手探りながらも打てる対抗手段をとりつつ長期戦の構えで。

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4/22(土)から5/6(土)にかけて、不正アクセスによるウェブの改竄が行われていたので、その手口を明らかにしたい(現在もこのアタックは継続している)。

1. まず.htaccessを全ディレクトリに配置し、その狙いはRewrite Engine OnとRewriteRuleを用いて、ウェブ上の全URLをindex.php, lock360.php, radio.php等に書き換えることにあり、

2. radio.phpはhttp://c.jkv2.com/1上の内容(ネット通販の詐欺サイトの広告)をlock360.phpに書き込み、

3. lock360.phpはネット通販の詐欺サイトであるhttp://c.jkv2.com/1にリダイレクトする役割を果たし、

4. index.phpも同様。

といった流れをChatGPT4から教わったところ。

皆様もお気をつけあれ。

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いや、復旧作業自体は1日で済んだものの、この手の対処は色々な当事者を想定しつつ、少し時間をかけて様子見をしながら進めるのがベターかなと考え、1年以上ハッキングされたままの状態をキープ。

それで今日からブログ再開、とはいえ、やられっぱなしというのも面白くないので、いろいろ仕掛けていく場面もあれば、それはそれで。では。

Pioneer BDR-S03J-Wを修理して

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アルミケースのシルバーに合うカラーのベゼルの内蔵ドライブを探していたのだが、2010年前後ぐらいからシルバー系の新品の入手が困難になっていたようで、ホワイトのPioneerのブルーレイ・ドライブをヤフオクでゲットすることになる。

動作確認済みとの触れ込みだったが、トレイの開閉がスムーズでない点と『ベルリン・コンサート』のブルーレイの『オテロ』から『カルメン』を再生する際に回転音に含まれる異音が大きくなる点が気になっていた。

トレイの開閉については、秋葉原の千石電商に向かい直径25mmの角ゴムベルトを購入し、ゴムベルトの太さについては1.6mmだとゴムの張力が強すぎてモーターが回らず、0.95mmだと軽快にトレイが開閉し、1.2mmだとやや重厚感を感じさせるトレイの開閉スピードになる点を確認しながら、ゴムベルトを交換することで修理完了。

特定のブルーレイ再生時における異音については、レンズ部の反射光を見ないように注意しながらブルーレイ・ドライブを分解掃除し、エアー・ダスターで内部に溜まったホコリ等を飛ばした後、軸に当たるスピンドル・モーター部分のディスクとの接触面と上蓋をウェット・ティッシュで拭いていき、一休み。

ファームウェアを1.13にアップした際のデフォルトの設定がパイオニアの静音モードだったからかもしれないが、ここまでの作業でWindows10でのブルーレイ再生時における異音は解消されており、残された課題はLinuxでブルーレイを再生する際に同様の現象が再現することであったが、カーネルを4.14.18から4.15.3にアップデートする過程でWindows10で実現されていたであろう静音モードが引き継がれるようになったからであろうか、Linuxでも異音は解消されることになった。

中古のBluray・DVDドライブの購入はコワイなと感じていたのだが、当面はこんな感じで手を加えていき、それでもドライブを認識しない等の故障に行き当たれば、それはそのときに新品を購入すればよいだろうとの見通しを抱いており、しばらくは様子をみていきたい。

それでは。

# 補足

ディスク再生時に異音が再発したので、シルバーストーンのケース下部にあるレールにドライブを収納する5インチベイをガチッとはめ込み、ネジをしっかり締めることによって、ドライブのがたつきを抑え、異音を解消することになった。ここに至るまでピックアップレンズのレーザー出力調整からレンズ下部のレールのメンテナンスまで気になった要素を1つずつチェックしていったのだが、物理現象として理解して対処していくことが問題解決の道につながったのだろうか。10年物のブルーレイ・ドライブなので今後も何か色々あるかもしれないが、それはその時に改めて。では。

statcounter.comによれば、Apr 2016-Apr 2017にかけてのOS Xの市場シェアは11.63%になり、Windows, Linuxのシェアはそれぞれ84.22%及び1.67%になる。

