[23]。

2011年3月12日に危険に晒されていた複数の自治体が避難していた。

3月12日に福島第一原発で、1号機で作業していた作業員(TEPCOは格納容器内の圧力を低下させようとしていた)が106mSvの被曝をしていた[24]。午後に1号機の上部で爆発が生じたことによって、2名の社員と2名の協力会社の社員が負傷していた[25]。

3月14日の月曜日にTEPCOは、午前遅くに3号機の爆発によって7名が行方不明になり、その内6名が自衛隊員であり、3名が負傷していたと発表していた[26]。行方不明者はその後発見され、人数の詳細に関して、11名が負傷しており、その内4名が社員であり、3名が協力会社の作業員であり、4名が自衛隊員であったことが確認されていた[22]。3月12日の午前中に日本政府は危険ゾーンにおける放射性物質による汚染の可能性をスクリーニングする措置を講じていた。住民はガイガーカウンターで検査され、必要ならば除染処置を施されていた。2011年3月15日にIAEAは、約150名の人々がすでに検査を受け、23名について除染処置を施さなければならなかったことを報告していた[27]。検出された被曝は30,000cpmから100,000cpmのオーダーであった[28]。

日本政府は除染の基準を短時間で処理しなければならなかったので、これらの基準値は注意深く解釈される必要があった。たとえば大熊町の検査センターでは被曝の基準値は当初は6,000cpmに設定されていた。検査を受けた162名の内、41名がこの基準値を超えており、理論的には除染処置を施す必要があった。それゆえ除染処置を施すために実際に適用された基準値はその2倍以上の13,000cpmに引き上げられ、そのことは除染処置を施す必要がある住民の数を5名に(41名の代わりに)減らすことを許容していた[29]。3月20日に日本政府は除染処置を施すための基準値を100,000cpmにすることを公式に表明しており、それは当初の数字の16倍であった。100,000cpmにかさ上げされた基準値に基づき、6月8日までに検査を受けた福島県民198,676名に関して、わずか102名しか基準値を超えておらず、彼らは靴を履いていたので、靴を脱ぐと、除染の基準値を超える住民は1名も存在していなかった[30]。

その後3月17日の官房長官記者会見の後に、IAEAは被曝した人々のリストを明らかにしていた[31]。17名の作業員、2名の消防士、2名の警官がわずかに被曝しており、特に1名の作業員が高い線量の被曝をしていた(3月12日に炉内の圧力を低下するために106mSv被曝をしていた)。3月22日から23日までに電源を回復するために作業していた2名の技術者が相次いで負傷していた[32]。3月24日の木曜日には新たに深刻な被曝が生じていた。3号機タービン建屋で作業していた3名の協力会社社員が線量計のアラームを無視しており、170mSvから180mSvの被曝をしていた(胸部の線量計によって与えられる全身に対する計測値)。3名のうち2名の両足に熱傷の症状が見られていた。彼らは深さ17cmの高い線量の汚染水の中で作業しており(3.9×106Bq/cm³であり、表面では400mSv/hであった)、汚染水は靴の中に入り込んでいた[33][34][35]。両足に対する被曝は2Svから3Svと推計されていた[36][37]。彼らは千葉にある放射線医学研究所に搬送され、3月28日に退院していた[38]。

日本の専門医は被曝の可能性に対する予防として福島の作業員の造血幹細胞をストックしておくことを求めていた[39]。3月11日から25日までにTEPCOは25名の負傷を発表していた[40]。2011年4月12日に原子力安全委員会は21名が100mSv以上の被曝をしていたことを公表していた[41]。

4月12日に、避難すること決定し、村を離れることにした飯舘村の最高齢の方が102才で自殺していた[42][43]。原発事故と関連している他の自殺者は2名の農家を含み、そのうちの1名は遺書を残していた。「私は原発がなくなることを望んでおり、疲れ果てていた。」[44] 川俣町から避難していた女性は避難生活に疲れ切っていた[45]。より一般的に言えば日本は原発事故や津波の結果として[46]自殺者数が著しく増加することを恐れていたが、その恐れは不幸にも現実のものとなっていた[47]。

2011年4月28日にTEPCOは作業員が17.55mSv被曝していたことを発表していた(女性に対する線量限度は3ヶ月で5mSvであった)[48]。5月後半に2名の作業員が甲状腺にヨウ素131が蓄積していることが指摘されていた。それぞれ9,760Bqと7,690Bqであった。

2011年12月13日に福島県は事故後4ヶ月間における外部被曝に関する研究結果を公表していた。これらの結果は、原発の10kmから50km圏内にある浪江町、飯舘村、川俣町に居住している1,727名に基づいていた[49]。住民の97%を占める1,675名が5mSv以下の被曝をしており、そのうちの住民の63%を占める1,084名が1mSv以下の被曝に留まっており、1mSvは日本政府が定めた基準であった[49]。原発で作業している5名を含む9名が10mSv以上被曝していた(最大で37mSvであった)[49]。福島県立医科大学副学長である山下俊一によれば、これらの地域の住民の大半は健康にほとんど影響がなく避難を必要としていない線量しか被曝していないとされていた[49]。彼は、ヨウ素の影響について確認しておらず、長期にわたる健康管理調査を行うつもりであり、そこに甲状腺の検査が含まれていた[50]。さらに福島県は、原発周辺の12の市町村を対象にして、天候や避難日に基づく、住民の外部被曝に対する推定値を示しており、場所に依存する推定値は0.84mSvから19mSvの間にあり、飯舘村で最大であった。ジャパン・タイムズ紙は、危機の後しばらくして村から避難することを決定したことが遅すぎた決断であったと結論付けていた[51]。

2.2 被害を被った人数

2013年3月の時点で施設における25,000名の作業員のうち、7名の死亡が確認されており、それは電離放射線による被曝によるものではなかった[52]。

すべての原因はリアクターにおける事故と関連しており、ただ単に人工放射性物質と関連している訳ではなかった。

福島第一原発の事故による死亡者数は5名以下であった。

汚染地域の避難による死亡者数は40名から50名の間であった。

福島第一原発の事故による深刻な負傷者や高い線量(20mSv以上(1))による負傷者の数は20名以下であった。

福島第一原発の事故による軽度の負傷者や低い線量(20mSv以下(1))による負傷者の数は100名以上1,000名以下であった。

福島第一原発の事故により居住地を移動した人々の数は20,000名以上50,000名以下であった。

(1)20mSvの基準値は、緊急事態を除くカテゴリーAの放射線業務従事者に対するフランスの労働法典(R4451-12条、R4451-13条、D4152-5条、D4153-34条)に基づく12ヶ月間連続で許容される実効線量の最大値であった。

60名に及ぶ寝たきりの人々が20km圏内の避難によって亡くなっていた[53]。

2012年8月に公表された研究は、避難を余儀なくされたことによるストレスが34名の死亡に関する主な原因であることを示しており、多くの高齢者が生活環境の変化に悩んでいた。英王立国際問題研究所研究員であるマルコム・グリムストンによれば、これらの知見はスリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故によって示されていた事実と一致していた。甲状腺癌やリクビダートルに見られる死亡者数を除外するならば、住民に対する影響は、統計的に明らかにすることが困難であるとの見方がある癌のリスクに対して統計的な有意を示すほど存在しておらず、他方で事故の状況によって引き起こされた心理的な変化に対して存在していた。彼によれば「もし採用されるアプローチに問題が生じない(例えば原発事故に関する詳細な情報を住民に周知徹底させる)との確証があるならば、安定ヨウ素剤が利用可能なときには、強制避難を行わない選択肢も存在していた。」[54]

2.3 被害を被った動物の数

20km圏内の避難は数千頭の動物、特に牛や他の家畜(例えば豚や鶏)を放棄することを伴っており、水も飼料も残されていなかった。約30,000頭の豚、約60,000頭の鶏、10,000頭以上の乳牛が放棄されていた。2011年5月12日の木曜日に日本政府は、農家の同意を取り付けることに対する補償と引き換えに、動物が避難区域で屠殺されることを求めていた[55]。5月19日にレスキュー隊は、群れを成していた犬や猫以外の動物を救助するために、避難区域に立ち入ることを許されていた。

3 放射性物質のレベル

3.1 敷地内部における放射性物質

地震の翌日、TEPCOによれば0時00分の時点で空間線量は通常のままであったが、4時40分の時点で上昇していた[56][57]。15時29分に、1号機から何度か蒸気を放出した後、線量は敷地の北西部において1015μSv/hに達していた[58][59]。その2日後、測定地点での空間線量は概して数十μSvのオーダーのままであったが、突如として上昇していた[60][61]。

1回目に4号機建屋で午後6時に、次に2号機の建屋で午後6時14分に、立て続けに生じた2回の爆発の後、3月15日に状況が突如として悪化していた。正門前の空間線量率は午前6時の73μSv/hから午前7時の965μSv/hに上昇し、午前9時に11900μSv/hに達していた。敷地内部では2号機と3号機の間の空間線量率が午前10時22分に30mSv/hに達しており、4号機周辺では100mSv/hに、3号機周辺では400mSv/hに達していた[62]。総員が退避することになったが、フクシマ50と呼ばれるごく少数の作業員のみが現地にとどまっていた[63]。

日本では緊急時における原発作業員の被曝限度は100mSvであった[64]。3月15日に敷地で作業し続ける「リクビダートル」に対して、日本政府はこの限度を例外的に250mSvにまで引き上げていた[65][66]。3月21日にICRPはこの放射線緊急事態に対して勧告を出しており、参考レベルは500mSvや1000mSvにまで引き上げられる可能性が存在しており、放射線防護のために自発的に示された線量限度は存在していなかった[67]。

3月15日に敷地内の放射性物質に関する状況は劇的に変化していた。測定地点での空間線量率のオーダーは数十から数百μSv/hであったが、突如として正門前で3月15日23時10分に6960μSv/hになり、3月16日12時30分には10800μSv/hを超えていた[68]。危機を過ぎると、状況は徐々にコントロールされるようになり、放射性物質の突発的な放出はしだいに稀になっていたが、その放射性物質は永続的に残されることになった。その測定地点は2号機の北西500mに位置していた。3月17日から21日にかけての空間線量率は3500μSv/hから4200μSv/hの間の値から2000μSv/hへと徐々に減少していた[69]。数日の中断を経て、この地点における測定は再開されていた(測定地点はわずかにずらされることになった)。3月26日に空間線量率は1400μSv/hであり[70]、3月31日に1000μSv/h以下になり[71]、4月17日には500μSv/hをわずかに上回る程度に変動していた[72]。敷地内の複数の測定地点における測定値は同様に減少しており、4月9日の測定値は北部の13μSv/hから南西部の252μSv/hの間に存在していた[74]。それらに対する分析はリアクター周辺におけるmSv/hの単位を超える空間線量率を示しており、がれき周辺では300mSv/hにまで達している可能性が存在していた。

3月19日にTEPCOは福島原発に電力を回復する作業を始めており[75]、作業員が徐々に帰還していた。3月24日に協力会社の社員である3名の作業員が3号機タービン建屋にケーブルを敷設しており、水深15cmの水たまりに両足が浸かっていた。彼らは、この水たまりが高度に汚染されていることに気がついておらず、線量計のアラームを無視していた。彼らは170mSvから180mSvの線量を被曝しており(胸部の線量計が示していた値)、彼らのうち2名に対して両足に熱傷の症状が見られており、装備に対する不手際で靴の中に水が入り込んでいた(ブーツが上まで上げられていなかった)[33][34][35]。後日になって両足に被曝した線量が2Svから3Svであることが確認されていた[36][37]。

事故の後TEPCOはこの建屋や他の建屋のたまり水を分析していた。3月25日にTEPCOは3号機タービン建屋のたまり水が390万Bq/ccに達していたことを公表していた[76]。3月27日にTEPCOは2号機に対しても同様のことを行っていたが、分析に失敗し、水の表面で1000mSv/hが検出され、たまり水が29億Bq/ccに達していたことを公表していた(この数字は後に訂正された)[77]。この結果に基づいて、TEPCOは、これが「リアクター内を循環する水に含まれる放射性物質の1千万倍であること」を示していることを公表していた[78][79]。この発表はすぐに世界中に広まり、メディアは「放射性物質の拡散と避難が福島を覆っている」との見出しを打っていた[80][81]。後にTEPCOはヨウ素134の測定値はその1000倍であったと公表していた[82]。日本政府のスポークスマンは、世論にパニックをもたらしたこの間違いについて「容赦できない不手際」であると言及していた[83]。

枝葉末節にこだわった過剰な報道とは別に、このエピソードはTEPCOがそれまでに無視していた水質や土壌の汚染の程度に意識を向けていたことを示していた。これは意味のある兆候であり、表面的には重要な問題を取り上げる方向性を示していた[84]。

3月27日にTEPCOはタービン建屋にたまっている水面上の空間線量率を計測していた。TEPCOは1号機建屋で60mSv/h、3号機建屋で750mSv/h、2号機建屋で1000mSv/h以下であることを確認していた[85]。最後のケースでは正確な値は実際には分かっていなかった。多くの尺度の計測器に囲まれている中で、TEPCOの社員は異なった調整に基づいた計測を繰り返すことなく計測を即断していた[86]。

同じ日の15時30分にTEPCOの社員は、リアクターの外に設置され、水があふれているケーブルやパイプが埋め込まれているトレンチの中の水面の放射性物質を測定しようとしていた。1号機の周辺で作業員は0.4mSv/hの空間線量率を確認していた。2号機タービン建屋地下のたまり水では空間線量率はその2500倍で1000mSv/hであった。アクセスを遮っていた瓦礫(高濃度の放射性物質)を理由にして、3号機では空間線量率を測定することができなかった[87][88]。

汚染水を排水し、海に汚染水が流出することを防止することが主な課題であったので、これらの結果は危機の帰結に対して大きな影響を及ぼしていた。3月29日にNHKは、地上開口部からトレンチまでの水位が1号機では10cmであり、2号機や3号機では1mであることを報じていた[89]。4月19日にTEPCOは、敷地内にある処理しなければならない汚染水が約67,500トンに及ぶだろうと推計していた[90]。

一方、土壌サンプルが3月21日と22日に異なった5個所からTEPCOによって収集され、分析のために研究所に送られていた[91]。分析の結果は3月28日に公表され、プルトニウム238、239、240の存在を示していた。それは非常に微量(1Bq/kg以下)であり、日本各地に見られるプルトニウムの濃度のオーダーであった。このプルトニウムは1945年から1964年までの核実験の結果堆積したものであり、健康に対して危機的な状況をもたらすものではなかったとされていた[92]。

しかしTEPCOは同位体の比率が核実験の影響によって観測される比率と異なっていたことを指摘していた。そこではプルトニウム239や240に対するプルトニウム238の比率が非常に高かった。TEPCOは検出されたプルトニウムはおそらく福島原発事故由来であるだろうと結論付けていた[93]。他の分析も同様の結論を示していた[94][95]。4月22日に官房長官である枝野幸男は、プルトニウムの同位体の組成が3号機で用いられているMOX燃料と一致していることに言及し[96]、そのことは4月27日に公表された分析によって確認されており、その分析はプルトニウムのみならずアメリシウムやキュリウムの同位体も同様に考慮していた[97]。

4月18日にTEPCOはアメリカの企業から貸し出されたロボットによってリアクターの内部にある放射性物質のレベルを測定することをようやく可能にしていた[98]。測定された空間線量率は1号機の建屋内で10mSv/hから49mSv/hで、3号機の建屋内では28mSv/hから57mSv/hであった[99][100]。このような測定値は発電所内で作業するには非常に高いものであった。25mSv/hで被曝すると、作業員は日本政府が定めた250mSvの線量限度にわずか10時間で達し、40時間でICRPが許容した線量限度である1000mSvに達することが指摘されていた。

2011年8月にTEPCOは10Sv/hもしくは致死的な空間線量率を示すさまざまなホットスポットを敷地内で発見していた[101][102]。

3.2 敷地境界部での放射性物質

2011年3月17日に日本の文科大臣は0.17mSv/hの空間線量率が原発の北西30kmの地点で測定されたことを公表していた(5日間で20mSvに達する空間線量率であり、20mSvはフランスの原発労働者に対して許容されている線量であった)[103]。2011年3月15日にTEPCOは8μSv/h以上の空間線量率であることを公表していた[104]。

3月14日(現地時間7時30分)の第22報の中で保安院は3月13日19時の測定値によって空間線量率が増加していることを確認していた(敷地境界に沿って測定車によって測定された値に基づいている[105])。福島第二原発において3月15日の19時に保安院は、敷地北部の境界におけるおよそ5400nGy/h(5.4μSv/h)といった測定値が、3月14日の19時に測定された6500nGy/h(6.5μSv/h)と比較すると、減少していることに言及していた。

外部の測定地点(福島第一原発の2号機の敷地境界の北西部)において空間線量率は231.1µSv/hに達していた(現地時間で3月14日の14時30分)[106]。

2011年3月13日に福島第一原発から2km圏内の空間線量率は0.1mSv/hと測定されており[107][108]、平均値の約800倍であった。そのことは原発から数km圏内がすでにイエローゾーンであったことを意味していた。

フランスの脱原発ネットワークによれば、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の6名のジャーナリストたちによって福島第一原発から2km圏内で行われた測定が10mR/hから100mR/h(0.1mSv/hから1mSv/h)を示しており、空間線量率が「劇的に増加」していた。

3月12日から始められた独自の測定は全域において高レベルの空間線量を示しており、原発から2km圏内では1mSvに達していた[110]。フランス放射線防護原子力安全研究所(IRSN)は「2011年3月12日の土曜日に1号機の建屋に関連した爆発によって、非常に多量の放射性物質が放出され、爆発のときに敷地境界における空間線量率は1mSv/hに達しており、12時間後に空間線量率が0.040mSv/hになっていた」ことを懸念していた。

リアクターが冷温停止したと報じられた後、2012年4月以降にTEPCOは漸く敷地外部の空間線量率を1mSv/年以下に抑えることを可能にしていた[111]。

3.3 敷地外部の放射性物質のレベル

3月13日の21時45分に、IAEAは、日本政府によれば、福島第一原発からのフォールアウトが、13時55分に確認された女川原発周辺で許容されているレベルを超える放射性物質の測定値をもたらしていることを示していた[113]。それは方向と速さの観点から放射性物質の拡散を最初に示したものであったかもしれなかった。女川原発は福島第一原発の北部から北東部に位置していた。

日本の首相である菅直人によれば「放射性物質が大気中に放出されたが、それらが大量であることを示す証拠はなく、チェルノブイリ原発事故とは根本的に異なっていた」[114]。NHKの英語放送によれば、日本の文科大臣が0.17mSv/hの空間線量率が原発の北西30km地点で測定されていたと述べていた。他の測定値は0.0183mSv/hから0.0011mSv/hの間(約1µSv/hから18µSv/h)であることを示していた[115]。

3月15日に福島原発の南西250kmに位置する群馬の高崎観測所は、15Bq/m³(比較の対象としてチェルノブイリのプルームがフランスに最初に到達した1986年5月3日に0.6Bq/m³から4.2Bq/m³が測定されていた)に及ぶ、ヨウ素131を含む、多量の放射性核種を検出していたことを示す非公開のレポートを出していた。3月15日の13時40分に東京では放射性物質のレベルの上昇が検出されていた。0.809µSv/h(これは100Bq/m³以上の放出と対応している[116])が検出された後、17時40分に0.075µSv/hになり[117]、後者の値はパリで測定された大気中の放射性物質の測定値に近かった[118]。

首都の南西に位置する神奈川では通常のレベルの9倍の放射性物質が検出されていた[119]。3月15日の18時11分に千葉で検出された放射性物質のレベルは通常の10倍であった[117]。夜まで続いた北部から北西部へのプルームの流入が、さらに悪化させることになるのだが、東京や東京周辺の地域を放射性物質で汚染していた[120]。東京における放射性物質による汚染は通常の10倍に達し[121]、約0.3µSv/hであった。

東京における環境中の放射性物質はその影響の点で深刻なほど重大なレベルではなかった。東京都は3月15日における放射性物質の濃度がピークのときに放射性物質のレベルが0.809μSv/hであることを公表しており、通常の測定値は0.035μSv/hから0.036μSv/hであった。自治体の担当者は「私たちはすぐに人体に影響するほど深刻で重大なレベルではないと考えている」と述べていた[122][123]。

2011年3月24日にIAEAのチームが原発の北西30kmに位置している浪江町(福島県)で161μSv/hの空間線量率を確認していた[124]。この空間線量率で5日間被曝した住民の累積被曝線量は、フランスの原発労働者が1年間に許容されている被曝限度である20mSvと同等であった。この空間線量率で25日間被曝した住民の累積被曝線量は100mSvの被曝限度に達しており、疫学的研究によれば[125]、100mSvの累積被曝線量は癌の死亡率を0.5%を増加させることに対応していた。低線量の放射線についての論文によれば、このレベル(140µSv/h)はイランのラムサールのような自然放射線量が高い地域の住環境と比較され、ラムサールは世界で一番自然放射線量が高い地域であった。

しかしながら3月30日にクリラッドは放射性物質によって被曝する可能性がある住民の防護のために警告を発し、日本政府に住民を「20km圏外」に避難させることを求めており[126]、もし数週間の被曝を考慮するなら、原発の100km圏外でもその空間線量率を超える場所があることを推計していた。クリラッドは実際の被曝線量を明らかにするためにはそれらの空間線量率は役に立たないと考えていた。そして外的には皮膚や髪を通じ、内的には空気の吸入や消化を通じた被曝を考慮していた。大気に混じった放射性物質は風に乗って「仙台よりはるかに遠く」また「東京よりはるかに遠い」地域に拡散していった。

4月6日に憂慮する科学者同盟(UCS)はアメリカの上院議員を前にして、オーストリアの気象地球力学局が、チェルノブイリ原発事故によるセシウム137の放出量の約80%が福島原発事故によって放出されており、そのセシウム137は事故直後の1週間において原発の敷地内に存在していたと推定していたことを示していた。これは損傷を受けた3機のリアクターの内部にあるセシウム137の10分の1であった。そして結論において、憂慮する科学者同盟(UCS)は、懸念されていた重大な汚染が日本政府によって設定された20km圏内を超えて検出されていたことを示していた。さらにこれらの地域の住民はICRPによって勧告されている年間の被曝限度を1週間で被曝していた[11]。

3.4 汚染水の貯蔵

1ヶ月間のリアクターの冷却に由来する約60,000m³の汚染水が再利用され、それらを貯蔵するための敷地が不足しており、それらを準備することを待機する状態であった。一部の人々は、汚染水中のヨウ素やトリチウムが野外で貯蔵された場合に、環境を汚染する可能性があることをを危惧していた[127]。4月7日にメディアは、タンカーや「すずらん」と呼ばれるロシアのウラジオストクで原子力潜水艦を解体するための放射性廃棄物処理施設(1990年代の後半に日本で建造された)の使用の可能性に言及していた[127]。

3.5 放射性物質による大気汚染

影響を受けた地域は、放射性物質の放出量、放射性物質が分布する状況(Bq/m³で示される)に影響した風向や風力に依存していた。東京で収集された大気中の塵に対する東京都立産業技術研究センターによる測定はヨウ素131、ヨウ素132、セシウム134、セシウム137を検出していた。そして以前から大気中に存在していた放射性核種はセシウム137のみであり、チェルノブイリ原発事故や核実験によるものであった[128]。

3月21日の月曜日の現地時間における8時から10時にかけて放射性物質のレベルが減少傾向にある一方、東京の大気中におけるヨウ素131による汚染のレベル(15.6Bq/m³)やセシウム137による汚染のレベル(6.6Bq/m³)は、3月16日の水曜日の18時に示されていた測定値よりも上回っていたことが指摘されていた。しかし汚染のピークは3月15日の火曜日であり、ヨウ素131は241Bq/m³であり、セシウム134は64Bq/m³であった[129]。

3月21日に、南西方向の弱風が福島の放射性物質を、沿岸部を経由して、東京、神奈川、千葉に流出させていた[130]。放射性物質の飛散に対する国際的な影響は、(3月24日以降に到達していた)アメリカやヨーロッパに対して非常に低いレベルであった(いかなる危機的な状況をも引き起こすものではなかった)[131]。

しかしながら独立系組織であるクリラッドのディレクターは「IRSNによって報告された結果は実際の汚染のレベルをおそらく過小評価しているだろう」と考えていた[132]。実際クリラッドによれば、IRSNによって採用された検出技術は「気体化したヨウ素を検出できず」、気体化したヨウ素は「福島原発から放出された汚染物質中に存在する放射性ヨウ素の大部分」を占めていた。

3月29日の20時にIRSNはフランスでの放射性物質の測定結果を公表しており、それは福島原発由来の放射性核種の存在や明白に降雨に関連したヨウ素131の増加を示していた[133]。最も高いレベルはパリから19kmの地点であるル・ヴェジネで指摘されていた。3月27日にそこで0.51mBq/m³の気体化したヨウ素131や1.73Bq/Lの雨水に含まれるヨウ素131が検出され、同様に2.17Bq/kgの野菜(葉物野菜)が検出され、それは4Bq/m³の土壌汚染を理由にしていた。そしてこれらのレベルは健康に対する危機的な状況を示しているものではなかった。またセシウム137はまだ検出されていなかった。その反対にセシウム134がラウエ・ランジュバン研究所によれば3月26日にエアロゾル中で検出されていた(0.05mBq/m³)。しかしながらクリラッドはエアロゾルの分析が実際の大気中の放射性物質の量を過小評価していると考えており、そのレベルがサラダに用いられるほうれん草のような葉物野菜で急増するだろうと警告していた...。声明によれば[134]、2週間で蓄積したヨウ素131の影響は「数百Bq/m²(地表)、数千Bq/m²に達する可能性があり、好ましくない天候に遭遇すれば、大気中の放射性物質に対して想定されている以上に増加する可能性が存在していた。」 粒子の状態や気体の状態の双方におけるヨウ素131の分析によって、クリラッドは、アメリカでは3月20日から22日にかけてカリフォルニアやアラスカに達していた気体化したヨウ素の濃度が3倍から14倍に高まっていたことを観察していた。

大気や浮遊している塵に含まれる放射性物質に対するTEPCOの分析によれば、2011年4月6日から28日にかけてエアロゾル中の放射性物質が安定的に減少していることが確認されていた[135]。しかしながら2011年の11月[136]から12月にかけてヨウ素131が日本の複数の県で検出されていた[137]。ウランが核分裂して生成した放射性同位体の存在は、福島第一原発で再臨界が生じていたことを示唆しており、その理由としてヨウ素131がすぐに崩壊してしまうことが挙げられていた(その半減期は約8日)[138]。

3.6 放射性物質による地下汚染

2011年3月28日に日本の原子力安全委員会はTEPCOに対してタービン建屋地下の滞留水の中の放射性物質を測定することや、同様に地下水に対する汚染の可能性を調査するために建屋周辺の地下を調査することを要請していた。TEPCOは(2011年4月5日から)海洋汚染に関して地下水を調査しており(1週間に3回、3種類の核種を測定していた)、保安院の指示に応じていた(2011年4月14日)[139]。

6棟のタービン建屋周辺の地下で2011年4月に採取されたサンプルは、ヨウ素131、セシウム134、セシウム137を含んでおり[140]、セシウムについては[141]増加傾向であり、ヨウ素については[141]1.0E+03Bq/cm³(4月13日)に増加した後に横ばいになっていた。

3.7 放射性物質による海洋汚染

リアクターを冷却するために使用された水の一部は海水中に放出され[142]、健康への影響に対する懸念を生じさせていた。

3月21日に異常に高いレベルの放射性物質が福島原発周辺の海水中で検出され、TEPCOによれば、ヨウ素131やセシウム134は東京で定められた基準の126.7倍や24.8倍であった。さらにセシウム137の割合は通常の16.5倍であった。角田直樹(TEPCOのスポークスマン)によれば、その放射性物質のレベルは人間の健康に対する深刻な脅威ではなかったが[143]、環境や海洋生物に影響を及ぼすかもしれなかった。2011年3月22日にTEPCOは、福島第一原発に沿った海岸から100m離れた海水のサンプルの分析に基づいて、ヨウ素131の割合が日本政府によって定められた基準(0.04Bq/cm³)の126.7倍であったことを公表していた[144][145]。

3月22日の火曜日に福島第一原発周辺の海水の調査を行ったことがTEPCOによって公表されていた。ヨウ素131は基準の126.7倍のレベルであり、セシウム134は通常のレベルの24.8倍であった[146]。3月23日に海岸から30km離れた8つの地点について文科省によって調査が行われていた。海産物中の放射性物質が高い濃度であったために、漁業関係者はその活動を再開することができなかった。3月23日の水曜日に福島原発周辺の海岸から100m離れた地点での海水のサンプルは4Bq/cm³のオーダーのヨウ素131を示していた(日本の基準値の100倍であった)[147]。

2011年3月26日の昼に日本の原子力安全委員会は、TEPCOによってその前日に記録された原発の南放水口の下流におけるヨウ素131の割合を公表していた。50,000Bq/Lは海水中の法定基準値(40Bq/L)の1250倍であった。原子力安全委員会のスポークスマンは「もしあなたがこの濃度のヨウ素が含まれている500mLの水を飲むならば、1年間に吸収しても良い限度にすぐに達してしまい、この濃度は相対的に高いレベルになるだろう」と述べていた。ル・ポワン誌によれば[148]、セシウム137の濃度(半減期は30年)は法定限度の80倍であり、セシウム134はその117倍を超えていた[149]。バリウム140は基準値の3.9倍であった。

ヨウ素131の北部への放出がそれ以前の基準の283倍で検出されており、またセシウム134(基準の28倍)やセシウム137(基準の18.5倍)でも同様であった。放射性ヨウ素は藻類や海洋生物(特にムール貝やカキのような貝類)によって生体濃縮されやすかった。2011年3月27日に1号機から300m離れた海水中に放出された放射性物質のレベルは上昇しており、通常の1850倍の値に達しており[150]、さらに沖合では5日間で10倍以上の濃度に達していた。

10倍の許容限度を超えるヨウ素を除外すると、福島第二発電所から放出される前の3月25日に採取された海水中において放射性物質が微増していたことが観察されていた[151]。IRSNの専門家は「タンクローリーで保管することもできず、汚染水がそこにある限り、作業を再開することができないため、汚染水を処理することが非常に困難であり」、この汚染水がすでに「漏れ始めていた」ことに言及していた[152]。3月28日にフランスの原子力安全局(ASN)は、福島第一原発の北部の5号機や6号機から30m離れたところに法定基準の1150倍のレベルのヨウ素131を含んだ汚染水が存在していることを指摘していた[153]。1Sv/h以上の汚染水が2号機の「建屋の外部に延びている地下のトレンチの中に」検出されていた。TEPCOによれば、高レベル汚染水は建屋から60m離れた海水中へ流れているとされていた。しかし3月30日にリアクターから南へ300m離れた地点での放射性物質のレベルは基準値の3355倍に達していた。

3月31日における海水中の放射性物質のレベルは憂慮すべき状況を示していた。福島第一原発から南へ300m離れた地点で放射性ヨウ素に対する法定基準[154]の4385倍のレベルが測定されていた。

4月2日に文科省は、原発周辺の海水に対して、300GBq/m³といったヨウ素131の濃度が基準値の750万倍に達していたことを指摘していた。2011年4月5日にTEPCOは、海岸周辺の海水中で放射性ヨウ素(ヨウ素131)のレベルに関して1000mSv/hを検出したことを公表し、それは約5日間にわたって太平洋に約11,500トンの「汚染水」(通常の100倍以上)を放出することを開始したときであり、大量の汚染水を放出したことは貯蔵タンクの問題に対する解決策であった。4月4日にIRSNは海水に対する放射性物質の放出の結果に関する情報についての概要を公表していた。放射性核種の一部が可溶性である一方、他の一部はそうではなく、海底への堆積に関して、水との親和性によってサスペンジョンした粒子に対して放射性物質が付着していた[156]。IRSNは、ルテニウム106(Ru106)やセシウム134(Cs134)(プルトニウムの項を参照せよ、しかしながらそれらは2011年4月4日には沈着していた)によって長期間汚染されるであろう日本の沿岸部の堆積物に対する監視を求めており、それゆえ東日本の沿岸の海産物に対する付着に関して、海洋汚染同様に海産物に対する放射性物質を監視することを求めていた。事実、放射性核種の濃度は海水中で各種に対してさまざまな影響を及ぼしていた(例えば藻類は10000倍以上を濃縮していた)。

中期的に、北緯35度30分から北緯38度30分の間に位置している東日本の沿岸部が放射性核種の拡散によって影響されており、黒潮によってその北部はさらなる影響を受けていた。長期的に、放射性核種は太平洋の中央や南太平洋の西部にまで広まると考えられており、最大で10年から20年間残存する可能性があり、それは浮遊している時間を考慮に入れていた。そして大西洋の南部はその拡散の影響を逃れていた[157]。

2011年9月9日に日本原子力研究開発機構は3月から4月にかけての太平洋の汚染が3倍ほど過小評価されていたことを公表していた。2011年3月21日から4月30日までに15TBqのセシウム137やヨウ素131が太平洋を汚染しており[158]、モデルによれば太平洋での希釈は2018年までかかるだろうと考えられていた[159]。

4 食品や飲料水に対する汚染

4.1 放射性物質の堆積

30km圏内や圏外の地域が、風によって拡散した放射性物質によって汚染されていたことが確認されており、放射性物質は降雨によって地表にフォールアウトしていた。自発的な減圧や原因不明のリークを考慮すると、放射性物質のフォールアウトは無視できない規模であった。オーストリアの研究所で行われたシミュレーションによれば、3月20日は実際に東京や仙台に放射性物質が拡散したことによって特徴付けられており[160]、北から吹く大気の塊の変化や降雨がフォールアウトの原因であった。

フランスの原子力安全局(ASN)は、汚染地域が20km圏外に広がっているかもしれないことや日本政府が数十年にわたって地域の汚染を管理しなければいけないであろうことを想定していた。大気の状態に基づくと、汚染地域がおそらく数百km圏に拡大しているだろうといったことを、ASNのジャン・クロード・ゴデは示唆していた[161]。

放射性ヨウ素131は半減期が8日間しかなく、それによる汚染は数ヶ月で消えると思われていた。しかしながらセシウム137は半減期が30年であった。明らかに空間線量率は減少していくけれども、放射性物質による汚染は2、3世紀にわたる敏感な問題を残すことになるだろうと考えられていた。

日本政府は3月23日に、原発の北西部40km地点における土壌サンプルがセシウム137による16.3万Bq/kgに及ぶ非常に深刻な汚染を示していたことを指摘しており、それは非常に高い測定値であった[162]。これはイエローゾーンが30kmの避難区域外に拡大していたであろうことを示していた。

4.2 食料品に対する制限

食料品に対する暫定規制値はセシウムに対して500Bq/L、ヨウ素に対して2000Bq/Lに修正され、牛乳・乳製品を除外していた。それはセシウムに対して200Bq/L、ヨウ素に対して300Bq/Lであった[163]。

2011年3月19日の土曜日の朝に福島県産の牛乳のサンプル、茨城県産のほうれん草の6つのサンプルから非常に高い濃度の放射性物質が検出されていた[164]。日本政府が福島の農産物から通常のレベルを上回る放射性核種を検出したことによって、メディアは17時40分から22時にかけて住民に対して[165]乳製品、ほうれん草、野菜のような食料品について警戒し注意を払うことを促し、ある一定の被曝線量を考慮しながら、それらの野菜を洗浄することを促していた。

3月19日に茨城県の知事は原発から南へ80kmから120kmに位置する地域に対してほうれん草の出荷について停止することを命じていた[166]。原発から60km離れたところに位置している牛乳販売店は牛乳の配達を完全に中止していた[167]。

しかし報じられていた汚染は、健康に対する危機的な状況でないと規則で定められている線量限度のオーダーにとどまっていた。3月20日の日曜日にクリラッドはほうれん草のヨウ素131について15000Bq/kgの汚染を報じており、基準値(2000Bq/kg)の7倍以上であった。しかし3月18日に日立市(茨城県)においてそのレベルは54100Bq/kgに達しており、日本の基準値の27倍以上であった[168]。被曝線量のレベルについて、ほうれん草に関しては数回分の食事で十分であり、とりわけ子供に対してはそうであり、特に幼い子供についてはそうであり、1mSv/年の線量限度を超えていた。そしてその100倍以上の被曝線量は健康に対して統計的に有意な影響が観察されるための十分条件であった[169]。

3月21日の月曜日に日本政府は福島県産の生乳やほうれん草の出荷を禁止しており[170]、汚染の危険性を低減していた。3月22日にはブロッコリーのような他の葉物野菜の出荷も禁止していた。

18時40分にWHOのスポークスマンであるピーター・コーディングリーは、土曜日に日本で放射性物質が農産物から検出されたことは「非常に深刻」であり、想像されるように、20kmから30km圏内に制限されない問題であることを予想していた[171]。「私たちは当然のこととして汚染地域から汚染された農産物が流出していることを想定しなければならなかった。」

3月23日に日本の首相は福島周辺の4県からの農産物の出荷と消費を禁止し、その中にはほうれん草、ブロッコリー、キャベツやカリフラワーが含まれていた[172]。さらに食料品の検査が東京や東京周辺の10の県にまで拡大され、魚貝類に対する検査が公開されていた。

4月13日に菅直人は福島東部で椎茸を流通させることを禁止していた[173]。

7月26日に日本政府は放射性物質で汚染された稲わらで飼育されたと疑われる3,000頭の肉牛の肉を買い取り焼却する計画を発表していた[174]。20億円(17ユーロ)に及ぶこれらの対策はTEPCOによって支払いがなされる予定であった[174]。

3月23日に東京(江戸川)に集荷された小松菜は法定限度を超えるセシウムによって汚染されていた(500Bq/kgに対して890Bq/kgであった)[175]。

2011年12月22日に1540Bq/kgのセシウムを含む米が福島県内の市町村の集荷場で検出されていた。これは日本政府によれば500Bq/kgの暫定規制値を超える農産物において測定された最大値であった[176]。日本政府が汚染された食品の暫定規制値を引き下げることを発表し、米の暫定規制値が100Bq/kgにまで引き下げられたときに、これが検出されていた[177]。数日後農水大臣の鹿野道彦は福島県内の8つの地区で集荷された米の販売を禁止し、すべての米が汚染の上限を超えていた。農水省は農家から米を買い取ることを約束し、それは4,000トンに及ぶと推定され、少なくとも部分的にこれらの買い取りに資金を供出することをTEPCOに求めていた[178]。

2011年12月に厚労省は2012年4月からセシウムをさらに制限する新基準値を適用することを決定していた。そして乳児用食品や牛乳は50Bq/L、他の一般食品は100Bq/Lであった[179]。国際基準より10倍から20倍厳しい新基準値は、地方自治体が正確に測定できる機器を購入することを促していた[179]。

4.3 水道水の摂取制限

飲料水に対する暫定規制値はセシウムに対して200Bq/Lであり、ヨウ素に対して300Bq/Lであった[163]。この限度は原子力緊急事態における国際的な勧告や手続きに一致していた(最大で1年であった)[180]。2011年3月19日の土曜日以来、放射性物質が東京の水道水から検出されていた。

厚労省は地域の人々に対して放射性ヨウ素に汚染された水道水を摂取しないように勧告していた。東京の水道水も同様に低レベルの放射性ヨウ素を含んでいた[181]。

2011年3月23日に、都知事である石原慎太郎は東京の1歳未満の乳児に対して水道水を摂取しないように勧告していた。東京都水道局の担当者によれば、210Bq/kgのヨウ素131が都の中心街の水道水から検出され、日本政府によって定められた限度は乳児に対して100Bqであった[182]。3月28日に厚労省は日本全土の飲料水の水道事業者や工場に対して降雨後の表流水の取水を抑制し[183]河川からの取水を停止することを要請していた。3月27日以来、大気に晒されている貯水池が防水布によって覆われていた。

2011年12月に厚労省は2012年4月からさらにセシウムを制限する放射性物質に対する基準値を定めることを決定していた。それは国際基準より約10倍厳しい10Bq/Lであった[179]。

5 住民に対する防護措置

5.1 3km圏、10km圏、20km圏と広がった避難

TEPCOは日本政府に対して「15条通報」を行い、3月11日中に避難指示が出されていた[184]。そして3km圏内の住民が避難していた。

避難区域は3月12日の朝に10km圏に拡大していた[185][186]。土曜日の8時30分に[187]、首相である菅直人は福島第一原発周辺の45,000名の住民に対して原発周辺から速やかに離れるように指示を出していた。

避難区域は3月12日の夜に20km圏に拡大していた[188][189]。IAEAによれば、3月13日の5時10分に、10km圏内の30,000名以上が避難を行い、20km圏内の約110,000名が避難を行なっていた[191][192]。

避難区域が限定されており、3月15日の16時に[193]、1号機で爆発と火災が生じた後、菅直人はNHKを通じて屋内退避している福島の住民に対して、窓や扉のすき間をふさぎ、空調のスイッチを切り、マスクや湿ったハンカチで口を隠し、水道水を飲まないことを勧告していた[194]。

2011年3月16日22時にIRSNは何よりもフランス自国民に東京より南に避難する防護措置を促していた[195]。3月17日にASNのマリー=ピエール・コメは、事故が悪化した場合には、避難区域が最大で70km圏に拡大する可能性が存在していたと主張していた[196]。2011年3月25日に日本政府は(強制性を伴わせず)住民に対して30km圏内から避難することを促していた。したがって公的な汚染地域は30km圏をカバーしていた。しかしながらリスクに対する同心円状のアプローチは実際の放射性物質の分布を反映していなかった。

5.2 20km圏外への避難区域の拡大

4月11日に避難区域は原発から20km圏外の地域に拡大していた[197]。飯舘村が空間線量の高い地域であることを公表し、日本政府は、立入禁止区域の北西に位置する市町村や飯舘村を当初の避難区域に追加する指示を出していた[198]。避難区域を決定するために、日本政府は公衆の線量限度が年間1mSvであることを知りながら、20mSv以上を採用していた。計画的避難区域は原発の北西方向(高い汚染地域)に位置する5つの市町村を対象としており、浪江町、葛尾村、南相馬市、飯舘村、川俣町が挙げられていた[199]。これらの市町村の広がりに対応して、20km圏内を含むいくつかの地域ではすでに3月中旬までに避難が行われていた(例えば浪江町にとって原発までの距離は沿岸部の4km圏内から北西部の35km圏内とさまざまであった)[200]。これらの避難措置にもかかわらず、IRSNは、年間10mSvの限度を参照すると、5月24日の時点で避難すべき約70,000名の住民が避難していなかったことを指摘していた[201]。

4月22日に首相は、5月15日から31日にかけての[203]市町村による避難が[202]妊婦、子供、体が弱い人に対して優先的に行われることを確認していた。避難すべき10,000名に対して約6,000名がすでに避難していた。さらに原発から20kmから30km圏内にある広野町、楢葉町、川内村や田村市、南相馬市の一部の住民が避難の準備をすることを促されていた。3月末に日本政府は強制的ではないが住民が自宅待機することや避難することをすでに勧告していた。保安院は4月から年間被曝線量が10mSvから20mSvの地域で生活している人々に対して自宅待機することや避難することを勧告していた。4月22日から20km圏内の避難指示区域は立ち入りを禁止する警戒区域に変更されていた[204]。それまで住民は時々避難指示区域に戻っており、特に農家が家畜を世話することが認められていた。現在そこへの立ち入りは禁止されており、罰則が課されている。避難した家族は時々生活上の理由により立ち入ることが認められており、厳格な条件の下にあった。1家族あたり1名が警察官による監督のもとで2時間まで立ち入ることが認められていた。この権利は3km圏内で生活している家族には適用されていなかった。この立ち入り禁止に先立って、警察官は避難指示区域を検査し、まだ生活している家族を避難させていた[205]。4月24日に日本政府は、立ち入りを禁止された地域や制限された地域とは別にフォールアウトによって影響を受けた北西部の住民に対して、5月末までに避難させることを決定していた。この避難は主に原発から40km圏内にある飯舘村に影響を及ぼしていた[206]。

原発の100km圏内に対して6月と7月に文科省が行った研究は、30ヶ所以上の敷地が148万Bq/m²以上のセシウムで汚染されていたことを示しており、それに基づくとその地域に居住することはチェルノブイリでも許されていなかった。さらに132ヶ所の敷地が55万Bq/m²以上のセシウムで汚染されており、それはチェルノブイリにおいて自主的な避難や農業の禁止を促すための基準値であった。しかしながら日本政府は、このレポートは避難区域に関する新たな情報を与えるものではないと述べていた[207]。

5.3 除染

9月30日の時点で3機のリアクターが2011年末までに冷温停止に近づくものと見られていた[208][209]。そして日本政府は20km圏から30km圏に位置する5つの市町村に避難を求めていた[210]。一方汚染地域は同心円状ではなく、30km圏外に位置する2つの市と1つの村が2011年12月末に避難区域に分類されていた[211]。さらに住民は、原発から3km以内の立入禁止区域に立ち入ることが許されていたが、留まることは許されていなかった[212]。

経産省による長期的な除染の方針は、住民に対する追加的な被曝線量を1mSv/年に抑えることを目標としていた(世界における自然放射線による被曝線量の平均は2.4mSv/年であった)[212]。しかしながら2年間で汚染の50%から60%を減少させる目標(放射線の60%が自然に減少するはずであった)を実行に移すことの効果に対して一部の専門家たち[213]が懸念を示しており、その懸念はセシウム134の半減期と一致した削減目標を批判していたジャパンタイムズ紙[214]によって引き継がれていた。

彼らは、世田谷のようなホットスポットに関して、完全に洗浄し、汚染された地表を剥がし、芝生を張り替える必要があると考えていた。放射性セシウムをケルヒャーによって洗浄することは、腐食した金属、剥げ落ちたペンキ、物質に生じた裂け目を完全に除染できなかった[214]。さらに洗浄されたセシウムの一部は大気中に再び戻り(エアロゾル)、土壌や排水口を汚染していた。同様に空間線量率を減少させるために、舗装された道路、歩道等を張り替える必要があり、それは汚染された大量の土壌を保管することを意味していた[214]。結局のところ影響が及んだ地域において、可能であれば10%から20%でなく90%程度放射線のレベルを減少させること[215]が必要であり、というのは弱いが一定のレベルの放射線が存在している地域に人々を生活させることは政治的に許容されるものではなかったからであった[214]。しきい値のない内部被曝の影響は100mSv以上の急性被曝を除いて統計的に有意ではなかったけれども、100mSvといった数字は放射線防護におけるベンチマークとされていた。日本の一大原子力組織であり、国内のあらゆる原子力エネルギーに対して責任を有しており、英文と和文で日本原子力学会論文誌を刊行している日本原子力学会[216]の元会長である田中俊一は、2011年11月に同様に、日本政府が立入禁止区域を除染する手順をまだ示していなかったことを批判していた(そこでは被曝線量が20mSv/年を超えており、住民が立入禁止区域に帰還するタイムテーブルも存在していなかった)[214]。

除染に関わる作業員の被曝限度は20mSv/年であり、放射線業務従事者の被曝限度と同様であった[217]。日本の首相は、「コントロールを回復するまでに3、5、10年かかり、事故の影響から回復するまでに数十年を要する」ことに言及していた[218]。

5.4 他の措置

安定ヨウ素剤の配布。IAEAは、2011年3月12日の12時40分(UTC)に出した声明の中で、日本政府が事故をIAEAに通知し、甲状腺癌を予防するために住民に対して安定ヨウ素剤を配布することを準備していることに言及していた[219]。住民に安定ヨウ素剤を配布することが公表され[192]、1号機周辺にセシウム137やヨウ素131が存在していることが確認されていた[191]。3月16日に、避難時における安定ヨウ素剤の管理についての指示が、県の担当者や関連する市町村長(富岡町、双葉町、大熊町、浪江町、川内村、楢葉町、南相馬市、田村市、葛尾村、広野町、いわき市、飯舘村)によって監督された「地元の災害対策本部」によって20km圏の避難区域の人々に対して出されていた。

ノータムによれば、原発から20km圏内の航空交通が制限されていた[220]。

BBCやNHKによれば、3月12日の13時49分(GMT)に、防護策として放射線医学総合研究所のチームがヘリコプターによって福島の原発から5km離れたオフサイトセンターに派遣されていた。放医研のチームは医師、看護士、放射線防護の専門家によって構成されていた[190]。

除染はまず6,000cpm以上の被曝線量を検出された個人に対して行われていた。日本の原子力の専門家やIAEAからの助言に基づいて、除染が行われる基準値が、3月21日の月曜日に、6,000cpmから100,000cpmに引き上げられていた[221]。

外国人の避難。3月16日に多くの大使館(ヨーロッパ、アメリカ、ロシア)が自国民を避難させるための勧告を出し、準備を進め、突発的なパニックに対する懸念を強調していたが、日本政府は、東京に在住する日本人に対する避難の手順を考慮していなかった[222]。

2011年3月30日に途方に暮れた一部の日本人は女川原発の建物の中に避難していた[223]。

5.5 ヨーロッパ

7月初旬に公開されたイギリス政府内で交わされた電子メールは、フランス電力会社、アレバ社、ウェスティングハウス社からの支援によって、世論に対する福島原発事故の影響を最小限に抑えるための断固とした意思を示しており、新たに8機の原発を建設する協定に署名する準備を行なっていた[224]。アンディ・マイルズは当時のエネルギー・気候変動大臣のクリス・ヒューンに辞任を求めていた[225]。

以下はオリバー・ストーン、ピーター・カズニックよる"Untold History of the United States"における第14章の概略を紹介したものである。

第14章における筆者たちの主張は、オバマ政権をテーマに据えながら、脅威としてみなしていない国々をアメリカ軍が侵略するとはどういった帰結をたどるのか、各国を取り締まることは本当にアメリカの利益になるのであろうか、失業率が上昇し、インフラストラクチャーが老朽化し、社会的サービスが削減されたときにアメリカはグローバルな国家を維持する余裕があるのだろうかといった問題意識に集約され、アメリカを本質的な意味において民主的にし、公平性を実感できるものにし、革命の魂を取り戻すといったアメリカを変革するための希望に対する一助として、市民の中に存在している歴史観から教訓を学び取る選択肢があることを織り込んでいた。

個人的な願望であるが、以下の概略が上記の作品に直接手を触れてみる契機として位置づけられ、私たちの歴史的展望を広げる参考材料に含まれることを期待している。

第14章の概略

オバマは『スミス都へ行く』の中に登場する理想主義的なジェファーソン・スミスよりはるかに物分かりがよくシニカルであり、支配階級である消息通に囲まれることを知っていたので、選挙戦を通じて約束していた大胆な改革や過去との断絶を示す政策を先手を売って棚上げにしていた。

オバマはブッシュがたびたび国家機密を持ち出すのを批判していたが、ブッシュ時代の拷問や他の人権侵害に対する起訴を妨害しており、司法省はアサンジやウィキリークスに関する他の個人をスパイ防止法の下で処罰する方法を模索しており、ニュート・ギングリッチはアサンジを敵の戦闘員と呼んでおり、サラ・ペイリンはアサンジが手を血に濡らした反米主義者であるかのように標的にすることを望んでいたが、ジェームズ・グッデールはそれがジャーナリズムにおける謀議として示された起訴について実効性のある前例になると警告し、アメリカにおける報道の自由が侵食されていく様子を描き出していた。

民主主義に対するアメリカの自負は冷笑されており、スーマス・ミルンはアメリカ政府の対応が混乱に向かって七転八倒していると記しており、自由の国であるが情報の自由とは無縁であると述べ笑っていた。そして2009年にヒラリー・クリントンがインターネットに対する自由に干渉する中国を非難したことを皮肉のように眺めていた。

オバマは、もしホワイト・ハウスに1冊の本を持って行くならば、それはドリス・カーンズ・グッドウィンの『リンカン』になるだろうと述べており、それは政治的ライバルや個人的に中傷する人々を彼の内閣に引き込むエイブラハム・リンカーンの知恵を称賛しており、タカ派であるクリントンやゲーツを引き込むことによってこの知恵に従っていたが、それは同じぐらいの力量がある批評家とのバランスを取ることを否定していた。

ゲーツはネオコンと密接に結びついた冷戦期の忠実な兵士であり、レーガン政権期において、イラン・イラク戦争を通じて双方に対して武器売却を促進しており、アメリカ軍を肥大化することを正当化するために、ソ連を脅威とみなす見解に沿わないアナリストたちをパージしていた。そして中央アメリカにおけるレーガン政権の残忍な政策の推進者であり、ニカラグアのサンディニスタ政権に対する違法で不透明な措置を擁護していた。

パキスタンの元大統領であるパルヴェーズ・ムシャラフはアメリカによって利用され見捨てられたと感じていたと述べており、パキスタンの核開発プログラムによってアメリカの制裁はさらに緊張関係を悪化させていたが、同時多発テロ以後、アメリカは再びパキスタン人に援助を求めていた。しかし今度はパキスタン人は手を貸すことにそれほど熱心ではなく、アメリカは、パキスタン人がアフガニスタンのタリバンに対する支援を止めることを含めてアメリカの要求に応じないならば、石器時代に戻すまで爆撃すると脅していた。パキスタンは不承不承パートナーになっていた。

パキスタン人は国内におけるアメリカのドローンによる攻撃が増加していることに怒りを覚えており、ワシントン・ポスト紙はオバマが就任してから3年で1,350人から2,250人の死者をもたらしたことを報じていた。オバマはドローンによる攻撃を正当化しており、多くの無実の民間人を殺害していた。デヴィッド・キルカレンやアンドリュー・イグザムは、ドローンによる攻撃が700人の民間人とわずか14人のテロリストのリーダーたちを殺害しており、その成功率が2%であったことを示すパキスタンの新聞報道を引用していた。ファイサル・シャザードは、もし人がアメリカを攻撃したらあなたはどのように感じるだろうか、あなたは主権国家であるパキスタンを攻撃しているんだ、と述べていた。パキスタン人にとって被害者は正真正銘の人間であったが、ドローンの操縦者にとって被害者は潰された虫けらのような存在であった。

しかしアメリカの同盟諸国や国連関係者はそのようにターゲットを定めた殺害の適法性に疑問を呈していた。2011年9月にイエメンでアメリカがアンワル・アル・アウラキやサミール・カーンを殺害したときに、その適法性についてさらなる懸念が生じていた。そしてドローンによる攻撃は数多くの敵を生み出していた。2009年にアメリカがイエメンをドローンで攻撃したとき、アラビア半島のアルカイダはイエメンでは300人以下しか存在していなかったが、2012年までにその数は700人以上に跳ね上がっていた。ワシントン・ポスト紙が報じたように、南イエメンでのさらなるドローンによる攻撃はアルカイダに関連した戦闘員に対する共感をもたらし、アメリカに抵抗するテロリストに連なるネットワークに対して部族民が参加するように促していた。地元の人権活動家は、ドローンはアルカイダのリーダーたちを殺害するが、同様に私たちのヒーローに対しても銃口を向けていたと述べていた。

ヒューマン・ライツ・ウォッチによれば、もし各国においてターゲットを定めた殺害を正当化するならば、中国がニューヨークに在住するウイグルの活動家をターゲットにし、ロシアがロンドンに在住するチェチェンの武装勢力を殺害することを妨げるために何ができるだろうかとの問題意識が存在していた。

オバマとそのアドバイザーたちはアメリカがベトナムへの関与を強めたことをテーマに据えたゴードン・ゴールドスタインによる『大失敗からの教訓』を参照しており、それは一枚岩の共産主義者による脅威とドミノ理論についての基本的な仮定に対して疑問を呈することに対して外交政策の立案者が失敗したことがアメリカの方向性を誤ったものにしていたことを示しており、オバマはアルカイダやタリバンに対処するにあたって同じ間違いを犯さないことを決意していた。

オバマは、ベトナム戦争がジョンソンの大統領としての地位を崩壊させたように、アフガニスタンで行き詰まることが彼の大統領としての地位を運命づけると理解していた。その間ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙の編集者たちはタカ派に戻るためにできる全てのことを行なっており、フェアネス・アンド・アキュラシー・イン・メディア・レポートによれば、タイムズ紙は戦争を支持する36本のコラムを掲載し、また同時に戦争に反対するコラムはわずか7本であり、他方ポスト紙ではその比率は10対1以上であり、編集者たちがタカ派的な立場を非常に明確にしていたことが指摘されていた。

アフガニスタンが実際に必要としていたものは経済援助や社会改革であり、アメリカ軍ではなく、貧困の深刻さは甚大なものであった。その状況でアメリカ軍の増派はアフガニスタンが最も必要としていないものであったが、多くの人々が失態を演じることからオバマを救おうとしていた。アイケンベリーは、パキスタンに聖域が残っている限り、増派がゲリラ戦を終結させることはないといったことを明らかにしており、ハーミド・カルザイの汚職やアフガニスタン軍と警察の脆弱さがその状況をさらなる絶望に変えていた。そしてドローンのような夜間の襲撃が無実の市民を間違ってターゲットにしていた。2011年5月にジャララバードの外にある住居においてNATOによる深夜の襲撃がタリバンのリーダーと間違って地元の警察官を殺害していた。

カナダに脱走した20才の兵士は、共感するという人間の能力が崩壊していくプロセスを描き出していた。そして人間以外の何かとしてアフガニスタンの人々を眺めていたことに言及していた。また歩兵部隊に所属する戦闘について献身的な殺人鬼を創り出す最良の方法は簡単なことでレイシストとして教化することであり、例えば大都市の路上で頭が空っぽな人を兵士として採用するか、いくつかの田舎町から兵士を採用するように、錯乱した若者たちのグループを無実のアフガニスタン人たちを殺害する殺人チームに変えるために、馬鹿げたプロパガンダが効果的であったことが指摘されていた。しかし殺害された人々の上でポーズを取る兵士の写真がシュピーゲル紙に登場したとき、アメリカの当局者は不快であったに違いなかった。

ウィキリークスによれば、腐敗は蔓延しており、それは指導的な立場の人物をほとんど全て含んでいた。そしてタリバンは権力を握っていたときにコントロールされた麻薬取引を維持するために実際にはよい仕事をしていたが、アメリカの侵略後、麻薬が広く蔓延するようになっていた。多くのアフガニスタン人は薬物の乱用に苦しんでいた。カルザイ政権では違法薬物はタリバンに対して安定した資金のフローをもたらし、タリバンは違法薬物に対して10%の課税を行ない、追加料金で薬物の輸送を保護しており、間接的にアメリカやNATOから数百万ドルを受け取っていた。カブールにいるNATOの高官は、私たちは敵と味方の双方に資金を供給していると不満を述べていた。

オバマは多くの腐敗や不正をよく知っており、アメリカ人はこの戦争に懲りているとのフラストレーションを述べていたが、ウッドワードは、オバマに言いたかったことは軍のアドバイザーたちに立ち向かう勇気だと述べていた。バイデンは、数が問題ではなく、戦略が問題であると説明していた。しかしジョン・ティエンはオバマに対して軍とのつながりを無視することができないことを警告しており、マレン、ペトレイアス、マクリスタル、ゲーツといった軍の司令部全体が抗議の辞任をするかもしれないことをほのめかしていた。ところがオバマが窮地に追い込まれていくのを見て、ダグラス・リュートやコリン・パウエルはこの案に我慢する必要がないことを述べていた。トーマス・フリードマンは戦争を拒否する勇気を持ち合わせていないことに言及していた。

ペンタゴンはアフガニスタンがさまざまな電子機器のバッテリーに必要なリチウムにおいてサウジアラビアのようになる可能性があると予測していた。ペトレイアスはそのことに同意しており、ここには素晴らしい可能性があると述べていた。しかし西欧の投資家たちがアフガニスタンの安定化を待っている間に、資源を渇望した中国の国営企業がアフガニスタン東部で銅鉱を採掘する権利を獲得していた。

パキスタンはアメリカとカルザイを仲介する決定を行なっており、カルザイはアメリカやNATOが軍事的に勝利することはありえずいずれ撤退するだろうと感じていたと述べていた。ネイビーシールズがビン・ラディンを殺害したとき撤退への圧力が劇的に高まったが、アメリカはビン・ラディンを発見し襲撃することをパキスタンに警告していなかった。その襲撃はパキスタンに大きな困惑を残し、アシュファク・パルベズ・カヤニは、パキスタンはもはやゲリラに対するドローンによる攻撃に対して協力せず、パキスタン国内におけるアメリカの諜報活動を大幅に制限することを発表していた。

カルザイが、もしアフガニスタンの住宅に爆撃を続けるならば、NATOに対して一方的な行動を取ると述べたことに対して、アイケンベリーは、私たちは占領者と呼ばれており、私たちの寛大な援助のためのプログラムは全く効果がなく、あらゆる腐敗の源であることを耳にすると、私たちのプライドはズタズタになり、私たちは行動に移すためのアイデアを失いかけていたと述べていた。そしてカルザイは、もしパキスタンとアメリカの間に戦争が生じるならば、私たちはパキスタンの側に立ち、私はアメリカの兵士に対してこれ以上アフガニスタン人の居住地域に入り込んでほしくないことを願っていると述べ、アメリカの支持者を激怒させていた。

2011年10月にオバマは年末までにアメリカ軍がイラクから撤退することを発表していた。『エピタフス・オブ・ザ・ウォー』の中でキップリングは、もしなぜ私たちが殺害されるのかについて疑念が生じることがあるならば、私たちの父がウソをついていたからだと答えなさいと記していたが、オバマの発言も同様に痛ましさを感じさせるものであった。

イラクは、数十人の死者や数百人の負傷者と内戦の危機に直面させられた一連の自爆テロによって苦しめられていた。スンニ派は特に苦悩を感じており、アメリカの当局者が2010年の選挙後に作り上げた連立政権は事実上崩壊していた。クルド人が石油が豊富であるクルディスタンを立ち上げたのと同じように、スンニ派の地域はより大きな自治権を求めており、イラクは3つの地域に分割される恐れがあった。

この2つの戦争は紛れもない惨事であり、ゲーツでさえアメリカを侵略国の立場に凋落させた防衛とは無縁の戦争であったことを認めていた。ゲーツは、アジア、中東、アフリカに大軍を再度送るように大統領にアドバイスする将来の防衛長官は誰であれ、マッカーサーが緻密にそうしたように、自分の頭の中をよく検証しなくてはならないと述べていた。

数年に及ぶ近視眼的なアメリカの政策の帰結は帰還することであり、アラブの春の驚異的な民主的変動がアメリカが形成してきた地域を根本的に変化させていたので、アメリカが傍観者の役割を担っていた中東以外にアメリカの帰結が明白な地域はどこにも存在していなかった。拷問の代理人としてエジプト、リビア等と同じように、次々に独裁者を武装させ、訓練し、支援する一方で、数十年にわたりイスラエルを無批判に支援していたことは、あらゆる道徳の権威においてアメリカを引き裂くことになっていた。アメリカが公言していた民主主義は空疎であった。そしてイラクやアフガニスタンにおいてアメリカ軍が直接的にであれ間接的にであれ数十万人の民間人を殺害した後で、民間人に対して武力を用いる抑圧的な体制に対して、アメリカ人が怒ることの意味を真剣に受け止める人はどこにもいなくなっていたとの指摘が存在していた。

ゲイス・アル・オマーリは、現在アメリカ人たちをディスることが流行しており、アラブの春がアメリカの援助なしで生じていたことに言及していた。エルバラダイは地域全体に数十年にわたって後進性と抑圧を押し付けてきたアメリカを非難していた。バーレーン、イエメン、シリア等の残虐行為やワッハーブ派の過激派がアルカイダ等に資金を供給していたサウジアラビアにおける激しい内部弾圧に直面して長らくアメリカが何もしてこなかったことを鑑みると、残虐行為を防止する口実でリビアのムアンマル・カダフィを殺害し、体制転換を図るためにアメリカが支援することは偽善の匂いがしており、その教訓は、アメリカの同盟国のみが虐殺や市民に対する抑圧を許されているらしいということであった。事実、抑圧的な中東の体制を批判するときに、オバマはあからさまにサウジアラビアに対する言及を除外していた。

そしてアメリカは右傾化したイスラエル政府との継続的な関係によって追い込まれていた。一番の問題はイスラエルに占領された東エルサレムとヨルダン川西岸地区の50万人に及ぶユダヤ人入植者の存在であった。2006年のハマスの選挙後のイスラエルによるガザ封鎖はこの問題を複雑にしていた。これは不公正で理不尽であるばかりでなく、イスラエルの希薄な民主主義を維持することさえ脅かすだろうといったことが認識されていた。アメリカは、不法なだけでなく和平の障害となっているパレスチナ自治区に対するイスラエルの入植を非難する国連安保理決議に対する拒否権によって、イスラエルとパレスチナの紛争についての国際世論を軽視していた。

イスラエルはますます孤立していった。そしてエジプトのホスニー・ムバーラクの追放とパレスチナ人に対するトルコの支援の増大はイスラエルにとって最も親密な同盟国を2つ失った形になっていた。それでもネタニヤフやその右派はタカ派的なままであり、オバマや国際世論を無視して、東エルサレムやヨルダン川西岸に対する入植を拡大しており、そのような行動がパレスチナ国家の樹立に対する展望を損なうことが熟知されていた。ジーブ・スターンヘルは『イスラエルの右派は長年にわたる戦争を必要としている』と題した記事を記していた。

イランとの戦争はイスラエルの右派の想像力を最も魅了していた。イスラエルのタカ派はイランの核施設に対する攻撃を支援しようとしており、彼らはそれが原爆を製造するために用いられていると主張していたが、サウジアラビア、トルコ、エジプト、シリア等に対する核軍拡競争を誘発するかもしれないため、イランが原爆製造に着手しないための十分な理由が存在していた。そしてイスラエル人の大多数が軍事攻撃に反対していた。

アメリカのパワーと影響力の低下はラテンアメリカでも顕著であり、中東のように、国民の生活よりもアメリカのビジネスや政治的な利益を優先する独裁者たちを支持してきた歴史の影響は、反米主義の波をもたらしていた。最も親密なアメリカの同盟国であるコロンビアでさえ、その関係を見直していた。フアン・マヌエル・サントスはコロンビアの富裕層と貧困層の格差を縮める政策を採用しているのみならず、ベネズエラやエクアドルとの関係をも修正しており、ウゴ・チャベス‎を新たな最良の友と呼んでいた。ダニエル・オルテガは、モンロー・ドクトリンと永遠に決別することにしたと宣言し、フェルナンド・ルゴ‎は、ボリバルの土地に立っているとは何と素晴らしいことかと述べ、ボリバルの夢が少しずつ具体化していると付け加えていた。

南北アメリカ大陸のサミットにおいて、アメリカはさらに孤立しており、アメリカが事前に議題を設定し、議論の中身を命令していたことに対して、実際の議論はその枠組みから外れており、カルデロンはその変化を、率直に問題が論じられること自体が信じられないと述べていた。そしてラテンアメリカのリーダーたちは、キューバの参加を禁じるアメリカの努力やアメリカやカナダによってのみ擁護される立場に対して愛想を尽かしていたことを明らかにしていた。

中東やラテンアメリカでの挫折にもかかわらず、チャルマーズ・ジョンソンによれば、アメリカは国際的に展開された基地を通じてグローバルなヘゲモニーを維持していた。ニック・タースによれば、基地は1,000以上存在しており、その広大なネットワークを維持するためのコストは数百億ドルに及んでいた。2010年にアメリカは依然として日本に124個所の基地を保有しており、そのうちの38個所は沖縄に存在していた。韓国にも依然として87個所の基地を保有していた。その軍事力は、冷戦スタイルの大型の基地から、高度に機動的な部隊が展開するための起点として機能する「リリー・パッド」として知られる広範に分散化した小型の基地へとシフトしており、そのような基地は中東、アジア、ラテンアメリカで増加していた。

アメリカは苦境に直面しており、冷戦後の世界は冷戦期のルールで動くことを拒否していた。前例のない軍事力や圧倒的な経済力もアメリカのリーダーたちが望むように歴史をねじ曲げる力を有していなかった。国際社会がアメリカによるコントロールから逃れていく中で、独裁的な共産党が政治システムをコントロールしている中国の興隆は対照的なできごとであった。中国はすでに世界第二位の経済大国の地位について日本と入れ替わっていた。

2011年10月にヨーロッパは中国に援助を求め、欧州金融安定化基金に数百億ドルが投資されていた。中国は世界の金融のリーダーとしてアメリカが長らく担ってきた役割を担うことを求められており、ヨーロッパにおける主要な経済資産を買い占めており、ヨーロッパは中国の最大の貿易相手国になっていた。そして中国は、発展が衰退している西欧のシステムより中国の政治経済システムが優位にあると主張していた。同時にアメリカのリーダーたちやアジアの隣国を悩ませながら、急速に軍事力を近代化していた。

もし中国が東シナ海や南シナ海で紛争中の石油、ガス、鉱物資源に富んだ島々や領域に対して攻撃的でないならば、軍事力の近代化はそれほど驚くべきことではなかっただろう。南シナ海での中国による領有権の主張はベトナム、インドネシア、フィリピン、マレーシア、台湾、ブルネイによる主張と紛争関係にあった。東シナ海では中国と日本との緊張が高まったままであった。2011年10月に環球時報は、もし各国が中国に対するやり方を変えないならば、各国は大砲の轟音に対して準備する必要があるだろうし、これは海上での紛争が解決される唯一の方法であるかもしれないので、私たちはそれに対して準備をする必要があるとの記事を掲載していた。

中国の軍事力の増強、エネルギーや原材料に対する攻撃的な買い占め、弱い隣国をいじめることはアメリカが登場する機会を与えており、友好的に紛争を解決する代わりに、アメリカのリーダーたちは地域の緊張を利用し、中国の脅威を誇張していた。中国の軍事力増強を報じながら、アメリカの当局者は、中国が過去20年間で実質的に陸軍のサイズ、空軍の戦闘機の数、潜水艦の数を減少させており、GDPに対する防衛費の割合が日本、韓国、台湾と同レベルであることに言及することを拒否していた。アメリカはでっち上げられた危機を活用する準備ができているように思われていた。アメリカは中国を経済的に軍事的に政治的に封じ込めることを始めており、他のアジア諸国に対してその支援を行うように圧力をかけていた。

ロバート・ウィラードは、中国の増大する軍事力に対抗するためにインドとの戦略的連携を強化するための努力が進行中であることを言及していた。そしてインドは中国を封じ込めるための努力において大きくその姿を示していた。タイムズ紙の社説は、政権はいじめた後に口車に乗せて間違った考えでインドとの核取引を国際的に承認させていると記していた。それは核不拡散の取組みに対する後退であった。そしてオバマは戦略的パートナーシップを加速していた。

日本の首相である鳩山由紀夫が沖縄にある大規模な米軍基地を普天間から辺野古へ移転する合意を再交渉しようとしたときに学んだように、アメリカは心を決めかねている人々に対して我慢強く接することはなかった。沖縄県民の激しい反対にもかかわらず、オバマは日本がその約束を遵守するように主張していた。鳩山はアメリカの圧力に屈し、彼の政権は崩壊していた。そして菅直人はその教訓から学んでいた。日本は、ロシアからの脅威を重視しない軍事ドクトリンにシフトし、中国や北朝鮮と闘うためにリソースをシフトすることを発表していた。日本の機動部隊はアメリカ、オーストラリア、韓国と大幅に協調することになった。日本の新たな防衛大綱は東シナ海や朝鮮半島での危機に対処するために迅速に部隊を展開することができるように機動力を高めることを記していた。

中国のリーダーたちは彼らを包囲しようとしているアメリカを非難しており、中国でなくアメリカが地域における軍事力を誇示していると主張しており、隣国との紛争を平和的に解決しようとしていると主張していた。人民日報はアメリカに対して、中国の核心的利益を不当に害することが可能であるとアメリカの政治家が考えているならば、それは完全に間違っていると伝えていた。オバマがダライ・ラマと会うことを決定したことを含めて、さまざまな問題に対して中国人は同様に怒りを感じていた。

中国のリーダーは、中国が輸入する原油の大半を運搬するタンカーが通過する南シナ海におけるアメリカのコントロールを狭めることによって、実際にはアメリカの船舶が脅かされていることを理解していた。中国は平和的に地域間の格差を解消することを約束していたが、同様に彼らの利益を守り抜くことを明らかにしていた。

中国との対立を煽ることで、アメリカとその同盟国は非常に危険なゲームに関わることになっていた。中国に対する経済依存は彼らを特に報復に対して脆弱なものにしていた。アメリカ国債を1兆ドル以上保有している国として中国はアメリカ経済を牛耳っていた。そして問題を複雑化させていることに、中国がアジア諸国の中で最大の貿易相手国としてアメリカとその地位について入れ替わっていたことが挙げられていた。また日本と中国は通貨をお互いに直接交換できるようにし、ドルを購入する必要性をなくすことを発表していた。そのような動きは中国が望むように人民元をドルに対する代替通貨の地位に据えるための重要なステップを示していた。

アメリカはその経済的地位を強化するための努力に固執していた。2011年の秋にアメリカはアジア、ラテンアメリカ、北アメリカの同盟国とTPPと呼ばれる自由貿易連合を形成していた。TPPは中国を招いておらず、フレッド・フーはそのことに対して疑問を呈していた。またアメリカ太平洋軍はハワイ沖の大規模な軍事演習にロシアとインドを招いていたが、中国は招かれていなかった。

アメリカのヘゲモニーに対する自負は強いままであったが、アジアや世界の他の地域を取り締まる警察国家としてのアメリカの機能はバジェット・クライシスによって制限されていた。そしてアメリカに対するアジアの同盟諸国はアメリカの努力を妨げるような予算上の制約に直面していた。シドニー・モーニング・ヘラルド紙は、ギラード政権は74年間で最も低くオーストラリアの防衛費を削減することを選択していたと述べていた。アメリカにとって、太平洋とは別に、防衛予算の縮小は部分的には57万人から49万人へと陸軍のサイズを削減することやヨーロッパでの軍事力の削減から生じていた。オバマはパネッタに対して、私たちは時代遅れの冷戦時代のシステムを取り除き続けるだろうし、そうなれば私たちは将来必要な機能に投資することが可能になるだろうと述べていた。

ゴルバチョフは、歴史の進路を変えることを許容した大胆な構想を追求するようにオバマに促していた。そして、アメリカは今ペレストロイカを必要としており、なぜならオバマが扱う問題は簡単なものではないからだと述べていた。ゴルバチョフは、世界的な景気後退を引き起こし、富裕層と貧困層の格差を固定化した規制のない自由市場政策を終焉させることを求めていた。またアメリカはもはや世界の残りの国々を支配することはできないと警告していた。

2012年は夜明けのように世界が流動的になっていた。2011年には世界で支配的なエリートたちがガタガタになる大変動を認識することになり、タイム誌は今年の人に抗議する人々を選んでいた。モハメド・ブアジジによる単純で絶望的な行動は民衆による反乱に火をつけ、23年に及ぶベン・アリー‎による支配を打ち倒すことになった。その運動は即座にアルジェリア、エジプト、そして世界中に伝播していった。2011年2月にウィキリークスが25万件に及ぶアメリカの公電を公開したことが燃え盛っている炎に油を注ぐこととなった。リビア、シリア、イエメン、バーレーンの抗議者たちはすぐに政府のコントロールから解放されることを求めていた。政府や銀行に課された緊縮財政に対する反対はヨーロッパ、特にスペイン、ギリシア、イタリア、フランス、イギリスに広がっていた。中国の市民は腐敗や不平等に抵抗し、政府関係者たちをものともしなくなっていた。ロシア人たちは不正投票やプーチンによる独裁体制に対して立ち上がっていた。日本人は福島原発事故の影響で政府や電力会社のウソに対して怒りを表明していた。

アメリカでは、オキュパイ・ウォールストリートが、富裕な1%の層と残りの99%の層の間の格差が拡大していることについて関心を向けさせていた。2012年にジョセフ・スティグリッツは、6人のウォルマートの相続人の資産の合計である900億ドルはアメリカ人の底辺の30%の資産の合計と等しいことを計算していた。失業率が上昇し、インフラストラクチャーが老朽化し、社会的サービスが削減されたときに、アメリカは巨大でグローバルな帝国を維持する余裕があるのだろうか。地球を取り締まることが本当にアメリカの利益になるのであろうか。アメリカ人に対して脅威にならない国々を再度アメリカが侵略することはあるのだろうか。

労働者たちの権利、社会正義、1930年代や1960年代に見られた反戦闘争に耳を傾ける運動は数百万人の人々や特にアメリカの若者に火をつけていた。数十年間で初めてユートピアの可能性を感じ取り、アメリカ人は公正で公平な社会とはどのようなものかについて考えを巡らし始めていた。もはや彼らは無節操な権力に我慢することなく、公的な生活と私的な生活のすべてを支配している富裕層に影響されることもなかった。国際的に広がった新たなアメリカの行動主義と民主的な奮闘の連携は将来に向けて主張を行なっていた。

バラク・オバマは以前の変革を思わせる人物に戻る弱い兆候を示し始めていた。オキュパイ・ウォールストリートがメッセージを伝えることに成功し、共和党が譲らず、経済が停滞し、予算が制約され、支持率が上下することに刺激され、オバマは昔のダイナミズムを取り戻すように思われていた。オバマはイラク戦争を終結させ、防衛費を削減していた。オバマがケネディ風にシリアに取り組み、アメリカの軍国主義や帝国主義がアメリカ人の生活や他の世界の人々をどれほど貧困にしているのかを認識することはあるのだろうか。明白なことは、アメリカを本質的な意味において民主的にし、公平性を実感できるものにし、革命の魂を取り戻すといったアメリカを変革するための希望は、反抗的な集団と付き合っているアメリカ市民の中にあり、歴史の教訓を広め、その人々の歴史はもはや語られることのない性質のものではなく、富裕で貪欲で権力が強大な人々のためではなく、圧倒的多数の利益を示す世界の創造を求めていることであった。このような運動を打ち立てることは、かつて蔓延していた安全保障を第一に据える国家を支配する人々からアメリカの民主主義を救う唯一の希望の灯火であった。1787年に女性がベンジャミン・フランクリンに対して、じゃあ、私たちは何を手に入れたのと尋ねたときに、フランクリンは、共和国さ、もしあなたがそれを維持できるならばねと答えていた。

上記の第14章の概略に関する詳細な邦訳は、早川書房から出版される、『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史3』といった邦題からなる作品の中に収録されることを追記する。

以下はオリバー・ストーン、ピーター・カズニックよる"Untold History of the United States"における第4章の概略を紹介したものである。

第4章におけるピーター・カズニックの主張は、第一に、なぜ日本のリーダーたちがすぐに降伏せず、兵士や市民の苦しみを和らげなかったのかという問題に対する答えが、アメリカでの降伏条件を巡る議論の中に存在していたことや、第二に、なぜアメリカが2つの原爆を使用したのかという意識の下で、どのような政治環境や道徳意識の中で原爆投下の決定がなされていたのかを理解する必要性が存在していたことを描き出している。

個人的な願望であるが、以下の概略が上記の作品に直接手を触れてみる契機として位置づけられ、私たちの歴史的展望を広げる参考材料に含まれることを期待している。

第4章の概略

アメリカでは、数十万人の若者たちの命を救うために仕方なく第二次世界大戦末期に日本に原爆を投下したと教えられていたが、この話は本当はもっと多大なる困惑を伴うものであった。

統合参謀本部は、太平洋戦争に勝利するために2つの戦略を採択しており、まず空と海を封鎖し日本を封じ込め、集中的な空爆によって国を揺さぶり、次に日本の軍事力を弱体化させ、士気が低下したところで侵攻するといった内容であった。

7月9日にアメリカ軍はサイパンを奪取し、その死傷者数は甚大であった。大半の日本のリーダーたちにとって、その悲惨な敗北は軍事的勝利を勝ち取ることができなかった決定的な証拠を示しており、7月18日に首相である東條英機と彼の内閣は総辞職していた。

戦局に対する見通しが悪化し、日本のリーダーたちは一億玉砕を求め始め、国家が降伏するよりむしろ滅びるまで闘うことを好んでいたが、マーシャルやスティムソンを含むアメリカのリーダーたちはそのような説を退け、敗北を重ねさせれば日本が降伏するだろうといったことを確信したままであった。スティムソンは、徹底抗戦するために狂信的に抵抗する日本の潜在能力にもかかわらず、日本はそのような危機において合理的であり、狂信者たちによって全体を構成されている国家ではないと信じていることをトルーマンに述べていた。

ボロボロの幹線鉄道、困窮した食料供給、低下した公共のモラルに直面して、日本のリーダーたちは民衆の蜂起を恐れており、近衛文麿は裕仁に対して、日本の敗北が避けられないと言わねばならないことを残念に思っていると述べ、懸念しなければならないことは敗北に乗じて生じるかもしれない共産革命であると警告していた。ヘンリー・ルースによれば、日本は敗北しており、そのことを日本人は知っており、日々戦争終結のためのサインを示していた。リチャード・フランクでさえ、原爆投下がなくても、海上封鎖と空爆戦略の累積効果によって、鉄道輸送網に対する被害の拡大が国内の秩序に対して深刻な脅威を与えており、それゆえ実際に戦争終結を求める方向へ天皇を駆り立てていたことを認識していた。

遡ること1943年1月のカサブランカでローズベルトはドイツ、イタリア、日本に無条件降伏を求め、チャーチルでさえ驚きを示していた。そしてその要求にこだわった場合の影響は甚大であった。無条件降伏が国体の解体や天皇が戦犯として処刑される可能性を意味していると日本人は考えており、多くの人々はトルーマンに降伏条件を和らげるように促していた。ジョセフ・グルーによれば、無条件降伏は、その制度の保持を望んでいるならば、現在の皇室の排除を意味しないだろうという大統領によるコミットメントなしに、軍事的敗北に関わらず現実的なものでないだろうと認識されており、リーヒによれば、無条件降伏に対する主張が日本人の絶望を深めるだけに終わり、それによって死傷者リストが増加することが懸念されていたことが指摘されていた。

アメリカの当局者たちは降伏条件に対する懸念がどれほど重大かを理解していた。そして5月に日本の最高戦争指導会議構成員会合が東京で開催されたとき、アメリカによる降伏条件を変更するためにソ連の支援を得る決定がなされ、見返りにソ連の領土に対する譲歩が示されていた。その決定は、ソ連の当局者たちに日本人が戦争から離脱する道を探っていることを確信させるのに十分なものであったが、連合国が太平洋戦争参戦の見返りにソビエトにもたらす譲歩を確かめたかったソビエトのリーダーたちを喜ばせるものではなかった。6月18日に天皇は最高戦争指導会議構成員会合に迅速な平和への回帰を希望していることを知らせており、最高戦争指導会議構成員会合は、天皇を擁護し皇室を保護するために、降伏の仲裁を行うことについてのソ連の意思を確認することに同意していた。7月12日に東郷は佐藤に公電を打ち、アメリカとイギリスが無条件降伏を主張する中、私たちの国は祖国の生き残りと名誉のために全力で戦争の早期終結を目指す他はないと述べていた。しかしトルーマンはバーンズの言うことに耳を傾け、バーンズはアメリカ国民は妥協の産物である降伏条件を許容できないだろうと主張し、大統領に対してもし妥協するならば大統領自身が政治的に葬り去られるであろうことを警告していた。

すでに敗北していた国に対して2つの原爆を投下することは道徳的に非難されるべきことであると思われており、天皇をそのままに据えることに対してトルーマンが代価を支払わなければならないと考えるべき理由はほとんど存在していなかった。共和党のリーダーたちはトルーマンが必要としている政治的な全ての援助をトルーマンに与えていた。6月の社説でワシントン・ポストは、無条件降伏が戦争を終結させることにおいて障害となっているとの懸念に対して、無条件降伏が致命的なフレーズになっていることを非難していた。

他方で降伏条件を変更することは、原爆を使わずに、日本の降伏を早める唯一の方法ではなく、日本人が何よりも恐れていたことはソ連の参戦であった。1945年4月の初めにソ連は1941年の中立条約を更新しないことを日本側に伝えており、ソビエトが参戦することに対する日本側の不安を高めていた。5月に日本の最高戦争指導会議構成員会合は、ソ連が参戦するならば、戦争における絶対的な敗北が避けられないものであることを全ての日本人は理解するだろうとの結論に達しており、7月6日に合同情報委員会は、ポツダムで会談するであろう合同参謀本部に対して、すでに希望がない日本人に対してソ連の参戦が効果的であることを記していた。

日本を支配しているリーダーたちは絶望的な軍事情勢を認識しており、妥協を伴う平和を求めていたが、まだ無条件降伏を受け入れがたいものとして眺めており、政府の基本方針は完全な敗北を避け、和平交渉においてより有利な交渉上の立場を獲得するために、可能な限り長期間にわたり絶望的に戦い続けることであったが、かなりの日本人は絶対的な軍事的敗北の可能性が高いことを認識していた。そしてソ連の参戦は完全な敗北が避けられないことを日本人に納得させていた。

他方でクリスチャン・センチュリー紙によれば、強制収容所に対する政策の全体像は、憲法上の権利を破壊し、アメリカ政府が原則として人種差別主義を確立する方向へ向かっており、それはドイツが歩んだ道と同じであることが指摘されていた。フランク・マーフィーの補足意見によれば、いかなるグループであっても同化することができないと述べることは、偉大なるアメリカの実験が失敗したことを認めることと同義であり、人種や祖先によってアメリカ市民の自由を実質的に制限することを支持することが、ドイツや他のヨーロッパの地域におけるユダヤ人に対する処遇と憂鬱なほど類似していることが指摘されていた。

都市部の爆撃は第一次世界大戦中から行われており、それは戦間期においても残忍な方法で継続されており、1937年にアメリカは中国の都市を日本が爆撃していたことを非難しており、1939年に戦争がヨーロッパで始まったときに、ローズベルトは無防備な一般市民を爆撃する非人間的なバーバリズムを控えるように戦闘員たちに懇願していたが、大規模な民間の死傷者を生じさせることに対する無関心が市民の間で増大傾向にあった。

歴史学者である田中利幸によれば、アメリカは100以上の日本の都市を爆撃しており、スティムソンはトルーマンに対して、アメリカが虐殺においてヒトラーを超えているとの悪評を得ることを避けたいと述べるように促していたが、スティムソンが虐殺を止めさせるためにしたことはほとんどなく、民間人への被害を制限するとのアーノルドの約束を信じることで自分自身を騙しており、ロバート・S・マクナマラは、もしアメリカが戦争に敗北すれば、全員が戦争犯罪人として裁かれ、有罪の宣告を受けるだろうといったルメイのコメントに同意していた。スティムソンは空爆を実施するべきではなかったとは述べていなかったが、それを疑問に思うものが誰もいない国というのは何か間違っていると考えていた。

シラードによれば、バーンズは戦争に勝つために日本の都市に対して原爆を使用することが必要であるとは主張しておらず、日本は実質的に敗北していたということを当時の彼は知っており、ヨーロッパでロシアの影響力が拡大することを非常に懸念しており、原爆投下がヨーロッパにおけるロシアの態度を柔軟にさせるだろうと主張していた。グローヴスも心の中でソ連が常に敵であったことを認めていた。

ポツダム会談における太平洋戦略情報部のサマリーによれば、日本が現在正式でないにせよ公式にその敗北を認めており、勝利を放棄し、国家のプライドとその敗北という現実を融和させ、その最善の手段を見出す方向へ日本を転換させることが促されていた。そしてトルーマンの目的は約束通りソビエトが参戦することを確認することであった。トルーマンには選択肢が存在していた。核実験成功の知らせは、ソビエトからの援助なしに、アメリカ側からの条件による日本の降伏を加速させ、それによってソ連から要求されていた領土や経済面に対するアメリカ側の譲歩を拒否できることを意味していた。しかしトルーマン、バーンズ、グローヴスと異なり、スティムソンは原爆の使用について深刻な懸念を抱いており、日本人に対して天皇制を保障するようにトルーマンやバーンズを繰り返し説得していたが、それは無駄であった。

核実験が成功していたので、トルーマン、バーンズ、スティムソンはもはやソ連の参戦を歓迎しておらず、ソ連の参戦はローズベルトがヤルタで約束したソビエトに対する譲歩を示しており、チャーチルによれば、その時のアメリカは日本との戦争にロシアが参加することを望んでいなかった。スターリンは、アメリカ人たちはヨーロッパで主導権を握るために原子力を独占的に利用するだろうが、アメリカ人たちからの脅しに譲歩するつもりはないと述べており、ソビエト軍に対して対日参戦を加速させるように命じ、ソビエトの科学者たちに対して研究を加速させるように指示していた。

降伏条件の実質的な変更、原爆についての警告、ソ連の参戦を含んでいないポツダム宣言が日本によって受諾されることはないだろうということをトルーマンは知っており、7月25日にポツダムで、8月3日以降天候がよければすぐに原爆を投下することを指示するスティムソンやマーシャルによって署名された指令を承認していた。

トルーマンの行動は、アメリカが早期に戦争を終結し、ソ連と約束した譲歩を反故にするとのスターリンの見方を立証しており、スターリンはトルーマンに対して、ソビエト軍が8月中旬までに攻撃を行う準備があることを伝えていた。トルーマンは平和を望んでいたが、まず原爆を使用することを望んでいた。

ソビエトのリーダーたちは歓喜どころではなかった。すでに命乞いをしている国家を敗北させるために、原爆が必要でないことを理解しており、ソ連が原爆の真の目標であると結論付けており、アジアにおけるソビエトの利益を先取りするために、アメリカ人たちは日本の降伏を加速させることを願っていると考え、明らかに必要でないにもかかわらず広島で原爆を使用することによって、もしソビエトがアメリカの利益を脅かすならば、アメリカはソビエトに対しても原爆を使用するシグナルを送っているとソビエトのリーダーたちは結論付けていた。

アレクサンダー・ヴェルトによれば、広島の知らせは皆を意気消沈させており、原爆がロシアに対する脅威を形成していたことが明確に認識されており、ロシアのドイツに対する絶望的なほど困難であった勝利が今やその価値を失っていたと、ロシアの悲観主義者たちが憂鬱そうに述べていたことが回想されていた。

ジューコフは、アメリカ人たちの本当の目的が何であったのかを確かめており、冷戦における強い立場を確保する帝国主義的な目標を達成するために、アメリカ政府が原爆を使用する意図を有していたことは明らかであり、軍事的な必要性と関係なく、アメリカ人たちは広島や長崎といった平和で人口密度の高い地域に原爆を投下していたことを指摘していた。アナトリーによれば、広島の原爆投下はソビエトの軍事力に狙いを定めたものであり、連合国側に対する不信が急速に増大し、原爆を投下されることによる潜在的な損失を低下させるために、拡大した領土に対する支配を確立し、大規模な地上軍を維持することが必要であるといった見解が広まっていた。

広島での原爆投下の後、8月9日にソ連軍はほとんど抵抗を受けることなく満州、朝鮮、樺太、千島列島に侵攻していた。そして日本がソビエトによる侵攻に対処する前に、アメリカは長崎にファットマンというプルトニウム爆弾を投下していた。テルフォード・テイラーによれば、広島での原爆投下に対する善悪が議論されているが、長崎での原爆投下に対する正当な根拠を聞いたことがないとの指摘が存在しており、それは戦争犯罪であると考られていた。

日本政府の関係者たちはソ連の侵攻に意気消沈しており、緊急閣議を開いたが、そこで長崎での原爆投下を知っていた。ソ連に対する日本の外交的なアプローチと、アメリカによる侵攻に対して徹底的に抗戦する決号作戦の双方が、完全に崩壊していることが示されていたが、降伏を検討している日本のリーダーたちにとって、原爆投下は追加的な誘因を与えていたけれども決定的な誘因を与えるものではなく、天皇はポツダム宣言を受諾し降伏する意思を表明していたが、それは統治者としての大権を損なういかなる要求をも含んでいない限りにおいてであった。

日本が即時降伏することを宣言しなければ、ソ連が満州、朝鮮、樺太のみならず北海道も奪い、それは日本の基盤を破壊するがゆえに、アメリカと取り引きを行い戦争を終結しなければならないといった状況で日本側に選択肢は存在しておらず、一旦天皇による決定が明確になると、自己による軍備放棄、戦争犯罪を裁かない、占領を行わないといった3つの追加的な要望によって抵抗していた最高戦争指導会議構成員会合のメンバーの内の3人が、降伏に反対することを取り下げていた。彼らはアメリカが天皇制を維持することを許容しそうであると眺めており、ヨーロッパの一部で生じているように、侵攻しているソ連軍が日本国内における共産主義者の蜂起につながることを恐れていた。

トルーマンは日本側による降伏の申し出を検討しており、バーンズは、天皇制を維持することが大統領を政治的に葬り去るであろうといったことを警告しており、スティムソンは、たとえ日本人が疑念を抱いたとしても、天皇以外の他の権威を認めない各地に散らばった兵士たちを降伏させ、硫黄島や沖縄のような大量の犠牲からアメリカ側を救うためにも、私たちは天皇制を維持する必要があると主張していた。そして議論の後、ポツダム宣言に従って、最終的な政府の在り方は自由に表明された日本人の意思によって確立されなければならないとの曖昧な声明で妥協が成立していた。

河辺虎四郎によれば、ヨーロッパにいる大量のソ連軍が攻撃の矛先を向けていることを絶えず恐れ続けていたので、ソビエトの参戦ははるかに深刻な衝撃を与えていたとの指摘が存在していた。1946年1月にアメリカの陸軍省によって行われた研究も同じ結論に達しており、そこでの議論を通じてアメリカによる原爆の使用が降伏の決定を促したことを指摘しているものはほとんどなく、日本はロシアが参戦した時に降伏していたということがほぼ確実であったとの指摘が存在していた。

バチカンは即座に原爆を非難していた。カトリックの世界は原爆の使用を凶悪で忌まわしいものとして表現しており、キリスト教による文明や道徳観がこれまでに直面してきた中で最も強力な咆哮であったと表明していた。ジョン・フォスター・ダレスは、もし私たちキリスト教徒の国がそのような方法で原子力エネルギーを用いることに道徳的な自由を感じているならば、どこかで人はそれに対する審判を受けるであろうし、原子力兵器は通常兵器であると見做されているが、ある段階で人類に対して突発的で終末的な破壊を用意するだろうといったことを懸念していた。

ロバート・ハッチンスによれば、原爆は最後の手段として用いられるべき兵器であり、この爆弾が投下されるときに、アメリカの当局はロシアが参戦する予定であることを知っており、日本は封鎖され、その都市は焼夷し尽くされていたことを考慮すると、すべての証拠がこの爆弾の使用は不要であったという事実を示しており、アメリカがその道徳的地位を失墜していたことが指摘されていた。

もし広島や長崎に原爆を投下していなかったならば、ソ連はもっと柔軟に対応していただろうし、アメリカは自分の願望を押し通すためにどんなことでもするだろうといったことや、ソビエトがアメリカに対する抑止力として自身の原爆を開発することを加速させなければならないことを、スターリンに確信させることもなかったであろう。

ドワイト・マクドナルドは、広島の荒廃以前から戦争が有する非人間性を指摘しており、1938年にフランコによる爆撃機が数百人に及ぶスペインの民間人を殺害したときに、人々が感じていた信じがたい恐怖と怒りが、東京における数十万人の被害者に対して絶望的なほどの無関心へと変化していたことを考察しており、この10年間において徐々に恐怖心を増大させることが、個々の私たちに対して、ミトリダテス6世に関する言い伝えを道徳意識に関して適用するように、人間に対する同情心に対して耐性を身に付けさせていったのだろうと述べていた。

チャーチルでさえ原爆を擁護することの困難さを認識しており、もしペトロが、原爆の投下を退けることができたことに対して責任があると理解しているが、どういう弁護がなされえるだろうかと尋ねることがあるならば、トルーマンがトルーマンなりの答えを用意していることを望んでいると述べており、原爆はアメリカとイギリスがソ連と対決するためにトルーマンやチャーチルが用意していた唯一の対処法ではなかったとの指摘が存在していた。

上記の第4章の概略に関する詳細な邦訳は、2013年4月4日に早川書房から出版されており、『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史1』といった邦題からなる作品の中に収録されていることを追記する。

リオタールの『ポストモダンの条件』によれば、合理主義やヘーゲル派の普遍主義に基づく歴史といったモダニティに関するメタナラティブはアウシュビッツの後に全ての信頼を失い、知識は単なる情報商品になっていた。そして合理性の解放や普遍主義に基づく歴史における権威はカントやルソーによる啓蒙思想に基づいていた。

デリダの脱構築によれば、エッセイ、小説、新聞の記事のようなテクストにおける意味はそれらが示す物に対する言及よりむしろ採用された語の間における差異の結果であると理解されており、言語学におけるソシュール派の差異の意味に例えられながら、対立する個々の語の意味を打ち消すように作用する能動的差異が問題とされていた。そして脱構築は方法や哲学の体系として存在することを意図している訳ではなく、むしろ実践を示しており、しばしば陰鬱で複雑な数式を批判されていた。

フーコーの『言葉と物』はエピステーメーという用語によって科学の変容を分析しており、16世紀のルネサンス期のエピステーメーを類似の時代、古典主義時代のエピステーメーを表象や同一性と差異性に関する秩序の時代、近代のエピステーメーを私たちが属していた時代として言及していた。

ジョルジュ・カンギレムがフーコーについて述べたように、エピステーメーを理解するために、専門家は専門性から抜け出し、一般論の専門家ではなく、複数の専門分野を行き来できる専門家を目指さなければならなかった。

そして進化論は生物学における理論を構成しており、その可能性の条件はキュヴィエのように進化を認めない生物学であり、マルクスの著作における可能性の条件はリカードであり、フーコーが言及していたことは与えられた時代に取って代わる言説の変容であった。

1972年のインタビューの中でフーコーは、『言葉と物』の中で示されているものは古典主義時代のあらゆる知であるが、古典主義時代の思想から離れたところに存在しており私たちのモダニティを構成している知の境界でもあり、私たちの思考の枠組みに課されている展望を抱くことは私たちが属しているエピステーメーに存在している制約に関する目に見えないネットワークの中にある枠組み自身を外部のエピステーメーとともに考慮することであったと述べており、古典主義時代のエピステーメーにおいてフーコーは人間が存在していないことを想起させており、『言葉と物』の中で、古典主義時代のエピステーメーは生命の力、労働の豊かさ、言語の歴史の深みを有しておらず、知におけるデミウルゴスがその手で200年かけてあらゆる近年の創造物を作り出していたと述べていた。

リオタールによれば、近代のナラティブは神や主観のようにその時その時の世界観に基づいて中心となる原理を構築しており、一般的な表象に対するその基礎を構成しており、一般的な考察において異質な存在を除外していた。そしてリオタールは神、主観、理性、理論体系、マルクスの社会理論のような一般的で絶対的な解釈のための原理の代わりに多様なナラティブを解釈のためのモデルとして提示する多数の言語ゲームを考慮していた。したがって彼は一般的に合理性と対立していたのではなく、むしろ合理性に関する特定の歴史的形態と対立していた。

この『ポストモダンの条件』は元々カナダ政府のためにポスト工業化社会における知識の役割について書かれたものであった。そして哲学、芸術、文化、社会科学における多くの展開の基盤を大きな物語の終焉といった主張で説明していた。

リオタールが述べていた大きなメタナラティブとは啓蒙主義、理想主義、歴史主義であり、これらはポストモダンにおいて全く正当性を有しておらず、ヘーゲルの意味で1つのイデオロギーに全体として束ねられた精神における自我、ユートピア、歴史において意味のある進歩が存在するといった思想はもはや信じられる存在ではなかった。したがって自由主義や社会主義といった大きな思想が影響力を行使できず、あらゆる社会的行為がそれらに一致することもなかった。合理的な科学、道徳的な行為、政治における正義の概念はかつてはその固有の役割を有していたが、それらに対して意見を一致させることができなかった。

カントは必然性の領域や判断力を超える自由を介して美学における美が約束されるものを与えていたことを強調していたが、この約束はリオタールによれば至高の中に登場する隔たりを通じて損なわれていた。

政治学や国際関係論においてポストモダンのアプローチはイメージやシンボルのようなテクストや出版物を分析することにフォーカスしており、カテゴリーに分類することについて懐疑的であり、理由としてある事実が言説的に伝えられると常にこの事実に関する1つ以上の見解が存在していたことが挙げられていた。

そして言説における形式の優劣は力の問題であり、リアリズムのようなアプローチにおいて力は国家に留保されており、資源においてはより有利な国際的な立場にあるものが支配的であったが、ポストモダンのアプローチは言説の表象が力の表現であることから出発するのではなく、言説自体に向き合っており、力は単に言説の一部に関連しているのではなく、ナラティブ全体の背景に広がっていた。

リアリズムは、ポストモダンの立場が非合理主義に偏っていることを批判しており、また自然科学の理論が観察を通じて正当性を築き上げ、それを用いることを可能にし、客観的な事実を記述していることを否定していることを批判していた。いわゆるソーカル事件は有名であり、その論文の中にある、量子重力理論は言語的そして社会的な構築物であり、科学的客観主義に疑問を呈することによって、量子力学はポストモダンの見解を支持するといった記述の意図は、ポストモダンの人文科学や社会科学における一定の知識水準の欠如と数学や自然科学のメタファーの濫用に起因していた。そしてリアリズムの支持者たちとポストモダンの支持者たちの対立は英語話者の国々ではサイエンス・ウォーズという用語で知られていた。

また保守主義やリベラリズムのような古典的な政治的イデオロギーは、ポストモダンの思想が文化や社会における裁量を欠いているとして批判しており、セイラ・ベンハビブによれば、ポストモダンの立場はフェミニズム理論の特殊性を失わせるだけでなく、女性運動の登場にも疑念を呈しているとされていた。

フーコーは、例えばカントやヴェーバーによる仕事を放棄するとき、私たちは非合理性の虜になる危険性と隣合わせにあるといったハーバーマスによって示された問題に同意していたが、私たちが用いている理性の特徴や起源によって支配されたままであるといった問題に出来る限り近づくことを求めており、合理性が有する二面性を問題として取り上げ、レイシズムにおける表現形式のように非合理性における典型的な表現形式が輝かしい合理性の表現形式として表象されており、それが社会進化論における一例に含まれていたことを指摘していた。

フーコーとハーバーマスの間で行われた論争は倫理的言説に関するコミュニケーション的行為等に対するハーバーマスの考え方とその系譜や力と知識の関係に対するフーコーのアプローチを問題の中心に据えていた。双方が双方の思想を大幅に変更していたことによって合意に達することは困難であり、例えばフーコーに対するハーバーマスの見解はとりわけ1970年代中盤のそれを代表していたが、フーコーは1980年代初め以降彼の理論における展望の外に彼を位置づけていたと回答していたことが指摘されていた。

ハーバーマスは『近代の哲学的ディスクルス』の中で、フーコーによる批判自体が力の表現形式として理解されるならば、その論証を損なうことなく力に対する批判を表象することは不可能であるといったことを示していた。

フーコーは『啓蒙とは何か』の中で、カントとの肯定的な関係やカントの批評に対するアプローチを表象させており、ハーバーマスとの違いや、近代におけるエートスや規範に関する見解の中で、何がその批評に対する哲学的見解であるのかを示していたが、ハーバーマスは『啓蒙とは何か』を読んだ後、フーコーが自身を近代における哲学と同列に論じており、それは同一ではないといったことを指摘していた。

ハーバーマスによる『現在の核心に対する批評』によれば、彼は社会に対するフーコーの分析の価値を認めていたが、力に対するフーコーによる批判はそれが依拠している規範的な基盤を損なっていたとの指摘が存在していた。

他方マイケル・ケリーによれば、フーコーとハーバーマスの論争における二次資料はしばしばハーバーマス派によって制作され、ハーバーマスの用語を一方的に採用していたことが書き記されていたが、アマンダ・アンダーソンによれば、そこではハーバーマスは理想的な合理主義者の立場からのみ発言するものとして描かれていた。

ハーバーマスは人間中心主義を対話を通じた偏見からの解放として理解していたが、フーコーは両価的な見解を示しており、多くのものを排除する自己の領域を拡大する力として理解していた。そしてハーバーマスは彼自身をルソーやその社会契約から生じた結果の中に位置付け、民主主義や人権の番人として理解していたが、フーコーの姿勢は明らかに両価的であり、確かに人間中心主義は女性、ヨーロッパ外の人々、困窮している人々のように不利益な立場に立たされている人々に解放を約束するものであったが、それは彼らに画一性を課すものであり、一般的なカテゴリーに当てはまらない人々を除外するものであり、合理性はテクノクラートによって支配されやすい明白な規範を押し付けるものであった。

フーコーにとって人間中心主義は人間の発展段階と関係しており、絶対主義を導き、主体の解体を導くものであり、このテーマを『監獄の誕生』の中で詳細に述べており、ロック、ルソー、カントによって定められた思考の枠は、人間中心主義がとりわけ豊かなヨーロッパの様式によって構成されており、豊かなヨーロッパの様式に類似したものとしての規律を教えられている限りにおいて、女性、ヨーロッパ外の人々、労働者といった他の人々に人間社会の構成員としての完全な立場を認めるといったことであり、批評の狙いはそのように理解されている人間中心主義を脱構築することであり、人間中心主義が作用する特定の歴史的条件を問題にしていた。

ハーバーマスの主張は、コンセンサスを指向するコミュニケーション的行為を通じて批判的実践が行われ、そのコミュニケーション的行為は力関係によって制限されていないこととして理解されており、フーコーの主張は、戦略的な行動が批判的実践を位置付け、その戦略的行動は力関係から明らかに影響を受けていることとして理解されていた。

フーコーは、人間中心主義についてハイデッガーの意味での直観を通じて認識や正義に対して疑問を呈しており、人間の有する普遍性に対しても疑問を呈していたが、ハーバーマスは、人間中心主義が力関係によって構築されていないことを認めることによって、コミュニケーション的行為を理想化していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツのWikipediaの「ポストモダンの条件」、「脱構築」、「言葉と物」、「ポストモダン」、「フーコーとハーバーマスの論争」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/La_condition_postmoderne

ポストモダンの条件

『ポストモダンの条件―知・社会・言語ゲーム』(1979年)は多くの大学においてポストモダニズムを普及させたジャン=フランソワ・リオタールの著作であった。これはケベック州によって委託された「20世紀の知・社会・言語ゲームについてのレポート」の典拠であった[1]。それは人間の歴史、経験、知識の統合を説明するための包括的なスキームであるメタナラティブに対する「不信」によって科学の進歩に関する問題が混乱していることを特に考慮していた。ナラティブな知識を科学知識と比較することによって、それはポスト工業化社会における情報化によって促される変化に関してこれらのカテゴリーを検討していた。再検討されたモダニティに関する2つのメタナラティブは合理的な主題の解放であり、ヘーゲル派の普遍主義に基づく歴史であった。しかしリオタールによればこれらの大きなナラティブは近代科学を推進する発案を正当化し、アウシュビッツや情報社会の後に、それらは全ての信頼を失い、そのため知識は単なる「情報商品」になっていた[2]。ではどのように科学を正当化できるだろうか?

