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The Beginning of the End

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「終わりの始まり」といったフレーズは20世紀後半の欧米の映画・テレビ番組・文学作品・音楽で使い古された言い回しになるが、その背景として、ナチスの台頭を許容したワイマール共和国の崩壊を叙述するのみならず、推論に用いる理論体系や科学的アプローチまで否定してしまったポストモダニズムやある種のフレンチ・セオリーが広く浸透していたことが挙げられるかもしれない。

そして現在の欧米においてポストモダニズムの終焉が論じられている中、日本の人文科学・社会科学は少なくともマッカーシズム以前のアメリカによる占領政策を通じて教授会の自治が再度保証されることになった戦後以降長らく停滞を続けており、その理由は大学における徒弟制度が後押ししている面もあるのだが、いずれにせよ「終わりの始まり」の終焉が論じられたことはなかったと記憶している。

論理を飛躍させるなら、その結果として例えば1980年代後半のバブルの絶頂期に見られる「終わりの始まり」に類するものが姿や領域を変えて繰り返し登場していることをちょいちょい目の当たりにしていると感じることになったのは気のせいであろうか。

で、今話題になっている改憲案だが、南麻布の日米合同委員会に参加しているメンバーが陰に陽にパニッシュメントとインセンティブを与えながら素案を論じていくのだろうといったことを想像することがあり、すると改憲案の最初のドラフトが英文で記述されているといったケースもあるだろうなといったことを憶測することもあり、国内の報道におけるトーンやトピックスの選び方もその視点から眺めてしまいがちになってしまうのも気のせいであろうか。

乱筆失礼!

オールド・メディアやインターネット・メディアを参考にする限り、ブレクシットの要因として、1. ラディカルと中道派の軋み、2. ロンドン・スコットランドと他の地方との異存、3. 老人と若者の相違をクローズ・アップする報道が大勢を占めているようだが、これらの枠組みは少なくとも国内のスピンがうまく機能した結果であるとの見方に説得力を与えてくれている議論を以下に抜粋する。そしてブレクシットが抱えている問題はそのまま日本の問題に投影されていることになる。

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ポスト・デモクラシーという語はウォーリック大学の政治学者であるコリン・クラウチによって『コウピング・ウィズ・ポスト・デモクラシー』といったタイトルの著作の中で2000年に作られた造語であった。ポスト・デモクラシーはしっかりと機能している民主主義システム(選挙が行われることによって政権が交代し、また言論の自由が存在している状況)によってもたらされる状態を示していたが、そのような民主主義の事例はまだ限定的であった。またこの議論の前提として器の小さいエリートが問題になる決定を行い民主主義の制度を濫用していることが指摘されていた。クラウチはロンドンのシンクタンクであるポリシーネットワークにおける『イズ・ゼア・ア・リベラリズム・ビヨンド・ソーシャル・デモクラシー?』といった論文や『ザ・ストレインジ・ノン・デス・オブ・ネオリベラリズム』といった著作の中でポスト・デモクラシーに関するアイデアを深化させていた。

バランスを欠いたディベート:多くの民主的な国々において、政党の立場は非常に似通っていた。このことは有権者にとって選択できるものがないことを意味していた。その影響は政治的キャンペーンが立場の違いを強調するための広告のように映っていることにあった。また政治家の私生活も選挙の重要な道具になっていた。そして時折「センシティブ」な問題が争点から外されることがあった。イギリスの保守派のジャーナリストであるピーター・オボーンは2005年総選挙のドキュメンタリーを通じて、争点を限定的にして多くの浮動票をターゲットにしたことを理由にして総選挙が民主的なものではなかったと論じていた。

公共部門と民間部門の交錯:政治とビジネスの間の金銭的な癒着が大きな問題であった。ロビー企業を通じて多国籍企業はその国の住民より上手に法律をくぐり抜けることが可能であった。そして企業と国家は緊密な関係にあり、その理由として企業が雇用に大きな影響を及ぼしている点で国家が企業を必要としていることが指摘されていた。しかし製造プロセスの多くがアウトソーシングされており、企業が他国に逃げることが容易であるため、労働者は低賃金労働に従事することになり、さらに納税の主役は企業から個人に移り、その目的は企業にとって有利な条件を生み出すことにあった。そして政治家と経営者が政府からビジネスへ他方でビジネスから政府へジョブをスイッチすることは非常にありふれた光景になっていた。

私有化:公共サービスを民営化することを推進する「新しい公共経営」(ネオリベラリズム流の)の考え方が広まっていたが、民営化された組織は民主的な手段によってコントロールすることが困難であった。

結果として:

政治家は国民投票や世論調査における好ましくない結果をよく無視していた。2005年にフランスとオランダの国民が欧州憲法に対してノーを突きつけたときに、少し修正を加えただけで、フランスやオランダはこの条約を批准していた。

排外主義の政党の登場は国民の不満を利用したものであった。

解決の道:

クラウチによれば、ソーシャルメディアには重要な役割があり、有権者が公のディベートに対して積極的に参加する可能性を広げていることが指摘されていた。この延長として有権者は特定の利害を擁護するグループに参加する必要に迫られるかもしれなかった。また市民が意思決定する場をその手に取り戻す必要が存在していた。クラウチはこのような市民参加をポスト・ポストデモクラシーと呼んでいた。

オキュパイ・ウォールストリートは組織化されないある種の抵抗運動であり、金融業界に関する不満から生じていた。

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ポスト・デモクラシーは民主主義のルールに則った状況を意味していたが、実際は民主主義のルールの適用を制限しているように考えられていた。例えば経済学者であるセルジュ・ラトゥーシュによれば、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー――格差拡大の政策を生む政治構造』を引き合いに出しながら、ポスト・デモクラシーは「私たちが今日経験しているようにメディアやロビー活動によって巧みに操作されながらでっち上げられた民主主義」を示していた[1]。

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イギリスの政治学者であるコリン・クラウチ[1]はポスト・デモクラシーを次のように定義していた。

「選挙を経験しない専門家の役割[...]、選挙期間中の公開討論はスピンドクターによってコントロールされており、その内容はエンターテイメントに堕しており、矮小化された問題のみを論じており、その論点はそのスピンドクターによって周到に選び抜かれていた」[2]。

グローバル企業と国家の連携がポスト・デモクラシーを進展させていた。クラウチによれば、国際協調を通じた賃金、労働権、環境基準の調整が企業活動のグローバル化より遅れていることが主要な問題であることが認識されていた。多国籍企業が税制や労働環境に満足しなければ、職場を海外に移転することをカードにして揺さぶりをかける可能性が指摘されていた。このような揺さぶりの舞台(底辺への競争)は政府の決定に対して企業の影響が市民の影響より強いことを背景にしていた[4]。主要な論点は西洋の民主主義がポスト・デモクラシーの状態に近づいており、その後「恵まれたエリートの影響力」[5]が増大する点にあった。

他の論点として1980年代から政府が民営化を促進しながら市民の責任を重くする新自由主義を採用していたことが指摘されていた。クラウチは次のような事例を示していた。「国家が市民の生活に対する関心を失い、市民の無関心を助長するならば、気付かれないように企業はこのような状況を活用してセルフ・サービス方式を普及させていた。新自由主義の根底にある見通しの甘さはこのような状況を認識していないことにあった」[6]。

リッツィーとシャールはポスト・デモクラシーを「完全な民主主義という枠組みにおける擬似民主主義として認識することを通じて」説明していた[7]。

クラウチはポスト・デモクラシーという語が状況を適切に表現していると考えていた。「この状況のような民主主義においてある種の怠慢、葛藤、失望感が広がっており、強力な利益集団の代表達は[...]大多数の市民よりはるかに積極的に行動しており、エリートは国民の要求を操るための方法を学習しており、市民に対して選挙に行くように広告キャンペーンを通じて「上から」説得していた。」[8] またクラウチはポスト・デモクラシーが非民主的な状況とは異なっていることを指摘していた。

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示しているもう1つの側面は「市場経済や自由競争のレトリックを口実にして特定の実業家に政治的な特権を付与していること」にあった[13]。そしてこのような特権の付与は「民主主義にとって深刻な問題」になっていた[14]。

クラウチは「ポスト・デモクラシーへの道」を回避するために3つのステップを指摘していた。それは「まず経済界のエリートによる支配を制限する手段を確立し、次に経済に左右される政治の状況を改革し、最後に一般人の活動の可能性を広げること」であった[17]。最後の点を言い換えるとそれは「新たなアイデンティティ」[18]を形成することであり、例えば地域の寄合いを通じて関係者の活動の可能性を広げることを含んでいた。民主主義のリバイバルに対する希望は一般人のアイデンティティに影響を及ぼす新しいタイプの社会的ムーブメントに内在していた。このムーブメントは成果を上げるためのロビー活動を通じた「ポスト・デモクラティック」な仕組みを活用しなければならなかった。そして政党は民主主義のリバイバルのための核となる部分を残す必要性に直面していた。また政党による支援はクラウチによれば民主的な変化にとって必要なものであった[20]。クラウチは「動物愛護のための過激なキャンペーン、アンチ・キャピタリストやアンチ・グローバリゼーションのアクティビスト、レイシズム団体、リンチと変わらない犯罪撲滅キャンペーン」に反対していた[21]。

政治学者であるローランド・ロスは自治体レベルでの市民の関与を深め、民営化された施設を再度公営化するようにパブリックスペースを国家を通じて再生し、アクターに参加を促すことを提案していた[23]。ダニエル・ライトチヒは市民の判断、リキッド・デモクラシー、セルフ・マネジメントへの回帰、より小さな行政単位、子供の頃からの社会参加の機会の拡大、対抗的な公共圏の構築に言及していた[24]。

ポスト・デモクラシー特有の傾向は国際的な統合の帰結から生じており、そこにはまだ共通の議論の土壌も国際紛争を民主的に解決するためのコンセンサスを形成する土台も存在していなかった。この事例は欧州連合になり、実際のところ欧州連合は民主主義の赤字を部分的に抱えていた。そして政治的な運動は欧州連合の政治システム特に欧州憲法における民主主義の赤字を具体的に改善する[28]ことを十分に考慮していなかった。

インタビューの中でクラウチはオバマの運動が「民主主義の内部崩壊についての私の主張を否定することになった」と述べていた。「そして「確かにオバマは民主党の候補者であったが、実際のところオバマは若者をホワイトハウスへ送ろうとする運動の中に位置付けられており、将来に対する希望であった」[29]。

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前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカ、フランス、ドイツのWikipediaの「ニュー・ケインジアン経済学」、「新しい新古典派総合」、「新古典派総合」、「新しい古典派マクロ経済学」、「AD-ASモデル」、「ポスト・ポリティクス」、「メタ・ポリティクス」、「ポスト・デモクラシー」、「第二の近代」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_Keynesian_economics

ニュー・ケインジアン経済学

ニュー・ケインジアン経済学はケインジアン経済学に対してミクロ経済学的基礎を与えるマクロ経済学の学派であった。そしてニュー・ケインジアン経済学は新しい古典派によるケインジアンマクロ経済学に対する批判を受け止めていた。

また2つの大きな仮定がマクロ経済学に対するニュー・ケインジアンのアプローチを特徴付けていた。つまり新しい古典派のようにニュー・ケインジアンによるマクロ分析は家計と企業が合理的に期待を抱くことを前提にしていた。しかし両者はニュー・ケインジアンが多様な市場の失敗を想定している点で異なっており、ニュー・ケインジアンは価格や賃金が経済状況に合わせて瞬時に調整されない「粘着性」を有していることを背景にした不完全競争を想定していた。

ニュー・ケインジアンのモデルが想定している賃金や価格の粘着性や多様な市場の失敗は経済が完全雇用を達成することに失敗していることを包含していた。したがってニュー・ケインジアンは政府や中央銀行によるマクロ経済の安定化(財政政策や金融政策の活用)が自由放任主義の政策より効率的にマクロの指標を改善することができると主張していた。

1 ニュー・ケインジアン経済学の展開

1.1 1970年代

ニュー・ケインジアン経済学の最初のウェーブは1970年代後半に登場していた。情報の粘着性に関する最初のモデルはスタンレー・フィッシャーの1977年の論文である『ロングターム・コントラクツ・ラショナル・エクスペクテーションズ・アンド・ザ・オプティマル・マネー・サプライ・ルール』[2]によって示されていた。スタンレー・フィッシャーは「タイムラグのある」ないし「オーバーラップする」契約モデルを採用していた。そこでは経済に2つの労働組合が存在していることが想定されており、順繰りに賃金が定められており、ある労働組合の番になるとその後の2つの期間分の賃金が決定されていた。また名目賃金が生涯を通じて一定であるようなジョン・B・テイラーのモデルとの違いはスタンレー・フィッシャーによる2本の論文つまり1979年の『スタッガード・ウェイジ・セッティング・イン・ア・マクロモデル』[3]と1980年の『アグリゲイト・ダイナミクス・アンド・スタッガード・コントラクツ』[4]の中に示されていた。テイラーとフィッシャーによる契約の概念によれば、ある労働組合は最新の情報を活用して現在の賃金を定めており、他の労働組合は古い情報に基づきながら賃金を定めていた。テイラーのモデルは名目賃金の粘着性に加えて情報の粘着性を採用しており、名目賃金は2つの期間を超えて一定であった。この初期のニュー・ケインジアンによる理論は、名目賃金を固定しながら金融当局(中央銀行)が失業率をコントロールできるとの前提に基づいていた。賃金が名目レートで固定されているので、金融当局はマネーサプライを調節することによって実質賃金(インフレを考慮した賃金)をコントロールすることができ、したがって失業率を調整していた[5]。

1.2 1980年代

1.2.1 メニュー・コストと不完全競争

1980年代に価格の粘着性を説明するために不完全競争の枠組みにおけるメニュー・コストを用いることが研究されていた[6]。価格の調節に相反する一括費用(メニュー・コスト)の概念は価格変更の頻度に対するインフレの影響に関する論文を通じてシェシンスキーとワイス(1977年)によって導入されていた[7]。名目賃金の硬直性についての一般理論としてメニュー・コストを適用するアイデアは1985年から1986年にかけて数人の経済学者によって提案されていた。そしてジョージ・アカロフやジャネット・イエレンはもし便益が大きくなければ限定合理性を通じて企業は価格の変更を望まないだろうといったアイデアを採用していた[8][9]。つまり限定合理性は本来なら変動するはずの名目価格や名目賃金の硬直化を促していた。グレゴリー・マンキューはメニュー・コストを取り上げながら、価格の硬直性がもたらす取引量の変化を通じた経済厚生に対する影響にフォーカスしていた[10]。またマイケル・パーキンも同じアイデアを提唱していた[11]。このアプローチは名目価格の硬直性に着目していたけれども、オリヴィエ・ブランチャードや清滝信宏による『モノポリスティック・コンペティション・アンド・イフェクツ・オブ・アグリゲイト・ディマンド』を通じて名目価格の硬直性は賃金や価格全般に拡張されていた[12]。ヒュー・ディクソンやクラウス・ハンセンは、メニュー・コストが経済の小さなセクターに適用されるケースでも名目価格の硬直性は残りのセクターに影響を及ぼしており、価格全般が需要の変化にあまり反応しない背景を示していた[13]。

そして複数の研究がメニュー・コストがトータルとして然程大きくないことを示唆していたが、ローレンス・ボールやデビッド・ローマーは1990年に実質価格の硬直性が大きな不均衡を生み出すほどの名目価格の硬直性と相互作用している可能性があることを示していた[14]。経済環境の変化に対して企業がゆったりと実質価格を調整しているときに実質価格の硬直化が生じていた。例えば企業が市場を支配しているか要素投入に対するコストが契約を通じて一定期間固定されているならば、その企業は実質価格の硬直性に直面していた[15]。ボールやローマーによれば、労働市場における実質価格の硬直性が企業のコストを高い水準で維持させており、企業が価格を切り下げることを躊躇わせていることが指摘されていた。つまり価格変更にともなうメニュー・コストに関連した実質価格の硬直化による損失は企業が需給ギャップに合わせて価格を切り下げる蓋然性を低減させていた[16]。

仮に価格全般が完全にフレキシブルであっても、不完全競争は乗数効果の面で財政政策に影響を与える可能性を包含していた。ヒュー・ディクソンやグレゴリー・マンキューは財政政策における乗数効果が生産物市場における不完全競争の程度に応じて増大する可能性があることを示す一般均衡モデルを別々に発展させていた[17][18]。これは生産物市場における不完全競争が実質賃金を押し下げ、家計が余暇から労働へ時間を振り向ける傾向があることを理由にしていた。概して政府支出が増加するときの課税の拡大は労働と余暇双方の減少の要因になっており(ここで労働と余暇が正常財であることを仮定している)、生産物市場における不完全競争の程度が大きくなるにつれて実質賃金が低下すると、余暇の減少は拡大し(つまり労働が拡大することによる)労働の減少は縮小していた。したがって財政政策の乗数は1より小さいものの不完全競争の程度に応じて増加する傾向を示していた。

1.2.2 ギジェルモ・カルボによるスタッガード・コントラクツ・モデル

1983年にギジェルモ・カルボは『スタッガード・プライシーズ・イン・ア・ユーティリティ・マキシマイジング・フレームワーク』を発表していた[19]。その元論文は連続時間を採用していたが今日では離散時間を用いている。カルボのモデルはニュー・ケインジアン流に名目価格の硬直性をモデル化するための一般的な方法を示していた。そこでは企業が任意の期間においてその価格リストを改訂する確率(危険率 h)と価格がその期間において改定されない確率(生存率 1-h)が与えられていた。その確率(h)は時として「カルボ確率」と呼ばれていた。契約期間が事前に知らされているテイラーによるモデルと対照的に、カルボ・モデルにおける重要な特徴はプライス・セッターが名目価格が改定されない期間を知らないことにあった。

1.2.3 協調の失敗

協調の失敗は不況や失業を説明する潜在力を有していたニュー・ケインジアン経済学におけるもう1つの重要な概念であった[21]。いったん不況になると例え人々が労働の意欲を有しており仕事のある人々が購買意欲を有していたとしても工場がアイドル状態になる可能性が存在していた。この筋書きによれば、経済的な陰りは協調の失敗の産物であり、見えざる手が生産と消費における最適なフローを調整することに失敗していたことが指摘されていた[22]。ラッセル・クーパーとアンドリュー・ジョンによる1988年の論文である『コーディネーティング・コーディネーション・フェイラーズ・イン・ケインジアン・モデルズ』はお互いの状況を改善する(少なくとも悪化させない)ために個々の経済主体が協調する可能性を示す複数均衡を有するモデルにおける協調を一般化していた[20][23]。クーパーとジョンによる研究はマッチング理論を包含した協調の失敗における事例をピーター・ダイヤモンドが1982年に示したココナッツ・モデルのような初期の研究に依存していた[24]。ダイヤモンドのモデルにおいて生産者は他の生産者が生産していれば生産に着手する傾向にあった。そして潜在的な取引企業の増加は取引相手を見つける蓋然性を高めていた。協調の失敗における他の事例として、ダイヤモンドのモデルは複数均衡を前提にしており、ある経済主体の経済厚生が他の経済主体による意思決定に依存していることが指摘されていた[25]。またダイヤモンドのモデルは多くの人や企業が参入すればするほど市場がうまく機能するようになるといった「市場厚の外部性」を示していた[26]。さらなる協調の失敗の事例として「自己実現性」が指摘されていた。もし企業が需要の落ち込みを予想しているならば雇用の削減に踏み切る可能性があり、その結果としての求人数の不足は労働者に不安をもたらし消費を一層落ち込ませる可能性を高めていた。つまり需要の落ち込みは企業にとって想定内であったが、その原因は企業の行動(想定)に起因していた。

協調の失敗のモデルにおいて、代表的企業(ei)はあらゆる企業(ē)の平均的な生産に依拠しながら生産を行っていた。代表的企業が平均的な企業と同じロットを生産するとき(ei=ē)、経済は45度線上にあり均衡していた。そして決定曲線は45度線と3箇所で交錯していた。企業は最適解である点Bで協調しながら生産する可能性を有しながらも、協調が存在しなければ、企業は効率性が劣る他の均衡点で生産する可能性も有していた[20]。

1.2.4 労働市場の失敗:効率賃金

ニュー・ケインジアンは労働市場の失敗を明示していた。ワルラス市場において失業者は労働者に対する需要が供給と釣り合うまで賃金を切り下げられていた[27]。市場がワルラス的であるならば、失業者のオーダーはジョブ・チェンジする労働者のオーダーに限定されており、低すぎる賃金では労働者が集まらないことが理由であった[28]。ニュー・ケインジアンは市場が自発的失業を促している背景を分析する理論を構築していた[29]。ニュー・ケインジアンによる理論の中で特筆すべきは効率賃金理論であり、短期的な失業の増加がトレンドになり長期的失業を高止まりさせるように、過去の失業に起因する長期的な影響を説明していた[30]。

シャピロ=スティグリッツのモデルによれば、労働者はサボタージュしないレベルの賃金を支払われており、その高賃金が失業を生じさせていた。サボタージュさせない条件を示す曲線(NSC曲線)は完全雇用に近づくにつれ無限大に発散していた。

効率賃金モデルにおいて労働者は労働市場の需給に合わせたレベルよりむしろ生産性を最大化するレベルの賃金を支払われていた[31]。例えば途上国の企業が労働者が生産性を高めるのに十分なリソースを有していることを保証する賃金以上の賃金を支払う可能性が指摘されていた[32]。また企業が忠誠心やモラルを高め生産性を向上させるために高い賃金を支払う可能性も指摘されていた[33]。さらに企業がサボタージュを回避するために市場の需給による賃金以上の賃金を支払う可能性も指摘されていた[34]。カール・シャピロとジョセフ・スティグリッツによる1984年の『イークウィリブリアム・アンエンプロイメント・アズ・ア・ワーカー・ディシプリン・デバイス』は企業が労働者の取組みをモニターしたりサボタージュしている労働者に解雇をチラつかせたりしなければ被雇用者が勤勉に仕事をしないモデルを呈示していた[35][36]。仮に経済が完全雇用の状態にあるのならばサボタージュによって解雇された労働者は単に新たなジョブに移るだけであった[37]。個々の企業は労働者がサボタージュやジョブ・チェンジのリスクより仕事をキープすることを歓迎していることを保証する賃金にプレミアムを加えて労働者に対して賃金を支払っていた。個々の企業は市場の需給による賃金以上の賃金を支払っているので、アグリゲートされた労働市場は需給調整に失敗していた。このメカニズムは失業者をプールさせており、解雇を増加させていた。労働者は収入低下のリスクに加えて失業者のプールにスタックされ続けるリスクに直面していた。しかし市場の需給による賃金以上の賃金をキープすることは確かに失業者を生じさせていたけれども労働者をサボタージュさせないインセンティブを与えていた[38]。

1.3 1990年代

1.3.1 新しい新古典派総合

1. 1990年代の初頭に経済学者たちは1980年代に進化していたニュー・ケインジアン経済学とリアルビジネスサイクル理論の中身を統合し始めていた。リアルビジネスサイクル理論は経時的変化を組み込んだ動学でありながら完全競争を仮定しており、ニュー・ケインジアンのモデルは経時的変化を組み込んでいない静学でありながら不完全競争に依拠していた。新しい新古典派総合はリアルビジネスサイクル理論の動学とニュー・ケインジアンのモデルにおける不完全競争や名目価格の硬直性を統合させていた。タック・ユンはカルボ型のモデルを採用しながら新しい新古典派総合を初めて実現していた研究者の1人であった[39]。グッドフレンドやキングは異時点間の最適化、合理的期待、不完全競争、メニュー・コスト等を考慮した価格調整のように新しい新古典派総合の核になる4つの要素を列挙していた[40][41]。グッドフレンドやキングによれば、コンセンサスモデルは政策的な含意を生み出しており、金融政策が短期的な実質GDPに影響を及ぼす可能性を有していながらも長期的な実質GDPに影響を及ぼすことを示しておらず、貨幣は短期において中立的ではなかったが長期において中立的であることが指摘されていた。そしてインフレは経済厚生に対してマイナスの影響を及ぼしており、インフレ・ターゲットのような政策を通じて中央銀行がクレディビリティを維持することが肝要とされていた。

1.3.2 テイラー・ルール

1993年に[42]ジョン・B・テイラーは、インフレ、GDP、他の条件における変動に応じて中央銀行が名目金利を調整すべきであるといった金融政策におけるルールであるテイラー・ルールのアイデアを定式化していた。特にテイラー・ルールによればインフレ率が1%上昇するたびに中央銀行は名目金利を1%以上上昇させることが想定されていた。そしてテイラー・ルールにおけるこのような想定はテイラー原理と呼ばれていた。

オリジナルのテイラー・ルールによれば名目金利は望ましいインフレ率と実際のインフレ率との差や実際のGDPと潜在GDPとの差に応じて調整されることが期待されていた。

eqn58.png

この式において、itは政策金利であり短期名目金利であり(アメリカにおけるフェデラル・ファンド金利やイギリスにおけるBOEBR)、πtはGDPデフレーターを用いたインフレ率であり、πt*は望ましいインフレ率であり、rt*は想定される実質金利の均衡であり、ytは実質GDPの対数であり、ytは線形のトレンドを通じて決定されていた潜在GDPの対数であった。

1.3.3 ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブ

ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブは1995年のロバーツの議論に由来しており、ニュー・ケインジアンのDSGEモデルの中で用いられていた[44]。ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブによれば現在のインフレは現在のGDPと将来のインフレに対する期待に依拠していた。このフィリップス・カーブは価格決定に関するカルボ型の動学モデルから導出されていた。

eqn59.png

将来のインフレに対する現在の期待がβ*Ett+1]として表されており、βはその割引率を示していた。定数κはGDPに対するインフレの変化を示しており、全期間における価格変動の確率hを通じて定められていた。

eqn60.png

名目価格の硬直性が小さければ(hが大きければ)現在のインフレに対するGDPの影響が増大することが示されていた。

金融政策に対する科学的アプローチ

1990年代に展開していたさまざまなアイデアが金融政策を分析するためのニュー・ケインジアンによる動学的確率的一般均衡(DSGE)を展開することを通じて統合されていた。DSGEモデルはジャーナル・オブ・エコノミック・リテラチャー誌におけるリチャード・クラリダ、ジョルディ・ガリ、マーク・ガートラーによる研究を通じてニュー・ケインジアンのモデルに依拠した3本の方程式に集約されていた[45][46]。DSGEモデルは最適化されたダイナミック・コンサンプション・ファンクション(家計におけるオイラー方程式)に由来する動学的IS曲線とニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブやテイラー・ルールからなる2本の方程式を統合していた。

eqn61.png

これらの3本の方程式は政策上の問題を理論的に分析することを考慮した比較的シンプルなモデルであった。しかしDSGEモデルはある面で単純化されすぎており(例えば資本や投資が登場していないことが指摘されていた)、現状を経験的にうまく説明していなかった。

1.4 2000年代

2000年代になってニュー・ケインジアン経済学における幾つかの進歩が見受けられていた。

1.4.1 不完全競争労働市場の導入

1990年代のモデルは生産物市場における価格の粘着性にフォーカスしており、2000年にクリストファー・エルツェッグ、デール・ヘンダーソン、アンドリュー・レビンはグループ化されていない労働市場に対するブランチャード=清滝モデルを採用しており、そのブランチャード=清滝モデルをニュー・ケインジアンのDSGEモデルに統合していた[47]。

1.4.2 複雑なDSGEモデルの展開

データと親和性があり政策に有用となるモデルにするために非常に複雑なニュー・ケインジアンのモデルは幾つかの特性を進化させていた。そして極めて重要な論文がフランク・スメッツやラファエル・ウーターズ[48][49]さらにローレンス・J・クリスティアーノ、マーティン・アイヘンバウム、チャールズ・エヴァンス[50]によって発表されていた。これらのモデルにおける共通点は次のようなものであった。

習慣の継続:消費の限界効用は過去の消費に基づいていた。

物価スライド制を伴う生産物市場におけるカルボ型の価格決定:賃金や価格が需給に合わせて調整されない中インフレに合わせて上昇していった。

資本調整コストと可変資本稼働率

新たなショック
1. 消費の限界効用に影響を及ぼす需要ショック
2. 限界費用に対する望ましい価格マークアップに影響を及ぼすマークアップ・ショック

テイラー・ルールに基づいた金融政策

ベイズ推定モデル

1.4.3 情報の粘着性

フィッシャーのモデルにおける情報の粘着性のようなアイデアはグレゴリー・マンキューやリカルド・レイスによって進化を遂げていた[51]。そしてマンキューやレイスはフィッシャーのモデルに次のような特性を組み込んでいた。各期間を通じて賃金や価格を変更することに対して一定の確率が与えられていた。そしてマンキューやレイスによれば四半期ごとのデータを通じてその確率が25%になるだろうといったことが想定されていた。つまり各四半期を通じてランダムに選ばれた企業や組合の25%が現在の情報に依拠して現在ないし将来の価格を変更するであろうといったことが前提とされていた。したがって仮の話になるが私たちは現在を次のように把握しており、価格の25%が利用可能な最新の情報に基づいており、残りの価格は過去の情報に依拠していた。マンキューやレイスによれば情報の粘着性を採用したモデルは長引くインフレをうまく説明していた。

情報の粘着性を採用したモデルは名目価格の硬直性を採用していなかった。企業や組合は各期間を通じて異なった価格や賃金を自由に選択していた。つまり情報は粘着的であったが価格は粘着的ではなかった。したがって企業が業績の向上を通じて現在ないし将来の価格を変更することを想定するならば、現在ないし将来において最適になると思われる価格の推移も選択されるであろう。そしてこの想定はあらゆる期間を通じてばらばらな価格を設定するケースを包含しており、価格決定に関する経験的な事実と相違していた[52][53]。他方でアメリカ[54]、ユーロゾーン[55]、イギリス[56]等の国々における価格の硬直性が研究されていた。これらの研究によれば、価格変更が頻繁に生じるセクターがある一方、ずっと価格が固定されているセクターも存在していた。情報の粘着性を採用したモデルにおける価格の硬直性の欠落は多くの経済における価格の振舞いと一致していなかった。そしてこの研究を通じて価格の硬直性と情報の粘着性を融合させた「デュアル・スティッキネス」が定式化されていた[53][57]。

2 政策的な含意

ニュー・ケインジアンは長期における古典派の二分法つまりマネーサプライの変動が中立的であることについて新しい新古典派と意見が一致していた。しかしニュー・ケインジアンのモデルによれば価格が硬直的であるために、マネーサプライの増大(もしくは金利の低下)が短期的にGDPを増加させ失業率を低下させることが指摘されていた。さらに一部のニュー・ケインジアンのモデルによればいくつかの条件を通じて貨幣の中立性が成立しないケースがあることが指摘されていた[58]。

しかし一方でニュー・ケインジアンは短期的なGDPや雇用のゲインを求めて金融政策を拡大することに賛同しておらず、つまりそれがインフレ期待を上昇させることを通じて将来に問題を先送りしていることが理由として指摘されていた。その代わりにニュー・ケインジアンは経済安定化のために金融政策を活用することを主張していた。つまり一時的なブームを生み出すために突然マネーサプライを増大させることは推奨されておらず、言い換えると膨らんだインフレ期待を鎮めるための景気後退が伴うことであろうことが理由として指摘されていた。

しかし経済が予想外の外的ショックに見舞われたときに金融政策を通じたショックによりマクロ経済に対する影響を相殺することは良いアイデアであると見做されていた。仮に予想外のショックがGDPやインフレを低下させる傾向にあるならば(消費需要の落ち込みのように)、金融政策を通じた相殺はこの良い事例であった。このようなケースにおいてマネーサプライの増加(金利を下げること等)はGDPの増大をもたらしており、インフレやインフレ期待を安定化させていた。

ニュー・ケインジアンによるDSGEモデルにおける最適な金融政策の研究はテイラー・ルールにおける金利の役割にフォーカスしており、どのように中央銀行がインフレやGDPの変動に応じて名目金利を調整しているのかについて論じていた。(より正確に言えば最適なルールは通常GDPギャップにおける変動に対してそのつど生じていた。) またニュー・ケインジアンによるいくつかの単純なDSGEモデルにおいて、安定したインフレがGDPや雇用を望ましい水準で安定させていることからインフレの安定化が望まれていることが示されていた。ブランチャードやガリはこの性質を「神のなせる偶然」と呼んでいた[59]。

しかしブランチャードやガリによれば、複数の不完全市場(雇用調整における摩擦的失業や価格の硬直性による)において「神のなせる偶然」は存在しておらず、その代わりにインフレの安定化と雇用の安定化におけるトレードオフが生じていた[60]。一部のマクロ経済学者によればニュー・ケインジアンによるモデルは四半期ごとの政策提言に対して辛うじて役に立つこともある状態であり、見解の不一致を抱えていた[61]。

近年「神のなせる偶然」は標準的なニュー・ケインジアンによる非線形モデルにおいて成立しなくなってきていることが示されていた[62]。この特徴は金融当局がインフレ目標をゼロに設定しているときにのみ成立していた。他のインフレ目標が設定されているときには、賃金の硬直性のような不完全市場の要因が存在していないときでさえインフレの安定化と雇用の安定化におけるトレードオフが生じており、「神のなせる偶然」はもはや存在していなかった。

3 他のマクロ経済学との関係

長年にわたりケインジアンに倣うかその反面ケインジアンと対立していた「新しい」マクロ経済学が影響力を与えていた[63]。ポール・サミュエルソンはケインズ経済学を新古典派経済学と統合するために「新古典派総合」という語を用いていた。このアイデアは政府と中央銀行が共に完全雇用を目指していることを包含しており、希少性を理論の中心に組み込んだ新古典派による概念を用いていた。そしてジョン・ヒックスによるIS-LMモデルは新古典派総合を核に据えていた。

消費と投資のミクロ的基礎を強調していたジェームズ・トービンやフランコ・モジリアーニのような経済学者による研究はネオ・ケインジアニズムと呼ばれていた。ネオ・ケインジアニズムはポール・デヴィッドソンによるポスト・ケインジアニズムと対照的であり、デヴィッドソンは民間設備投資に関連した減価償却における不確実性の役割を強調していた。

ニュー・ケインジアニズムはロバート・ルーカスや新しい古典派に対するリアクションであった[64]。新しい古典派は「合理的期待」の概念に基づいてケインジアニズムの矛盾を批判していた。また新しい古典派は合理的期待とただ1つの市場均衡(完全雇用の)を統合していた。ニュー・ケインジアンは価格の硬直性が市場価格の均衡を阻害することを示す「ミクロ的基礎」に依拠しており、合理的期待による均衡が1つに定まることが条件とされていないことを指摘していた。

新古典派総合は財政・金融政策が完全雇用を維持するために有用であろうことを期待しており、新しい古典派は価格や賃金の調整が短期的に完全雇用を達成するであろうと想定していた。他方でニュー・ケインジアンは価格が短期において「硬直的」であることを理由にして完全雇用を「長期において」達成されるものと見做していた。

そして2008年のリーマン・ショックを通じて世界銀行やIMFのような国際機関、国際貿易システム、マクロ政策(金融・財政政策のミックス)の協調の意義をケインズが強調していたことが指摘されていた。またIMFのエコノミスト[65]やドナルド・マークウェル[66]による研究にこのような政策の協調が反映されていた。

https://de.wikipedia.org/wiki/Neukeynesianismus

ニュー・ケインジアニズム

ニュー・ケインジアニズムはケインズ流の価格決定つまり賃金の硬直性を新古典派の均衡モデルと組み合わせた経済理論であった。ニュー・ケインジアニズムはミクロ的基礎を採用したモデル(新しい新古典派総合)を通じてそれまでの新古典派総合を塗り替えていた。そして金融政策とりわけ金利政策の有効性を強調していた[1]。

ニュー・ケインジアニズムは1980年代に始まり、国際マクロ経済学の主流となっていった[2]。1970年代のケインズ主義とマネタリズムの間の国民経済論争を経て、1980年代以降のニュー・ケインジアニズム、新しいケインジアニズム(合理的期待を考慮した新古典派の価格均衡モデル)、新しい古典派経済学(完全市場の想定を緩めている)の間に論争が生じていた[3]。

1 ニュー・ケインジアニズム以前の時代

ジョン・メイナード・ケインズは1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著しており、世界的な経済危機のその後を理論化していた。しかしこの著作は経済学者の間でも理解しにくいことで知られていた。1937年にジョン・R・ヒックスはIS-LMモデルを通じて一般理論の解釈を単純化していた。IS-LMモデル(後に修正されながら発展していった)は新古典派総合の一部を形成しており、多くの経済学者によって取り上げられており、1930年代の失策を回避することが可能であったことが指摘されており、新古典派の思想から影響を受けているとも考えられていた。新古典派総合における折衷主義によれば、長期においては新古典派の理論に意味があったが、短期においてはケインズ流の介入主義に価値があるとされていた。そして調整期間の後にフレキシブルな価格や賃金を採用している市場は完全雇用やパレート最適な状態に向かうとされていた。しかし価格や賃金の硬直性は必要とされている調整メカニズムを阻害しており、失業にともなう経済危機を先送りしていることが指摘されていた。他方で新古典派総合はケインズによる概念をカバーしており、数十年にわたり主流派の経済理論であり続けていた[4]。

しかし1970年代にスタグフレーションが生じたことについて、新古典派総合はそのインフレの上昇を説明することができなかった。他方マネタリズムはマネーサプライがインフレに作用するとの解釈を通じて主流派の経済理論に上りつめていた[4]。マネタリズムによれば名目GDPの増加に対してマネーサプライの増加を比例させるならば経済成長と適度なインフレが安定した水準で推移することが指摘されていた。しかしマネーサプライをコントロールするためには貨幣の流通速度を想定することが必要とされていた。貨幣の流通速度は過去のデータを用いた線形モデルによって推計されていた。しかし金融システムの規制緩和、マネー・マーケット・アカウントの導入、金融革新を通じて、1980年代以降の貨幣の流通速度は予測不能になり時として激しい変動を示していた。その結果として名目GDPとマネーサプライの相関は消えてしまっていた。この事実はマネタリー・ターゲットの有用性に疑問を投げかけており、多くの経済学者がマネタリズムから離れていった[5]。そして1980年代には新しい古典派マクロ経済学が主流になっており、合理的期待形成仮説や効率的市場仮説がマネタリズムより市場原理に適っていることが主張されていた[6]。合理的期待形成仮説を研究していたロバート・E・ルーカスは1980年代にケインジアニズムの終焉を宣言していた。

「自己の研究をケインジアンのものと見做す40才以下の経済学者はほとんど見受けられなかった。実際のところ人々はケインジアンと見做されることに対する苛立ちを隠していなかった。研究会の場で人々はケインジアンの理論構成をシリアスに受け止めておらず、聴衆はお互いにくすくす笑うだけであった。」

ちょうどこの頃ニュー・ケインジアン経済学の研究が始まっていた。そしてそれまでのフィリップス・カーブはインフレ期待を考慮したニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブに拡張されていた。また新古典派総合に代わってミクロ的基礎を強調したマクロモデルが展開されていた[1]。ニュー・ケインジアニズムが今日の北米のマクロ経済学を席巻している背景として、新しい古典派やマネタリズムが多くの経験的なエビデンスと矛盾しており、DSGEモデルのようなニュー・ケインジアンのモデルが現状を他のモデルよりうまく説明している事実が指摘されていた[7]。

2 名目価格の硬直性におけるミクロ的基礎

ニュー・ケインジアニズムはDSGEモデルに依拠していたが、新しい古典派のマクロ経済学とは基本的に異なっていた。そしてリアルビジネスサイクル理論(新しい古典派のマクロ経済学)はインフレ、失業、GDPを包含しない完全競争という現実的でない仮定に依拠していた[8]。そのためニュー・ケインジアンのモデルは企業が市場に反応した価格調整をすぐに行わず(価格の粘着性)、労働市場の変化に対して賃金の調整をすぐに行わないこと(賃金の粘着性)を考慮していた。古典的なケインジアニズムにおける賃金の硬直性は例えば労働者の名目賃金に対する想定に依拠していた。ロバート・E・ルーカスはこの想定を批判しており、その理由として人間の行動についてアドホックな前提しか示していないことが指摘されていた。とりわけルーカスによって提唱された新しい古典派マクロ経済学は市場参加者による合理的期待に依拠しており、価格や賃金が完全にフレキシブルであり、経済的変動が外生的に生じるのみであり、非自発的失業は考慮されていなかった。ニュー・ケインジアニズムは確かに合理的期待に依拠していたものの、それとは異なる合理的根拠を提示しており、他方で価格の硬直性を肯定していた[1][2]。

賃金はしばしば長期にわたって硬直的であった。

消費習慣はゆったりとした変化を示していた。

情報は入手困難な性質を示していた。

企業による投資は調整コストを生じさせる一因になっていた。

価格変更は調整コストを生じさせる一因になっていた(メニュー・コスト)。

例えば供給契約や団体協約のような契約上の義務によって価格はタイムラグを伴いながら調整されていた(スタッガード・プライシング)。

ヒステリシス(経済学における履歴効果)。

協調の失敗[9]。

新古典派の理論と異なり完全市場に依拠しておらず、つまり完全市場が現実に置いて稀であることを理由にしており、独占競争に根拠を求めていた。

3 広範な市場の失敗

ニュー・ケインジアンのモデルを通じて広範な市場の失敗が時折り取り上げられていたことが指摘されていた。

不完全な信用市場[10][11]。

モラル・ハザード[12]やマッチング理論における諸問題[13]による失業。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Nouvelle_économie_keynésienne

ニュー・ケインジアン経済学

ニュー・ケインジアン経済学は新しい古典派経済学に対する反応として1980年代に生じていた。もし新古典派の一般均衡理論との関連でニュー・ケインジアン経済学を理解するならば、完全情報の想定を緩めている点に特徴が見出されていた。さらにケインジアンの経済政策(財政赤字や低金利)[1]が市場を機能させることについての構造的な問題を十分に考慮していない点に対して批判的であった。

新しい古典派と対照的にニュー・ケインジアンは市場が需給に応じてすぐに調整されるとは考えていなかった。実際のところニュー・ケインジアンにとって賃金や価格はフレキシブルではなく硬直的なものであった。そして賃金や価格の粘着性は不完全情報に由来していることが指摘されていた[2]。ニュー・ケインジアンの視点は経済をよく機能させるために国家の機能を市場に代替していくことに対してプライオリティを置いていなかった。

代表的なニュー・ケインジアンの中にジョセフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ、ジェームズ・マーリーズ、マイケル・スペンス、ジャネット・イエレン、グレゴリー・マンキュー、IMFのチーフエコノミストであるオリヴィエ・ブランチャード、クリントン政権の財務副長官であったローレンス・サマーズ、ベン・バーナンキ(FRBの元議長であり、2013年にジャネット・イエレンとバトンタッチした)が含まれていた。

1 共通の枠組み

グレゴリー・マンキュー[5]にとって「新しい新古典派総合の核は短期における価格の「硬直性」や多くの市場における不完全性による資源の最適配分から派生したDSGEモデルを通じて経済を認識していることにあった」。

新しい古典派経済学にとって「ビジネスサイクルは予想外の金融ショックないし実物ショックをを通じて説明されており」[6]、ニュー・ケインジアン経済学にとって「景気後退は規模が大きい複数の市場の失敗によって引き起こされており、あるケースにおいて経済に対する政府の介入が肯定されていた」ことが指摘されていた[5]。また新しい古典派と異なりマネタリストのように[5]、ニュー・ケインジアンは金融政策が短期の雇用やGDPに影響を及ぼす蓋然性を想定していた。

協調の失敗に関連した市場の不完全性を抱える中で景気後退の要因は複数存在していた。

その1つはカタログの改定費(メニュー・コスト)であった。つまり価格を調整し続けることが困難であり、度重なる価格変更が企業や顧客の手間になるといった外部性を伴っていることが指摘されていた。

もう1つの問題は不完全情報に関連しており、情報の非対称やアドバース・セレクションがアカロフによって研究されており、シグナリングを通じてその解が与えられていた。

2 労働市場

ケインジアンのようにニュー・ケインジアンは労働市場の不均衡にかなりの関心を抱いていた。そしてニュー・ケインジアン経済学はいくつかの概念を発展させていた。

その1つは効率的賃金仮説であった。この仮説は経済学者であるカール・シャピロやジョセフ・スティグリッツによって1984年に[8]労働市場における失業を説明するために検討されていた。効率的賃金仮説によれば、市場の不均衡は情報に対するアクセスの問題に起因しており、雇用者が業務における従業員の取組みを完全に知り得ることができないといったことを包含していた。そして従業員に最大限に尽力してもらうために、雇用者がライバル企業より若干上回る賃金を従業員に提示する必要が存在しており、このマーケットで決定される額を上回る賃金は効率的賃金と呼ばれていた。また従業員は賃金がよい企業に残留するための取組みに関心を抱いているであろうことが想定されていた。その反対に従業員の賃金が市場清算価格であったならば、従業員にとって転職を通じて失うものは何もなく、従業員の取組みは待遇のよい企業に残留することだけに「縛られることもない」であろう。そして留保賃金といったものが存在しており、それによれば労働あたりの賃金は従業員の生産性と相関していた。

もう1つはインサイダー・アウトサイダー理論であった。このモデルは安定した雇用契約(フランスにおける無期限雇用契約)を交わしている従業員のようなインサイダーと不安定な雇用契約を交わしている従業員や失業者のようなアウトサイダーを対比させていた。この理論はポール・オスターマンによる二元論に依拠した労働市場を描き出していた。労働市場にまだ慣れていない若年層(18才から24才)の非熟練のアウトサイダーはインサイダーより低い賃金で就労する傾向にあり(若年層の留保賃金はより低い)、実際のところ私たちはアウトサイダーに十分なチャンスを与えてこなかった。

3 批判

もしニュー・ケインジアンがレッセフェールを求める新しい古典派に反論するならば、それ[9]は「ピュロスの勝利」でしかないと考えられており、その理由として市場の機能を歪めて認識している新しい古典派の厳格さに対してニュー・ケインジアンによる分析が異議を唱えていることが指摘されていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_neoclassical_synthesis

新しい新古典派総合

新しい新古典派総合は短期の変動を説明するためのコンセンサスとして近代のマクロ経済学の底流にある思想、新しい古典派経済学、ニュー・ケインジアン経済学を融合したものであった[1]。この新しい新古典派総合は新古典派経済学をケインジアンマクロ経済学と統合した新古典派総合と類似していた[2]。新しい新古典派総合は多くの現代の主流派経済学に対して理論的な基盤を提供していた。また新しい新古典派総合は連銀や他の中央銀行の業務における理論的な基盤の核を形成していた[3]。

新しい新古典派総合以前におけるマクロ経済学は小さな規模のモデルを通じた市場の不完全性に対するニュー・ケインジアンの研究とGDPの変動を説明している技術変化や一般均衡理論を包含したリアルビジネスサイクル理論に二分されていた[4]。新しい新古典派総合はニュー・ケインジアンと新しい古典派に由来していた。新しい古典派経済学はリアルビジネスサイクル理論の背後にある方法論を研究しており、ニュー・ケインジアン経済学は名目価格の硬直性(頻繁な価格変更というよりむしろ期間を置きながらのゆったりとした価格変更)を研究の対象にしていた[2]。

1 4つの要素

グッドフレンドとキングは新しい新古典派総合の核になる4つの要素をリストに挙げており[6]、異時点間の最適化、合理的期待形成、不完全競争、価格調整のコスト(メニュー・コスト)が列挙されていた[7]。またグッドフレンドとキングは新しい新古典派総合が政策上の含意を包含していることを指摘していた[6]。そして新しい古典派と対照的に、金融政策が短期の実質GDPに影響を及ぼす可能性を認めながらも長期におけるトレードオフが存在しておらず、つまり貨幣が短期において中立的でないものの長期においては中立的であることが指摘されていた。そしてインフレは負の厚生効果を有しており、インフレ・ターゲットのようなルールを通じて中央銀行が信用を維持することが重要な役割を担っていた。

2 5つの原則

近年マイケル・ウッドフォード(経済学者)は5つの要素を用いて新しい新古典派総合を描写しようとしていた。第一にウッドフォードは異時点間の一般均衡の基礎についてのコンセンサスが存在していると述べていた。そのベースは経済の変化による短期ないし長期のインパクトが単一のフレームワークを通じて検討されることを許容しており、ミクロとマクロの視点はもはや分離されていなかった。新しい新古典派総合の登場は部分的には新しい古典派に対するニュー・ケインジアンの勝利であり、短期におけるマクロの動学をモデル化するケインジアンの願望を内在させていた[8]。

第二に新しい新古典派総合は観察されたデータを用いることの意義を認識していたものの、経済学者は一般的な関係に注目することよりむしろ理論に依拠したモデルの方にフォーカスしていた[9]。第三に新しい新古典派総合はルーカス批判に焦点を当てており、合理的期待を用いていたが、粘着的価格や価格の硬直性を通じて、初期の新しい古典派によって示されていた貨幣の中立性を支持していなかった[10]。

第四に新しい新古典派総合はさまざまなショックが産出量の変動の原因になっていることの蓋然性を容認していた。この視点は貨幣量の変動が短期の実物経済に影響を及ぼすといったマネタリストの視点や需要が変動しながらも供給が安定しているといったケインジアンの視点とは異なっていた[11]。オールド・ケインジアンのモデルは計測された産出量と潜在産出量のトレンドの差として産出量ギャップを認識していた[5]。他方で産出量の変動を説明するためにリアルビジネスサイクル理論は産出量ギャップの可能性を考慮しておらず、ショック後の効率的な資源配分を想定した産出量の変動を検討していた。しかしケインジアンはリアルビジネスサイクル理論を否定しており、それは効率的な資源配分を仮定した産出量の変動が経済全体の変動を説明するほど十分に大きくないことを理由にしていた[12]。

そして新しい新古典派総合は新しい古典派とニュー・ケインジアンの論点を統合していた。新しい新古典派総合において産出量ギャップは是認されており、実際の産出量と効率的な資源配分を仮定した産出量の差として認識されていた。効率的な資源配分を仮定した産出量の想定は潜在産出量が綿々と成長する訳ではなくショックに応じて増減する可能性を内包していた[5][11]。また中央銀行が金融政策を通じてインフレをコントロールすることが可能であるとの認識が容認されていた。この認識は部分的にはマネタリストの勝利であったが、新しい新古典派総合はケインジアニズムに由来するフィリップス・カーブの進化を包含していた[13]。

https://en.wikipedia.org/wiki/Neoclassical_synthesis

新古典派総合

新古典派総合はジョン・メイナード・ケインズによるマクロ経済思想を新古典派経済学の中に取り込む第二次世界大戦以降の経済学の潮流であった。主流派の経済学はマクロ経済学におけるケインジアンとミクロ経済学における新古典派の統合を通じて収拾されていた[1]。

新古典派総合は主にジョン・ヒックスによって進歩を遂げ数理経済学者であるポール・サミュエルソンによって世に広められていき、サミュエルソンは新古典派総合という語を造りだし、部分的にはテクニカルライティングやテキストブックである『経済学』を通じて「新古典派総合」を浸透させていった[2][3]。新古典派総合の展開プロセスはケインズによる『一般理論』の公表を経てジョン・ヒックスによる1937年の論文に初登場したIS-LMモデル(財市場と貨幣市場の均衡モデル)を通じて形成されていた[4]。

新古典派総合は市場の需給モデルをケインズ理論に適用することから始まっていた。そして新古典派総合は意思決定プロセスにおいて重要な役割を担っているインセンティブやコストを包含していた。その具体例として個人の需要における消費者理論があり、この消費者理論は(コストとしての)価格と所得がどのように需要量に影響を及ぼすのかといったことを示していた。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_classical_macroeconomics

新しい古典派マクロ経済学

新しい古典派マクロ経済学は新古典派のフレームワークを分析するマクロ経済学の学派であった。そして新しい古典派マクロ経済学は合理的期待のようなミクロ経済学に依拠した基礎の意義を強調していた。

新しい古典派マクロ経済学はマクロ経済分析に対して新古典派ミクロ経済学を通じて基礎を提示していた。この新しい古典派マクロ経済学は初期のケインジアンに類似したマクロ経済学のモデルを成立させるために価格の粘着性や不完全競争のようなミクロ的基礎を用いていたニュー・ケインジアンと対照的であった[1]。

1 歴史

古典派経済学は近代経済学の始まりを示す語であった。1776年にアダム・スミスによって著された『諸国民の富』が古典派経済学の誕生を示していると考えられていた。その核となるアイデアは資源配分に最適であり修正を加え続ける市場の力を前提にしていた。またあらゆる個人が経済活動を最大化することが想定されていた。

そしてカール・メンガー、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、レオン・ワルラスによって19世紀後半のヨーロッパで引き起こされた限界革命が新古典派経済学として知られる潮流を生み出していた。この新古典派経済学の体系はアルフレッド・マーシャルによって詳述されていた。しかしワルラスの一般均衡が数学的な厳密さと公理からの演繹的な推論に依拠した科学としての経済学を方向付けており、ワルラスによる研究は新古典派経済学の核になり、今日でも主流派の経済学のテキストブックに取り上げられていた。

新古典派経済学は世界恐慌まで主流派であり続けていた。しかしその後1936年のジョン・メイナード・ケインズによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』の出版を経て、いくつかの新古典派経済学の前提が否定されるようになっていった。ケインズはマクロ経済学のパフォーマンスを示す集計量に依拠したフレームワークを提示しており、現在行われているようなミクロとマクロの区別を方向付けていた。またケインズ理論の功績は経済活動を「アニマル・スピリット」によって突き動かされるものとして認識している点にあった。この点でケインズ理論は人間の経済的役割をいわゆる(欲望を最大化する)合理的な経済主体に限定していた。

そして第二次世界大戦を通じてアメリカや西ヨーロッパにおいてケインズ政策が浸透するようになった。1970年代まで続いた主流派としてのケインズ経済学の地位は元アメリカ大統領であるリチャード・ニクソンや経済学者であるミルトン・フリードマンによる「我々は今や皆がケインジアンである」との発言にも示されていた。

そして厄介な問題が1970年代と1980年代初頭にスタグフレーションが引き起こされるにつれて表面化していた。スタグフレーションは失業とインフレが同時に高止まりすることを意味していた。ケインジアンはスタグフレーションの出現に戸惑っており、フィリップス・カーブが高いレベルのインフレと失業を想定していなかったことがその背景に存在していた。

1.1 スタグフレーションに対するレスポンス

ケインズ経済学がスタグレーションを説明することに失敗していたことに対応して、新しい古典派経済学が1970年代に登場していた。ロバート・ルーカスやミルトン・フリードマンのような新しい古典派やマネタリストによる批判がケインズ経済学に再考を促していた。とりわけルーカスはケインズモデルに疑問を投げかけるルーカス批判を行っていた。このルーカス批判はマクロモデルがミクロ経済学に依拠すべきであることを強調していた。

1970年代のケインズ経済学の明白な失敗を経て、新しい古典派はしばらくの間マクロ経済学の主流派になっていた。

2 分析の方法

新しい古典派による視点は経済成長の変動要因を3つに分類しており、生産性ファクター、資本ファクター、労働ファクターが挙げられていた。そして新しい古典派による視点やリアルビジネスサイクル理論を通じて分析がなされており、実体経済の変動が説明されていた。

生産性ファクターは集計された生産効率を意味していた。また世界恐慌との関連で生産性ファクターは経済が利用可能な資本や労働における遊休率を示していた。

資本ファクターは異時点間の消費における限界代替率と資本の限界生産力のギャップを包含していた。そして資本(貯蓄)課税のように資本蓄積や貯蓄の形成に作用した結果としての「社会的便益の」損失の存在が指摘されていた。

労働ファクターは余暇に対する消費の限界代替率と労働の限界生産性との比を意味しており、雇用の負担を増加させる労働税(労働市場におけるある種の軋轢)のように作用していることが指摘されていた。

3 論拠と前提

新しい古典派経済学はワルラスの法則に依拠していた。あらゆる経済主体は合理的期待に依拠した効用を最大化することを前提にしていた。そして経済は価格や賃金の調整による完全雇用における単一の均衡をつねに想定していた。つまり市場はいつも清算されていた。

新しい古典派経済学は代表的個人モデルを採用していた。代表的個人モデルは新古典派から厳しく批判されており、カーマン(1992年)によって指摘されているようにそのミクロ的行動とマクロ的プロセスの不整合が理由とされていた。

合理的期待の概念は当初ジョン・ミュースによって用いられており、その後ルーカスを経て世に広められていった。新しい古典派モデルの1つにリアルビジネスサイクル理論があり、エドワード・C・プレスコットやフィン・E・キッドランドによって展開されていった。

4 レガシー

正統派の新しい古典派モデルに関して現実を説明しながら予測することにおけるパフォーマンスが劣っていることが指摘されていた。新しい古典派モデルは現実の景気循環のサイクルと変動の大きさを両立させながら説明することに失敗していた。そして予期せぬ貨幣的変動のみが景気循環や失業に影響を及ぼすといった結論は経験的な事実と一致していなかった[2][3][4][5][6]。

また主流派経済学は新しい新古典派総合に移行していった。新しい古典派を含む多くの経済学者はいくつかの理由から賃金や価格が需給の長期均衡へスムーズに移行しないといったニュー・ケインジアンのアイデアを容認していた。そして金融政策が短期的に有効であるといったマネタリストやニュー・ケインジアンの視点も容認していた[7]。新しい古典派マクロ経済学は合理的期待形成仮説や異時点間の最適化といったアイデアをニュー・ケインジアン経済学に援用していた[8]。

ピーター・ガルバックスによれば[9]評論家たちは新しい古典派マクロ経済学に対して表面的で不十分な理解しか持ち合わせておらず、新しい古典派の前提における一定の特徴に注意すべきであることが指摘されていた。そして価格が完全にフレキシブルであり、世界や市場の期待が完全に合理的であり、実物経済のショックがランダムに生じるならば、金融政策は失業やGDPに影響を及ぼさず、実物経済をコントロールする政策はインフレ率の変化にしかならないことも指摘されていた。しかしこのような前提が成立しないケースでは金融政策は有効であった。また同様のケースではランダムな財政政策も有効であった。仮に政府が市場をコントロールする手段を有しているならば、ケインズ風に実物経済をコントロールすることは可能であった。そして実際のところ新しい古典派マクロ経済学は経済政策を有効にするための条件を強調しながらも無効にするための条件をなおざりにしていた。またランダムな財政政策の効果に対する誘惑が忘れ去られることはなかったが、新しい古典派によって経済政策の活躍の場は狭められていた。ケインズがランダムな財政出動の効果を肯定している一方で、財政政策の効果は新しい古典派においても新しい古典派が認めた条件を満たしているときのみ肯定されていた。

リアルビジネスサイクル理論に貢献しているベルント・ルッケは新しい古典派マクロ経済学モデルを「経済のカリカチュア」と呼んでおり、その前提が市場の失敗の蓋然性や非合理な行動を除外しており、価格がいつも完全にフレキシブルであり、市場が常に均衡していることを理由にしていた。そして現在の新しい古典派マクロ経済学のミッションはどの程度この経済のカリカチュアが景気循環を十分に予測することができるのかを研究することにあった[10]。

https://de.wikipedia.org/wiki/Neue_Klassische_Makroökonomik

新しい古典派マクロ経済学

新しい古典派経済学はとりわけロバート・E・ルーカス、トーマス・サージェント、ニール・ウォーレスによって研究されており、新古典派の理論を通じてミクロ的に基礎付けされたモデルを採用していた。その主な前提は合理的期待形成や絶えず市場が清算された状態にあることを包含していた。そして新しい古典派経済学は金融政策が想定の範囲内であれば無効であると論じていた。1970年代の論争がケインジアニズムとマネタリズムの論戦によって特徴付けられている一方、1980年代以降の論争はニュー・ケインジアニズムと新しい古典派マクロ経済学のそれに移行していた[1]。

1 前提

新しい古典派マクロ経済学は以下の前提に依拠していた[1]。

市場の清算が完全な価格のフレキシビリティに立脚していた。

失業は調整コストを通じた一時的なものであった(自然失業のみ存在していた)。そして長期において非自発的失業は想定されていなかった。

合理的期待形成仮説によれば経済主体があらゆる利用可能な情報を効率的に活用することが念頭に置かれていた。

完全な貨幣の中立性:想定内の金融政策は名目価格と名目賃金に対してのみ作用していたが、GDPや雇用に影響を及ぼすことはなかった。

大きなショックや想定外の財政・金融政策を通じたランダムな変動が不完全情報に依拠しながら生じていた。

2 他の学派との関係

ある経済学者はマネタリズムの派生を含む新しい古典派マクロ経済学を研究しており、他の経済学者は新しい古典派マクロ経済学内の差がマネタリズムとケインジアニズムの差より大きかったと論じていた[1]。

市場の清算が想定されており、新古典派総合やニュー・ケインジアニズムと対比させながら金融・財政政策の無効が論じられており、短期における金融政策の有効性が述べられていた。他方でニュー・ケインジアニズムは合理的期待形成や新しい古典派マクロ経済学に依拠したミクロ的基礎を包含していた。

3 評価

新しい古典派マクロ経済学はマクロ経済学の展開において重要な役割を担っていた。とりわけマクロ経済学のミクロ的基礎は経済主体の合理的行動に依拠しており、モデルにインフレ期待の影響を組み込んでいた。これらの要素はニュー・ケインジアニズム(新しい新古典派総合)に包含されていた。

そして実際のところ新しい古典派マクロ経済学におけるリアルビジネスサイクル理論は実体経済のトレンドを予測することに失敗していた。このリアルビジネスサイクル理論は改良を加えられながらニュー・ケインジアンのモデルに受け継がれていった[2][3][4]。

現在概して新しい古典派マクロ経済学の研究者を含む経済学者の中にコンセンサスが存在しており、それは賃金や価格が需給均衡を達成するのに十分なほど素早く調整されるといったことはないといったものであった。したがって金融政策の効果に対するいくつかの仮説は今日その支持基盤を失っていた[5]。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Nouvelle_économie_classique

新しい古典派経済学

新しい古典派経済学は1970年代に展開されたある経済思想の潮流を示していた。新しい古典派経済学はケインジアニズムを否定しており、全体として新古典派経済学に依拠していた。新しい古典派経済学の特徴はミクロ的基礎付けにあり、ミクロ経済学によってモデル化された経済主体の行動からマクロモデルを導き出していた。

新しい古典派の前提は次のようなものであった。

(効用を最大化する)経済主体の合理性。

合理的期待形成。

つねに経済は唯一の均衡にあり(完全雇用を果たしながら)、この均衡は価格と賃金の調整メカニズムによって達成されていた。

リアルビジネスサイクル理論は新しい古典派における核になる理論であった。

新しい古典派の経済学者を以下に列挙する。

ロバート・ルーカス(1995年ノーベル経済学賞受賞)
フィン・E・キドランド(2004年ノーベル経済学賞受賞)
エドワード・C・プレスコット(2004年ノーベル経済学賞受賞)
ロバート・バロー
ニール・ウォーレス
トーマス・サージェント(2011年ノーベル経済学賞受賞)

https://en.wikipedia.org/wiki/AD-AS_model

AD-ASモデル

AD-ASモデルないし総需要・総供給モデルは総需要と総供給の関係を通じて価格と産出量を分析するマクロ経済モデルになる。AD-ASモデルはジョン・メイナード・ケインズによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』に依拠していた。AD-ASモデルはマクロ経済学における単純化された例の1つであり、リバタリアンでありマネタリストでありレッセ・フェールの信奉者であるミルトン・フリードマンからポストケインジアンであり政府による介入主義者であるジョーン・ロビンソンまで幅広く採用されていた。

従来の「総需要・総供給モデル」は幅広く認知されたケインジアニズムをビジュアルで示していた。供給が需要を生み出すといったセイの法則に依拠している古典派の需給モデルは総供給曲線をつねに垂直に描いていた(長期の話ではない)。

1 モデル

AD-ASモデルは景気循環についてのケインズ・モデルを示していた。総需要曲線や総供給曲線のシフトは外生的な要因が実質GDPと価格水準に与える影響を想定するために用いられていた。またAD-ASモデルは動学(価格水準や実質GDPのような要素が時系列でどのように変動するかを示すモデル)の一部に組み込まれていた。そしてAD-ASモデルはインフレと失業の関係を示すフィリップス・カーブに関連していた。

2 総需要曲線

総需要曲線はIS-LM曲線上の均衡所得の推移と価格水準との関係によって定義されていた。右下がりのAD曲線はIS-LMモデルから導き出されていた。

総需要曲線は財市場と資産市場が同時に均衡している価格水準と産出量の水準の組合せを示していた。LM曲線がLM'曲線に右下方にシフトしたときのIS曲線とLM曲線を示している図によれば、財市場と貨幣市場が同時に清算されるE'に新たな均衡がシフトすることが示されており、シフトしたGDPであるY'はより低い価格水準P'に対応していた。したがって価格水準の低下は均衡支出の増加を導いていた。

総需要曲線の定式化

eqn62.png

Yは実質GDP、Mは名目マネーサプライ、Pは価格水準、Gは実質政府支出、Tは外生的な実質課税額、Z1はIS曲線のシフト(支出に対する外生的な影響)やLM曲線のシフト(貨幣需要に対する外生的な影響)に作用する外生変数を示していた。実質マネーサプライは総需要に対してポシティブに作用しており、実質政府支出も同様であった(独立変数が一定方向に変化するとき総需要も同方向に変化していた)が、税は総需要に対してネガティブに作用していた。