私が使っているFedoraのシェアの低さはOSのデバッグ関連情報を掘り下げる手間に起因していることが大きいのだが、Linuxマシンのパーツ選択の幅について言えば、Windowsマシンと遜色ない状況が形成されつつあるとの期待を抱きながらも、そこにラグがあることも否めない現状になる。

話を本題にもどすと、廉価版であるヘキサコアのMac Proの価格は税込み322,704円になり、搭載されているXeon E5のクロックは3.5GHz、メモリはDDR3の1,866MHzになり、最大消費電力が450Wになる。

このレベルでやりたいことを実現するマシンをDIYしようとすると、私ならヘキサコアでクロック3.2GHzのRyzen 5を選び、メモリはDDR4の2,666MHz overを選択し、最大消費電力について450Wを下回る水準に抑えることを念頭におく。またパフォーマンスを決定する要因の1つであるマシンの価格については100,000円前後に収めるだろう。

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そしてマシンの選択に際して、多様な文化の容認・共存といった考え方をバックグラウンドにMac Proを勧めるならば、その立場はLinuxマシンで代替でき、コスト・性能を理由にしてMac Proを勧めるならば、その立場はDIYマシンで代替できることになる。

しかし、それでもMac Proを購入する人達は一定数存在しており、大学関係者にその分布が偏っていることが示唆することの含意は、合理主義より権威主義が支配的な業界の特徴がそこに顕在化した結果であるかもしれないといった視点とともに、Mac Proではないものの「学部のマシンを一新するに際して情報学科の教員が一致団結してMacを導入しました」といったケースでは、初心者に対するサポートを名目に掲げたために却って学生にしわ寄せが来てしまった結果になるかもしれないといったことを考えることがあった。

それでは。

以下の文章はASKAさんのもので、アメリカの動向を眺めつつ今後の論評を目的としながら一時的にここに原文を載せることにした。

700番

2016-01-09
みなさん、お久しぶりです。ASKAです。この度は、私を信じてくれていた皆さんを裏切るような行為をしてしまい、深く深く反省しております。本当に申し訳ありませんでした。心から謝罪をさせていただきます。事件から約1年と半年が経ちました。溢れかえったマスコミ報道の洪水の中で、私を愛してくれたみなさんがどれだけ苦しまれたかを思うと、胸の痛みは最大限に達しております。今回、私には何があったのか、どうしてそうなったかをお伝えしようと思いました。スタッフ、家族、数人の友人など「語るべきではない」と愛情を持って反対する人もいました。反対する人の理由は、私には歌があるから、歌で今後の人生を乗り越えて行くべきだというアドバイスです。もちろん、公開することに同調してくれる人たちもいましす。様々な意見はありましたが、やはり私は皆さんとの絆の中で、あったことを直接私の口から伝えることこそが絆だと感じました。今からここで語ることで、さらに胸を痛める方々もおられることでしょう。「聞きたくなかった」と思われる方々も出てくるでしょう。私は、悩みました。しかし、私は皆さんの前で、優しさに甘え、何もなかったかのような顔で再びパフォーマンスをすることはできません。間違った行いをしてしまったことを認め、人生を悔い改め、その上で皆さんの前に立とうと決心をいたしました。

事件後、私はこの件に関して一切口を開いてきませんでした。それ故、メディアからは「ストリー」や「と、いう情報」「〜らしい」を面白おかしく語られてしまいました。私の犯した「事件の事実」以外、私の目に飛び込んできた関連記事は全部嘘です。ひとつも本当のことはありませんでした。ゴシップメディアとはそういうものなのでしょうが、ここで私が語らなければ、書かれたことが全て本当のこととなって皆さんの胸の中に染み付いてしまいます。これを発表することでの反響は大きなものとなるでしょう。これを読んだメディアがどの部分を切り取って世の中に紹介するか、みなさんよく見ていてください。その上でメディアというものを判断してください。(これを公開するにあたってメディアのバッシングは)覚悟はしております。私は、言い訳のためにこれをお伝えするわけではありません、私の至らなかったことも、全て書き出しました。みなさんがいちばん知りたかった、または知りたくなかった部分です。