1 ポストモダンの条件とポストモダニズム

おそらくリオタールの業績の中で最もよく知られ最も引用されていたのは『ポストモダンの条件』であり、それは「ポストモダンの哲学」を一般に開放した形で検討していた。アメリカ人たちがポストモダンに関する研究と呼ぶものにおける父としてリオタールを眺めることは問題を含むだろうが、この考え方は文学、芸術、建築におけるポストモダニズムの名の下における多くの批評に示されるように非常にさまざまな方法で扱われていた。このテクストはその定義やその考え方の始まりを提示しておらず、むしろ何がこの考え方に作用し、何がそれを批評のパラダイムにおいて構成していたのかを示していた。

2 知識の混乱

リオタールは20世紀後半に初めて知識の状況を再検討しようとしていた。それは認識論の観点による知識を遡上に挙げ、価値判断を挟まないようにし、知識における現代の言説の特徴を強調していた。彼の著作の全てを通じて、リオタールは現象学の用語によって彼の主張を展開しようとしていた。知識は20世紀において大きな変動を経験しようとしていた。リオタールにとってこの変動は彼がモダニティのメタナラティブと呼ぶもののヘゲモニーの終焉を示していた。

3 メタナラティブの終焉

リオタールは近代の2つの大きなメタナラティブの終焉に言及していた。それは合理的な主題の解放といったメタナラティブであり、普遍主義に基づく歴史に関するメタナラティブであった。近代の思想は長らく正義や社会の進歩を求めて進化する知識を主題にした歴史であり、かつては合理性の解放といったナラティブを求める権威を有していた。この権威はカント、ルソー他による啓蒙思想に基づいていた。

知識を主題にする考え方はその定義を与えることに困難をともなっており、リオタールがほとんど架空の歴史やそれ自体ナラティブな歴史学を主題にした方法を採用していたことを批判する分析哲学者たちは多数に及んでいた。モダニティは非常に幅広い概念であり、その試みは概念として知識が置かれた状態に関わり、人間の思想における原則の確立に基づいた重要な議論の中に記されていた。

リオタールはヘーゲルの哲学に起因している精神の歴史におけるメタナラティブと呼んでいるものの終焉を宣言していた。時代の知的産物が普遍的な精神による局所的史的具体化として見られなければならないとの見解の背景にある思想は、もはや近代を理想化する歴史に対する呼称に対応していないと思われている現代の思想ではなかった。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Déconstruction

脱構築

脱構築は現代哲学の学説を俯瞰する方法であった。テクストの分析は多くの文献(哲学、文学、新聞)に適用され、テクスト自身によって明らかにされるほのめかされた暗黙の前提や省略を中心に据えた分析によって示される見解の不一致や混乱を明示していた。

哲学や文学に組み込まれたこの考え方はアメリカで反響を及ぼし、そこでそれはポストモダンの哲学やさらに一般的にヨーロッパ大陸の哲学におけるさまざまなアプローチと同一視されていった。もし「脱構築」という用語が最初にハイデッガーによって用いられていたならば、デリダの仕事はその用法を体系化し、その実践を理論化したことに該当していた。

1 脱構築という概念の歴史

1.1 ハイデッガーの脱構築

脱構築という用語はハイデッガー派の用語を明示的に翻訳することなく『グラマトロジーについて』の中で初めてデリダによって示されていた。ハイデッガーが『存在と時間』の中で用いていた脱構築というドイツ語の訳語を「他の物の中に」与えることを望んでいたとデリダは説明していた。デリダは、どのように解体が確立されるのかを示すことほど形而上学における脱構築において無に還元することは問題とされないので、脱構築という訳語は解体という古典的な訳語より関連性が高いと考えていた[1]。

「双方がこの文脈の中である作用を意味し、存在論や西洋の形而上学の創設者たちによる概念の構造や伝統的な構築物を対象としていた。しかしフランスでは「解体」という用語は、非常に明白に消滅つまりおそらくハイデッガー派の解釈や私が提案した読み方のタイプよりニーチェの「解体」に近い否定的な還元を含意していた。したがって私はそれを拒否した。私は「脱構築」という語(私には明らかに自然に思われた)がフランス語として適当であるかどうか迷っていたことを覚えている。」--デリダ、『プシュケー──他者の発明』、p.338

実際には脱構築という語は1955年にハイデッガーの『存在の問題に対する寄与』(有への問い)をフランスの哲学者が翻訳する過程で登場していた。ジェラール・グラネルは「解体」という語と区別するためにドイツ語の「脱構築」を翻訳する際にこの語を選択していた[2]。

ハイデッガーの『存在と時間』の中で脱構築は時間の概念を対象としていた。その脱構築は、連続する段階のどこで、時間経験が形而上学に覆われ、一時的な存在として存在の本来の意味を忘却するのかを明らかにしていた。この脱構築の3つの段階は歴史の流れと反対であった。

「図式論におけるカントの学説や一時的な問題意識の予備段階としての時間」

「デカルト派の「我思う、ゆえに我あり」といった存在論的基礎や「思惟するもの」の問題意識の中における中世の存在論の再現」

「現象の基礎と古代存在論の限界の区別のような時間に対するアリストテレスの概論」

しかし、ハイデッガーが『存在と時間』(§8、p.40)の序章の最後にこの脱構築に触れていたとしても、1927年の構想をもとに次の著作で取り上げられなければならなかったこの部分はそのようなものとして書かれていなかった。せいぜい1929年に出版された『カントと形而上学の問題』から始まる他の著作や講演がそれと部分的に一致していると考えることが可能なぐらいであった。

「私たちが脱構築として理解しているこの仕事は存在の問題や古代の存在論における伝統的な蓄積にそって成し遂げられ、そのことは後の規定によって存在を最初に決定することを支配する原体験にまで導いていた。」--ハイデッガー、『存在と時間』[3]

1.2 デリダの脱構築

脱構築の概念を説明するとデリダは、与えられたテクスト(エッセイ、小説、新聞の記事)における意味はそれらが示す物に対する言及よりむしろ採用された語の間における差異の結果であると理解しており、言語学におけるソシュール派の差異の意味に例えながら、対立する個々の語の意味を打ち消すように作用する能動的差異を問題にしていた。この差異の能動的な特徴を(主題が偶然決定したことと関連する差異の受動的な特徴の代わりに)示すために、デリダは「差異」と「区別する」という動詞の現在分詞を組み合わた差延という用語を提示していた。また別にテクストにおける差異の意味はそれが書かれたものの中で言語の構造を分解することによって見出されていた。

脱構築は方法や哲学の体系として存在することを意図している訳ではなく、むしろ実践を示していた。その批判者たちはしばしば陰鬱で複雑な数式を批判していた。デリダが永眠した日にジョナサン・キャンデルによって書かれたニューヨーク・タイムズ紙の見出しは「難解な理論家が他界した」であった[4]。脱構築がデリダの人物像と関連付けられているフランスでは逆説的にあまり知られていないことだが、その脱構築が文学部で流行していた主にアメリカでは、それは激しい批判の主題とされていた。デリダはアメリカの哲学者であるジョン・サールからの批判に対して著書である『有限責任会社』の中で特に激しく論争を行なっていた(本のタイトルは哲学者の名前に関する言葉遊びであり、「会社」はフランス語におけるサールに類似した語の翻訳であった)。

2 脱構築によって影響された思想家たち

ジャン=リュック・ナンシー、フィリップ・ラクー=ラバルト、ベルナール・スティグレール、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスス、アヴァイタル・ロネル、リチャード・ローティ、ルイス・デ・ミランダ、エドワード・サイード、ポール・ド・マン、フランソワ・ノー、ジョージ・スタイナー、イヴ・シトン、ジャック・エルマン、テオドール・アドルノ、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク

http://fr.wikipedia.org/wiki/Les_mots_et_les_choses

言葉と物

『言葉と物』(人文科学の考古学)は1966年にガリマール出版社より出版されたミシェル・フーコーのエッセイだった。『知の考古学』とともにこの著作の中でフーコーはエピステーメーの概念を展開していた。フーコーは彼の編集者であるピエール・ノラに同意してもらうためにそのタイトルを変更する以前に『言語表現の秩序』のタイトルをまず与えようとしていたように思われていた[1]。

1 著作の内容

ディエゴ・ベラスケスによるラス・メニーナスの絵と隠された構想やその影響に沿った複雑な構図における詳細な描写とこの著作は通じていた。フーコーは「それはベラスケスの絵の中における古典主義時代の表現における表象として存在しているだろう」と記述していた。

さらにこの著作の主な思想は展開しており、科学的な言説同様に考えられ容認されうるものを枠に嵌めた真理におけるいくつかの状況の存在によってあらゆる期間の歴史が特徴づけられていることを認知していた。フーコーは言説の「状況」は多かれ少なかれ段階的に途中で変化するといった主張を擁護していた。

彼は、認識論における用語と語源的に類似している「エピステーメー」という用語によってこれらの「言説の状況」に言及していた。フーコーはここでさまざまな科学の変容を分析していた。言語における変容:文法は一般的に言語学の観点で変容していた。生命の変容:自然の歴史は生物学の観点で変容していた。富の科学は近代経済学を生誕させた「エピステーメー」の変容に対応していた。エピステーメーの概念はディルタイによって擁護されていた世界観という概念と混同してはならず、それに対してフーコーは明示的に反対していた[2]。

「これは科学や私が時代のエピステーメーと呼んでいるものを形成しているさまざまな科学的なセクターの中における差異を有する言説間の関係におけるあらゆる現象であった。」

-- フーコー、『ミシェル・フーコー思考集成 I』、人民裁判について、p.1239

ミシェル・フーコーは3つのエピステーメーに言及していた。

16世紀のルネサンス期のエピステーメーは類似の時代であった。

古典主義時代のエピステーメーは表象や同一性と差異性(私たちをそれと分離するまさに時間的な隔たりによって定めることができる)に関する秩序の時代であった。

近代のエピステーメー(それに私たちは属しており、それゆえフーコーにとってはその限界を明らかにするための説明を与えることが問題であった)はその著作と同じ問題を抱えていた。

16世紀のエピステーメーは第2章の主題であり、最も短い分析であった。古典主義時代のエピステーメーは第一部の残り全てで分析されており、近代のエピステーメーは第二部であった。

古典主義の時代(17世紀)から20世紀までの移行において、フーコーは年代順によって近代のエピステーメーの代わりになるものの中に規定されていた何人かの思想家たちを特定していた。

『ポール・ロワイヤル論理学』(1662年に出版された)は論理学、文法、統語論における著作であり、そこにデカルトやパスカルが加わっていた。

アダム・スミスと『諸国民の富』。

アントワーヌ・デステュット・ド・トラシー(1800年頃)。

古典主義時代のエピステーメーにおいてフーコーは人間が存在していないことを私たちに想起させていた。

「それは生命の力、労働の豊かさ、言語の歴史の深みを有していなかった。知におけるデミウルゴスがその手で200年かけてあらゆる近年の創造物を作り出していた。」

-- フーコー、『言葉と物』、p.319

古典主義時代の人間について話をしていたが、「そこに人間に対する認識論上の意識は存在していなかった」[3]。さらにミシェル・フーコーは1955年を起点としてハイパーモダニティと呼ばれる新しいエピステーメーに入ったと考えていた。

2 著作の特徴

エピステーメーを理解するために、ジョルジュ・カンギレムがフーコーについて私たちに述べたように、科学や科学の歴史から始めなければならず、専門家は専門性から抜け出し、一般論の専門家ではなく、複数の専門分野を行き来できる専門家を目指さなければならなかった[4]。フーコーにとって必ずしも歴史上の期間を単に分類することは問題ではなく、エピステーメーはある種の下敷きになった大きな理論を与えられた時代に対するものでもなかった。これは「知識の総体や研究における一般的な様式」ではなく、むしろ「隔たり、差、対立、差異であり[...]、散らばりのある空間であり、開放された場であり、間違いなく無限に記述可能な関係であった」[5]。フーコー派のエピステーメーを理解するためには、「あらゆる科学を遥かな高みの中に包含する」歴史思想から始めなければならなかった[4]。

エピステーメーは逆説的だが認識論の主題ではなく、あらゆるものの前に存在しており、それ自身の展開の中に存在しており、このことを理由にして言説の状況が『言葉と物』を通じて研究されていた。その主題はエピステーメーについて発言したことを述べたものであった。したがってエピステーメーは思想史、科学史と衝突し、それは概念の形成における主題や結果であり、「考古学」は「歴史」に置き換わっていた[6]。

エピステーメーの概念や考古学との関連からフーコーは歴史の不連続に関する思想家や断絶の思想家として知られていた。フーコーは連続的に進歩するあらゆる歴史を拒否していたが、彼の著作は科学史や思想史に反対しておらず(それらが相対化され、批判されていようとも)、むしろ横に進歩しようとし、人が自身の考えとともにあると認識している可能性がある隔たりと同様にその内側に意味を導こうとする立場にいることを問題にしようとしていた。フーコーは彼の著作を「著者と読者が苦労して、結局真理の別の姿に至るといったある喜びを手に入れるように、知の分野において意味のある差異を導こうとする可能性があるもの」として定義していた[7]。『言葉と物』のサブタイトルは人文科学の考古学であった。彼の分析のオリジナリティは「言説が複雑でさまざまな実践であり、分析可能な規則や変容を受け入れ、むしろこの緩やかな確実性に価値を置き、世界、生命やそれらの「意味」を少なくとも自身によってしか起因していない言葉の影響によって変容していることを拒否することを好むもの」と対立していた[8]。例えば生物学にとって「進化論は生物学における理論を構成しており、その可能性の条件はキュヴィエのように進化を認めない生物学であったこと」が指摘されていた[9]。フーコーがマルクスの著作における可能性の条件としてリカードを挙げていたように、ダーウィンの著作における可能性の条件としてキュヴィエの著作が挙げられていた(もっともフーコーは「著者たち」に対するこの分類を前にして不安を感じており、1970年には「キュヴィエの変容」や「リカードの変容」について言及することを好んでおり、というのはフーコーが価値を置くために求めていたのはこれらの著者たちの「著作」ではなく、与えられた時代に取って代わるそれらの変容であったからであった[10])。

構造主義が構造の概念を発達させたように、構造の概念とフーコーの概念の歩み寄りは全体としてうまく進まなかった。それらの構造は変容と安定を仮定していた。ところがフーコーが定めたさまざまなエピステーメーは「難解な不連続」に従って並置されていた[11]。ジャン・ピアジェはそれらの「偶発的な登場」[12]が構造の考え方と矛盾していることを的確に指摘していた。

3 認容

『言葉と物』はほとんどすぐにミシェル・フーコーに知識人としてのステータスを与えていた。ジャック・ラカンの『エクリ』やロラン・バルトの『批評と真実』と同じ年に出版されたこの著作は同時代の読者たちにとって構造主義者の運動に加わっているように思われたが、フーコーはそこに加わることに抵抗していた[13]。最初に2万部が販売され、20年間で11万部以上に及んだ[13]。1990年のコレクション・テルの出版を通じて、編集者によれば、その著作は1年あたり5000部ほど販売され続けていた[13]。この同時代におけるジャン=ポール・サルトルの論文は「ブルジョワジーの最後の砦」としてフーコーを批判していた。アルチュセールが『マルクスのために』を出版した1年後、新しいエピステーメーは人文科学の主題である限り「波打ち際でさらわれた砂のように」人間の実像を消し去ることが可能であることを主張し、この本の中におけるフーコーの最後の言葉はフーコー自身を「理論的に反人間中心主義の立場」[14]であると推測させ、論争を引き起こしていた。同様にジャン・ラクロワはルモンドの中の『人間中心主義の終焉』と題された記事の中でコメントを述べていた[13]。ジル・ドゥルーズはそれについてル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥールの記事に『人間、疑わしき存在』とタイトルを付け、一方ジョルジュ・カンギレムは1年遅れてそれに対するタイトルとしてクリティーク誌の中で『人間の死か「我思う」の終焉か』を選んでいた[13]。しかしフーコーにとって実際のところ人文科学に対する「批判」は、例えばカントの『啓蒙とは何か』で示されるような人間中心主義に対する批判と共通している部分はほとんどないと思われていた[15]。

エピステーメーの概念は問題をともない、誤解を引き起こしていた。フーコーは1972年のインタビューの中で私たちにこう述べていた。「私が『言葉と物』の中でエピステーメーと呼んでいたものは歴史的なカテゴリーとは全く関係がなかった。私は科学におけるさまざまな領域の間である時代に存在しているあらゆる関係を調べていた[...]これは私が時代のエピステーメーと呼んでいるものを構成するさまざまな科学の領域におけるさまざまな言説や科学の間における関係に関するあらゆる現象であった」[16]。時代のエピステーメーを確認することは、与えられた時代の知における主題を歴史的に段階的に分類することではなく、私たちの思考の枠組みに課されている隔たりに対する考古学的な展望(そして批評)を抱くことは私たちが属しているエピステーメーに存在している制約に関する目に見えないネットワークの中にある枠組み自身を外部のエピステーメー(この場合ここでは古典主義時代のエピステーメー)とともに考慮することであり、フーコーは明示していないが、「変異」、「根源的な出来事」、「微細だが本質的な差異」[18]として示しているように知の一般的な位置付けが「難解な不連続」[17]から影響を受けていると私たちが認識することは不可能であった。『言葉と物』の序文の中でフーコーは考古学の仕事とそれがこの方法で追求している青写真を定めていた。「考古学の分析に示されているものは、古典主義時代のあらゆる知であるが、古典主義時代の思想から離れたところに存在しており私たちのモダニティを構成している知の境界でもあった。この境界の上に初めて、人間と呼ばれ、人文科学固有の領域を開放した知の奇妙な実像が登場していた」[19]。

またカンギレムはこの本の出版直後にコメントを述べていた。「人類学という一般的な名称の下で19世紀に形成されていたこれらの科学の総体は18世紀の遺産としてではなく「知の秩序における出来事」として示されていた[20]。人文科学に関する現在の担い手が、前もって彼らの段階的な研究に与えられた主題として、始めから構成の青写真でしかないものを当然視していたことの背景にある静かな自信を当時のフーコーは「人類学の休眠状態」と名付けていた[...]『言葉と物』は例えるならば『純粋理性批判』が自然科学に対して果たした役割を人文科学に対して果たしていた」[4]。

「反人文科学」を起点にして、言い換えるならば精神分析、民俗学、言語学[21]に及ぶだけでなく、文学[22]をも起点にして、フーコーはその思想を入念に練り上げていた。

http://de.wikipedia.org/wiki/Postmoderne

ポストモダン

ポストモダン(ラテン語のポストは「後」を指す)は西洋の社会、文化、芸術に関する近代の「後の」状態に対する一般的な意味の中に存在していた。特別な意味としてそれは政治的、科学的、芸術的方向性を有しており、近代を構成する特定の制度、方法、概念、前提に反対しており、これらを解決し、克服しようとしていた。ポストモダンの代表者たちは近代の革新指向を惰性で自動的な産物でしかないとして批判していた。彼らは近代が全体主義の原理によって正当さを欠いた支配を受けており、その原理は社会に独裁の波及をもたらし、克服されなければならないことを示していた。近代の重要とされるアプローチは一元的であり、破綻を示していた。並存している展望が平等に正当性を求める多様さの可能性が近代と対立されていた(相対主義)。また芸術を原則として開放する要求とともに近代の美学が批判的に取り上げられていた。

現在やその実情を決定づけるものについての議論が、それ自体十分にポストモダンであるが、それは1980年代初頭から行われていた。ポストモダンの思想は単なる時系列の分析として理解されておらず、むしろ批判的な思想の運動として理解されており、それは近代の前提に対して批判的であり、代替となる選択肢を示していた[1]。

1 概観

この概念を特徴付けたのはジャン=フランソワ・リオタールの著作である『ポストモダンの条件』であり、そこで彼は近代の哲学体系を破綻したものとして説明していた。「大きな物語の終焉」についての彼の発言がよく知られており[2]、そこで彼の分析における核になる議論を展開していた。リオタールは哲学体系についてではなく、「ナラティブ」について述べていた。個々の近代の「ナラティブ」はリオタールによればその時その時の世界観に基づいて中心となる原理を構築しており(例えば神や主観)、一般的な表象に対するその基礎を構成していた。しかしながらそれに関してそれらの「ナラティブ」は一般的な考察においてナラティブの1つ1つから異質な存在を除外しており、力によってナラティブの1つ1つの特徴を平準化していた。リオタールは一般的で絶対的な解釈のための原理(神、主観、理性、理論体系、マルクスの社会理論等)の代わりに多様な「ナラティブ」を解釈のためのモデルとして提示する多数の言語ゲームを考慮していた。したがってリオタールは一般的に合理性と対立していたのではなく、むしろ合理性に関する特定の歴史的形態と対立しており、その合理性は異質な存在を排除することを基礎に据えていた。

これは社会的な結果を導いており、メタナラティブはモダニティの中で社会制度、政治的実践、倫理、思考の方法を正当化することに対して適用されていたが、ポストモダニティの中でこのコンセンサスは消失し、多くのお互いに調和しない真理や正義といった概念の中で解消されていた。同時に差異、異質な存在、複数性に対する感受性の寛大さが高まり、差異の影響や言語ゲームと調和しない状況に直面していた。

リオタールに関連したポストモダンの時代における論争は1980年代に非常に活発になり、知的に開放された状況で大きな注目を集めていたが、1989年以降後退し、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり(上・下)』の中で示したように他の論争にシフトしていった[3]。この用語はさらに時代を示す確かな特徴を喪失し始め、それはとりわけその一部の支持者たちがモダニティに対する関連を考慮していたからであった。他方で例えばウンベルト・エーコのようにそれに対してモダニティとのあらゆる関係を示す概念を解放し、その用語を一般的な芸術家の営みとして広めることが行われており、それはあらゆる歴史上の時代において生じているかもしれなかった[4]。

2 用語の歴史

2.1 起源

1870年前後に初めて用いられたポストモダンという用語に関して、さまざまな哲学者たちによってその非常に異質な社会的文化的展開が確認され、部分的に議論が重ねられていた[5]。1870年前後にイギリスのサロン画家であるジョン・ワトキンス・チャップマンはフランス印象派の作品より近代的なポストモダン・スタイルを提示していた[6]。

1917年にルドルフ・パンヴィッツは哲学における「文化用語」としてこの用語を用いていた[7]。パンヴィッツはポストモダンに対する彼の思想をデカダンスやニヒリズムといった予想される結末に関する近代に対するニーチェの分析に依拠していた。したがって近代を乗り越えることは新しい「ポストモダンにおける人間」を生み出し、ニーチェが述べている「超人」を生み出すことを示唆していた。パンヴィッツの概念は民族主義的で神話的な要素を含んでおり、それは一方でニーチェを回想し、しかしながら他方でその後の用語の展開と一致していなかった。

数年後の1926年にアメリカの神学者であるバーナード・イディングズ・ベルは新しい宗教的世界を描き、それはキリスト教徒の枠組みの中で新たな知見を「ポストモダニズム」として解放していた[8]。

文学を対象にして文学者であるフェデリコ・デ・オニスは1934年にその用語を用いていた。彼は1905年から1914年におけるヒスパニック系アメリカ人の文学作品を「ポストモダニズム」として示しており、それは短期間における近代からの乖離によって新たに近代を指向する中間段階として特徴づけられていた[9]。

1947年にアーノルド・J・トインビーはこの文化の段階を「ポストモダン」として言及し、その始まりに1875年を想定していた。この意味におけるポストモダンはグローバルな展開における初期の政治思想を特徴付け、民族主義的な展望を克服することにおいて過去の政治認識と区別されていた。トインビーの後、ポストモダンとともに西洋の文化の新たな段階が導かれていた[10]。

1959年における北米の文学界ではアーヴィング・ハウがポストモダンに関する現代文学を近代の衰退現象として示しており、それはイノベーションの欠如として特徴づけられていた。ハウは今日の意味で初めてこの用語を用いていた[11]。その再評価は特に1960年代にアーヴィング・ハウやハリー・レヴィン同様とりわけスーザン・ソンタグやレスリー・フィードラーによっても行われていた[12]。

芸術、文化史、哲学、神学、文学におけるこれらのアプローチは共通して近代やその展開に対してそのつど抱かれた不信を形式化し、そこから結論を導き出していた。その最初の形成の段階はハウに見出すことができ、この概念はその後の展開における基礎として眺められることが可能であった。

後のポストモダンにおける理論の形成や方法の発見にとって重要な哲学者たちの中にミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ロラン・バルトがおり、彼らは脱構築主義、ポスト構造主義、言説分析によって新しい分析の方法を展開しており、他方でリュス・イリガライは精神分析医であるジャック・ラカンの研究を基礎にしてフェミニストによる理論の形成を展開していた。しかしながらこれらの理論を主張する人々はポストモダンという用語に対して批判的であった。

2.2 概念の形成

「ポストモダン」をこの用語の下における知的文化的運動として語ることによって、最初に名を挙げられる先人はジャン=フランソワ・リオタールであり、彼の著作である『ポストモダンの条件』はよく知られていた。この著作は1979年に最初に出版された。それは元々カナダ政府のためにポスト工業化社会における知識の役割について書かれていた。ここでリオタールは哲学、芸術、文化、社会科学における多くの展開の基盤を大きな物語の終焉といった主張で説明していた。「極端に言えば「ポストモダンはメタナラティブを人はもう信じることができないといったことを意味している」といったことが述べられていた」[18]。

リオタールによれば3つの大きなメタナラティブが存在していた。

啓蒙主義

理想主義

歴史主義

これらはポストモダンにおいて全く正当性を有しておらず、その目標を達成していなかった。個人の登場、ヘーゲルの意味で1つのイデオロギーに全体として束ねられた精神における自我、ユートピアに加え歴史において意味のある進歩が存在するといった思想は大きなメタナラティブであり、それを人はもう信じることができなかった。したがって近代のいかなる構想も存在することができず、自由主義や社会主義といった大きな思想が影響力を行使することはできず、あらゆる社会的行為がそれらに一致することもなかった。

上位に位置する言語も一般的に認容される真理も存在せず、それらは形式的なシステムを正当化していなかった。合理的な科学、道徳的な行為、政治における正義の概念はかつてはその固有の役割を有していたが、それらに対して意見を一致させることができなかった。

この観点からリオタールは「理性」による理論や実際における行為の形成は間接的なものではないことを示していた。彼によって体系立てられた著作である『文の抗争』においてリオタールはこのことを特に言語行為の機能に適用していた。理論的でも実践的でもない理性は関係を形成することに関連しており、そこではせいぜい入念になされた妥協が可能であり、「美学的な」判断力を用いなければならず、その固有の機能を規則に基づいて考察することを付随させていた。また至る所で分断された群島における航海の風景が1つの例として有名であった。

リオタール自身や他は、ここでは特定の「言語ゲーム」における特定の方法におけるウィトゲンシュタインの思想と関連させることが可能かもしれないが、いずれにせよこの視点によれば、言語ゲームの限界を超えたコミュニケーションを除外することを考えていた(ウィトゲンシュタインのテクストとの関連を妥当とすることに対して多くの専門家たちは疑念を呈していた)[14]。また類似の意味で部分的にトーマス・S・クーン(しかしながら彼は科学上の理論に見られる哲学に基づいていた)に関連して、さまざまな言語ゲーム、文化、小規模な「言説」における「矛盾」つまり共有している部分における欠陥が語られていた。

問題を含む理性の分析においていずれにせよリオタールが示す断片化と自己矛盾はさらに深刻化しており、彼自身はそれをカントの思想の中に含めており、部分的には公正で詳細な研究を行なっていた。なぜならカントはすでに必然性の領域(理論的に理解された自然における)と場合によっては(美学の)判断力を超える(実践的な)自由を仲立ちしていたが、例えば少なくとも美学における美はその主題に約束されるものを与えていたことを強調していた。しかしながらこの約束はリオタールにとって「至高」の中に登場する隔たりを通じて損なわれていた。カントの『判断力批判』に対するリオタールの解釈やバーネット・ニューマンの作品に対するその適用は一時的だが高い注目を集めていた。

3 要素

ポストモダンでは(芸術的な)関心の核心におけるイノベーションは存在しておらず、組合せの再構成や既存のアイデアの新しい適用が存在していた。世界は段階的な目標を与えられておらず、むしろ複数性を有し、無秩序で、カオス的で、その衰退を示す時代の中に眺められていた。同様に人間のアイデンティティは不安定なものと考えられており、多くの、部分的には調和しない、文化的要素を通じて特徴付けられていた。マスメディアや技術は文化の媒介者として重要な役割を担っていた(メディア理論を参照せよ)。

ポストモダンアートは芸術の概念を拡大することを通じて精彩を放っており、過去のスタイルを多く参照しており、部分的にはアイロニーを生じさせていた。アイロニーがうまく行かず、利用できない場では、その全体的な傾向は折衷主義と比較されていた[15]。

ポストモダンの思想や判断の要素は以下の通りになる。

理性の優位性を強調する啓蒙主義や合理性の拒絶(それらは既に近代において揺らいでいた)。

合理的に振る舞う単位としての自律的な主体の喪失。

人間の情緒や感情に新たに目を向けること。

哲学や宗教的見解における普遍的真理や知識体系に対する拒絶や批判的検討(いわゆるメタナラティブや道徳のような神話ーそれゆえポストモダンはアモラリズムとされるー、歴史、神、イデオロギー、ユートピア、宗教同様に(この点でそれらは真理を示す言説や普遍的な言説を支持しているが)科学が挙げられる)。

連帯や共同体における伝統的な絆の喪失。

対立した幅広い多数の集団や個人の社会生活における細分化。

社会、芸術、文化における寛容性、自由、根源的な複数性。

新たな文化的技術としてのルールの脱構築、再利用、再構成。

世界における記号の使用の増加(記号論的三角形やボードリヤールを参照せよ)。

フェミニズムや多文化主義。

ポストモダンの人文科学では、言説分析、ポスト構造主義、脱構築の方法が一般的であった。

脱構築の哲学的基礎についてはジャック・デリダを参照せよ。

4 芸術と建築

音楽

音楽学者であるイェルク・ミシュカはポストモダンの下で音楽における多様な思考と実践の方法に関して明らかに拡大している複数性を理解しており、それはライフスタイルにおける多様化を伴っていた[16]。コラージュ、クロスオーバー、モンタージュ、パスティーシュのような技法は音楽におけるポストモダンに拡大されていた[17]。無調性、セリエリズム、十二音技法、のような作曲における伝統を打ち破ることや音楽におけるポストモダンの言説の継承、例えばポストフェミニストであるライオット・ガールなどが音楽におけるポストモダンに含まれていた。

ジョナサン・クレイマーによればポストモダンの音楽には16のさまざまな特徴が存在していた:例えばそこには伝統の打破、アイロニー、境界を超えること、音楽におけるドグマの軽視、断片化、音楽の引用、折衷主義、不連続、伝統と遊び半分に付き合うこと、曖昧さなどが挙げられていた[18]。音楽のスタイルや体裁の形成においてポストモダンの用語を用いることは論争の対象となっていた。

音楽におけるポストモダンの典型的な例として非常にさまざまなスタイルがあるが、ローリー・アンダーソン[19]、ルチアーノ・ベリオ、ジョン・ケージ[20]、フィリップ・グラス、ソフィア・グバイドゥーリナ、チャールズ・アイヴズ[21]、ギヤ・カンチェリ、オルガ・ノイヴィルト[22]、アルヴォ・ペルト、アルフレット・シュニトケ、キング・クリムゾン、ザ・シネマティック・オーケストラ、アモン・トビン、フランク・ザッパ[23]、ジョン・ゾーン、ヴァレンティン・シルヴェストロフなどがよく知られていた。

芸術

フルクサス

ハプニング

ビデオ・アート

パフォーマンス

ランド・アート

ボディアート

メールアート

ジャン=ミシェル・バスキア

アプロプリエーションアート

新しいフォーヴィズム

至高(リオタールにとってのポストモダンの美学における至高)

建築

文学

5 政治学

政治学とりわけ国際関係論において例えばリアリズムとリベラリズムの比較におけるポストモダンのアプローチは理論の形成においてまだ成熟していなかった。ポストモダンのアプローチは2つの主要な特徴を有していた[24]。

出来事自体よりもむしろイメージやシンボルのようなテクストや他の出版物を分析することにフォーカスしていた[25]。

「客観的な」真実やカテゴリーに分類することについて懐疑的であった。

「なぜなら私たちが出来事から知ることが言説的に伝えられると、常にこの出来事に関する1つ以上の見解が存在していたからであった」[26]。

言説におけるどの形式が優れているかは他方で力の問題であった[27]。リアリズムのような他の理論的なアプローチでは力は国家に留保されていた。より良い国際的な立場にあるものが支配的であった(例えば資源)。ポストモダンのアプローチはそれに対して言説の表象が力の表現であることから出発するのではなく、言説自体に向き合っていた。したがって力は単に言説の一部に関連しているのではなく、ナラティブ全体の背景に広がっていた[28]。

6 批判

ポストモダンは特にイデオロギー的なコミットメントに反対していたが、文化的な行動様式にも反対していた。したがってポストモダンの哲学者たちは少なくとも激しい攻撃に晒されていることを認識していた。

6.1 リアリズムによる批判

リアリズムは科学的な機関が政治的に左派の見解を広めることを乱用しているとしてポストモダンの代表者たちを批判していた。ポストモダンの立場についてその内容から非合理主義に偏っていることが批判されており、同様に自然科学の理論が観察を通じて正当性を築き上げ、それを用いることを可能にし、客観的な事実を記述していることを否定していることが批判されていた[29]。いわゆるソーカル事件は有名であり、ソーカルのテクストに関して査読のないポストモダンの雑誌が掲載のためにその論文を受理し、意図的に自然科学における意味のない説明や物理学における同様の説明を混在させていたが、ポストモダンの世界から共感を得るためにボードリヤールの著作に対して言葉使いの面で寄り添い、リアリズムにおいてポストモダンに対する批判を行なっていた[30]。著者であるアラン・ソーカルは論文の中で、量子重力理論は言語的そして社会的な構築物であり、科学的客観主義に疑問を呈することによって、量子力学はポストモダンの見解を支持すると記述していた。ソーカルによるこの試みの成功は、ポストモダンの人文科学や社会科学における一定の知識水準の欠如と数学や自然科学のメタファーの濫用を示していた[31]。リアリズムの支持者たちとポストモダンの支持者たちの対立は英語話者の国々では「サイエンス・ウォーズ」という用語で知られていた。

6.2 政治的批判

保守主義とリベラリズムのような古典的な政治的イデオロギーや政治的左派の一部は文化や社会における重要な問題に関する裁量を欠いているとしてポストモダンの思想を批判していた[32]。セイラ・ベンハビブは例えば「ポストモダンの立場はフェミニズム理論の特殊性を失わせるだけでなく、女性運動の登場にも疑念を呈している」と批判していた[33]。

6.3 ハーバーマスや批判理論の代表者たちによる批判

同様に批判理論の立場から反論がなされていた[34]。

これと対照的に新左翼の一部やフェミニストたちの論争においてポストモダンの考え方は現在の社会の展開を理解するために役立つものとして見なされていた。

6.4 フーコーによる批判

時として「ポストモダン」の枠組みに分類されていた多くのポストモダンの哲学者たちはこのことについて批判的に意見を述べていた。例えばフーコーは「攻撃される傾向」にあることを強調し、「いつも抑圧の対象から解放されるように、相手に出来事を説明していた」と述べていた。リオタールと反対にフーコーは「ハーバーマスによって示された問題:例えばカントやヴェーバーによる仕事を放棄するとき、私たちは非合理性の虜になる危険性と隣合わせにある」ことに「全面的に同意」していた。しかしフーコーは「私たちが用いている」理性の特徴や起源によって支配されたままであるといった問題に「出来る限り近づくこと」を求めていた。理性が敵であり、私たちはそれを取り除かなければならないといった考えから離れて、フーコーは「合理性が有する二面性」を問題にしており、そこではレイシズムにおける表現形式のように非合理性における典型的な表現形式が「輝かしい合理性」の表現形式として表象されており、社会進化論における一例に含まれていた[36]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Foucault-Habermas-Debatte

フーコーとハーバーマスの論争

論争は哲学者であるミシェル・フーコーとユルゲン・ハーバーマスの間で行われていた。基本的には倫理的言説に関するコミュニケーション的行為等に対するハーバーマスの考え方とその系譜や力と知識の関係に対するフーコーのアプローチを問題の中心に据えていた。ここではどちらのアプローチが哲学的によく説明されているかといった問題同様にどちらのアプローチが哲学において力の役割を適切に説明しているかが問題であった。

より広い意味では議論に参加することによって、彼らは世界における人間中心主義、啓蒙主義、モダニズムの位置付けや役割に関する議論を展開させていた。特にハーバーマスの支持者たちはそれらをモダニズムとポストモダニズムに関する基本的な議論として眺めていた。

1 経過

フーコーとハーバーマスはたびたびお互いの研究成果について議論を行なっていた。ハーバーマスが『近代の哲学的ディスクルス(1・2)』の中でミシェル・フーコーに2つの章を割いている一方、フーコーに関するハーバーマスとの多様な短い議論がさまざまなテクストの中に散りばめられていた[1]。論争の大部分は論点を並置しながら連続して行われ、論争に対する二次資料を通じて再現されていた。さらに双方の思想家たちは彼らの論争の中身がどれほど正確であるのかについて合意していなかった。同様に双方が双方の思想を大幅に変更していたことによって合意に達することが困難なこととされていた[2]。したがって例えばフーコーに対するハーバーマスの見解はとりわけ1970年代中盤のそれを代表していたが、一方フーコーは1980年代初め以降彼の理論における展望の外に彼を位置づけていたと回答していた[3]。

1.1 フーコー:2つの講義

マイケル・ケリーは本当の論争を4つのステップから再現していた。1976年にフーコーがコレージュ・ド・フランスで行った2つの講義に対しハーバーマスは特に反応を示していなかったが、主題とされていた内容を論じており、後にそれは中心的な問題とされていた。彼はそこで法的権力と規律権力の間の区別、特定の批評についての彼の見解、力に対する批評に関して系譜を辿る方法を取り扱っていた[4]。

1.2 ハーバーマス:近代の哲学的ディスクルス

数年後ハーバーマスは『近代の哲学的ディスクルス』における2つの章で回答を与えており、それはミシェル・フーコーに対して捧げられていた。このテクストはフーコーの講義に由来していたが、ハーバーマスはフーコーの存命中その公表を止めており、それは彼の他界後になって初めて出版されていた。その中で彼はフーコーの哲学や規範への影響に対する力の役割について特に関心を抱いていた。フーコーによる批判自体が力の表現形式として理解されるならば、その論証を損なうことなく力に対する批判を表象することは不可能であった[4]。

1.3 フーコー:『構造主義とポスト構造主義』そして『啓蒙とは何か』

フーコーは再度その主題のために2つのテクストを公表し、そこで彼は付随的にハーバーマスに関して言及しており、1983年に公開されたインタビューである『構造主義とポスト構造主義』や1984年に公開された講義である『啓蒙とは何か』が挙げられていた。ハーバーマスが彼に賛同していないことをフーコーに知らせるテクストは存在していたが、フーコー自身はハーバーマスについて何か意見を有している訳ではなかった[4]。

『啓蒙とは何か』はフーコーにイマヌエル・カントとの肯定的な関係やカントの批評に対するアプローチを再度表象させていた。しかし同時に彼はハーバーマスとの違いがどこにあるのかを示しており、近代におけるエートスや規範に関する見解の中で、何がその批評に対する哲学的見解であるのかを決定付けていた。その後ハーバーマスはフーコーの『啓蒙とは何か』を読んだ後、そこから取り除かれた論争の核心を見出していた。そこではフーコーは自身を近代における哲学と同列に論じており、それが同一でないといった重要な点が除かれていた[4]。

1.4 ハーバーマス:現在の核心に対する批評

論争の内幕について述べたハーバーマスによる最新のテクストは『現在の核心に対する批評』になり、彼はそれをフーコーの他界に寄せて書き記していた。そこで彼は社会に対するフーコーの分析の価値を認めていたが、力に対するフーコーによる批判はそれが依拠している規範的な基盤を損なっているとの観点に立っていた[4]。

1.5 予定されていた個人的な論争

1984年11月にカリフォルニア大学バークレー校で予定されていたハーバーマスとフーコーとの公式の論争は早すぎたフーコーの他界によって開催されることはなかった。そしてその論争の形式と中身についての発言はさまざまであった。フーコーによれば、アメリカ人たちがその論争を提案しており、近代の要点を理解することを望んでいたのは、フーコー自身がアンチモダニストやポストモダニストと同じ重要性を有していたからであった。これは理解の欠如に起因しており、というのはフーコーは自身をモダニストとして眺めており、近代の終焉を問題として見做していなかったからであった[3]。

ハーバーマスによればフーコーは『啓蒙とは何か』という講義を直接行なっており、その後1983年3月に彼はハーバーマスに共同シンポジウムを提案していた。その後リチャード・ローティ、チャールズ・テイラー、ヒューバート・ドレイファスがシンポジウムの企画に参加していた[1]。

1.6 二次資料に関して

フーコーが他界して数年後、論争は二次資料を基にして再構成され継続されていた。そしてその見解は分かれていた。マイケル・ケリーは彼の論集の序文の中で、二次資料はしばしばハーバーマス派によって制作され、しばしばハーバーマスの用語を一方的に採用していたと書き記していた。さらにそれはハイデッガー流の解釈によって強く歪められていた[4]。しかしアマンダ・アンダーソンはその論争を「フーコー派に対する無血クーデター」として記しており、そこではハーバーマスは理想的な合理主義者の立場からのみ発言するものとして描かれていた[1]。

さらなる論争の主な参加者たちの中には例えばアクセル・ホネット、ナンシー・フレイザー、リチャード・バーンスタイン、トーマス・A・マッカーシーが含まれ、彼らはフーコーに対する批判を展開しており、またジェームズ・シュミットやトーマス・ヴァルテンベルク、ジル・ドゥルーズ、ヤナ・サビツキ、マイケル・ケリーはフーコーに対する批判はそうでないにもかかわらずハーバーマスがそれを必要なものとして見做していたように説明されていることを論証していた[5]。

ハーバーマスの支持者たちによってフーコーは主に彼が規範に関する批評について見解を説明する立場にないことを批判していた[5]。

2 議論の要旨

2.1 人間中心主義

双方の思想家たちは人間中心主義について異なる見解を有していた。ハーバーマスが人間中心主義を対話を通じた偏見からの解放として理解している一方、フーコーは両価的な見解を示しており、多くのものを排除する自己の領域を拡大する力として理解していた[2]。ハーバーマスは彼自身をルソーやその社会契約から生じた結果の中に位置付け、民主主義や人権の番人として理解していた。フーコーの姿勢は明らかに両価的であった。フーコーにとって人間中心主義は女性、ヨーロッパ外の人々、困窮している人々のように不利益な立場に立たされている人々に解放を約束するものであったが、それは彼らに画一性を課すものであり、人間中心主義において一般的なカテゴリーに当てはまらない人々を除外するものでもあった。合理性はテクノクラートによって支配されやすい明白な規範を押し付けていた。社会の形成と同時に個人の自己認識やセルフコントロールが生じ、主体のように内部に存在するアイデンティティが外部の主体の内部に存在するアイデンティティとともに機能し、したがって自由や連帯について感情が生じ、ルソーのような古い思想家たちにとっては広範囲にわたる外的な行動を必要としていたことが認識されていた[6]。

フーコーにとって人間中心主義は人間の発展段階と関係しており、絶対主義を導き、主体の解体によって置き換えられるものであった。認識や正義はある段階で根拠のないものとされていた。彼は特にこのテーマを『監獄の誕生』(1975)の中で詳細に述べており、『言葉と物――人文科学の考古学』における彼の思想にまで遡っていた[7]。『批判とは何か――批判と啓蒙』の中でフーコーは普遍的な人間中心主義に反対していた。このことは人間中心主義の重要な思想家であるロック、ルソー、カントによってある思考の枠の中に決定づけられており、その思考の枠とは、人間中心主義がとりわけ豊かなヨーロッパの様式によって構成されており、豊かなヨーロッパの様式に類似したものとしての規律を教えられている限りにおいて、女性、ヨーロッパ外の人々、労働者といった他の人々に人間社会の構成員としての完全な立場を認めるといったことであった。批評の狙いはそのように理解されている人間中心主義を脱構築することであった[8]。例えば人間のような現実に対して一般原則を定め、その一般原則によって何が真実であり何が偽であるのか、何が根拠を有し何が根拠を有していないのか、何が現実であり何が幻影か、何が科学であり何がイデオロギーか、何が正当であり何が不当かを決定付けることを可能にしていることを批判することによって、特にハーバーマスについてフーコーは同じテクストの中で言及していた。批判は人間中心主義固有の真理に対して優先的に関連付けられていなかったが、人間中心主義が作用する特定の歴史的条件を問題にしていた[9]。

2.2 力とコミュニケーション

さまざまな立場の標準的な解釈は、ハーバーマスの主張を、コンセンサスを指向するコミュニケーション的行為を通じて批判的実践が行われ、そのコミュニケーション的行為は力関係によって制限されていないこととして理解しており、一方フーコーの主張を、戦略的な行動が批判的実践を位置付け、その戦略的行動は力関係から明らかに影響を受けていることとして理解していた[2]。

フーコーは人間中心主義についてさまざまな見解を述べており、例えば直観(ハイデッガーの意味)を通じて認識や正義に疑問を呈していた。そして人間の有する普遍性は系譜によって疑問を呈されていた。人間中心主義が力関係によって構築されていないことを認めることによって、ハーバーマスは人間中心主義に関して達成されるコミュニケーション的行為を理想化していた。

ポストモダンの哲学は西洋のモダニティにおける伝統や合理性に対する強い批判を展開しており、カントやヘーゲルの哲学に見受けられる普遍的で合理的なシステムの探求に見られる啓蒙時代から受け継いだヨーロッパの哲学やイデオロギーにおける伝統を打ち破っていた。

ジャック・デリダはロゴス中心主義と呼ばれているものを脱構築することを提案しており、ロゴス中心主義はつまり非合理であるもの全てに対し理性が勝り、その理性は非合理なものを定義し、それを拒絶する権利を思いのままに行使していたとされ、そこには理性の優位性のみならず西洋の理性の優位性が含まれ、理性の優位性は男性の優位性へと置き換わっていったとされていた。

そしてポストモダンの哲学は西洋の形而上学や人文主義を支配する二項対立、例えば真と偽、精神と身体、社会と個人、自由と決定論、存在と無、支配と服従、男性と女性を問題にしており、これらの前提はニュアンス、区別、微妙な差を考慮していないとして批判されていた。

ドゥルーズ派の差異に関して、それは主にニーチェ派の永劫回帰とベルクソン派の多様性から生じており、フィリップ・サージェントによれば、ドゥルーズは弁証法的反論に対する還元できない差異を考慮していた。『ニーチェと哲学』の中でドゥルーズはヘーゲル派の弁証法に反対するニーチェを演じようとし、いわばロゴス、合理性、概念の中で決して還元できない差異を考慮しており、差異は実証的であり、複数性を示していた。

デリダ派の差延はシェリング、ハイデッガー、バタイユの試みの延長線上にあり、ヘーゲルのシステムを逸脱する絶対的否定は知識体系の内側に存在しており、デリダによれば、ヘーゲルは哲学的ロゴス自身の内に差異を考えさせる契機を残存させていた。

デリダは脱構築の創始者であり、エクリチュールに表れる不在や痕跡よりむしろ音声に表れる存在やロゴスを西洋の哲学が重視してきたことを批判しており、ロゴス中心主義を脱構築することを主張し、痕跡から切り離されたネットワークとしての人間の文化を形式化しようとしていた。

脱構築は、論理的整合性と概念的な対立や差異における弁証法的分解つまり同一性への分解を求める全てのテクストにおける意味の空間を開放する差延を明らかにすることを目的としていた。

リオタールによれば、近代の哲学は真実に対するその主張を論理や経験に基づいてではなく、ウィトゲンシュタインが言語ゲームと呼んだ知識や世界に関する容認された歴史に基づいて正当化しており、ポストモダンの状況ではこれらのメタナラティブはもはや真実に対する主張を正当化しないと主張していた。そして近代におけるメタナラティブの崩壊に続いて、絶対的な真実を主張するものではない永続的に変化する関係からなる世界が示唆されていた。

ポストモダンの哲学は『論理哲学論考』以降の分析哲学に対するルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる批判や『科学革命の構造』におけるトーマス・クーンの著作によって影響を受けており、分析哲学に対する合理的な拒絶を示していた。

リチャード・ローティはドナルド・デイヴィッドソンによってなされた概念的枠組と経験的内容における二元論に対して批判を行い、真実は妥当性や現実に対する表象の中に存在しておらず、社会的実践に属しており、言語は特定の期間における私たちの関心に仕えるものであり、現在使われていない語彙を含んでいるため古代の言語は時として現代語に翻訳できないことがあると主張していた。

他方で1997年10月にフレンチ・セオリーのフランス・メディアにおける隆盛とその扇動に対する批判や議論を基にしてアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンが『「知」の欺瞞』を出版するまで、アメリカにおける知的運動とフランスの哲学者たちの影響力はフランスではほとんど知られていなかった。ソーカルやブリクモンは言語学者であるノーム・チョムスキーや哲学者であるジャック・ブーヴレスを含む他の知識人たちによって支持されていたが、問題を呈された哲学者たちはその方法を批判し、物理学者であるアラン・ソーカルの置かれた状況が物理学や数学における用語を象徴や隠喩として用いることを許さなかったのだろうと主張していた。

またブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」ーー科学人類学は警告する』によれば、近代にもポストモダンにも反対することによって、ノンモダンと呼ばれるものが哲学の伝統の中に加えられていた。

ロマーン・ヤーコブソンやフェルディナン・ド・ソシュールの古典的な構造主義の時代の差異はポスト構造主義者たちによって明確に異なったものとして認識されており、古典的な構造主義者たちの理論的もしくは方法論的前提を引き継がず、歴史の不連続が古典的な構造主義者たち以上に強調されていた。

しばしば構造主義者によるアプローチとの関連でシニフィアンとシニフィエの関係が問題とされ、意味における前提の形成や意味の形成における不安定性や可変性を考慮せざるを得ないことを、デリダ派の脱構築やフーコー派の言説分析において、ポスト構造主義者たちは主張していた。

社会構造、知識体系、言説といったポスト構造主義者たちの前提は力の形成に関連しており、そのことはその妥当性や階層秩序を確立し、それに対する力関係を生み出し、その力関係を安定化させていった。したがって多くのポスト構造主義者たちにおける問題は創造的で新たな位置付けのために力の秩序が用いられることを可能にすることであり、カルチュラル・スタディーズを通じて分析されるように、マスメディア、大衆文化、日々の実践の分析が同様に重要な役割を担っており、ポストコロニアル理論やクィア理論においても、問題は意味における言説の力関係についての脱構築に向けられていた。

ポスト構造主義者たちのアプローチは隠喩、主題、合理性といったある古典的な概念に対する批判において意見が一致しており、全体主義、父権主義、差別主義、自民族中心主義を批判していた。

デリダの『グラマトロジーについて』は直接の会話において相手の固有の意図を理解できることは根拠のない間違った主張であるといったことを示そうとしており、『声と現象』は他者において記号化される行為や評価される行為によって時間の遅れが生じることを指摘していた。

ラカンはフロイトの理論を背景にして言語のように無意識が構造化されていることを強調し、精神的な出来事に対応する要素をシニフィエと呼び、欲動を背景にした小文字の他者と対照的に権威を象徴的に示す大文字の他者のように社会的な規範、法、権威、イデオロギーが関連している現象を考察していた。

象徴に関するラカンの考え方はルイ・アルチュセールによって補強され、幻想が有する役割に対する彼の発言はカルチュラル・スタディーズやビジュアル・スタディーズにおいて中心となる意味について新たな理論を構築することを促し、彼の思想の賛同者としてスロベニアの哲学者であるスラヴォイ・ジジェクがいた。

フーコーによれば、時代を特定した知の枠組はエピステーメーといった用語に縮約され、1970年代後半に彼の言説分析はカルチュラル・スタディーズ、歴史学、文学に波及し、主題や著者を古典的な解釈学の知識の中心に据えたアプローチと対照的に、著者の主題でなくその意図を中心に据えていた。そして著者の主題の確立は言説に関連した歴史的なそして文化的な変遷の結果であった。

言説は文化的知識の全体像であり、発話やテクストの形式で氷山の一角として姿を現すに過ぎず、思考や知覚は言説の秩序を通じて既に特徴付けられたものであり、知識の中にある形成されたエピステーメーを分析することや他方で自己認識や社会の秩序のメカニズムを把握することは文書を通じて可能であり、社会はテクストや文化的な創造物の上に形成されていた。

フーコーの後期の著作は特に自己への配慮をテーマにしており、それを彼はストア学派の理論に基づいて「セルフケア」と呼んでいた。

ポスト構造主義はさまざまな立場の人々によって批判されており、ユルゲン・ハーバーマスやマンフレッド・フランクによる反対やアラン・ソーカルによる実験が有名な例であった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツのWikipediaの「ポストモダン」や「ポスト構造主義」等の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Philosophie_postmoderne

ポストモダンの哲学

ポストモダンの哲学は特にフランスで1960年代に登場した多数の言説や業績の集合であった(「フレンチ・セオリー」[1]と呼ばれるアメリカでの理論を含む)。時代がその状況(ポストモダニティ)に直面しているといった概念を受け継ぎ、哲学者であるジャン=フランソワ・リオタール[2]によって広められたこの名称は、西洋のモダニティにおける伝統や合理性に対する強い批判を展開し、特にマルクス主義により影響を受けたテクストや歴史、キェルケゴール派やニーチェ派による合理性に対する批判、フッサールやハイデッガーの現象学、フロイトやラカンの心理学、レヴィ=ストロースの構造主義に対して、言語学や文芸批評によって問題を投げ掛ける新しい方法を提示した思想を統合したものであった[3]。

この名称の背景にはしばしばフーコー、ドゥルーズ、デリダ[4]といった哲学者たちのみならず、フランスではアルチュセール、カストリアディス、リオタール、ボードリヤール、ガタリ、イリガライ、バディウ、ナンシー、ラクー=ラバルト、ジュリア・クリステヴァ、アメリカではファイヤアーベント、カベル、ローティ、ジェイムソン、バトラー、ロネル、イタリアではヴァッティモ、ペルニオーラ、アガンベン、ドイツではスローターダイク、スロベニアではジジェク[5]も含まれており、彼らは自由やさらに西洋のモダニティにおけるイデオロギー上の伝統が直面している分断を批判し、それに対し不信の念を抱く姿勢を共有していた。しかしながらこれらの思想をある名の下に統合することは多くの異論を伴っていた。たとえばフーコーは個人的に「ポストモダン」といった名称を拒絶しており、むしろモダニティをそれに対して求めていた[6]。

ポストモダンの哲学はしばしば芸術運動であるポストモダニズムと混同されていた[7]。

1 共通の特徴と差異の特徴

1.1 共通の特徴

1.1.1 その起源と展開

ポストモダンの哲学は1950年代から1970年代さらには1980年代にかけて行われた批判的研究の集合であり、それは近代哲学の普遍主義や合理主義への偏りを部分的に拒絶し、より良い分析のためにそれらと距離を置くことを求めていた。それらは19世紀末から20世紀初頭の偉大な思想家たちに(マルクス[9]、ニーチェ[10]、フロイト[11]、ハイデッガー[12])問題を投げ掛ける研究や運動に当てはまり、ポスト構造主義、脱構築、多文化主義、そして哲学、文学、政治、科学等に関する言説の伝統的な展開に対して問題を示す文学論の一部が挙げられていた。

1.1.2 批評の態度と考え方

ポストモダンの研究は一般的に主題や理性による支配と例えばカントやヘーゲルの哲学に見受けられる普遍的で合理的なシステムの探求のような啓蒙時代から受け継いだヨーロッパの哲学やイデオロギーにおける伝統を打ち破っていた。この意味でジャック・デリダは「ロゴス中心主義」と呼ばれているものを脱構築することを提案しており[13]、そのロゴス中心主義はつまり「非合理」であるもの全てに対し理性が勝り、その理性は「非合理」なものを定義し、それを拒絶する権利を通常思いのままに行使していたとされていた[14]。デリダによればこのロゴス中心主義は常に「自民族中心主義」と重ね合わせられていた(理性の優位性のみならず「西洋の」理性の優位性が含まれていた)。それはそれから「ファロゴセントリズム」[15]になり、そこでロゴス、理性の優位性は男性の優位性へと置き換わっていった。

ポストモダンの哲学は西洋の形而上学や人文主義を支配するニ分法(二項対立)[16]に対して警戒しており、例えば真と偽、精神と身体、社会と個人、自由と決定論、存在と無、支配と服従、男性と女性が挙げられていた[17]。西洋の思想におけるこれらの前提はニュアンス、区別、微妙な差を考慮するために批判されていた。

さらにポストモダンの哲学者たち(特にフーコーやアガンベン)はその時代における言説の形成や「真実」であると普遍的に受け入れられている見解を構築する言説を個人に対して内面化することにおける力の関係の意味を強調していた。

ポストモダンの哲学といった思想は、特にフランスの著作を理解することを通じて、基本的にはアメリカによって形成されており、その思想の集合は「フレンチ・セオリー」といった用語によって認められていた[18]。

1.2 差異の哲学

1.2.1 概説

ポストモダンの哲学に影響を与えた最初の哲学者たちはジャン・フランソワ・リオタール[19]、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ[4]であった。彼らはこの風潮を肯定せず、否定していたけれども[20]、アレックス・カリニコスによれば、「それが栄える知的環境を創造することを手助けしていた」[21]。

これらの哲学者たちが異なった観点に立っていることが見出されるならば、しかしながら彼らは基本的な考え方を共有しているものの、(フーコー、ドゥルーズの)差異、(デリダの)差延、(リオタールの)争異が存在していた。差異の概念はこれらの哲学者たちによって異なっており、したがってそれらの特定の差異を再び問題として取り上げることはしないが、この差異の概念は、共通の核があらゆる客体化を避け、実社会や意味の領域の中にそれら自身を位置付ける役割を果たしていた。

1.2.2 ドゥルーズ:差異

ドゥルーズ派の差異は主にニーチェ派の永劫回帰とベルクソン派の多様性から生じた省察であった[22]。フィリップ・サージェントによれば、ドゥルーズは「弁証法的反論に対する還元できない差異」を考慮していた[23]。『ニーチェと哲学』(1962年)の中でドゥルーズはヘーゲル派の弁証法に反対するニーチェを演じようとし、いわばロゴス、合理性、概念の中で決して還元できない差異を考慮しており、他方で差異は「否定の仕事」(訳者注:「否定表現が文章の意味にもたらす作用」といった意味で、例えばニュアンスを捨象し、断定的な側面を取り上げること等がある)から逃れ、純粋に実証的であり、複数性を有していた。

1.2.3 デリダ:差延

デリダ派の差延は2つの大きな論拠に基づいており、それはドゥルーズと異なっており、ドゥルーズが最も反対していたものと同じであり、ハイデッガーの『同一性と差異』(諸問題ⅠとⅡ、ガリマール出版社、1990年)やヘーゲルとシェリングの時代の反論が挙げられていた[24]。実際デリダ派は差延のプロセスを考慮しようとし、それはいわば差異を生じる分化や現時点との区別のプロセスであり、その試みはシェリング、ハイデッガー、バタイユの試み(至高性の概念)の延長線上にあり、ヘーゲルのシステムを逸脱するこの絶対的否定はこのシステムの外部やこのシステムに反対して存在しているのではなく、このシステムの内側に存在していた。デリダによれば、ヘーゲルは哲学的ロゴス自身の内にこのモデルを残存させており、差異を考えさせる契機を残存させていた:

「[...]おそらく哲学はこの曖昧さを仮定し、考慮に加えなければならず、哲学的な意味での純粋性の内に思索におけるその二重性や差異を受け入れなければならなかった。ヘーゲルが成した以上に深化していないならば、私たちは試みの段階にあると思われていた。」

— デリダ、『エクリチュールと差異』「暴力と形而上学」、スイユ、1967年、p.166

フィリップ・サージェントはドゥルーズ派に反対する言説の中で「デリダは思考における還元できない差異としての「弁証法的反論」に疑念を抱いていた」と述べたが、そのことはしかしながら差異の別の側面としてその弁証法的反論を形成し、それに対応していた:ドゥルーズやデリダのアプローチは、それらが対立するのと同じぐらい補完し合い、共通の「目標」や異なる前提から始まった類似の目標を共有していた。あらゆる真の差異がある真の差異に回帰していた:結局のところ同一性を肯定し、真実に到達することを主張する哲学に対してしか対立が存在しておらず、一方異なった形で(ヘーゲルの方法と同一ではなく)「差異」を主張する哲学は再び合流していた。

またデリダは脱構築の創始者であり、彼はテクスト批評の形式でその哲学を実践していた。エクリチュールに表れる不在や痕跡よりむしろ音声に表れる存在やロゴスを西洋の哲学が重視してきたことを彼は批判していた。したがってデリダは、例えば不在の痕跡によって印を付記されているならば現在のロゴスにおける西洋の理想はこの理想の表現によって損なわれることを主張することによって、ロゴス中心主義を脱構築することを主張していた。このパラドックスを強調するために、デリダは不在の表現を多く抱える痕跡や文章から切り離されたネットワークとして人間の文化を再度形式化しようとしていた。

脱構築は、論理的整合性と概念的な対立や差異における弁証法的分解つまり同一性への分解を求める全てのテクストにおける意味の(もしくは無意味の)空間を開放する差延を明らかにする(したがって客観化されないものを客観化する直観に隠されている)ことを主な目的としていた。

1.2.4 リオタール:争異

リオタールの著作は主に人間の文化の役割や特に「ポスト工業化」やポストモダンの状況に移行するためにモダニティから私たちが離れるときにどのようにこの役割は変化するのかについて関心を抱いていた。リオタールは、近代の哲学は真実に対するその主張を論理や経験に基づいてではなく(自己正当化として)、むしろウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」と呼んだ知識や世界に関する容認された歴史(もしくはメタナラティブ)に基づいて正当化していた。リオタールはポストモダンの状況ではこれらのメタナラティブはもはや「真実に対する主張」を正当化しないと主張していた。そして近代におけるメタナラティブの崩壊に続いて、人は新しい言語ゲームを展開し、そのゲームは絶対的な真実を主張するものではなく、むしろ永続的に変化する関係(人と人との関係や人と世界との関係)の世界を良しとするだろうといったことを彼は示唆していた[25]。

1.2.5 フーコー:エピステーメーの特異性

フーコーは構造主義に基づいて歴史的展望におけるポストモダンの哲学のアプローチを採用していたが、同時に歴史の形を作り直し、西洋の思想における哲学的構造を揺すぶることにおいて、彼は構造主義を拒否していた。また彼は力の行使によって知識が決定され、修正されるプロセスを検証していた。

デリダとフーコーはポストモダンの哲学者として引用されていたけれども、彼らは繰り返し互いの見解に対して反対していた[26]。そしてリオタールのように彼らは絶対的真実や普遍的真実に対する主張に対して懐疑的であった。しかしリオタールと異なり彼らは新しい言語ゲームから解放されるとの主張に対してむしろ悲観的であるように思われていた。そういった理由で一部の人々は彼らをポストモダニストというよりむしろポスト構造主義者として眺めていた。

1.3 アメリカにおけるポストモダニズム

1.3.1 ポストモダンの哲学とポスト分析哲学

『論理哲学論考』以降の分析哲学[27]に対するルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる批判や『科学革命の構造』におけるトーマス・クーンの著作によって、ポストモダンの哲学は同様にある程度影響を受けており、分析哲学に対する合理的な拒絶を一般的に示していた[28]。

1.3.2 ローティ

リチャード・ローティはアメリカのポストモダニストの中で最も有名であった。W・V・O・クワインによる分析命題と統合命題の区別に対する批判やウィルフリド・セラーズによる「所与の神話」に対する批判の統合は現実や外部世界の鏡としての思考や言語の概念を放棄させることを許容させると当初分析哲学者であったローティは考えていた。さらにドナルド・デイヴィッドソンによってなされた概念的枠組と経験的内容における二元論に対して批判を始め、彼は私たちの独自の概念が適切な方法で世界と関連付けられているのかといった問題や、それを成した方法と別の方法によって比較しながら世界を記述する方法を私たちは正当化できるのかといった問題を投げ掛けていた。そして真実は妥当性や現実に対する表象の中に存在しておらず、社会的実践に属しており、言語は特定の期間における私たちの関心に仕えるものである(現在使われていない語彙を含んでいるので古代の言語は時として現代語に翻訳できない)といったことを彼は主張していた。ドナルド・デイヴィッドソンは一般的にはポストモダニストとして考えられていなかったが、ローティや彼自身は彼らの哲学の間には小さな違いしか存在していないと考えていた。

1.3.3 カルチュラル・スタディーズとフレンチ・セオリー

http://fr.wikipedia.org/wiki/Cultural_studies

カルチュラル・スタディーズ

カルチュラル・スタディーズは社会学、文化人類学、哲学、民俗学、文学、メディア論、芸術等が交差する研究分野であった。学際的な観点から、それらは特に文化と力の関係に関連するものにおける批判において「専門化に対する対抗」として登場していた。アカデミックな文化に反して、カルチュラル・スタディーズは大衆文化、マイノリティ、抵抗する人々等における「横断的な」アプローチを採用していた。

1 カルチュラル・スタディーズの起源

この研究の動向は1960年代のイギリスに始まり、バーミンガムで1964年にリチャード・ホガートが現代文化研究センター(CCCS)を創立していた。その創立者に加えて一般的にこの動向にスチュアート・ホール(CCCSのセンター長でリチャード・ホガートの後継者)、シャーロット・ブランスドン、フィル・コーエン、アンジェラ・マクロービー、デビッド・モーリー、エドワード・トンプソン、レイモンド・ウィリアムズが関連していた。

1970年代にカルチュラル・スタディーズがアメリカに紹介され、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーのような哲学者の著作の中に示される表現とフレンチ・セオリーとの関係が研究されていた[1]。

1990年代以降カルチュラル・スタディーズは国際化していた。多くの動向がヨーロッパに登場し、ドイツにおけるカルチュラル・スタディーズやオランダにおけるカルチュラル・スタディーズが挙げられていた。

ジャン=クロード・パスロンは最初にフランスにカルチュラル・スタディーズを紹介し、その翻訳に貢献し、リチャード・ホガートの『読み書き能力の効用』の前文を記していた。しかしアメリカのカルチュラル・スタディーズにフレンチ・セオリーが適用されていたにもかかわらず、カルチュラル・スタディーズがフランスで発展したのは最近になってのことだった。

2 カルチュラル・スタディーズの射程を広げること

R・ホガートは緻密で具体的な「大衆階級」の生活を研究し、その力点は私生活、国内集団の価値観、直接的な快楽に対する嗜好に置かれていた。この研究における問題は特に社会によって課されるモデルからの解放における困難さに存在していた。

もし「カルチュラル・スタディーズ」の最初の研究が1990年代の大衆文化に関連していたならば、この研究の対象分野はパフォーマンス・スタディーズ、ビジュアル・スタディーズ、ポストコロニアル研究、ジェンダー研究に拡大し、人文科学における「文化的転回」とともに発展していたことになる[2]。

http://fr.wikipedia.org/wiki/French_Theory

フレンチ・セオリー

フレンチ・セオリーは、1960年代にフランスで、1970年代にアメリカで始まった哲学、文学、社会学における集成であった。フレンチ・セオリーは1980年代にアメリカの人文学部でブームになり、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダー研究、ポストコロニアル研究の登場に貢献していた。またフレンチ・セオリーは芸術やアクティビズムに強い影響を与えていた。

フレンチ・セオリーの主な哲学者たちの中に、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ジャン・ボードリヤール、ジャック・ラカン、フェリックス・ガタリ、ジャン=フランソワ・リオタール、ルイ・アルチュセール、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスス、クロード・レヴィ=ストロース、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、リュス・イリガライ、モニック・ウィティッグ、ジャック・ランシエールが挙げられていた。

1997年10月にフレンチ・セオリーのフランス・メディアにおける隆盛とその扇動に対する批判や議論を基にしてアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンが『「知」の欺瞞』を出版するまで、アメリカにおける知的運動とフランスの哲学者たちの影響力はフランスではほとんど知られていなかった。

フレンチ・セオリーを頻繁に参照したアメリカの哲学者たちの中に、ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァク、スタンリー・フィッシュ、エドワード・サイード、リチャード・ローティ、フレドリック・ジェイムソン、アヴァイタル・ロネルが挙げられていた。

1 アメリカの理論

フレンチ・セオリーという語におけるこれらの哲学者たちの分類はフランスにおいて非常に恣意的なものであった。同一の哲学の学派の中に集成することはその相違点やそれぞれの著作における理論の多様性を打ち消していた。フランソワ・キュセによれば、唯一の明白な類似点は批判的なアプローチと思われていることであった:

主題、表象、歴史的連続性に対する批判。

フロイト、ニーチェ、ハイデッガーを再検討すること。

ドイツの哲学の伝統である「批評」自体に対する批評。

キュセによれば、フレンチ・セオリーは多くの要因の集成から生まれていた:

その理論が容易に理解されうるアメリカの大学において既に存在している知的なもしくは政治的動向。

特定の出版の方法(著作を完全に翻訳することよりむしろ大学の出版物やアングラにおける冊子)、フランスの哲学者たちを交えたインタビューの優越性(均一な集成であるといった印象を与える)、翻訳にともなう困難、ジャーナルにおける引用から離れた用法等を通じて、それらを再構成し、それらの背景から離れることによって、フランス独自の概念をアメリカナイゼーションしたこと。

2 ポストモダニズムとポスト構造主義

ポストモダンの哲学はポスト構造主義に非常によく似ていた。両者を同一のものとしてみるか、基本的に異なったものとしてみるかは、これらの問題に対する個人の関わりに一般的には依存していた。ポストモダニズムやポスト構造主義に反対する人々はしばしば両者を1つのものとしてみなしていた。他方でこれらの学説の支持者たちはよりわずかな区別を行なっていた。

ジャック・デリダは1967年に『エクリチュールと差異』(特に「力と意味」と題された論文)の中で構造主義から出発し、エクリチュールや文の発見による彼自身の理論の中でその構造主義を適切にやり過ごしていた。

ミシェル・フーコーによる『言葉と物』といった著作は構造主義に関連していたけれども、フーコー自身は構造主義という知的動向を代表することを否定していた[29]。

3 ポストモダンの哲学に対する批判

ポストモダンの哲学によって採用された文章を書くための方法は物理学者であるアラン・ソーカルやジャン・ブリクモンによって激しく批判されていた。哲学や社会学における文脈で物理科学の用語を(彼によれば不適切な乱用であった)使用することに問題を呈するために、アラン・ソーカルは「ポストモダン」として考えられる著作や論文からの引用で構成された間違った論文を造り上げた。彼はこの論文をソーシャル・テキスト誌に送り、それは掲載されることになった。彼は次の論文の中でその欺瞞を明らかにした。この発表が「ソーカル事件」として知られる論争を引き起こしていた。『「知」の欺瞞』(1997年)の2人の著者たちは言語学者であるノーム・チョムスキーや哲学者であるジャック・ブーヴレスを含む他の知識人たちによって彼らの仕事について支持されていた。問題を呈された哲学者たちはその方法を批判し、物理学者であるアラン・ソーカルの置かれた状況が物理学や数学における用語を象徴や隠喩として用いることを許さなかったのだろうと主張していた。

ブルーノ・ラトゥールは1991年に『虚構の「近代」ーー科学人類学は警告する』を出版し、近代にもポストモダンにも反対することによって、彼が「ノンモダン」と呼ぶものを哲学の伝統の中に加えていった。

http://de.wikipedia.org/wiki/Poststrukturalismus

ポスト構造主義

ポスト構造主義という用語はさまざまな人文科学や社会科学におけるアプローチや方法を示しており、それは1960年代末にフランスに初めて登場し、言語的実践と社会的現実との関係を批判的に検討していた。さらに言語は現実を反映していないだけでなく、その分類や区別によって現実を生み出しているといった洞察が重要であった。典型的には社会における客観主義者の見解から離れることがこの見解と関連しており、それは社会的実践を必要なものとして考えており、社会の発展におけるさまざまな可能性(偶然性)が強調されていた。

ポスト構造主義の思想家として、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ジャン=フランソワ・リオタール、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ジャン・ボードリヤール、スラヴォイ・ジジェク、エルネスト・ラクラウ、ジュリア・クリステヴァ、シャンタル・ムフ、ジュディス・バトラー、エレーヌ・シクススが挙げられていた。

1 哲学史的位置付け

「ポスト構造主義」という用語は哲学史的名称であった。この縮約された用語に影響された思想家たちにとって、重要な共通の命題のみが表現されていた。この理由は、多くのポスト構造主義者たちが代わりに広まった哲学の位置付けでなく特定の方法や知的もしくは分析的態度が問題であることに気付いていたことを強調していたからであった。

ロマーン・ヤーコブソンやフェルディナン・ド・ソシュールの古典的な構造主義の時代の差異は個々のポスト構造主義者たちによって明確に異なったものとして認識されていた。古典的な構造主義者たちの理論的もしくは方法論的前提を引き継がないと決定することによって、たいていこの区別は見受けられていた。特にクロード・レヴィ=ストロースを育んだように、このことはとりわけ文化横断的、歴史横断的、厳格で抽象的な原理に関係していた。一般的に歴史の不連続が古典的な構造主義者たち以上に強調されていた。

しばしば構造主義者によるアプローチとの関連で特に記号論、(言語的な)記号(シニフィアン)と意味(シニフィエ)の関係が問題とされ、言語的そして言説的構造の可変性に対して注意が向けられていた。したがって、意味の単位が常に以前と関連した差異(デリダの差延を参照せよ)の結果としてのみ形成されることが可能であり[1]、そのことを通じて意味における前提の形成や同時にそのことに伴う意味の形成におけるより強い不安定性や可変性を考慮せざるを得ないことを、特にデリダ派の脱構築やフーコー派の言説分析において、多くのポスト構造主義者たちは主張していた。

社会構造、知識体系、文化の形成(言説)といった大半のポスト構造主義者たちの前提は基本的に力の形成に関連しており、そのことはその妥当性や階層秩序を確立し、それに対する力関係を生み出し、その力関係を安定化させていった。したがって多くのポスト構造主義者たちにおける主要な動機は、解体(弱体化)や介入主義者による(侵入的な)実践を通じて力の秩序が変更され、少なくとも創造的な新しい位置付けのために力の秩序が用いられることを可能にすることであった。それゆえ特にカルチュラル・スタディーズを通じて分析されるように、マスメディア、大衆文化、日々の実践の分析が同様に重要な役割を担っていた。この文脈における重要な思想家たちはバーミンガム現代文化研究センターにおけるスチュアート・ホールとジョン・フィスクであった。ポストコロニアル理論やクィア理論においてさえも問題は中心的な意味における言説の力関係についての脱構築に向けられていた。

多くのポスト構造主義者たちのアプローチは隠喩、主題、合理性といったある古典的な概念に対する批判において意見が一致していた[2]。したがって伝統的にこれらの用語に関連した立場はしばしば全体主義的、父権主義的、差別主義的、自民族中心主義的、「実体論的」または「自然主義的」(「書くことが有する自然固有の性質としてのアイデンティティ」における意味で)または西洋の「ロゴス中心主義」の主張であるとして批判されていた。

いくつかのポスト構造主義のテクストにおける共通の言葉は以下のとおりであった:曖昧さ、差延、(共有された)自己、「大文字の他者」等。

2 社会史的背景

ポスト構造主義の成立に関して人文主義(ジャン=ポール・サルトルの意味で)やマルクス主義が影響を及ぼしていた。初期のポスト構造主義者たちの見解ではそれはこれらの理論と関係しており、さらに多くの問題を残していた。2つの理論は不十分な問題に対して登場し、その問題は、ソビエト社会主義における全体主義の構造に直面し、スターリニズムに反対し、革命の主題であった労働階級の喪失に直面し、「社会民主主義」、ポストコロニアリズムにおける社会運動の弱さ、エコロジーにおける新たな緊急性を表現すること、都市部の青少年の自己破壊、新たな自信を創りだす運動の展開、「反対運動」にあまり満足していない現状:女性運動、アフリカ系市民の社会運動、ゲイやレズビアンの市民社会運動、市民権運動を前にして呈されていた。

3 ポスト構造主義の異なったアプローチ

3.1 ジャック・デリダ 文字学

ジャック・デリダは特に大きな影響力のある哲学者であった。彼は彼の方法を(彼は「実践」を好んでいたが)脱構築と呼んでいた。

直接の会話において相手の固有の意図を理解できることは根拠のない間違った主張であるといったことを、彼の初期の傑作である『グラマトロジーについて』は示そうとしていた。実際このことは見過ごされたままであり、「最期の手記」の形で存在していた。とりわけ古典的な言語の理論が研究の対象であった。

同様に、個(ある個人の意図)と一般(他者の意図)は直接的に必要なものであるといったことを、彼の初期の基礎となる著作である『声と現象』は示そうとしていた。この理由として他者においては記号化される行為や評価される行為によって時間の遅れが生じることが挙げられていた。

同様にこのような差異は、なぜ言語的な区別における原則の前にある主題に関する知識が自身に与えられることができず、(理想的な方法で)理論的な結果の推量に使われることができるのかを明らかにしていた。このことを初期のデリダはデカルトの「我、思う」のシーンに対して示そうとしていた。彼の初期の論文はジークムント・フロイト、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、フェルディナン・ド・ソシュール、エマニュエル・レヴィナスと議論を交わしていた。後者はデリダの批評を(特に彼の論文である「暴力と形而上学」の中で)部分的にだが初めて有名にしていた。

デリダの後期の仕事は哲学におけるほとんど全ての分野に充てられていた。試験段階の後、彼の後期の著作は実際の政治問題を全面に押し出していた。

デリダの相手は他に、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ミシェル・フーコー、リュス・イリガライ、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・ラカン、エルネスト・ラクラウ、ジャン=フランソワ・リオタールであった。

3.2 ジャック・ラカン 精神分析学

フランスでの精神分析の発展に中心的な役割を果たしたフランスの精神分析医であるジャック・ラカンは構造主義の方法を参照しジークムント・フロイトの著作を再度読み込むことに専心し、基本的なオントロジーの影響を考慮し、数学のトポロジーに関する後期の著作でグラフモデルを無意識のプロセスを表現するために用いていた。

ラカンは錯誤や冗談に関するフロイトの理論を背景にして「言語のように」無意識が構造化されていることを強調していた。無意識の仕事は隠喩、換喩、置換、推移といった言語的な法則にしたがって生じていた。精神的な出来事に対応する要素を彼はシニフィエと呼んでいたが、言語のように構造化された象徴の世界に加えて、表象と現実が精神の世界において中心的な役割を果たしていた。実際の構造の影響や精神分析療法が言語の分野において生じていた。欲動を背景にして決定的な役割を果たす「小文字の他者」や「対象a」と対照的に権威を象徴的に示す「大文字の他者」(「父の名」を参照せよ)といった用語において示される言語や象徴に関してラカンは社会的な規範、法、権威、イデオロギーが関連している現象を考察していた。

象徴に関するラカンの考え方はマルクス主義者のアプローチに対するイデオロギーやイデオロギー上の「願望」による分析を背景にして特にルイ・アルチュセールによって補強されていた。欲動として眺めることや精神的であるが社会的な出来事に対して幻想が有する重要な役割に対する彼の発言はカルチュラル・スタディーズやビジュアル・スタディーズの分野においてより中心的な意味について新たな理論を構築することに賛同していた。ラカンの思想の主な代表者としてスロベニアの哲学者であるスラヴォイ・ジジェクがいた。

3.3 ミシェル・フーコー 言説分析

部分的に構造主義に関連しているがミシェル・フーコーによって展開された言説分析はポスト構造主義者のツールとして基礎となるものであった。フーコーによれば1990年代の言説分析は比較的限定的に使われた方法として展開していった。

それらは差し当たりフーコーの主著である『知の考古学』において展開されていた。これは『言葉と物』における「人文科学的な」知識体系の誕生、疎外のメカニズム、同時に病気と狂気の定義に対する彼の具体的な研究に続き、この疎外行為は同時に固有のアイデンティティ、健康、合理性に関する社会の自己防衛を安定なものへ変えていった。その中で既に暗黙に用いられていた方法は部分的には批評に対する回答の中でフーコーによって言説分析として明示されていた。さらに構造の分析や知識体系を確立するための条件が問題とされ、それは知識の要素を許容することやその重要性に関する固有の伝統そして所与の「言説の規則性」に関連していた。それらの時代を特定した知の枠組は「エピステーメー」といった用語に縮約されていた。全体的な意味を用いることが可能で、意思の伝達が生じうるために、規則や規範のような文脈上の要素は不可欠なものとして理解されていた。特に言説以前の枠組が考慮され、それが規則を確立する戦略や規則の関係を位置付ける戦術に対する力関係によって構造上の組織のようなものを関連付け、そのレベルをフーコーは「マイクロポリティクス」と記述していた。

1970年代後半にこの方法はカルチュラル・スタディーズ、歴史学、文学に導入されていた。それらは主題や著者を古典的な解釈学の知識の中心に据えたアプローチと比べて際立っていた。中心には著者の主題でなくその意図が存在していた。著者といった考え方の導入はより大きな言説のユニットに印を付けるためだけに存在していた。著者の主題の確立は言説に関連した歴史的なそして文化的な変遷の結果であった[3]。特に著者の概念は所有権の概念に一致していた[4]。

著者たちの代わりに、フーコーは知識体系の構造を考慮の対象とし、それは彼にその用語の可能性を与えていた。言説においてそのために選ばれた用語は統合され、それは言説以前の文化的知識を構成するための条件、特に支配と制限を受けた知識体系に言及していた。「言説」は文化的知識の全体像であり、それは発話やテクストの形式で氷山の一角として姿を現すに過ぎなかった。思考や知覚はフーコーの仮定によれば言説の秩序を通じて既に特徴付けられたものであった。真実や現実は文化的な意思表明や、真実を確立し、意思表明によって「それを聞くことができる」と示す闘争の実践によって成立していた。知識は一般的に文書においてのみ利用することが可能であったが、このことはその中にある形成された言説(エピステーメー)を分析することを可能にしていた。自己認識や社会の秩序のメカニズムは少なくとも間接的に把握可能であった。また社会はテクストや文化的な創造物の上に形成されていた。

著者といった考え方を方法論として取り出すことはフーコーによる主題の批評に従えば特別な例として説明されていた。主題はフーコーによれば自己の言説に関する利用可能な戦略の中で主題自身を設計しており、その中で自己の位置付けに関する創造的な戦術によってさまざまな集合の形を取りながらそれは利用することが可能になっていた。この動きにおいてそれはフーコーにとって問題であり、それは古典的で実体論的な主題という用語を通じて早くから制約を受けていたからであった。フーコーの後期の著作は特に自己への配慮をテーマにしており、それを彼はストア学派の理論に基づいて「セルフケア」と呼んでいた。

4 批判

ポスト構造主義はあらゆる方向同様にさまざまな立場からの個々の代表者たちによって批判されていた。ユルゲン・ハーバーマス[5]やマンフレッド・フランク[6]による反対やアラン・ソーカルによる実験が有名な例であった:これはある雑誌で起こり、それはポスト構造主義的な理論の形成を支援していたおり、その雑誌がある論文を公表し、それはポスト構造主義の文章の固有のスタイルに支持されたものであったが、その論文は無意味な内容しか含んでおらず、ソーカルによって知的誠実さを欠落した論文であることが示されることとなった。

1949年4月11日のICJの見解によれば、あらゆる法システムにおける法の主体は必然的にその法の性質や範囲において同一ではなく、その法の性質はその社会の必要性に依存しているとされ、1815年以来徐々に新たな主体になりつつあった国際機関と共に協調する必要性を背景にして国連が国際法の主体となり、他の国際機関に主体が拡大され、人権を擁護する国際法のシステムの中で個人がますます重要な役割を担うようになっていた。

そして国際公法の法典は存在しておらず、成文化されているか否かに関して異なった法源の間におけるハイアラーキーしか存在しておらず、このことは国際的に確立された法的秩序が存在していないことの結果であるかもしれなかったが、国際法におけるさまざまな法源は国際司法裁判所規程の第38条に記されていた。

法の一般原則またはPGDは国際的な裁判官や仲裁人が新たに設けずに適用できる法の規則であり、権利濫用の禁止、当事者の平等、既判力、誰しも自身に関することで裁判官になることはできないといった国内法から引き出されており、これはイギリス法の禁反言の法理にも対応しており、1962年6月15日にICJによってプレアビヒア遺跡の領有権問題に関して、法に反して以前に当事者によって採用された立場に反しているならば、その当事者の言動における承認できない異議申し立てに反対してもよいといったことが述べられていた。また国際公法特有のPGDとして、合意は拘束する、国家間の平等、国家は近隣諸国に干渉する可能性がある活動をその領域内で許すべきではないといったことが挙げられていた。

ジェラルド・フィッツモーリス卿によれば、もしお互いに補完し合わなければ、法と平等は正義を達成することができず、平等にはバランスを保つ要因となる可能性があり、キケロによれば、理の高じたるは非の一倍であり、過度な法の整備は不正義をもたらすものであり、法は終わりなく残されてはならないものであった。

1969年の条約法に関するウィーン条約は第53条や第64条の中で国際的な規範におけるハイアラーキーを認識しているように想定され、強行規範と呼ばれているものによって正当化され、強行規範を有している規範は義務的であり、他の国際規範よりも優越されるように想定され、例えばジェノサイドの禁止は強行規範に含まれるように想定される可能性が存在していた。

ハンス・ケルゼンによれば、国内法を国際法が支配する可能性や、国際法を憲法のようなある特定の国内規範が従属させる可能性が指摘されており、ジョルジュ・セルはこの立場にあったが別の方法を正当化していたが、ハインリッヒ・トリーペルやディオニシオ・アンツィロッティによれば、国際法や国内法は2つの分離された法秩序であって、一方は国家や国際組織を主体にしており、他方は個人に対してのみ適用されるので、分離が可能であるとされていた。

1969年のウィーン条約の第27条によれば、国際的な義務を回避するためにいかなる国家も国内法の規則を援用することはできないとされていたが、このことは裁判官が国内法の規則を無効にすることを意味しておらず、国際レベルでそれが効力を有する際に、単にその効力を無効にするだけだった。

したがってノッテボーム事件において、ICJは、グアテマラ当局はリヒテンシュタインの国籍を取得したこの国の市民をドイツ人としてみなすことができ、この新しい国籍は効力を有しないとみなすことができると述べていた。そうすることでICJは、ノッテボーム氏からリヒテンシュタインの国籍を剥奪し、それゆえこの国による規範や行為を無効にしていないが、グアテマラのような他国におけるその適用を不可能にしていたとされていた。

1946年のフランス憲法の前文に、フランス共和国は伝統に対して忠実であり、国際公法の規則を遵守するといったことが記載されていることから、合意は拘束するといった規則が示されており、それは国際慣習を含んでいたが、1958年憲法の第55条によれば、条約が他国によって批准され、承認され、公布され、適用される必要が存在していた。ドイツやイタリアでは同様に国際慣習は直接適用可能であったが、条約に効力をもたせるために法律の制定を必要としていた。フランスでは条約は法律に優越する効力を有しており、判例は徐々にそれらが批准後に制定された法に優越されることを示していたが、ドイツやイタリアでは条約は法律と同じ効力を有しており、原則として単なる法律によって繰り返し言及されるだけであった。

イギリスでは慣習を含む国際法はブラックストンの学説の下に適用されており、競合が発生した場合には国内法が優越されていた。もし1998年の欧州人権条約が直接適用されるならば、それをイギリスの人権法の中に統合するための法律が必要とされていた。アメリカでは正確で条件を付されていない条約はそれ以前の法律に優越されるが、その後の法律との関係は議会の意思に依存していた。

法律以上の存在である条約と憲法の関係は複雑であり、フランスでは国務院の判例によれば、フランスによって署名された条約とは関係なく憲法は国内法に適用されるべきであるとされていたが、憲法評議会は、特定の規則を対象にした欧州共同体法を遵守しているかを検証する必要はないと考えており、ベルギーでは破毀院や国務院での判例は条約が憲法に優越することを確立していたが、憲法裁判所はベルギーが憲法に反した条約を締結することができないと考えていた。

アメリカ法の域外適用はキューバ、リビア、イランへの禁輸措置の法律であるダマト法やヘルムズ・バートン法を通じて具体化され、これらの法律の域外適用によってアメリカ企業であれ他国の企業であれこれらの国々に投資する企業はすべてアメリカの裁判所によって処分される可能性が存在しており、1999年2月11日にEU議会の代表団によって提出されたアメリカとEUの経済関係に関するレポートはアメリカの法律の域外適用に関して問題を投げ掛けていた。

紛争を解決する裁判所にとっては紛争当事国が明示的に裁判所の決定を信任する必要が存在しており、それは選択的な裁判管轄条項として考えられており、それは仲裁条項との関連で理解されていたが、条約に含まれる裁判所の管轄権を信任することを宣言することや裁判所の資格を一般的に信任することを宣言することは稀であり、しばしば多くの留保を抱えており、常任理事国ではイギリスだけがこのような宣言に署名しており、アメリカはニカラグアのコントラ事件の後その宣言を撤回しており、フランスは核実験の後にその宣言を撤回しており、そのような合意の適用はそれに拘束される国々の意思に大きく依存していた。

国際紛争における平和的な解決のための交渉、調停、仲裁や司法的解決は結局のところ国家による対抗措置を導くかもしれず、この法は必然的に保障されたものではなく、ICJの判決を遵守することを拒否した場合には、損害を被った国家は初めに安全保障理事会に事件を付託しなければならなかったが、国際刑事法に関してはこれと明確に異なり、ローマ規程が人道に対する罪に対して国際刑事裁判所を創設していた。

強大な国家によって課される対抗措置が政治的もしくは経済的に弱い国家によって課される措置より効果的であることは明白であり、実際のところ強い国家のみが署名された合意を実行に移すことが可能であり、法の支配といった概念は国際関係には完全には当てはまっておらず、国際法は適者生存の論理が姿を変えただけであるように思われていたが、外交関係の重みや世界におけるその姿が国家に与える意味を無視することはできず、国家にはその義務を遵守するインセンティブが存在していた。

強力な実定法のシステムを有する国家において国際法は合憲性の中に姿を表す憲法上の権利に依存しており、規範のハイアラーキーにおけるより低い水準にある法律に対して課されるものであった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、国連安保理決議第1373号、テロ対策委員会、国連安保理決議第1540号によれば、テロとの闘いを全ての加盟国に影響を及ぼす適用可能な法として説明することやいわゆる強行規範を導入することはまだ全ての国連加盟国によって認められていなかった。そして安全保障理事会の概念は行政機関としての役割を期待されておらず、個々の紛争に対する解決を処理すべきであり、世界立法府として振る舞うべきではないといった懐疑的な見解が示されていた。

国際法の主体は本質的には国家であり、ゲオルグ・イェリネックの三要素によれば領土、国民、主権からなる3つの特徴が国家を構成していたが、今日の国際法の主体は国家や国際組織によって設立される国際機関を含む可能性が存在しており、NGOは基本的に国際的な法人格を有していなかったが、ますます多くの多国籍企業、NGO、個人が国際的な権利と義務に関わっており、歴史的理由から赤十字国際委員会やマルタ騎士団は国際法の独立した主体であった。

法の一般原則はあらゆる国内の法秩序から構成されており、その固有の法秩序には、例えば合意は拘束すること、特別法は一般法に優先すること、後法が前法を廃止すること、矛盾行為禁止原則等が挙げられ、それらに国際法の特徴や法理の原則は依存していた。