IS-LM分析では実質所得が横軸になり、利子率が縦軸であった。

AD-AS分析では実質所得が横軸になり、価格水準が縦軸であった。

3 総需要曲線のスロープ

総需要曲線のスロープは財市場と資産市場の均衡を考慮しながら実質残高が消費支出の均衡に影響を及ぼすさじ加減を反映していた。そして実質残高の増加は均衡所得と均衡支出を増大させ、貨幣需要の利子弾力性を低減させ、投資需要の利子弾力性を増大させていた。また実質残高の増大は所得と支出の水準を増大させ、乗数を増大させ、貨幣需要の所得弾力性を低減させていた。

この含意として、貨幣需要の利子弾力性が小さく、投資需要の利子弾力性が大きいほど、総需要曲線は水平に近づいていった。また乗数が大きく、貨幣需要の利子弾力性が小さいほど、総需要曲線は水平に近づいていった。

4 総需要曲線に対するマネーストックの拡大の影響

名目マネーストックの増大は各価格水準に対する実質マネーストックを増大させており、資産市場における金利の低下は実質残高の増大を後押ししていた。またマネーストックの拡大は総需要を刺激しており、均衡所得と均衡支出を増大させていた。つまり図を用いるならば、総需要曲線はマネーストックの拡大に応じて右方にシフトしていた。

5 総供給曲線

総供給曲線は労働市場の均衡ないし不均衡を反映しており、総供給曲線はさまざまな価格水準において企業がどれほど生産しているのかを示していた。そして総供給曲線は個々の価格水準に対して企業が生産する予定の産出量を表していた。

ケインジアンの総供給曲線によれば、ある部分ではAS曲線は水平に近く、不況期の価格を前提にした財の需要量がどれほど多くとも、企業は供給を行うだろうといったことが想定されていた。このケインジアンの総供給曲線は失業が存在しており、企業が現在の賃金で望むがままの労働力を補うことができ、一切設備を増強することなく増産することができる(例えばアイドル状態の設備が多数存在している)といったことを前提にしていた。したがって生産に関する平均費用は生産量の変化にかかわらず一定であることが想定されていた。これらの想定はケインジアンが政府の介入を肯定するための根拠になっていた。また経済の総生産は価格水準を低下させることなく減少することが想定されていた。そしてケインジアンによる賃金の下方硬直性に関する経済的リアリティーは政府による刺激策の必要性を示していた。つまり総供給を拡大させるように低く賃金を調整できないため、政府が介入する必要が存在していた。ケインジアンの総供給曲線は総供給が価格水準の変化に応じて変化するカーブを描いていた。そのカーブは企業の生産に関する収穫逓減の法則に従っており、企業が成長するにつれて設備のキャパを改善すればするほどコストがかさむことが想定されていた。収穫逓減は天然資源の希少性にも依拠しており、その希少性は増産がコストの上昇につながることを示していた。ケインジアンの総供給曲線におけるバーティカルな部分は経済の物理的な限界に対応しており、ある限界を超えると増産が不可能になることが想定されていた。

古典的な総供給曲線は短期の総供給曲線とバーティカルな長期の総供給曲線で構成されていた。短期の総供給曲線はある価格水準で財・サービスを提供する産出の想定をビジュアル化していた。ここでいう「短期」は最終財の価格のみが調整され、労働や資本といった要素価格が調整されない期間を示していた。そして「長期」は要素価格がすでに調整されている期間を表していた。短期の総供給曲線は収穫逓減の法則や資源の希少性を理由にしてケインジアンの総供給曲線と同様に右上がりのカーブであった。長期の総供給曲線はバーティカルであり、要素価格がすでに調整済みであることが背景に存在していた。完全雇用から離れたポイントで生産を行うと要素価格が上昇し、短期の総供給曲線を内側にシフトさせ、均衡は完全雇用を達成するどこかのポイントで生じていた。しかしマネタリストによれば、ケインジアンに好まれる需要サイドの刺激策は単にインフレを引き起こすだけであった。また総需要曲線が外側にシフトするときに一般価格水準が上昇していた。そしてこの上昇した価格水準は家計や生産要素のオーナーが財・サービスの価格の上昇を求めることの要因になっていた。要素価格の上昇は企業の生産コストを押し上げ、短期の総需要は逆に内側にシフトすることを惹起されていた。つまりその理論的な帰結はインフレであった[1]。

5.1 総供給曲線のシフト

長期の総供給曲線が存在していないケインジアンのモデルや短期の総供給曲線に関する古典派のモデルは同じ要因から影響を受けていた。生産コストを変動させる要因は生産コストが低減すればカーブを外側へそして増加すれば内側にシフトさせていた。短期の生産コストに作用する要因は税や補助金、賃金、原材料の価格を包含していた。この短期の生産コストに作用する要因が短期の総供給曲線をシフトさせていた。また労働と資本の量と質の変化は長短期の総供給曲線に影響を及ぼしていた。労働や資本の量の増加はそれらの価格の下落に対応していた。そして労働や資本の質の向上は労働者や機械あたりの産出量の増大を促していた。

古典派における長期の総供給曲線は潜在産出量に作用する因子から影響を受けていた。このような因子は労働や資本の量と質の変化をその核に据えていた。

6 古典派やケインジアンにおける財政・金融政策

ケインジアンのケース:財政を拡大させ、政府支出の増加や減税を政策として採用するならば、総需要曲線が右方にシフトすることが想定されていた。この右方シフトは均衡産出量や雇用の増加を含意していた。

古典派のケース:産出量の水準が完全雇用のとき総供給曲線はバーティカルであった。そして企業は価格水準の如何にかかわらず均衡産出量の水準をキープしていた。

財政の拡大は総需要曲線を右方にシフトさせ、財に対する需要を増加させていたが、企業は利用可能な労働力を確保できないので産出量を増大させることに問題を抱えていた。企業がより多くの労働者を雇用する際に賃金や生産コストの上昇に直面することになり、結果として製品の価格が上昇することが促されていた。そして価格の上昇は実質マネーストックを減少させ金利の上昇や支出の減少を促していた。

労働市場の供給過剰をともなう総供給曲線つまり短期の総供給曲線は以下のように示されていた。

eqn63.png

Wは名目賃金率(短期の下方硬直性により外生的に与えられる)、Peは想定された(期待)価格水準、Z2は労働需要曲線の位置に影響を及ぼす外生変数のベクトル(資本ストックや技術の水準)を示していた。そして実質賃金は企業の雇用や総供給に対してネガティブに作用していた。価格の推移を読み間違えた企業による生産計画のミステイクを背景にすると想定された価格水準は総供給に対してポジティブに作用していた。

長期の総供給曲線は資本ストックが常に最適化されるような時間の流れと関係しておらず(ミクロ経済学で用いる「最適化」の意味)、賃金が労働市場を均衡させるように調整され価格に対する想定が適切であるような時間の流れに関連していた。また名目賃金率は外生的であり、総供給方程式の独立変数として作用していなかった。そして長期の総供給曲線は以下のように示されていた。

eqn64.png

長期の総供給曲線は産出量の水準が完全雇用のときにバーティカルであった。長期においてZ2は労働供給曲線の位置に作用する因子(例えば人口)を包含しており、労働市場の均衡における労働供給曲線の位置が雇用に影響していることを背景にしていた。

7 総需要曲線や総供給曲線のシフト

総需要曲線や総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示す。またその反対の外生的な因子は左方に曲線をシフトさせていた。

7.1 総需要曲線のシフト

総需要曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。そして総需要曲線の右方シフトの結果として価格水準は上昇するであろう。また短期において総供給曲線がバーティカルであるよりむしろ右上がりであるならば、実質産出量が増大することが想定されるが、長期において完全雇用が達成され総供給曲線がバーティカルであるならば、実質産出量が一定で変動しないことが想定されていた。

IS曲線に依拠した総需要曲線の右方シフト

消費支出の外生的な増大

物的な資本に対する投資支出の外生的な増大

意図された在庫投資の外生的な増大

財・サービスに対する政府支出の外生的な増大

政府から国民への移転支出の外生的な増大

課税額の外生的な減少

自国の輸出の外生的な増大

自国の輸入の外生的な減少

LM曲線に依拠した総需要曲線の右方シフト

名目マネーサプライの外生的な増大

マネーサプライに対する需要つまり流動性選好の外生的な減少

7.2 総供給曲線のシフト

短期の総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。そして総供給曲線の右方シフトの結果として価格水準は減少し実質GDPは増大するであろう。

賃金率の外生的な減少

物的資本ストックの増大

技術進歩 -- 資本や労働から産出する技術の進展

また長期の総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。

人口の増大

物的資本ストックの増大

技術進歩

7.3 推移プロセス -- 動学

経済が定常状態から最も離れているときに定常状態に戻るムーブメントが最も早くなることが指摘されていた。

つまり総供給がショックを受けると総供給は定常状態から離れるが、供給はゆっくりと定常均衡にシフトし、初めに大きな変動が生じた後、定常状態に達するまで小さな変動が続いていた。均衡に戻る変動は定常状態から最も離れているときに最も大きく、均衡に近づくにつれて小さくなっていった。

一例を挙げれば、生産者は生産要素(土地、労働、資本のような)の増大として石油価格の急騰を理解していた。この急騰はインフレ期待を上昇させることを通じて供給曲線を上方にシフトさせていた。このシフトは総供給曲線を定常状態を戻すようなゆっくりとした調整プロセスにあった。インフレがゆっくりと落ち込んでいくにしたがって総供給曲線は定常状態へと回帰していった。

8 マネタリズム

貨幣数量説によれば価格水準は貨幣数量に左右されていた。ミルトン・フリードマンは産出量や価格の変動に影響を及ぼす金融政策や貨幣の役割を強調したマネタリストと呼ばれる経済学者のリーダーとして認知されていた。貨幣数量説は短期の供給曲線がバーティカルになることを想定しない厳密な貨幣数量説に対して否定的であった。つまりフリードマンや他のマネタリストは短期と長期における貨幣数量の影響について異なった見解を有していた。フリードマン達は長期における貨幣の影響が中立的になることを主張していた。そして名目マネーストックの変動は実質マネーストックに一切影響を及ぼさず価格を変動させるだけであることが論じられていた。しかし短期においてフリードマン達はマネーストックの変動や金融政策が実質値に影響を及ぼす可能性があることについて言及していた。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Modèle_OG-DG

AD-ASモデル

AD-ASモデルは経済を説明するモデルであった。そして総需要・総供給モデルは時として準需要・準供給モデルと呼ばれていた。総需要・総供給モデルは財・サービス市場、貨幣市場、債券市場、労働市場における一般均衡を示していた[2]。短期において価格水準は変動せず調整されることもなかった[2]。時間の流れは基本的に短期の連続として想定されており、長期は価格水準が完全に調整された状態として理解されていた[2]。

総需要曲線

AD-ASモデルにおける総供給曲線はIS-LMモデルを通じて導かれていた。総需要曲線は一般価格水準と均衡国民所得の間の関係を描写していた。総需要曲線は右下がりになり、通貨の調整メカニズムによって一般価格水準の上昇が均衡国民所得の低下を促すことを理由にしていた[3]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-politics

ポスト・ポリティックス

ポスト・ポリティックスはポスト冷戦時代において地球規模のコンセンサス政治が登場していたことに対する批判を示しており、ベルリンの壁の崩壊を促した東ヨーロッパの共産圏の瓦解によって社会の基盤としての資本主義市場や自由主義国家を肯定するポストイデオロギーを容認するコンセンサスが形成されていたことを背景にしていた。ジャック・ランシエール、アラン・バディウ、スラヴォイ・ジジェクのようなラディカルな哲学者のグループやラディカルな平等の実現としての政治学に対する関心によって生み出された批判はポストイデオロギーを容認するコンセンサス政治が適切な政治的状況をつぶす原因になっていると主張しており、「ポスト・デモクラティック」な統治技術の確立を通じて、政治学は社会福祉行政学になっていることが指摘されていた。一方でポストモダニストによる「自己の政治学」の登場を通じて新たな「行為の政治学」が生み出されており、「行為の政治学」においては政治的価値観が道徳的価値観に入れ替わっていた(シャンタル・ムフは「道徳の領域における政治学」と呼んでいた)。

1 ポスト・ポリティカル・コンセンサスのルーツ

1.1 1989年以降のグローバルな政治状況

1989年のベルリンの壁崩壊に続く東欧の共産圏の瓦解は冷戦時代の終結に加えて東側と西側や共産主義者と資本主義者の間のイデオロギーを巡る膠着状態の幕切れを告げていた。資本主義は勝者になり、資本主義に対応した政治ドクトリンであるリベラル・デモクラシーも同様であった。危機に瀕していたシステムを一掃した共産主義国家の崩壊に伴って西側は社会民主主義やケインズ主義を放棄しながら、新自由主義に後押しされてグローバルに広がった新たな局面に直面していた。その端緒としてのフランシス・フクヤマによる『歴史の終焉』はポスト・ポリティカルでありポスト・イデオロギーの「時代風景」の登場を描いていた。そしてニューレイバーや「ラディカルな中道勢力」による第三の道を目指す政治がその先駆けとして示されていた。

1.2 知的状況

フクヤマによればさまざまな知的状況がポスト・ポリティカル・コンセンサスの形成に関連していた。脱工業化社会の社会学者であるアンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックによって提起されていた「再帰的近代化」は第三の道を目指す政治を反映した知的状況を示していた。「再帰的近代化」を通じてこれらの著者は政治活動の急務が社会福祉の問題(再分配の政治)からリスク管理(責任を分配する政治)へシフトしていたと述べていた。そしてその例として「環境の外部性」が挙げられており、それは産業の前進に伴う副産物であり望ましいものではなかった。ベックやギデンズにとってのリスク管理(責任を分配する政治)は必然の急務であり、時代に対応した新たな「社会的再帰性」を意味しており、それは手段合理性や決定的な政治衝突とは異なっており、それらのある種の利己主義がポスト冷戦における社会変化を導いていた。実際ギデンズにとってのリスク管理(責任を分配する政治)は「社会的再帰性」を念頭に置いており、社会技術に関する知識や「ポスト・トラディショナル」な社会におけるリスクの拡散を通じた個人が決定し活動できる能力の拡大を意味しており、次のような道を開いていた。 

ポスト・フォーディストによる生産(現在行われているフレキシブル生産や稟議制に基づいている)

討論や能動的信頼を通じて社会が権力と対峙していることを再構成すること(国内外の政治的な権力、専門家による権威、行政的な権力を含んでいる)。

ベックやギデンズによれば、これらの変化は政党や労働組合のような伝統的な団体を通じて組織された利害関係、階級、イデオロギーに基づく政治を時代遅れなものにしていた。私たちは新たな「自己の政治学」(ベックにおけるサブ政治やギデンズにおけるライフ・ポリティクス)の登場を目撃しており、幅広いポストモダンの転換点の一部として、以前は純粋に個人の問題として考えられてきた諸問題が政治学の舞台に姿を現していた[1]。

あらゆるコメンテーターがこの解釈に同意している訳ではなかったが、この批評のパースペクティブはポスト・ポリティカルな批評を生じさせている構成要素に包含されていると考えられていた。例えばニコラス・ローズ[2]はニューレイバーに影響されたイギリスにおける第三の道を目指す政治の登場と共に現実となった政治的主観性のカモフラージュを通じた政府による新たな「行為の政治」の役割を強調することによってベックやギデンズに反論していた(とくにそれは脱工業化社会を経験した先進国において顕著であった)。ギデンズの「社会的再帰性」に反対しており、この新たな「倫理政治」に関するローズの研究は、自律性、自由に対する希求、自己充足的な個人を強調している「国家を超えたガバナンス」といった新たな市場個人主義者(シュンペータリアン)による枠組みに対する非難を示唆していた。ローズによれば、「倫理政治」が有している基本的な特徴は政治的なアクターの政治的な感性よりむしろ倫理的な感性に関連しており、新自由主義の影響を受けながら政治学が引き受けている道徳的な役割に対応する傾向にあった。実際、イギリスのパブリック・セクターの衰退に関する研究を通じて、デイビット・マーカンド[3]はその道徳的な諸価値に言及しており、その価値観は「プライベート・セクター」からの巻き返しを通じて、サッチャーやブレア政権によって成された新自由主義的な改革や国有資産の売却を支持していた。この事実はポスト・ポリティカルな批判が対処していた重要なプロセスになり、ムフは「道徳の領域における政治学」に触れており、他方でランシエールによる政治的なるものの再構築は1980年代後半のアリストテレス的な「倫理学の」変化と共に生じていた政治哲学の脱政治化に対する挑戦でもあった[4][5]。

またベックは環境保護主義を政治のパーソナライゼーションを促進するパラダイムとして指摘しており、他方でエリック・スィンゲドーによれば、先進国に見られるように、環境に「悪い」とローカルに考えられているものによる影響に対して抵抗する個人のライフスタイルにおける選択や個人主義を強調している環境保護主義が自然と人間社会の構造的な関係における適切な政治的トピックスから注意をそらすためにうまく機能していることが指摘されていた[6]。そしてベックはリスク社会を特徴付ける地球規模の不確実性の展開の結果としてポストモダンでアイデンティティに根差した政治と関連した新たな懐疑論を歓迎していた[7]。対照的に、批評家たちは真実に対する反本質主義の立場が「大きなナラティブ」に対して作用していた深刻な結果を嘆いており(政治的目的論を参照せよ)、ポスト・ポリティカルな批評の支持者にとって、これらの大きなナラティブは政治の現実を示していた。

2 ポスト・ポリティカルな批評

ポスト・ポリティカルな批評の支持者は統一された理論を呈示していなかった。しかしムフを除いて、この批評に関連した哲学者たちは次のような共通点を有していた。

彼らがラディカルな左派の思想のリバイバルの端緒に対して近年築き上げた貢献、

アクティブでラディカルな平等(形式的な平等と対照的に公理的に与えられた平等)や人間の解放に対する関心、

広い意味での唯物論者は転向しており、後期の研究ではマルクス主義の色彩を多少なりとも残しているものの、初期の研究では皆マルクス主義から影響を受けていた。さらにマルクス主義の影響を残しながら、皆が実質的にポスト構造主義の立場から離れていた[9]。

ムフのようにランシエール、バディウ、ジジェクが一致していることは、現在のポスト・ポリティカルな危機において「適切な政治状況」をシステマティックに妨げているものが存在しており、「適切な政治状況」の再構築は政治的なるものに対する概念をラディカルに再提示することに依存するだろうといったことであった。

存在や経験の側面のみから政治を語ること、つまり「政治における事実関係」や「権力の行使と一般的な事柄に関する決定」[10]としての政治に対する関心の示し方の難しさの広がりに対して、彼らの再構成は政治の存在論つまり政治的なるものの本質に関心を寄せなければならないと論じていた[11]。彼らの各人が異なった方法で適切な政治的なるものを概念化しながら、彼らの皆が政治学が解決困難な対立感情を包含する状況に置かれていることに一致しており[12][13][14][15]、ジジェクはラディカルで先進的な視点が「政治的なるものの一部として対立感情を最初の問題として取り上げるべきだ」と論じていた[16]。定義に用いるロジックに対するコンセンサスについて、ポスト・ポリティックスが適切な政治的なるものを妨げていることが批判されていた。

2.1 政治的なるものに対するランシエールの説明

2.1.1 政治とポリス体制の比較

ランシエールは政治の概念を再度取り上げていた。ランシエールにとって、政治の概念は通常想定されているような「権力の行使や一般的な事柄に関する決定」の中になかった。むしろもし政治が共通の空間や共通の関心を共有することを事実にして出発しているならば、そしてもし「一般的な事柄に関するあらゆる決定が共通の土台の存在を求めているならば」、ランシエールによれば、適切な政治が土台を共有しながら競合する利益の代表の間に存在している固有の対立感情を描写することになることが指摘されていた[17]。

共通の土台を通じて、政治的なるものに対するランシエールの説明は適切な政治における概念(対立感情のようなもの)とランシエールがポリス体制と呼んでいるものとの間の違いから生じていた。適切な政治とポリス体制との間の根本的な違いは、ランシエールによれば、土台を共有した別々の利益の代表に現れていた。適切な政治は土台を共有した競合する性質を認め合うだけでなく引き出してさえもいた。他方でポリス体制は次のようなものであった。

「...(ポリス体制は)明確な論点、場、機能のアンサンブルやそれらに関連した特徴と力のアンサンブルとしての共同体を象徴しており、その全てが共同体のモノとプライベートなモノとの分配に配慮を加えることを前提にしており、その区別は明示されたものや暗黙のもの、ノイズや人間の言葉...等における秩序をともなう区分に依存していた。このような説明(論点、場、機能)は存在、行為、場に相応しい発言の意味を同時に決定していた。」[18]

この意味で(そしてランシエールは幾つかの重要な点でフーコーと意見を異にしていたけれども)、ポリスの概念に対するランシエールの説明はミシェル・フーコーの著作の中で与えられていた説明に類似していた。

2.1.2 感性の境界

ランシエールによる政治の概念化はフーコーの「ポリス」の概念をさらに一歩進めることを許容していた。ポリス体制の中で与えられた「構成要素」の定義が「存在、行為、発言の様式」を支配しているだけでなく[20](例えば、「場に相応しい」行動のルール)、むしろ名前が示唆しているように、特定の「感性の境界」は、理解できるものとできないもの言い換えるならばこの秩序の下で認識できるものとそれ以外との間に境界を引く行為でありポリス体制そのものであった。

この洞察は部分的には民主主義の起源に対するランシエールの問いに由来しており、部分的には対立感情の概念に対するランシエールの理論の役割に由来していた。それは「不和」と単に英語に訳される(政治における対立感情の構成要素を明示しながら)一方、フランス語の対立感情はある発言の状況における当事者間の誤解やより正確に言えばランシエールの意味において「過去をばらばらに語ること」を含意していた[21]。ランシエールの視点は誤解という事実が中立的なものではなく、むしろポリス体制の中で与えられた感性の境界が、理性的なディスコース(ユルゲン・ハーバーマスやジョン・ロールズの熟議民主主義のような)であるかもしくは動物の鳴き声であるかのように、ある見解の表明が言葉として聞こえるのかノイズとして聞こえるのかどうかを決定付けていることを強調していた。ランシエールによれば、「耳に入らない」声をラベリングする事実は(政治的な)アクターとしての声の内容を否定していることに関連していた。

2.1.3 ポリス体制の将来:過剰な構成要素、誤算、政治的主観

上述されたように、「理解」が「誤解」を伴う限り(例えばある社会的な課題が置かれた状況)、ポリス体制にとっての「適切なロジック」はランシエールによるアクティブでラディカルな平等を実現するロジックと一致していなかった。古代アテネ市民の主権の一部としてのデモを促していた不法な活動に対する説明の根拠として、ランシエールは民主主義を「権力を行使するためのばらばらの権利を有している人々にとっての特定の権力」として定義しており、「民主主義は考慮の対象外の人々にとっては矛盾に満ちた権力であり、その根拠は説明されていなかった。」[23] 適切な政治的な「行為」(バディウの言葉を借用すると)は稀なタイミングで起こり、その稀なタイミングで無党派の人々はこの権利を行使しており、その共通の利害関係において「侵害されたことに対する主張」を形成しており、「政治的主体化」の際つまり新たな政治的なアクターの誕生のときに、平等に対するロジックは適切なものに対する不平等主義を反映したポリス体制のロジックと重なっており、その声に耳を傾けることを主張している無党派の人々は感性の境界を決定する権利を侵害されており、説明責任を果たさない説明をするポリス体制によってなされた起点に該当する「誤り」を覆すことを行なっていた。

ランシエールにとって、「正当性と支配に基づく秩序の破綻」の瞬間[25]は1つの可能性であり、あらゆるポリス体制の究極の危機を前提にしていた。この主張はポリス体制との関係の性質によって無党派の人々に付与された作用によって説明されていた。ランシエールは労しながら、無党派の人々がある社会階級や排除された集団ではなく、状況に飲み込まれた混成集団であったことを強調しており、この混成集団は平等を手続き的に表現しているだけでなく、ポリス体制の中で予め与えられていたアイデンティティのように存在している新たな政治的アクターを含意しており、政治的な変動の前の段階ではこの2つの特徴はランシエールによれば政治で要求される水準に達していなかった[26][27]。その代わりに無党派の人々は「存在感なくどこにでもいる」脇役として考えられていた[28]。「...政治的なアクターはコミュニティの構成要素に包含することやその束に定義を与えている包含と排除の関係に疑念を呈している脇役のコミュニティであった。このアクターは...ある社会集団やアイデンティティに還元することができず、むしろ社会集団から外れたことを表明しているグループであった。」[29]

上記の特徴を概念化することを通じて、無党派の人々は力を生み出しており、適切なものに対するポリス体制のロジックは「これ以上何かを引き受けることが不可能な状況を前提にした」ロジックであり、「ある役割を果たし一定の空間を占有しているグループで構成される」全体像として社会を示すことが可能であることを仮定していた[30]。このロジックと反対の「全体は部分の総和に勝る」[31]といった古くからの格言を明示的ないし暗示的に示すものとして、必ずしも必要とされていない特徴を有した無党派の人々の存在が適切なものに対するポリス体制のロジックをラディカルに否定していることが指摘されていた。

2.1.4 ランシエール、ジジェク、バディウ、ムフにおける必ずしも必要とされていない特徴を有したものと普遍性

ランシエールの枠組みにはある矛盾点が存在していると思われていた。つまり政治的主体化はある場を肯定することをともなっているが、同時にその場のロジックや別の視点にとっての適切なロジックを否定していた。「コミュニティとともに」一体感を形成することを通じて一定程度「見えなかったものが見えるようになる」ことによって政治的な変動が引き起こされることを具体的に示していくことを通じてランシエールはこの問題を扱っていた[32]。ランシエールの主張によれば、明らかに普遍主義的な姿勢が社会空間をプライベートであり適切な場の集合に分割する個別主義的なロジックを否定するように機能しており、前述の矛盾点を解決していた。またランシエールによるポスト・ポリティカルなものに対する説明に関して、スラヴォイ・ジジェクは普遍的なものの役割を重視していた。ジジェクにとってある状況は以下のようなときに政治的になっていた。

...ある特定の要求...が権力を有している人々に対するグローバルないし普遍主義的な抵抗の暗示的な融合として機能し始めており、その抗議の含意はもはや単なるその要求そのものに留まらず、その特定の要求に共感するといった普遍主義的な次元を含んでいた。...ポスト・ポリティクスは特定の要求を暗示的に普遍化することを妨げるように作用していた[33]。

前述の矛盾点について、ジジェクによる「仮想化しきれない残余」[34]といった概念は普遍的なものを強調する以上に有益なことがあった。「残余」の意味はランシエールによる「余剰」と密接に関係していた。他方で「仮想化しきれないもの」といった概念は(社会空間等の公共空間を)分割することに対して強く抵抗することを含意していた(ランシエールが依拠している普遍主義的な姿勢以上に強く抵抗していた)。

この点でジジェクによる「残余」の存在論的状態はバディウによる『ノン・エクスプレッシブ・ダイアレクティクス』における特別な存在つまりジェネリックな集合に類似していた。数学における集合論に由来しており、ジェネリックな集合は「明確な説明や名前がなく分類上の位置付けを有しない数学的な対象...つまり名前を有していないことがその特徴である」に対してポール・コーエンによって与えられた名称であった。そのためそのジェネリックな集合が政治学における基本的な問題に対する対案を与えており、それはバディウによれば次のようなものであった。仮に法(ポリス体制)のロジックの紡ぎ合わせと欲望を解放するロジックとの衝突を通じて、欲望が法によって定められた存在論的宇宙を超えた何かに対して向けられているならば、政治活動における重要な問題は法や政治学の可能性に関する存在論的領域の下で規定されることのない欲望の対象を正確に表現する方法を見出すことであり、欲望の規定は欲望を否定することにつながっていた[35]。ジェネリシティ(一般性)がバディウの著作における普遍性に関連しながら、バディウによる普遍性はランシエールやジジェクにおける「余剰」や「残余」の概念を大きく発展させていた。またバディウによる普遍性はランシエールが社会全体を新たに概念化する際に適切な政治に対して現にそうしていた以上に強い方向性を示していた。もしくはジジェクは次のように述べていた。「...正統性のある政治...は一見不可能なテーマによる芸術であり、現状において「実現可能」と考えられている状況の背景を変更するものであった。」[36] したがってジジェクによれば対立感情の問題も同様に考えられていた。

余剰の概念は政治的なるものに対するムフの理論においてさまざまな目的を果たしており、それはムフやラクラウによるヘゲモニーについての概念に依存していた[37]。ディケージによれば、ラクラウやムフによるヘゲモニーは「完全に紡ぎ合わせられた社会ないし完全に閉ざされた社会」が存在し得ないことを仮定していた[38]。この理由としてヘゲモニーは対立感情を通じてのみ実現可能であったが、対立感情は何らかの欠落や余剰を通じてのみ存在しており、この視点によれば、コンセンサスは完全に閉ざされた世界のものではなく、むしろ「仮のヘゲモニーによる一時的な帰結」として存在していた[39]。飽和状態が存在し得ないことに依拠している点で、ムフによるポスト・ポリティクスに対する批判はランシエール、バディウ、ジジェクによる批判と重なる面を有していた。しかし飽和状態に対するムフの抵抗はポスト構造主義者の政治論やそれに付随する反本質主義によって示されていた。この点で政治的なるものに対するムフの理論はランシエール、バディウ、ジジェクと大きく異なっており、ランシエール、バディウ、ジジェクは影響を受けているポスト構造主義からの距離に配慮しており、少なくともポスト・ポリティカルな時代背景の確立に対する貢献を理由にしたものではなかった[40]。またムフによる理論は普遍主義的な態度をムフが示していなかったことを表していた。実際のところ、上述されているように、政治的なるものは普遍的なるものの代わりに対するヘゲモニーを巡る衝突であった。したがって正統性のある普遍性は存在し得ないものであった[41]。

2.1.5 飽和状態とポスト・ポリティクス

現在の危機は平等を否定しない条件下のポスト・ポリティカルな状況として特徴付けられており、その反対にポスト・ポリティクスの中心である先進国のリベラル・デモクラシーにおいては形式的平等が勝利を勝ち取っており、コミットし熟議するメカニズムを通じたデモクラシーの「成熟」が課題として残っていた。そして上述の哲学的展望からポスト・ポリティクスは、飽和状態を論じることや余剰を否定することを強調するグラデーションとして特徴付けられていた。したがって現在のリベラル・デモクラシーの危機において全てを民主的に組み込む方向性は飽和状態を付随するものであった[42][43]。他方で形式的平等の達成についての議論は「余剰」の事実を無視していた。コンセンサスに基づく受容と排除のストラテジーにもかかわらず、「余剰」の事実が現在明らかに示されており、第一に現実社会や物質的不平等の深化を通じて、第二にポスト・デモクラシーにおけるコミットメントについて条件付けられた状況に抵抗する適切な政治的態度を通じてなされており[44]、つまりそれはポスト・ポリティカルなコンセンサスについての承諾に対する抵抗であった。

3 ポスト・ポリティクスと環境

ジジェクやバディウが明らかに認識していたように、ポスト・ポリティカルなシナリオは環境分野でも進んでいた[45][46]。この認識によれば、環境地理学者であるエリック・スィンゲドーは環境政治学においてポスト・ポリティカルな状況の現れを認める研究を主導していた。

3.1 環境政治学におけるポスト・ポリティカルな状況の現れ

3.1.1 ポスト・イデオロギーにおけるコンセンサス

前述のようにポスト・ポリティカルな外観はコンセンサスによる抑制的な役割によって特徴付けられていた。市場とリベラルな状況が原理を形成し、現在におけるグローバルな「メタレベル」のコンセンサスはコスモポリタニズムや人道主義を(政治的なるものよりむしろ)対応している道徳的な価値システムに関する中心的で異論の余地のないドグマとして認識していた[47]。地球サミット(1992年)から約20年間にわたって、持続可能性は道徳的な秩序におけるこのような新たなドグマとして確立されることにとどまっていなかった。ドグマを形成しながら、グローバルなコンセンサスは現在におけるポスト・イデオロギー時代の「イデオロギー」の1例として歩み出しており、スィンゲドーが述べているように、持続可能性は適切な政治的対立を欠落しているため、達成目標に合意しない選択肢を持ち合わせていないことを背景に抱えていた[48]。

持続可能性の言説を通じた自然に対するある描写に関するスィンゲドーの分析はその理由を説明していた。スィンゲドーは持続可能性を通じた政治的な論争の対象になっている自然が人間の介入によって「調和を乱されて」存在論的に安定を前提にしたラディカルに保守的な存在として取り扱われていると論じていた。現実の自然における複数性、複雑性、予見不可能性を否定することを通じて、持続可能性は自然を「暗号に変えて」おり、どのような種類の社会環境の中で暮らしたいのかといった適切な政治的問いに対する論争を回避する(市場に基づいた)現状維持の解答を呈示していた[49]。 

3.1.2 管理主義とテクノクラシー

ポスト・ポリティカルな状況は専門家の登場によって特徴付けられていた[50]。ある程度の民主的な方法に立脚していたものの(ギデンズによる社会的再帰性についての論文によって示されている熟議を伴う関与を通じて[51])、専門家による決定が適切な政治的論争に取って代わるようになっていった。

この傾向は環境分野において特に顕著であった。ゲルト・フーミンネやカレン・フランソワによれば[52]、環境分野で増大している科学による「植民化」以上の関心は科学におけるラディカルなノンポリ化のロジックが植民化を進めていることにあった。ブルーノ・ラトゥールを引き合いに出しながら、フーミンネやフランソワの著作は科学に基づいた著作を問題の俎上に上げており、科学は「事実」を産み出している物質的世界を中立的に表現している訳でもなく、自然を表現する科学の正当性が緻密な検討を逃れるはずもなかった。それと対照的に、「...近代憲法における事実と評価の区別が現実を形成するプロセスを曖昧にするように作用しており」[53]、ポスト・ポリティカルな状況の形成を促しながら、政治は「コンセンサスに依拠した社会科学的な知識によって要素が決定されたプロセスの管理」に矮小化されていた[54]。環境政治学において、「意見の不一致が許容されていたが、技術の選択、組織の軌道修正、管理上の問題、タイミングの選び方においてだけ通用するものであった。」[55] グローバルな気候変動への対応に関して、気候学者による解釈を巡る論争が「気候における正義」についての疑問から注意を逸らしていることがその例であった。

そのため国家を超越した統治[56]へ向かう新自由主義的な移行を伴いながら始まったテクノクラートによる「ポスト・デモクラティック」な潮流はコンセンサスによる政治によって擁護されていた。そして特に環境分野は新自由主義的な統治における試行錯誤のための特別な領域になっていたため、ポスト・ポリティカルな潮流からの影響を非常に受け易かった。環境政策における新自由主義的なシフトは1990年代にニュー・パブリック・マネジメント(NPM)からの影響の増大[57]や新たな環境政策手法(NEPIs)に対する選好の増加によって特徴付けられていた。他方で特段示すべき内容は費用便益分析(CBA)のような量的分析が優勢であることや単位変更、会計、監査、性能測定に対する「ポスト・デモクラティック」な関心とミッチェル・ディーン[58]が呼んでいたものの例としての新たな炭素市場における規制機関の広がりだけであった。

また後者の関心についてバーバラ・クルックシャンク[59]やディーンは新たな「市民権のテクノロジー」と「ポスト・デモクラティック」な状況を結びつけていた。生権力の形態として、新たな「市民権のテクノロジー」が国家によって意図的に形成されてきた道徳的に責任があり自律的な主体に「規制する能力」[60]を移すように機能していた[61][62]。ウルリッヒ・ベックのようなコメンテーター達はこの新たな「市民権のテクノロジー」が誘導している政治を個人に引き付けることについての一歩進んだ可能性に対するパラダイムとしての環境保護主義を歓迎していた[63]。しかしスィンゲドーによれば、先進国によく見られるように環境保護主義が個人に立脚した道徳的な選択を強調していたこと(ライフスタイルのような)が人間社会と自然との構造的な関係についての適切な政治的問題から離れたところに注意を促すように機能している可能性が指摘されていた[64]。

3.1.3 特定の利益を巡る交渉としての政治

ジジェク[65]やランシエール[66]が論じているようにポスト・ポリティクスにおいて、特定のグループによるある政治的主張はそのグループにおける潜在的に普遍的な特徴を否定されていた。そしてウースターリンクやスィンゲドーがポスト・ポリティカルな議論をブリュッセル空港に関連した騒音公害を巡る論争に適用していたことがその例であった。騒音公害による地域差を包含した衝撃は住民同士の関係にひびを入れることになり、グローバルな「ジャストインタイム生産システム」(利潤追求の極みのひな形)に対抗する普遍的な主張が表面化する可能性を排除していた[67]。

3.1.4 ポピュリズムや適切な政治的なるもののリバイバル

適切な政治的なるものの残余としてのポピュリズムはポスト・ポリティカルな状況を示す前触れであった[68]。まずポスト・ポリティカルなコンセンサスは適切な政治的なるものに対する代わりとしてのポピュリストによる意思表明を指向していた[69]。そしてコンセンサスに依拠した政治の限界に対する人々のフラストレーションが、コンセンサスに依拠した秩序を脱政治化する試みに際して、ポピュリストの手によって具体化した代案に譲る形となっていた[70]。

ポピュリズムにおける最も際立った特徴の1つは共通した外部の脅威ないし敵を想起させることにあった。敵を想起させることを通じた同質化の影響によってポピュリストによる意思表明の核となる「国民」に対する反動的で硬直的な架空の概念が形成されていた。スィンゲドーによれば[71]、気候変動に関する政治において「国民」は人為的な気候変動に対処する能力や責任の違いを考慮されることなく共通の苦境に直面している一体化された「人間」になっていた。気候変動を巡る言説における警鐘的なトーンを分析した他の研究者によれば[72][73]、スィンゲドーは想起された終末論的な虚構が外部の脅威を形成しながらエリート主導で十字軍的な行動を促していたことを強調していた(エリート主導の十字軍的な行動はポピュリズムの古典的な特徴を備えていた)。そのため環境保護主義的なコンセンサスはポピュリストによる側面を含んでいるものであった。

他方でジジェクが示しているように[74]、コンセンサスに対する不満は極右運動を好む傾向があり、極右のポピュリストによる戦術は上述された適切な政治的なるものに代替する同様の必要性に対応しており、極右の暴力的な意思表明は対立感情を煽る適切な政治的プロセスを模倣していた。他方でコンセンサスに基づく企業戦略[75]とジジェクが「ポピュリストによる誘惑」と呼んでいるものの双方に抵抗している適切な政治的主張は暴力や暴動としてのみ表面化していた[76]。環境分野における「資源を巡る紛争」に対するメディアの報道は、中立性を装った適切な政治的側面(もちろんポピュリストによる側面を伴うかもしれないし、必ずしも進歩的である訳でないかもしれないが)をよく表しているかもしれない論争の好例であった[77]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Post-Politik

ポスト・ポリティクス

ポスト・ポリティクスは政治を脱政治学化した体裁を整えていた。そして議論の枠組みは既に想定されていたものであった。

その概念はフランスの政治哲学においてジャック・ランシエールによって深化されており、ルイ・アルチュセールに由来しており、適切に導かれ、国家によって政治的な力を律せられた「ポスト・デモクラシー」の概念と類似していた[1]。

1 語法

スラヴォイ・ジジェクによれば、ポスト・ポリティクスはあるプロセスであり、特定の利益を巡る交渉についてのプロセスを伴っており、[...]多少なりともの妥協を包含していた。公開討論や政治問題の形成が論点の対象ではなくて、(グローバル資本主義における)枠組みの中で機能している特定のイデオロギーにとらわれない理念が議論の対象であった。そして特定の政治的主張を行うための多くの専門家や(グローバルに活動する)ソーシャルワーカー他が問題に関与しているため、問題を普遍化する行為や中立的に作用する行為の蓋然性が否定されていた。「普遍的な関心は特定のグループによってそのグループの問題に収斂されていた」(ジジェク)。また問題の前提を普遍化する行為は特定のグループの利害関係抜きに形成されることはなかった。このことはジジェクによって明らかにされた訳ではなく、(パラドキシカルであるが)システムや組織内のグループを通じて示されていた。特定のグループによる要求は単純な主張を通じて論じられており、それが意味している中身が問われることはなかった。ポスト・ポリティクスは問題の(奥にある)前提を普遍化することに対して抵抗しようとしていた。例えば「新たな税制」を求める声に対して、公共の問題としての視点よりむしろ特定の視点からの普遍性が叫ばれており、その状況は政治的に扱われたものであった。

ポスト・ポリティクスにおけるもう1つの特徴は、行政の政策を「特定の利害を反映した」政策として「純粋に」行政の利害を反映した政策と見做している点にあった。そして一切の(不可避の)政治的な論争(ポレモス)なしに「最善の解決法」(ロゴス)を見出すことが重要であった。しかし政治学において財・サービスの分配や再分配の問題の帰結として、ポレモスのないロゴスは存在しておらず、また利害や特定の視点を形成することのない政策も存在していなかった。ジジェクによる選択肢は「正統性のある政治が一見不可能なテーマによる芸術であり」、「現状において「実現可能」と考えられている状況の背景を変更すること」にあった[2]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Metapolitics

メタ・ポリティクス

メタ・ポリティクスは政治に対するメタ言語学であった。そしてそれは政治そのものとの政治的なダイアローグであった。この意味でメタ・ポリティクスはさまざまな形の問いかけを意味しており、政治や政治的なるものに関する言説に対してオルタナティブな方法を採用していた。このメタ・ポリティクスは政治的な問いかけや政治そのものに関する分析的・規範的言語に影響を与える自意識の役割を前提にしていた。つまりメタ・ポリティクスは政治が政治と対話する方法についてのダイアローグであった。

もし研究者が言語を研究の対象にし分析を加えて説明するならば、その研究のために用いられる言語はメタ言語であった。現在メタ・ポリティクスという語は主体に関するポストモダンの議論やポストモダンの議論と政治学との関係に関連させてしばしば用いられていた[2]。広い意味でメタ・ポリティクスは国家と個人の関係を研究する方法論であった[3]。

現代の視点

メタ・ポリティクスにおける2名の重要な現代の思想家はアラン・バディウとジャック・ランシエールであった。バディウによるメタ・ポリティクスを論じながら、ブルーノ・ボスティールズは次のように述べていた。

「バディウは、言うまでもないことだが「政治的なるもの」でなく「政治」を思考のアクティブな姿ないし思想のプラクティスとして把握することを提唱することを通じて、ハンナ・アーレントやクロード・ルフォールに連なったグループに関連した政治哲学の伝統に対して反論していた。そしてバディウは民主主義、正義、テルミドーリアニズムに対する事例を研究する以前に、師であるルイ・アルチュセール、その同時代のジャック・ランシエール、シルヴァン・ラザロによる仕事の内容を「メタ・ポリティカルに」指向する議論の周辺を評価していた。」[4]

https://fr.wikipedia.org/wiki/Métapolitique

メタ・ポリティクス

「メタ」(ギリシア語の「向こうにある」)や「ポリティクス」(ギリシア語の「ポリス」であり、都市、政権を意味していた)という語の合成であるメタ・ポリティクスは文字通りに解釈すれば「政権の向こうに存在するもの」を意味していた。アリストテレスの時代(前4世紀)から用いられている「形而上学」といった語との違いに関して、18世紀までドイツやフランスの哲学者の目に触れられていなかったことが指摘されていた。しかし権力に関連しており長期政権を指向している政治の向こうに存在している活動や思考の場を示しているメタ・ポリティクスという語の実際の意味は20世紀後半に登場しており、イタリアのマルクス主義者であるアントニオ・グラムシの著作に依拠していた。

1 近代の概念の起源

フランスにおけるメタ・ポリティクスの概念はドイツの哲学者であるクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(1762-1836)やアウグスト・ルートヴィヒ・シュレッツァー(1735-1809)の語を援用していたジョゼフ・ド・メーストルの著作の中に初めて登場していた。

「私はドイツの哲学者たちが形而下学というよりむしろ形而上学としての政治的なるもののためにメタ・ポリティクスという語を考案しているのを耳にしたことがある。この新たな語は政治における形而上学を表現するために考案されており、一語であるがゆえに関心を集めやすいことが背景に存在していた。」[1]

レイモン・アベリオの難解な視点によって部分的に援用されている伝統的な意味において、国際政治学の発展はプロトタイプの神や政治の超越をなぞらえており、その意味を把握し具体化し将来を見据えるために認識し解釈することが問題であった。仮に世界を含めた維持可能な調和や善良な知性が存在していないならば、生活している個々ないし全員のために、メタ・ポリティクスのみが人間に対して社会を普遍的なロゴス(エコロジー経済学を含む)と対応させることを許容していた。

形而上学における概念がプラトンに関係しているように、メタ・ポリティクスにおける概念はソクラテスに関連しており、ソクラテスは教育を受けた市民による真の民主主義を通じた良い統治の原則を初めて明らかにしていた。

2 メタ・ポリティクスと右翼におけるグラムシズム

全く別の文脈において、イタリアの反体制派の共産主義者であるアントニオ・グラムシ(1920-30年代)の指摘から派生したメタ・ポリティクスの概念は1970年代に「新右翼」と呼ばれる思想の潮流によって発展していた。その政策は(政治における)実際の権力を手中に収める前にイデオロギーや文化の土俵で活動することから始まっていた[2]。

この政策は共同体や市民社会の価値観・思想に浸透していくことを含んでおり、手段やターゲットにする政治家を考慮しておらず、「グレーセ・ポリティーク」(ニーチェ)の延長にあり、歴史的な影響を追求する傾向にあった。

メタ・ポリティクスは「政治家による」政策を超越しており、その視点によれば政策には何らかの誇張があり、それはもはや政治のフィールドから離れたものであった。メタ・ポリティカルな政策は以前の価値観が流行り廃りを経て長期の影響をもたらす世界観を浸透させていた。またこの政策は短期の権力を手中に収めることと両立していなかった。仮に時代の精神の兆候として変化が求められていないならば、その定義によってメタ・ポリティクスは何らかのイデオロギーに基づいた動機をもたず、現在の政治に関心を寄せることを想定していなかった。

フランスにおけるメタ・ポリティクスの理論はアラン・ド・ブノワ、ジャック・マルロー、ピエール・ル・ビガンと共にヨーロッパの文明を研究の対象にしていた。

特にメタ・ポリティクスはイタリアの共産主義者であるアントニオ・グラムシの思想から影響を受けており、グラムシは「有機的知識人」による文化闘争を長期にわたる政治活動の成就の前提にしていた。

「グラムシアンの理論は基本的に市民社会を経済的基盤の状態に還元する古典的なマルクス主義と異なっていた。グラムシアンによれば、経済のカテゴリーは1つのセクターに過ぎず、文化のカテゴリーが権力を巡る闘争に影響を及ぼしていることが指摘されていた。文化は政治権力を批判することを通じた知的手段によって変化をもたらす必要がある基盤を構成していた。」[3]

メタ・ポリティクスを否定せずに、アラン・ド・ブノワは知的影響力や思想の影響力を技術進歩のような現代における変化の要因と比較し相対化していた。

「もちろん現在の世界において過去の役割と比較できる役割を思想が維持しているのか否かについては疑問の余地が残っていた。知識人が少なくともフランスを含む国々において真の意味での道徳的影響力を有している時代は明らかに過ぎ去っていた。大学はメディアを通じてその特権の多くを失っていた。そしてテレビのようなメインストリーム・メディアは込み入った思想を伝えることが苦手であった。このような時代において最も決定的な社会変革が古典的な政治の主体でなく技術革新によってもたらされていることは明らかであった。それでも思想には意義があり、その思想が価値観やグローバル社会に依拠した価値システムに影響を及ぼしていたことを理由にしていた。この時代の最大の特徴の1つであるネットワークの多元化がその思想の広がりを促す可能性を内在させていた[4]。」

3 アラン・バディウとメタ・ポリティクス

近年メタ・ポリティクスの概念が毛沢東主義者であるアラン・バディウによって取り扱われていた。

「メタ・ポリティクスを通じて、私は哲学が現実の政治思想から導き出している影響を理解していた。メタ・ポリティクスは政治に思想の影響がないことを望む政治哲学と対立しており、政治的なるものを考えるために哲学に回帰することになるだろう。」[5]

http://de.wikipedia.org/wiki/Metapolitik

メタ・ポリティクス

メタ・ポリティクス(ギリシア語の「向こうにある」と「政治」)は政治学や純粋な哲学的国家論であり、特定の国家の立場を通じて対象にされることもなければ、それらと関連することもなかった。

1 さまざまな思想

メタ・ポリティクスという語はフランス語圏のジョゼフ・ド・メーストルの著作の中に初めて登場していた。1985年の講演の中に「メタ・ポリティクス」というタイトルが含まれており、国際政治、環境政策、人類の発展における問題を扱っていた。

1.1 アラン・バディウのメタ・ポリティクス

『ユーバー・メタ・ポリティーク』という著作を通じてアラン・バディウは政治学における「解放のための」存在論に取り組んでいた。メタ・ポリティクスを通じて政治学は現実を検証する思想として理解されていた。バディウにとって政治の基本は民主主義にあり、民主主義は工場や土地の占有のような政治上の動きを通じて形成されていた。したがってバディウは制度化された民主主義を政治的特徴を喪失したものとして示していた。正義と平等は制度化された政治を通じて脱政治化され解体されており、個人の活動にしか実現されていない状況であった。バディウはアリストテレスの言葉である「平等を求める人々はたいてい暴動を掻き立てる」といった一節を引き合いに出しながら「平等を求める人々」と制度化された政治を比較していた[1]。

1.2 新右翼の思想

右翼メディア-特に『ユンゲ・フライハイト』誌-の言説分析からデュースブルク・インスティトゥート・フューア・シュプラーハ・ウント・ゾツィアールフォルシュング(DISS)までをカバーしながらアラン・ド・ブノワのような新右翼の思想家は「文化闘争」や「右からの文化革命」といった枠組みの中でメタ・ポリティクスの概念を用いながら「生命の意味より軽い存在はないとの前提を組み込んだ主張にともなうインターディスコースの発生」を説明していた。そして『ガイスト・ディー・ヴェルト・レギールト』といったアルミン・モーラーによる表現活動の後、右派の立場から精神的な土台を与えられた「グラムシズム」が形成されていった。シャルル・シャンプティエやアラン・ド・ブノワによれば、歴史は「たしかに人間の意思や活動から展開しているのだが、これらの意思や活動はその意味を与える前提によってすでに定められた枠組みの中で機能していた。」 フランスにおける新右翼はド・ブノワによれば「集合意識」としての国民や国家を想起させる神話や思想の形でリバイブしており、「新たな統合を通じた生命や意味を柱としながら」、「思想のつながり」を通じた「世界観」を与えていた。ロジャー・グリフィンはそこにある潮流を見出しており、それは「ファシズムから本物のメタ・ポリティカルな姿への移り変わり」を示していた。カールハインツ・ヴァイスマンによって『クリティコン』誌に公表された構想つまり『ユンゲ・フライハイト』誌における活動や「資本主義を通じて情報やライフスタイルに影響を与えるために」政治性を帯びる以前の枠組みによってもたらされる場は、DISSによれば、文化的なヘゲモニーを獲得することを狙ったメタ・ポリティカルな政策として認識されていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-democracy

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーという語はウォーリック大学の政治学者であるコリン・クラウチによって『コウピング・ウィズ・ポスト・デモクラシー』といったタイトルの著作の中で2000年に作られた造語であった。ポスト・デモクラシーはしっかりと機能している民主主義システム(選挙が行われることによって政権が交代し、また言論の自由が存在している状況)によってもたらされる状態を示していたが、そのような民主主義の事例はまだ限定的であった。またこの議論の前提として器の小さいエリートが問題になる決定を行い民主主義の制度を濫用していることが指摘されていた。クラウチはロンドンのシンクタンクであるポリシーネットワークにおける『イズ・ゼア・ア・リベラリズム・ビヨンド・ソーシャル・デモクラシー?』といった論文や『ザ・ストレインジ・ノン・デス・オブ・ネオリベラリズム』といった著作の中でポスト・デモクラシーに関するアイデアを深化させていた。

ポスト・デモクラシーという語は21世紀における民主主義の進化を説明するために登場していた。この語は論争を呼んでおり、その基盤の一部を喪失しながらある種の貴族社会を指向していると認識されている民主主義に対して関心を惹きつけていることが理由として指摘されていた。

1 背景

クラウチは次のような背景を示していた。

共通の目標の喪失:脱工業化社会に生きる人々にとって、特に下層階級の人々がグループに帰属することがますます困難になっており、結果としてそのような人々を代表する政党に焦点を当てることも困難になっていた。例えば労働者、農家、起業家はもはや政治活動に魅力を感じておらず、このことはグループの成員としての共通の目標が喪失されていることを意味していた。

グローバル化:グローバル化の影響は国家が自国の経済政策を機能させる力を損なわせていた。そのため大規模な貿易協定や超国家連合(例えばEU)が政策を形成するために用いられていたが、このような政治が民主的な手段によってコントロールされることは非常に困難なことであった。

バランスを欠いたディベート:多くの民主的な国々において、政党の立場は非常に似通っていた。このことは有権者にとって選択できるものがないことを意味していた。その影響は政治的キャンペーンが立場の違いを強調するための広告のように映っていることにあった。また政治家の私生活も選挙の重要な道具になっていた。そして時折「センシティブ」な問題が争点から外されることがあった。イギリスの保守派のジャーナリストであるピーター・オボーンは2005年総選挙のドキュメンタリーを通じて、争点を限定的にして多くの浮動票をターゲットにしたことを理由にして総選挙が民主的なものではなかったと論じていた。

公共部門と民間部門の交錯:政治とビジネスの間の金銭的な癒着が大きな問題であった。ロビー企業を通じて多国籍企業はその国の住民より上手に法律をくぐり抜けることが可能であった。そして企業と国家は緊密な関係にあり、その理由として企業が雇用に大きな影響を及ぼしている点で国家が企業を必要としていることが指摘されていた。しかし製造プロセスの多くがアウトソーシングされており、企業が他国に逃げることが容易であるため、労働者は低賃金労働に従事することになり、さらに納税の主役は企業から個人に移り、その目的は企業にとって有利な条件を生み出すことにあった。そして政治家と経営者が政府からビジネスへ他方でビジネスから政府へジョブをスイッチすることは非常にありふれた光景になっていた。

私有化:公共サービスを民営化することを推進する「新しい公共経営」(ネオリベラリズム流の)の考え方が広まっていたが、民営化された組織は民主的な手段によってコントロールすることが困難であった。

2 結果

結果として:

ほとんどの有権者が投票する権利を十分に活用していないか、投票に多くを期待していなかった。

政治家は国民投票や世論調査における好ましくない結果をよく無視していた。2005年にフランスとオランダの国民が欧州憲法に対してノーを突きつけたときに、少し修正を加えただけで、フランスやオランダはこの条約を批准していた。

排外主義の政党の登場は国民の不満を利用したものであった。

そして外国政府が主権国家の内政に影響を及ぼす可能性が存在していた。クラウチによれば、ユーロ危機の処理はポスト・デモクラシーにおいて物事が機能するための方法論を示す好例になっていた。ヨーロッパのリーダー達はイタリアの新政権に対して何とか守らせるべきものを守らせようとしており、特にギリシアでは国民に対する遥かに厳しい措置が取られていた。

3 解決の道

クラウチによれば、ソーシャルメディアには重要な役割があり、有権者が公のディベートに対して積極的に参加する可能性を広げていることが指摘されていた。この延長として有権者は特定の利害を擁護するグループに参加する必要に迫られるかもしれなかった。また市民が意思決定する場をその手に取り戻す必要が存在していた。クラウチはこのような市民参加をポスト・ポストデモクラシーと呼んでいた。

オキュパイ・ウォールストリートは組織化されないある種の抵抗運動であり、金融業界に関する不満から生じていた。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Post-démocratie

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーは民主主義のルールに則った状況を意味していたが、実際は民主主義のルールの適用を制限しているように考えられていた。例えば経済学者であるセルジュ・ラトゥーシュによれば、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー――格差拡大の政策を生む政治構造』を引き合いに出しながら、ポスト・デモクラシーは「私たちが今日経験しているようにメディアやロビー活動によって巧みに操作されながらでっち上げられた民主主義」を示していた[1]。

1 語の定義の試み

この語は21世紀における民主主義の進化の状況を説明するために登場していた。

この語は論争を引き起こしており、ある種の貴族主義的なルールを指向するために民主主義のルールの一部が喪失されていったことが理由として指摘されていた。

民主的な社会はそのための5つの基準と比較されていた:

自由な選挙を通じて権力を行使するリーダーシップを選択すること。

政治的な対立陣営や表現の自由の存在。

法に則った司法システムの存在。

少なくとも2つの選択肢(「実際に」民主主義を体現しているもの)を有していること。

自由で独立したメディアの存在。

これらの基準は次のように纏めることが可能であった:

代表者の選挙。

市民権を得ている人々や市民権を得ていない人々に対して法が保護している権利。

バランスの取れたディベートを認めること。

ポスト・デモクラシーは次のように纏められることが可能であった。

国民を代表していない人々を選択する選挙。

国家や権力によって尊重されていない法的権利。

少数のテーマに限定しており、ある一定の議論にしか賛同しないバランスを欠いたディベート。

2 スーブレイニストのビジョン

ポスト・デモクラシーを考察するもう1つのアプローチは、市民の論点がもはやローカルでなくグローバルのレベルで論じられていることに対して肯定的に反論することであった。

国家を超越した政治主体

多国籍企業の管理

スーブレイニストは民主的な議論のための理想的なレイヤーは国家であると考えていた。

3 事例

議会の事例:他の場所で決定された法の適用。

司法の事例:政府内の司法的な手段、意図されていない目的で活用されている国際仲裁裁判所。

排除された人々:民主主義のレベルを示すインデックスとして。

ディベートの内容:民主主義の健全性を示すインデックスとして。

民主主義に対する指標:民主主義のあらゆる側面を評価するために検証可能な基準を制定すること。

同じ視点から同じ情報しか解説していない独立系メディアの拡大。

http://de.wikipedia.org/wiki/Postdemokratie

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーは市民の参加(インプット)ではなく公共の福祉のために奉仕しながら公平な分配の基準を満たす成果(アウトプット)だけを問題にしていた政治システムを分析していた。集団に対する拘束力を有する決定について民主的なプロセスは脇役としての意味しか与えられていなかった。そして公共の福祉を尊重する政治を通じて多数決や民主的にコントロールされた決定が適切になされているときに民主的なプロセスに価値があると思われていた。

多元論と対照的にポスト・デモクラシーでは、公共の福祉の内容を客観的に認識することが可能であり、民主的なプロセスを通じて利害の対立を調整せずに経営管理の視点を通じて問題を解決することを前提としていた。

選挙で選ばれた代表達はその権限(責任も含めて)を専門家、委員会、民間企業に委ねていた。市民は主権者としてみなされておらず、専門家による決定を受け入れる必要があったが、同時に有能な存在でなければならず、グローバル市場の前提であり正義を実現するものとして実際は公共の福祉を口実にした専門家からの要求を受け入れていた。

1 コリン・クラウチ

イギリスの政治学者であるコリン・クラウチ[1]はポスト・デモクラシーを次のように定義していた。

「選挙を経験しない専門家の役割[...]、選挙期間中の公開討論はスピンドクターによってコントロールされており、その内容はエンターテイメントに堕しており、矮小化された問題のみを論じており、その論点はそのスピンドクターによって周到に選び抜かれていた」[2]。

クラウチによる民主主義の定義によれば「大多数の人々が真剣なディベートや論点の形成に関与しており、世論調査の回答に対して消極的でなく、ある意味で政治評論家の役割を果たしており、次に現れるであろう政治的課題に取り組んでいること」が想定されていた[3]。

グローバル企業と国家の連携がポスト・デモクラシーを進展させていた。クラウチによれば、国際協調を通じた賃金、労働権、環境基準の調整が企業活動のグローバル化より遅れていることが主要な問題であることが認識されていた。多国籍企業が税制や労働環境に満足しなければ、職場を海外に移転することをカードにして揺さぶりをかける可能性が指摘されていた。このような揺さぶりの舞台(底辺への競争)は政府の決定に対して企業の影響が市民の影響より強いことを背景にしていた[4]。主要な論点は西洋の民主主義がポスト・デモクラシーの状態に近づいており、その後「恵まれたエリートの影響力」[5]が増大する点にあった。

他の論点として1980年代から政府が民営化を促進しながら市民の責任を重くする新自由主義を採用していたことが指摘されていた。クラウチは次のような事例を示していた。「国家が市民の生活に対する関心を失い、市民の無関心を助長するならば、気付かれないように企業はこのような状況を活用してセルフ・サービス方式を普及させていた。新自由主義の根底にある見通しの甘さはこのような状況を認識していないことにあった」[6]。

リッツィーとシャールはポスト・デモクラシーを「完全な民主主義という枠組みにおける擬似民主主義として認識することを通じて」説明していた[7]。

クラウチはポスト・デモクラシーという語が状況を適切に表現していると考えていた。「この状況のような民主主義においてある種の怠慢、葛藤、失望感が広がっており、強力な利益集団の代表達は[...]大多数の市民よりはるかに積極的に行動しており、エリートは国民の要求を操るための方法を学習しており、市民に対して選挙に行くように広告キャンペーンを通じて「上から」説得していた。」[8] またクラウチはポスト・デモクラシーが非民主的な状況とは異なっていることを指摘していた。

1.1 政治的なコミュニケーションの変質

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示している他の特徴は広告業界やテレビの商業主義を通じた「政治的なコミュニケーションの変質」[9]にあった。メディア関連企業はある側面では「営利部門の担い手」[10]でしかなく、他方で「メディアに対する支配力はごく少数の人間に集中していた」[11]。その一例としてシルビオ・ベルルスコーニやルパート・マードックが指摘されていた。「このような状況は政策決定者が一般人とのコミュニケーションの問題を解決することを容易にしており、民主主義にとってよかれと思ってなされたことがかえって損害をもたらすケースを示唆していた」[12]。

1.2 少数者に付与された特権

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示しているもう1つの側面は「市場経済や自由競争のレトリックを口実にして特定の実業家に政治的な特権を付与していること」にあった[13]。そしてこのような特権の付与は「民主主義にとって深刻な問題」になっていた[14]。

1.3 階級の喪失

ポスト・デモクラシーの兆候は多くの人々によって「社会階級が消滅した」と考えられていたことを通じて確認されていた[15]。社会階級の消失は「伝統的な労働者階級が衰退していること」[14]や「他の階級が連帯しないこと」[16]に依拠していたが、欧米における富の格差は十分に認識されていた。

1.4 クラウチによる処方箋

クラウチは「ポスト・デモクラシーへの道」を回避するために3つのステップを指摘していた。それは「まず経済界のエリートによる支配を制限する手段を確立し、次に経済に左右される政治の状況を改革し、最後に一般人の活動の可能性を広げること」であった[17]。最後の点を言い換えるとそれは「新たなアイデンティティ」[18]を形成することであり、例えば地域の寄合いを通じて関係者の活動の可能性を広げることを含んでいた。民主主義のリバイバルに対する希望は一般人のアイデンティティに影響を及ぼす新しいタイプの社会的ムーブメントに内在していた。このムーブメントは成果を上げるためのロビー活動を通じた「ポスト・デモクラティック」な仕組みを活用しなければならなかった。そして政党は民主主義のリバイバルのための核となる部分を残す必要性に直面していた。また政党による支援はクラウチによれば民主的な変化にとって必要なものであった[20]。クラウチは「動物愛護のための過激なキャンペーン、アンチ・キャピタリストやアンチ・グローバリゼーションのアクティビスト、レイシズム団体、リンチと変わらない犯罪撲滅キャンペーン」に反対していた[21]。

これらの新たなムーブメントは「民主主義の活力」や「エリートによって操られる以前の政治[...]」に貢献すると考えられていた[22]。

1.5 ポスト・デモクラシーの派生

政治学者であるローランド・ロスは自治体レベルでの市民の関与を深め、民営化された施設を再度公営化するようにパブリックスペースを国家を通じて再生し、アクターに参加を促すことを提案していた[23]。ダニエル・ライトチヒは市民の判断、リキッド・デモクラシー、セルフ・マネジメントへの回帰、より小さな行政単位、子供の頃からの社会参加の機会の拡大、対抗的な公共圏の構築に言及していた[24]。

1.6 事例

クラウチによればニューレイバーは「ポスト・デモクラティックな政党」の例であった[25]。サッチャリズムによる新自由主義的な政策の継続を通じて「政党は[...]労働者階級からの社会的関心を失っていった」[25]。その例外は特定の女性差別に対する対応であった(「第三の道」を参照せよ)。クラウチによればオランダでは労働党が「オランダの奇跡」を実現していた[26]。しかしクラウチによれば「フォルタイン党が庶民に向けた「分かりやすさ」に対して抵抗しないオランダのリーダーが数多くの妥協を繰り返していたとオランダ人が考えるようになっていたこと」を通じて、2002年の選挙でフォルタイン党は成功を収めていた。「そして誰も特定の階級の利益を擁護しようとしていなかったことを背景にして、たった1つの表現を通じた「分かりやすさ」によって、移民やエスニック・マイノリティを排斥する「人々」や「国民」を動員していた」[27]。クラウチはベルルスコーニによるフォルツァ・イタリアを21世紀に特有の政党として分類していた。

ポスト・デモクラシー特有の傾向は国際的な統合の帰結から生じており、そこにはまだ共通の議論の土壌も国際紛争を民主的に解決するためのコンセンサスを形成する土台も存在していなかった。この事例は欧州連合になり、実際のところ欧州連合は民主主義の赤字を部分的に抱えていた。そして政治的な運動は欧州連合の政治システム特に欧州憲法における民主主義の赤字を具体的に改善する[28]ことを十分に考慮していなかった。

1.7 評価

インタビューの中でクラウチはオバマの運動が「民主主義の内部崩壊についての私の主張を否定することになった」と述べていた。「そして「確かにオバマは民主党の候補者であったが、実際のところオバマは若者をホワイトハウスへ送ろうとする運動の中に位置付けられており、将来に対する希望であった」[29]。