私は、何も罪のない一人の女性を犯罪者にしてしまいました。一生苦しみを背負うこととなってしまいました。全て私の不徳の致すところです。私は、その苦しみから逃れるかのように楽曲制作に没頭いたしました。現在、フルアルバム約5枚分の楽曲が揃っています。また、並行して書いていた走り書きではない散文詩は110編を超えました。まだレコード会社、出版会社などはどこも決まっておりません。執行猶予が解けるまで活動するべきではないという意見もあります。しかし、私は活動することを選びました。多くの歌手は年齢とともに声が出なくなり、キーを下げなければ歌えなくなります。私はミックスボイス(表声と裏声を同時に鳴らす)という歌唱法を使っています。高い音でも声が細くならいのは、その手法を用いているからです。今尚発表した楽曲を、そのままのキーで歌うことができています。極めて珍しい例です。しかし、歌うことを休んでしまえば、その手法も使えなくなるでしょう。私は、歌を歌い続けるために歌を歌うことを選びました。多くの批判を浴びることは承知いたしております。私は、私の人生をこれ以上邪魔したくありません。これを読んで私から離れていくリスナーも現れるでしょう。しかし、今私がやらなくてはならないことは、沈黙を守らずに全てを語ることだと思っています。今から語るこの文章の中で、私がいちばん気をつけたことは、私にとって都合の良い語りになってはならないということでした。長い文章になりますが、最後まで読んでいただけることを願っています。  ASKA

1 序章
2 ロンドン
3 kicks
4 ピンチとチャンス 
5 韓国ライブ
6 リアルキャスト解散
7 GHB
8 勘違い
9 飯島愛
10 盗聴盗撮
11 覚せい剤
12 音楽関係者
13 恐喝
14 週刊文春
15 エクスタシー
16 逮捕
17 裁判
18 メール
19 後記
20 追記