ドイツではドイツ連邦共和国基本法第25条第1項に従って慣習国際法と法の一般原則は直接適用が可能であり、連邦法より上位に位置しており、ドイツ基本法第59条第2項によれば、国際条約は変形を必要としており、一般的には国内の批准によってその規則の中に包含され、それは連邦法より上位に位置していた。

国際刑事裁判所またはICCに関して139ヶ国によって1998年7月17日に採択されたローマ規程の批准を通じて、国際法の規範や条約を引き合いに出すことが認められており、ICCの規範は国際法における私法と公法に関してローマ法の精神を導入しており、そこで強行規範といった規範のハイアラーキーを強調していた。ICCにおける訴訟はドイツでは裁判所構成法第21条によって効力を有し、ICCの規範は刑事訴訟法第100条第a項の中に挿入されていた。

近代国際法の重要な側面の1つは戦争の放棄であるが、第一次世界大戦によって蔑ろにされていたが、戦後になって初めて関係各国の間におけるケロッグ=ブリアン条約または不戦条約の中で合意されることになり、それ以前は戦時になると残虐行為に歯止めをかけ市民を守る試みにおいて国際法はそれ自体の役割を制限しており、国際連盟や国際連合を通じて初めて共同の国際機関が創設され、それは全ての国家に義務を求める国際法を遵守することを求めていた。

国際法における規範は神の意思や理性等を法源にする自然法から生じており、主意主義的理論は、その時その時の法規範に賛同する国際法の主体の意思にそれらを帰していた。ヘーゲルやエーリッヒ・カウフマンによれば部分的には国家のコミットメントに、トリーペルによれば部分的には国家における合意にそれは合わせたものであった。ハンス・ケルゼンはそれを仮想の基本的な規範に戻し、そのことは他の研究者たちによって純粋なフィクションであるとして批判されることになり、彼の著作によれば、当事者の意思に依存する便利なフィクションにすべての法秩序の妥当性は依存しているので、それはまさしく純粋なフィクションであり、この自己満足は非論理的であるかもしれなかったと述べられていた。他方ジョルジュ・セルのように社会学的なアプローチは人間の社会的性質や人々における自然な社会的連帯に焦点を当てていた。

国際法の法的性質は多くの研究者たちによって議論されていた。H・L・A・ハートは確かに国際法の法的性質を否定していなかったが、一次的ルールに対してそれを保持しているのみで、少なくとも彼の時代において一般的に認められた二次的ルール(承認のルール)に対してそれを欠いていると主張していた。今日一部のアメリカの研究者たちは国際法の規範性を否定しており、ニューヘブン学派は国際法における限定的な規範性を認めており、ジャック・ゴールドスミスやエリック・A・ポズナー他のような法の経済分析の支持者がかなり存在していた。彼らによれば国際法は純粋に随伴現象的であり、その安全やそのパワーを増大させることに関心を抱いている国家の行動が慣習法を支えているならば、これは国家の関心に影響を及ぼさないとされ、国家はその評判が損なわれることに対して一切の憂慮を抱いていないとされていた。ジョエル・トラハトマンやアンドリュー・グスマンによれば、特定の状況において国際法は国家の行動に対して一定の影響力を有し、潜在的に違法行為を許容する国家は少なくともその評判が失われることを考慮の対象にすると結論づけられ、国際法は限定的ではあるけれども規範性を有しているとされていた。一部の批判法学は覇権的なパワー・ポリティクスの姿を粉飾する操作が行われていることを認めており、懐疑論に対してその規範的な理由を与えていた。

大陸ヨーロッパではそれに対して国家間の合意に基づいた法実証主義を基礎としており、国際法の規範性は問題とされていなかった。

国際社会に関する議論は2001年から現在に至る国連国際法委員会における国家責任条文第33条第1項等におけるこれらの用語の使用を通じてなされており、国際社会の存在は人権や環境保護のような共通の価値観から導かれる法秩序から派生しており、その共通の価値観の存在は規範のハイアラーキーに対する根拠やその意思に反する国家の義務が生じることに対する通説を与えており、それは古典的な解釈によれば国家間の協調や国際法に一致した協調に関して考えられないことであった。

国際法の憲法化については、国際関係の入り組んだネットワークに基づいた国家の憲法は、それは国家に内包されているものの、今日の国家における政府の法的基盤を部分的に表現しており、国家の憲法は国際法秩序の関与の下でのみ理解されることが可能であるとの視点と、規範のハイアラーキーや国連憲章が有する憲法的な性格に対する問題のように憲法が国際法におけるさまざまな展開を許容し、そこで憲法の要素が取り決められているとの視点に基づいていた。通説における含意は、どの程度国家は国内管轄事項を有するのかや投票行動を通じて法の抵触が解決されてもよいものかといった問題における憲法化における議論を含んでいた。

これらの大陸ヨーロッパで行われている2つの議論にともない、相当数存在している懐疑論について見過ごすことはできず、多くは国家の中に国際法の中心となる主体を見出していたが、国際社会の制度的弱さのみならず国際法の中に価値判断を示す要素を導入することを含む恣意性のリスクについても指摘が行われていた。

また国際法はますます断片化の方向へ向かうのかといったことが問題視されており、第一にそれは国際取引法、国際環境法、投資保護法、人権のような法の抵触が増加するさまざまな国際レジームから生じ、第二にそれは管轄領域の重複をともなう国際司法裁判所や仲裁裁判所から生じており、MOX工場事件における国際海洋法裁判所と欧州司法裁判所における管轄権争いや非国家主体の行動の帰属事件における国際司法裁判所と旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷における異なった判決に繋がっており、2006年に国連国際法委員会は法の抵触の取り扱いに関する報告を採択していた。

人道的介入について多くの意見は非常に政治的に色付けされているだけでなく、特に度重なる混乱が生じていた。第一に自国民を救助する介入と他国民を救助する介入が区別されていた。外国領土で自国民を救助する介入は完全には認容しがたいものとして部分的には見なされており、国家による国際法違反であれば、そこで外国人は抑留されることになるが、介入が外国の国家による暴力ではなく犯罪組織を目標に据えたものであるならば、正当な根拠があるとの視点が存在していた。他方、他国民を救助する人道的介入については安全保障理事会によって決議されたものとその決議を受けていないものは区別されなければならなかった。

国連憲章は安全保障理事会に世界平和に対する脅威として認定される国家の行動に対して最終的には軍事的制裁を課す権限を与えていた。ジェノサイドの禁止は強行規範に含まれ、国際法上の義務的な規範になったが、それは常に全ての国際社会に関係しており、同様のことは基本的人権に対する深刻な侵害にも当てはまっていた。

しかしながら特に常任理事国の拒否権や政治的状況によって安全保障理事会はしばしば議決不能に陥ることがあり、国家は安全保障理事会の機能が麻痺した状況で最後の手段として単独または多国間による武力の使用を行うことが可能であるのかといった問題を生じさせていたが、ある見解は暴力の禁止や虐待の危険性に対する武力の使用を断定的に否定しており、それに対する反論は、ジェノサイドを傍観することを言い渡す法秩序は存在していないといった自然法の基盤によって、国連憲章における暴力の禁止に関する目的論に基づいた制限によって、国連憲章の上位にある慣習法や国民の自己決定権によって、まさに生じているジェノサイドに関して、安全保障理事会の決定がなくとも単独あるいは多国間による人道的介入を正当化しており、これらは部分的に国際法の主体としての性格を与えており、このことによって他に救済を求めることが可能であった。

またアデンによれば、人間は国際法の主体であり、そのようなものとして国際法上の権利や義務を有しているといった指摘がなされており、この理論によれば、明示的な国際条約がないときでさえ、人間にとっての公共財を損ない、排他的にそれを要求することは違法であり、全ての個人はどの出自であろうとも同一の法的保護や公平な裁判官、公正な意見聴取、スムーズな手続き等といったある枠組みにおける最低限のルールを享受することを、どの国家に対しても人はそのようなものとして主張できることが指摘されていた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランスとドイツのWikipediaの「国際公法」、「国際法」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Droit_international_public

国際公法

国際法は国家や国際機関のような法システムの主体間の関係を規定していた。この法律の法源は条約や慣習であった。特別な法源は国際慣習、法の一般原則、判例、最も優秀な国際法学者の学説を示していた。

国際法は2つのカテゴリーに分けることができ、1つは国際公法であり、他方はさまざまな国籍の人々の間の関係を規定する国際私法であった。単に国際法と言うときに、それは通常国際公法を指していた。

伝統的に国際法の主体は国家のみであったが、過去百年における国際機関の多様化はそれらを国際法の主体として認識するようになっていた。

国際人道法、人権、国際取引法における最近の発展は個人や国境を超える組織が国際公法の主体として認識される可能性があることを示唆していた。人権、国際人道法、国際取引法同様に、国際法の主体のみがこの法の規則を生み出し、適用し、その違反に対して責任を負うことが可能であるので、この解釈は伝統的な国際法の正当性に反するものであった。それゆえ今日国際法システムの主体として自然人や法人を認識することは容易なことではなかった。

1 歴史的起源

もし国際法が主に近代の創造物であるならば、古代における法的な国際関係を見出すことが可能であった。

1.1 古代

古代において国家間の関係はパワーによって本質的に支配されていたけれども、国際関係における法が一定程度確認されていた。最初の国際条約の1つは紀元前1300年頃のエジプトのファラオであるラムセス二世とヒッタイトの王との間で締結されたパーリイ条約(平和条約)であった。この条約は特に「政治難民」の引渡と不可侵において合意しており、各々の国々におけるさまざまな神々に対する信仰に基づいていた[1]。

ギリシアの都市は戦争捕虜の取扱いに関する規則を定め、聖域であるデルファイの管理のような機能を共同で管理していた。

ガイウスと共にローマ人は人類の全てに適用される万民法を考案していた。しかし国内における外国人たちの取扱いと保護を対象としていたので、それは今日理解されているような国際公法ではなかった。

1.2 中世

中世のヨーロッパはキリスト教のコミュニティによって近代と基本的に異なっており、国家の主権と平等の絶対性が存在していなかった。しかしA.D.1000年以降、国際関係は発展し、交易や大使の交換に関する規則を発展させる必要性に直面していた。理論上、異教徒に対する場合を除いて、戦争の危険性は神の名の下における停戦や神の名の下における平和のような規範によって低減させられていた。

1.3 ルネサンスと近代

国際法の形成に寄与した指導的な人々の中には次のような人々が含まれていた。

フランシスコ・デ・ビトリア(1483-1546)はアメリカの発見に起因する状況に関心を抱いていた。

フランシスコ・スアレス(1548-1617)は、国際社会の道徳的基盤はキリスト教による慈善活動にあり、国家の正当性は道徳や法律によって制限されるといった原理を導入していた。

フーゴー・グローティウス(1583-1645)は現代の国際法に対しておそらく最も影響力を有していた。彼は国際法における体系的な原理を示していた。彼は自然法(人間の常識)と自由意志に基づく法(万民法)、つまり全ての国々もしくは大多数の国々の自発性と義務を生じさせる法を区別していた。

同様にアルベリコ・ジェンティーリ、エメール・ド・ヴァッテル、ザミュエル・フォン・プーフェンドルフに言及することも可能であった。

近代国家の構成要素は特にイギリスやフランスで採用されており、系統立てられた力は各制度に存在しており、その保持者、国民、領土同様に人に対して存在している訳ではなかった。協調を促し国家を共存させるために、著者たちは条約を尊重する必要性を導き出していた(合意は拘束する)。しかしながらグローティウスのような著者たちにとって戦争は可能な選択肢のままであった。

1648年のウェストファリア条約はヨーロッパ諸国における主権の平等や近代国際法の基本原則を認めていた。

2 国際公法の主体

国際法の主体はこの法に義務を負い、それを使用することができねばならなかった。元来、国家は国際法の唯一の主体であった(ケルゼンによれば、国際法の唯一の主体は国家であった)。

1949年4月11日の国際司法裁判所の見解によれば、「あらゆる法システムにおける法の主体は必然的にその法の性質や範囲において同一ではなく、その法の性質はその社会の必要性に依存していた」。

しかし確かに国家は元々の主体であったけれども、1815年以来徐々に新たな主体になりつつあった国際機関と共に協調する必要性を感じていたので、この考え方は過去のものとなっていた。国連は国際法の主体となり、その後他の国際機関に主体が拡大されていった。

人権を擁護する国際法のシステムの中で、個人はますます重要な役割を担うようになっていった。

国際法の枠組みにおける国家

国際機関

国際法の枠組みにおける個人

3 国際法の法源

国際公法の法典は存在しておらず、成文化されているか否かに関して異なった法源の間におけるハイアラーキーしか存在していなかった。国際紛争における国連の役割にもかかわらず、このことは国際的に確立された法的秩序が存在していないことの結果であるかもしれなかった。

国際法におけるさまざまな法源は国際司法裁判所規程の第38条に記されていた。

提出された紛争を国際法に従って解決する国際司法裁判所は以下の事項を適用する。

国際的条約は一般的であれ特定的であれ紛争当事国によって明白に認識される規則を確立する。

国際慣習は法として容認される一般慣行であることを示す証拠である。

法の一般的な原則は文明国によって認識されている。

第59条の規定によれば、さまざまな国々の司法判断や最も優秀な国際法学者の学説を法の規則の補助として用いている。

もし当事者が合意するならばそれは正しく衡平に扱われ、この規程は国際司法裁判所の権限に関与しない。

この規程によれば、2種類の法源に区別することが可能であった。

成文化されていない法源は、平等のような法の一般原則であり、成文化された法源は条約、国家や国際組織や裁判所による単独行為、国際裁判であった。

3.1 成文化されていない法源

3.1.1 慣習

慣習の構成要素は、一般慣行、法的効力をもつ慣行、言い換えると国際社会のメンバーによって繰り返され、類似の方法で達成された、多様に解釈されないさまざまな法律行為の集合、そして心理的要素であるが法的確信、言い換えると法の規則を順守することから成り立っていた。ディオニシオ・アンツィロッティによれば「国際関係において国家が現在実際に行なっているような法的慣習が存在しており、国家はそれを強制されていると考えていた」。

慣習が不文法の法源であるといった事実はその強制力に疑念を投げ掛けていた。言い換えれば、どのように慣習が存在することを証明するのかといった問題につながっていた。慣習法を示す方法は多様であった:外交文書(暗号や外電等)、国際司法裁判所や常設仲裁裁判所における判決(ICJ、1969年2月20日、北海大陸棚事件:等距離原則は国家に対する慣習法ではない)。

一般的な慣習において立証責任は原告側にあった。しかしながらもしそれが証明されているならば原告が裁判所に対して慣習を示すことは不必要である可能性が存在していた(ICJ、1950年11月20日、庇護事件(ペルー対コロンビア)。さらに物質的な要素(一般慣行)が確立されているときに、心理的要素(法的確信)が生じる可能性が存在していた(ICJ、1959年3月21日、インターハンデル事件(アメリカ対スイス))。

地域間や二国間の慣習においてそれらが明白でないために、立証責任は厳密には原告側に存在していた。上記の亡命の権利に関する事件において国際司法裁判所は以下のように述べていた。「慣習に基づく原告は[ ... ]それが構成されていることを証明しなければならず、したがってそれは被告に対する義務であった[ ... ]それは一定の援用に則しており[ ... ]疑念を呈されながらも国家によって行動されており、この援用は国家に属する権利を反映し、亡命と国家に対する義務を与えるものである」。

さらにこのことに「合意に含まれる慣習法の原則はそれらが慣習法の原則として存在していないことを意味していない(ICJ、1986年、国境近辺での軍事活動)」が付け加えられていた。

1899年における戦争の法規に関する最初の法典化以来、慣習の法典化の問題が生じていた。それは20世紀後半以降、国連等の登場により加速されていた。1947年11月15日の国連総会によって設立された国連国際法委員会の規定第15条によれば「国際法を法典化する表現が採用され[ ... ]国家慣習、判例、学説が既に存在している分野での国際法の規則を体系化し、より高い精度で定式化し、事件をカバーする」ことが示されていた。ジョルジュ・アビザーブによれば法典化は「法律的に必要な活動」であった。

慣習国際法の法典化は法の規則の意味を明白に確立し、司法的な規則の断片化を防ぐ利点を有していた。しかしながら成文法は融通が利かず、法の規則の変更を困難にしていることが指摘されるべきであった。さらに極端に手間がかかり、失敗のリスクが高かった。

この法典化は着手される可能性を有していた。

国家自身(ハーグでの第1回会議における戦争問題の法に関する法典化(万国平和会議とも呼ばれる)はロシア皇帝のニコライ2世の意思を継いで開催されていた)。

国連のような国際機関:1924年に法律家委員会を創設し、それは法典化できる分野を定めていった。そして1927年に3つの大きな分野(領海、外国人の被害に対する国家の義務、国籍)が選択された。その後1947年に国連国際法委員会が前身となる委員会の後を引き継いだ。

今日5つの大きな分野が法典化されていた。

1958年のジュネーヴ四条約とともにある平時における海洋法や1994年11月16日に発効したモンテゴ・ベイでの国連海洋法条約。

1954年9月28日のニューヨーク条約後の無国籍。

1961年(外交任務)、1964年(領事任務)、1975年(NGOとの国際関係)におけるウィーン条約に関する国家の代表権。

1969年5月23日の条約法に関するウィーン条約や1975年の条約に関する国家承継に関するウィーン条約における条約法。

軍備に関する条約のような前述のハーグ会議に関する戦争の法と2001年の国際違法行為に対する国家の責任条約。

3.1.2 法の一般原則

PGDもしくは法の一般原則は国際的な裁判官や仲裁人が新たに設けずに適用できる法の規則であった。学説はPGDが国際法における独立したもしくは直接の法源かどうかで分かれていた。私たちは2種類のPGDを区別することが可能であった。

それは司法手続きや技術に関する国内法から引き出されていた(権利濫用の禁止、当事者の平等、既判力、誰しも自身に関することで裁判官になることはできないこと等)。PGDは単一の法システムから引き出されている可能性が存在していた:これはイギリス法の禁反言の法理に対応していた。ICJ(国際司法裁判所、1962年6月15日、プレアビヒア遺跡の領有権問題、タイ対カンボジア)は基本的に以下のように述べていた。「法に反して以前に当事者によって採用された立場に反しているならば、その当事者の言動における承認できない異議申し立てに反対してもよい」。

国際公法特有のPGDとして、合意は拘束する、国家間の平等、国家は近隣諸国に干渉する可能性がある活動をその領域内で許すべきではないといったことが挙げられていた。

3.1.3 平等

平等は個々の事件における正義の原則の適用のように自然的正義として定義されていた。平等は実定法を補完することが可能であった:

国際私法における隙間が存在していた(特に20世紀に)。

法の規則が裁かれるべき問題との関係で非常に抽象的になっていた。

紛争が厳密には法的問題でなく、仲裁に頼っていた。

ジェラルド・フィッツモーリス卿にとって、もしお互いに補完し合わなければ、法と平等は正義を達成することができなかった。また平等はバランスを保つ要因となる可能性があった。キケロによれば「理の高じたるは非の一倍」であり、過度な法の整備は最悪の不正義をもたらすものであった。このように法は終わりなく残されてはならないものであった。

3.2 条約

1969年5月23日に採択された条約法条約の第2条第1項第a号によれば「条約という用語は文書の形式で国家間において締結され、国際法によって規律された国際的な合意であり、単一の文書であるか複数の関連する文書であるかを問わず、その特定の名称を問うものでもなかった」。

条約にはいくつかの種類があり、1つは国際法における2つの主体の間で締結される二国間条約であり、他方は2つ以上の主体の間で締結される多国間条約である。条約には多くの呼称があり、組織を創設したとき憲章、軍事同盟を結んだとき協定、追加もしくは補正を意図した条約をプロトコル、国家と教皇庁との間の条約を政教条約と呼んでいた。

条約には第2条第1項第d号で定義される留保があり、「自国への適用において条約の特定の規定に関する法的効果を排除し変更する目的で、署名、批准、受諾、条約への加入の際に国家によってなされる単独の声明」を指していた。留保を行うことは常に可能であり(ICJ、1951年5月28日、集団殺害罪の防止および処罰に関する条約では「多国間条約を促進するためならば、大原則はいくつかの国家が留保することを必要としているかもしれない」とされていた)。しかし私たちは条約の主体や目的を考慮することを除外するかどうかに対して個々に調整しなければならなかった。ある条約は留保を禁止されており、運用上の性質(条約を遵守することが意図されている)ために最終規定が留保を受け付けないこともあった。留保を付した国家による通知から12ヶ月以内に留保に対する異議申し立ての声明がない場合には、留保は受諾されたものとみなされていた。

3.3 単独行為

3.3.1 国家

国家による単独行為は国家元首、政府の長、外務大臣によってなされる文書もしくは口頭での発言になる。他の閣僚の発言は除外されている(ICJ、1953年11月17日、マンキエ諸島とエクレウ諸島:フランスの海軍大臣の発言はフランスの国家に関連しているが、単独行為ではない)。私たちはいくつかの種類の単独行為を区別することが可能であった:

通告は行為であり、それによって国家は他の国家に法的結果を伴うかもしれない事実を知らさなければならなかった。

認定はある意思の宣言であり、それによって国家は他国による妨げをもたらす事実、状況、主張を考慮していることを示していた。例えば、国家、政府、戦争への波及に対する認定が挙げられていた。認定が強行規範(国際公法における絶対的な規範)に反していない限り、認定が覆ることはなかった。認定は明示もしくは暗示、口頭もしくは文書による可能性が存在していた。

他国に対して危険な状況になることを理由にして、抗議は明示される必要があった。それは抗議を主張する主体にとってある行為を実施することが不可能な状況を与えていた。

約束には約束する主体しか含まれていなかった。そしてむしろ人は言質や保証に言及していた。

放棄は国家による権利の喪失を示し、それゆえ推定することはできず、表明されねばならず、不明瞭に繰り返される行為から生じる可能性が存在していた。

3.3.2 国際組織

3.3.2.1 拘束力を有する行為

異なった名称があっても一定の範囲に収まっている行為が存在していた。国際機関の行為はいくつかの分野において拘束力を適用されていた:

組織の内規(例えば、内部規定):これらの行為はその組織やメンバーに対して比較的限定的であった。

目標の実現(予算等)。

国家に対して主張される行為。

合意を必要とするので、拘束力は限定的であった。さらに国家による棄権はそれが拘束されていないことを示していた。そして効果的な制裁のシステムは存在していなかった。

3.3.2.2 拘束力をもたない行為

それらは勧告のための価値観であり、ある見解であり、ある決議であった。それらはさらに政治的な機能を有しており、国際協調の要素であったが、拘束力を有していないがゆえにそれ程効果的ではなかった。万国国際法学会によれば、1987年9月17日のカイロでのセッションにおいて「国連憲章は相互の関係において国家を拘束する規則を採用する権限を付与していないけれども、国連総会は国際法、その統合、法典化の発展に寄与する勧告を行うことが可能であった。この可能性はさまざまな種類の決議を通じて実現されていた」ことが指摘されていた。

いくつかの種類の決議が存在していた:

一般的な規則を形成する行為。

これらの規則を適用する行為。

国家に対して勧告を行う行為。

国際的な条約を促すための下地を形成する行為。

3.3.3 司法と国際法廷

3.3.3.1 決定と判決

それらは最終的な決定であった:そのことは通常国際司法裁判所規程に記されていた(ICJ、第60条:「判決は終結であり、上訴を許さない。判決の意義や範囲について異議申し立てがあれば、裁判所はいずれかの当事者の要請によってこれを解釈する」)。判決に対する解釈を要請することは可能であった。救済の申し立ての存在は国際秩序の存在を前提としているが、法令は審判手続きを提供することにおいて可能であった。そして欧州人権裁判所に言及がなされるべきであった。国際刑事裁判所に関して、それは予備的審理、第一審、控訴審を有していた。判決は拘束力を有し、既判力の原理によって、それらは当事者たちの間において効力を有していた[2]。しかしながらこれは体系化されていなかった。

3.3.3.2 勧告的意見

それらは国際司法裁判所(国連憲章の第96条)や欧州人権裁判所(追加議定書である第11議定書や第4、6、7、12、13議定書によって修正された欧州人権条約の第47条から第49条)に提起された法的問題を取扱っていた。

学説や判例も国際法における副次的な2つの法源であった[3]。

3.4 国際法における法源のハイアラーキー

原則としてこれらの法源の間におけるハイアラーキーは存在していないが、1969年の条約法に関するウィーン条約は第53条や第64条の中で国際的な規範におけるハイアラーキーを認識しているように想定されていた。このハイアラーキーは国際弁護士が強行規範と呼んでいるものによって正当化されていた。強行規範を有している規範は義務的であり、他の国際規範よりも優越されるように想定されていた。例えばジェノサイドの禁止は強行規範に含まれるように想定される可能性が存在していた[4]。

3.5 国際的な条約の創設

国際的な条約の創設は以下の3つの方法を通じて行われ、それは蓄積を要するものであった:

交渉:国家は交渉に必要な全権を与えられた個人である全権委員によって代表されていた。例えば外務大臣や共和国における大統領であった。

署名:一般的には大臣級の行為であった。これは大抵署名を指すが、署名でない場合も存在していた。このレベルでは単純化された形式の条約を除いて国家はまだ約束している訳ではなかった。

批准:議会による批准を示す法律を通じてなされていた。文面には効力が存在し、国家はそれを遵守することを約束していた。

加入:論理的に多国間条約のみを指していた。それはダブル・ディグリー(署名と批准)といった標準的な手続きによって条約を採択することと同じ特徴を有していたが、国家が部分的に署名から生じる権利と義務を有している点に違いが存在していた。

4 国際法と国内法の関係

国際法と国内法の共存はハイアラーキーといった関係の可能性について問題を生じさせるものであった:2つの規範の内1つが他より優越されるべきであろうか。ここには2つの理論的な立場が存在していた:

一元論者の立場:ハンス・ケルゼンによって理論化されたピラミッド型の組織の規範における原則によって組織された単一の法秩序の中に、国際法の規則と国内法の規則が共存していた。この組織化は国内法を国際法が支配する可能性や、反対に国際法を憲法のようなある特定の国内規範や国内法に従属させる可能性に言及していた。ジョルジュ・セルはこの立場にあったが、ハンス・ケルゼンとは別の方法を正当化していた。

二元論者の立場はハインリッヒ・トリーペルやディオニシオ・アンツィロッティによって前提とされていた:国際法や国内法は2つの分離された法秩序であって、一方が他方に従属する関係は存在していなかった。一方は国家や国際組織を主体にしており、他方は個人に対してのみ適用されるので、分離は可能であった。

したがってイタリアで署名され批准された国際的な条約は国内法によって引き継がれる必要があり(二元論)、それゆえ国内の法秩序にそれらを統合する法律の承認が存在していた(一元論):それらはこの場合において国内法に対して優越される特定の立場を有していた。

実際国内法における複数のレベルや国際的な司法権と国内の司法権における二重性を考慮する必要が存在していた。そしていくつかの解決が引き出されていた。

4.1 国際機関の視点

一貫して司法裁判所や仲裁裁判所は国際的な義務を回避するためにいかなる国家も国内法の規則を援用することはできないと国際的に考えてきた。このことは1969年のウィーン条約(第27条)によって示されていた。したがって国内法の規則に矛盾していようとも、国際法は当該国家に対して課せられたものであった。このことは裁判官が国内法の規則を無効にすることを意味していなかった。国際レベルでそれが効力を有する際に、単にその効力を無効にするだけだった。

したがってノッテボーム事件[5]において、国際司法裁判所は、グアテマラ当局はリヒテンシュタインの国籍を取得したこの国の市民をドイツ人としてみなすことができ、この新しい国籍は効力を有しないとみなすことができると述べていた。そうすることで国際司法裁判所は、ノッテボーム氏からリヒテンシュタインの国籍を剥奪し、それゆえこの国による規範や行為を無効にしていないが、グアテマラのような他国への適用を不可能にしていたとみなしていた。

国際法廷は彼らの決定を国際法に委ねていた。それらは当該国の国内法に委ねられているとは考えておらず、憲法レベルを含めて、それを多くの中にある評価の一要素としか解釈されていなかった。

4.2 国家と国内法の視点

考慮された規範(憲法、法律、慣習)のレベルに応じたさまざまな実践や体制:国際的な規則を優越させ、それは後に文書によって法律に含まれ、単に国内の規範と平等に認識されていた。

4.2.1 国際法と国内法

一般的に国家は国内法における国際法の適用可能性を認識していた。したがって合意は拘束するという規則が1946年のフランス憲法の前文に記載され、それは今なお憲法の規則のままであった:「フランス共和国は伝統に対して忠実であり、国際公法の規則を遵守する」といった枠組みは国際慣習を含んでいた。しかしながら条約は他国によって批准され、承認され、公布され、適用されねばならなかった(1958年憲法の第55条)。ドイツやイタリアでは同様に国際慣習は直接適用可能であったが、条約に効力をもたせるために法律の制定を必要としていた。ある場合における批准と他における法律の制定の間の区別は規範の強さに依存していた。フランスでは条約は法律に優越する効力を有しており、判例は徐々にそれらが批准後に制定された法に優越されることを認識していった[6]。ドイツやイタリアではしかしながら条約は法律と同じ効力を有しており、原則として単なる法律によって繰り返し言及されるだけであった。

イギリスでは慣習を含む国際法はブラックストンの学説の下に適用されていた(1765年)。しかし競合が発生した場合には国内法が優越されていた。もし条約が直接適用されるならば、例えば1998年の欧州人権条約をイギリスの人権法の中に統合するための法律が必要とされていた。アメリカでは正確で条件を付されていない条約はそれ以前の法律に優越されるが、その後の法律との関係は議会の意思に依存していた。

4.2.2 国際法と憲法

条約や憲法の関係は複雑であった。双方は実際法律以上の存在であった。フランスでは国務院の判例によれば、フランスによって署名された条約とは関係なく憲法は国内法に適用されるべきであるとされていた[7]。しかしながら今日の憲法評議会は、特定の規則を対象にした欧州共同体法を遵守しているかを検証する必要はないと考えていた[8]。

ベルギーでは破毀院や国務院での判例は条約が憲法に優越することを確立していた。反対に憲法裁判所はベルギーが憲法に反した条約を締結することができないと考えていた[9]。

4.3 国法の域外適用

アメリカ法の域外適用はキューバ、リビア、イランへの禁輸措置の法律であるダマト法やヘルムズ・バートン法を通じて具体化されていった。そしてこれらの法律の域外適用によってアメリカ企業であれ他国の企業であれこれらの国々に投資する企業はすべてアメリカの裁判所によって処分される可能性が存在していた。

アメリカとEUの経済関係についてEU議会の代表団によって提出されたレポート(1999年2月11日)はアメリカの法律の域外適用に関して問題を投げ掛けていた。

5 国際法の限界

国際法はその適用に対して責任を負う中心的な構造が存在していないため国内法と区別されていた。国際的な警察が存在していないことは国際法が真の意味で法であるかについて疑念を抱かせていた。しかしながら国際法を適用するいくつかの仲裁裁判所同様にいくつかの国際裁判所が存在していた。それは主に国際司法裁判所(ICJ)であると考えられていた。しかし紛争を解決する裁判所にとっては紛争当事国が明示的に裁判所の決定を信任する必要が存在していた(そのような信任は選択的な裁判管轄条項として考えられており、それは仲裁条項との関連で理解されていた)。 紛争が生じた後の合意に署名することを含めて、条約に含まれる裁判所の管轄権を信任することを宣言することや裁判所の資格を一般的に信任することを宣言するようないくつかの方法によって、このことが成される可能性が存在していた。しかしながら一般的な管轄権に対する信任におけるこれらの宣言は稀であり、しばしば多くの留保を抱えていた。安全保障理事会の常任理事国の内イギリスだけがこのような声明に署名していた(アメリカはニカラグアのコントラ事件の後その声明を撤回しており、フランスは核実験の後にその声明を撤回していた)。そのような合意の適用はそれに拘束される国々の意思に大きく依存していた。

国際紛争において平和的な解決のためにいくつかの方法が存在していた。これは交渉、調停、仲裁から司法的解決までを含んでいた。規則に対するこれらの措置は結局のところ国家による対抗措置を導くかもしれなかった。しかしこの法は必然的に保障されたものではなかった。ICJの判決を遵守することを拒否した場合に、例えば損害を被った国家は初めに安全保障理事会に事件を付託しなければならなかった。

国際刑事法に関して国家間における国際法と明確に異なり、ローマ規程が人道に対する罪に対して国際刑事裁判所を創設していた。

強大な国家によって課される対抗措置が政治的経済的に弱い国家によって課される措置より効果的であることは明白であった。したがって実際真の意味で強い国家のみが署名された合意を実行に移すことが可能であった。法の支配といった概念は国際関係には完全には当てはまっていなかった。

このような状況下で国際法は適者生存の論理が姿を変えただけであるように思われていた。しかし私たちは外交関係の重みや世界におけるその姿が国家に与える意味を無視することはできなかった。例外を除いて国家にはその義務を遵守するインセンティブがあった。

強力な実定法のシステムを有する国家において、国際法はEU法(ヨーロッパにおいて)や各種の基本法に沿って月並な規範のピラミッドの集合の中に存在していた。それは合憲性の中に姿を表す憲法上の権利に依存しており、したがって原則として規範のハイアラーキーにおけるより低い水準にある法律に対して課されるものであった。

http://de.wikipedia.org/wiki/Völkerrecht

国際法

国際法(ラテン語に訳すと万民法)は平等の精神に基づいた国際法の主体(たいてい国家であるが)間の関係における法秩序であった。国際法の概念は19世紀以来その同義語を用いており、それは部分的には英語で言う「国際法」の影響を強く受けていた。

国際法における重要な実定法の法源は国連憲章であり、その義務の中に武力行使の禁止、それが国際慣習法として国連加盟国についても義務付けられていること、いかなる国家も侵略戦争を禁止されていることを記載していた。

超国家的な法が国際法の特徴として見なされており、それは同様に超国家的に組織されているので、特に国際システムに主権を委譲することを通じてその特徴を示しており、それは国際法を通じて完全に説明されることはなかった。

1 総論

国際法と国内法の主な違いは中央に立法機関が存在しないことであった。古典的な国際法は国家に課されるものではなく、国家間の協調を示していた。古典的な国際法の前には「キリスト教国」しか存在しておらず、次に「文明国」が続き、換言すれば、ヨーロッパ諸国を国際法の主体として眺めており、植民地主義を合法的な存在として眺めていた。今日の国際法秩序では特に国連憲章に見られるようにそれに対して全ての国家が平等な国際法の主体であった。そのため原則的には「一国家一票」であった[1]。

最近の10年において、国際法における中央の立法機関に関して発展が見られていた。特に2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、国連の安全保障理事会によって取り上げられる以前から、この傾向は認められており、まだ全ての国連加盟国によってテロとの闘いを全ての加盟国に影響を及ぼす適用可能な法として説明することや強制的な法、いわゆる強行規範を導入することは認められていなかった(国連安保理決議第1373号、テロ対策委員会、国連安保理決議第1540号を参照せよ)。この展開は部分的に批判され、時として懐疑的な見解も示されており、その理由として、安全保障理事会の概念は行政機関としての役割を期待されておらず、個々の紛争に対する解決を処理すべきであり、「世界立法府」として振る舞うべきではないことが挙げられていた。

平時と戦時の国際法を区別すると、平時の国際法は武力の合法的な使用を規制する規範(開戦法規)を含んでおり、他方戦時中の法は戦時国際法として呼ばれていた(交戦法規)。基本的にその国際法のいかなる部分も国際私法と異なっていた。この用語は国際背景を考慮してもその反対を示しており、状況がいくつかの国家の法規範に関連するならば、それが適用可能な法を決定していた。

1.1 国際法の主体

国際法の主体は本質的には国家であった(ゲオルグ・イェリネックの三要素によれば領土、国民、主権からなる3つの特徴が国家を構成していた)。しかし今日国際法の主体は国家や国際組織によって設立される国際機関を含む可能性が存在していた。NGO(私的団体によって設立された非政府組織)は基本的に国際的な法人格を有していなかった。しかしながらますます深く多国籍企業、NGO、個人が国際的な権利と義務に関わっていた。歴史的理由から赤十字国際委員会やマルタ騎士団は国際法の独立した主体であった。

1.2 国際法の法源

国際法の法源は二国間もしくは多国間の条約、慣習国際法、法の一般原則であった(国際司法裁判所規程、第38条第1項第a号第b号第c号を参照せよ)。

国際条約は関係する国際法の主体間における条約の締結とその後の批准によって発効していた。

慣習国際法は長期の国家実行(長期間もしくは比較的長期でない場合は管轄権の変化に即座に対応するといった慣行)、この国家実行が合法であること(法的確信)、そして共存していること(国際条約は成文化されているにもかかわらず慣習国際法に優先していない!)といった要素によって構成されていた。もし国家が創出の過程にある慣習国際法によってその基盤を喪失してしまうならば、その別の国家がその信念を硬直化させている限りにおいて、明示的に同様に繰り返し反論しなければならなかった(一貫した反対国)。

法の一般原則は原則に従ったあらゆる国内の法秩序から構成されており、その固有の法秩序には、例えば合意は拘束すること(条約は順守されなければならない)、特別法は一般法に優先すること(より特定化された法律は一般的な法律より優先される)、後法が前法を廃止すること(その後の法律が以前の法律より優先される)、矛盾行為禁止原則(過去の行動に反する行為をしない)等が挙げられ、それらに国際法の特徴や法理の原則は依存していた[1]。

しかしながら国際司法裁判所規程の第38条第1項に示されていなくとも、国際法のこれらの法源に加えて、国際法の法源として単独行為が同様に発展していた。そのような単独行為は国家同様国際機関によっても生じていた。しかしながらその法的拘束力は変化していた。いわゆる「ソフトロー」の法的特徴は論争を集めており、それは少なくとも間接的に拘束力を有しているかもしれなかった。

国際司法裁判所規程第38条第1項第d号にしたがって、国際司法の判決は国際的な判例や上述された法源の解釈に対する法源としての国際法に関する学説を用いるべきだった。

1.3 国際法と国内法の関係

国際法と国内法の関係は国家の法秩序との関連においてのみ示すことが可能であった。一元論(国際法と国内法は単一の秩序を形成している)や二元論(国際法と国内法は完全に分離された法秩序である)は2つの対極に存在している理論を示しており、それらは実際には純粋な形式で見受けられることはなかった。以下の図は異なったアプローチに対する概観を与えていた。

国内の法律家によって国際法の規範が順守されるべきかどうかといった問題は国内法がその遵守を必要としているかどうかによってのみ決定されていた。あらゆる法秩序において国際法の国内への適用は本来明確に十分に配慮された規範を必要としており、それは単に国家のみを主体としたものではなかったことが一般に指摘されていた。そのような規範は自動執行力のある条約として解釈されていた(より正確な見方によれば、この考え方は国際法ではなく国内法を対象としていた)。ドイツではドイツ連邦共和国基本法第25条第1項に従って慣習国際法と法の一般原則は直接適用が可能であり、連邦法より上位に位置していた。国際条約は変形を必要としており、それは一般的には国内の批准によってその規則の中に包含され(ドイツ基本法第59条第2項による条約法)、それは連邦法より上位に位置していた。

国際刑事裁判所(ICC)に関して139ヶ国によって1998年7月17日に採択されたローマ規程の批准を通じて、それは2002年7月1日に効力を発生していたが、国際法における新しい展開が生じており、国家における憲法上の要件を除いて、国際法の規範や条約を引き合いに出すことが認められていた。ICCの規範は国際法における私法と公法に関してローマ法の精神を導入しており、そこで強行規範といった規範のハイアラーキーを強調していた。ICCにおける訴訟はドイツでは裁判所構成法第21条によって効力を有し、ICCの規範は刑事訴訟法第100条第a項(国際法違反に対する刑事法の第10条)の中に挿入されていた。

2 国際法の歴史

古代においても停戦交渉は戦争を鎮静化させるために一般的であった。最初の国際法上の合意として、オリンピック期間中における戦争の禁止が挙げられており、それはギリシア全土における競技として認識されていた。

アレクサンダー大王による征服はヘレニズム世界を生み出し、その巧みな外交は地中海世界の法的基盤を生み出し、それはローマ帝国によって順応および展開され、ユスティニアヌス法典において最高潮に達していた。

1625年にフーゴー・グローティウスは彼の著作である『戦争と平和の法』の中でそれまでに展開されていた規範を統合していた。それらはさらにザミュエル・フォン・プーフェンドルフ、クリスチャン・ウォルフ他によって展開されていた。18世紀後半にエムリッシュ・ヴァッテルは国際法が置かれている状況を統合していた[2]。

1899年と1907年のハーグ平和会議において戦時国際法が規定され、常設仲裁裁判所が設立されていた。ハーグ陸戦条約は20世紀の二度の大戦における国際法の原則とされていた。

近代国際法の重要な側面の1つは戦争の放棄であるが、それは第一次世界大戦によって長い間蔑ろにされていたが[3]、第一次世界大戦後になって初めて関係各国の間におけるケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)の中で合意されることになった。それ以前は戦時になると残虐行為に歯止めをかけ市民を守る試みにおいて国際法はそれ自体の役割を制限していた。国際連盟(1919年に創設された)やその後継となる組織である国際連合(1945年から現在に至る)を通じて初めて共同の国際機関が創設され、それは全ての国家に義務を求める国際法を遵守することを求めていた。

実定国際法のマイルストーンとして以下のものが挙げられていた。

1648年のウェストファリア条約

1713年のユトレヒト条約

1815年7月9日のウィーン会議

1815年9月26日のいわゆる神聖同盟

1818年11月21日のアーヘン会議議定書

1856年3月30日のパリ条約

1864年8月22日のジュネーヴ条約

1868年12月11日のサンクトペテルブルク宣言

1878年7月13日のベルリン条約

1885年2月26日のベルリン会議

1899年および1907年のハーグ平和会議

1907年10月18日のハーグ陸戦条約

1919年と1920年のヴェルサイユ条約等

1928年8月27日のケロッグ=ブリアン条約

1933年のモンテビデオ条約

1945年6月26日の国連憲章

1949年8月12日のジュネーヴ諸条約

1949年のジュネーブ諸条約に対する1977年6月8日の2つの追加議定書

1982年12月10日の国連海洋法条約

1998年7月17日の国際刑事裁判所のローマ規程

3 国際法の理論

国際法の理論は、国際法の規範性に対する問題(そこでの法理の位置づけ)や一方で最も高度に通説化された抽象化の所産(その記述)や他方で法理の位置づけ(規範)に対して生じる可能性がある国際法の全体像に対する問題の双方に対して適用されていた。

3.1 国際法における規範性

国際法における規範は神の意思や理性等を法源にする自然法から生じていた。主意主義的理論は、その時その時の法規範に賛同する国際法の主体の意思にそれらを帰していた。それは部分的には国家のコミットメントに(ヘーゲル、エーリッヒ・カウフマン)、また部分的には国家における合意(トリーペル、法実証主義)に合わせたものであった。ハンス・ケルゼンはそれを仮想の基本的な規範に戻し、そのことは他の研究者たちによって純粋なフィクションであるとして批判されることになった(彼の最後の著作の中でケルゼンはこう述べていた:当事者の意思に依存する便利なフィクションにすべての法秩序の妥当性は依存しているので、それはまさしく純粋なフィクションであり、この自己満足は非論理的であるかもしれなかった)。社会学的なアプローチは人間の社会的性質や人々における自然な社会的連帯に焦点を当てていた(ジョルジュ・セル)。

国際法の法的性質は多くの研究者たちによって議論されていた。国際法学者であるケルゼン[6]は、彼の時代の国際法に特に執行機関の欠如に関して形成途上の法に存在している性質のみを認めていた。H・L・A・ハートは確かに国際法の法的性質を否定していなかったが、一次的ルールに対してそれを保持しているのみで、少なくとも彼の時代において一般的に認められた二次的ルール(承認のルール)に対してそれを欠いていると主張していた。今日特に一部のアメリカの研究者たちは国際法の規範性を否定し、国家の行為に影響を及ぼす可能性がある固有の性質は存在していないとみなしていた。ニューヘブン学派は国際法における限定的な規範性を認めており、ジャック・ゴールドスミスやエリック・A・ポズナー他のような法の経済分析の支持者がかなり存在していた。彼らによれば国際法は純粋に随伴現象的であった:国家はその安全やそのパワーを増大させることに関心を抱いていた。この関心を背景にして国家はある状況において行動していた。この単調な国家の行動が「慣習法」を支えているならば、これは国家の関心に影響を及ぼしていないことを示していた。逸脱した行動をともなう国家がその関心を満足する状況が変化するならば、この国家はそれにしたがってその行動を変えるだろう。国家はその評判が損なわれることに対して一切の憂慮を抱いていなかった。経済分析における他の研究者たち(ジョエル・トラハトマン、アンドリュー・グスマン)は彼らのモデルによれば、特定の状況において国際法は国家の行動に対して一定の影響力を有し、潜在的に違法行為を許容する国家は少なくともその評判が失われることを考慮の対象にすると結論づけていた。彼らによれば国際法は限定的ではあるけれども規範性を有していた。一部の批判法学は覇権的なパワー・ポリティクスの姿を粉飾する操作が行われていることを認めており、懐疑論に対してその規範的な理由を与えていた。

大陸ヨーロッパではそれに対して国家間の合意に基づいた法実証主義を基礎としており、国際法の規範性は問題とされていなかった。

3.2 国際法総論

国際法秩序の理論における概説に対する現在の議論はヨーロッパでは2つの用語で説明されており、それらは「国際社会」と「憲法化」であった。議論はさまざまなレベルで行われ、国際法に対する記述(遡及的であり、通説を構成している)や規範(その哲学や展望)の双方における発言に関係しており、時には誤解を招いていた。

「国際社会」に関する議論は2001年から現在に至る国連国際法委員会における国家責任条文におけるこれらの用語の使用を通じてなされていた(第33条第1項等)。「国際社会」の存在は共通の価値観(人権や環境保護)から導かれる法秩序から派生していた。そのような共通の価値観の結果等の存在は規範のハイアラーキー(例えば、強行規範)に対する根拠やその意思に反する国家の義務が生じることに対する通説を与えていた。このことは古典的な解釈によれば国家間の協調や国際法に一致した協調に関して考えられないことであった。

並行して国際法の憲法化が論じられていた。この議論は細部においてはさまざまに別れるが2つの視点に基づいていた:一方で国際関係の入り組んだネットワークに基づいた国家の憲法は、それは国家に内包されているものの、今日の国家における政府の法的基盤を部分的に表現していた。したがって国家の憲法は国際法秩序の関与の下でのみ理解されることが可能であった。他方でそれは国際法におけるさまざまな展開を許容し、そこで憲法の要素が取り決められていた(例えば規範のハイアラーキーや国連憲章が有する憲法的な性格に対する問題等)。通説における含意は、どの程度国家は国内管轄事項を有するのかや投票行動を通じて法の抵触が解決されてもよいものかといった問題における憲法化における議論を含んでいた。ここに私たちは「国際社会」や「憲法化」における議論を重ね合わせていた。

これらの特に大陸ヨーロッパで行われている2つの議論にともない、国家の代表者たちや国際弁護士たちの下に広がっており相当数存在している懐疑論について見過ごすことはできなかった。彼らの多くは国家の中に国際法の中心となる主体を見出していた。彼らは「国際社会」の制度的弱さのみならず国際法の中に価値判断を示す要素を導入することを含む恣意性のリスクについても指摘を行なっていた。

他の議論は国際法がますます断片化の方向へ向かうかどうかに対する問題に焦点を当てていた。この議論は2つの視点に基づいていた:第一にそれは法の抵触が増加するさまざまな国際レジームから生じていた(例えば、国際取引法、国際環境法、投資保護法、人権)。第二にそれは管轄領域の重複をともなう国際司法裁判所や仲裁裁判所から生じており、それは管轄権争い(例えば、MOX工場事件における国際海洋法裁判所と欧州司法裁判所)や同一事件に対する異なった判決(例えば、非国家主体の行動の帰属事件における国際司法裁判所と旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷ーニカラグア事件とタディッチ事件)に繋がっていた。断片化の議論はよく知られているように多くの代表的な研究者たちによる憲法化の議論の枠の中に収まる国際法秩序の統合の主張に対する批判として理解されていた。2006年に国連国際法委員会は法の抵触の取り扱いに関する報告を採択した。

4 現在の展開

今日高度な論争が展開され国際法の将来の発展に資する分野は次の通りである:強行規範、暴力の禁止の例外としての人道的介入、(現在の危険に対する)予防的自己防衛。強行規範に含まれるどの規範も詳細について論争を抱えているが、どの場合であっても暴力の禁止や基本的人権の本質を国際法の義務的要素とみなしていた。国連国際法委員会(ILC)によってさらに多くのことが想定される例として、奴隷貿易、海賊行為、ジェノサイドのような行為、国家の平等や国民の自己決定権に対する侵害を含められていた。

4.1 人道的介入

人道的介入について多くの意見が非常に政治的に色付けされているだけでなく、特に度重なる混乱が生じていた。第一に自国民を救助する介入と他国民を救助する介入が区別されていた。外国領土で自国民を救助する介入は完全には認容しがたいものとして部分的には見なされており、他の研究者たちによれば国家による国際法違反(保護義務)であり、そこで外国人は抑留されることになるが、介入が外国の国家による暴力ではなく犯罪組織を目標に据えたものであるならば、正当な根拠があるとの視点が存在していた。他方、他国民を救助する人道的介入については安全保障理事会によって決議されたものとその決議を受けていないものは区別されなければならなかった。

国連憲章は安全保障理事会に「世界平和に対する脅威」として認定される国家の行動に対して最終的には軍事的制裁を課す権限を与えていた。この目的のために安全保障理事会の下に直接置かれた必要とされる軍隊は慣習法としては存在しておらず、その反対に国家に武力使用の権限を与えさせていた。いつから国内のオペレーションが世界平和を危険に晒すのかについては論争が多いが、ジェノサイドやいわゆる「民族浄化」が一連の流れとして生じ、それが隣国に広がったときに、安全保障理事会はこれらをルールに則って脅威として見なしていた。国内に広まったジェノサイドが隣国に影響を与えていないときでさえ(例えば、難民が生じていない等)、世界平和に対する脅威が与えられることが可能であった。その後広まった見解が「対世的に」ジェノサイドの禁止に影響を与えたために、国際社会における全ての国家に対する義務が創設された。さらにジェノサイドの禁止は「強行規範」に含まれ、したがってそれは国際法上の義務的な規範になった。ジェノサイドは常に全ての国際社会に関係していた。同じ事は基本的人権に対する深刻でシステマティックな侵害にもおそらく当てはまっていた。

しかしながら特に常任理事国の拒否権や政治的状況によって安全保障理事会はしばしば議決不能に陥ることがあった。これは次のような実際の問題で生じていた:国家は安全保障理事会の機能が麻痺した状況で「最後の手段」として単独または多国間による武力の使用を行うことが可能であるのか? ある見方は暴力の禁止や虐待の危険性に対する武力の使用を断定的に否定していた。その反対派の主張は、ジェノサイドを傍観することを言い渡す法秩序は存在していないといった自然法の基盤によって、国連憲章における暴力の禁止に関する目的論に基づいた制限によって、国連憲章の上位にある慣習法や国民の自己決定権によって、まさに生じているジェノサイドに関して、安全保障理事会の決定がなくとも単独あるいは多国間による人道的介入を正当化しており、これらは部分的に国際法の主体としての性格を与えており、このことによって他に救済を求めることが可能であった。

4.2 予防的自己防衛

決定的ではないが時として代表的な見解や多数派の見解によれば、明白な直接攻撃が迫っており、さらなる宥和が防衛の効果を損なうときにのみ、予防的自己防衛の権利が存在していた。

通説によれば現行の法に基づくと脅威の可能性に対して前もって防衛する権利は存在していなかったが、この問題に関する新たな慣習法が形成されていた。しかしある事件において以前の規則に反する行動のために準備を行い、同時にその行動が新しい法の規則を要請するといった慣習法が生じることが可能かどうかについては議論が行われていた。そのような事件において事実の規範力を認めることを可能にするためには、少なくとも国際社会の大部分によってそのような新たに要請されたルールが容認されなければならなかった。

4.3 国際法における自己防衛

国連憲章に従って個別的もしくは集団的自衛が攻撃や武力の行使に責任がある国家に対してのみ向けられることが可能であるかどうかは国際法における成文に部分的に記されていた。当該国がこれらの人々をそのイニシアチブに基づき派遣し、そのような活動を支持しており(例えば、軍事訓練や武器の供与)、効果的な統率によって発言がなされているときのみ、その私的行動を法の主体に組み込み、通説によればテロリストたちに適用することが可能であった。さらにこれらが「国家の構造の部分としての事実」と見なされる水準に達しているならば、政府とその領土の外で活動していたテロリストたちとの間の「組織的な関連」は同様に十分に示されていた[7]。

当該国に対して自衛権を用いるために領土内のテロリストたちに対していわゆる避難所同様に退避地を与えることが十分であるかどうかについては議論が重ねられていた。しかし自衛権の中には比例原則を遵守することが存在しており、さらにそれは軍事的強制力の使用に関して適切さ、必要性、乱用の禁止を考慮しなければならなかった。

4.4 国際法を適用することにおける問題

国際法は国家間の合意を含んでいたので、今日義務的な国際法が議論の対象となっており、それは人権規範を含んでいた。義務的な国際法は十分に定義されていなかった。欧州人権裁判所の指令、国連の条約、同様に人権に関する条約が義務的な国際法として理解されていた。大半の国連加盟国はそのような人権条約に署名していた。しかし問題は国際法の実践であった。実際のところ強制は不可能であった。歴史的な例としてベルギーは1940年のドイツによる攻撃以前は第二次世界大戦の間完全な中立国として守られていたが、この中立性は誰によっても保障されることができなかった。同様にグアンタナモでの拷問も考慮されるべきであった。したがって国際法上の規範はある程度の枠内でのみ成果を収めることが可能であった。

4.5 国際法における民主的正当性の問題

国際法は国の代表団による共同作業を通じた委員会において生み出されていた。しかしながらさまざまな国々からの代表団は政府レベルのメンバーや州政府レベルのメンバーから構成されていた。これらのメンバーが法律を制定し、後にそれらを施行していた。しかし民主主義国においては三権分立の原則が存在しており、行政府、立法府、司法府に分離されていた。したがって実際には法律の制定は立法府の問題であった。もちろん国連加盟国の全ての政府が国際法上の条約について助言を通じて関与しており、民主主義を採用していない国々においても同様であった。そのような条約から生じる決定はしかし他方で全てに対して適用されていた。同様に国民によって承認されることなくこのことはしばしば生じていた。複数の国民に対する法から複数の国家に対する法へ根本的に理解が変化するため、この展開は最近になって初めて問題とされるようになっていた。それに正当性を与えることなしに、このことから生じた法律は人々の個人的な生活に決定的な影響を及ぼしていた。

4.6 国際法の主体としての人間

国際法は一般的に権利と義務を国際法の主体に対してのみ生じさせており、国際人道法においてのみ(例えば、差別、拷問等の禁止)考慮された組織や個人に対して国際法上の規則が直接的な効力を生じていた。国際法の主体は国家や国家によって生じる国際機関、例えばEU、WTO等であった。世界で暮らしている全ての人間の全体のような存在は古典的な国際法による見解では国際法上の主体性そしてしたがっていかなる権利や義務をも有していなかった。確かに国際連合(UN)は存在していたが、これらは法的意味において国家の集合でしかなくそのような人間の代表ではなかった。そのような人間は国際法においては全く存在を認められていなかった。このことは例えば環境法の分野において困難を生じさせていた。例えば、温室効果ガスを排出するときに気候変動枠組条約に署名していない国家は違法に取引を行なっておらず、国連海洋法条約に署名していない国家は随意に海洋環境を汚染することが可能であり、気候や公海等は誰に対してでも所属しているものではなかった。しかし後にアデンは[8]、人間は国際法の主体であり、そのようなものとして国際法上の権利や必要が生じれば義務をも有しているといった主張を支持していた。したがってこの理論によれば、明示的な国際条約がないときでさえ、人間にとっての公共財を損ない、排他的にそれを要求することは違法であった。これらの人間にとっての公共財に、例えばピラミッドのような国民の文化財、歴史的事実に対する要求、情報に対する要求が含まれていた(例えば国家Xのアクターたちが特定の歴史的事件についてそれを要求すること)。

このことからアデンによれば次のような主張がもたらされていた[9]:全ての個人はどの出自であろうとも同一の法的保護や公平な裁判官、公正な意見聴取、スムーズな手続き等といったある枠組みにおける最低限のルールを享受することを、どの国家に対しても人はそのようなものとして主張することができる。もしある国家が革命、戦争、独裁的な政府のために国際法上の法治国家としての最低レベルを保障できなくなり、またはその意思が存在していないならば、他の国家は最大近接の原理(国際的な緊急事態における近接の原理)によってその立場で行動することが許されていた[10]。

タキス・フォトプロスによれば、経済的なグローバリゼーションを商品、資本、労働市場の開放や規制緩和として、政治的なグローバリゼーションを国家を超えたエリートの出現や国民国家の消失として、文化的なグローバリゼーションを文化の世界的な同質化として眺める視点が存在していた。

アメリカでは、アメリカ労働委員会が適切な労働条件と公正な競争のための法令を提案し、それは搾取された結果である商品を輸入し、販売し、輸出することを禁じることによって企業に対して人権と労働者の権利を尊重していたが、ギャップやナイキのような衣料品メーカーは現地やアメリカの法律に違反して児童労働を許していた工場と契約していたとの指摘が存在していた。

ブランコ・ミラノビックによれば、現在間違った数字であると知られているデータに基づいて、ここ10年間の間に各国の所得の集中と分散に関する文字通り数百の学術論文が発表されてきたとの指摘があり、新しい数字を用いれば初期の不平等を示すジニ係数は0.70に対して0.65周辺と推定されており、グローバルな貧困と不平等に対して先行される実証的な研究に対して疑念が投げ掛けられていた。

労働市場におけるグローバリゼーションは先進国において正の効果と負の効果を有しており、エンジニア、弁護士、科学者、教授、経営幹部、ジャーナリスト、コンサルタントのようなホワイトカラーの労働者たちは世界市場で巧みに競争することができ、高い賃金を維持しており、例えばボーイング社は2011年後半にその年に雇用した11,000人の労働者たちを守るためにアメリカの航空機に対する500億ドル以上の価値がある取り引きをまとめていたが、製造部門の労働者とサービス部門の労働者は途上国のかなり低コストの労働者と直接競合することができず、低賃金諸国は以前に富裕国で行われていた低付加価値の仕事を手に入れ、富裕国により高付加価値の仕事が残っており、アメリカの製造部門で雇用される人々の全体数は落ち込みを示していたが、1人あたりの付加価値は増加していたとの指摘が存在していた。

先進国内部における所得不平等の拡大のトレンドはアメリカにおいて拡大しているように思われ、それは1970年代後半にその兆候を示し始め、21世紀に入って加速し、現在多くの途上国で見受けられる格差と同様のレベルに達していた。

経済政策研究所の研究によれば、2001年から2008年の間においてアメリカは240万人分の仕事に相当する対中貿易赤字を増加させ、2000年から2007年にかけてトータルで320万人分の製造業の仕事を失っており、中国の成功は欧米同様に途上国における仕事においてもマイナス要因となっており、2005年4月26日時点で南アフリカにおいて中国製品の流入によって過去2年間において30万人の繊維労働者が仕事を失っていたことが指摘されていた。

プライスウォーターハウスクーパースの2007年のレポートによれば、2025年前後に中国が最大の経済大国であるアメリカを抜き、2050年にはインドによって追いつかれるだろうと予測されており、ゴールドマン・サックスの2010年のレポートによれば、2020年までに中国は日本を追い抜き、世界最大の経済になるだろうと予測されていた。

文化のグローバリゼーションは異文化交流の機会を増やしたが、孤立したコミュニティの独自性を減少させる可能性を存在させており、例えばスシは日本同様ドイツでも利用可能であったが、ユーロ・ディズニーはパリの都市の魅力を奪い、潜在的に本物のフランスの菓子に対する需要を減らす可能性を存在させており、他方で個人の伝統からの疎外に対するグローバリゼーションの寄与は、ジャン=ポール・サルトルやアルベール・カミュのような実存主義者たちによって伝えられるような近代そのものの影響と比較すると控えめになるかもしれないとの指摘が存在していた。

グローバリゼーションは主にアメリカから発信された文化及び経済活動の外へ向かうフローによって動かされているとの指摘が存在しており、アメリカの企業であるマクドナルドやスターバックスはグローバリゼーションの例として引用されるが、2008年の時点で世界にそれぞれ32,000ヶ所、18,000ヶ所以上の店舗を構えていたことが指摘されていた。

音楽的遺産について、グローバリゼーションはアーキビストたちにメロディーが環境に同化し変更される前にレパートリーを収集、記録、複製させることを促し、地域のミュージシャンたちはその信頼性のために闘い、地域の音楽の伝統を保護していたが、新しいアイデアや音を求める欧米の視聴者たちに地域で記録された音楽を届けることを通じて、ワールド・ミュージックに関する現象に対する支援を与えており、他方アングロ・アメリカのポップ・ミュージックがMTVを通じて世界中に拡散し、従属理論が世界が統合された国際システムであることを示していることを考慮すると、音楽的にこのことが地域の音楽のアイデンティティーの喪失として解釈されることが可能であった。

ブルデューによれば、消費に対する認識は自己認識やアイデンティティーの形成としてみなすことができると主張されており、音楽的にこのことは好みや嗜好に基づいたその人自身の音楽的アイデンティティーを個々が有していると解釈されていたが、このことは人の欲求や振る舞いに対する最も基本的な理由付けであるので、これらの好みや嗜好は主に文化によって影響され、個々人の文化の概念は現在グローバリゼーションによって変化の時代の中に置かれており、そのグローバリゼーションは政治的、個人的、文化的、経済的要因の相互依存性を増大させているとの指摘が存在していた。

また多くの工場が環境規制の少ない途上国に建設され、各国が外国資本を誘致するために環境や資源に対する保護法の役割を低下させたため、途上国における国際的な外国投資は底辺への競争を招いていたが、先進国がプラスの意味での環境政策を維持し、彼らが投資する国々にそれらの政策を与え、頂点への競争といった現象を作り出すならば、この理論の逆は真になるだろうとの指摘が存在し、ペルーやエチオピアのような途上国はエコツーリズムのような投資を通じて経済成長を促し、地域の経済的利得、訪問者にとっての教育的な体験、その影響が彼らの天然資源を活用し、保護することを可能にすることによって、彼らの独自の生態系を保護することを可能にしていた。

ポストマテリアリストの価値観に推移した社会は、経済安定性の高められたレベルや物質保全の信頼できるレベルに達する機会がなかったマテリアリストの社会以上に、天然資源の保全に価値を置いていたが、ポストマテリアリストの国々の生態学的現状は現在維持可能な状態でなく、他の国々に重荷をシフトすることができない周辺の国々に環境破壊の重荷をシフトすることによってのみ維持可能な状態であり、ポストマテリアリストの社会にとっての課題は維持可能なレベルにまで彼らの生態学的現状を改善させることであり、トランジション・タウン、パーマカルチャー、ゆりかごからゆりかごへを目指したデザインといった社会運動や地域のパイロット・スキームがある程度の維持可能な現状を達成しようとしていた。

フィリップ・ゴードンによれば、EUの労働者たちはグローバリゼーションにそれほど脅威を感じていないと指摘されており、EUの労働市場はアメリカより安定しており、賃金カットや福利厚生のカットをアメリカほど受け入れておらず、社会支出がアメリカよりはるかに高かったが、アメリカの労働者たちはヨーロッパ以上に自動化やアウトソーシングから影響を受け、アメリカの所得不平等はEU以上にかなり高いものになっていた。

日本ではその経済が小さくて脆いとの認識が存在しており、その不安が国際化やグローバリゼーションといった用語を日常の会話に登場させる原因となっていたが、日本の伝統は特に農業において可能な限り自給自足することであった。

2008年のBBCの世界世論調査によれば、世論調査はグローバリゼーションのペースが急であることに最も強く同意したのはフランス、スペイン、日本、韓国、ドイツであり、アメリカ以上に根強い反発であるように思われ、あまりにも急なグローバリゼーションが経済不安や所得の不平等を増大させるとの認識を抱かせる傾向と相関したものであったが、メキシコ、中央アメリカの国々、インドネシア、ブラジル、ケニアを含む国々においてはグローバリゼーションが非常にゆっくりと進行していると考えられていた。

ブルッキングス研究所によれば、グローバリゼーションに対する批判の多くは中流階級から生じており、彼らの経済的安全を脅かす低所得グループが上層へ移動していることを中流階級が認知したことによる現象であることが示唆されていたが、第三世界の多くの国々がグローバリゼーションを貧困から国を引き上げるプラスの力として捉えていた。

第三世界では中流階級が急速に成長していたが、都市化の拡大にともない、都市部と農村部の間の富の格差を増大させており、2002年のインドにおいて農村部での大衆運動が時としてグローバリゼーションのプロセスに対して反対の意思を示しており、中国では農村部と都市部の間で広まる富の格差の拡大を背景にして、工業地域に不満を持つ労働者の増加に加えて、リーダーシップに対する懸念を引き起こしていた。

ジョセフ・スティグリッツやアンドリュー・チャールトンによれば、社会的崩壊、民主主義の崩壊、より急速で激しい環境破壊、新しい病気の蔓延、貧困や疎外の増大といった多数の相互に関連した致命的な結果はグローバリゼーションの意図されざる帰結であったと主張されていた。

2005年のユネスコによるレポートによれば、西欧諸国は依然として文化的商品の主な輸出国であり続けていたが、2002年に中国はイギリスやアメリカに続く3番目に大きい文化的商品の輸出国になっており、1994年から2002年にかけて文化的輸出品における北米や欧州連合のシェアは落ち込みを示しており、アジアの文化的輸出品は北米を上回る成長を遂げていた。

ジャン・ジーグラーによる食糧の権利に関する国連特別報告書によれば、数百万人の農家たちが途上国における彼らの生活を失っていたが、先進国の小規模農家たちも同様に苦しんでいたとの指摘が存在しており、加盟国間の不平等なパワーのバランスを所与とすると、グローバルな貿易システムに関する現在の不平等はWTOの下で解決されるよりむしろ維持されることになると結論づけられていた。アクティビストたちによれば、WTOの内部で、表面的には多くの先進国で制定された農業に関する保護主義政策において、先進国と途上国の間に不平等な立場や権力が存在しているとの指摘が存在しており、国際市場で先進国の農産物に競争力を与えていた農業に対する補助や一部の先進国による輸出補助金の積極的な活用が多くの途上国における農業部門の衰退の主な理由になっていることが指摘されていた。

チョムスキーによれば、たまたま投資家であり、貸し手であった人々の権利に特権を与える国際的な経済統合の特定の形態に言及するため、グローバリゼーションという用語を用いることは現在権力を有している人々にとって適切なものであり、人権に特権を与えるような国際統合の形態を好む人々は反グローバリストと呼ばれ、これは馬鹿げているが、教育を受けた階級のこっけいでヒステリックな振る舞いに吹き出しを禁じ得ないものであるとの指摘が存在していた。

多国籍企業による製造現場や大衆文化におけるブランド主導型のマーケティングが世界中に氾濫していることを批判したカナダのジャーナリストであるナオミ・クラインによる著作である『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』は運動のマニフェストであり、インドでは運動に対する知的関心をエコロジストでありフェミニストであるヴァンダナ・シヴァの作品の中に見出すことができ、『バイオパイラシー――グローバル化による生命と文化の略奪』の中で、先住民やエコリージョンが保有する自然資本が、私的利用を共有せずしたがって簒奪される独占的な商業的財産として認識される知的資本の形態に転換される方法が示されており、作家であるアルンダティ・ロイは反核といった立場や世界銀行によって支援された巨大な水力発電ダムのプロジェクトに反対する活動で有名であり、フランスでは月刊紙であるル・モンド・ディプロマティークが反グローバリゼーションの立場を支持しており、トランスナショナル研究所のスーザン・ジョージは1986年から飢餓、債務、国際金融機関、資本主義に関する彼女の著作を通じて、この運動に対して長期にわたる影響を与え続け、ジャン・ジーグラー、クリストファー・チェイス=ダン、イマニュエル・ウォーラーステインの著作は資本主義体制によって支配された世界における低開発と依存について解説し、ノーム・チョムスキー、スーザン・ソンタグ、反グローバリストであるイエス・メンのようなアメリカの外交政策に対する批評家たちは広くこの運動の内側に受け入れられていた。

アマルティア・センは『自由と経済開発』の中で第三世界の発展は単に1人あたりの国民所得の増加ではなく、人間の潜在能力の拡大として理解されねばならず、したがって単にGDPと結びつけるのではなく、健康や教育に結びついた政策が必要とされていると主張しており、ジェームズ・トービンは金融取引に関する課税の提案を通じ運動の目標の一部を形成していた。

また成長は貧困層にとって良いことであるといったグローバリゼーション支持のスローガンは意図的に誤解を招いており、1950年から1975年のデータはグローバリゼーションに関連した新自由主義的な改革が行われた時期より前のことであるため、現実以上にグローバリゼーションに対する統計を良い数字に変えているとの指摘が存在していた。

ハジュン・チャンによれば、1人あたりの所得の伸びといったパラメーターに関して新自由主義的な政策を継続するための主張は支持できない見解であって、大雑把に言えば、途上国における1人あたりの所得は1960年から1980年にかけて年率で3%成長していたが、1980年から2000年にかけて約1.5%しか成長しておらず、先進国によって推進されていた自由貿易や産業政策を採用しなかったインドや中国を除外すれば、この1.5%という数字は約1%にまで低下するだろうとの指摘が存在しており、他方で世界銀行の統計で用いられている方法論に対して懸念が表明されており、貧困を測定するさらに詳細な変数が研究されるべきであるとの主張が存在していた。

他方、マイケル・ハートやアントニオ・ネグリは『<帝国>グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』の中で統合されない多数派つまり人間は共有された背景を理由にしてともに歩むが、「人」といった考え方に対して完全な同一性を保有することがないといった考えを拡張しており、運動に対する一般的な批判がそこに存在していた。

またエコノミスト誌のような反グローバリゼーション運動に対する反対の論壇によれば、反グローバリゼーションの支持者たちは合理性の仮定を外すか、グローバリゼーションは環境汚染といった負の外部性を生み出し、投資が伝統的な方法を除外して工場生産を促進するように市場に変更をもたらすかのいずれか一方であるといった指摘が存在し、エルナンド・デ・ソトによれば、第三世界の貧困の多くは欧米の法制度や明確に定義され普遍的に認識されている財産権の欠如を理由にしているとの主張が存在していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「グローバリゼーション」、「反グローバリゼーション運動」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Globalisation

グローバリゼーション

グローバリゼーションは文化、人、経済活動のグローバルな関係が拡大していることを示していた。この語は一般的に経済的なグローバリゼーションを示すために用いられており、関税、輸出手数料、輸入割当などの国際的な障壁を削減することを通じて、財・サービスの生産におけるグローバルな分布を示していた。グローバリゼーションは、分業の拡大や比較優位の原理を通じて、先進国や途上国の経済成長に貢献してきた[1][2]。この語は同様に思想、言語、大衆文化の国境を超えた流通に言及することが可能であった。

グローバリゼーションの批評家たちはグローバリゼーションの便益が過大に見積もられ、そのコストは過小評価されていると主張していた。批評家たちは、グローバリゼーションが文化の内部における触れ合いを減少させ、他方で国家間や国家内における対立の可能性を増加させていると論じていた。

1 外観

この用語は『新たな教育に向けて』と題された1930年の出版物の中で初めて採用され、教育における人間の経験に関する全体像を示していた[3]。1960年代になってこの用語は経済学者たちや他の社会科学者たちによって用いられ始めていた。この用語は1980年代後半に主要な活字メディアに登場していた。その端緒からグローバリゼーションの概念は15世紀以降のアジアやインド洋を超えた貿易や帝国の大きな動きに遡って競合する定義や解釈に影響を与えていた[4]。

チャールズ・テイズ・ラッセルは当時の大規模で国家的な企業合同や他の大企業を説明するために1897年に『巨大企業』といった関連する用語と同一視していた[5]。

国連西アジア経済社会委員会はグローバリゼーションを以下のように定義していた。

「広く用いられている用語は多くの異なった方法で定義されている可能性が存在していた。経済的な文脈で用いられるときに、それは、財、資本、サービス、労働のフローを容易にするために国家間における障壁を削減し除去することに言及しており...かなりの障壁が労働のフローに対して残っていたけれども...グローバリゼーションは新しい現象ではなかった。それは19世紀末から始まっていたが、第一次世界大戦の始まりから20世紀の第三四半期まで鈍化を示していた。この鈍化はそれぞれの産業を保護するために多くの国々によって採用された内向的な政策に起因している可能性があり...しかしながらグローバリゼーションのペースは20世紀の第四四半期に急速な上昇を示していた...」[6]。

ケイトー研究所のトム・G・パーマーはグローバリゼーションを「国境を超えた取り引きや結果として生じる生産や交換においてますます統合され複雑化するグローバルなシステムに対して国家が強制する制限の削減や除去」として定義していた[7]。

グローバル化された貿易、アウトソーシング、サプライチェーン、政治力が良くも悪くも世界を恒久的に変化させたと論じることによって、トーマス・L・フリードマンは「フラット化する世界」といった用語を普及させていた。彼は、グローバリゼーションのペースが早くなり、企業組織や企業活動に対するその影響が増大し続けるだろうと主張していた[8]。

タキス・フォトプロスは「経済的なグローバリゼーション」を、現在の新自由主義的なグローバリゼーションを導く商品、資本、労働市場の開放や規制緩和として定義していた。「政治的なグローバリゼーション」は国家を超えたエリートの出現や国民国家の消失として眺められていた。「文化的なグローバリゼーション」は文化の世界的な同質化であった。そして他の要素は「イデオロギー的なグローバリゼーション」、「技術的なグローバリゼーション」、「社会的なグローバリゼーション」を含んでいた[9]。

2000年にIMFはグローバリゼーションの4つの基本的な側面を定めていた[10]。

貿易や取り引き:途上国は世界貿易に占めるシェアを1971年の19%から1999年の29%に増加させていた。しかし主要な地域において大きな違いが存在していた。実際にアジアの新興工業国は繁栄していたが、他方アフリカの諸国は全体として不振に喘いでいた。国の輸出構造は成功のための重要な指標であった。工業製品の輸出は、先進国やNIEs諸国によって支配され、急騰していた。食料や原料などの輸出品はしばしば途上国で生産されており、この期間総輸出額に占める商品のシェアは低下していた。

資本と投資の動き:途上国への民間の資本フローは1990年代に上昇し、1980年代以降かなり落ち込んだ「支援」や開発援助を置き換えていった。そして外国直接投資(FDI)が最も重要なカテゴリーになった。ポートフォリオ投資と銀行融資の双方が増加したが、非常に変動が激しく、1990年代後半の金融危機には急速に落ち込んでいった。

移住や人の移動:1965年から1990年にかけて移民労働者の比率はおよそ2倍になった。ほとんどの移住は途上国と後発開発途上国(LDCs)の間に生じていた。そして進んだ経済の国々への移民のフローがグローバルな賃金がある一定の範囲に収束するための手段を与えているといったことが主張されていた。またこれらの国々の賃金が上昇するので、スキルが途上国へ向かって逆に流れる可能性があることが指摘されていた。

知識(と技術)の普及:情報と技術のやり取りはグローバリゼーションに不可欠な側面であった。技術革新(もしくは技術移転)は例えば携帯電話の登場のようにほとんどの途上国や後発開発途上国(LDCs)に便益をもたらしていた[11]。

2 歴史

グローバリゼーションの歴史的起源は議論の対象のままであった。一般的な用法では1970年代初めにそれは言及するが、一部の研究者たちはそれを全ての国際的な活動を含む古代史を有するものとしてみなしていた。

2.1 古代

おそらくグローバリゼーションの深い歴史的起源に対する最も極端な擁護者は従属理論に関連した経済学者であるアンドレ・グンダー・フランクであった。フランクはグローバリゼーションの形態が紀元前3000年におけるシュメールとインダス文明の間の貿易上のつながりから生じていたと主張していた[13]。

商業都市の中心部がアレクサンドリアや他のアレクサンダーの都市を含むインドからスペインに至るまでのギリシア文化の中枢を包んでいた頃、古代のグローバリゼーションはヘレニズム時代にも存在していた。他方でローマ帝国、パルティア帝国、漢王朝間の貿易上のつながりが指摘されていた。これらのパワーの間において拡大していた商業上のつながりはシルクロードの形態をとり、それは中国西部から始まり、パルティア帝国の国境に達し、ローマに続いていた[14]。また毎年300隻ほどのギリシアの船舶がグレコローマン世界とインドとの間を航海していた。毎年の貿易高は30万トンに及んでいる可能性が存在していた[15]。

2.2 イスラムとモンゴル時代

ユダヤ人とイスラム教徒の商人や探検家が交易ルートを確立した頃、イスラムの黄金時代はグローバリゼーションの別の段階を示しており、農業、貿易、知識、技術のグローバリゼーションがもたらされた。砂糖や綿花のような作物はこの時期にイスラム世界で広く栽培されるようになり、他方アラビア語やハッジの知識の普及がコスモポリタンの文化を生み出していた[16]。

モンゴル帝国の出現は、中東や中国における商業の中心を不安定にしたけれども、シルクロードに沿った交易を大幅に容易にしていた。13世紀のパクス・モンゴリカは、中央アジアにおける腺ペストのような伝染病の急速な拡大同様に、最初の国際郵便サービスを含んでいた[17]。しかし16世紀まで国際交易における最大のシステムはユーラシア南部(バルカン諸国やギリシアがトルコ、エジプト、レバント、アラビア半島と交流し、アラビア海からインドに続いていた)に限定されていた。

2.3 ヨーロッパの海上貿易

プロト・グローバリゼーションとして知られる次の局面は16世紀や17世紀のヨーロッパの帝国における海上貿易によって特徴づけられており、最初にポルトガル帝国とスペイン帝国が、次にオランダ帝国とイギリス帝国が続いていた。17世紀にオランダ東インド会社(1602年に設立される)同様にしばしば最初の多国籍企業として説明されるイギリス東インド会社(1600年に設立される)のような勅許会社が設立されたときに、グローバリゼーションは大きな発展を遂げていた。

大航海時代はこの現象に新大陸を加えていた[18]。ポルトガルとカスティーリャがアフリカの角やアメリカ大陸に最初の探検隊を送り、1492年にクリストファー・コロンブスによって到達された頃、15世紀後半にそれは始まっていた。グローバルな統合はヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地化とともに続き、コロンブス交換、つまり東半球と西半球の間における植物、動物、人間の集団(奴隷を含む)、伝染病、文化の交流を始めていた。16世紀にヨーロッパの船員によってアメリカ大陸から伝えられた新しい作物は世界人口の成長に大きく貢献していた[21]。

2.4 産業化

19世紀にグローバリゼーションは現代の形式に近づいていた。産業化は規模の経済により家庭用品の安価な生産を促し、他方急速な人口の成長が持続的な受容を生み出していた。この時代のグローバリゼーションは19世紀の帝国主義によって形成されていた。第一次そして第二次アヘン戦争やイギリスによるインドの征服が完了した後、広大な人口がヨーロッパの輸出品の消費者予備軍となっていた。またサハラ以南のアフリカや太平洋諸島の一部が世界システムに組み込まれていった。他方でヨーロッパ人による特にサハラ以南のアフリカを含む地球上の新たな地域の征服はゴム、ダイヤモンド、石炭のような貴重な天然資源の産出を促し、ヨーロッパの帝国の力、その植民地、アメリカの間における燃料の貿易や投資を促していた[22]。

貿易の拡大は第一次世界大戦や世界恐慌によって中断され、第二次世界大戦後に再び拡大を始めていた。この後者の拡大は貿易を妨げる障壁を低下させる政治家たちによる計画の結果であった。彼らの仕事はブレトンウッズ会議、つまり国際的な金融政策、商取引や金融取引のための枠組みや経済成長を促すいくつかの国際機関の創設を主要な政府がもたらすための協定を導いていた。このことは主にアメリカやヨーロッパに拠点を置く多国籍企業のグローバルな拡大を容易にしていた。

2.5 制度設計

国際復興開発銀行(世界銀行)、国際通貨基金(IMF)、世界貿易機関(WTO)を含む各機関は冷戦後のグローバリゼーションの爆発的な成長の基礎を築いていた。

貿易を開放するための複数の貿易交渉が簡素化され、貿易障壁を低下させていた。最初に関税および貿易に関する一般協定(GATT)が一連の協定を導き、貿易制限を取り除いていった。GATTの後継者は世界貿易機関(WTO)で、それは貿易システムを管理する機関を創設していた。輸出高は1970年の世界総生産の8.5%から2001年の16.2%にまでほぼ2倍になっていた[23]。貿易を進めるためにグローバルな協定を用いるアプローチはドーハ・ラウンドの失敗によって停滞していた[24]。当時多くの諸国が二国間もしくは小規模な多国間の協定に移行しており、例えば2011年の韓国とアメリカの自由貿易協定が挙げられていた。

1990年代には低コストの通信ネットワークの成長がコンピュータを用いてなされる仕事がその地球上の位置に依存しないことを可能にしていた。このことは会計、ソフトウェア開発、技術設計を含んでいた。2000年代後半には先進工業国の多くがいわゆる大不況を経験し[25]、少なくとも一時的にグローバリゼーションのペースを鈍化させていたかもしれなかった[11][26][27][28]。

3 影響

3.1 経済

工業製品の国際貿易は1955年から2007年の間に100倍以上(950億ドルから12兆ドル)に増加していた[32]。中国の対アフリカ貿易高は2000年から2007年の間だけで7倍に増加していた[33][34]。

21世紀初頭までに各国の通貨で1.5兆ドル以上が貿易と投資の拡大を支援するために日々取り引きされていた[35]。

新しいグローバルビジネスの市場での生存競争は企業が彼らの製品をアップグレードし、激化する競争に生き残るために技術を巧みに用いることを要求していた[36]。

グローバリゼーションに対する元国連アドバイザーであったジャグディーシュ・バグワティーによれば、過度に急速な発展に伴う明白な諸問題が存在しているけれども、グローバリゼーションは貧困から各国を浮上させるための推進力でった。彼によれば、それはより急速な経済成長に関連する好景気循環を引き起こしていた[1]。

グローバリゼーションのコストと便益は各地域や各国家に等しく分配されていなかった。例えばアメリカの中西部における製造業の雇用は、途上国が指数関数的に成長している一方、落ち込みを示すばかりだった[37]。

頭脳流出

富裕国での機会は貧困国から熟練労働者たちを引き寄せ、頭脳流出を招いていた。例えばより貧しい国々からの看護師がアメリカに仕事に来ていることが挙げられていた[38]。この現象は毎年15万人の専門家を雇用することに対する41億ドル以上のコストを計上していた[39]。商工会議所は1年あたり100億ドルのコストをインドに対して計上していた[40]。

労働条件

いくつかの途上国では労働政策が先進国ほど労働者たちを保護していなかった。一例として製造現場の搾取が挙げられていた。ギャップやナイキのような衣料品メーカーは現地やアメリカの法律に違反して児童労働を許していた工場と契約していたことによって非難されていた[41]。

アメリカでは、アメリカ労働委員会が適切な労働条件と公正な競争のための法令を提案し、それは搾取された結果である商品を輸入し、販売し、輸出することを禁じることによって企業に対して人権と労働者の権利を尊重することを要求するものであった[42]。具体的にはこれらの核になる基準は労働条件を守る権利と同様に児童労働の禁止、強制労働の禁止、結社の自由、組織し、団体交渉する権利を含んでいた[43]。

外部化するビジネスプロセス

富裕国ではアウトソーシングは諸刃の剣であった。それはより安価なサービスを可能にしていたが、いくつかのサービスセクターの仕事が奪われていた。しかしインドのような低コストの国々では、アウトソーシング産業は「GDP成長、雇用拡大、貧困緩和に広く貢献し、次の20年から30年の間、国の発展の主要なエンジン」となっていた[44][45]。

所得の平等

世界銀行の数字は、極度の貧困に対する国際基準である1日あたり1ドル以下で生活する人々の数が1990年の12.5億人から2004年の9.86億人(総人口が増加しているが18%)に減少したことを示していた[46]。

批評家たちはグローバリゼーションが所得不平等を各国の間や内部において拡大させていると主張していた。8つの指標のうち7つにおいて所得不平等は2001年末までの20年間において拡大していた。同様に「世界所得分布の下位十分位における所得は1980年代以来確実に落ち込んでいた」。その記事は、バイアスのかかった方法論を理由にして、1日あたり1ドル以下で生活する人々の数が1987年から1998年にかけて12億人を保っていたとの世界銀行の主張に対して懐疑的であった[47]。

不平等に視覚化し理解できる形式を与えた図、いわゆるシャンパングラス効果[48]は1992年の国連開発計画のレポートに含まれており、それはグローバルな所得の分配が不公平であることを示しており、世界人口の最も豊かな20%が世界所得の82.7%を支配していることを示していた[49]。

2007年12月に世界銀行のエコノミストであるブランコ・ミラノビックは、途上国の生活が以前考えられていたよりも悪くなっていると購買力平価に対する改善された推定値が示しているので、グローバルな貧困と不平等に対して以前に行われた実証的な研究に対して疑念を投げかけていた。ミラノビックは「私たちが現在間違った数字であると知っているデータに基づいて、ここ10年間の間に各国の所得の集中と分散に関する文字通り数百の学術論文が発表されてきた」と発言していた。新たなデータはグローバルな不平等と貧困に対してかなり含意のある推定値を有していた。初期の不平等は新しい数字を用いれば0.70に対して0.65(ジニ係数)周辺と推定されていた[51]。

労働市場におけるグローバリゼーションは先進国において正の効果と負の効果を有していた。ホワイトカラーの労働者たち(エンジニア、弁護士、科学者、教授、経営幹部、ジャーナリスト、コンサルタント)は世界市場で巧みに競争することができ、高い賃金を維持していた。例えばボーイング社はアメリカ最大の輸出企業だった。2011年後半にその年に雇用した追加の11,000人の労働者たちを守るために、ボーイング社はアメリカの航空機に対する500億ドル以上の価値がある取り引きをまとめていた[52]。その反対に製造部門の労働者とサービス部門の労働者は途上国のかなり低コストの労働者と直接競合することができなかった[53]。低賃金諸国は以前に富裕国で行われていた低付加価値の仕事を手に入れ、富裕国にはより高付加価値の仕事が残っていた。実際にアメリカの製造部門で雇用される人々の全体数は落ち込んでいたが、1人あたりの付加価値は増加していた[54]。

このことは先進国内部における所得不平等の拡大をもたらしていた。このトレンドはアメリカでは拡大するように思われ、それは1970年代後半に兆候を示し始め、21世紀に入って加速し、現在多くの途上国で見受けられる格差と比較できるレベルに達していた[55]。

消費

アメリカ、ヨーロッパ、日本へのテレビ、ラジオ、自転車、繊維製品のような消費財の輸出はアジアの新興工業国の経済の拡大を促していた[56]。中国の輸出額は2011年10月において1575億ドルに達していた。その年の財・サービスの輸出は中国のGDPの39.7%を占めていた[57]。経済政策研究所(EPI)の研究によれば、2001年から2008年の間においてアメリカの対中貿易赤字の増加は240万人分のアメリカ人の仕事に相当するとされていた[58]。2000年から2007年にかけてアメリカはトータルで320万人分の製造業の仕事を失っていた[59]。中国の成功は欧米同様に途上国における仕事においてもマイナス要因となっていた。2005年4月26日時点で「地域の巨頭である南アフリカにおいても中国製品の流入によって過去2年間において30万人の繊維労働者が仕事を失っていた」[60]。

プライスウォーターハウスクーパースの2007年のレポートによれば、2050年までにE7(BRIC諸国:中国、インド、ブラジル、ロシアに加えてメキシコ、インドネシア、トルコ)と称される新興工業国の経済は現在のG7(アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、カナダ)よりも約50%程規模が拡大しているだろうとされていた。レポートは2025年前後に中国が最大の経済大国であるアメリカを抜き、2050年にはインドによって追いつかれるだろうと予測していた[61]。ゴールドマン・サックスによる2010年のレポートによれば、2020年までに中国は日本を追い抜き、世界最大の経済になるだろうと予測されていた[62]。

金融の相互依存

アメリカにおけるサブプライム住宅ローン市場の崩壊は、大恐慌以来経験したことがなかった規模でのグローバルな金融危機と景気後退を導いていた[63]。批評家たちによれば、政府の規制緩和とウォール・ストリートの投資銀行に対する規制の失敗がサブプライム住宅ローン危機に対する重要な要因であった[64][65]。

麻薬や違法商品の取り引き

2010年に国際連合薬物犯罪事務所(UNODC)はグローバルな麻薬取り引きが収益において1年あたり3,200億ドル以上も生み出していることを報告していた[66]。国連の推計によれば、世界的にヘロイン、コカイン、合成麻薬の常習者は5,000万人以上存在するとされていた[67]。また絶滅危惧種の国際取引は密輸業界では麻薬密売に次ぐとされていた[68]。伝統的な中国医学はしばしば植物の葉、茎、花、根といったあらゆる部分からの成分や動物と鉱物からの成分を取り込んでいた。絶滅危惧種(例えばタツノオトシゴ、サイの角、サイガアンテロープの角、虎の骨や爪など)の各部位の利用は保護動物を密漁する人々の闇市場を形成していた[69][70]。

3.2 政治

グローバリゼーションは国民国家の意義を低下させるように作用していた。EU、WTO、G8、国際刑事裁判所のような準国家もしくは超国家的な機関は国際協定によって国家の機能を置き換えていった[71]。一部のオブザーバーたちはアメリカのパワーの相対的な衰退の原因をグローバリゼーション、特にアメリカの高い貿易赤字によるものと認識していた。このことはアジア諸国、特に中国に対するグローバルなパワーのシフトを導いており、中国は市場を開放し、驚異的な成長率を達成していた。2011年時点では中国は2025年までにアメリカを追い抜く位置に存在していた[72]。

3.3 文化

北京語が一番話者の多い言語で8億4,500万人の話者がおり、続いてスペイン語(3億2,900万人の話者)、そして英語(3億2,800万人の話者)であった[73]。しかし最も人気のある言語は疑いなく英語でありグローバリゼーションにおける「共通語」であった。

世界のメール、テレックス、海外電報の約35%が英語であった。

世界のラジオ番組の約40%が英語であった。

約35億人の人々が英語の知人を有していた。

英語はインターネット上で最も有力な言語であった[75]。

文化のグローバリゼーションは異文化交流の機会を増やしたが、孤立したコミュニティの独自性を減少させる可能性が存在していた。スシは日本同様ドイツでも利用可能であったが、ユーロ・ディズニーはパリの都市の魅力を奪い、潜在的に「本物の」フランスの菓子に対する需要を減らす可能性が存在していた[76][77][78]。個人の伝統からの疎外に対するグローバリゼーションの寄与は、ジャン=ポール・サルトルやアルベール・カミュのような実存主義者たちによって伝えられるような近代そのものの影響と比較すると控えめかもしれなかった。

グローバリゼーションは特にインターネットや衛星テレビを通じてポップカルチャーを普及させることによってレクリエーションの機会を拡大していた。

WHOは現在あらゆる瞬間において50万人もの人々が飛行機に搭乗中であると推定していた[79]。2009年に6.5%成長し、2010年には国際的なツーリズムは9,190億ドルに達していた[80]。

2008年に[81]国際移住機関(IOM)は不法移民を含めて世界中に2億人以上の移民が存在することを確認していた[82][83]。2008年において途上国への送金のフローは3,280億ドルに達していた[84]。

非政府組織(NGO)は人道援助や開発援助を含めて国境を超えた公共政策に影響を及ぼしていた[85]。

宗教的な運動は、移民、伝道師、帝国主義者、商人の影響力によってグローバル化され、普及していった初期の文化の影響力の中に存在していた。キリスト教、イスラム教、仏教、さらにモルモン教のような最近の宗派はその起源から離れた場所に定着し、文化の普及に影響を及ぼしていた[86]。

反対論者は2010年に、グローバリゼーションは主にアメリカから発信された文化及び経済活動の外へ向かうフローによって動かされており、アメリカナイゼーションとしてよく理解されるものであったと主張していた[87][88]。例えば最も成功した2つのグローバルな飲食店はアメリカの企業であるマクドナルドとスターバックスであり、しばしばグローバリゼーションの例として引用されるが、2008年の時点でそれらは世界で操業するそれぞれ32,000ヶ所、18,000ヶ所以上の店舗を構えていたことが挙げられていた。

音楽

グローバリゼーションという用語は変化を暗示していた。伝統的な音楽を含む文化的慣習は失われるかまたは伝統の融合に変化されていった。グローバリゼーションは音楽的遺産の保護にとっての緊急事態のきっかけに過ぎなかった。アーキビストたちはメロディーが環境に同化し変更される前にレパートリーを収集し、記録し、複製しようとしなければならなかった。地域のミュージシャンたちは信頼性のために闘い、地域の音楽の伝統を保護していた。グローバリゼーションが演奏家たちに伝統的な楽器を捨てることを促す可能性が存在していた。フュージョンといったジャンルは分析のための興味深い対象になる可能性があった[91]。

グローバリゼーションは、新しいアイデアや音を求める欧米の視聴者たちに地域で記録された音楽を届けることによって、ワールド・ミュージックにおける現象に対する支援を与えていた。欧米のミュージシャンたちは離れた文化を起源とする多くのイノベーションを採用していた。

同様に音楽は欧米から外へ流れていた。アングロ・アメリカのポップ・ミュージックはMTVを通じて世界中に拡散していった。従属理論は世界が統合された国際システムであることを説明していた。音楽的にはこのことは地域の音楽のアイデンティティーの喪失として解釈されていた[92]。

ブルデューは、消費に対する認識は自己認識やアイデンティティーの形成としてみなすことができると主張していた。音楽的にはこのことは好みや嗜好に基づいたその人自身の音楽的アイデンティティーを個々が有していると解釈されていた。このことは人の欲求や振る舞いに対する最も基本的な理由付けであるので、これらの好みや嗜好は主に文化によって影響されていた。個々人の文化の概念は現在グローバリゼーションによって変化の時代の中に置かれていた。またグローバリゼーションは政治的、個人的、文化的、経済的要因の相互依存性を増大させていた[93]。

3.4 環境

気候変動、国際水域、大気汚染、海の乱獲のような環境における課題は国境を超えた地球規模の解決を必要としていた。途上国の工場が生産を増やし、環境規制が少ないので、グローバリズムは実質的に水資源に対する汚染とその影響を増大させていた[94]。

地球白書2006年版のレポートは、インドや中国の高い経済成長は維持可能でないと述べていた。

世界の生態系が許容する容量は、維持可能な方法で世界の残りの国々同様に、中国、インド、日本、ヨーロッパ、アメリカの欲望を満たすには十分ではなかった[95]。2006年の報道の中でBBCが述べているように、...もし中国やインドが2030年にアメリカや日本と同じくらいの1人あたりの資源を消費するならば、彼らは彼らの必要に合うだけのもう1つの地球を要求するだろうし[95]、長期においてこれらの影響は減少する資源[96]を巡る争いを増加させ、最悪の場合にはマルサスの大惨事を引き起こすだろうとされていた。

生態系

国際協力で解決されるかもしれない地球環境の課題が出現し、それは気候変動、国際水域、大気汚染、海の乱獲、外来種の拡散を含んでいた。多くの工場が環境規制の少ない途上国に建設されているので、グローバリズムや自由貿易は貴重な淡水資源に対する汚染やその影響を増大させるかもしれなかった[94][97]。

各国が外国資本を誘致するために環境や資源に対する保護法の役割を低下させたため、途上国における国際的な外国投資は「底辺への競争」を招いていた[98][99]。しかしながら先進国がプラスの意味での環境政策を維持し、彼らが投資する国々にそれらの政策を与え、「頂点への競争」といった現象を作り出すならば、この理論の逆は真になるだろう[98]。

同時にペルーやエチオピアのような途上国は、エコツーリズムのような投資を通じて経済成長を促し、地域の経済的利得、訪問者にとっての教育的な体験、その低い影響が彼らの天然資源を活用し、保護することを可能にすることによって、彼らの独自の生態系を保護することに従事していた[100]。

大気

先進国や途上国が地域の規模よりむしろ地球の規模で問題を解決する方法を見出していることを背景にして、グローバリゼーションによって、大陸と大陸のそして国と国の間の距離が縮んでいた。以前は地域のガバナンスで十分であったが、現在は国連のような機関が汚染に対して地球規模の規制を行わなければならなかった[101]。京都議定書、クリーン・エアー・イニシアティブ、大気汚染と公共政策の研究を通じて、大気汚染を監視し、減少させるために、国連によるアクションがとられていた[102]。

地球規模での交通、生産、消費が地球規模での大気汚染の増加の原因となっていた。北半球は一酸化炭素や硫黄酸化物の主要な生産国であった[103]。

経済が自給自足の農業から工業化と都市化に切り替えられたので、中国やインドは実質的に化石燃料の消費量を増大させていた[104][105]。中国の石油消費量は2002年から2006年までに毎年8%成長し、1996年から2006年までに2倍になっていた[106]。2007年に中国はCO2の最大排出国としてアメリカを追い抜いていた[107]。欧州連合によると、2007年において都市の住民5億6,000万人が呼吸する大気の内わずか1%のみが安全であるとみなされていた。このように先進国は汚染集約型産業が移転した国々で消費に関連する汚染のいくらかを外部化していた。

森林

森林破壊の主要な原因は中国と日本における木材産業であった[109]。

現在のペースではインドネシアの熱帯雨林は10年以内に、パプアニューギニアは13年から16年以内に収奪されるだろう[110]。

経済発展を維持可能なレベルにするために、社会は森林資源を活用してきた。歴史的に、周囲の社会がより発達し、工業化し、輸入を通じて主要な伐採元を他の国々にシフトするので、初期の途上国における森林は「森林の遷移」つまり森林の破壊と森林の再生の期間を経験していた。しかしグローバル化されたシステムの周辺国にとって、伐採元をシフトする他国は存在しておらず、森林の劣化は衰えることなく継続されることになった。森林の遷移は、新しい森林の再成長、二番目、三番目の森林の再成長を通じて、水質や温室効果ガスの蓄積に影響を及ぼすことによって、水文学、気候変動、地域の生物多様性に対する影響を有している可能性が存在していた[111]。

鉱物

さらなるリサイクルがなければ、亜鉛は2037年までに、インジウムやハフニウムは2017年までに、テルビウムは2012年以前に使い尽くされる可能性が存在していた[112]。