南ドイツ新聞の書評を担当しているイェンス・クリスチャン・ラーベは民主主義が本質的にエリートに起因する問題を抱えていると主張していた。そして連邦憲法裁判所を引き合いに出していた。イェンス・クリスチャン・ラーベは「ポスト・デモクラシーにおける[...]二重の現象つまり連邦憲法裁判所における規範に則した政治の理解と現実に則した政治の理解が二重に生じていたこと」を批判していた[30]。

またユルゲン・カウベはクラウチによる規範的なアプローチを批判していた。つまりクラウチはフォーディスト社会を理想としており、現在の多国籍企業によるインパクトを過大評価していると考えられていた[31]。ユルゲン・カウベはクラウチが示しているような民主主義のモデルを幻想の産物と考えていた。クラウチは著作の序章でその理想とするものが多大な労力を必要としていることを認めていた。しかしクラウチはハードルを少なくすることが発展に伴う負の側面を見逃すことになると主張していた[32]。

クラウス・オッフェはクラウチが「個々の国家や政治を極度に細分化しながら分析していたこと」[33]を批判していた。

パウル・ノルテは人々がクラウチによる批判を「歴史的に[...]そして長く語り継がれる民主主義の物語の中で理解している」と考えていた[34]。そして今日の民主主義は進歩していた。それは「リベラルや保守の視点」でもなければ「「左派やポスト・デモクラシー」の視点でもなく、それは薄暗い明かりの中に民主主義が照らし出されていることを理由にしており、困難な風景が忍び寄っていた」[35]。ノルテはさまざまな事柄の反映として「複数の民主主義」に依拠している今日に言及していた。「歴史的には熟議民主主義を指向していると考えられていた」[37]。

ディルク・イェルケによれば民主主義の危機はポスト・デモクラシーないし「民主主義の変質」として説明されていた。多くの批評家が「ファシリテーション、市民フォーラム、コンセンサス会議のような新たな参加の枠組みの形成を求めていた」[38]。イェルケは教育水準の高い中産階級のみがこれらの新たな機会を活用しており、「増加している底辺層」は参加の機会を活用していないことを論じていた。「結局のところ、全ての市民が社会参加に必要とされているリソースを有している訳ではなかった。特に時間、専門知識の基礎、レトリックの能力、自信の表れについてそうであった」[39]。イェルケは「社会の風通しを良くし、民主主義の不全に直面していたあらゆる人々を政治的なプロセスに取り込めるかどうか」が重要であると締め括っていた[40]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Second_modernity

第二の近代

第二の近代はドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックによる造語であり、モダニティ以後の時代を示していた。

モダニティは工業化社会を推し進め農村社会を崩壊させており、第二の近代は工業化社会を新しく柔軟なネットワーク社会や情報化社会へ転換させていた(フェ・チュアンキー、2011年)。

1 リスク社会

第二の近代はリスクに対する新たな意識によって特徴付けられており、あらゆる生命つまり植物、動物、人間に対するリスクは人間の希少性から派生した問題に対するモダニティの成功によって生み出されていた(キャリアー、ノルドマン、2011年)。自然や社会のリスクから保護すると想定されていたシステムは人間由来の新たなリスクを副産物としてグローバルにますます生み出していると考えられていた(フェ・チュアンキー、2012年)。そのようなシステムは問題の一部であり解決のための存在ではなかった。近代化と情報化の進歩はサイバー犯罪のような新たな社会的危機を生み出しており(フェ・チュアンキー、2012年)、科学の進歩はクローニングや遺伝子組換のような新たな分野を切り開いており、そこでの意思決定は長期的な影響を十分に検討することなく行われていた(アラン、アダム、カーター、1999年)。

近代化の反作用がもたらすジレンマを認識しながら、ベックはもはや国家の利益を国家の力だけで十分に追求できない世界の困難を「コスモポリタン・レアール・ポリティーク」が克服するであろうことを示唆していた(ベック、2006年)。

2 知識社会

第二の近代は知識社会に関連しており、知識の複数性によって特徴付けられていた(キャリアー、ノルドマン)。知識社会はIT社会がもたらしている不確実性のような知識に依存したリスクを特徴としていた(ハーディング、2008年)。

3 抵抗

第二の近代に対する様々な抵抗が生じており、欧州懐疑主義はその一例であった(マルケッティ、ヴィドヴィチ、2010年)。

ベックは第二の近代に対する抵抗やその副産物としてITの活用やイデオロギーの統合の中にアルカイダを認識していた(ベック、2006年)。

http://de.wikipedia.org/wiki/Zweite_Moderne

第二の近代

第二の近代という語はハインリッヒ・クロッツによって1990年代初頭の現代美術と建築における第一の近代の秩序の表面的な崩壊を示すために生み出されていた。

この語はドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックによってグローバル化を通じて経済的・政治的に変質した世界を示すために用いられていた。

1 第一の近代

第一の近代は啓蒙時代から工業化以後の官僚体制までを示していた。第一の近代は18世紀から始まり、市民社会や国民国家が形成された時代であった。また第一の近代はマックス・ヴェーバー(『遺稿集 経済と社会』、1922年)やフェルディナント・テンニース(ガイスト・デア・ノイツァイト、1935年)のような社会学者たちによって明示されていた。

2 第二の近代

第二の近代を巡る理論は個人主義、合理主義、フォーディズムのような近代の原理をラディカルにする傾向を示唆していた。20世紀の後半に始まった第二の近代はグローバル社会の登場や雇用環境の問題をともなうグローバル化のプロセスを包含していた。また第二の近代はデジタル革命に対する文化的な反応として認識されていた。

第一の近代と第二の近代の違いとして「グローバル化」に手を施すことが不可能である状況が指摘されていた。またグローバル化に顕著な特徴は国民国家のような第一の近代における制度の軋轢が増していくことにあった。そしてグローバル化の進展とともに、トランスナショナルな組織がますます力を増しており、国民国家は力を失い主権を喪失していくプロセスにあった。このような状況は多くの問題を生み出しており、今日の至るところで経験されていた。

グローバル化の問題は現実社会の納税者とバーチャル世界の納税者との対立にも現れており、国民国家の力の縮小は社会的不平等の拡大を促しており、社会統合の喪失を招いていた。

第二の近代における問題はグローバル化、流動化、失業、環境汚染、政治・社会・文化のシステムにおける機能の喪失に対する解決の方法を見出すことにあった。

第二の近代に対する厳密な定義は現在のところ定まっておらず、発展途上の段階にあった。第二の近代が示す内容は、それが比較的新しいプロセスであるためさらなる研究を必要としているのかどうかや、近代の初期に存在していなかった要因としてのグローバル化にフォーカスしてもよいのか、そしてローマの観念論やドイツの観念論における200年前の批評を適用しても構わないのかどうかに依存していた。

ウルリッヒ・ベックは新たな問題についての言及を先鋭化させていた。欧米の資本主義社会で浮かび上がってきた新たな問題がダニエル・ベルやアンソニー・ギデンズのような社会学者によって指摘されていた。そのキーワードは例えばユルゲン・ハーバーマスによる「ノイエン・ウンユーバーズィヒトリヒトカイト」、ウルリッヒ・ベックによる「リスク社会」、リチャード・セネットによる「フレキシブル・パーソン」であった。ウルリッヒ・ベックやエディツィオーン・ツヴァイト・モデルネの著者たちによれば、人類は目標を達成するであろうし、人類の将来はグローバル化のような昨今の問題に対して理性に基づいて進歩を遂げていくであろうとの期待が存在していた。

「第二の近代」という語は社会科学において広がりを示していなかった。しかし上述のような広範な事例が多くの社会学者によって指摘されていた。多くの経済学者はグローバル化の影響を肯定的に捉えていた。

グッドチャイルドによれば、モダニズムは分断され均一的な都市の風景を生み出しており、その都市計画は都市のエコシステムから切り離された対象としてその建築物を扱っていた。モダニストによる都市計画の問題の1つは居住者の視点や世論の動向を軽視している点にあり、第二次世界大戦以降の都市が直面している問題であるスラム、過密化、悪化したインフラ、汚染、病気について詳しく知らない裕福なエキスパートといったマイノリティによる都市計画がマジョリティに押し付けられていたことが指摘されていた。これらの問題はモダニズムが解決するはずの都市の問題であったが、たいていの場合、都市計画における全てに対応するはずのアプローチは失敗しており、他方で住民は建築のエキスパートにのみ委ねられていた過去の決定の内容に関心を示し始めていた。そしてアーヴィングによれば、1960年代の都市計画における伝統的なエリート主義やテクノクラートによるアプローチに対抗するために住民参加型の都市計画が登場していた。さらに1960年代の都市計画の担当者によるモダニズムの欠点に対する歴史的評価によって、都市計画の関係者を拡大することを狙った住民参加型の都市計画が支援されていた。

そしてポスト構造主義者の著作は知識に対する体系的な視点の中に多様な分野からの主張をまとめていたが、学際的な構造主義者は、学際性を主張しているにもかかわらず、専門分野の枠組みを好ましく考えており、研究対象を分析するためのアプローチに対して他分野からの視点を介在させない専門分野の独立性に固執する傾向にあった。また構造主義者と異なりポスト構造主義者は、ある現象に対する複数の関係から成り立っているシステムを絶対視しておらず、独立した自己充足的な要素から成り立っている現実を反映したものというよりむしろある主張の狙いの帰結として複数の関係やシステムを認識する傾向にあった。

ポストモダニズムは第二次世界大戦後に認識されていたモダニズムの失敗に対する反応から生じており、モダニズムの芸術におけるラディカルなプロジェクトが全体主義に結びつきながら主流の文化に融合されていったことが指摘されていた。ポストモダニズムと呼ばれるものの萌芽は1940年代に散見されており、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが有名であった。しかし今日の多くの研究者は、1950年代後半にポストモダニズムがモダニズムと齟齬をきたし始めており、1960年代に優勢な地位を占めていったことに対して意見が一致していた。その後ポストモダニズムは、異論があるものの、芸術、文学、映画、音楽、ドラマ、建築、哲学において支配的になっていった。

そして1990年代後半以降の大衆文化やアカデミズムの世界においてポストモダニズムが廃れてきているとの考えが広まり始めていた。しかしポストモダニズムを継承する時代の名称や枠組みを定める取り組みはほとんどなく、提唱されていた名称も多数派からの支持を得ていなかった。

何が時代を形成しているのかについてのコンセンサスが得られておらず、時代自体がまだ始まりの段階にあった。しかしながらポスト・ポストモダニズムの枠組みを定める取り組みにおける共通のテーマは、信頼、対話、成果、誠意がポストモダンのアイロニーを超越して機能することにあった。

ポストミレニアリズムという語は2000年にアメリカの人文系の研究者であるエリック・ガンズによって紹介されており、倫理学や政治社会学におけるポストモダニズムに続く時代が示されていた。ガンズはアウシュビッツや広島の経験によって明らかになった加害者と被害者の倫理観の対立に基づく被害者を過度に偏重した考え方とポストモダニズムを密接に結びつけていた。ガンズの視点によれば、ポストモダニズムの倫理観は被害者の周辺に視点をおき、加害者側のユートピアを軽蔑することから生じていた。この意味におけるポストモダニズムは、近代のユートピアや全体主義に反対することについては有益であったが、和解のために長期的に役に立つ資本主義やリベラル・デモクラシーについて有益とならず被害者を過度に偏重した政治観によって特徴付けられていた。ポストモダニズムと比較して、ポストミレニアリズムは被害者を過度に偏重した立場をとらないことによって特徴付けられており、被害者を過度に偏重しないダイアローグを採用していた。

2006年にイギリスの研究者であるアラン・カービィはスードモダニズムと呼ばれているポスト・ポストモダニズムに対して社会文化的な評価を行なっていた。カービィはインターネットによって実現された文化の1つである世界一斉に表向き何かに直接関与する行為によって生じているうんざり感や中身の浅薄さとスードモダニズムとを関連付けており、スードモダニズムの時代において、人々はスマートフォンを利用し、クリックし、文字を入力し、サイトを眺め、選択肢から何かを選び、サイトを移動し、ダウンロードするだけになってしまったと述べていた。

スードモダニズムにおける典型的な知的状況は無知、熱狂、不安として描かれており、実質を伴わず「超」の語がついただけの現状を生み出すだけであった。どうでもいいことに世界一斉に参加してメディアに簡単に煽られてしまう浅薄さによって生じていた帰結はモダニズム特有の強迫観念的な細かさやポストモダニズム特有のナルシシズムと入れ替わった有意義な情報や意思を伝えることも感情的な交流をすることもない状況でしかなかった。カービィは美学的に価値のある結果がスードモダニズムから生じることはないと認識していた。

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはメタモダニズムをポスト・ポストモダニズムを巡る論争の行き着く場所として提案していた。ノーツ・オン・メタモダニズムの中で彼らは1980年代や1990年代のポストモダンの視点を生かしながら典型的な近代へ回帰する姿勢によって2000年代が特徴付けられていたと論じていた。彼らによれば、メタモダニズムの感性は、気候変動、金融危機、政情不安、デジタル革命のような現在のグローバルな状況に対する文化的な反応の特徴である多くの知識をもちながら知らないことも多く、プラグマティックな理想主義を示しているものとして考えられていた。彼らはポストモダン文化における相対主義、アイロニー、ゴチャ混ぜの文化が終焉を迎えており、積極的に関与し、共感し、中身を伝えることに価値を認めるポスト・イデオロギーの状況が生じていると述べていた。

バーミューレンとファン・デン・アッカーはメタモダニズムを多くの点の間を揺り動く振り子のようにモダニズムとポストモダニズムの間を揺れ動く心構えの構造として示していた。アートニュースの紙面におけるキム・レヴィンによれば、この揺れ動きは期待と落胆、誠意とアイロニー、愛情と反感、個人的な問題と政治的な問題、技術的観点とマニアの視点に対して等しく懐疑的な心構えを示していると思われていた。メタモダニズムの時代を迎えて、バーミューレンはかつてのメタナラティブが問題を抱えながらも必要とされており、理想がこれまでの歴史から信頼するに値しない幻滅の対象としてしか認識されない必然性はなく、愛情が馬鹿げた思い込みと必然的に同一である訳でもなかったことを示していた。

2006年にアムステルダム市立美術館とアムステル大学はダニエル・バーンバウムやアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を開催しており、その入門編としてメディアでの言説に対抗しながら、本物のよさ、積極的な自己表現、芸術の自己肯定のような伝統的なモダニストの価値観への回帰としての絵画のリバイバルについての講演を行なっていた。

スタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるチャールズ・トムソンやビリー・チャイルディッシュはリモダニズムの時代を切り開いていた。2000年3月1日にリモダニストによるマニフェストが公表されており、それは芸術の理想、本物のよさ、積極的な自己表現を肯定しており、絵画に力点を置きながらも芸術に新たな精神を取り込んでいた。その前提はモダニストによる理想がまだ十分に生かされていないことであり、その目標はその理想が誤用されている現状においてその役割を回復させ、再度定義させ、リバイバルさせることにあった。リモダニズムは真実、知識、その内容を肯定しており、形式主義に疑念を抱いていた。

そのイントロとしてポストモダンの戯言によってモダニズムはその意味を見失っていたといった言葉が紹介されていた。そしてニヒリズム、科学的唯物論、方向性の定まらない破壊に対抗して勇気、個性、一般性、コミュニケーション、人間性を強調した14の視点を示していた。その中の7番目の視点は次のようなものであった。

精神性の追求は魂の旅であり、最初にやるべきことは真実と向き合うために暗黙の意味を列挙することであった。真実は今実際に存在しているものであり、願望とは異なっていた。精神性を追求する芸術家であることは、善悪、美醜、迷いや自信をはっきりと述べることを意味していた。

そのまとめとして、きちんとした心がある人々にとって、支配階級であるエリートによって創作された芸術が明らかにしているように、現在発表されている芸術が理性による成果の失敗を示していることは明白であり、その解決法は精神性を追求しているルネサンスにあり、他に芸術が歩むべき道は存在しておらず、スタッキズムからの提案は精神性を追求するルネサンスを今すぐに始めることであった。

2002年1月にマニフィコ・アーツはニューメキシコ大学の大学院生による「リモ:リモダニズム」と題された展覧会を開催していた。芸術家による講演会の場で、カリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーはリモダニズムは後向きではなく常に前を向いていると述べていた。展示会の寄稿文の中でラドリーは以下のように記していた。

...芸術家の主張に自信が取り戻されており、芸術家が皮肉、冷笑、教訓に煩わされることなく個性を追求することが可能であるといった視点が蘇っていた。その狙いは存在の意味を再び取り上げ、美の意味を練り直し、共感することの必要性を再度取り上げることにあった。

展覧会のキュレーターであるヨシミ・ハヤシは次のように述べていた。

リモはモダニズム、アバンギャルド、ポストモダニズム由来の考え方を混在させており、芸術に対するオルタナティブと主流派のアプローチを統合していた。リモでは多文化主義、アイロニー、高尚さ、アイデンティティに関する問題が取り扱われていたが、それのみで芸術を確立している訳ではなかった。伝統に対する再考と再定義は単なる脱構築によって成された訳ではなく、概念の接点を探しつなげることによって成されていた。定義によればリモは基本的に細胞に例えられており、そのルーツは芸術の周縁部分に由来していた。

2008年8月27日にジェシー・リチャーズはリモダニスト・フィルム・マニフェストを発表しており、そのマニフェストは映画における新たな精神性を追求しており、映画製作に直感を導入しており、リモダニストによる映画をむき出しで必要最小限で叙情的でパンクの要素を含む映画製作であると表現していた。

その後の2009年にマングビーイング誌におけるリモダニストによる映画についてのエッセイの中で、リチャーズはプロと関連させながらリモダニズムを論じていた。

一般的にリモダニズムはアマチュアによる挑戦を肯定しており、プロを考察の対象として特殊な立場に置いていた。つまりこれまでのプロは失敗をなくすために励む存在であり、それゆえプロフェッショナルであったが、私はそうは考えていない。そして仮にプロが絶えず成長する可能性を有する存在であるのならば、私はそのプロを支持したい。絵を描き、演技をし、他の芸術家のためのモデルになり、宗教の仲立ちをし、意識のレベルに影響することを行い、他者を不快にさせることに対しても一歩足を踏み出し、外の世界での生活に触れ合い、見知らぬ大海に飛び込むことを実際に自分でやる映画製作者を支持したい。私はそれらがプロにとっての挑戦だろうと考えている。

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムが無意味であり、蒙昧主義にすぎないとの主張を包含していた。例えばノーム・チョムスキーは分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にしてポストモダニズムが無意味であると主張していた。チョムスキーは「理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのか...と尋ねられたときに、なぜポストモダニストの知識人は他分野の研究者のように答えようとしないのか」と尋ねていた。そして「仮にその答えがないのであれば、私は情熱に対する類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい」と続けていた。またキリスト教徒の哲学者であるウィリアム・レーン・クレイグは「私たちがポストモダンの文化の中で暮らしているというアイデアは幻想である。実際ポストモダンの文化はあり得ないものであった。そして人々に馴染まれるものではなかった。また科学、工学、技術の問題になると人々は相対主義の立場ではなかった。むしろ宗教や倫理の問題になったときに相対主義の立場を採用していた。そしてこの話から導き出されることはこのような立場はポストモダニズムではなくモダニズムであるということだ」と述べていた。

例えばイギリスの歴史家であるペリー・アンダーソンのような人々は、ポストモダニズムという語が有しているさまざまな意味が互いに矛盾し合っており、ポストモダニストを分析することが現代文化に対する洞察をもたらすだろうと述べていた。またカヤ・イルマズはポストモダニズムという語の定義が明確でなく筋が通っていないことを示していた。イルマズによれば、理論自体が反基礎付け主義であるためにポストモダニズムという語が基礎を有していないことが指摘されていた。

フレドリック・ジェイムソンによれば、ポストモダニティにおいて物事の尺度が喪失されており、ポストモダンの主体が我を見失ってしまうほどの多くの事柄の中に私たちが埋没してしまっていることが指摘されていた。この新たなグローバル空間はポストモダニティの正念場でもあった。ジェイムソンが認識しているポストモダンの他の特徴はグローバル空間における存在のある側面として示されていた。またポストモダンの時代は文化の社会的機能を変化させていた。ジェイムソンによれば、近代の文化は中途半端に自律的で、現実を超えた存在を仮定していたが、ポストモダンの文化はその自律性を奪っており、文化人の営みが社会全体を消費するまでに拡大しており、あらゆる人々が文化人になっていたことが指摘されていた。そして評論における物事の尺度であり左派の理論が依拠している巨大な資本という存在の蚊帳の外に文化が位置しているといった仮定は時代遅れになっていた。また多国籍資本の驚異的な拡大が資本主義に染まっていない地域(自然であれ意識であれ)を植民地化し尽くしてしまい、植民化される側は評論家にとって都合がよい状況を与えていたことが指摘されていた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「ポストモダニズム」、「ポスト・ポストモダニズム」、「メタモダニズム」、「リモダニズム」、「ポストモダニズムに対する批判」、「ポストモダニティ」、「ミシェル・フーコー」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Postmodernism

ポストモダニズム

ポストモダニズムは芸術、建築、モダニズムに対する批評をテーマにした20世紀後半のムーブメントの総称であった[1][2]。ポストモダニズムは文化、文学、芸術、哲学、歴史、経済学、建築、フィクション、批評における懐疑的な解釈を包含していた。脱構築やポスト構造主義とよく結び付けられる背景として、その語が20世紀のポスト構造主義的な思想の潮流とともに大きな人気を博していたことが指摘されていた。

ポストモダニズムという語は、モダニズム、つまりそれまでのスタイルを形成していた伝統的な要素に抵抗する芸術、音楽、文学のムーブメントを示していた[3]。

1 歴史

ポストモダンという語が初めて用いられたのは1870年代頃であり、ジョン・ワトキンス・チャップマンはフランスの印象主義から逃れる運動の一環として「絵画をテーマにしたポストモダンスタイル」を提示していた[4]。ザ・ヒバート・ジャーナル(哲学の季刊誌)に掲載された1914年の記事においてJ・M・トンプソンは、ポストモダンという語を宗教を批評する際の判断における変化を示すために用いていた。「ポストモダニズムの存在理由は、カトリックの伝統やカトリックの感情に対して神学が宗教をテーマとして取り上げるように、モダニズムに対する批評を徹底することによって、モダニズムにおける二項対立から逃れることにあった。」[5]

1921年や1925年にポストモダニズムという語は芸術や音楽における新たなスタイルを示すために用いられていた。1942年にH・R・ヘイズは新たな文学のスタイルとしてその語を用いていた。一方この語は1939年に歴史の潮流に対する包括的な理論として初めてアーノルド・J・トインビーによって採用されていた。「私たちが直面しているポストモダンの時代は1914年から1918年までの戦争によってすでに始まっていた。」[6]

1949年にポストモダニズムという語は近代建築に対する批判を示すために用いられており、その語はポストモダン建築をリードしており[7]、国際性を主張していた近代建築運動に対して呼応したものであった。建築におけるポストモダニズムは装飾を再評価し、都市建築において周囲の建造物を考慮し、装飾の歴史的な意味を重視し、直角や直方体に拘らない特徴を有していた。

1971年にICA(インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート、ロンドン)で行われた講演の中で、メル・ボックナーは芸術における「ポストモダニズム」を解説しており、それが「初めて芸術のベースとしてセンスデータや単一の視点に依存することを否定しており、批評として芸術を捉えていた」ジャスパー・ジョーンズから始まっていたことを指摘していた[8]。

近年、ウォルター・トルーエット・アンダーソンはポストモダニズムを4つの世界観の1つとして示しており、(a)真実が社会的に形成されたものであると見做しているポストモダンのアイロニストの立場、(b)真実が確立された方法論やよく練られた研究を通じて得られるとする科学的合理性を重視する立場、(c)真実が欧米の文明の遺産の中から得られるとする社会的伝統を重視する立場、(d)真実が自然との調和を保つことによって得られるとし、内なる自分を精神的に探求する新ロマン主義の立場を挙げていた[9]。

哲学におけるポストモダニズムや社会・文化の分析は批評の意味を拡大しており、文学、建築、デザインの原点になっており、マーケティング・ビジネスや歴史、法、文化の解釈においてはっきりとした姿を示しており、それらは20世紀後半に生じていた。これらの展開、つまり1950年代や1960年代から始まり、1968年の社会革命をピークとしていた西洋の価値体系(愛、結婚、大衆文化、工業化からサービス化への経済シフト)に対する再評価はポストモダニティという語によって示されており、ポストモダンの思想に影響を及ぼした人の中に、ある視点や政治的・社会的動向から言葉の意味が一般的に影響を受けているといったポストモダニズムを論じていたパウル・リュッツェラー(セントルイスの)が含まれていた。またポストモダニズムはポストモダニズムを展開させたポスト構造主義といった語と交換可能であり、ポストモダニズムやポストモダニストによる思想を適切に把握するためには、ポスト構造主義者やその支持者たちによる思想を理解することが求められていた。そしてポスト構造主義は構造主義の時代の後に生じていたポストモダニズムに類似していた。ポスト構造主義は逆説的であるが構造主義を通じて分析している新たなアプローチによって特徴付けられていた[10]。「ポストモダニスト」という語はある政治的・社会的ムーブメントを部分的に表現しており、「ポストモダン」という語は1950年代以降のムーブメントを示しており、そのムーブメントを現代史の一部に組み込んでいた。

2 芸術への影響

2.1 建築

建築におけるポストモダニズムは近代建築における失敗した理想主義や停滞していた状況に対する自然な反応として始まっていた。ヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエによって提唱されていた近代建築は理想的な完成型を追求しており、形と機能の調和を狙っており[11]、「浅薄な装飾」を否定していた[12][13]。モダニズムに対する批評家は、一般論としての完成像やミニマリズムを構成す要素が主観的な存在であり、近代のアナクロニズムであることを指摘しており、近代の哲学の業績に対して疑念を呈していた[14]。マイケル・グレイヴスやロバート・ヴェンチューリの作品を例に挙げればポストモダン建築は、建築で利用可能なあらゆる方法論、素材、色を活用しておらず、形としての「純粋さ」や「完成された」建築を追求することを否定していた。

モダニストであるルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは「より少ないことは、より豊かなこと」であるといった言葉で知られており、ヴェンチューリは「少ないほど、退屈である」との皮肉で知られていた。ポストモダニストの建築は、古く「絶対的な」モダニズムに対して疑念を呈するための美に関するムーブメントの1つであり、個人的な嗜好や客観的で究極的な真実や原理の多様性を求めるものであった。

批評、懐疑主義、全体とのずれを強調することを主張することの中に、ポストモダニズムの美の特徴が現れていた。この意味でこの語を用いている人々の中に、チャールズ・ジェンクスがおり、アーキテクチュアル・デザイン・マガジンによればチャールズ・ジェンクスは「その後の30年間におけるポストモダニズムを示しており」、「80年代におけるポストモダニズムを体現している国際的に評価された批評家」であった[15]。

2.2 都市計画

ポストモダニズムは都市計画が社会的背景や合理性と無関係に広く採用している「全体主義的な特徴」を否定していた。この意味でポストモダニズムはモダニズムの後継ではなかった。1920年代以降の近代化のムーブメントは大量生産という新たなモデルに依拠したデザインや都市計画を求めており、大規模なソリューション、美の標準化、プレハブ工法によるデザインを採用していた(グッドチャイルド、1990年)。さらにモダニズムは個の違いを認識することに失敗しており、均一な光景を目標とした都市の生活を生み出していた(シモンセン、1990年、57)。モダニズムを通じて都市計画はカオス・不安定・変化の中で安定感があり、システマティックであり、合理性を追求した建築を確立しようとする20世紀のムーブメントを代表していた(アーヴィング、1993年、475)。ポストモダニズム以前の都市計画のプランナーは、唯一の「正しい方法」を通じて新たな建築物の設計を実現することに対して自負を抱いている「最も妥当なエキスパート」として認識されていた(アーヴィング、1993年)。そして同時に1945年以降の都市計画はデベロッパーや企業の利潤を確保するための手段の1つになっていた(アーヴィング、1993年、479)。

モダニズムによれば都市計画は分断され均一的な都市の風景を生み出しており、都市のエコシステムから切り離された対象としてその建築物を扱っていた(グッドチャイルド、1990年)。モダニストによる都市計画の問題の1つは居住者の視点や世論の動向を軽視している点にあり、第二次世界大戦以降の現実の「都市」が直面している問題、例えばスラム、過密化、悪化したインフラ、汚染、病気(アーヴィング、1993年)について詳しく知らない裕福なエキスパートといったマイノリティによる都市計画がマジョリティに押し付けられていたことが指摘されていた。これらの問題は正確にはモダニズムが「解決する」はずの「都市の問題」であり、たいていの場合、都市計画における「総合的で」「全てに対応するはずの」アプローチは失敗しており、他方で住民は建築のエキスパートにのみ委ねられていた過去の決定の内容に関心を示し始めていた。そして1960年代の都市計画における伝統的なエリート主義やテクノクラートによるアプローチに対抗するために住民参加型の都市計画が登場していた(アーヴィング、1993年、ハートゥカ、ドーヘ、2007年)。さらに1960年代の都市計画の担当者によるモダニズムの「欠点」に対する歴史的評価によって、都市計画の関係者を拡大することを狙った住民参加型の都市計画が支援されていた(ハートゥカ、ドーヘ、2007年、21)。

1961年のジェイン・ジェイコブズの著作である『アメリカ大都市の死と生』はモダニズムの枠組みの中で発達してきた都市計画に対する批判であり、都市計画におけるモダニズムからポストモダニズムへの移行を示していた(アーヴィング、1993年、479)。しかしモダニズムからポストモダニズムへの移行は1972年7月15日の午後3時32分に生じたのだと言われており、その理由としてプルーイット・アイゴーつまりル・コルビュジエの言葉である「住宅は住むための機械である」といった思想から影響を受けた建築家であるミノル・ヤマサキによって設計されたセントルイスの低所得者向けの住宅が無人化したことが挙げられていた(アーヴィング、1993年、480)。その後ポストモダニズムは多様性を考慮しながら、不確実性、柔軟性、変化をもたらしていった(ハートゥカ、ドーヘ、2007年)。ポストモダンの都市計画は複数性を許容しており、マイノリティや立場が弱いグループの主張を容認するために社会的な差異に対する認識を促していった(グッドチャイルド、1990年)。モダニティの枠組みに収まった都市計画についての言説には注意することが重要であり、確かに資本の論理によって展開していたが、事実としてポストモダニティは異なった状況の下で発展していった。モダニティは一般大衆と標準化された生産や消費を歓迎するフォーディズムそしてケインジアンのパラダイムの背後にある資本主義の倫理によって形成されており、一方ポストモダニティは資本蓄積、労働市場、組織のフレキシブルな姿から生じていた(アーヴィング、1993年、60)。そして「ネオコンの」ポストモダニズムと「抵抗する」ポストモダニズムの間にも差異が存在していた。「ネオコンの」ポストモダニズムはモダニズムを否定しており、新たな文化に統合するために失われた伝統や歴史を取り戻そうとしていたが、「抵抗する」ポストモダニズムはモダニズムを再構築し、失われた伝統や歴史に回帰することなくその原点を批判していた(アーヴィング、1993年、60)。ポストモダニズムの帰結として都市計画の担当者は都市計画を行う唯一の「正しい方法」に対して固執することなく多彩なスタイルや多様な「都市計画の方法論」を受け入れていった(アーヴィング、474)[16][17][18][19]。

2.3 文学

文学におけるポストモダニズムは1972年に登場しており、「ジャーナル・オブ・ポストモダン・リテラチャー・アンド・カルチャー」といったサブタイトルが付いたバウンダリー2の創刊号によって示されていた。デヴィッド・アンティン、チャールズ・オルソン、ジョン・ケージ、ブラック・マウンテン・カレッジの人々は当時のポストモダニズムを知的ないし芸術的に表現する代表的な人物であった[20]。そしてバウンダリー2は今日のポストモダニストに対して影響力を有していた[21]。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編である『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メルナール』(1939年)はポストモダニズムを想定していたと考えられており[22]、究極のパロディであると考えられていた[23]。またサミュエル・ベケットはポストモダニズムの重要な先駆者であると考えられていた。そしてポストモダン文学に関連している作家の中に、ウラジーミル・ナボコフ、ウィリアム・ギャディス、ジョン・ホークス、ウィリアム・バロウズ、ジャンニナ・ブラスキ、カート・ヴォネガット、ジョン・バース、ドナルド・バーセルミ、E・L・ドクトロウ、ジャージ・コジンスキー、ドン・デリーロ、トマス・ピンチョン[24](ピンチョンの作品は「ハイモダン」として考えられていた[25])、イシュマエル・リード、キャシー・アッカー、アナ・リディア・ベガ、ポール・オースターが含まれていた。

1971年にアラブ系アメリカ人の研究者であるイーハブ・ハッサンはポストモダンの視点から文学を批評した初期の作品である『ザ・ディスメンバーメント・オブ・オーフィアス:トゥウォード・ア・ポストモダン・リテラチャー』を発表し、その作品の中でマルキ・ド・サド、フランツ・カフカ、アーネスト・ヘミングウェイ、ベケットらによる「沈黙の文学」や不条理演劇ないしヌーヴォー・ロマンの展開を表現していた。また『ポストモダニスト・フィクション』(1987年)の中で、ブライアン・マクヘイルはモダニズムからポストモダニズムへのシフトを描いており、ポストモダン以前の作品は認識論による支配によって特徴付けられていたが、ポストモダンの作品はモダニズムから発展していたものの主に形而上学に対する疑念に関連していると主張していた。そして次の著作である『コンストラクティング・ポストモダニズム』(1992年)を通じて、マクヘイルはポストモダンの著作やSFで知られている現代作家の作品に対する解釈を提示していた。マクヘイルの『何がポストモダニズムであるのか』(2007年)[26]は、ポストモダニズムを論じるときに現在時制の代わりに過去時制を用いる方が適当であるといったレイモンド・フェダマンの指摘に沿ったものであった。

2.4 音楽

ポストモダンの音楽はポストモダン期の音楽であり、ポストモダニズムが有する美学的ないし哲学的トレンドに沿った音楽であった。名が示すとおり、ポストモダニストによるムーブメントは部分的にモダニストによる理想に対抗しながら形成されていった。このためポストモダンの音楽はモダニストによる音楽に対する批判として定義されており、作品はモダニストによるものかポストモダニストによるものかの何れかであった。ジョナサン・クレイマーは、ポストモダニズム(音楽における)は表面上のスタイルや時代(つまり環境)の問題と言うよりむしろ考え方の問題であることを指摘していた。

ミニマリズムが登場した1960年代にポストモダンはクラシック音楽に対して影響を及ぼしていた。テリー・ライリー、ヘンリク・グレツキ、ブラッドリー・ジョセフ、ジョン・クーリッジ・アダムズ、ジョージ・クラム、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラス、マイケル・ナイマン、ルー・ハリソンといった作曲家達はエリート意識に対抗して、シンプルなテクスチュアや適度に協和したハーモニーを有する音楽を作曲することによって、調性を放棄したモダニズムによる不協和音に抵抗しており、よく知られているようにジョン・ケージはモダニズムに共通した客観性に対するメタナラティブに疑念を呈していた。一部の作曲家達はポピュラーミュージックや民族音楽の考え方から広く影響を受けていた。

クラシック音楽に対するポストモダンの影響は音楽のスタイルのみに限定されず、ポストモダン期の音楽全般を対象にしていた。そしてポストモダニティがポストモダニズムを生み出したように、ポストモダンの音楽が生み出されていた。またポストモダンの音楽はモダニズムに抗うポストモダンの芸術に固有な側面(以下は訳者の注になるが、言い換えるならば芸術家にとっての副業の問題)を共有していた。その一例はTシャツを販売しているロックバンドになり、一見するとそれは本来の音楽活動に付随したビジネスであるのだが、Tシャツはバンドの音楽以上にポピュラーな存在であり、バンドの音楽以上に「クール」に思われていた。

しばしば古典派音楽やロマン派音楽に分類される作曲の枠組みに回帰しながらも、全てのポストモダンの作曲家がモダニズムの楽理を回避している訳ではなかった。例えばオランダの作曲家であるルイ・アンドリーセンの作品は反ロマン主義としての実験音楽の特徴を示していた。モダニズムの完成度の限界やその見かけの厳格さに対して妥協しながらも表現の自由を追求することは作曲におけるポストモダンの影響の特徴であった。

3 影響力のあるポストモダンの哲学者

マルティン・ハイデッガー(1889-1976)

「主観」や「客観」といった概念の哲学的基盤を否定し、正反対の論理的基盤によってその両者が影響を及ぼし合っていると主張していた。それらを理解するためにこのパラドックスを認める代わりに、ハイデッガーは「解釈学的循環」と呼ばれる理解のプロセスを通じてそれらを把握していた。ハイデッガーは歴史的事実や概念の文化的構築を強調しており、時間と無関係に存在している内在的理解の必要性を主張していた。ここでハイデッガーは、ソクラテス以前の哲学の中に示されていたもののプラトン以後陰りを示していた現存在に対する疑念を再度取り上げることが現代の哲学の仕事であると明言していた。この仕事は現存在や思想史において忘却されたものを突き詰めることによって部分的に果たされていたが、それは何が人間の類似点に対する基礎的条件を構成しているのかについて私たちが再度考えなければならないことを意味していた。しかしこのためには、歴史と無関係に自己に対して言及するときに、以下に述べるような人間の姿(について必ずしも固定した考え方ではないが実在を示しているもの)を容認する思考、感情、実践に関わることが求められており、その人間の姿は一般的な人間であることだけでなくその後の成長に伴う個々の人間の違いを含めた可能な経験や可能な存在を許容するものであった。そのような結論はハイデッガーをフッサールの現象学から自由にさせており、その代わりに(時代に逆行しているが)形而上学の問題への回帰を促していたが、この回帰は一般的に物自体と現象もしくは物自体と実際に現れている物(クオリアを参照せよ)を区別していなかった。そして現存在になるプロセスを取り上げることは物自体と現象のギャップに対する橋渡しとなっていた。これによればハイデッガーはロマン主義の哲学者であるフリードリヒ・ニーチェから影響を受けていた。合理主義、経験主義、方法論的自然主義が内在している主体と客体もしくは感覚と知識の区別に対するハイデッガーの批評はポストモダニズムの思想家に影響を与えており、事実が思考のプロセスと別に存在しているといった考え方を否定しており(しかしハイデッガーは唯名論者ではなかった)、哲学や科学での前提は社会の期待からの影響を受けており、概念は、歴史的な精神や変化する経験(ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ハインリヒ・フォン・クライスト、コンストラクティビズムを参照せよ)から独立した論理的前提の派生物であることよりむしろ、実際に生じた歴史的な実践を表現したものであり、プラグマティストや悲観主義者の考えによれば、存在(拡大解釈すれば現実そのもの)は、控え目で肯定的で認められている状態、結果、実体そのものよりむしろ、行動、方法、方向性、可能性、疑問の提示であった(プロセス哲学、形而上学におけるダイナミズム。プラグマティズム、生気論を参照せよ)。

ジャック・デリダ(1930-2004)

テクストの構造的問題や哲学に対するその影響を再検討し、分析のためのアプローチとしての形而上学に疑念を呈し、ハイデッガーが用いた脱構築を出発点にして、デリダ流の脱構築はよく知られるようになっていった。デリダはハイデッガーのように前提と結論や表象の元と表象そのものの間の循環論法を示しているエポケーとアポリアのような哲学における懐疑論やソクラテス以前の哲学に関連したギリシア哲学に言及していたが、ジル・ドゥルーズに類似したアプローチでプラトン、アリストテレス、デカルトによる哲学を根本から再検討していた。

ミシェル・フーコー(1926-1984)

フーコーは、社会秩序の内部における意味、権力、社会的行動の関係を示すために(『言葉と物』、『知の考古学』、『監獄の誕生』、『性の歴史』を参照せよ)「エピステーメー」や「系譜学」のような概念を再検討していた。認識論におけるモダニストの視点と反対に、フーコーは、合理的な判断、社会的実践、「生権力」と呼ばれるものが不可分な関係にあるだけでなく、相互に関連した決定因子でもあると主張していた。フーコーは多くの進歩的な政治的動機を抱えており、極左のメンバーとの個人的な結びつきを保ちながら、当時の左翼の思想家と議論を交わしており、マルクス主義、左派のリバタリアニズム(例えば、ノーム・チョムスキー)の支持者、ヒューマニズム(例えば、ユルゲン・ハーバーマス)との緊張感を抱えながら、啓蒙時代の自由、解放運動、自己決定、人間の本性を示している考え方を否定していた。その代わりにフーコーは、そのような産物が文化的ヘゲモニー、文化的暴力、文化的疎外を助長していたシステムに着目していた。啓蒙時代のヒューマニズムが有する「肯定的な」主張を否定しながら、フーコーはジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリとともに反精神医学運動を精力的に行い、施設に依存した精神医学の現状を鑑みながら、精神分析の中心でありフロイトが示している抑圧された感情(フロイトが示している抑圧された感情といった概念は1960年代や1970年代にフランスで影響力を有していた)が誤りであったと主張していた。フーコーは論争を呼ぶ発言で知られており、彼の「言葉は悩みの種である」との発言は社会的な慣習を支える権力構造を損なうかもしれない無意味で誤った風潮を助長するように「言葉」が作用していることを意味していたが、そのような権力構造が権利の解放運動を支援しマイノリティを尊重しているときでさえもフーコーは同様の主張をしていた。そしてフーコーの著作はポストモダンの研究に大きな影響を与えていた。

ジャン=フランソワ・リオタール(1924-1998)

リオタールの思想は『ポストモダンの条件』の中でモダニズムを通じて人間科学が前提にしている考え方の危機を示しており、それらの問題は「コンピューター」化し「テレマティクス」化した時代の到来によって顕在化していた(情報革命を参照せよ)。アカデミズムにおけるこの危機は、研究の成果を肯定している暗黙の前提や価値観がもはや妥当でないかもしれないとの主張によって、18世紀後半以降の研究を正当化している価値観に対する疑念を呈していた(特に社会科学や人文科学において顕著であったが、リオタールは数学を例に挙げていた)。現実世界の問題に対する外形的な解釈は、結論の自動的な演繹、情報の蓄積、そしてそれらの検索と複雑に関連しており、そのような知識は情報の枠組みに含まれている知識人の手からますます「離れて」いった。知識は生産者と消費者の間で取引される商品に姿を変えており、それ自体が目的であるか自由や社会的便益をもたらすツールであることを否定しており、ヒューマニズムを肯定し超然とした側面を有することを否定されており、知識と教育の関係が遍在的で、具体的で、前提を課さない「データ」の交換として認識されていた[27]。そしてさまざまな学問分野でなされている主張の「多様性」が統合化された原理や洞察を欠いており、データベースを活用する研究が含意している内容の画一性を論じながら、研究の対象がますます専門分化を深めていったことを指摘していた。アカデミズムを擁護する価値観の前提はリオタールが人間の目的、人間の理性、人間の進歩に関する架空の想定であると考えていたものであり、この架空の産物をリオタールは「メタナラティブ」と呼んでいた。これらのメタナラティブは西洋の社会に深く浸透していたが、大学における急速な情報化の進展によってその基盤を揺るがされていた。知識人の洞察つまり人間の利益と真理に忠実であることを融和させた多様な知識を追求する理性から機械化されたデータベースや市場へと権威がシフトしていったことが、リオタールの視点によれば、知識の「正当化」の実態や人生、社会、価値に関する知識の理論的根拠を説明していた。現在の私たちは、コレクティブ・アイデンティティを規定する言語に表れない価値観に縛られることによってではなく、さまざまな「言語ゲーム」に自然に対応することを通じて行動する環境に置かれていた(リオタールはジョン・ラングショー・オースティンの発話行為に関する理論を援用していた)。この問題を解決するために、リオタールはユルゲン・ハーバーマスのようなヒューマニズムの立場を擁護している新カント派の哲学者の思想に認められている普遍性やコンセンサスの前提を否定しており、先験的な形而上学における調和を追求することよりむしろ、言語ゲームにおいてプラグマティックな評価を受けるための試行錯誤や多様性を維持することを主張していた。

リチャード・ローティ(1931-2007)

『哲学と自然の鏡』を通じてリチャード・ローティは、現代の分析哲学が科学の方法論を誤用していることを指摘していた。さらにローティは、現象から認知者と観察者が独立していることや意識との関連で自然現象を認知することを前提にしていた表象主義における伝統的な認識論の視点を批判していた。プラグマティストの枠組みにおける反基礎付け主義や反本質主義の支持者のようにローティは、規約主義や相対主義におけるポストモダンを支持していたが、他方で社会自由主義に関する活動についてのポストモダンを批判していた。

ジャン・ボードリヤール(1929-2007)

シミュラクラ現象によれば、デジタル技術を通じてコミュニケーションや意味付けが行われている時代においては、記号の交換可能性によって現実が単純化されていた。ボードリヤールによれば、主体が(政治的、文学的、芸術的、個人的な)産物から切り離され、その産物が主体を支配しておらず固定的な背景も有していない状況が想定されていた。そのためそれらの産物は産業化された社会における無関心や消極性を誘因していた。またボードリヤールによれば、読者や視聴者に直接的に影響を与えることがない外観はその外観と外観の中身との違いを感じさせておらず、皮肉なことであるが、存在しているはずの人間がその姿を消し去っており、バーチャルな世界は外観のみによって構成されていた。

フレドリック・ジェイムソン(1934-)

ホイットニー美術館でのレクチャーを通じて、ポストモダニズムを歴史、知的なトレンド、社会現象として最初に理論的に展開し、後に『ポストモダニズム・オア・ザ・カルチュラル・ロジック・オブ・レイト・キャピタリズム』(1991年)を記していた。折衷主義を採用していたが、ジェイムソンは、時代区分が人文科学における批評の前提に影響を与えていることを検証していた。ジェイムソンはモダニティの文化的運動における原動力としてユートピアニズムの意義を示しており、ポストモダニティの分析においてモダニティの運動を否定することから生じる政治的・実存的不確かさを指摘していた。スーザン・ソンタグと同様に、ジェイムソンは20世紀における大陸ヨーロッパの左派の思想をアメリカの読者に紹介しており、特にフランクフルト学派、構造主義、ポスト構造主義に関連した人々の思想が顕著であった。したがってアングロアメリカのアカデミズムの言葉でそれらの思想を「解釈している」ジェイムソンの仕事はそれらの思想を批評することと同等の意義を有していた。

ダグラス・ケルナー(1943-)

ポストモダニズムから誕生したジャーナルである『アナリシス・オブ・ザ・ジャーニー』の中で、ケルナーは「近代の理論における前提や方法」を捨て去らなければならないと主張していた。ポストモダニズムの流儀で定義されたケルナーの用語は進歩、変革、調整を基盤としていた。ケルナーは現実の経験や事例を考慮した理論で用いられている語を幅広く分析していた。ケルナーはそれらの分析に科学技術社会論(STS)を用いており、STSがなければ理論が完成しないと主張していた。その議論の射程はポストモダニズムの範囲を超えており、STSを核にしたカルチュラル・スタディーズを通じて解釈されていた。そしてアメリカ同時多発テロ事件がケルナーの解釈に影響を与えていた。その影響は計画的な襲撃と世界貿易センターと呼ばれた「グローバリゼーションの象徴」の崩壊といった事実に依拠した多数の表象であった。そしてポストモダニズムに対する多くの適切な定義や懸念が彼の解釈を確かなものにしていた。またケルナーはアメリカ同時多発テロ事件の影響を理解する上での問題を検証し続けていた。ケルナーは他者には理解できるが当事者には理解できないアイロニーといったポストモダンの限定的な枠組みを通じてのみ同時多発テロ事件が理解されることが可能であるのか否かといった疑問を呈していた[28]。さらにケルナーはポストモダンと整合する記号論の考え方を展開させていた。同時多発テロ事件の影響やポストモダンを通じて解釈されたシンボルを参考にしながら、ケルナーは人がその人生やその1ページを理解するために用いる「記号論の体系」のように同時多発テロ事件を表現し続けていた。記号が人の文化を理解するために必要であるといったケルナーの考え方は多くの文化が実存の代わりに記号を用いていたことから引き出されていた。そしてケルナーは多くのポストモダニズムの研究者がその考えに囚われていることを認めていた。またケルナーはボードリヤールやマルクス主義の考え方の中に可能性を見出していた。そして同時にケルナーはマルクス主義の終焉やその意義が失われていたことを認めていた。

ケルナーが示していた結論は明白であり、それはどんな現実の経験や記号が既に知られている現実と重なるのかについて今日用いられているポストモダニズムが決定的に関与しているであろうといったことであった[29]。

4 脱構築

最もよく知られたポストモダニストによる考え方の1つに「脱構築」があり、それはジャック・デリダによって提唱された哲学のテーマであり、文芸批評であり、テクスト分析であった。「脱構築」によるアプローチは、前提、イデオロギー上の基盤、ハイアラーキーによって支配された価値観、枠組みの中にあるテクストに対する既存の解釈に疑念を呈する分析を含んでいた。脱構築によるアプローチは、著者の見解のようなテクストの前提から引き出される著者の文化、イデオロギー、道徳的姿勢や知識に依拠することなく緻密にテクストを読み込む方法論を採用していた。またデリダは「テクスト以外には何も存在していない」と述べていた[30]。デリダは言語による世界は脱構築されたテクストの基本原理(文法)から影響を受けていることを示唆していた。デリダの方法論は、与えられたテクストの意味に対してある側面では異なっているが別の側面では類似している解釈やテクストの意味に限定された二項対立が内包している問題を認識することを含んでいた。デリダの哲学は建築では脱構築主義と呼ばれており、建築物のデザインにおける破片のような形状、要素の歪みやアンバランスさによって特徴付けられていたポストモダンのムーブメントに影響を与えていた。そして『コーラ・ル・ワークス』といった建築家のピーター・アイゼンマンとの共同プロジェクトの後、デリダはこのムーブメントに関与することから遠ざかることになった[31]。

5 ポストモダニズムと構造主義

構造主義は1950年代のフランスの研究者によって展開された哲学的な潮流であり、部分的にはフランスの実存主義に由来していた。構造主義はモダニズムの表出としても認識されていた。「ポスト構造主義者」は構造主義の厳密な解釈や適用から離れた立場の思想家であった。多くのアメリカの研究者はポスト構造主義をより広範に捉えており、ポスト構造主義がよく定義されていないもののポストモダンの一部であると認識していたが、多くのポスト構造主義者はその認識は間違っていると主張していた。構造主義者と呼ばれている思想家の中には、人類学者であるクロード・レヴィ=ストロース、言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュール、マルクス主義の哲学者であるルイ・アルチュセール、記号学者であるアルジルダス・グレマスが含まれていた。精神分析学者であるジャック・ラカンや文学者であるロラン・バルトの初期の著作も同様に構造主義に分類されることがあった。構造主義から始まりポスト構造主義者になった人々の中に、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズがおり、他のポスト構造主義者の中に、ジャック・デリダ、ピエール・ブルデュー、ジャン=フランソワ・リオタール、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスス、リュス・イリガライが含まれていた。彼らが影響を与えたアメリカの知識人の中に、ジュディス・バトラー、ジョン・フィスク、ロザリンド・クラウス、アヴィタル・ロネル、ヘイデン・ホワイトが含まれていた。

ポスト構造主義は、一般に共有された公理や方法論によって定義づけられるものではなく、日々の出来事から抽象的な理論に至るまで、ある文化の側面が他の側面をどのように決定づけているのかを示すことによって定められていた。ポスト構造主義の思想家は還元主義、随伴現象説、そして因果関係が階層構造を形成しているといった考え方を否定していた。構造主義者と同様に、ポスト構造主義者は、人々のアイデンティティ、価値観、経済状況が固有の特徴を形成していくことよりむしろお互いに影響を及ぼし合っているといった仮定を議論の出発点にしていた[32]。そしてフランスの構造主義者は相対主義や社会構築主義を提唱していることを自認していた。しかしそれにもかかわらずフランスの構造主義者は、どのように研究の対象が基本的な関係の集合として還元主義的に示されているのかを研究する傾向にあった(その例として『神話論理』におけるクロード・レヴィ=ストロースの神話変換の定式が挙げられる[33])。ポスト構造主義の思想家は物が最低限持っていなければならない性質と他の物に対する依存を区別する実存に対して疑念を呈していた。

5.1 ポスト構造主義

ポスト構造主義者は一般的に原始的な文化、言語、アリストテレスの心理学、観念論における「基本的な関係」の定式化を否定していた。またポスト構造主義の運動に関連していた思想家における別の共通点は、絶対主義や、原始的な文化、言語、心理の内部における作用以上に大きな影響を与えている官僚主義や工業化の進展に伴う構造的なバイアス[34]を内在させている構造主義者による科学的な主張に対する批判的な視点にあった。そのような現実は、価値観やパラダイムから独立して存在するシステムとして、構造主義者の方法論を通じて詳細に分析されておらず、原因と結果の相互作用として理解されていた[35]。したがって多くのポスト構造主義者は、システムの機能に対して構造主義者より幅広い解釈を採用しており、循環論法的な側面やあいまいな側面を時として批判していた。ポスト構造主義者は、それらを詳細に分析した上で、構造主義者による現象、現実、真実を示す主張が逆説的な循環論法による論証に依存していると反論していた。そして研究を通じて新たな視点が影響力をもち、その新たな理論が実現されていくことに見られる客観性の獲得のプロセスよりむしろ、その理論の中に登場する潜在的な循環論法やパラドックスのパターンを見出すことが重要であった。またある視点によれば、ポスト構造主義者はマルティン・ハイデッガーによる哲学の流れを組みながら、フリードリヒ・ニーチェの著作がもつ含意を敷衍していた。

ポスト構造主義者の著作は、経験、身体、社会、経済と知識との関係や知識に対する体系的な視点の中に多様な分野からの主張をまとめている傾向にあり、その体系的な視点に対してポスト構造主義の主張が関与しているとみなされていた。そして多少なりとも学際的な構造主義者は、学際性を主張しているにもかかわらず、専門分野の枠組みを好ましく考えており、研究対象を分析するためのアプローチに対して他分野からの視点を介在させない専門分野の独立性に固執する傾向にあった。構造主義者と異なりポスト構造主義者は、ある現象に対する「複数の関係」から成り立っているシステムを絶対視しておらず、独立した自己充足的な要素から成り立っている現実を反映したものというよりむしろある主張の狙いの帰結として「その関係」やシステムを認識する傾向にあった。どちらかと言えば一部の客観的な事実を取り上げてもそうであるが、ポスト構造主義の理論は社会秩序に関する統制における広範であいまいなパターンを示していたが、そのパターンを理論として無条件にまとめ上げることは不可能であった。このため一部のポスト構造主義者は反知性主義や反哲学を理由にしてリアリスト、自然主義者、本質主義者から批判されていた。構造主義者と比較してポスト構造主義者は、理論の前提が全体に対するバイアスや権力の影響から独立していることに対して懐疑的であり、社会に対する分析、記号論、哲学における推論において「純粋に理論的」で「科学的」なアプローチを否定する傾向にあった。ポスト構造主義者によれば、理論を通じて人間社会や心理学におけるいかなる現象も基本的なシステムや抽象化されたパターンに分解することは不可能であり、抽象化されたシステムを基本的な性質を保持した副産物として処理することも不可能であり、体系化された理論、現象、価値観がお互いの一部分を形成していた。

6 ポスト・ポストモダニズム

近年になってメタモダニズム、ポスト・ポストモダニズムや「ポストモダニズムの終焉」が幅広く論じられていた。2007年に「アフター・ポストモダニズム」と題されたザ・ジャーナル・トゥエンティース・センチュリー・リテラチャーの特別号のイントロダクションの中でアンドリュー・ホーボレックは「ポストモダニズムの終焉に言及することはありふれた批評の姿になっている」と述べていた。一部の評論家はポストモダニズムを通じて文化や社会を記述することを目的とした理論の限界を示しており、著名な研究者の中にラウル・エシェルマン(パフォーマティズム)、ジル・リポヴェツキー(ハイパーモダニティ)、ニコラ・ブリオー(アフターモダン)、アラン・カービィ(以前はスードモダニズムと呼ばれていたディジモダニズム)が含まれていた。これらの新しい理論や名称は今までのところ幅広く認められていた訳ではなかった。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催されていた「ポストモダニズムースタイルと破壊 1970-1990」(ロンドン、2011年9月24日-2012年1月15日)はポストモダニズムを歴史上の運動として記録した最初の展覧会であった。

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ポスト・ポストモダニズム

ポスト・ポストモダニズムは、批評理論、哲学、建築、芸術、文学、文化における幅広い展開を示しており、それはポストモダニズムの影響を受けており、ポストモダニズムから生じていた。そして他の類似の語はメタモダニズムであった。

1 歴史

多くの研究者は、モダニズムが19世紀後半に始まり、20世紀中頃まで西洋文化の知的サークルに文化的な影響を与え続けてきたことに対して意見が一致していた[1]。あらゆる節目を通じて明らかなように、モダニズムは多くの問題を含む視点を抱えており、統一された個々の集合として定義することが不可能であった。しかしその主な特徴は、人間関係における確からしさ、芸術の抽象化、理想主義の追求についての研究に見られるように、「ラディカルな美学、テクニカルな実験、時間軸よりむしろ空間軸、自意識の反映」[2]を強調していたと考えられていた。これらの特徴はポストモダニズムにおいて除外されており、アイロニーの対象として考えられていた。

ポストモダニズムは第二次世界大戦後に認識されていたモダニズムの失敗に対する反応から生じており、モダニズムの芸術におけるラディカルなプロジェクトが全体主義に結びつきながら主流の文化に融合されていったことが指摘されていた[3]。ポストモダニズムと呼ばれるものの萌芽は1940年代に散見されており、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが有名であった[4]。しかし今日の多くの研究者は、1950年代後半にポストモダニズムがモダニズムと齟齬をきたし始めており、1960年代に優勢な地位を占めていったことに対して意見が一致していた[5]。その後ポストモダニズムは、異論があるものの、芸術、文学、映画、音楽、ドラマ、建築、哲学において支配的になっていった。ポストモダニズムの特徴は、スタイル、台詞の引用、語り方においてアイロニックな演劇[6]、西洋の文化のメタナラティブに対する懐疑主義やニヒリズム[7]、真実を犠牲にした現実の選択(正確に言えば「真実」は何によって成立しているのかといった根本的なことに対する問題意識)[8]、スキゾフレニアに類似した意識の状態を含むさまざまな現実の相互作用から影響を受けている[10]主体の局所的な「ウェイニング・オブ・アフェクト」[9]を含んでいると考えられていた。

そして1990年代後半以降の大衆文化やアカデミズムの世界においてポストモダニズムが「廃れてきている」との考えが広まり始めていた[11]。しかしポストモダニズムを継承する時代の名称や枠組みを定める取り組みはほとんどなく、提唱されていた名称も多数派からの支持を得ていなかった。

2 定義

何が時代を形成しているのかについてのコンセンサスが得られておらず、時代自体がまだ始まりの段階にあった。しかしながらポスト・ポストモダニズムの枠組みを定める取り組みにおける共通のテーマは、信頼、対話、成果、誠意がポストモダンのアイロニーを超越して機能することにあった。その深さ、焦点、範囲に違いがあるものの以下にその定義を時系列順に並べることにする。

1995年に都市計画家であるトム・ターナーは、ポスト・ポストモダンを都市計画に適用することについて本一冊分の主張を述べていた[12]。ターナーは「何でもあり」というポストモダンの立場を批判しており、「建造環境のエキスパートが推論に信頼を加えるポスト・ポストモダニズムの夜明けを目の当たりにしていた」ことを示唆していた[13]。特にターナーは都市計画において時間を超越した構造や形についてのパターンの活用を主張していた。そのようなパターンとしてターナーは、老荘思想に影響されたアメリカの建築家であるクリストファー・アレクサンダーによる作品、ゲシュタルト心理学、心理学者であるカール・ユングの思考の枠組みを引用していた。名称に関して、ターナーは「ポスト・ポストモダニズムを採用しながらも、さらに良い名称を求める」ことを促していた[14]。

ロシアのポストモダニズムに関する1999年の著作の中で、ロシア系アメリカ人であるミハイル・エプシュテインは、ポストモダニズムが「「ポストモダニティ」と呼ばれている大きな歴史の産物であった」と述べていた[15]。エプシュテインは、結局のところポストモダニストの美学はありきたりなものになり、アイロニーと異なる新たな詩歌のための基礎を固めるであろうと考え、そのことを「超」といった接頭語を用いて示していた。

「ポストモダニズム」に続く新たな時代を示す名称を考慮するときに、「超」といった接頭語が顕著になるだろうと考えられていた。20世紀の後半は「ポスト」といった語が顕著であり、そのことは「真実」や「客観性」、「精神」や「主観性」、「ユートピア」や「理想」、「原点」や「オリジナリティ」、「誠実」や「感傷」のようなモダニティにおける概念の崩壊を意味していた。そしてこれらの概念の全てが「超主観性」、「超理想主義」、「トランスオリジナリティ」、「超叙情性」、「トランスセンチメンタリティ」等といった形で現在再登場していた[16]。

例としてエプシュテインは現代のロシアの詩人であるティムール・キビーロフの作品を引用していた[17]。

「ポストミレニアリズム」という語は2000年にアメリカの人文系の研究者であるエリック・ガンズによって紹介されており[18]、倫理学や政治社会学におけるポストモダニズムに続く時代が示されていた。ガンズはアウシュビッツや広島の経験によって明らかになった加害者と被害者の倫理観の対立に基づく「被害者を過度に偏重した考え方」とポストモダニズムを密接に結びつけていた。ガンズの視点によれば、ポストモダニズムの倫理観は被害者の周辺に視点をおき、加害者側のユートピアを軽蔑することから生じていた。この意味におけるポストモダニズムは、近代のユートピアや全体主義に反対することについては有益であったが、和解のために長期的に役に立つ資本主義やリベラル・デモクラシーについて有益とならず被害者を過度に偏重した政治観によって特徴付けられていた。ポストモダニズムと比較して、ポストミレニアリズムは被害者を過度に偏重した立場をとらないことによって特徴付けられており、「被害者を過度に偏重しないダイアローグ」を採用していた[19]。ガンズはウェブ上のクロニクルズ・オブ・ラブ・アンド・リゼントメントを通じてポストミレニアリズムの考え方をさらに発展させており[21]、その語はジェネラティブ・アンソロポロジーに対する理論や歴史観と密接に結びついていた[22]。

2006年にイギリスの研究者であるアラン・カービィは「スードモダニズム」と呼ばれているポスト・ポストモダニズムに対して社会文化的な評価を行なっていた[23]。カービィはインターネットによって実現された文化の1つである世界一斉に表向き何かに直接関与する行為によって生じているうんざり感や中身の浅薄さとスードモダニズムとを関連付けており、「スードモダニズムの時代において、人々はスマートフォンを利用し、クリックし、文字を入力し、サイトを眺め、選択肢から何かを選び、サイトを移動し、ダウンロードするだけになってしまった」と述べていた[23]。

スードモダニズムにおける「典型的な知的状況」は「無知、熱狂、不安」として描かれており、実質を伴わず「超」の語がついただけの現状を生み出すだけであった。どうでもいいことに世界一斉に参加してメディアに簡単に煽られてしまう浅薄さによって生じた帰結は「モダニズム特有の強迫観念的な細かさやポストモダニズム特有のナルシシズム」と入れ替わった「有意義な情報や意思を伝えることも感情的な交流をすることもない状況」でしかなかった。カービィは美学的に価値のある結果が「スードモダニズム」から生じることはないと認識していた。スードモダニズムのくだらなさの例として、カービィはテレビ、双方向型ニュース、一部のウィキペディアでのデマ、ドキュソープ、マイケル・ムーアやモーガン・スパーロックの映画を引き合いに出していた[23]。2009年に出版された『ディジモダニズム:ハウ・ニュー・テクノロジーズ・ディスマントル・ザ・ポストモダン・アンド・リコンフィギュア・アワー・カルチャー』の中で、カービィはポストモダニズム後の文化に対する視点を仄めかしていた。

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはポスト・ポストモダニズムに関する議論を収斂させるためにメタモダニズムという語[24]を用いていた。『ノーツ・オン・メタモダニズム』という記事の中で、彼らは近代の視点とポストモダンの視点の間で揺れ動いている感性の登場によって2000年代が特徴付けられていると述べていた。メタモダンに影響された感性の例として、バーミューレンとファン・デン・アッカーは気候変動、金融危機、政情不安に対する反応によって示されている「多くの知識をもちながら知らないことも多い」、「プラグマティックな理想主義」、「節度を意識している熱狂」を引き合いに出していた。

美学的視点からメタモダニズムはヘルツォーク&ド・ムーロンによる建築、ミシェル・ゴンドリー、スパイク・ジョーンズ、ウェス・アンダーソンによる映画、ココロージー、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ、ジョルジュ・レンツ、デヴェンドラ・バンハートによる音楽、ピーター・ドイグ、オラファー・エリアソン、ラグナル・キャルタンソン、セイラ・カメリッチ、ポーラ・ドープフナーによる作品、村上春樹、ロベルト・ボラーニョ、デヴィッド・フォスター・ウォレス、ジョナサン・フランゼンによる著作のように多様な芸術として示されており、絶え間ない想念の揺れ動きや近代とポストモダンに対する態度や考え方における真ん中の立ち位置によって特徴付けられており、それらのどれにも属さない感性を示唆しており、意味を求めながら意味を疑い、希望と悲嘆を抱え、誠意とアイロニーを同居させ、多くの知識を持ちながら知らないことも多く、構築と破壊を同時に行いながら、普遍的な真実の追求と相対主義の対立の克服を示していた[25]。