ポストマテリアリズムとマテリアリズム

社会は、達成された発達段階や経済安全保障の段階に従って、異なったレベルの意味合いで環境保護を担ってきた。市民が基本的な物質保全を当然のことと考えることができる「ポストマテリアリスト」の価値観に推移した社会は、経済安定性の高められたレベルや物質保全の信頼できるレベルに達する機会がなかった「マテリアリスト」の社会以上に、天然資源の保全に価値を置いていた[113]。しかしポストマテリアリストの国々の生態学的足跡はそれにもかかわらず現在維持可能な状態でなく、地球は有限であるので、他の国々に重荷をシフトすることができない周辺の国々に環境破壊の重荷をシフトすることによってのみ維持可能な状態であった。したがって「ポストマテリアリスト」の社会にとっての課題は維持可能なレベルにまで彼らの生態学的な足跡を低減させることであった。これを達成した国はまだ存在していないが(2012年時点)、ある程度の維持可能な足跡を達成しようとするポストマテリアリストの国々の中での社会運動や地域のパイロット・スキーム(例えばトランジション・タウン、パーマカルチャー、ゆりかごからゆりかごへを目指したデザイン)の数は増大していた。

食料供給に対する人口増加の影響

ここ30年間で魚介類に対する人間の消費量が倍増し、複数の魚介類の漁場が深刻に破壊され、結果として海洋生態系が破壊されたことによって、さらに維持可能な魚介類の供給を生み出すためのステップを促すことへの意識が芽生えてきた[114]。

2008年に国際食糧政策研究所の所長は、新しく登場した豊かな人口集団の中における食に関するゆっくりとした変化は世界の食料価格の上昇を支える最も重要な要因であると述べていた[115]。1950年から1984年に至る緑の革命は世界中の農業を変え、穀物生産は250%以上も増加していた[116]。緑の革命の開始以来、世界の人口は約40億人ほど増加し、それが起こらなければ、国連が現在文書にしているより(2005年におよそ8億5千万人が慢性的な栄養失調に苦しむとされていた)、大きな飢饉や栄養失調が生じるとされていた[117][118]。

ピーク・オイル、ピーク・ウォーター、ピーク・ファスファラス、ピーク・グレイン、ピーク・フィッシュといった「ピーク」現象の集合によって悩まされる世界の食料安全保障を維持することはますます困難になるだろう。英国政府主席科学顧問であるジョン・ベディントンによれば、2030年までに人口の増加、エネルギー源の減少、食料不足が「完全な混乱」を生じさせるだろうとされていた。彼は、2050年まで食料の貯蔵が50年間低い水準で、世界は50%多いエネルギー、食料、水を必要としているだろうと述べていた[119][120]。国連食糧農業機関(FAO)によれば、所得を上昇させるように、さらなる23億人を養うために、2050年までに世界は70%多い食料を生産しなければならないだろうとされていた[121]。社会科学者たちは、化石燃料の減少や結果として生じる輸送と食料生産における危機によって、世界文明は収縮し、再び地域に分化する期間を迎えるだろうといったことの可能性について警告を発していた[122][123][124]。ヘルガ・フィアリッヒは、維持可能な地域の経済活動の回復は狩猟や採集に基づき、園芸や牧畜にシフトするだろうとの予測を行なっていた[125]。

2003年において外洋漁業の29%が崩壊状態にあった[126]。2006年11月にサイエンス誌は4年間の研究を発表し、それは現行のトレンドで世界が2048年に野生の海産資源を使い尽くすだろうと予測していた[127]。しかし逆にグローバリゼーションは養殖業に対するグローバルな市場を創出し、それは2009年の時点では世界漁獲量の38%を占めており、潜在的に捕獲への圧力を減少させていた[128]。

3.5 健康

グローバリゼーションは致命的な感染症を拡大させていた[129]。アジアで始まった黒死病は14世紀にヨーロッパの人口の3分の1以上を奪っていた[130]。ヨーロッパ人の開拓はアメリカ大陸にさらに悪い影響を与えていた。またヨーロッパの植民地化によってもたらされた天然痘によって、アステカ、マヤ、インカなどの「新大陸」の文明の90%の人口が奪われていた。現代の輸送の方法はより多くの人々や製品を世界中に素早く移動させることを可能にしていたが、感染症の大陸移動にも道を開いてしまっていた[131]。この一例はHIVであった[132]。移民によってアメリカ国内のおよそ50万人の人々がシャーガス病に感染していると考えられていた[133]。2006年には、アメリカ国内の外国生まれの人々の結核(TB)率がアメリカ生まれの人々より9.5倍も大きかった[134]。

4 世論

グローバリゼーションの擁護者と反対者の間に共通の背景はほとんど存在していなかった[135]。

4.1 アメリカ

1993年にフィスらが世論を調査した。彼らの調査は、1993年において回答者たちの40%以上がグローバリゼーションの概念についてよく知らないことを示していた。1998年にこの調査が繰り返されたとき、回答者たちの89%が良い影響や悪い影響といったグローバリゼーションに対する二極化した見方を抱いていた。同時に、支持者たちや幻滅した学生と労働者たちの間における白熱した議論にシフトする以前に、グローバリゼーションに関する議論は金融界において始められていた。1995年のWTOの設立後、この二極分化は激しさを増し、WTOの設立とその結果に対する抗議活動は大規模な反グローバリゼーション運動を引き起こしていた[136]。

当初大学教育を受けた労働者たちはグローバリゼーションに賛成する傾向にあった。移民や途上国の労働者たちと競合する可能性があるそれほど教育を受けていない労働者たちは反対しがちだった。2007年の金融危機以降、状況は一変していた。1997年の世論調査によれば、大卒の58%がグローバリゼーションはアメリカにとって良いことだと述べていた。2008年にはわずか33%がそれが良いことだと考えていた。高卒の回答者たちはさらに反対の姿勢を強めていた[137]。

4.2 他の先進国

フィリップ・ゴードンは(2004年の時点で)「ヨーロッパの明らかな多数派はグローバリゼーションが彼らの生活を豊かにしてくれると信じており、欧州連合がグローバリゼーションの恩恵を活用する手助けをしてくれ、彼らをその負の影響から保護してくれると考えていた」と述べていた[138]。その主な反対者は社会主義者、環境団体、ナショナリストによって構成されていた。

アメリカの労働者たちはヨーロッパ以上に自動化やアウトソーシングから影響を受けていた。アメリカの所得不平等はEU以上にかなり高いものになっていた[55]。ゴードンは、EUの労働者たちはグローバリゼーションにそれほど脅威を感じていないと指摘していた。EUの労働市場はアメリカより安定しており、賃金カットや福利厚生のカットをアメリカほど受け入れていなかった。社会支出はアメリカよりはるかに高かった[139]。

日本ではその議論が別の様相を示していた。竹中平蔵や千田亮吉によれば1998年時点での日本の経済は「小さくて脆い」との認識が存在していた。しかし日本は資源小国であり、原料の輸入のために輸出を行なっていると考えられていた。彼らの自身の立場に対する不安が国際化やグローバリゼーションといった用語を日常の会話に登場させる原因となっていた。しかし日本の伝統は特に農業において可能な限り自給自足することであった[140]。

2007年の金融危機以降、状況は変わったかもしれなかった。危機が始まったばかりの2008年のBBCの世界世論調査は先進国におけるグローバリゼーション対する反対意見が増加しているといったことを示唆していた。BBCの世論調査はグローバリゼーションのペースが急であるかどうかを尋ねていた。最も強く同意したのはフランス、スペイン、日本、韓国、ドイツだった。これらの国々のトレンドはアメリカ以上に根強い反発であるように思われた。同様にこの世論調査は、あまりにも急なグローバリゼーションが経済不安や所得の不平等を増大させるとの認識を抱かせる傾向と相関したものであった[141]。

4.3 途上国

多くの世論調査は途上国の住民が先進国より好ましくグローバリゼーションを捉える傾向にあることを示していた[142]。BBCはグローバリゼーションがあまりにも急速に進行しているとの途上国での認識が拡大していることを見出していた。メキシコ、中央アメリカの国々、インドネシア、ブラジル、ケニアを含むわずかばかりの国々において、多数派はグローバリゼーションが非常にゆっくりと進行していると考えていた[141]。

第三世界の多くの国々がグローバリゼーションを貧困から国を引き上げるプラスの力として捉えていた[1]。反対派は一般的に環境に対する懸念をナショナリズムと結びつけていた。反対派は政府を多国籍企業に従属する新植民地主義のエージェントとして眺めていた[143]。批判の多くは中流階級から生じており、ブルッキングス研究所は、これは彼らの経済的安全を脅かす低所得グループが上層へ移動していることを中流階級が認知したことによる現象であるといったことを示唆していた。

多くの批評家たちが先進国の中流階級の衰退を理由にしてグローバリゼーションを批判していたけれども、第三世界で中流階級は急速に成長していた[145]。都市化の拡大にともない、このことは都市部と農村部の間の富の格差を増大させていた[146]。2002年においてインドでは、人口の70%が農村部で生活しており、生活のために天然資源に直接的に依存していた[143]。結果として、農村部での大衆運動は時としてグローバリゼーションのプロセスに対して反対の意思を示していた[147]。

中国経済の急速な成長は人口の0.4%が国富の70%を所有する結果を導いていた[148]。中国の農村部で広まる不安は農村部と都市部の間で広まる富の格差の拡大を背景にしていた[149]。工業地域に不満を持つ労働者の増加に加えて、このことは国のリーダーシップに対する懸念を引き起こしていた[150]。

5 メディアの報道

ピア・フィスやポール・ハーシュによる2005年の研究は過年度におけるグローバリゼーションに対する否定的な記事の大幅な増加を見出していた。1998年までに否定的な記事は2対1で肯定的な記事を上回っていた[136]。2008年にグレッグ・イップは、グローバリゼーションに対する反対意見の増加が少なくとも部分的には自己に対する経済的利益によって説明されることが可能であると主張していた[137]。否定的な枠組みを示す新聞記事の数は1991年の約10%から1999年の55%にまで増加を示していた。グローバリゼーションに関する記事の総数がほぼ2倍になった期間において、このような増加は生じていた[136]。

6 解釈

6.1 肯定派

新自由主義者たちは一般的に、先進国の民主主義や資本主義において政治的及び経済的自由の高度な水準はそれ自体が目的であり、同様にそれらは高い水準の物質的富を生産していると主張していた。彼らはグローバリゼーションを自由と資本主義の有益なる拡大として眺めていた[151]。

1962年の初めにマーシャル・マクルーハンはグローバル・ヴィレッジという用語に脚光を浴びさせていた[152]。彼の見解は、グローバリゼーションが世界中の人々が統合され、共通の利益に気づき、人間性を共有するようになる1つの世界を導くだろうといったことを示唆していた[153]。

民主的なグローバリゼーションの支持者たちは、経済発展がグローバリゼーションの最初の局面で、次にグローバルな政治機関の設立に移行するはずであると考えていた。ローマクラブ合衆国協会のディレクターであるフランチェスコ・スティポ博士は、1つの世界政府の下に各国家を統合することを支持し、それは「世界各国の政治的及び経済的バランスを反映させるべきであり、世界連合は政府の権限に取って代わるのではなく、むしろ国家と世界の権力が彼らの能力の及ぶ範囲内でパワーを保有するように、政府の権限を補完する役割を担う」ことを示唆していた[154]。

カナダの元上院議員であるダグラス・ロウチはグローバリゼーションを避けられないものとして眺めており、選挙によらない国際機関を監視するために直接選挙される国連議会のような機関を創設することに賛成していた。

経済学者であるポール・クルーグマンはグローバリゼーションと自由貿易の忠実な支持者であり、グローバリゼーションに対する多くの批評家たちと意見が一致していなかった。彼は、その批判の多くが比較優位が何であるかに対する基本的な理解を欠いていると主張していた[155]。

6.2 否定派

1995年のWTOの設立は反グローバリゼーション運動を導き、それは途上国におけるグローバリゼーションのマイナスの影響と本質的に関連していた。彼らの関心は環境問題から、民主主義、国家の主権、労働者の搾取のような問題にまで至っていた。

先進国の反対派は不釣り合いだが中産階級で大学で教育を受けた人々だった。これは途上国の状況と著しく対照的であり、そこで反グローバリゼーション運動は数百万人の労働者たちや農家たちを含む幅広いグループを含めることに成功していた[156]。

「反グローバリゼーション」の活動は主権を表明し、民主的意思決定を実践し、人、物の国際的な移転や特に自由市場の規制緩和といった好まれない考え方を制限する試みを含んでいた。ナオミ・クラインは、この用語は単一の社会運動を示すか、ナショナリズムや社会主義のような複数の社会運動を含めているかのいずれかであると主張していた[157]。

ハーストやトンプソンはこの用語を非常に曖昧であるとして拒否していた[158][159][160]。ポードブニックは「これらの抗議に参加しているグループの大多数は支援のための国際的なネットワークを参考にし、民主的な代表、人権、平等主義を高めるグローバリゼーションの形態を求めていた」と述べていた。

他の用語はグローバル・ジャスティス運動、反コーポレート・グローバリゼーション、運動の運動(イタリア)、オルター・グローバリゼーション(フランス)、カウンター・グローバリゼーションを含んでいた。

ジョセフ・スティグリッツやアンドリュー・チャールトンはこう述べていた。

反グローバリゼーション運動はグローバリゼーションに対して認知された負の局面に反対して発展していた。そのグループは幅広い利益や問題を表明しており、反グローバル運動に関わった多くの人々は、例えば援助、難民の支援、グローバルな環境問題のように、世界中のさまざまな人々や文化の間のより緊密な結びつきを支援していたので、「反グローバリゼーション」といった用語は多くの意味で誤った呼称であった[161]。

経済的なグローバリゼーションに対する批判は一般的に、人間に対するコスト同様に地球に対する損害の双方を考慮していた。彼らはGDPのような伝統的な指標に対して直接疑問を投げ掛け、例えば地球幸福度指数のような他の指標を眺めていた[162][163]。彼らは「社会的崩壊、民主主義の崩壊、より急速で激しい環境破壊、新しい病気の蔓延、貧困や疎外の増大といった多数の相互に関連した致命的な結果」[164]を指摘しており、それらがグローバリゼーションの意図されざる結果であると彼らは主張していた。

グローバリゼーションや反グローバリゼーションといった用語はさまざまな方法で用いられており、ノーム・チョムスキーはこう述べていた。

国際的な経済統合の特定の形態、つまり偶発的な利益であり、投資家の権利に基づいたものに言及するために、「グローバリゼーション」という用語は力がある人々にとっては適切なものだった。そういう理由で、より率直に言えば、ビジネス向けの出版物は「自由貿易協定」を「自由投資協定」として言及していた(ウォール・ストリート・ジャーナル)。したがってグローバリゼーションの他の形態の支持者たちは「反グローバリゼーション」として説明され、それは嘲笑を伴いながら却下されるべきプロパガンダの言葉であるけれども、一部は不幸にもこの用語を受け入れてしまってさえいた。つまり正気でない人々がグローバリゼーションつまり国際統合に反対していたと。もちろん国際的な連帯の原則に基づいて設立された左派でもなければ労働運動でもない、それがグローバリゼーションであり、個人的な権力のシステムではなく、人々の権利を尊重する形態に従っていた。

好まれ、たまたま投資家であり、貸し手であった人々の権利に特権を与える国際的な経済統合の特定の形態に言及するために、支配的なプロパガンダのシステムは「グローバリゼーション」という用語を適切なものとして認定していた。この言葉の用法にしたがって、人権に特権を与えるような異なった国際統合の形態を好む人々は「反グローバリスト」と呼ばれるようになっていた。これは、反体制派に言及するために最も嫌われていた共産党の役員によって用いられていた「反ソ連」といった用語のような、単なる品のないプロパガンダに過ぎなかった。それは単に品がないだけでなく馬鹿げていた。プロパガンダのシステムの中で「反グローバリゼーション」と呼ばれる世界社会フォーラムを例にとれば、それは若干の例外はあるにせよメディア、教育を受けた社会階層などを含めて至るところで生じていた。世界社会フォーラムはグローバリゼーションというパラダイムの一例であった。世界経済フォーラムで会合し、プロパガンダのシステムから「グローバリゼーション支持」と呼ばれている極端に狭い分野で高い特権を与えられていたエリートたちから離れて、それは世界中からの多くの人々の集まりだった。火星からこの茶番を見ている傍観者なら、教育を受けた階級のこっけいでヒステリックな笑いにどっと吹き出してしまうだろう[165]。

批評家たちはグローバリゼーションの結末について議論していた。

不利な条件に苦しむ貧困国:自由貿易が各国の間におけるグローバリゼーションを促進することは事実であったが、一部の国々は国内の業者たちを保護しようとしていた。貧困国の主な輸出品は通常農産物であった。大国はしばしば彼らの農家たちに対して補助金を出し(例えばEUの共通農業政策など)、それは外国の作物に対する市場価格を低下させていた[166]。

アウトソーシングへのシフト:グローバリゼーションは企業が製造やサービスに関する仕事を高いコストを支払う地域から移転することを許容しており、最も競争的な賃金や労働者の福利厚生にともなう経済的機会を創出していた[44]。

弱い労働組合:移行過程にある企業の数の増大と重なった安い労働力の余剰は高いコストがかかる地域の労働組合を弱体化させていた。組合への加入が減少していったときに、労働組合はその効率性と組合に対する労働者たちの熱意を失っていった[166]。

児童労働といった搾取の増加:児童に対する保護が弱い国々は児童を搾取する不正な企業や犯罪組織による横行に対して脆弱だった。例として、人身売買、奴隷、強制労働、売春、ポルノ同様に採石業、サルベージ、農作業が挙げられていた[167]。

批評家たちはグローバリゼーションが企業の利益に従って発展してきたと批判していた。また彼らは環境問題同様に貧しい階級や労働階級のための道徳的な主張を行うと考えていたグローバルな機関や政策を擁護していた[168]。

批評家たちは教会のグループ、民族解放派たち、農民組合たち、知識人たち、芸術家たち、保護主義者たち、アナーキストたち、地域回帰を支持する人々(例えば近くで作られた産品を消費することなど)、他を含んでいた。一部は改革主義者であり(より穏健な形の資本主義を主張していた)、一方、他は革命的であるか(民間部門から公共部門へパワーをシフトすること)、反動的であった(民間部門に対する公共部門といった具合に)。

フェアトレードの理論家たちによる経済的な議論は、制限のない自由貿易は貧しい人々を犠牲にしてより大きな資産を保有する人々(豊かな人々)に恩恵を与えるだけであると主張していた[169]。

アメリカナイゼーションは大きなアメリカの政治的影響力、他の国々にもたらされるアメリカの店舗、市場、商品の高い成長力と関連していた。したがってはるかに多様な現象であるグローバリゼーションは多国間の政治、お互いの国々にもたらされる商品、市場などの増大に関連していた。

グローバリゼーションの批評家たちは西洋化のことをよく話していた。2005年のユネスコによるレポート[170]は、文化的交流が東アジアでより活発になっていたが、西欧諸国は依然として文化的商品の主な輸出国であり続けていたことを示していた。2002年に中国はイギリスやアメリカに続く3番目に大きい文化的商品の輸出国になっていた。1994年から2002年にかけて文化的輸出品における北米や欧州連合のシェアは落ち込みを示しており、他方アジアの文化的輸出品は北米を上回る成長を遂げていた。関連する要因としてアジアの人口や地域の広さが北米の数倍であるといったことが挙げられていた。

グローバリゼーションに対する一部の反対者たちはこの現象を企業主義者の利益の拡大として眺めていた[171]。また彼らは企業による支配力と強さの増大が各国の政策を形成していたと主張していた[172][173]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Anti-globalization_movement

反グローバリゼーション運動

反グローバリゼーション運動やカウンター・グローバリゼーション運動[1]はコーポレート・キャピタリズムによるグローバリゼーションに対する批判であった。またこの運動は一般的にグローバル・ジャスティス運動[2]、オルター・グローバリゼーション運動、反グローバリスト運動、反コーポレート・グローバリゼーション運動[3]、新自由主義的なグローバリゼーションに対する運動を指していた。

参加者たちはその批判を多くの関連した考えに基づかせていた[4]。共有されているものは規制を受けない政治力を有する巨大多国籍企業や貿易協定と規制緩和を進める金融市場を通じて行使されるパワーに反対の立場をとっていることであった。表面的に企業は、労働の安全条件や基準、雇用、補償基準、環境保護の原則、国家の立法機関、独立、主権の整合性を犠牲にして、利潤を最大化することを求めていたことで批判されていた。グローバル経済における予期しない変化として認識される最近の展開は「ターボ資本主義」(エドワード・ルトワック)、「市場原理主義」(ジョージ・ソロス)、「カジノ資本主義」(スーザン・ストレンジ)[5]、「病める資本主義」(ジョン・マクマートリー)、「マックワールド」(ベンジャミン・バーバー)として特徴づけられていた。

多くの反グローバリゼーションのアクティビストたちは、民主的な表現、人権の進歩、フェアトレード、維持可能な発展を与えるグローバルな統合の形態を一般的に求めており、そのために「反グローバリゼーション」という用語は誤解を招いていると考えていた[6][7][8]。

1 イデオロギーとその原因

支持者たちは、20世紀後半までには「支配階層のエリートたち」として特徴づけられている人々は自分の利益のために世界市場の拡大を利用しようとするだろうと考えており、ブレトンウッズ体制、国家、多国籍企業の組み合わせから導かれるものが「グローバリゼーション」または「上からのグローバリゼーション」と呼ばれていた。その反応として、さまざまな社会運動が彼らの影響力に疑念を投げかけるために登場し、これらの運動は「反グローバリゼーション」または「下からのグローバリゼーション」と呼ばれていた[9]。

1.1 国際金融機関や多国籍企業への反対運動

一般的に言えば、抗議する人々はグローバルな金融機関やその協定が地域の意思決定方法を損なっていると考えていた。企業は人間である市民が行使できない特権を行使していた。

自由に国境を超え、望むだけの天然資源を採掘し、多様な人的資源を利用していた。

当の国民には不可能な方法で、国の天然資源や生物多様性を永続的に用いた後、彼らは去ることができた。アクティビストたちの目標は、「企業の人格」に対する法的地位を改め、自由市場原理主義や世界銀行、国際通貨基金、世界貿易機関による急進的な民営化の措置を改めさせることにあった。

アクティビストたちは特に、倫理的な基準を顧みない新自由主義を促進していると彼らが述べているグローバリゼーションや国際機関によって継続されていると彼らが考えているさまざまな侵害に対して反対していた。共通のターゲットは世界銀行(WB)、国際通貨基金(IMF)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)と、北米自由貿易協定(NAFTA)、米州自由貿易地域(FTAA)、多数国間投資協定(MAI)、サービスの貿易に関する一般協定(GATS)のような貿易協定を含んでいた。富裕国と貧困国の経済格差に関して、運動の支持者たちは、環境、健康、労働者たちの福利厚生を保護する措置のない「自由貿易」は先進国の権益を強化するだけだろう(しばしば途上国の世界を示す「南」に対して「北」という用語が用いられていたが)と主張していた。

ジャン・ジーグラーによる食糧の権利に関する国連特別報告書は「数百万人の農家たちが途上国における彼らの生活を失っていたが、先進国の小規模農家たちも同様に苦しんでいた」と指摘し、「加盟国間の不平等なパワーのバランスを所与とすると、グローバルな貿易システムに関する現在の不平等はWTOの下で解決されるよりむしろ維持されることになる」と結論づけていた[10]。アクティビストたちは、WTOの内部で、表面的には多くの先進国で制定された農業に関する保護主義政策において、先進国と途上国の間に不平等な立場や権力が存在していると指摘していた。またこれらのアクティビストたちは、国際市場で先進国の農産物に競争力を与えていた農業に対する補助や一部の先進国による輸出補助金の積極的な活用が多くの途上国における農業部門の衰退の主な理由になっていることを指摘していた。

またアクティビストたちはしばしば、世界経済フォーラム(WEF)、トランス・アトランティック・ビジネス・ダイアログ(TABD)、アジア太平洋経済協力会議(APEC)のようないくつかのビジネス連携や、そのような協定や機関を促進している各国政府に反対の意思を表明していた。他は、もし国境が資本に対して開かれているならば、国境は同様に自由や法律の適用と居住地の選択を移民たちや難民たちに許容するために開かれるべきであると主張していた。これらのアクティビストたちは国際移住機関やシェンゲン情報システムのような組織を目標にしていた。

しばしば、アメリカはドルの優位性によってグローバル経済に対して特別に有利な条件を保持しており、ドルの支配は単なるアメリカ経済の優位性の結果ではないといったことが主張されていた。グローバリゼーションをテーマにする歴史家たちは、ドルの支配は、ブレトン・ウッズ協定や、アメリカが金本位制を維持できなくなった後、ドルによってのみ石油を取引できるOPECのような政治的協定によって達成されてきたと主張していた。

1.2 新自由主義に対するグローバルな反対運動

経済協力開発機構(OECD)が多数国間投資協定(MAI)を通じて国境を超えた投資や貿易制限の自由化を提案した際に、インターネットを通じて、運動は1990年代に広く明らかにされていた新自由主義のドクトリンに対する反対を展開し始めていた。この条約は途中で公衆の監視にさらされ、国内及び国際的な市民社会の代表者たちによる激しい抗議や批判に直面して、結果として1998年11月に放棄された。

新自由主義のドクトリンは、制約を受けない自由貿易や公共部門による規制の縮小が貧困国や先進国の恵まれない人々に恩恵をもたらすだろうと主張していた。反グローバリゼーションの支持者たちは、もし必要な措置が自由化に対して取られないならば、自然環境、人権(特に職場での権利や状態)、民主的機関の保護がグローバリゼーションによる過度のリスクにさらされる可能性があると主張していた。2002年にノーム・チョムスキーはこう述べていた。

国際的な経済統合の特定の形態、つまり偶発的な利益であり、投資家の権利に基づいたものに言及するために、「グローバリゼーション」という用語は力がある人々にとっては適切なものだった。そういう理由で、より率直に言えば、ビジネス向けの出版物は「自由貿易協定」を「自由投資協定」として言及していた(ウォール・ストリート・ジャーナル)。したがってグローバリゼーションの他の形態の支持者たちは「反グローバリゼーション」として説明され、それは嘲笑を伴いながら却下されるべきプロパガンダの言葉であるけれども、一部は不幸にもこの用語を受け入れてしまってさえいた。つまり正気でない人々がグローバリゼーションつまり国際統合に反対していたと。もちろん国際的な連帯の原則に基づいて設立された左派でもなければ労働運動でもない、それがグローバリゼーションであり、個人的な権力のシステムではなく、人々の権利を尊重する形態に従っていた[11]。

2005年6月のインタビューの中でチョムスキーはこう述べていた。

好まれ、たまたま投資家であり、貸し手であった人々の権利に特権を与える国際的な経済統合の特定の形態に言及するために、支配的なプロパガンダのシステムは「グローバリゼーション」という用語を適切なものとして認定していた。この言葉の用法にしたがって、人権に特権を与えるような異なった国際統合の形態を好む人々は「反グローバリスト」と呼ばれるようになっていた。これは、反体制派に言及するために最も嫌われていた共産党の役員によって用いられていた「反ソ連」といった用語のような、単なる品のないプロパガンダに過ぎなかった。それは単に品がないだけでなく馬鹿げていた。プロパガンダのシステムの中で「反グローバリゼーション」と呼ばれる世界社会フォーラムを例にとれば、それは若干の例外はあるにせよメディア、教育を受けた社会階層などを含めて至るところで生じていた。世界社会フォーラムはグローバリゼーションというパラダイムの一例であった。世界経済フォーラムで会合し、プロパガンダのシステムから「グローバリゼーション支持」と呼ばれている極端に狭い分野で高い特権を与えられていたエリートたちから離れて、それは世界中からの多くの人々の集まりだった。火星からこの茶番を見ている傍観者なら、教育を受けた階級のこっけいでヒステリックな笑いにどっと吹き出してしまうだろう[12]。

1.3 反戦運動

2002年までに運動の大部分が差し迫ったイラク侵略に広く反対していた。多くの参加者たちは、2003年2月15日の週末に差し迫ったイラク戦争に対するグローバルな抗議に参加し、ニューヨーク・タイムズの社説によって「世界第二位のスーパーパワーと呼ばれた1,100万人以上の抗議者たちに含まれていた[13]。他の反戦運動は、例えばイタリアのフィレンツェで2002年11月に開かれた最初のヨーロッパ社会フォーラムを締めくくった差し迫ったイラク戦争に対するデモのような反グローバリゼーション運動によって組織されていた[14]。

多くの民主主義国家(スペイン、イタリア、ポーランド、イギリス)の指導者たちがこの戦争を支持するようにその国民の大多数の意思と反対に行動していたので、反グローバリゼーションの過激派たちは民主的な制度を適切に機能させることに対して不安を抱いていた。チョムスキーは、これらの指導者たちは「民主主義に対する彼らの軽蔑の念を示していた」と主張していた。このタイプの議論に関する批評家たちは、これは代表民主制に対するありふれた批判に過ぎず、民主的に選ばれた政府は現在の民衆による最大の支持にしたがって常に行動する訳ではなく、これらの国々が議会民主制であることを所与としても指導者たちの立場に関して論理的矛盾が存在する訳ではないことを指摘する傾向にあった。

経済と軍事の諸問題は運動に関わっていた多くの人々にとって密接に結びついていた。

1.4 用語の適切さ

多くの参加者たち(上記のノーム·チョムスキーからの引用を参照せよ)は「反グローバリゼーション」という用語が誤った呼称であると考えていた。この用語はその支持者たちが保護主義やナショナリズムを支持しており、それは常に実情を反映したものではなく、事実反グローバリゼーションの一部の支持者たちはナショナリズムと保護主義の双方の強い反対者であり、例えばノー・ボーダー・ネットワークは制約を受けない移民やあらゆる国境管理の廃止を主張していた。S・A・ホセイニ(オーストラリアの社会学者でありグローバルな社会運動の研究における専門家である)は、反グローバリゼーションというこの用語は3つの他の洞察(反グローバリスト、オルター・グローバリスト、オルター・グローバリゼーション)に沿って見出される唯一のイデオロギー上の洞察に言及するときのみ通常理想的に用いられる可能性があると主張していた[15]。彼は、後者の3つの通常用いられている理想的な洞察はグローバル・ジャスティス運動の下に分類される可能性があると主張していた。彼によれば、最初の2つの洞察(オルター・グローバリズム、反グローバリズム)がそれぞれ現在のグローバリゼーションを背景にした新旧の左派イデオロギーを再構築した形態を表している一方、3番目のもののみが今日のグローバルな複雑さに対する知的必要条件により効果的に対応する能力を示していたと主張していた。ホセイニによる調節可能な正義[16]、コスモポリタニズムに向けた新しいアプローチ(コスモポリタニズムを横断している)、アクティビストの知識に関する新しい様式(調節可能な意識)、連帯または相互に影響し合う連帯と裏表の関係にある正義に対する新しい考え方がこの洞察の背後に存在していた。

「反グローバリゼーション」という用語は国際的に左派に属する反グローバリゼーションの立場を厳格なナショナリストの視点による反グローバリゼーションの立場と区別していなかった。フランス国民戦線のような多くのナショナリストによる運動は、グローバリゼーションに反対しているが、グローバリゼーションに代わるものは批評家によれば時として明示的に人種差別用語やファシストの用語を用いているが国民国家の保護であると主張していた。またサードポジションによって影響された他のグループ反グローバリゼーションとして分類されていた。しかし彼らの世界観の全体像はピープルズ・グローバル・アクションのようなグループやANTIFAのような反ファシストグループによって拒否されていた。

著名なデビッド・グレーバーのようなアクティビストたちは運動を新自由主義や「コーポレート・グローバリゼーション」に反対するものとして眺めていた。彼は、「反グローバリゼーション」という用語はメディアの造語であり、過激なアクティビストたちはIMFやWTO以上に「国境を喪失させ、人、財産、アイデアを自由に移動させる」意味でグローバリゼーションに実際に賛成していたと主張していた。また彼は、用語の混乱といった意味で、アクティビストたちは「グローバリゼーション運動」や「反グローバリゼーション運動」といった用語を同じ意味で用いていたと記していた[17]。「オルター・グローバリゼーション」という用語はこれを明確に区別する意味で用いられていた。

「反グローバリゼーション」という用語は自由貿易協定(それはしばしば「グローバリゼーション」と呼ばれている何かの一部として考えられている)に対する反対運動から生じている一方、さまざまな参加者たちは、彼らがグローバリゼーションのある側面に対してのみ反対しており、その代わりに彼ら自身を少なくともフランス語圏の組織では「反資本主義者」、「反財閥」、「反企業」として説明していたと主張していた。ル・モンド・ディプロマティークの編集者であるイグナシオ・ラモネによる「一方通行の思想」(独特の思想)といった表現は新自由主義に基づいた政策やワシントン・コンセンサスに対するスラングになっていた[18]。

この運動のために共通の用語を見出すために2つの主なアプローチが区別されることが可能であり、1つは「反グローバリスト」や「地域主義者」として説明され、もう1つは(新自由主義経済のような)他を否定する一方(国境を超えた情報の交換や国民国家の役割の消失のような)グローバリゼーションのいくつかの側面を含んでいた。双方のアプローチに対する支持者たちはしばしば協力し、同じ現象に対して1つの反応を示していたけれども、彼らの違いは共通の背景以上に実際には大きいものだった。前者のアプローチは(通常文化の「アメリカナイゼーション」として認識されるものを含む)率直な反グローバリストとして説明される一方、後者は「グローバリゼーションに対する批評家たち」とより適切に呼ばれているかもしれなかった。しかし実際にはこれらのアプローチの間に明確な境界は存在せず、「反グローバリゼーション」という用語はしばしば区別されないで用いられていた。

グローバル・ジャスティス運動は「運動の運動」としてしばしば言及される個人やグループのゆるやかな集合を示しており、彼らはフェアトレードの原則を主張し、世界貿易機関のようなグローバル経済における現在の国際機関を批判していた。この運動はしばしば主流派メディアによって「反グローバリゼーション」としてレッテルを貼られていた。しかし関係者たちはしばしば彼らが「反グローバリゼーション」の立場にあることを否定しており、彼らはコミュニケーションや人のグローバリゼーションを支持しており、企業の力のグローバルな拡大に対してのみ反対していると主張していた。さらにこの用語は反資本主義者や普遍主義者を示しており、政治が国家の主権を保守的に防衛することに基づいているといった意味でグローバリゼーションに反対する人々とこの運動は区別されていた。参加者たちは世界中の学生によるグループ、NGO、労働組合、信仰に基づくグループ、平和団体を含んでいた。しかし運動が北半球のNGOによって圧倒的に支配されていることや、南半球で人気のある組織がシステマティックに周辺化されていることは明白であった。

1.5 影響

いくつかの影響力のある批判的な作品が反グローバリゼーション運動にインスピレーションを与えていた。多国籍企業による製造現場や大衆文化におけるブランド主導型のマーケティングが世界中に氾濫していることを批判したカナダのジャーナリストであるナオミ・クラインによる著作である『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』は運動の「マニフェスト」[19]になり、他の作品でより正確に展開されたテーマを単純な方法で示していた。インドでは運動に対する知的関心はエコロジストでありフェミニストであるヴァンダナ・シヴァの作品の中に見出すことができ、『バイオパイラシー――グローバル化による生命と文化の略奪』の中で、先住民やエコリージョンが保有する自然資本が、私的利用を共有せずしたがって簒奪される独占的な商業的財産として認識される知的資本の形態に転換される方法を彼女は示していた。作家であるアルンダティ・ロイは反核といった立場や世界銀行によって支援された巨大な水力発電ダムのプロジェクトに反対する活動で有名であった。フランスではよく知られた月刊紙であるル・モンド・ディプロマティークが反グローバリゼーションの立場を支持しており、その元編集総長であったイグナシオ・ラモネはATTACの創設をもたらしていた。またトランスナショナル研究所のスーザン・ジョージは1986年から飢餓、債務、国際金融機関、資本主義に関する彼女の著作を通じて、この運動に対して長期にわたる影響を与え続けてきた。ジャン・ジーグラー、クリストファー・チェイス=ダン、イマニュエル・ウォーラーステインの著作は資本主義体制によって支配された世界における低開発と依存について解説していた。ノーム・チョムスキー、スーザン・ソンタグ、反グローバリストであるイエス・メンのようなアメリカの外交政策に対する批評家たちは広くこの運動の内側に受け入れられていった。

彼らは彼ら自身を反グローバリストとして認識せず資本主義を擁護していたかもしれなかったけれども、一部の経済学者たちは国際経済機関による新自由主義的なアプローチがこの運動に強い影響を及ぼしていたことを共有しようとしなかった。アマルティア・センの『自由と経済開発』(1999年にノーベル経済学賞を受賞)は、第三世界の発展は単に1人あたりの国民所得の増加ではなく、人間の潜在能力の拡大として理解されねばならず、したがって単にGDPと結びつけるのではなく、健康や教育に結びついた政策が必要とされていると主張していた。金融取引に関する課税(彼に因んでトービン税と呼ばれている)を提案したジェームズ・トービン(ノーベル経済学賞受賞者)はこの運動の目標の一部を形成していた。

ジョージ・ソロス、ジョセフ・E・スティグリッツ(ノーベル経済学賞受賞者、元世界銀行上級副総裁、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』の著者)、デビッド・コーテンは、債務救済、土地改革、企業の説明責任のシステムを再構築することを目的とした大幅な透明性の改善について議論を行なっていた。コーテンやスティグリッツのこの運動に対する貢献は直接行動や街角での抗議に関与していたことを含んでいた。

マック名誉毀損事件のような注目された出来事は社会、労働関係、環境(マクドナルドの事件において)における多国籍企業の影響に対する懸念を強調していた。

イタリアのようなローマカトリック諸国では、特に長期にわたって第三世界に滞在していた宣教師(最も有名な人としてアレックス・ツァノテルリなど)からの宗教的影響が存在していた。

インディメディアのようなインターネットソースやフリーな情報サイトはこの運動のアイデアを拡散するための手段になっていた。現在インターネット上で利用できる精神的な運動、アナーキズム、リバタリアンの社会主義、緑の運動に関するマテリアルの幅広い存在はおそらく印刷物以上の影響力を有していた。アルンダティ・ロイ、スターホーク、ジョン・ゼルザンによる世に知られていない以前の著作は特にフェミニズム、コンセンサスのプロセス、政治からの離脱を支持する批判に影響を与えていた。

2 組織

過去数十年以上(資本主義者による)グローバリゼーションに対するグラスルーツによる代替案の再構築が強調されていたけれども、運動における最大のそして目に見える組織化の方法は直接行動や市民の抵抗といった集団的ではあるが中心を欠いたキャンペーンのままであった。時としてピープルズ・グローバル・アクション・ネットワークの旗の下にこの組織化の方法は多くの散り散りになった仲間たちを1つのグローバルな運動の中に結びつけようとしていた。多くの点で全体的な問題を組織化するプロセスは明白な目標や運動の成果を達成すること以上にアクティビストたちにとって重要になっていた。

企業のサミットに関して、大半のデモの明示された目標はその手続きを停止させることだった。デモは実際のサミットの時間を遅らせたり、不都合を生じさせたりする以上の成功をめったに収めることはなかったけれども、この活動は人々に動機を与え、目に見える短期の目的を与えていた。批評家たちは、この手の宣伝活動は警察の手を煩わせ、公共部門の支出を招くだけだと主張していた。この運動は多くの人々によって支持されていないけれども、暴動がジェノバ、シアトル、ロンドンで発生し、大きな損害が地域やマクドナルドやスターバックスを含む特に目標とされた企業に対して生じていた。

公式の調整機関を有していないにも関わらずもしくはそれ故かもしれないが、運動はグローバルな背景に基づいて大規模な抗議者たちを組織することに成功しており、情報を拡散し組織するために情報技術を活用していた。抗議者たちは彼ら自身を「アフィニティ・グループ」として組織し、それは通常近くに居住し共通の政治的目標を共有している人々による階層化されていないグループを示していた。それからアフィニティ・グループは企画会議に代表を送り込んでいた。しかしこれらのグループは法執行機関の諜報員を送り込まれる可能性を有していたので、抗議活動の重要な計画はしばしば直前までなされなかった。抗議活動の共通の戦術は法に触れる意思に基づいたとき抗議活動を分裂することだった。これは法の施行にともなう対立による物理的なそして法的な危険を回避するために成功を収めてきた方法であった。例えばプラハでの2000年9月の反IMF、反世界銀行デモは3つの明確に区別できるグループに分裂しており、1つは市民による抵抗のさまざまな形態に関わっており(イエローの行進)、1つ(ピンクもしくはシルバーの行進)は「戦術的な軽薄性」を伴いながら行進しており(仮装、ダンス、演劇、音楽、視覚表現)、1つ(ブルーの行進)は街路から小石を投げながら棍棒をもった警察と暴力的な摩擦を引き起こしていた[20]。これらのデモは彼ら自身の小規模な社会に類似していた。多くの抗議者たちは応急処置の訓練を受け、他の負傷者たちに対して衛生兵のように振舞っていた。アメリカでは、 全国法律家ギルドや、やや小規模であるが、アメリカ自由人権協会のようないくつかの組織が法執行機関の対立の場合に法的な証人を立ち会わせていた。抗議者たちはしばしば主要なメディアが適切に彼らを報じないと主張し、そのために彼らの一部は活動を報告する抗議者たちの集合体である独立メディア・センターを創設していた。

3 重要なグラスルーツに基づく組織

南アフリカのアブハラリ・バスエムジョンドロ
メキシコのEZLN
ハイチのラヴァラの家族
ブラジルのホームレス労働者運動
南アフリカの無産者運動
ブラジルの土地なし農民運動
アメリカのバリオの正義運動
アメリカのグラスルーツ・グローバル・ジャスティス
インドのナルマダを救う運動
南アフリカの西ケープ州立ち退き反対運動

4 デモとグループ

4.1 ベルリン88

1988年にベルリンで開催された国際通貨基金(IMF)や世界銀行の年次総会(当時はドイツ連邦共和国の一部であった都市で)は反グローバリゼーション運動の前身として分類される強い抗議活動を経験していた[21]。主要なそして失敗に終わった目的の1つは(将来においても度々そうであったが)会合を脱線させることであった[22]。

4.2 マドリード94

1994年10月にマドリードで開催されたIMFや世界銀行の50周年記念は後に反グローバリゼーション運動と呼ばれるアドホックな連合による抗議活動を経験していた。彼らは外部から銀行家たちを批判しており、「50年は長すぎた」をモットーにした他の公的な会合を開催していた。スペイン国王であるフアン・カルロスが巨大な会場にいる参加者たちに対して演説を行なっている一方、グリーンピースのアクティビストたちは会場の真上に登り、「オゾン層を破壊するドルはもうごめんだ」といったスローガンとともに、銀行家たちの上に偽のドル札をばら撒いていていた。多くのデモの参加者たちは悪名高いカラバンチェル刑務所に送られていた。

4.3 J18

最初の国際的な反グローバリゼーション抗議活動の1つは1999年6月18日に世界中の都市でロンドンやオレゴン州のユージーンでの抗議がしばしば最も引用されるが組織されていた。運動は資本に対するカーニバルまたはJ18フォー・ショートと呼ばれていた。ユージーンでの抗議活動は暴動に変わり、地元のアナーキストたちは小さな公園から警察を追い出していた。あるアナーキストであるロバート·サックストンは逮捕され、警察官に対して石を投げたことにより有罪判決を受けていた。

4.4 シアトルN30

ワシントン州シアトルでWTOの会議場へ向かう代表団の入り口を封鎖したときに、N30として知られる運動の中でも2番目に大きい規模の動員が1999年11月30日に生じていた。抗議活動は開会式をキャンセルさせ、会合が予定されていた期間である12月3日まで続いていた。アメリカ労働総同盟・産業別組合会議のメンバーによる大規模な許可を受けた行進やコンベンションセンター周辺に集まっていたさまざまな類縁団体による他の許可を受けていない行進が見受けられていた[23][24]。警察が、路上を封鎖し、散会することを拒んだデモ隊に対して催涙ガスを発射した後、抗議者たちとシアトルの機動隊が路上で衝突した。600人以上の抗議者たちが逮捕され、数千人が負傷した[25]。3人の警官が警官自身の発砲によって、1人が投石によって負傷した。一部の抗議者たちは大規模なナイキの店舗や多くのスターバックスの窓のようなターゲットにされている企業に関連したビジネス商店街の窓を破壊していた。市長は戒厳令同様の体制をしき、外出禁止令を宣言した。2002年に現在係争中の集団訴訟に関しシアトル市は暴行や不当逮捕についてシアトル市警に対して提起された訴訟の和解で20万ドル以上を支払っていた。

4.5 ワシントン A16

2000年4月に1万人から1万5千人ほどの抗議者たちがIMFや世界銀行に対してデモを行った[27][28][29]。グローバリゼーションに関する国際フォーラム(IFG)はファウンドリー合同メソジスト教会でトレーニングを行なっていた[30]。警察はフロリダ通りの集会用倉庫を捜索し[31][32][33]、678人の人々が逮捕された[34]。3度ピューリッツァー賞を受賞したワシントン・ポストのカメラマンであるキャロル・グージーは警察に拘留され、4月15日に逮捕され、またAP通信の2人のジャーナリストたちが警察から警棒で叩かれたと報告していた[35]。訴訟は不当逮捕を巡って行われた[36]。2009年11月に訴訟は1,300万ドルの損害賠償によって和解に持ち込まれた[37][38][39]。

4.6 ワシントン G-7 IMF

2002年9月に抗議活動のグループはアンチキャピタリスト・コンバージェンス、モビリゼーション・フォー・グローバル・ジャスティスを含んでいた[40]。649人の人々が逮捕されたと伝えられ、5人が器物損壊で起訴され、他は許可なしに行進したことや、解散せよとの警察の命令に従わなかったことにより起訴されていた[41][42]。また少なくとも17人の記者たちが検挙されていた[43][44]。抗議者たちは逮捕について連邦裁判所に提訴していた[45]。コロンビア特別区の司法長官は外部の弁護士に明白な証拠の損壊を調査させ[46][47]、法廷による調査が継続し[48][49][50]、警察長による宣誓証言が行われた[51]。集団訴訟の和解は約825万ドルに及ぶと公表されていた[52]。

4.7 法執行機関の対応

地元警察はN30の規模に驚いていたけれども、それ以来世界的に法執行機関は、数の力、計画を決定づけるためにグループに潜入すること、抗議者たちを排除するために力を利用するための準備を含む多様な戦術によって将来の妨げを防止しようと対応してきた。

一部の抗議者たちに対して警察は抗議者たちを追い払うために、催涙ガス、ペッパー・スプレー、脳震盪手榴弾、ゴムや木製の弾丸、警棒、放水銃、犬、馬などを利用していた。祝祭的な抗議を意図していたことによって多くの抗議者たちが叩かれ踏みにじられ逮捕された2000年11月のモントリオールでのG8に対する抗議の後、抗議活動を「グリーン」(許可されている)、「イエロー」(公式には許可されていないが、ほとんど対立がなく、逮捕のリスクが低い)、「レッド」(直接の対立に巻き込まれる)といったゾーンに分割する戦術が導入されていた。

ケベックではアメリカのサミットが開催される都市の周りに3メートル(10フィート)の高さの壁を築き、住民、サミットの参加者たち、特別に認定されたジャーナリストたちのみが通行を許可されていた。

4.8 ジェノバ

2001年7月18日から22日にかけてのジェノバ・グループ・オブ・エイト・サミットによる抗議活動は近年の西欧の歴史上最も流血に見舞われた抗議活動の1つであり、警官や自宅に閉じ込められた市民に対する数百人に及ぶ負傷や、警察車両に消火器を投げ込もうとしている間に銃で顔面を打ち抜かれた若いジェノバのアナーキストであるカルロ・ジュリアーニの死によって示されるように、抗議者たちによる一貫して平和的な集会には無関心な人々によって支持された過激なグループによる暴力や暴動にまで発展した2日の間に、幾人もの平和的なデモ参加者たちの入院が生じていたことが指摘されていた。法執行機関の隊列とあらゆる年代や背景を有する平和的な抗議者たちの影に繰り返し隠れていたさらに暴力的で残忍な過激な抗議者たちとの間に生じた衝突によって引き起こされた二次的な被害が示すように、その後警察は暴力的でない抗議者たちに対する残虐行為、拷問、干渉行為によって非難されていた。数百人の平和的なデモ参加者たち、暴動者たち、警官が負傷し、数百人がG8の会議場周辺で数日間の内に逮捕され、逮捕者の多くはイタリアの反マフィア、反テロリスト法の下における「犯罪組織」のいくつかの形式で起訴されていた。捜査が暴力的な抗議者たちに対して一貫して行われなかったのは主に、その多くがマスクを被っており身元確認が困難であったことと共産党や現在のロマーノ・プローディ首相のような左派政党によって議会が支配されているためであった。

8年が経過し、主に車の衝突、店に対する放火、銀行強盗、人や物に対して損傷を負わせる重く尖ったものの使用のように暴動者たちによって引き起こされた多くの損傷からジェノバの都市は回復しようとしていた。

継続する調査の一環として、社会センター、メディア・センター、組合の建物、法律事務所に対する警察の捜査はジェノバでのG8サミット以来イタリア全土で行われていた。G8サミットの間ジェノバにいた警察官や当局者たちの多くは現在イタリアの判事たちによって調査の対象とされており、彼らの一部は辞職していた。

4.9 国際社会フォーラム

2001年に行われた最初の世界社会フォーラム(WSF)はオデッド・グラジュー、チコ・ウィテカー、バーナード・カセンのイニシアチブによるものだった。それはポルト・アレグレという都市(そこで開催された)とブラジル労働者党によって支援されていた。その動機は同時期にダボスで行われていた世界経済フォーラムに対抗することにあった。WSFのスローガンは「もう1つの世界は可能だ」であった。国際評議会(IC)がWSFに関する主要な問題を議論し決定するために設立され、一方開催国の地元組織委員会はそのイベントの実際の準備のために責任を担っていた[53][54]。2001年6月にICは世界社会フォーラム憲章の原則を採択し、それは国際的な、国内的な、地元の社会フォーラムに対するフレームワークを世界的に提供していた[55]。

WSFは定期的な会合となり、2002年と2003年にそれは再びポルト・アレグレで開催され、アメリカによるイラク侵略に対する世界的な抗議活動の終結点になっていた。2004年にそれはムンバイ(以前のインドのボンベイとして知られている)に移動し、アジアやアフリカの住民に対してより利用しやすいものにしていた。この会合は7万5千人の参加者を迎えていた。2006年にそれは3つの都市、カラカス(ベネズエラ)、バマコ(マリ)、カラチ(パキスタン)で開催された。2007年にこのフォーラムはナイロビ(ケニア)で開催された。2009年にこのフォーラムはブラジルに戻り、ベレンで開催された。2011年にこのフォーラムはダカール(セネガル)で開催される予定である。

新自由主義に反対する組織や個人のための会合を創設するといった考えはすぐに他の地域で再現されるようになった。最初のヨーロッパ社会フォーラム(ESF)は2002年11月にフィレンツェで開催された。そのスローガンは「戦争反対、人種差別反対、新自由主義反対」であった。会合は6万人の参加者を迎え、戦争に反対する大規模なデモで終わった(主催者によれば100万人規模だった)。次のESFはパリ(2003)、ロンドン(2004)、アテネ(2006)、マルメ(2008)で開催された。その次のESFは2010年にイスタンブールで開催される予定である。

多くの国々で国や地元レベルの社会フォーラムが開催されていた。

最近社会フォーラムについて運動の背後でいくつかの議論があった。ある人々はそれらをグローバリゼーションの問題に気付かせてくれる機会となる「人気のある大学」として眺めていた。他方は参加者たちが彼らの労力を協調、運動組織、新しいキャンペーンの計画に集中させることを好ましく考えていただろう。しかし、支配された国々(世界の大半)においてWSFは先進国のNGOや寄付者たちによって運営される「NGOフェアー」でしかなく、彼らの大半は貧困層に対する運動の人気に対して敵意を抱いていることがしばしば議論されていた[56]。

5 批判

反グローバリゼーション運動は政治家たち、保守的なシンクタンク、多くの主流派エコノミストたちによって批判されていた[57]。

5.1 実証的データの不在

批評家たちは、実証的データは反グローバリゼーション運動の視点を支持していないと主張していた。これらの批評は、推奨されているグローバリゼーション、資本主義、経済成長の結果であると解釈される統計的なトレンドに対して行われていた。

東アジアにおいて(インフレーションや購買力によって調整されているが)、1日あたり1ドル以下で生活している途上国の人々のパーセンテージは絶対的に減少しているとの指摘が存在していた。また劣ったガバナンスの結果であり、グローバリゼーションにそれからそれほど影響を受けていないサハラ以南のアフリカでは貧困の増大が見受けられ、他方世界の他の地域ではその割合に変化は見受けられなかった[58]。

世界の1人あたりの所得は記録された他の期間よりも2002年から2007年の間にはるかに増加していた[59]。

普通選挙権の拡大は1900年の対象国なしから2000年の全ての国々における62.5%の割合にまで上昇していた[60]。

清潔な水にアクセスできる人口の割合同様に、1人あたりの電力、車、ラジオ、電話に対しても同様のトレンドが存在していた[61]。しかし14億人の人々がまだ清潔な飲料水なしで生活しており、世界人口の26億人が適切な衛生設備に対するアクセスを欠いていた[62]。世界で最も貧困な国々において清潔な水に対するアクセスは実際減少しており、しばしばこれらの国々はグローバリゼーションに関与していなかった[63]。

反グローバリゼーションのメンバーは、グローバリゼーション擁護のスローガンである「成長は貧困層にとって良いことである」は意図的に誤解を招いていると主張していた。彼らは、グローバリゼーションや資本主義と矛盾しない新自由主義的な政策は実際に貧困層に恩恵をもたらし、危機的な状況を改善する成長の原因になっていないかもしれないと主張していた。また一般的に言えば1950年から1975年のデータを含み、それはグローバリゼーションに関連した新自由主義的な改革の始まりより以前のことであるため、現実以上にグローバリゼーションに対する統計を良い数字に変えていたことを理由にして、彼らは、平均寿命、子供の死亡率、識字率のようなグローバリゼーション推進派の議論に付随する期間の問題を取り上げていた。

同様に彼らは、中国のような新自由主義的な政策を無視していた国々からの肯定的なデータを含めていたことがグローバリゼーション擁護者たちが主張する証拠に対する信頼性を失わせていたと主張していた。例えば1人あたりの所得の伸びといったパラメーターに関して、開発経済が専門であるハジュン・チャンは、最近20年のデータを考慮すると、新自由主義的な政策を継続するための主張は「単純に支持できない見解」であったと主張していた。そして「私たちが用いるデータに依存しているが、大雑把に言えば、途上国における1人あたりの所得は1960年から1980年にかけて年率で3%成長していたが、1980年から2000年にかけて約1.5%しか成長していなかった」と主張していた。さらに「先進国によって推進されていた自由貿易や産業政策を採用しなかったインドや中国を除外すれば、この1.5%という数字は約1%にまで低下するだろう」と言われていた[64]。ジャグディーシュ・バグワティーは中国やインドを開放する改革が1980年代や1990年代の高い成長に貢献していたと主張していた。1980年代から2000年まで彼らのGDPはそれぞれ平均して10%もしくは6%の成長を示していた。これは、1978年の28%から1998年の9%に中国で貧困が減少し、1978年の51%から2000年の26%にインドで貧困が減少していたことによるものだった[65]。ヘリテージ財団によれば、経済の自由化が小規模であっても劇的にプラスの効果を生むだろうといったことを予測していたミルトン・フリードマンによって中国の発展は予想されていた。中国経済はその経済的自由とともに成長していた[66]。企業によって導かれるグローバリゼーションに対する批評家たちは世界銀行の統計で用いられている方法論に対して懸念を表明しており、貧困を測定するさらに詳細な変数が研究されるべきであると主張していた[67][68]。経済政策研究センター(CEPR)によれば、1980年から2005年までの期間は経済成長、平均寿命、乳幼児死亡率、教育に対する改善といった点で停滞を示していた[69]。

5.2 組織の欠点

運動に対する最も一般的な批判の1つは単に、その批判から必然的に生じている訳ではないが、反グローバリゼーション運動が首尾一貫した目標を欠いており、抗議者たちの見解がしばしばお互いに対立していたことだった[70]。運動の多くの参加者たちは同様にこのことに気が付いており、共通の対立軸を有している限り、例え彼らが正確に同じ政治的ビジョンを共有していなくても、共に歩むべきであると主張していた。作家であるマイケル・ハートとアントニオ・ネグリは『<帝国>グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』の中で統合されない多数派つまり人間は共有された背景を理由にしてともに歩むが、「人」といった考え方に対して完全な同一性を保有することがないといった考えを拡張していた。

5.3 最良のオプションの欠落

反グローバリゼーション運動に対する反対者たち(特にエコノミスト誌)によってしばしばなされる主張の1つは、第三世界の農民たちの間にある貧困の主要な理由の1つは富裕国や貧困国によって課されている貿易障壁であるといったことだった。そのため実際に第三世界の窮状に関心を抱いている人々は自由貿易に対して抵抗するよりも自由貿易を促進するべきであることが主張されていた。また彼らは、第三世界の人々が二番目に良いオプション以上に良いオプションを有していないなら、いかなる仕事を得ることもないだろうと主張していた。したがってもし第三世界で生活している人々が一番良いオプションを奪われるならば、彼らの生活は一層悪化するだろうといったことが主張されていた。他が同じであると仮定して、合理的な人が厳密に言えばさらに多くのオプションを保有し裕福になるといった解釈に従っているので、反グローバリゼーションの支持者たちは合理性の仮定を外すか、グローバリゼーションは負の外部性(環境汚染)を生み出し、より良いオプションを除外する(例えば、投資は競合する伝統的な方法以外の工場生産を促進している)やり方で市場に変更をもたらすかのいずれか一方である可能性が存在していた。他方でグローバリゼーションの支持者たちは正の外部性や改善された効率が困窮した人々に対してより良いオプションを生み出すと主張していた。

資本主義に対する多くの支持者たちは、反グローバリゼーション運動によって必然的に支持される政策ではないけれども、今日の政策と異なった政策が追求されべきではないと考えていた。例えば一部の人々は、一切改革を行わない独裁者たちに繰り返し融資を行う腐敗した官僚として、世界銀行やIMFを眺めていた。エルナンド・デ・ソトのような一部の人々は、第三世界の貧困の多くは欧米の法制度や明確に定義され普遍的に認識されている財産権の欠如を理由にしていると主張していた。デ・ソトは、法的障壁のために、これらの国々で困窮している人々はより多くの富を生み出すために彼らの資産を活用することができないでいると主張していた[71]。

5.4 広範囲にわたる「第三世界」の支持の欠如

批評家たちは、グローバリゼーションに対する最大の反対は豊かな「先進国」のアクティビストたち、労働組合、NGOから生じている一方、貧困国(第三世界)の人々はグローバリゼーションを比較的受け入れ、賛同を示していると主張していた。『グローバリゼーションの神話』の著者であるアラン・シップマンは反グローバリゼーション運動を「途上国の工場に疎外や搾取をシフトすることによって欧米の階級闘争を拡散している」と非難していた。彼は後に、反グローバリゼーション運動は第三世界で困窮している人々や労働者からの広範囲にわたる支持を集めることに失敗しており、「その最も大きくて理解できない批評家たちは常に守ろうとしている雇用からの解放を願う労働者たちだった」と主張していた[72]。

これらの批評家たちは、第三世界の人々は反グローバリゼーション運動を彼らの仕事、賃金、消費のオプション、生活に対する脅威として眺めており、グローバリゼーションの中断や逆行は貧困国の多くの人々により大きな貧困を残すだけであると主張していた。元メキシコ駐米大使のジェスス・F・レイズ・ヘロエスは「私たちのような貧困国では、低賃金労働の代わりは支払いの良いものではなく、全く仕事がない状況だった」と述べていた[73]。

エジプトの国連大使は同様に「疑問は、なぜ突然そしていつ第三世界の労働が競争力をもっていると認識されるようになったのか、なぜ先進国は私たちの労働者たちに対して懸念を感じるようになったのか、いつ私たちの労働者たちの福利厚生が問題とされるようになったのかにあり、それは疑問のままである」と述べていた[74]。

他方で、タネの特許に抗議するインドの農民のように、第三世界の労働者たちによってある特定のグローバリゼーションを目指した政策に対して顕著な抗議活動が続けられていた[75]。

ウェントは国家システムがアナーキーな状況の中にあるといったリアリストによる仮定を共有していたが、核となる権威の不在によって生存のために国家がホッブズの闘争の中に留まったままであることを否定していた。そして暴力的な競争は国家システムが作り出すものの1つに過ぎず、それはネオリアリズムが有する物質主義を相対化することによる結論であった。

なぜ一極集中の国際システムは勢力均衡の意味での対立極を生み出さないのかについて決定的な説明を与えることができなかったため、冷戦の終結以後、国際関係論における優勢なパラダイムであったネオリアリズム(もしくはケネス・ウォルツの著作を引用するリアリストたちや構造主義者たち)はコンストラクティビストによるパラダイムの出現によって影響を受けるようになっていた。

アナーキーは安全を確保するために競争することを国家に強いると主張するネオリアリズムの原理に対してウェントは疑問を投げかけており、システムが闘争的か平和的かといった事実はアナーキーやパワーに依存せず、共有される文化に依存しているとされており、アナーキーは永続的な論理ではなく、歴史上異なった文化的形態を示していた。

ラショナリストたちの理論(ネオリベラリズムやネオリアリズム)と反対に、コンストラクティビズムはアクターたちが自身を定義する方法(彼らが誰であり、利益は何であり、目標を達成するためにどうするか)を形成する理想的な構造にフォーカスしていた。

コンストラクティビストにとって、アクターの現実が常に歴史的に構成されていることを認識することは不可欠であり、その現実は人間の活動の産物であり、少なくとも理論上は、新しい社会的実践を始めることによって超越することが可能であり、この変化のプロセスはゆったりとしたものであり、時としてアクターは数千年におよぶ社会的共有化に直面することもあった。そして国際システムがアナーキーであるといった不変の構造によって国際政治の普遍的なパターンが存在しているといったネオリアリストの主張は、コンストラクティビストたちによって激しく批判されていた。

ウェントの仕事における主な目標はケネス・ウォルツのネオリアリズムであり、彼の究極の目標はウォルツがリアリズムに対して行ったことをコンストラクティビズムに対して行うことであり、言い換えれば、今度は規範や観念の視点から構造の影響力を解明するシステマティックな理論を構築することだった(これはウェントとウォルツの業績のタイトルの類似性から示されている)。

ウェントによれば、ネオリアリズムは、さまざまなタイプの国家の存在、資産を維持することを望む(現状維持の)国家や影響力によってシステムを変更することを望む(リビジョニストたちの)国家を暗黙に引き合いに出すことなしに、国際舞台で生じる変化を説明することができないとされていた。

リビジョニストたちの国家が隣国の存在を脅かすことによって紛争を伴うアプローチを採用するとき(ホッブズのアナーキー)、現状維持の国家は比較的平和的に振る舞う(ロックのアナーキーやカントのアナーキー)ことをウェントは示唆していた。この議論は、権威の不在によって定義されたアナーキーが自身の論理を有していないことを暗示していた。したがってアナーキーはパワーと無関係にさまざまな利益を生み出しており、パワーが大きいすべての国家が隣国を破壊することを望んでいる訳ではなかった。またもし国家が共通の基本的なもの(自治、生存、尊重)を必要としているならば、国家がこれらを必要としていることを示す方法は社会的な相互作用に依存していた。

ウェントによると、17世紀までの世界における出来事を支配していたホッブズの文化において、各々の国々はその同盟国を敵として眺めていた。他国は暴力の使用に制限を課さない一定の脅威として考えられていた。

1648年のウェストファリア条約以降の近代国家を特徴付けたロックの文化において、国家は他国をライバルとして眺めていた。各国は彼らの利益のために暴力を用いることが可能であったが、他国との協調に脅威を与えるまでには至らなかった。

民主主義間の関係の中でゆっくりと生じていたカントの文化において、国家はお互いをパートナーとして眺めていた。各国はお互いに対して影響力を用いる意思がなく、むしろ安全保障上の脅威に対処するために協調する意思を有していた。

これらすべての文化において、振る舞いの規範は3つのレベルで内面化されており、第一のレベルでは、ネオリアリストの世界観に類似するが、規範への従属は単に強制による結果であり、他のアクターたちの相対的優位性に基づく制裁を理由にして、アクターは規範を受容していた。

第二のレベルでは、リベラルな世界観に類似するが、規範を正当なものとみなすからでなく、単に利益を見出すことを理由にして、アクターたちは規範に順応していった。

第三のレベルでは、各々の国家は規範を正当であり、国家自身の一部として受け入れていった。各国家は他国の期待を確かめ、その期待を各国家の認知の領域に含めていた。このレベルでのみ、国家の利益やアクターたちのアイデンティティーに影響を与えることによって、規範は真の意味で各々の国家を「構築」していた。しかし第一と第二のレベルでは、意見の一致は単なる手段にすぎず、パワーのバランスが変化し、コストが利益以上に相対的に上昇すると、規範は忘れ去られることになった。

ウェントによれば、ホッブズ、ロック、カントの文化はそれぞれ協調の程度を示しており、各々に3つの内面化の程度が存在していた。

それは、ホッブズの闘争システムを第三のレベル(ある社会構築)で共有され内面化された観念の産物として、そして単なる(リアリストの観点による)物質的影響力の産物ではないものとして、眺めることを許容しており、もし従属が制裁の脅威(第一のレベル)や協調を通じた単なる利益(第二のレベル)から生じているなら、高いレベルの協調(カントの文化)は狭い自己の利益の産物にすぎないかもしれなかった。したがってすべての協調がリベラリズムやコンストラクティビズムを支持しないように、すべての闘争がリアリズムを支持している訳でもなかった。すべては内面化のレベル、アクターが協調的になったり闘争的になったりする理由、彼らが敵、ライバル、友として扱われる理由に依存していた。

ウェントの主要な論点は、ある時代における国家に見出される文化は自己や他者の間で共有される視野を再生産し変更する言説的社会的実践に依存しているということであった。アナーキーは国家が作り出すものであった。アクターたちがお互いに対して独善的にそして攻撃的に振る舞い続けるときでしか、ホッブズのシステムは維持されることが不可能であった。そのような文化は、ネオリアリストたちによって主張されるようにアナーキーやパワーの物理的分布による必然的な結果ではなかった。実際、現実の政治は予言の中身を自分で達成する予言そのものであった。

もしアクターたちが他者を平等に扱いながらさまざまに振る舞うならば、ホッブズの文化は徐々にロックやカントの文化に進化したかもしれなかった。ウェントが私たちに述べた、文化はすでに与えられた事実ではなく、むしろ歴史的社会的プロセスの産物であるということを忘れないことが重要であった。今日の国際関係論における常識は、国家の本能的な特徴の反映ではなく、時代を超えて進化した観念の産物自身であった。新しい振る舞いを採用することによって、国家は集合的な行動や歴史的不信といった問題を超越する新しい観念的構造を生み出すことが可能であった。

自我を社会プロセスの産物として眺めるコンストラクティビストの見方は、自己の利益はアクターの振る舞いにおける本質的で永続する特徴ではないことを私たちに理解させていた。ウェントによれば「もし利益が実践によって永続されないならば、それは消えてしまうだろう」といったことが述べられていた。

政治学におけるコンストラクティビズムは、社会的アイデンティティーを伝え、振る舞いを開放したり制限したりすることによって、社会構造やアクターたちがお互いを構築することを示しており、そのときに物質的世界は完全に無視されている訳ではなく、仲介する社会構築を通じて理解されるのみであると考えられていた。

トーマス・リッセやアンヤ・イェットシュケによれば、コンストラクティビズムがリアリズムと対照的に、人権組織がその活動やキャンペーンを通じて、国際政治のアクターたち、例えば国家に影響を及ぼし、社会的行動がその行動を再生産するないし変更をもたらす社会構造を生じさせることを説明することは可能であった。

他方プラグマティックなアプローチと関連しているウィトゲンシュタイン、オースティン、サールによって展開された政治学におけるコンストラクティビズムはニコラス・オナフによって1989年に概説されており、そこで言語は社会的活動の1つの形式として認識されており、その形式を通じて社会構造(社会秩序、統治構造)が(再び)生み出されていた。彼らの狙いはどのようにコミュニケーションを通じて利点や活動の可能性を分配させるのかといった問題意識にあった。

エマヌエル・アドラーによれば、政治学におけるコンストラクティビズムは、物質世界が人間そして人間間の行動を創造し、そしてその行動から物質世界が創造された方法は、これらの物質世界に対するダイナミックな規範的そして認識論的解釈に依存しているとの信念であると定義されていた。

ウェントによれば、国家の行動は構造によってのみならず、プロセス(相互作用や学習を含む)によっても影響され、学習し相互作用するプロセスの中で、国家は彼らの振る舞いだけでなく彼らのアイデンティティーや利益も変えることが可能であった。そしてまさに独善的に振舞っているときでも、国家はお互いと協調することが可能であった。

ニコラス・オナフはアクターたちの利益やアイデンティティーを説明しようとするこの社会理論をコンストラクティビズムと名付けた。そして国際関係論の中に初めて登場したこの社会理論は、1980年代の後半つまり冷戦の終わりにおける国際システムの劇的な変化に直面することになった。

1992年にウェントはインターナショナル・オーガニゼーションの中で、本論文における私の目的は2つの伝統(ネオリアリズム対ネオリベラリズム)の間に橋をかけることであり(...)、コンストラクティビストの議論を発展させ、構造主義者やシンボリックな相互影響論者から離れ、国際機関は国家のアイデンティティーや利益を変えることが可能であるといったリベラルな主張を行いたいがためであり、システムに対する主流派の国際分野に関する学問を経済的に理論化することと対照的に、これはシステムの理論に対する社会学的なそして社会心理学的な形式を含み、そこではアイデンティティーや利益は従属変数であると述べていた。

そしてこの『アナーキーは国家が作り出すもの:パワー・ポリティクスにおける社会構築』の中でネオリアリストたちやネオリベラル・インスティチューショナリストたちによって共有されている欠点、つまり物質主義に対する傾倒に疑念を投げかけており、パワー・ポリティクスのようなリアリストにとっての核となる概念でさえ社会的に構築され、つまり固有の性質によって生じるのではなく、人間の実践によって変更される可能性があることを示すことによって、ウェントは、国際関係論におけるある世代がコンストラクティビストの展望から幅広い問題の中にその活動を求める方法を切り開いていた。

コンストラクティビズムは、ネオリアリズムやネオリベラリズムにおける仮定と対照的に、国際関係論における核心的な概念は社会的に構築されることを示しており、ウェントはコンストラクティビズムにおける基本的な2つの考え方について、(1)人間関係の構造は物質的な影響力よりもむしろ共有された考え方によって本質的に決定されており、(2)合目的的なアクターたちのアイデンティティーや利益は固有の性質によって与えられるよりむしろこれらの共有された考え方によって構築されると主張していた。

ウェントによれば、ネオリアリズムの構造が説明することは多くなく、2つの国家が友好的であるか敵対的であるか、お互いの主権を認めるのか支配と従属の関係になるのか、リビジョニスティックになるのか現状維持的になるのか等について予想がつかず、そのような振る舞いの特徴はアナーキーによって説明されず、アクターたちによって支持される利益やアイデンティティーについての事例を取り込むことを必要としていた。

マーサ・フィネモアによれば、パワーでなく社会的価値における国際的構造を検証することによって国家の利益や国家の振る舞いを理解するためのシステマティックなアプローチを展開することが必要とされており、利益は単にその外に存在している訳ではなく、発見されることを待っており、社会的相互作用を通じて構築されると説明されており、ユネスコの影響を受けた科学官僚制、ジュネーブ条約における赤十字の役割、貧困に対する態度に与えた世界銀行の影響が挙げられていた。

トーマス・J・ビアステーカーやシンシア・ウェーバーは、国家の主権の進化を国際関係論における中心的なテーマとして理解するために、コンストラクティビストのアプローチを採用し、ロドニー・ブルース・ホールやダニエル・フィルポット等は国際政治の力学における主要な変化に対するコンストラクティビストの理論を展開し、国際政治経済学では、キャサリン・R・マクナマラによる欧州通貨同盟の研究やマーク・ブライスによるアメリカにおいてレーガノミックスが生じたことに対する分析が挙げられていた。

コンストラクティビズムはしばしば国際関係論における二大理論、リアリズムやリベラリズムに代わるものとして示されてきたが、一部の人々はコンストラクティビズムが必然的に両者と矛盾するものではないと主張しており、例えばアナーキーの存在や国際システムにおける国家の中心性のようなリアリストとネオリアリストの研究者が主張するいくつかの重要な仮定をウェントは共有していたが、ウェントは物質主義者の意味でよりむしろ文化の中にアナーキーを据えており、同様に国際関係論におけるアクターとしての国家といった仮定を擁護していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツ、アメリカのWikipediaの「コンストラクティビズム」、「アレクサンダー・ウェント」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Constructivisme_(relations_internationales)

コンストラクティビズム(国際関係論)

国際関係論におけるコンストラクティビズムは、例えばアレクサンダー・ウェント、ニコラス・オナフ、ピーター・J・カッツェンスタイン、マイケル・バーネット、キャスリン・シッキンク、ジョン・ラギー、マーサ・フィネモアのような研究者たちによって、1960年代に生まれた社会学の学派である社会構成主義を適用されたことに始まり、国際関係論の分野においては、3番目に大きい学派であった。

コンストラクティビズムの主な特徴

3つの要素がコンストラクティビズムを国際関係論上の理論として完成させていった。

第1に、国際政治は異なったアクターが有する共有された観念、規範、価値観によって導かれるものとして定義されていた。環境に対する影響や私たちの振る舞いの相互作用に対して人間の存在が与える社会的側面を強調したいがために、コンストラクティビズムは知識の相互主観性に対して表面上フォーカスしていた。ネオリアリズムの原動力とは無関係に、システムの構造は時代を超越し、エージェントに対して課せられていた(システムによって振る舞いを強要されるリアリストたちの理論に対して、ユニットやエージェントの自由意志を示すために、コンストラクティビズムにおけるアクターのことが触れられていた)。

第2に、理想的な構造(相互主観的な空間)が構成されており、アクターに対して構成されているだけではなかった。言い換えれば、構造はアクターがアクターの利益を再定義するように促しており、相互作用の幅広いプロセスの中でアクターの存在理由を定めていた。「合理主義者たち」(ネオリベラリズムやネオリアリズム)が、国際関係の背後にある原動力を定義するために、国家の利益を不変のものとして構成していることと反対に、コンストラクティビズムは、どのようにアクターが自身を定義するか(彼らは誰であり、彼らの利益は何であり、どのように彼らの目標を達成するのか)を形成する理想的な構造にフォーカスしていた。

第3に、理想的な構造とアクターがお互いを形成し、絶えず定義し続けていた。もし構造がアクターの振る舞いや利益を定義しているならば、アクターはアクターの行動によって構造を変更しているだろう。アクターが構造の外で独自に振る舞うことは困難であったが不可能ではなかった。このような振る舞いは対話を変化させ続け、したがって構造を変えることに寄与していた。例えば個人や国家が同様に構造に立ち向かい、対立が永く続く機能不全の状況から脱出することも可能であった。

したがってコンストラクティビストたちにとって、アクターが直面する現実は常に歴史的に形成されていることを認識することが不可欠であった。その現実は人間の活動の産物であり、少なくとも理論上は、新しい社会的実践を始めることによって超越することが可能であった。この変化のプロセスはゆったりとしたものであり、時としてアクターは数千年におよぶ社会的共有化に直面することもあった。しかし最もしっかりと根付いた構造でさえ単なる意思のパワーによって疑問視される可能性が存在していた。世界システムがアナーキーであるといった不変の構造によって国際政治の普遍的なパターンが存在しているといったネオリアリストの主張は、コンストラクティビストたちによって激しく批判されていた。

ウェントとコンストラクティビズム

ウェントの理論はコンストラクティビストの体系を共有しており、大部分そこから派生されたものであった。ウェントにとってコンストラクティビズムの体系はネオリアリズムの批判において非常に激しいものであったが非常に限定されたものでもあった。その観念が国際システムにおける唯一の重要な要素であるとコンストラクティビズムが主張するときに、議論は非常に激しいものになっていた。その代わりにウェントは、物質的なパワーは存在しているが、アクターの振る舞いにいくらかの影響を与えているにすぎないと主張していた。さらに国家は相互作用から独立して存在する完全なアクターであると主張していた。したがって国家は例えば貨幣同様に社会的構築物ではなかった。また国家は理想的な構造に従わない非常にわずかな利益を有していた(例えば「生存本能」)。

明らかに「物質的な」変数が相互主観的なプロセスによってどの程度実際に形成されているのかを確認することなしに、パワーや利益のような現実の変数に対する要因として理論を検証する際、コンストラクティビストの体系は非常に限られたものであった。

ウェントの仕事における主な目標は疑いなくケネス・ウォルツにおけるネオリアリズムのような仕事であり、彼の「究極の目標」はウォルツがリアリズムに対して行ったことをコンストラクティビズムに対して行うことであり、言い換えれば一貫し体系だった理論を構築し、その理論が今度は規範や観念の視点から構造の影響力を形成することであった(これゆえウェントとウォルツの業績におけるタイトルの類似性が説明される)。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Alexander_Wendt

アレクサンダー・ウェント

アレクサンダー・ウェントは1958年6月12日にマインツで生まれ、国際関係論において社会構成主義を応用した著名な人物の1人であった。ウェントやニコラス・オナフ、ピーター・J・カッツェンスタイン、マイケル・バーネット、キャスリン・シッキンク、ジョン・ラギー、マーサ・フィネモアのような他の研究者たちは比較的短い期間だが1960年代に生まれた社会学の学派で国際関係論における第3の学派としてコンストラクティビズムを構築していた。

1 略歴

アレクサンダー・ウェントは西ドイツのマインツで生まれた。彼はマカレスター・カレッジで政治学や哲学の研究をし、その後レイモンド・デュバルの指導の下、1989年にミネソタ大学で政治学の博士を取得した。ウェントはその後1989年から1997年までイェール大学、1997年から1999年までダートマス大学、1999年から2004年までシカゴ大学、そしてオハイオ州立大学で教えていた。彼は大学の政治学部のメンバーであるジェニファー・ミットゼンと結婚していた。

現在彼は2つのプロジェクトに関わっていた。それは必然的な世界国家の樹立に対する技術的な説明と量子力学の社会科学への適用であった。

2 国際政治の社会理論

ウェントによる最も影響力のある著作は疑いなく『国際政治の社会理論』(ケンブリッジ大学出版局、1999年)になり、それは1992年の彼の論文である「アナーキーは国家が作り出すもの―パワー・ポリティクスにおける社会構築」を深化させており、リアリストであるケネス・ウォルツの著作である『国際政治の理論』に対するものであった。

ウェントは国家システムはアナーキーな状況の中にあるといったリアリストによる仮定を共有していた。しかしながら、国家が生存のためにホッブズの闘争の中に永続的に留まったままであることを強いられていることを中心的な権威の不在が示しているといったことを彼は否定していた。ウェントにとって、暴力的な競争は国家システムが作り出す多くの中の1つにしか過ぎなかった。彼はネオリアリズムが有する物質主義を相対化することによってこの結論に達し、観念、規範、文化のような他の要因を強調していた。事実、国家の利益、アイデンティティー、パワーの概念自体は観念によって構成されていた。例えば、領土を巡る戦争が特に存在していないといった事実は、ドイツのナチによって異議を申し立てられた観念や合意であった。

『国際政治の社会理論』の中で、利益やアイデンティティーを構成する観念は「相互主観性」によって形成されていた。それは国家のお互いに対する一定の相互作用の結果であった。また国際政治を決定する構造をはるかに超えたプロセスが存在していた。リアリストによる世界の説明は時として公正であったが、それは絶対的で永続的なものではなく、社会構成のプロセスにおける一部分でしかなかった。

観念、規範、文化を国際政治の解釈の中心に据えることによって、ウェントの理論は国家システムを変更する可能性を切り開いており、国家システムをより公正で平和的な存在にし、ネオリアリストによる物質主義的な構造主義を否定していた。

2.1 国際政治の社会理論の背景

冷戦の終結以来、リアリズムはいくつもの階層に散在し、国際関係論における優勢なパラダイムはコンストラクティビストによるパラダイムの出現から影響を受けるようになっていた。ケネス・ウォルツの著作を引用するネオリアリストたち(もしくはリアリストたちや構造主義者たち)は特にターゲットにされていた。

リアリズムの学派は、アナーキーや国家間におけるパワーの分布は国際政治におけるエンジンであると主張していた。基本的な要因、特にアクターのアイデンティティーや利益を構成する振る舞いを形成する相互主観性によって共有される観念をリアリズムは欠いているとコンストラクティビストたちは応じていた。

相互主観性は客観性とは異なり、観念や無形の要素から構成されていた。また相互主観性は主観性とも異なり、理由としてある出来事における1つのアクターの認識が規範を創造することを許されていなかったことが挙げられていた。相互主観性はむしろお互いの間に橋を構築するいくつものアクターたちの主観性であった。

アナーキーは安全を確保するためにお互いと競争することを国家に強いると主張するネオリアリズムの中心的な原理に対してウェントは疑問を投げかけていた[1]。その研究によれば、システムが闘争的か平和的かといった事実はアナーキーやパワーに依存せず、共有される文化に依存しているとされていた。アナーキーは永続的な論理ではなく、歴史上異なった文化的形態を示していた。著者はホッブズ、ロック、カントの時代を区別していた(影響力のある哲学者たちに因んで)。これらの異なった状態はシステムの中で共有される異なった「ルール」に対する振る舞いに従うアクターたちの意思に依存していた。国家が自身で成す構想は部分的には同盟国の外交的な動きによって形成されているので、同盟国は彼らのアクションによってその構造を変化させることが可能であった。

もしアナーキーが国家が作り出すものであるならば、リアリズムは耐え難いショックを受けることになる。そして相対的パワーを求め、悲劇的な紛争を一定間隔で引き起こす国際情勢におけるアナーキーな状況によって、国家はこれまで非難されて来なかった。永続的な平和を確認することを可能にするように、より自己中心的でない姿勢を保つ習慣を通じて、システムを構成する相互主観的な文化を変えていくために、国家が振る舞うことは可能であった。

2.2 コンストラクティビストのパラダイムとウェント

3つの要素がコンストラクティビズムを国際関係論における完全な理論体系に成し得ていた。

第1に、国際政治は異なったアクターたちが成す共有された観念、規範、価値観によって導かれるものとして定義されていた。コンストラクティビストたちが、私たちの振る舞いの構成における環境や相互作用の影響について人間の存在における社会的側面を強調することを望んでいるので、コンストラクティビズムは特に知識の相互主観性にフォーカスしていた。ネオリアリズムにおける因果関係とは関係なく、システムの構造は永続的であり、エージェントたちに対して課せられているものだった(つまりリアリストの理論の中におけるユニットやエージェントもしくはシステムによって振る舞いを強制されているユニットの自由意志を示すために、コンストラクティビズムの中にあるアクターたちに言及していた)。

第2に、理想的な構造(相互主観的な空間)はアクターたちに対して構成的であるのみならず、構成的な役割を有していた。言い換えると、構造は相互作用における幅広いプロセスの中で利益やアイデンティティーを再定義するようアクターたちに促していた。国際関係の背後にある影響力を定義するために国家の利益を不変のものとして構成する「ラショナリストたち」の理論(ネオリベラリズムやネオリアリズム)と反対に、コンストラクティビズムはアクターたちが自身を定義する方法(彼らが誰であり、利益は何であり、目標を達成するためにどうするか)を形成する理想的な構造にフォーカスしていた。

第3に、理想的な構造やアクターたちは自身を構成し、絶えずお互いを定義していた。もし構造がアクターたちの振る舞いや利益を定義しているならば、彼らは彼らの振る舞いによって構造を変更していた。アクターが構造や元々の方法の外側で振る舞うことは困難であったが不可能ではなかった。そのような振る舞いはやり取りを変更し、構造を変更することに寄与していた。例えば、個人や国家が構造に疑問を抱き、対立に直面し当惑する機能不全の状態から脱することも当然であった。

したがってコンストラクティビストにとって、アクターの現実が常に歴史的に構成されていることを認識することは不可欠であった。現実は人間の活動の産物であり、おそらく少なくとも理論上、新しい社会的実践を始めることによって超越されることが可能であった。この変動のプロセスはゆっくりとしたものである可能性があり、時としてアクターたちは社会的共有化に数千年をかける可能性が存在していた。しかし最も強固に根付いた構造でさえ単なる意思によって疑問を投げ掛けられる可能性も存在していた。国際システムのアナーキーといった変えることができない構造によって強制される国際政治の普遍的なパターンが存在するといったネオリアリストによる主張は、コンストラクティビストたちによって激しく批判されていた。

ウェントの理論はコンストラクティビストの考え方を共有しており、主にここから派生していた。ウェントにとって、社会的コンストラクティビズムの考え方はネオリアリズムの批判において非常に過激であったが非常に限定的でもあった。観念は国際システムにおいて唯一の重要な要素であるといったことが述べられたとき、それは非常に過激になっていた。ウェントはむしろ物質的な影響力は存在しており、そのパワーはアクターの振る舞いにいくらか影響を及ぼしていると主張していた。さらに国家は同盟国の相互作用から完全に独立したアクターであるとしていた。国家は例えば貨幣同様に社会的構成物ではなかった。国家は非常に少ない基本的な利益を有しており、理想的な構造に従っていなかった(例えば「生存本能」)。

実際にどの程度明白に「物質的な」変化が相互主観的なプロセスによって成されているのかを探索せずに、パワーや利益のような現実的な変数に対する要因として観念にまつわる理論を検証するとなると、コンストラクティビストの考え方は同様に非常に限定的であった。

彼の主な仕事の目標は疑いなくケネス・ウォルツのネオリアリズムであり、彼の「究極の目標」はウォルツがリアリズムに対して行ったことをコンストラクティビズムに対して行うことであり、言い換えれば、今度は規範や観念の視点から構造の影響力を解明する一貫しシステマティックな理論を構築することだった(これはウェントとウォルツの業績のタイトルの類似性から示されている)。

2.3 ウェントのコンストラクティビズム

国家は自治の単位であり、他の国家との社会的共有化と関連していないアクターの主権に基づいた「同業組合的な」アイデンティティーを有していた。そのアイデンティティーはさまざまな個人や社会的グループの言説的実践の内側から生じていた。

この点はよりラディカルなコンストラクティビストたちによって批判されていたが、ウェントは、自治における政治的単位の特徴から生じ、基本的に必要とされているいくつかのもの、例えば、生存、自治、経済厚生、そのグループを尊重すること(つまりそのグループを正当に評価すること)に必要なものを国家は有していることを示唆していた。ウェントは、少なくとも始めのうちは国家はその同盟国を処遇することにおいて独善的に振る舞う傾向にあると主張していた。

社会的アイデンティティ理論が示すように、グループのメンバーはグループ外の個人と接するとき身びいきすると、ウェントは認識していた。国家間の相互作用における初期の段階で、さまざまなアクターたちの独善的な態度が予想されることを、このことは意味していた。

しかしながらネオリアリストのパラダイムに対するウェントの譲歩は、これらの独善的な傾向が常に優勢であり、国家は決して協調することを学ばないことを意味していなかった。国家間の相互作用はアクターたちにその意味を再定義するよう促していた。相互作用のプロセスの間、国家はある役割を採用し、その他に役割を割り振っていた。このことが2つのシナリオの内の1つを導く可能性が存在しており、自己と他者といった独善的な考え方を再生産するか、より大きな協調を促す相互主観的な空間を変化させることが挙げられていた。その主要な点は、ウェントの構造はその創造のプロセスの外に存在していないといったことだった。その構造は「存在し、その影響を有し、エージェントたちや彼らの慣行によってのみ進化する」と彼は主張していた。アクターたちは自己に必要な部分として他者を取り囲むアイデンティティーを展開させるようになっていた。

3 ウェントによる構造主義的リアリズムに対する批判

ウォルツによる国際政治の明示的なモデルの背後にアナーキーや主要な因子としての軍事力の分布を据えると、国家間の利益の分布といった暗黙的なモデルが隠れてしまうと、ウェントは主張していた。ネオリアリズムは、さまざまなタイプの国家の存在、資産を維持することを望む(現状維持の)国家や影響力によってシステムを変更することを望む(リビジョニストたちの)国家を暗黙に引き合いに出すことなしに、国際舞台で生じる変化を説明することができなかった。システムは、リビジョニストたち(フランスのナポレオンやドイツのヒトラー)の国家を含むさまざまなアナーキーの中で生存する現状維持の国家しか含んでいなかった。

リビジョニストたちの国家が隣国の存在を脅かすことによって紛争を伴うアプローチを採用するとき(ホッブズのアナーキー)、現状維持の国家は比較的平和的に振る舞う(ロックのアナーキーやカントのアナーキー)ことをウェントは示唆していた。この議論は、権威の不在によって定義されたアナーキーが自身の論理を有していないことを暗示していた。実際、アナーキーやパワーの分布の結果はそのシステムの利益(国家が望んでいるもの)の分布に大部分依存していた。

したがってアナーキーはパワーと無関係にさまざまな利益を生み出しており、パワーが大きいすべての国家が隣国を破壊することを望んでいる訳ではなかった。利益の分布における暗黙の変数はこの理論のギャップを埋めていた。最後に、もし国家が共通の基本的なもの(自治、生存、尊重)を必要としているならば、国家がこれらを必要としていることを示す方法は社会的な相互作用に依存していた。

アナーキーに関する3つの文化

私たちは上記に示されるようにアナーキーのいくつかのタイプを見てきた。それらはすべて否定的に中心となるパワーの不在によって定義されてきたが、この説明は不完全であった。ウェントははっきりと3つの文化を列挙しており(グローバル・ガバナンスに関する彼の最新の著作によれば4つだが)、それぞれが政治哲学者の名前に因んでいた。すべてのケースにおいて、国家は特徴的な振る舞いを伴うお互いとの特定の役割を採用していた。

ウェントによると17世紀までの世界における出来事を支配していたホッブズ(イギリスの哲学者であるトーマス・ホッブズ)の文化において、各々の国々はその同盟国を敵として眺めていた。他国は暴力の使用に制限を課さない一定の脅威として考えられていた。

1648年のウェストファリア条約以降の近代国家を特徴付けたロック(イギリスの哲学者であるジョン・ロック)の文化において、国家は他国をライバルとして眺めていた。各国は彼らの利益のために暴力を用いることが可能であったが、他国との協調に脅威を与えるまでには至らなかった。

民主主義間の関係の中でゆっくりと生じていたカント(ドイツの哲学者であるイマヌエル・カント)の文化において、国家はお互いをパートナーとして眺めていた。各国はお互いに対して影響力を用いる意思がなく、むしろ安全保障上の脅威に対処するために協調する意思を有していた。

これらすべての文化において、振る舞いの規範はアクターたちによって知られており、ある程度共有されていた。規範は3つのレベルで内面化されていった。第一のレベルでは、ネオリアリストの世界観に類似するが、規範への従属は単に強制による結果であり、他のアクターたちの相対的優位性に基づく制裁を理由にして、アクターは規範を受容していた。

第二のレベルでは、リベラルな世界観に類似するが、規範を正当なものとみなすからでなく、単に利益を見出すことを理由にして、アクターたちは規範に順応していった。

第一と第二のレベルでは、意見の一致は単なる手段にすぎなかった。パワーのバランスが変化し、コストが利益以上に相対的に上昇すると、規範は忘れ去られることになった。第三のレベルでは、コンストラクティビストのロジックによれば、各々の国家は規範を正当であり、国家自身の一部として受け入れていった。各国家は他国の期待を確かめ、その期待を各国家の認知の領域に含めていた。このレベルでのみ、国家の利益やアクターたちのアイデンティティーに影響を与えることによって、規範は真の意味で各々の国家を「構築」していた。

規範に依存し、アクターたちによって従属される文化に3つの形式があり、その規範の内面化に3つの程度が存在しているので、ウェントはある国際システムをある時代における9つのモードの内のある1つとして示していた。左から右といった横軸では、私たちはホッブズ、ロック、カントの文化によってそれぞれ示される「協調の程度」を見出していた。下から上といった縦軸では、内面化の3つの程度を見出していた。

3掛ける3のマスはいくつかの有用な点を示していた。それは、ホッブズの闘争システムを第三のレベル(ある社会構築)で共有され内面化された観念の産物として、そして単なる(リアリストの観点による)物質的影響力の産物ではないものとして、眺めることを許容していた。さらに、もし従属が制裁の脅威(第一のレベル)や協調を通じた単なる利益(第二のレベル)から生じているなら、高いレベルの協調(カントの文化)は狭い自己の利益の産物にすぎないかもしれなかった。したがってすべての協調がリベラリズムやコンストラクティビズムを支持しないように、すべての闘争がリアリズムを支持している訳でもなかった。すべては内面化のレベル、アクターが協調的になったり闘争的になったりする理由、彼らが敵、ライバル、友として扱われる理由に依存していた。

ウェントの主要な論点は、ある時代における国家に見出される文化は自己や他者の間で共有される視野を再生産し変更する言説的社会的実践に依存しているということであった。アナーキーは国家が作り出すものであった。アクターたちがお互いに対して独善的にそして攻撃的に振る舞い続けるときでしか、ホッブズのシステムは維持されることが不可能であった。そのような文化は、ネオリアリストたちによって主張されるようにアナーキーやパワーの物理的分布による必然的な結果ではなかった。実際、現実の政治は予言の中身を自分で達成する予言そのものであった。

もしアクターたちが他者を平等に扱いながらさまざまに振る舞うならば、ホッブズの文化は徐々にロックやカントの文化に進化したかもしれなかった。ウェントが私たちに述べた、文化はすでに与えられた事実ではなく、むしろ歴史的社会的プロセスの産物であるということを忘れないことが重要であった。今日の国際関係論における「常識」は、国家の本能的な特徴の反映ではなく、時代を超えて進化した観念の産物自身であった。新しい振る舞いを採用することによって、国家は集合的な行動や歴史的不信といった問題を超越する新しい観念的構造を生み出すことが可能であった。

自我を社会プロセスの産物として眺めるコンストラクティビストの見方は、自己の利益はアクターの振る舞いにおける本質的で永続する特徴ではないことを私たちに理解させていた。ウェントによれば「もし利益が実践によって永続されないならば、それは消えてしまうだろう」といったことが述べられていた。

http://de.wikipedia.org/wiki/Konstruktivismus_(Internationale_Beziehungen)

コンストラクティビズム(国際関係論)

コンストラクティビズムは国際関係論における包括的でさまざまなメタ理論的アプローチである。特に1990年代以降、それは理論として機能していた。その際、ある社会理論的仮定に従った国際的な国家システムとその展開が示されていた。アレクサンダー・ウェントによれば、人間の共生は物理的要因よりむしろ共有された観念によって本質的に決定され、アクターたちはその本質的な特徴を通じてではなくこれらの共有された観念を通じてアイデンティティーや利益を形成していたといったことを、このことは含んでいた[1]。

1 理論の展開

予想外の冷戦の終結は、リアリストたちによって示されていた実証結果に疑念を投げかける理由を与え、インスティチューショナリストたちが現に生じていた国際的な国家システムに対する見解を代弁するようになっていた[2]。ウォルツから今日までネオリアリズムは、なぜ一極集中の国際システムは「勢力均衡」の意味での対立極を生み出さないのかについて決定的な説明を与えることができなかった。

2 理論の派生

政治学におけるコンストラクティビズムは政治行動のパターンにフォーカスしていた。その典型は、哲学や隣接科学におけるコンストラクティビストの理論に基づき、社会情勢の結果としての行動はむしろ主流を占めた社会構造についての知識を理解しているといったことだった。このことは政治学におけるコンストラクティビズムを例えばリアリズムやネオリアリズムのような国際関係論における競合する理論と区別しており、そこから客観的に合理的な行動のパターンやその客観情勢による強制といった結論を派生していった。

政治学におけるコンストラクティビストによるアプローチの多様性にもかかわらず、最小限のコンセンサスに関する存在論を語ることは可能であった。つまりこのアプローチは国際関係においてどのように構造とアクターたちが社会的に構築されているかを検証していた。政治学におけるコンストラクティビズムの核心は次の通りになる。つまり社会的アイデンティティーを伝え、振る舞いを開放したり制限したりすることによって、社会構造やアクターたちはお互いを構築していた。そのときに物質的世界は完全に無視されている訳ではなく、仲介する社会構築を通じて理解されるのみであると考えられていた。

政治学におけるコンストラクティビズムが有する行動指向といった傾向は、社会的行動がその行動を再生産するないし変更をもたらす社会構造を生じさせることを想定していた。これらの行動は引き出される意味がある規範や価値観によって動機づけられていた。一例に人権組織があり、その活動やキャンペーンを通じて、国際政治のアクターたち、例えば国家に影響を及ぼすことが挙げられていた。これを背景にして冷戦後コンストラクティビズムは国際関係においてますます重要な役割を演じていた。コンストラクティビズムはリアリズムと対照的にこの世界の変化を説明することが可能であった。ドイツの論壇ではこれらのアプローチの代表者としてトーマス・リッセやアンヤ・イェットシュケを挙げることができた。

同様にプラグマティックなアプローチと関連しているウィトゲンシュタイン、オースティン、サールによって展開された政治学におけるコンストラクティビズムは行動理論を指向しており、例えばそれはニコラス・オナフによって1989年に概説されていた。そこで言語は社会的活動の1つの形式として認識されており、その形式を通じて社会構造(社会秩序、統治構造)が(再び)生み出されていた。その狙いはそのような構造が生じることに対する説明を彼らの分析より簡潔にし、どのようにコミュニケーションを通じて利点や活動の可能性を分配させるのかといった問題意識にあった。

アレクサンダー・ウェントは政治学におけるコンストラクティビズムに関する適度な形式の存在を示唆しており、それはリアリストやネオリアリストのアプローチにおける要素を包含することを望んでいた。そこにはどの程度どんな形式でその科学的説明が経験的現象を追求するべきかといった問いが存在していた。さらにラディカルなアプローチが、自然科学で一般的な「実証主義者」の説明を社会科学の分野において解説的で「構成的な」解釈を通じて置き換えることを主張している一方、ウェントは、構成的な関係の分析を通じて因果関係の説明を保管することや、アイデンティティー、利益、パワーの関係による創造を社会的に共有された観念や文化を経た社会的意味の再形成を観察することによって基礎付けることを主張していた。

「物質世界が人間そして人間間の行動を創造し、そしてその行動から物質世界が創造された方法は、これらの物質世界に対するダイナミックな規範的そして認識論的解釈に依存しているとの信念である」として、エマヌエル・アドラーは政治学におけるコンストラクティビズムを定義していた[3]。

他の代表者は例えばテッド・ホプフ、コリン・カール、フリードリッヒ・クラトチウィルである。

3 評判

政治学におけるコンストラクティビズムは、それが事後的な説明のみ示し、予測や実際の出来事の説明を与えることがないことにより批判されていた。この批判は直接にはコンストラクティビズムに当てはまらず、それは想定によって自身に対して予測する能力を要求されていないからであった。しかしながら予測可能なパワーは国際関係論におけるほとんどすべての理論における重要な特徴であり、知識の増加はコンストラクティビストのアプローチによって批判的に眺められていた。

http://de.wikipedia.org/wiki/Alexander_Wendt

アレクサンダー・ウェント

アレクサンダー・ウェント(マインツで1968年6月12日に生まれた)はアメリカの政治学者である。今日彼は政治学におけるコンストラクティビズムの最も重要なアメリカの代表者の1人として考えられている。

1 経歴

ウェントのドイツ系アメリカ人の家族はその誕生後2年でアメリカに移った。1977年から1982年までウェントはセントポール(ミネソタ州)のマカレスター・カレッジで政治学と哲学を学んだ。彼の研究は7年後の博士号取得まで継続していた。ミネソタ大学での彼の博士課程における指導教授はレイモンド・デュバルで、社会理論の研究について熱心であった[1]。

2004年から彼はオハイオ州立大学政治学部の国際安全保障担当の教員であり、「国際関係論」、「社会科学における哲学」、「国際組織」にフォーカスしていた。

彼の前歴は、シカゴ大学(1999年から2004年、准教授、政治学部)、ダートマス大学(1997年から1999年、准教授、政治学部)、イェール大学(1995年から1997年、准教授、1989年から1995年、助教、政治学部)であった。

2 理論のアプローチ

彼の特筆すべき論争を呼んだ論文である『アナーキーは国家が作り出すもの:パワー・ポリティクスにおける社会構築』、インターナショナル・オーガニゼーション、Vol.46、No.2 において、ウェントは政治学における構造的コンストラクティビズムについて説明していた。

リベラルな理論を引き合いに出し、彼はネオリアリストのパラダイムを批判し、国家は関心のある安全保障に対して独善的に1人で振舞うが、アナーキーな状態でも国家は例外的に協調できると主張していた。ウェントは、国家の行動は「構造」によってのみならず、「プロセス」によっても影響される(相互作用や学習を含む)と主張していた。したがって学習し相互作用するプロセスの中で、国家は彼らの振る舞いだけでなく彼らのアイデンティティーや利益も変えることが可能であった。そしてまさに独善的に振舞っているときでも、国家はお互いと協調することが可能であった。彼は、構造的なコンストラクティビズムのモデルの中で、アクターたち(つまり国家)に内在する利益やアイデンティティーを説明しようとしていた。

アクターたちの利益やアイデンティティーを説明しようとするこの「社会理論」をニコラス・オナフは「コンストラクティビズム」と名付け、国際関係論の中に初めてこの理論が登場することになった。彼の理論は1980年代の後半つまり冷戦の終わりにおける国際システムの劇的な変化に直面しながら登場していた。

「本論文における私の目的は2つの伝統(ネオリアリズム対ネオリベラリズム)の間に橋をかけることであり(...)、コンストラクティビストの議論を発展させ、構造主義者やシンボリックな相互影響論者から離れ、国際機関は国家のアイデンティティーや利益を変えることが可能であるといったリベラルな主張を行いたいがためである。システムに対する主流派の国際分野に関する学問を「経済的に」理論化することと対照的に、これはシステムの理論に対する社会学的なそして社会心理学的な形式を含み、そこではアイデンティティーや利益は従属変数である。」

ーアレクサンダー・ウェント:インターナショナル・オーガニゼーション、Vol.46、No.2 S.394 (1992年)

http://en.wikipedia.org/wiki/Constructivism_(international_relations)

コンストラクティビズム(国際関係論)

国際関係論の分野でコンストラクティビズムは、国際関係の重大な局面は人間の特徴や世界政治における他の基本的な特徴に対する必然的な結果であるというよりむしろ、歴史的にそして社会的に偶発的なものであるといった主張になる[1]。

1 展開

ニコラス・オナフは、国際関係において社会的に構築された特徴を強調する理論を示すために「コンストラクティビズム」という用語をあてたことに功績があった[2]。現代のコンストラクティビストの理論はオナフだけでなくリチャード・K・アシュリー、フリードリッヒ・クラトチウィル、ジョン・ラギーによる先駆的な業績にまで遡ることができた。それにもかかわらず、アレクサンダー・ウェントは国際関係論における社会構成主義の最も著名な擁護者であった。インターナショナル・オーガニゼーションにおけるウェントの論文である『アナーキーは国家が作り出すもの:パワー・ポリティクスにおける社会構築』は、ネオリアリストたちやネオリベラル・インスティチューショナリストたちによって共有されている欠点、つまり物質主義に対する傾倒であるとウェントが考えているものに疑念を投げかける理論的基盤であった。「パワー・ポリティクス」のようなリアリストにとっての核となる概念でさえ社会的に構築され、つまり固有の性質によって生じるのではなく、人間の実践によって変更される可能性があることを示すことによって、ウェントは、国際関係論におけるある世代がコンストラクティビストの展望から幅広い問題の中にその活動を求める方法を切り開いていた。ウェントはさらに『国際政治の社会理論』(1999年)といった彼の中心となる仕事の中でこれらの考えを展開していた。

1980年代後半から1990年代初頭にかけて、コンストラクティビズムは国際関係論における主要な学派の1つになった。ジョン・ラギーたち[3]はコンストラクティビズムのいくつかの要素を確かめていた。他方でマーサ・フィネモア、キャスリン・シッキンク、ピーター・カッツェンスタインや、業績が国際関係論の主流派の中で広く認められ、リアリストたち、リベラリストたち、コンストラクティビストたちの中で活発な議論を生じさせたアレクサンダー・ウェントのようなコンストラクティビストたちが存在していた。またラディカルなコンストラクティビストたちは言語により重点を置いていた。

2 理論

ネオリアリズムやネオリベラリズムにおける仮定と対照的に、国際関係論においてどれ程多くの核心的な概念が社会的に構築され、つまり社会的実践や相互作用のプロセスによってその形式を与えられているかを示すことを、コンストラクティビズムは本質的に望んでいた。アレクサンダー・ウェントはコンストラクティビズムにおける基本的な2つの考え方について「(1)人間関係の構造は物質的な影響力よりもむしろ共有された考え方によって本質的に決定されており、(2)合目的的なアクターたちのアイデンティティーや利益は固有の性質によって与えられるよりむしろこれらの共有された考え方によって構築される」と主張していた[4]。

2.1 リアリズムに対する挑戦

コンストラクティビズムが形成されていた頃、ネオリアリズムは国際関係論における主流の学派であったので、コンストラクティビズムの初期の業績の多くはネオリアリストによる基本的な仮定に疑念を投げかけることの中に存在していた。ネオリアリストたちは因果関係を示す際に基本的に構造主義的であり、その点で、国際関係論における重要な中身の大半は国際システムの構造によって説明され、この立場はケネス・ウォルツの『人、国家、戦争』の中に最初に登場し、ネオリアリズムの核心となる彼の著作である『国際政治の理論』の中で完全に説明されていることを支持していた。具体的には、国際政治は国際システムがアナーキーであるといった事実によって本質的に決定されており、そこにはいかなる包括的な権威も存在せず、その代わりにそれは形式的に平等なユニット(国家)によって構成されており、それらは自身の領土にすべての主権を有していた。そのようなアナーキーは国家が安全保障において他の誰でもなく自身にしか依存できない(自身を自身によって助けなければならない)ように振る舞うことを強制していると、ネオリアリストたちは主張していた。パワーに関して自己の利益を守るためにそのように振る舞うことをアナーキーが強制する状況は国際政治の大半を説明すると、ネオリアリストたちは主張していた。このためネオリアリストたちはユニットや国家のレベルでの国際政治に関する説明を無視する傾向にあった[5][6]。ケネス・ウォルツはこのようなフォーカスを還元主義的であるとして批判していた[7]。

ネオリアリストたちによる「構造」に起因するパワーは実際には「与えられて」おらず、構造は社会的実践によって構築されるといったことを示すことによって、特にウェントの業績の中でコンストラクティビズムはこの仮定に疑念を投げかけていた。システムにおけるアクターたちのアイデンティティーや利益に関する固有の性質や社会制度(アナーキーを含む)がそのようなアクターたちのために有している意味についての推測を除外すると、ネオリアリズムの「構造」はほとんど何も説明しておらず、「2つの国家が友好的であるか敵対的であるか、お互いの主権を認めるのか支配と従属の関係になるのか、リビジョニスティックになるのか現状維持的になるのか等について予想がつかない」と、ウェントは主張していた[8]。そのような振る舞いの特徴はアナーキーによって説明されず、その代わり主要なアクターたちによって支持される利益やアイデンティティーについての事例を取り込むことを必要としていたので、システムの物質的な構造(アナーキー)に対するネオリアリズムのフォーカスは的はずれであった[9]。しかしウェントはこの考え方をさらに進め、アナーキーが国家に制約を課す方法は国家がアナーキーを考慮し、彼ら自身のアイデンティティーや利益を考慮する方法に依存しているので、アナーキーは必然的に「自己を助ける」システムでさえある必要はないと主張していた。安全保障を競争的で相対的な概念として眺め、そこである国家に対する安全保障上の利得が他国にとっての安全保障上の損失を意味しているといったネオリアリストによる国家に関する仮定が妥当であるならば、国家は自身で自身を助けることを強制されるのみであろう。国家が他国の安全保障に否定的な影響を及ぼすことなく自国の安全保障を高めることが可能であるといった意味で「協調的で」、国家が他国の安全保障を自国にとって価値があると認めるといった意味で「集合的に」代替的な安全保障に関する考え方をその代わりに採用するならば、アナーキーはすべてのアクターたちに対して自身で自身を助ける状況を導かないだろう[10]。社会制度の意味がアクターたちによって構築される方法についての暗黙で疑問を投げかけられることのない仮定に、ネオリアリストの結論は依存していた。重要な点として、ネオリアリストたちはこの依存性を認識することに失敗しているので、彼らはそのような意味が不変であると誤って仮定しており、ネオリアリストの観察の背後にあり重要な説明をしている社会構築のプロセスの研究を除外していた。

2.2 アイデンティティーと利益

コンストラクティビストたちは国際的なアクターたちの振る舞いに対するアナーキーの決定的な影響に対するネオリアリズムによる結論を拒否し、ネオリアリズムの背後にある物質主義から距離を置いているので、国際関係論を理論化するために国際的なアクターたちのアイデンティティーや利益に必要とされる場を創造していた。アクターたちは自身で自身を助けるシステムからの束縛によって単純に支配されていないので、彼らのアイデンティティーや利益はどのように彼らが振る舞うかを分析することにおいて重要になっていた。国際的なシステムに固有な性質と同様に、物質的なパワーに客観的に基づいたもの(例えば古典的リアリズムにおける人間固有の性質)としてではなく、観念や観念に対する社会的構築の結果としてアイデンティティーや利益をコンストラクティビストたちは眺めていた。言い換えれば観念、目的の対象、アクターたちの意味はすべて社会的相互作用によって与えられていた。私たちは目的の対象にその意味を与え、異なったものに異なった意味を付与することが可能であった。

マーサ・フィネモアは、アクターがその利益を認識することにおける社会構築のプロセスに国際機関が含まれる方法を検証することにおいて影響力を有していた[11]。国際社会における国内の利益に関して、フィネモアは「パワーでなく社会的価値における国際的構造を検証することによって国家の利益や国家の振る舞いを理解するためのシステマティックなアプローチを展開しよう」としていた[12]。彼女は「利益は単にその外に存在している訳ではなく、発見されることを待っており、社会的相互作用を通じて構築されていた」と説明していた[12]。フィネモアはそのような構築に対して3つのケーススタディを与えており、ユネスコの影響による国家における科学官僚制の創造、ジュネーブ条約における赤十字の役割、貧困に対する態度に与えた世界銀行の影響が挙げられていた。

そのようなプロセスの研究は国家の利益やアイデンティティーに対するコンストラクティビストの態度の例であった。固有の性質や形成に対する研究は国際システムを説明することに対するコンストラクティビストの方法論にとって不可欠であったので、そのような利益やアイデンティティーは国家の振る舞いにとっての中心となる決定要因であった。しかし国家の特質であるアイデンティティーや利益に再びフォーカスしているにもかかわらず、コンストラクティビストたちは国際政治のユニット・レベル、つまり国家における分析にフォーカスすることを必然的に受け入れようとはしなかったことを記すことは重要であった。フィネモアやウェントのようなコンストラクティビストたちは、観念やプロセスがアイデンティティーや利益の社会構築を説明する傾向にある一方、そのような観念やプロセスは国際的なアクターたちに影響を及ぼす彼ら自身の構造を形成していることを強調していた。ネオリアリストたちとの主な区別は物質的というよりむしろ本質的に観念的に国際政治の構造を眺めていることにあった[13][14]。

2.3 研究分野

目標、脅威、恐れ、文化、アイデンティティー、他の「社会的現実」を示す要素を社会的事実として眺めることによって、多くのコンストラクティビストたちは国際関係を分析していた。重要なこととして[15]、コンストラクティビストの研究者たち[16]は国際政治の力学、特に軍事問題における多くのリアリストの仮定に疑念を投げかけていた。トーマス・J・ビアステーカーやシンシア・ウェーバー[17]は、国家の主権の進化を国際関係論における中心的なテーマとして理解するために、コンストラクティビストのアプローチを採用し、ロドニー・ブルース・ホール[18]やダニエル・フィルポット[19]等の仕事は国際政治の力学における主要な変化に対するコンストラクティビストの理論を展開していた。国際政治経済学ではコンストラクティビズムの適用はやや不活発であった。この分野におけるコンストラクティビストの業績の著名な例は、キャサリン・R・マクナマラによる欧州通貨同盟の研究[20]やマーク・ブライスによるアメリカにおいてレーガノミックスが生じたことに対する分析[21]を含んでいた。

どのように言語やレトリックが国際システムにおける社会的現実を構築するために用いられていたかにフォーカスすることによって、コンストラクティビストたちはしばしば純粋な物質主義者の存在論に忠実なリアリズムより国際関係における進歩に関して楽観的であったが、多くのコンストラクティビストたちはコンストラクティビストの思想が有する「リベラルな」特徴に疑問を投げかけており、パワー・ポリティクスから解放される可能性に関するリアリストの悲観論に大きな同情を寄せていた[22]。

コンストラクティビズムはしばしば国際関係論における二大理論、リアリズムやリベラリズムに代わるものとして示されてきたが、一部の人々はコンストラクティビズムが必然的に両者と矛盾するものではないと主張していた[23]。例えばアナーキーの存在や国際システムにおける国家の中心性のような主要なリアリストとネオリアリストの研究者が主張するいくつかの重要な仮定をウェントは共有していた。しかしながらウェントは物質主義者の意味でよりむしろ文化の中にアナーキーを据えており、同様に国際関係論におけるアクターとしての国家といった仮定を理論的に洗練して擁護していた。一部のコンストラクティビストたちはこれらの仮定の内のいくつかにおいてウェントに対して疑念を投げかけていたので、このことは国際関係論のコミュニティーにおいて論争になっていた(例えば、レビュー・オブ・インターナショナル・スタディーズ、vol.30、2004年の論争を参照せよ)。

2.4 最近の展開

社会構築のプロセスを研究している研究者の相当数のグループは意識して「コンストラクティビスト」とレッテルを貼られることを避けていた。彼らは、「主流派」のコンストラクティビズムは言語的側面からの最も重要な洞察や国際関係論における「科学的」アプローチとしての尊敬を追求することにおける社会構成主義の理論の多くを放棄していると主張していた[24]。例えばジェフリー・チェッケルのような一部の一般的に「主流派」とみられるコンストラクティビストたちでさえ、コンストラクティビストたちがコンストラクティビストでない学派の間に橋を架ける労力以上に遠いところに行ってしまったことに対する懸念を表明していた[25]。

相当数のコンストラクティビストたちが現在の理論は国際政治における習慣に基づいた分別のない振る舞いの役割に不十分な配慮しかしていないことに同意していた[26]。「実践」の擁護者たちは社会学者であるピエール・ブルデューと同様に神経科学の業績からインスピレーションを得ており、それは心理的、社会的生活における習慣の意義を強調していた[27][28]。

コヘインによれば、ネオリアリズムの理論と対照的に、国際システムがアナーキーであるにもかかわらず、ハイポリティックスの外で国家が協調することは可能であった。そしてネオリアリズムの理論と反対に、絶対利得への関心から、相互依存が必然的にシステムの不安定性を示さないのみならず、協調や安定性に貢献するだろうとされていた。

ネオリベラリズムの主張は、分散したシステムにおけるさまざまな協調的な振る舞いの可能性をネオリアリストたちが過小評価していることに対してフォーカスしていた。ネオリアリズムやネオリベラリズムの理論は国家やその利益を分析の主題として認識していたが、ネオリベラリズムはそれらの利益をより広い考え方の中に位置づけており、双方の理論が実証主義的であり、分析の主要な単位として国家システムに焦点を当てていたため、あるパラダイム内部の問題と認識される側面も有していた。

コヘインやナイによれば、国際政治においてリアリストによって想定される経路を含む国家による従来のウェストファリアシステムを超えた社会をつなぐ複数の経路が存在するといったことが非公式な政府との関係、多国籍企業、多国間組織の存在によって指摘されており、国家が単位として合理的に振る舞うといったリアリストによる仮定を緩めたときに、政府を超えた相互の関係が生じ、国家が唯一の単位であるといった仮定を除いたときに、国家を超えた相互の関係が生じ、それはリアリストによって擁護される限定的な国家間のつながりとは異なっているとの指摘が存在していた。

そして彼らによれば、外交政策において軍事力が唯一のものではなく、その軍事力は国家のアジェンダを実行する最高のツールである訳でもなく、最前線に異なるアジェンダが併存していることを意味していた。

また、ライバル陣営との関係で軍の役割は重要であるが、複雑な相互依存が浸透しているときに、軍事力の行使はないものとされ、複雑な相互依存が存在する各国において、紛争解決における軍の役割は否定されているとの議論が展開されていた。

他方リチャード・ネッド・ルボウによれば、ネオリアリズムの失敗はインスティチューショナリストの存在論の中にあり、ネオリアリストであるケネス・ウォルツが「(システム)の創造者たちは彼らの活動を生じさせる市場の創造物になっている」と述べていたことが論拠にされていた。これはアナーキーの苦境から抜け出すことができなかったリアリストによるものであり、国家が状況に適応せず、類似の制約や機会に対して類似の対応をするだろうといった仮定を問題にしていた。

コヘインやマーティンによれば、ネオリアリズムが「国際機関はわずかな影響力しか有していない」と主張し、そのことはEU、NATO、GATT、地域の貿易機関のような国際機関で国家がなす投資に対してもっともらしい説明を与えていないことが問題であった。さらに彼らによれば、どのように潜在的な状況による影響と国際機関自体の影響を区別できるのかが問題とされていた。

しかしミアシャイマーによれば、マーティンによるECに関する研究、特に、ECを背景にした諸問題とイギリスとの関連から影響を受けていたフォークランド紛争におけるイギリスによるアルゼンチンに対する制裁に関する議論は批判の対象であり、アメリカはECの加盟国ではないが、アメリカとイギリスが制裁に対して協調しており、結果として効果的に、加盟国に変更をもたらすアドホックな同盟を生じさせていたと主張していたが、コヘインやマーティンに対して、NATOは同盟であるので特別な関心を集めているといった点を認めていた。

ネオリアリズムは構造主義者による理論であり、それは国家のような分析の単位の振る舞いを決定する唯一の要因は国際システムにおけるアナーキーであると考えており、アナーキーを深く利己的な人間の性質によって説明するモーゲンソーやカーによる古典的なリアリズムの背景にある悲観的な人類学を拒否して、反対に国際秩序の構造による国際的な結果であるアナーキーは国家の下にあるすべての主権をなくすものであると主張していた。

そのため古典的なリアリストたちが国家の第一の関心を人間の性質が要求するパワーの追求の中に眺めることに対し、ネオリアリズムは国家の第一の関心を彼らの安全の中に眺めていると考えていた。このことは、軍事力を増大させることや同盟を築き上げることといった2つのオプションによって達成される可能性を存在させていた。しかしながらネオリアリストたちは国際関係はゼロサムゲームであると考える傾向にあり、そこでは勝利するものは誰でもその相手に敗北をもたらし、安全保障のジレンマやパワーのバランスに対する理論を導いていた。さらにネオリアリストたちは平和と民主主義を連携させる民主的平和論に対して非常に懐疑的であった。

古典的なリアリズムからネオリアリズムへのパラダイムシフトは1960年代に始まるアメリカの地位の相対的な衰退、つまり世界におけるアメリカのリーダーシップの弱体化を恐れたがゆえのことだった。第二次世界大戦後、アメリカは明確な覇権国家であり続け、石油へのアクセス権同様に、核兵器による安全保障とブレトンウッズ体制を通じた経済的安定を保障してきた。これらの経済的優位性のため、古典的リアリズムという広く普及した政治理論における政治的そして軍事的パワーを支える経済的基礎は論じられてこなかった。

しかし1960年代から世界総生産、世界総輸出におけるアメリカのシェアが落ち込む一方、貿易赤字やソ連との軍事的競争による予算の規模は増大し続けていた。1973年のブレトンウッズ体制の終焉は円、ドイツマルクや他の通貨に対するドルの価値の低下をもたらし、第四次中東戦争は第一次オイルショックをもたらし、初めてOPECがそのパワーを行使していた。さらに1973年のベトナムでの軍事的敗北、軍事分野や宇宙開発分野におけるソ連との拮抗、1979年のイラン革命が生じていた。アメリカに対するこれらの危機は古典的なリアリズムに対する危機をもたらし、経済を考慮した新しい理論としてのネオリアリズムを展開していた。そのためネオリアリストたちの目標はアメリカの衰退を押し止めるための政治学を構築することだった。

ウォルツによる「あなたは自身でそれをしなければならない。あなたは他の誰かを当てにすることはできない。彼はあなたを助けるかもしれないし、助けないかもしれない...」との不確実性を示す言葉があり、相互に対する信頼の欠如が重要な仮定とされており、そのことが国際的な国家システムの構造を特徴づけていた。

ネオリアリストによれば、実際に行われている協調の可能性は除外されており、それらは国家の利益のみを反映しているとされており、国際システムの構造として、多極、二極、一極構造が示されていたが、冷戦は二極システムであり、今日の私たちはアメリカを中心とした一極システムについて論じているとされているが、ウォルツによれば、ヨーロッパやアジアの発展とアメリカのヘゲモニーの過剰拡大によるリスクを背景にして世界は新しい多極システムに進化するだろうと結論づけられていた。

パワーが希少であるため、パワーを巡る闘争は一種の競争であると認識していたのは攻撃的ネオリアリストであるジョン・ミアシャイマーであり、パワーは十分に利用可能な状況にあると認識しており、そのため国家は現状を守ることでよいとしていたのは防御的ネオリアリストであるケネス・ウォルツであった。

ネオリアリズムに対する批判は特にソ連の崩壊や冷戦の終結から生じていた。なぜならこの理論は東西の対立のような二極システムは非常に安定であり、事実ほとんど半世紀にわたってそれは当てはまっていたと述べていたからであった。

つまりネオリアリストたちは、同盟を形成する外的に大きなパワーが存在しないので内部における均衡を通じて唯一均衡が生じる可能性があるといったことを理由にして、二極システムは多極システムよりも安定しており、大きなパワーによる戦争やシステマティックな変化が生じにくいと結論づけていた。そして外部における均衡よりむしろ、二極システムの内部における均衡が唯一存在していることを理由にすると、誤算の機会はより少なく、そのため大きなパワーによる戦争の機会もより少ないものとされていた。

他方でアナーキーから論理的なシステムが生じるのかどうかが疑問であり、構成主義者であるウェントは「アナーキーは国家が作り出すものである」と述べており、軍拡競争は国際システムの構造から必然的にもたらされるものではないと主張していた。政府が正しいシグナルを与え、信頼を形成していたならば、国家間の関係は全く異なった様相を示していただろうし、国家がすでに不信や疑念のサイクルにあったとしても、国家が再びこの構造を打ち破る可能性が存在していた。

ウィリアム・ウォルフォースやグレン・スナイダーによるネオクラシカルリアリズムが問題とされることがあるが、ネオリアリストの研究にはいくつかの矛盾を含む仮定が存在しており、例えば国家は勢力均衡(ウォルツ)の中にあると同時にバンドワゴン・プロセス(スティーヴン・ウォルト、ランドール・シュウェラー)の中にも存在していることが挙げられていた。短期のバンドワゴン効果はリソースの再構築を促すかもしれなかったが、長期においては勢力均衡を崩す振る舞いに至ると考えられていた。またアクターのリソースの定量化にも問題が生じており、このことは潜在的な同盟を予測するために必要なことであるとされていた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、ドイツ、フランス、アメリカのWikipediaの「ネオリベラル・インスティチューショナリズム」、「国際関係論におけるネオリベラリズム」、「ネオリアリズム」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://de.wikipedia.org/wiki/Neoliberaler_Institutionalismus

ネオリベラル・インスティチューショナリズム

ネオリベラル・インスティチューショナリズムもしくは単に新自由主義や制度学派は国際機関の創設や機能を模索する国際関係論になる。国際政治における協調を新しく説明するものとして、それは1970年代から1980年代に展開されていた。その創始者と長い間最も重要な代表者であったのは、ロバート・O・コヘイン、ジョセフ・ナイ、スティーヴン・D・クラズナーだった。ネオリベラル・インスティチューショナリズムは国際制度学派における唯一の注目すべき理論であったが[1]、機能主義、イギリスの学派、国際カルテルに関する理論の支持者たちによって異議を唱えられていた。

1 歴史的展開

1980年代までにその方向性を明らかにした後、国際機関の登場や機能に関する研究は実質的にすべてのものに論拠を据えていた。理論的な上部構造を有していないが、スティーヴン・クラズナーが1983年に発表した『国際レジーム』やロバート・コヘインが1984年に発表した『覇権後の国際政治経済学』は国際機関の特徴に関する科学的議論を刺激していた[2]。

しかし批評家たちはこれらの科学者たちを批判しており、それは独特でない、つまり1980年代に実証されることなく、国際機能主義の理論を用いていることにあった。この剽窃に対する批判はアメリカの政治学者であるフィリップ・C・シュミッターによってなされていた。これは「国際レジーム分析」で最も有名なコヘインやクラズナーを含む国際関係論におけるオリジナリティに対して行われており、それらは新機能主義からの借用を表現しているとして、「いくつかの理論的な核心部分が存在していたが、私には非常によく知っているもののように聞こえていた。[...]たとえ異なった生き物として通常名称を変更されていたにせよ、新機能主義の思想は現在でも生きていることに気がついた」との発言があった[3]。

2 基本的な仮定

国際政治のアクターとして各国における国家と社会的グループの双方が重要であった。たしかに内部の状況や国家の外交政策における利害関係に影響を受けるかもしれないが、国際舞台における国家の振る舞いは社会的グループの影響力にまで落ち込むことはないとされていた。

最終的には彼らの利益に一致する行動を選択するよう、アクターは彼らの利益に照らして合理的に異なった政策のオプションを評価するといった仮定に基づく合理的決定の理論の仮定に、さまざまなネオリベラル・インスティチューショナリズムの理論は基づいていた。

アナーキーな国際システムは各国と社会の間の相互依存からますます影響を受けるようになっていた。

国境を超えた相互依存はステークホルダー間の協調に対する関心を増加させ、国際機関の形成を導いていた。国際機関は固有の力学を展開し、それを通じて国家の振る舞いや時には規制の中身にも影響を与えていた[4]。

ネオリベラル・インスティチューショナリズムにおける中心的な仮定は、国際政治が国際機関によるルールや規範に支配されるといったことであった。 その結果ネオリベラル・インスティチューショナリズムは、どういった状況で国際機関は発展し、どのように対外的もしくは国内における政策は関連する国家に影響を及ぼし、どのようにそれらは効率性を高めるために構築されねばならないかといった問題に特に関心を寄せていた。

ネオリアリズムの理論と対照的に、国際システムがアナーキーであるにもかかわらず、ハイポリティックスの外で国家が協調することは可能であると、コヘインは主張していた。そしてネオリアリズムの理論と反対に、国家は相対利得だけでなく絶対利得にも関心があり、この理論によれば、相互依存は不安定性を導かないのみならず、協調や安定性にも貢献するだろうとされていた。

このことによりコヘインはシステムに統合される大きさが異なるのでコンベンション、レジーム、インスティチュートを明確に区別していた。コンベンションを彼はインフォーマルなルールと呼んでいたが、それらは修正されることなく、それらの妥当性を展開していた(例えば赤絨毯のコンベンション)。レジームは規範や価値を示し、それは契約の形式で目に見えるようになっており(例えば、気候協定)、「秩序に対する議論」を示していた。組織は「適切な単位であり、効果をもたらし、課題を克服し、対処するために活動することが可能であった」(コヘイン)。

これらの議論は異なった理論的アプローチを通じて行われ、異なったレベルの説明から始まっていた。紛争理論は個々の紛争の対象のタイプによって国際機関の形成の可能性を導いていた。紛争が当事者によってどのように評価されているのかに依存しているが、容易もしくは困難な状況における紛争を管理する国際機関の形成によって紛争は解決されるとされていた。紛争の評価では、協調的な紛争の管理が実現しそうになくとも、紛争の手段で、共通の目標を達成するのに十分な手段によって、国際機関に支持された協調的な紛争の解決が実現する可能性が存在していた。利害関係を巡る紛争において、絶対的に評価される富(当事者が同じ権利を望んでおり、それが皆に対して十分でない)を巡る紛争と、相対的に評価される富(紛争の当事者にとって、まず他より多く与えられるかが重要である)を巡る紛争は区別されていた。紛争理論によれば、前者における協調的な紛争管理は容易に達成可能であった。利害関係を巡る理論は利害のまとまりごとに異なっており、関連するアクターの状況に対する国際機関による紛争解決の可能性は条件づきのものであった。さらに分析の中で、単なる国際レベルでの利害関係(状況を構造化するアプローチ)と社会レベルでの利害関係(外交と国内政治といった2つのレベルのアプローチ)における区別が加えられていた。ゲーム理論によって、相互依存の中での意思決定は定式化され(4つの分野におけるパターン)、その結果、どのように個々のアクターが利益を実現するかはどのように他のアクターが彼らの利益を実現するかに依存していることが明らかになっていた。

制度の影響に関する理論は人為的組織の形成に関心はなく、国際的な制度の影響に関心があった。さまざまな国際機関の効果は国際機関の設計によって説明されることを前提としていた。ここで国際機関の設計は十分に個々の利害関係を代表しているのかといった問題が中心となっていた。利害関係に依存する中、さまざまな国際機関の設計が妥当であると考えられていた。

3 「国際機関」という用語

国際機関は規範を目標にした行動をとると考えられていたので、個々のアクターの相互の振る舞いは調和に向かうと考えられていた。特にここでは国際体制や国際組織の役割が重要になっていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Neoliberalism_in_international_relations

国際関係論におけるネオリベラリズム

国際関係論において、国民国家は他の国民国家に対する相対利得よりむしろ絶対利得に対して少なくとも最初に関心を抱くべきであると考えている学派に対して、ネオリベラリズムは言及を行なっていた。ゲーム論のような共通の方法論を用いていたけれども、この理論はしばしば経済上のイデオロギーである新自由主義と混同されていた。

1 国際システムにおける活動

なぜ国家が協調したり、しなかったりするのかを説明するために、ネオリベラル的国際関係論の思想家たちはしばしばゲーム論を用いていた。彼らのアプローチは相互の成功の可能性を強調していたので、彼らは有益な調整や妥協を生む可能性がある国際機関に関心を抱いていた。

ネオリベラリズムはネオリアリズムに対する反応であり、国際システムのアナーキーな特徴を否定しない一方、その意義や影響が誇張されすぎていると、ネオリベラリストたちは主張していた。ネオリベラリズムの主張は、「分散したシステムにおけるさまざまな協調的な振る舞いの可能性」をネオリアリストたちが過小評価していることにフォーカスされていた[2]。双方の理論はしかしながら国家やその利益を分析の主題として認識しており、ネオリベラリズムはそれらの利益をより広い考え方の中に位置づけていた。

自律的であり合理的な国家によるアナーキーなシステムにおいてさえ、規範、制度、国際機関の創設を通じて協調が生じる可能性があると、ネオリベラリズムは主張していた。

国際関係論や外国介入主義における意味で、双方の理論が実証主義的であり、分析の主要な単位として国家システムに焦点を当てていたため、ネオリベラリズムとネオリアリズムとの間における論争はあるパラダイム内部の問題であった。

2 展開

ロバート・コヘインとジョセフ・ナイはネオリベラル的な思想の創始者とみなされていた。コヘインの著作である『覇権後の国際政治経済学』はこのジャンルの古典になっていた。もう1つの主な影響はスティーヴン・クラズナー、チャールズ・P・キンドルバーガー、他による覇権安定論であった。

3 内容

3.1 コヘインとナイ

ネオリアリズムに対して、ロバート・O・コヘインやジョセフ・S・ナイは、「複雑な相互依存」を示す反論を展開していた。ロバート・コヘインやジョセフ・ナイは「複雑な相互依存は時としてリアリズム以上に現実に近づいていた」と説明していた[3]。この説明の中でコヘインとナイは現実的な3つの仮定を内包していた。最初に、国家は合理的な単位であり、国際関係における主要なアクターであった。次に、パワーは政策における使用可能で、効果的なツールであった。最後に、国際政治においてハイアラーキーが存在しているとの仮定を置いていた[4]。

コヘインやナイの主張の核心は、事実国際政治において国家による従来のウェストファリアシステムを超えた社会をつなぐ複数の経路が存在するといったことであった。非公式な政府のつながりから多国籍企業、多国間組織に至るまで多くの形で、このことは示されていた。ここに彼らは彼らの用語を定義していた。国家間の関係はリアリストによって想定される経路を含み、国家が単位として合理的に振る舞うといったリアリストによる仮定を緩めたときに、政府を超えた相互の関係が生じ、国家が唯一の単位であるといった仮定を除いたときに、国家を超えた相互の関係が適用されていた。それは、リアリストによって擁護される限定的な国家間のつながりを通じてではない、政治的な交流が生じる経路を通じていた。

そしてコヘインやナイは事実諸問題におけるハイアラーキーは存在していなかったと主張し、外交政策において軍事力が唯一のものではなく、そしてその軍事力は国家のアジェンダを実行する最高のツールである訳でもなく、最前線に異なるアジェンダが併存していることを意味していた。国内政策と外交政策の間の境界線はこの場合不明確になり、現実として、国家間の関係における明確なアジェンダは存在していなかった。

最後に、複雑な相互依存が浸透しているときに、軍事力の行使はないものとされていた。この考え方は、複雑な相互依存が存在する各国において、紛争解決における軍の役割は否定されているとの議論を展開していた。しかしながらコヘインやナイは「ライバル陣営と同盟が有する政治的、軍事的関係」の意味で、軍の役割は事実として重要であると述べていた。

3.2 ルボウ

リチャード・ネッド・ルボウは、ネオリアリズムの失敗は「インスティチューショナリスト」の存在論の中にあると述べ、ネオリアリストの思想家であるケネス・ウォルツが「(システム)の創造者たちは彼らの活動を生じさせる市場の創造物になっている」と述べていたことを論拠にしていた。この重大な失敗はルボウによれば、「アナーキーの苦境から抜け出すこと」ができなかったリアリストによるものであった。むしろ国家は状況に適応せず、類似の制約や機会に対して類似の対応をするだろうといった仮定が問題になっていた。

3.3 ミアシャイマー

LSEの古典的な経済自由主義者であるノーマン・エンジェルは「私たちは、私たちの国における政治的軍事的優越によって現在のシステムの安定性を、他方でライバルにその意思を強制することによる同盟の安定性を確信することができない」と述べていた。

コヘインやリサ・L・マーティンは1990年代中頃にこれらの考え方をジョン・J・ミアシャイマーの『国際機関による嘘の約束』に対応させて詳しく説明しており、そこでミアシャイマーは「国際機関は国がその短期的なパワーを最大化させることを止めさせることができない」と主張していた[7]。実際、ミアシャイマーの論文はネオリアリズムに対して生じたリベラル・インスティチューショナリストの運動に対する直接的な反応を示していた。コヘインやマーティンの考え方の主要な点は、ネオリアリズムが「国際機関はわずかな影響力しか有していない」と主張し、そのことはEU、NATO、GATT、地域の貿易機関のような国際機関で国家がなす投資に対してもっともらしい説明を与えていないということだった[8]。この考え方は複雑な相互依存の概念に沿うものであった。さらにコヘインやマーティンは、国際機関は国家の利益に沿って創設されており、現実に生じている課題は「どのように潜在的な状況による影響と国際機関自体の影響を区別するのかを知ることである」といった事実を論じていた[9]。

しかしながらミアシャイマーは「自己の価値基準で目的を決定する」国際機関に関心があり、その自己の価値基準で目的を決定する国際機関は加盟国の行動に影響を与えることによって平和をもたらすことを目指している」と述べていた。そうすることで、彼はコヘインやマーティンによる欧州共同体(EC)や国際エネルギー機関といった例を肯定する中でのNATOに関する議論を退けていた。ミアシャイマーによれば、NATOの議論は同盟に関するものであり、「同盟が抑止し、強制し、戦争において敗北に導くことを意図している国家の外部や国家の連合」に対してその関心が向けられていた。しかしミアシャイマーは、NATOは同盟であるので、特別な関心を集めているといった理由付けを行なっており、コヘインやマーティンに対してこの点を認めていた[10]。

ミアシャイマーはマーティンによるECに関する研究、特に、ECを背景にした諸問題とイギリスとの関連から影響を受けていたフォークランド紛争におけるイギリスによるアルゼンチンに対する制裁に関する彼女の議論を批判していた。ミアシャイマーは、アメリカはECの加盟国ではないが、アメリカとイギリスが制裁に対して協調しており、結果として効果的に、加盟国に変更をもたらすアドホックな同盟を生じさせていたと主張していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Néoréalisme_(relations_internationales)

ネオリアリズム(国際関係論)

ネオリアリズム(構造的現実主義とも呼ばれる)は国際関係論における理論的な学派である。それはケネス・ウォルツによって彼の著作である『国際政治の理論』(1979)の中で創り上げられていた。ロバート・ギルピン、ジョゼフ・グリエコ、ロバート・ジャーヴィス、ジョン・ミアシャイマー、ジャック・スナイダー、スティーヴン・ウォルトのような著者たちはこの学派に分類されていた。

ネオリアリズムはアメリカ政治学を中心にして展開されていた。厳格な実証主義に基づいて(当時アメリカの社会科学は行動科学革命によって特徴付けられていた)、「古典的な」リアリズム(エドワード・ハレット・カー、ハンス・モーゲンソー、ラインホルド・ニーバーによる)を定式化する試みが行われていた。

1 基本的な諸原則

ネオリアリズムは構造主義者による理論であり、それは国家のような分析の単位の振る舞いを決定する唯一の要因は「国際システム」におけるアナーキーであると考えていた(彼らはシステマティックな考え方の対極にあるアナーキーを特に懸念していた)。言い換えれば、それは外交政策に対する国内政治(政府、紛争、内部分裂の推移)の意味を過小評価する危険を冒しながら、国家間の関係を強調する国際関係に関する分析を主張していた。

アナーキーを深く利己的な人間の性質によって説明する古典的なリアリズム(モーゲンソーやカー)の背景にある悲観的な人類学を拒否して、ネオリアリストたちは反対に、国際秩序の構造による国際的な結果であるアナーキーは国家の下にあるすべての主権をなくすものであると主張していた。アクターの動機に対する分析を反映するというよりもむしろ、彼らは国際秩序の構造的制約を強調していた。彼らは「正当な暴力の独占」を要求する主権国家と国家の概念の中心的な特徴を欠いている国際秩序との区別を強調していた。

そのため古典的なリアリストたちが国家の第一の関心をパワーの追求の中に眺めること(人間の性質が要求している)に対し、ネオリアリズムは国家の第一の関心を彼らの安全の中に眺めていると考えていた。このことは、軍事力を増大させることや同盟を築き上げることといった2つのオプションによって達成される可能性が存在していた。しかしながらネオリアリストたちは国際関係はゼロサムゲームであると考える傾向にあり、そこでは勝利するものは誰でも必然的にその相手に敗北をもたらし、「安全保障のジレンマ」やパワーのバランスに対する理論を導いていた。さらにネオリアリストたちは平和と民主主義を連携させる「民主的平和論」に対して非常に懐疑的であった。

http://de.wikipedia.org/wiki/Neorealismus_(Internationale_Beziehungen)

ネオリアリズム(国際関係論)

ネオリアリズム(構造的現実主義とも呼ばれる)は国際関係論におけるパラダイムであり、その古典的リアリズムの仮説はエドワード・ハレット・カー(『危機の二十年―國際關係研究序説』、1939年、1946年)やハンス・モーゲンソー(『理知的人間対パワー・ポリティクス』、1947年、『国際政治学――力と平和のための闘争』、1948年)に由来していた。

ネオリアリズムは、一方で1960年代のアメリカの社会科学に対する行動科学革命における、他方で経済学の新自由主義におけるそこまでの人文科学の反応を示していた。さらにそれはネオリベラル・インスティチューショナリズムにおける国家間の経済的協力を取り上げて、国家の安全保障まで議論を戻していた。そのため論争(ネオ・ネオ論争)はパラダイムの由来に関する原理的な論争を繰り返し、拡大基調で認識論的に不安定な様相を示していた。

ネオリアリズムの重要な先駆けとして、1979年におけるケネス・ウォルツの代表作である『国際政治の理論』の出版が挙げられていた。ネオリアリズムの重要な派生概念として攻撃的リアリズム、防御的リアリズム、覇権サイクル論が挙げられていた。

安全保障を強調し、ネオリアリストを頻繁に取り上げることを通じて、そのパラダイムは核戦略の研究に重大な影響を及ぼしていた。

1 歴史的背景

古典的なリアリズムからネオリアリズムへのパラダイムシフトは1960年代に始まるアメリカの地位の相対的な衰退、つまり世界におけるアメリカのリーダーシップの弱体化を恐れたがゆえのことだった。第二次世界大戦後、アメリカは明確な覇権国家であり続け、石油へのアクセス権同様に、安全保障(核兵器による)と経済的安定(ブレトンウッズ体制を通じて)を保障してきた。これらの経済的優位性のため、古典的リアリズムという広く普及した政治理論における政治的そして軍事的パワーを支える経済的基礎は論じられてこなかった。

しかし1960年代から世界総生産、世界総輸出におけるアメリカのシェアが落ち込む一方、貿易赤字や予算の規模(ソ連との軍事的競争による)は増大し続けていた。ブレトンウッズ体制の終焉(1973年)は円、ドイツマルクや他の通貨に対するドルの価値の低下をもたらし、第四次中東戦争は第一次オイルショックをもたらし、初めてOPECがそのパワーを行使していた。さらにベトナムでの軍事的敗北(1973年)、軍事分野や宇宙開発分野におけるソ連との拮抗、イラン革命(1979年)が生じていた。アメリカに対するこれらの危機は古典的なリアリズムに対する危機をもたらし、経済を考慮した新しい理論としてのネオリアリズムを展開していた。そのためネオリアリストたちの目標はアメリカの衰退を押し止めるための政治学を構築することだった。

2 ウォルツによる「構造的現実主義」

まず第一にケネス・ウォルツによるネオリアリズムは国家や国際システムに対していくつかの基本的な仮定を置いていた。

国家は一貫性を有し、均一で均質なそして合理的なアクターである。このことは、民主制か独裁制かはネオリアリズムにとって意味をなしていないことを示していた。これらの下位システム上の要因は意識的にネオリアリストの論理から除外されていた。

国家間の唯一の違いは潜在的パワーであった。

国家は秩序における明確な選好を有しており、まず国家はいわゆるハイポリティックス(安全保障、独立、生存)に従い、つぎにローポリティックス(他のすべて)に従っていた。

国際システムはアナーキーであり、包括的な規制および監督の主体(世界政府といった意味で)を有していなかった。

システムは力の原理によって動いており、その原理は国家にその利益を追求させる唯一のものであった。モーゲンソーによる古典的であり人類学的なリアリズムと対照的に、国家自身の安全の維持は国家の最優先事項であった(パワー自身といった意味ではない)。

上記の事項からネオリアリストたちは国家の自己支援戦略や他者の意図に対する永続的な不確実性を導いていた。ウォルツの言葉を借りれば以下のように示される。

あなたは自身でそれをしなければならない。あなたは他の誰かを当てにすることはできない。彼はあなたを助けるかもしれないし、助けないかもしれない...。

そのため相互に対する信頼の欠如が重要な仮定になり、そのことは国際的な国家システムの構造を特徴づけていた。古典的なリアリズムと対照的にまずウォルツはシステマティックなネオリアリズムの理論を展開しようとしていた。ウォルツはそこから強制力の研究を行い、その強制力は国家のために国際的な国家システムの構造から生じており、そこから演繹的に展開されていた。

事実に基づけば、パワーが利益を追求するための唯一の効果的な手段であることは常に相対利得にのみ依存していた。そのことは、他の国家がより多くのパワーに関する利得をそれ自体としてもたらすことはないことを意味していた。したがってネオリアリストたちは実際に行われている協調の可能性を除外していた。国際機関は協調的な構造として認識されていなかった。なぜならそれらは国家の利益のみを反映していた(このことはNATOの例で明確に説明することが可能であった)。ヘゲモニーの影響下や上位のパワーに対抗する同盟の形成においてのみ、協調は成功するとされていた。後者から推論されることは、ネオリアリストたちは特に勢力均衡戦略を示唆していることであった(一方で例えば、テロの均衡、利益の均衡、脅威の均衡戦略が予想されていた)。

これを背景にしてネオリアリストたちは国際システムの構造を示していた。そのアナーキーな特徴に加えて、それはさまざまな対立点を示していた。利用できるパワーに依存しながらも、それは多極、二極、一極構造を示す可能性が存在していた。冷戦は二極システムといった歴史的状況を示していた。今日私たちは一極システム(アメリカ)について論じることが可能になった。しかしウォルツはこのことから世界は新しい多極システムに進化するだろうと結論づけていた。彼は根拠としてヨーロッパやアジアの発展やアメリカのヘゲモニーの過剰拡大によるリスクに言及していた。

ネオリアリストたちの内部における最も重要な結果は攻撃的ネオリアリストと防御的ネオリアリストを区別したことにあった。前者には例えばジョン・ミアシャイマーが挙げられ、後者では例えばケネス・ウォルツが挙げられた。パワーは希少であるため、攻撃的リアリストたちはパワーを巡る闘争を一種の競争として認識していた。対照的に防御的リアリストたちは、パワーは十分に利用可能な状況にあると認識しており、そのため国家は現状を守ることでよしとされていた(勢力均衡)。

3 ネオリアリズムに対する批判

ネオリアリズムに対する批判は特にソ連の崩壊や冷戦の終結から生じていた。なぜならこの理論は二極システム(東西の対立のような)は非常に安定である(事実ほとんど半世紀にわたってそれは当てはまっていた)と述べていたからであった。ネオリアリズムの論者たちはこの周知されることになった反論に対して、これらの異常な状況は国際関係論が扱う一般的な事柄に含まれないと反論していた。世界で連続的に生じていることは、過剰で稀に生じる根本的な変化よりはるかに重要であった。しかしながらこれらを説明するために、ネオリアリズムは良かれと思われる回答を用意していた。

さらにアナーキーから実際に論理的に自己支援システムが生じるのかどうかが疑問であった。その上で構成主義者であるウェントは「アナーキーは国家が作り出すものである」と述べていた。ウェントは、自己支援システムや軍拡競争は国際システムの構造から必然的にもたらされるものではないと主張していた。なぜなら他の国家のリスクに対する評価はこの国家の活動の可能性に依存していたからであった。ウォルツが想定したように、政府が正しいシグナルを与え、信頼を形成していたならば、国家間の関係は全く異なった様相を示していただろう。国家がすでに不信や疑念のサイクルにあったとしても、自己支援システムが確立しているならば、国家が再びこの構造を打ち破る可能性が存在していた。

最後に、国家の内部における体制が実際に副次的意義を有するかどうかについては疑義が存在していた。この異論はインスティチューショナリズムやリベラリズムといった競合する理論の論者たちからとりわけ示されていた(アンドリュー・モラフチークは民主的平和に関する原理におけるさまざまな著者たちと同様に価値の高い貢献を行なってきた)。現在ネオリアリズムは再び解釈上の要素を拡大してきていた。またウィリアム・ウォルフォースやグレン・スナイダーによってネオクラシカルリアリズムが問題とされていた。

ドイツ語圏では、ゴットフリート・カール・キンダーマン、ヴェルナー・リンク、アレクサンダー・ジートシュラーク、ベンジャミン・フォン・トワルドーフスキー、カルロ・マサラ、クリストフ・ローデがこのアプローチを代表していた。キンダーマンの情勢分析は1970年代にすでに重要な方法論的イノベーションを展開していた。

科学的観点から、ネオリアリストの研究にはいくつかの矛盾を含む仮定が存在しており、例えば国家は勢力均衡(ウォルツ)の中にあると同時にバンドワゴン・プロセス(スティーヴン・ウォルト、ランドール・シュウェラー)の中にも存在していることが挙げられていた。この振る舞いは時間軸上の経路に依存していると考えられていた。短期のバンドワゴン効果はリソースの再構築を促すかもしれなかったが、長期においては勢力均衡を崩す振る舞いに至ると考えられていた。批評家によって指摘された理論内部の矛盾はそのような説明によって課題にされている可能性が存在していた。大きな問題はアクターのリソースの定量化にも存在していた。このことは潜在的な同盟を予測するために必要なことであった。

この理論が応用可能な潜在的分野はエネルギー政策といった分野が対象とされており、それは外国との経済的同盟を生じさせる可能性が存在していた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Neorealism_(international_relations)

国際関係論におけるネオリアリズム

ネオリアリズムや構造的現実主義はケネス・ウォルツによって1979年の著作である『国際政治の理論』の中で示された国際関係における1つの理論であった。ウォルツはシステマティックなアプローチに賛同しており、国際的な構造は国家の振る舞いにおける制約として作用し、結果が想定された範囲内におさまるように国家のみが生存戦略を実行すると主張していた。このシステムは、市場に基づいた価格と取引量を企業が設定するミクロ経済学と類似していた。

アメリカの政治科学の伝統の中で主に展開されてきたネオリアリズムは、E・H・カー、ハンス・モーゲンソー、ラインホルド・ニーバーといった古典的なリアリストの伝統を厳格な実証主義的社会科学の中に再定式化することを望んでいた。

1 理論

ネオリアリズムは国際政治を説明するために「人間性」のような本質的な概念を扱う古典的なリアリズムの採用を避けていた。その代わりにネオリアリストたちは、エージェントたちの戦略や動機に対して構造的な制約を与える理論を展開していた。

ネオリアリズムは、国際的な構造がアナーキーであるといったその秩序原則によって、また潜在能力の状態によって定義され、国際システム内のパワーの数によって測定されるといった見解を支持していた。国際的な構造におけるアナーキーな秩序原則は分権化され、公式に中央に存在する権威を有しておらず、公式には平等な主権国家から構成されていた。これらの国家は自己支援の論理に従って振る舞い、彼ら自身の利益を追求し、他の利益に従属する意思は存在していなかった。

他の目標を追求するための前提条件として、国家は最低でも自身の生存を確かめることを望んでいることが想定されていた。生存の推進力は国家の振る舞いに影響を及ぼす第一の要因であり、同様に外国介入主義を目的に手段として国家の相対的パワーを増大させるために、攻撃的軍事力を国家が開発していることを確認していた。国家は他の国家の将来の意図を確かめることができないので、パワーの相対的損失に対して用心することを要求する国家間の信頼の欠如が存在しており、その相対的損失は他の国家が彼らの生存を脅かすことを可能にしていた。不確実性に基づいた信頼の欠如は安全保障のジレンマと呼ばれていた。

国家は必要性の点では類似しているが、それらを達成する能力の点では類似していなかった。能力の点での国家の地位の位置づけは潜在能力の分布を決定していた。そこで潜在能力の構造的分布は、他の国家によってなされる相対利得に対する恐れや他の国家に従属する可能性を通じて、国家間の協調を制限していた。相対的パワーを最大化するための個々の国家の欲望や相対的能力はお互いを牽制しており、「勢力均衡」が生じ、国際関係を形成することになっていた。そのことは同様に全ての国々が直面する「安全保障のジレンマ」を生じさせていた。国家がパワーを均衡させるには2つの方法があり、1つは内部における均衡であり、他方は外部における均衡であった。内部における均衡は経済成長を増大させたり、軍事支出を増加させることによって、自身の潜在能力を国家が成長させるときに生じていた。外部における均衡はより力のある国家や同盟のパワーを抑制するために国家が同盟に加わるときに生じていた。

ネオリアリストたちは、潜在能力の分布の変化に従って、基本的に3つの可能なシステムが存在し、それは国際システムにおける大きなパワーの数によって定義されていると論じていた。一極システムは唯一の大きなパワーを含み、二極システムは2つの大きなパワーを含み、多極システムは2つ以上の大きなパワーを含んでいた。ネオリアリストたちは、同盟を形成する外的に大きなパワーが存在しないので内部における均衡を通じて唯一均衡が生じる可能性があるといったことを理由にして、二極システムは多極システムよりも安定している(大きなパワーによる戦争やシステマティックな変化が生じにくい)と結論づけていた[1]。外部における均衡よりむしろ、二極システムの内部における均衡が唯一存在していることを理由にすると、誤算の機会はより少なく、そのため大きなパワーによる戦争の機会もより少ないものとされていた[2]。

ネオリアリストたちは、戦争は国際システムのアナーキーな構造の影響であるので、今後とも継続する可能性があると結論づけていた。事実ネオリアリストたちはしばしば、トゥキディデスの時代から核戦争の端緒に至る時代まで、国際システムの秩序原則は基本的に変化していないと主張していた。長期的な平和が達成されそうにないとの見方は国際関係論における主に悲観的な見方として他の論者によって示されていた。ネオリアリストたちの理論に対する主な反論の1つは民主的平和論や『ネバー・アット・ウォー』といった著作のような研究であった。望ましい経験的事実によって民主的平和論の論者たちは民主主義の定義を選び取る傾向にあると主張することによって、ネオリアリストたちはこの反論に答えていた。例えばドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ドミニカ共和国のフアン・ボッシュ、チリのサルバドール・アジェンデは民主的であると考慮されておらず、これらの論者たちによれば紛争は戦争として認められていなかった。さらに彼らは民主的平和論が説明する以外の要因のみによって、民主主義国家間のいくつかの戦争は回避されたと主張していた[3]。

ネオリアリズムに対して1970年代にロバート・コヘインやジョセフ·ナイによって展開された新自由主義理論は経済学やゲーム論の分野における同義語と混同されるべきではないが、国際システムはアナーキーであり、国家は中心的なアクターであり、同時に国家は合理的だがエゴイスティックなアクターであるといったいくつかの現実的な考え方を支持しており、国家群を機能させるために国際協調を促し、無秩序に内在する不確実性を減少させることを提唱していたが、パワーの増大が常に他のパワーを犠牲にしてなされているといった現実的な観点を無視しているといった指摘も存在していた。

ジョセフ·ナイは、アメリカの覇権主義的な立場は様々な要素の組み合わせの下で弱まっていくだろうと考えており、またアメリカの孤立主義に反対しており、国境を越えた相互依存関係に関連した多くの問題を取り上げていた。そして、ブッシュの政策を検証しており、その単独行動主義と農業政策はパワーの変化を顧みることに失敗しており、ソフト・パワーを無視していたと述べていた。

コリン·パウエルは2003年の世界経済フォーラムで政治的アクターの能力を表すためにソフト・パワーの概念を用い、その考え方は1990年代のアメリカにおいて展開されていたが、その類似した考え方は19世紀のイギリスで生まれたものだった。部分的にはイギリスの文化や文学(シェークスピア、シャーロック・ホームズの冒険、ルイス・キャロルの不思議の国のアリス)を通じて、多くの国々によってフェアプレイやアマチュアリズムのような基準が採用され、イギリスが19世紀から20世紀初頭において強い影響力を行使することができるようになっていたことを背景にしていた。

ジョセフ・ナイにとって、ソフト・パワーは強制(アメと鞭)では機能しない現代の国際政治における新しいパワーの形態であるが、新たな認識の下であなたの国々と同じことを他国が望んでいることを確認させることでもあった。そしてそれは国家に対する肯定的なイメージや評判のような無形のリソースであった。

ナイによれば、アメリカは他の諸国より大きなパワーを有しているが、個人的なアクターの興隆によってグローバル経済において以前ほどのパワーを有することはなく、個人的なアクターはまとまりのない中で影響力を増大させると見られていたが、グローバル・ガバナンスに対する個人の影響力の寄与に関して結論を引き出すことはなかった。短期的にアメリカは、普遍的な価値を促進し、アメリカの政策を受け入れるための魅力を維持し、反米感情の展開を避けるために、国際機関に依存しなければならなかったが、長期的には、パワーの均衡へ世界を導くことによって、新しい技術の普及がアメリカの無形のリソースを低下させると見られていた。

一般的に、共和党が純粋なパワー・ポリティクスに惹かれている(共和党所属の多くはアメリカの価値観を広め、その対外イメージを改善する公共外交を望むだろう)ことと反対に、民主党は支持を取り戻すためにソフト・パワーの理念に言及することが多かった(バラク・オバマによって提案された政策に関連してよく用いられる概念であった)。しかしナイ自身は「冷戦期にそうであったように、アメリカはハード・パワーとソフト・パワーをスマート・パワーの中に融合させていた」と述べていた。2009年2月21日ソウルで、アメリカ国務長官であるヒラリー・クリントンは、オバマ政権のスマート・パワー戦略を構築したいと述べていた。

映画はソフト・パワーのツールとして重要な例だった。アメリカ人はアメリカ海軍特殊部隊の勝利とテロリストの死をもたらす大統領の決定で終わるキャスリン·ビグローによる最近の長編映画のタイミングについて議論していた。一方ペンタゴンは例えばトップガンのようにハリウッドの映画製作者たちと協力し合う長い伝統を持ち合わせており、軍は上映に対してその影響力を鼻にかけ、助言や戦争の現場で用いられる素材を提供し、たとえばリドリー·スコットが『ブラックホーク・ダウン』(2001)を撮影する際、ソマリアでのアメリカ兵の別の側面を示すために、ヘリコプターやそのパイロットを貸し出していた。しかしコッポラの『地獄の黙示録』に対して軍は援助を拒否していた。

ソフト・パワーのリソースとして、映像業界は影響力や正当性における主要な地位を示しており、公共の場における外交は産業時代における外交とはもはや異なっていた。日本の松下がミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカを買収したとき、日本に対する批判を封じ込めることを松下が表明していたため、製作のプロセスや情報発信に対する日本側のコントロールや日本の伝統である自己批判の欠如が日本の信頼性にとって致命的になっていた。この日本の監視の文化や日本政府によるコントロールにとらわれ、日本は世界との接点を探ることに失敗していた。日本がパワーの外に正当性を訴えることは不可能になっていた。しかしほとんど補助金を得ておらず独立しているイスラエルの映画は、戦争に直面している国に対する批判的な見解(『バシールとワルツを』、『ビューフォート』)、住民が困難に遭遇し、同性愛に関連した(『バブル』、『ウォーク・オン・ウォーター』)、家族(『シリアの花嫁』)、宗教的過激主義(『カドッシュ』)を提供することができていた。プロパガンダを行うことでなく個人を強調することに成功した例として、『ペルセポリス』とイラン、『カブールの子供』とアフガニスタンの関係が挙げられていた。

『不滅の大国アメリカ』(1990)の中で、ナイは超大国としてのアメリカの早期の終焉を予想するいわゆる「ディクライニスト」の見解に反論し、伝統的な理論に対する固執が現代政治における政府の戦略を誤ったものに導く可能性があることを指摘していた。そしてこの本の中で初めてソフト・パワーの概念に言及していた。

『アメリカへの警告――21世紀国際政治のパワー・ゲーム』(2003)の中で、ナイはテロリストによる攻撃を「世界で生じている大きな変化の兆しである」と認識していた。それは、情報・通信の分野における技術の進歩とグローバル化によって、新しい国際的なテーマが、もはやそれ単独では解決できないことを示していた。そして一国主義、覇権主義、支配に基づいた伝統的な政策から離れる必要が存在していた。

『ソフト・パワー――21世紀国際政治を制する見えざる力』(2004)の中で、ナイは外交政策における多国間主義を主張しており、ソフト・パワーというシステムはテロリズムがより多くの支持者を獲得するのを防止するとされ、国家の間に広がるグローバルな要求に対処するのに役立つとされていた。

ナイによればソフト・パワーの主なリソースは文化、政治的価値観、外交政策であったが、ユルゲン·ハルトマンによれば現代においては宗教や言語もリソースに含まれ、科学や技術も同様であった。

2007年に中国の国家主席である胡錦濤は、中国はソフト・パワーを強化する必要があると、第17回共産党大会で述べ、アメリカ国防長官のロバート・ゲーツは、外交、戦略的対話、対外援助、市民活動、経済復興と開発といった国防手段に対する支出を劇的に増加させることによってアメリカのソフト・パワーを強化する必要があると述べていた。2010年に中華民国の元副総統である呂秀蓮は韓国を訪問し、国際紛争を解決するためのモデルとして中華民国がソフト・パワーを採用するように主張していた。

2005年のインド洋での津波や南アジアでの地震の後のアメリカ軍による人道援助のような仕事はアメリカの魅力を回復するのに役立っていたが、中東等におけるアメリカの軍事行動がアメリカのソフト・パワーを弱体化させたように、ソビエト連邦は第二次世界対戦後数年間大きなソフト・パワーを有していたが、ハンガリーやチェコスロバキアに対してハード・パワーを用いたので、ソフト・パワーを破壊してしまっていた。

他方『コロッサス』の序文の中でニーアル・ファーガソンが批判したように、ネオリアリスト、ラショナリスト、ネオラショナリスト(スティーヴン・ウォルトを除く)は、国際関係におけるアクターは経済的インセンティブと軍事力といった2つのタイプのインセンティブにしか反応しないとの仮定から、一般的にソフト・パワーに関心を示してこなかった。

またジャニス・ビアリー・マターンは、明示的な脅威を含んでいないので、「あなたがたは私たちに賛成しているか反対しているかのいずれか一方である」といったジョージ・W・ブッシュの言葉はソフト・パワーの行使に含まれると主張していたが、ラショナリストによれば、これは暗黙の脅威であり、「私たちに反対すれば」、直接経済的軍事的制裁が行われることを示すものであるとの反論が存在していた。

一方、ある場合、ソフト・パワーは他のエリートが好ましい結果を人に許容する政策を採用する可能性を増大させるだろう。他国で好ましく思われることが地元での政治的敗北と思われる他の場合には、ソフト・パワーの弱体化は政府が特定の目標を達成することを妨げる方向に作用するだろう。しかしそのような場合でさえ、市民社会や国家に属さないアクターの相互作用は民主主義、自由、発展といったさらに一般的な目標を達成することを手助けすることもあるかもしれない。ソフト・パワーはいかなる国々やアクターにとっても独占の対象とはなりえないとの指摘が存在していた。

ソフト・パワーはグローバル化や新自由主義的国際関係論の高まりとしばしば関連しており、大衆文化とメディアはソフト・パワーのリソースとして認識されており、ソフト・パワーや善良な意思にあふれる国家は他者を同化させるように促し、高価なハード・パワーに対する支出を避けるだろうとの視点が存在していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツ、アメリカのWikipediaの「ジョセフ·ナイ」、「ネオリベラル・インスティチューショナリズム」、「ソフト・パワー」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Joseph_Nye

ジョセフ·ナイ

1937年に生まれたジョセフ·ナイは国際関係における地政学の専門家である。2009年から彼は三極委員会の北米議長に就任している[1]。

1 キャリア

1.1 研究

ナイはプリンストン大学から最優等学士号を取得して(最高の栄誉を伴い)卒業した。ローズ奨学金によってオックスフォード大学で哲学、政治学、経済学を学んだ後、彼はハーバード大学で博士号を取得した。

1.2 大学でのキャリア

1.2.1 教授

ナイは現在、以前学長を務めたことがあるハーバード大学のケネディ行政大学院の教授である。

1.2.2 基礎

ナイはロバート・コヘインと共に国際関係におけるネオリベラル・インスティチューショナリズムの設立者である。両者はパワーと相互依存に関する理論的アプローチを1977年に展開していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Institutionnalisme_néolibéral

ネオリベラル・インスティチューショナリズム

国際関係の研究では、ネオリベラル・インスティチューショナリズムやトランス・ナショナリズムは国際的なシステムの内にある制度を重視した理論的アプローチであり、それは国境を越えたアクター(例えばNGO、テロ、移民)を意味し、国家以外の対象を意味していた。ネオリアリズムに対して1970年代にロバート・コヘインやジョセフ·ナイによって展開された新自由主義理論は経済学やゲーム論の分野における同義語として用いられているが、それらと混同されるべきではない。

ネオリベラル・インスティチューショナリズムはいくつかの現実的な考え方を支持していたが(国際システムはアナーキーであり、国家は中心的なアクターであり、同時に国家は合理的だがエゴイスティックなアクターであるといったこと)、制度の役割や影響を強調するためにそれらを修正していた。

このように国家を共に機能させる制度は国際協調を促し、無秩序に内在する不確実性を減少させていた。

リベラル・インスティチューショナリズムは、パワーの増大が常に他のパワーを犠牲にしてなされているといった現実的な観点を無視しており、むしろこのパワーの増大は他のパワーに影響することなしに行われると考えていた。

1.2.3 認知

2005年にナイは国際関係における10人の最も有力な教授の内の1人として選ばれていた。

1.3 政治におけるキャリア

ナイはカーター政権で国務次官補を務め、クリントン政権(1994-1995)で国防次官補を務めたが、多くの人々によるとジョン・ケリー候補の安全保障アドバイザーとして考えられていた。彼は外交政策におけるリベラルな思想家の1人として認識されており、保守的な政治学者であるサミュエル・P・ハンティントンに対するリベラルな相手として考えられていた。

2 理論

2.1 アメリカのヘゲモニー

ジョセフ·ナイにとって、アメリカの覇権主義的な立場は様々な要素の組み合わせの下で弱まっていくだろうと考えられていた(地理的、経済的競争や、ベトナムやイラクでの軍事的行き詰まり)。アメリカの進歩はこの停滞に対する見識を過小評価していたけれども、ジョセフ·ナイはますます避けられなくなるだろう相互依存を背景にしてアメリカのパワーを回復することを提案していた。アメリカの国際関係における一方的な撤退が不可能であることに言及し、ジョセフ·ナイは覇権主義に対するリーダーシップを提唱していた。このことが彼にソフト・パワーの概念を展開させていた。

2.3 アメリカの孤立主義と干渉主義

ナイは同様にアメリカの孤立主義に反対しており、アメリカは合意を維持し世界に影響を及ぼす広範な手段を保有しつづけることを示していたが、それらは必然的なものではなく、特にクリントンは国内問題に焦点を当てることを望んでおり、ブッシュはこの姿勢に反対していた。しかしナイは新たな課題よりもむしろ国境を越えた相互依存関係に関連した多くの問題を取り上げていた。したがって『アメリカへの警告―21世紀国際政治のパワー・ゲーム』の中で、ナイはブッシュの政策を検証しており、その単独行動主義と農業政策はパワーの変化を顧みることに失敗しており、ソフト・パワーを無視していたと述べていた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Soft_power

ソフト・パワー

ソフト・パワーは国際関係論で用いられる概念である。それはアメリカのジョセフ・ナイ教授によって展開され、多くの政治指導者によって10年の単位で引き継がれてきた。コリン·パウエルは2003年の世界経済フォーラムで政治的アクターの能力を表すためにそれを用い、国家、多国籍企業、NGO、国際機関(国連やIMFなど)、市民ネットワーク(グローバル正義運動など)は間接的に別のアクターの振る舞いや(構造的、文化的、イデオロギー的な)強制力のない手段を介して別のアクターによる固有の利益の定義に影響を与えていた。その考え方は1990年代のアメリカにおいて展開されていたが、19世紀のイギリスで生まれたものだった。それは部分的にはイギリスの文化や文学(シェークスピア、シャーロック・ホームズの冒険、ルイス・キャロルの不思議の国のアリス)を通じて、また多くの国々によってフェアプレイやアマチュアリズム(トーマス・アーノルドや大学ラグビーの研究[1]による)のような基準が採用され、イギリスは19世紀から20世紀初頭において強い影響力を行使することができるようになっていた。

1 考え方の起源

その考え方は『不滅の大国アメリカ』[2]の中で1990年にジョセフ・ナイによって提案されており、アメリカのパワーの衰退を思い出させる議論(ポール・ケネディの『大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争』を含む)に応えて書かれた作品になる。パワーの概念はもはや同じものではなく再考されるはずであるから、アメリカのパワーは落ち込みを示すことはないだろうと、ナイは議論していた。一方でアメリカは巨大な軍事力を長い間保有していたが、他方でヨーロッパや日本の経済的追い上げは第二次世界大戦における不平等な偏りから脱却する過程における予見できる結果であった。しかしとりわけ、現在のアメリカは比較的新しい優位な条件を有しており、将来的にますます重要な役割を果たすようになる、つまりアメリカの強さや脅威を用いずに他の国を促し説得する役割を、ジョセフ・ナイは主張していた。ジョセフ・ナイにとって、これは強制(アメと鞭)では機能しない現代の国際政治における新しいパワーの形態であるが、新たな認識の下であなたの国々と同じことを他国が望んでいることを確認させることでもあった。ジョセフ・ナイによれば、ソフト・パワーや新たな認識によるパワーは国家に対する肯定的なイメージや評判のような無形のリソースであり、その威信(しばしば軍事的的そして経済的なパフォーマンスであった)、コミュニケーション・スキル、企業の開放の程度、その模範的な振る舞い(国内政策だけでなく外交政策の中身やスタイルも含む)、その文化の魅力、その思想(宗教、政治、経済、哲学...)、その科学技術の影響、国際機関で議題をコントロールする立場(議論の正当性を決定すること)、好ましいタイミングでパワーの均衡を保つことを含んでいた...。

2 概念

ソフト・パワーは世界経済で繰り広げられるパワーの呼称ではなく、他国における特定のリソースを説明していたが、その重みが肝要とされていた。アクターにとって利用可能なパワーのリソースは一貫して異なったタイプのパワーを行使することを可能にしていた。

命令するパワー、つまり他者が行うことを変更する能力は、強制や誘導(報酬の約束による)に依存している可能性があった。新たな認識の下でのパワー、つまり他者が望んでいるものを変更する能力は、現在のところ非現実的な課題であると思われている見解を他者が表明することを妨げるために、現在の政治的なハイアラーキーを定める能力や誘因に依存している可能性があった。

体制の理論がどのように世界はワールド・リーダーがいなくても安定を維持することができるかについての理解を示す一方、ナイは、アメリカは実際国際的に最も力のあるアクターであることを一度もやめたことがなかったと主張していた。ソフト・パワーはハード・パワーという制約を有する伝統的なパワーを補完することが可能であり、今日最も大きな意義を有するパワーの形態であり、特にグローバル化に関連した変動(国境のオープン化、通信コストの低減、私たちが唯一包括的な対応で対処しうる国境を越えたテロ、地球の温暖化、麻薬密売、国際的な流行性感冒などの問題)を背景にしていた。

3 ナイの分析におけるリソースのタイプ

ナイの分析には3つのタイプが存在していた。

軍事的リソース:アメリカは他国と比較して最大の軍事力を有していた。

経済的リソース:すべての先進国が有しており、中国が急速に成長していた。

無形のリソース:政府、NGO、企業など皆が有していた。それらは分散していたため、階層化されていなかった。

この分析からナイは、アメリカはグローバル化から恩恵を被ることはあるが、それをコントロールすることはないと結論づけていた。アメリカは他の諸国よりは大きなパワーを有しているが、個人的なアクターの興隆によってグローバル経済において以前ほどのパワーを有することはなかった。ナイによれば、後者はまとまりのない中で影響力を増大させると見られていたが、グローバル・ガバナンスに対する個人の影響力の寄与に関して結論を引き出すことはできなかった。短期的にアメリカは、普遍的な価値を促進し、アメリカの政策を受け入れるための魅力を維持し、反米感情の展開を避けるために、国際機関に依存しなければならなかった。長期的には、パワーの均衡へ世界を導くことによって、新しい技術の普及はアメリカの無形のリソースを低下させると見られていた[4]。

一般的に、共和党が純粋なパワー・ポリティクスに惹かれている(共和党所属の多くはアメリカの価値観を広め、その対外イメージを改善するだろう「公共外交」に言及するだろうが)ことと反対に、民主党は支持を取り戻すためにソフト・パワーの理念に言及することが多い(バラク・オバマによって提案された政策に関連してよく用いられる概念であった)。しかしナイ自身は「冷戦期にそうであったように、アメリカはハード・パワーとソフト・パワーをスマート・パワーの中に融合させていた」と述べていた[5]。2009年2月21日ソウルで、アメリカ国務長官であるヒラリー・クリントンは、オバマ政権のスマート・パワー戦略を構築したいと述べていた[6]。

アメリカ国外での地政学的、外交的議論では、「ソフト・パワー」という表現は国家によってなされた政治的影響力(経済的、文化的、イデオロギー的な)[7]の同義語としてしばしば用いられ、広報として呼ばれている多くの形態に言及していた。

したがって映画はソフト・パワーのツールとして重要な例だった[8][9]。たとえば、2010年に『ハート·ロッカー』を通じてハリウッドで高く評価された映画に贈られるオスカーを獲得した監督であるアメリカのキャスリン·ビグローによる最近の長編映画は、2001年9月11日の同時多発テロの後10年経ってアメリカによって始められたアルカイダの指導者であるオサマ・ビン・ラディンの捕獲と殺害に言及するだろう。この映画は2012年10月12日に予定されており、二期目の大統領選挙にバラク・オバマが入る3週間前のオスカーに間に合うように予定されているが、アメリカ人たちは、アメリカ海軍特殊部隊の勝利とテロリストの死をもたらす大統領の決定で終わる映画のタイミングについて議論していた[10]。一方ペンタゴンは例えばトップガンのようにハリウッドの映画製作者たちと協力し合う長い伝統を持ち合わせており、軍は上映に対してその影響力を鼻にかけていた。軍は助言や戦争の現場で用いられる素材を提供してきた。たとえばリドリー·スコットが『ブラックホーク・ダウン』(2001)を撮影する際、ソマリアでのアメリカ兵の別の側面を示すために、軍はヘリコプターやそのパイロットを貸し出していた。しかし時として軍は援助を拒否していた。これはコッポラの『地獄の黙示録』の場合で、当時は他国から金銭的、政治的援助を探す必要があった。

4 フランス文学における文化とソフト・パワーのつながり

ソフト・パワーのリソースは、これらのリソースの保有者によって決定されるフレームワークの中に他者を落とし込める文化的モデル、イデオロギー、国際機関によって行使され、他を惹きつける能力に一致していた。それらは普遍的な世界観を作り上げる能力を表しており、特に正当と考えられ受け入れられる産物に当てはまっていた。新しい技術の展開に援助され、映像業界は影響力や正当性における主要なリソースとして代表される地位を示していた。公共の場における外交は産業時代における外交とはもはや異なっていた。「パワーが有する魅力」はグローバル化した世界における通信手段やさまざまな地域における(市民のような)視聴者に声を届かせる新しい手段によって生じた時空間上の進化を考慮しなければならなかった。さらにソフト・パワーにおけるこのような形態の展開に対する障害とは文化的リソースの特徴というよりはむしろその開放の程度であった[11]。たとえば約10年前に多くの観察者たちは、日本政府と業界の閉鎖的な癒着が強固な場を国に与えていたと考えていた。しかし日本の松下がミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカを買収したとき、アメリカ映画による日本に対する批判を生じさせなくなくなるだろうと松下が即座に表明していたため、製作のプロセスや情報発信に適用された日本によるコントロールと自己批判の欠如の伝統が日本の信頼性にとって致命的になっていた。監視の文化や国家によるコントロールにとらわれ、日本は世界との接点を探ることに失敗していた。映画製作の現場からのメッセージがプロパガンダの誘惑や思想統制を偶然手放すとは思えなかった。これを背景にして、パワーの外に正当性を訴えることは不可能になっていた。しかしほとんど補助金を得ておらず独立しているイスラエルの映画は、戦争に直面している国に対する批判的な見解(『バシールとワルツを』、『ビューフォート』)、住民が困難に遭遇し、同性愛に関連した(『バブル』、『ウォーク・オン・ウォーター』)、家族(『シリアの花嫁』)、宗教的過激主義(『カドッシュ』)を提供することができていた。他の国では必然的にインフラストラクチャーから便宜を受けているわけではないが、パワーはプロパガンダを行うことでなく、ある種の経験をしたことがない個人を強調することに成功していた[11]。これは『ペルセポリス』とイラン、『カブールの子供』とアフガニスタンの関係に当てはまっていた。

http://de.wikipedia.org/wiki/Joseph_Nye

ジョセフ・ナイ

ジョセフ・S・ナイ・ジュニア(ニュージャージー州サウスオレンジで1937年1月19日に生まれる)はアメリカの政治学者であり、作家である。

1 人生

ジョセフ・ナイは1958年にプリンストン大学を卒業した。卒業後、ローズ奨学金によってオックスフォード大学で哲学、政治学、経済学を学んだ。その後ハーバード大学で政治経済学の博士号を取得した。1964年からナイはハーバード大学の教員の一員となっていた。さらに彼は1968年にスイス国際高等大学の客員教授としてジュネーブで、また1973年にオタワのカールトン大学の国際関係学部で教えていた。1974年に彼はロンドンの王立国際問題研究所の客員研究員だった。カレッジや大学での仕事に加え、彼はさまざまな政府の部門で働いていた。またナイはアメリカ国務省の職を歴任していた。1993年と1994年に彼はアメリカ合衆国大統領とアメリカ政府のために国内外のニュースと分析結果を調整する国家情報会議の議長だった。1994年から1995年にかけてナイは国防次官補となった。1995年にナイはハーバード大学のケネディスクールの学長となり、そこで彼は1985年から1993年まで国際問題研究センターの所長だった。この間1989年に彼はケネディスクールでクラレンス・ディロン講座国際関係論教授を担当していた。現在彼は三極委員会の北米議長である[1]。

加えてジョセフ・ナイは多くの機関のメンバーであり、サポーターである。ナイはアメリカ芸術科学アカデミー、アメリカ外交アカデミー、三極委員会のエグゼクティブ・コミッティー、国際経済研究所の諮問委員会のメンバーである。また彼は国際連合軍縮部の諮問委員会のアメリカ代表である。ジョセフ・ナイはアスペン研究所のシニアフェローであり、アスペン戦略グループのディレクターである。アスペン研究所のメンバーとして、彼はアメリカと他国との関係、特にヨーロッパとの関係に注意している。またナイは東西安全保障研究所のディレクターであり、国際戦略研究所のディレクターである。そして彼はウェルズ・カレッジとラドクリフ・カレッジの理事として働いていた。2005年に彼はザンクトガレン大学から名誉博士号を受け取った。

彼は既婚で、3人の息子がいる。

2 研究と成果

ジョセフ・ナイは研究上の関心についてこう述べていた。「奇妙に聞こえるかもしれないが、私はそこに運命の糸がそこにあったように考えていたが、おそらく唯一の運命の糸とは私自身の知的好奇心なのだろう。」 この引用は個人に対する関心の複雑さを反映している。しかしながら彼の研究は国際的相互依存やグローバル化と関連した国家やパワーの問題を常に取り扱ってきたと一般的に言えるかもしれない。

彼の数多くの著作の中で特に次の著作が最も重要である。

1. 『不滅の大国アメリカ』(1990)

彼の著作の中で、彼は超大国としてのアメリカの早期の終焉を予想するいわゆる「ディクライニスト」の見解(広く支持されている)に反論している。アメリカ帝国の興亡に関する伝統的な理論に対する固執が現代政治における政府の戦略を誤ったものに導く可能性があることを、彼は指摘していた。彼にとっての問題は、重要な場面でパワーはどのように変化するのかだった。もしアメリカが世界の超大国としての地位から没落するならば、それは破滅的な結果であり、アメリカに対してだけ当てはまるものでもなかった。ジョセフ・ナイ・ジュニアはこの本の中で初めて巨大なアメリカにおいて経済力や軍事力に加えて第三のパワーである「ソフト・パワー」の概念に言及していた。

2. 『アメリカへの警告――21世紀国際政治のパワー・ゲーム』(2003)

ソビエト連邦の崩壊後、アメリカは疑いなく世界の権力の頂点に立っていた。アメリカは活気づいていたが、他国からの孤立の中で衰亡していた。代償は国家の関心だった。2001年9月11日まで、多くのアメリカ人たちは、世界で最強の国としてアメリカを眺め、他国のことを考慮に入れる必要はないと考えていた。ジョセフ・ナイ・ジュニアはテロリストによる攻撃を「世界で生じている大きな変化の兆しである」と認識していた。情報・通信の分野における技術の進歩とグローバル化によって、新しい国際的なテーマが、もはやそれ単独では解決できない議題として表れていることを、彼は明確にしていた。アメリカはその視点に他国に対する強制を置くのではなく、協調を置いていた。パワーの存続を確かなものにするために、アメリカは国際社会と共に国家の利益を統合することに成功しなければならないと彼は主張していた。ジョセフ・ナイ・ジュニアによれば、アメリカは「ハード・パワー」(軍事力や経済力)と「ソフト・パワー」(文化や価値観、組織や政策)との間のバランスを見つける必要があり、世界の中心としての立場を維持するために、一国主義、覇権主義、支配に基づいた伝統的な政策から離れる必要があった。

3. 『ソフト・パワー――21世紀国際政治を制する見えざる力』(2004)

『ソフト・パワー』の中でジョセフ・ナイ・ジュニアは「ソフト・パワー」の概念を再度取り上げていた。彼は「ハード・パワー」(軍事力や経済力)と「ソフト・パワー」(文化や価値観、組織や政策)を区別していた。彼は、人々や国家が文化や政治的魅力を通じて従順になる力を「ソフト・パワー」と定義していた[2]。彼の著作の中で、彼は外交政策における多国間主義を主張していた。彼の見解によれば、「ソフト・パワー」というシステムはテロリズムがより多くの支持者を獲得するのを防止するとされていた。そして「ソフト・パワー」は国家の間に広がるグローバルな要求に対処するのに役立つとされていた。このシステムが社会を緊密にし、外交政策にソフト・パワーを生かすことがジョセフ・ナイによればこの本の目的だった。

http://de.wikipedia.org/wiki/Soft_Power

ソフト・パワー

ソフト・パワー(ドイツ語でもソフト・パワーと呼ばれている)はジョセフ・ナイによる政治学における造語であり、文化的魅力、イデオロギーに基づき、国際機関の助けを伴う、政治的なパワー(特に国際関係における影響力を指している)を記述していた[1]。ソフト・パワーの特徴は、(経済的)インセンティブや(軍事的)脅威を用いる必要性に対峙することなく、政治的アクターの目標に影響を与えることによりパワーを行使することであった。

1 概念化

ソフト・パワーの概念はナイによって明確に展開されており、経済的、軍事的強さを必要とし、(経済的)インセンティブや(軍事的)脅威に基づいたハード・パワーと対照をなすものであった。ソフト・パワーは、ハード・パワーに加えてもう一つの間接的な政治的パワーとして考えられてきた[2]。ソフト・パワーは(政治的アクターの)能力に依存しており、他のアクターの政治的選好に影響を及ぼしていた。政治的選好を形成し影響を及ぼすこの能力はナイの概念化によれば経済的インセンティブや軍事的脅威に基づいたパワーの行使と対照的で、無形の資産と密接に結びついていた。これらの価値観が他を引き付け合い、共有されることさえあることは重要であった。ソフト・パワーのリソースはしたがってそのような魅力を引き出す価値観であった[3]。ナイは国家のソフト・パワーの主な3つのリソースを指摘していた。文化、政治的価値観、外交政策である[4]。ユルゲン·ハルトマンは現代において宗教や言語をソフト・パワーの重要なリソースとしており、科学や技術も同様であった[5]。ソフト・パワーはその基礎に政治的アクターの能力を置いており、その能力によって、国際的な文脈では人がそうするように、国家は他のアクターを説得し、同じ政治的意思を発展させ、同じ目標を追求すると考えられていた[6]。ナイの概念ではしたがってソフト・パワーが常に政治的リーダーシップの重要な要素になっていた。ソフト・パワーとハード・パワーの相互作用はナイによれば強め合うこともあれば弱め合うこともあった[3]。ソフト・パワーとハード・パワーをちょうど良く混ぜ合わせるアクターの能力をナイはスマート・パワーと呼んでいた[7]。

2 概念の歴史

ナイは1990年に『不滅の大国アメリカ』の中で、2004年に『ソフト・パワー――21世紀国際政治を制する見えざる力』の中でソフト・パワーを展開していた。特に政治学では、国際関係論が現在構築されている最中で、それはナイによって与えられた定義を引き合いに出していた。この用語はますますメディアによる報道の中で用いられることになるだろう[8]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Soft_power

ソフト・パワー

ソフト・パワーは魅力を通じて人が望んでいるものを手に入れる能力である。それは、強制や対価を利用する「ハード・パワー」と対照的であった。ソフト・パワーは国家によって行使されるだけでなく、NGOや国際機関のような国際政治におけるすべてのアクターによって行使されていた[1]。

1 起源

その言葉は『不滅の大国アメリカ』といった1990年の著作の中で表れたハーバード大学のジョセフ・ナイによる造語であった。彼はさらに2004年に出版された『ソフト・パワー――21世紀国際政治を制する見えざる力』の中でその考え方を発展させていた。この用語はアナリストや政治家によって国際問題に言及するときに現在広く用いられていた。例えば2007年に中国の国家主席である胡錦濤は、中国はソフト・パワーを強化する必要があると、第17回共産党大会で述べ、アメリカ国防長官のロバート・ゲーツは、外交、戦略的対話、対外援助、市民活動、経済復興と開発といった国防手段に対する支出を劇的に増加させることによってアメリカのソフト・パワーを強化する必要があると述べていた。2010年に台湾にある中華民国の元副総統である呂秀蓮は韓国を訪問し、国際紛争を解決するためのモデルとして中華民国がソフト・パワーを採用するよう主張していた[2]。

2 何がソフト・パワーになるか。

ソフト・パワーの主なリソースはアクターの価値観、文化、政策、制度になり、ナイはそれらを「本質的な流通経路」と呼んでいたが、「あなたが望むこと」に対し、他のアクターを惹きつけたり、撃退することが可能であった[3]。2009年にナイは、『リーダー・パワー――21世紀型組織の主導者のために』の中で、個人のリーダーシップに対してハード・パワーとソフト・パワーの概念を当てはめていた。

パワーの議論の中で、(好ましい結果を手に入れるために他人に影響を及ぼす)振る舞いと、これらの結果を生むかもしれない(もしくは生まないかもしれない)リソースを区別することは重要であった。時としてより多くのパワーに関するリソースを保有する人々や国々は彼らが望む結果を手に入れることができなかった。パワーはエージェントとパワーの対象との関係であり、その関係は異なった状況で変化する可能性が存在していた。パワーについて意味のある表明はリソースが振る舞いに転換するかもしれない(もしくはしないかもしれない)背景を特定しなければならなかった。

スティーブン・ルークスが「伝達の誤り」と呼んでいるように、振る舞いを生じさせるかもしれないリソースと振る舞い自体に混同があるため、ソフト・パワーは文化的商業的産物といった単なる非伝統的な影響力を指しているわけではなかった。例えば経済制裁のような特定の非軍事的アクションは明らかに強制することを意図しており、したがってハード・パワーに分類されるので、すべての非軍事的アクションがソフト・パワーの形態であるというわけではなかった。

そのことは、軍事力は時としてソフト・パワーに寄与しうることを示していた。アドルフ・ヒトラーやヨシフ・スターリンのような独裁者は無敵であるといった神話を作り上げ、必然的に期待を抱かせ、仲間に加わるように他人を魅了していた。よく訓練された軍は魅力的になる可能性があり、たとえば軍と軍の協力や共同訓練は国のソフト・パワーを強化する国境を越えたネットワークを構築する可能性が存在していた。偉大な将軍であり軍事的英雄であるナポレオンのイメージは疑いなく外国の上流階級の多くをナポレオンに惹きつけていた。2005年のインド洋での津波や南アジアでの地震の後のアメリカ軍による人道援助のような印象に残る仕事はアメリカの魅力を回復するのに役立っていた。もちろん逆に軍事力の誤用がソフト・パワーを弱める可能性が存在していた。中東等におけるアメリカの軍事行動がアメリカのソフト・パワーを弱体化させたように、ソビエト連邦は第二次世界対戦後数年間大きなソフト・パワーを有していたが、ハンガリーやチェコスロバキアに対してハード・パワーを用いたので、ソフト・パワーを破壊してしまっていた。

3 ソフト・パワーの限界

『コロッサス』の序文の中でニーアル・ファーガソンのような著者たちによって非効率であるとして、ソフト・パワーは批判されていた。国際関係におけるアクターは経済的インセンティブと軍事力といった2つのタイプのインセンティブにしか反応しないことを理論上の目的のために仮定していたので、ネオリアリスト、ラショナリスト、ネオラショナリスト(スティーヴン・ウォルトを除く)は一般的にソフト・パワーを無視してきた。

概念として、ソフト・パワーと他の要因の影響を区別することはしばしば困難であった。たとえばジャニス・ビアリー・マターンは、明示的な脅威を含んでいないので、「あなたがたは私たちに賛成しているか反対しているかのいずれか一方である」といったジョージ・W・ブッシュの言葉はソフト・パワーの行使に含まれると主張していた。しかしラショナリストである著者たちはこれを「暗黙の脅威」とみなしており、それは直接の経済的軍事的制裁が「私たちに反対すれば」行われることを示していた。

4 ソフト・パワーの評価

ソフト・パワーはあなたが望む結果を手に入れる第三の振る舞い方を示していた。ソフト・パワーはハード・パワーと対照的であり、ハード・パワーは人口規模、具体的な軍事的資産、国のGDPといった量的な尺度を通じて国力を測る現実的であり歴史的に支配的な方法であった。しかしアメリカがベトナム戦争で気付いたように、そのようなリソースを保有することが常に望ましい結果をもたらすわけではなかった。魅力の程度は世論調査、エリートに対するインタビュー、ケーススタディによって測定されることが可能であった。

インスティテュート・フォー・ガバメント・アンド・モノクル(雑誌、2007年)によって、複合インデックスを通じてソフト・パワーを計測する最初の試みが行われ、公表されていた[4]。26ヵ国のソフト・パワーのリソースを測定するために、IfG-モノクルのソフト・パワー・インデックスは一定の統計学的測定基準と主観的なパネルにおけるスコアを組み合わせていた。測定基準は、文化、外交、教育、ビジネス/技術革新、政府を含む5つのサブ・インデックスにしたがって構成されていた。インデックスは国々のソフト・パワーのリソースを測定すると言われていたが、影響力を直接把握したものではなかった。

影響は脅威や代価といったハード・パワーの内にも存在している可能性があるので、ナイはソフト・パワーは影響以上のものであると主張していた。そしてソフト・パワーは単なる説得や議論によって人々を動かす能力以上のものであるが、その重要な部分の1つであった。それは同様に魅了する能力であり、魅了はしばしば黙認につながっていた。

国際問題では、ソフト・パワーは部分的には政策や公共外交を通じて政府が行うことによってのみ生じていた。またソフト・パワーが生じると、国内外の国家に属さないアクターの案内によって、プラスにも(マイナスにも)影響が生じていた。これらのアクターは他国の一般市民や支配階級に影響を及ぼし、政府の政策を可能にも不可能にもする環境を生み出していた。ある場合にはソフト・パワーは他のエリートが好ましい結果を人に許容する政策を採用する可能性を増大させるだろう。他国で好ましく思われることが地元での政治的敗北と思われる他の場合には、ソフト・パワーの弱体化は政府が特定の目標を達成することを妨げる方向に作用するだろう。しかしそのような場合でさえ、市民社会や国家に属さないアクターの相互作用は民主主義、自由、発展といったさらに一般的な目標を達成することを手助けすることもあるかもしれない。ソフト・パワーはいかなる国々やアクターにとってもその所有物とはならなかった。

ソフト・パワーの成功はアクター間での情報のフロー同様に国際社会でのアクターの評判に大きく依存していた。したがってソフト・パワーはグローバル化や新自由主義的国際関係論の高まりとしばしば関連していた。大衆文化とメディアはソフト・パワーのリソースとして認識されており、国語や特定の規範構造の普及も同様であった。したがってソフト・パワーや善良な意思にあふれる国家は他者を同化させるように促し、高価なハード・パワーに対する支出を避けるだろう。

ソフト・パワーは現実のパワー・ポリティクスに対する代替案として現れたので、しばしば倫理志向の研究者や政策立案者によって受け入れられていた。しかしソフト・パワーは規範的な概念よりむしろ分かりやすかった。パワーのあらゆる形態と同じように、ソフト・パワーはよい目的にも悪い目的にも使われる可能性が存在していた。ソフト・パワーが悪い目的で使われ、恐ろしい結果をもたらしたとしても、それは手段の点で異なっていた。この点で人はソフト・パワーを用いて規範的な選好を構築するかもしれなかった。

5 ソフト・パワーを巡る学術論争

研究者たちはソフト・パワーを巡る議論に参加していた。これらは以下の議論を含んでいた。

その有用性(ジュリオ・ガラロッティ、ニーアル・ファーガソン、ジョセフ·ジョフィ、ロバート·ケーガン、ケン・ウォルツ、ミアシャイマー対ナイ、カッツェンスタイン、ジャニス・ビアリー・マターン、ジャック·ハイマンス、アレクサンダー・バビング、ヤン・メリセン)

どのようにソフト・パワーとハード・パワーは相互に作用するか(ジュリオ・ガラロッティ、ジョセフ・ナイ)

ソフト・パワーは強制力があり、操作できるか(ジャニス・ビアリー・マターン、カッツェンスタイン、デュヴァルとバーネット対ナイ、バビング)

どのように構造とエージェンシーの間の関係は機能するのか(ハイマンス対ナイ)

ソフト・パワーの均衡は生じうるのか(ウォルフォースとブルックス対ウォルツ他)

ソフト。パワーはヨーロッパで規範的なパワーとなりうるか(イアン・マナーズ、A・シンブラ、トーマス・ディーズ、A・ハイド・プライス、リチャード・ホイットマン)

グローバリゼーションは熟練労働者による労働集約的な産業の移転を通じ富裕国間での競争を増大させ、その利益は一部の限られた人々に分配されていたが、途上国の非熟練労働者と競争している労働力の割合はわずか3%でしかなかったとの視点や、中国やインドの科学技術の水準は西欧の水準を非常に迅速にキャッチアップしており、通信技術の高まりにより、労働力の直接的な競争は現在のところ中産階級(例えばコールセンターのアウトソーシング)やエンジニア(あらゆる主要なソフトウェア集団はインドに展開した支社を有している)を対象にしていたとの視点や、計量経済学におけるいくつかの研究によれば、労働の国際分業による富裕国の利益が損失(移転や産業の空洞化)を上回るとの結論や富裕国の問題とは本質的には収益の分配の問題であったとの視点や、規制、社会的保護、税制、教育を通じて国々の間における悲惨な競争を背景にした不平等や環境被害を生じさせ、ソーシャルダンピングや地域の社会運動に効力が存在しない状況(政治力は彼らに満足を与えることができない)を導き、「階級闘争」を妨げ、先進国での社会的保護を崩壊させる可能性があるとの視点が存在していた。

他方、最貧国にとってグローバリゼーションは彼らの主な経済的資源である農業が富裕国の保護主義的政策によって支配されたままであり、国際金融にとってゲームの本当の勝者は特に多国籍企業、国有財産、金融機関や機関投資家であったと気付く必要があるとの視点が存在していたが、金融のグローバリゼーションは市場のボラティリティを増大させ、金利や為替レートの不安定性の原因となっており、重大な経済的損失や信用の損失によるシステマティックなリスクが経済全体にさらに容易に波及するドミノ理論を導いており、国家や各機関(IMFや世界銀行)は大きな金融危機に対して何もできないことを示していたので、このグローバル化をコントロールする問題、つまり世界的な規制、ジェームズ・トービンによって提唱された税の導入、国際機関の改革、国家を超えた新たな共通の基盤の創造が指摘されていた。

問題を経済的側面に限定せず文化的側面に拡大すれば、文化的多様性とすべての個人の相互依存に対する認識の高まりに基づくNGOの台頭や、宗教と哲学の強力な混合による異教徒間の対話の促進や、他方で相対主義の拒絶に基づいた共同体のアイデンティティやある文化の別の文化に対する優位性を主張する見解の台頭や、共通文化の出現や文化的多様性の損失のリスクと一部の作家たちによるアングロ・アメリカの言語帝国主義を語ることを躊躇しない現状、つまりダニエル・リンデンベルクによる「ネオコンによって理論化された文化の戦争は始まったばかりである」との視点が指摘されていた。

問題を国家の周縁化といった側面に言及すれば、グローバル化は組織に対する新たな課題や世界の政治的権力の新たな分布を生み出し、国際システムの凡庸な概念に疑問を投げかけており、公共政策の伝統的なツールである課税や規制は地球規模でその効果を失っており、多くの国々の協調が求められていたが、その協調を手に入れ維持するのは難しい作業になり、グローバル化は国民国家の構造がコントロールできる規模をはるかに超えており、国際関係が国家の利益を代表する規制によって支配されていないので、結果として多くの政府がこれらの問題に対する無力感を嘆くのみであるといった視点が存在していた。

人の移動といった観点から眺めると、2002年にアメリカは史上最大の移民数を歓迎していたが、人口に対する比率は1920年代の比率より低く、それは戦争によって移動させられるか、能力を活かして報酬を求めるより良い訓練を受けた人々の特権になっているといった視点や、個人のライフスタイルにおける違いを反映しているものの、先進国間での(雇用者や被雇用者、能力のある人々や能力が不足している人々)または先進国、途上国、貧困国間での所得不平等を強調するのみであったといった視点が存在しており、インターネットや他のメディアを通じ、外国の文化的産物(日本の漫画、インドの映画、南米のダンス等)に触れることはもはやエリートの特権ではなくなっており、世界的に文化の多様性に対する意識が高まっているといった視点も存在していた。

哲学者であるミシェル·フーコーによれば、世界観は新しいエピステーメー(認識体系)に移っており、それを彼は超近代性と呼んでいたが、歴史家であるルネ・レモンによれば、15世紀や16世紀のルネサンスや活版印刷の技術の発展を通じて、啓蒙運動が「コペルニクス的転回」を伴う世界の表象の重要な変化を示しているように、インターネット技術の発展を通じて、新しい社会的表象を導く世界に対する表象の変化、情報や知識を拡散する方法の変化、基本的な科学書を読み、古代の文化に敬意を払うことといった特徴を有するサイクルを仮定するならば、私たちは、維持可能な開発の問題に直面しているグローバリゼーションが新しい歴史のサイクルに入ったことをぼんやりと認識しているとの視点が存在していた。