接頭語である「メタ」は思索的な立場ではなくプラトンが述べていた中間者に関係しており、議論の両端を揺れ動く態度を示していた[26]。

「一般的に「ポスト・ポストモダニズム」はポストモダニズムに対峙する概念と考えられていたが、ムハンマド・ジアウル・ハックは、ポスト・ポストモダニズムがポストモダニズムと対立する時代を示している訳ではなく、それがポストモダニズムの副産物であることを示しており、両者を区別するものは「想像力」にあった。言い換えるならばポスト・ポストモダニズムは、哲学、批評、構造デザイン、芸術、文化、文学におけるポストモダンの拡張を含んでおり、新機軸を打ち立てるために制度として確立された制約を打破することを目指していた[27]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Metamodernism

メタモダニズム

メタモダニズムはポストモダニズムに対する反応として生じていた哲学、美学、文化の潮流の1つであった。ある定義によればメタモダニズムはモダニズムとポストモダニズムの対立を克服しており、メタモダニズムはポスト・ポストモダニズムに類似していた。

1 語の史的展開

メタモダニズムという語は1975年前後に登場しており、ザーヴァルザーダは1950年代中頃からアメリカ文学に生じているある種の美学や視点を示すためにその語を用いていた[1]。

1999年までにメタモダニズムは「モダニティやポストモダニティにおける妥当性を保ちながら、超越し、解体し、ひっくり返し、抜け道を探し、よく調査し、棚上げする」ための「モダニズムやポストモダニズムの拡張やそれらに対する疑念」として描かれていた[2]。そして2002年に文学のメタモダニズムは「モダニズムを通じた今後の...そして出発点として不滅の」美学として示されていた[3][4]。メタモダニズムとモダニズムの関係は「対立関係を超越しており、モダニズムの射程から外れた主体に焦点を当てるためにモダニストの方法論に再度対峙していく」ものとして示されていた[3]。

2007年の時点ではメタモダニズムはポストモダニズムと部分的に重なり合い、ある部分ではその派生であったが、別の部分ではポストモダニズムに対する反応として示されており、「相互の関連や永続的な変化といった枠組みの中でのみ現代文化や現代文学の特徴を理解することができるといった視点を肯定していた。」[5]

1.1 バーミューレンとファン・デン・アッカー

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはメタモダニズムをポスト・ポストモダニズムを巡る論争の行き着く場所として提案していた[6][7]。ノーツ・オン・メタモダニズムの中で彼らは1980年代や1990年代のポストモダンの視点を生かしながら典型的な近代へ回帰する姿勢によって2000年代が特徴付けられていたと論じていた。彼らによれば、メタモダニズムの感性は、気候変動、金融危機、政情不安、デジタル革命のような現在のグローバルな状況に対する文化的な反応の特徴である「ある面では多くの知識をもちながら知らないことも多く、プラグマティックな理想主義を示しているものとして考えられていた」[6]。彼らは「ポストモダン文化における相対主義、アイロニー、ゴチャ混ぜの文化」が終焉を迎えており、積極的に関与し、共感し、中身を伝えることに価値を認めるポスト・イデオロギーの状況が生じていると述べていた[8]。

「メタ」という接頭語は思索的な立場を示している訳ではなく、プラトンが述べていた中間者に関係しており、議論の両端を揺れ動く態度を示していた[6]。バーミューレンとファン・デン・アッカーはメタモダニズムを「多くの点の間を揺り動く振り子」のようにモダニズムとポストモダニズムの間を揺れ動く「心構えの構造」として示していた[9]。アートニュースの紙面におけるキム・レヴィンによれば、この揺れ動きは「期待と落胆、誠意とアイロニー、愛情と反感、個人的な問題と政治的な問題、技術的観点とマニアの視点に対して等しく懐疑的な心構えを示している」と思われていた[8]。メタモダニズムの時代を迎えて、バーミューレンは「かつてのメタナラティブが問題を抱えながらも必要とされており、理想がこれまでの歴史から信頼するに値しない幻滅の対象としてしか認識されない必然性はなく、愛情が馬鹿げた思い込みと必然的に同一である訳でもなかった」ことを示していた[10]。

バーミューレンは「メタモダニズムは枠組みの中の存在論を示唆している哲学と言うより、政治経済から芸術まで私たちの身の回りで何が起こっているのかを説明するオープンソースのドキュメントのような試みである」と述べていた[10]。ロマン主義の感性に回帰することがメタモダニズムの主な特徴であり、バーミューレンとファン・デン・アッカーによるヘルツォーク&ド・ムーロンの建築物や、バス・ヤン・アデル、ピーター・ドイグ、オラファー・エリアソン、ケイ・ドナチー、チャールズ・エイブリー、ラグナル・キャルタンソンのような芸術家の作品の中にメタモダニズムを認めることが可能であった[6]。

2 文化的な支持

2011年11月にニューヨークにあるミュージアム・オブ・アーツ・アンド・デザインはバーミューレンとファン・デン・アッカーによる影響を示しており、ピルヴィ・タカラ、グイド・ヴァン・デル・ワーブ、ベンジャミン・マーティン、マリーヒェン・ダンツの作品を扱った『ノー・モア・モダン:ノーツ・オン・メタモダニズム』といったタイトルの展覧会を開催していた[11]。

2012年3月にベルリンにあるギャラリー・ターニャ・ワーグナーはバーミューレンとファン・デン・アッカーと共同でディスカッシング・メタモダニズムを企画しており、メタモダニズムを扱ったヨーロッパで初めての展覧会を開催していた[12][13][14]。その展覧会は、ウルフ・アムアインド、ヤエル・バルタナ、モニカ・ボンヴィチーニ、マリーヒェン・ダンツ、アナベル・ダウ、ポーラ・ドープフナー、オラファー・エリアソン、モナ・ハトゥム、アンディ・ホールデン、セイラ・カメリッチ、ラグナル・キャルタンソン、クリス・レムサル、イッサ・サント、デビッド・ソープ、アンジェリカ・J・トロイナースキ、ルーク・ターナー、ナスティア・ロンッコの作品を扱っていた[14]。

映画を通じて「独特の」感性を表現することについて、研究者であるジェームズ・マクダウェルは、ウェス・アンダーソン、ミシェル・ゴンドリー、スパイク・ジョーンズ、ミランダ・ジュライ、チャーリー・カウフマンの作品を「新しい意味での誠意」をベースにしながら「アイロニーと誠意」のバランスを保っている心構えを表しているメタモダンの構造を具体化したものであると述べていた[9]。

アメリカン・ブック・レビューの2013年号はメタモダニズムを扱っており、ロベルト・ボラーニョ、デイヴ・エガーズ、ジョナサン・フランゼン、村上春樹、ザディー・スミス、デヴィッド・フォスター・ウォレスをメタモダニストとして認める一連のエッセイを含めていた[15][16]。PMLAの2014年の論文の中で、文学者であるデイビッド・ジェームズやウルミラ・セシャジリは「トム・マッカーシーのような21世紀の作家を論じながら、メタモダニストの著作が初期の文化的ムーブメントによる美学の遺産を取り入れながら適応しており、他方でその遺産に反応しながら問題を複雑にしている」と述べていた[17]。

大学の教員でありアートパルスで執筆しているスティーブン・クヌーセンは、メタモダニズムが「ばらばらな他のテクストとの関係からあらゆるものの意味を定めることに対するリオタールの苦悩やポスト構造主義者による主観性の脱構築に共感を寄せており、他方で本物の主張やクリエイターを積極的に擁護しており、モダニズムの美点に回帰していた」と記していた[18]。

2014年5月にカントリー・ミュージックのスターギル・シンプソンはカントリー・ミュージック・テレビジョンの中で『メタモダン・サウンズ・イン・カントリー・ミュージック』というアルバムがメタモダニズムについての記事をハフィントンポストで書いているセス・アブラムソンから部分的な影響を受けていると語っていた[19][20]。シンプソンは「技術の変遷が今まで以上に早くなっているにもかかわらず、アブラムソンはノスタルジーを感じさせるような環境で暮らしている」と述べていた[19]。J・T・ウェルシュによれば、「アブラムソンはこれまでの知的財産がモダニズムやポストモダニズムの影響によって分断されていた現状を超越する方法論として「メタ」という接頭語を理解していた」[21]。

2.1 メタモダニスト・マニフェスト

2011年にルーク・ターナーはメタモダニスト・マニフェストを発表していた[21]。マニフェストは「さまざまな主張の中での揺れ動きは当然のことである」と認識しており、その揺れ動きは「1世紀に及ぶモダニストの認識の甘さとアイロニーとの対立から生じていた惰性的な議論に」終焉を求めていた[21][22]。そして代わりにそのマニフェストは「ばらばらな複数の土台を求めることによって、誠意とアイロニーを同居させ、多くの知識をもちながら知らないことも多く、普遍性を否定しながら普遍性を求め、楽観的な態度を取りながら懐疑的な姿勢でもある揺れ動く心構え」としてのメタモダニズムを論じていた[23]。またそのマニフェストはバーミューレンとファン・デン・アッカーの作品を引き合いに出し、「私たちは開拓を継続し、揺れ動き続けなければならない」と締めくくっていた[24][10]。その後ターナーはマニフェストに対して俳優であるシャイア・ラブーフが芸術面で貢献していたことに言及していた[25][26]。

2014年の初めにシャイア・ラブーフはターナーやナスティア・ロンッコとの共同制作を始めており、デイズドによれば『名声や名誉の危うさを考察するためのプラットフォーム』と題されており、共同制作者によればメタモダニストによるパフォーマンスアートとして認識されていた[27]。これは『#アイ・アム・ソーリー』と題されていたロサンゼルス - ギャラリーでのパフォーマンスを含んでおり、ラブーフは6日間静かに座りながら観客の前で泣き続け、タキシードを着用しながら『私はもう有名人ではない』と記された茶色の紙袋を頭に被っていた[28]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Remodernism

リモダニズム

リモダニズムは特に初期のモダニズムのある側面を取り上げており、ポストモダニズムに倣いながらもポストモダニズムを対比する視点を有していた。リモダニズムの支持者はリモダニズムが前衛的でラディカルな側面を有しているものの単なる反動ではないことを主張していた[1][2]。

2000年にスタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるビリー・チャイルディッシュとチャールズ・トムソンはリモダニズムを取り上げており、その声明によれば、シニカルで精神的に荒廃していたポストモダニズムに代わって、リモダニズムが芸術、文化、社会に新たな精神を取り込むための試みであることが述べられていた。2002年に開催されたリモダニズムの展覧会に向けてカリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーによるエッセイが寄せられており、アイロニーやシニシズムによる限界を超えた新たな芸術が存在しており、新たな美の感性が存在していることが示されていた。

2006年にアムステルダム市立美術館とアムステル大学はダニエル・バーンバウムやアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を開催しており、その入門編としてメディアでの言説に対抗しながら、本物のよさ、積極的な自己表現、芸術の自己肯定のような伝統的なモダニストの価値観への回帰としての絵画のリバイバルについての講演を行なっていた[4]。2008年にロンドンイブニングスタンダードの評論家であるベン・ルイスは3つのターナー賞にリモダニズムを採用しており、20世紀初頭の形式主義のリバイバルとしてその3つのターナー賞を位置づけていた。ベン・ルイスは節度、寛大な態度、本物の感情に基づく美学といった価値観を支持していた[5]。

1 歴史

スタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるチャールズ・トムソンやビリー・チャイルディッシュはリモダニズムの時代を切り開いていた[3]。2000年3月1日にリモダニストによるマニフェストが公表されており、それは芸術の理想、本物のよさ、積極的な自己表現を肯定しており、絵画に力点を置きながらも「芸術に新たな精神を」取り込んでいた。その前提はモダニストによる理想がまだ十分に生かされていないことであり、その目標はその理想が誤用されている現状においてその役割を回復させ、再度定義させ、リバイバルさせることにあった。リモダニズムは真実、知識、その内容を肯定しており、形式主義に疑念を抱いていた。

そのイントロとして「ポストモダンの戯言によってモダニズムはその意味を見失っていた」といった言葉が紹介されていた。そしてニヒリズム、科学的唯物論、方向性の定まらない破壊に対抗して勇気、個性、一般性、コミュニケーション、人間性を強調した14の視点を示していた。その中の7番目の視点は次のようなものであった。

精神性の追求は魂の旅であり、最初にやるべきことは真実と向き合うために暗黙の意味を列挙することであった。真実は今実際に存在しているものであり、願望とは異なっていた。精神性を追求する芸術家であることは、善悪、美醜、迷いや自信をはっきりと述べることを意味しており、それは私たち自身と他者との関係さらに神との関係を知ることを含んでいた。

9番目の視点によれば、「精神性を追求する芸術は宗教と異なっており、精神性を追求することは自身を理解することや芸術家の明晰さや芸術の高い完成度を通じてその哲学を見出すことを念頭に置きながら人間性を追求することを意味していた。」 12番目の視点によれば、「神」という語の用法はギリシア語の「神によって所有された」を意味する「情熱」と結び付けられていた。

そのまとめとして、「きちんとした心がある人々にとって、支配階級であるエリートによって創作された芸術が明らかにしているように、現在発表されている芸術が理性による成果の失敗を示していることは明白であり」、その解決法は精神性を追求しているルネサンスにあり、「他に芸術が歩むべき道は存在しておらず、スタッキズムからの提案は精神性を追求するルネサンスを今すぐに始めることであった。」[6]

チャイルディッシュやトムソンはリモダニズムのマニフェストをニコラス・セロタ卿、テート・ギャラリーの理事に送っていたが、「あなた方は私があなた方の手紙やリモダニズムのマニフェストにコメントしないことを知っても特段驚くことはないでしょう」との返事があったのみであった[8][9]。

2000年3月にスタッキストは、『ザ・レジグネイション・オブ・サー・ニコラス・セロタ』と題した展示によって彼らがリモダニストによる初めての芸術グループであることを宣言していた。4月にリモダニズムは『ザ・ガルフ・ニューズ(UAE)』に引用されていた[10]。5月にオブザーバー紙はスタッキストによる展覧会を告知していた。「リモダニズムと呼ばれる芸術的ムーブメントに関わっているグループは明白な概念論に反対しており、形のある絵画を通じて感情や精神性の完成度を高めることを主張する展覧会のチケットの販売に経済面で依存していた。」[11]

6月にトムソンやチャイルディッシュはインスティチュート・オブ・アイデアズによって主催されたケンジントンにあるサロン・デ・ザールでスタッキズムやリモダニズムについての講演を行っていた[12]。同月に「スチューデンツ・フォー・スタッキズム」は「リモダニストによる講演会」を行なっていた。ザ・インスティチュート・オブ・リモダニズムはカテレ・アーマディによって設立されていた。

2001年にトムソンはイギリスの総選挙に立候補しており、「スタッキスト党は政治の場にスタッキズムやリモダニズムの考え方を導入する目的で結成された」と述べていた[13]。

2002年1月にマニフィコ・アーツはニューメキシコ大学の大学院生による「リモ:リモダニズム」[14]と題された展覧会を開催していた。芸術家による講演会の場で、カリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーは「リモダニズムは後向きではなく常に前を向いている」と述べていた[2]。展示会の寄稿文の中でラドリーは以下のように記していた。

...芸術家の主張に自信が取り戻されており、芸術家が皮肉、冷笑、教訓に煩わされることなく個性を追求することが可能であるといった視点が蘇っていた。その狙いは存在の意味を再び取り上げ、美の意味を練り直し、共感することの必要性を再度取り上げることにあった[15]。

展覧会のキュレーターであるヨシミ・ハヤシは次のように述べていた。

「リモ」はモダニズム、アバンギャルド、ポストモダニズム由来の考え方を混在させており、芸術に対するオルタナティブと主流派のアプローチを統合していた。「リモ」では多文化主義、アイロニー、高尚さ、アイデンティティに関する問題が取り扱われていたが、それのみで芸術を確立している訳ではなかった。伝統に対する再考と再定義は単なる脱構築によって成された訳ではなく、概念の接点を探しつなげることによって成されていた。定義によれば「リモ」は基本的に細胞に例えられており、そのルーツは芸術の周縁部分に由来していた[16]。

2003年に独立団体であるザ・スタッキスト・フォトグラファーズがアンディ・ブロックとラリー・ダンスタンによってリモダニズムに対する賛同を目的として設立されていた[17]。

2004年にアイルランドのクリエイター集団であるザ・デファスニスツはリモダニストのグループであることを宣言していた[18]。リモダニストの美術館であるザ・ディートリック・ギャラリーはケンタッキー州のルイビルに設立されていた。アメリカの映画製作者およびカメラマンであるジェシー・リチャーズとハリス・スミスはリモダニストの映画や写真についての新たなグループを共同設立しており、感情が意味するものを強調しており、ヌーベルバーグ、ノー・ウェーブ、表現主義、超越を映画製作の要素に組み込んでいた。

スタッキズムの芸術家であるビル・ルイスは2004年のリバプール・ビエンナーレでのBBCによるインタビューの中で、リモダニズムは「厳密な意味での芸術的ムーブメントではなく」、新たなパラダイムへ芸術を押し進めるためにモダニズムの原点に回帰することを意味していると述べていた[1]。リモダナイズすることは「再び原点に戻ること」であり、絵画から始まり...そして芸術がどこへ向かうのかを俯瞰することであった[1]。ビル・ルイスは、リモダナイズすることはポストモダンに対する自然な反応であると言われているが、「語の本当の意味においては」ラディカルな内容を指していると述べていた[1]。ニューヨークのスタッキズムの芸術家であるテリー・マークスは、リモダニズムを通じてモダニズムが良い方向へ向かうことになったのだが、そこから「純粋な理念」へ方向転換して未開拓のオルタナティブを目指すための原点に回帰する必要があり、「より多くの人々が享受でき、より具体的な創作を追求し、私たちをどこに導くのかを示すことがその目標に含まれている」と述べていた[19]。

2004年にルーク・ヘイトンはザ・フューチャー・マガジンの中で、「リモダニズムは私たちがその芸術に対して好みを述べることを許容しているのではないか」と述べていた[20]。フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノスは「リモダニズムにとっても芸術家が魂を掲げることにとっても2004年が記念すべき年であった」と宣言していた[21]。

2005年8月に『アドレシング・ザ・シャドウ・アンド・メイキング・フレンズ・ウィズ・ワイルド・ドッグズ』と題された展覧会(スタッキストによるリモダニズムのマニフェストに由来している)がニューヨークのCBGBの313ギャラリーで開催されていた[22]。芸術家でありブロガーであるマーク・バレンは、「1970年代の半ばにパンクはCBGBと呼ばれていたニューヨークの湿っぽい場所にある小さなナイトクラブから生まれていた。そしてテレヴィジョン、ラモーンズ、パティ・スミスのようなロッカー達が商業ロックの流れに対して正面攻撃を加えていたときに、すべてが始まっていた。現在、音楽における第二の抵抗運動としてリモダニズムがパンクの聖地から商業ロックの流れに対して攻撃を加えようとしている」と述べていた[22]。

2006年5月10日にアムステル大学市立近代美術館とアムステル大学はアートフォーラムの編集者であるダニエル・バーンバウムやグッゲンハイム美術館のアシスタント・キュレーターであるアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を行なっていた[4]。その要旨は次のように示される。

近年私たちは絵画に対する関心がこれまでとは別の形で再度高まっているのを目の当たりにしており、私たちは芸術の自己肯定、本物のよさ、積極的な自己表現のような伝統的なモダニストの価値観に回帰する古代からの営みのリバイバルを経験しているのであろうか。仮に私たちがモダニズム(リモダニズム)への回帰を話題にできるなら、これは芸術における立ち位置が真ん中にある学際的な試みをどこへ向かわせるのであろうか[4]。

2006年8月に「ザ・リモダニスツ・オブ・デヴィアントアート」と呼ばれるインターネット上のグループがクレイ・マーティンによって設立されていた。このグループはデヴィアントアート・ドットコムで活動する芸術家によって構成されていた。

2006年に芸術家であるマット・ブレイは「俺はスタッキストであるとは思われたくなく、たぶんいてもいなくても構わないピエロのような存在だろう。ザ・スタッキストは一番名の通ったリモダニストのグループだし、そのマニフェストに心が惹かれている。そして彼らには感謝している」と述べていた[23]。2007年5月にマット・ブレイはパンクのアダム・ブレイと一緒にイギリスのフォークストンでザ・マッド・モンク・コレクティブを立ち上げており、リモダニズムを広めていた[24]。

2008年1月にイブニングスタンダード紙の評論家であるベン・ルイスは、2008年が「モダニストのリバイバルを表現するための新たな語である『リモダニズム』」を経験する年になるだろうと述べており[25]、マーク・レッキー、ルナ・イスラム、ゴシュカ・マキュガを「20世紀初頭の形式主義のリバイバル」としてターナー賞にノミネートしており、「心が感じられるささやかで寛大な美学であること」を理由にしてマキュガを賞賛しており、それこそが今日必要とされていると述べていた[5]。2009年4月にベン・ルイスは「ノスタルジックな」16mmフィルムを用いるルーマニアの芸術家であるカタリナ・ニクレスクをモダニズムの余韻を嗜好する芸術の大きな流れの中に位置付けており「それをリモダニズムと呼ぼう」と述べていた[26]。

2008年8月27日にジェシー・リチャーズはリモダニスト・フィルム・マニフェストを発表しており、そのマニフェストは「映画における新たな精神性」を追求しており、映画製作に直感を導入しており、リモダニストによる映画を「むき出しで、必要最小限で、叙情的で、パンクの要素を含む映画製作である」と表現していた。そしてそのマニフェストはデジタル映像を用いた映画製作者であるスタンリー・キューブリックやドグマ95を批判していた。4番目の視点は次のようなものであった。

日本の意識の1つである侘・寂(不完全さを活かした美)や物の哀れ(移り行く物に対する感慨・過ぎ行く物に対するほろ苦い感情)は存在の真実を示すことの可能性を有しており、そのことはリモダニストによる映画が制作されるときにに常に念頭に置かれていた[27]。

その後の2009年にマングビーイング誌におけるリモダニストによる映画についてのエッセイの中で、リチャーズはプロと関連させながらリモダニズムを論じていた。

一般的にリモダニズムはアマチュアによる挑戦を肯定しており、プロを考察の対象として特殊な立場に置いていた。つまりこれまでのプロは失敗をなくすために励む存在であり、それゆえ「プロフェッショナル」であったが、私はそうは考えていない。そして仮にプロが絶えず成長する可能性を有する存在であるのならば、私はそのプロを支持したい。絵を描き、演技をし(内向的であるならば特に)、他の芸術家のためのモデルになり、宗教の仲立ちをし、意識のレベルに影響することを行い、他者を不快にさせることに対しても一歩足を踏み出し、外の世界での生活に触れ合い、見知らぬ大海に飛び込むことを実際に自分でやる映画製作者を支持したい。私はそれらがプロにとっての挑戦だろうと考えている[28]。

2009年にニック・クリストスとフロリダ・アトランティック大学の学生がマイアミ・スタッキスト・グループを設立していた。クリストスは「スタッキズムはモダニズムのルネサンスであり、リモダニズムである」と述べていた[29]。

7 批判

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムが無意味であり、蒙昧主義にすぎないとの主張を包含していた。例えばノーム・チョムスキーは分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にしてポストモダニズムが無意味であると主張していた。チョムスキーは、「理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのか...」と尋ねられたときに、なぜポストモダニストの知識人は他分野の研究者のように答えようとしないのかと尋ねていた。「仮にその答えがないのであれば、私は「情熱に対する」類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい」[36]。キリスト教徒の哲学者であるウィリアム・レーン・クレイグは「私たちがポストモダンの文化の中で暮らしているというアイデアは幻想である。実際ポストモダンの文化はあり得ないものであった。そして人々に馴染まれるものではなかった。また科学、工学、技術の問題になると人々は相対主義の立場ではなかった。むしろ宗教や倫理の問題になったときに相対主義の立場を採用していた。そしてこの話から導き出されることはこのような立場はポストモダニズムではなくモダニズムであるということだ」と述べていた[37]。

ポストモダニズムに対する表立ったアカデミズムからの批判は例えば『ビヨンド・ザ・ホウクス・アンド・ファッショナブル・ナンセンス』のような作品の中に確認されている。

そしてアメリカのアカデミズムは大陸の哲学、特にフレンチ・セオリーを採用している研究者に対して「ポストモダニスト」のレッテルを貼る傾向にあった。そのような傾向はアメリカの比較文学部に由来しているかもしれなかった[38]。構造主義者やポストモダニストの世界観が同時に心理、社会、環境の領域を十分に説明できるほど融通がきくものではないと主張することによって「ポストモダニスト」と考えられていたフェリックス・ガタリがその理論の前提を否定していたことは興味深いことであった[39]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Criticism_of_postmodernism

ポストモダニズムに対する批判

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムに意味がなく、蒙昧主義を後押ししているに過ぎないとの考えを含めていた。

1 あいまいさ

哲学者であるノーム・チョムスキーはポストモダニズムが分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にして意味がないと主張していた。チョムスキーはなぜポストモダニストである知識人が他分野の研究者のように問いに答えようとしないのかと尋ねていた。

その問いとは、理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのかといったことであり、これらの問いは誰が投げ掛けても正当なものであった。仮にその答えがないのであれば、私は「情熱に対する」類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい[2]。

類似の立場から、リチャード・ドーキンスはアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる『「知」の欺瞞』を肯定的に評価していた[3]。

あなたが主張することがないにもかかわらず、アカデミズムの世界で成功し、弟子を集め、あなたの記述に対して世界中の学生から黄色の蛍光ペンでアンダーラインを引いてもらいたいと願う知的欺瞞を抱えているとしよう。あなたはどんな種類の文学のスタイルを確立しようとするだろうか。もちろん明快な答えがないことはあなたに中身がないことを示すことになろう。

ドーキンスはフェリックス・ガタリからの引用を「中身がないこと」の例として用いていた。

「ポストモダニズム」という用語が無意味なバズワードでしかないことが示唆されていた。例えば、ディック・ヘブディジは『ハイディング・イン・ザ・ライト』の中で次のように記していた。

人々が「ポストモダン」の枠組みの中に、インテリア、建物のデザイン、映画における物語空間、作品の構成や「スクラッチ」ビデオ、テレビコマーシャルや芸術のドキュメンタリー、間テクスト性、ファッション誌や批評誌におけるページのレイアウト、認識論における反目的論、「存在に対する形而上学」への批評、感情の意味を弱めること、中年の幻滅に対抗しようとするベビーブーマーである戦後世代の失意や不健全さ、反動の中の「苦境」、ひとまとまりの比喩、上辺だけの表現や関係の増加、日用品に対する愛着に対する新たな局面、イメージ、内輪の習わし、スタイルに魅了されること、文化・政治・存在の細分化、主体を「話題から外すこと」、「メタナラティブに対する警戒」、力の複数性によって一元的な力を置き換えること、「意味の内面を解体すること」、文化的なハイアラーキーの崩壊、個の自滅の脅威に対する不安、大学の没落、新たに細分化されたテクノロジーの影響、メディア・消費者・多国籍を包含する局面への社会経済のシフト、「場に囚われない」感覚や「場に囚われない」意識の放棄、一時的な座標空間に対する代替物を含めるならば、私たちがバズワードに囲まれていることは明白であった[4]。

例えばイギリスの歴史家であるペリー・アンダーソンのような人々は、「ポストモダニズム」という語が有しているさまざまな意味が互いに矛盾し合っており、ポストモダニストを分析することが現代文化に対する洞察をもたらすだろうと述べていた[5]。またカヤ・イルマズはポストモダニズムという語の定義が明確でなく筋が通っていないことを示していた。イルマズによれば、理論自体が反基礎付け主義であるためにポストモダニズムという語が基礎を有していないことが指摘されていた[6]。

2 道徳的相対主義

ある評論家はポストモダン社会が道徳的相対主義の言い換えであり、行動の逸脱を促していると解釈していた[7][8][9]。右派の作家であるチャールズ・コルソンは道徳的相対主義や状況倫理にあふれる不可知論と同様に不信の目でポストモダニズムの時代を眺めていた[10]。ジョシュ・マクドウェルとボブ・ホステトラーはポストモダニズムに対して次のような定義を与えており、「客観的な意味において真実は存在しておらず発見されるのではなくでっち上げられるといった信念に基づいた世界観」があり、真実は「一部の文化によってでっち上げられ、その文化でしか通用しなかった。そのため真実を語ろうとすることは力技であり、他の文化を支配する試みでもあった。」[11]

多くの哲学的ムーブメントは存在の健全な説明としてのモダニティやポストモダニティを否定していた。その一部は文化的ないし宗教的右派と関連しており、その右派はポストモダニティが基礎となる精神ないし当然の真実を否定しており物質的な満足を強調しながら内なるバランスや精神性を否定してきたと認識していた。これらの多くは、受け入れがたいポストモダンの条件[12]である「客観的な真実を放棄する」傾向を批判しており、真実を与えるメタナラティブを示すことを意図する傾向にあった。

3 マルクス主義による批判

カリニコスはボードリヤールやリオタールのようなポストモダンの思想家を批判しており、ポストモダニズムが「1968年5月の失望に終わった革命世代が「新たな中産階級」を形成していることを反映しており、知的ないし文化的な現象よりむしろ政治的なフラストレーションや社会的流動性の低下の兆しとして解釈されることが妥当である」と論じていた[13]。

美術史家であり社会主義労働者党のメンバーであるジョン・モリニューは「ブルジョア歴史家による古くからの主張の繰り返し」であることを理由にしてポストモダニストを批判していた[14]。

アメリカ文学の評論家でありマルクス主義者であるフレドリック・ジェイムソンはポストモダニズムを批判しており、資本主義やグローバル化の進展を支えるメタナラティブに関与することを否定しており、ポストモダニズムが「文化における後期資本主義のようなもの」であると主張していた。そしてポストモダニズムが支配と搾取につながっていると主張していた[15]。

ザ・アメリカン・インターナショナル・ソーシャリスト・オーガニゼーションのメンバーであるシェリー・ウルフは2009年の『セクシュアリティ・アンド・ソーシャリズム』の中でゲイ解放のための手段としてのポストモダニズムを否定していた[16]。

4 アート・バラックス

アート・バラックスは1999年4月のアート・レビューにおけるブライアン・アシュビーによる記事であった[17]。アシュビーは「ポストモダン」芸術における言語の意義を指摘していた[17]。アシュビーによるポストモダン芸術は「インスタレーション、写真、コンセプチュアル・アート、映像」の形式を採用していた。タイトルに含まれるバラックスはナンセンスに関連していた。

5 ソーカル事件

ニューヨーク大学の物理学教員であるアラン・ソーカルは事件を引き起こしており、ポストモダニストによる論文に類似したスタイルで意図的にナンセンスな論文を投稿していた。その論文は『ソーシャル・テキスト』誌によって受理され掲載されていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Postmodernity

ポストモダニティ

ポストモダニティは一般に経済や文化の姿やモダニティの後に存在している社会状況を説明するために用いられてきた。ある学派は20世紀後半の80年代から90年代初頭にかけてモダニティが終焉を迎えポストモダニティに移行したと主張していたが、他の学派はモダニティがポストモダニティによる展開を包含していると述べ、さらに他の学派はモダニティが第二次世界大戦によって終焉を迎えていたと主張していた。ポストモダンの条件はモダニズムの精神に反して自律的に機能する能力を奪う文化として特徴付けられていた[1]。

ポストモダニティはポストモダン社会つまりポストモダンを生み出している社会状況やポストモダン社会と関連している存在の現れ方に対する個々の反応を示していた。多くのコンテクストにおいて、ポストモダニティはポストモダニズム、芸術、文学、文化、社会におけるポストモダンの特徴と区別されていた。

1 語の用法

ポストモダニティはポストモダンを生み出す社会状況や条件であり、ポストモダン芸術ではモダンに対する反応であった。モダニティは進歩主義時代、産業革命、啓蒙時代と重なる時代として定義されていた。哲学や批評においてポストモダニティはモダニティの後に存在している社会状況やモダニティの終焉の要因となる歴史的状況を示していた。この用法は哲学者であるジャン・フランソワ・リオタールやジャン・ボードリヤールに由来していた。

ハーバーマスによれば、近代の「プロジェクト」は社会活動や芸術活動に合理性やハイアラーキーを導入することによって進歩を促していた(ポスト工業化、情報化時代を参照せよ)。リオタールは進歩の追求による確かな変化によって特徴付けられた文化の姿としてモダニティを位置づけていた。ポストモダニティは確かな変化が現れており進歩の概念が廃れきった状況を示していた。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる絶対的な知の可能性に対する批判によれば、リオタールは実証主義、マルクス主義、構造主義のようなメタナラティブが進歩のための方法論として機能していないことを論じていた。

文学研究者であるフレドリック・ジェイムソンや地理学者であるデヴィッド・ハーヴェイはポストモダニティを「後期資本主義」や「フレキシブルな資本蓄積」、金融資本主義以降のヒトやモノが自由に移動する資本主義、ハーヴェイが「時間と空間の凝縮」と呼んでいるものと同一視していた。彼らはポストモダニティが第二次世界大戦以降の経済秩序とされるブレトンウッズ体制の崩壊と重なっていることを示唆していた(消費主義や批評理論を参照せよ)。

アウシュビッツや広島のような惨事を導いたヒューマニティの欠陥を取り上げてモダニティが完全な失敗であったと捉えている人々はポストモダニティをあるべき姿であると認識していた。近代のプロジェクトに自身を含めている多くの哲学者はポストモダニズムの帰結を示唆するためにポストモダニティを用いていた。ユルゲン・ハーバーマスを含む多くの研究者は近代のプロジェクトが未完に終わり普遍性が不要とされる反啓蒙主義の現れとしてポストモダニティを認識していた。このコンテクストでポストモダンの思想の帰結であるポストモダニティはネガティブな用語として用いられていた。

2 ポストモダニズム

ポストモダニティは制度や作品の変化(ギデンズ、1990年)やグローバルな視点を通じて特に1950年代の欧米における社会経済の推移に関連した状況を示しており、ポストモダニズムは美学、文学、政治哲学、社会哲学、特に1920年代の新たな芸術的ムーブメント以降の「文化的ないし知的現象」を含んでいた。ポストモダニティやポストモダニズムといった語は哲学者、社会科学者、そして現代文化、経済学、20世紀後半から21世紀初頭の生活を反映した社会の側面を批評する評論家によって用いられており、権威の分断化や知識の商品化を含んでいた(モダニティを参照せよ)。

そしてポストモダニティと批評理論、社会学と哲学の関係が問題になっていた。「ポストモダニティ」や「ポストモダニズム」といった語を区別することは難しく、ポストモダニティはポストモダニズムの帰結であった。そのプロセスは多様な政治的影響を内包しており、「反イデオロギー」がフェミニスト運動、人種差別撤廃運動、ゲイ・ライツ・ムーブメント、20世紀後半の多くのアナーキズム、平和運動、反グローバリゼーション運動とのハイブリッドと関連していた。これらの運動はポストモダンのムーブメントを肯定していなかったけれども、コアとなるアイデアのいくつかをポストモダンのムーブメントから借用していた。

3 歴史

リオタールやボードリヤールのような研究者はモダニティが20世紀後半に終焉を迎えていたと想定し、モダニティ以後をポストモダニティとして定義していたが、バウマンやギデンズのような研究者はモダニティの意味を拡張しながら、ポストモダニティによって示されているその後の展開を解釈していた。他の研究者はモダニティが1900年代のビクトリア朝時代に終焉を迎えていたと述べていた[2]。

ポストモダニティは1940年代後半や1950年代の初期から冷戦の終結にかけての段階(限られた帯域のアナログメディアが少数のメディアとして権威を維持していた時代であった)や冷戦の終結以降の段階(ケーブルテレビやデジタル時代の「新たなメディア」の普及によって特徴付けられた時代)といった2つの局面を通じて説明されていた。

ポストモダニティの最初の段階はモダニティの終焉と重なり、近代の一部として認識されていた(分類学や時代区分を参照せよ)。テレビが主なニュースの情報源になり、製造業が欧米の経済におけるその意義を低下させ、貿易が話題の中心を占めつつあった。1967年から1969年の先進国において文化が急速に発展し、それは社会の中でポストモダニティを経験しながら成長したベビーブーマーが政治、文化、教育の権力構造に参加することを求め始めていた時期でもあった。非暴力や文化的な活動からテロまでを含んでいるデモや抵抗運動は前の世代による政治や議論の設定に対する若い世代の異議申立てを示していた。アルジェリア戦争やベトナム戦争、人種差別を容認する法律、女性差別を助長する法律、離婚の制限に対する抵抗、マリファナや麻薬の使用の増加、ロックを含む音楽やドラマにおけるポップカルチャー、オーディオ・テレビ・ラジオの普及が幅広い文化のコンテクストの中で顕在化していた。60年代後半から70年代初頭の特徴は、メディア文化に囲まれた生活の帰結に注目しながら、マスメディア文化に参加することが社会規範の権威を揺るがすことを通じて自由をもたらしていたと述べていた哲学者であるマーシャル・マクルーハンの著作の中に示されていた。

ポストモダニティの次の段階は「デジタル化」によって特徴付けられており、ファックス、モデム、ケーブル、高速回線のインターネットといったコミュニケーションの手段がパーソナル化やデジタル化の影響力を増大させ、ポストモダニティの状況を劇的に変化させており、デジタル情報を通じて個人の力がこれまでメディアが有していたあらゆる側面に対して現実の力として作用していた。このことは知的財産権を巡る製作者と消費者の衝突を促しており、ニューエコノミーの支持者は情報コストの激しい低下が社会を根本的に変化させるだろうと述べていた。

そしてデジタル化ないしエスター・ダイソンによるデジタル化がポストモダニティと異なる状況として登場してきたことが指摘されていた。この立場の論者は、ポピュラー・カルチャーのアイテム、ウェブ、知識をインデックス化している検索エンジンの活用やテレコミュニケーション可能な力がヘンリー・ジェンキンスによる「参加型文化」の登場やAppleのiPodのようなデバイスの普及を通じた「過度の一極集中」を生み出していると論じていた。

この時代におけるシンプルではっきりとした境界線は1991年のソ連崩壊や中国の自由化であった。1989年にフランシス・フクヤマはベルリンの壁の崩壊を予想させる『歴史の終焉』を発表していた。フランシス・フクヤマによれば、政治哲学の問題は解決されており、価値観を巡る大規模な戦争はもはやあり得ないものであり、その理由として「あらゆる対立が解消され、あらゆる人間が円満な状況を必要としていること」が挙げられていた。そしてこれはある種の「エンディズム」であり、1984年にアーサー・ダントーはアンディ・ウォーホルによるブリロ・ボックスが形式主義を否定して芸術が終焉を迎えたことを歓迎していた。

4 論評

4.1 哲学と批評理論の区別

ポストモダニティに対する論争にはよく混同される2つの要素が存在していた。(1)現代社会の特徴と(2)現代社会に対する評論の特徴であった。前者は20世紀後半に端を発した変化の特徴であった。そして3つの代表的な分析が存在していた。カリニコス(1991年)やカルフーン(1995年)のような研究者は現代社会の特徴に対して保守的な立場を示しており、社会経済的変化の意義や程度を軽視しており、過去との連続性を強調していた。次にある領域の研究者は「近代」のプロジェクトが依然として「モダニティ」の段階のままである現在を分析しようとしていた。この意味での現在はウルリッヒ・ベックによれば「第二の」ないし「リスク」社会と呼ばれ(1986年)、ギデンズによれば「後期の」ないし「高度な」モダニティとして示されており(1990年・1991年)、ジグムント・バウマンによれば「リキッド」モダニティであり(2000年)、カステルによれば「ネットワーク」社会であった(1996年・1997年)。さらに別の研究者は現代社会がモダニティと異なるポストモダンの段階に移行していると論じていた。この立場を採用している研究者はリオタールやボードリヤールであった。

別の問題は評論の特徴に起因しており、モダニズムが普遍主義を示しておりポストモダニズムが相対主義を示していることを前提にしていたために、その普遍主義と相対主義の間における論争がしばしば生じていた。セイラ・ベンハビブ(1995年)やジュディス・バトラー(1995年)はこの論争をフェミニスト政治学と関連させ、ベンハビブはポストモダン批評が3つの要素から構成されていると論じており、主体やアイデンティティに対する反基礎付け主義者の考え方、目的論や社会の進歩といった概念や歴史の終焉、客観的な真理を求める形而上学の終焉を挙げていた。ベンハビブはこれらの視点に反論しており、これらの視点がフェミニスト政治学の基盤を損なっており、保護団体の可能性、自己の意味、解放の名の下に女性史が簒奪されてきたことを考慮していないと主張していた。規範としての理想の否定はユートピアの可能性、倫理の中心、民主主義に根差した活動を否定することにつながっていた。

バトラーはベンハビブに対してポストモダニズムという語の用法が反基礎付け主義やポスト構造主義を超えた妄想を含んでいると述べていた。

そして多くの視点がポストモダニズムに依拠していた。ディスコースが全てであり、ディスコースが全てを構成しているある種の一元論であるかのようであった。主体が喪失され、私が「私」に言及することができなかった。現実は存在しておらず、表象のみが存在していた。これらの論拠はポストモダニズムやポスト構造主義にあり、互いに関連し合い、脱構築とも関連し、フランスのフェミニズム、脱構築、ラカンの精神分析、フーコディアンの分析、ローティの対話主義、カルチュラル・スタディーズとして認識されていた。実際にはこれらのムーブメントは矛盾し合っていた。フランスにおけるラカンの精神分析はポスト構造主義と対立しており、フーコディアンはデリディアンとほとんど関連しておらず...リオタールはポストモダニズムという語を擁護していたが、それはその他大勢の自称ポストモダニストが行なっていることと異なっていた。またリオタールの研究はデリダのそれと異なっていた。

バトラーは、一方でどのように哲学が権力関係に関与しているのかを示しており、他方で問いの始まりが「普遍性」や「客観性」を疑うことであることを理由にして主体に対する批評が話の始まりであって終わりではないと述べているポスト構造主義者を支持しているポストモダニストによる批評の特徴を論争の対象にしていた。

ベンハビブとバトラーの論争はポストモダニティの定義自体が議論の対象であることから示されるようにポストモダニストに対する単純な定義が存在していないことを示していた。ミシェル・フーコーはインタビューの中でポストモダニズムのレッテルを貼られることを拒否していたが、ベンハビブを含む多くの人々は、啓蒙運動における普遍的な規範に疑念を呈することによってユートピアを示している「近代」の評論を否定していることを理由にしてフーコーが「ポストモダン」の評論を支持していると考えていた。ギデンズ(1990年)はこのように定義された「近代の」評論の特徴を認めておらず、啓蒙時代の普遍性に対する評論が近代の哲学者とりわけニーチェにとって主要な問題であったことを指摘していた。

4.2 ポストモダン社会

ジェイムソンはポストモダニティとモダニティの違いを示唆している多くの現象を認識していた。ジェイムソンは「新たなタイプの浅薄さ」や「深みのなさ」について言及しており、(解釈学、論理学、フロイトの抑圧、本物と偽物に対する実存主義者による区別、シニフィアンとシニフィエに対する記号論による区別において)「内側」と「外側」の視点を通じて人々や物事を説明しているモデルを否定していた。

そしてモダニストの「ユートピアに対する姿勢」やファン・ゴッホにおいてそうであるが芸術において苦悩を美に昇華することが否定されており、他方でポストモダニズムのムーブメントを通じて物質世界が「根本的な変化」を経験しており、「テキストや見てくれのごった煮になって」しまっていた(ジェイムソン、1993年)。モダンアートが世界を取り戻し、それを理想に据えて、魂をもたらすことを希求する一方で(グラフによれば、科学や宗教の没落が世界における価値を退廃させていた)、ポストモダンアートは世界に破滅を与えており、ポストモダンの破滅は、趣旨としては破滅と無関係であるのだが、見る側の視点を崩壊させていた。グラフは科学や合理主義の登場によって損なわれていた意味を与えるために宗教の代わりにアートを用いることの中にアート特有の変化を訴求するミッションを位置付けていたが、他方でポストモダンにおけるアートの役割が不毛であると認識していた。

さらにジェイムソンはポストモダンの特徴を「ウェイニング・オブ・アフェクト」として示しており、あらゆる感情がポストモダンが支配する時代から失われている訳ではなく、ポストモダンの時代がある特定の感情を失っていることを示しており、それは例えば「(あなたの方に振り向いてくれる)ランボーのマジカル・フラワーズ」のようなものであった。ジェイムソンは「その人の流儀が通用しない」「ごった煮となった権威の没落におけるパロディ」がそのごった煮に普遍性を与えていることを示唆していた。

ジェイムソンによれば、ポストモダニティにおいて物事の尺度が「喪失されて」おり、私たちが「ポストモダンの主体が我を見失ってしまうほどの多くの事柄の中に埋没してしまっている」ことが指摘されていた。この「新たなグローバル空間」はポストモダニティの「正念場」でもあった。ジェイムソンが認識しているポストモダンの他の特徴は「グローバル空間における存在のある側面として示されていた」。またポストモダンの時代は文化の社会的機能を変化させていた。ジェイムソンによれば、近代の文化は「中途半端に自律的」で、「現実を超えた存在」を仮定していたが、ポストモダンの文化はその自律性を奪っており、文化人の営みが社会全体を消費するまでに拡大しており、あらゆる人々が「文化人」になっていたことが指摘されていた。そして「評論における物事の尺度」であり左派の理論が依拠している「巨大な資本という存在」の蚊帳の外に文化が位置しているといった仮定は時代遅れになっていた。また多国籍資本の驚異的な拡大が資本主義に染まっていない地域(自然であれ意識であれ)を植民地化し尽くしてしまい、植民化される側は評論家にとって都合がよい状況を与えていた(ジェイムソン、1993年、54)。

4.3 社会科学

ポストモダン社会学は20世紀後半の先進国の生活に着目しており、マスメディアと大量生産・大量消費、グローバル・エコノミーの登場、製造業からサービス業へのシフトを視野に収めていた。ジェイムソンやハーヴェイはその生活を消費主義として描いており、製造、流通、その結果としての幅広い普及に要するコストは安価になっていたが、社会におけるつながりやコミュニティは一層希薄になっていた。他の思想家によれば、ポストモダニティは大量生産・ポピュリズムを前提とした社会におけるマスメディアに対する当然の反応であることが指摘されていた。アラスデア・マッキンタイアの著作はマーフィー(2003年)やビールスキス(2005年)のような著者によるポストモダニズムを紹介しており、マーフィーやビールスキスにとってアリストテレスの哲学に対するマッキンタイアによるポストモダン流の解釈は資本蓄積を加速させているある種の消費主義に対する抵抗として映っていた。

ポストモダニティに対する社会学的な視点は迅速な移動手段、コミュニケーションの範囲の拡大、断念せざるを得なかった大量生産のための標準化に原因を求めており、それらは以前より幅広い資本に価値を置き、その価値が多様な形で蓄積されることを許容するシステムを生み出していた。ハーヴェイによれば、ポストモダニティは「フォーディズム」からの脱却であり、それはアントニオ・グラムシによる造語であるが、1930年代初頭から1970年代までのOECD諸国においてケインズ政策を採用していた時代の産業の規制や資本蓄積のプロセスを説明していた。ハーヴェイにとってのフォーディズムは、アントニオ・グラムシによる語が大量生産や労使関係の方法に関連している点でケインズ主義と関係していたが、経済政策や産業の規制と関係していた。したがってポスト・フォーディズムはハーヴェイの視点によればポストモダニティの基本的な側面の1つを構成していた。

ポストモダニティの産物はテレビやポピュラー・カルチャーによる支配、情報に接する利便性の拡大、マスメディアの役割の拡大を含んでいた。またポストモダニティは環境保護や反戦運動に見られるような進歩の名の下の犠牲に対する抵抗運動を示していた。工業化におけるポストモダニティはフェミニズムや多文化主義のようなムーブメントと同様に公民権運動や他の抵抗運動に焦点を当てていた。政治におけるポストモダンは抑圧や疎外(性や民族における)に対するさまざまな抵抗運動を通じた公民権や政治活動の可能性や多様な場によって特徴付けられていたが、政治におけるモダニストは階級闘争に囚われたままであった。

ミシェル・マフェゾリのような研究者は、ポストモダニティが存在を支える枠組みを崩壊させており、個人主義の弱体化や新部族主義の登場をもたらすだろうと考えていた。

現在の経済状況や技術環境はメディアによって支配されたばらばらな社会を生み出しており、その内容は見せかけにすぎず、相互言及的なアイデアの集合であり、意味に関して客観的な実体のない中身を真似し合う状況であった。意思の疎通、製造プロセス、輸送手段におけるイノベーションによってもたらされたグローバリゼーションはばらばらな近代的生活に拍車をかける推進力のようなものであり、政治・意見交換・知的活動の中心が欠落しており、文化的な複数性を有しており、相互に関連したグローバル・コミュニティを生み出していた。ポストモダニストの視点によれば、客観的とは言いがたい間主観的な知識が支配的な言説になり、情報の普及の偏りによって人々と情報や消費者と生産者の関係が根本的に変化していることが指摘されていた。

『スペース・オブ・ホープ』の中でハーヴェイは、政治におけるポストモダンは(マルキストの意味で)弱者の問題やフォーディズムの時代以上に重要になっていた現在の政治に対する批評の意識に間接的に関係していた。ハーヴェイにとって階級闘争は解決に程遠いものであった(彼の説明によればポストモダニストはこの問題を無視していたのだが)。グローバリゼーションによって権利が保護されない低賃金労働の問題に労働組合が取り組むことが一層困難になっていたのだが、欧米の消費者が支払っている商品の価格と東南アジアの労働者が稼いでいる低賃金のギャップによって企業の収益は一層大きなものになっていた。

5 批判

ポストモダンに対する批判は大きく4つに分かれており、モダニズムを否定する視点を理由にしたポストモダニティに対する批判、ポストモダニティが近代のプロジェクトに含まれる公共性や合理性を欠いていると考えているモダニストによる批判、ポストモダニズムに対する理解に依拠した変化を求めているポストモダニティの内部からの批判、現在の社会を鑑みるとポストモダニティが過去のものになっているといった批判であった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Michel_Foucault

ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコー(1926年10月15日-1984年6月25日)はフランスの哲学者、思想史の研究者、社会理論の研究者、文学研究者、文芸評論家であった。フーコーの理論は権力と知識の関係に言及しており、どのように権力と知識が組織的に社会統治の道具として用いられてきたのかを示していた。ポスト構造主義者ないしポストモダニストと呼ばれているフーコーはこの呼び名を承諾しておらず、彼の思想がモダニティにおける批評史に分類されることを好んでいた。フーコーの思想は研究者とアクティビスト・グループの双方に大きな影響を与えていた。

ポワチエの上流階級の家庭に生まれ、フーコーはアンリ4世高校で教育を受け、その後エコール・ノルマルで学び、哲学に対する関心が強くなり、ジャン・イポリットやルイ・アルチュセールといった師から影響を受けていた。民間外交官として外国で数年過ごした後、フーコーはフランスに戻り、最初の著作である『狂気の歴史』を発表していた。1960年から1966年にかけてオーベルニュ大学に職を得た後、フーコーは2冊の著作を仕上げ、『臨床医学の誕生』や『言葉と物』がそれらであり、構造主義や後に距離を置くことになる社会人類学に対する関心を示していた。これらの著作は「考古学」と名付けられ歴史を研究するためのアプローチの例を示していた。

1955年から1968年にかけてフーコーはフランスに戻る前にチュニス大学で講義をしており、その後ヴァンセンヌ実験大学の哲学科の教員になった。1970年にフーコーはコレージュ・ド・フランスの教員になり、生涯を通じそのメンバーシップを保持していた。またフーコーは多くの左派グループのアクティビストでもあり、反レイシズム運動、人権擁護運動、刑法改正運動に関わっていた。さらにフーコーは『知の考古学』、『監獄の誕生』、『性の歴史』を発表していた。これらの著作を通じてフーコーは社会的な言説の変化において権力が担っている役割にフォーカスした考古学的ないし系図的アプローチを採用していた。その後パリでフーコーはエイズに付随した神経組織の病気で死去することになり、エイズで亡くなった最初のフランスの公人になり、フーコーのパートナーであるダニエル・ドフェールはエイズ基金を設立していた。

1 若い頃

1.1 青年期:1926年-1946年

ポール=ミシェル・フーコーは1926年10月15日にフランス西部のポワチエで保守的な中産階級の家庭の二番目の子供として誕生していた。フーコーは父であるポール・フーコーに因んで名付けられており、それが家庭の伝統であったが、母は二つの名前から成るファーストネームである「ミシェル」を主張しており、学校では「ポール」であったが、生涯を通じてフーコーは「ミシェル」を好んでいた[3]。フーコーの父(1893年-1959年)は地元の外科医であり、ポワチエに移る前にフォンテーヌブローで生まれており、そこで開業しながら、地元の女性であるアン・マラペールと結婚していた[4]。アン・マラペールは外科医であるプロスペル・マラペールの娘であり、プロスペル・マラペールは開業医でありポワティエ大学の医学部で解剖学を教えていた[5]。ポール・フーコーは義理の父の病院を引き継ぎ、アン・マラペールはヴォンドゥーヴル=デュ=ポワトの村にあるル・ピロワールと呼ばれる19世紀の大きな住居を守っていた[6]。3人の子供であるフランシーヌと名付けられた娘とポール=ミシェルやデニスと名付けられた2人の息子と同様に、彼らは全員金髪で明るい青い目をしていた[7]。子供たちは表面的にはカトリック教徒として育てられており、サン・ポルチェールの教会のミサに参加しており、短期の間ミシェルは侍祭の役を務める少年であったが、家族は敬虔ではなかった[8]。

その後の人生を通じてフーコーは少年時代についてほとんど語ることがなかった[10]。「非行少年」であったと述べながら、フーコーは彼の父が厳しい罰を与えるいじめを行なっていたと主張していた[11]。1930年にフーコーは地元のアンリ4世高校で2年早く学校生活を始めていた。フーコーは2年間でリセに入る前の初等教育を終えており、リセには1936年まで在籍していた。そして同じ学校での中等教育を4年間で終えており、フランス語、ギリシア語、ラテン語、歴史を得意としながらも、数学が苦手であった[12]。1939年に第二次世界大戦が始まり、1945年までフランスはナチスドイツに占領されていた。フーコーの両親はドイツによる占領とヴィシー政権に反対していたが、レジスタンスには参加していなかった[13]。1940年にフーコーの母はイエズス会によって運営されていた厳格なカトリックの機関であるサン・スタニスラス学院にフーコーを通わせていた。フーコーはそこでの生活を「厳しい試練」と表現していたが、特に哲学、歴史、文学において優れた成績であった[14]。1942年にフーコーは最終学年になり、哲学の研究に専念しながら、1943年にバカロレアに合格した[15]。

地元のアンリ4世高校に戻り、1年間フーコーは歴史と哲学を研究しており[16]、哲学者であるルイ・ジラールから助力を得ていた[17]。そしてフーコーを外科医にさせる父の希望を否定しており、1945年にフーコーはパリに行き、アンリ4世高校として知られている最も有名な中等学校の1つに通っていた。またフーコーは哲学者であるジャン・イポリットの下で研究しており、ジャン・イポリットはヘーゲルやカール・マルクスの弁証法と実存主義を融合させる19世紀ドイツの哲学者であるヘーゲルの研究の専門家であり、実存主義者であった。これらの思想はフーコーに影響を与えており、哲学は歴史の研究を通じて研究されなければならないといったイポリットの信念をフーコーは受け継いでいた[18]。

1.2 エコール・ノルマル:1946年-1951年

優秀な成績で1946年の秋にフーコーはエコール・ノルマル(ENS)に入学していた。入学のためにフーコーはジョルジュ・カンギレムとピエール・マクシム・シュールから口頭試問を受けていた。ENSに入学した100名の内、フーコーは入学試験の結果では上から4番目で、高い競争率を経験していた。多くのクラスメイトと同じ様にフーコーはユルム街の寄宿舎で暮らしていた[19]。フーコーは人気がない学生で、1人で過ごすことが多く、貪欲に読書をしていた。フーコーの友人たちは暴力やグロテスクなものに対するフーコーの執着心に感づいていた。フーコーはスペインの芸術家であるフランシスコ・デ・ゴヤがナポレオン戦争の時に描いた拷問や戦争の挿し絵を使って寝室を装飾しており、時として仲間を短剣で追い回していた[20]。伝聞によればフーコーは自殺に失敗しており、それを理由にしてフーコーの父はサンタンヌ病院の精神科医であるジャン・ディレイの所にフーコーを連れていった。自傷行為や自殺行為が後をひき、フーコーは何度かそれらを繰り返しており、後年の著作の中で自殺行為を肯定していた[21]。ENSの医師はフーコーの精神状態を鑑定しており、フーコーの自殺の傾向がホモセクシュアリティに対する悩みに起因しており、同性間の行為が当時のフランスでタブーであったことが背景に存在していた[22]。またフーコーは薬物の使用を含めてパリのゲイとの行為に耽ることがあった。伝記作家のジェームス・ミラーによれば、フーコーは危険な行為のスリルを楽しんでいた[23]。

さまざまなテーマを研究しているにもかかわらず、フーコーの関心は哲学にあり、ヘーゲルやマルクスだけでなく、イマヌエル・カント、エトムント・フッサール、特にマルティン・ハイデッガーを読み込んでいた[24]。フーコーは哲学者であるガストン・バシュラールの著作を読み始めており、科学史の研究に関心を示していた[25]。1948年に哲学者であるルイ・アルチュセールがENSのチューターになった。マルキストであるルイ・アルチュセールはフーコーや他の多くの学生達に影響を与えており、彼らをフランス共産党(PCF)に勧誘していた。1950年にフーコーはフランス共産党に入党していたが、特別な活動をしていた訳ではなく、マルキストの視点を取り入れたこともなく、階級闘争のようなマルキストの教義に対して反論していた[26]。フーコーはすぐに共産党で経験した偏狭さに不満を抱くようになっていた。個人的にフーコーは同性愛恐怖症を経験しており、ソ連共産党幹部暗殺計画を通じて示されていた反ユダヤ主義に恐怖を感じていた。1953年にフーコーは共産党から離党したが、アルチュセールとの親交はそのままであった[27]。1950年に1回失敗したけれども、1951年の2回目に哲学のアグレガシオンに合格した[28]。医学的な観点から兵役を免除された後、フーコーはティエール財団で博士号のために研究する決意を固めており、それは心理学における哲学にフォーカスしたものであった[29]。

1.3 初期のキャリア:1951年-1955年

その後数年、フーコーはさまざまな研究と教育に携わっていた[30]。1951年から1955年にかけてフーコーはアルチュセールの招きでENSの哲学の講師を務めていた[31]。パリでフーコーは兄弟とアパートをシェアしており、フーコーの兄弟は外科医になる研修を受けていたが、フーコーは1週間の内3日間は北部の都市であるリールに通勤しており、1953年から1954年までリール・ノール・ド・フランス大学で心理学を教えていた[32]。フーコーの講義は多くの学生から好意的に見られていた[33]。一方でフーコーは学位論文を執筆しており、イワン・パブロフ、ジャン・ピアジェ、カール・ヤスパースのような心理学者の著作を読み込むために毎日フランス国立図書館に通っていた[34]。サンタンヌ病院の精神科での研究を引き受け、フーコーは非公式のインターンになり、医師と患者の関係について研究しており、脳波検査室での研究を支援していた[35]。フーコーは精神科医であるジークムント・フロイトによる理論の多くを採用しており、自己の夢に対して精神分析を行い、仲間にロールシャッハ・テストを行なっていた[36]。

またアヴァンギャルドなパリ市民を自認しており、フーコーは作曲家であるジャン・バラケとのロマンスに浸っていた。彼らは人間の思考力の限界を拡大し、最も素晴らしい作品を制作しようとしていた。重度の薬物依存であり、彼らはサドマゾの関係にあった[37]。1953年8月にフーコーとバラケはイタリアで休暇を過ごしており、ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェによる4編のエッセイから構成されていた『反時代的考察』(1873-1876)に耽っていた。後にニーチェの著作を「啓示である」と表現したフーコーは著作を深く読み込むことが自身に影響を与えていたと感じており、読書が転機になっていた[38]。そして1953年にフーコーはサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のパリ公演を観劇したときに新たな自己を見出していた[39]。

文学に関心があり、フーコーは『新フランス評論』における哲学者であるモーリス・ブランショによる書評の熱心な読者であった。ブランショの文体や批評理論に魅了されており、後期の作品の中でフーコーは自身を「取材・検討する」ブランショのアプローチを取り入れていた[40]。またフーコーはヘルマン・ブロッホによる『ウェルギリウスの死』(1945年)に出会い、それはフーコーとバラケを魅了していた。バラケは『ウェルギリウスの死』をエピック・オペラにしようとしていたが、フーコーは人生を肯定した死の描写を理由にしてブロッホの文章を賞賛していた[41]。フーコーとバラケはマルキ・ド・サド、フランツ・カフカ、ジャン・ジュネのような作家の作品に対しても関心を抱いており、それらは性と暴力をテーマにしていた[42]。

そしてスイスの精神科医であるルートヴィヒ・ビンスワンガーの著作に関心を示しており、フーコーは友人であるジャクリーヌ・ヴェルドーがその作品をフランス語に翻訳することを支援していた。特にフーコーは自殺するに至ったエレン・ウェストに対するビンスワンガーの研究に関心を抱いていた[44]。1954年にフーコーはビンスワンガーの論文である『夢と実存』のイントロダクションを執筆しており、夢が「世界の誕生」と「剥き出しの感情」で構成されており、理性の奥深い欲望を表していると主張していた[45]。同じ年にフーコーは最初の著作である『精神疾患と心理学』を出版しており、その著作の中でマルキストやハイデッガリアンの思想からの影響を示しており、パブロフの反射理論による心理学からフロイトによる古典的な精神分析まで幅広いテーマを扱っていた。エミール・デュルケームやマーガレット・ミードのような社会学者や人類学者の著作を引き合いに出しながら、フーコーは病気が文化と関連しているといった理論を示していた[46]。伝記作家であるジェームス・ミラーによれば、その著作は「博識と明白な知性」を示していたが、フーコーがその後の著作で示している「ある種の情熱」に欠けていた[47]。著作は評論として見向きもされていなかったが、当時ただ1つからレビューを受けていた[48]。フーコーはそのことから影響を受けて、英語への翻訳と再版を思いとどまろうとしていたが、そうはならなかった[49]。

1.4 スウェーデン、ポーランド、西ドイツ:1955年-1960年

フーコーはその後の5年間を海外で過ごしており、初めはスウェーデンのウプサラ大学で民間外交官として勤務しており、その仕事は宗教史を専門にしているジョルジュ・デュメジルの知人を通じたものであった[50]。ウプサラでフーコーはフランス文学の助手に着任しており、同時にメゾン・ド・フランスのディレクターとして勤務しており、それをきっかけにして民間外交官のキャリアを切り開いていた[51]。北欧の薄暗く長い冬を気に入っていなかったが、フーコーは生化学者であるジャン・フランソワ・ミケルや物理学者であるジャック・パーペ=レピーヌと親しくなり、さまざまな人々とロマンスに耽っていた。ウプサラではフーコーは大酒飲みで知られており、ジャガーを乗り回していた[52]。1956年の春にバラケはフーコーとの関係を終わりにし、「狂気のなせる混乱」から逃れたいと告げていた[53]。ウプサラでフーコーは大学のカロリーナ・レディヴィヴァ・ライブラリーで長時間を過ごしており、医学史の研究のためにビブリオテーカ・ワレリアーナ・コレクションを利用していた[54]。医学論文を執筆し終え、フーコーはウプサラ大学に論文が受理されることを願っていたが、科学史を専門にしているステン・リンドロスは否定的な見解を示し、推論の一般化が多く歴史としては中途半端であると主張していた。ステン・リンドロスはウプサラ大学で博士号を出すことに反対しており、それを理由にしてフーコーはスウェーデンを去ることになった[55]。

デュメジルに認められて、1958年10月にフーコーはポーランドのワルシャワに到着し、ワルシャワ大学のフランス語センターに着任した[56]。第二次世界大戦の荒廃に伴う物資やサービスの欠乏により、フーコーはポーランドでの生活における困難に直面していた。学生が共産主義のポーランド統一労働者党による支配に抗議していたポーランド十月革命の結末を目の当たりにして、フーコーは多くのポーランド人がソ連の傀儡としてのポーランド政府を軽蔑していたことを感じ取っており、システムが「誤って」機能していると考えていた[57]。大学を自由の場として考えており、フーコーは自由に講義ができる国に移ることになった。その評判を示すことによって、フーコーは事実上の文化担当官に着任していた[58]。フランスやスウェーデンでは同性愛は合法であったが、ポーランドでは社会的に肩身が狭いものであり、フーコーは多くの男性と交友しており、1人はフーコーを罠にかけるためのポーランドのエージェントであり、そのことがフランス大使館に悪影響を及ぼしていた。外交上のスキャンダルに苦しめられて、フーコーはポーランドから次の地へ移ることになった[59]。さまざまな立場が西ドイツにはあり、フーコーはハンブルクに移りウプサラやワルシャワで担当していたコースを受け持つことになった[60]。そしてレーパーバーンで多くの時間を過ごしており、フーコーは女装の趣味を有する人々との交友を広げていた[61]。

2 円熟期のキャリア

2.1 『狂気の歴史』(1960年)

西ドイツでフーコーは博士論文を仕上げ、その学位論文である『狂気の歴史』は医学史に対する彼の研究に依拠していた。その著作はどのように西欧社会が狂気を取り扱ってきたのかを論じており、その西欧社会は精神疾患の人々から完全に切り離されたものであったと論じていた。フーコーは3つのフェーズを通じた狂気の概念の展開をトレースしており、それらはルネサンス、17世紀から18世紀、近代を指していた。その著作はフランスの詩人であり劇作家であるアントナン・アルトーの作品を想起させており、アントナン・アルトーは当時のフーコーの思想に大きな影響を及ぼしていた[63]。

『狂気の歴史』は包括的な著作であり、それは943ページからなり、付録と参考文献一覧が付随していた[64]。フーコーはパリ大学に学位論文を提出していたが、博士号を授与するための学則は主要な論文と補足的な論文の双方を提出することを求めていた[65]。当時のフランスで博士号を取得することは多段階のステップを必要としていた。最初のステップはラポーターと著作のスポンサーを探すことであり、フーコーはジョルジュ・カンギレムを選んでいた[66]。二番目のステップは出版社を探すことであり、『狂気の歴史』はガリマール出版社に拒否された後にフランス大学出版局を通じてフーコーが選んだプロン出版社から1961年5月にフランス語で出版されることになった[67]。1964年に簡約版がペーパーバックで出版され、翌年英語に翻訳されることになった[68]。

『狂気の歴史』はフランスでの出来事にフォーカスした外国誌やフランスでさまざまな受けとめ方をされていた。ブローショ、ミシェル・シェール、ロラン・バルト、ガストン・バシュラール、フェルナン・ブローデルによって賞賛されていたが、フーコーを悩ませていたことに『狂気の歴史』が左派による論壇から無視されていたことが挙げられていた[69]。『狂気の歴史』は形而上学を支持していたことを理由にして1963年3月のパリ大学での講義の中で若手の哲学者であるジャック・デリダによって批判されていた。悪意に満ちた返事に対して、フーコーはデリダの論点を無視することで対抗しており、デリダの主張はルネ・デカルトに対するフーコーの解釈を批判することに焦点を絞っていた。1981年に和解するまで2人は険悪なままであった[70]。英語圏では『狂気の歴史』は1960年代の反精神医学運動に大きな影響を与えていた。フーコーは反精神医学運動に対して入り混じったアプローチを採っており、多くの反精神医学者に影響を及ぼしていたが、彼らの多くが『狂気の歴史』を誤解していると主張していた[71]。

フーコーの副論文はドイツの哲学者であるイマヌエル・カントによる『実用的見地における人間学』(1798年)を翻訳し注釈を付したものであった。カントのテクストにおける考古学といったテクストの時代設定を論じたフーコーによる議論で構成されており、フーコーは哲学的に大きく影響を受けていたニーチェを想起しながら論文を纏めていた[72]。この著作におけるラポーターは昔のチューターとENSのディレクターであるイポリットになり、イポリットはドイツの哲学者によく知られた存在であった[64]。これらの2つの論文がレビューされた後、フーコーはディフェンスを組み立て、1961年5月20日に口頭審査を受けることになった[73]。フーコーの著作をレビューした研究者はフーコーの主論文の型破りな特徴に懸念を示しており、レビュアーであるアンリ・グイエはフーコーの主論文が歴史におけるお約束の原稿でないことを指摘しており、その著作が十分な各論を展開しないで包括的な一般化を行っており、フーコーが「寓意を用いて論理を展開している」ことを付け加えていた[74]。しかしレビュアーはそれらの論文が優れていることを認めており、「留保を付けながら」、フーコーに博士号を授与していた[75]。

2.2 オーベルニュ大学、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』:1960年-1966年

1960年10月にフーコーはオーベルニュ大学の哲学の講座でテニュアを得て、毎週パリからクレルモン=フェランへ通勤しており[76]、パリのファンレイ街の高層住宅で暮らしていた[77]。哲学科で心理学を教えることを担当しており、フーコーはオーベルニュ大学では「面白い」が「やや型にはまった」教員と考えられていた[78]。哲学科はジュール・ヴュイユマンによって運営されており、ジュール・ヴュイユマンはフーコーとすぐに親しくなっていた[79]。1962年にヴュイユマンがコレージュ・ド・フランスの教員に選任された後、フーコーはヴュイユマンの仕事を引き継いでいた[80]。このポジションに就いてからフーコーはあるスタッフを嫌っており、その軽視されていたスタッフの中にフランス共産党の幹部であるロジェ・ガロディが含まれていた。フーコーはガロディによって大学での人生が危うくなっており、ガロディをポワチエに移籍させていた[81]。またフーコーは哲学者であるダニエル・ドフェールのために大学での仕事を確保したために論争を引き起こしており、ダニエル・ドフェールと一夫一婦制の枠に収まらない関係を続けていた[82]。

フーコーは文学に対する関心を失っておらず、文学雑誌である『テル・ケル』や『新フランス評論』にレビューを載せており、『クリティーク』の編集委員を務めていた[83]。1963年5月にフーコーは詩人、作家、脚本家であるレーモン・ルーセルに捧げた著作を出版していた。それは2ヶ月で書き上げられており、ガリマール出版社から出版され、伝記作家であるデイビット・メイシーによってルーセルの著作との「特別な関係」から生じた「内輪の著作」として紹介されていた。その著作は1983年に『死と迷宮:レーモン・ルーセルの世界』として英語で出版されていた[84]。レビューはほとんどなく、それはほぼ無視されていた[85]。同じ年にフーコーは『狂気の歴史――古典主義時代における』の続編である『ネサーンス・ドゥ・ラ・クリーニク』を発表しており、後にそれは『臨床医学の誕生』として翻訳されていた。前作より短く、『臨床医学の誕生』は18世紀後半から19世紀初頭の医学界の変遷にフォーカスしていた[86]。前作のように『ネサーンス・ドゥ・ラ・クリーニク』は批評の対象から外されていたが、後に一時の熱狂を獲得することになった[85]。またフーコーは1963年11月から1964年3月まで国民教育大臣であるクリスティアン・フーシェによって指揮された大学改革を議論するために招集された「18人委員会」の委員に選ばれていた。大学改革は1967年に行われており、スタッフによるストライキや学生による抗議活動に発展していた[87]。

1966年4月にガリマール出版社はフーコーの『言葉と物』を出版しており、後に英語に翻訳していた[88]。どのように人間が知の対象になっていったのかを研究しながら、『言葉と物』は、あらゆる時代の歴史が科学のディスコースとして容認できるものを形成している真実の背後にある特定の状況を示唆していることを論じていた。フーコーはこれらの真実の背後にある特定の状況がある時代のエピステーメーから次の時代のエピステーメーへと変化してきたと述べていた[89]。専門家向きの著作であったけれども、それはメディアから注目を集めて、フランスのベストセラーになった[90]。新たな思想家がジャン=ポール・サルトルによって人気を博していた実存主義を一掃したことから、構造主義に対する関心が高まり、フーコーは研究者であるジャック・ラカン、クロード・レヴィ=ストロース、ロラン・バルトと共に行動していた。当初はこういった説明を容認していたが、フーコーはすぐにそうした説明を激しく否定していた[91]。フーコーとサルトルはメディア上で互いを批判し合っており、サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「中産階級」に立脚したフーコーの思想を批判していたが、フーコーは「マルクス主義は19世紀の思想としては妥当であったのだが、現在は死に絶えているに等しい」と述べることによってマルキストの信念に対して反論していた[92]。

2.3 チュニス大学とヴァンセンヌ大学:1966年-1970年

1966年9月にフーコーは北アフリカのチュニス大学で心理学を教えることになった。その決定は主にドフェールが兵役でチュニジアに赴任することを理由にしていた。フーコーはチュニスからシディ・ブ・サイドまで数キロメートル移動しており、シディ・ブ・サイドには研究者仲間のジェラルド・デレダルが奥さんと共に暮らしていた。到着してすぐにフーコーはチュニジアが「歴史に恵まれた国」であることに触れており、「ハンニバルやアウグスティヌスが暮らしていた土地でもあるので、永住する価値がある」と述べていた[94]。フーコーの講義は人気があり、出席者が多かった。多くの学生がフーコーの講義に夢中になり、保守派の政治観であると考えていたものに対して批判的になり、フーコーを「ド・ゴール派のテクノクラシーの代表」として眺めていたが、フーコーは自身を左派として捉えていた[95]。

フーコーは1967年の反政府・親パレスチナの暴動がチュニスに衝撃を与えた頃のチュニスに滞在しており、その暴動は1年間続いていた。多数の抗議者による暴力、極右、反ユダヤ主義に対して批判的であったけれども、フーコーは自身の立場を用いて過激派左翼の学生の一部がアジで逮捕され拷問にあうことから救おうとしていた。フーコーは自宅の庭に学生の印刷物を隠して、学生に対する裁判で学生を擁護するために証言しようとしていたが、裁判が非公開になったためにそれはなくなった[96]。チュニスに滞在している間フーコーは執筆し続けていた。シュルレアリスムの画家であるルネ・マグリットとの文通に触発されて、フーコーは印象派の画家であるエドゥアール・マネについての本を執筆し始めていたが、それは未完に終わった[97]。

1968年にフーコーはパリに戻り、ヴォージラール通り沿いのアパートに引っ越していた[98]。フランスの五月革命以後、国民教育大臣であるエドガー・フォーレは自治を拡大した新たな大学を設立することによる教育改革を決定していた。この改革で最も有名なものはパリ郊外のヴァンセンヌにあるヴァンセンヌ実験大学であった。著名な研究者のグループに対してヴァンセンヌ実験大学を運営するための教員を選ぶようにとの要請があり、カンギレムは哲学部長としてフーコーを推薦していた[99]。ヴァンセンヌでテニュアを持った教員になり、フーコーの希望はその学部で「今のフランス哲学でのベスト」の布陣を敷くことであり、ミシェル・セール、ジュディス・ミラー、アラン・バディウ、ジャック・ランシエール、フランソワ・ルニョー、アンリ・ウェーバー、エティエンヌ・バリバール、フランソワ・シャトレを採用しており、彼らの多くはマルキストや極右活動家であった[100]。

1969年1月から大学での講義が始まったのだが、学生やフーコーを含むスタッフが占拠や警察との衝突に巻き込まれて、逮捕されてしまっていた[101]。2月にフーコーはミュチュアリテのカルチェラタンでの抗議活動に対する警察の挑発を非難する演説を行なっていた[102]。そのような活動はフーコーによる極左に対する支援として特徴付けられており[103]、確かにドフェールの影響であり、ドフェールはヴァンセンヌ実験大学社会学部で職を得ており、毛沢東主義者であった[104]。フーコーの哲学科で提供しているコースの多くはマルクス・レーニン主義を指向していたが、フーコー自身はニーチェの『形而上学の終焉』や『セクシュアリティの言説』のコースを担当しており、それらは人気が高く、定員を大幅に超過していた[105]。右派のプレスがこの新しい組織や制度を批判していたけれども、新しい国民教育大臣であるオリヴィエ・ギシャールはその理念の歪みや無試験であることに立腹しており、学生は何ら考えることなく学位を与えられていた。オリヴィエ・ギシャールは学位の国家認定を拒否しており、フーコーは公開の場で反論していた[106]。

3 その後の生活

3.1 コレージュ・ド・フランスと『監獄の誕生』:1970年-1975年

フーコーはヴァンセンヌ実験大学を離れることを希望して、コレージュ・ド・フランスの一員となった。フーコーはその一員となることに関して『思考システムの歴史』と呼ばれる講座を担当することを希望しており、そのフーコーの案はデュメジル、イポリット、ヴュイユマンから支持されることになった。1969年11月に公募が始まり、フーコーはコレージュの一員に選ばれることになったが、ラージ・マイノリティはその選出に反対していた[107]。1970年12月の講義がその初回になり、『言説表現の秩序』として出版されていた[108]。フーコーは年12週の講義を担当し、以後それが続くことになり、当時フーコーが研究していたトピックスを取り上げていた。フーコーの講義は「パリっ子の知的生活におけるひとコマ」になり、頻繁に定員を超えていた[109]。毎週月曜日にフーコーは学生向けのゼミを開いており、その多くが「フーコディアン」になり、フーコーと共に研究していた。フーコーは学生との共同研究を楽しんでおり、共同で多くの短編を出版していた[110]。コレージュでの研究はフーコーの活躍の場を広げることになり、ブラジル、日本、カナダ、アメリカで14年以上講演を行なっていた[111]。

1971年5月にフーコーは歴史家であるピエール・ヴィダル=ナケやジャーナリストであるジャン=マリー・ドームナクと共に監獄情報グループ(GIP)を共同設立していた。GIPの目的は監獄の劣悪な環境を調査し公開し、フランス社会で囚人や元囚人が発言権をもてるようにすることであった。彼らは刑罰のシステムに批判的であり、刑罰のシステムが軽犯罪を重罪に変えてしまうと考えていた[112]。GIPは記者会見を行い、他の刑務所の暴動に伴った1971年12月のトゥール刑務所の暴動についての出来事に対して抗議をしており、それを理由にして彼らは警察によるガサ入れや逮捕を味わうことになった[113]。GIPはフランス全土で活動しており、メンバーは2,000人から3,000人前後いたが、1974年以前に解散することになった[114]。死刑に反対するキャンペーンを行い、フーコーは処刑された殺人の加害者であるピエール・リヴィエールの事例についての短編を共著していた[115]。刑罰のシステムを研究しながら、1975年にフーコーは『監獄の誕生』を出版しており、西欧における監獄システムの歴史を描き出していた。伝記作家であるディディエ・エリボンは『監獄の誕生』をフーコーの著作の中で「最も秀逸なもの」として示しており、評論家の中でも好意的に受けとめられていた[116]。

またフーコーは反レイシズム運動に参加しており、1971年11月に明らかなレイシストがアラブからの移民であるドゥジュラリ・ベン・アリを殺害したことに対して抗議するリーダーの1人になった。この運動においてフーコーはかつてのライバルであるサルトル、ジャーナリストであるクロード・モーリアック、作家の1人であるジャン・ジュネとともに活動していた。この運動はル・コミテ・ドゥ・デファンス・ドゥ・ラ・ヴィ・エ・デ・ドゥロワ・デ・トラヴァイユール・イミグレ(CDVDTI)を形成していたが、フーコーが多くのアラブ人労働者や毛沢東主義者による反イスラエル感情に反論していたので、その会合にはある緊張が存在していた[117]。1972年12月に警察がアラブ人労働者であるモハメド・ディアブを殺害したことに対する抗議活動で、フーコーとジュネは逮捕されており、その経緯が広く世に知られることになった[118]。またフーコーはアージャンス・ドゥ・プレス・リベラシォン(APL)の設立に関与しており、それは左派のジャーナリストのグループであり、メインストリーム・メディアで無視されているニュースを伝えることを目的にしていた。1973年に彼らは日刊紙のリベラシオンを設立し、フーコーは彼らがニュースを収集し報道を提供するためにフランスをカバーするリベラシオン委員会を創設することを提案しており、『プー・ユヌ・クローニク・ドゥ・ラ・メモワール・ウーヴリエール』として知られるコラムを投稿し、労働者が意見を表明することを受け入れていた。フーコーは新聞に活動的なジャーナリズムを求めていたがその活動を擁護し切れないと考えてからリベラシオンに幻滅しており、その理由として報道が事実を歪めていることを指摘しており、1980年までコラムを投稿することはなかった[119]。

3.2 『性の歴史』とイラン革命:1976年-1979年

1976年にガリマール出版社はフーコーによる『性の歴史』を出版しており、その小著はフーコーが「抑圧に対する仮説」と呼んでいる枠組みを探求していた。その著作は権力の概念を巡る分析を展開しており、フーコーは精神分析や権力に対するマルキストの理論を否定していた。フーコーはそれらのテーマに対する7分冊の内の初めの1冊として『性の歴史』を位置付けていた[120]。それはベストセラーになりプレスから好意的な評価を受けていたが、一方で知識層の無関心がフーコーの悩みであり、彼らの多くはフーコーの仮説に対して誤解を抱いていた[122]。フーコーはシニアスタッフであるピエラ・ノヴァから不快感を与えられガリマール出版社に対して不満を抱くなるようになった[122]。ポール・ベイヌとフランソワ・ヴァールとともにフーコーはソイル社を通じて『デ・トラヴォー』として知られる専門書の新たなシリーズに着手しており、フランスにおけるアカデミズムの改善を願っていた[123]。またフーコーはエルキュリーヌ・バルバンによる手記の序文を書いていた[124]。

フーコーは政治的なアクティビストであり続け、国内外の政府による人権侵害を注視していた。フーコーはスペイン政府が公正な裁判を行わずに11名の過激派を処刑したことに対する1975年の抗議活動において中心的な役割を果たしていた。彼らは記者会見を行うために6名の仲間とともにマドリードに到着したが逮捕されパリに送還されることになった[126]。1977年にクラウス・クロワッサンを西ドイツに引き渡すことに抗議していたときに、フーコーは機動隊との衝突で肋骨を骨折していた[127]。また1977年7月にソ連の共産党書記長であるレオニード・ブレジネフがパリを訪問したことに合わせて、フーコーは東側の反体制派の集会を組織しており[128]、1979年にはベトナムの反体制派がフランスに亡命することに対して賛同を示す運動を展開していた[129]。

1977年にイタリアの新聞であるコリエーレ・デラ・セラはフーコーにコラムを依頼していた。そしてフーコーはイラン革命におけるブラック・フライデーの直後になる1978年にテヘランに渡っていた。イラン革命の展開を記事にしながら、フーコーはムハンマド・カゼム・シャリアトマダリやメフディー・バーザルガーンのような対抗勢力のリーダーに会うことを通じてイスラム主義に対する国民的な支持を見出していた[130]。フランスに帰国するとフーコーはルーホッラー・ホメイニーと会ったことのあるジャーナリストの1人になっており、それは再度テヘランを訪問する以前のことであった。フーコーによる記事はホメイニーによるイスラム主義運動に対する敬意を示しており、それを理由にリベラル派のイラン反体制派やフランスのメディアから批判を受けることになった。それに対するフーコーの回答はイスラム教が中東において大きな政治的影響力を有するべきであり欧米は敵対的な姿勢よりむしろ敬意をもってイスラム教に接するべきであるといったことであった[131]。1978年4月にフーコーは日本を訪問しており、上野原にある青苔寺で大森曹玄を通じて禅宗を研究していた[111]。

3.3 晩年:1980年-1984年

力関係に対する批判を継続していたけれども、フーコーは1981年の総選挙によって成立したフランソワ・ミッテランによる社会党政権に対する支援を自重しながら表明していた[132]。しかし社会党政権に対するフーコーの支援は社会党政権が1982年に行われた連帯によるデモに対するポーランド政府による弾圧を非難することを拒んだとき以降変質していった。フーコーと社会学者であるピエール・ブルデューはミッテランの不作為を非難する文書を執筆しており、それはリベラシオン紙上で公表され、フーコー達は社会党政権の不作為に対する幅広い抗議活動に参加していた[133]。フーコーは連帯に対する支援を継続しており、仲間であるシモーヌ・シニョレとともに「世界の医療団」のメンバーとしてポーランドに渡り、アウシュビッツ強制収容所を訪問していた[134]。またフーコーは学術調査を継続しており、1984年6月にガリマール出版社は『性の歴史』の第2巻と第3巻を出版していた。第2巻の『快楽の活用』は倫理に関連した古代ギリシアの一般市民の道徳によって規定されている「テクニーク・ドゥ・ソワ」を扱っており、第3巻の『自己への配慮』は西暦200年までのギリシアやローマのテクストにおける同様のテーマを探求していた。第4巻の『肉の告白』は初期のキリスト教における同じテーマを追求していたが、フーコーの死によって未完で終わった135]。

1980年10月にフーコーはUCバークレーの客員教授になり、「真実と主観性」について講義を行い、11月にはニューヨーク大学のヒューマニティーズ・インスティチュートで講義を担当していた。アメリカの知的サークルにおけるフーコーの人気はタイム誌によって取り上げられており、その当時1981年にフーコーはUCLAで講義を行なっており、1982年にはバーモント大学、1983年には再度バークレーで講義を担当しており、その講義は学生で満員であった[136]。カリフォルニアにいた頃フーコーはサンフランシスコ・ベイエリアのゲイ・シーンでよく夜を過ごし、サドマゾ・クラブによく通い、常連との関係が深かった。フーコーはゲイメディアにおけるインタビューの中でサドマゾを肯定しており、それを「新たな楽しみの一環」として認識していた[137]。この当時の関係を通じてフーコーはHIVに感染し、それがAIDSに至っていた。当時はそのウイルスについて分かっていることがほとんどなく、最初の症例は1980年になって漸く認識され始めていた[138]。1983年の夏にフーコーはよく空咳をしており、パリの友人は心配していたが、フーコー自身は単なる肺感染のせいだと主張していた[139]。入院して漸くフーコーは正式な病名を知らされ、抗生物質を処方される中、コレージュ・ド・フランスで連続最終講義を行なっていた[140]。フーコーはサルペトリエール病院に入院しており、『狂気の歴史』の中でその病院を研究していたのだが、1984年6月9日に敗血症に付随した神経症状を呈していた。そして6月25日にフーコーは病院で永眠につくことになった[141]。

6月26日にリベラシオン紙はフーコーの他界を公表しており、それがAIDSによってもたらされていたことに言及していた。翌日ルモンドはHIV/AIDSに言及していないがフーコーの家族によって明らかにされていた経緯についての記事を報じていた[142]。6月29日にフーコーの葬儀が行われ、棺は病院の安置室から運ばれていた。アクティビストや研究者を含む数百人が参列しており、ジル・ドゥルーズは『性の歴史』からの一節を引用しながら式辞を述べていた[143]。その亡骸はささやかにヴォンドゥーヴルの地に埋葬されていた[144]。その後フーコーのパートナーであったダニエル・ドフェールはフランスのHIV/AIDSに関する最初の組織であるAIDESを創設しており、その名称はフランス語で「援助(複数形)」を意味する「aides」と頭字語であるAIDSの語呂合わせに由来していた[145]。フーコーの一周忌にドフェールはカリフォルニアを拠点にしているゲイ・マガジンである『ジ・アドヴォカット』を通じてフーコーの死がエイズに関連していたことを公表していた[146]。

4 私生活

フーコーを最初に取り上げた伝記作家であるディディエ・エリボンはフーコーを「複雑で多面性のある個性の持ち主」として描いており、「常に1つの表情の下に別の表情が隠れている」とコメントしていた[147]。またエリボンはフーコーが「研究に対する大きな潜在能力」を顕在化させていると記していた[148]。ENSでのフーコーのクラスメートはフーコーを「常にごった煮を抱えた理解しづらい人物」もしくは「感情に突き動かされる労働者」と評していた[149]。しかしフーコーのパーソナリティーは年を取るにつれて変化を示しており、エリボンによればフーコーは「若さにもがいて」いたが、1960年代以降「輝き」を示してリラックスしながら周囲に幸せを与え始めており、一緒に仕事をしている人々によればダンディな存在であった[150]。1969年にエリボンはフーコーが「闘う知識人」の思想を体現していると記していた[151]。

フーコーはクラシックのファンで、特にヨハン・ゼバスティアン・バッハやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを好んでいた[152]。またフーコーはタートルネックのセーターを着ることでよく知られていた[153]。フーコーの死後、友人であるジョルジュ・デュメジルはフーコーのことを「深い思いやりをもちながら」、「文字通りの限界を知らない知性」を示してきた人間として描いていた[154]。

政治に関してフーコーは生涯を通じて左派の立場であったが、そのスタンスはしばしば変化していた。1950年代の前半においてフーコーはフランス共産党のメンバーであったが、正統派マルクス主義の視点に立ったことは一度もなく、3年後に共産党を去り、その理由として共産党内のハイアラーキーにおけるユダヤ人とLGBTに対する偏見に嫌悪感を抱いていたことが挙げられていた。当時ポーランド統一労働者党によって支配されていた社会主義国家であるポーランドでの勤務を経てフーコーは共産主義者のイデオロギーに対して一層幻滅することになった。その帰結として1960年代前半にフーコーは「強烈な反共産主義者」であるとして批判されていたが[155]、多くの学生や同僚とともにマルクス主義の運動に深く関与していた。

5 思想

フーコーの同僚であるピエール・ブルデューはフーコーの思想を「社会の限界を超える逸脱者の旅であり、いつも知識と権力を結びつけていた」と纏めていた[156]。

レディング大学の哲学者であるフィリップ・ストークスは、フーコーの仕事が「薄暗く悲観主義的」なものであるが、それは楽観論の余地を残していたと述べており、その理由として権力によって支配されている領域を強調するためにどのように哲学の訓練が活用されることができるのかをそれが示していることを挙げていた。ストークスによれば、哲学の訓練を通じて、私たちはどのように支配されているのかを理解することができるようになり、権力によって支配されるリスクを最小化する社会構造を構築するための努力を積み重ねることが可能になるといったことが指摘されていた[157]。この延長線上に細部に注意を払うことが含まれており、この細部が人々に個性をもたらしていた[158]。

5.1 文学

哲学に関する著作に加えて、フーコーは文学の仕事もしていた。1963年に『死と迷路 レーモン・ルーセルの世界』が出版され、1986年に英語に翻訳されていた。それは文学におけるフーコーの唯一の単行本であった。その著作についてフーコーは「イージーに楽しみながら短期間で書き上げることができた」と述べていた[159]。フーコーは実験的作品に関する最初の著者の1人であるレーモン・ルーセルのテクストを参照しながら理論、評論、心理学を探求していた。

6 影響

権力や言説に対するフーコーの議論は多くの評論家を触発しており、彼らは権力構造に対するフーコーの分析が不平等に対する闘いを支援していると考えていた。また彼らは、言説分析を通じてハイアラーキーが明らかにされ、ハイアラーキーを正当化している知識の該当分野を分析することによってそれに対する疑念が提起されるかもしれないと主張していた。このことはフーコーの仕事が批評理論に関連していることの表れの1つであった[160]。

2007年にフーコーはフランスの哲学者における「ISI Web of Science」によって人文科学における最も引用された研究者として認められており、「近代の学問に対してこれが示していることはその読者が価値を決定することであり、その評価は読者の視点によって賞賛から失望までさまざまなものになるであろうことが想像されている」とコメントされていた[161]。

6.1 批判

哲学者であるユルゲン・ハーバーマスはフーコーのことを隠れた規範主義者と呼んでおり、フーコーが脱構築している啓蒙時代の原理に暗に依拠していると批判していた(フーコーとハーバーマスの論争を参照せよ)。ハーバーマスが論じている問題の中心はフーコーが研究のアプローチに関してカントとニーチェの哲学の双方を維持しようとしていることの方法にあった。

哲学者であるリチャード・ローティはフーコーの『知の考古学』が基本的に悲観論であり、知の「新たな」理論や知そのものを打ち立てることに失敗していると論じていた。そしてむしろフーコーは歴史を理解することに関するいくつかの貴重な格言を与えており、そのことに関してローティはこう述べていた。

私が理解する限り、フーコーが成し遂げたことは過去を鋭く再度描写したことであり、史料編纂における古い仮定によってトラップに引っ掛かることを避ける方法についての有益なヒントを通じてその描写を補完していたことであった。具体的に言えばそれらのヒントは主に次のようなものであり、「歴史における進歩や意味を期待しないこと、過去の研究や文化のあらゆる要素に関する歴史を合理性や自由の帰結として認識しないこと、そのような研究の本質やその研究の目的を特徴付けるために哲学のボキャブラリーを用いないこと、現在の姿が過去の目標に対する手掛かりを与えていると考えないこと」であった[162]。

哲学者であるロジャー・スクルートンはフーコーが「まやかし」であり、その理由としてフーコーが「よく検討されていない前提を苦労を経た結論として示すために」哲学においてよく知られた問題を探求していたことを挙げていた[163]。

1988年にドイツの歴史家であるハンス=ウルリヒ・ヴェーラーはフーコーのことを激しく批判していた。ヴェーラーはフーコーのことを人文科学や社会科学から良い評価を間違って受けた間違った哲学者と見做していた。ヴェーラーによればフーコーの著作は経験的な歴史の側面において不十分であっただけでなく、しばしば矛盾を含んでおり、明晰さに欠けていた。例えばフーコーによる権力の概念は「しっかりと区分されておらず」、「学界」におけるフーコーの議論はヴェーラーによればフーコーが権威、影響力、権力、暴力、正当性を適切に区別していないときにのみ成立していることを指摘していた[165]。さらにフーコーの議論が論拠となるソースの一方的な選択に基づいており(監獄や精神病棟)、例えば工場のような対象を無視していると論じていた。またヴェーラーはフーコーの「フランス中心主義」を批判しており、その理由としてフーコーがマックス・ヴェーバーやノルベルト・エリアスのようなドイツ系の研究者を考慮に入れていなかったことを挙げていた。そしてヴェーラーはフーコーが「いわゆる実証研究における無数の不備を理由に挙げながら...知的な意味で誠実でなく、実証的に信頼できず、隠れた規範主義者であり、ポストモダニズムに魅了させる研究者」であるとして批判していた[166]。

啓蒙時代が始まる17世紀以降に自然法はその意義を認識され、その基盤は社会人類学にあり、「人間の本質」について言及していた。この人間像は、楽観主義(『統治二論』におけるジョン・ロック、社会契約論[人は生まれながらにして自由である...]におけるジャン=ジャック・ルソー)や悲観主義(トーマス・ホッブズやシャルル・ド・モンテスキュー‎)のいずれかを想定していた。そしていずれにせよ啓蒙時代の自然法では神の意志ではなく節度のある理性を想定していた。

前者では、「自然状態」が保たれるならば、楽観主義は自由で平等な人間の性質に由来しており、そのための基盤が求められていた。ルソーはあらゆる国家秩序のための基盤、「一般意志」における法の意味を認識しており、一般意志は国民の多数の意思と区別されなければならなかった。法は国家の横暴と対立する公益に含まれる自由に基づいていた。市民は生まれながらの自由を保護するために社会契約を結んでいた。そして絶対王政の支配からの解放が根底に存在していた。

後者では、悲観主義は悪意に満ちた人間に由来していた。悲観主義によれば人間は自然状態で他の人間に害をもたらしていた。そのため人間は人間から保護されなければならなかった。国家と法は社会の存立条件を保障しており、悪意に満ちた人間の自由を制限しており、一般市民のために個人の自由を抑圧しながら人間の自由を保護していた。したがってこの思想はパラドックスであり、前提条件を考慮する必要が存在していた。そしてこの悲観主義は保守派の思想の原型になっていた。

国家権力の正当性や法の妥当性の根拠は社会人類学から導かれており、それは国家組織の基盤になっており、あらゆる国家の行為についても同様であった。そして社会や人間の本性に関する想定を前提にして、法は効力を有していた。また規範の強制力は経験的な事実を背景にしていた。

自然法思想の基本構造は数百年にわたり大きく変化することがなかった。しかしその基盤となる人間像は変化していた。楽観的な視点や悲観的な視点に加えて、それらを融合した視点が登場しており、双方の視点が融合されていた(ジャン=ジャック・ルソーも同様であった)。

そして時代の変化とともにさまざまな形で自然法が登場していた。第二次世界大戦後、自然法は一方でラートブルフの定式の中に、他方で家族法に関する連邦裁判所の判決の中に登場していた。連邦通常裁判所民事判例集(BGHZ)の11や65において、その判決はドイツの家族像に関する非常に保守的な特徴を形成しており、男性と女性の間に存在している「当然の」差別の温床になっており、「あらゆる法に対して影響力を有した形で登場して」いた(ウヴェ・ベーゼルの『ユーリスティッシェ・ヴェルトクンデ(法の世界観)』、1984年、p72を参照)。

イマヌエル・カントの法哲学は1797年の『人倫の形而上学』の中に示されており、当時展開されていた社会人類学から法の内容や妥当性に対するいかなる推論をも導かないことによって、啓蒙時代の自然法によるアプローチと区別されていた。

デイヴィッド・ヒュームと同じくカントにとって「あるがままの姿とあるべき姿」の間に差が存在しており、それゆえ経験から示される人間の本性(あるがままの姿)からいかなる法や道徳におけるルール(あるべき姿)も導かれなかった(ヒュームの法則を参照せよ)。この点において自然法との違いが存在しており、法は(実践)理性に由来していた。そして経験主義と形而上学は法哲学において厳格に区別されていた。

自然法に対してカントは法の妥当性の基盤としての(政治的ないし物理的な)力を否定していた。カントにとって法はこの意味で偶然の産物や政治的産物(リアリズム法学における)ではなかった。またあらゆる法が正しいわけではないので、法の内容は特別な体裁を整えていなければならなかった。つまり法の内容は定言命法に従って(オトフリート・ヘッフェ)認識論にのみ基づいて決定されていた。少々奇妙だがこれと対照的に、カントによる抵抗権の否定は正当化できない規範に対する認識論を否定していた。

法実証主義は法に対する実証的な分析であった。この視点によれば、実定法のみがテーマとして取り上げられており、形而上学的に説明されるあるべき姿は除外されていた。そして国家権力(もしくは別の機関)による規範以外の法は存在していなかった。法規範は定められたプロセスを通じて形成されていた。したがって法実証主義は自然法の対極にあり、「排中律‎」とは異なっていた。

有名な法実証主義者の中には、ジェレミ・ベンサム、ジョン・オースティン、H・L・A・ハート(『法の概念』)、ジョセフ・ラズ、ノーベルト・ヘルスター、ハンス・ケルゼン(『純粋法学』)が含まれていた。

ハートによれば、法規範には2つのタイプがあり、一次的ルールは実体法を含み、二次的ルールは一次的ルールの形成を対象にしていた。一次的ルールは二次的ルールを満たしているときのみ有効であった。したがって、二次的ルールが有効であるための根拠に対する問題が生じており、正当化された規範が求められていた。ハンス・ケルゼンはいわゆる根本規範を通じてこの根拠に対する問題を解決していた。

近年、法実証主義はかなりの批判を浴びていた。その批判はアングロ・サクソンの国々で特に見受けられていた。第二次世界大戦について、新カント派のグスタフ・ラートブルフは、ナチスの犯罪に対して法実証主義が責任を有している(ラートブルフの定式に対する、H・L・A・ハートの『実証主義と法・道徳分離論』、71、ハーバード・ロー・レビュー 593(1958年)を参照せよ)と述べており、ドイツ連邦共和国基本法は純粋な法実証主義の概念に根差したものにはならなかった(法実証主義を拒絶していた)。したがって司法や行政は、ドイツ連邦共和国基本法の第20条第3項によって、法律のみならず「法と正義」によって支配されていた。1970年代から主にアメリカのロナルド・ドウォーキン(『権利論』)やドイツのロバート・アレクシー(『ベグリッフェ・ウント・ゲルトゥング・デス・レヒツ』)は純粋な法実証主義に対して反論を行っており、解釈を積極的に支持し、解釈は「ルール」や「権利」と同列であり、国家に対して国民はその解釈を引き合いに出すことが可能であり、解釈は国家の法律に対する抵抗権の根拠になっていた。しかしこの主張は部分的に法実証主義に反論しているにすぎず、大半の法実証主義は認識論における問題を取り上げるのみであり、「正しい法」に向きあっていなかった。

リアリズム法学が法を認識するときに、法は政治的な力の行使のための手段として眺められていた。そのため法は現実を反映しており、個人の利害によって変更される可能性が存在していた。法の目的は正義や「正しさ」を強調しておらず、特定の(政治的)目的を反映していた。

リアリズム法学の一例はニッコロ・マキャヴェッリ(『君主論』)やトマス・ホッブズ(『リヴァイアサン』)であり、彼らは人間を悲観的に眺めていた。

「真理でなく権威が法を作る」といった言葉はホッブズによるものであった。絶対王政の国家は、共同体の人々をその共同体の人々から守るために(人間は人間にとっての狼である)、全ての力を集めなければならなかった。国家のみがどの法を適用するのかを決定していた。そして実定法のみが存在していた。

このケースにおいて人間は悪であった。そのためマキャヴェッリにとって、貴族の力を支援している法は狡猾さの産物として認識されていた。

近年この見解は、アメリカ連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアのそれであり、「ザ・パス・オブ・ザ・ロー」(10、ハーバード・ロー・レビュー、457(1897年))の中に見受けられ、悪意のある人間が想定され、裁判所が論争中の法的論点を整理するときのように、法や正義の内容に対する関心を低下させていることが指摘されていた。これは論理的整合性を有した法的概念であり、「実際に裁判所が行っていることに対する想定は法に対する1つの考え方であった。」

ホームズの立場はシニカルなものではなく現実に根差したものであった。法は狡猾さの産物であり、国によって異なっていた。そのため法の執行に合わせて法的概念を定めることが必要であった。

この視点は法実証主義と並んでアングロ・サクソンにおける法哲学の大きな潮流であった。

近年、法実証主義や分析哲学に基づいて学際的に法理論が展開しており、それらは非常に多様であり、共通項を見出すことは不可能であった。そしてそれらは規範や社会を取り巻く状況から独立したシステムとしての法を論じている点で共通したアプローチを採用していた。またこれらは法に対する言説分析やシステム理論を包含していた(以下を参照せよ)。

そして規範に対する研究や言語哲学、意味論、記号論を通じた解釈がその出発点になっていた。またこれらは認識論や形式論を通じて法を理解することに立脚していた。ハンス=ヨアヒム・コッホやヘルムート・リュスマンは「法的根拠」に対するアプローチを展開していた。

これらの法理論は(実証主義では)明示できない非科学的なアプローチを採用している法の正当性を問題としておらず、法的概念や法的ルールの構造に対する研究、公理から派生されたシステマティックな秩序の問題を取り扱っていた。そしてユルゲン・レーディッヒ、アイク・フォン・サヴィニー、ノーベルト・ヘルスター、ロバート・アレクシーがその代表者として挙げられており、立法についての学説を形成していた。

したがってテーマは絶対的なものではなく、むしろ新たな展開を歓迎しており、法に対して意味を形成していれば、自然科学や医学からのアプローチも採用していた。

法に対する言説分析は新しいアプローチであり、いわゆる言説分析を基盤にしており、『コミュニケイション的行為の理論』の中でユルゲン・ハーバーマスによって展開されており、『事実性と妥当性――法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究』の中で完成度を高めていた。

言説分析の核心はいわゆる「理想的言論の状況」の形成にあり、すべての参加者が事実に触れることができ、平等に発言することができ、お互いに結果を共有しており、特定の言説によって形成される価値を考慮して、平等な「価値」のために一切不利に扱われることのない事実に即した主張に価値を置いていた。

そして法の価値は言説に依存した参加者のコンセンサスから影響を受けていた。

言説分析は社会的規範の価値に対するアプローチであり、現代の多元的な社会を想定していたが、あらゆるケースに該当するモデルを採用しておらず、あらゆる関係者がケースバイケースで議論に参加しながら、その結果を尊重することを必要としていた。

そしてこのアプローチは法に対して広く適用されていた。また司法を取り巻く状況について、合意つまり当事者間の「和解」を通じて解決される法廷外の紛争において言説分析における「理想的言論の状況」がほとんど実現されていないことが指摘されていた。さらに立法に関して別の問題が示されていた。

ロバート・アレクシーは『法的論証理論』の中で、司法判断が事実に即して適切に示されなければならないといった司法における言説に対して大きな期待を寄せていなかった。そして彼は多元的な言説を通じて立法や司法判断を認識していた。

最近100年の間に、法規制、司法的解決ないし行政上の決定による正義の実現に対してさまざまなアプローチが登場していた。

交換的正義と配分的正義の分類はアリストテレス(『ニコマコス倫理学、第5巻』)に由来していた。

交換的正義は権利の主体を同じ様に扱う状況を想定しており、それは、特に私法においては契約を通じて、他方で不法行為や不当利得に関する法を通じて実現されていた。相互の契約法(「合意は拘束する」)の意味における正義が求められており、権利の主体に及ぼされる損害に対して適切な補償が必要とされていた。

配分的正義は秩序を超越しており、公法のように、国民と国家のために存在していた。共同体における資産と負債の分配は合意による正義に基づく要求を満たしていなければならなかった。問題は例えば市民と企業の税負担や収入に応じた税を含んでおり、個々のケースを考慮しなければならなかった。またそれは平等の原則に関する問題を扱っていた。

そして正義の実現に対するプロセスが問題であった。裁判官の決定は「公正」であるべきであり、その関係者の利害関係や状況が「公正さ」を示さねばならなかった。国家は許容される目標のみ追求することが許されており、許容される手段のみを用いることが許されていた。しかしそれは公共部門に対してだけではなく、他の部門も同様であり、そうでなければ民間部門が他の民間部門に実際に力を行使するときに問題が生じる可能性が存在していた。現行法ではこのプロセスを比例原則として言及していた。

近年ジョン・ロールズによる『正義の理論』が注目を集めており、それはアングロ・サクソンの世界で優勢であった功利主義と異なり、正義を公正さの観点から眺めていた。

彼の理論は原初状態から始まっており、そこでは個々人について完全な平等が必要とされていた。そしてこの状態で社会契約が交わされていた。また不平等の原因は「無知のヴェール」によって覆い隠されていた。

ロールズは正義に関する2つの原理を主張していた。

各人は可能な限り幅広い市民権や自由を保持していなければならなかった。この原理は絶対的であったが、誰の権利も侵害していなかった。

また社会を構成するメンバー全員のためになるときのみに、社会的経済的不平等が正当化されていた。この基準は功利主義における「最大多数の最大幸福」ではなく、社会を構成するメンバー全員の福利であった。その社会的不平等はもっとも不遇な立場にあるメンバーを尊重しなければならなかった。そしてその不遇な立場にある人々に不利益をもたらしてはならなかった。またその不遇な立場にある人々の利益を向上させるときにのみ、不平等の利益が正当化されていた。したがってあらゆるメンバーが社会的な利益を有する立場に平等にアクセスできることを条件にしていた。

他方で法の経済分析によれば、合理的に振舞う人間は費用と便益の比較考量を通じて法的な決定を行っていた。例えば、効果のない方法でしか追求している目的を実現できないときのみに、合理的に振舞う人間は訴訟を用いていた。この場合の「効果」は投入する手段(資源)と具体的に達成される成果との比較の上で決定されていた。例えば、保護するべき羊が牧草地の草を食べ尽くす前に柵を設けることが隣に対して訴訟を起こすことよりも安価であれば、隣を尊重し、経済的に合理的な振舞いによって柵を設置するだろう。また、立法的な措置が有効であり目的を達成するために適しているか否かに対しても同様に、法の経済分析が役に立っていた。例えば環境法は経済的に振舞う汚染者に対して行動を変更することを促していた。しかし法の経済分析は環境法における規範に疑念を呈していた。果たして規範を逸脱することが汚染者にとって規範を遵守することより高く付くことになるのであろうか。そうでなければ、経済的に説明される規範の欠陥が環境汚染を促すことになるであろう。

規範に対する法の経済分析は法によって福利を向上させることを促していた。そして一般的な福利を向上させる法規範のみが「正当」であった。その出発点は「シカゴ学派」と呼ばれる経済学であった。個々のケースにおける「効率性」が「法理として」(アイデンミュラーの論文、1995年)認識されており、経済的な効率性が法秩序全体に対して求められていた。したがって法はある特定の社会目標つまり国民経済を向上させる目標を含んでいた。ポズナーは財産権にのみその正当性を認めており、財の分配に関する法が個々の社会的要求に依存せず経済的な便益を最大化させることに役立っていると考えていた。

当事者(訴訟を起こすべきか、不法行為に関わるべきかを考慮している)や裁判官の決定(訴訟を受理するべきか、棄却するべきかを考慮している)と同様に、行政が規範を遵守する判断を下すときに経済理論を援用できる可能性が存在していた。コッホやリュスマンによれば「司法的な根拠」に対する「便益」が法的な判断の際に考慮されていた。

特に社会全体に影響を及ぼす立法者の経済的な特徴が含意を形成していた。

法的責任に対するリスク(特に不法行為に伴う損害、善意取得、契約締結上の過失を通じた)を管理することによる「便益」は、例えば夫婦の観点から俯瞰するか裁判官の観点から俯瞰するかに依存することがない離婚による「便益」と比較すると小さいものであった。そして法の経済分析は経済法の中に明示されていた。例えばマイケル・アダムス(ベトリープス・ベラーター、1989年、781)による法の研究はよく知られており、マイケル・アダムスは契約の締結における当事者の「非対称な」利用可能情報を考慮した約款規制法を研究していた。

そして近年、法の経済分析の対象に公法が加えられており、行政法が注目されていた。

しかしアメリカにおいて法の経済分析は批判の対象となっていた。

法の経済分析に対する批判として、人間が経済合理性にのみ基づいて行動している訳ではないことが指摘されていた。そして法の経済分析は重要な点を欠落させており、それは法の経済分析が合理的行動のような経済的側面に限定されていることを理由にしていた。つまり問題を狭めて、法の内容や正当性をすべて経済効率に起因させていることが問題であった。モデルが取り上げていない側面として、例えば法感情(その法哲学はエルンスト・ブロッホに由来していた)や、法的な関係の形成による力の増大(政治的な力であれ経済的な力であれ個人の力であれ)を指向する意思が指摘されていた。そして宗教的な性格を有する人間は経済的便益を最大化せず、神の視線を意識するであろうとの視点が存在していた。しかし法の経済分析の研究者は、それらの説明には手段としての貨幣が果たす役割に着目した視点が欠落しており、数理経済学が説明するような想定が依然として存在していると理解していた。

また事例ごとに基準となる「便益」を定め、特定のアプローチを採用し比較することにも問題が存在していた。

法治国家は政治的な代表を制定した法によって民主的に選ぶことを内包していた。大多数の欧米の近代国家の基礎になっているモンテスキューによる権力分立の理論は三権(行政、立法、司法)の区別と相互牽制を含めていた。例えば議会民主制において立法府(議会)が行政府(政府)の権力を牽制しており、政府は勝手に行動できず、議会の意向を絶えず確認しなければならず、それは民意の表れであることが指摘されていた。同様に司法は行政的な決定に歯止めをかけていた(特にカナダにおいては「権利および自由に関するカナダ憲章」に基づいていた)。したがって法治国家は基本的権利を軽視する絶対王政、王権神授説、独裁制と対立していた。そして法治国家の憲法は必ずしも成文の体裁をとっていなかった。例えばイギリスの憲法は慣習を基にしており、成文規定を有していなかった。このような法体系において、政治的な代表は慣習法を尊重しなければならず、それは成文法と同様であった。

歴史を遡れば、法治国家は制度化されたシステムであり、公権力は法を遵守しなければならなかった。オーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンは20世紀初頭のドイツ由来の法治国家の概念を再度定義し、「国家の法規範は公権力を制限する目的で階層化されていた。」

このモデルでは、各規範は上位にある規範を満たすことによってその正当性を維持していた。

そして規範のハイアラーキーは法治国家を維持するシステムの一部であると考えられていた。

規範のハイアラーキーを通じて、国家のさまざまな機関の権限は明確に定義されており、制定された規範は上位に位置する法規範を遵守しているときにしか効力を有していなかった。このピラミッドの頂点にある憲法は法や規制による国際協調を念頭に置いており、ピラミッドの底部には行政的な決定や私人間の契約が存在していた。

法システムは法的主体にとって不可欠の存在であった。個人同様に国家は合法性の原理を軽視することができなかった。上位にある規範を尊重しないあらゆる規範や決定は法的制裁を招きやすかった。そして法を制定する権限を有する国家は、法的ルールを順守することによって、規制する権能に対する承認を受ける必要があった。

規範のハイアラーキーは規範を遵守する法的主体を平等に扱うことを想定していた。

法の下の平等ないし政治的権利の平等は法治国家であるための二番目の条件であった。実際法の下の平等は法的規範が上位の規範を満たしていないときにあらゆる個人や組織が法的規範の適用に異議を申し立てることができることを含意していた。したがって個人や組織は法的主体としての地位を有していた。まず自然人、次に法人に対してその言及がなされていた。

国家は法人に含まれ、国家による決定は法人と同じく合法性の原理に支配されていた。合法性の原理の遵守は立憲主義を尊重する合法性の原理に従わせることを通じて公権力の行動に枠をはめていた。この点において国家より上位に位置する法的な制約は大きな力を有していた。制定されたルールや決定は上位にある規範(法、国際的な合意、憲法)を尊重しなければならず、裁判所から特別の扱いを受けたり、慣習法の適用を除外されることもできなかった。私法における自然人や法人は公権力の決定に異論を申し立てることができ、制定された規範を通じて対抗することも可能であった。この点において裁判所の役割は重要なものであり、裁判所の独立は絶対不可欠であった。

実際に法治国家は、人々の紛争を解決する権限を有しており独立した司法の存在を想定しており、規範のハイアラーキーに由来する合法性の原理を尊重しており、合法性の原理は法人を特別扱いすることを認めていなかった。

そして法治国家は権力分立や司法の独立を想定していた。実際には司法機関は国家の一部を構成していたため、立法府や行政府から司法が独立していることによって法規範の適用における公平性を担保していた。

また裁判所は合法性を判断する規範を尊重しており、それはハイアラーキーの上部に位置するルールに適合するか否かを含めていた。

国際協定に照らして国内の規範の妥当性を認めることは、矛盾があるときに裁判官がその規範を適用しないことを許容しており、これは国際協定を通じた審査であった。また憲法に対する法の妥当性は、付託されていれば憲法院によって審査されることになり、これはすなわち合憲性の審査であった。したがって法治国家は国際協定を通じた審査や合憲性審査の存在を想定していた。

法治国家は理論的なモデルであったが、他方で政治的なテーマでもあり、今日では民主制の大きな特徴であると考えられていた。法を通じて政治や社会における組織のルールを優先するならば、それは合法性の原理を遵守していなければならなかった。そして法治国家はこのモデルを採用している各国の裁判所の役割を拡大させていた。

一方で法治国家はしばしば民主主義と混同されていた。実際には各レジームがどの程度法治国家を尊重しているのかがどの程度民主主義を尊重しているのかと必然的に関連している訳ではなかった。

例えばロシアがツァーリズムからソビエト体制に移行したときに法治国家の枠組みを強化したように、フランスは革命期から帝政期に移行したときに法治国家の枠組みを揺るぎないものにしていた。

『法の精神』の中でモンテスキューは、王が既存の法や行動の範囲を規定する不文憲法を尊重している点で、君主制を独裁制と区別していた。この点において君主制は独裁制より法治国家の色彩が強かった。

また現代の中国は法治国家の体裁を緩やかに採用していたが、そのレジームが民主主義へ向かうとは思われていなかった。

規範のハイアラーキーは法学者であるハンス・ケルゼン(1881-1973)によって提唱され、ハンス・ケルゼンは『純粋法学』の著者であり、法実証主義の提唱者であり、道徳や自然法に依存しない法の基盤を築き(価値中立、つまり想定された主観や道徳的な先入観から独立した)、法律学を展開させていた。ケルゼンによれば、あらゆる法規範は上位にある規範を遵守することで正当性を獲得しており、そこにハイアラーキーが形成されていた。規範の影響が大きければ、その数が減少し、規範の位置付け(通達、規則、法律、憲法)がピラミッド状であることから、この理論は規範のピラミッドとも呼ばれていた。

規範のハイアラーキーは一面では「固定化」されており、それは下位にある規範が上位にある規範を遵守しなければならなかったことを背景にしていたが、他方で「変更可能」な存在であり、それは、上位にある規範によって制定されたルールによって、規範が修正される可能性を存在させていたことを背景にしていた。そして憲法はピラミッドの頂点にあり法システムの内部に存在している規範であった。また憲法は上位にある規範やその時に存在していない規範に由来する内容を除いて法的義務を有していなかったので、そこにケルゼンは「根本規範」の概念を想定し、根本規範は法理論と矛盾しない性質を与えるために想定された方法論で構成されていた。

規範のハイアラーキーについての理論は「硬性」憲法にしか適用されていなかった。「軟性」憲法を採用している国家において一般的に憲法は、法律と同様に慣習法を採用する機関によって起草され投票を経て修正されていた。そして「硬性」憲法と「軟性」憲法は同一の法的価値を有しており、憲法は法律より下位に存在していなかった。他方で「硬性」憲法を採用している国家において、憲法は特定の機関(政府やワークグループ)によって起草され立法府による投票を経て、国民投票によって採択されていた。その改正手続は一般的に特定の機関や国民を介在させており、それらが憲法制定権力を有していた。また硬性憲法は特別な法的効力を有しており、それは他の規範より上位にあり、尊重されなければならなかった。

規範のハイアラーキーを研究している法学者の多くは合憲性審査基準の中に補助的な審査基準を含めており、無神論者にとって、その審査基準は「自然法」と呼ばれており、信仰を有する人々にとって、それは「神の法」と呼ばれていた。

違法性の抗弁は一般の裁判官によって行われていた。ある法規範に対する違憲性の懸念が訴訟を促し、その抗弁が検討に付されていた。このケースにおいて裁判官が抗弁された規範が違憲であると判断するならば、その規範を適用しない可能性が存在していた。しかしその規範が無効になることはなく、最高裁判所によるものでない限り、その判例が他の裁判所によって採用される可能性もなかった。このタイプの抗弁は例えばアメリカで見られていた。

問題に該当する規範が違憲であることを示しその法律効果を無効にするために、特別な機関が設置されていた。

1958年以前の憲法では、憲法や国際条約が法律より優越されながらも、立法府が最高機関であった。またいかなる裁判所も憲法や国際条約が有する超立法的性質を明示することがなかった。しかし1958年以後、憲法が法律より優越されることが、立法府が根本規範を遵守していることを審査する憲法院によって明示されることになった。

学説における重要な判決はフランス法が容認しているEU法のハイアラーキーに含まれていた。

そして、2004年6月10日のLCENに関する憲法院の決定は「EU法を国内法に置き換えることが憲法上の要請であり、明文の規定を考慮すると、憲法に反するときしかEU法は国内法の障害とならない」ことを示していた。

規範のハイアラーキーはEU法の将来の変化にしたがって判例を変更するかもしれない判決に影響を及ぼしていた。

現在の判例はフランスで批准されている国際法に対する憲法の優越に価値を認めており、1998年10月30日のサランとルヴァシェールのコンセイユ・デタの判決は原則に回帰していた。「フランス憲法55条によって示される国際条約に付与されている優越は、国内法の枠組みの中では、憲法の規定に対して適用されることがなかった。」

憲法は規範のハイアラーキーの頂点に位置していたが、そのハイアラーキーの基盤も構成していた。そして、法律はハイアラーキーの上位にあり効力を有するルールを遵守していた。また権力は権力が生み出す規範より上位の規範にしたがっていた。したがって立法権を有する機関は憲法にしたがっており、行政権は法律を遵守せねばならず、規範のハイアラーキーに含まれていた。このシステムは法治国家として認められており、法治国家はあらゆる個人や法人が法を遵守することを含意していた。

ロベスピエールやサン=ジュストは、立法権に対して司法権が干渉するように民主主義の枠組みの中で法律を用いることや、権力の分立を容認していなかった。そして上位にある規範を適用することを必要としていた(憲法のように)。

アメリカにおいて判例は大きな価値を有しており、裁判官(最高裁判所を除いて)は国民によって選任されており、彼らは国家や裁判所のルールを順守していた。

そして憲法が国際法より優位にあるとの判決によって国境を超えた訴訟が懸念されていた。これはキューバについて当てはまり、キューバは「知性の産物は制約を受けることがなく、あらゆる人々の財産である」ことを理由にして、著作物に対して金銭的な支払いを行うことを容認していなかった。

法律より国際条約や国際協定が優越されることはニコロ判決(1989年10月20日)によって認められており、「法律遮蔽」の理論を放棄し、国際条約に対する事後的な法律の規定を国際条約の下に置いていた(1968年5月、フランスのデュラム小麦における製造業者組合についての判決)。コンセイユ・デタはEU法の派生法に対してニコロ判決を敷衍させており、法律よりEU法(1990年9月24日、ボワデ判決)や欧州連合指令(1992年2月28日、S・A・ロスマン判決もしくはS・A・フィリップ・モリス判決)を優越させていた。しかしながら国際条約に対する憲法の優越(規範のハイアラーキーの頂点にある)は再度明示されていた(1998年10月30日、サランとルヴァシェールの判決)。他方で欧州司法裁判所の判決(ECJ、1978年3月9日、シンメンタール判決)は、国内法よりEU法や派生法を優越させており、国内の憲法も同様に扱っていた。しかし現在この判決はフランスの憲法に当てはまっていなかった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、ドイツ、フランスのWikipediaの「法哲学」、「法治国家」、「規範のハイアラーキー」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://de.wikipedia.org/wiki/Rechtsphilosophie

法哲学

法哲学は哲学の一部であり、法に関する基本的な問題を取り扱っていた。法哲学の問題には次のようなものが存在していた。

何が法であるのか。

「正義」と「法」はどのような関係にあるのか。

法規範と社会規範は道徳に対してどのような関係にあるのか。

法の中身はどのようなものか。

法規範はどのように生じたのか。

法が有する影響力の根拠は何であるのか(法的拘束力について)。

「法哲学」と「法」はどのような関係にあるのか。

法と道徳の関係、法規範の構造、法的拘束力に関するいくつかの問題は、19世紀中頃以降の法哲学と歩みを共にしていた。そして数世紀にわたる「一般法学」は、法哲学とは別の分野を形成していた。また法哲学と法理論の関係が細部にわたって議論されていた。

この「法哲学」の項目は、(ヨーロッパの法秩序やアングロアメリカの法のような)西洋の法システムにおける法哲学を取り扱い、他の法システムを取り扱わない(イスラム法の貢献など)。

1 テーマとその射程

法哲学は哲学の知識や方法論を援用しており、特に科学哲学や論理学、法を対象とした言語学や記号学を援用していた。ユルゲン・ハーバーマスやロバート・アレクシーによれば最近の事例として法的推論に対して言説理論を援用することが挙げられていた。そして近年、法理論についての言及が増加していたことから、法理論と法哲学を区別することが困難になっていた。

法哲学が扱うテーマは単なる法の応用分野(法律学の方法論)や法制度に対する社会的アプローチ(法社会学を参照せよ)に収まっていなかった。歴史的観点から法制史が法の展開を検証していた。また対照的に法理は現在の実定法における構造や要素を説明していた。

法哲学が扱うテーマは多岐にわたっていた。

法の概念。

社会に影響する法の意味。

法の中身に対する論評(ルドルフ・シュタムラーの意味で「正しい法」を見出すこと)。

どういった前提のもとで法規範が拘束力を有するのか(法的効力)。

何が法規範に拘束力をもたらすのか。

特に法の概念を巡る論争に、他の分野や基礎法学由来の考え方がつねに導入されていた。そのため他の哲学、法学、社会科学から厳密に区別することは不可能であった。

法哲学や政治学といった分野は国家理論(政治哲学)としての側面を有していた。そしてそれは法哲学が国家哲学以上の存在であり、法理論として法が研究されており、国家との関連のみに収まっていなかったことを理由にしていた。その一方で、個々の法哲学や個々の法理論は国家に関する基本的な仮定(国家の形態、統治、立法過程)を想定しており、その仮定は法の基盤や機能を説明していた。全体主義国家において法は民主主義国家とは別の機能を有しており、別の形式や内容を体現していた。

2 法哲学の方向性

次のように法哲学の方向性は示されていた。

2.1 自然法

自然法の思想家はさまざまな方法で数世紀にわたり自然法を議論していた。特に啓蒙時代が始まる17世紀以降に、自然法はその意義を認識され始めていた。

自然法の議論はつねに経験に依存していた。その基盤は社会人類学にあり、「人間の本質」について言及していた。この人間像は、楽観主義(『統治二論』におけるジョン・ロック、社会契約論[人は生まれながらにして自由である...]におけるジャン=ジャック・ルソー)や悲観主義(トーマス・ホッブズやシャルル・ド・モンテスキュー‎)のいずれかを想定していた。そしていずれにせよ啓蒙時代の自然法では神の意志ではなく節度のある理性を想定していた。

前者では、「自然状態」が保たれるならば、楽観主義は自由で平等な人間の性質に由来しており、そのための基盤が求められていた。ルソーはあらゆる国家秩序のための基盤、「一般意志」における法の意味を認識しており、一般意志は国民の多数の意思と区別されなければならなかった。法は国家の横暴と対立する公益に含まれる自由に基づいていた。市民は生まれながらの自由を保護するために社会契約を結んでいた。そして絶対王政の支配からの解放が根底に存在していた。

後者では、悲観主義は悪意に満ちた人間の性質に由来していた。悲観主義によれば人間は自然状態で他の人間に害をもたらしていた。そのため人間は人間から保護されなければならなかった。国家と法は社会の存立条件を保障しており、悪意に満ちた人間の自由を制限しており、一般市民のために個人の自由を抑圧しながら人間の自由を保護していた。したがってこの思想はパラドックスであり、前提条件を考慮する必要が存在していた。そしてこの悲観主義は保守派の思想の原型になっていた。

国家権力の正当性や法の妥当性の根拠は社会人類学から導かれており、それは国家組織の基盤になっており、あらゆる国家の行為についても同様であった。そして社会や人間の本性に関する想定を前提にして、法は効力を有していた。また規範の強制力は経験的な事実を背景にしていた。

自然法思想の基本構造は数百年にわたり大きく変化することがなかった。しかしその基盤となる人間像は変化していた。楽観的な視点や悲観的な視点に加えて、それらを融合した視点が登場しており、双方の視点が融合されていた(ジャン=ジャック・ルソーも同様であった)。

さらに関連した代表的な人物の中にクリスティアン・トマジウス、クリスチャン・ウォルフ、ザミュエル・フォン・プーフェンドルフが含まれていた。エルンスト・ブロッホは、マルクス主義に由来する「自然法や人間を尊重する考え方」において、人は生まれながらにして「自由で平等である」といった見解に反対しており、「生まれながらの権利など存在しておらず、すべてが獲得されたものであるか、闘争を通じて獲得されたものであると主張していた」。

そして時代の変化とともにさまざまな形で自然法が登場していた。第二次世界大戦後、自然法は一方でラートブルフの定式の中に、他方で家族法に関する連邦裁判所の判決の中に登場していた。連邦通常裁判所民事判例集(BGHZ)の11や65において、その判決はドイツの家族像に関する非常に保守的な特徴を形成しており、男性と女性の間に存在している「当然の」差別の温床になっており、「あらゆる法に対して影響力を有した形で登場して」いた(ウヴェ・ベーゼルの『ユーリスティッシェ・ヴェルトクンデ(法の世界観)』、1984年、p72を参照)。

2.2 カント

イマヌエル・カントの法哲学は1797年の『人倫の形而上学』の中に示されており、当時展開されていた社会人類学から法の内容や妥当性に対するいかなる推論をも導かないことによって、啓蒙時代の自然法によるアプローチと区別されていた。

デイヴィッド・ヒュームと同じくカントにとって「あるがままの姿とあるべき姿」の間に差が存在しており、それゆえ経験から示される人間の本性(あるがままの姿)からいかなる法や道徳におけるルール(あるべき姿)も導かれなかった(ヒュームの法則を参照せよ)。この点において自然法との違いが存在しており、法は(実践)理性に由来していた。そして経験主義と形而上学は法哲学において厳格に区別されていた。

自然法に対してカントは法の妥当性の基盤としての(政治的ないし物理的な)力を否定していた。カントにとって法はこの意味で偶然の産物や政治的産物(リアリズム法学における)ではなかった。またあらゆる法が正しいわけではないので、法の内容は特別な体裁を整えていなければならなかった。つまり法の内容は定言命法に従って(オトフリート・ヘッフェ)認識論にのみ基づいて決定されていた。少々奇妙だがこれと対照的に、カントによる抵抗権の否定は正当化できない規範に対する認識論を否定していた。

2.3 ヘーゲル

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、絶対的に正しい方法を通じた「客観的精神」の概念によって、彼の「法哲学」の中に自由の概念を位置付け、社会における自由意志の実現に言及していた(『法の哲学』)。ヘーゲルの法思想は、自治を相互に承認することから展開されており、さまざまな方法で、ノーベルト・ヘルスター、ギュンター・ヤコブス、クルト・ゼールマン達に影響を及ぼしていた。ヘーゲルによる法解釈は法治国家を論ずる思想の伝統に連なっていた。

2.4 ラートブルフ

グスタフ・ラートブルフの『法哲学』(1932年)は法哲学のモデルであり、民主的な憲法にしたがったドイツ法の枠組みの中で教えられていた。

ラートブルフの法哲学は新カント派に由来しており、あるがままの姿とあるべき姿に隔たりが存在していることに由来していた。したがって価値は明示されておらず、人が価値を認識するのみであった。そしてラートブルフはさらなる方法論を主張しており、法を含む科学は自然や理想的な価値から経験科学へとシフトしていた。また法哲学は哲学の一部であった。

ラートブルフにとって法の理念は正義を体現したものであった。これは平等、合目的性、法的安定性を含んでいた。

有名なラートブルフの定式によれば、「法が不正であるときに、実定法を優先させることを念頭におきながら、正義と法的安定性との対立が解決されなければならなかった。そして正義が「悪法」に屈服し、正義の対極にある法が許容できるレベルを超えているケースにおいて、法は効力を有さなかった。」 また法に関する「最低限の倫理」について言及がなされていた。

2.5 法実証主義

法実証主義は法に対する実証的な分析であった。この視点によれば、実定法のみがテーマとして取り上げられており、形而上学的に説明されるあるべき姿は除外されていた。そして国家権力(もしくは別の機関)による規範以外の法は存在していなかった。法規範は定められたプロセスを通じて形成されていた。したがって法実証主義は自然法の対極にあり、「排中律‎」とは異なっていた。

有名な法実証主義者の中には、ジェレミ・ベンサム、ジョン・オースティン、H・L・A・ハート(『法の概念』)、ジョセフ・ラズ、ノーベルト・ヘルスター、ハンス・ケルゼン(『純粋法学』)が含まれていた。