繰り返しになるがグローバリゼーションは「アングロ・アメリカンの言語」による支配を伴っており、それはインターネット上に最もよく表されており、1996年には世界のウェブページの75%が英語で書かれていたが、2003年にはこの比率は45%に低下しており、インターネット上ではいくらかの言語の多様性が確認されている反面、世界に6,000ある言語の大多数がインターネット上に表れていないといった事実や、英語の優位性はさらにヨーロッパの公共機関や特に欧州委員会で感じられており、2001年には、欧州委員会によって受け取られる文書の56.8%が英語で書かれており、29.8%がフランス語で、4.3%がドイツ語で、8.8%が他の8つの欧州の言語で書かれていた事実や、欧州連合の人口のわずか11.6%が第一言語としての英語話者で、他方12%が第一言語としてのフランス語話者で、18%が第一言語としてのドイツ語話者である事実や、ユネスコによれば、世界で話されている約6,000の言語の内2,500の言語が今日危機に瀕しているが、オルター・グローバリストや様々なプロジェクトを通じて、リベラルな世界化の媒介者として振る舞うアングロ・アメリカンの言語による支配に対する闘いが試みられていたとの視点が存在していた。

言葉の用法について、完全にグローバル化に反対し、グローバルな相互依存を減らしていく立場は反グローバル化運動と呼ばれており、例えば新自由主義に反対し、他のグローバル化を支持するような狭い意味でのグローバル化に対する批判は反グローバル化運動と区別されており、フランス語のオルター・グローバリゼーション等が挙げられるが、しばしば不正確にその言葉が用いられていたことが指摘されていた。

1997年の多国籍企業の広範な権利を示す、他国間投資保護協定(MAI)に関する最初の原案に対してカナダ、アメリカ、フランス、いくつかのアジア諸国の非政府組織は強く批判しており、とりわけハリウッドの商品との自由競争に晒されるため、フランスの文化産業は「MAI」を危険なものと感じていたとの指摘が存在していた。また1997年7月に生じたアジア通貨危機は「新自由主義的グローバル経済」に対する批判的な意識を高め、ル・モンド・ディプロマティークの編集総長であるイグナシオ・ラモネは1997年12月に社説の中で「市場の武装を解除せよ」と述べ、2001年のヨーテボリで行われたEUサミットに関して、2001年6月14日に20,000人以上のグローバル化に対する批判者たちは「ブッシュは歓迎されない」といったスローガンの下に集まっており、2001年ジェノバでのG8サミットではイタリア政府による運動の監視に対してメディアや一部の政治家は「内戦のような状況だ」と警告していた。

多くの国際的なネットワークによるグローバル正義運動に関して、ル・モンド・ディプロマティークの中でイグナシオ・ラモネによって述べられた考えとは、「トービン税」と呼ばれる国際的な「連帯税」を導入するために、NGOによる幅広い呼びかけによって、政府に圧力をかけることになり、それは、70年代の後半にアメリカの経済学者であるジェームズ・トービンによって提案された、国際的な資本取引に対する0.1%の課税を指していた。

国際農民連合であるビア・カンペシーナによれば、農業政策、農作物に関する遺伝子工学、特許法に焦点が当てられており、農民組織による食糧に対する主権の支持や個々の地域は世界において地域の農産物を通じて地域の人口を養っていくべきであるといったことを意味した地域の食糧安全保障のため農業の輸出志向に対する反対の見解が述べられていた。

多くの著者たちによって、現在のグローバル化を通じて先進国が東欧ブロックや途上国から利益を得ているだけでなく、他方で貧困や依存、自己決定権の制限をもたらしていることが批判されており、世界の全ての国々においてグローバル化や新自由主義から利益を得る人々と損失を被る人々が存在しており、国家とは、消費や生活のような人々の振る舞いによって引き起こされる問題を分離することに関して一層の困難さを抱える人工的な産物であることが明白になっており、世界経済は市場のグローバル化に伴う競争の激化の中に存在しており、国家がわずかばかりの整備された社会システムによって救われることはないとの批判が存在しており、「競争」や「国家予算の再編」のような議論とともに世界的な社会的果実(健康、教育、労働、最低賃金、年金、児童労働からの保護、女性の人権等)は削減されているとの視点が存在していた。

グローバル化の負の側面は中産階級や下層階級における購買力の変化や財政状況、個々の国民国家や全体としての世界人口における窮乏化を含む統計によって補強されており、全体の窮乏化が加速する現象は本質的には飽くなき利潤の拡大を目指す資本主義の当然の帰結であり、グローバル化は窮乏化のエンジンではないが、社会的倫理的に疑念を挟まざるを得ない世界人口の発展における触媒として作用しており、社会経済の基準や生活条件の変化はしばしば底辺への競争といった専門用語で語られ、私たちは人工的に造られた社会経済上のダーウィニズムや固有の原動力の中にますます巻き込まれていくことになっているとの視点が存在していた。

国際貿易において中央・南アメリカにおける園芸を例に取ると、バリューチェーンや技術革新に対する保護や活性化のための規制は与えられておらず、ビジネスモデルを通じて特許の間違った保護を維持しており、財産権の所有者は第三者を通じて彼らの考えを発展させることに関心を抱いておらず、財産権の所有者は関連した技術革新の発展を可能にする権利に対する損失を受け入れる必要が生じているとの視点が存在していた。

全ての国家による国際的な枠組みへの関与を支持し(例えばいわゆる「トービン税」を通じた資本移動に対する課税が挙げられるが、その効果はしかしながら経済学者たちの間で議論を呼んでいた)、社会の最低水準を保障し、人々の自己決定権を保障することを促し、途上国に有利になるような国際貿易協定や世界銀行やIMFといった機関における変化を促し、途上国が経済的な独立を達成することを可能にするように、貸し手となった機関がその条件を撤回することが求められていたが、経済的依存関係は輸出を強制することを促し、それによって国家に管理された経済政策は妨げられているとの視点が存在していた。

グローバル化の批評家たちは良い(生産的な)資本と悪い(非生産的な)資本のように金融資本を分割する批判を通じ、拒絶されることのない1つの立場から資本主義を批判する方法を採用しており、資本主義は弊害ではなく、新自由主義が弊害であると主張していたが、経済的次元のグローバル化に対する批判に対して、ドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックは「グローバリズム」とレッテルを貼り批判しているにすぎないと述べていた。

マーカートはハンナ・アーレントの意味でグローバル化の批評家たちは新たな始まりを模索していないと述べ、例えば新自由主義者であるマーガレット・サッチャーが「代替案は存在しない」と明らかに表明したことに対する代替の場を提供するならば、あなた方はより効果的で何かより公平な行政に対する疑問、言い換えればより良いグローバル化の管理に行き着くことができるだろうと述べ、これは過去の枠組みを変更する対話であるが、アーレントの意味で非常に非政治的なものであり、政治は想定される必要性だけでなく、新しく全く未知の始まりに基づく「自由の領域」(イマヌエル・カントの倫理によって示されている)における創造的思考にも従わなければならないとの視点が存在していた。

アカデミズムの世界では、社会運動の国境を越えたネットワークやグローバル正義に対するより一般的な要求を強調するためにグローバル正義運動について話が交わされており、他方フランスでは、オルター・グローバリゼーションの名称は反グローバル化の代わりに用いられる傾向があり、肯定的な活動を擁護する含意を示唆しており、グローバル化自体の概念ではなく発展しているある種のグローバル化に対してその拒絶が反対につながるといったことをそれは明確に強調する傾向にあったことが指摘されていた。

この運動は福祉の危機、大衆政党の危機、国家間の経済障壁の低下、製造業の移転、第三世界での労働の搾取、独占や企業の力の強化、経済や金融の世界における市民による政治的コントロールのゆっくりとした消失を背景にしており、その政治活動の技術は、他の民主的な政治力と比較すると、選挙に勝利することを目的としたコンセンサスの伝統的な集合と異なっており、階級闘争が必然的に収斂するだろう政治活動の時期を武力闘争の中に見出していたマルキストの教義からははるかに遠いものとなっており、運動のための政治闘争の道具は実際のところ主に不買運動、デモ、反論(メディアでの活動)、エネルギーを考慮した環境的に維持可能なライフスタイルを含んでいるとの視点が存在していた。

反グローバル化運動は世界中の作家や知識人の作品によって触発され、カナダのジャーナリストであるナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』といった著作は一部によれば運動のマニフェストであると考えられており、巨大産業の利益によって脅かされる現地の人々の自己決定権や生態系に対する敬意のために闘っているインドの知識人であるヴァンダナ·シヴァの著作や議論への参加は運動にとって説得力を増すものにさせると考えられ、フランスではル・モンド・ディプロマティーク紙が反グローバリゼーションの立場にあることが知られており、それはATTACの登場と人気について好意的であり、アメリカの知識人であり言語学者であるノーム·チョムスキーは反グローバリゼーションの立場にあることが知られており、同様に小説家でありエッセイストであるエドゥアルド・ガレアーノ、アメリカの詩人であり音楽家であるベック・エリザベート、マルクス主義の社会学者であり神学者であるフランソワ・ウタールが運動に肯定的であるとして挙げられており、またそれは例えばアメリカの経済学者であるジェームズ・トービン(資本取引に対する課税といった提案、トービン税はATTACの運動を触発していた)やジョセフ・E・スティグリッツを含んでおり、著作権に関する問題では、フリーソフトウェアやオープンなコンテンツの支持者であり、共有の実践として倫理的そして政治的に意味のあるものに寄付を行っていたリチャード・ストールマンの見方を主に共有しているとの視点が存在していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツ、イタリアのWikipediaの「世界化」、「グローバル化に対する批判」、「ノー・グローバル運動」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Globalisation

世界化

世界化は、世界における国家、人間の活動、政治システム間における相互依存の拡大や調和を指していた。この現象は一時的にせよ大部分の分野における人々に影響を及ぼしていた。それは財、労働、知識の国際貿易や移転を扱っていた。

この用語はとりわけ人間環境にとって今日しばしば経済の世界化やインターネットのようなデジタル形式の情報の世界的な拡散によって誘発される変化を示すために用いられていた。

1 定義

「世界化」という用語は1959年に初めてエコノミスト誌の中に登場し、その後フランスのル・モンド紙の中に登場していた。この用語は1960年前後に造られていたが、10年〜20年間使用されていなかった。「世界化」という用語が鮮烈な成功と使用を伴ったのは1980年代から1990年代以降のことだった。それは、世界的な財、サービス、労働、技術、資本の移動を含むフローの増加を意味しており[1]、1928年に登場した「世界化する」という動詞から派生していた[2]。それは元々冷戦時代の地理的ブロックを超えた工業製品に対する市場の拡大の動きを意味していた。長い間学術分野に限定されていたが、それは、最初にマーシャル・マクルーハンによって造られた「地球村」の登場に伴う理論の影響下で、1990年代に広まり、特にその現象の大きさに対して名前によって喚起を引き起こすことを狙った反世界化やオルター・グローバリゼーションに対する変更の運動を通じて広まっていた。

英語圏では、グローバル化という用語の普及や包括的な用語としての使用は学術的な議論で際だっていた。その用語が世界規模での相互依存の発展を示していることが現在では受け入れられていた。一般的な定義から、あらゆるアカデミズムの主流派が最も関連性が高いと思われる側面にフォーカスしていた。例えばマニュエル・カステルなどの一部の研究者たちは経済的、社会的側面との関係に焦点を当てていた。ジョン・アーリのような他の人々はすべての人間の交流を特徴づける複雑性(経済的、文化的、政治的)にフォーカスしていた。同様に用語やその普及は、ヤン・ネーデルフェーン・ピーテルスやその雑多な概念が示しているように、発展の問題に関連していた。英語圏の研究者の間で起こっていた論争は世界的な議論を反映していた。アーリはイギリス人だが、カステルはスペイン人であり、ピーテルスはオランダ人だった。 

グローバル化や世界化という用語やその意味はその発言にまつわる思想の学派やその観点から定義されていた。

これらの問題を専門にしている地理学者であるローラン・カルーエはこれらの2つの用語に対してより明確な違いを求めていた。彼にとって世界化とは世界における地理的広がりに対する資本主義システムの歴史的拡大のプロセスとして定義されていた。彼はグローバル化に対する非常にあいまいな用法を批判していた。

1.1 起源と進化

これらの2つの用語の区別はフランス語特有のものだった。アメリカでの元々の語はグローバル化であり、他の多くの言語によって採用されていた。イギリスでは、グローバル化や世界化に対する異なったアプローチは異なった思想の学派によって探求されていた。英語圏におけるグローバル化という用語は仏語圏における異なった意味と同様の議論を主にカバーしていた。仏語圏のように、帰属、是非に対する意識、思想における学派に依存しながら、この用語に対し異なった人々は異なった意味を与え、経済、文化、政治の側面にフォーカスしていた。

語源的な観点によれば、世界や地球は、世界化やグローバル化がフランス語の中に最初に登場したときに同義語であった程度に十分に類似していた(最初は1964年であり、次は1965年であった)。

しかし英語における「グローバル化」に対する集約や世界化の特徴は意味論的に多様化していた。

フランス語では「グローバル化」という用語はあらゆる人間の活動に対する経済合理性を示唆するものに拡大されており、地球の限界が議論されていた。「世界化」という用語は文化、政治、経済、他の国際移動の拡大を意味していた。このためその表現は航空機、宇宙飛行機(衛星)といった手段によって世界を地球全体に近づけており、各々の文化(中華圏など)に固有の意味を与えていた。しかし「金融のグローバル化」という用語は統合された世界的資本市場の形成を説明するために登場していた。さらに生物物理学的環境の中に存在している問題は世界的に直面せざるを得なかった。産業の発展や人間活動による気候変動、生物多様性の損失、森林破壊、汚染は世界規模の経済、文化、政治上の活動の相互作用の例だった。

1.2 世界化

一般的に、世界化という用語は歴史的なプロセスを示しており、そのプロセスによって個人、人間の活動、政治構造は、相互依存や物質的もしくは非物質的な交換を地球規模において拡大してきた。またそれは経済における相互依存の拡大を含み、貿易や人間の相互作用の拡大を促してきた[3]。

1.2.1 世界化

この用語の起源は、このプロセスが経済の世界化や財・サービスの貿易における発展といった側面の1つとして非常に頻繁に考慮されてきており、1980年代後半以降の世界規模の金融市場の創造を通じて加速されてきたことを説明していた。また以下の事項を付け加えることにする。

世界人口の大部分が時として非常に離れた人口の文化にアクセスすることをもたらし、世界レベルでの文化の多様性の中に先進国の意識を定める文化的側面[4]。

国際組織やNGOの発展によって代表される政治的側面[5]。

ワルシャワ大学やリーズ大学の社会学者であり名誉教授であるジグムント・バウマンによって要約される世界化の社会学的側面。「世界化を避けることは不可能であり、元に戻すことも不可能であった。私たちはすでに地球規模の相互作用の中で暮らしていた。あらゆる場所で生じうるあらゆることがあらゆる人々の生活や将来に影響を及ぼしていた。人がある場所で採用された対処を評価するとき、残りの世界における反応を考慮する必要があった。広大で、人口が集積しており、豊かであり、いかなる主権が行使される領域であろうとも、それ自身の生活状態、安全、長期の繁栄、社会モデル、住民の存在を保護することができなくなっていた。私たちの相互依存は世界中で織り成されていた(…)」[6]。

地理的側面。世界化は今日ローラン・カルーエのような多くの地理学者によって研究されている空間的な状況だった。それは世界の標準化や領土の喪失というよりむしろ領土の階層化や大きな2極化をもたらす統合と分断の2重のロジックを指していた。

厳密に言えば、それは世界化のことを話すのが妥当であるが、関連する分野(経済、文化、政治)や想定されていた歴史的な時代を喪失させていた。

1.2.2 それは避けることができないものであるのか?

世界化のプロセスにおける避けがたく当然である特徴はしばしば先行するものであった(前述の引用を参照せよ)。

しかし極左運動による「信念」によって示されるこの考え方は、現象の商業的そして金融的な側面を良く眺めると、微妙な差異を存在させていた。事実一方で「1913年の世界生産における輸出のシェアは1970年の水準を超えておらず、それ以降停滞しており」、他方で「実際の純資本流入は20世紀初頭より小さいものであった」[7]。

このようにフィナンシャル・タイムズ紙の編集委員であるマーティン・ウルフは「世界化が神話でないのならば、少なくとも言葉の乱用である」と述べていた[8]。

1.2.3 世界主義

もし世界化が実際に行われているプロセスであるならば、世界主義は1つのイデオロギーであった。世界化の避けがたい特徴や国民国家の構造との不一致をこのことは主張しており、その固有の特徴は人道主義を通じて世界政府を設立することによって平和を永続させることをもたらすことを望んでいた。しかしながらそのような世界化は人工的なイデオロギーを形成していなかった。それは、新自由主義から極左の国際主義に至るまでの幅広いイデオロギーの中に見受けられていた。

新自由主義の採用に関する用語の意味のシフトは反グローバリゼーションやオルター・グローバリゼーションという用語を生み出し、世界化のプロセスを制限し、その内容を修正することを考慮した思想の潮流を示していた。

1.3 世界化の概念

世界化が地球的規模の現象になって以来、その定義を求めるようになっていた。「一体化」と「対立や多元性」と言われている2つの概念がこの現象の説明を巡って衝突していた[9][10]。

1.3.1 一体化の概念

一体化の概念によれば、世界化は単一の世界を示しており、世界は地球規模の村や国境のない世界を形成している。これは地理的、イデオロギー的、経済的アプローチに含まれていた。この見解は国際機関や組織(IMFやWTOを含む)によって支持されており、現在のイデオロギーによれば特に世界主義において顕著であった。それは同様に一部のアナリストによって共有されていた[11]。

世界の統合として世界化を定義すると、そのことは文化、技術、経済(世界経済の統合)の相互浸透を意味していた。したがって世界文化、世界文明、世界政府、世界経済のような表現は世界市民がますます必要とされることを認識していた。

もし、世界化に対する一体化のアプローチが21世紀の利点を有しているならば(例えば、物理的統合を促す技術の進歩や革新、資本移動の拡大や国際化、資本主義、単一の経済システム、世界経済の中心の位置づけ)、しかしながらそれは市場経済や資本主義への融合に対する批判をとりわけ引き起こしていた。

世界化を世界の統合とみなす考え方は同様に世界平和や国境の完全な撤廃を達成するためにさらなる開放を支持する知識層の立場を含んでいた。しかしながらこの考え方は人類の中に希望の火を認めている点で有利な条件を有していたが、一方で世界化に対する別の意味を無視している点でまだ限定的なものであった。

1.3.2 対立と多元化に対する概念

一体化の概念と反対に、対立と多元化に対する概念は、世界化の実際の形態を私たちの問題の源であるとみなしていた。それは、世界化における現在の形態にともなう基本原則として、競争的なアプローチよりむしろ協調的なアプローチを強調していた。この見解の強い支持者たちは現在のオルター・グローバリストたちであった。それは同様に一部の独立したアナリストたちによって共有されていた。世界化に対するこのアプローチが提起している問題は、異質なもの、調和しないもの、分断されるか統合されるか、秩序を保つか保たないか、不平等なもの、排除されるか連帯するか、支配するか搾取されるか、イデオロギー上の対立や人間関係が力関係によって支配されていることであった。

多様な側面を有するこの現象の多様な要素をやや明確に理解するための有利な条件をこの概念は支持者たちによれば示していたが、一方は単一の視点で構成されていた。オルター・グローバリストたちによって擁護される中、この概念は一般的に経済理論や社会主義に近い労働問題として把握され、特に多くの貧困層を擁護していた。オルター・グローバル主義における展望は人々の競争よりむしろ協調にあった。

2 歴史

「世界化」という用語が最近のものであるならば、それは歴史上の異なった期間を示しており、それゆえ幾つかは古いものになる[12]。

2.1 古代

最近まで議論されてきたことだが、古代に世界化に類似したある種のプロセスが行われていたという考え方が研究者の間でますます認知されてきている。

私たちは紀元前2000年に遡りこのプロセスの初期の形態を認めることができ、肥沃な三日月地帯を経由してインダスからミノア文明に広がる広大な商業地帯が例として挙げられる。この最初の試みは紀元前2000年代後期のインドヨーロッパの侵略者たちによる交易の停止によって短命に終わった。

2番目の試みは、フェニキアやギリシアの植民地、インドの各都市間、ジブラルタルとガンジス川の間で間接的な商業上の接触を確立したペルシア帝国の建国から生じていた。ギリシア人はヘロドトスやさらにペルシア大王の医師であるクニドスのクテシアスとの関連から見た世界の範囲を十分に認識していた。

古代の世界における商業面、文化面、外交面の統合のプロセスが終焉を迎え、ペルシア帝国が崩壊したことから離れて、ヘレニズム時代における国家の形成は大幅に進化していた。そしてヘレニズム時代における「世界化」は現代の世界化と同様の多くの特徴を有していた。

人口集団の混合:アレクサンダーの征服の結果、ギリシア人はペルシア帝国中を移動していた(特にバクトリアで)。その結果、ギリシア人、エジプト人、ユダユ人、東洋人はアレクサンドリアのような世界的な都市を形成していた。

世界文化の構築:コイネーが共通語になり、ギリシア文化が非ギリシア人を呼び寄せる普遍的な文化になった。ウェルト・リテラトゥーラ(インドや仏教のテキストを含むアレクサンドリアの図書館)の設立にそれはつながっていた。

貿易の激化や世界化:主にペルシア人によって蓄積された流動性をアレクサンドロスが投入したことにより、貿易は特に盛んになった。他方で、すべての帝国の権威の消失が税関の障壁を損なうよう作用していた。また「世界化した」経済に関する多くの典型的な現象が出現していた:ギリシア人は仏像をインドで制作し、日本にまで輸出していた。

多国間主義:多かれ少なかれ大きさや力において等しい国家を設立し、それは健全な競争を促していた。

技術革新:科学的発見や技術進歩に関し、以前からシラキュースやアレクサンドリアに匹敵するものは特になかった。

2.2 17世紀以前

17世紀以前の人間は現代とは異なった世界を代表していた。地球は7億人以下の人口を抱えていた。それゆえ実際の世界化について語ることはできなかった。

しかし大きな政治的、文化的出来事が歴史を彩っていた:

ローマ帝国の拡大、中国の統一、人口の大移動。

6世紀からのビザンチン帝国の拡大(ユスティニアヌス帝)。

9世紀におけるカロリング朝の形成や10世紀におけるムスリムの拡大。

ヨーロッパにおいて10世紀後半には貿易ルートが開拓され(ピエール・リッシュによれば、ヨーロッパという用語は用いられていなかった)、12世紀にはシャンパーニュの市が起こり、中国では宋の下で繁栄がもたらされていた。

中国はアフリカへの航海を1415年から1433年の間に行っていた(提督は鄭和)。

15世紀のルネッサンスは北海、バルト海(ハンザ同盟)の海上貿易を伴っており、それはスペインを経由して北海とイタリアの港の間で行われていた。16世紀には大発見が伴っていた。

これらの交易は文明間の経済的、技術的、文化的交流同様によく知られた空間的拡大を伴っていた。

これらの時代における財の貿易に関する研究は、19世紀の歴史学が中世後期までの離れた文明間における物質的、文化的交易の意義を過小評価していることを示唆していた。例えば:

シルクロードは13世紀以前に存在していた。

バルト地域とローマとの間で規則的に行われた貿易の証拠が存在していた。

ギリシアの壺が中国で発見されたことは古代において商品や思想が世界的に移動していたことを認めていた。

私たちは同様にアフリカのイスラム化におけるアラブの貿易ルートの基本的な役割を実例として与えることができた。

9世紀頃インドとアラブ世界の交易が同様に存在しており、それは1000年から始まる10進法の位置番号システムをヨーロッパに徐々に導入させることを促していた。

15世紀から16世紀にかけてルネッサンスの動きは大きな変動の要因となっていた:印刷が登場し、ヨーロッパは大きな発見を行っていた。

啓蒙運動の時代に、印刷の普及、地動説の発見、工業化と植民地化は他のタイプの変動を導いており、モンテスキューはこれらの用語を用いて分析していた:「今日私たちは私たちの父からの教育、私たちの師からの教育、私たちの世界からの教育のように異なったもしくは正反対の3つの教育を受けている。最後に述べたことは最初の考えを打ち消すものである」[13]。

2.3 産業革命

歴史家にとってフランス革命から第一次世界大戦に至る19世紀は産業革命によって特徴づけられていた。その後、輸送コストの低下、蒸気エンジンの普及、電信によるコミュニケーション・コストの低下を続けることができた。これらの2つの要素は世界の異なる部分における相互通信を可能にし、人間、財、知識の大規模輸送を可能にしていた。

19世紀は同様に世界的に大規模な人口の移動を経験していた。ヨーロッパでは、農業革命が田舎から農民を遠ざけていた。都市は、1750年から1900年にかけて4倍になった旧大陸の人口を困難を伴いながら吸収していた。西欧人は世界中に大規模に移住していた(アメリカ、オーストラリア、アルジェリア…)。これらの人口の移動は世界の労働の分布を大幅に変化させていた。

経済的に、工業化は先進国と途上国との間で工業製品を貿易することの発展を可能にしていた。植民地化は植民地からヨーロッパへ原料が流入する結果を促していた。これらの貿易の影響はしかしながら世界的な移住によって誘発されるものと比較すると低いものであった。

植民地化は同様に共通の政治空間で世界の大半が統合されることに影響を及ぼしており、植民地同様に諸国間で資本がシフトすることを促していた。

文化の分野では、オリエンタリズムやジャポニズムに対する旅行本や流行の多様化が他の文化に対するヨーロッパの想像力を刺激していたが、しばしばそれ自体植民地化によって損なわれていた。ヨーロッパの技術のおかげでジュール·ヴェルヌはフィリアス·フォッグに80日間で世界一周を行わせていた。当時、世界主義は国際的な寄付とともにマルクス主義に基づいた見方による最初の表現を考え出していた。

2.4 「短い20世紀」のカオス[14]

20世紀初頭は世界貿易に対する不信によって特徴づけられ、世界化のプロセスを犠牲にして多くの諸国に落ち込みや停滞をもたらす結果となっていた。

その現象は貿易や人間の交流が最も重要であった場所で始まっていた。ロシア革命がヨーロッパから重要な貿易相手国と金融機関を奪った一方、移民割当法によって(アジア人に対しては1911年、他の人口集団に対しては1921年に)アメリカが突然最大の移民を受け入れる姿勢を放棄していた。

大部分の国々が経済を保護するための重要な障壁に直面していた。物質的、金融的取り引きに対するこの突然の障壁は1930年の危機にとって不可欠な要素であり、それはほとんど全ての世界化にとってブレークポイントとなっていた。

このプロセスの拒絶は、国際連盟の崩壊や排外主義に変わる外国文化や外国人に対する拒絶を伴いながら、政治問題に拡大し、単なる経済的な枠組みを超えるものになっていた。

もし20世紀初頭の世界化がスローダウンしていたならば、20世紀後半の世界化はこのプロセスを刺激し加速させるものであった。1945年以降、それは分野にもよるが非常に不均一なものであった。ヨーロッパの再建、ソ連圏の登場、脱植民地化の動きは財やサービスの取り引きの範囲を制限していた。世界化はむしろ国際組織である国連、世界銀行、IMF、GATTの創設を含んでおり、同様にアメリカからの文化的製品、特に映画の普及も含んでいた。

世界化という用語はすでに用いられていたが、世界GDPのシェアで財の貿易が1910年の水準から脱し、実質的な経済上の世界化をもたらしたのは1971年以降のことだった。低い輸送コストに支援され、世界化は世界貿易の80%を占めている豊かな国々と新興工業国(韓国、台湾、ブラジル、アルゼンチン…)との間における製品の貿易の発展を本質的には意味していた。コメコンの中でも、計画経済は世界の他の国々と対峙しながら主に隔離された状態で、製品の貿易を促進していた。

1980年代初頭、広大な地理的区分(アフリカやアジアの大半)において、第1次産業(農業)や第3次産業(サービス)は経済的世界化のプロセスの外に置かれており、人の移動も低い水準だった。さらに情報通信技術の改善や外国投資に関する法律の緩和が国際的な金融市場の発展を促していた。

アメリカの軍事的世界化:戦闘の統合部隊の地理的分布について。この世界的なプレゼンスは、地理的戦略や戦術に必要とされるアクションに適した形で、1947年以降のすべての軍事介入の基礎を形成していた。この米軍の展開はアメリカ帝国の存在に気付いた世界的な世論の形成に大きく貢献していた。

3 現代の世界化の諸相

現代の世界化はいくつかの点でアメリカ型モデルの覇権を示していた。ジョン・セビジャは以下のようにこの世界化を説明していた。「理念はアメリカをイメージしており、理論は市場、透明性、移動性を有し、根差すものがなく、国境が存在しない社会のために作られており、経済力は王でもあり隔絶された立場でもあった」[15]。

3.1 経済的側面

経済の世界化の影響に対する評価は考慮される国々の富によって対比される多くの要素を抱えていた。

3.1.1 富裕国

富裕国にとって、経済的世界化は2つの基本的な便益を有していた。1つ目は消費者に対し便益をもたらし、もし製品が国内で生産されているならば、消費者はそれより広い幅の製品(多様性)にそれより低い価格でアクセスすることが可能であることを示していた。製品の豊富さは消費者社会にとって重要な視点になっていた。定量的にはこの影響は大きなものであり、中国の繊維製品の購入を通じ消費者に利益をもたらすことによって理解されることが可能だった。2つ目の便益は資本に利益をもたらされる資本家を対象としていた。

しかしながら富裕国は熟練労働者による労働集約的な産業の移転に直面し、富裕国間での競争を増大させていた。定量的には小さなものになるがこの影響は、ある個人やある地域に関連して産業を営んでいるが、その利益はその人々に分配されているといった問題を呈していた。言い換えると、途上国の非熟練労働者と競争している労働力の割合はわずか3%でしかなかった。

しかしながら中国やインドの科学技術の水準は西欧の水準を非常に迅速にキャッチアップしており、通信技術の高まりにより、労働力の直接的な競争は現在のところ中産階級(例えばコールセンターのアウトソーシング)やエンジニア(あらゆる主要なソフトウェア集団はインドに展開した支社を有している)を対象にしていた。

計量経済学におけるいくつかの研究は、労働の国際分業による富裕国の利益が損失(移転や産業の空洞化)を上回るとの結論を双方の側面が示していることを評価しようとしていた。経済の世界化が直面している富裕国の問題とは本質的には損失に見合った利益の分け前を与えることによって他の国々を補償するといった収益の分配の問題であった。

しかしながら一部の人々[16]はこれらの研究、これらの客観性、その著者とその結論を批判していた。これらの反対派は、世界化はヨーロッパの成長によって特徴づけられず、むしろ規制、社会的保護、税制、教育を通じて国々の間における悲惨な競争を背景にした不平等や環境被害(彼らの視点による)を生じさせ、ソーシャルダンピングや地域の社会運動に効力が存在しない状況(政治力は彼らに満足を与えることができない)を導くだろうと考えていた。この分析によれば世界化は「階級闘争」を妨げ、先進国での社会的保護を崩壊させる可能性があった。

3.1.2 新興工業国

アジア通貨危機までは新興工業国は経済の世界化における勝ち組と思われていた。熟練した労働力や低コストを利用して、彼らは、第二次大戦後のアメリカによって日本へ提供された財政援助のように、富裕国から多額の投資を受け、このことが近代経済や強固なシステムを構築し、貧困から脱出していった。しかしながらアジア通貨危機はパニックのような投機になりやすい金融市場への彼らの依存の程度を示していた。

これらの国々における経済の世界化のバランスは非常に対照的で、韓国や台湾のような国々は確実に富裕国の仲間入りをしており、他方タイやフィリピンは投資の波から回復するのに苦しんでおり、残りは概ね国レベルで世界化から便益を享受していたが、これらの収益の分配に関して非常に不公平であった(ブラジル、中国)。

3.1.3 貧困国

経済的に眺めると最貧国は主に世界化のプロセスの外に留まっていた。それらは実際に財産権が確立され、汚職がないことに加え、人間の生活(健康や教育)の点で、安定した組織を必要としており、それらはこれらの国々にはほとんど存在していなかった。彼らの主な経済的資源である農業は富裕国の保護主義的政策によって支配されたままだった。

3.2 金融的側面

第二次世界大戦後、金融市場は国ごとに規制され、分断されていた。IMFや世界銀行のような様々な主体(ワシントン・コンセンサス)の影響の下で、市場は「3つのD」と呼ばれる3重の進化を遂げており、規制緩和(為替支配や資本移動に対する制限の撤廃)、仲介なく金融市場に直接アクセスする中抜き、そして開放(存在していた壁を除くこと)が挙げられていた。そして1970年代後半から統合された資本市場が徐々に世界に導入されていった。

地理的側面から離れたので、新しい金融のためのロジックが生み出され、そういった理由で専門家たちは単に世界化というよりも金融の「グローバル化」と話していた。言い換えるならば、今日のグローバル化された金融の世界は世界経済の中に存在していた。

世界化は世界金融史上前例のない規模で拡大を続けており、それは主にインターネットを通じた情報端末によって生み出されていた。

金融のグローバル化はコーポレート・ファイナンスや支払い残高に対する融資を促していた。資本移動に対する障壁を取り除くことは金融市場において前例のない拡大を促していた。しかし現代の国際金融におけるゲームの本当の勝者は特に多国籍企業、国有財産、金融機関や機関投資家であると気付く必要があった。

金融市場の発達に対する主なリスクは以下になる。

市場の変化が増大し、金利や為替レートの不安定性の原因となっている。

重大な経済的損失や信用の損失によるシステマティックなリスクが経済全体にさらに容易に波及する(ドミノ理論)。

金融のグローバル化は新しい不安定性を生むことにより新たなリスクを生じさせていた。国家や各機関(IMFや世界銀行)は大きな危機に対して何もできないことを示していたので、このグローバル化をコントロールする問題が今日生じている。

世界的な規制は現在のところ達成できないように思われていた。ジェームズ・トービンによって提唱された税を導入するべきか。国際機関を改革することができるか。国家は共通の基盤を大きなシステムにおける危機のために見出すだろうか。

3.3 文化的側面

情報ネットワークや共通のコミュニケーション[17]に多くの個人がアクセスする現状は2つの影響を導いていた。

1つ目は文化的多様性とすべての個人の相互依存に対する認識の高まりであった。情報源の多様化を背景にして、このことは環境や世界の課題に対するより良い理解を通じて表現されてきた。世界の文化的遺産はその容貌を変えてきていた。ユネスコは文書化を促進し(世界リストの保存)存続を願う(人類の無形文化遺産)印象をまとっていた。少数民族の文化(ネイティブ・アメリカンやブッシュマン)は同様に可視性を見出されることが可能であり、国際的な次元で問題はキープレーヤーとしてNGOの台頭を眺めていた。同様に宗教と哲学の強力な混合は世界教会主義や異教徒間の対話を促進していた。しかし逆に、相対主義の拒絶に基づいた共同体のアイデンティティやある文化の別の文化に対する優位性の主張が付随して成長してきた。

2つ目は英語であるが語彙の少ないバージョンである「コミュニケーションのための英語」(時として世界における英語を示すためにグロービッシュと呼ばれる)の使用によって特徴づけられるある種の「共通文化」の出現であり、文化的産物(映画、音楽、テレビ、情報)やライフスタイル(西洋のスポーツ、イタリアン、チャイニーズ)によってもたらされるアメリカや西洋の文化になる。一部の人々は文化的多様性の損失のリスクや経済や社会関係におけるある考え方の支配のリスクを眺めていた。普遍的文明といった用語はそれ自体論争の対象になっていた。アングロ・サクソンの世界を含めると一部の作家たちはアングロ・アメリカの言語帝国主義を語ることを躊躇していなかった[18]。

ある作者たちは、主人公の思想的優位性を高めるために、文化によって伝えられる影響についての闘争や対立を呼び起こすことを躊躇しない。例えばダニエル・リンデンベルクによれば「ネオコンによって理論化された文化の戦争は始まったばかりである」[19]。中小企業のための易しい輸出の中でブリュノ・ベルナールのような作家たちはフランス語圏をフランス語話者の大きな財産としてみなしているが、それはしばしばフランス語話者自身によって無視されている[19]。

3.4 組織や政治の側面

規制の在り方で国家の国際的優位性を与える世界化は16世紀に始まった経済統合における世界的現象やタイムスケールを通じた地理的そして漸次的政策の不均一なプロセスの加速として眺められていた。それは組織に対する新たな課題や世界の政治的権力の新たな分布を生み出し、国際システムの凡庸な概念に疑問を投げかけていた。

3.4.1 国家の周縁化

公共政策の伝統的なツールである課税や規制は地球規模でその効果を失っていた。そしてそれらの実施は多くの国々の協調を求めていたが、常にその協調を手に入れ維持するのは難しい作業だった。

世界化は経済主体、情報伝達の方法、資本のフローを生み出しており、その大きさは国民国家の構造がコントロールできる大きさをはるかに超えていた。国際関係が国家の利益を代表する規制によって支配されていないので、結果として多くの政府はこれらの現象に対する無力感を嘆くのみだった。ヨーロッパのレベルでは、制度の単位の中で経済主体の標準的な類型を定義するために、国民経済を調和させるいくらかの意欲が存在していたことに留意すべきである。

3.4.2 国境を越えた主体を作る役割

世界化の最近の加速は国境を越えた主体の多様化や強化を導いていた。それは国際機関(世界銀行、IMF、OECD、世界経済フォーラム、G8)に彼らの言葉や行動を再定義するように求めていた[21]。

NGO(非政府組織)はその空白を埋めようとしていたが、世界の市民を代表していると主張するための正当性を欠いていた。彼らはしばしば偏向的な主張によって代弁され、彼らの活動としての業務において透明性を著しく欠いていた。

彼らとしては、例えば労働組合は世界化のアプローチによって労働問題を主張する意義を認識しており、国際労働組合総連合で共に連携していた。

3.5 人間と社会の側面

今日、世界人口の約3%が出生地の外の国で生活している。世界の70億人を考慮に入れると、祖国を離れた移民は約2億人とされている。

3.5.1 移住

永住のための人間の移動は世界化から除外されていた。2002年にアメリカは史上最大の移民数を歓迎していたが、人口に対する比率は1920年代の比率より低かった。そして世界中で人口の移動が数量として低下していた。国際的に維持可能な移動性は好ましくないままであり、戦争によって移動させられるか、能力を活かして報酬を求めるより良い訓練を受けた人々の特権になっていた。

3.5.2 所得の不平等

世界化は先進国の間での(雇用者と被雇用者、能力のある人々と能力が不足している人々)または先進国、途上国、貧困国の間での所得不平等を強調していた[22]。

現在この所得の不平等はライフスタイルにおける最も大きな違いを反映しているという事実を隠すべきではない。

3.5.3 観光

生活水準の向上と移動コストの低下は国際観光の発展に貢献し、それは1950年の2,500万人から2000年の5億人に成長していた。しかし国際観光は他の富裕国を訪れる富裕国の国民で主に構成されていた(ある対極が受け手になり、ある対極が送り手になっていた)。貧困国への観光はしばしば少数の地域に限定されており、ホスト国全体の開発に対して比較的小さな影響しか及ぼしていなかった。

3.6 環境保護の側面

環境保護に対するリスクは同様にグローバル化されており、全体のバランスを脅かしていた。生態系危機のいくつかの側面は世界的に進行しており、特に気候変動や様々な特徴が挙げられていた:温室効果、海流の変動のリスク、生物多様性の損失、森林の減少等である。

生態系危機に対する意識は科学者たちにグローバルな生態系を考えさせるように促し、ルネ・デュボスの言葉によれば「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」となり、グローバルな生態系の専門家たちは生態圏や生物圏等について話をしていた。NGOに促され、世界のリーダーたちは地球サミットに集まり、維持可能な開発政策を定めていた。これらの政策は国土と企業を想定しており、人間環境、社会、経済といった3つの側面を交差させることを求めていた。

いくつかのアプローチは彼らの生態的、社会的、経済的特徴に従ってグローバルなリスクを取り扱う傾向にあり、京都議定書、気候モデル、IPCCでの作業、グローバルなリスクに対する基準[23](ウェブ上で利用できるグローバルなデータベースによって示されている)等が挙げられていた。

資源の問題に直面して生じた世界は1つであるといった意識は20世紀後半や21世紀初頭の基本的な特徴であった。いくつかの出来事は確かに経済、環境保護、社会において新しいミレニアムを示しており、環境問題は現在企業の責任になっていた。それらはNGOの発展の中で表現の場を見出しており(WWF、国境なき医師団等)、利害関係者の間でビジネス・パートナーになっていた。

グローバル化におけるこれらの問題は技術革新に対する政策の必要性を示し、そこで知識や知的財産権は純粋なコミュニケーションのためのツールより重要になっていた。

4 現代の世界化の特徴

20世紀後半と21世紀における世界化の形態は2つの基本的な要因に基づいていた[24]。

生産費用(経済的意味で)の違いの点で低い輸送コストは物質的な財産に影響を及ぼしていた。

より低い世界的なコミュニケーションのコストは金融を含めてデジタル形式の情報の拡散に影響を及ぼしていた。

4.1 物質的な財産の取り引き

1つ目の要因は労働の国際分業を説明しており、背景としてある国で日用品を生産し、輸送し、別の国で販売することが利益になるからである。生産プロセス全体に対するこの方法の一般化は(製品は異なった別の国々で多くの段階を踏みながら生産されている)貿易より強い経済的相互依存の深化を促していた。フランスとドイツがその例になる。これは本質的に19世紀に始まった現象の継続であった。

このプロセスは、途上国の製品同様、富裕国の間の関税を低減する意思を反映していた。GATTやWTOでの交渉はこれゆえ貿易障壁の十分な低減を目指しており、農業やサービスでのこのプロセスの拡大を導いていた。

4.2 情報の世界化

21世紀初頭の世界化に関する大きなニュースは開かれたり閉ざされたりする情報源に対する世界的な情報技術(ITCs)の発展になった。これらのツールにアクセスして、個人によって非常に差がある認識を伴いながら、世界化は国家や企業と同じくらい個人に影響を及ぼしていた。

この技術変化に対する最初の影響は経済の金融化や多国籍企業の発展につながった。国家間におけるコストの違いに関する最良の情報は、国際的に統合された金融市場の成立により、銀行の仲立ちなしに資本が移動することを可能にしていた。

純粋に金融的な要因と対照的に、ウェブ、インターネット、他のメディアのような情報技術の世界化は直接個人に影響を及ぼしていた。外国の文化的産物(日本の漫画、インドの映画、南米のダンス等)に触れることはもはやエリートの特権ではなくなっていた。そして世界的に文化の多様性に対する意識が高まっていた。

4.3 表象の変化

私たちは、維持可能な開発の問題に直面している世界化が新しい歴史のサイクルに入ったことをぼんやりと認識していた。

哲学者であるミシェル·フーコーは世界観に対するエピステーメー(認識体系)について話をしていた。私たちの時代は、彼によれば、新しい認識体系に入っており、それを彼は超近代性と呼んでいた。

歴史家であるルネ・レモンは、新しい社会的表象を導く世界に対する表象の変化、情報や知識を拡散する方法の変化、基本的な科学書を読み、古代の文化に敬意を払うことといった特徴を有するサイクルが存在していると考えていた。

例えば15世紀や16世紀のルネサンスはギリシア語やラテン語の著者に対して敬意を払った期間だった。それは芸術や技術に対する古代の文化の再発見を普及させ、活版印刷の技術をもたらしていた。啓蒙運動は「コペルニクス的転回」を伴う世界の表象の重要な変化を示していた。現代は新しい宇宙論やインターネットの発展と共に違った世界の表象を同様に形成していた。

4.4 アングロ・アメリカンの言語の優位性

世界化は「アングロ・アメリカンの言語」による支配を伴っており、それはインターネット上に最もよく表されていた。1996年には世界のウェブページの75%が英語で書かれており、英語はほとんど独占的に存在していた。2003年にはこの比率は45%に低下していた[25]。したがってインターネット上ではいくらかの言語の多様性が確認されていた。このことは、世界に6,000ある言語の大多数がインターネット上に表れていないことを妨げるものではなかった。

アングロ・アメリカンの言語による支配とは、アングロ・サクソンの世界を含む一部の著者たちが言語的帝国主義を語ることを躊躇しないような状況を指していた[26]。オルター・グローバリストよる組織は、アメリカの言語帝国主義と考えられる全ての英語を批判しており、英語はそこではリベラルな世界化の媒介者として振る舞っていた[27]。

アングロ・アメリカンによる言語の支配はアメリカによる多くの社会文化的影響からも明らかであった。アメリカは、経済、金融、科学、コンピュータ、レジャー(音楽、映画)に強い影響を及ぼしていた。この影響は英語を普及させ、外来語(英語的語法)を促進させる傾向にあった。

英語の優位性はさらにヨーロッパの公共機関や特に欧州委員会で感じられてきた。1995年の欧州連合の拡大以来、英語の使用はヨーロッパの公共機関においてフランス語のそれを上回っていた。2001年には、欧州委員会によって受け取られる文書の56.8%が英語で書かれており、29.8%がフランス語で、4.3%がドイツ語で、8.8%が他の8つの欧州の言語で書かれていた[28]。しかし欧州連合の人口のわずか11.6%が第一言語としての英語話者で、他方12%が第一言語としてのフランス語話者で、18%が第一言語としてのドイツ語話者だった[29]。

ユネスコによれば、世界で話されている約6,000の言語の内2,500の言語が今日危機に瀕していた。世紀の変わり目に世界の言語多様性に対する大きな危機が存在していた。

様々なプロジェクト(多言語や公平なコミュニケーションの言語としてのエスペラントを促進している)を通じて、この言語の支配に対する闘いが試みられていた。

http://de.wikipedia.org/wiki/Globalisierungskritik

グローバル化に対する批判

グローバル化に対する批評家は、グローバル化の経済的、社会的、文化的、環境への影響を批判的に検証していた。批評の1つは、あいまいな用語であるが「新自由主義」で示され、世界銀行やWTOのような組織によって世界的に促進されてきた経済システムに対して行われていた。

1 区分

グローバル化に対する批評家は、例えば政党のような組織であるATTACのような多くの様々な非政府組織(NGO)、あらゆる種類の自由な主体や、アルンダティ・ロイ、ジャン・ジーグラー、ナオミ・クラインのような個人を含んでいる。完全にグローバル化に反対し、グローバルな相互依存を減らしていく立場は反グローバル化運動と呼ばれていた。例えば新自由主義に反対し、他のグローバル化を支持するような狭い意味でのグローバル化に対する批判は反グローバル化運動と区別されていた(フランス語のオルター・グローバリゼーションや英語の反グローバル化、オルターや他等)。一般的な用語やメディアでは、グローバル化に対する批評家はしばしば不正確に反グローバル化の活動家として呼ばれていた。

主に批評は、「公営企業の民営化や社会扶助と人間性や非人間性に対する「再評価」を通じて」、包括的な商業化やマーケティング(商品化)と同様に、規制緩和や社会権の削減に対する追求に焦点を当てていた[1]。

2 歴史

グローバル化に対する批判は解放の神学や資本主義に対する初期の運動に根差していた。彼らの考え方を受け継ぎ発展させ、現在の表れとなっていた。

1990年代の終わりに向けてグローバル化に対する批判は様々な運動に展開していった。多くの旧植民地でグローバルな条約に反対する様々な運動や植民地の支配者(新植民地主義を参照せよ)に対する抵抗を継続する機関が存在していた。

ラテンアメリカでは北米自由貿易協定(NAFTA)の制定に対する1994年1月のサパティスタの反乱が挙げられていた。サパティスタ国民解放軍は、最初の世界的に組織された会合である、いわゆる銀河間の出会い(会議)を開催していた。またすぐに国家の大部分を席巻したチアパス州の蜂起が存在していた。「新自由主義」に対する抵抗を普及させる試みは当時主にヨーロッパやアメリカの学生による政治的に小さなグループに限定されていた[2]。

1997年に、多国籍企業の広範な権利を示す、他国間投資保護協定(MAI)に関する最初の原案を与えられ、抗議は国際的な世論へと広がっていった。カナダ、アメリカ、フランス、いくつかのアジア諸国の非政府組織はこの原案を強く批判していた。とりわけハリウッドの商品との自由競争に晒されるため、フランスの文化産業は「MAI」を危険なものと感じていた。リオネル・ジョスパン首相の下でフランス政府が試みたプロジェクトは失敗に終わっていた。

失敗の直後にOECD諸国やビジネスリーダーは、多国籍企業や外国投資に最大の法的確からしさを保証するために投資協定のための新しい制度的なフレームワークを見出したいといったことを発表していた。この声明と1997年7月に生じたアジア通貨危機は「新自由主義的グローバル経済」に対する批判的な意識を高めていた。ル・モンド・ディプロマティークの編集総長であるイグナシオ・ラモネは1997年12月にATTAC運動と呼ばれた社説である「市場の武装を解除せよ」[3]を公表していた。

グローバル正義運動における重要な出来事は、警察とグローバル化に対する批判者たちが激しく衝突した後、1999年12月にシアトルで開催された第3回WTO会議をぶち壊したことだった。シアトルの後、グローバル化に対する批判の活動は各都市で展開され、世界規模の普及を経験していた。

ヨーロッパ大陸では2000年9月26日におけるプラハでの世界銀行と国際通貨基金に対する抗議が幅広い動員といった点で重要だった。約15,000人に及ぶグローバル化に対する批判者たちは会議が行われるビルに対して3色で覆われる抗議を行っていた。黄色の電車はトゥーテ・ビアンケ等で、青色の電車はアウトノーメ等で、ピンクとシルバーはリズムズ・オブ・レジスタンス等であった。

2001年のヨーテボリで行われたEUサミットに関して、2001年6月14日に20,000人以上のグローバル化に対する批判者たちは「ブッシュは歓迎されない」といったスローガンの下に集まっていた。それは暴力に発展していった。警察がデモに対して発砲し、1人が胃を撃ち抜かれ重体となる事態に発展していた。

数週間後、2001年ジェノバでのG8サミットで、デモとイタリア警察との間に深刻な衝突があった。イタリア政府はサミットの期間にシェンゲン協定の効力をなくし、全ての国境を隙間なく監視していた。ジェノバでは20,000人の警察とカラビニエリが配備されていた。メディアや一部の政治家は「内戦のような状況だ」と警告していた。深刻な人権侵害が存在し、デモに対する監督権の濫用も存在していた[4]。数百人のデモ参加者が怪我を負わされていた。イタリアの活動家であるカルロ·ジュリアーニが警察車両を攻撃したとき、警官の1人によって撃たれ、SUVが2回転がる事態になっていた。グローバル化に対する抗議に参加した人々は70,000人から250,000人と推定されていた。

3 グループ

ヨーロッパや北アメリカにおいてグローバル正義運動は、新しい社会運動、特に第3世界や1つの世界における運動そして労働組合による運動に回帰していた。抗議に対する注目は、イギリスのリクレイム・ザ・ストリーツやシアトルのダイレクト・アクション・ネットワークによって触発されたグループによって活動の新しい形態を通じて達成されていった。オランダでは1960年代末にアムステルダム条約に反対する「反グローバル化運動」等が形成されていた。この目的のために1967年に今日のユーロダスニー・コレクティブが設立されていた。

3.1 NGO/自由な主体

NGOはグローバル正義運動において重要な役割を担っていた。彼らは規則的に反対や代替の会議を組織し、その批判を公開するために現代の情報技術を活用していた。NGOは異なった視点や異なったネットワークで活動していた。多くのNGOが「グローバル・ガバナンス」の考え方を体現する機関としての国連を肯定していた。ヨーロッパでは彼らは欧州連合に依存していた。批評家は本質的にロビー活動に焦点を当てているとしてNGOを批判していた。超国家的な組織、政府、企業に金融の依存が高まれば高まるほど、運動のラディカルな層による批判は大きくなり、NGOが資本主義者による経済システムを改革する可能性を主張する声が大きくなっていた[5]。

いくつかの分野においてこれらはそうすることができる限りしばしばNGOのキャンペーンを現地の人々と接触させる役割を果たしていた。西洋の文明、植民地化、グローバル化に対する現地の批判は現在数世紀にわたって続いていた。

3.2 労働組合

シアトルでの出来事以来ますます国際機関の会合に対して労働組合は結集されるようになっていった。ヨーロッパで初めて大規模に彼らはニースやブリュッセルにおけるEUのサミットに対する抗議に参加するようになった。そこで労働組合は個々のケースにおける分離されたデモを組織していた。双方のケースにおける大規模な参加はフランス労働総同盟(CGT)の組織力に依存していた。

国際的に新しい運動の側に立っていたのは主に中進国からのいくつかの労働組合による組織だった。これはブラジルの中央統一労働組合(CUT)や韓国の全国民主労働組合総連盟を含んでおり、それは1999年に合法化されていた。ヨーロッパでは独立左派や労働組合による組織はイタリアのSinCobasやフランスのCUD(連帯・統一・民主労組)のように推進力となっており、それは、1997年アムステルダムでのEUサミット[7]に際して失業に反対してヨーロッパを行進したとき以来、国民国家的なフレームワークに基づき攻撃的な政策を採用していた。

3.3 ネットワーク

3.3.1 ATTAC

労働組合やNGOに加えて多くの国際的なネットワークがグローバル正義運動の中に生じていた。ヨーロッパではATTACが知られていた。ル・モンド・ディプロマティークの中でイグナシオ・ラモネによって述べられた考えとは、「トービン税」と呼ばれる国際的な「連帯税」を導入するために、NGOによる幅広い呼びかけによって、政府に圧力をかけることだった。それは、70年代の後半にアメリカの経済学者であるジェームズ・トービンによって提案された、国際的な資本取引に対する0.1%の課税を指していた。ラモネによって提案された「ATTAC」という名前はフランス語のattaqueに基づき、グローバル化に適応する年月の後の「反撃」への移行を示唆していた[8]。

フランスではこれらの呼び名は進歩的な人々に影響力のある新聞に喜んで受けられていった。1990年代中頃の大きなストライキの波は新自由主義に反対するフランスの人々の批判的な意識を先鋭化させ、その国際的な波及は1997年後半のアジア通貨危機によって再度示されることになった。

ATTACの活動はトービン税や「金融市場の民主的なコントロール」の領域やその外にすぐに広がっていった。現在ATTACの活動はWTOの貿易政策、第三世界の債務、国家による社会保険や公共サービスの民営化を含んでいる。組織は現在多くのアフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカ諸国に存在している。

2000年にドイツでは多くのNGOの下で世界経済・生態系・開発(WEED)がドイツATTACのイニシアチブをとっていた。

3.3.2 他のネットワーク

ATTACの次に大きなグローバルネットワークはピープルズ・グローバル・アクション(PGA)になる。PGAはヨーロッパではグループで活動しており、メキシコにおけるサパティスタの政策を理解することによりその行動を決定していた。1998年2月にジュネーブで設立されたそのネットワークはあらゆるロビー活動に反対しており、その代わりに定期的にグローバルな「アクション・デイズ」を開催していた。関連している最大の組織はインドの農民組織であるKRRS[9]になり、それは約1千万人を擁すると主張していた。このネットワークは独自の行動を通じて注目を集めていた。それは自発性、自己管理、抵抗の原則に依存していた。ATTACと異なり公式の個人会員は存在していなかった。全ての大陸に責任のあるグループを配置し、それはアクション・デイズを国際的にコーディネートするために派遣され、国際的な会議の準備を行っていた。

国際農民連合であるビア・カンペシーナは特に南の国々で主要な役割を果たしていた。ヨーロッパではフランス人のホセ・ボーブと自由貿易に反対する彼の行動やマクドナルドの行動がよく知られていた。ラテンアメリカでは特にブラジルの小作運動であるMSTがセンセーショナルな土地占拠を通じて知名度を得ていった。ビア・カンペシーナは農業政策、農作物に関する遺伝子工学、特許法に焦点を当てていた。彼らの扱っている分野の中には特にWTOの政策があった。農民組織は食糧に対する主権を支持しており、地域の食糧安全保障のため農業の輸出志向に反対していた。このことは、個々の地域は世界において地域の農産物を通じて地域の人口を養っていくべきであるといったことを意味していた。

ドイツでは、異議を唱えるネットワーク(Dissent!-Netzwerk)、左派介入主義者(Interventionistische Linke)、連邦における協調のための国際主義(BUKO)に対して言及する価値が存在していた[10]。

5.4 社会フォーラム

これらの様々なネットワークや組織は2001年1月にポルト・アレグレ(ブラジル)の最初の世界社会フォーラムで一同に会しており、ダボスでの企業経営者やビジネスリーダーによって1971年から開催されていた世界経済フォーラムと同時期の出来事であった。ポルト・アレグレではトータルで117の国々を10,000人以上の参加者たちが代表していた。また多くのNGOや市民組織に加えて、400人の議員が出席していた。ポルト・アレグレは会議のテーマにとって模範的なプロジェクトであると考えられていた。「もう1つの世界は可能だ」とブラジル労働者党(PT)は「家計の参与権」を紹介しており、都市の予算の内少なくとも20%を求める住民投票を計画していた。

この反対のサミットの結果として、より多くの社会フォーラムが登場し、最初に大陸レベルで(ヨーロッパ社会フォーラム)、そして後に地域や地方レベルで開催されるようになった。この運動は多様な中身を有すると考えられていた。焦点は「社会的なグローバル化」、「人権」(特に女性の権利)、環境問題に当てられていた。

4 内容

多くの著者たちが、現在の形態のグローバル化によって先進国が東欧ブロックや途上国から利益を得ているだけでなく、他方で貧困や依存、自己決定権の制限をもたらしていることを批判していた。例えばジョン・パーキンズはアメリカの諜報部による「経済的殺人」を示す多くのインタビューを告白しているベストセラーの中で1人のエコノミック・ヒットマンを描いていた。

1990年代からソ連圏の崩壊や冷戦の終わりに意識が向けられ、世界経済の中により多くの変化が生じ始め、それはグローバルな情報伝達のためのネットワークや資本(外国直接投資,FDI)と財およびサービスの流れの強化を意味していた。

分析のためのカテゴリーとして国家の違いはここでは当然短い間しか存在し得なくなり、世界の全ての国々においてグローバル化や新自由主義から利益を得る人々と損失を被る人々が存在していた。誇張して言えば、国家とは消費や生活のような人々の振る舞いによって引き起こされる問題を分離することをますます困難にする人工的な産物であることが明白になっていた。

もう1つの批判は市場のグローバル化に伴う競争の激化であり、世界経済はその中に存在していた。国家がわずかばかりの整備された社会システムによって救われることはないとの批判が存在し、「競争」や「国家予算の再編」のような議論とともに世界的な社会的果実(健康、教育、労働、最低賃金、年金、児童労働からの保護、女性の人権等)は削減されていった。

社会経済の基準や生活条件の変化といったこの現象はしばしば底辺への競争といった専門用語で語られるが、概して経済の不安定化の中にその特徴を見出すことができ、その特徴はグローバル化を通じ人工的に造られた社会経済上のダーウィニズムや固有の原動力の中にますます巻き込まれていくことを示していた。グローバル化の負の側面は中産階級や下層階級における購買力の変化や財政状況、個々の国民国家や全体としての世界人口における窮乏化を含む統計によって補強されていた。全体の窮乏化が加速する現象は本質的には飽くなき利潤の拡大を目指す資本主義の当然の帰結であり、グローバル化はそれを加速させていた。そしてグローバル化は窮乏化のエンジンではないが、社会的倫理的に疑念を挟まざるを得ない世界人口の発展における触媒として作用していた。この加速は、資産の集中が関連するグローバル化における効果的に形成された成長を通じて、また本質的には資本市場や株式市場における為替取引に対する貨幣供給量を増加させることを通じて、そして同様にすでに90年代に始まっていたより効果的な融合のプロセスやそれによる市場の融合、例えば大企業による独占を目指した合併(巨大企業の最盛期でもあるが)は以前の強い国内の反トラスト法を除外する形で行われたことを通じて、なされていった。

国際貿易において現在行われている形態は完全な財産権の保護を要求していた。バリューチェーンや技術革新に対する保護や活性化のための規制は与えられておらず、逆に明示的に禁止されてきた。それは、財産権の保護が多くの場合技術革新の目的に反していることが認識されていたからだった。古典的な例は中央・南アメリカにおける園芸になり、投資に対する良い収益を達成していたが、以前の小規模農業と比較して人々の暮らしは悪くなる一方だった。制限を受けない財産権の保護に対する技術革新の反目は主にビジネスモデルの中に観察されることがあり、特許の間違った保護を維持していた。財産権の所有者は第三者を通じて彼らの考えを発展させることに関心を抱いておらず、それは財産権の割合が全ての製品の中で小さなものであったからだった。市場で達成された最高収益と比較すると、このことは、財産権の所有者は関連した技術革新の発展を可能にする元々の権利に対する損失を受け入れる必要が生じていたであろうことを意味していた。

同様にこの問題は、国内的そして時には地域的に構成員や貢献者の利益に基づいて方針を定める労働組合が国際的に変化しダイナミックに発展する「グローバルな」分業に関与すべきか、もし関与するならどのような方法が妥当かについての議論を促していた。フランスやイタリアで1980年代後半に生まれた左派に基づく労働組合はグローバル化に対する批判運動にますます関与を深めていった。

この運動の一部としてみなされる重要なグループは、全ての国家による国際的な枠組みへの関与を支持し(例えばいわゆる「トービン税」を通じた資本移動に対する課税が挙げられるが、その効果はしかしながら経済学者たちの間で議論を呼んでいた)、それは社会の最低水準を保障し、人々の自己決定権を保障することを促していた。特にそのことは途上国に有利になるような国際貿易協定や世界銀行やIMFといった機関における変化を促していた。途上国が経済的な独立を達成することを可能にするように、貸し手となった機関がその条件を撤回することを要求していた。経済的依存関係は輸出を強制することを促し、それを通じ国家に管理された経済政策は妨げを抱えていた。

5 タイプ

政治学者であるクラウス・レゲヴィーはグローバル化に対する批判を5種類に区別していた。

「もう1つの世界は可能だ」といったモットーの下で別の社会システムを発展させることを求める基本的な運動。ここに環境活動家、女性の権利のための活動家、平和主義者、ついでに過激なグループを再発見することができる。

グローバル化の「欠点」に着目し、社会改革をグローバル化の中に含めようとしている内部の批評家たち。ここに特に、元世界銀行上級副総裁であったジョセフ・スティグリッツやその著作で有名な『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』、ジョン・パーキンズやその経済ヒットマンの告白である著作、金融アナリストであるマイケル・ハドソンやそのアメリカの立場を批判した著作である『超帝国主義国家アメリカの内幕』が挙げられる[11]。

「新自由主義の文化的覇権」と特に闘っているアカデミズムの左派。

教会が社会改革の伝統と関連させた宗教運動(解放の神学を参照せよ)。

特に強い国民政府、国境や関税の再導入を求めている右派やナショナリストたちの運動。

6 批判

グローバル化の批評家たちは良い(生産的な)資本と悪い(非生産的な)資本のように金融資本を分割する批判を通じ、拒絶されることのない1つの立場から資本主義を批判する方法を採用していた。資本主義は弊害ではなく、新自由主義が弊害であった。

経済的次元のグローバル化に対する批判に対して、とりわけドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックは、この視点はそれに「グローバリズム」とレッテルを貼り批判しているにすぎないと述べていた。

マーカートは、議論が十分な範囲で行われておらず、経済的概念に止まったままであるとして、グローバル化の批評家を批判していた。彼は、ハンナ・アーレントの意味でグローバル化の批評家たちは新たな始まりを模索していないと述べることにより、このことを正当化していた。彼女はアウグスティヌスを引き合いに出し「これこそが始まりであり、人は創造され、それ以前には何もなかった」と述べていた(マーカート, P.31)。もしグローバル化に対する批評が、例えば新自由主義者であるマーガレット・サッチャーが「代替案は存在しない」と明らかに表明したことに対する代替の場を提供するならば、あなた方はより効果的で何かより公平な行政に対する疑問、言い換えればより良いグローバル化の管理に行き着くことができるだろう(P.95)。これは過去の枠組みを変更する対話であるが、このことはアーレントの意味で非常に非政治的なものである。政治は想定される必要性だけでなく、新しく全く未知の始まりに基づく「自由の領域」(イマヌエル・カントの倫理を参照せよ)における創造的思考にも従わなければならない。

http://it.wikipedia.org/wiki/Movimento_no-global

ノー・グローバル運動

ノー・グローバル運動や反グローバル化運動といった言葉は国際的なグループ、非政府組織、団体、比較的雑多な個人を政治的観点から示すイタリアのメディアで生まれたフレーズで、現在の新自由主義的な経済システムに対する批判を統合しており、その最初の登場は1999年頃アメリカのシアトルにあるWTO(世界貿易機関)の閣僚会合に際してのものとされていた。もともと「シアトルの人々」と呼ばれ、単一の名称を与えられていなかったが、シアトルに集まっていたのは非常に多くの多様な組織であった。他の国々では、元来雑多な要素に単一の名称を与えておらず、もしくは他の表現が用いられている。

この運動の主な批判は企業を対象にしており、メンバーによれば、企業の力は個々の政府の決定に影響を及ぼすほど強く、政策は環境保護の観点から維持可能でなく、エネルギー帝国主義的であり、地元の人々から敬意を払われず、労働条件にとって有害であるといったことが示されていた。

1 イタリア語や他の名称における起源:ニュー・グローバル、オルター・グローバリゼーション

「ノー・グローバル」といった用語は「ノー・グローバル・フォーラムのネットワーク」として対照的にイタリアのマスコミの中から生まれていた。単純に「G8に対してデモを行う人々」を位置づける単一の主体としてのこの用語はイタリアのメディアによって様々な言葉で広められたが、「ノー・グローバル」と宣言するグループは存在せず、その結果その時に疑問を抱かれながらも初めてその用語が用いられていたことが確認されていた[2]。

この運動に対する代替の名称は頻繁に用いられている。もしあなたが現在新しい自由や活動のような用語を用いるならば(それはより狭くよりラディカルでない含意を有しており、グローバル化の別の形態を支持することになる)、それは過去においてシアトルの人々によって用いられていた(1999年11月に開催されたWTO閣僚会合に関する疑惑を参照せよ)。

アカデミズムの世界では、一部の著者たちが2つの特徴を強調するためにグローバル正義運動について話していた。1つ目は社会運動の国境を越えたネットワークになり、2つ目はグローバル正義に対するより一般的な要求に沿うことができる多様な分野に対する注意になる。

他の国(フランス)ではオルター・グローバリゼーションの名称は反グローバル化の代わりに用いられる傾向があり、肯定的な活動を擁護する含意を示唆していた(もう1つの世界は可能だといったスローガンを参照せよ)。グローバル化自体の概念ではなく発展しているある種のグローバル化に対してその拒絶が反対につながるといったことをそれは明確に強調する傾向にあった。

2007年のドイツでのG8に対する抗議を通じて、グローバルクリティコという用語が一般に用いられるようになり、それは文字通りドイツ語のグローバル化に対する批判を文字通り翻訳したものだった。

2 歴史的文脈

この運動は冷戦の終わりから蓄積されてきた緊張に応じて部分的には90年代末には存在しており、福祉の危機、大衆政党の危機、国家間の経済障壁の低下、製造業の移転、第三世界での労働の搾取、独占や企業の力の強化、経済や金融の世界における市民による政治的コントロールのゆっくりとした消失が背景として挙げられていた。

経済のグローバル化や、それに関連し、国際貿易における協定によって可能とされ、WTOや議会と政府の意思決定によって認可されたプロセスに対する多くの抗議活動と共にこの運動は継続され、IMFや世界銀行のような国際機関と同様G8のような会合時に彼らは集まっていた。

運動はあらゆる言語に翻訳された「もう1つの世界は可能だ」といったスローガンと表裏一体で、ダボスでの世界経済フォーラムと対照的に、ポルト・アレグレで世界社会フォーラムを毎年2001年1月から開催していた。それは国際的なサミットで「反フォーラム」を組織し、メディアからの注目を集めていた。

ワールドトレードセンタービルが攻撃され、その後アフガニスタンで戦争が行われた後の2002年に、運動はより広い平和的な運動へと変化していた。抗議者たちによる「もう1つの世界は可能だ」という運動はブッシュ政権の軍事政策に反対する人々と合流し、運動の境界の輪郭を描くことはさらに困難になっていった。

3 境界と政治的活動

世界政治の伝統の外にあるグループや運動に言及するならば、ノー・グローバルは明白な境界を有していなかった。これは多くの市民社会の要求を含んでおり、しばしば政治的な表明を行っており、限られた分野で固有の特徴を示しながら機能していた。彼らは実際に、市民社会の再生、直接参加の民主主義を促進し、批判的な消費や維持可能な発展を促すことを望んでおり、平和主義者、環境保護主義者、反麻薬禁止主義者によって構成されていた。

伝統的な党派のロジックの外部にあり、その政治活動の技術は、他の民主的な政治力と比較すると、選挙に勝利することを目的としたコンセンサスの伝統的な集合と異なっており、階級闘争が必然的に収斂するだろう政治活動の時期を武力闘争の中に見出していたマルキストの教義からははるかに遠いものとなっていた。運動のための政治闘争の道具は実際のところ主に不買運動、デモ、反論(メディアでの活動)、エネルギーを考慮した環境的に維持可能なライフスタイルを含んでいた。

4 イデオロギー的基盤

反グローバル化運動は世界中の作家や知識人の作品によって触発されてきた。例えばカナダのジャーナリストであるナオミ・クラインの『ブランドなんか、いらない――搾取で巨大化する大企業の非情』といった著作は一部によれば運動のマニフェストであると考えられていた。

巨大産業の利益によって脅かされる現地の人々の自己決定権や生態系に対する敬意のために闘っているインドの知識人であるヴァンダナ·シヴァの著作や議論への参加は運動にとって説得力を増すものにさせると考えられていた。フランスではル・モンド・ディプロマティーク紙が反グローバリゼーションの立場にあることが知られており、ATTACの登場と人気について好意的だった。

アメリカの知識人であり言語学者であるノーム·チョムスキーは反グローバリゼーションの立場にあることが知られており、同様に小説家でありエッセイストであるエドゥアルド・ガレアーノ、アメリカの詩人であり音楽家であるベック・エリザベート、マルクス主義の社会学者であり神学者であるフランソワ・ウタールが挙げられる。運動には直接関わらないが新自由主義に批判的な他の一部の研究者や経済学者は部分的に運動を触発してきた。言及されている中には例えばアメリカの経済学者であるジェームズ・トービン(資本取引に対する課税といった提案、トービン税はATTACの運動を触発していた)やジョセフ・E・スティグリッツが挙げられる。

著作権に関する問題ではこの運動において、リチャード・ストールマンの見方を主に共有しており、彼はフリーソフトウェアやオープンなコンテンツの支持者であり、共有の実践として倫理的そして政治的に意味のあるものに寄付を行っていた。

5 批判

この政策に対する批判は先取りした実践の欠如になり、長期の政策を計画する際に多様な政治力をコーディネートする能力に欠けていることが伝えられていた。運動は政治的リアリズムの欠如やイデオロギー的にお互いに相容れないユートピアの集まりであったことによってしばしば批判されていた。

別の種類の批判は、世界社会フォーラムで特に見られるノー・グローバルの経験はブラジルやベネズエラといったラテンアメリカの新しいラディカルな社会民主的政府によってコントロールされ、搾取されていると考える人々から生じていた。

軍事的右派や「レーテ・リリープトゥ(小人国のネットワーク)」のカトリックがグローバル経済の新しい秩序の中に含まれていたけれども、最も厳しい批評家たちはこの運動を破壊的な組織、ほとんどテロリスト、極左の集団とみなしていた。これらによれば、さらに極端で過激な一派に関連していると考えられ、十分な距離を取っていないことで非難され、さらに過激な出来事として1999年のシアトルでの最初の抗議から2001年のジェノバでのG8に至るまで大きな場所で警官との衝突を起こしていた。後者の出来事に関してしかしながらアムネスティ・インターナショナルは2002年にイタリアのサミットの間警備をしていた警察に関する調査を求める文書を公表し、過度な暴力を批判し、表現の自由を否定していた警察を非難しており、サミットで与えられていた指示に関しての調査を求めていた[3]。

6 イタリアでの運動

6.1 その主体

イタリアでの運動は世界やヨーロッパでの多様な主体を反映していた。2001年のジェノバ社会フォーラムにおける参加者の間にイタリアの社会的政治的風景の歴史的なシンボルを見出すことができるだろう。以下に示すと、

国の特徴に関する協会(ARCI, ACLI)

左翼政党(共産党再建派、緑の党、イタリア共産主義者党)

労働組合(Cobas, FIOM, SinCobas)

フェミニスト運動(女性のワールドマーチ)

宗教運動(パックス·クリスティ、解放の神学)

環境保護団体(レガンビエンテ、WWF)

社会センター(CS レオンカヴァッロ、C.S.O.A. テラ テラ、オフィチーナ 99、等)

そして新しい組織として、

レーテ・リリープトゥ(小人国のネットワーク)は様々な小さな主題を集め、南の国々と協調して活動している。

ATTACは新自由主義経済政策に反対する協会で、フランスで発展し現在世界中に存在している。

メディアで取り上げられたイタリア人の中には、ジェノバ社会フォーラムのスポークスマンであるヴィットーリオ・アグノレット、コンボーニの宣教師であるアレックス・ツァノテルリがおり、ルカ・カザリーニのような社会センターのスポークスマンはイタリア北東部におり、フランチェスコ·カルーソはイタリア南部で活動していた。後者は2006年の選挙で議員に選ばれた。

2009年のG8に反対する様々な場で政治的自主独立運動の分野に関連した政党やグループが企画や運動に参加していたことを同様に知るべきである(サルデーニャ・ナツィオーネ、ア・マンカ・プロ・シンディペンデンツィア[4]、「メーザ・サルダ-ア・フォーラス・ス・G8」に集まった別の小さなグループや、「反G8 シチリア」や「ノー・G8 シチリア」の場におけるシチリアの独立のための運動やシチリアの若い自主独立主義者たち[6][7]が挙げられる)。このことは運動の多様で不均一な特徴を示しているが、文化交流の枠組みと同様に言語の多様性や倫理を守る組織と魅力を有していたことも示していた。

6.2 デモ

イタリアでの「反対」運動やデモは1999年のシアトルでの有名な抗議以来成功を収めていた。これらの抗議がWTOサミットを失敗させた知らせはますます多くのデモ参加者たちがヨーロッパの都市における様々な「反対フォーラム」に参加することを後押ししていた(世界銀行のサミットに対する2000年9月のプラハや電子政府に関するグローバル・サミットに対する2001年3月のナポリが挙げられる)。

多くの参加者が押し寄せる出来事は2001年7月にジェノバで開催されたG8に対する反対サミットだった。デモの2日目と3日目は抗議者たちに強い衝撃を与える衝突の光景があり、(複雑な反応を伴いながら)イタリアの世論に影響を与えていた。

ジェノバでの事件の後、イタリアでの運動は2002年2月のポルト・アレグレでの世界社会フォーラムや2002年11月のフィレンツェでのヨーロッパ社会フォーラムに対して大規模に関わりを有するようになっていた。フォーラムはバッソ要塞で開催され、運動に関わるあらゆるヨーロッパの個人を集めていた。

筆者によれば、ある社会集団を「幼児性」といった言葉で形容することは似非科学に基づいた説明によって補強されることがあり、この幼児性といった比喩は男性優位やエリート支配を合理化するために役立てられてきたという過去を有していた(これには例えば『ニューズウィーク』が第二次世界大戦降伏後の日本人を「マッカーサーの子供たち」と描写していたことなどが含まれている)。また筆者による、支配階級が、大衆を理性がなく、無責任で、未熟なものとして排除することによって、エリートの特権的地位と支配者としての固有の権利を主張してきたとの議論は、ここからは私見になるが、福島の原発事故において、戦時中と同じように日本国内のメディアとともに、日本国内の人々のパニックを回避し、数十年後にならないと確かなことは言えないといった現状にもかかわらず確かでないことを日本政府は公式に発言しないといったことを口実にして、アカデミズムやジャーナリズムに携わる人々を通じて似非科学に基づいた安全性を標榜するプロパガンダを積極的に推進し、福島の人々の無駄な被曝を増やしたことや、他方でOWSに対するワシントンの反応がウォール・ストリートを擁護する方向へ作用し、結果としてリーマン・ショック後の不動産価格の暴落にともなうアメリカの人々の生活が際だって改善されていない現状を肯定しているのだろうと考えることがあった。そして筆者によれば、このノーブレス・オブリージュというエリート意識は、子供に対する親の義務、もしくは生徒に対する教師の義務といったパラダイムを用いて、目立たぬように現存する階級の不平等性を覆い隠してきたが、ここからは私の解釈になるものの、それは各国政府のお国事情である選挙対策を念頭においてのことであり、根本的な問題の解決には至っていないと推察するときがあった。

筆者の引用によると、ジョージ・サンソムによれば、マッカーサーは「(裕仁は)最初から最後まで操り人形、すなわち「完全なチャーリー・マッカーシー」で、戦争をはじめたわけでも、終わらせたわけでもなかった。あらゆる時点で、彼は助言にもとづいて自動的に行動し、それ以外のことはできなかった。戦争を終わらせた閣議も、はじめたときと同様に筋書きができていた。もっとも、裕仁が後者より前者に熱心だったことは確かだが。」と述べており、裕仁を東京裁判の証人として使うことや彼に対する取材を禁じたのは、戦争遂行の活力源として利用するのと同じくらい容易に、平和の推進力として彼を利用できるだろうとのアメリカ側の意思によるものになり、私なりの解釈を挟めば、日本社会が有する傀儡の構造が変わっていないといった意味で、1975年の彼の訪米時における日本人の価値観に関してロイター通信のマイケル・ニールとの会見における「戦争の終結以来、いろいろの人々がいくつもの意見を述べたことを承知しています。しかし広い観点から見るならば、戦前と戦後の(価値観の)変化があるとは思っていません。」との発言につながったのだろうかと考えることがあった。つまり1人の人間に力を集中させるといったことは、必然的に1人では責任を取りきれない事態に直面するだろうことを想起させるものであり、それはワシントンに力を集中させたところで、例えばレーガノミックスの負の遺産に対しレーガンがアメリカ国民に対して責任を取ったかと言えば、選挙の洗礼を受けることと責任を取ることとは別の問題になり、ここで私は責任を取ることの意味を過ちに対する原状回復として議論を進めているが、傀儡の構造とは責任の所在が明確でないのみならず、1人の人間の所産では物理的に責任を取りきれない構造であるがゆえに、過ちに対する原状回復がなされないのみならず、同じ過ちを二度三度と繰り返してしまう蓋然性が高いといった状況を生み出すことになり、それゆえ日本は広島の後に長崎を経験する結果になったのも、すべては現在の日本における数ある組織に大なり小なり存在しているだろうこの傀儡の構造にあるのではないかと考えることがあった。

筆者によれば、1947年にマッカーサーがアメリカの大統領予備選で共和党の指名を得るために、日本との早期講和を言い始めたのと関連して、日本政府のみならず「象徴」として政治には口を挟まないはずの裕仁も、単独講和を受け入れてもよいという意思をアメリカ側に伝えており、政府と皇室がともに日本本土の占領の早期終結と引き換えに沖縄の主権を売り渡す意思を有していたことが記されており、当時から現在に至るまで日本の支配層は進んで沖縄の住民と沖縄を取引材料に利用しようとしてきたことが指摘されている。つまりここでも傀儡の構造が生き残っているがゆえに、根本的な問題の解決には至っていないといった現状が確認されることになる。

他方話は飛躍するが戦争に関し、戦場で死に逝く兵士たちは国家に忠誠を捧げて死んでいくのではなく、家族の名を叫びながら死んでいくのがアメリカであれ、日本であれ、第二次世界大戦が描き出した戦争の実態であることが、筆者によって指摘されているが、メディアが扱っている戦場で死に逝く兵士たちの様子は決まって国家や信義に対して忠誠を捧げている光景になり、その意味での娯楽産業・映画産業の役割とは平和を維持するといった観点から眺めると歪んだものになるだろうとの解釈を加えるときがあった。ここまでの読後感で、東アジアや東南アジアからの視点に欠けているではないかとのお叱りを受けるかもしれないことを念頭に置くことがあるが、それは機会が許すときに記したい。

そして筆者によれば吉田ドクトリンに関し、コートニー・ホイットニー准将が、憲法の改正について、幣原や吉田に代表される保守政権がもっと革新的な立場をとらなければ、総司令部は問題を直接日本国民に訴えるとほのめかしたときに、吉田の顔に「暗雲」が差したように見えたと述懐していることや、1951年6月に日本政府は中華民国と中華人民共和国のどちらの中国を二国間講和条約の相手とするか選択する自由があると告げられた後、占領中から日本は中国との緊密な経済関係を望んでいると明言していた吉田が「選択の余地を与えられることは歓迎しない」と述べ、駐日イギリス大使から「(これは)アメリカの下僕であるという烙印」を押されたことと同義であると評され、筆者からも小心であると評されていることから理解されるように、「従属的独立」の下地を整え、ただ経済成長に専念し、民主主義でも、外交でも、再軍備でも、世界的な指導性でも、政治家らしい指導力でも明言を避けてきた傀儡の構造を支え「文民守旧派」政党の官僚化を進めてきた日本政府の原型が時期を戦後に限定するならば既にここから始まってたのかと考え直すことがあった(つまり始めから間違っていたのだが、それが現在に至っていることを考慮すると、大なり小なり日本の組織の在り方を考え直す時期に来ているのかもしれないと考えることがあった)。

またAmazonの書評ではユニークと形容されている本書だが、現在の支配層にとって都合が悪いテーマに関してメディアや日本政府からの情報の公開が望みにくい現状を鑑みると、事実を反映した歴史がユニークと評される時代は当面続くものと考えるときがあった。

最後に他にも言及すべきことがあるかもしないが、それは、読者の皆様が本書を手に取られたときの新たな発見につながるならば、言外の幸いとなるであろうことを追記したい。

では。

デヴィッド・ハーヴェイによれば、「1945年以降、先進国に高い成長率をもたらした埋め込まれた自由主義は明らかに疲弊し、1960年代の終わりに崩壊を始め、もはや機能しなくなっていた」とされており、ケインズ主義に疑念を投げかけていたスタグフレーションの危機を経て、戦後の女性やマイノリティを除外した社会から、政治的および経済的統合を果たすことにより、企業やビジネスを解放し、自由市場を再構築することに関心がある人々が、1980年代までに新自由主義として知られる世界経済システムを擁護していた。また、アンテ・マルコヴィッチの指導によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国や鄧小平の指導による中華人民共和国に見られるように、1980年代における慢性的な経済危機や1980年代末の共産圏の崩壊は、国家の介入主義に反対し、自由市場改革の政策を擁護する政治的立場を促進させていた。

シカゴ学派は政府の非介入を強調し、非効率なものとして放任主義の自由市場に対する規制を拒否していた。それは新古典派の価格理論やリバタリアニズムと関連しており、1980年代まではマネタリズムを擁護しケインズ主義を拒否しており、その後合理的期待形成に変わって行った。またシカゴ学派は効率的市場仮説の展開により金融の分野に影響を及ぼしていた。そして世界有数の経済学部の1つであると広く考えられていたシカゴ大学の経済学部は、他のどの大学よりもノーベル賞やジョン・ベイツ・クラーク賞の受賞者を擁立していたため、アメリカの経済学部の教授のおよそ70%がシカゴ学派の考え方に関連していると見なされており、シカゴ学派に見られる新自由主義は、アカデミズムの世界において経済学者たちが数十年にわたり規制緩和を主張し続け、アメリカの政策を形成する手助けをしていたことや、その経済学者たちが、2008年の危機の後でもなお、金融改革に反対していたこと、これに関与していたコンサルティング会社に、アナリシス・グループ、チャールス・リバー・アソシエーツ、コンパス・レクシコン、LECGが挙げられていたことなどに影響を及ぼしていた。

1980年代後半にアイスランドは新自由主義経済政策を採用し始めていた。世界経済自由度によれば、アイスランドは1975年には53番目に「自由な経済」であり、ヨーロッパで最も貧しい国の1つだったが、2004年には9番目に自由な経済になり、最も裕福な国の1つになった。しかし2009年までにアイスランドは深刻な金融危機に直面し、その多くはアイスランドの過度な規制緩和に起因していたとされるが、当時のエコノミストたちは正確に実体を把握することなくマクロ経済の指標から判断してアイスランド経済を賞賛していたことを、時価会計を利用して、利益を上げていないにもかかわらず、収益を上げているとの客観的な体裁を整えていたエンロンの事件と重ねて眺めることがあった。

ジェームズ・キャラハンによって需要サイドの管理に対するケインジアンのアプローチが失敗であったと結論づけられた後、サッチャーはマネーサプライの伸びを低下させるために利子率を上昇させるといった経済改革を始め、1982年までにインフレーションを以前のピークの18%から8.6%に低下させていたが、イギリス国内では失業率が増加しており、より低い数字を示すために失業率の定義を31回も変更することもあったが、1960年から1973年までの1.9%や、1973年から1979年にかけての3.4%と比較して、イギリスの失業率は1979年から1989年にかけて9.1%を示していた。

エマニュエル・サエスによれば、レーガン政権の経済政策に関してインフレーションが大幅に減少したものの、1920年以来初めて格差が大幅に拡大していたとの主張を、ウィリアム・ニスカネンのような一部の人々が無視して、80年代を通じて労働者の平均報酬が上昇し、すべての社会のパーセンタイルのパフォーマンスが改善していたとの主張が存在していたことは、富裕層への課税の削減を肯定するトリクルダウン経済学(現実にそぐわない)を想像させるが、この大企業や富裕層に対する減税と防衛支出の増大によって、国内の債務が7000億ドルから3兆ドルに膨れあがり、アメリカが世界最大の債権者から最大の債務者へと立場を変えていたことに異論は少ないだろうと考えることがある。そして大企業や富裕層に対する減税を通じて債務残高が膨れあがったことはインフレーションに対する懸念が少なかったにもかかわらず新自由主義政策を採用していた日本政府も同様であると考えることがある。

ピーター・ゴーワンによれば、ドルが国際準備通貨であるため、アメリカの銀行はアメリカ国外の銀行と比較して競争上優位にあり、アメリカ国外の銀行はドルで直接貸すことができないため、アメリカ国外の銀行は外国為替リスクをともないながら、アメリカの銀行と競争するために(少なくとも短期では、他の通貨を保有することより、ドルを保有することの方がリスクが少なかった)、一旦アメリカが金融市場や金融機関に対する規制を自由化したら、他の国々も追随することを余儀なくされていた現状は、各国がその過ちを十分に認識しながらもアメリカの新自由主義政策を採用していた一因として挙げられていた。

アレハンドロ・ポルテスやブライアン・ロバーツによれば、ラテンアメリカの地方自治体において都市部の人口の増加が観察されるものの、成長率に関して大幅な落ち込みが示されており、「主要都市の魅力の損失により...要因の複雑なセットにもよるが、疑いなく輸入代替工業化(ISI)時代の終焉に関連していた」との認識は、市場の開放と都市のシステムの変化との関係を1対1に対応づけるものではないものの、新自由主義政策の採用が都市化のパターンにある影響を与えていることを示唆していた。

またポルテスやロバーツによれば、特権を享受する上位10%に属する人々はラテンアメリカの貧困ラインの平均所得の40倍に等しい平均所得を手にしており、所得不平等の直接の影響として、各々の国々において都市部や郊外で犯罪や被害が増加していることが挙げられていた。

国家中心的アプローチは国家のアクターが新自由主義を実施する政治的起業家であったと主張しており、以下に同意していないものの、一般人に対して「他に代わるものがない」と主張する高度に組織化された富裕層の集票マシーンによって新自由主義政策がプロパガンダされ、減税、社会支出の削減、規制緩和、民営化等を有権者の選好に訴えかけ、一般への普及に成功していたとの視点が存在しており、同時に、フランスやドイツにおいて、政府による課税が逆進的であり、産業政策がビジネスに好まれており、福祉国家の概念が中産階級に恩恵をもたらすために広く認められており、その結果、新自由主義政策がビジネスや中産階級によって広く好まれていなかったことを通じてモニカ・プラサドによる主張が反証されている視点も存在していた。

ロバート・ポーリンによれば、新自由主義政策は、税や政府支出の削減、自由貿易に対する関税や障壁の撤廃、労働市場や金融市場に対する規制の緩和、雇用の拡大を刺激するよりむしろインフレーションをコントロールすることにマクロ経済政策をフォーカスしていたことによって、ケインジアンや積極的労働市場政策(ALMPs)に存在していた
階級間の妥協を拒絶していたことから、経済的格差をもたらしており、いくつかの実証分析によれば、ジョージ・H・W・ブッシュやビル・クリントンのような新自由主義の支持者たちによるあらゆる時代であらゆる所得階層が暮らし向きを改善していたとの主張は現実にそぐわないことが示されていた。

ハウエルやディアロによれば、新自由主義政策が、労働者の30%が「低賃金」に留まり、労働力の35%が「パートタイム」であり、アメリカの労働世代人口の40%しか正規雇用されていないことの原因となっており、ジョン・シュミットやベン・ジッペラーによれば、アメリカの経済社会モデルは社会的排除と関連しており、それは高いレベルの所得格差、比較的高く絶対的な貧困率、乏しく不平等な教育成果、貧弱な健康状態、犯罪や投獄率の高い割合を含んでおり、アメリカ型の労働市場の柔軟性が劇的に労働市場の成果を改善するとの見解に対する支持をほとんど与えておらず、アメリカ経済はヨーロッパ大陸の国々よりも低いレベルの経済的移動性を示していた。

ポーリンによれば、アラン・グリーンスパンやロバート・ルービンによるビル・クリントン政権下における新自由主義は、政府によって支持された金融市場や住宅市場に対する投機を通じて経済成長を促す一時的で不安定な政策であり、低い失業率やインフレーションを特徴としていたが、労働者階級の解体や搾取によって可能になっており、アンジェラ・デイビスやブルース・ウェスタンによれば、アメリカ成人の37人に1人が刑務所のシステムの中にいるといったアメリカにおける高い投獄率は、失業率を統計上低く保つための新自由主義的な政治的手段であったとの視点が存在していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「新自由主義」「インサイド・ジョブ(映画)」「エンロン(映画)」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Neoliberalism

新自由主義

新自由主義は、民間企業の効率性、自由貿易、比較的開放された市場を強調している新古典派経済学に基づいた経済・社会政策に対する市場主導[1]のアプローチであり、国家の政治的・経済的優先事項を決定する際、民間部門の役割を最大限に活用することを求めていた。財政・金融政策、所得分配政策、景気介入策、政治的自由化の程度に対して言及するか否かについてはかなりの曖昧さが存在していた。このようにこの用語は明確なイデオロギーに関連づけられておらず、通常自己表明として用いられるよりむしろ、他者を批判し軽視するときに用いられていた[2][3]。

1 政策的含意

政府をより効率的にし、国家の経済状況を改善するとの考えの下で、新自由主義は経済に対する支配を公的部門から民間部門に移すことを求めていた[5]。新自由主義によって擁護される具体的な政策に対する明確な声明はしばしばジョン・ウィリアムソンによる「ワシントン・コンセンサス」になると考えられており、提唱された政策のリストはワシントンを拠点とする国際経済組織(国際通貨基金(IMF)や世界銀行)で承認されたコンセンサスになると思われていた。ウィリアムソンのリストは以下の10項目を含んでいた。

財政政策について、政府は将来の世代によって支払われなければならない巨額の赤字を出すべきではなく、そのような赤字は短期の雇用水準に影響を及ぼすにすぎない。赤字の常態化は高いインフレや低い生産性を促すだろうから、回避されるべきである。赤字はその時々の安定化の目的のために用いられるべきである。

公的支出の使途は、補助金(特に新自由主義者たちが「無差別な補助金」と呼んでいるもの)や新自由主義者たちが無駄であると考えている他の支出から、初等教育、医療サービス、インフラ投資のような重要な成長を擁護し、貧困を擁護するサービスを広範に提供する方向へシフトすべきである。

税制改革について、技術革新や効率性を促すために、幅広い課税ベースや適度な限界税率を採用すること。

利子率は市場によって決定され、実質ベースでプラス(しかし適度)であること。

変動為替レートの採用。

貿易の自由化について、輸入の自由化が、量的制限(許認可等)を撤廃し、低く比較的均一な税率によって貿易を保護することを特に強調するのは、競争や長期の成長を促すからである。

国際収支における「資本収支」を自由化することは、人々が海外のファンドに投資する機会を与え、外国ファンドが自国に投資する機会を与える。

国営企業の民営化は、多くのプロバイダーが選択と競争を促される電気通信のように、効率性を政府が与えることができない財やサービスを市場に提供することを促している。

規制緩和について、市場参入を妨げ、競争を制限する規制を廃止するが、安全、環境、消費者保護の理由や金融機関に対する慎重な監督により正当化されるものは除外される。

財産権の法的保障

資本の金融化。

2 歴史

2.1 埋め込まれた自由主義

埋め込まれた自由主義という用語は第二次世界大戦の終わりから1970年代まで共産主義でない世界経済を支配した経済システムを指していた。デヴィッド・ハーヴェイは第二次世界大戦の終わりに、この主な目的は1930年代の世界大恐慌を繰り返さない経済計画を発展させることであると述べていた[7]。ハーヴェイは、この新しいシステムの下で自由貿易は規制されており、「その制限には固定価格で金と交換できるUSドルによって裏打ちされた固定為替レートが挙げられ、固定為替レートは資本の自由な移動と共存していなかった」と記していた[8]。ハーヴェイは、埋め込まれた自由主義は1950年代や1960年代に明確にされた経済的繁栄の高まりを促していたと主張していた。

世界の多くの地域において、政府が自由市場を安定化させ、微調整する手段を策定するように努めていたジョン・メイナード・ケインズの仕事は非常に有力なアプローチになっていた。発展途上国では、脱植民地化、民族の独立に対する願い、戦前の世界経済の解体に対する進展や、国々は自由市場のシステムの下で効率的に工業化することができないとの見解(例えばプレビッシュ=シンガー命題)は共産主義、社会主義、輸入代替政策によって影響された経済政策を促していた。

1950年代や1960年代に政府が介入主義を採用していた時代は、経済成長が一般的に高かったので、例外的な経済的繁栄によって特徴づけられており、経済の分布は比較的均一であった[10][11]。この時代は「栄光の30年」や「黄金時代」として知られており、第二次世界大戦と1973年の間の高いレベルの繁栄を経験した国々を指していた。

2.2 埋め込まれた自由主義の崩壊

デヴィッド・ハーヴェイは、埋め込まれた自由主義は1960年代の終わりに崩壊を始めていたと記していた。1970年代は資本の蓄積、失業、インフレーションの増加(スタグフレーションと呼ばれている)や、さまざまな財政危機によって特徴づけられていた。彼は「1945年以降少なくとも発展した資本主義諸国に高い成長率をもたらした埋め込まれた自由主義は明らかに疲弊し、もはや機能しなくなっていた」と記していた[12]。新しいシステムに関連した多くの理論が発展し始めており、そのことは「社会民主主義や中央計画を一方で」擁護する人々や「他方で企業やビジネスを解放し、自由市場を再構築することに関心がある」人々の間で大きな論議になっていた。ハーヴェイは、1980年代までに後者のグループはリーダーとして台頭しており、新自由主義として知られる世界経済システムを擁護し、創造していたと述べていた[13]。

一部は、生じた結果は国際金融システムにおけるものであり[14][15]、ブレトン・ウッズ体制の崩壊で最高潮に達していたと主張しており、またそのことがある程度英語圏でケインズ主義に疑念を投げかけていたスタグフレーションの危機をお膳立てしていたと一部は主張していた。さらに一部は、戦後の経済システムは女性やマイノリティを除外した社会を前提としており、これらのグループに対する政治的および経済的統合は戦後のシステムを変革するものであると主張していた[16]。

3 1970年代以後の経済自由主義

3.1 世界的広がり

1980年代における慢性的な経済危機や1980年代末の共産圏の崩壊は国家の介入主義に反対し、自由市場改革の政策を擁護する政治的立場を促進させていた。1980年代以降、共産主義や社会主義を採用する多くの国々はさまざまな新自由主義的市場改革を行い、例えばアンテ・マルコヴィッチの指導の下におけるユーゴスラビア社会主義連邦共和国(1990年代初頭の国家の崩壊まで)や鄧小平の指導の下における中華人民共和国が挙げられる。

変化は1970年代から1980年代にかけて生じていた。多くの民主的な世界で行われていたことに、政府が比較的自由な貿易を促すことにおける経済主体の権利、法規制、政府の役割の優位性に焦点を当てていたことが挙げられていた。そのことは同時にほぼ国民の自己決定であるとされていた。

ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーが政府の役割を低減させる意図で貿易障壁をなくすために強い立場を取っていたときに、組織化された労働者の立場は変更を及ぼされ、市場がさらに重要になるとの立場を許容していた。したがって産業界はますます経済を活性化する統合された知識へと世界的にシフトしていた。

3.2 シカゴ学派

経済学のシカゴ学派は、シカゴ大学の教員にフォーカスし、経済学界で見られる考え方に含まれている新古典派を説明していた。

シカゴ学派は政府の非介入を強調し、非効率なものとして放任主義の自由市場に対する規制を拒否していた。それは新古典派の価格理論やリバタリアニズムと関連しており、1980年代まではマネタリズムを擁護しケインズ主義を拒否しており、その後合理的期待形成に変わって行った。シカゴ学派は効率的市場仮説の展開により金融の分野に影響を及ぼしていた。方法論の面では「実証経済学」を強調しており、理論を証明するために統計を用いる研究に対して経験的に基づいていた。

アメリカの経済学部の教授のおよそ70%がシカゴ学派の考え方に関連していると見なされていた。世界有数の経済学部の1つであると広く考えられていたシカゴ大学の経済学部は、他のどの大学よりもノーベル賞やジョン・ベイツ・クラーク賞の受賞者を擁立していた[17][18][19]。

シカゴ学派に属する人々は、競争法、教育バウチャー、中央銀行、知的財産権といったものを好み、既存のシステムの代替手段として、ミルトン・フリードマンの負の所得税を好んでいた。

3.3 オーストラリア

オーストラリアでは新自由主義的経済政策は1983年以来労働党や自由党の両方の政権から支持されていた。1983年から1996年までボブ・ホークやポール・キーティングの政権は経済自由化やミクロ経済改革のプログラムを推進していた。これらの政府は政府企業を民営化し、要素市場の規制を緩和し、オーストラリア・ドルを変動相場制に移行し、貿易の保護を削減していた[20]。

財務大臣としてキーティングは、国民貯蓄を増加し、老齢年金のための将来にわたる政府債務を減らために、義務的な退職年金の保障制度を実施していた[21]。大学の資金調達は規制緩和され、高等教育費用負担制度(HECS)として知られる返済型のローンのシステムを通じて、大学に貢献するよう学生に求め、外国人学生を含めて全授業料を支払っている学生を入学させることによって大学が収入を増やすよう促していた[22]。公立大学に全授業料を支払って国内の学生が入学することはラッド労働党政権によって2009年に中止された[23]。

ジョン・ハワード首相の下で1996年3月に自由党が権力の座に戻ったときに、経済自由化のプログラムはより多くの政府企業の民営化、特に電気通信のプロバイダであるテルストラの売却とともに継続され、オーストラリアの準備銀行は金融政策を決定する際に政府から独立することになった。10%の物品サービス税(GST)(ヨーロッパの付加価値税に類似している)が、システムをより効率的にするために以前の関税や他の税を組み合わせて簡素化する意図で導入されていた。一連の改革は労働市場の規制を緩和するために制定されていた[24]。