ハートによれば、法規範には2つのタイプがあり、一次的ルールは実体法を含み、二次的ルールは一次的ルールの形成を対象にしていた。一次的ルールは二次的ルールを満たしているときのみ有効であった。したがって、二次的ルールが有効であるための根拠に対する問題が生じており、正当化された規範が求められていた。ハンス・ケルゼンはいわゆる根本規範を通じてこの根拠に対する問題を解決していた。

近年、法実証主義はかなりの批判を浴びていた。その批判はアングロ・サクソンの国々で特に見受けられていた。第二次世界大戦について、新カント派のグスタフ・ラートブルフは、ナチスの犯罪に対して法実証主義が責任を有している(ラートブルフの定式に対する、H・L・A・ハートの『実証主義と法・道徳分離論』、71、ハーバード・ロー・レビュー 593(1958年)を参照せよ)と述べており、ドイツ連邦共和国基本法は純粋な法実証主義の概念に根差したものにはならなかった(法実証主義を拒絶していた)。したがって司法や行政は、ドイツ連邦共和国基本法の第20条第3項によって、法律のみならず「法と正義」によって支配されていた。1970年代から主にアメリカのロナルド・ドウォーキン(『権利論』)やドイツのロバート・アレクシー(『ベグリッフェ・ウント・ゲルトゥング・デス・レヒツ』)は純粋な法実証主義に対して反論を行っており、解釈を積極的に支持し、解釈は「ルール」や「権利」と同列であり、国家に対して国民はその解釈を引き合いに出すことが可能であり、解釈は国家の法律に対する抵抗権の根拠になっていた。しかしこの主張は部分的に法実証主義に反論しているにすぎず、大半の法実証主義は認識論における問題を取り上げるのみであり、「正しい法」に向きあっていなかった。

2.6 リアリズム法学

リアリズム法学が法を認識するときに、法は政治的な力の行使のための手段として眺められていた。そのため法は現実を反映しており、個人の利害によって変更される可能性が存在していた。法の目的は正義や「正しさ」を強調しておらず、特定の(政治的)目的を反映していた。

リアリズム法学の一例はニッコロ・マキャヴェッリ(『君主論』)やトマス・ホッブズ(『リヴァイアサン』)であり、両者は人間を悲観的に眺めていた。

「真理でなく権威が法を作る」といった言葉はホッブズによるものであった。絶対王政の国家は、共同体の人々をその共同体の人々から守るために(人間は人間にとっての狼である)、全ての力を集めなければならなかった。国家のみがどの法を適用するのかを決定していた。そして実定法のみが存在していた。

このケースにおいて人間は悪であった。そのためマキャヴェッリにとって、貴族の力を支援している法は狡猾さの産物として認識されていた。

近年この見解は、アメリカ連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアのそれであり、「ザ・パス・オブ・ザ・ロー」(10、ハーバード・ロー・レビュー、457(1897年))の中に見受けられ、悪意のある人間が想定され、裁判所が論争中の法的論点を整理するときのように、法や正義の内容に対する関心を低下させていることが指摘されていた。これは論理的整合性を有した法的概念であり、「実際に裁判所が行っていることに対する想定は法に対する1つの考え方であった。」

ホームズの立場はシニカルなものではなく現実に根差したものであった。法は狡猾さの産物であり、国によって異なっていた。そのため法の執行に合わせて法的概念を定めることが必要であった。

この視点は法実証主義と並んでアングロ・サクソンにおける法哲学の大きな潮流であった。

3 現在における法理論の方向性

3.1 概説

近年、法実証主義や分析哲学に基づいて学際的に法理論が展開しており、それらは非常に多様であり、共通項を見出すことは不可能であった。そしてそれらは規範や社会を取り巻く状況から独立したシステムとしての法を論じている点で共通したアプローチを採用していた。またこれらは法に対する言説分析やシステム理論を包含していた(以下を参照せよ)。

そして規範に対する研究や言語哲学、意味論、記号論を通じた解釈がその出発点になっていた。またこれらは認識論や形式論を通じて法を理解することに立脚していた。ハンス=ヨアヒム・コッホやヘルムート・リュスマンは「法的根拠」に対するアプローチを展開していた。

これらの法理論は(実証主義では)明示できない非科学的なアプローチを採用している法の正当性を問題としておらず、法的概念や法的ルールの構造に対する研究、公理から派生されたシステマティックな秩序の問題を取り扱っていた。そしてユルゲン・レーディッヒ、アイク・フォン・サヴィニー、ノーベルト・ヘルスター、ロバート・アレクシーがその代表者として挙げられており、立法についての学説を形成していた。

したがってテーマは絶対的なものではなく、むしろ新たな展開を歓迎しており、法に対して意味を形成していれば、自然科学や医学からのアプローチも採用していた。

3.2 法に対する言説分析

法に対する言説分析は新しいアプローチであり、いわゆる言説分析を基盤にしており、『コミュニケイション的行為の理論』の中でユルゲン・ハーバーマスによって展開されており、『事実性と妥当性――法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究』の中で完成度を高めていた。

言説分析の核心はいわゆる「理想的言論の状況」の形成にあり、すべての参加者が事実に触れることができ、平等に発言することができ、お互いに結果を共有しており、特定の言説によって形成される価値を考慮して、平等な「価値」のために一切不利に扱われることのない事実に即した主張に価値を置いていた。

そして法の価値は言説に依存した参加者のコンセンサスから影響を受けていた。

言説分析は社会的規範の価値に対するアプローチであり、現代の多元的な社会を想定していたが、あらゆるケースに該当するモデルを採用しておらず、あらゆる関係者がケースバイケースで議論に参加しながら、その結果を尊重することを必要としていた。

そしてこのアプローチは法に対して広く適用されていた。また司法を取り巻く状況について、合意つまり当事者間の「和解」を通じて解決される法廷外の紛争において言説分析における「理想的言論の状況」がほとんど実現されていないことが指摘されていた。さらに立法に関して別の問題が示されていた。

ロバート・アレクシーは『法的論証理論』の中で、司法判断が事実に即して適切に示されなければならないといった司法における言説に対して大きな期待を寄せていなかった。そして彼は多元的な言説を通じて立法や司法判断を認識していた。

3.3 オートポイエーシス的システムとしての法

近年における法理論の新たな展開は「オートポイエーシス的システム」として法を解釈したものになり、ニクラス・ルーマンによる社会システム理論に基づいていた。そしてルーマンは『社会の法』の中でその理論を示していた。またそこでは法社会学が問題とされており、隣接分野と法理論との関連が示されていた。

ルーマンによる法の社会学的解釈(例えばシステム)は実際のアクター(ステークホルダー、法学者、法律家、裁判官)をアクションの担い手としていた。彼の理論は高度に抽象化され、法の執行に対する視点を存在させていた。またアクター間の「コミュニケーション」が法システムの中に含まれ、ルーマンは「合法」と「違法」の差を「法システム」の中に含めていた。

結果として、法システム(アクター間のコミュニケーション)の自己再生産が行われていた。そしてこの法システムは絶えず更新されていた。つまり法規範が適用され、その法規範が妥当であるケースとそうでないケースがあり、法規範に変更が加えられ、判決が言い渡され、行政文書が公開されていた。このプロセスは言い換えるならば絶えざる「自触媒反応」ないしは法のオートポイエーシスとして示されていた。

ルーマンは概念としてサイバネティックスのモデルを用いており、従来とは別の意味で生物学のシステムを利用しており、特に「生命」や新陳代謝の一環としてエコロジーのモデルを通じて抽象的な説明を行なっていた。「生命」の自己再生(自己参照)は個体にフォーカスせず、生命の「コミュニケーション」や化学反応に注目していた。

他方でそのような説明が不完全であるとの批判が存在していた。個々の当事者/アクター/法曹関係者を考慮しないことによって、この法理論は法を自己目的化したものとして把握していた。根本的な規範は人間の尊厳の尊重を含んでいたが、それはただの抽象的な原理ではなく、その価値観を個々人のためにケースごとに明示しなければならなかった。この問題は根本的な法を研究する際に特に重要であったが、法理論の認識価値を損なわせる方へ作用していた。

ニクラス・ルーマンによる部分的に高度で抽象的な用語を用いた全体像は社会システムや法システムについての理論を示していた。

3.4 正義の理論

最近100年の間に、法規制、司法的解決ないし行政上の決定による正義の実現に対してさまざまなアプローチが登場していた。

交換的正義と配分的正義の分類はアリストテレス(『ニコマコス倫理学、第5巻』)に由来していた。

交換的正義は権利の主体を同じ様に扱う状況を想定しており、それは、特に私法においては契約を通じて、他方で不法行為や不当利得に関する法を通じて実現されていた。相互の契約法(「合意は拘束する」)の意味における正義が求められており、権利の主体に及ぼされる損害に対して適切な補償が必要とされていた。

配分的正義は秩序を超越しており、公法のように、国民と国家のために存在していた。共同体における資産と負債の分配は合意による正義に基づく要求を満たしていなければならなかった。問題は例えば市民と企業の税負担や収入に応じた税を含んでおり、個々のケースを考慮しなければならなかった。またそれは平等の原則に関する問題を扱っていた。

そして正義の実現に対するプロセスが問題であった。裁判官の決定は「公正」であるべきであり、その関係者の利害関係や状況が「公正さ」を示さねばならなかった。国家は許容される目標のみ追求することが許されており、許容される手段のみを用いることが許されていた。しかしそれは公共部門に対してだけではなく、他の部門も同様であり、そうでなければ民間部門が他の民間部門に実際に力を行使するときに問題が生じる可能性が存在していた。現行法ではこのプロセスを比例原則として言及していた。

近年ジョン・ロールズによる『正義の理論』が注目を集めており、それはアングロ・サクソンの世界で優勢であった功利主義と異なり、正義を公正さの観点から眺めていた。

彼の理論は原初状態から始まっており、そこでは個々人について完全な平等が必要とされていた。そしてこの状態で社会契約が交わされていた。また不平等の原因は「無知のヴェール」によって覆い隠されていた。

ロールズは正義に関する2つの原理を主張していた。

各人は可能な限り幅広い市民権や自由を保持していなければならなかった。この原理は絶対的であったが、誰の権利も侵害していなかった。

また社会を構成するメンバー全員のためになるときのみに、社会的経済的不平等が正当化されていた。この基準は功利主義における「最大多数の最大幸福」ではなく、社会を構成するメンバー全員の福利であった。その社会的不平等はもっとも不遇な立場にあるメンバーを尊重しなければならなかった。そしてその不遇な立場にある人々に不利益をもたらしてはならなかった。またその不遇な立場にある人々の利益を向上させるときにのみ、不平等の利益が正当化されていた。したがってあらゆるメンバーが社会的な利益を有する立場に平等にアクセスできることを条件にしていた。

3.5 法の経済分析

「法の経済分析」によって法理論は新たな展開を示しており、特にアメリカで顕著であった。またそれは「法と経済学」として知られていた。そのアプローチは法に対して経済学の理論を適用していた。そしてこの10年から15年にかけて経済法をテーマとしたドイツ語の出版物の数が増加していた。

アメリカの経済学者であるロナルド・コースの理論(『ザ・プロブレム・オブ・ソーシャル・コスト』、ジャーナル・オブ・ロー・アンド・エコノミクス 3 [1960]、p.1 ff)やリチャード・ポズナーの理論(『法の経済分析』、1973年、初版、ボストン、リトル・ブラウン)がその例であった。

ここでは経済的な決定に類似した法的な決定が合理的な費用便益分析によって説明されていた。この理論は合理的に振舞うホモ・エコノミクスを想定しており、矛盾のない選好に基づいた便益を意図的に最適化していた。そしてホモ・エコノミクスは決定を行う状況において限られた知識を活用していた。そこでホモ・エコノミクスは知れば知るほど「自信」を深め、知らなければ一層の「不安」を感じると想定されていた。

このように合理的に振舞う人間は費用と便益の比較考量を通じて法的な決定を行っていた。例えば、効果のない方法でしか追求している目的を実現できないときのみに、合理的に振舞う人間は訴訟を用いていた。この場合の「効果」は投入する手段(資源)と具体的に達成される成果との比較の上で決定されていた。例えば、保護するべき羊が牧草地の草を食べ尽くす前に柵を設けることが隣に対して訴訟を起こすことよりも安価であれば、隣を尊重し、経済的に合理的な振舞いによって柵を設置するだろう。また、立法的な措置が有効であり目的を達成するために適しているか否かに対しても同様に、法の経済分析が役に立っていた。例えば環境法は経済的に振舞う汚染者に対して行動を変更することを促していた。しかし法の経済分析は環境法における規範に疑念を呈していた。果たして規範を逸脱することが汚染者にとって規範を遵守することより高く付くことになるのであろうか。そうでなければ、経済的に説明される規範の欠陥が環境汚染を促すことになるであろう。

規範に対する法の経済分析は法によって福利を向上させることを促していた。そして一般的な福利を向上させる法規範のみが「正当」であった。その出発点は「シカゴ学派」と呼ばれる経済学であった。個々のケースにおける「効率性」が「法理として」(アイデンミュラーの論文、1995年)認識されており、経済的な効率性が法秩序全体に対して求められていた。したがって法はある特定の社会目標つまり国民経済を向上させる目標を含んでいた。ポズナーは財産権にのみその正当性を認めており、財の分配に関する法が個々の社会的要求に依存せず経済的な便益を最大化させることに役立っていると考えていた。

3.5.1 経済分析の応用

当事者(訴訟を起こすべきか、不法行為に関わるべきかを考慮している)や裁判官の決定(訴訟を受理するべきか、棄却するべきかを考慮している)と同様に、行政が規範を遵守する判断を下すときに経済理論を援用できる可能性が存在していた。コッホやリュスマンによれば「司法的な根拠」に対する「便益」が法的な判断の際に考慮されていた。

特に社会全体に影響を及ぼす立法者の経済的な特徴が含意を形成していた。

法的責任に対するリスク(特に不法行為に伴う損害、善意取得、契約締結上の過失を通じた)を管理することによる「便益」は、例えば夫婦の観点から俯瞰するか裁判官の観点から俯瞰するかに依存することがない離婚による「便益」と比較すると小さいものであった。そして法の経済分析は経済法の中に明示されていた。例えばマイケル・アダムス(ベトリープス・ベラーター、1989年、781)による法の研究はよく知られており、マイケル・アダムスは契約の締結における当事者の「非対称な」利用可能情報を考慮した約款規制法を研究していた。

そして近年、法の経済分析の対象に公法が加えられており、行政法が注目されていた。

3.5,2 法の経済分析に対する批判

しかしアメリカにおいて法の経済分析は批判の対象となっていた。

法の経済分析に対する批判として、人間が経済合理性にのみ基づいて行動している訳ではないことが指摘されていた。そして法の経済分析は重要な点を欠落させており、それは法の経済分析が合理的行動のような経済的側面に限定されていることを理由にしていた。つまり問題を狭めて、法の内容や正当性をすべて経済効率に起因させていることが問題であった。モデルが取り上げていない側面として、例えば法感情(その法哲学はエルンスト・ブロッホに由来していた)や、法的な関係の形成による力の増大(政治的な力であれ経済的な力であれ個人の力であれ)を指向する意思が指摘されていた。そして宗教的な性格を有する人間は経済的便益を最大化せず、神の視線を意識するであろうとの視点が存在していた。しかし法の経済分析の研究者は、それらの説明には手段としての貨幣が果たす役割に着目した視点が欠落しており、数理経済学が説明するような想定が依然として存在していると理解していた。

また事例ごとに基準となる「便益」を定め、特定のアプローチを採用し比較することにも問題が存在していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/État_de_droit

法治国家

法治国家もしくは法の支配は、あらゆる人々が権利だけでなく義務を有し、「権利を有している」といった認識によって、個人の権利や公権力に対して法を遵守させることを尊重する法的な立場であった[1][2]。それは規範のハイアラーキー、権力分立、基本的権利の尊重に関連し、また立憲主義とも関連していた。法治国家の概念と国家の存在理由を示す概念は伝統的に対立しており、あらゆる法治国家や類似したアクターは何よりも国益を優先させる傾向にあった。

法治国家は政治的な代表を制定した法によって民主的に選ぶことを内包していた。大多数の欧米の近代国家の基礎になっているモンテスキューによる権力分立の理論は三権(行政、立法、司法)の区別と相互牽制を含めていた。例えば議会民主制において立法府(議会)が行政府(政府)の権力を牽制しており、政府は勝手に行動できず、議会の意向を絶えず確認しなければならず、それは民意の表れであることが指摘されていた。同様に司法は行政的な決定に歯止めをかけていた(特にカナダにおいては「権利および自由に関するカナダ憲章」に基づいていた)。したがって法治国家は基本的権利を軽視する絶対王政、王権神授説、独裁制と対立していた。そして法治国家の憲法は必ずしも成文の体裁をとっていなかった。例えばイギリスの憲法は慣習を基にしており、成文規定を有していなかった。このような法体系において、政治的な代表は慣習法を尊重しなければならず、それは成文法と同様であった。

1 ケルゼンの理論、法治国家と規範のハイアラーキー

歴史を遡れば、法治国家は制度化されたシステムであり、公権力は法を遵守しなければならなかった。オーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンは20世紀初頭のドイツ由来の法治国家の概念を再度定義し、「国家の法規範は公権力を制限する目的で階層化されていた。」

このモデルでは、各規範は上位にある規範を満たすことによってその正当性を維持していた。

1.1 規範のハイアラーキーに対する尊重

規範のハイアラーキーは法治国家を維持するシステムの一部であると考えられていた。

規範のハイアラーキーを通じて、国家のさまざまな機関の権限は明確に定義されており、制定された規範は上位に位置する法規範を遵守しているときにしか効力を有していなかった。このピラミッドの頂点にある憲法は法や規制による国際協調を念頭に置いており、ピラミッドの底部には行政的な決定や私人間の契約が存在していた。

法システムは法的主体にとって不可欠の存在であった。個人同様に国家は合法性の原理を軽視することができなかった。上位にある規範を尊重しないあらゆる規範や決定は法的制裁を招きやすかった。そして法を制定する権限を有する国家は、法的ルールを順守することによって、規制する権能に対する承認を受ける必要があった。

規範のハイアラーキーは規範を遵守する法的主体を平等に扱うことを想定していた。

1.2 法の下の平等

法の下の平等ないし政治的権利の平等は法治国家であるための二番目の条件であった。実際法の下の平等は法的規範が上位の規範を満たしていないときにあらゆる個人や組織が法的規範の適用に異議を申し立てることができることを含意していた。したがって個人や組織は法的主体としての地位を有していた。まず自然人、次に法人に対してその言及がなされていた。

国家は法人に含まれ、国家による決定は法人と同じく合法性の原理に支配されていた。合法性の原理の遵守は立憲主義を尊重する合法性の原理に従わせることを通じて公権力の行動に枠をはめていた。この点において国家より上位に位置する法的な制約は大きな力を有していた。制定されたルールや決定は上位にある規範(法、国際的な合意、憲法)を尊重しなければならず、裁判所から特別の扱いを受けたり、慣習法の適用を除外されることもできなかった。私法における自然人や法人は公権力の決定に異論を申し立てることができ、制定された規範を通じて対抗することも可能であった。この点において裁判所の役割は重要なものであり、裁判所の独立は絶対不可欠であった。

1.3 司法の独立

実際に法治国家は、人々の紛争を解決する権限を有しており独立した司法の存在を想定しており、規範のハイアラーキーに由来する合法性の原理を尊重しており、合法性の原理は法人を特別扱いすることを認めていなかった。

そして法治国家は権力分立や司法の独立を想定していた。実際には司法機関は国家の一部を構成していたため、立法府や行政府から司法が独立していることによって法規範の適用における公平性を担保していた。

1.4 規範を比較するときの問題

また裁判所は合法性を判断する規範を尊重しており、それはハイアラーキーの上部に位置するルールに適合するか否かを含めていた。

国際協定に照らして国内の規範の妥当性を認めることは、矛盾があるときに裁判官がその規範を適用しないことを許容しており、これは国際協定を通じた審査であった。また憲法に対する法の妥当性は、付託されていれば憲法院によって審査されることになり、これはすなわち合憲性の審査であった。したがって法治国家は国際協定を通じた審査や合憲性審査の存在を想定していた。

1.5 注釈

法治国家は理論的なモデルであったが、他方で政治的なテーマでもあり、今日では民主制の大きな特徴であると考えられていた。法を通じて政治や社会における組織のルールを優先するならば、それは合法性の原理を遵守していなければならなかった。そして法治国家はこのモデルを採用している各国の裁判所の役割を拡大させていた。

2 法治国家と民主主義

一方で法治国家はしばしば民主主義と混同されていた。実際には各レジームがどの程度法治国家を尊重しているのかがどの程度民主主義を尊重しているのかと必然的に関連している訳ではなかった。

例えばロシアがツァーリズムからソビエト体制に移行したときに法治国家の枠組みを強化したように、フランスは革命期から帝政期に移行したときに法治国家を揺るぎないものにしていた。

『法の精神』の中でモンテスキューは、王が既存の法や行動の範囲を規定する不文憲法を尊重している点で、君主制を独裁制と区別していた。この点において君主制は独裁制より法治国家の色彩が強かった。

また現代の中国は法治国家の体裁を緩やかに採用していたが、そのレジームが民主主義へ向かうとは思われていなかった。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Hiérarchie_des_normes

規範のハイアラーキー

規範のハイアラーキーはハンス・ケルゼンによって提唱された概念であった。そして法規範のハイアラーキーに対して様々な解釈が論じられていた。このハイアラーキーはそれを裁判官が尊重するときにしか意味を有していなかった。ハンス・ケルゼンは頂点に憲法を据えてこのハイアラーキーを理解していた。そして法規範の審査は2つに分類され、違法性の抗弁による審査と違憲立法審査が存在していた。

1 概略

規範のハイアラーキーは法学者であるハンス・ケルゼン(1881-1973)によって提唱され、ハンス・ケルゼンは『純粋法学』の著者であり、法実証主義の提唱者であり、道徳や自然法に依存しない法の基盤を築き(価値中立、つまり想定された主観や道徳的な先入観から独立した)、法律学を展開させていた。ケルゼンによれば、あらゆる法規範は上位にある規範を遵守することで正当性を獲得しており、そこにハイアラーキーが形成されていた。規範の影響が大きければ、その数が減少し、規範の位置付け(通達、規則、法律、憲法)がピラミッド状であることから、この理論は規範のピラミッドとも呼ばれていた。

規範のハイアラーキーは一面では「固定化」されており、それは下位にある規範が上位にある規範を遵守しなければならなかったことを背景にしていたが、他方で「変更可能」な存在であり、それは、上位にある規範によって制定されたルールによって、規範が修正される可能性を存在させていたことを背景にしていた。そして憲法はピラミッドの頂点にあり法システムの内部に存在している規範であった。また憲法は上位にある規範やその時に存在していない規範に由来する内容を除いて法的義務を有していなかったので、そこにケルゼンは「根本規範」の概念を想定し、根本規範は法理論と矛盾しない性質を与えるために想定された方法論で構成されていた。

規範のハイアラーキーについての理論は「硬性」憲法にしか適用されていなかった。「軟性」憲法を採用している国家において一般的に憲法は、法律と同様に慣習法を採用する機関によって起草され投票を経て修正されていた。そして「硬性」憲法と「軟性」憲法は同一の法的価値を有しており、憲法は法律より下位に存在していなかった。他方で「硬性」憲法を採用している国家において、憲法は特定の機関(政府やワークグループ)によって起草され立法府による投票を経て、国民投票によって採択されていた。その改正手続は一般的に特定の機関や国民を介在させており、それらが憲法制定権力を有していた。また硬性憲法は特別な法的効力を有しており、それは他の規範より上位にあり、尊重されなければならなかった。

規範のハイアラーキーを研究している法学者の多くは合憲性審査基準の中に補助的な審査基準を含めており、無神論者にとって、その審査基準は「自然法」と呼ばれており、信仰を有する人々にとって、それは「神の法」と呼ばれていた。

2 審査のさまざまな形態

規範に対する審査は多くの形態を有していた。

2.1 違法性の抗弁

違法性の抗弁は一般の裁判官によって行われていた。ある法規範に対する違憲性の懸念が訴訟を促し、その抗弁が検討に付されていた。このケースにおいて裁判官が抗弁された規範が違憲であると判断するならば、その規範を適用しない可能性が存在していた。しかしその規範が無効になることはなく、最高裁判所によるものでない限り、その判例が他の裁判所によって採用される可能性もなかった。このタイプの抗弁は例えばアメリカで見られていた。

2.2 違憲立法審査

問題に該当する規範が違憲であることを示しその法律効果を無効にするために、特別な機関が設置されていた。

2.2.1 フランスのケース

フランスでは、法律が部分的ないし全体的に合憲であるか否かを審査し宣言するために、1958年に憲法院が創設されていた。審査は法律がまだ公布されていないときにのみ行われていた。憲法院の創設以前は、憲法は理論的な意味でしか最高法規としての地位を有しておらず、行政裁判官は法律の合憲性を審査することを認められていなかった(「法律遮蔽」を形成したコンセイユ・デタにおける1936年のアリギ判決)。

2008年7月23日の憲法改正は、事前審査に加えて、優先的憲法問題(QPC)のメカニズムによって事後の違憲立法審査を認めていた。そしてあらゆる裁判官が合憲性の問題に直面することになった。合憲性の問題はコンセイユ・デタ(行政訴訟に関して)や破毀院(司法訴訟に関して)に送られ、訴訟は留保されていた。そしてこの2つの最高裁判所は憲法院で受理する裁判官に合憲性の問題を移送していた。ここでの問題点は違法性の抗弁とは異なり先決性にあった。

憲法院がその公布前しか法律を審査することができないことに加え、今日の憲法裁判官はレファレンダムによって決定された法律の合憲性を審査しなかった。しかし新たな第11条によれば、2008年7月の憲法改正に基づき、レファレンダムによる法律は憲法を遵守していることを審査されなければならなかった(まだその効力は発生していない)。

最後に違憲立法審査は法律の合憲性に対する審査であり、アリギ判決ではまだ判例変更にまで言及がなされていなかった。そしてそれはコンセイユ・デタ(CE)が後法に対する条約の優越を承認する1989年まで(1989年のニコロ判決)待たねばならなかった(一方破毀院は1975年5月24日のジャック・バブル判決以降それを承認していた)。

3 各国の様相

3.1 フランス

1958年以前の憲法では、憲法や国際条約が法律より優越されながらも、立法府が最高機関であった。またいかなる裁判所も憲法や国際条約が有する超立法的性質を明示することがなかった。しかし1958年以後、憲法が法律より優越されることが、立法府が根本規範を遵守していることを審査する憲法院によって明示されることになった。

3.1.1 フランス法のスキーム

狭義の合憲性審査基準は、1958年憲法、1946年憲法の前文、1789年の人間と市民の権利の宣言、環境憲章(2005年5月以後の)、共和国の諸法律によって承認された基本原則(1971年の結社の自由判決を参照せよ)、憲法的価値を有する規範(例えば憲法の規定と矛盾しない法律に対して憲法上の根拠を与える抵触法)、憲法の原則を含んでいた。しかしこの見解は批判されており、その理由は、それらがコンスルの仕事であり、フランスの憲法典の中にいかなる根拠も有していなかったことにあった。

広義の合憲性審査基準は、憲法的価値を有する規範、組織法律、1998年のヌーメア協定に基づく原則を含んでいた。法律的観点から、議会(国民議会、元老院、上下両院合同会議)内部のルールが含まれることが明白であったが、憲法院は現在のところそのルールを含めることを否定していた。

「合憲性審査基準」といった用語はエクス・マルセイユ第三大学のルイ・ファヴォルーによって示されていた。この言葉は合憲性審査基準が規範のハイアラーキーにおいて憲法と同様のレベルに至っているといった事実を反映していた。

しかしこのスキームは特にジョルジュ・ヴェデルによって批判されており、憲法院が「憲法の一語一句」のみを適用することが求められていた。

条約適合性審査基準は国際法、具体的には慣習法を除いた国際条約や国際協定によって構成されていたが(EC、1997年6月6日、アクアローネ)、(EU加盟国としてのフランスにおける)EU法、つまり条約や派生法、指令や規則も同様であった。

そしてフランスでは規範に関する文書のデジタル化が進められていたが、2005年の定義によれば法律やデクレしか対象になっておらず、それは欧州指令を含んでおらず、その範囲は制限されたものであった。

3.1.2 規範とEU法とのハイアラーキー

学説における重要な判決はフランス法が容認しているEU法のハイアラーキーに含まれていた。

そして、2004年6月10日のLCENに関する憲法院の決定は「EU法を国内法に置き換えることが憲法上の要請であり、明文の規定を考慮すると、憲法に反するときしかEU法は国内法の障害とならない」ことを示していた。

規範のハイアラーキーはEU法の将来の変化にしたがって判例を変更するかもしれない判決に影響を及ぼしていた。

現在の判例はフランスで批准されている国際法に対する憲法の優越に価値を認めており、1998年10月30日のサランとルヴァシェールのコンセイユ・デタの判決は原則に回帰していた。「フランス憲法55条によって示される国際条約に付与されている優越は、国内法の枠組みの中では、憲法の規定に対して適用されることがなかった。」

4 備考

憲法は規範のハイアラーキーの頂点に位置していたが、そのハイアラーキーの基盤も構成していた。そして、法律はハイアラーキーの上位にあり効力を有するルールを遵守していた。また権力は権力が生み出す規範より上位の規範にしたがっていた。したがって立法権を有する機関は憲法にしたがっており、行政権は法律を遵守せねばならず、規範のハイアラーキーに含まれていた。このシステムは法治国家として認められており、法治国家はあらゆる個人や法人が法を遵守することを含意していた。

憲法の優越はしばしば限定的な方法で実現されていた。法システムは立法手続における違憲立法審査を含んでいたが、公布されており違憲である法律の適用を防止する手段を提供していなかった。フランスでは違憲立法審査が法律公布の前に憲法院によって行われており、訴訟当事者が法律の適用に対抗するために憲法に立脚すること(「合憲性審査基準」に該当する要素に基づいて)は不可能であった。その可能性は、基本原則を尊重する手段、立法権の行使による損害に対する司法権の行使、法律に対する継続的異議申し立ての可能性の中に見出すことが可能であった。こういった状況は2008年7月に生じており、1990年や1993年の段階では合憲性の優先問題はまだ見受けられていなかった。

ロベスピエールやサン=ジュストは、立法権に対して司法権が干渉するように民主主義の枠組みの中で法律を用いることや、権力の分立を容認していなかった。そして上位にある規範を適用することを必要としていた(憲法のように)。

アメリカにおいて判例は大きな価値を有しており、裁判官(最高裁判所を除いて)は国民によって選任されており、彼らは国家や裁判所のルールを順守していた。

そして憲法が国際法より優位にあるとの判決によって国境を超えた訴訟が懸念されていた。これはキューバについて当てはまり、キューバは「知性の産物は制約を受けることがなく、あらゆる人々の財産である」ことを理由にして、著作物に対して金銭的な支払いを行うことを容認していなかった。

法律より国際条約や国際協定が優越されることはニコロ判決(1989年10月20日)によって認められており、「法律遮蔽」の理論を放棄し、国際条約に対する事後的な法律の規定を国際条約の下に置いていた(1968年5月、フランスのデュラム小麦における製造業者組合についての判決)。コンセイユ・デタはEU法の派生法に対してニコロ判決を敷衍させており、法律よりEU法(1990年9月24日、ボワデ判決)や欧州連合指令(1992年2月28日、S・A・ロスマン判決もしくはS・A・フィリップ・モリス判決)を優越させていた。しかしながら国際条約に対する憲法の優越(規範のハイアラーキーの頂点にある)は再度明示されていた(1998年10月30日、サランとルヴァシェールの判決)。他方で欧州司法裁判所の判決(ECJ、1978年3月9日、シンメンタール判決)は、国内法よりEU法や派生法を優越させており、国内の憲法も同様に扱っていた。しかし現在この判決はフランスの憲法に当てはまっていなかった。

ヨーロッパの民主主義は国際公法の普遍的な解釈を支持する傾向にあったが、インド、イスラエル、アメリカを含む民主主義は、国際公法を領土に対する権利のように普遍的なものや条約や慣習から派生したものと見做す一方で、特定の側面を国際公法の対象として眺めていなかった。植民地時代を経験した途上国の民主主義は、しばしば内政不干渉を主張していたが、国連に見られるような多国間のレベルでの国際公法を支持しており、人権の基準、特定の制度、武力の使用、軍縮の義務、国連憲章の各条項を尊重していた。

国際公法は統治機構のない法的環境の中に存在していたので、規範に関してコースの定理が示唆している性質を有しており、国際情勢が変化しているならば、規範からの逸脱によって、その規範自体が慣習国際法の概念に従って実際に変化するかもしれなかった。例えば、第一次世界大戦以前の無制限潜水艦作戦は国際法の違反やドイツに対するアメリカの宣戦布告のための表面的な開戦事由として考えられていたが、ニュルンベルク裁判において、その行為が1936年に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約に対する明白な違反を構成しているにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を命じたドイツ海軍の元帥であるカール・デーニッツに対する告訴が取り下げられていた。

国連総会の決議は法的拘束力を認められておらず、勧告のみであり、1950年11月3日に採択された国連決議第377号による平和のための結集決議を通じて、国連総会は、安全保障理事会が常任理事国の拒否権によって事態を処理することに失敗したときに、平和の破壊や侵略行為に対して、国連憲章に従って、国連総会が武力を使用する権限を有していることを宣言していた。そしてソ連は、国連決議第377号の決議Aが与えた国連憲章の解釈に唯一反対した安全保障理事会の常任理事国であった。

紛争の平和的解決を勧告している国連憲章の第6章の下で、安全保障理事会は結果として決議を可決することが可能であったが、それらは拘束力を有しておらず、国連憲章の第7章の下で、平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動に関して、拘束力を有し、経済制裁、軍事行動、国連の支援を通じた武力の使用を認める決議を採択することが可能であった。

他方で第7章と無関係に可決された決議が拘束力を有する可能性があることが主張されており、その法的根拠は第24条第2項の下での理事会の広範な権限にあり、このような決議の義務的特徴はICJによるナミビア事件についての勧告的意見によって支持されていた。

また相互の合意に基づいて国家はオランダのハーグにあるICJの仲裁を求めて紛争を付託することが可能であった。ICJが扱う事件は数年かかり、仲裁を通じてなされた決定は仲裁に関する合意の性質に応じて拘束力を有していたり有していなかったりしていたが、係争から生じた決定は事前にICJが常に関係国を拘束していることを主張していた。

高次の法による支配は、法が普遍的な公正の原則、道徳、正義に適合していないならば、いかなる法も政府によって執行されてはならないことを意味していた。したがって、政府が明白に定義され適切に制定された法的ルールを順守して行動していても、多くのオブザーバーによって不公正と見做される結果を生じさせているならば、高次の法による支配が、政治的ないし経済的意思決定を制限するための現実的な法的指針として機能を果たしていた。

高次の法は国際公法の中に確立された神の法、自然法、基本的な法的価値観として解釈され、その選択はどういった観点によるのかに依存していた。しかし高次の法は明確に法の上に存在する法であり、コモン・ローと大陸法の司法権に対して同じ法的価値を有していたが、コモン・ローと関連している自然法と対立していた。

高次の法による支配は、法の支配に対する英米圏の学説、コモン・ローを採用している国々の伝統、法治国家に対するドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシアの学説の間における相互理解を橋渡しする高次の法理論を具体化するためのアプローチであった。大陸法の学説はドイツの法哲学を通じたヨーロッパ大陸の法思想の産物であり、法治国家の名称は、政府による権力の行使が、国家によって確立され常に変化する法よりむしろ、高次の法によって検証され続ける国家を常に意味していた。

南北戦争以前にアフリカ系アメリカ人は、主人と奴隷の関係を規定する公式な効力を有する法に準じて、白人系アメリカ人と同等の権利や自由を法的に否定されていた。これらの法は、執行にあたって完全に適法であり、当時のアメリカ政府によるこれらの法の執行は相当数の住民の基本的人権を侵害していた。ウィリアム・H・スワードは、奴隷制が憲法より高次の法の下で禁じられていると明確に言及していた。

一部の国々では、政治のリーダーは法の支配が手続上の概念であると主張していた。そのために彼らは、あらゆる政府がその国民から基本的な自由を奪い、適切に執行された法手続に従っている限り生命の権利を侵害してもよいと主張していた。例えばニュルンベルク裁判では、第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人やジプシーに対する犯罪を正当化するために、ナチス・ドイツの元リーダーは、ヒトラーが権力を握っていたときに効力を有していた法を一つとして破っていなかったことを抗弁していた。高次の法による支配によってのみ、連合国検察はそのような抗弁を正当に論破することが可能であった。

また他の国々では、逆に政治のリーダーは、全ての成文法が道徳、公正さ、正義といった普遍的な原則に沿って維持されなければならないことを主張していた。これらのリーダーは、誰もが法に従わなければならないといった原理の必然的な帰結として、法の支配が政府に対して法の下で全ての人々を平等に取り扱うことを求めていることを主張していた。しかし政府がある階級に属する個人や一般的な人権について十分なレベルの人権尊重、個人の尊厳、自治権を否定するたびに、平等に取り扱われる権利が侵害される傾向にあった。そのために平等権、自治権、個人の尊厳、人権尊重に関する不文の自明な原則が政府によって制定された従来の成文法を支配していることが言及されていた。これらの原則はしばしば自然法として言及されていた。これらの原則は同様に高次の法理の基礎を構成していた。

18世紀後半にアメリカやフランスで憲法が採用された後、イマヌエル・カントによって初めて法治国家に関する学説が紹介されていた。カントのアプローチは高次の法に関する原則を用いて形成された成文憲法の優越性に基づいていた。この優越性は、市民の幸福や繁栄のための基礎的な条件としての恒久的に平和な生活を求めるカントの考え方を実践に移すことを意味していた。

国家の憲法が市民の倫理に基づいており、市民の倫理が憲法の本質に基づいていたことを示すことによって、カントは高次の法を執行するための手段としての立憲主義の問題点を明確に指摘していた。

ワレリー・ゾリキンによれば、法治国家は合法的で公正な社会なくして存在することができず、国家は社会によって達成された成熟の程度を反映したものであった。

ジェームズ・M・ブキャナンによれば、立憲政治の枠組みの中であらゆる政府による介入や規制は3つの仮定によって条件付けられていなければならず、市場経済を機能させることに対するあらゆる失敗が政府の介入によって修正されることが可能であり、政治を職業としている人々や官職についている人々が、個人の経済的利益と無関係に、公共の利益を利他的に支持しており、政府がさらなる介入や支配を目指すことが社会的ないし経済的生活に対して影響を及ぼさないことが挙げられていた。

そしてブキャナンによれば、国家が知識に関して国家を構成する個人より優れているといった考え方は拒否されており、カントに沿って、少なくとも数世代の人々によって用いられることを考慮されていた高次の法としての憲法が、経済的意思決定のために、その憲法自身を修正することが可能であらねばならない一方で、個人の利益と対立する国家や社会の利益と、個人の自由や幸福に関して憲法上の権利のバランスを保っているとされていた。

自然法理論は国家の法を制定する力を誘導し、善なるものを促すための道徳的な方向を定めようとしており、人間の法体系の外部にある客観的な道徳的秩序といった概念が自然法の根底に存在しており、時として不正なる法は法にあらずという格言と同等に考えられていたが、ジョン・フィニスによれば、この格言は古典的なトマス主義の指針としては貧弱であったとされていた。

自然法と対照的に法実証主義は、法と道徳の間に必然的な関連はなく、法の力はいくつかの必要最低限な社会的事実に基づいているにすぎないと述べていた。しかしいかなる法実証主義者も、そのために法が何であれ遵守されなければならないものであるとは主張しておらず、法の遵守は全く別の問題であると考えていた。

ジョン・オースティンによれば、何が法であるのかに対する功利主義的な解答は、罰則によって裏付けられた服従する人々に対する主権者からの命令であったが、現代の法実証主義はこの見解を捨て去り、H・L・A・ハートはその過剰な単純化を批判していた。

ハンス・ケルゼンは20世紀における傑出した法学者の1人として考えられており、ヨーロッパやラテンアメリカに影響を与えていたが、コモン・ローを採用していた国々にはそれ程影響を与えていなかった。そしてハンス・ケルゼンの純粋法学は法学を政治学から切り離しており、法的規範の拘束力が形而上学上の存在を引き合いに出すことなしに理解されることが可能であると主張していた。

しかしH・L・A・ハートは法が社会的ルールを体系化したものとして理解されるべきであると主張しており、制裁が法にとって不可欠な存在であり、法のような社会規範が規範とならない社会的事実に基づけられることはできないとするケルゼンの見解を拒絶していた。

ジョセフ・ラズ、ジョン・ガードナー、レスリー・グリーンを含む現代の有力な実証主義者は、法と道徳の間に必然的な関連がないといった見解を拒否していた。ラズが指摘しているように、法制度を担う人々が暴行や殺人を犯すはずがないといった前提が現実と異なっていることは周知の事実であった。

そしてジョセフ・ラズは実証主義を擁護していたが、ハートのアプローチを批判しており、法が道徳的な裏付けを参照することなしに純粋な社会的事実を通じて確認される権威であることを主張していた。

しかしロナルド・ドウォーキンは、ハートや道徳の問題として法を取り扱うことを拒否したことに対して実証主義者を批判しており、法は解釈の後に得られる概念であり、慣習としての伝統を考慮しながら、法的紛争に対して最も妥当な解決を見出すことを裁判官に求めることを主張していた。ドウォーキンによれば、法は、社会的事実に全く基づいておらず、私たちが直感的に合法であるとみなしている制度的事実や法の執行を道徳的に最も正当化することを含んでいた。そして自然法理論と法実証主義の間に位置しているコンストラクティヴィストによる理論を支持していた。

リアリズム法学は北欧やアメリカの研究者に人気がある見解であり、現実の世界における法の執行が現在の法を決定づけるものであり、立法者、裁判官、行政官が法を通じて個人的な嗜好や偏見を実現することによって、法が力を行使していると主張していた。そしてあらゆる法が人間によって制定され、したがって人間の弱点の影響を受けやすいといった立場を基盤にしていた。

またカール・ルウェリンによれば、法は人間のバイアスに基づいた結果を形成する可能性がある裁判官の個人的な嗜好や偏見以上のものではないと考えられていた。

そしてジョン・ロールズは、もし私たちが無知のヴェールに覆われているならば、社会を構成する基本的な制度を設計するために、どのような正義の原理を私たちが選択するだろうかと尋ねていた。もし私たちが人種、性別、資産状況、階級といった要素を全く知らないならば、私たちは私たちの嗜好からバイアスを受けなかったであろう。この原初状態から、ロールズは私たちが言論の自由や投票の自由等のような全ての人々に対する同一の政治的自由を獲得するだろうといったことを主張していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「国際公法」、「国際法理論」、「高次の法による支配」、「法哲学」、「法の抵触」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Public_international_law

国際公法

国際公法は、主権国家やローマ教皇庁、政府間組織などの法的主体の構造や行動に関係していた。また国際法は多少なりとも多国籍企業や個人に影響を与えており、その影響は国内の法解釈や法執行の枠組みを超えて進化していた。国際貿易の拡大、世界規模での環境破壊、人権侵害に対する意識、急激で大規模な国際取引の増加、国境を超えたコミュニケーションの高まりによって、国際公法はその運用の機会や重要性を高めていた。

研究の対象は2つの大きな分野を合わせたものであった。全ての人に対する法である万民法と国際的な協定である諸民族間の法は異なった基盤であり、混同されるべきではなかった。

国際公法は、法の抵触を解決することに関する「国際私法」と混同されるべきではなかった。一般的な意味において、国際法は「国家や政府間組織の行動と、自然人や法人の関係同様に内々の関係を処理し、一般的に運用するための規則や原理によって構成されていた」[1]。

1 歴史

1648年に締結されたヴェストファーレン条約から始まり、17世紀、18世紀、19世紀は「国民国家」の主権の概念を構築し、それは政府による中央集権体制によって支配された国家によって構成されていた。人々が明確な国家のアイデンティティを有する特定の国家の市民として自身を眺めていたので、ナショナリズムの概念はますます重要になっていた。19世紀半ばまでに、国民国家間の関係は、力による場合を除くならば執行できず、名誉や信義の問題を除くならば拘束しない、他の国家に対して特定の方法で行動するための条約や協定によって支配されていた。しかし条約のみでは効果がなくなり、戦争は、市民に対して顕著であったが、一層破壊的になり、文化が成熟した人々はそれらの恐怖を非難し、特に戦時における国家の行動を規制することを主張していた。

おそらく近代の国際公法の最初の文書は、南北戦争における戦闘員の行動に適用するために、1863年にアメリカ議会によって制定されたリーバー法になり、戦時の規則や規約に関する文書であると考えられており、あらゆる文明国によって順守され、国際公法の萌芽でもあった。リーバー法の一部は以下の通りであった。

「近代の文明国によって理解されるように軍事力の必要性は、戦争の終結を確認するために不可欠であり、近代法や戦争についての慣行に従った合法的な対応の中に含まれていた。軍事力の必要性は、武装した敵や、戦時の武器を通じた争いの中で、偶発性を避けられず、他の人々の生命や身体に直接的に被害を生じさせることを許容していた。軍事力の必要性は、あらゆる武装した敵や、敵国の政府にとって意味があり、特に自国にとって危険なあらゆる敵を捕虜にすることを許容していた。軍事力の必要性は、財産に対してあらゆる侵害を行い、交通、移動、通信の経路を妨害し、敵のあらゆる生活手段を奪い、敵国が生存や軍の安全のために必要としているもの全てを強制収容し、戦争を開始する協定の中で明白に宣言され、近代の戦時国際法によって存在していると想定された信義を除外して相手を欺くことを許容していた。(しかし)この説明において、戦争において互いに武器を用いる人々は、互いや神に対して責任がある道徳な存在であることを止めていなかった。軍事力の必要性は残酷さを許容しておらず、それは、苦しみや復讐のために苦しみを与えるものではなく、戦争を除外して負傷を与えるものではなく、自白を引き出すために拷問を課すものでもなかった。軍事力の必要性はあらゆる場における毒物の使用を許容しておらず、都市を理不尽に廃墟にすることも許容していなかった。軍事力の必要性は相手を欺くこと許容していたが、背信行為を否定していた。そして一般的に、軍事力の必要性は平和に戻ることを不必要に困難にする戦闘行為を含んでいなかった。」

戦争に関する成文化されていない規則や条項に対する最初の声明は、戦争犯罪に関して、ジョージア州のアンダーソンビルでの残酷で劣悪な状況に置かれたアメリカの捕虜収容所に対して最初の訴追を行なっており、審理の後、収容所における南部連合の司令官は絞首刑に処され、南部連合の兵士は南北戦争の結果として死刑に処されていた。

その後他の州はその行動に制限を課すことに同意し、多くの協定や団体が互いに対してその行動を制限するために成立し、それらは1899年の常設仲裁裁判所、1907年に改定されたハーグ条約やジュネーブ条約、1921年に設立された常設国際司法裁判所、ジェノサイド条約、1990年代後半に設立された国際刑事裁判所を含んでいたが、それらによって制限されるものではなかった。国際法は比較的新しい分野の法であり、応用分野におけるその展開と発展はしばしば論争の対象であった。

2 国際法の法源

国際司法裁判所規程第38条の下で、国際公法は3つの主な法源を有しており、それは国際条約、慣習、法の一般原則であった。さらに判例や学説は「法準則を決定する補充的な手段」として適用されていた。

国際的な条約法は、国家が条約の中で互いに対して明示的にそして自発的に受け入れる義務で構成されていた。慣習国際法は法的確信を伴う一貫した国家による行動すなわち一貫した国家実行が法的義務によって求められていることに対する国家の確信から演繹されていた。学説や国際法廷の判決は伝統的に、国家の行動に対する直接的な証拠に加えて慣習に対する説得力のある法源として見られていた。慣習国際法を成文化する試みは、国連による支援の下で国際法委員会(ILC)を形成したことを伴いながら、第二次世界大戦後に支持を拡大していた。成文化された慣習法は、条約による合意に基づいた慣習として拘束力を有していると理解されていた。そのような条約の当事者ではなく国家に対して、ILCの仕事は国家に対して適用される慣習として容認されているかもしれなかった。法の一般原則は世界の主な法制度によって一般的に容認されていた。国際法における特定の規範は、一切の例外を許容せずにあらゆる国を含むものとして、絶対的な規範(強行規範)に対する拘束力を有していた。

3 国際条約

国際条約の正確な意味や国内法の適用についての議論において、法が意味するものを決定することは裁判所の責任であった。国際法において解釈は、それを主張している人々の活動領域の中にあったが、条約の条項や当事者間の合意によって、ICJのような司法機関に付与される可能性が存在していた。自己のために法を解釈することは一般的に国家の責任であったが、外交のプロセスや国家を超えた司法機関を利用することの可能性は、その目的を達成するために常に機能していた。条約に関連している限り、条約法に関するウィーン条約は以下の解釈に関するトピックを取り上げていた。‎

「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」(第31条第1項)

これは実際には解釈における3つの異なった学説の間の妥協であった。

限定的なアプローチである文書に基づくアプローチは文書の「通常の意味」に基づいており、実際の文書を重視していた。

主観的アプローチが考慮しているものは、i.条約の背後にある考え、ii.「文脈に含まれる」条約、iii.文書が書かれたときに作者が意図していたことであった。

3番目のアプローチは「その趣旨及び目的に照らした」解釈、すなわち「実用的な解釈」とも呼ばれていた条約の目的に最も適した解釈に基づいていた。

これらは解釈に関する一般的な規則であり、特定のルールが国際法の特定の分野においては存在していた。

4 国家の地位や責任

国際公法は、国際法システムにおける主要なアクターとしての国家を認識するためのフレームワークや基準を確立していた。国家の存在が領土に対する管轄権を前提としているので、国際法は領土の獲得、国家に対する免責、互いの行動における国家の法的責任を取り扱っていた。また国際法は国境の内側にいる個人の処遇に関係していた。したがって集団の権利、外国人の処遇、難民の権利、国際犯罪、国籍の問題、人権を一般的に取り扱う総括的なレジームが存在していた。さらにそれは、国際平和と安全保障の維持、軍備管理、紛争の平和的解決、国際関係における武器の使用に対する制限といった重要な機能を含んでいた。法が戦争の勃発を止めることができないときでさえ、それは戦闘行為や捕虜の取り扱いを支配する原則を展開していた。そして国際法は、地球環境、海洋や宇宙のようなグローバル・コモンズ、国際通信、国際貿易に関した問題に適用するために用いられていた。

理論的には全ての国が主権を有し、平等であった。主権の概念の結果として、国際法の価値や権威は、国際法の形成、遵守、執行における国家の自発的な参加に依存していた。例外が存在しているかもしれないが、高次の法の主体を支持することよりむしろ、自己の利益に基づいて多くの国々が他の国々に対して法的に関与していることが、多くの国際法学者によって想定されていた。D・W・グレイグが記したように、「国際法は国際関係に作用している政治的要因から切り離すことはできなかった」[2]。

伝統的に主権国家や教皇庁は国際法における唯一の主体であった。近年において国際機関が多様化し、その国際機関も同様に時として国際法における主体として認識されていた。国際人権法、国際人道法、国際貿易法(例えばNAFTA第11章)は企業や特定の個人を含んでいた。

4.1 国家主権

国際法と国家主権との対立は学会、外交、政治における論争の対象であった。確かに、国際法や国際基準に照らして、国家の国内の行動を判断する大きな流れが存在していた。現在多くの人々が国民国家を世界における最も重要な単位として眺めており、国家のみが国際法に対して自発的に関与することを選択してもよく、国家のコミットメントに対する解釈になると、国家は国家自身の意図に従う権利を有していると考られていた。特定の研究者や政治のリーダーは、国際法の発展が、政府から権力を奪い、国連や世界銀行のような国際的な主体に権力を譲ることになるので、国民国家を危機に陥れるだろうと感じており、単なる国家間の合意とは別に存在し、国内法の制定や司法プロセスと並行している国際法の制定や司法のプロセスを認識していた。このことは特に、国家が文明国によって遵守される行動基準から逸脱していたときに生じていた。

多くの国々が領土に対する主権を強調しており、国家が国内において自由に主権を有していると考えていた。他方で他の国家はこの見解に反対していた。多くのヨーロッパの国々を含めて、この見解に反対しているグループは、全ての文明国がジェノサイド、奴隷貿易、侵略戦争、拷問、海賊行為を禁止することを含めた行動規範を有しており、これらの普遍的な規範に対する違反が、個人の被害者に対するだけでなく、人類全体に対する犯罪であると主張していた。この見解に同意している国家や個人は、国際法に違反したことに対して責任を有する個人が「海賊や奴隷業者のように人類全体の敵になっており」[3]、普遍的な管轄権の執行を通じて、基本的にいかなる裁判においても公平な裁判を通じて起訴されるべきであると主張していた。

ヨーロッパの民主主義は国際法の普遍的な解釈を支持する傾向にあったが、多くの他の民主主義は国際法に対して異なった見解を有していた。インド、イスラエル、アメリカを含むいくつかの民主主義は、柔軟なアプローチを採用しており、普遍的なものとしての領土に対する権利のように国際公法の一部の側面を認めており、他の側面を条約や慣習から派生したものとして見做しており、特定の側面を国際公法の対象として全く眺めていなかった。過去の植民地時代の歴史に起因している途上国の民主主義はしばしば内政不干渉を主張しており、人権の基準や特定の制度を特に尊重していたが、国連に見られる二国間ないし多国間のレベルでの国際法を強く支持しており、武力の使用、軍縮の義務、国連憲章の各条項を特に尊重していた。

9 国際裁判とその判決の執行

国際法は紛争の解決や強制的な刑事システムのための義務的な司法システムを設けていなかったので、国内の法制度における違反を処理することほど容易ではなかった。しかし、その違反が国際社会の注目を集めるための手段や、その違反を解決するための手段が存在していた。例えば貿易や人権のような特定の分野において国際法には司法ないし準司法的な裁判所が存在していた。例えば国連の設立は、安全保障理事会を通じて国連憲章に違反する加盟国に対して国際社会が国際法を執行する手段を与えていた。

国際法は最も重要な「統治機構」(例えば国際規範を遵守することを外部から強制する力)のない法的環境の中に存在していたので、国際法の「執行」は国内法の施行と異なっていた。多くの場合において国際法の執行は、規範に関してコースの定理が示唆している性質を有していた。他の場合において、特に国際情勢が変化しているならば、規範からの逸脱が実際のリスクを生じさせていた。このことによって、強大な国家が継続して国際法の特定の側面を無視するならば、規範は慣習国際法の概念に従って実際に変化するかもしれなかった。例えば、第一次世界大戦以前の無制限潜水艦作戦は、国際法の違反やドイツに対するアメリカの宣戦布告のための表面的な開戦事由として考えられていた。しかし第二次世界大戦までに国際法の手続は、ニュルンベルク裁判において、その行為が1936年に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約に対する明白な違反を構成しているにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を命じたドイツ海軍の元帥であるカール・デーニッツに対する告訴を取り下げることにまで拡大していた。

9.1 国家による執行

特定の規範を維持したいという国家の意向とは別に、国際法の執行は、一貫した行動を取り、義務を遵守することを国家が他の国家に課していることの圧力から生じていた。あらゆる法体系と同様に、国際法の義務に対する多くの違反は見逃されていた。さらに言及を加えるならば、国際司法の決定[5][6]、仲裁[7]、制裁[8]、戦争を含む武力の使用[9]に対する服従は外交や国家の評判に対する影響を通じてなされていた。実際に国際法に対する違反は一般的であったけれども、国家は国際的な義務を無視する言動を避けようとしていた。経済関係ないし外交関係の断絶や報復行為を通じて、国家は一方的に相手国に対して制裁を採用するかもしれなかった。いくつかのケースでは、国際法が国内法と交差する複雑な分野であったけれども、国内の裁判所が外国(国際私法における)に対して損害を理由に判決を与えていた。

武力攻撃が発生した場合に全ての国家が個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることは、国民国家によるウェストファリアシステムの中に暗示されており、国連憲章の第51条の中に明示されていた。国連憲章の第51条は、安全保障理事会が平和の維持に必要な措置をとるまでの間(もしくはなくても)、国家の自衛権を保障していた。

9.2 国際的な主体による執行

国連加盟国による国連憲章に対する違反に対して、国連総会において侵害された国家によって問題提起される可能性が存在していた。国連総会の決議は法的拘束力を認められておらず、「勧告」のみであり、1950年11月3日に採択された国連決議第377号による平和のための結集決議を通じて、国連総会は、安全保障理事会が常任理事国の拒否権によって事態を処理することに失敗したときに、平和の破壊や侵略行為に対して、国連憲章に従って、国連総会が武力を使用する権限を有していることを宣言していた。国連決議第377号の決議Aを採用することによって、国連総会は同様に、穏やかな「平和に対する脅威」を構成する状況において、経済制裁や外交的な制裁のような他の集団的措置を求めることができることを宣言していた。

平和のための結集決議は、安全保障理事会でソビエトの拒否権を回避するために、朝鮮戦争の直後である1950年にアメリカによって発議されていた。決議の法的意味は不明確であり、拘束力のある決議を発布することはできなかった。そして国連総会に新たな力を与える議論を通じて決議案を提出することは「七理事国」によって一度も主張されたことがなかった。その代わりに安全保障理事会が膠着したときに、国連憲章に従って、すでに国連総会が影響するものについて、平和のための結集決議は単に宣言しているだけであると主張されていた[11][12][13][14]。ソ連は、国連決議第377号の決議Aが与えた国連憲章の解釈に唯一反対した安全保障理事会の常任理事国であった。

国連憲章に対する違反についての懸念は安全保障理事会の理事国によって同様に提起されることが可能であった。「紛争の平和的解決」を勧告している国連憲章の第6章の下で、安全保障理事会は結果として決議を可決することが可能であった。そのような決議は理事会の決定を表現していたけれども、それらの決議は国際法の下で拘束力を有していなかった。稀に安全保障理事会は、「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」に関して、国際法の下で法的拘束力を有し、経済制裁、軍事行動、国連の支援を通じた同様の武力の使用を認める、国連憲章の第7章の下で決議を採択することが可能であった。

第7章と無関係に可決された決議が拘束力を有する可能性があることが主張されており、その法的根拠は第24条第2項の下での理事会の広範な権限にあり、それは「前記の義務を果たすに当っては(国際の平和及び安全に関する主要な責任を負わせる)、安全保障理事会は国際連合の目的及び原則に従って行動しなければならない」と述べていた。このような決議の義務的特徴はICJによるナミビア事件についての勧告的意見によって支持されていた。このような決議の拘束力に関する特徴はその文言や意図の解釈から推測されることが可能であった。

また相互の合意に基づいて国家はオランダのハーグにあるICJの仲裁を求めて紛争を付託することが可能であった。決定を執行する手段を一切有していなかったけれども、これらの審理における裁判所の判決は拘束力を有していた。裁判所は、国連憲章に従って権限を与えられていた主体が何であれ、その要求に対して、法的問題について勧告的意見を与えることが認められていた。そして裁判所がもたらしたいくつかの勧告は裁判所の法的権限や管轄権に関して論争を残していた。

しばしば非常に複雑な問題であるため、ICJが扱う事件は(1945年に常設国際司法裁判所が創設されて以来150件以下であった)数年かかり、数千ページに及ぶ訴訟手続、証拠、最も優秀な国際法学者による学説を含んでいた。2009年6月の時点でICJでの係争中の事件は15件存在していた。仲裁を通じてなされた決定は仲裁に関する合意の性質に応じて拘束力を有していたり有していなかったりしていたが、係争から生じた決定は事前にICJが常に関係国を拘束していることを主張していた。

国家や国際機関は通常、国際法に対する違反を主張する地位を有する唯一の主体であったが、市民的及び政治的権利に関する国際規約のようないくつかの条約は、国際人権委員会に要請することを加盟国によって違反された権利を有する個人に対して許容する選択議定書を有していた。投資協定は一般的な個人や投資主体による履行の規定を設けていた[15]。そして主権を有する政府と外国人との商業協定が国際的に履行されていた[16]。

10 国際法理論

http://en.wikipedia.org/wiki/International_Legal_Theory

国際法理論

国際法理論は、国際公法や制度の内容、形成、実効性を説明し分析し、それを展開するために用いられていたさまざまな理論的ないし方法論的アプローチを含んでいた。いくつかのアプローチは、なぜ国家は法の遵守をもたらす強制力がないにもかかわらず国際法を遵守するのかといった法の遵守に焦点を当てていた。他のアプローチは、なぜ国家は世界立法府が存在していないにもかかわらず行動の自由を制限する国際法規範を自発的に採用しているのかといった国際的なルールの形成に焦点を当てていた。他の展望は政策中心であり、既存のルールを批判し、その方法を提示する理論的なフレームワークや手段を形成していた。これらのアプローチのいくつかは、国内法理論に基づいており、他は学際的であり、一方また別のアプローチは国際法を分析するために展開されていた。

1 国際法に対する古典的アプローチ

1.1 自然法

初期の多くの国際法学者は自然法に委ねられていると考えられていた公理的な原理に関心を抱いていた。16世紀の自然法学者であり、サラマンカ大学の神学部正教授であったフランシスコ・デ・ビトリアは、公正な戦争、南北アメリカに対するスペインの影響、ネイティブ・アメリカンの権利に焦点を当てていた。

1.2 折衷主義的ないしグローティウスのアプローチ

オランダの神学者であり、人文主義者であり、法学者であるフーゴー・グローティウスは近代国際法の発展に対して重要な役割を果たしていた。聖書やセントオーガスティンの公正な戦争論から見解を引き出した彼の1625年の著作である『戦争と平和の法』の中で(3冊の著作)、彼は、政治の主体間の関係がコミットメントの遵守を基礎にした「合意は拘束する」といった原則に基づく社会共同体によって設けられた万民法によって支配されるべきであることを主張していた。その中でクリスチャン・フォン・ヴォルフは、国際社会が世界共同体であるべきであり、加盟国に対して権限を保有していると主張していた。エムリッシュ・ヴァッテルはこの見解を拒否し、その代わりに18世紀の自然法によって示されていたような国家の平等を主張していた。『国際法』の中で、ヴァッテルは、万民法が一方で慣習や法によって、他方で自然法によって構成されていることを示していた。

17世紀に特に法的平等、領土に対する主権、国家の独立を示していたグローティウスや折衷主義の基本原則はヨーロッパの政治ないし法制度の基本原理になり、1648年のヴェストファーレン条約の中に明記されていた。

1.3 法実証主義

初期の実証主義学派は国際法の法源として慣習や条約の重要性を強調していた。初期の実証主義者であるアルベリコ・ジェンティーリは実定法が大多数の人々に共通している合意によって決定されていたことを前提とする歴史的事例を用いていた。他の実証主義学派の研究者であるリチャード・ズーチは1650年に『宣戦講和の法、または諸国民間の法』を出版していた。

法実証主義は18世紀に支配的な法理論になり、国際法哲学の中にその方法論を見出していた。当時コーネリアス・ヴァン・バインケルスフークは、国際法の基礎が慣習やさまざまな国家によって合意された条約であることを主張していた。ジョン・ジェイコブ・モーザーは国家が国際法を遵守する意義を強調していた。ゲオルク・フリードリヒ・フォン・マルテンスは『ヨーロッパにおける近代国際法概説』という実定国際法に対する最初の体系的な手引きを出版していた。19世紀に実証主義の法理論はナショナリズムやヘーゲル哲学によってさらに支配的なっていった。国際商法は国内法の一部になり、国際私法が国際公法から分離されていた。実証主義は法として認識されるかもしれない国際的な慣行の幅を狭めており、道徳観や倫理間を超えた合理性を肯定していた。1815年のウィーン会議は、ヨーロッパの状況に基づいた政治ないし国際法のシステムを公式に認知していたことを特徴としていた。

近代法実証主義者は国家の意思から生じたルールからなるシステムとして国際法を考えていた。現在の国際法は、「あるべき」法と区別されなければならない「事実に基づく」現実であった。古典的な実証主義は法的正当性に対する厳格な検証を求めていた。文書を伴い、体系的で、歴史的な基礎を有していない超法規的な主張は法的分析と無関係であると思われていた。ハードローのみが存在しており、ソフトローは存在していなかった[1]。実証主義者の法理論に対する批判はその厳格さ、解釈を考慮せずに国家の合意に焦点を当てること、国際規範に従っている限り国家の行動に関する道徳的判断を許容しないという事実を含んでいた。

2 国際関係論 - 国際法に基づくアプローチ

法学者は政治学や国際関係論の分野における4つの主要な学派に分かれており、何故そしてどの様に法制度が存在しており、何故効力を有しているのかを説明することを目的として、法的ルールや制度の中身を学際的なアプローチを通じて検証するために、リアリズム、リベラリズム、インスティチューショナリズム、コンストラクティビズムが挙げられていた[2]。これらの考え方は国際法を再構築することを研究者に促していた[3]。

2.1 リアリズム

リアリズムは、アナーキーな国際システムにおいて、国家がその領土やその存在を維持するために相対的なパワーを最大化するための生存競争を永続することを避けられないことを主張していた。パワーを最大化することに対する国家の関心に対応し、生存競争に勝ち残る見込みがある場合においてのみ、国際協調が可能であるので、国家は規範に対するコミットメントを基礎にして協調を追求していなかった[4]。リアリズムの法学者によれば、国家は、パワーを増大させ、弱小な国家を従属させることを制度化するか、故意に有利な条件のために違反しても構わない国際法規範のみを採用していた[5]。したがって国際法は国家のパワーや自治に影響を及ぼさない周辺的な問題のみを取り上げるかもしれなかった。その結果としてリアリストにとって国際法は「損なわれやすい義務を包む薄いネット」のようなものであった[6]。

リアリストのアプローチによれば、一部の研究者は、「明白なルールを周知し、その遵守を監視し、違反を罰する共通の手続を制度化し、安定的なパワーバランスに強制力をもたせる」限りにおいて、国際法規範が効力を有する「執行の理論」を提案していた[7]。したがって互恵と制裁の役割が強調されていた。例えばモローは以下のように記していた。

近代の国際政治は一般的に国民国家の上にいかなる権力も認めていなかった。国家間の協定は合意した国家によってのみ執行力を有していた。アナーキーの仮定は戦時における国際法違反を制限するための協定にとってのパラドックスを示していた。(...) 互恵は国際政治における協定を履行するための主要なツールとして活用されていた。協定の履行は当事国に委ねられていた。損害を被った当事国は協定の違反に対する制裁によって対応するオプションを有していた。相互に対する制裁の脅威は国際法違反を抑止するために十分なものである可能性があり、そのような協定は国際政治において履行される可能性が存在していた[8]。

2.2 リベラリズム

リベラルな国際関係論に基づくと、一部の研究者は、国際法に対する国家の立場は国内政治、特に法の支配に対する主要な国内の個人や集団の選好によって決定されていると主張していた。したがって民主的な政府を有する民主主義国家は、非民主主義国家より国内法や国際法による規制を受け入れる蓋然性が高く、国際法を遵守することを受け入れる蓋然性も高かった。さらに民主的な社会は、国家間の関係、国家を超えた関係、政府を超えた関係による複雑なネットワークを通じて繋がっており、外交政策に関する官僚や市民社会は、国際法規範の形成や遵守を通じて、国家を超えた協調を促進することに関心を抱いていた[9]。したがって民主主義国家間において国際法規範を採用し遵守することは、非民主主義国家における国際法の遵守より容易であるはずであった。この点に関して、スローターは以下のように記していた。

リベラルな国家間で締結されている協定は、相互の信頼や協定の履行を促す調整の中で締結される可能性が高かった。しかし特に、これらが関係国における個人や集団のネットワークを参加させる協定であり、これらの国家が国内の司法によって担保される法の支配にコミットしているとの前提は、国内の裁判所を通じたさらなる「上意下達の」執行を促すはずであった。この執行の形態は、国家の責務、互恵、対抗措置を含む伝統的な「水平的」形態と対照的であった[10]。

2.3 合理的選択とゲーム理論

法に対するこのアプローチは、市場の内外の最適化された行動に対する法的な含意を確認するための理論や経済学に適用されていた。経済学は限定された状況での合理的選択を研究していた[11]。合理的選択は個々のアクターが自身の効用を最大化することを求めることを前提にしていた[12]。ここで採用された経済理論の多くは、伝統的な新古典派経済学であった。その経済学はアクターの相互作用を評価するミクロ経済学を含んでいた[13]。経済学の取引コストは、ミクロ経済学における情報を収集し、交渉し、協定を遵守させるコストを含めていた。ゲーム理論は、どのように行動を最適化するアクターが利得を増大させる行動を取ることに失敗していたのかを示していた[14]。公共選択は市場の外部における問題に対して経済学を用いていた。これらの分析ツールは法を説明し評価するために用いられていた。これらのツールを用いて、法は経済的効率性を通じて検証されていた[15]。また経済理論は法の改善を提案するために用いられていた。このアプローチは富を最大化させる法の採択を促していた。このアプローチの潜在的な応用例は文字ベースの解釈から始まるだろうとされていた。そして次の懸念は、実際に「市場」がうまく機能しているのかどうかに対して存在していた。三番目に不完全市場を改善する方法が提案されていた。このアプローチは一般的な法的問題を分析するために用いられる可能性があり、このアプローチが高度に限定的なルールを与え、そのルールを与えるための理論的根拠を与えているからであった。このアプローチは、完全競争が存在し、個人が効用を最大化する仮定に依存していた。これらの条件の存在を経験的に決定することは総じて困難であった。

2.4 国際法手続

古典的な国際法手続は、どのように国際法が実際に運用され、国際政治の中で機能し、国際法の研究が進展していったのかを研究するための方法であった[16]。「そして国際法手続は、ルールとその内容に対する論評というよりむしろ、どのように国際法が外交政策の担当者によって実際に用いられているのかについて焦点を当てていた」[17]。国際法手続は「国際関係論を研究しているリアリスト」と共に展開していき[18]、リアリストは冷戦が始まると共にどれほど国際法が国際情勢に影響を与えているのかについての認識を抱いていた。国際法手続は1968年のチェイス、エールリッヒ、ローウェンフェルドによる『国際法手続』の事例集の中で正当な理論と見做されており、そこでアメリカの法手続のための方法論は国際法手続を創設するために変化していった[19]。国際法手続は国際法手続が機能する方法や外国の機関が国際法を組み込む公式ないし非公式な方法を説明していた[17]。また国際法手続は、どの程度個人が国際紛争における人権侵害に対して責任を有しているのかを評価していた[20]。国際法手続は国際法が意思決定者の行動を決定付けないことを認識していた一方、国際法が正当化、言動の制限、計画を準備することの手段になっていたことを示唆していた[20]。国際法手続が方法論に関して規範的性質を欠如していることに対する批判は新たな国際法手続を生み出していた[21]。新たな国際法手続(NLP)は手続としての法とそれぞれの社会の価値観としての法の双方を組み込んでいた。アメリカの法体系と異なり、新たな国際法手続は「フェミニズム、共和主義、法と経済学、人権、平和、環境保護のようなリベラリズム」のような民主主義以外の規範的価値観を念頭に置いていた[22]。新たな国際法手続は価値観の進化に柔軟に適合していくことに関して独特であった。時間を超えた法的基準の変化に対応するために、新たな国際法手続の方法論の各要素は重要な役割を担っていた。新たな国際法手続は、紛争時に生じることや生じるであろうことを主張することによって、国際法手続からの新たな展開を示していた。

3 政策に対する展望

3.1 ニューヘブン・アプローチ

ニューヘブン学派は、マイレス・S・マクドゥーガル、ハロルド・D・ラスウェル、W・マイケル・リースマンによって切り開かれた国際法における政策に対する展望であった[23]。その系譜はロスコー・パウンドによる法社会学やリアリズム法学者の改革主義に根差していた。ニューヘブン・アプローチによれば、法哲学は社会的な選択を行うための理論であった。国際法は、法的機関による支配によって生じた行動の一定のパターンについて、関連するアクターの期待を反映していた。主な法的ないし知的課題は、アクターの社会的目標に対して最大限に達成され同時に秩序を維持する方法で、政策を決定し実施することであった[24]。これらの社会的規範の目標やニューヘブン・アプローチの価値観は、富、啓発、スキル、幸福、好意、敬意、正直さのようなアクターの内部で共有された価値観を高めることを含んでいた[25]。ニューヘブン学派の法哲学の目的は、最適な秩序の中にある共有された価値観を高め、国際的な秩序を縮小させるシステムとして、国際法を解釈することであった。

3.2 批判法学

批判法学(CLS)は1970年代のアメリカの法理論として登場していた。批判法学は高度に理論的な観点から国際法を分析する方法として今日まで存在していた[26]。批判法学の方法論は、国際法の性質が政治や力の伝統的な構造から抜け出せなかった文言によって決定づけられているので、限定されていることを示していた[27]。批判法学の研究者は、これらの力の構造が法律用語の中に(男性対女性、多数派対少数派、等)存在している二元論の中に見出されることを主張していた[28]。国際法の政治的側面を認識すると、これらの研究者は、国際法の普遍性は達成不可能であると主張していた[29]。この方法論に対する批判は、批判法学を徹底的に適用することが現実に不可能であることを示唆していた。しかしながら文言に対する深い分析や批判法学が明らかにしている不公平を理由にして、批判法学は国際法に対する他のアプローチ(フェミニストや文化相対主義者等による)を発展させていた[30]。

3.3 セントラル・ケース・アプローチ

セントラル・ケース・アプローチは人権状況を俯瞰する方法論であった。このアプローチはある普遍的な権利の存在を容認していた[31]。このアプローチは、人権が認められる仮定に基づいた理想状態を想定することによって、人権問題や実情を反映した基準を分析していた。セントラル・ケース・アプローチは、どの程度そしてどのような方法で、現状が理想(もしくはセントラル・ケース)から逸脱していったのかについて探求していた[32]。セントラル・ケース・アプローチは分析に関する伝統的な二元論以上に複雑な性質を考慮していた[33]。二元論において、人権は単に侵害されるか遵守されるかのいずれかであった[34]。二元論は、表面的にそして単純に状況を把握しているに過ぎない人権侵害の重大さの程度を考慮していなかった。ジョン・フィニスは法体系を評価するために利用されるセントラル・ケースの概念を発展させていた[35]。タイ・ヘン・チェンは人権に対してセントラル・ケースの概念を初めて適用していた。もし意思決定者によってセントラル・ケース・アプローチが用いられているならば、そのアプローチは人権侵害の防止に効力を有する可能性が存在していた。セントラル・ケース・アプローチは人権侵害に加えて社会の政治的ないし社会的状況を考慮に入れていた[32]。この考慮はセントラル・ケース・アプローチが人権侵害の動向やその理由を示すことを可能にしていた。セントラル・ケースにおける分析は人権侵害のさまざまな程度を示しており、政策決定者が緊急に対処する必要がある人権侵害の最も深刻な状況に注目することを可能にしていた。セントラル・ケース・アプローチは刻々と変化する状況に対する正確なイメージを与えていた[36]。二元論がある時点で人権が侵害されているかどうかを決定している一方で、セントラル・ケース・アプローチは人権状況に微妙な差異を与える政治的ないし社会的状況におけるシフトを示すことを可能にしていた[36]。

3.4 フェミニズム法理論

フェミニズム法理論はそれが家父長的であることを主張することによって法律用語を批判しており、法律用語は男性を規範としてそして女性を規範からの逸脱として表現していた。フェミニズム法理論の支持者は、女性を法律用語の内部に包含し、法を完全に再構築するために、法律用語を変えることを提案しており、正義と平等に対する広範な目標を達成することを可能にしていた。フェミニストの方法論は、国際法を記した文言におけるバイアスや、男性より弱い立場にあり法の下で保護される必要がある女性という概念を明らかにすることを求めていた。フェミニストであるヒラリー・チャールズワースは、男性や国際法から保護される必要がある被害者としての女性を示している文言を批判していた。さらにヒラリー・チャールズワースは、支配的な文言のアイロニーが、女性を保護することを目的としている一方で、女性の名誉を保護することを強調していたが、女性の社会的、文化的、経済的権利を保護することを強調していないことを含意していたことに言及していた。

3.5 LGBT法理論

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)に関する国際法理論は、国際法の欠点が認識されるようにクィア理論に統合して国際法理論を展開させた学派であった。現在、国際人権規約が平等や平等な機会を享受する人々を一般化することを始めている一方で、過去において、性の認識やジェンダーについてのアイデンティティに関するあらゆる議論が大部分においてタブーであった。LGBT国際法理論は、国際法の枠組みの中にクィア理論を統合することと同様に、LGBTの権利を包含し意識すること(さらに個人を保護すること)を中心に据えていた。LGBT理論がさらなる研究成果を挙げていたように、国際裁判所や国際機関(特に欧州連合理事会や国連)は、性別に基づいた職場差別、同性愛結婚による家族の定義から派生した問題、性の認識に問題を抱えたトランスセクシュアルの立場、一般的な健康支援やHIV/エイズ危機に関するLGBTの権利を認識する必要性、国連の中に(アドバイザーとして)LGBT支援グループを包含すること、同性愛に関わる人々に対する迫害を諸問題の中に含めていた[37]。研究者であるナンシー・レヴィットによれば、ゲイに関する法理論の課題は2つ存在していた。平等や従属理論に対する脆弱性を取り除くことや、LGBT国際法理論の要である幅広い文化的背景において、その価値が認められていないにせよ、許容されるセクシュアル・マイノリティを代表する方法論を発展させることであった[38]。

3.6 古代ローマにおける国際法

ローマ時代における国際法の概念は複雑なものであった。というのは、共和政ローマやそれ以降の帝国が歴史的に長期にわたって支配を続けていただけでなく、「国際法」という用語が正しい用語であるかどうかについての議論がいまだ結論に達していなかったからであった[39]。多くの研究者は国際法を「主権を有する領域国家の間における関係を支配する法」として定義していた[40]。ローマ法の中に同様の法を見出す取組みは、万民法の中にその出発地点を見出していた[41]。万民法は、当時の多くの国家に見られる法制度(奴隷制のような)のようなものに対するローマ人の認識から始まっていた[42]。この法は実際には私法に該当し、ローマ人の国家が国家でなく個人としての外国人を取り扱う方法を主に決定していた[42]。しかし212年に市民権が帝国内の全自由民に与えられると、万民法は本来の定義を維持することを止めて、国家全体に適用されていた[40]。そのため近代国際法の外観がこの変化の中に見出されることが可能であった。国際法の起源や近代国際法との関連は現時点では解明しきれていないトピックであった。

3.7 第三世界

国際法に対する第三世界からのアプローチ(TWAIL)は、「現在の法」に対して疑念を呈する厳密な意味での「方法」ではない、国際法に対する重要なアプローチであった。むしろ、それは特別な関心の対象や研究に必要な分析ツールによって統合された法に対するアプローチであった。TWAILは国際法と植民地の人々との衝突の歴史から引き出されたアプローチであった。TWAILは、ポストコロニアル研究、フェミニズム理論、批判法学、マルクス理論、批判的人種理論と多くの概念を共有していた。TWAILは研究において、第一世界と第三世界の綱引きや、第三世界の人々を従属させ抑圧することを正当化する国際法の役割を優先させていた。TWAILの研究者は、「第三世界」を統合された合理的な場として示すことを避けようとしており、発展途上や周縁化を共有している国民を示すためにその用語を用いていた。

現代のTWAILは、ジョルジュ・アビ=サーブ、F・ガルシア=アマドール・R・P・アナンド、モハメド・ベジャウイ、タスリム・O・エリアスのような法律家による著作に起源を有していた。長年にわたって欧米の研究者は第三世界の立場に理解を示しており、学術的な知識に対して重要な貢献をしており、C・H・アレクサンドロヴィッチ、リチャード・フォーク、ニコ・シュライバー、PJ・I・M・デ・ワールトのような研究者を含んでいた。デイヴィッド・ケネディやマルティ・コスケンニエミも同様に貢献していた。現在に至るまでに研究者の緩やかなネットワークとしてのTWAILは数度の会議を開催していた。

ジョンソンによる2009年の論文は、HIVに対する南部アフリカ開発共同体(SADC)議員フォーラムのモデル法が同時に国際人権法と対応しており、地域の特徴を反映している伝染病に対するリーダーシップと法哲学との連携を通じて、TWAILの目標に近づくことが可能であったと主張していた[43]。

アル・アッタールやミラーによる2010年の論文は、米州ボリバル同盟(ALBA)がTWAILを発展させるための潜在的な力を有しており、ALBAを「補完性や人間の連帯に関する概念に根差した国際法についての統合的な反論を有しているもの」として示していることを主張していた[44]。2011年の春にトレード・ロー・アンド・ディベロップメントはTWAILに関する特別号を出版していた[45]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Rule_according_to_higher_law

高次の法による支配

高次の法による支配は、もし法が普遍的な公正の原則(成文であれ不文であれ)、道徳、正義に適合していないならば、いかなる法も政府によって執行されてはならないことを意味していた[1]。したがって、政府が明白に定義され適切に制定された法的ルールを順守して行動していても、多くのオブザーバーによって不公正と見做される結果を生じさせているならば、高次の法による支配が、政治的ないし経済的意思決定を制限するための現実的な法的指針として機能を果たしていた[2]。

「高次の法」はこの文脈において、国際法の中に確立された神の法、自然法、基本的な法的価値観として解釈され、その選択はどういった観点によるのかに依存していた。しかし高次の法は明確に法の上に存在する法であった[3]。そして高次の法は、コモン・ローと大陸法の司法権に対して同じ法的価値を有しており、コモン・ローと関連している自然法と対立していた[4]。「理想としての法の支配と確立された立憲政治との必然的関係を考慮することは、全ての国家が同一の憲法構造を保持することが可能であることを暗示している訳ではなかった」[5]。

高次の法による支配は、法の支配に対する英米圏の学説、コモン・ローを採用している国々の伝統、法治国家に対するドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシアの学説の間における相互理解(普遍的な法的価値観に関する)を橋渡しする高次の法理論を具体化するためのアプローチであった[6]。大陸法の学説はドイツの法哲学を通じたヨーロッパ大陸の法思想の産物であった。法治国家の名称は英語に翻訳されたものであり、政府による権力の行使が、国家によって確立され常に変化する法よりむしろ、高次の法によって検証され続ける国家を常に意味していた。アマルティア・センは、古代インドにおける法哲学者が、単に制度や規則を評価する問題でなく社会自体を評価する問題であるといった意味で、古典サンスクリット語の「ニヤーヤ」という用語を用いていたことに言及していた[7]。

1 事例

南北戦争以前にアフリカ系アメリカ人は、主人と奴隷の関係を規定する公式な効力を有する法に準じて、白人系アメリカ人と同等の権利や自由を法的に否定されていた。これらの法は、執行にあたって完全に適法であり、当時のアメリカ政府によるこれらの法の執行は相当数の住民の基本的人権を侵害していた。ウィリアム・H・スワードは、奴隷制が「憲法より高次の法」の下で禁じられていると明確に言及していた。

一般的に言えば、「正当に制定された不公正な法」が制定されることは、法の支配の原則に対するその国の政治的リーダーシップが採用する見解に依存していた。

一部の国々では、政治のリーダーは法の支配が手続上の概念であると主張していた。そのために彼らは、あらゆる政府がその国民から基本的な自由を奪い、適切に執行された法手続に従っている限り生命の権利を侵害してもよいと主張していた。例えばニュルンベルク裁判では、第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人やジプシーに対する犯罪を正当化するために、ナチス・ドイツの元リーダーは、ヒトラーが権力を握っていたときに効力を有していた法を一つとして破っていなかったことを抗弁していた。高次の法による支配によってのみ、連合国検察はそのような抗弁を正当に論破することが可能であった[8]。

他の国々では、逆に政治のリーダーは、全ての成文法が道徳、公正さ、正義といった普遍的な原則に沿って維持されなければならないことを主張していた。これらのリーダーは、「誰もが法に従わなければならない」といった原理の必然的な帰結として、法の支配が政府に対して法の下で全ての人々を平等に取り扱うことを求めていることを主張していた。しかし政府がある階級に属する個人や一般的な人権について十分なレベルの人権尊重、個人の尊厳、自治権を否定するたびに、平等に取り扱われる権利が侵害される傾向にあった[9]。そのために平等権、自治権、個人の尊厳、人権尊重に関する不文の自明な原則が政府によって制定された従来の成文法を支配していることが言及されていた。これらの原則はしばしば「自然法」として言及されていた。これらの原則は同様に「高次の法理」の基礎を構成していた。

2 高次の法を執行する立憲政治

18世紀後半にアメリカやフランスで憲法が採用された後、ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントによって初めて法治国家に関する学説が紹介されていた。カントのアプローチは高次の法に関する原則を用いて形成された成文憲法の優越性に基づいていた。この優越性は、市民の幸福や繁栄のための基礎的な条件としての恒久的に平和な生活を求めるカントの考え方を実践に移すことを意味していた。カントはその学説を立憲主義や立憲政治のみに基づかせていた。

カントは次のように高次の法を執行するための手段としての立憲主義の問題点を明確に指摘していた。「国家の憲法は市民の倫理に基づいており、市民の倫理は憲法の本質に基づいていた。」 カントの考え方は21世紀の憲法理論の基礎を成していた。法治国家の考え方は例えばイマヌエル・カントの『人倫の形而上学の基礎付け』によって紹介された考え方に基づいていた。

「普遍的であり恒久的に平和な生活を確立することは、純粋理性の枠組みの中の法理論の一部であるだけでなく、それ自体で絶対的であり最も重要な目標でもあった。この目標を達成するために、国家は共通の憲法に基づいた財産権を法的に保障された中で生活している多数の人々で構成されるコミュニティであらねばならなかった。憲法の優越性は...公法の庇護の下で人々の生活を最も公正に守るといった絶対的な理想を達成することから論理的に引き出されなければならなかった。」[10]

19世紀にアレクサンドル2世の大改革による変化の結果として生じたロシアの法制度は、現在もそうであるが、本質的にドイツ法の伝統に基づいていた。ドイツ法の伝統からロシアは法治国家の考え方を採用していた。法治国家に類似した英語の表現は「法の支配」であった[11]。ロシアにおける法治国家の概念は国家の最高法規としての成文憲法(憲法による支配)を採用していた。基礎を支えているが定義されていない原則は、共産主義政権崩壊後のロシアの憲法の特徴を示している最も重要な条項の中に表れていた。「ロシア連邦は統治の形態として共和制を採用した民主的な連邦制の法治国家であった。」 同様にウクライナの憲法の特徴を示している最も重要な条項は「ウクライナは主権国家であり、独立国家であり、民主主義国家であり、社会国家であり、法治国家である」と宣言していた。したがって「法治国家」という言葉に意味を与えることは理論のための理論ではなかった。

2003年にロシアの憲法裁判所長官であるワレリー・ゾリキンは「法治国家になることが長らく私たちの最も重要な目標であり、私たちは過去数年間にわたってこの方向に向けて着実な進歩を続けてきた。しかし現在私たちがこの目標を達成したと述べることは誰もできなかった。そのような法治国家は合法的で公正な社会なくして存在することができなかった。この点で私たちの生活とは別に、国家は社会によって達成された成熟の程度を反映したものであった。」[12]

ロシアにおける法治国家の概念は、経済学の枠組みで高次の法理を執行する立憲経済学の大部分を採用していた。

経済学者であるジェームズ・M・ブキャナンは、立憲政治の枠組みの中であらゆる政府による介入や規制は以下の3つの仮定によって条件付けられていなければならないと主張していた。第一に、市場経済を機能させることに対するあらゆる失敗が政府の介入によって修正されることが可能であり、第二に、政治を職業としている人々や官職についている人々が、個人の経済的利益と無関係に、公共の利益を利他的に支持しており、第三に、政府がさらなる介入や支配を目指すことが社会的ないし経済的生活に対して影響を及ぼさないことであった。

ブキャナンは「国家が知識に関して国家を構成する個人より優れているといった考え方」を拒否していた。そしてその哲学的な立場は立憲経済学のトピックを取り扱っていた。立憲経済学によるアプローチは経済学と憲法的分析を組み合わせることを許容しており、一面的な理解を回避していた。カントに沿ってブキャナンは、少なくとも数世代の人々によって用いられることを考慮されていた高次の法としての憲法が、経済的意思決定のために、その憲法自身を修正することが可能であらねばならない一方で、個人の利益と対立する国家や社会の利益と、個人の自由や幸福に関して憲法上の権利のバランスを保っていると考えていた。

またブキャナンは憲法規範の根底にある道徳的な原則を保護する意義について言及していた。そしてブキャナンは、「憲法上の市民権に関わる倫理は、現在の体制によって課された枠組みの中において他の人々と相互作用している倫理的行動と直接対応することがなく、個人は、標準的な倫理の意味において、完全に合理的に考え行動しているかもしれなかったが、憲法上の市民権の要求を倫理的に満たすことに失敗していたかもしれなかった」と述べていた[13]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Jurisprudence

法哲学

法哲学は法学であり法に関する理論であった。法哲学の研究者(法に関する社会理論の研究者を含む)は、自然法、法的推論、法制度を深く理解することを望んでいた。近代の法哲学は18世紀に始まっており、自然法、大陸法、国際公法において最も重要な原則に焦点を当てていた[1]。一般的な法哲学は、研究者が抱いている疑問のタイプや、どのようにこれらの疑問が解決されるのかに関する法哲学の理論の双方によって、いくつかのカテゴリーに分割されていた。現代における一般的な法哲学は2つの大まかなグループに属する問題に焦点を当てていた[2]。

(1) 法や法制度内部の問題。

(2) 政治情勢や経済情勢に関連した社会制度としての法の問題。

これらの問題に対する解答は一般的な法哲学に関する思想における4つの学派に分かれていた[2]。

自然法は、立法者の力が合理的で客観的な制限に縛られているとの考え方を示していた。法の基盤は人間の理性を通じて理解されており、人間の手による法の制定はその力の源泉を自然法を通じて獲得していた[2]。

自然法と対照的に法実証主義は、法と道徳の間に必然的な関連はなく、法の力はいくつかの必要最低限な社会的事実に基づいているにすぎないと述べていた。法実証主義者はこれらの社会的事実を正義や善といった価値から切り離していた[3]。

リアリズム法学は法哲学における三番目の理論であり、現実の世界における法の執行が現在の法を決定づけるものであり、立法者、裁判官、行政官が法を通じて個人的な嗜好や偏見を実現することによって、法が力を行使していると主張していた。同様のアプローチは法社会学の視点を通じて多くの方法で展開されていた。

批判法学は最も新しい法哲学であり、1970年代から発展していた。批判法学は、法が大きく矛盾した存在であり、支配的な社会集団の政策目標の具体化として分析され得ることを示す否定的な見解であった[4]。

また現代の法哲学者であるロナルド・ドウォーキンの著作が著名であり、ロナルド・ドウォーキンは、自然法理論と法実証主義の間に位置しているコンストラクティヴィストによる理論を支持していた[5]。

この英語による用語はラテン語の法哲学に基づいており、"juris"は法を意味する"jus"の所有格であり、"prudentia"は哲学を意味していた(それは分別、洞察、配慮、慎重さであり、妥当な判断を下すことを示しており、現実の問題を解決することに対する注意を含んでいた)。現在"prudence"という用語に関して「分別に関する知識やスキル」といった意味は廃れていたが、1628年に初めて法哲学という言葉が英語で登場していた[6]。この法哲学という用語はフランス語の"jurisprudence"由来である可能性が存在しており、そうであれば1628年より早く登場したことになる。

1 法哲学の歴史

その起源においてこの学問分野は祖先の慣習に関する法(伝統的な法)や「父から息子へ」口頭で継承された口述の法や慣習を研究の対象としており、古代ローマにおいて法哲学はこの意味をすでに採用していた。古代ローマの執政官は、起訴され得る犯罪を毎年布告するか、特殊な事例を法令に追加するかのいずれかによって、特殊な事件を起訴することが可能であるのかどうかを判断することによって法を確立していた。そして判事は事件に関する事実に従って判決を下していた。

彼らの判決は伝統的な慣習を単純に解釈したものと考えられていたが、個々の事件について何が伝統的に法的慣習の中に含まれているのかを再考することとは別に、より公平な解釈を目指し、法を新たな社会状況に適合させていた。法は新たに適合し続ける制度(法的概念における)に基づいて執行されていたが、伝統的な枠組みの中に収まったままであった。紀元前3世紀に古代ローマの執政官は知識人の共同体と入れ替わっていた。知識人の共同体への参加は能力や経験を証明することによって条件付けられていた。

ローマ帝国においては法学校が開設されており、次第に学術的になっていった。初期のローマ帝国から3世紀に至るまでプロクルス派やサビヌス派が法に関する研究を行なっていた。その研究内容は古代において前例がないほど深いものであった。

3世紀以降、法哲学はより官僚的色彩を強くしており、ほとんど有名な研究者は現れなかった。東ローマ帝国の時代に(5世紀)、法学は再び深化し、この文化的運動からユスティニアヌスのローマ法大全が生まれていた。

2 自然法

自然法理論は、自然に内在している法が存在しており、制定された法が可能な限り自然と一致していると主張していた。この見解は、不正なる法は法にあらずという格言によってしばしば説明されており、「不正なる法は法にあらず」において「不正なる」は自然法の対立概念として示されていた。自然法は道徳と密接に関連しており、歴史的に説得力がある見方によれば、神の意思と関連していた。その概念を非常に単純化すると、自然法理論は国家の法を制定する力を誘導し、「善なるもの」を促すための道徳的な方向を定めようとしていた。人間の法体系の外部にある客観的な道徳的秩序といった概念が自然法の根底に存在していた。何が正しくて何が間違っているのかはフォーカスされた利益に従って変化する可能性が存在していた。自然法は時として「不正なる法は法にあらず」という格言と同等に考えられていたが、ジョン・フィニスのように現代の自然法学者において最も評価が高い人々は、この格言は古典的なトマス主義の指針としては貧弱であったと主張していた。

3 分析法学

分析法学は、法体系の側面を説明するときに、視点や記述に用いられる言語を中立的に用いることを意味していた。分析法学は、何が法であり、何が法であるべきかを融合させた自然法を拒否する哲学的議論であった[26]。デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』[27]において、そのために私たちが行動を決定しなければならないと世界が示すための行程にあることを人々が常に表明していると主張していた。しかし純粋なロジックの問題として、何かが争点となるので、私たちが何かをしなければならないと結論付けることは不可能であった。したがって世界の在り方を分析することは規範と評価を厳密に分離して取り扱われなければならなかった。

分析法学において最も重要な問題は、「何が法であるのか」「何が法学であるのか」「法と力ないし社会学との関係は一体何であるのか」「法と道徳との関係は一体何であるのか」であった。法実証主義は支配的な理論であったが、独自の解釈を与える多くの批評家に囲まれていた。

法実証主義者

実証主義は単に、法が「断定された」何かであることを意味しており、法は社会的に受け入れられたルールに従って正当に制定されていた。法実証主義は2つの大きな原則に従っていると考えられていた。第一に、法は正義、道徳、他の規範となる目標を実現することを目指していたが、それらの目標に対する成否は法の正当性を決定付けていなかった。法が社会に受け入れられる方法で適切に制定されているならば、他の基準によってその正当性を担保されているか否かに関わらず、法は正当な法であった。第二に、法は秩序や社会の統治をもたらすルールの集合以上の存在ではなかった。しかしいかなる法実証主義者も、そのために法が何であれ遵守されなければならないものであるとは主張していなかった。そしてこれは全く別の問題であると考えられていた。

現行法(lex lata)は歴史的なそして社会的な背景によって決定されていた。

あるべき法(lex ferenda)は道徳的な配慮によって決定されていた。

ベンサムやオースティン

一番初期の法実証主義者の1人としてジェレミ・ベンサムが挙げられていた。ベンサムは初期の忠実な功利主義者の1人であり(ヒュームとともに)、刑務所に対する熱心な改革者であり、民主主義の支持者であり、強固な無神論者であった。法や法哲学に対するベンサムの見解は弟子であるジョン・オースティンによって広められることになった。1829年からオースティンはロンドン大学の法学教授となっていた。「何が法であるのか」に対するオースティンによる功利主義的な解答は、法は「罰則によって裏付けられた服従する人々に対する主権者からの命令」であった[28]。現代の法実証主義はこの見解を捨て去り、特にH・L・A・ハートはその過剰な単純化を批判していた。

ハンス・ケルゼン

ハンス・ケルゼンは20世紀における傑出した法学者の1人として考えられており、ヨーロッパやラテンアメリカに影響を与えていたが、コモン・ローを採用していた国々にはそれ程影響を与えていなかった。ハンス・ケルゼンの純粋法学は、強制力のある規範を評価することを拒絶していたが、法を強制力のある規範として示すことを目指していた。それは「法学」を「政治学」から切り離していた。純粋法学の中心は法学者によって仮定された規範である「根本規範」にあり、憲法に始まる法体系におけるあらゆる「下位」規範が根本規範から「拘束力」を引き出していると理解されていた。ケルゼンは、表面的な「法的」性質の中に確認できる法的規範の拘束力が、神、擬人化された自然、擬人化された国家(当時重要であった)のような形而上学上の存在を引き合いに出すことなしに理解されることが可能であると主張していた。

H・L・A・ハート

英語圏の重要な研究者の中にH・L・A・ハートがおり、法は社会的ルールを体系化したものとして理解されるべきであると主張していた。ハートは、制裁が法にとって不可欠な存在であり、法のような社会規範が規範とならない社会的事実に基づけられることはできないとするケルゼンの見解を拒絶していた。ハートは『法の概念』を通じて20世紀における重要な論争として分析法学を取り上げていた[29]。オックスフォード大学の法哲学の教授として、ハートは法が「ルールの体系」に他ならないと主張していた。

ハートは、ルールが一次的ルール(人の行為に対するルール)と二次的ルール(一次的ルールを管轄するために当局者に対して向けられたルール)に分割されることに言及していた。また二次的ルールは、裁定のルール(法的紛争を解決するための)、変更のルール(法が変更されることを許容する)、承認のルール(法が妥当であると認められることを許容する)に分割されていた。「承認のルール」は、当局者(特に裁判官)による慣行がある一定の行動や決定を法源として認めていたことを含んでいた。1981年に(第二版は2007年に)ハートに関する著作がニール・マコーミックによって記されており、彼の理論(2007年に出版された著作が例として挙げられる)を展開させるための重要な批評が与えられていた。他の重要な批評はロナルド・ドウォーキン、ジョン・フィニス、ジョセフ・ラズによってなされていた。

近年法の性質に関する議論が精緻さを増してきていた。重要な議論の1つは法実証主義の中に存在していた。ある学派は時として排除的法実証主義と呼ばれており、規範に対する法的妥当性が道徳的な正しさに依存することがないといった見解に関連していた。2番目の学派は包含的法実証主義と呼ばれており、その主な支持者はウィル・ワルチャウであり、道徳的考慮が規範に対する法的妥当性を決定付ける可能性が存在していていたが、常にそうである訳ではないといった見解に関連していた。

ジョセフ・ラズ

ある哲学者たちは、実証主義が法と道徳の間に「必然的な関連がない」といった理論であることを主張していたが、ジョセフ・ラズ、ジョン・ガードナー、レスリー・グリーンを含む現代の有力な実証主義者はこの見解を拒否していた。ラズが指摘しているように、法制度に起因していないだろうと一般的に考えられている(例えば、法制度を担う人々が暴行や殺人を犯すはずがないといった)前提が現実と異なっていることは周知の事実であった。

ジョセフ・ラズは実証主義を擁護していたが、『法の権威』におけるハートのアプローチを批判していた[31]。ラズは、法が道徳的な裏付けを参照することなしに純粋な社会的事実を通じて確認される権威であることを主張していた。権威を超えたルールの分類は法哲学に対してよりも社会学に対して委ねられていた[32]。

ロナルド・ドウォーキン

『法の帝国』の中で、ドウォーキンは、ハートや道徳の問題として法を取り扱うことを拒否したことに対して実証主義者を批判していた。ドウォーキンは、法は「解釈の後に」得られる概念であり、慣習としての伝統を考慮しながら、法的紛争に対して最も妥当な解決を見出すことを裁判官に求めることを主張していた。ドウォーキンによれば、法は社会的事実に全く基づいておらず、私たちが直感的に合法であるとみなしている制度的事実や法の執行を道徳的に最も正当化することを含んでいた。ドウォーキンの見解によれば人は、人が社会において法の執行を正当化することに対する道徳的観点を知るまで、社会が執行されている法制度を有しているのかどうかや、個々の法が何であるのかを知ることができなかった。法実証主義者やリアリズム法学者と対照的に、誰も法の執行を最大限に正当化することを知っていないかもしれないので、社会における誰もが法が何であるのかを知らないかもしれないといったことはドウォーキンの見解と一致していた。

ドウォーキンによる純一性としての法によれば、解釈は2つの次元を有していた。解釈を考慮するために、法令や判例の文言を解釈することが正当化の基準に合致していなければならなかった。正当化される解釈に関してドウォーキンは、正確な解釈がコミュニティの政治に光を照らし、可能な限り最善のことを成していると主張していた。しかし多くの研究者は、あらゆるコミュニティにおける複雑な法の執行に対して唯一の正当化がなされることに対して疑念を呈しており、他の研究者は、仮に存在するにせよ、法の執行がコミュニティの法の一部として考慮されるべきであることに対して疑念を呈していた。

リアリズム法学

リアリズム法学は北欧やアメリカの研究者に人気がある見解であった。懐疑的な立場から、法は、ルールや学説が成文法や条約上で述べていることよりもむしろ、裁判所、法律事務所、警察署に属する人々の個人的な嗜好や偏見によって理解され、決定されてきたと主張していた。リアリズム法学は法社会学と親和性が高かった。リアリズム法学の基本的な考え方は、あらゆる法が人間によって制定され、したがって人間の弱点の影響を受けやすいといった立場を基盤にしていた。

最高裁判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアをアメリカのリアリズム法学の提唱者としてきたことは今日一般的であった(他に、ロスコー・パウンド、カール・ルウェリン、最高裁判事であるベンジャミン・カードーゾを含んでいた)。他のアメリカのリアリズム法学の提唱者であるカール・ルウェリンは同様に、法が人間のバイアスに基づいた結果を形成する可能性がある裁判官の個人的な嗜好や偏見以上のものではないと考えていた[34]。北欧におけるリアリズム法学は主にアクセル・ヘーガーシュトレームによる仕事であると考えられていた。その人気の凋落にもかかわらず、リアリズム法学は今日の法哲学に幅広い影響を与えており、批判法学、フェミニズム法理論、批判的人種理論、法社会学、法と経済学を含んでいた。

歴史法学派

歴史法学はゲルマン法の法典化に対するドイツにおける論争を通じて有名になっていた。『立法と法科学に関する現代の課題』の中でフリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーは、ドイツ人の伝統、慣習、信念が法典に対して信頼を置いていないため、ドイツが法典化を支援する法律用語を有していないと主張していた。歴史法学者は、法が社会から生じていると考えていた。

4 規範的法哲学

「何が法であるのか」といった問題に加えて、法哲学は法についての規範的理論に関連していた。法の目的は何であるのか。道徳や政治学は法の基礎に何をもたらしているのか。何が法の固有の機能であるのか。どんな種類の行為が処罰の対象であるべきであり、どんな種類の処罰が許容されるべきであるのか。何が正義であるのか。どんな権利を私たちは保持しているのか。法に従う義務は存在しているのか。どのような価値を法の支配がもたらしているのか。その学説と研究者を以下に記すことにする。

徳法学

徳倫理学のような規範倫理学は道徳性の役割を強調していた。徳法学は法が市民の手によって道徳性を向上させるといった見解であった。歴史的にこのアプローチは主にアリストテレスや後のトマス・アクィナスに関連していた。現代の徳法学は徳倫理学における哲学上の業績によって触発されていた。

義務論

義務論は「道徳的義務に関する理論」であった[36]。哲学者であるイマヌエル・カントは法についての義務論を構築していた。カントは、私たちが従っているあらゆるルールが普遍的に適用されることが可能であらねばならず、皆がそのルールに従うことを私たちが許容しなければならないと主張していた。現代の義務論的アプローチは法哲学者であるロナルド・ドウォーキンの業績の中に確認することが可能であった。

功利主義

功利主義は、法が最大多数の最大幸福を生み出すように制定されなければならないといった立場であった。歴史的に法に関する功利主義の思想家は哲学者であるジェレミ・ベンサムに関連していた。ジョン・スチュアート・ミルはベンサムの弟子であり、19世紀後半における功利主義の擁護者であった[37]。現代の法哲学において功利主義的なアプローチは法と経済学を研究していた人々によって支持されていた。同様にライサンダー・スプーナーを参照せよ。

ジョン・ロールズ

ジョン・ロールズはアメリカの哲学者であり、ハーバード大学の政治哲学の教授であり、『正義論』(1971)、『政治的リベラリズム』、『公正としての正義 再説』、『万民の法』の著者であった。ロールズは20世紀を代表する英語圏の政治哲学者の1人であると広く考えられていた。ロールズの正義論は、もし私たちが「無知のヴェール」に覆われているならば、私たちの社会を構成する基本的な制度を設計するために、どのような正義の原理を私たちが選択するだろうかと私たちに尋ねていた。もし私たちが人種、性別、資産状況、階級といった私たちを特徴付ける要素を全く知らないならば、私たちは私たちの嗜好からバイアスを受けなかったであろう。この「原初状態」からロールズは、私たちが言論の自由や投票の自由等のような全ての人々に対する同一の政治的自由を獲得するだろうといったことを主張していた。また私たちは、法制度が特に貧困者を含む全ての社会の構成員の経済厚生の向上に対する十分なインセンティブを与えているので、生じた不平等が許容される法制度を選択することになるだろう。これはロールズの有名な「格差原理」であった。選択における原初状態の公正さが原初状態において選択された原則の公正さを担保している意味において、正義は公正であった。

法哲学に対する規範的アプローチは他に多数存在しており、批判法学や法哲学におけるリバタリアニズムを含んでいた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Private_international_law

法の抵触

法の抵触(国際私法)は、どの法体系やどの管轄権が該当する紛争に適用されるのかを決定する手続規則の総体であった。「外国が関係する」要素がイギリス、アメリカ、オーストラリア、カナダといった管轄権を有する複数の国に存在しているけれども、法的紛争が異なった国の当事者によって合意された契約のような「外国が関係する」要素を扱っているときに、そのルールが一般的に適用されていた。

法の抵触という用語は、法的紛争の帰結がどの法が適用されるのかに依存している状況やこれらの法の衝突を解決するコモン・ローの裁判から生じていた。大陸法の枠組みにおいて法律家や法学の研究者は国際私法のような法の抵触に言及していた。国際私法は国際公法と現実において何ら関連しておらず、その代わりとして国ごとに異なる現地の法を特徴にしていた。

国際私法には3つの視点が存在していた。

管轄裁判所が紛争を解決する管轄権を有しているか否かといったこと。

紛争を解決するために適用される法の選択。

判決を出す裁判における管轄権の内部において外部の管轄裁判所からの判断を許容し執行する能力。

1 用語

法の抵触、私的国際法、国際私法といった異なった名称は一般的に交換可能であったが、それらは全体像を見る限り正確ではなく、適切に説明していなかった。法の抵触といった用語はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアといったコモン・ローの司法機関の中で用いられていた。私的国際法はイタリア、ギリシア、スペイン語圏、ポルトガル語圏と同様にフランスで用いられていた。国際私法はドイツ、ロシア、スコットランド(オーストリア、リヒテンシュタイン、スイスと同様に)で用いられていた。

アメリカやオーストラリアのような連邦国家における法の抵触がその抵触に対する解決を必要としていた連邦制において、その抵触は単なる国際問題を含んでいなかったので、法の抵触といった用語が好まれていた。したがって法の抵触は、関連する法体系が国際的であるか否かに関わらず、法の相違に言及するために好まれた用語であった。しかしながら法の抵触は、「抵触」よりむしろ競合する法体系の衝突を解決することに言及するときに、誤解を招く恐れがあった。英語における私的国際法という用語はアメリカの法学者であるジョセフ・ストーリによって創り出されていたが、コモン・ローの研究者によって実質的に放棄させられ、民法の研究者によって採用されていた。

2 歴史

英米法の伝統における法の抵触の最初の例はギリシア法に遡ることが可能であった。古代ギリシアは複数の国家に及ぶ問題を取り扱っていたが、抵触法を制定していなかった。ギリシア法は全ての国家の市民にとって平等に適用可能であったので、紛争の解決は国際的な紛争に対する裁判所の設置から地域の国内法の適用に至るまで様々であった[1]。

さらなる議論はローマ法に遡ることが可能であった。ローマの市民法は市民でない人々に適用されることができず、特別法廷が複数の国家に及ぶ事件に対する管轄権を有していた。これらの特別法廷の裁判官は外国人係法務官と呼ばれていた。外国人係法務官は適用すべき法の管轄を決定していなかった。その代わりに外国人係法務官は「万民法」を「適用」していた。万民法は国際的な規範に基づいた法について緩やかに定義されたものであった。したがって外国人係法務官は個々の事件に対する新たな実体法を制定していた[2]。今日実体法は抵触法の問題に対する「明文化された」解決方法として認識されていた。

近代における法の抵触は一般的に中世後期のイタリア北部、特にジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィアのような交易都市で始まったと考えられていた。異なった都市に属する貿易業者間の商取引に関わる問題を裁判する必要性は法に対する理論を発達させ、ある都市の法は影響を及ぼす人に「関する」人法として考えられており、他の都市の法は物法として考えられており、商行為が行われた都市の法を適用していた(所在地法を参照せよ)。

また海事法は国際法上のルールの原動力になっており、契約の履行、難破船の船員や財産の保護、港湾の維持管理を含んでいた[3]。

1834年にジョセフ・ストーリが『法の抵触註解』を発表した19世紀のアメリカにおいて、抵触法の現代版が登場していた。ストーリの著作はA・V・ダイシーのようにイギリスにおける抵触法の展開に大きな影響を及ぼしていた。そしてイングランド法の多くがイギリス連邦の大多数に対する法の抵触の基礎になっていた。

しかしながら20世紀半ばのアメリカにおいてストーリの著作は人気を博さなくなっていた。伝統的な法の抵触のルールは、第二次産業革命によって高度に流動化した社会からの要請に対して対応し切れていない非常に厳格なものとして広く認識されていた。そしてそれらのルールは多くの取り組みによって変更を加えられ、その取り組みの内、最も重要なものは、法学者であるブレイナード・カリーによって研究された政府の利益を分析したものであった。カリーを通じて、アメリカにおける法の抵触のルールは国際水準に耐え得るルールから大きく乖離していった。

3 抵触の段階

まず裁判所は管轄権を有しているかどうかを決定しなければならず、もし管轄権を有しているのならば、フォーラム・ショッピングの問題を抱えているが、裁判が適切な裁判地で行われているのかどうかを決定しなければならなかった。

次のステップは、付随する問題を生じさせるかもしれないが、訴訟を法的カテゴリーの中に分類することであった(例えば手続法と実体法の区別が必要であった)。

個々の法的カテゴリーは、競合する法のどれが個々の問題に適用されるべきかを決定するために、法を選択していた。この重要な要素は反致に関するルールになるかもしれなかった。

一旦準拠法が決定されると、その準拠法が管轄裁判所において明示され、判決を下すために適用されなければならなかった。

その後当事国は、国際間で共有する作業に関与している判決を執行しなければならなかった。

抵触法が発展途上の国々にとって、管轄権の決定はその場しのぎで行われる傾向があり、法の選択は私法の分野に分類され、法廷地法や現地の法を適用する傾向にあった。抵触法が成熟している国々にとって、抵触法は現地の私法から離れ、用語と概念の双方において国際的な視点を採用していた。例えばEUでは、あらゆる管轄権の問題がブリュッセルⅠ規則によって規定され、例えば加盟国における他の係争中の訴訟にブリュッセルⅠ規則を適用しており、その解釈は現地の裁判所よりむしろ欧州司法裁判所によって決定されていた。抵触法に関するルールにおける他の要素は、国家の枠組みを超えて形成され、条約や協定を通じて執行されていた。これらのルールは主権の問題と直接関係しており、締結国の裁判所において法をその領域外から適用しているので、私法と言うよりかは公法としての色彩を帯びており、その理由として、個々の国家が現地の裁判所を管轄とすることや、現地の法が現地の裁判所に適用されることを現地の人々が期待していることに対して妥協を促していたことが挙げられていた。このような公共的な側面は、ヨーロッパという共同体かもしくは、裁判所が憲法制定権のある国家や領域間のみならず州や連邦裁判所間、そして連邦外の他国由来の関連する法の間における管轄権や法の抵触の問題に取り組まなければならなかったアメリカ、カナダ、オーストラリアといった連邦国家に対して適用されるべきかどうかという憲法的意味を有していた[4]。

4 法の選択

法の選択の問題に直面していた裁判所は2段階のプロセスを辿っていた。

裁判所はあらゆる手続の問題(自明であるが法の選択の問題を含んでいる)に対して法廷地法を適用していた。

それは、法的問題を潜在的に関連している国家の法に関連させる要因であると考えられており、最も関連している法を適用しており、例えば、当事者の本国法や当事者の住所地の法が法律上の身分や行為能力を定義しており、目的物の所在地の法が所有権に関するあらゆる問題を判断するために適用されており、物理的に取引が行われた場所の法や行為地法が、問題が明文化されているときに、しばしば判決を左右する法になっていたが、準拠法がより一般的に選択されていた。

5 婚姻に関する法の抵触

離婚のケースで、裁判所が夫婦の財産を分割するときに、離婚する夫婦が現地におり、財産が現地にあるならば、裁判所は国内法である法廷地法を適用するだろう。現地の法が一夫多妻を許容しているならば、この問題は一層複雑になる。例えばカナダのサスカチュワン州は同時に複数の配偶者を許容している州として存在していた[5]。各州が同様の夫婦の財産に関わる法を有していたが、複数の州が連邦における一夫多妻に関する法を認めていないならば、何が生じるであろうか。このケースでは、彼らの地元の州が一夫多妻を許容しているかどうかに依存しているが、配偶者が複数の配偶者から同時に夫婦の財産を与えれたり与えたりする一方、その他の人々は唯一人の配偶者から夫婦の財産を与えられたり与えたりしていた。例えば、婚姻した場所が離婚手続をする場所と異なるとき、当事者の国籍と住所が一致していないとき、外国の管轄権の中に財産があるとき、当事者が婚姻期間中に何度も住居を移動していたときに、外国由来の要素が混在しているならば、この問題は一層複雑になっていた。配偶者が外国法の適用を求めるたびに、当事者が法の抵触の問題の概要や外国法の翻訳を伝えられるので、離婚手続はしばしば遅滞することになった。

異なった管轄権が異なったルールを適用していた。法の抵触を分析し始める前に、裁判所は、財産契約が当事者間の関係を支配しているかどうかを判断しなければならなかった。財産契約はその履行が求められる国で要求されているあらゆる手続を満たしていなければならなかった。

商業契約や婚前契約が一般的に遵守されるべき法的手続を求めていない一方、婚姻した夫婦が財産契約を結ぶときには厳格な要件が課されており、それは公証、証人、形式に対する特別な知識を含んでいた。ある国々では国内の裁判所にその概要を提出しなければならず、その際に用いる用語は判事によって「指定」されていた。このことは、不当な影響力が当事者の配偶者によって行使されないことを保証するためになされていた。配偶者間における裁判所に対する財産契約に関して、裁判所は一般的に以下の要素を認めており、それは、署名、法手続、その意思、その後の意思、自由意志、抑圧されていないこと、合理性や公平性、配慮、振る舞い、信頼、書面に対する後の評価、適用される契約の交渉経過を含んでいた。

有効な契約がない場合に、法の抵触のルールが機能することになった。

動産と不動産。一般的に適用可能な婚姻法は財産の性質に依存していた。配偶者の住所変更を考慮しなければ、目的物の所在地の法が不動産に対して適用され、また婚姻上の住所における法が動産に対して適用されていた。

完全に変更可能な立場を支持する学説(フル・ミュータビリティ・ドクトリン)。配偶者間の財産の帰属は、その最後の住所や婚姻の前後に獲得されていたかどうかによって決定されていた[6]。これはイギリスの規範であり、深刻な不公平が厳格な適用から生じるケースを例外にしていた。このケースにおいて、裁判所は新たに獲得された財産が婚姻以前に所有されていた財産に関係しているかどうかを検証していた。

変更不可能な立場を支持する学説(インミュータビリティ・ドクトリン)。婚姻時における当事者間の属人法は、居住地や国籍の変更に関わらず、新たに取得された財産を含むあらゆる財産を規定していた。これはフランス、ドイツ、ベルギーのような大陸法のアプローチであった。特定の留保を伴っているが、婚姻を通じた財産に関する1976年のハーグ条約の第7条を参照せよ。またイスラエルでは、「合意によって決定され、合意の際の居住地の法に従ってその財産の帰属を変更しているならば、配偶者間の財産の帰属は挙式時の居住地の法によって規定されていた。」[7] イスラエルが変更不可能な立場を支持する学説(インミュータビリティ・ドクトリン)を適用していることが、動産と不動産を区別していなかったことに注意せよ。そして動産と不動産の双方が婚姻時の居住地の法によって規定されていた。

部分的に変更可能な立場を支持する学説(パーシャル・ミュータビリティ)もしくは新たに取得された財産に関するミュータビリティ。これは夫婦財産の分割に関する法の抵触に対するアメリカのアプローチであった。婚姻中に取得されたあらゆる動産が、財産取得時の当事者の居住地の法によって規定され、以前の居住地や経由地の法によっては規定されていなかった。そして婚姻以前に取得された財産は婚姻時の当事者の居住地の法によって規定されていた。したがって、もし購入時の場所で財産に対する権利が与えられていたならば、その権利が後の居住地の変更によって影響されることはなかった。

法廷地法。例え外国からの要素を考慮する必要が存在していたにせよ、多くの場合において、裁判所は、当事者のあらゆる財産に対して現地の法を適用することによって、複雑な問題を回避していた。このことは、世界中の法が婚姻に関して基本的に類似しているとの仮定に基づいていた。パートナーシップが裁判所の管轄に含まれているので、その管轄権を有する法があらゆる側面に適用されていた。

法廷地法があらゆる手続法による救済に対して適用されていたことに注意せよ(実体法による救済とは異なっていた)。したがって出訴期限法と同様に公判前の救済、手続、形式を付与する能力に対する問題は「手続上の」問題として分類されており、常に離婚訴訟が係属している国内法の対象であった。

6 未婚のカップルの場合の法の抵触

国際的に認知された法的立場を有する婚姻と異なり、未婚のカップルの法的地位を認知する国際的な条約は存在していなかった。もし未婚のカップルが異なった国々に住居を移していたならば、そのカップルが最後に居住していた場所の法がそのカップルに対して適用されていた。この原則は、その関係における地位、権利、義務、国境を超えた動産や不動産を法的に取り扱っていた。その例外として、もし未婚のカップルが異なった国々に資産を所有していたならば、そのカップルは所有している動産や不動産の帰属を決定するために、それぞれの国における訴訟を必要としていたことが挙げられていた。

未婚のカップルに対する有効な協定がないので、法の抵触はこのように機能していた。

完全に変更可能な立場を支持する学説(フル・ミュータビリティ・ドクトリン)。未婚のカップルにおける財産関係は、以前に獲得されていたかどうかやその関係の後に獲得されていたかどうかに関わらず、最後の居住地によって決定されていた。

7 紛争前の条項

多くの契約や法的拘束力を有する合意は、管轄権や訴訟が係属する裁判所を当事者が選択する仲裁条項を含んでいた(管轄裁判所指定条項)。そして法律条項の選択は、裁判所がどの法を紛争における個々の側面に適用すべきかを決定するかもしれなかった。このことは契約自由の原則と対応していた。当事者がその取引に対して最も適切な法を選択することを、当事者自治の原則が許容していたことを、裁判官は認めていた。明らかに主観的な意思を司法が認めることは、伝統的に各要素と関係した事実に依存していたことを例外にしていたが、それは実際にはうまく機能していなかった。

8 外国法の地位

一般的に裁判所が外国法を適用する場合には、その外国法が外国法の専門家によって明示されていなければならなかった。裁判所は外国法を専門としておらず、どのように外国法が外国の裁判所において適用されているのかを熟知していないので、それは単なる訴訟ではなかった。そのような外国法は、主権の問題を抱えた法というよりむしろ、単なる証拠として考えられていた。仮に現地の裁判所が実際に外国法の域外適用を認めていたとしても、それは主権より小さなものであり、潜在的に違憲である方法で作用していた。この問題に対する理論的な解決は次のようなものであった。

(a) 個々の裁判所は、公正な結果を達するために必要な他国の法を適用するための、固有の管轄権を有していた。

(b) 現地の裁判所は外国法を適用するための独自の法的権利を有していた。この説明は維持可能な性質を示しており、法的拘束力のある判例を適用する州でさえ、紛争から生じたいかなる判例も将来の紛争に対して適用されていなかった。全て現地の事件で構成される枠組みの中で将来の訴訟を拘束する判決理由は存在しないであろう。

(c) 外国法を適用する裁判所は域外適用を許容するものではなく、「法の抵触」を通じて、その状況が外国法の適用を伴うことを許容していた。この主張を理解するには、まず最初にルールを域外適用することを定義しなければならなかった。ルールの域外適用は2つの異なる考え方の影響を受けていた。

一方でルールの域外適用は、現地の裁判所が法廷地法以外のルールを適用する状況を説明するために用いられていた。

他方でルールの域外適用は、そのルールが領土を超えて生じる状況に適用されることを意味する可能性が存在していた。この状況の例として、運転手と被害者の双方がイギリスの市民であったが、運転手の保険会社がアメリカ企業であったために、訴訟がアメリカでなされていたが、ロンドンでの自動車事故に対してアメリカの裁判所がイギリスの不法行為法や判例法を適用していたことが挙げられていた。事件がアメリカの裁判官がイギリス法を適用するイギリスの領土で生じていたので、アメリカの裁判官が外国法の域外適用を許容している訳ではないと主張することも可能であった。事実アメリカ法を適用するならば、アメリカの裁判官が域外適用で事件を処理しているとの主張も存在していた。

一旦準拠法が決定されれば、法廷地法を上書きするルールに反している場合を除いて、準拠法が尊重されていた。個々の裁判官は公序良俗の原則の番人であり、当事者は自身の行為によって、労働法、保険、競争規制、事業者のルール、禁輸、輸出入規制、証券取引規制のような分野を全般的に支えている地方自治体の法における基本原則を否定することができなかった。さらに、準拠法の適用が道徳にそぐわない結果をもたらすか、適用領域が限られた法を域外適用することを避けるために、法廷地法が用いられていた。

いくつかの国々では、外国法が「満足できる基準」を満たしていないならば、現地の法が適用されても構わないことを裁判所が決定する事例が時折見受けられていた。イギリスでは、根拠がないならば、外国法が準拠法と同等に推認されていた。同様に、明確な根拠がなければ、裁判官はその反対に、訴訟理由が生じた場所が特定の基本的な保護を与えることを想定しており、例えば、外国の裁判所が他人の過失により負傷した人を救済することが挙げられていた。最後にいくつかのアメリカの裁判所は、「法制度を有さない未開の場所」で負傷が生じたならば、アメリカの現地の法が適用されることを支持していた[8]。

もし事件が国の裁判所よりむしろ仲裁裁判所に持ち込まれていたならば、管轄裁判所指定条項によって、商業目的を否定しているときに、仲裁人は当事者による法の選択について現地の強制的な対応を適用しない決定を行っても構わなかった。しかし関連した公共秩序が適用されるべきであるという理由で、仲裁判断は、執行が一方の当事者によって求められた国における異議申立てを受ける可能性も存在していた。もし現地の仲裁が否定され、仲裁の場所と当事者によってなされた合意の間に本質的な関連がなかったならば、執行が求められる裁判所が仲裁を受け入れることが可能であった。しかしもし上訴が仲裁がなされた州の裁判所に対してなされたのであれば、裁判官は法廷地法の強行法規を無視することができなかった。

9 調和策

他国の法制度に対立するものとしてある国の法制度を適用することは、全体的に満足のいくアプローチではなかったかもしれなかった。当事者の利益が、国境を超えた現実を念頭においた法を適用することによって、常に適切に保護される可能性が存在していた。ハーグ国際私法会議は国際私法の統一を目的とした国際機関であった。ハーグ国際私法会議での協議は近年、電子商取引や名誉毀損に関する国境を超えた管轄権の範囲を取り扱っていた。そして国際契約法が必要とされていることを認識していた。例えば多くの国々は国際物品売買契約に関する国際連合条約を批准しており、 契約債務の準拠法に関するローマ条約は大まかな統一性を与えており、国境を超えた商行為を促進するインターネットや他の技術を生み出すための営みを肯定しているユニドロワ国際商事契約原則に対する支持が存在していた。しかし他の法はそれほど役割を果たしておらず、主な傾向は超国家的なシステムよりむしろ法廷地法の役割に留まっていた。直接的な影響をもたらす統一的なルールを生み出すことが可能である機関を有していたEUでさえ、共通市場を支える普遍的なシステムを形成することに失敗していた。それにもかかわらずアムステルダム条約は、超国家的な影響を有しているこの分野におけるブリュッセルⅠ規則に基づいて法を制定する機関に権限を付与していなかった。第177条は裁判所に解釈を行うための管轄権を与え、その原則を適用しており、したがって政治的意思が存在しているならば、その統一性が徐々に法の文言の中に現れる可能性を存在させていた。加盟国の国内の裁判所がこれらの文言を適用することにおいて矛盾を生じさせていないかどうかは推測の範囲内に留まっていた。

1997年にアイリス・チャンは日本の戦争犯罪に対するアメリカ人の考えを変化させ、なぜ日本人はナチスのように厳しく処罰されなかったのか、アメリカは日本の占領を円滑に行うために裕仁が戦争犯罪の責任を負うべきであったことを示す証拠を隠匿していたのかどうか、アメリカは人体実験に関する情報を入手するために日本の医療将校を保護していたのかどうかといった問題を提起していた。

女性の権利団体や人権団体と対立したときに、日本政府が1951年9月のサンフランシスコ平和条約の規定によって問題は解決済みであると主張し、保守的な政治家や高級官僚が歴史修正主義や日本叩きとして戦争犯罪についての批判を非難していたのは、保守党の候補者が侵略戦争を理由にして日本を批判すると選挙で勝つことができないといった戦争犯罪に対する国内の政治風土に根差していたが、その強硬路線は、日本の戦争犯罪や裕仁の役割を詳細に公言することが日本においてタブーであったことをアメリカに対して補強していた。

イアン・ブルマによれば、ヨーロッパの国々やイスラエルに謝罪していたドイツと異なり、日本は責任を果たさず、詭弁や婉曲表現を用いて、学校現場で侵略や残虐行為という歴史的事実を軽視し、関係諸国に謝罪しておらず、日本の保守強硬派のコメンテーターは戦争犯罪が日本国民を陥れるために誇張されたものであると主張していた。

1990年代に、冷戦初期にアメリカがソ連との対立について日本側の協力を必要としていたことや日本の商業的な利益に譲歩していたことを理由にして、日本の戦争犯罪が処罰を回避していたことが指摘されており、GHQによる裕仁の処遇は、1940年代の後半からあらゆる場で、日本ではよく論じられており、特にアメリカでは1990年代の初めから議論の対象となっていた。

中国や旧ソ連によって保管されていた日本軍の文書は、ほとんど例外なく、西側諸国にとっては入手不可能なものであり、僅かばかりの資料でさえ、多くの点で信憑性に欠ける共産主義者によるプロパガンダに溢れており、その判断の背景として、スターリン主義者が見せしめの裁判を行っていたので、西側の人々が証拠の信憑性を疑っていたことが挙げられていた。現時点で機密扱いの文書の量は未知であり、1990年代の後半まで人々は、アメリカが日本の戦争犯罪に関する文書を機密扱いにするのかどうかや、もし機密扱いにするならば、それは裁判を逃れていた日本人に関与していたのかどうかについて関心を抱いていた。

日本の戦争犯罪について歴史家の仕事は4つの大きなカテゴリーに分類される傾向があり、アジア全体に対する日本の残虐行為、捕虜や民間労働者に対する虐待、戦時中の生物化学兵器プログラム、慰安婦と呼ばれる強制売春が挙げられていた。そして近年になって多くの歴史家が麻薬密売や財産の盗取のような犯罪活動を調査し始めていた。

他方で中国、北朝鮮、ソ連は、日本が開発したものと類似していた生物兵器をアメリカが朝鮮戦争中に使用していたことを指摘していたが、これらの指摘は冷戦時代のプロパガンダとして却下されており、近年その主張が共産主義者のプロパガンダであることを示すソビエト側の文書が例として挙げられていた。

関東軍が人間を被験者にしており、全体の軍事予算が非常に高額であったことを考慮すると、軍部の中枢や裕仁が生物兵器に対して責任を負うべきであったとの主張が存在しており、常石敬一は、戦時中の日本の医療関係者全体が共犯関係にあり、生物兵器に関与した人々が日本で高い地位を独占することを許容してきたことについて、戦後の医療関係者が沈黙していたことを批判していた。

1945年に日本がベトナムから大量の米を徴用していたことが、ベトナム北部に大規模な飢餓をもたらしており、香港では軍票によって人々の貯蓄を収奪していた。スターリング・シーグレイブやペギー・シーグレイブによれば、日本の天皇家がアジアの占領地域から金や財産を強奪していた黄金の百合と呼ばれる組織の存在が確認されており、裕仁が占領していた国々から数千億ドルの価値がある金、プラチナ、ダイヤモンド、美術品、宗教的工芸品、他の財産を組織的に略奪していたのみならず、アメリカの投資家を保護することを考慮して、戦争が日本を破綻させたことを強調し、全ての補償を行うことを免除させることを、ハーバート・フーヴァー‎やダグラス・マッカーサーと議論していたとの指摘がなされていたが、これらの視点は個人の証言に依存しており、著作の信頼性に問題が残っているとの歴史家による指摘も存在していた。

2003年5月にナチス・日本帝国政府戦争犯罪記録省庁間作業部会は、日本帝国政府戦争犯罪情報公開法の下、強制労働や奴隷労働との関連を含む、連合国の捕虜や民間人抑留者に対する日本の虐待、戦時中の日本による生物化学兵器の開発及び利用、徴集され売春婦になることを強制された慰安婦を日本軍が利用していたこと、戦犯裁判に関連した連合国の政策や日本の戦犯に恩赦を与えた決定に調査をフォーカスしていた。

1945年11月1日のマレー・サンダースのレポートは、日本の関係者とのインタビューや実験記録に立脚しており、破棄されたと噂されていた証拠書類を除外することによって、日本の公式見解に近い見解を採用し、裕仁が人体実験を知らなかったと主張することを通じて、裕仁を弁護したい人々の利益になることを肯定していた。

GHQ/SCAPのレポートは裕仁が石井による生物兵器の研究を支援していたと述べていたが、細菌研究が平房区で行われていたと主張する海軍情報局の技術情報センターのレポートは裕仁が石井のプロジェクトを禁止していたと述べていた。