3.4 カナダ

カナダでは、新自由主義と同一視されている問題(税や福祉に対する支出を削減し、政府を最小化し、公的医療や教育を改革すること)はしばしばブライアン・マローニー、マイク・ハリス、ラルフ・クライン、ゴードン・キャンベル、スティーブン・ハーパーと関連づけられていた[25]。

アルバータ州の広大な石油や天然ガスの埋蔵からの採取を支持していたラルフ・クラインは、オイルサンドの生産量の増加と比較して少額ではあるが州の収入を生み出したために、ペンビナ研究所によって信任を与えられていた。1995年から2004年の間に生産量は133%増加したが、政府の歳入は30%落ち込み、企業の手に多額の富を残していた[26]。

1990年代のオンタリオ州におけるマイク・ハリスの下で、産業や社会的責任が市に移転されていた。この時期のトロントは合併し、発展段階に入ることを余儀なくされていた。トロントの合併はコスト削減の手段としてみなされており、2000年にマイケル・R・ギャレットは年間1億3620万ドルの削減の可能性を示していた(CDN)[27]。しかし2007年にバリー・ヘルツは保守的な全国紙であるナショナル・ポスト紙の中で、コスト削減は実現しないだろうと報告していた。彼はまた政府のスタッフが増加しており、1998年と比較して、市は4,015人多い人々を雇用していたことを指摘していた[28]。

同様にカナダの政策も影響を受けていた。関税は終焉を迎え、貿易における緩やかな制限のみが許容されていた。政府の大きさは縮小し、産業界に対する権力も制限されていた[29]。連邦政府はその間に規制を行っていたが、市町村には権限がなかった。

3.5 チリ

ミルトン・フリードマンは「シカゴ・ボーイズ」によって実施されたチリにおける自由主義経済の変化に対するアウグスト・ピノチェトの支持に言及する際、「チリの奇跡」という用語を用いていた。彼らの実施した経済モデルには3つの主要な目的があり、経済の自由化、国有企業の民営化、インフレーションの安定化が挙げられていた。これらの市場志向の経済政策は、ピノチェトの辞任後、歴代政権によって継続され、強化されていた[30]。同時にミルトン・フリードマンは、チリの経験は「戦後のドイツ経済の奇跡に匹敵する」と述べていた[31]。

ピノチェトの新自由主義政策の一部は、彼の17年にわたる独裁の終焉後も継続されていたが、より社会的な政策が大きな社会経済的不平等に対抗していた[32][33]。ヘリテージ財団やウォール・ストリート・ジャーナルによれば、2007年にチリは世界で11番目に「自由な」経済であり、アメリカ大陸では3番目だった。

2009年の国連開発報告書によれば、チリは高い競争力、生活の質、政治的安定性、グローバル化、経済的自由、低いレベルの汚職、比較的低い貧困率を有していた[34]。

国際通貨基金によれば、チリは報道の自由、人間開発、民主主義の発展において「その地域における高いランクに位置していた」。同様にIMFによれば、チリは1人あたりのGDPに関し地域で最も高い値(市場価格[35]や購買力平価で)を示しており[36]、またジニ係数で測定された高いレベルの所得格差を示していた[37]。

1970年代と1980年代のチリの経験や特に元労働大臣であるホセ・ピニェラによるチリの年金モデルの輸出は中国の共産党の政策に影響を与え、他国における経済改革者たちのモデルとして引き合いに出され、ロシアのボリス・エリツィンやほぼすべての東欧の共産圏が例として挙げられていた[38]。

チリにおける銅の採掘は公に所有されていた(チリの銅の国有化を参照せよ)。チリは世界最大の銅の産出国であり、銅はチリ最大の輸出財であった(輸出額の40%以上を占めていた)。

3.6 香港

ミルトン・フリードマンは自由放任主義の国家として香港を示しており、50年間において貧困から繁栄へと急速に移行した政策に対して信任を与えていた[39]。香港のGDPは1897年から1997年までイギリスの植民地支配下で成長していたが、中央銀行を所有し、学校を規制し、環境を規制し、住宅を政府が所有するといった、経済的介入のすべての例を示していた[40]。しかしこれらの規制は他の多くの国々と比べて軽いものであり、経済的規制の点で、香港を自由放任国家としてみるフリードマンの分析は正しいものであると思われていた。香港には、キャピタルゲインに対する課税、利子に対する課税、売上に対する課税がなく、15%の均一な所得税があるのみだった。また関税、国際的な自由貿易に対する法的規制、最低賃金法(2010年まで)、価格や賃金のコントロールは一切なかった。さらに失業給付、労働法、社会保障、国民健康保険も一切なかった[41]。

1994年の世界銀行の報告書は、香港の1人あたりのGDPが1965年から1989年までに実質値で年率6.5%ほど成長しており、ほぼ25年間を通して一貫した成長率だったと述べていた[42]。1990年まで香港の1人あたりの所得は支配しているイギリスを公式値で上回っていた[43]。1960年における香港の1人あたり平均所得はイギリスの28%だったが、1996年までにはイギリスの137%に上昇していた[44]。

1995年以来ヘリテージ財団やウォール・ストリート・ジャーナルによれば、香港は世界で最も自由な資本市場を有していると認識されていた[45]。2007年にフレイザー研究所もそのことに同意していた[46]。

3.7 日本

史上最大の民営化は郵便局のことだった。それは国内で最大の雇用者であり、日本政府職員の3分の1は郵便局に勤務していた。

2003年9月に小泉内閣は郵便局を4つの別々の会社に分割することを提案し、銀行、保険会社、郵便サービス会社、他の3つの小売店としての郵便局を経営する4番目の会社が挙げられていた。民営化が参議院で否決された後、小泉は国政選挙を予定し、2005年9月11日に行われた。小泉はその結果改革に必要な圧倒的多数を得てこの選挙に勝利し、2005年10月に、郵便局を2007年に民営化するための法案が通過していた[47]。

3.8 メキシコ

メキシコは現在第8位の貿易国である。メキシコは1986年に関税と貿易に関する一般協定(GATT)に参加し、1990年から北米自由貿易協定(NAFTA)の一部となった。メキシコが参加した他の貿易パートナーシップはウルグアイ・ラウンド(UR)であった。

NAFTAによってもたらされた改革はメキシコ経済にとって大きな開放であり、「貿易政策の失敗という政治的そして経済的コストを増大させ、NAFTAと関連する他の国々(仮に従属していないにしても)との貿易政策を頓挫させていた」(メーナ, p.48)。関税は経済のほとんどのセクターにわたって削減されていた。彼らはアメリカとメキシコの国境沿いの工場に門戸を開いていた。マキラドーラはメキシコの輸出市場のほとんどを説明していた。また1973年の外国投資法である「外国投資が石油産出や精製に対して許可されていなかったこと」における改革が存在していた(メーナ, p.49)。

メキシコはウルグアイ・ラウンドや世界貿易機関から大きな恩恵を被っていた。メキシコの財に対する関税は低いものであり、メキシコはウルグアイ・ラウンドのメンバーに対する関税を変更することに縛られていなかった。「非農業部門の補助金に対するメキシコの選好は主にウルグアイ・ラウンドの協定によって裏付けされていた」(オルティス・メーナ, p.60)。メキシコは外国所有権に制限を設け続けており、政府調達に関する協定に署名しないことで批判されてきた。NGOは同様になされた改革を批判していた。

NAFTAに参加した後で、メキシコは30の自由貿易協定(FTA)を締結していた。メキシコは同様に欧州連合(EU)とのFTAである欧州自由貿易協定(EFTA)や日本とのFTAに署名していた。これらの協定の結果として輸出が増加し、工業製品はさらに重要になり、メキシコはアメリカの第2の貿易相手国になっていた。

先進国によるウルグアイ・ラウンドの協定に基づく政策が実施されなかったことにより、自由主義の恩恵が緩やかなものになっていると、メキシコ政府は感じていた。また環境問題や労働問題が貿易の議題に影響を及ぼす可能性があることを政府は恐れていた。彼らは先進国にドーハ後の作業プログラムに問題なく移行することを支援することを求めていた。メキシコが将来焦点を当てるだろう11の分野が存在しており、農業、輸出補助金、貿易関連の投資手段、サービス、知的財産権、紛争解決、海外直接投資、競争政策、政府調達、工業製品、労働と環境が挙げられていた。またメキシコは、ウルグアイ・ラウンドの協定を完全に遵守することにより重要な輸出品目に対するアクセスを改善することを求めていた[48]。

3.9 ニュージーランド

ロジャーノミクスという用語は、1984年以来ニュージーランドの財務大臣であるロジャー・ダグラスによる経済政策を説明するためにレーガノミックスからの類推によって生み出されていた。

政策は、農業補助金や貿易障壁を削減し、公共資産を私有化し、マネタリズムを通じてインフレーションをコントロールすることを含んでおり、ニュージーランドにおけるダグラスの労働党について、伝統的な労働党の理念を裏切るものとしてみなされていた。労働党はその後純粋なロジャーノミクスから離れたが、ロジャーノミクスは多くの右派のアクト党の核心的な教義となっていた。ロジャー・ダグラスは、ニュージーランドで15%の一律課税を行い、学校、道路、病院を民営化することを計画し、当時そのことは労働党内閣によって穏健に進められていたが、改革の結果は今なおグローバルな背景の中で一般的にラディカルであるとみなされていた。ダグラスは労働党を去った後、1993年にアクト党を設立し、それはニュージーランドの新しい自由主義正統派としてみなされていた。

1984年以来、農業補助金を含む政府補助金は撤廃され、輸入規制は自由化され、為替レートは自由に変動し、利子率、賃金、価格に対するコントロールは撤廃され、限界税率は縮小された。金融引き締め政策や政府の財政赤字を削減する努力は、1987年の年率18%以上のインフレーションを低下させていた。1980年代と1990年代における政府所有企業の規制緩和は経済における政府の役割を縮小させ、一部の公的債務の償還を促したが、同時に多額の福祉支出を必要とし、以前の10年を基準にするとかなり高い失業率を導いていた。しかしニュージーランドの失業率は2006から2007年にかけて再び低下し、3.5%から4%を前後していた。

規制緩和は非常にビジネス向きの規制の枠組みを生み出していた。2008年のサーベイはニュージーランドを「ビジネスの自由」に関して99.9%に、全体としての「経済的自由」に関して80%にランクしており、他の事項として、概してニュージーランドではビジネスを立ち上げるのに12日しか要しないが、世界平均では43日要することを記していた。他の指標は財産権、労働市場の状態、政府のコントロールや腐敗になり、最後に関してヘリテージ財団やウォール・ストリート・ジャーナルの調査によれば「ほとんど存在しない」と考えられていた[50]。

ドゥーイング・ビジネスの2008年のサーベイでは、世界銀行(ニュージーランドをその年に世界で2番目にビジネス向きの国であるとしていた)はニュージーランドを、雇用法におけるビジネス向きの点で、178ヶ国中13位にランクさせていた[51]。

ニュージーランドは国際的な調査によれば生活満足度に関し高いレベルを示しており、このことは他の多くのOECD諸国と比較して1人あたりのGDPが低いにもかかわらず生じていた。ニュージーランドは識字や公衆衛生といった非経済的要因から説明される2006年の人間開発指数で第20位にランクされ、エコノミスト誌による2005年のクオリティ・オブ・ライフ インデックスでは第15位だった[52]。さらにニュージーランドは2007年のレガタム研究所の繁栄指数によれば生活満足度で第1位になり、全体的な繁栄度では第5位に位置していた[53][54]。加えてマーサー『2007年世界生活環境調査』はそのリストによればオークランドを第5位に、ウェリントンを第12位に位置づけていた[55]。

3.10 スカンディナヴィア

北欧諸国は多くの新自由主義政策を受け入れていた[7]。

デンマークの元首相でありヴェンスタのリーダーであるアンダース・フォー・ラスムッセンは市場での活動に関する最小国家を擁護する著作を記していた。デンマークは経済的自由の指標においてヨーロッパのリーダーだった。ウォール・ストリート・ジャーナルやヘリテージ財団による指標や2008年の経済自由度によれば、デンマークは世界162ヶ国中、11番目に「自由な経済」としてランクされていた。  

スウェーデンのカール・ビルトの政策プログラムは、スウェーデン経済を自由化し、公共サービスを民営化し、国を欧州連合に加盟させた政策群の1つであった。1994年6月23日にギリシアのコルフで開催された欧州連合のサミットでカール・ビルトは加盟条約に調印した。経済的な変化が立法されており、公有企業の民営化同様、教育バウチャー、電気通信やエネルギーにおける市場の自由化が例として挙げられていた。ビルトの政権は(ほとんどの国がこれを行っていないのだけれども)健康保険を民営化することを可能にし、スウェーデン経済の自由化に貢献していた。また国有企業の民営化やビジネスの規制緩和は社会民主労働党政権によって実施されることになった。

1980年代後半にアイスランドは新自由主義経済政策を採用し始めていた。世界経済自由度によれば、アイスランドは1975年には53番目に「自由な経済」であり、ヨーロッパで最も貧しい国の1つだった。2004年には9番目に自由な経済になり、最も裕福な国の1つになった[56]。しかし2009年までにアイスランドは深刻な金融危機に直面し、その多くはアイスランドの過度な規制緩和に起因していた[57][58][59][60][61]。

3.11 南アフリカ

アパルトヘイトを廃止した1994年の新政府の樹立以来、南アフリカのGDPは成長を続けていた。一部は成長率を押し上げる要因を南アフリカの新自由主義政策の中に眺めていたが、他は経済成長を実際に損なうインフレーションを鎮圧するために高い利子率を維持するような政策を引用していた。一方GEAR(成長、雇用、再分配の戦略)に基づいた政策の実施は1994年の新政府後に始まった雇用の落ち込みの原因となり、南アフリカの貧困のレベルを拡大する原因となっていた[62]。

3.12 イギリス

1979年に政権に就くと、マーガレット・サッチャーの政治経済哲学は国家の介入の縮小[63]、より自由な市場[64]、さらなる企業家精神[65]を強調していた。彼女はかつてフリードリヒ・ハイエクの『自由の条件』のコピーを影の内閣の会議の最中にテーブルの下で閉じ、「これこそが私たちが信じるものである」と述べた[66]。サッチャリズムに関連づけられた思想家たちはキース・ジョセフ、フリードリヒ・ハイエク、ミルトン・フリードマンを含んでいた[67]。

サッチャーの政治経済哲学は自由市場同様国家の介入の縮小や「企業家精神」を強調していた[67]。彼女は経済に対する政府による過度の介入を終えることを明言し、国有企業の民営化を通じこれを行おうとしていた。ジェームズ・キャラハンによる政府が需要サイドの管理に対するケインジアンのアプローチが失敗であったと結論づけた後、サッチャーは、経済が自己修復することはなく、財政上の判断がインフレーションを収束させるためになされる必要があると感じていた[68]。彼女は、マネーサプライの伸びを低下させるために利子率を上昇させるといった経済改革を始め、インフレーションを低下させていた[69]。「政府によるより小さな介入」を目指した考え方にしたがって、彼女は特に住宅や産業界に対する補助金について公的支出を削減することを導入していた[70]。また彼女は通貨の発行に対する制限や労働組合に対する法的規制を実施していた。

1982年までにインフレーションは以前のピークの18%から8.6%に低下していた。1983年まで世界経済は強い成長を続けていたが、インフレーションや住宅ローンの金利は1970年以来最低の水準だった[71]。「サッチャリズム」という用語は彼女の倫理的な見解や個人的なスタイルが示す側面同様に彼女の政策に触れており、道徳的絶対主義、ナショナリズム、全体としての社会よりむしろ個人にフォーカスすること、政策目標を達成するために妥協しないアプローチを含んでいた。

1983年の選挙で保守党の多数派が拡大した後、サッチャーは彼女の経済政策を実施し続けていた[70]。イギリス政府は国家の大規模な施設の多くを売却していた[70]。民営化の政策はサッチャリズムの主要な部分を占めていた。サッチャーが1990年に辞任を余儀なくされていたとき、イギリス経済の成長は概して他のEU諸国(ドイツ、フランス、イタリア)よりも高かった。しかしこのことはEUの残りの国々と比較すると貧しい社会的条件を伴っていた。

これらの経済政策による代償は、サッチャー政権を悩ませた失業率における一時的だが激しい増加になり、失業率の定義はより低い数字を示すために31回も変更されていた。これにもかかわらず、1973年から1979年にかけて3.4%になり、1960年から1973年までは1.9%になった後のことになるが、イギリスの失業率に関する公式発表は1979年から1989年にかけての9.1%を示していた[72][73]。

2001年にイギリス労働党の議員でありトニー・ブレアと緊密に関係していたピーター・マンデルソンは「私たちはみな現在もサッチャリズムを支持している」と言い放っていた[74]。現代のイギリスの政治文化によれば、「ポスト・サッチャリズムの支持者の間におけるコンセンサス」が経済政策に関して存在していることが語られていた。1980年代には今はなき社会民主党は、サッチャリズムの支持者による改革を福祉と結びつける「一面では厳しく一面では優しい」アプローチを採用していた。1983年から1992年における労働党の党首であったニール・キノックは、サッチャー政権の経済政策を支持することによって労働党の政治的言動の幅を右へシフトさせていた。経済政策の多くがサッチャーの政策をまねていたので、トニー・ブレアによる新しい労働党政権は一部によって「新サッチャリズムの支持者」として説明されていた[75][76]。

2010年のキャメロンとクレッグによる連立政権は新自由主義的立場であると説明されており、新自由主義的な自由民主党の若手市場主義グループが重要な閣僚としての役割を果たしていた。

3.13 アメリカ

1981年から1989年にかけてロナルド・レーガン政権はアメリカ経済を自由化するために幅広い決定を行ってきた(現代のアメリカの用語ではリベラルという用語は本来のリベラルよりむしろ保守的な経済学として説明されており、この記事でのリベラルの意味はほとんど規制のない経済システムを指している)[78][79]。これらの政策はレーガノミックスとしてしばしば説明されており、サプライサイド経済学と関連づけられていた(その考え方として、価格を低下させ、経済的繁栄を促すために、政策は消費者よりむしろ生産者に対して訴えかけられるべきであることが挙げられていた)。

レーガンの在任中、GDPは年率2.7%で推移していた[80]。1989年の1人あたりの実質GDPは$31,877で、1981年の$25,640から24%上昇していた。失業率は1983年の高い水準から下落していたが、以前の10年間やその後の10年間に比べて概して高いものであった。またインフレーションが大幅に減少していた[81]。1920年以来初めて不平等が拡大し始めていたので、平均実質賃金は停滞していた。ウィリアム・ニスカネンのような一部の人々は2つの事実を指摘しており、まず80年代を通じて労働者の平均報酬(賃金と福利厚生)は上昇していたことや、次に80年代を通じてすべての社会のパーセンタイルのパフォーマンスが改善されていることが挙げられていた。不平等が大幅に拡大しており、2007年を通じてそのトレンドは継続していたとの主張を彼は無視していた(エマニュエル・サエスの著作を参照せよ)。富裕層への課税を削減することにより、その政策は「トリクルダウン経済学」として軽視されていた[82]。巨額の財政赤字[83]や貿易赤字[83]の原因であり、貯蓄貸付組合の危機[84]につながった冷戦期の防衛支出の増大が存在していた。連邦予算の赤字をカバーするために、アメリカは国内や海外から巨額の債務を負い、国内の債務は7000億ドルから3兆ドルに膨れあがり[85]、アメリカは世界最大の債権者から最大の債務者へと立場を変えることになった[86]。ピーター・ゴーワンは、アメリカが他の世界に新自由主義政策を採用させる背後にある主要な力になっていると主張していた。基本的な議論は、ドルが国際準備通貨であるため、アメリカの銀行はアメリカ国外の銀行と比較して競争上優位にあり、アメリカ国外の銀行はドルで直接貸すことができないため、アメリカ国外の銀行の業務は外国為替リスクをともなうものであるといったことであった(ドルは基軸通貨であるので、たいていの外貨準備はドルを用いて行われ、石油のような一次産品の価格はドルで設定されており、少なくとも短期では、他の通貨を保有することより、ドルを保有することの方がリスクが少なかった)。このように一旦アメリカが金融市場や金融機関に対する規制を自由化したら、他の国々も追随することを余儀なくされていた[87]。

4 影響や結果

新自由主義の動きは多くの方法で世界経済を最終的に変えていたが、世界が自由化した程度はしばしば誇張されているかもしれないと一部のアナリストは主張していた。過去30年間の変化ははっきりとしており、以下のようになる[88]。

国際貿易や国境を越えた資本の流れの成長。

貿易障壁の撤廃。

公共部門の人員削減。

国有企業の民営化。

人口の上位のパーセンタイルを占める経済への国々の経済的富のシェアーの移転[89]。

他の変化はそれほど明確ではなく、以下の文献の中で議論されている[88]。

政府の大きさにおける縮小。政府は大規模にその役割を縮小させているように思われなかった。例外的に高い政府支出を除いて、政府支出(GDPに占める割合)は1980年から同じままであると見られていた。大半の政府支出の削減は1990年代に行われた一時的現象であると思われていた。

4.1 ラテンアメリカの都市化の影響

1930年代から1970年代後半にかけてラテンアメリカの多くの国々が、産業を育成し、外国からの輸入依存度を減らすために、輸入代替工業化のモデル(ISI)を採用していた。これらの諸国におけるISIの影響は、1〜2の大都市の急速な都市化、労働階級である都市人口の増加、労働組合や左派政党による頻繁な抗議活動を含んでいた[90]。経済危機への対応では、これらの国々のリーダーはプロスペクト理論によってすばやく新自由主義政策を採用しそして実施していた。

ラテンアメリカの6ヶ国における新自由主義の結果としての都市での生活やシステムの変化に基づく研究がアレハンドロ・ポルテスやブライアン・ロバーツによって発表された。この比較研究はセンサス・データの分析やサーベイを含んでおり、フィールドワークはアルゼンチン、ブラジル、チリ、メキシコ、ペルー、ウルグアイにフォーカスしていた。新自由主義の予測は4つの分野におけるこれらの6ヶ国に拡大されており、都市のシステムと優位性、都市の失業と非正規雇用、都市の不平等と貧困、都市の犯罪と被害が挙げられていた。集められたデータは新自由主義に基づく経済政策と結果として得られる都市化のパターンとの関連を支持していた。

都市のシステムと優位性の分野では2つの傾向がデータによって明らかにされた。1番目の傾向は都市部の人口に対するトータルのサイズにおける拡大が継続していることを示している一方、2番目の傾向はこれらの地方自治体に対する移民の流入が減少している主要都市のサイズにおける縮小が見られていることを示していた。そのため都市の成長率を計算するとき、これらの国々の個々の地方自治体のすべてが成長における最低限のもしくは大幅な落ち込みを示していた。ポルテスやロバーツは、その変化は「主要都市の魅力の損失により...要因の複雑なセットによるが、疑いなくISI時代の終焉に関連していた」ことを理論化していた[90]。市場の開放と都市のシステムの変化との間の関係は完全な1対1の関係であると証明されていないが、事実は、新自由主義的変化の後、これらの2つの傾向を加速させるかもしくは促すことを支持していた[90]。

また6ヶ国の間における不平等や貧困においてバリエーションが存在していた。これらの国々における人口の多数が貧困にあえいでいる一方、「上流階級」は新自由主義的なシステムの恩恵を手に入れていた。ポルテスやロバーツによれば、「特権を享受している第9十分位数に属する人々」はラテンアメリカの貧困ラインの平均所得の14倍に等しい平均所得を手にしていた[90]。著者たちによれば、所得不平等の直接の影響は、各々の国々が都市部や郊外で犯罪やその被害が増加していることに苦労していることであった。しかし警察内の腐敗が原因で、犯罪や被害のデータからトレンドを正確に外挿することは不可能だった[90]。

5 支持

5.1 政治的自由

『資本主義と自由』(1962)の中で、フリードマンは自由全体の中で重要な位置を占める経済的自由は政治的自由の必要条件でもあるとの議論を展開していた。彼は、経済活動に対する中央集権がいつも政治的抑圧を招いているとコメントしていた。

彼の見解では、自由な市場経済でのあらゆる取引における自発的な特徴やそれが許容する幅広い多様性は、抑圧的な政治的リーダーにとって原理的な脅威であり、強制する力を大幅に減少させるものだった。経済活動に対する中央集権の排除を通じて、経済的な力は政治的な力から分離され、一方が他方への抑制力として機能することが可能であった。生産性と関連性がないといった理由で、人間的でない市場の力は経済活動における差別から人々を守るといったことを背景にして、競争的な資本主義はマイノリティのグループにとって特に重要であると、フリードマンは感じていた[91]。

しかし、初期の新自由主義体制が軍事独裁であり深刻な社会的抑圧の下でのチリで行われていたことを考慮に入れることは重要である。だが、経済的自由の実現にとって非常に不快な背景になると考えられるかもしれないが、チリは現在ラテンアメリカで非常に高い1人あたりのGDPの成長率を享受しており、このことは経済的自由は民主的な制度以上に繁栄にとって重要かもしれないことに対し、根拠はないものの、強い信用を与えているかもしれなかった。また経済的自由の拡大は時間を掛けながら独裁政権に対し圧力を加えるものであり、政治的自由を拡大するものであった。『隷従への道』の中でハイエクは「経済のコントロールは分離されることが可能な人間の生活におけるある分野を単にコントロールするのではなく、私たち皆の目標のための手段をコントロールすることである」と主張していた[92]。

5.2 国家中心的アプローチ

新自由主義に対する国家中心的アプローチは重要ではないが、新自由主義の考えがケインズ主義を倒した本物の放任主義のリベラルな対処法である重要なアプローチであるといった点で一致していた。国家中心的アプローチの理論家は、新自由主義は「減税、社会支出の削減、規制緩和、民営化を通じて国家の役割を減らす試み」だったことに合意していた[93]。しかし、新自由主義の批評家が主張するように、資本主義的政治組織、エコノミスト、経済部門、シンクタンク、政治家すべてが、階級を意識した資本家によって支持されていたというよりむしろ、国家のアクターが新自由主義を実施する政治的起業家であったと、国家中心的アプローチは主張していた。投票者の選好に最も合っていたので、新自由主義は普及したと、国家中心的アプローチの理論家は主張するが、新自由主義の骨組みや政策が一般人に対して「他に代わるものはない」と主張する裕福で高度に組織された政治マシーンによってプロパガンダされていた点にかかわる重要なアプローチであったことに同意していなかった。国家中心的アプローチの社会学者であるモニカ・プラサド(2006)はさらに(連邦の)税体系が先進的であり、産業政策がビジネスに「逆行」しており、福祉が貧困に関連している場所で、新自由主義は優勢になると主張していた。彼女は、これはフランスやドイツに関連したアメリカやイギリスのケースであると主張していた。しかしフランスやドイツでは、政府による課税は逆進的であり、産業政策はビジネスに好まれており、福祉国家の概念は中産階級に恩恵をもたらすために広く認められており、その結果、新自由主義は両国においてビジネスや中産階級によって広く好まれていなかった。

プラサドの分析は、新自由主義が資本家の利益を考慮しているため労働階級によって好まれる政策に対して否定的であり、独立した国家のアクターによって支持されていたことを示唆していた。

6 反対

新自由主義の反対者は以下の点を主張していた。

グローバル化や自由化は自己決定のための国家の能力を蝕んでいた。

搾取:批評家は新自由主義を搾取を促すものとして考えていた。

負の経済的影響:批評家は新自由主義政策が不平等を生むと主張していた。

企業の力の増大:一部の反企業組織は、自由主義と異なり新自由主義は大企業の力を増大させるために経済政策や他の政策を変え、下層階級から上流階級へ富をシフトしていると考えていた[94]。

地域的にそして社会的に新自由主義に苦しんでいる土壌が存在していた。都市住民は日常生活における基本的な状態を形成する力をますます奪われていった[29]。

貿易主導の規制のない経済活動や汚染に対して杜撰な国家の規制は環境問題を引き起こすかもしれなかった[95]。

労働市場の規制緩和は、労働の柔軟性やパートタイム化、増加する非正規雇用、労働災害や職業病の増加を引き起こしていた[96]。

6.1 イギリスやアメリカ

「標準的な新自由主義の政策は、税や政府支出の削減、自由貿易に対する関税や他の障壁の撤廃、労働市場や金融市場に対する規制の緩和、雇用の拡大を刺激するよりむしろインフレーションをコントロールすることにマクロ経済政策をフォーカスすることを含んでいた」とエコノミストであるロバート・ポーリン(2003)は報告していた[97]。ケインジアンや積極的労働市場政策(ALMPs)を含む以前の自由主義的政治経済政策の中に存在していた階級間の妥協を拒絶したことから、経済的新自由主義はふつう強い経済的不平等をもたらしていた。ジョージ・H・W・ブッシュやビル・クリントンのような新自由主義へのシフトの支持者たちはあらゆる時代であらゆる所得階層が暮らし向きを改善していたと主張していたが、一部の実証的証拠はこれが当てはまらないことを示していた[7]。

6.1.1 左派からの批判

左派からの批判は時として「アメリカ型のモデル」として新自由主義に言及しており、新自由主義は低賃金や大きな格差を促すと主張していた[98]。経済学者であるハウエルやディアロ(2007)によれば、新自由主義政策は、労働者の30%が「低賃金」に留まり(中位数で測ったフルタイム労働者の賃金の3分の2以下)、労働力の35%が「パートタイム」であり、アメリカの労働世代人口の40%しか正規雇用されていないことの原因となっていた。経済政策研究センター(CEPR)のディーン・ベイカー(2006)は、アメリカの不平等を拡大する原因は、反インフレーションバイアス、反労働組合主義、健康産業への利益誘導を含む一連の計画的な新自由主義の政策の選択にあると主張していた[99]。しかし各国はさまざまなレベルで新自由主義を採用しており、例えばOECD(経済協力開発機構)は、新自由主義政策を採用していないことにより、スウェーデンの労働者のわずか6%しか賃金の低さに悩んでいないものの、全体的にスウェーデンの賃金は低い水準にあると計算していた[100]。CEPRのジョン・シュミットやベン・ジッペラー(2006)は、ヨーロッパ大陸の新自由主義と比較して徹底されたイギリスやアメリカの新自由主義政策の影響を分析しており、こう結論づけていた。「アメリカの経済的そして社会的モデルは重大なレベルの社会的排除と関連しており、それは高いレベルの所得格差、比較的高く絶対的な貧困率、乏しく不平等な教育成果、貧弱な健康状態、犯罪や投獄率の高い割合を含んでいた。同時に利用できる事実は、アメリカ型の労働市場の柔軟性が劇的に労働市場の成果を改善する見解に対する支持をほとんど与えていなかった。反対に人気がある先入観にもかかわらず、アメリカ経済は一貫してデータが利用可能なすべてのヨーロッパ大陸の国々よりも低いレベルの経済的移動性を示していた。」[101]

新自由主義に対する理論的もしくは実践的な批判者の中で著名な人々は、経済学者であるジョセフ・スティグリッツ、アマルティア・セン、ロバート・ポーリン[102]、言語学者であるノーム・チョムスキー[103]、地理学者であるデヴィッド・ハーヴェイ[7]、ATTACのようなグループを含む一般的な反グローバル運動を含めていた。新自由主義の批判者たちは、新自由主義による社会主義(自由の束縛として)に対する批判が間違っているのみならず、新自由主義はその強みの1つであると思われる自由を提供することができていないと主張していた。ダニエル・ブルックの『罠』(2007)、ロバート・フランクの『遅れ』(2007)、ロバート・チェルノマスとイアン・ハドソンの『社会的殺人』(2007)、リチャード・G・ウィルキンソンの『不平等の影響』(2005)といったすべてが、新自由主義によって大きな不平等が拡大しており、深刻な政治的、社会的、経済的、健康上の、環境における抑圧や問題を引き起こしていると主張していた。カナダ代替政策センター(CCPA)のエコノミストや政策アナリストは新自由主義政策に対して不平等を削減する社会民主的な代替政策を提唱していた。さらに新自由主義に対する大きな反対がラテンアメリカで成長していた。ラテンアメリカにおける著名な反対派はサパティスタ民族解放軍、ブラジルのMST、ベネズエラ、ボリビア、キューバの社会主義政府を含んでいた。

ポーリン(2003)によれば、アラン・グリーンスパンやロバート・ルービンによって操作されたアメリカのビル・クリントン政権の下における新自由主義は、政府によって支持された金融市場や住宅市場に対する投機を通じて経済成長を促す一時的で不安定な政策であり、低い失業率やインフレーションを特徴としていた。彼は、この異常な偶然の一致は労働者階級の解体や搾取によって可能になったと主張していた。サンタクルスの歴史を意識していたアンジェラ・デイビスやプリンストンの社会学者であるブルース・ウェスタンは、特にアメリカ成人の37人に1人が刑務所のシステムの中にいるといったアメリカにおける高い投獄率(ヨーロッパと比較して)はクリントン政権によって促されており、失業率を統計上低く保つための新自由主義的な政治的手段であり、現代の奴隷人口の維持や刑務所の建設及び「武装警察」の促進を通じて、経済成長を促していたと主張していた[104]。またクリントン政権は、企業部門に利益をもたらす国際的な貿易協定を追求することによって(例えば中国との貿易の正常化)、新自由主義を採用していた。国内的にクリントンは、健康医療団体を通じた医療の企業買収、福祉のばらまきの削減、「再就業を促進するための技能教育」の実施といった新自由主義改革を行っていた[105]。 

6.2 ヨーロッパやラテンアメリカによる反対

新自由主義とグローバル化はお互いに関係していると考えられていた。一般的な理論家は新自由主義を資本家による拡大主義の現代版と説明しているが、一部の理論家は「グローバル化」と「新自由主義」は厳密には分けて考える必要があり、文化は概念が理解されるレンズとして本来あるべきであると主張していた。「自由市場や世界的な自由貿易は新しいものではなく、この言葉(新自由主義)の使用は先進国での発展段階を無視していた...新自由主義は単に経済上の概念ではなく、自由主義とは質的に異なった側面をもっており、社会的または道徳的哲学を示していた」[106]。

ヨーロッパやラテンアメリカからの新自由主義に対する批判は、経済システムにいつも新自由主義が組み込まれるようになった方法にフォーカスしていた。例えばオランダの作家であるポール・トレーナーは、新自由主義から派生した考え方(新自由主義自体を含む)は哲学であり、単なる「経済構造」ではないと主張していた。また例えば新自由主義者は「市場が示唆する意味」の中で世界を把握しており、社会のメンバーは一般論として企業としての国家に言及するとき、その文明はリベラルな文化の代わりに新自由主義的に把握されるかもしれなかった。しかしトレーナーは同様に歴史上のリベラルと現代の新自由主義的文化の連続性を認識していた。「これが国民国家の見方ならば、新自由主義と同じように新国粋主義が存在するだろう。同様にリベラル以前の経済理論を振り返ると、その重商主義はヨーロッパの国々を競合する単位として眺めていた。重商主義者はそれらの王国を企業としてよりむしろ巨大な家計として取り扱っていた。それにもかかわらず、国家規模の単位の間における競争として世界貿易を眺めることは現代の新自由主義者たちにとって受け入れられる考え方だった」[106]。

トレーナーの共同研究者であるエリザベス・マルティネスやアルノルド・ガルシアは、新自由主義は過去25年間に世界中に広められた経済政策の集合体であることを見出していた。彼らは、富の分配の不公正を増大させることを許容することによって、新自由主義は最も貧しい市民を明らかにひどく扱っていたと主張していた(「豊かな人々はさらに豊かになる一方、貧しい人々はそれより遅々としたペースで豊かになるだろう」)。イデオロギーを強調すると、マルティネスやガルシアは、自由主義がイデオロギーと妥協する階級と関連していたことを指摘することにより、新自由主義と自由主義の違いを説明しており、「自由主義は政治的、経済的、そして宗教的でさえある考え方に言及することが可能であった。アメリカでは、自由主義は社会的な対立を防止するための戦略だった。そして新自由主義は、保守派や右派と比べて、貧しい人々や労働階級にとって進歩的なものとして示されていた。」と述べていた[107]。しかし彼らはさらに、このリベラルな社会的対立は、新自由主義を含めたアメリカのエリートによる政治運動によって、打ち壊されていたと主張していた[108]。

6.2.1 アルゼンチン経済の崩壊

数十年におよぶ劣った統治、支出を倹約する軍事独裁、労働市場改革、新自由主義的構造調整プログラムは結局のところ1999から2002年におよぶアルゼンチンの経済危機を導いていた。メネム政権の間、アルゼンチンは国際通貨基金(IMF)、世界銀行(WB)、アメリカ財務省の管理下にあった。重い債務を抱えながらもIMFはアルゼンチンにローンを貸し続け、ローンの返済が延期されたときに、公的債務は急上昇していた。アルゼンチンは新自由主義的合理化のプロセスを始めていた。この小さなケーススタディは、どのように「ワシントン・コンセンサス」の指導の下でトップダウンで指示を受けた新自由主義政策が非効率でアルゼンチン経済にさらなる損害を与えていたかを例示していた。「ワシントン・コンセンサス」の非公式のスローガンは「安定化、民営化、自由化」だった[109]。多くの労働市場改革が実施され、公的雇用のための新しい規制の制定、社会サービスの分散化、弱体化された労働法に基づいた民間経済の規制緩和、社会保障システムの部分的民営化、労働市場の柔軟化を含んでいた[110]。この間のアルゼンチンの対外債務は1990年の576億ドルから2001年の1445億ドルにまで実質的に拡大していた[110]。アルゼンチン・ペソの通貨価値の下落が倍増したことによる債務の蓄積は、ハイパーインフレーション、高い失業率、大きな非正規労働部門、貧困レベルの上昇、基本的な教育や医療のサービス削減を導いていた。民営化から生じた公的給与の削減や大量の解雇は大量の労働者の所得の損失を招いており、効率的に下層階級や中産階級の間に「新しい貧困者」を生み出していた[110]。同時にアルゼンチンの経済は改変の結果としてますます競争力を失い、対外債務は増加し続け、政府の腐敗は蔓延し、規制緩和が資本逃避をもたらし、社会不安を増大させていた[110]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Inside_Job_(film)

インサイド・ジョブ(映画)

インサイド・ジョブ(2010)はチャールズ・H・ファーガソン監督による2000年代後半の金融危機をテーマにしたドキュメンタリー映画である。映画は2010年5月にカンヌ映画祭で上映され、2010年の長編ドキュメンタリー賞を受賞していた。

ファーガソンは「アメリカの金融業界の構造的腐敗とその構造的腐敗の結果」として映画を説明していた[3]。5つのパートを通じて、映画はどのように政策環境や銀行業務における変化が金融危機を生み出していたかを描いていた。インサイド・ジョブはテンポ、調査、複雑な素材の構成を賞賛した映画評論家によって高く評価されていた。

1 概要

ドキュメンタリーは5つのパートに分けられている。映画は、2000年にアイスランドがどのように規制緩和したのかを眺めることから始まっている。アイスランドの銀行は民営化されていた。2008年9月15日にリーマン・ブラザーズが倒産し、AIGが崩壊したとき、アイスランドや世界の他の国は世界的な景気後退に入っていた。

「パート1:どのようにこうなったか」 アメリカの金融業界は1940年から1980年まで規制されており、その後長い期間にわたって規制緩和を迎えた。1980年代末の貯蓄貸付組合危機は納税者に1,240億ドルの損失をもたらしていた。1990年代後半に金融セクターは少数の巨大企業に集約されていた。2001年に破綻すると分かっていたIT企業を投資銀行が後押ししていたため、ITバブルが弾け、投資家の損失は5兆ドルに及んでいた。1990年代にデリバティブが業界で人気となり、不安定性を増加させていた。デリバティブを規制しようとする努力は、いくらかの主要関係者によって支持された2000年の商品先物近代化法によって妨げられていた。2000年代に業界は、5つの投資銀行(ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、リーマン・ブラザーズ、メリルリンチ、およびベアー・スターンズ)、2つの金融コングロマリット(シティグループ、JPモルガン)、3つの保険会社(AIG、MBIA、AMBAC)、3つの格付け機関(ムーディーズ、スタンダード&プアーズ、フィッチ)によって支配されていた。投資銀行は、債務担保証券(CDOs)の中に他のローンや債務に対する抵当を混ぜて、投資家に売却していた。格付け機関は多くのCDOsにAAAの格付けを与えていた。サブプライムローンは人を食いものにする融資につながっていた。多くの持ち家所有者は返済しきれないほどのローンを組まされていた。

「パート2:バブル(2001-2007)」 住宅ブームの間に、銀行自身の資産に対する投資銀行の借入額の比率がこれまでにない水準に達していた。クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)は保険契約に類似していた。投機筋は所有していないCDOに投機を行うためにCDSを購入することが可能だった。多くのCDOがサブプライムの抵当によって裏打ちされていた。ゴールドマン・サックスは2006年の上半期に30億ドル以上のCDOを販売していた。またゴールドマンは、投資家にそのCDOが高品質であると述べて、低品質のCDOに投機を行っていた。三大格付け機関もその問題の一端を担っていた。AAAの証券は2000年には一握りだったが、2006年には4,000以上に跳ね上がっていた。

「パート3:危機」 CDO市場が崩壊し、投資銀行は、他に押しつけることができないローン、CDO、不動産に対し数千億ドルもの損害を残されていた。大不況は2007年11月に始まり、ベアー・スターンズは不渡りを出していた。9月に連邦政府は崩壊の危機に瀕していたファニー・メイやフレディ・マックを救済していた。その2日後、リーマン・ブラザーズが倒産していた。救済されるとき、これらの経済主体はすべてAAやAAAの格付けを受けていた。崩壊の縁にあったメリルリンチはバンク・オブ・アメリカに買収されていた。ヘンリー・ポールソンとティモシー・ガイトナーはリーマンを倒産させることを決定し、コマーシャル・ペーパー市場の崩壊につながっていた。9月17日、破綻したAIGは政府に引き継がれていた。翌日、ポールソンとFRB議長のベン・バーナンキは銀行を救済するために7,000億ドルの支援を議会に求めていた。世界の金融システムは麻痺していた。2008年10月3日、ブッシュ大統領は不良資産救済プログラムに署名していたが、世界の株式市場は下落し続けていた。解雇や差し押さえが続き、失業率はアメリカや欧州連合で10%にまで上昇していた。2008年12月までにGMとクライスラーも同様に破産に直面していた。アメリカでの差し押さえは前例のないレベルに達していた。

「パート4:アカウンタビリティ」 倒産した企業の経営幹部陣は損失を被ることなく彼らの財産を保持しながら渡り歩いていた。幹部陣は取締役会を掌握しており、政府による救済後、数十億ドルのボーナスを手にしていた。大手銀行は権力を手中にし、改革に反対する行為を倍増させていた。アカデミズムの世界において経済学者たちは数十年にわたり規制緩和を主張し続け、アメリカの政策を形作る手助けをしていた。彼ら、経済学者たちは、2008年の危機の後でもなお、改革に反対していた。これに関与していたコンサルティング会社に、アナリシス・グループ、チャールス・リバー・アソシエーツ、コンパス・レクシコン、LECGが挙げられていた。

「パート5:私たちは現在どこにいるのか」 アメリカの工場労働者の内、数万人が解雇されていた。オバマ政権の金融改革は弱いものであり、格付け機関、ロビイスト、役員報酬について意味のある規制案は存在していなかった。フェルドシュタイン、タイソン、サマーズは皆、オバマにとって重要な経済顧問だった。バーナンキはFRBの議長に再任されていた。ヨーロッパ諸国は銀行の補償に対して厳しい規制を課していたが、アメリカは規制に抵抗していた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Enron:_The_Smartest_Guys_in_the_Room

エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?

『エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?』は、アメリカ史上最大のビジネススキャンダルの1つを研究したフォーチュン記者であるベサニー・マクリーンとピーター・エルカインドによる同名の2003年のベストセラーに基づいた2005年のドキュメンタリー映画になる。マクリーンとエルカインドはアレックス・ギブニー監督とともに映画の作家たちの一員として認められていた。

映画は、同社の経営幹部の刑事裁判につながった2001年のエンロン社の崩壊を検証しており、それはまたカリフォルニアの電力危機におけるエンロンのトレーダーの関与を示していた。映画は、旧エンロンの役員や従業員、証券アナリスト、レポーター、カリフォルニアの元知事であるグレイ・デービス同様マクリーンやエルカインドにインタビューしていた。

映画はインディペンデント・スピリット賞を受賞し、2006年の第78回アカデミー賞のうち長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされていた[1]。

2 概要

映画は、1985年にエンロンを創業したケネス・レイのプロフィールから始まっていた。2年後、2人のトレーダーが石油市場に対して投機を始め、会社に対して疑わしい利益をもたらした後、エンロンはスキャンダルに巻き込まれるようになっていた。またエンロンのCEOであるルイ・ボーゲットが海外の口座に会社の資金を流用していたことが表面化していた。監査役がそのスキームを明らかにした後、レイは彼らに「私たちに数百万ドルを生み出させ続けること」を要求していた。しかし、エンロンの資金を投機につぎ込んでいたことが明らかになった後、トレーダーたちは解雇され、エンロンは崩壊に近づいていた。これらの事実が明るみになった後、レイはそのような不正行為に関与していないとして否認を続けていた。

レイは時価会計を利用する条件でエンロンに加わったジェフリー・スキリングを新しいCEOとして雇い、プロジェクトが成功するか否かに関わらず、取引が行われた直後に、エンロンがあるプロジェクトの将来価値を計上することを許容していた。そのためエンロンは利益を上げていないにもかかわらず、収益を上げているとの客観的な体裁を整えることが可能であった。スキリングは、従業員に等級を付け、エンロンの目標に適さないと思われる底辺の15%の従業員を毎年解雇する審査委員会を立ち上げ、エンロンにダーウィンの世界観を持ち込んでいた。このシステムは激しい競争と冷酷な労働環境を生み出していた。

スキリングはエンロン内部に対して彼の指示を徹底するために「防波堤」として知られるルーテナンツを雇っていた。「防波堤」には知的だが暗い幹部であるJ・クリフォード・バクスターやエンロン・エネルギー・サービスのCEOであるルー・パイを含んでいた。パイは裏のクラブを訪れる悪習のために株主の資金を流用することで悪名高く、伝えられるところでは彼のオフィスやエンロンのトレーディング・フロアにダンサーを招いていた。パイは株式を売却した後すぐに2億5千万ドルを手にして突然EESを辞職していた。パイがなした利潤にもかかわらず、彼が以前管理していた部門は10億ドルの損失を計上しており、事実はエンロンによって隠蔽されていた。パイはコロラドで大規模な牧場を購入するために資金を用い、州で2番目に大きな土地所有者となった。

ドットコムバブルによってもたらされた強気市場による成功にともない、エンロンは予想通りに進むことによって株式市場のアナリストをもてなすように努めていた。経営陣は株価を押し上げ、その後「風説の流布」と呼ばれるプロセスを経て、数百万ドルのオプションを崩壊させていた。また、例え世界的な事業のパフォーマンスが低下していたとしても、エンロンは収益性と安定性の高さを売り物にする広報キャンペーンを行っていた。1つの大きな失敗はインドのダボール発電所になり、エンロンはインドに投資する業界の危険性を省みず、その発電所を建設していた。しかしインドが発電する電力を維持することができなくなったときに、エンロンは発電所を放棄し、十億ドルの損失を出していた。他に、エンロンはオンデマンドで映画を配信するブロードバンド技術を利用しようとしたり、日用品のように天候のリスクを扱おうとしていたが、これらの取り組みも失敗に終わっていた。しかし時価会計を用いることにより、エンロンはこれらの事業に対して存在していない利益を計上していた。

数少ないインターネット関連企業が2000年に崩壊したドットコムバブルを生き延びたように、エンロンの成功は続いており、6年連続でフォーチュン誌によって「最も賞賛される」企業として名を馳せていた。しかしエンロンの投資家であるジム・シャノスやフォーチュンの記者であるベサニー・マクリーンは会社の財務諸表と株価についての不規則性に疑念を抱いていた。スキリングはマクリーンを「倫理性に欠けている」と呼ぶことによって対応し、彼女の記事を公表したフォーチュンを非難し、エンロンに対して肯定的であったビジネスウィークにも影響を及ぼしていた。CFOであるアンドリュー・ファストウを含む3人のエンロンの経営陣はマクリーンやフォーチュンの編集者に会い、企業の財務について説明を行っていた。

ファストウはエンロンと取り引きするためだけにでっち上げられたペーパー・カンパニーのネットワークを立ち上げており。それは、エンロンに送金すると同時にエンロンで増え続けている負債を隠すといった表面上2重の目的を有していた。しかしレイやスキリングに知られていないことに、ファストウがこれらの事業で財務上の裏取引を行っていたことが挙げられ、エンロンから数千万ドルを詐取するためにそれらの事業を用いていた。またファストウはシティバンクやメリルリンチのようなウォール街の投資銀行の私心を利用して、彼のペーパー・カンパニーに投資するように圧力を掛け、実際のところ、彼自身とビジネス上の取り引きを行っていた。

ウィリアム・プファフによれば、外交問題に対してアメリカの主流派メディアはワシントンの意思に基づいた形式的な中道主義の立場をとることが慣例になり、アメリカにおける国際情勢の報道はほぼ完全に大企業の利益を代弁するワシントン主導になり、ワシントンが意図的に情報を与えない回答をし、メディアからの不快な見解に横槍を入れていることが常態化しているとされる現状や、Fairness & Accuracy In Reporting (FAIR)によれば、主流派メディアは政府と敵対関係にあると主張しているにもかかわらず、実際のところワシントンの公式見解に追随しており、議論の幅が、民主党や共和党による立場の違いといった比較的狭い範囲に落ち込んでいるとされる現状が示唆することは、日本国内の主流派メディアについても同様のことを推察できるが、一般のアメリカ人がワシントンの外交政策に対してほとんど関心をもっていないとされている構造的背景を説明しており、それは、アメリカのメディアに対して暗黙の規制をかけて、大企業の利益に偏らない公共の利益を増加させることに貢献することがなかった市場の失敗の例につながるかもしれないが、加えてメディアが伝えないことの中に重大な問題が存在していることも世界的な社会問題に含まれるだろうと考えることがあった。

ワシントンが要求している構造改革プログラムはワシントン・コンセンサスの延長であると考えることが可能であるが、それはアメリカの政治に対する経済力を背景にした覇権的な政治プログラムであり、IMF、世界銀行、アメリカ財務省、多くのワシントンのシンクタンクにより組織されており、サプライサイドの政策、自由貿易、輸出志向の経済政策を含んだニューライト(レーガノミクス、サッチャリズム)以降ずっと継続してきたものであると言及されているが、そのことを主流派メディアで目にする機会が少なかったのは前述のような報道に対する社会厚生を損ねる暗黙の規制が存在しているからであろうか。

ジョセフ・E・スティグリッツによればワシントン・コンセンサスの結果として、西アフリカにおいて国家の役割の縮小を通じ、民間セクターが対応する業績を上げなかったのみならず、数少ない豊かな農家による独占体制が構築されていたこと、ロシアにおける民営化が寡占の出現と市場の歪みや所得の不平等を生み出していたこと、トリクルダウン理論と反対に発展途上国における経済成長が社会的不平等を悪化させていたこと、IMFが金融危機に直面した国々に対して十分な社会政策を採用せずむしろ食糧補助金の廃止を求めていたことは、IMFがワシントン・コンセンサスを目的として理解するよりむしろ手段として理解していたことや、ワシントン・コンセンサスが完全競争や完全情報を含む理想論に基づいており、発展途上国にとってはほとんどその現実との関連がなかったことの結果になるとされており、政策を適切に実施するとは単なる手続きの問題ではなくその趣旨を十分に反映させることが求められている現状を、日本国内における制度の運用と対比させることがあった。

マイケル・スペンスによれば、貧困を削減するために強い国家が必要であるとされており、そしてIMFによれば、不況を避けるために財政赤字を含む予算を編成し、社会保障のために支出を増加し、資本移動に対して課税する必要があることが認識されており、一部に関して勧告を促していたことは、エコノミストや政策立案者たちによれば、ワシントン・コンセンサスが不完全であり、「第一世代」のマクロ経済的そして貿易に関する改革から離れて生産性を向上する改革や貧困層を直接支援するプログラムに強くフォーカスすることへシフトする必要があることに対する合意が存在していたからであり、投資環境を改善し、官僚的形式主義を取り除き(特に小規模な企業において)、制度を強化し(司法システムのような分野において)、メキシコやブラジルのような国々で採用された条件付き所得移転プログラムを通じて直接貧困と闘い、初等・中等教育の質を高め、技術を開発し吸収する国の効率を向上させ、ラテンアメリカの先住民やアフリカ系人口集団を含む歴史的に恵まれない集団の特別なニーズにどれだけ対応できるかといった現在の「第二世代の」ワシントン・コンセンサスを巡る議論にシフトしているからであろうと考えることがあった。

2009年のG20ロンドン・サミットでゴードン・ブラウンが「古いワシントン・コンセンサスは終焉を迎えた」と述べていことや、ジョン・ウィリアムソン自身がワシントン・ポストに対し「ワシントン・コンセンサスが新自由主義として解釈されるならば、(ゴードン・ブラウンの見解は)正しいと思っている」と述べていたことは、前述の議論の背景を説明する言葉になるが、2010年のG20ソウル・サミットがソウル開発コンセンサスにおける合意に達したとき、フィナンシャルタイムズ紙が「文書は終焉を迎えて久しいワシントン・コンセンサスの棺に別の釘を打ち込んでいるにすぎないだろう」と述べていたことを併せて考慮すると、現在のワシントン・コンセンサスを巡る議論は過渡期に相当しているがゆえに、さまざまな状況に展開することが想定されるものの、ダニ・ロドリックによれば、原理主義的な貿易の自由化が経済発展に好ましい影響を及ぼすだろうとは考えられず、一般的なコンセンサスとして、市場原理主義は力を失っているので、2008年の世界金融危機を通じて基本的にはワシントン・コンセンサスは終焉を迎えていたとされる見方に説得力があると思われることがあった。

実証分析を通じて、その量的影響は自由貿易の支持派や反対派によって主張されているよりはるかに小さいとされる見解がある一方で、自由貿易の支持者による「参加国の企業に利益を促し、アメリカの消費者に恩恵をもたらし、安価な外国製品を享受する」との見解で用いられている便益を、例えばラルフ・ネーダーによる「メキシコのような安い労働市場に生産拠点を移すことによって、メキシコの労働者を搾取し、アメリカの労働者階級に害をなす」との見解で用いられている損失と適切に比較することが求められているが、アメリカやヨーロッパからの補助金付きの大量の農産物が、経済的に農業に依存する多くの発展途上国の市場に溢れているとの指摘を考慮すると、自由貿易の思想と現実に進行しているグローバル化による格差の拡大が整合性の取れないものとして説明されているのではなかろうかとの見方に説得力があるかもしれないと考えることがあった。

ノーム・チョムスキー、タリク・アリ、スーザン・ジョージ、ナオミ・クラインのような世界のグローバル化に対する批評家たちは、ワシントン・コンセンサスの処方箋を、先進国の企業による搾取の対象として、発展途上国の経済における労働市場を開放させているにすぎないとみなしており、労働は、ビザや就労許可の要件のために自由に移動することを許されていないことから、発展途上国の経済における安い労働力を用いて財が生産され、第三世界の労働者たちは依然として貧しいままであり、先進国の労働者たちは失業に直面し、多国籍企業の豊かな所有者たちはさらに豊かになっているとの彼らの見解が、ラテンアメリカに大きな経済のブームをもたらさず、深刻な経済危機や対外債務を残したことの背景に付け加えられるかもしれないが、多くの発展途上国におけるインフレーションは現在数十年間にわたって最も低いレベルにあり(ラテンアメリカの多くでは一桁になる)、外国投資によって生み出された工場の労働者たちは彼らの自国の労働条件よりも高い賃金とより良い労働環境を手にしていると見られており、ラテンアメリカの多くにおける経済成長は歴史的に高い水準にあり、経済規模と比較した債務残高は概して数年前より低い水準にあったとされる見方が一方で存在していることと適切に比較される必要もあるだろう。

実際のところマクロ経済の指標の改善にもかかわらず、貧困と不平等はラテンアメリカで高い水準に留まっており、約3人に1人の人々つまり全体で1億6500万人の人々が1日につき$2以下で生活しており、同様の割合の人口が電気や基本的な衛生に対するアクセスを有しておらず、推定1000万人の子供が栄養失調に苦しんでいた事実や、国家主導の輸入代替や市場志向型の自由化の時代にあっても経済的に不平等な地域であり続けていた事実を考慮すると、ホルヘ・タイアナが2005年8月16日に国営通信であるテラムとのインタビューの中でワシントン・コンセンサスを批判しており、「南半球のかなりの数の政府が1990年代にこれらの政策を採用したときの前提を再検討している」と述べていたことが、前述の「第一世代の」ワシントン・コンセンサスに対するいくつかの改善点へと導くことになったのであろうかと考えることがあった。

他方で「第一世代の」ワシントン・コンセンサスにせよ「第二世代の」コンセンサスにせよ、たまたま現在存在していたにすぎない既得権益に配慮した制度であり、政治的権力を獲得し、地域において労働搾取を維持することに対して強い関心を有している小規模で、裕福で、地域に根差したエリートの繁栄を確保するメカニズムであるとの批判や、スティグリッツによる「第一世代の」ワシントン・コンセンサスに基づく政策の背景にある市場原理主義的なイデオロギーが終焉を迎えたものとしての認識は妥当であろうと考えることがあり、前回の記事でも述べた通り間違った経済政策の歴史を学ぶ必要性に変化が生じている訳ではない。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカ、フランス、ドイツのWikipediaの「ワシントン・コンセンサス」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Washington_Consensus

ワシントン・コンセンサス

ワシントン・コンセンサスといった用語は1989年にエコノミストであるジョン・ウィリアムソンによって造られ、ワシントンD.C.に基づいた機関である国際通貨基金(IMF)、世界銀行、アメリカ財務省によって危機に直面した発展途上国の経済を促進させるための「標準的な」改革パッケージを構成すると考えられていた比較的特定化された経済政策の処方箋のセットを説明していた[1]。処方箋は、マクロ経済の安定化、貿易や投資における経済の開放、国内経済における市場の拡大のような分野における政策を含んでいた。

ウィリアムソンの研究の後、ワシントン・コンセンサスといった用語は副次的なより広い意味で一般的に用いられるようになり、強い市場ベースのアプローチに対するより全体的な方向性(時として軽視の意味を込めて市場原理主義や新自由主義と呼ばれている)を参照していた。一部の著者たちが示唆するように、政策の処方箋が(用語の意味を広く解釈するのかそれとも狭く解釈するのかを含めて)特に影響力を有していた時代に普及していた歴史的意味を込めて、ワシントン・コンセンサスといった用語は時として同様に用いられていた。彼の10項目に及ぶ狭く定義された処方箋は主に「存在意義とメリットがある」状態をもたらしていたが(当然広く解釈されている)、「より広い新自由主義のマニフェストは(ワシントンにおける)や他のいかなる場所においてもコンセンサスを得ておらず」、コンセンサスの意義は失われてしまったと今では合理的に語られるようになっていたことをウィリアムソン自身は論じていた。

ワシントン・コンセンサスに関する議論は長い間続いていた。前述されたより広い定義とより狭い定義との対照性に直面して、この問題は用語によって何が意味されているのかについて合意がなされていなかったことを部分的に反映していた(明確なことだが、コンセンサスに対して重要な勧告を含めること(もしくは拒否すること)をさまざな形で主張する国々における成功や失敗に関しかなりの議論があったが、ほとんどはコンセンサスに至らなかった)。しかし同様に内在する実質的な違いもあった。この記事で論じられている批評の一部は、例えば、グローバル・マーケットに発展途上国を開放することに対するワシントン・コンセンサスの強調や、国家の重要な機能を犠牲にして、彼らが国内の市場要因の影響力を強化することを過度に強調したものとして眺めているものに反対していた。以下で論じられる他のコメンテーターにとって、社会的に最も弱い立場にある人々のための機会を改善するための制度構築や目標に向かう努力のような分野を含めて、問題点は、コンセンサスの中で語られているものより語られていないもののほうに多く存在していた。これらの分野の議論にもかかわらず、かなり多くの著者たちや開発組織は今日では、すべての場面に当てはまる唯一の対処法よりむしろ、個々の国々の特定の状況に当てはまる戦略の必要性といったより一般的な提案を受け入れていた。

1 歴史

1.1 用語の本来の意味:ウィリアムソンによる10のポイント

ワシントン・コンセンサスという概念と名前は、ワシントンD.C.にある国際的な経済シンクタンクである国際経済研究所のエコノミストであるジョン・ウィリアムソンによって1989年に発表された[1]。国際通貨基金、世界銀行、アメリカ財務省のようなワシントンに本拠を置く機関による政策の助言における一般的に共有されたテーマを要約するためにウィリアムソンはその用語を用い、それは1980年代の経済・金融危機からラテンアメリカを回復させるために必要であると信じられてきた。

本来ウィリアムソンによって述べられていたコンセンサスは比較的特定された政策勧告の10に及ぶ広範なセットを含んでいた[1]。

GDPと比較して大きい財政赤字を避けるような財政政策の規律。

公共支出を補助金(特に無差別な補助金)から初等教育、医療サービス、インフラ投資のような重要な成長指向、貧困対策指向の広範な提供に向けること。

税制改革に関し、課税ベースを拡大し、適度な限界税率を採用すること。

利子率は市場によって決定され、実質ベースでプラスであること(しかし適度であること)。

競争に基づく変動為替レートの採用。

貿易の自由化:量的制限(認可等)を取り除くことを特に強調した輸入の自由化、低率で比較的均一な関税による貿易の保護。

国内への外国からの直接投資の自由化。

国営企業の民営化。

規制緩和:安全、環境や消費者保護の立場、金融機関の健全性の監督を正当化するものを除いて、市場参入を妨げ、競争を制限する規制の廃止。

財産権の法的保障。

ウィリアムソンによる対処法は政策課題を進める上でワシントンに本拠を置く機関の役割を強調しているが、多くの著者たちは、ラテンアメリカの政策立案者たちは彼らの国々に対する彼ら自身の分析に本来基づいた彼ら自身の政策改革のパッケージを有していることを強調していた。このように『市場対国家』の著者であるジョゼフ・スタニスローとダニエル・ヤーギンによれば、ワシントン・コンセンサスの中に記述されている政策の処方箋は「地域の中と外で生じたものに対応して、ラテンアメリカの中でラテンアメリカ人によって展開されていた」[2]。ジョセフ・スティグリッツは「ワシントン・コンセンサスに基づく政策はラテンアメリカの実際の問題に対処するために設計されており、非常に意味がある」と記していた(しかしスティグリッツはその時発展途上国に適用されたIMFの政策を辛口に批評していた)[3]。政策が本来外部からもたらされるワシントン・コンセンサスという用語によって伝えられる含意を眺めると、スタニスローやヤーギンは、用語の生みの親であるジョン・ウィリアムソンが「それ以来その用語を後悔しており」、「外交的なスローガンでないと考えることが難しくなった」と述べていたと伝えていた[4]。

ナンシー・バーズオール、アウグスト・デラ・トーレ、フェリペ・バレンシア・カイセドによる2010年の論文は同様に、本来のコンセンサスの中にある政策は主にラテンアメリカの政治家やテクノクラートによってもたらされたものであり、ウィリアムソンの役割は政策のパッケージを形成するよりむしろ、初めて1つの場に10のポイントを集めたことにあったことを示唆していた[5]。

2002年のウィリアムソン自身の言葉:

用語の生みの親にとって「ワシントン・コンセンサス」というフレーズがブランド名に被害を与えたことを否定することは困難であった(ナイム,2002)。世界中の人々が、これがワシントンに本拠を置く国際金融機関によって不運な国々に課され、それらの国々に危機と惨事を導いた一連の新自由主義的政策を意味していたことを信じているように思われていた。そして口角泡を飛ばすことなくその用語を口にできない人々が存在していた。

私自身の見解はもちろん全く異なっている。ワシントン・コンセンサスに集約しようとした基本的な考え方は、ルーラが当選するために支持を集めたように、過去10年においてより広範な支持を獲得し続けていた。大部分において、それらは存在意義やメリットを有しており、そういう理由でそれらはコンセンサスを強制していた[6]。

1.2 用語の広い意味

ウィリアムソンは、その用語が彼の元々の意味とは異なる意味で一般的に用いられていることを認識していた。より広い市場原理主義(もしくは新自由主義)に基づく政策課題を扱うための当初の対処法の後一般的になったその用語の代替的な使用に彼は反対していた[7]。

私はもちろん、私の用語が資本の自由化(...意識的に除外していた)、マネタリズム、サプライサイド経済学、最小国家(福祉の提供や所得の再分配を除外した国家)のような政策を含める意図をもっておらず、それらを私は本質的に新自由主義の考え方とみなしていた。もしそのようにその用語が解釈されるならば、私たちはみなそう意識することができるが、私たちは少なくともこれらの考え方がワシントンではめったに支配的になることがなく、そこであれどこであれコンセンサスを強制したことはないといった良識を有している...[6]。

具体的にはウィリアムソンは、彼の10の処方箋の内最初の3つは経済コミュニティーの中では議論の余地がないと論じていたが、一方他はいくらかの論争を引き起こしていることを認識していた。彼は、最も論争を引き起こしていない処方箋の1つである、支出をインフラ、医療、教育へ向けることがしばしば無視されていると主張していた。彼は同様に、その処方箋が政府のある機能を縮小する(生産的な企業を所有者にする)ことを強調している一方、同様に教育や健康を支援するような他のアクションを実施する政府の能力を強化していると論じていた。ウィリアムソンは、市場原理主義を支持せず、もし正確に実施されるなら、コンセンサスによる処方箋は貧困層に対して有益となるだろうと考えていると述べていた[8]。2003年にペドロ=パブロ・クチンスキーと編集した著作の中で、ウィリアムソンは拡大された改革計画を打ち出し、経済危機の証拠、「第二世代の」改革、不平等や社会問題に言及する政策を強調していた(クチンスキー,ウィリアムソン,2003)。

ワシントン・コンセンサスという用語は、1970年代のケインズ主義に代えて自由市場政策に全般的にシフトすることを把握するために用いられていた。この広い意味では、ワシントン・コンセンサスは時として約1980年頃に始まったと考えられていた[9][10]。特にもし用語を広い意味で解釈するならば、多くのコメンテーターたちはそのコンセンサスは1990年代に最も影響力があったと考えていた。一部はそのコンセンサスは世紀の変わり目に終焉を迎え、少なくとも約2000年以降影響力が小さくなったと主張していた[5][11]。さらに一般的なことを言えば、コメンテーターたちはそのコンセンサスは2008年から2009年の世界的な金融危機の頃まで影響力を保持していたことを示唆していた[10]。市場の失敗に対して政府が実施する強力な介入により、多くのジャーナリスト、政治家、世界銀行のような国際機関の高官はワシントン・コンセンサスは終焉を迎えたと言い始めていた[12][13]。これらはイギリス前首相であるゴードン・ブラウンを含み、彼は2009年のG20ロンドン・サミットで「古いワシントン・コンセンサスは終焉を迎えた」と述べていた[14]。ウィリアムソンは2009年4月にワシントン・ポストから、ワシントン・コンセンサスは終焉を迎えたとのゴードン・ブラウンに彼が同意するかどうかを尋ねられ、こう回答した。

それは人がワシントン・コンセンサスによって何を意味するかに依存している。もし人が私によって輪郭を示された10のポイントを意味しているならば、それは明らかに正しくない。もし人が著名なジョセフ・スティグリッツを含む多くの人々が新自由主義のような意味を押しつける解釈を用いているならば、私はそれは正しいと思っている[15]。

2010年のG20ソウル・サミットがソウル開発コンセンサスにおける合意に達したことを発表した後、フィナンシャルタイムズ紙は「開発に対するその実践的かつ多元的な視点は十分に魅力的である。しかし文書は終焉を迎えて久しいワシントン・コンセンサスの棺に別の釘を打ち込んでいるにすぎないだろう」と述べていた[16]。

2 背景

IMFや世界銀行から融資を受けるために条件として課された改革のパッケージのさまざまな部分を実施しようと多くの国々が労力を重ねていた[9]。これらの改革の成果は非常に議論を呼んでいた。一部の批評家は改革が不安定化につながったという主張を強調していた[17]。一部の批評家は同様に、アルゼンチン経済危機(1999–2002)のような特定の経済危機に対して、ラテンアメリカの経済的不平等を悪化させるとして、ワシントン・コンセンサスを批判していた。ワシントン・コンセンサスに対する批判はしばしば社会主義や反グローバリズムとして片付けられてきた。これらの理念はこれらの政策を批判していた一方、そのコンセンサスに対する経済学からの一般的な批判が現在広く確立しており、例えばハーバード大学の国際政治経済学の教授であるダニ・ロドリックの論文である『さようならワシントン・コンセンサス、ようこそワシントンの困惑へ』などで概説されていた[18]。

そのコンセンサスを形成していた機関は主にグローバル化をめぐる政治的圧力により2000年代にはこれらの政策に対する主張を軟化させ始めていたが、一般的なコンセンサスとしてのこれらの考え方に対する言及は、市場原理主義が力を失っていたので、2008年の世界金融危機の頃には基本的に終焉を迎えていた。しかし、コアとなる特定の政策の大半が今なお一般的に好意的にみなされているものの、その政策は深刻な経済危機を防止することも緩和することもないと見られていることが留意されるべきである。1990年代後半のアジア通貨危機の間に韓国が受け入れることを強制された新しい種類の介入プログラムを造り上げた韓国とIMFの作業の中でこのことはおそらく最も顕著であった。ワシントン・コンセンサスに基づくその介入は「アジアの連鎖反応」を止めたためにその時は賞賛されていたが、結局のところそのプログラムはさらに懐疑的に見られるようになっていた。

ウィリアムソン自身は多くの国々における成長、雇用、貧困の削減に対する全体的な結果を「控え目に言っても、失望に耐えない」とまとめていた。彼はこの限定的な影響を3つの要因に帰していた。(a) コンセンサス自体は経済危機を回避するためのメカニズムを特に強調しておらず、そのことは非常に有害となりうることを示していた。(b) 彼の記事に記載されていた政策と、さらに有力な理由になる、実際に実施された政策の双方を通じた改革は不完全であった。(c) 採用された改革は所得分配を目標にした改善について不十分な意欲しか示しておらず、この方向性に沿ったより強力な努力によって実施される必要があった。しかし元々の10の処方箋を放棄するための議論よりむしろ、ウィリアムソンはそれらが「存在意義とメリットを有しており」、「議論する必要はない」と結論づけていた[6]。ウィリアムソンや他のアナリストたちは、チリのような関連する政策の変更を一貫して採用している多くの国々における経済のパフォーマンスの長期における改善を指摘していた。

ウィリアムソンが指摘していたように、用語は市場原理主義や新自由主義に対する同意語として元々の意図に対してより広い意味で用いられるようになった。このより広い意味で、ウィリアムソンはジョージ・ソロスやノーベル賞受賞者であるジョセフ・E・スティグリッツのような人々によって批判されていたと述べていた[8]。ワシントン・コンセンサスは同様にラテンアメリカの政治家のような他者やエリック・レイナートのような正統でない経済学者たちによって批判されていた[19]。その用語は一般的に新自由主義政策に関連しており、国々の国家主権に関わりながら、自由市場、国家に対する制約、アメリカの影響力の役割の拡大やより広範なグローバル化についての幅広い議論の中に描かれていた。

「安定化、民営化、自由化」は発展途上国で最初の経験を積んだテクノクラートや彼が助言した政治的リーダーの世代にとってのスローガンになっていた[18]。—ダニ・ロドリック、ハーバード大学国際政治経済学教授、12月6日、JELにて。

意見が経済学者の間で異なる一方、ロドリックは事実におけるパラドックスであると彼が主張するものについて指摘していた。中国やインドが限られた範囲で自由市場の力に対する経済的依存度を増している一方、彼らの全般的な経済政策はワシントン・コンセンサスに基づいた主な勧告と正反対であった。両国は1990年代を通じて高いレベルの保護主義、民営化に積極的でない姿勢、大規模な産業政策の立案、緩慢な財政・金融政策を採用していた。もし両国が失敗していたならば、両国は勧告されるワシントン・コンセンサスに基づく政策を支持する強い証拠を示していただろう。しかしながら両国は成功していることが判明していた[20]。ロドリックによれば「支持者や懐疑論者によって示される教訓は異なっている一方、誰も本当にこれ以上ワシントン・コンセンサスを信じていないことは明白だった。問題は今やワシントン・コンセンサスが終焉を迎えたのか、まだ有効であるのかではなく、何がワシントン・コンセンサスに取って代わるのかになった」[18]。

1990年代の中国やインドにおけるロドリックの説明は普遍的に受け入れられていなかった。とりわけこれらの政策は国内外において市場の力に大きく依存する方向へ舵を切っていたことを含んでいた[21]。

2003年にペドロ・パブロ・クチンスキーとともに編集した著作の中でジョン・ウィリアムソンは、経済危機の証明、「第二世代の」改革、不平等や社会問題に対処する政策を強調し、改革計画の拡大を打ち出していた。

3 マクロ経済の改革

政府によるワシントン・コンセンサスの広範な普及は、1980年代を通じラテンアメリカや他の発展途上の地域を襲ったマクロ経済上の危機に対する大規模な反応だった。危機の理由は複数存在しており、OPECの出現による輸入石油価格の高騰、対外債務の増加、アメリカの金利の高騰(国際的な要因になるが)、上記の問題に対する結果としての追加的な対外債権へのアクセスを失ったことが挙げられていた。数十年間ラテンアメリカや他の場所の多くの発展途上国によって追求されてきた輸入代替政策は、輸入石油に対する追加的な費用に対しすばやく支払うための輸出を拡大するには準備不足の経済だった(対照的により輸出指向型の戦略を続けていた東アジアの多くの国々はさらに輸出を拡大することを比較的容易にしており、経済的、社会的混乱を少なくして外的ショックに対応していた)。さらに外部から借り入れることも容易に輸出から利益を上げることもできず、多くのラテンアメリカの国々は大きな財政規律を通じて国内需要全体を縮小することに対する維持可能な選択肢を獲得しておらず、一方並行して、保護主義を縮小し、経済の輸出志向を強化する政策を採用していた[22]。

4 貿易の自由化

ウィリアムソンによるワシントン・コンセンサスは主に貿易改革の一方的なプロセスを想定しており、それによって国々は(特に)関税や非関税障壁を低下させていた。ラテンアメリカを含む多くの国々はその後数年にわたって非常に一方的な貿易の自由化を実施しており、より大きな輸入競争に経済を開放し、同時にGDPにおける輸出品のシェアを増加させていた(並行して世界の貿易に占めるラテンアメリカのシェアは同様に増加していた)。

ウィリアムソンによるワシントン・コンセンサスに関連した別の議題は、世界(WTO)や地域レベルであれ、多国間貿易自由化のためのさまざまなプログラムに関心があり、北米自由貿易協定(NAFTA)や米・中米・ドミニカ共和国自由貿易協定(DR-CAFTA)を含んでいた。

4.1 NAFTAやDR-CAFTA

1990年代初頭のアメリカ大陸における地域貿易の自由化について、アメリカ大統領であるジョージ・H・W・ブッシュは北米自由貿易協定(NAFTA)として知られるようになるアメリカ・メキシコ・カナダによる自由貿易についての提案を策定し始めていた。NAFTAは後にブッシュの後継者であるビル・クリントンによって法案に署名され、北米の3ヶ国はお互いの財に対する関税を縮小し、徐々に廃止することに合意しており、その政策はそのコンセンサスに完全に沿ったものだった。大統領であるジョージ・W・ブッシュはNAFTAを支持し続け、彼の政権はドミニカ共和国や中央アメリカと米・中米・ドミニカ共和国自由貿易協定として知られる類似の協定を交渉し、それは2005年にアメリカ議会で承認された。

NAFTAやDR-CAFTAの支持者たちは、それらが参加国の企業に利益を促し、アメリカの消費者に恩恵をもたらし、安価な外国製品を提供することを指摘していた。政治的左派(特に労働組合運動における同盟やラルフ・ネーダーのような反グローバリゼーション左派を含む)と政治的右派(特にパトリック・J・ブキャナンによって示されたナショナリストや移民排斥主義者の主張)の双方を含む批評家は、メキシコのような安い労働市場に生産拠点を移すことによってアメリカの労働者階級に害をなすとして協定を批判しており、そのような移転はメキシコの労働者を搾取する結果となると伝えていた。逆にアメリカからの補助金付きの大量の農産物が経済的に農業に依存している多くの国々の市場に溢れていた。

実証研究はアメリカ経済に対するこれらの貿易協定の量的影響は支持者や批判者による予測よりもはるかに小さいことを見出していた[23]。

民主党の大統領であるビル・クリントンがNAFTAに署名し、共和党の大統領であるジョージ・W・ブッシュがCAFTAに署名する一方、これらの協定に対するアメリカ議会のその後の支持は党派色の強いものだった。ほとんどの共和党員はその協定に賛成であり、ほとんどの民主党員はその協定に反対しているか、修正を求めており、例えば環境保護や労働者の権利に関して強力な規程を付け加えていた。

5 ワシントン・コンセンサスに基づく政策に対する批判

ほとんどの批判は貿易の自由化や補助金の撤廃に焦点を当てており、批判は特に農業部門を強調していた。しかしかなり天然資源を保有する国々での批判は産業の民営化やこれらの資源の搾取に焦点を当てる傾向があった。

その政策はもともと主にラテンアメリカに対する保守的な対応として考えられていたが、2010年のように、いくつかのラテンアメリカの国々は社会主義者や他の左派政権によって率いられ、アルゼンチンやベネズエラを含むいくつかの国々はワシントン・コンセンサスに反対する政策(ある程度は採用されていた)を肯定する運動を続けていた。ブラジル、チリ、ペルーを含む左派政権である他のラテンアメリカの国々はウィリアムソンのリストに含まれる政策群を採用していたが、これらがしばしば関連している市場原理主義を批判していた。同様にジョセフ・スティグリッツやダニ・ロドリックのような一部のアメリカの経済学者はIMFによって実際に行われていた政策を批判しており、彼らは、IMFやアメリカ財務省の「原理主義的な」政策として示されるものに対して、時として、スティグリッツが個々の経済に対する「すべての場面に当てはまる唯一の対処法」と呼んでいる政策を理由にして、疑問を投げかけていた。スティグリッツによれば、IMFによって提案される対処法は非常に単純すぎており、優先順位を付け、副作用を確認することなく、安定化、自由化、民営化を1回行えばすぐに効き目が現れるといったものではなかった[24]。

改革は彼らが意図した通りにいつも機能しなかった。一般的に成長はラテンアメリカではかなり改善されているが、大半の国々では改革者たちがもともと期待していた以下の成果に止まった(上述される「移行の危機」は以前の社会主義経済の一部で期待されたより深く長く続くものになった)。1990年代におけるサハラ以南のアフリカでのサクセスストーリーは比較的少数のやや極端な例になり、彼ら自身による市場志向の改革は大陸が巻き込まれた増大する公衆衛生上の緊急事態に対処する方法を示唆するものではなかった。批評家は一方、失望させる結果は標準的な改革に対する計画の不適切さに関する懸念の正しさを立証していると主張していた[25]。—ハーバード大学教授、ダニ・ロドリック

批判は1990年代の経済成長に関する世界銀行の研究に対して行われていた。『改革の10年から学ぶこと』(2005)はワシントン・コンセンサスのもともとの考え方からどれほどかけ離れた議論が行われてきたかを示していた。世界銀行のアフリカ担当副総裁であるゴビン・ナンカーニはこう序文に記していた。「唯一の普遍的なルールといったものは存在していない....私たちはルールや達成しにくい「最善の実施状況」を模索することから離れる必要がある....」(p. xiii)。世界銀行は、謙虚さ、政策の多様性、選択的で適度な改革、実験性を必要としていることを強調していた[27]。

『改革から学ぶこと』という世界銀行のレポートは1990年代に行われた一部の開発を示していた。共産主義から市場経済に移行している一部の国々(しかしすべてではない)の産出において深く長期化した崩壊の過程が存在していた(中欧や東欧の国々の多くは対照的に比較的早く調整を行っていた)。10年以上もの移行過程において、以前の共産主義の国々の一部、特に旧ソ連の一部は1990年の産出水準に追いついていなかった。政治改革の努力や政治的、外的環境の変化にもかかわらず、多くのサハラ以南のアフリカ諸国は1990年代に経済を軌道に乗せることに失敗し、多量の対外援助の流入に頼っていた。ウガンダ、タンザニア、モザンビークはいくらかの成功を示した諸国に含まれていたが、安定した成功ではなかった。ラテンアメリカ、東アジア、ロシア、トルコにおいては成功をともなうが痛ましい金融危機が存在していた。1990年代前半のラテンアメリカの回復は後半の危機によって中断されていた。1950-80年代における世界経済の戦後の急速な拡大や幕開けと比較すると、ラテンアメリカにおける1人あたりのGDPの成長は小さいものだった。「ラテンアメリカの経済改革におけるイメージキャラクター」として描かれていたアルゼンチンは2002年に崩壊を迎えていた[27][28]。

世界的な金融危機の他の結果の中には、定型的なアプローチより適した地域開発のモデルの意義に対する信念を強化していたことが挙げられていた。この学派の思想の要素として、国家はそれ自身の発展や改革の経路を見出す必要があることを示唆している「北京モデル」の考えが挙げられていた。

5.1 反グローバリゼーション運動

ノーム・チョムスキー、タリク・アリ、スーザン・ジョージ、ナオミ・クラインのような貿易自由化の批評家たちはワシントン・コンセンサスを先進国の企業による搾取の対象として発展途上国の経済における労働市場を開放することであるとみなしていた。関税や他の貿易障壁の縮小は市場の力により国境を越えた財の自由な移動を許容していたが、労働はビザや就労許可の要件のために自由に移動することが許されていなかった。このことは発展途上国の経済における安い労働力を用いて財が生産され、その後豊かな世界経済に輸出されるといった経済環境を生み出しており、批評家たちはそこに大企業によって蓄積される安価な賃金に対して不釣り合いで膨大な上乗せ価格が存在していると主張していた。批判は、貿易自由化以前と比較しその賃金の上昇はインフレによって相殺されているので、第三世界の労働者たちは貧しいままであり、先進国の労働者たちは失業に直面している一方で、多国籍企業の豊かな所有者たちはさらに豊かになっていったといったことになる。

反グローバリゼーションの批評家たちは、世界銀行や国際通貨基金を通じたり政治的圧力や賄賂によって、先進国が、批評家たちがそのコンセンサスの新自由主義的政策として描かれているものを、経済的に脆弱な国々に課していると主張していた。彼らは、ワシントン・コンセンサスは事実ラテンアメリカに大きな経済のブームをもたらしておらず、むしろ深刻な経済危機や先進国に恩義を感じている国に対し与えられていた損害を与えうる対外債務を導いていた。

多くの政策の実施(例えば、国有企業の民営化、税制改革、規制緩和)は、政治的権力を獲得し、同様に地域における事実上の労働搾取を維持することに強い関心を有している小規模で、裕福で、地域に根差したエリートの繁栄を確保するメカニズムであるとして批判されていた。

上述された批判に対するいくつかの特定の事実に基づく前提は、ワシントン・コンセンサスの支持者たちもしくは事実すべての批評家によって受け入れられていなかった。いくつか例を挙げれば[29]、多くの発展途上国におけるインフレーションは現在数十年間にわたって最も低いレベルにある(ラテンアメリカの多くでは一桁になる)。外国投資によって生み出された工場の労働者たちは彼らの自国の労働条件よりも高い賃金とより良い労働環境を手にしていると一般的に見られている。過去数年におけるラテンアメリカの多くにおける経済成長は歴史的に高い水準にあり、経済規模と比較した債務残高は概して数年前より低い水準にあった。

これらのマクロ経済の指標の改善にもかかわらず、貧困と不平等はラテンアメリカで高い水準に留まっていた。約3人に1人の人々つまり全体で1億6500万人の人々が1日につき$2以下で生活していた。約3分の1の人口が電気や基本的な衛生に対するアクセスを有しておらず、推定1000万人の子供が栄養失調に苦しんでいた。しかしながらこれらの問題は新しいものであった。1950年にラテンアメリカは世界で最も経済的に不平等な地域であり、国家主導の輸入代替や市場志向型の自由化の時代にあってもそうであり続けていた[30]。

一部のラテンアメリカの社会主義的政治のリーダーは反対の声を上げ、ワシントン・コンセンサスに対する有名な批評家になっており、例えばベネズエラ大統領のウゴ・チャベス、キューバの元国家評議会議長であるフィデル・カストロ、ボリビア大統領のエボ・モラレス、エクアドル大統領のラファエル・コレアが挙げられる。アルゼンチンでも同様に最近のペロン党政権のネストル・キルチネルは少なくともいくつかのワシントン・コンセンサスに基づく政策を否定する政策を実施していた(継続中の議論を参照せよ)。

ラテンアメリカの他の左派は違ったアプローチを採用していた。チリの社会党、ペルーのアラン・ガルシア、ウルグアイのタバレ・バスケス、ブラジルのルーラによって導かれた政府はワシントン・コンセンサスで説明される経済政策の継続を実際強力に維持していた(債務支払い、外国投資の保護、金融改革等)。しかしこの種の政府は同時に、教育改革や子供を学校に通わせている貧しい家庭への補助金のように貧困層を援助し、生産性を改善する狙いを有する措置によってこれらの政策を補完していた。

5.2 ネオ・ケインジアンによる批判

ワシントン・コンセンサスに対するネオ・ケインジアンやポスト・ケインジアンの批評家たちは、基礎となる政策が不適当に実施されており、あまりにも厳格すぎて成功することができないと主張していた。例えば柔軟な労働法は新規の雇用を創出すると想定されていたが、経済的な証拠はこの点において否定的であった。さらに一部は、政策のパッケージは国々の間における経済的そして文化的違いを考慮していないと主張していた。一部の批評家は、急激な経済成長の時期においてはそうであるが、たいていの場合、特に経済危機の時期においてはそうでないように、この一連の政策は実施されるべきであると主張していた。

『外交政策』の編集長であるモイセス・ナイムは当初は「コンセンサス」など存在していなかったと論じていた。彼は何が「適当な経済政策」かについてエコノミストの間で大きな違いが存在しており、これゆえコンセンサスの考え方も同様に欠陥を抱えていたと主張していた。

6 アルゼンチン

1999–2002年のアルゼンチンにおける経済危機はしばしば、ワシントン・コンセンサスの援用によってもたらされた経済的惨状の例として示されていた。アルゼンチンの筆頭外務副大臣であるホルヘ・タイアナは2005年8月16日に国営通信であるテラムとのインタビューの中でワシントン・コンセンサスを批判していた。そのような政策に対する本当のコンセンサスが存在していたことはないと彼は述べ、今日「南半球のかなりの数の政府が1990年代にこれらの政策を採用したときの前提を再検討している」と述べ、政府は生産的な雇用と本当の富の創出を保障する発展モデルを模索していると付け加えていた[2]。

しかしながら多くのエコノミストは、アルゼンチンの失敗がワシントン・コンセンサスに密着していたからであるとの見方に疑念を抱いていた。財政収支を効果的にコントールすることに失敗し、一層競争性を失わせていった独特の固定為替レート体制の採用(ドル等との交換性を維持する)はコンセンサスの中心的な条件に反しており、マクロ経済の崩壊に道を開いていた。初期のメネムとカバロ政権における市場志向の政策は一方ですぐに国内の政治的制約に直面し力を失っていった(メネムの再選を考慮した対応を含んでいる)[31]。

1998年10月にIMFは理事会の年次総会にアルゼンチン大統領であるカルロス・メネムを招き、アルゼンチンの経験について話を聞いた[32]。メネム政権の経済政策(ドル等との交換性を維持する)の立案者であり、メネム大統領の経済相(1991–1996)であるドミンゴ・カバロは、アルゼンチンは当時「IMF、世界銀行、アメリカ政府の最も良い教え子として考えられていた」と主張していた。

1998年後半にアルゼンチンはブレイディ構想の中で債務を再建した国々の中で最も成功した経済であるとワシントンの中で考えられていた。ワシントン・コンセンサスのスポンサーのいずれもアルゼンチンの経済改革が10の勧告と異なっていると指摘することに関心をもっていなかった。反対にアルゼンチンはIMF、世界銀行、アメリカ政府の最も良い教え子として考えられていた。—ドミンゴ・カバロ、前アルゼンチン経済相(1991–1996)[33]。

固定為替レートのメカニズムに対する信任にともない生じた問題は1990年代の経済成長に関する世界銀行のレポートの中で議論されていた。『改革の10年から学ぶこと』は期待が「政府によってプラスの影響を受けているかどうか」について疑念を投げかけていた。1990年代初頭に、外国為替問題から政府の裁量を完全に取り除くことを市場の参加者に再確認させるために、国家は固定為替レートか変動為替レートに移行すべきであるといった見解が存在していた。アルゼンチンの崩壊後、一部のオブザーバーは大きなペナルティを課すメカニズムを創出することにより政府の裁量を取り除くことは反対に実際期待を損なってしまうかもしれないと考えていた。ベラスコとニュート(2003)[34]は、「もし世界が不確実であり、裁量の欠如が大きな損失を招く状況が存在しているならば、事前にコミットする仕組みは事態を悪化させてしまうことになるだろう」と主張していた[35]。レポート(金融自由化:何が正しく、何が悪かったのか[35])の第7章で、世界銀行はアルゼンチンで何が悪かったのかを分析しており、経験からの教訓を要約し、将来の政策に対する示唆を描いていた[35]。

IMFの独立評価機関はアルゼンチンの教訓の再検討に言及しており、以下のように要約していた。

アルゼンチンの危機はIMFにとって多くの教訓を示唆しており、その一部はすでに学び取られ、改訂された政策や手続きに組み込まれていた。この評価は、監視やプログラムの設計、危機管理、意思決定のプロセスの分野における10の教訓を示唆していた[36]。

マーク・ワイズブロットは最近、前大統領であるネストル・キルチネルの下でのアルゼンチンはワシントン・コンセンサスの採用を中止しており、このことは経済に対して重要な改善を促していたと述べていた。そして一部はエクアドルがすぐに続くかもしれないと付け加えていた[37]。しかし(しばしば本質的に公益事業体のような外国からの投資を受けた企業を対象にしていた)価格コントロールや同様の行政措置に対するキルチネルの信頼は明らかにワシントン・コンセンサスの精神に反しており、事実彼の政権は極端に引き締められた財政政策に反対しており、競争的な変動為替レートを維持していた。アルゼンチンはすぐに危機から立ち直り、債務を放棄し、一次産品の偶然のブームを支援し、長期にわたる維持可能性に対して未解決の問題を残すことになった[38]。エコノミストは、ネストル・キルチネル政権がアルゼンチンにおけるポピュリズム政権の長い歴史の一幕として終わるだろうと述べていた[39]。2008年10月にキルチネルの妻であり大統領の後継者であるクリスティーナ・キルチネルは、メネムとカバロにより実施された民営化されたシステムから年金基金を国有化する意思を発表した[40]。そして経済的パフォーマンスに対する不正確なプラスの評価を生じさせるためにキルチネルの下での(最も悪評を買ったのはインフレに対してだが)政府統計の操作に対する批判が生じていた[41]。

2003年に当時のアルゼンチンの大統領であるネストル・キルチネルとブラジルの大統領であるルーラ・ダ・シルヴァは、ワシントン・コンセンサスの政策に反対するマニフェストである「ブエノスアイレス・コンセンサス」に署名していた[42]。しかし懐疑的な政治のオブザーバーは、公的発言としてのルーラのレトリックは彼の政権が実際に実施した政策と区別されるべきであると述べていた[43]。このことは、ルーラ・ダ・シルヴァが2年先にIMFにブラジルの債務のすべてを支払い、2005年にキルチネルの政府も同様のことを行ったことを伝えていた。

7 マラウイの農業助成金

ワシントン・コンセンサスに対する一部の批評家は、パッケージの処方箋にある欠陥を例示している農業補助金に関するマラウイの経験を引用していた。数十年間、世界銀行や債権国はアフリカの農業国であるマラウイに農家への政府による肥料補助金を削減するように圧力をかけていた。世界銀行の専門家は同様にマラウイの農家に対して輸出するために換金作物を栽培するようシフトし、食料を輸入するために外貨収入を利用するよう促していた[44]。長年にわたりマラウイは飢餓の危機に瀕しており、特に2005年におけるトウモロコシの壊滅的な減収の後、1300万人の内ほとんど500万人の人々が緊急食料援助を必要としていた。マラウイの新大統領であるビング・ワ・ムタリカは当時政策を逆にすることを決定していた。手厚い肥料補助金(種子あたり小さな額になる)の導入は良い雨量に助けられながら2006年や2007年において記録的なトウモロコシを生産するよう農家を支援しており、トウモロコシの生産量は2005年の120万トンから2006年の270万トン、2007年の340万トンへと跳ね上がっていた。蔓延する子供の飢餓は大幅に下落し、マラウイは最近緊急食料援助を断っていた。

世界開発センターのために用意されたマラウイの経験に対する論評に[45]、開発経済学者であるヴィジャヤ・ラマチャンドランやピーター・ティマーは、アフリカの一部(そしてインドネシア)における肥料補助金は実質的にコストを上回る便益をもたらす可能性があると論じていた。しかし彼らは補助金が運用される方法が長期的な成功にとって重要になることに着目しており、肥料の分配が独占的になることを許容していることに対して警告を発していた。ラマチャンドランやティマーは同様に肥料補助金以上のものをアフリカの農家が必要としており、具体的にはより良い輸送手段やエネルギーインフラと同様に新しい肥料や新しい種子を開発するためのより良い研究を必要としていることを強調していた。世界銀行は現在時々ではあるが繰り返し、貧困層向けにそして民間市場を育成する方法で実施される肥料補助金の一時的な利用を支援していた。「マラウイの銀行の関係者たちは、マラウイの政策を一般的には支持しているが、結局のところ補助金を終える戦略を有していないために政府を批判しており、その2007年のトウモロコシの生産量の推定値がかさ上げされているか否かについて疑念を投げかけており、どのように補助金が実施されるかについて多くの改善の余地があると述べていた。」[44]

8 継続する論争

ほとんどのラテンアメリカの国々は高い貧困と失業率に苦しみ続けていた。チリはコンセンサスのサクセスストーリーの例として見られており、エルサルバドルやウルグアイのような国々も同様に経済発展に関しいくつかの肯定的な徴候を示していた。比較的あまり高くない成長率にもかかわらず、ブラジルは近年貧困の削減について目覚ましい進歩を示していた。

ジョセフ・スティグリッツは、チリのサクセスストーリーは多くが重要な産業、特に銅産業を国有化していることや資本移動を安定化させる通貨介入によっていると論じていた。しかし多くの他のエコノミストは、チリの経済的成功は主に健全なマクロ経済と市場志向の政策の組合せによるものであると論じていた(しかしより良い公立学校のシステムを含む国の比較的強い公的機関を同様に賞賛に値している)[46]。

ウィリアムソンによって提唱されたワシントン・コンセンサスとワシントンに支持されている実際に実施された政策との間の矛盾が主張されていた。例えば、ワシントン・コンセンサスは教育投資に対する必要性に言及しているが、国際通貨基金によって促された財政規律に対する政策は、実際に時として基礎教育のような分野を含む社会プログラムに対する公的支出を各国々に削減させるよう導いていた。IMFの仕事に通じている人々は、ある段階で破綻に近い国々は収入の範囲で暮らしていくためにある方法でもしくは別の方法で公的支出を削減しなければならないと回答していた[47]。ワシントンは異なった公的支出の優先順位の中での賢明な選択を論じるかもしれないが、最も重要な分析において国内の選挙で選ばれた政治リーダーは最終的に厳しい政治的選択をしなければならなかった。

9 ワシントンコンセンサスを超えて

エコノミストや政策立案者たちの大多数は、ウィリアムソンによってもともと提唱されていたワシントン・コンセンサスにおける誤りは、そこで語られていたもののよりそこで語られていないものほうがその関連性が強いといったことを論じていた[48]。この見解は、ブラジル、チリ、ペルー、ウルグアイのような国々は近年主に左派を中心にした政党によって支配されてきたが、彼らのレトリックが何であれ、実際にはワシントン・コンセンサスの重要な要素を放棄してはいなかったと主張していた。財政と金融の規律を通じてマクロ経済の安定化を達成した国々はそれを放棄することに批判的だった。近年のブラジル大統領(そして労働者党のリーダー)であるルーラは、ハイパーインフレーションの退治[49]は国の貧困層向けの福祉に対して近年最も重要で肯定的な貢献の1つであったと明示していた。またこれらの国々は実際に1950年代から1980年代までに追求されていた専制政治の政策に戻ることに賛成することはなく、グローバルな貿易と国際投資へとより開放する志向を否定することもなかった。

しかしこれらのエコノミストや政策立案者たちは圧倒的に、ワシントン・コンセンサスが不完全であり、ラテンアメリカや他の地域の国々は「第一世代」のマクロ経済的そして貿易に関する改革から離れて生産性を向上する改革や貧困層を直接支援するプログラムに強くフォーカスすることへシフトする必要があることに同意していた[50]。このことは、投資環境を改善し、官僚的形式主義を取り除き(特に小規模な企業において)、制度を強化し(司法システムのような分野において)、メキシコやブラジルのような国々で採用された条件付き所得移転プログラムを通じて直接貧困と闘い、初等・中等教育の質を高め、技術を開発し吸収する国の効率を向上させ、ラテンアメリカの先住民やアフリカ系人口集団を含む歴史的に恵まれない集団の特別なニーズに対応することを含んでいた。

10 外交政策と関連した用語(2008)のもう1つの用法

2008年初頭、「ワシントン・コンセンサス」という用語は、一般的にはアメリカの外交政策にそして特定的には中東政策に対するアメリカの主流派メディアの報道を分析するための手段として異なった意味で用いられていた。「繰り返しのことだが、非常に希な例外として、メディアが疑問を抱かずに繰り返し失敗していることに、いつの時代においてもアメリカ政府の公式見解である「ワシントン・コンセンサス」に疑念を抱くことが挙げられる」[51]。シンジケーティッド・コラムニストのウィリアム・プファフによれば、外交問題に対するアメリカの主流派メディアの中にあるワシントンの意思に基づいた中道主義は例外というよりむしろ慣例であった。「アメリカにおける国際情勢の報道はほぼ完全にワシントン主導であった。それは、外交問題についての疑問とは国内政治やしっかりとした政策の位置づけに基づいて立案されたワシントンの疑問であることを示していた。このことは情報を与えない回答を促し、ワシントンにとって不要で不快である見解に水を差していた」[52]。外交政策における経済的論争のように、用語の用法は、語られるものより語られないもののほうが関連性が強いものになっていた。

別の名称になるが同様の見解は、進歩的にメディアを批判する組織であるFairness & Accuracy In Reporting (FAIR)によって行われていた。彼らは「ニュースにおいて何が間違っているのか?」といった疑問の背景にある9つの「課題分野」のうちの1つとして「公式アジェンダ」と記していた。彼らは以下のように記していた。「報道は政府と敵対関係にあると主張しているにもかかわらず、実際のところ一般的に言えばアメリカのメディアはワシントンの公式見解に追随していた。このことは特に戦時や外交政策における報道において顕著であったが、国内の論争でさえ、議論の幅は通常、民主党や共和党のリーダーシップの違いといった比較的狭い範囲に落ち込んでいた」[54]。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Consensus_de_Washington