2005年の初めにCIAは日本の有力者に関係した文書の機密を公開していた。そしてアメリカの情報部門が、日本の保守派や軍の将校を共産主義の台頭に抵抗するためのプロジェクトに従事させており、保守強硬派のアジェンダを追求しているグループに対しても物質的ないし金銭的な援助を与えていたことが明らかにされていた。

占領当局が、時として証拠書類も存在していたが、軍事法廷におけるBC級戦犯のメンバーを多くの場合において起訴しなかったのは、戦後の国際政治、GHQ/SCAPの法務局が利用可能であったリソースが欠如していたこと、戦争から離れることを望んでいたアメリカの世論と比較して、それほど法的視点を考慮していなかったからであった。また憲兵隊やA級戦犯を支援していた人々の大多数は告発されていなかった。アメリカは特定の方法でこれらの日本人の活動を支援していた。

ダグラス・マッカーサーはOSSやその後身であるCIAを軽蔑しており、1950年までGHQの情報部門であるG-2はCIAが日本で自由に活動することを妨げていたが、日本におけるCIAのプレゼンスは急速に拡大し、冷戦が進行するにつれてCIAは日本における一大情報機関になっていた。

田中隆吉によれば、有末精三は三国同盟の推進勢力であり、日本を破滅的な戦争に導いた天皇周辺の軍の将校グループにおける中心的な人物であり、GHQ/SCAPの高官によれば、A級戦犯として起訴されるだろうと考えられていたが、G-2によって、戦争の遂行に深く関与した有末は逮捕されず、戦犯として起訴されなかった。

CIAの個人別ファイルは、幾人もの有名な戦犯や戦犯を疑われた人々によって行われていた作戦をG-2が支援していたことを確認していた。有末機関と河辺機関は、大きな犯罪活動によって戦時中の記録が傷付けられた多くの人々と大規模にコンタクトを取り、G-2は反共産主義を支持している日本人の傷付いた過去を見逃していた。児玉誉士夫と辻政信はG-2がエージェントの過去を意図的に見逃した例であった。

CIAの文書は、辻がシンガポール華僑虐殺事件の拡大に関与していたことを示す多くの証拠や、マレー半島で華僑を殺害する指令に関した連署を示しており、おそらく日本に抵抗する5,000名から25,000名の中国人やマレー人がシンガポール華僑虐殺事件で殺害されていた。

有末は、アメリカとの緊密な協力によって日本が再軍備することを主張し、G-2とのコネを獲得することによって彼の影響力を維持することを望んでいたが、裏目に出て河辺とも疎遠になり、児玉誉士夫や渡辺渡のみが古いインテリジェンスを支えていた。

アメリカが日本の戦犯を採用したことはG-2に限ったことではなく、アメリカは社会的地位のある元軍人を積極的に利用していた。1950年代後半にCIAとコンタクトを確立した賀屋興宣は重要な例であった。賀屋は将来の首相である岸信介に最も信頼されたアドバイザーの1人であった。

CIAによれば、アレン・ダレスに会うことを望んでいた賀屋は一流の情報提供者であったが、CIAはA級戦犯がDCIと協議することについて敏感になっていた。1959年に賀屋を直接インタビューした後で、日本のCIAは賀屋が公言していたアメリカ支持の姿勢は十分に真実味があったと述べていた。

1959年2月6日に賀屋はダレスに、日本は共産主義の浸透に関して脆弱であり、共産主義の浸透に対する抵抗を成功させることが仕事であると述べていた。そしてCIAと自民党の安全保障調査会との間でインテリジェンスを共有することをダレスに依頼していた。ダレスは異論を唱えていたが、CIAは日本で共産主義が浸透することを妨げる支援になると考えていた。その会合は反体制運動に関してCIAと日本人が協力することに合意しており、その細目に従って日本におけるCIAの工作が通知されることに同意していた。賀屋は、共産主義の脅威を取り除き、日米関係を強化するための取り組みにおいて成功を収めていた。

ダレスは個人的に主導して、賀屋をCIAの情報提供者にしていた。8月にダレスは賀屋に機密扱いの手紙を送り、日本の政治家に対するCIAのコミットメントを確認していた。その中でダレスは、日米関係を良好に維持するために行う全てのことについて懸念があると述べており、11月にCIA本部は賀屋の活動の進捗や、それを背景にしてエージェントが政治家と共に活動することに対して関心を抱いているのかどうかについて照会を行っていた。しかし8月から11月にかけて日本のCIAは賀屋について考えを改め始めていた。そして賀屋の政敵がその関係に気付いたときの政治的影響を恐れて、CIAは賀屋に対して手紙を返すように求めていた。

1965年12月にCIA本部が権限を与え、その3年後にCIAは、首相である佐藤栄作が掌握していた自民党のアドバイザーであった賀屋が自民党の情報を収集することや沖縄の選挙に反対する秘密活動を受け入れる可能性があり、賀屋に対するコンタクトが継続されるだろうといったことを報告していた。そして当時の沖縄は日本への返還に対する議論で混乱していた。

ヨーロッパでクラウス・バルビー、オットー・フォン・ボルシュビンク、ラインハルト・ゲーレンを利用していたアメリカ陸軍の情報部門が戦犯や戦犯を疑われた人々を利用して極東で情報を収集していたことに驚きはなかった。意図的にヨーロッパと極東の間でインテリジェンスを利用していたことに対する証拠は存在していなかったが、双方の地域において共産主義の拡大に対する恐怖が道徳的ないし政治的関心を煽っていたことは明らかであった。

諜報部員を利用することにおいて、G-2は社会的地位のある日本の保守派をターゲットにしており、それはウィロビーたちが諜報活動が可能であると考えていた唯一のグループであった。日本のスパイはもちろん諜報活動にとって不可欠であったが、CIAの見方によれば、G-2の将校は、作戦に対するリスクや重要性に関わらず、あらゆる潜在的なスパイを利用する意思を有していたように思われていた。

政策形成、諜報活動、犯罪行為といった分野におけるいくつかの基本的な問題が、日本政府と平和条約を交渉していたときのGHQ/SCAPの長期的な諜報戦略にどのように影響していたのかはまだ明らかではなかった。この文書における状況証拠は、ウィロビーが重要人物である日本人を戦犯として逮捕させることを妨げていたことを示唆していた。もしウィロビーが実際に戦争犯罪の調査を妨害していたならば、何をCIAはそれについて知っていたのか。事実、ウィロビーの指示に基づき、G-2は、ドーリットル隊のパイロットを死刑にする指示に署名し戦後にアメリカに協力するスパイになっていたと伝えられていた下村定を擁護していた。G-2は日本で下村を逮捕させるために中国での取り調べを妨害し、彼が収監された後に彼の釈放を主張し、その後すぐ彼を釈放させていた。CIAの個人別ファイルは、1950年代から1960年代にかけて首相になり戦犯を疑われていた岸信介のような社会的な地位のある右派とCIAがどのように関係していたのかについて僅かのことしか明らかにしていなかった。1994年10月9日のニューヨーク・タイムズ紙によれば、50年代、60年代に、CIAは日本の右派に対して数百万ドルを支援していた。現時点で文書による証拠は確認されていなかったけれども、CIAと国務省の元高官はCIAと自民党の間の関係を認めていた。また文書は、どのように朝鮮戦争が戦争犯罪に対するCIAの態度に影響を及ぼしていたのかについて明らかにしていなかった。

これが全てであるとは言及しないが、"Researching Japanese War Crimes Records Introductory Essays"の一部を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://www.archives.gov/iwg/japanese-war-crimes/introductory-essays.pdf

日本の戦争犯罪に関する記録に対する調査

序論

1 イントロダクション

エドワード・ドレー

第二次世界大戦以後の数十年間アメリカ人とほとんど無関係であった日本の戦争犯罪は、1931年から1945年におけるアジアや太平洋において行われていた。アジアの人々に対する日本の戦争犯罪は戦後のアメリカにおいて大きな問題となったことがなく、日本によって収容された元アメリカ人捕虜を除いて、日本の戦時における残虐行為に対する記憶は年月とともに薄れていく状況であった[1]。

日本の戦争犯罪に対するアメリカ人の考えは、1997年にアイリス・チャンが『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』を出版した後、大きく変化することになった[2]。1937年の南京における中国人の犠牲者に対するチャンの遺言は戦争犯罪の恐怖やその範囲を詳細に記しており、日本政府や日本人が戦時中の残虐行為に対して集団的健忘症に罹っていたことを示していた。ベストセラーとなった著作は、中国、朝鮮、フィリピン、東南アジア、その他太平洋地域における戦時中の日本人の行動に対する新たな関心を喚起していた。

『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』はさらなる説明を必要とする多くの問題を提起していた。なぜ日本人はナチスのように厳しく処罰されなかったのか。アメリカは日本の占領を円滑に行うために裕仁が戦争犯罪の責任を負うべきであったことを示す証拠を隠匿していたのかどうか。アメリカは人体実験に関する情報を入手するために日本の医療将校を保護していたのかどうか。

またチャンは、マイクロフィルム化する前に押収された戦時中の記録を「説明抜きに無責任に」日本に返還していたことについて、日本の犯罪の程度を決定することを不可能にしていたアメリカ政府の責任を追及していた[3]。そして他の人々は、疑いの余地なく日本の犯罪を立証し、日本政府や日本社会による高度なレベルの犯罪を示唆する高度な機密文書をアメリカ政府が保管していることを確信していた。

私はこの論考に対して洞察に溢れるコメントを与えてくれたキャロル・グラックとゲルハルト・ワインバーグに感謝している。

これらの問題は関係者に対して、メリーランド州のカレッジパークにあるアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)や他のアメリカ政府機関が保有している日本の戦時中の記録を調査することを促していた。日本の戦争犯罪や犯罪行為を示す完全な文書は利用不可能であると思われており、関係者による隠蔽工作を匂わせていた。研究者たちは、求めている記録を発見する代わりに、要求されている情報は存在していないとの知らせを受け取ることや、記録が「安全保障上の理由によって開示できない」ことを示すカードに遭遇したときに、アメリカ政府が意図的に暗い機密を隠蔽していたとの疑念を抱くことになった。

チャンの主張によって、日本の犯罪に目を向け被害者に正義と補償をもたらすために奮闘していた全く異なるグループが、それらの問題に対する答えや文書を探ることに対して刺激を受けていた。最新の証拠を与えられ、日本の戦争犯罪に対するアメリカ側の意識の高まりによって、被害者や支持者は、以前以上に強固な決意と高まった人気や政治的援助を伴いながら、真相を追及していた。

日本人によって捕虜にされたアメリカの軍人は正義と補償を求める主張を再度行い、長期にわたる収容の間に被った制度化された残虐行為に対する、日本政府による公式の謝罪を求めていた。他の人々は、彼らが日本軍の731部隊に支援された非道な人体実験の被害者であったことを主張しており、731部隊の医師や専門家が、石井四郎中将[4]の指示の下で、生物兵器を開発するために軍に支援された人体実験を行っていたと述べていた[5]。

軍の慰安所で若い女性に売春を強要する日本軍のシステムに対する論争、いわゆる「慰安婦」問題は特に韓国で沸騰寸前であった。1994年のジョージ・ヒックスによる『性の奴隷 従軍慰安婦』は英語でその問題に言及しており、売春を強要された女性が日本から補償を引き出すための苦労を示していた[6]。1990年代の後半までに「慰安婦」の窮状はアメリカの新聞の一面に登場するようになり、戦時中の人権侵害を日本政府が認めることを求める女性の権利団体や他のグループからの関心を惹くようになっていた。

日本による占領と1937年から1945年に至る戦争の間に最悪の略奪行為の被害を間違いなく被っていた中国は、日本による中国の占領を特徴付けていた略奪、放火、広範な殺害行為に対する日本政府の姿勢を繰り返し批判していた。1990年代に同様に、日本の人体実験による中国の被害者、満州にあった日本の捕虜収容所に収容されていたアメリカの軍人、中国系アメリカ人は、チャンの著作の中に鬱積した憤りを見出していた。

また日本は戦時中の奴隷労働や強制労働の釈明を行うことを求められていた。戦時中の日本政府は、朝鮮、中国、あらゆるアジアから労働者を強制的に連れ去り、炭鉱での危険な労働や厳しい建設業のための無給労働をさせるために日本に連れて来ていた。アメリカの戦争捕虜は、捕虜の権利を定めたジュネーブ条約に照らせば、違法で残酷な労働に従事していた。日本政府がこれらの犯罪を認めなかったことに対する抗議の声に、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人が加わっていた。

女性の権利団体や人権団体と対立したときに、日本政府は、これらの問題は1951年9月のサンフランシスコ平和条約の規定によって解決済みであると主張していた[7]。この問題についてこれ以上述べる必要性は存在していなかった。日本政府が戦時中の全ての責任を認めることを拒否しただけでなく、一部の保守的な政治家や高級官僚は歴史修正主義や日本叩きとして戦争犯罪についての批判を非難していた。もちろん戦争犯罪に対する国内の政治風土も存在していたが(保守党の候補者は侵略戦争を理由にして日本を批判すると選挙で勝つことができなかった)、強硬路線を採用する日本の公式見解は、日本の戦争犯罪や裕仁の役割を詳細に公言することが日本においてタブーであったことをアメリカに対して補強していた。

イアン・ブルマの『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(1994)はドイツと日本の戦争犯罪に対する戦後の対応を比較していた[8]。ブルマによれば、ドイツはナチス政権が犯した悪に対する責任を公式に受け入れ、学校の教科書や授業において下劣なナチスの歴史を論じることによって、将来の世代を教育していた。ドイツはヨーロッパの国々やイスラエルに謝罪していた。その反対に、日本は責任を果たさず、詭弁や婉曲表現を用いて、学校現場で侵略や残虐行為という歴史的事実を軽視し、関係諸国に謝罪していなかった。さらに悪いことに、日本の保守強硬派のコメンテーターは、仮に存在していたにせよ、その戦争犯罪は日本国民を陥れるために誇張されたものであると主張していた。

ドイツ人が行ったように、日本人は戦時中の行動に対峙してこなかったけれども、日本政府の否認は、アカデミズムで人気を博していた保守強硬的な反応を助長させていた。ダーキン・ヤンが第2章の中で指摘しているように、日本の研究者や特定の利益団体は日本の戦争犯罪について学術的に厳格に追及していた。大半の著作は翻訳されていなかったので、欧米にほとんどインパクトを与えていなかったけれども、そのような視点は日本の主流的なメディアに定期的に登場していた。有名な例外は、本多勝一の写真や中国における日本軍の残虐行為を描き出し大きな論争を引き起こした記述になり、それは1972年に日本で公表されていたが、1999年まで英語に翻訳されていなかった。日本の作家や歴史家はメディアで自由に意見を述べており、それらは広く読まれ、さまざまなメディアでオープンに議論されていた。

1990年代における日本の戦争犯罪に対する懸念は、日本の戦争犯罪が処罰を回避しているとの考えを補強しており、それは、冷戦初期にアメリカが、ソ連との対立について日本側の協力を必要としていたことや、日本の商業的な利益に譲歩していたことを理由にしていた。不幸にも一部の日本の戦争犯罪者は処罰されていなかった。おそらく最も悪評を買っていたのは731部隊の石井中将であり、残忍な人体実験の詳細をアメリカ政府に渡す代わりに、明白に論争の種であった戦後の訴追を逃れていた。他の人々は、訴追されていなかったものの、戦後の3人の日本の首相が戦争犯罪を犯していたと考えており、鳩山一郎(1954–1956)、池田勇人(1960–1964)、岸信介(1957)が挙げられていた。また有罪とされたA級戦犯であり、戦時中の外交官であり外務大臣であった重光葵は1954年に外務大臣として地位を回復していた。GHQによる裕仁の処遇は、1940年代の後半からあらゆる場で、日本ではよく論じられており、特にアメリカでは1990年代の初めから議論の対象となっていた。

多くの悪評を買った戦争犯罪者は処罰されておらず、繁栄し特権的な地位を謳歌していたけれども、数千件に及ぶ日本の戦争犯罪が起訴されていたことを認識することは重要であった。28名のA級戦犯は、平和に対する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪によって起訴されており、東條英機のような日本の戦時中のリーダーの大多数を含んでいた。ニュルンベルク裁判と比較される東京裁判は、1946年5月に開始され、1948年11月に終結し、被告の内25名を有罪としていた。東條を含む7名が絞首刑に処され、16名が終身刑に処され(その内4名が獄中死していた)、2名が有期禁固刑に処されていた。残り3名の内2名が手続き中に病死し、1名が訴追免除されていた。1956年までに日本政府は収監されていた全ての人々を仮釈放し、1958年4月に外務省は無条件で彼らを釈放していた。また連合国はアジア太平洋地域全体で戦争犯罪に関する裁判を行っていた。アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、フランス人、フィリピン人、中国人が1945年10月から1956年4月にかけて49ヶ所の地域で裁判を行っていた。イギリス人は東南アジアにおいて戦争犯罪を犯した多くの日本人を起訴しており、それはクウェー川を渡河する鉄橋を包含する泰緬鉄道の建設に関わった人々を含んでいた。オーストラリアの検察官は、オランダ領東インドのアンボイナやニューブリテン島のラバウルで多数の日本人に対して裁判を行うために、イギリスやアメリカの判事とともに任務を遂行していた。中国は、南京大虐殺に関与した人々を含む少なくとも800名の被告に対して裁判を行っていた。フランスとオランダは数百名以上に対して裁判を行っていた。フランス人は、軍部のために数十名の女性に売春を強要したジャワ在住の日本の民間人に対して裁判を行っており、オランダ人は、現地の人々やオランダ人の捕虜を殺害したことを理由にして、日本人に対して死刑を宣告していた[9]。また1949年後半にハバロフスクで、ソ連は生物兵器に関する戦争犯罪について12名の日本人に対して裁判を行っており、6名が731部隊のメンバーで、2名が独立した生物兵器に関する部隊であった100部隊のメンバーで、4名がそれ以外であり、後に中国に対する戦争犯罪の嫌疑をかけられた数百名の元軍人を移送し、中国は1950年代中頃に判決を下していた。BC級戦犯として、通例の犯罪、戦時国際法に対する違反、暴行、殺人、捕虜に対する虐待といった罪状を問われていた5,379名の日本人、173名の台湾人、148名の朝鮮人の内、約4,300名が有罪とされ、約1,000名が死刑を宣告され、数百名が終身刑を宣告されていた[10]。

これらの裁判に関わる文書はこれまでに1つの文書にまとめられてこなかった。連合国は当然それぞれの裁判のために日本の文書を集めており、その記録を保管していた。中国や旧ソ連によって保管されていた日本軍の部隊の記録や文書は、ほとんど例外なく、西側諸国にとっては入手不可能なものであり、それは冷戦がもたらす現実を背景にしていた。冷戦時に西側にもたらされた僅かばかりの資料でさえ、多くの点で信憑性に欠ける共産主義者によるプロパガンダに溢れていた。例えばソビエトがハバロフスクにおける1949年12月の裁判に関して1950年に公式の裁判記録を公表したとき、それらは731部隊が関連した文書を含んでいたが、長期間にわたってスターリン主義者が見せしめの裁判を行っていたので、西側の多くの人々は証拠の信憑性を疑っていた[11]。1991年12月における旧ソ連の崩壊や米中関係の改善によって、戦争犯罪についての情報が幾分入手しやすくなったが、まだ非常に限定的であった。そして日本側の入念な努力が731部隊や他の戦争犯罪に関する大部分の文書を隠匿しており、現時点で機密扱いの文書の量は未知であった。1990年代の後半まで多くの人々は、アメリカが日本の戦争犯罪に関する文書を機密扱いにするのかどうかや、もし機密扱いにするならば、それは裁判を逃れていた日本人に関与していたのかどうかについて関心を抱いていた。

特別に関心があるトピック

情報公開法に照らして機密文書を調査する際にIWGのガイドラインを遵守することに加えて、行政機関は、南京での暴行、「慰安婦」、捕虜や民間人に対する虐待、人体実験、731部隊、戦争犯罪人として裕仁を起訴しない決定をアメリカが下したことに関する記録のように、民間人に被害をもたらした日本の残虐行為についての情報を含んでいるかもしれない記録に特別な関心を寄せていた。しかしながら、第二次世界大戦以後において日本の戦争犯罪に関して全ての分野において徹底的な調査が行われていなかったことを記すことは重要であった。例えば「慰安婦」問題が現在大きな意味を有している一方で、アメリカ政府は戦中から戦後にかけて慰安婦に関連した記録を組織的に収集してこなかった[18]。結果としてアーカイブには慰安婦に関連した文書がほとんど存在していなかった。同じことは南京における暴行に関する記録にも当てはまっていた。

南京での残虐行為は、アメリカが参戦する4年前に生じていた。当時アメリカ政府は中国において大規模な軍事や外交に関する情報ネットワークを有していなかった。僅かばかりの熟練した軍や大使館の関係者は時として間接的にその事件を伝えており、センセーショナルな報道と比較すると、アメリカの公式文書は僅かであった。結果として、南京における暴行に対して責任を有していると思われる日本軍の司令官に対する戦後のA級戦争犯罪裁判の中で生じた記録を除外すると、国立公文書館にはこのテーマに関する文書がほとんど存在していなかった。

戦後直後にアメリカ人の関心は、真珠湾攻撃、アメリカ人の捕虜に対する虐待に関与した人々、暴行(特にフィリピンの女性に対する)や白人女性に対する強制売春を含む戦争犯罪に関連していた政府高官に対する日本の責任に向かっていた。1960年代に機密解除された記録の普及によって、帝国陸軍の売春宿システムが知らされることになった。しかしながら売春宿ネットワーク(特に中国)や売春宿に対する旧日本軍による正式な支援の規模はよく理解されていなかった。公娼は戦前の日本では合法であり、連合国の高官は、母国で行っていることを拡大したものとして、この国境を超えたシステムの一部を眺めていた。軍が占領したあらゆるところで生じていた暴行や悪評を買っていた犯罪を理由にして、連合国は日本兵を起訴することを「慰安婦」の状況を調査することよりも優先しており、慰安婦はプロの売春婦として認識されており、日本軍の雇用によって売春を強要された意図せざる被害者として認識されていなかった。例えば、日本政府を軍の売春宿と関連付ける重要な文書である"Amenities in the Japanese Armed Forces"は、1945年にATISによって翻訳され、1960年代に機密解除されていた[19]。数年間一般に公開されていたが、1990年代に「慰安婦」問題がこれらの犯罪に対して関心を集めるまで、それはほとんど注目されていなかった。

731部隊に関して研究者は、石井中将の人体実験や捕虜に対する虐待に関連して新たな機密文書を見出してこなかった。僅かながらも新しく公開された文書は収容者に対する日本の虐待について既存の文書に対して新たな証拠を付け加えていた。捕虜にされたアメリカ軍人に対して行われたと伝えられている731部隊の人体実験に対する問題に関して、複数の情報機関が、インテリジェンス、軍事、外交の記録を通じて徹底的に調査を行っていたが、決定的な証拠を見出してこなかった。このことは驚くべきことではなく、アメリカの捕虜に対して行われたと伝えられていた人体実験について、1970年代、1980年代、1990年代の初めに、議会が繰り返し照会を行ったことによって、アメリカ軍や他の政府機関の記録についての大規模な調査がようやく開始されていた。言い換えれば、特にアメリカの戦争捕虜に対して行われた日本の戦争犯罪に対する議会の関心が、アメリカ政府が保管していた731部隊に関する文書の存在を明らかにしており、それらの文書を一般に公開させることを促していた。

最後に、日本政府に配慮して、アメリカ政府が戦争犯罪に関する文書を隠匿していたとの主張が存在していた。IWGが課したガイドラインに従って、あらゆる外部からの政治的妨害から独立して、複数の政府機関によって機密文書に対する徹底的な調査が行われていた。それらの調査はそのような主張を支持する証拠を一切見出していなかった。処罰に関して複数の欠陥が存在しており、石井の事例が最も明白であり、裕仁の戦争責任に対する問題がアメリカや他のあらゆる場において論争の原因になっていた。しかしアメリカのアーカイブはこれらの論争に対していかなる新たな情報も与えてこなかった。この結果は有罪を示唆する文書が隠匿されていたと主張していた人々を満足させるものではなかったが、これまで関心がなかった人々は、IWGが日本の戦争犯罪に関した機密文書を公開し、一般の人々に対して証拠を利用可能にしたことをプラスに評価していた。また日本、中国、旧ソ連におけるアーカイブは、日本の残虐行為に対する理解を再解釈させることを促すかもしれない文書が存在している可能性を与えていた。

1 シェルダン・ハリス教授のような数名の研究者は1980年代に日本軍の731部隊の活動について調査を行っていた。

2 アイリス・チャン、『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』(同時代社、2007年)。

3 チャン、原著の177ページ。

4 日本の氏名は名字の後にファーストネームを記していた。

5 シェルダン・ハリス、『死の工場―隠蔽された731部隊』(柏書房、1999年)。ハリスは1994年に第一版を出版していた。

6 ジョージ・ヒックス、『性の奴隷 従軍慰安婦』(三一書房、1995年)。

7 条約は1952年4月28日に発効していた。

8 イアン・ブルマ、『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(阪急コミュニケーションズ、1994年)。

9 Robert Barr Smith, "Japanese War Crime Trials," World War II (September 1996)。

10 Philip R. Piccigallo, The Japanese on Trial (Austin, TX: University of Texas Press, 1979)はBC級戦犯を取り扱っていた。

11 Materials on the Trial of Former Servicemen of the Japanese Army Charged with Manufacturing and Employing Bacteriological Weapons (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1950)。

18 1948年2月にオランダ人は、12名の日本人に対して、オランダ領東インドにある捕虜収容所に収容されたオランダ人の女性に対する強制売春について裁判を行っていた。Narrelle Morris, review of Yuki Tanaka, Japan’s Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution During World War II and the U.S. Occupation(New York: Routledge, 2002)、http://wwwsshe.murdoch.edu.au/intersections/issue9/morris_review.html/。

19 連合国翻訳通訳部、"Amenities in the Japanese Armed Forces," Research Report 120, 15 Nov. 1945, 9–20、Formerly Security-Classified Intelligence Reference Publications ("P" File) Received from U.S. Military Attachés, Military and Civilian Agencies of the United States, Foreign Governments and Other Sources,1940–1945, NA, RG 165, Records of the War Department General and Special Staffs, entry 79, box 342。

2 日本の戦争犯罪に対する証拠書類と研究:中間報告

ダーキン・ヤン

歴史家が問題を明らかにしその問題にアプローチする方法は、ほとんどいつも社会における政治的ないし知的状況によって影響されていた。そして歴史家が集めた証拠のタイプが結論の説得力を決定付けていた。証拠と未解決問題はあらゆる歴史家の仕事である史料編纂において2本の柱を形成していた。第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の研究も例外ではなかった。この章は、最近の成果を検証し、このような史料編纂が置かれた状況の中にこれらの仕事を位置付けていた[1]。特に、歴史研究における新たな証拠のインパクトや証拠書類の利用可能性に影響を及ぼす要因を研究していた。そうする中で、最近特に関心を集めているいくつかの歴史的なトピックにおける学問の現状を明らかにしていた。

意外な新事実と論争

利用可能な証拠書類は第二次世界大戦中の日本の戦争犯罪に対する何を明らかにしているのか。新たな文書の発見は歴史家の仕事に対してどのような影響を及ぼすのか。日本の戦争犯罪について多くの仕事はいくつかの大きなカテゴリーに分類される傾向があり、(1)アジア全体に対する日本の残虐行為、(2)捕虜や民間労働者に対する虐待、(3)戦時中の生物化学兵器プログラム、(4)いわゆる「慰安婦」と呼ばれる強制売春が挙げられていた。そして近年になって多くの歴史家が麻薬密売や財産の盗取のような他の犯罪活動を調査し始めていた。これらのカテゴリーはしばしば重なり合っていたけれども、それらは日本の戦争犯罪に関して公表された歴史の大部分を構成しており、注目するに値していた。

生物化学兵器プログラム

中国政府は日本軍が生物化学兵器を使用していたと繰り返し主張しており、東京裁判でその主張を繰り返していたが、その件は起訴されていなかった[67]。同様にアメリカ軍も日本の生物化学兵器に関心を抱いていた。しかしそのような兵器に関する軍事行動の性質を考慮すると、決定的な証拠を入手することは困難であった。生物化学兵器について東京裁判では一切日本人が起訴されていなかったけれども、一部の人々がBC級戦犯として他の場所で起訴されていた。実際、第39師団第231連隊長である梶浦銀次郎は、戦闘中に毒ガスを用いたことにより、1947年に中国の軍事法廷で終身刑の判決を受けており、ソビエト政府は生物兵器に関与した12名の日本人将校を起訴し、日本語、英語、中国語、朝鮮語を含むいくつかの言語で裁判の記録を実質的に公開していた[69]。その公表は満州で入手された日本の文書のコピーを含んでいたけれども、その裁判は国際的な関心を集めることに失敗しており、その信憑性は西側にとって疑問の余地が残るものであった。また中国、北朝鮮、ソ連は、日本が開発したものと類似していた生物兵器をアメリカが朝鮮戦争中に使用していたことを指摘していた。これらの指摘は冷戦時代のプロパガンダとして却下されていた[70]。

誰が生物兵器に対して責任を負うべきかといった問題は決定的な証拠を欠いていた。関東軍が人間を被験者にしており、その全体の軍事予算が非常に高額であった(当時の1千万円、現在の90億円)ことを考慮すると、一部の人々は、当時の人体実験について知っていたかどうかに関わらず、東京の軍部の中枢や裕仁が責任を負うべきであったと主張していた[85]。常石敬一のような日本の研究者は長らく戦時中の日本の医療関係者全体の共犯性を強調しており、それに関与した人々が日本で高い地位を独占することを許容してきた戦後の医療関係者の沈黙を批判していた。

他のトピック

アジアに対する残虐行為、連合国の捕虜や民間人に対する虐待、生物化学兵器、従軍「慰安婦」といった日本の戦争犯罪に関する4つの分野における研究に加えて、他のテーマが近年関心を集めていた。

アジアの占領地域における経済問題が日本で比較的よく研究されている分野であった。1945年に日本がベトナムから大量の米を徴用していたことが、ベトナム北部に大規模な飢餓をもたらしたことで知られており、約200万人の人々が亡くなっていた[112]。また日本の研究者は、香港のような占領地域に居住していた多くの人々の貯蓄を収奪した軍票の研究を行っていた[113]。日本の占領当局によって徴用されたと伝えられていた秘密資金がどうなったのかについては未解明のままであった。これについて全てが強奪されたものではなかったが、かなりの部分が略奪されたものであった。今日に至るまで東南アジアでは、隠された日本の財産に関する物語がなお反響を呼んでいた。人気のある歴史作家であるスターリング・シーグレイブやペギー・シーグレイブは、日本の天皇家がアジアの占領地域から金や他の財産を強奪していたとする組織(コードネーム「黄金の百合」)の存在を主張していた。多くの秘密文書を入手していたと主張していた著者たちは、多くの重要な秘密文書の秘密を解除することを拒絶したアメリカ政府を批判していた[114]。証拠を無視し、個人の証言に依存する彼らの傾向は、歴史家の視点によれば、著作の信頼性を損なっていた。

65 例えば、"Japanese Use the Chinese as ‘Guinea Pigs’ to Test Germ Warfare," Rocky Mountain Medical Journal 39, no. 8 (August 1942): 571–72。日本の歴史家である吉見義明がマッカーサー記念館で発見したアメリカの文書によれば、アメリカ陸軍の参謀総長が東京裁判の検察官に対して、毒ガスの使用は国際法に違反していないとの陸軍の立場を伝えていた。45 (December 2004): 23。

68 Zhongyang Dang’anguan et al., Xijunzhan yu duqizhan, 621–24。

69 Materials on the Trial of Former Servicemen of the Japanese Army, Charged with Manufacturing and Employing Bacteriological Weapons (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1950)。

70 この主張に関して、Stephen Endicott and Edward Hagerman, The United States and Biological Warfare: Secrets From The Early Cold War and Korea (Bloomington, Indiana: Indiana University Press, 1998)を参照せよ。他の人々は近年、その主張が共産主義者のプロパガンダであることを示すソビエト側の文書を例として挙げていた。New Evidence on the Korean WarやDeceiving the Deceivers: Moscow, Beijing, Pyongyang, and the Allegations of Bacteriological Weapons Use in Korea, Cold War International History Project Bulletin 11 (Winter 1998): 176–99を参照せよ。

85 吉見義明、伊香俊哉、『七三一部隊と天皇・陸軍中央』(東京、岩波書店, 1995年)、粟屋憲太郎、吉見義明、『毒ガス戦関係資料』(東京、不二出版、1989年)、吉見義明、松野誠也、『毒ガス戦関係資料II』(東京、不二出版、1997年)。

114 彼らは、裕仁が第二次世界大戦中に占領していた国々から数千億ドルの価値がある金、プラチナ、ダイヤモンド、美術品、宗教的工芸品、他の財産を組織的に略奪していたのみならず、アメリカの投資家を保護することを考慮して、戦争が日本を破綻させたことを強調し、全ての補償を行うことを免除させることを、元アメリカ大統領であるハーバート・フーヴァー‎や連合国最高司令官であるダグラス・マッカーサーと議論していたと主張していた。The Yamato Dynasty: The Secret History of Japan’s Imperial Family (New York: Broadway Books, 1999)やGold Warriors: America’s Secret Recovery of Yamashita’s Gold (London: Verso, 2003)を参照せよ。900MBの文書や他の証拠を含んでいる2枚のCD-ROMは購入可能であった。

3 日本の戦争犯罪に関してアメリカ国立公文書館に保存され最近機密解除された記録

ジェームズ・ライド

2003年5月にナチス・日本帝国政府戦争犯罪記録省庁間作業部会(IWG)は、日本帝国政府戦争犯罪情報公開法(JIGDA)の下で、機密解除され公開された約10万ページに対して体系的な調査を始めていた。特に調査は次の問題に関連した文書を特定することにフォーカスしていた。

・強制労働や奴隷労働とのあらゆる関連を含む、連合国の捕虜や民間人抑留者に対する日本の虐待

・戦時中の日本による生物化学兵器の開発及び利用、特に石井四郎中将の役割や731部隊によって行われた生物兵器の実験

・占領地から徴集され売春婦になることを強制された「慰安婦」を日本軍が利用していたこと

・戦犯裁判に関連した連合国の政策や、後に日本の戦犯に恩赦を与えた決定

アメリカ国務省の記録 - RG 59

IWGによって公開された国務省の新たな記録の分量は、前述のOSSファイルよりかなり少ないものであった。これらの記録は、タイで収容されたアメリカ人の捕虜に関連した国務省特別戦争問題部からのファイルを含んでいた。その記録は捕虜収容所における情報を与えており、戦争末期に移送された捕虜に関連した多くの資料を含んでいた。しかしこれらの新たな文書の多くは、RG 226といった記録の中ですでに利用可能なOSSレポートで構成されていた[33]。

最後に戦争犯罪に関連した特別報告は1950年代における日本の戦犯に対する恩赦について論じていたいくつかの文書を含んでいた。これらの大部分は、アメリカ国務省の高官と東京裁判における他のメンバーの代表者や時には日本の高官の間における会合に関連した会話のメモで構成されていた。ある文書は、裕仁や4名の大将をC級戦犯として裁くソ連の提案を扱う方法についてのオーストラリアの外交官との会話を要約した1950年2月におけるメモであった。アメリカ人やオーストラリア人の双方が戦争犯罪についての問題を除外することを望んでいると表明しており、議論の大半は、ソビエトが示す新たな証拠が何であれそれらを検証せずに、どのように東京裁判がソビエトの提案を除外することができるのかについてフォーカスしていた[37]。

33 例えば、OSS reports on Thai railroad traffic in NA, RG 59, lot file 58D7, box 89, folder: Americans in Thailand (location: 250/49/22/1)を参照せよ。

37 Memorandum of Conversation re: Soviet War Criminals Proposal, 8 February 1950, NA, RG 59, lot file 61D33, box 23, folder: War crimes–Emperor (Japanese) (location: 250/49/25/5)。

4 国立公文書館における日本の戦争犯罪についての記録:研究の皮切り

国立公文書記録管理局(NARA)のスタッフによる

ケーススタディ:日本の生物兵器プログラムに対する知見を求めて

1932年の日本の満州占領から1945年の降伏に至るまで、日本の科学者は動物や人間に対して生物兵器の実験を行っていた。隔離された秘密の軍事基地で、彼らは帝国政府から高度で大規模な支援を受けていた。強力な占領当局による支配の下で、多数の被験者に加えて、満州は人目から逃れることができる場所を日本の研究者に提供していた。

1945年11月1日に中佐であるマレー・サンダースによって行われた日本の生物兵器プログラムに対する戦後の最初の詳細な研究は、石井の指示で1930年代初頭に日本軍が大規模な生物兵器の実験を行っていたことを記していた。1935年に満州の日本人に対して生物兵器を使用していたと伝えられた後、もし戦争になればソ連が再度生物兵器を使用するだろうといったことを日本人は恐れていたとサンダースは記していた。彼はそのレポートを日本の関係者とのインタビューや実験記録に立脚しており、戦争中に破棄されたと噂されていた証拠書類に立脚していなかった。そうすることで、彼は日本の公式見解に近い見解を採用し、裕仁は人体実験を知らなかったと主張することによって、裕仁を弁護したいと願う人々の利益になるように行動していた。また彼のレポートは、日本の生物兵器に対する関与、人体実験については言うまでもなく行われた実験のタイプ、日本が開発した兵器の広がりの歴史を含んでいた[56]。

一方で日本の生物兵器に対する開発能力や犯罪行為に関するアメリカ側の知識の蓄積が拡大し続けていた。1947年8月に海軍情報局の技術情報センターは、日本が中国人の被験者に対して免疫に関する実験を行い、その細菌研究は平房区で行われていたと主張する"Naval Aspects of Biological Warfare"との表題のレポートを編集していた。特にこのレポートは、アメリカ人やロシア人の捕虜が血液サンプルを提供させられていた一方、死刑を宣告された満州の捕虜に対して不快な人体実験が行われていたことを主張していた。裕仁が石井による生物兵器の研究を支援していたと主張する戦後のGHQ/SCAPのレポートと反対に、このレポートは裕仁が石井のプロジェクトを禁止していたと述べていた[66]。

56 NA, RG 165, Records of the War Department General and Special Staffs, entry 488, New Developments Division, Security-Classified Correspondence, File of Dr. G. W. Merck, Special Consultant to the Secretary of War, 1942–46, box 181, file "Final Board Report" (location: 390/40/1/5)。

66 NA, RG 330, Records of the Office of the Secretary of Defense, Central Decimal Files, 1943–53, Confidential through Top Secret Subject Correspondence File, entry 199, box 103, folder CD 23-1-4 (3 of 7) (location: 190/25/17/7)。

8 CIAの個人別ファイル、アメリカ陸軍、占領下の日本におけるインテリジェンスが十分に機能しなかったこと

マイケル・ピーターセン

2005年の初めにCIAは、第二次世界大戦時の日本の有力者に関係しており、日本にあるアメリカ陸軍の情報部門の上層部によって監督されていた極東における大規模なインテリジェンスを明らかにする文書の機密を解除し、公開していた。日本の陸海軍の元将校によって指示され、緩く連携し、絶えず変化していた複数の諜報グループは、少将であるチャールズ・ウィロビーの指揮の下、GHQの情報部門であるG-2のために働いていた。アメリカの諜報部員は、アジアに対する欧米のヘゲモニーに反対し容赦ない戦争を計画し遂行した懲りない日本の保守派や軍の将校を、地域におけるアメリカの安全保障を高め、共産主義の台頭に抵抗するためのプロジェクトに従事させていた。そうする中で、反共産主義という最も曖昧な目標をアメリカの高官と共有し、しばしば変化し競合していたが本質的には保守強硬派のアジェンダを追求していたグループに対して、アメリカは物質的ないし金銭的な援助を与えていた。そしてさらに軍の情報部門によって直接的ないし間接的に採用されていた日本のエージェントは、過去において犯罪を犯していたか、もしくは犯罪を疑われる立場であった。

日本帝国政府戦争犯罪情報公開法以前には、日本の陸軍や海軍の将校に対するG-2の関与について断片的な証拠が存在するだけであり、社会的な地位のある右派と関連したG-2の活動を示す証拠書類は一貫性がなく、不十分であった。アメリカ国立公文書館記録管理局(NARA)にあるGHQ/SCAPについての記録に関する文書は、実質的に存在していなかった。証拠書類を欠く中で、歴史家は、軍事的なインテリジェンスに対する専門的な勘や協力者による記憶とインタビューに頼らざるを得ず、それらは話半分で、彼らは恥ずべき詳細において虚偽を申し立てる傾向にあった。それらは部分的に広範で正確な結論を引き出すことが可能であったけれども、文書が入手閲覧不可であったことは、それらの知見が推測に過ぎない可能性があることを意味していた。いわゆる「地下」組織に所属する多くの人物、彼らの資金源、秘密のオペレーションに関する詳細、それに関与した日本の有力者の巧みな二枚舌に関する詳細な議論は、手の届かないところに存在していた。彼らの仕事は、大きな注目を集めたナチスの戦犯のように、情報を集めるために、アメリカが戦犯や戦犯の疑いのある人々を利用していたことに対する実質的な評価を含んでいなかった[1]。

戦争犯罪の定義は一部の日本人にとって論争の対象であった。この章では、日本の戦犯は東京裁判で有罪と宣告された人々や他の軍事法廷におけるBC級戦犯として定義されていた[2]。他の軍事法廷におけるBC級戦犯は曖昧としており、過去において目立った戦争犯罪を犯していた人々や、連合国によってしばらく拘束されていた被疑者を含んでいた。占領当局はしばしば犯罪の容疑で他の軍事法廷におけるBC級戦犯のメンバーを拘束しており、時として証拠書類も存在していたが、多くの場合において拘禁者を起訴していなかった。その理由は多岐にわたり複雑であり、それは、戦後の国際政治、GHQ/SCAPの法務局が利用可能であったリソースが欠如していたこと、戦争から離れることを望んでいたアメリカの世論と比較して、それほど法的視点を考慮していなかったからであった。冷戦がアメリカの政策決定者の関心を集めていたので、裁判の対象であった人々はその関心から除外され、一方新たな証拠を集めることが年々困難になっていき、潜在的な被告も亡くなっていった。最後にこれに関連したカテゴリーは、例えば憲兵隊(日本の軍事警察)のように戦争犯罪で悪評を買った組織のメンバーや、A級戦犯を支援していた人々を含んでいた[3]。このような人々の大多数は告発されていなかった。特定の方法で、アメリカは問題を抱えながら全ての3つのカテゴリーにおける日本人の活動を支援していた。これらすべての人々がナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報公開法における関係者とされていた。

同様にCIAの文書は、冷戦初期の日本におけるCIAの作戦の拡大に対する理解を促しているため、注目に値するものであった。ダグラス・マッカーサー元帥は戦略情報局(OSS)やその後身であるCIAを軽蔑していた。マッカーサーの支援で、1950年までGHQの情報部門であったG-2はCIAが日本で自由に活動することを妨げていた[4]。しかしその年の初めまでに、CIAは、日本や他の外国機関のみならずG-2の活動をも監視する情報収集機関を組織し始めていた。日本におけるCIAのプレゼンスは急速に拡大し、冷戦が進行するにつれて深まり、占領が終了した1952年までに、CIAは日本における一大情報機関になっていた。この拡大に関する詳細の一部は現在でも追跡することが可能であった。

GHQ/SCAPとCIAの組織的な競合は、2つの組織の関係に大きく影響していた。CIAによって収集された情報に基づいていたため、以下の話はCIAの観点から語られており、G-2の関心、根拠、意思決定のプロセスを反映していなかった。それにもかかわらず、この文書のパッケージはこのテーマに関して利用可能な最大限の情報を提供していた。この章は、CIAが最近機密解除した文書や、アメリカ占領当局と、多くが過去において戦犯であり名を知られていたギャング、右派の元日本軍の将校、そして政治家とのインテリジェンスを通じた関係を明らかにしたことに対して部分的に評価を与えるものであった。文書は、冷戦初期の日本における道徳的にグレーな諜報活動に対する詳細な調査を提供しており、極東においてG-2によって利用されていた容疑がある人々を明らかにしていた。

ウィロビー、日本でのインテリジェンス、タケマツ作戦

第二次世界大戦を経て、元日本軍の将校や保守強硬派は、戦前の天皇制を維持し(アメリカの占領による制限の中でできる限り)、日本軍を再建するための緩やかなネットワークを形成していた。このネットワークは部分的には、終戦期の大本営の参謀本部第2部長であった有末精三によって形成されていた。1917年に精力的で抜け目のない有末は任官していた。1929年から1931年まで彼はイタリアのトリノにある陸軍大学に通い、さまざまなイタリアの歩兵連隊について学んでいた。1936年から1939年まで、有末はイタリア大使館付武官を経て大佐になっていた。1939年から1945年までに有末は数多くのポストを経験し、北支那方面軍参謀に属していた。彼は中将に昇進し、結局のところ大本営の参謀本部第2部長になっていた[5]。

G-2と異なる立場であるGHQ/SCAPの高官は有末がA級戦犯として起訴されるだろうと考えていた。イタリアでの武官として、彼は日独伊三国軍事同盟を巡る交渉において重要な役割を担っていた。事実、最近公開されたCIAの個人別ファイルの中にあるアメリカ陸軍の文書は、戦後一部の日本人が、なぜ「戦争の遂行に深く関与した」有末が逮捕されず、戦犯として起訴されていないのかについて疑問を感じていたことを明らかにしていた[9]。これらの文書によれば、有末は日本を破滅的な戦争に導いた天皇周辺の軍の将校グループにおける中心的な人物であった。東京裁判の検察側の重要証人であった田中隆吉少将は、「有末は三国同盟に関して[首相である]平沼の意思の背景にあった推進勢力であった」と述べていた[10]。

戦犯とインテリジェンス

秘密を保持することにおいて日本人の諜報部員や軍の関係者を利用することに対する作戦上の問題は多数存在していた。さらなる弊害は(戦争犯罪との関連の点で)これらの作戦から派生した問題であった。有末機関と河辺機関は、大きな犯罪活動によって戦時中の記録が傷付けられた多くの人々と大規模にコンタクトを取り、彼らの多くはG-2によって資金援助されていた作戦に関わっていた。CIAの個人別ファイルは、幾人もの有名な戦犯や戦犯を疑われた人々によって行われていた作戦をG-2が支援していたことを確認していた。直接ないし間接的に反共産主義を支持している日本人の傷付いた過去をG-2が見逃す用意があったことを、それらは明らかにしていた。児玉誉士夫と辻政信は、G-2がエージェントの過去を意図的に見逃した有名な例の内の2名であった。

辻政信

太平洋戦争で最も悪評を買い不起訴であった戦犯の1人をアメリカ側の諜報活動に採用したことに有末が責任を有していたことをCIAの文書は示していた。歴史家によって「狂信的なイデオロギーの指導者で残忍な参謀であった」と評される大佐である辻政信は、1930年に石川県で生まれていた[64]。1931年に彼は陸軍大学を卒業し、1939年の悲惨なノモンハン事件のときの関東軍の参謀であった[65]。彼は太平洋戦争前に大本営で有末と顔見知りになっていた[66]。辻は後に、バターン死の行進、中国、フィリピン、シンガポールの民間人の大虐殺、同様にシンガポール華僑虐殺事件を命じていたと評されており、日本がシンガポールを占領している間に死刑執行されたアメリカのパイロットを食していたと伝えられていた。CIAの文書は、辻がシンガポール華僑虐殺事件の拡大に関与していたことを示す多くの証拠を呈示しており、マレー半島で華僑を殺害する指令に連署していたことを示していた[67]。また戦争末期に日本軍を再興するための資金として、日本陸軍がフランス領インドシナから3トンの金を没収していた可能性を、アメリカの当局は調査していた。東南アジアに長くいた辻が部下にこの一部を分け与え、彼らにそれを連合国の目から隠すように命じていたことを、複数のレポートが示していた[68]。

1952年までに、辻はアメリカとの協調が日本を速やかに再軍備するための最善の方法であると確信しており、軍の元同僚からの非難に晒された立場にあった[82]。服部卓四郎はその中に含まれていなかった。児玉誉士夫達に支援された2人は日本独自の軍を再建する代わりにアメリカ軍の保護に依存する吉田茂の政策を快く思っていなかった。服部は、追放された人々や保守派に対する首相の反感を理由にして、吉田を長い間嫌っていた。1952年7月に服部は、吉田を殺害し、共感を覚える鳩山一郎や緒方竹虎を首相に据えるクーデターを目論んでいた。当初の熱狂にもかかわらず、辻は保守的な自由党が権力を握っている限り、服部がクーデターを思い止まるだろうと考えており、それは、日本で最も有名な戦犯の1人によって保護されたアメリカに対する最も忠実な政治的協力者という皮肉を子孫に残すことになった。それにもかかわらず、このグループは他の政府要人を殺害することを計画しており、吉田にそのメッセージを送っていた(216-217ページを参照せよ)[83]。1954年に鳩山は吉田を退陣させることに成功していたが、仮にそうだとしても服部や辻が吉田の退陣に対してどのような役割を担っていたのかについては不明であった。1952年に辻は国会議員に選出され、政治における華やかなキャリアが始まっていた。

占領後:CIAと日本のスパイ

1950年から1951年には、日本のインテリジェンスはすでに分裂していた。有力なインテリジェンスのリーダーの大半が有末と袂を分かっており、有末の気取った利己的な性格は多くの人々にとって阻害要因となっていたが、G-2と有末の頻繁なコンタクトが他の人々の上に彼を君臨させており、そのことは唯一の懸念材料であった。支持が徐々に減っていき、有末は、アメリカとの緊密な協力によって日本が再軍備することを主張し、G-2とのコネを獲得することによって、彼の影響力を維持することを望んでいた。この計画は裏目に出て、河辺とも疎遠になった。児玉誉士夫や渡辺渡のみが古いインテリジェンスを支えていた。

アメリカが日本の戦犯を採用したことはG-2に限ったことではなく、アメリカは社会的地位のある元軍人を積極的に利用していた。1950年代後半にCIAとコンタクトを確立した賀屋興宣は重要な例であった。賀屋は1937年の第1次近衛内閣の大蔵大臣であり、東條内閣で再度大蔵大臣に就任していた。彼は極東における日本のヘゲモニーの正当性を主張しており、真珠湾攻撃直前に「イギリスやアメリカを東アジアから撤退させること」が日本の目標であると公言していた[98]。戦後の東京裁判は、侵略戦争遂行に関していくつかの法廷と同様に、彼をA級戦犯として起訴し(戦争遂行に関する謀議)、終身刑を言い渡していた。1955年9月に彼は仮釈放され、1957年に恩赦されていた[94]。1958年に、保守的な日本人から支持されていた賀屋は国会議員に選出され、自民党(LDP)のリーダーになっていた。さらに彼は将来の首相である岸信介に最も信頼されたアドバイザーの1人であった。彼は国会議員に選出された直後に、自民党の安全保障調査会に加わっていた。反共産主義者である賀屋はその役割を完全にこなしているように思われていた。彼は日本の国家安全保障に関する問題に深く精通しており、釈放直後に、アメリカと日本の同盟関係の強化を主張していた[95]。

1959年の2月に賀屋は、国務省や海軍の政策立案に関する部局を含むいくつかの政府機関出身の議員と日本の安全保障について議論するために、アメリカに渡航していた。特に賀屋はCIA長官であるアレン・ダレスに会うことを望んでいた。日米安全保障条約を改定することに対する日本の世論を考慮すると、彼の海外視察は日米関係における敏感な点を扱っていた。CIAによれば、国際情勢に精通しており、アメリカとの協調を歓迎しており、自民党内で最も影響力の大きい政治家の1人であった賀屋は、潜在的に一流の情報提供者であった。しかしCIAはA級戦犯が中央情報長官(DCI)と協議することについて当然のことながら敏感になっていた。彼らは「賀屋が公職に復帰してから適切に振舞わない」恐れはほとんどないと判断していた[96]。1959年に彼を直接インタビューした後で、日本におけるCIAのエージェントは、賀屋は「大きな影響力を有し、精力的であり、おそらくそれ以上の存在になるだろうし、動機が何であれ、彼が公言していたアメリカ支持の姿勢は十分に真実味があった」と述べていた[97]。

1959年2月6日に日本大使館付書記官に随行された賀屋は、中央情報長官(DCI)の執務室を訪問し、日本は共産主義の浸透に関して脆弱であり、共産主義の浸透に対する抵抗を成功させることが仕事であるとダレスに述べていた。賀屋は、CIAと自民党の安全保障調査会との間でインテリジェンスを共有することをダレスに依頼していた。ダレスは異論を唱えていたが、その提案をCIAは日本で共産主義が浸透することを妨げる支援になると考えていた。その会合において「皆が、反体制運動に関してCIAと日本人が協力することは最も望ましいことであり、このテーマはCIAにとって大きな利益の1つであったことに合意していた」ことが確認されていた。また、その協力に関連した細目が実際に作成されるべきであり、それに従って日本におけるCIAの工作が通知されることに、双方が合意していた[98]。賀屋は、共産主義の脅威を取り除き、日米関係を強化するための取り組みにおいて成功を収めていた。

ダレスは個人的に主導して、賀屋をCIAの情報提供者にしていた。その6ヶ月後の8月に、彼は賀屋に機密扱いの手紙を送り、日本の政治家に対するCIAのコミットメントを確認していた。その中でダレスは、日米関係を良好に維持するために行う「全てのことについて懸念がある」と述べていた。特に彼は「両国間の関係に影響を及ぼす国際情勢や日本の状況の双方に対するあなたの考えを知ることに私は非常に関心を抱いている...」と記していた[99]。11月にCIA本部はダレスの手紙の後に、賀屋の活動の進捗や、それを背景にしてエージェントが政治家と共に活動することに対して関心を抱いているのかどうかについて照会を行っていた[100]。しかし8月から11月にかけて日本のCIAは賀屋について考えを改め始めていた。

1960年代初頭までに日本における諜報部員は、賀屋を以前に考えていたほど信頼できない人物として結論付けていた。1959年の夏から秋にかけて、彼らは諜報活動を通じて賀屋を詳細に観察しており、彼が以前ほど影響力を有しておらず、深刻な火種になるかもしれないことに気付いていた。彼らは、なぜ彼らが賀屋を利用したくないのかについて、中央情報長官(DCI)を含む上層部に説明することを気詰まりな仕事であると考えていた。

[賀屋との]最近のコンタクトの中で、[賀屋が]非常に強く手前味噌を述べ、どれほどよく東西間の緊張を理解しているのか、どのように彼が「1人で」安全保障条約の改定の裏で自民党全体を操縦することができるのかについてアメリカ側を感心させようとする傾向があることに私たちは気が付いていた。私たちが現代の[議会政治]の機微や政治活動の方法を理解していると考えている「保守的な」政治家として、[賀屋は]堂々とし過ぎていた...これを記している時点で私たちは、この関係から生じるさまざまなことについて楽観的になれなかった。

日本のエージェントは、賀屋とのコンタクトは彼らの主導によってのみ続けられるべきであり、彼を情報提供者として活用するべきではないと判断していた[101]。

このエピソードの後、1961年の香港でCIAは賀屋と偶然会合することになったが、1964年中頃まで彼に対してさらなる関心を抱くことはなかった。その年の夏に情報部門は日本において左派の脅威と見做しているものについて議論するために、仲介者を通じて彼とコンタクトを取っていた。この時点で賀屋を評価していたCIAのエージェントは、賀屋は「非常に信用でき安全保障についての意識があり、この評価に対する証拠は、第二世界大戦以降の日本の政治スキームの中で、彼が行ってきた指導的な役割の中に見出される」と主張していた[102]。CIA本部はこの評価を認め、1965年12月に彼を利用する作戦上の権限を与えていた[103]。3年後にCIAは、首相である佐藤栄作が掌握していた自民党のアドバイザーであった賀屋が自民党の情報を収集することや沖縄の選挙に反対する秘密活動を受け入れる可能性があり、彼に対するコンタクトがこれらの目的に一致する形で継続されるだろうといったことを報告していた[104]。不幸にもこの点について賀屋の活動に関して利用できる文書はこれ以上存在していなかった。1975年に、活動的でなくなったことを理由にして、CIAは賀屋を利用する作戦上の権限を取り消していた。そしてその2年後に彼は亡くなっていた。

日本における情報収集の教訓

CIAによって公開された個人別ファイルは冷戦初期の東アジアにおける情報収集についてかなりの程度を明らかにしており、このテーマについて記された歴史家の結論を確認していた。そして諜報活動を行った日本人がアメリカの利益と関係していない動機を有していたことは驚くべきことではなかった。不幸にも、ヨーロッパでクラウス・バルビー、オットー・フォン・ボルシュビンク、ラインハルト・ゲーレンを利用していたアメリカ陸軍の情報部門が、戦犯や戦犯を疑われた人々を利用して極東で情報を収集していたことに驚きはなかった。意図的にヨーロッパと極東の間でインテリジェンスを利用していたことに対する証拠は存在していなかったが、双方の地域において共産主義の拡大に対する恐怖が道徳的ないし政治的関心を煽っていたことは明らかであった。

とりわけGHQは安定を必要としていた。諜報部員を利用することにおいて、G-2は社会的地位のある日本の保守派をターゲットにしており、それはウィロビーたちが諜報活動が可能であると考えていた唯一のグループであった。日本のスパイはもちろん諜報活動にとって不可欠であったが、CIAの見方によれば、G-2の将校は、作戦に対するリスクや重要性に関わらず、あらゆる潜在的なスパイを利用する意思を有していたように思われていた。そのような人々を広く利用したことはアメリカの諜報活動に対して数多くの問題をもたらしており、その全てが当時明確に理解されていた訳ではなかった。

日本に対するCIAの個人別ファイルは、過去において疑問が残る情報提供者について情報部門の考えを示していた。CIAのアナリストは、アメリカの利益に反している限り、そのような間違った結果を日本人にでっち上げさせるさまざまな動機や、諜報活動の結果に対する懸念を示していた。G-2が採用した日本人の情報提供者に対するCIAの批判は、関与した個人が戦犯や戦犯を疑われた人々であったことではなく、彼らが間違った情報を渡していたことにあった。CIAのアナリストはアメリカの利益に反する日本人について政治思想、イデオロギー、個人的な仔細をすぐに確認していたが、過去の犯罪者や潜在的な情報提供者に対しては穏やかに懸念を表明する程度であった。事実、彼らは、評価の対象になった情報提供者の潜在的な犯罪行為について僅かな評価しか与えていなかった。日本人の工作員の過去を無視することによる潜在的な安全保障上のリスクは、さらなる研究を行う価値を残していた。

この新たな情報にもかかわらず、政策形成、諜報活動、犯罪行為といった分野におけるいくつかの基本的な問題は未解決のままであった。これらの関係が、日本政府と平和条約を交渉していたときのGHQ/SCAPの長期的な諜報戦略にどのように影響していたのかはまだ明らかではなかった。この文書における状況証拠は、ウィロビーが重要人物である日本人を戦犯として逮捕させることを妨げていたことを示唆していた。もしウィロビーが実際に戦争犯罪の調査を妨害していたならば、何かあるならば、何をCIAはそれについて知っていたのか[105]。CIAの個人別ファイルは、1950年代から1960年代にかけて首相になり戦犯を疑われていた岸信介のような社会的な地位のある右派とCIAがどのように関係していたのかについて僅かのことしか明らかにしていなかった[106]。どの程度CIAが犯罪者や犯罪者に類似した人々とコンタクトを取っていたのかについては隠されたままであり、これらの関係がインテリジェンスにもたらす恩恵も隠されたままであった。また文書は、どのように朝鮮戦争が戦争犯罪に対するCIAの態度に影響を及ぼしていたのかについても明らかにしていなかった。しかし、これらの問題に対する疑問を残していたけれども、ナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報公開法の下でCIAによって公開された記録は、冷戦初期の日米関係に関するテーマに対して広範で新しいアプローチを取る可能性を示唆していた。

1 例えば、Stephen Mercado, The Shadow Warriors of Nakano: A History of the Imperial Japanese Army’s Elite Intelligence School (Washington, DC: Brassey’s, 2002)、マイケル・シャラー、『アジアにおける冷戦の起源――アメリカの対日占領』(木鐸社、1996年)、竹前栄治、『GHQ』(岩波書店、1983年)、John Welfield, An Empire in Eclipse: Japan and the Postwar American Alliance System, A Study in the Interaction of Domestic Politics and Foreign Policy (Atlantic Highlands, NJ: Athlone Press, 1985)、Richard Breitman, et al., U.S. Intelligence and the Nazis (Washington, DC: National Archives Trust Fund Board for the Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group, 2004)を参照せよ。

2 東京裁判や他の軍事法廷による戦争犯罪の定義は一部の人々にとって論争の対象であった。これは特に東京裁判におけるA級戦犯に対して当てはまっていた。歴史的な論争は当然如く裁判所における起訴を巡って生じており、特に侵略戦争を遂行した謀議に対する告発が例として挙げられていた。確かに被告の選定はある意味で物議をかもす独善的なものであったが、法廷による決定は、当時の時代背景を考慮すれば、軍事法廷に対する証拠について容認された基準に基づいて合意されており、ドイツにおけるニュルンベルク裁判をモデルにしていた。東京裁判は多数の問題を抱えていたが、法的問題として捉えるならば、有罪を示す証拠が起訴手続きに基づいている限り、その結果は合法的であった。不法行為には広範な前例があり、容易に犯罪であると識別できるB項やC項に対する被告の裁判は、同じレベルの批判を誘発していなかった。ジョン・ダワー、『昭和――戦争と平和の日本』(みすず書房、2010年)、461-469を参照せよ。

3 確かに、アジア太平洋地域で日本人によって行われた犯罪の大半は正規軍の人員によって行われていたが、憲兵隊は中国やマレー半島で犯罪行為を犯したことで悪評を買っていた。また多くのアメリカの捕虜は侮蔑しながら彼らを取り扱った憲兵隊のメンバーを思い出していた。日本の憲兵隊について多くの研究が存在していたけれども、英語の学術文書は利用不可能であった。

4 竹前、英語版の167ページ。

5 Arisue Biographical Sketch, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 7, folder: Arisue, Seizo。

9 G-2 Intelligence Section Notes, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 7, folder: Arisue, Seizo。

10 Tanaka Ryukichi Statement, NA, RG 331, International Prosecution Section, entry 319, numerical case files, box 31, folder: Cases 155–159。また田中は有末が中国でのアヘン貿易に関連していたと考えていた。皮肉だが、田中は戦後の諜報活動を行うために有末と緊密に行動していた。

63 児玉に関するCIAの個人別ファイルの中の文書は、CIAが児玉達を通じたロッキード事件に気付いていたのかについて明らかにしていなかった。

64 ダワー、『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』の原著の511-512ページ。

65 Saburo Hayashi and Alvin Coox, Kogun: The Japanese Army in the Pacific War (Quantico, Va: The Marine Corps Association, 1959), 238。

66 ダワー、『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』の原著の511-512ページ。

67 CIA Report, date unclear (likely April 1952), in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。おそらく日本に抵抗する5,000名から25,000名の中国人やマレー人がシンガポール華僑虐殺事件で殺害されていた。

68 Gold, 22 May 1946, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu Vol. I。

69 Undated CIA Report, in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu, Vol. I。

70 CIA Report, date unclear (likely April 1952), in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。

82 Japanese I.S. Personalities, 9 March 1951, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu。

83 Coup d’etat Allegedly Being Planned by Ex-Militarists and Ultranationalists, 31 October 1952, Activities of Hattori Takushiro, 10 December 1953, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。

95 CIA Cable 7082, 22 January 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori. ishi had been imprisoned from 1945 through 1948 on suspicion of war crimes。

96 CIA Cable 26893, 22 December 1958, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

97 CIA Cable 7144, 27 January 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

98 Memorandum for the Record, Visit of Mr. Kaya Okinori, 6 February 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

99 Dulles to Kaya, 13 August 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。賀屋の政敵がその関係に気付いたときの政治的影響を恐れて、CIAは賀屋に対して手紙を返すように求めていた。

100 Dispatch, Acting Chief Far East to Chief of Station [redacted], 10 November 1959, Posonnet/1 NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

101 Dispatch, Chief of Station [redacted] to Chief, Far East Section, Posonnet/1, 12 January 1960, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

102 CIA Personal Record Questionnaire (PRQ), 22 November 1965, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

103 CIA Memorandum, Chief, Far East Division, 6 December 1965 NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

104 CIA Report FJTA 55122, 25 September 1968, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。当時北ベトナムへのB-52による爆撃において重要な地域にあった沖縄は、日本への返還に対する議論で混乱していた。

105 事実、ウィロビーの指示に基づき、G-2は、ドーリットル隊のパイロットを死刑にする指示に署名し戦後にアメリカに協力するスパイになっていたと伝えられていた下村定を擁護していた。G-2は日本で下村を逮捕させるために中国での取り調べを妨害し、彼が収監された後に彼の釈放を主張し、その後すぐ彼を釈放させていた。Shimomura’s file in NA, RG 319, Assistant Chief of Staff, G-2, Intelligence, Records of the Investigative Records Repository Personal Name File, entry 134B, box 211, folder: Shimomura, Sadamuを参照せよ。

106 この疑わしい関係に対する報道が1994年後半にアメリカで公開されていた。1994年10月9日のニューヨーク・タイムズ紙の"C.I.A. Spent Millions to Support Japanese Right in 50s and 60s"、「(邦訳)50年代、60年代に、CIAが日本の右派に対して数百万ドルを支援していた」を参照せよ。現時点で文書による証拠は確認されていなかったけれども、CIAと国務省の元高官はCIAと自民党の間の関係を認めていた。