ワシントン・コンセンサス

ワシントン・コンセンサスはワシントンに本拠を置く国際金融機関(世界銀行、国際通貨基金)やアメリカ財務省によって支持された債務問題を抱えた経済(ラテンアメリカを含む)に適用される標準的な対処法になる。それはエコノミストであるジョン・ウィリアムソン[1]によって1989年に発表された見解を具体化しており、シカゴ学派のイデオロギーによって強く感化された10の提案(以下を参照せよ)を支持していた。

1 国家の債務危機を解決する方法

ラテンアメリカにおける1980年代の「失われた10年」は深刻な経済危機である壊滅的なハイパーインフレーション、社会的崩壊、政治的不安定といった特徴を有していた。金融市場に関する対外債務の危機は、先進国へ退避した年平均250億ドルに及ぶ金融資産の(負の)純移転をともなう、ラテンアメリカからの対外投資の避難を示していた[2]。

景気後退やハイパーインフレーションにともなう債務危機に直面した国家に勧告された改革の「パッケージ」は、10の提案を行ったエコノミストであるジョン・ウィリアムソンの1989年の発表の中にまとめられていた。

厳格な財政規律。

この財政規律は、投資に対する高い収益率や所得不平等を改善する機会(基本的な医療サービス、初等教育、インフラ整備)を提供する分野に公共支出を振り分けることを含んでいた。

税制改革(課税ベースの拡大、より低い限界税率)。

金利の自由化。

競争的な為替レート。

対外貿易の自由化。

対外直接投資に対する障壁の撤廃。

国家による独占、資本参加、事業の民営化は、イデオロギー的には適切でない株主の例としてみなされ、現実的にはその影響力を考慮していた。

市場の規制緩和(参入・退出障壁の撤廃)。

知的財産権を含む所有権の保護。

このプログラムに賛成する議論の1つは、肥大化し、時には腐敗した政府を再建することを含めていた。

2 批判

国際通貨基金や世界銀行は、これらの原則に基づいた政策を遵守する政府に対し融資を効果的に与えていた。

ソビエトの共産主義の崩壊にともなうイデオロギー的な世界危機を追い風として、自由市場に感化されたこれらの提案は、(選択的ではあるが)多くの国々で、異なった成功の度合いを示しながらも実施されていた。

エコノミストたちのコンセンサスから離れ、ワシントン・コンセンサスはジャグディーシュ・バグワティーやノーベル賞受賞者であるジョセフ・スティグリッツのように多数のエコノミストたちによって否定されている点を含んでおり、スティグリッツは『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』という著作の中で厳しく批判していた。ワシントン・コンセンサスは同様に反グローバル主義者たちからも批判されていた。共産主義者による反対の枠組みが実質的に廃れている一方、そのコンセンサスに対する代わりの声が状況を打破するために長い葛藤を続けていた。

原理主義的な規制のない資本主義と共産主義の間で混合された見解として描かれる代替案はポスト・ケインジアンやグローバルな正義によって進化を遂げていた。「世界中で中所得国である10ヶ国が1994年から1999年の間に深刻な金融危機を経験しており、生活水準を低下させ、時には政府が崩壊し、数百万人の人々の苦境を悪化させていた。意思決定者たちは突然金融危機の波及の恐れに直面し、エコノミストたちは規制緩和や自由化のペースやそれに隷従された状況に疑念を呈していた。」[3]

3 国際金融機関の立場の変化

ワシントン・コンセンサスの実施に責任がある国際的金融機関(IMFや世界銀行)は2000年代後半から彼らの主張や政策に変更を加えていた。

2007年の世界銀行による世界開発報告によれば、ワシントン・コンセンサスに随う主要な機関の1つが政府の介入の必要性を認めていた[4]。2008年のマイケル・スペンスを議長にする成長と開発に関する委員会のレポートは、貧困を削減するために強い国家が必要とされていると結論づけていた[5]。

2008年の危機を通じてIMFは、不況を避けるために財政赤字を含む予算の編成を国家に求めていた。2008年から2009年までの間におけるIMFの19のプランの内16において、社会保障のための支出を増加させることが勧告されていた。結局のところIMFの専務理事は、資本移動の自由が経済を危機に直面させ、資本移動に対し課税する必要があるかもしれないと認識していた[5]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Washington_Consensus

ワシントン・コンセンサス

ワシントン・コンセンサスという用語は多くの経済政策を指しており、まず開発経済の分野において政府は経済的安定と成長を促す必要があった。この考え方は長い間IMFや世界銀行によって擁護され、支持されてきた。

1 歴史

ラテンアメリカの債務危機の結果として、IMFや世界銀行は債務の支払いを再建する政策を採用していた。このことを背景にこれらの国々が構造改革を実施することを条件にして、IMFはラテンアメリカの国々に融資を行ってきた。構造改革プログラムの実施を通じて、彼らはラテンアメリカの経済エリートと定期的に協議することを促してきた。

これらの構造改革プログラムはワシントン・コンセンサスの実施として理解されており、それはアメリカの政治に対する経済力を背景にした覇権的な政治プログラムであり、IMF、世界銀行、アメリカ財務省、多くのワシントンのシンクタンクにより組織されていた。経済政策に対する覇権的な考えは、サプライサイドの政策、自由貿易、輸出志向の経済政策のような考えに対する「ニューライト」(レーガノミクス、サッチャリズム)の隆盛以降ずっと継続していた[1]。個々の対処法はワシントン・コンセンサスに対応する構造改革のための政策を課していた[2]。

財政、信用、金融政策を通じた政府支出に対する需要抑制と削減。

為替レートの調整(切り下げ)や経済における資源の利用の効率性を改善すること(合理化や費用をそれほど要しない経済)。

貿易障壁や為替コントロールを撤廃し、輸出インセンティブを高めることによる貿易の自由化。

市場と価格に対する規制緩和(しばしば生活必需品に対する補助金の廃止を意味している)。

歳出削減。

国有企業の民営化。

官僚制。

補助金の削減。

ワシントンにおける政治的コンセンサスは、マクロ経済の安定を達成し、ラテンアメリカ諸国における極端な保護主義を抑制し、グローバルな貿易と対外投資の潜在的発展を促すための分かりやすい方法を示していた。さらに1990年代においてワシントンでは、グローバル化や改革が高い経済成長を達成するのみならず、貧困を大幅に削減し、所得分布を平準化することも期待されていた。

これらの要望と1980年代の新自由主義的政策との間には一致点があり、そのことは規制の手を離れるものであった[3]。

ワシントン・コンセンサスという用語は1990年にワシントンD.C.で開かれた会議においてジョン・ウィリアムソンが提唱した概念であった。そこでラテンアメリカやカリブ海の政策担当者たち(国際機関やアカデミズムの関係者たち)は、ラテンアメリカの経済政策における進歩を評価しようとしていた。ジョン・ウィリアムソンは、ワシントン・コンセンサスという用語が今日の用法と反対しており、市場原理主義を意味していなかったことを強調していた[4]。

「私はもちろん、私の用語が資本の自由化(...意識的に除外していた)、マネタリズム、サプライサイド経済学、最小国家(福祉の提供や所得の再分配を除外した国家)のような政策を含める意図をもっておらず、それらを私は本質的に新自由主義の考え方とみなしていた。」

ワシントン・コンセンサスはテキーラ危機や直後に生じたアジア通貨危機の中で窮地に直面し、それは金融危機が新しい様相を呈していたからであるが、健全なマクロ指標を示す国々(GDPの成長率、インフレ、公的支出の予算に占めるバランス)において、それはさらにIMFの構造改革の模範国とみなされていたが、特に経験したことのない様相と関連しているとも思われていた[5]。

2 批判

エルナンド・デ・ソトは資本の自由に関する著作の中でこれらの対処法の適用だけでは不十分であると説明していた。ラテンアメリカに欠けているものとして繁栄を創造するために定められた財産権、契約する権利、企業構造が挙げられていた。

ジョセフ・E・スティグリッツはグローバリズムに関する著作の中でワシントン・コンセンサスの処方箋を批判していた。彼は「これらの勧告はもし適切に実施されるならば非常に有益であるが[...]、IMFはこれらのガイドラインをそれ自体を目的として理解するよりむしろ衡平で維持可能な成長のための手段として考慮していた」と記していた[6]。彼は「経済理論が重要で有益な代替手段を展開しているにもかかわらず、IMFがこれらの目標に盲目的であった」ことを批判していた[7]。グローバリズムに関する最近の著作の中で彼は、ワシントン・コンセンサスは完全競争や完全情報を含む理想論に基づいており「特に発展途上国にとって現実から程遠く、関連性がほとんどないものであった」と批判していた[8]。中国のようなこれらの勧告に応じない国々は経済的に非常にプラスの発展をしており、アフリカやラテンアメリカのような勧告を受け入れた国々はより低い成長率を示していた。スティグリッツは4つの主要な批判を展開していた[9]。

国家の役割の縮小は常に、民間セクターが対応する業績を上げることにつながっている訳ではない。したがって西アフリカにおける販売手数料の廃止は、十分な輸送手段を所有している数少ない豊かな農家が独占体制を築き上げることを促していた。他の農家の状況はそれによって大幅に悪化していた。

国家の役割の縮小によって新興市場はすべての潜在的供給者たちに開かれることが確認されるはずであったが、これによりロシアにおける民営化は、良く機能する市場の出現よりむしろ、寡占の出現とそれにともなう市場の歪みや所得の不平等を生み出していた。

ワシントン・コンセンサスは批判抜きに、あらゆる人口における経済成長が達成されるだろうということを仮定していた(トリクルダウン理論)。対照的にスティグリッツは、特に発展途上国における経済成長は政治的不安定の結果として社会的不平等を悪化させることを促し、経済を損なうだろうと記していた。十分な社会政策によって、この事態を避けることが可能であった。極端な例として彼は、IMFが金融危機に直面した国々に対して食糧補助金の廃止を求めていたことに言及していた。

各国の信用状態は同様に経済危機にあると認識していた国々の財政に極端な厳格さを求めていた。危機は悪化し、不況になだれ込む恐れも存在していた。

スティグリッツは2007年の金融危機の経験をワシントン・コンセンサスに基づく政策や「背景にある市場原理主義的なイデオロギー」が「終焉を迎えた」ものとして認識していた[10]。

ダニ・ロドリックは、財産権、強い通貨、政府の支払い能力、市場に基づいたインセンティブのようなワシントン・コンセンサスの背景にある原則は成長の達成に必要なものであるが、ワシントン・コンセンサスに基づく具体的なアクション・プランを通じて達成することはないだろうといったことを強調していた。それ程成功していないラテンアメリカの多くの国々と中国や韓国のような繁栄しているアジアの国々との間には、追求される具体的な開発戦略において大きな違いが存在していた。ロドリックは例えば、原理主義的な貿易の自由化が経済発展に好ましい影響を及ぼすだろうとは考えていなかった。産業政策が開放にともなう多くの成功を示すケースの前提になっているかもしれなかった。そのためロドリックは発展途上国に制度的柔軟さを許容することを論じていた。ワシントン・コンセンサスのパッケージにおける対処法はめったに特定の地域の状況や制約に完全に合致することはなかった[11]。

ジャン=フランソワ・カーンによれば、自由主義はコングロマリットに対し公正な競争を強制する能力(独占禁止法やそれを実施する強い国家)を有する上部構造を仮定しているが、新自由主義はそれに疑問を投げかけ、暗黙の協定や需要が決定しない相場により作り上げられたいくつかの寡占による支配の利益のために自由主義に対し結局のところ矛盾を引き起こしていたことになるが、「世界の商品化」とその独占・寡占に対する危機感が1980年代以降の新自由主義がもたらした好ましくない結果の1つに含まれるだろうと考えることがあった。

ジャック・シラクが2005年に「自由主義は共産主義と同じくらい惨憺たるものである」と述べており、2007年に「自由主義は人間の思考の堕落である」と付け加えていたことや、2008年5月のベルトラン・ドラノエによる「サルコジズムに示される抑制された独裁体制は徹底的に反自由主義の立場だった」との言葉は、フランスが新自由主義の危うさを政治的に認識していた上での言葉になるだろうと考えることがあった。

ルートヴィヒ・エアハルトによれば「かつて理論が時代の様子を正しく解釈しており、それらの知見が適切な経済社会政策に新たな推進力を与えていたとき、今日の新自由主義者やオルドリベラリストのような人間の思想に十分な価値があった。そして経済政策にいつも多くの社会政策を強調していた」との見解があるが、オルドリベラリズムに見られる新自由主義と1980年代以降の新自由主義の根本的な違いは社会政策の意義をどれほど切実に認識しているか否かの区別になり、現実は多様化しており、それゆえ十分に人間が実体経済を認識できないほどの情報量の中で限定的に合理的判断を下し続けていることの危うさ、つまり政策担当者による間違った経済政策の歴史といったものを学ぶ必要性が問われているかもしれないと考えることがあった。

ハイエクによれば「誰もがそれ以下に落ち込む必要がない」最低所得が主張されており、この最低所得保障は社会における明白な義務であり、犯罪予防のためにも用いられるだろうといったことを考慮すると、社会保障を充実させることは自由の基盤を守ることでもあるとするならば、1980年代以降の新自由主義の誤りの原因の1つはそこにも起因していないだろうかと考えることがあった。

つまり1980年代以降の新自由主義は原理的な立場のため、オイケン、レプケ、リュストウ、ミュラー=アルマックとの関連を見出すことができなくなっていることが問題の1つに含まれるだろうと考えている。

事実、1973年以降のピノチェトの下で行われた経済政策がフリードマンやハイエクの理論をより原理主義的にしたものであり、結果として専制体制の中で経済における国家の後退が生じたことや、軍事政権が経済政策のプロパガンダの目的のために新自由主義と関連した社会的市場経済という言葉を用いたことを、現代の反面教師として役立てることも可能であろうと考えることがあった。

アンドレアス・レナーによる、新自由主義が狭い視野の経済政策を目標にした政治的スローガンとしてその言葉を利用しており、社会や環境保護における課題を解決せず、むしろ悪化させていたことも同様であろう。

自由市場の支持者が、新自由主義という言葉を否定的な意味のために避けており、他の言葉を探し、例えばジョン・ウィリアムソンがワシントン・コンセンサスという言葉を採用していたことは、それでもなお現在の世界における権益構造を維持し続けたいとのエリート層や富裕層側の願いが表れているからでもあろうが、問題の根深さを伺わせることがあり、今回の記事のタイトルにつながる経緯になった。

そしてノーム・チョムスキーによれば、新自由主義がロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーによるグローバルな覇権主義から長らく続いている数々の事実を示しており、このことは大多数を犠牲にして少数が特権を享受していることを意味しており、大企業とそのカルテルはアメリカの政治を支配し、自由市場は少なくとも競争的なシステムを生み出しておらず、大企業の政治的影響力を通じて民主主義が損なわれ、アメリカ政府が大企業を補助金や輸入関税を通じて助けていたことは、ワシントン・コンセンサスを通じて健全な市民社会の発展を阻害する要因に新自由主義に基づく数々の政策を付け加えることを妥当ならしめるだろうと考えることがあった。

他方で環境保護主義者による、市場に対する規制緩和、民営化の推進、国家の役割の縮小を通じて生じたグローバル経済が、私たちの地球における生態系のバランスや自然の多様性に対する脅威として眺められる視点も同様の経過に含まれるだろう。

新自由主義はすべての人々に恩恵をもたらすように機能しておらず、国内の異なる社会階層にある人々の格差や富裕国と恵まれない国々との間の格差を助長しており、この政策は多数の人々を犠牲にして一部の国々や多国籍企業の富を増加させていたにすぎないとの見解や、再生することができない資源に損害を与え、負の外部性を生じさせることにより地球全体を犠牲にして、富裕化のプロセスが進行していたとの見解は、現在のウォール街のデモを始めとして世界的に生じている状況の背景を説明する1つの要因になるだろうか。

ナオミ・クラインによる、戦争や災害のように惨事を通じた混乱やショックを利用し、メディアを通じて、債務(世界銀行、WTO、IMF)を口実に一般の人々の利益に反し多国籍企業や圧力団体の利益に合致する自由主義の改革を推し進めるように主要な金融機関が小国である政府に圧力をかけるといった戦略の中に破綻の徴候を認めることができるか否かは、ギリシアの問題でも表面化することになるかもしれないが、今後に依存する面が多分にあり、注視していく必要があるだろう。

新自由主義に基づく経済政策が多くの第三世界(例えばミャンマーやパキスタン)そして社会主義から脱したヨーロッパの中部や東部の国々において採用されており、主な国際機関(世界銀行、WTO、IMF)に対するアクセスの後にその政策を迫られていたことを考慮すると、これも同様に考えることがあり、同時にその是正の道を考えるときがあった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツ、イタリアのWikipediaの「新自由主義」や「反自由主義」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Néolibéralisme

新自由主義

新自由主義という言葉は、リベラルの影響に関する多次元的な分析を示すために今日用いられており、一般的に1945年以後の先進国における社会保障の発展や経済に対する政府の介入の増大を批判することを支持している[1]。しかしこの分析は個人の自由に基づく市場の経済効率性を考慮することにより市場の意義を擁護しており、経済活動に対する国家の介入を制限することを勧めている。この言葉は軽蔑的な意味合いを有しており、非常に異なる学派の分析を含んでいる。この言葉は現代の自由主義に対する批判的な潮流によって一般的に用いられており、一方この言葉によって示される分析の大部分はそれを認めることを拒否している。

「新自由主義」の意味は時代によって変わり、この言葉はコンセンサスから隔たりがあり、その使用にあたり慎重さが求められるのは、それが異なった意味の中で変遷しているからである。

1844年に登場したとき、その言葉は国家の介入に対する制限を認める自由主義の様相を十分に一般的な方法で示していた[2]。

同様の背景で30年代末に、オーギュスト・ドトゥーフやルイ・マーリオのような著名なフランスの経済学者はレッセフェール(マンチェスター学派とも呼ばれる)の同意語ではない自由主義の様相を示すためにこの言葉を用いていた。彼らは、改革において、このシステムは経済や社会における計画について当時流行していた統制経済や計画経済より優れたものになりうるといった事実のみを強調していた。

経済競争におけるフリードリヒ・ハイエクの新自由主義(非常に制限された状況で政府の介入を許容する)はあらゆる国家の介入主義を非難し、リベラルな見解を再評価していた。

60年代や70年代には、この言葉にまったく異なった意味(社会自由主義)が与えられた。この意味でドナルド・モグリッジはジョン・メイナード・ケインズを最初の新自由主義者として示していた[4]。

それにもかかわらず自由主義のこの様態は比較することが興味深いドイツのオルドリベラリズムと同じ時代に現れていた。

1 フランスの新自由主義(1938年から1960年まで)

フランスにおける新自由主義の潮流は1938年から1960年代後半までにウォルター・リップマン・シンポジウムが影響を及ぼした非常に短い期間に見受けることが可能である[5]。この登場は30年代末の計画経済論者や統制経済論者による支配に対応し、現在の問題を処理する最善の方法は自由主義を再評価することであると主張する要求に基づいていた。さらに会議やディベートの参加者のリストに見られるように、国際的なアジェンダや全体主義に対抗する意思が十分に異なった学派間における対話を推し進める決定的要因になっていた。

1.1 新自由主義とウォルター・リップマン・シンポジウム

リップマン・シンポジウムに、フランスのリベラル、オーストリア学派であるフリードリヒ・フォン・ハイエクやルートヴィヒ・フォン・ミーゼスに影響されたメンバー、戦後のドイツにおけるオルドリベラリズムに影響された人々、ヴィルヘルム・レプケ、アレクサンダー・リュストウ(この運動の最大の理論家であるヴァルター・オイケンはドイツを離れることを許されていなかった[6])、さまざまな国々からの参加者が集っていた。

1.1.1 新自由主義と自由主義においてどちらを選択するか?

事実、名称の変更の問題は、自由主義の衰退は外部環境に依存しているのか、または第一次世界大戦後の現実に19世紀型の自由主義が適応していないことにそれは関連しているのかといった問いに対する答えを含んでいた。ミーゼスにとって、それは、扱うことができないリベラルのドクトリンの外側にある事実によるものであることは明白だった[7]。オルドリベラリストやフランスの経済学者の大半にとっては、反対に、リベラルのドクトリンの一部を再評価しなければならないことが示されていた。

1.1.2 フランスの新自由主義における創始者たち

フランソワ・ビルガーはクレメント・コルソンの弟子であるジャック・リュエフ、モーリス・アレ、ルイ・ボーダン、ダニエル・ビレーのような主要な創始者の1人である[8]。この潮流に加え、ジャック・クロのような創始者においては、自由主義はケインズの理論に貢献する必要があった[9]。フランソワ・ビルガーは新自由主義者として考慮されておらず、彼自身そう主張していないように思われた。

1.2 抵抗運動の間の構造改革に関する議論

クーセルにとっては抵抗運動の間、社会党の少数派である統制経済主義者(アンドレ・フィリップ、ジョージ・ボリス、ジュール・モック、ピエール・マンデス・フランス)と新自由主義者(エチエンヌ・イルシュ、ルネ・クルタン、マキシム・ブロック=マスカール、ルネ・プレヴァン)との間に論争があった[10]。前者は社会主義的枠組みを導入することを願っており、アメリカやイギリスに懐疑的だった。後者は市場と民営化が経済の核になると考えており、国際的な政策においてヨーロッパと大西洋の友好に肯定的だった。しかし戦後クーセルにとっての改革の実現においてこの議論は中心になく、むしろ共産党とド・ゴール将軍の影響が中心にあった。

1.3 フランスの新自由主義とドイツのオルドリベラリズム

2003年に議事録が公開された2000年開催のシンポジウムの報告の中で、フランソワ・ビルガーは集中と分散の論点を指摘しながらフランスの新自由主義とドイツのオルドリベラリズムを比較していた。分散にかかわる論点は両国における異なったアプローチを説明しているように思われた。

1.3.1 集中

彼らは、生産と貿易の自由、自由競争、価格メカニズムの自由な機能、金融システムの安定性を信じている。

彼らは、レッセ・フェールの自由主義は壊れやすいと考えている。効率的で安定した市場経済の確立はそれゆえ、財産、契約、破産、特許、競争、貨幣と信用の創造、財政システム、労働、社会的連帯に対する精緻な法律の制定や、同様にシステムを良く機能させるための国家による経済や社会に対する適切な介入に対し十分に配慮した説明を求めている[6]。

1.3.2 分散

1.3.2.1 理論の分散

「19世紀以来、フランスの経済学は主に実体経済のファンダメンタルズに対する数理モデルから派生した抽象的、演繹的アプローチによって特徴づけられていた。」このアプローチは、アルセーヌ・デュピュイ、オーギュスタン・クールノー、レオン・ワルラス、クレメント・コルソンによって示されてた。新自由主義者の中で、ジャック・リュエフとモーリス・アレは「社会物理を解明するこの伝統」を追求していた[12]。

ドイツは反対にヴィルヘルム・ロッシャー、ブルーノ・ヒルデブラント、カール・クニース、グスタフ・フォン・シュモラー、マックス・ウェーバーの伝統から現実と過去の傾向から導かれる帰納的で具体的なアプローチを採用していた。ビルガーによれば、これらの創始者は「ドイツの歴史家とドイツの理論家の間における方法論をめぐる論争を克服する意思を示していた」ヴァルター・オイケンに注目していた[13]。

1.3.2.2 哲学的にそして倫理的に異なった選択

フランスでは、ルイ・ボーダンやダニエル・ビレーによって、個人の自由、個人の自由に対する国家の干渉に対する不信、個人の主権が強調されていた[13]。

オルドリベラリストにとって、秩序と社会調和の概念が個人の自由に対する考え方と競合していた。「カントによれば、彼らは道徳に対する敬意の中で自由を擁護しており、言い換えるならば絶対的な自由でなくよく機能する自由のみに言及していた」[14]。

1.3.2.3 一般的な活動に関する異なった考え方

フランスの新自由主義者は財政と金融政策における時宜を失した政府の介入に関連した障害に非常に敏感だった。反対に、限界費用の管理を尊重するならば、彼らは大きな政府を維持することに反対していなかった。彼らはカルテルや寡占の形成にいつも反対している訳ではなかった。

オルドリベラリストはカルテルの禁止に基づき公正な市場の法制度を尊重する必要性についてより厳しい態度を示していた。「人間に対する好ましくない影響を修正するだけでなく、自由で公正な社会の発展に対して好ましい社会状況を創造するためにも、社会政策を実施することによってこの競争経済を確立すること」は妥当であると彼らは同様に考えていた[14]。

1.4 60年代後半にフランスの新自由主義が停滞した理由

多くの理由が[15]、60年代後半のフランスにおける新自由主義の停滞[16]がオルドリベラリズムの衰退とともに生じていることを説明している。

創始者の世代が移り変わり、事実と状況は進化していた。

20世紀のフランスの新自由主義と関係を断ち、バスティアのような19世紀のフランスの創始者と同様にオーストリアやアメリカに基づいたフランスのリベラリズムを再構築するフランスのリベラルの意思が存在していた[15]。

グランゼコールと大学との間に大きな隔たりが存在していた[15]。フランスの新自由主義はポリテクニーク出身者(第一世代としてアーネスト・メルシエ、ルイ・マーリオ、オーギュスト・ドトゥーフ、第二世代としてジャック・リュエフ、モーリス・アレ)と大学出身者であるルイ・ボーダン、ルネ・クルタン、ダニエル・ビレーに依存していた。

人はある方法で新自由主義はそれらの目標の大半を達成していたと付け加えるかもしれない。さらにフランスにおける新自由主義の創始者たちがある経済学派に属することの本当の意味を理解していたかについては疑問の余地が残っている。

2 言葉の新しい用法

1970年代後半からアングロサクソンの世界で、1990年代からヨーロッパで、ネオリベラリズムという言葉が(同様に「超自由主義」や「過度な自由主義」と呼ばれることがある[17])ケインズの考えに対する、また国家の介入に対するより一般的な方法の計画経済に対するリベラルな政策を示していた。このドクトリンはイギリスのマーガレット・サッチャー、1980年代後半のアメリカにおけるロナルド・レーガン、チリのピノチェト、だけでなく、IMF、WTO、世界銀行[18]やある程度は欧州連合において提唱されていた。この言葉はしばしば左派を示すために用いられたが、語の一部は「保守派」を示す右派を指していた。

その支持者にとって、それはその思考と行動において一新された自由主義を推し進めており、マネタリズムとサプライサイド経済学といった2本の主要な柱に基づいていた。それを非難する人々にとって、「新自由主義」は社会の不平等を増大させ、国家の主権を縮小させ[19]、途上国の発展を妨げていた。

2.1 「新自由主義」の政治学

これらの政策はほとんどの国におけるケインジアンの理論や国家の強い介入を植え付けた支配的な思想に対する根本的な批判を展開していた。より効率的な行政とより強い経済を目指すといった思想に影響され、それらはその代わりに経済において民間部門の利益のために公的部門の影響を縮小させることを目指していた[20]。

2.1.1 マネタリズムの推進

新自由主義はマネタリストの理論を擁護しており、それはシカゴ学派で構成されていたが、それによれば景気の波は生じるものであり、インフレーションは利子率を操作する政策によって抑えることができるとされていた。

2.1.2 サプライサイド経済の推進

ケインジアンにおける「需要」の刺激でなく供給の刺激が、もし景気回復が必要ならば、一般経済の支援のための重要な鍵になるとして示されていた。これは規制緩和と民間主導を目指す経済主体が直面するすべての「制約」を取り除くことによって達成された(民営化、減税、労働市場の流動化、福祉部門の縮小、公共支出の削減、国家予算の均衡回帰、倹約の奨励...)。

2.1.3 ワシントン・コンセンサス

ジョン・ウィリアムソン[22]によればワシントン・コンセンサス[21]は「新自由主義」を示す提案について10の論点に要約される。

財政政策について、赤字は短期的に企業活動や失業に対しプラスの効果を有しておらず、それはそれが将来世代の責任によるものであることによる。長期においてそれはインフレーションを引き起こし、生産性と企業活動を減少させる。そのためそれは避けられるべきであり、安定化が求められるとき以外用いられるべきではない。

政府支出は、教育、一般の人々の健康、インフラストラクチャーといった経済成長や低所得者の支援の鍵となる要素に対しその増大する活動を制限しなければならない。他の補助金(特に国際援助活動の論理によるもの)は有害である。

財政政策について、課税は広い課税対象と低い税率に基づかなければならず、それはイノヴェーションと効率性を損なわないためである。

金融政策について、利子率は市場で決定されなければならず、プラスであるが程々でなければならない。

通貨間の固定為替レートを禁止する。

国内と海外における経済活動の自由化について、これは競争と長期の経済成長を促すものである。私たちは輸入や輸出の割当量を取り除く必要があり、関税を低減し縮小する必要がある...

資本の自由な移動は投資を促す。

公営企業の民営化や公的独占の解体は市場の効率性や経済主体が利用できる選択の可能性を改善する。

規制緩和について、安全、環境保護、消費者や投資家の保護に関する規制を例外として、競争を妨げ、市場に参入する競争者を除外するあらゆる規制は取り除かれなければならない。

財産権は法的に保障されていなければならない。

金融化を促す。

2.2 新自由主義と時に呼ばれる経済学派

今日「新自由主義」という言葉はフリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンのようなオーストリア学派やシカゴ学派に見られる類似していないリベラル経済の学派を示すために用いられており、2人はその言葉を用いていない。

しかしアメリカのケインズ主義において、古典的な自由主義やマネタリズムと対比して、新自由主義と呼ぶことがあるのは、ジョン・メイナード・ケインズが介入主義者のドクトリンを支持するために「新しい自由」とそれを呼んでいたことによる。しかしアングロサクソンの思想家はこの「新しい自由主義」を新自由主義と区別しており、後者の使用はケインズによって否定されており、実際のところ彼は自由主義の再来か社会民主運動を含むものとして考えていた。

ヨーロッパ大陸と北米の間にある「リベラル」の意味についての大きな隔たりはアメリカにおける「リベラル」という言葉の意味論的進化によって説明される。それは20世紀前半に多くのアメリカの社会主義者や社会民主主義者によって徐々に用いられ、ヨーロッパの社会主義の影響を打ち消していた。この発言はリバタリアンであるデヴィッド・フリードマンによってなされていた。「社会主義を浸透させる効果的な戦術の1つは、特にアメリカでは、肯定的な意味を有する単語に結びつけることだった。最も良い例はリベラルという言葉である。19世紀にリベラルはレッセフェールの経済、自由貿易、[...]市民の自由に関する政策を肯定していた。この言葉は非常に肯定的な意味を有し、今日でさえ[...]不自由はつねに悪い意味を示している。社会主義者たちは自由主義経済の政策に反対していた。自由主義は正しいと言って成功した人々は彼らをリベラルと呼び、その反対を「保守的である」と呼んでいた。」[23] リベラルという言葉の認識におけるこの違いは新自由主義という言葉の認識における違いを生じさせていた。

2.3 新古典派の自由主義としての新自由主義

1998年3月付けのル・モンド・ディプロマティークの記事の中でピエール・ブルデューは、彼が「純粋な理論」に対するワルラシアンの神話と呼んでいるものの中に「新自由主義の本質」を眺めているように思われる[24]。

2.4 新自由主義は資本主義の現代版か?

財にもはや限定することなく他の分野においても拡大している開かれたグローバル・マーケットの拡大を許容するWTOのような巨大な体制の中で交渉することによって、現代の資本主義は貿易の自由を拡大する傾向にある。これらの組織によって擁護される自由化は国内の規制を取り除くことを含んでいる。サービスの貿易に関する一般協定の発展や、以前は国家に帰属していた健康、教育、社会サービスのような市場に対する競争の導入により、サービスが関心の対象となった。このように資本主義は人間の生活の新しい分野にまで拡大している。ある人々は「世界の商品化」という言葉を用い、資本主義の発展に対する反対の意思を強調している。

資本は以前ほど当該国でのビジネスに束縛されていない。「新自由主義」に影響された現代の資本主義はグローバルマーケットで実体をもたない資本(株式)を保有し循環させる能力を必要としている。これらの資本取引は物理的移動を伴わず、単に世界の銀行のコンピュータ上における電子的記録の移動になる。取引可能な資産の市場は新しい分野に拡大され、水、電気、等が挙げられる。それはますます拡大し、例えば炭素排出権のような汚染する権利にまで広がっている。

2.5 批判されている考え方

多くの人々が責任を十分に負っていないことから「新自由主義者」として批判されている。自由主義の本質と矛盾するドクトリンから、反自由主義者たちは自由主義と新自由主義を批判している。

フランスのジャーナリストであるジャン=フランソワ・カーンは、彼が新自由主義と呼ぶ自由主義より新しい思想は実際のところ反自由主義と見間違う声明を続けている事実があると述べている。つまり自由主義は彼によればコングロマリットに対し公正な競争を強制する能力(独占禁止法やそれを実施する強い国家)を有する上部構造を仮定しているが、この新しい動きは両者に疑問を投げかけ、暗黙の協定や需要が決定しない相場により作り上げられたいくつかの寡占による支配の利益のために自由主義に対し結局のところ矛盾を引き起こしている。

ピエール=アンドレ・タギエフは、新自由主義は「扇動的な新左派」にとって災いの最後の呼称であると答え、一方アラン・ウォルフェルスペルジェは「超反自由主義」のことを話していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Antilibéralisme

反自由主義

反自由主義はリベラルな思想のすべてまたは一部、特に今日の自由主義経済に対するさまざまな反対によって特徴づけられる政治的な潮流である。

1 多様性

反自由主義の潮流は多様であり、第一に自由主義は唯一のものでなく、第二に提案されている代替案が多様であるからである。

1.1 自由主義の多様性

著作や著者によって定められているリベラルの定義は存在していない。ジョン・ロックやアレクシス・ド・トクヴィルの思想とアイン・ランドやデヴィッド・フリードマンの思想の間には大きな違いが存在している。フリードリヒ・ハイエクはこう記している。「普遍のドグマをつくることを許容する自由主義の原則の中には何もない。一度たりとも安定し固定されたルールが存在したことはなかった。基本的な原則は存在しており、取引において、私たちは自発的な社会の力を最大限に利用し、強制されることを最小限に抑制しようとしていることが挙げられる。」[1]

思想に関し一般的に多くの学派が存在しており、以下を含んでいる。

古典的な自由主義者は三権分立に関心がある(ジョン・ロック、ベンジャミン・コンスタン、カール・ポパー、フリードリヒ・ハイエク、ジョン・スチュアート・ミル)。

最小国家主義者は規制の機能に限定された国家の存在を擁護している(ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、フレデリック・バスティア、ハーバート・スペンサー、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス)。

アナルコキャピタリストは国家は非合法であり、すべての機能が民間企業によって運営されることが望ましいと考えており、そこには司法、内部や外部における安全保障が含まれている(ギュスターヴ・ド・モリナーリ、マリー・ロスバード、デヴィッド・フリードマン)。これらの最後の2つのカテゴリーはリバタリアニズムに分類されることができる。

さらにほぼ常に自由主義は同じ問題に対し多くの解決策や同様に反対の解決策を許容してきており、決断するために別の考え方から援助を求める必要があり、リベラルな思想の多様性を増大させている。例えば国際貿易は、自由貿易を絶対的な存在としてみなしているが複雑な税関の組織も同様であるといったことを含めて、多くの主張の対象であった(税率を上げる必要性から、輸入品目に対して課税することは合法的であり、貿易の相手は完全ではなく、それをコントロールする必要があり、世界的な汚染を考慮に入れることは合法的であったこと等)。同様に一部のリベラルは「提携」(労働組合、職人のギルド、企業のカルテル)に対する措置を求めており、反対にこれらの措置を構成する障害物に対して議論を起こしていた。このようにリベラルと呼ばれる人々はすべてに対して合意を形成しておらず、反自由主義者のような一部の人々によって考慮に加えられているかもしれない。

1.2 反自由主義のさまざまな潮流

伝統的なカトリックに対する批判は1864年12月8日のシラブスの公表によりピウス9世の下で最高潮に達していた。彼は「私たちの時代の誤り」と呼んでいるものを批判しており、特に以下のものが挙げられる。「ローマ教皇は進歩、自由主義、現代文明と和解し妥協することができ、しなければならない。」 これは特に公的領域と私的領域(それに宗教は属していた)との分離を示しており、それは当時のリベラルや教会に反対していた。自由主義の本質である良心の自由についての発言に関し、ローマ教皇グレゴリウス16世はピウス9世の前で「誤った不合理な行動基準」であり「妄想」でさえあるとの表現を用いていた。自由主義は「誤りをともなう寛容さ」であるとして同様に批判されていた[2]。フランスでのこの運動の代表者の1人はアントワーヌ・ブラン・サン=ボネになり、その反自由主義の思想は同様に政治や経済の問題を組み込んでいた。この潮流は第一次世界大戦の前夜におけるフランスにおいて意味をなしており、例えば司祭であるエマニュエル・バルビエが宗教的政治的自由主義の批評雑誌を設立していた。

運動に対する反応はヨーロッパの戦間期に発展しており、イタリアでは1925年にムッソリーニ政権がすでに政治面と経済面の双方で同業組合と反自由主義への回帰に向かっていた[3]。ドイツではカール・シュミットのような人々は明確に反自由主義と反マルクス主義のイデオロギーを擁護しており、ナチ党に加わる前の保守的な改革に影響を及ぼしていた[4][5]。それはフランスでは第二次世界大戦中のヴィシー政権の政策によって具体化されていた。「自由主義経済の国際的な破綻」[6]を批判し、マレシャル・ペタンはフランス革命以来決定されてきたリベラルな措置に反対する労働憲章のような措置とともにある同業組合に基づく経済へと再び向かった。アラルド法、オリビエ法、ワルデック・ルソー法など。

歴史家であるゼーブ・シュテルンヘルは政治的自由主義にしか関心がなく、反自由主義である「反主流派」の動きの中にこの運動を統合し、それを彼はフランス革命からネオコンの時代にまで遡っていた。政治的にこの傾向はフランスでは反自由主義の解剖学の著者であるスティーブン・ホームズによればジョゼフ・ド・メーストルから伝統主義者としての反応まで遡ることになる。 

極右のプジャード派の起業家は競争に疑念を呈し、国家の保護を求めていた。

特にフランスでは1995年以来、2003年の年金改革やとりわけ欧州憲法条約に対する国民投票を通じて、今日の反自由主義の運動は展開してきた。反グローバリゼーション運動とフランスにおける反自由主義を掲げるグループは「反」ヨーロッパ運動の間に生まれ、反自由主義左派に属している。彼らはしばしば彼ら自身を「超自由主義」や「新自由主義」と呼ばれるものに代わるものとして眺めている。彼らの反対は本質的に経済問題に対して投げかけられている。この運動は特にPCF、les Alternatifs、LCR党、緑の党、社会党等を含んでいる。私たちはまた、ATTACやコペルニクス財団のような団体を加えることができる。この反自由主義はしばしば実際にはマルクス主義の社会主義者であるアラン・ビールによって強調されるように反資本主義である[9]。

2 反自由主義運動の分析

2.1 リベラルの分析

1927年にリベラリズムの中で記されているオーストリア学派の経済学派であるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスにとって、反自由主義に対する「心理学的」理由は2つの領域にまたがっている。

うまく成されているものに対する憤りと合理的な議論が導き出すだろう感情になる。

「フーリエの複素数」とも示されるが、ミーゼスは、挫かれた願いにより神経質になり、非現実的なイデオロギーに基づくより良い世界の中を浮かんでいると考えているものをそれにより表現している。

最近では、作家でありエッセイストであるギ・ソルマンが、自由主義と反自由主義が特徴づけているものとの違いを強調していた。2007年4月に彼は以下のように述べた。「反ユダヤ主義がユダヤ人とほとんど関係がなく、反米主義が本当のアメリカと離れたものであるのと同じように、反自由主義はフランスの自由主義とほとんど関係がない。この反自由主義は、想像上の話として、それを声高に言う対象について説明していたが、私たちにフランスのリベラルの伝統について何も示していなかった。」[11] 彼は後にこう付け加えた。「反自由主義はいつも惨憺たるものであったが、一方自由主義はイスラムに対してであれそうでないにせよ前に進んでいる。」[12]

ペルーの作家であるマリオ・バルガス・リョサは、反自由主義が極右と極左の接点になっていると述べており、左派は概して「スケープゴート」として作り上げた自由主義に対して繰り返した敵愾心によって極右の反自由主義者と反動主義者を呼び覚ましたと考えていた。さらに反自由主義はバルガス・リョサによるとある知的サークルにとっては過去の共産主義のイデオロギーに取って代わるものとして眺められていた[13]。フランスの哲学者であるジャン=フランソワ・ルヴェルは同様の考えを展開し、自由主義に対する現代の敵愾心は「空想的社会主義後の再評価」に対する願望につながっていると2000年に述べていた[14]。

2.2 反自由主義は陰謀説によって導かれているのか?

ボルケスタイン指令や2004年の欧州条約に関する国民投票のように、さまざまな場面で、ブリュッセル以来「国民に対して」向けられてきた「超自由主義の」計画の反対者による批評は、時には陰謀主義者のビジョンとして描かれてきた。この分析によれば、たとえ彼ら自身が絶対に陰謀ではないと話していたにせよ、そうでないにせよ、この反自由主義はリベラルの陰謀に対する抵抗として考えられてきた[16]。例えば作家でありジャーナリストであるステファン・デニによれば、この見方から「ヨーロッパはリベラルによる陰謀論の中心である」とされている[17]。さらに一般化すると、レゼコーの編集者によれば、フランスにおける「改革」の反対者たちは「リベラルによる大きな陰謀論が彼らを脅かしていると考えている」[18]。ジャーナリストであるジャン・キャトルメールは陰謀論に傾くAcrimedのような協会を批判している[19]。この状況の中で、彼はこの協会の協同推進者であるアンリ・マレの生き生きしたレプリカを描いていた[20]。

パリ政治学院教授のアラン・ウォルフェルスペルジェはさらに一般化して反自由主義の中に陰謀論からさらに進んだ誇大な解釈を眺めている[21]。

フランスのエコノミストであるピエール・カユクは、多面的な考慮を妨げながら、「リベラル」のそして「アングロサクソン」の陰謀があらゆる状況を多元的に決定していることを残念に思っていた。

3 フランスの反自由主義

3.1 政治表明

フランスには排他的なリベラルの大政党は存在しておらず、反自由主義の左派や右派からの声明が聞かれることがある。このことは政治学者であるフィリップ・レイノーにそれがフランスにおける「反自由主義の環境」を支配していると示されている[23]。

同様にジャン=ピエール・シュベヌマンは2006年に「反自由主義で共和制支持のより良い候補者」としての資格を得たが、一方社会党第一書記であるフランソワ・オランドは「私は同じように左派であり反自由主義である」と付け加えた[25]。ジャック・シラクは2005年に「自由主義は共産主義と同じくらい惨憺たるものである」と考えており[26]、2007年に「自由主義は人間の思考の堕落である」と付け加えていた。ジャック・シラクと同じように編集者であるケルドレル・イブはフランスにおける反自由主義の最も決意の固い旗手だった[27]。2008年5月にベルトラン・ドラノエはニコラ・サルコジについて「サルコジズムに示される抑制された独裁体制は徹底的に反自由主義の立場だった」と付け加えていた[28]。

3.2 起源と説明

2つの傾向がフランスにおける反自由主義運動の説明において錯綜しており、ある人々はそれを文化的先祖返りとして眺め、他の人々は純粋に一時的な理由を眺めていた。

もしエリー・アレヴィの定義にしたがうならば、フランスの反自由主義は政治に動機づけられ、権力に対する反対や「チェック・アンド・バランス」のシステムを拒否するフランスの絶対主義者の伝統の中に根付いていると思われた。その結果、国民が階層的にでなく個人が何か別のものや組織にしたがっている限り、フランスにおける反自由主義のある形態が、同様に手際の良くないやり方で、広く認識されたリベラルの意思を示していないことを問題にすることは自由であった。アレクシス・ド・トクヴィルによれば、自由主義経済と重農主義者がフランス革命で伝えたアンシャン・レジームの行政の伝統の回復の混合がフランスの問題の源であると見られていた。政治アナリストであるエズラ・スレイマンは同様にフランスは「自発的な反自由主義」の国であると考えていた[30]。

その反対に、哲学者であるマルセル・ゴーシェは、フランス社会の一部である現代の反自由主義は戦後のブーム後に生まれた新しい世界に直面し「状況のずれや後退に対する認識」を示しており、それに対しそれは代替モデルを有していないと考えていた[31]。反自由主義の精神分析の中で、クリスティアン・ストファエは、国民的な反自由主義が歴史的基礎を有していないことを示すために、バスティア、セー、リュエフとともにフランスの思想におけるリベラルの遺産を同様に強調していた。

3.2.1 反自由主義の政治

エリー・アレヴィによる[32]。「政治的自由主義は道徳上の悲観主義に依存している。人間の性質は本質的に悪であり、国家の本当の関心や個人の本当の関心を理解することは不可能であり、すべての政府は悪である...多様な憲法の思想や複雑な憲法の思想、民主的な要素は貴族的な要素にとって「失敗」であることや逆も同様であること、行政権と司法権、司法権と立法権、行政権と立法権は同じ重みを有しており、それは仕組みの中でバランスを保っている...リベラルな国家は、それが主権のない国家であるかそれが多くの主権を封じ込めているといったことを望むときはいつでも述べることができる国家である。」 しかしフランスでは第三共和制の間でさえ、国家は複数の主権を有することが可能であり、正確に言えば、対等な主体の間に対話が存在する可能性があるといった考えに対する不信があった。

1930年代にアメリカの経済学者であるエドワード・メイソンはフランスの社会主義を研究するためにフランスを訪れ、最終的に十分に近似された話を通じある記事にまとめた。「しかしながらサン=シモンと現代の自由主義は2つのことを願っており、自由な利益に対する制限を課した入念なネットワークが存在している。この2つのドクトリンの間の主な違いはこれらの制限における性質になる。サン=シモンは、社会の利益を阻む特定の利益を妨げるのに十分なほど強い、ビジネスにおけるある種の道徳である倫理の発展の可能性を眺めていた。共通の道徳に関する思想を受け入れることの必要性を強調し、ある場合にはビジネスの倫理を発展させる可能性を認める自由主義は、しかしながら、政府による規制のやり方を構築することの意義を強調していた。サン=シモンも自由主義も政府による企業の支配と所有に対する経済的利潤によって強い印象を与えられていない。」[3]

3.2.2 反自由主義の経済

ミシェル・ゴデにとって、企業、貿易、集中の自由は「フランスでは歪められた形で同一視されてきたが、資本主義にとって他のすべての国ではリベラルは改革派、進歩派、民主派であり、保守派に反対する人々だった」[34]。歴史家であるゼーブ・シュテルンヘルは反自由主義は左派にとって危険なものであると考えており、事実「反自由主義者であると言うことは反資本主義者であると述べていることにしかならず、同時にリベラルの価値観に反対していると述べていることになる」[35]。

オーギュスタン・ランジェとダビッド・テスマルは以下のように考えていた。「自由主義経済を拒否するこの現象について印象づけるものは、それがフランスの特異な点であるといったことである」[36]。著者たちによると、フランスの反自由主義は起源に関して文化的なものではなく、戦後のブームに特に関連していた。1945年以前、自由主義はフランス社会のコンセンサスだったが、自由貿易には反対していた。第二次世界大戦はこのコンセンサスに影響を与え、戦後の強い経済成長が「反自由主義にフランスの有権者の意識を向けさせることになった」。しかしながらこれらの著者たちは、前もって蓄積された富の格差により主に「機械的に」戦後の成長がなされ(戦間期や第二次世界大戦の間)、成長を「効率的に調整した」とされている統制経済の成果によるものではないと考えていた。この「ノスタルジー」は例えば、この時代にアングロ=サクソンの国々で採用された政策と逆に作用し、1981年の国有化の波を説明するだろう[37]。

反自由主義との関係でランジェやテスマルが、フランスのビジネスリーダーが利益を巡る潜在的対立を認識することを拒否していると強調していることは記されるべきであり、反権力の役割を彼らはこう記していた。「多数の従業員を監視する方法に権威を与える言葉は...ボスの仕事になった....フランスは支配層のエリートが率直なところ直面している可能性がある利益の対立を明示的に認識することを拒否していた」[38]。

Enjeux les Échos誌は同様に、反自由主義は自由主義を示すものを不当に扱い非常に遠ざける恐れを鑑みるとフランス特有のことであると考えていた。ジャーナリストであるマリー=ポール・ヴィラールは、自由主義がすべての現代の問題に責任があるとするのはフランスにおいてでしかなく、これが結局のところリベラルの哲学の基礎とほとんど関係がないとするのは仕方がないことでもあると記していた[39]。

エコノミストであるジル・サン・ポールは自由主義に反対する信念の意義とそれらの伝達のメカニズムを強調していた。彼によれば、フランスは「市場経済に対するマイナスの社会的評価によって特徴づけられた。そして改革に対する抵抗を増大させる信用を生み出すシステムが存在していた。この信用は教育システムやメディアといった機関のバイアスによって再生産されていた」[40]。それは、2002年の大統領選挙において、教員の72%が左派の候補者に投票する意思を表明しており、「マルクス主義者」と呼ばれる候補者に対してその13%が賛同していたことを強調する結果になる(反対票はそれぞれ42,89%と13,81%になり、実際全人口を記載したものに対する数字になる)[40]。

フランスとドイツでは、教科書が企業の世界を悪いものとして描いており、学校は「市場経済に対する深刻な嫌悪感を頭の中に植え付けることを手助けしていた」[41][42]。社会学者であるミシェル・ロカールは「全般的にフランスの経済に対する理解のなさ」を残念に思っており、「抽象化と教条主義のレベルが社会的実践の中におけるあらゆる活用を妨げるビジョンを経済における彼らの短い間の仲間から受け継いできた中等教育を終えた学生たちとともに2,3年前に交わした会話を思い出していた」[43]。

この反自由主義はマイナスの結果をもたらす可能性があり、ニコラス・バヴェレズにとって、「反自由主義はフランスの衰退や後退の原理を見出す惨事になっていた」[44]。スイスの新聞であるル・タンによれば、右派と左派からフランスの反自由主義はフランスを動けなくしていた」[45]。モニーク・カント=スペルバーやベルナール・アンリ・レヴィのような哲学者は同様に現在展開されている反自由主義の考え方を批判しており、それは、左派が近代化に取り組み、リベラルの遺産の分け前を要求することを妨げていると考えていた[46][47]。この観点は同様に、左派が特にフランスで「自由主義を愛する」ことを学ばねばならないと考えている経済学者であるアルベルト・アレシナやフランチェスコ・ジャバッチによって共有されており、同じようにとりわけ経済学的含意の中で、彼らによると自由主義は年金や特権に対して反対運動を行っており、「部外者」を保護していることを理由にしている[48]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Neoliberalismus

新自由主義

新自由主義は(古典ギリシャ語のνέος neos「新しい」とラテン語のliberalis「自由に関する」からきており)概念上の造語であり、最初、1938年にフランスのエコノミストであるベルナール・ラヴェルニュが特徴を示し[1]、同じ年にアレクサンダー・リュストウによってドイツの専門用語としてパリで開催されたウォルター・リップマン・シンポジウムにおいて定義されていた[2]。20世紀中頃の自由主義の再来はさまざまな経済的そして政治的概念を含んでいた。数世紀を通じて、古典的自由主義は経済活動に国家が介入することに反対する新自由主義に取って代わられたが、寡占や独占といった不完全競争を是正する介入を肯定しており、経済的自由と政治組織の相互依存関係が強調されていた。

新自由主義という言葉は扱う範囲が広く多様であり、そのため個々の学派や個々人の描写は論争の元になっていた。特にフライブルク学派(オルドリベラリズム)とシカゴ学派は新自由主義学派と呼ばれるが、オーストリア学派のフリードリヒ・フォン・ハイエクも同様であった。主にオルドリベラルでは、彼は社会的市場経済の重要な理論的基礎をなしたとされていた[3][4]。

1960年代にこの言葉は忘れ去られ、それは新自由主義者として振る舞う研究者のつながりが活発でなかったことによる。

1970年代に新自由主義という言葉は再び取り上げられるようになり、意味の変遷を経験した。チリの新自由主義に反対する研究者はその言葉を否定的な意味で用いており、シカゴ・ボーイによるラディカルな改革に影響を及ぼしたシカゴ学派の思想を批判していた[5]。

経済史的観点とは別に、政治的概念、成長モデル、イデオロギー、アカデミズムのパラダイムとして新自由主義という言葉が新たに用いられるようなった[6]。一部の批評家は、自由市場システムの発展に対する不正で反社会的な影響を及ぼしていることを念頭に、その言葉を用いていた。

最近では新自由主義という言葉は基本的に論争の多い概念、論争中の問題、政治的軽視の表現として用いられている[7][8][9]。

1 歴史と展開

19世紀にはすでに古典的自由主義と社会主義からの散発的な批判があった(先駆けとしてのレプケ、ジャン=シャルル=レオナール 、シモンド・ド・シスモンディ、ピエール=ジョゼフ・プルードン、ウィルヘルム・ハインリヒ・リール、ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン、ピエール・ギヨーム・フレデリク・ル・プレイなどが上げられる)。新自由主義の始まりは通常戦間期に遡る。ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フランク・ナイト、エドウィン・キャナンはまだ新自由主義の代表として認知されていなかったが、特にミーゼスは次の世代に大きな影響を及ぼしていた。1920年代に始まる中央による計画経済と金融面での過剰投資に対する彼の批判はリベラルな人々に好意的に受け止められていた[10]。

新自由主義に貢献した最初の学派として、1930年代に起こったフライブルク学派、キャナン学派、シカゴ学派が挙げられる。ヨーロッパの学派は社会主義、共産主義、ナチズムとの対立によって特徴づけられ、同時に古典的自由主義とは一線を画していた。彼らは価格システムに対する政府の介入(例えばニューディール政策)を批判しており、国家の経済力を最大限縮小する市場経済を提案していた[10]。

最初は個々の学派間の交流はほとんどなかったが、アングロサクソン諸国において国家社会主義が導入されてきたので、1930年代においてドイツやオーストリアの新自由主義者たちは変わっていった。最初の国際会議は1938年にパリで開催されたウォルター・リップマン・シンポジウムであり、自由主義の改革のための研究における国際センターになる。ウォルター・リップマン・シンポジウムで新自由主義という言葉を造り上げていた。アレクサンダー・リュストウによる新語は新資本主義、社会的自由主義、左派による自由主義(フランスの左派自由主義)といった代替案に優っていた[11]。その名称は19世紀のレッセ・フェールの自由主義と対比された新しいリベラルの考え方を示していた。しかしすべてが新自由主義という言葉を採用していた訳ではなく、レプケは新自由主義という言葉の定義を「会議における最も不運な結果」と呼び、オイケンはそれを原則として拒否していた[12]。しかしながら第二次世界大戦から1960年代初頭までその言葉は使用され続け、特にドイツでは、社会経済に関する概念上の基礎について重要な議論が行われていた[13]。

第二次大戦後モンペルラン・ソサイエティーの支援により国際的なネットワークが増加していた。新自由主義の思想家がその考えを結集し普及させるために、ウォルター・リップマン・シンポジウムの15人の参加者が1947年にモンペルラン・ソサイエティーを設立していた。ここですぐにアルベルト・フーノルトやアウグスト・フォン・ハイエクが指導力を発揮していた[14]。1960年代初頭にはフォン・ハイエクのグループとフーノルトやヴィルヘルム・レプケのグループの間で社会の将来の方向性について議論があった。結果としてレプケは1962年に会長の職を降り、フーノルトとレプケは外に出ることになった[15]。第二次大戦後多くの諸国が経済システムを選択する問題に直面することになった。1945年から1965年の間に新自由主義は最大の政治的影響力を及ぼすようになっていた[10]。アカデミズムはフリードリヒ・フォン・ハイエク、ミルトン・フリードマン、ジョージ・スティグラー、ジェームズ・M・ブキャナンのような思想家にノーベル賞を授与していた。

1.1 外観

新自由主義という言葉は広く多様な潮流を表現するために用いられており、他の学派との大きな違いや個々の学派や人々の違いが議論の対象となっている。

したがって例えばリュストウの伝記作家であるカトリン・マイアー=ルストはすでにウォルター・リップマン・シンポジウムで「古いリベラル」との不一致を示しており、それに彼女はフォン・ミーゼスやフォン・ハイエクを含めており、新自由主義者であるオイケン、ルプケ、リュストウも紛れもなく明らかにそうであった[16]。リュストウは1959年に「多くの古いリベラル、妥協しない古いリベラルの一部に対して、特にアメリカでは、それを間違った方法であり誤解を招いていたが「新自由主義」と呼び、大きな混乱を引き起こしていた。不運にも私たちはそれに対し特許訴訟や商標の保護を行うことができなかった」との不快感を述べていた[17]。

リュストウの伝記作家であるヤン・ヘグナーの後、基本的な考え方によって新自由主義者たちを区別することはできなくなり、むしろ政府の機能と責任の範囲や介入の結果における問い掛けに対する微妙な差異しか存在していなかった[18]。ヘグナーによれば社会指向の新自由主義(ヨーロッパ大陸に影響された新自由主義)と個人指向の新自由主義(アングロサクソンの新自由主義)を区別することができる程度だった。個人指向の学派に彼はロンドン学派(ライオネル・ロビンズ、エドウィン・キャナン、Th・グレゴリー、F・C・ベンハムなど)、オーストリア学派(ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク、ゴットフリート・フォン・ハーバラー、フリッツ・マッハループなど)、シカゴ学派(ミルトン・フリードマン、ヘンリー・C・シモンズ、G・スティグラー、フランク・ナイトなど)を含めていた。「もし一般的な用語として社会指向の新自由主義を受け入れるならば、その概念を細分化することが可能になる。これらは個々のオルドリベラリズム(フライブルク学派、ヴァルター・オイケン、フランツ・ベーム、ハンス・グロスマン=ドエルト)、社会学的新自由主義(ヴィルヘルム・レプケ、アレクサンダー・リュストウ)、社会的市場経済に該当する。」 社会指向の新自由主義は社会に対する特別な義務を眺めることができ、それを社会のメンバーは引き受け、それをいざというときには行うことになる。「概して、基本的な方向性についてこれらの多様な新自由主義は異なった力点を有しており、思想家たちが互いに影響を受け合うといった事実の分類を意識して行うことができる。結局のところ個人的な研究の力点、その態度、内容に関連していない違いが、大陸のグループの支持者のその場における分類を決定していた。」[19]

エルンスト=ヴォルフラム・デュルに関連して、ラルフ・プタクは、競争の確保や社会政策の実施といった政府の役割になると、アングロサクソンの造語である個人指向の新自由主義は基本的に厳しい基準を当てはめることに気が付いた[20]。50年代の終わりはヨーロッパ大陸型の新自由主義とアングロサクソン型の新自由主義の違いが明確になり始め、モンペルラン・ソサイエティーに激しい対立をもたらしたが、プタクによれば、過大評価されるべきではなかった。新自由主義が統一的な見解を示していないといった事実は、少なくともブルジョワ国家や現代の産業社会に対してその国特有の発展の経路を説明しており、それゆえ国民経済のドグマと自由主義の理論における違いが生じていた[21]。

ラース・ゲルテンバッハは、多様な新自由主義のアプローチにもかかわらず、さまざまな学派における内容に関する一致点を見出していた。オルドリベラリズムやシカゴ学派は、一方では古典的自由主義(レッセ・フェールの自由主義)から、他方では社会主義から定義されていた。古典的自由主義から新自由主義を分ける認識論的契機はミーゼスの理論的方向転換に基づいており、後の2つの学派の中で保証されることになった。オーストリア学派、ロンドン学派、シカゴ学派、オルドリベラリズムが決定的な役割を果たしたように、ハイエクは、ゲルテンバッハによれば、新自由主義の中心的存在になっていた[22]。しかしこの基本的な合意にもかかわらず、ゲルテンバッハによれば、ハイエクとオルドリベラリズムの間には広範囲にわたる違いが存在していた。「社会正義の基準に対する立場を含む市場指向の規制を意識して制定するオルドリベラルの構想は自発的な秩序を考慮していたハイエクの理論と矛盾していた。」 もう1つの理論的な経済上の違いは、ハイエクがオイケンと対照的に市場均衡に対する新古典派の考え方から乖離していたという事実にあった[23]。その違いはしかしながら少なくとも基本的な理論の方向性に存在していたが、「政治的目標の方向性にも存在しており、政治的レトリックにおいても基本的に確認することができた」。オルドリベラリズムと異なり、ハイエクの新自由主義は、特に政治的観点でいえば、中道を介するものではないと理解されていた[24]。

ピースは、細部の違いにもかかわらず、ハイエクとオイケンの仕事は同じ考え方を有していたといった結論に達していた[25]。

経済倫理学者であるピーター・ウルリッヒは(アングロサクソンの)新自由主義とオルドリベラリズムの本質的な違いを以下のように眺めていた。新自由主義の効率性は[...]資本の効率的使用における市場経済システムの機能に関する要件を国家が用意することになるので政治の優越を認めていたが、一方、オルドリベラリズムの指導者であるウィルヘルム・レプケ、アレクサンダー・リュストウ、ヴァルター・オイケンは市場経済のロジックより政治的倫理の優越を強調していた[26]。

1.1.1 市場指向の規制の考え方

ゲルテンバッハは、市場の秩序のための法整備の必要性に関して、ハイエクの理論とオルドリベラリズムとの内容に関する一致点を眺めていた。ここではしかしながらオルドリベラルの思想は市場指向の規制を意識した制度や社会正義の基準に対する政治的方向性の前で自発的な秩序を考慮しているハイエクの理論と矛盾しており、ハイエクの見方によれば、規制を意識した制度の設計は「知識の不当行使」に基づいていた(認識論的懐疑論)[27]。インゴ・ピースによれば、ハイエクの訴えは、まるで彼が政治的禁欲を求めているかのように、秩序を計画しないことであると解釈されていなかった。ハイエクは、オイケンが規制のカテゴリーで用いた意味でなく、結果としてのカテゴリーといった意味で「秩序」という言葉を用いており、ピースの見方によれば、多数の文献において誤解が散見されていた[28]。ハイエクは自発的な秩序に言及しており、自発的な規制に言及していなかった。したがって意図的になされた規制に基づいた完全に自発的な秩序の形成はハイエクにとって十分に想定できることであった[29]。

シカゴ学派としてのハイエクとオルドリベラリズムは生存に対する国家の保証について議論していた。ラインハルト・ジントルによれば、競争のプロセスにおける不正を正すことではなく、共同体としての責任がハイエクにとって重要であった[30]。フィリップ・バッチャーニによれば、権力や所得の分配に関して、市場の結果における変化に対してでなく、行動様式に対して国家の規制が適用されるかもしれないといったことが、原則的にハイエクに対して当てはまっていた[31]。累進税率の所得税を彼は受け入れていなかった[32]。オルドリベラルの思想家であるオイケンにとって、しかしながら、それは所得分配から生じる競争に対して累進税率の所得税のように低所得の家計に対する是正のための秩序を必要としていた[33]。特定の状況では、最低賃金の固定化が提唱されていた[34]。

ベルント・ジーグラーによれば、シカゴ学派は自由放任政策を代表しており、それは国家に対し狭く定義された活動しか割り当てていなかった。その後国家は、国を守り貧困層を支援するために、私有財産を保護しなければならなかった。特にフリードマンは福祉国家を費用がかかる「モンスター」とみなしており、彼は国家による年金や最低賃金同様、公共住宅の建設までも受け入れていなかった[35]。

1.1.2 競争の秩序

オルドリベラル学派にとって独占禁止法は自由市場を機能させることを保障しており、国家の活動はここにおいて必要であると思われていた。「シカゴ学派は、あらゆる状況における参入障壁をなくすことにより、競争は調整されるだろうと期待していたので、上述のようには眺めていなかった。これゆえ独占禁止法でさえそれを抑制するために適用される評判の良くない規制を形成するだろうと考えられていた。」[36] ハイエクは原則として競争政策に関連した国家による制約を受け入れておらず、必需品やサービスにおける独占においてのみ、彼は政府の介入を正当化していた。著作においてハイエクは一貫して、国力に関連した民間の経済力をこの背景において危険な自由でもなければ批判される対象でもないとみなしていたことを認めていた...ハイエクにとって経済的独占や独占から生じる市場を支配する力は、原則として個人の自由や競争に対する脅威を意味していなかった...ハイエクは後期の著作の中で競争が存在している独占の効率性に付随する独占の問題に対する態度を示しており、そのことはリバタリアンであることを正当化する強い意味を有していなかった[37]。

1.2 ヨーロッパ大陸の特徴を有する新自由主義

1.2.1 オルドリベラリズム

「オルドリベラリズム」という言葉はヒーロー・ムーラーに遡り、1950年代に議論されていた。それは徐々に定着していき、部分的にはドイツ語の「新自由主義」の同義語として、また部分的にはフライブルク学派のために厳密に意味を限定した語として用いられていた。時としてそれは新自由主義と矛盾しており、モン・ペルラン・ソサイエティーのハイエクやフリードマンの影響の下で発展したウィーンの思想やシカゴ学派はその新自由主義に制限されていた[38][39]。フライブルク学派のオルドリベラリズムは新自由主義をドイツに焼き直した形の中で中心的な位置を占めていた[40]。フライブルク学派は1930年代初頭に形成され、法律家やエコノミストはオイケンの指導の下で国民経済の理論や経済秩序にまつわる一連の問題に取り組もうとしていた。彼らの観点はドイツの合法的なカルテルや独占を支援しており、彼らの特別の関心はそれゆえ独占禁止法や制限された経済力や競争の維持にあった。これは、国家社会主義が終焉を迎えた後、ドイツの経済組織を再考することにつながった。カール・フリードリヒ・ゲルデラーやフライブルク学派を巡り抵抗する関係が存在していた[10]。

1.2.1.1 ヴァルター・オイケン

オイケンはドイツの秩序モデルにおける思想を打ち破ることを援助していた。彼の『国民経済学の基礎』(1940)の中で、それまでまだドイツで優勢だった(アングロサクソンの)理論経済学からの分離や「部分を強調し抽象化する」といったドイツでまだ普及していた歴史学的方法を克服することを試みていた。結果として、彼は2つの基本的で理想的な経済システムである中央管理経済と流通経済を提唱していた。『経済政策原理』(1952)の中で彼はこれらのモデルを実体経済のシステムと連携させていた。原則から導かれていないとして、彼は混合モデルを受け入れなかった。彼は完全競争のモデルに基づき経済システムを発展させ、現実を認識する方法を示していた。継続する競争を通じてのみ、経済力と個人の自由の一貫性が可能であった[41]。

オイケンによって打ち立てられた路線は、ルートヴィヒ・エアハルト(1949-1963,連邦経済大臣、1963-1966,首相)に示されるように、社会的市場経済の中によくまとめられていた[42]。したがってオイケンは社会的市場経済における理論的な思想家としてみなされていた[43]。

1948年に彼は経済と社会の秩序についての年報であるORDOといった雑誌を出していた。

秩序に関する政策における基礎研究に従事していたフライブルク大学のヴァルター・オイケン研究所やドイツにおけるオルドリベラリズムやヨーロッパの政治を区別して受け入れてきたヴァルター-オイケン-アーカイブは彼の名にちなんでいた。それは彼が50歳の頃のことだった。彼の命日に秩序に関する政策を扱う財団が設立された。

1.2.1.2 フランツ・ベーム

フランツ・ベームはオイケンとともにフライブルク学派(オルドリベラリズム)の創始者として扱われていた。大きな影響を及ぼした彼の学説には、私法の社会と市場の社会における法的なそして経済的な秩序に関する相互依存の分析が含まれていた。私法の社会は国家と社会の分離を通じて示されていた。それは競争における秩序を必要としていた。彼の初期の著作において、彼は構成主義的な競争における秩序の基準を通じて完全競争を設ける見方を抱いていた。後期の著作はこの要求から離れ、法的枠組み(自由と市場経済における秩序)の中で自由競争を制限することを考慮していた[41]。

1.2.1.3 オルドリベラリズムの他の支持者たち

フライブルク学派の他の支持者たちはハンス・グロスマン=ドエルト、ハンス・ゲシュトリッヒ、ベルンハルト・プフィスター、コンスタンティン・フォン・ディーツェ、フリードリヒ・A・ルッツ、フリッツ・W・マイヤー、カール・フリードリヒ・マイヤー、レオンハルト・ミクシュ、アドルフ・ラムペ、ルドルフ・ジョーンズになる。それだけでなくエルヴィン・フォン・ベッケラート、ギュンター・シュメルダース、ハインリッヒ・フライヘル・フォン・シュタッケルベルクが密接に関連していた[10]。

1.2.2 社会学的(新)自由主義

理論家であるアレクサンダー・リュストウ、ヴィルヘルム・レプケ、そして部分的にはアルフレッド・ミュラー=アルマックは、レプケによれば、社会学的新自由主義(同様に社会学的自由主義、経済自由主義、人文主義)の立場を示していた。これらは広い意味でオルドリベラリズムの方向性を示していたが、この分類は論争の余地が残っている[44]。

経済力に課された制約とともに主にフライブルク学派を取り扱う際、リュストウやレプケは社会学的問題、例えば社会的一体性(社会的補償)や大衆化に着目していた[45]。オルドリベラリズムの対処法はそのため社会的な介入に拡大していた。市場経済はキリスト教的人文主義の倫理を達成するための手段として機能していた。

1.2.2.1 ヴィルヘルム・レプケ

「経済の基準は人間である。人間の基準は神との関係になる。」-ヴィルヘルム・レプケ[41]

経済秩序はレプケにとって社会秩序の一部だった。社会秩序の目標は人間の社会基盤を奪うことに対し抵抗することであり、集散主義の動向に抵抗できない人間を援助することであった。早くから彼は現代の福祉国家の傾向に集散主義の特徴を認め、それを強く批判していた。

1.2.2.2 アレクサンダー・リュストウ

1932年にアレクサンダー・リュストウは社会政策学会での会議において新しい自由主義の目標を概説していた。

「今日受け入れられ、私の友人とともに支持している新しい自由主義はあらゆる場面において想像以上の強い国家、経済を超える国家を必要としており、それは相応しいものになるだろう。」-アレクサンダー・リュストウ[46]

ドイツの新自由主義の誕生とみなされるこのスピーチで、リュストウは、大規模な経済社会における逸脱に対する望ましくない構造変化を避けるための政府の介入を責任があるものにした。これらの必要な調整を妨げる代わりに、これらのプロセスは摩擦的損失を最小化するためにも加速されるべきであった[47]。リュストウは保守的な補助金に反対していたが、非介入主義と一定の拡大を示す介入主義の間における第3の解決として、時間的に物質的に制限された範囲か例外的な状況においてのみ認められる適応のための補助金を提案していた。これによって構造変化の結果は、目標とされ市場に基づいた介入の加速を通じて、調整コストを最小化するために、もたらされるべきであった[48]。

リュストウは「強い国家」を利益集団からの圧力を払いのけることができないことを意識していない国家に対する対抗モデルとして理解していた。その強さは多量の仕事や手の届かないところにある権威から生じているのではなく、たんに競合する利益集団から影響を受けない能力によるものであった。この能力は秩序のフレームワークを保護し国家の機能を制限することに基づいていた[49]。リュストウの見方によれば、市場は役立つ機能を有しており、それは個人や社会が要求する物質を確認することを意図していた。市場に関して競争は組織の原理になる。しかし競争の原理は社会統合を促さず、これらの原理のみに社会は依存していない。それゆえリュストウは市場の限界を第2の領域として区別しており、その下で彼は、文化、倫理、宗教、家族といった人間性の本質を理解していた。ここに道徳的価値観や組織の原理が存在していた。この領域では、課題、統合、連帯、道徳的基準を確認することができた。国家が課題を2つの領域の中で互いに制限し、それぞれの領域の内側で秩序のフレームワークを設定し保障していたのは、領域の内側で干渉し、そこでは自己組織化が機能しないからであった(補完性の原理)[50]。

1.2.3 社会的市場経済

社会的市場経済はオルドリベラリズムの思想に基づいているが、よりプラグマティズムの立場が強いものであり、例えば経済政策に対する政治の影響の強さや社会政策自体の主張を強調している点が挙げられる[3][51]。トゥーフトフェルトはこれを自主的な新自由主義のタイプであるとみなしていた。

1.2.3.1 ルートヴィヒ・エアハルト

「つまりかつて理論が時代の様子を正しく解釈しており、それらの知見が適切な経済社会政策に新たな推進力を与えていたとき、今日の新自由主義者やオルドリベラリストのような人間の思想に十分な価値があった。あなたは経済政策にいつも多くの社会政策を強調しながら与えており、機械仕掛けのような思考の孤立からあなたを解放していた。」-ルートヴィヒ・エアハルト[52]

1.2.3.2 アルフレッド・ミュラー=アルマック

『経済統制と市場経済』(1946)という著作の中でミュラー=アルマックは「社会的市場経済」の考え方を発展させた。市場と社会は対立事項として認識されていなかった。すでに大きな社会保障給付が結果として残っていた。市場の効率性は生活水準の継続的な改善を可能にしていた。このことは1人あたりの所得と社会サービスのために利用できる資金を増加させていた。消費者の権利と競争は権力の集中に対して反対に作用していた。これらは、家族保険、新しい所有権の形成、自営業のための機会の改善、企業経営への参加といった社会制度を補完していた[41]。ミュラー=アルマックは社会的市場経済の概念によりフォン・ミーゼス、フォン・ハイエク、オイケン、ベーム、ミクシュとともにそれを指摘しており、レプケとリュストウが影響されていた。

どの経済主体にも市場で彼ら自身を良くする機会を与えているので、競争経済システムはすでに自発的に社会的であるといったことを背景にして、秩序政策と社会政策に関する広い定義から生じている、オルドリベラリズムと対照的に、アルフレッド・ミュラー=アルマックは、社会的平等に関心がある国家は経済的プロセスに十分に介入するべきであり、そうしなければならないが、とりわけ市場にしたがった資金でなければならないといった思想を示していた。キリスト教の社会倫理の要素を含めることで、社会的市場経済は、抑制のきかない資本主義の欠点だけでなく中央計画経済をも同様に避けるために「市場における自由の原則と社会的バランスをその代わりに組み合わせていた」[54]。社会政策の形成に加えて、ミュラー=アルマックは、経済政策に対する政府の活動の必要性を強調していた。カール・ゲオルク・ツィンはこう記していた。「しかしながら、ミュラー=アルマックと新自由主義的な自由市場経済の支持者たちとの間には大きな違いが存在していた。多くの点でミュラー=アルマックは理論的純粋主義者であるオイケンより移住者であるレプケやリュストウの哲学的思想に近かった。ミュラー=アルマックは社会政策や国家の経済的そして構造的政策に対してオイケンよりも重みを与えていた。」[55]

1.2.4 イタリア

最も重要な科学者たちはルイージ・エイナウディ、コンスタンティーノ・ブレッシアーニ・トゥローニ、ブルーノ・レオーニ、カルロ・アントーニになる。ルイージ・エイナウディはイタリア銀行の頭取で、後に副大統領と財務大臣になり、1948年から1955年までイタリアの大統領になった。

1.2.5 フランス

フランスにおける新自由主義の支持者はウォルター・リップマン・シンポジウムの主催者であるルイ・ルージェ、ルイ・ボーダン、モーリス・アレ、ギャストン・ルデュック、ダニエル・ヴィレ、ジャック・リュエフになる。1980年から新しいエコノミストのグループが登場することになる[10]。

1.3 アングロサクソンの新自由主義

1.3.1 キャナンの学派

1930年代にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでは、当時支配的だったフェビアン社会主義と対照的に、経済学派が形成されていた。キャナン自身はまだイギリスの古典派の影響下にあった。創始者であるキャナンを除いてその学派に属していたのは、フレデリック・チャールズ・ベンハム、セオドア・エマニュエル・グレゴリー、ウィリアム・ハロルド・ハット、フランク・ウォルター・ペイシュ、アーノルド・プラント、ライオネル・チャールズ・ロビンズになる。ケープタワン大学で教えていたハットを除いてすべてがLSEで教えていた[10]。

キャナンの学派の影響は主にミーゼスとハイエクに及んでいた。ハイエクは1935年から1950年までロンドンで教授を務めていた。特に中央統制経済を継続的に批判していた。さらにキャナンの学派はケインズ主義と一線を画していた。しかし彼らはレッセ・フェールの自由主義から離れた立場にあった。経済学における立場は、ケインズ経済学に基づくと、なおざりにされたものであった[10]。

経済問題研究所はグループのメンバーによって1957年に設立された。キャナンの学派はいわゆるHobart Paper、一般の著作物、不定期の論文、1980年からはThe Journal of Economic Affairsを刊行していた[10]。

1.3.2 カール・ポパー

第二次大戦後にカール・ポパーはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで講義を行っていた。彼は特にあらゆる種類の歴史主義と全体主義を批判していた。それは経済への民主的な介入をともなう新自由主義の社会経済モデルを示していた。彼はしばしば参照するフリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクの著作から強い影響を受けていた。彼は彼が擁護している点在していた社会工学とユートピア的社会工学を区別していた。経済的プロセスの計画は却下されたユートピア的社会工学にそれを組み込むことができた[10]。

1.3.3 オーストリア学派

オーストリア学派を新自由主義に分類することには論争の余地があった。一部の著者たちは第3世代以降の支持者たちを新自由主義の典型的な代表として眺めていたが[41]、他の著者たちはそれを否定しており[56][57][58]、その中に新自由主義に属する新オーストリア学派の代表であるミーゼスを含めていたが、彼の学説を反対に眺めて、彼を古典的自由主義に分類していた[59]。アレクサンダー・リュストウやヴィルヘルム・レプケでさえ旧自由主義のオーストリア学派に分類されており、彼らは新自由主義から離れた立場に分類されていた[60][61]。

1.3.3.1 ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス

ミーゼスは介入主義のミクロ経済分析を発展させていた。彼の初期の著作である『リベラリズム』(1927)や『介入主義への批判』(1929)では、彼は国家の介入における効率性を検証していた。彼は政府の介入がその大胆な目標を達成することはないと結論づけていた。しかしそれらは、専制主義国家による秩序、禁止、規制を通じて個人の自由を拡大することを制限することにつながった。そしてこのことは徐々に蝕むプロセスへとつながった(油汚れ理論を参照のこと)。ミーゼスはそのため長く混合システムを受け入れなかった。彼の最も広範な著作である『国民経済学:行動と経済活動の理論』(1940)は個人主義の方法論に基づいて人間の行動の演繹的理論を展開していた[41]。

1.3.3.2 フリードリヒ・フォン・ハイエク

フリードリヒ・フォン・ハイエクは通常オーストリア学派のミーゼスの弟子として分類されている。しかし時々ハイエクはオルドリベラリズムに分類され[62]、フライブルク学派の伝統の中に見られることもある[63]。1962年にフライブルク大学に務めたとき、ハイエクははっきりと友人であるオイケンの後継として彼自身をみなしていた[64]。ハイエクは「ヒュームとスミスの古典的自由主義や社会の発展の進化に対する展望をきっかけに非常に明示的に」『自由の条件』(1960)の中に彼自身を見ていた[65]。1981年にハイエクは、彼は新自由主義的でなかったと述べ、基本を変えることなく古典的自由主義の原則を発展させたいと考えていた。1980年代には新自由主義の意味のシフトがあり、このシフトは批判のための概念としてハイエクの思想(そしてミルトン・フリードマンの思想)を必要としていた[66]。

ハイエクの影響力のあるモノグラフである『隷従への道』(1940)は、彼によって観察されるイギリスの社会主義的傾向の拡大に反対していた。同様の傾向はナチズムによって導かれた1920年代と1930年代のドイツにおいても見受けられた。ナチズムは特に資本主義運動として左派知識人にとって認められていたが、ハイエクはそれを社会主義として分類していた[41]。両者は集産主義の哲学的伝統に由来しており、それはある時には国際的な側面を示し、別の時には民族主義的な側面を示していた。結局のところ両者は「あらゆる目標のための手段を支配する」と言われており、すべての社会を1つの目標に向けることを強制しようとしていた。経済的自由の制限は政治的自由の制限から分離することができず、集産主義である両者は全体主義を示すことになる。

例えば逃れることができずに増加し続ける東欧のブロック経済から西欧の社会主義にある危険性を感じながら、彼は福祉国家の発展を心配しながら眺めていた。『自由の条件』(1960)の中で、彼は個人の自由と国家の法律制定との関係に対する議論に没頭していた[41]。

全体主義的民主主義による個人の人権に対する脅威は最終的には法律、その制定、自由の中で議論されていた。彼は政治権力を制限する実用的な手段として民主主義の原理を擁護していたが、それらは個人の自由を保障することにはつながらなかった。彼は利益集団による政治的影響力の増大に対する危険性を眺めていた。そのため、独裁の危険性を防ぐために、民主的な意思決定と個人の人権との関係が重要であった。「自由主義にとって[...]あらゆる規制は強制的な権力の制限を主要な課題として見ており、それらが民主的であるか否かは問題になっていない。それに対して教条主義的な民主主義者は国家権力の制限のみを認めており、それはその時その時の多数派の意見になる。」[67]

ハイエクの貢献は今なお自発的な秩序に対する理論にとって重要であり、同様に「方法を見出す手段としての市場」に対する彼の考えも同様であった。これに基づき、ハイエクは新古典派の均衡理論を文化の進化に関する彼の理論と対比させていた。

ハイエクは「誰もがそれ以下に落ち込む必要がない」最低所得を主張しており、この最低所得保障は社会における明白な義務であった[68]。これらは犯罪予防のためにも用いられていた[69]。

1.3.4 シカゴ学派

シカゴ学派は戦間期におけるアメリカで増大する介入主義(特にニューディール政策)に対する反対から生じていた。それらの支持者たちはたいてい同様に政治的であり、現実に対しリベラルな政治秩序をもたらすために機能していた[41]。シカゴ学派の支持者たちは初期の会合で国家の競争政策と明確に市場と両立する秩序を擁護していたドイツの新自由主義者たちと意見を一致させていた一方、1950年代のシカゴ学派の初期の支持者たちはこれらの原則から離れていった[70]。

1.3.4.1 ヘンリー・C・シモンズ

ヘンリー・カルヴァート・シモンズは『自由な社会のための経済政策』(1948)の中で自由な社会経済秩序のための基礎について構想を練っていた。彼は脅威を一方で独占の中に(これらは国有化される必要がある)、他方でアメリカの財政の中に見出していた。1936年に彼は『Monetary Policy』の中で既存の金融政策に反対し、それを通じて彼は通貨の操作を支援した。またその代わりに彼は物価の安定を目的としたルールに基づいたマネーサプライを主張していた。1938年に彼はフラット・タックス(個人所得課税(1938))を提唱していた。また政府機能の集中化の代わりに、彼は財政に対する責任にために連邦化の拡大(連邦政府の税制改革(1950))を継続していた[41]。

1.3.4.2 ミルトン・フリードマン

ノーベル賞受賞者であるミルトン・フリードマンは新自由主義の主要な推進者の1人と考えられていた。彼はシカゴ学派のマネタリズムにおいて金融政策の理論を発展させていた。自然独占の国有化について彼は市場を機能させていないとして受け入れなかった。同様に国家による所得の再分配はその目標に到達することができないとしていた(『資本主義と自由』(1962))。彼は変動為替レートの主な支持者の1人であった[41]。

後に彼は経済分析の方法を政治にあてはめ、政党や政治に対する各種団体や利益団体のロビー活動や影響に関する理論を発展させた[41]。

「政治的な権益が何らかの形で経済的権益より貴いものになるといったことは本当に真実でしょうか?[...]私たちのために社会を組織するつもりの希少な人を見つけたらどうか私に教えてほしい?」-ミルトン・フリードマン:フィル・ドナヒューとの1979年のインタビューにて

競争の促進、技術的独占や外部効果に対する措置、私的なチャリティーを定義するために、フリードマンは維持すべき法と秩序や所有権を国家の課題に組み入れた[71]。資本主義と自由の中でフリードマンは貧困を緩和するためのベーシック・インカムと呼ばれる負の所得税の提案をまとめあげた[72][73]。

ハイエクのようにミルトン・フリードマンは後の発表物の中で新自由主義の表現から距離をおき、彼自身を古典的自由主義者の支持者として示していた(古いスタイルの自由主義)[74]。

1.3.5 政治経済学におけるバージニア学派

バージニア学派の最も重要な支持者にノーベル賞受賞者であるジェームズ・M・ブキャナンやゴードン・タロックが含まれ、公共選択論に対して重要な貢献をした。

2 1980年頃からの意味の変化

2.1 意味の変化の歴史

ボアズ/ガンズ=モースの後、新自由主義の本来の意味はフライブルク学派(オルドリベラリズム)を指しており、古典的自由主義に対する穏やかな代替手段としてみられていた[75]。彼らはケインズ主義と福祉国家の拡大を受け入れていなかったが、社会政策の意義を強調しており、市場原理主義を受け入れていなかった[76]。彼らはオルドリベラリズムに基本的に同意していない他のリベラルの思想家と彼ら自身を分けていた。新自由主義という言葉は旧自由主義と区別するためにオルドリベラルによって作られたが、1960年に例えばリュストウは旧自由主義の指導者たちが新自由主義者として記されることについて注文をつけていた[77]。今日の科学者はしばしばフリードリヒ・フォン・ハイエクやミルトン・フリードマンを新自由主義の父として見ているが、1950年代や1960年代にはフライブルク学派やエコノミストによって特に新自由主義という言葉を用いた科学記事の中に、私たちはオイケン、レプケ、リュストウ、ミュラー=アルマックとの関連を見出すことができた。その原理主義的な立場のために、対照的にハイエクはごくまれに、フリードマンはまったく新自由主義との関連をもつことがなかった[77]。1960年代中頃からのドイツの経済政策における新自由主義の影響はケインズ経済学の影響の増大とともに小さくなり、その言葉は今では用いられていない。どの学派もその時以来新自由主義と呼ばれなくなった[78][79]。

フライブルク学派の新自由主義に対して肯定的なモデルに基づくと、社会的市場経済に関するドイツのモデルやドイツの経済的奇跡は、1960年代のラテンアメリカにおける新自由主義という言葉を、肯定的な意味に対して中立的に振る舞うことから逸脱することなく、市場に対して友好的であるのと同様に市場に対して批判的な視点で眺めていた。1973年にピノチェト政権下で改革に関する批評家が、フライブルク学派や他の理論における所産を直接参照することなく、点在的にその言葉を使い始めたときに、最初の重要な変化が行われた。1973年9月11日チリにおけるアウグスト・ピノチェトのクーデターはこのシフトにおける主要な点を以下のように考えていた。決断力のない経済政策が続いた後、ピノチェトは1955年からシカゴでフリードマンと研究していたチリ人による経済政策に主要な役割を負わせ、彼らはシカゴ・ボーイズとして知られていた。ピノチェトの下で行われた経済政策はフリードマンやハイエクの理論をより原理主義的にしたものだった[80]。そのため専制体制の中で経済における国家の後退が生じ、この結果はかなりの論争を呼ぶことになった。1980年までの意味のシフトは以下のように生じていた。オルドリベラリズムの代わりにフライブルク学派をもちだすために、「新」という接頭辞はラディカルであり、フリードリヒ・フォン・ハイエクやミルトン・フリードマンの思想の価値を下げることと同義であり、ハイエクやフリードマンは彼ら自身を新自由主義者とは呼んでいなかった[81]。可能な1つの説明は、軍事政権が経済政策のプロパガンダの目的のために新自由主義と関連した社会的市場経済という言葉を用いたといったことになる[80]。

この軍事独裁政権下で、新自由主義は完全に本来の意味を失い、政治的抑圧の下での経済のラディカルな変更を意味していた。社会保障を犠牲にするので、新自由主義は還元主義者の立場からの批判の1つとして特徴づけられていた[82]。ここから新しい言葉の意味が広がり、現在は通常否定的な意味で用いられ、この現象は自由市場との関係にもちこまれることになった[80]。

アンドレアス・レナーによれば、アンソニー・ギデンズは現在の意味での新自由主義の概念を用いていた。ギデンズは新自由主義とサッチャー主義や「新しい法律」を同等に扱っており、それによって彼は保守的な自由主義経済の政治的概念を確立していた。そう理解されている新自由主義をラルフ・ダーレンドルフは「経済政策の新しい正当派」と分類し、ミルトン・フリードマンを最も影響力のある支持者としてみなしていた。レナーによれば、マリー・ロスバードやイスラエル・カーズナー他による適切な「自由市場」を求める「リバタリアン」の最小国家の概念を「最小国家」や「市場原理主義」のキーワードがそれに分類しており、今日のアメリカにおけるオーストリア学派の伝統を継続していた[83]。今日科学者による新自由主義という言葉は主に市場原理主義を示すために用いられており[76]、ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーの経済政策との関連はない[84]。

2.2 最近における言葉の用法

ゲルハルト・ヴィルケはその言葉を「闘いのスローガン」として眺めている[85]。

アンドレアス・レナーによれば、新自由主義は狭い視野の経済政策を目標にした政治的スローガンとしてその言葉を利用されており、社会的そして環境保護的課題を解決せず、むしろ悪化させていた。しかしこれらの狭い視野の経済政策はオイケン、レプケ、リュストウによるオルドリベラルの理論に基づいておらず、狭い視野の経済学的展望に反対して決定されてきたものを一変し、とりわけ「重要な政治」にマイナスの影響を及ぼすように想定されていた[78]。彼はドイツの経済秩序を求め、新自由主義におけるあいまいな考え方を放棄し、明確な考え方はオルドリベラリズムにあると主張していた。市場経済と計画経済の論争が終わった後、さまざまな市場経済の種類における詳細に考慮する意義が増大していた。それにより、代表的なリバタリアンの「自由市場を求める自由主義」を明確にすることが重要になった[86]。

ボアズ/ガンズ=モースの後、新自由主義という言葉はアカデミックなスローガンに発展し、「民主主義」のような他の社会科学における言葉と異なり、これらの言葉の意味はほとんど議論されていなかった。以前におけるこの言葉の使用は不均一に散在していたことが示されていた。出版物ではこの言葉はほとんど肯定的な規範の意味で正しく認識されずに用いられていた[79]。自由市場の支持者は、新自由主義という言葉は否定的な意味のために避けられており、他の言葉を探し、例えばジョン・ウィリアムソンはワシントン・コンセンサスという言葉を採用することを決めていたと述べていた[87]。開発政策の分野におけるアメリカの科学雑誌でこの言葉の使用を調べた結果、「民主主義」のような基本的に論争の余地がある概念と異なり、新自由主義という言葉の使用に際して、たいてい経験に基づかない科学の出版物において言葉の明確な定義が与えられていないことが確認されていた[79]。

著者たちは、新自由主義という新しい言葉の使用は基本的に論争の余地がある概念におけるすべての条件を満たしていると結論づけていた。新自由主義はさまざまな概念を参照しており、自由市場がその特徴を統合していた[88]。「民主主義」のような他の基本的に論争の余地がある概念と異なり、自由市場について意味のあるアカデミックな論争は妨げられてきており、共通の専門用語が用いられることはなかった。新自由主義の反対者と話をすると、自由市場の支持者は他の用語の使用に切り替えていた。このことは言葉の定義や存在している対立点を狭め、論争を成立させず、それは双方の側が自身の用語を基準にして研究を行い、発表していることによる。このことは、一方もしくは他方のマイナスの現象が実際にその用語に含まれているかどうかに対する議論を成立させなかった。著者たちは新自由主義という概念を放棄する必要性を認識しておらず、彼らは、新自由主義という用語が経験的研究に役立つ可能性が存在する固有のシナリオを示すのみだった[89]。

新自由主義という言葉の最近の用例とさらに4つのカテゴリーに分割された経済史を大雑把に眺めることができる。

政治的アプローチ[79]:その言葉は頻繁に経済政策の改革に対する批判と結びつけられていた。ワシントン・コンセンサスは新自由主義の経済プログラムの例としてしばしば引用されており[90]、ワシントン・コンセンサスは時として新自由主義の同意語として用いられていた[91]。レーガンの下でのアメリカ(レーガノミクス)、サッチャーの下でのイギリス(サッチャリズム)[92]、ロジャー・ダグラスの下でのニュージーランド(ロジャーノミクス)[93]における経済政策の改革はしばしば新自由主義と呼ばれていた。経済政策の概念については3つのカテゴリーに分割される。

政府の役割の低減、国家機能の民営化、資本移動の規制緩和になる。

ジョセフ・スティグリッツによると新自由主義の考え方はこれらの3つの要素の組合せによって特徴づけられる[94]。

開発モデル[79]:さらに新自由主義という言葉は、構造主義者の経済政策に対する国家介入主義者のモデルに代わる(主に南アメリカ)労働組合、私有企業、政府からなる一定の役割に対する包括的な国家モデルと秩序モデルに対する言葉にまで見受けられる。

イデオロギー[79]:著者たちは、特に国家を最小限に縮小することによって促進される包括的な社会的価値としての自由といった用語において、個人の自由と共同体の間の特別な規範的関係の分析の中でその言葉を用いることを続けていた。

アカデミズムにおけるパラダイム[79]:最近では新自由主義的な記述の使用は特定の経済学のパラダイム、特に新古典派理論にまで見受けられる。

3 認容と批判

3.1 ノーム・チョムスキー

言語学者であるノーム・チョムスキーは1998年に『金儲けがすべてでいいのか グローバリズムの正体』を出版した。それは新自由主義がロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーによるグローバルな覇権主義から長らく続いている事実を示していた。このことは大多数を犠牲にして少数が特権を享受していることを意味していた。大企業とそのカルテルはアメリカの政治を支配していた。自由市場は少なくとも競争的なシステムを生み出していなかった。アメリカの政党に対する大企業の政治的影響力を通じて、民主主義は損なわれていた。アメリカ政府は大企業を補助金や輸入関税を通じて助けていた。政府による大企業支援の典型的な例は世界貿易機関になる。代替案として、彼はリバタリアンの社会主義を眺めていた[95]。

3.2 ミシェル・フーコー

フランスの哲学者であるミシェル・フーコーは1979年1月24日のコレージュ・ド・フランスでの講義の中で『生政治の誕生』というタイトルの下、古典的自由主義に対するドイツの新自由主義(特にヴァルター・オイケン)の割合やそれに対する哲学者であるエトムント・フッサールの影響を検討していた[96]。

3.3 新マルクス主義による解釈

新マルクス主義の展望によれば、新自由主義は階級に関する問題を示していた。この見方は新自由主義をフォーディズムの局面において資本家の支配の弱体化に対する反応として解釈されていた。この対抗運動の目的は労働者の利益の抑制、企業収益の増加、所得格差の拡大であった[97]。新マルクス主義の観点からの最も重要な批判の1つはデヴィッド・ハーヴェイによるものになる[98]。彼の著作である『新自由主義―その歴史的展開と現在』において、ハーヴェイは新自由主義を経済エリートが権力を回復する政治的構想として解釈することが可能であると指摘していた[97][98]。

シャンタル・ムフやエルネスト・ラクラウは新自由主義を古典的自由主義における自由や後の政治的イデオロギーに対する挑戦的な試みの中に眺めていた。自由主義は自由を手に入れる手段として格差に取り組む国家の介入を考えていた。すぐに政治的自由は論争の中に含められ、結局のところ貧困や主な社会的格差は自由を危機に陥れる要因として認識されるようになった。新自由主義は「無制限に専有する権利や資本主義市場経済の中で干渉しないものとしての自由に対する伝統的な考え方」に戻ろうとしていた。このことは、潜在的な全体主義としていかなる「肯定的な」自由の考え方に対する評価をも落としてしまう構想を含んでいた[100]。

3.4 環境保護の観点からの批判

一部の環境保護主義者は、市場に対する規制緩和、民営化の推進、国家の役割の縮小を通じて生じたグローバル経済を、私たちの地球における生態系のバランスや自然の多様性に対する脅威として眺めていた[101][102][103][104][105]。市場の制約を取り除くことは生物資源が限られているという事実を無視したものであった。実質を伴わない見かけだけの富は社会的、人的、もしくは自然における資本から生じているので、個人の期待を重視する市場に対する新自由主義的な考え方は生物圏を荒廃させ、地域社会の利益を害するだろう[106]。

http://it.wikipedia.org/wiki/Neoliberismo

新自由主義

新自由主義は経済的自由主義(リベラル)の立場をとる人々によって用いられた言葉になり、80年代から大きな影響力をもった経済的ドグマになり、特にマーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンによるものが挙げられる。それは国家の経済の自由化、公共サービスの民営化、すべての非戦略部門の自由化、関税の撤廃を支持していた。

この政策を採用する国家において顕著な経済成長が見られたことにより、新自由主義の支持者たちは、長期において自由市場を促進することはGDPで測定される一般的な経済成長や貿易の促進を生じさせると説明していた。この好循環は富裕層の繁栄のみならず、広い民衆においても同様であるとされていた。

この経済改革はすべての人々の権利を擁護する側面がその人自身やその人生を自由にすると考えられていた。これらの理論は、厳密には保守層でなく、本質的には自由主義や資本主義に基づいた政治力によって支持されていた。

新自由主義に対する批判

批評によれば、新自由主義はすべての人々に恩恵をもたらすよう機能しておらず、国内の異なる社会階層にある人々の格差や富裕国と恵まれない国々の間の格差を助長していた。この政策は多数の人々を犠牲にして一部の国々や多国籍企業の富を増加させていた。

他の批評家は、再生することができない資源に損害を与え、負の外部性を生じさせることにより地球全体を犠牲にして、富裕化のプロセスが進行していたと指摘していた。メキシコ最大の州であるチアパス州で活動しているグループであるサパティスタ民族解放軍はこの経済モデルに反対しており、それはメキシコの植民地化をもたらすことを背景にしていた。

「ショック・ドクトリン』の中でナオミ・クラインは新自由主義の非民主的な特徴を批判していた。この理論は先入観を排除しており、戦争や災害のような惨事を通じた混乱やショックを利用したり、メディアを利用することを含んでおり、具体的には債務(世界銀行、WTO、IMF)を口実に一般の人々の利益に反し多国籍企業や圧力団体の利益に合致する自由主義の改革を推し進めるよう主要な金融機関が政府に圧力をかけていたことを指していた。

新自由主義という選択

新自由主義経済という選択は最近多くの第三世界(例えばミャンマーやパキスタン)そして社会主義から脱したヨーロッパの中部や東部の国々において採用されており、主な国際機関(世界銀行、WTO、IMF)に対するアクセスの後、その選択を迫られていた。

今、一体、何が起こってる?

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 新聞・TVの評判の変化を耳にする機会が増えたのは、
ここ数年のこと。昔からだと言われれば、それまでだが、
そうじゃないだろ、何故だ?

 何故、ここ数年、国内の右傾化した論調を耳にする
機会が増えた?今、一体、何が起こってる?

 ここからが今日の課題。

 英検対策は過去問。正答率は、大問3が12/20。
スピーチの練習をしたが、喉と腹の調子が思わしくない。
すぐに元に戻すさ。

 仏検対策は筆記とディクテ。ここも演習量の低下に
気付いた以上、復習の組み込み方を再度考えて
いくべき時期にきている。

 明日もがんばろう。

 では。

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2016・11・15 改訂
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