本の中で

森を見渡す空き地で
ひとりの子供が放り投げた長靴は
涸れた空へと吸い込まれた

僕たちは
もう僕たちではなく
褐色の知恵を振り絞った
昭和の息吹のように
ひとりの力で時代の幅を知ろうとしている

肩を怒らせて寂しがってもダメなんだ
寂しいときには寂しい景色に溶け込まなくてはならないんだ

七月の終焉を迎えようとしている今
間もなくやってくる残された八月の日差しの中を
四月の顔で潜り抜けたいと願う

土色の地球の上に築いた砦では
遠い宇宙の旅に出かけた
はやぶさの帰還を待つように
今日も口をつぐんでる

言いたいことは
真新しい朝の瞬間に生まれる

そしてそれは
カイコのようになって
僕のところにしかやって来ないフリーダムを食べるんだ

走りながら転んでしまった
ざらついた血が膝に滲んだ

僕は瞼の裏から透けて見える太陽に向かって
正直につまずきを伝えるんだ

この本の中で

700番

1.序章

眠りについた真澄の顔を覗き込んだ。つい5分ほど前には、たわいもない話をしていたのだ。私はドアに掛けてあったジャケットを着て、意味もなく部屋を見渡した。30平米ほどの部屋は、いつもキチンと片付けられている。必要なものを探す必要がない。生活用品も装飾品も、まるで自分の定位置を確保しているかのように並んでいる。これは性格なのか、育てられた環境なのか。その徹底さには驚かされる。後は、音を立てぬようドアを閉めて出て行くだけだ。真澄の住むマンションにはエントランスが表と裏と、二箇所ある。どちらから出て行くかは、その日の気分次第だ。その日は裏のドアを開けた。2014年5月17日。午前7時過ぎ。朝の光はもう眩しかった。青山通りでタクシーを拾うためにドアから10歩ほど歩いた。私は普段から下を向いて歩く癖があるので、その男たちを足元から見上げるような仕草になった。目の前に3人の男たちが立ちふさがったのだ。横をすり抜ける隙間も与えられなかった。三人のうち、真ん中に立ったいちばん長身の男が私に向かって声をかけてきた。
「ASKAさんですね。今からご同行願います。」
その時は、男の言った意味がわからなかった。

2.ロンドン

1996年6月。私たちCHAGE&ASKAはロンドンで行われた「MTVアンプラグドライブ」に招かれた。電子音源を使用せず、生楽器のみで演奏するのだ。その演奏形態でプラグを使わないことから「アンプラグド」と呼ばれた。日本国内で行われるアンプラグドライブではなく、世界へ向けての本場のアンプラグドライブであり、アジアのアーティストでは初の出演となるため、我々は沸いた。前年も招待いただいていたのだが、あまりに知名度の高い番組であるために自信の無さもあり、お断りしていたのだ。しかし、その年は違った。「挑戦してみよう」という気になっていた。全世界約60ヵ国放送のお化け番組であった。この年アンプラグドに先行して、アルバム「ONE VOICE」がリリースされていた。マキシ・プリスト、リサ・スタンスフィールド、チャカ・カーン、INXS(イネクセス)のマイケル・ハッチェンス、ボーイ・ジョージ、リチャード・マークスなど総勢12人の海外アーティストがCHAGE&ASKAの楽曲をカバーしたアルバムだ。その12人に私たちが加わった。このアルバムを背景に海外で好まれそうな楽曲、ふたりのバランスなどを考慮し、アンプラグドライブでパフォーマンスする12曲を選んだ。約1時間20分のパフォーマンスだったが、要年なリハーサルを行った。リハーサルではアレンジの面で元スパンダー・バレエのジェス・ベイリーと、意見の衝突もあったが、全てが終わってみれば最高のパフォーマンスだったと肩を抱き合った。

アンプラグドライブはMTVによる完全収録なのだが、当日のミックスダウン(サウンドの最終調整)はアーティストに任されていた。これは非常に有り難かった。勝手に音のバランスを弄られることがないからだ。CHAGEはこの時間を利用してビートルズの出身地である「リバプールに行きたい」と言う。ミックスダウンは私とプロデューサーの北里に一任された。つまらないところでぶつかることがなくなるので、これはこれで良い。3日間かけて作業は終わった。

当時、私たちは「リアルキャスト」という会社を経営していた。その会社にはロンドン支店もあり、海外からなど綿密な情報網があった。先に書いた「ONE VOICE」の制作なども、このリアルキャストロンドンの存在が大きかったのだ。
アンプラグドライブのミックスダウンが終わった夜、リアルキャストロンドンの外国人スタッフが、私にこう言った。

「今夜、クラブで盛り上がりましょう!」
「良いねぇ!行こうか。」

ロンドンのクラブには、日本とはどこか違う臭いのようなものがある。あれはペンキ塗料の臭いなのだろうか。それにイギリス人女性が使用する香水の臭いなども混じって、独特な雰囲気を醸し出している。最初、私はスタッフが踊るのを観ていただけだったのだが、すぐにホールの中央まで手を引かれて行った。30分ほどして私は席に戻った。眺めているだけで十分だったのだ。その時、男が声を掛けてきた。

「ねぇ、これ要らない?」

丸い形をした白い錠剤だった。

「何?これ」
「知らないの?エクスタシーだよ。」
「何?エクスタシーって。」
「これを飲むと気分がハイになるんだ。お酒を飲んで酔った感じだよ。」

当時、私はアルコールが全くの苦手だったので、お酒を飲んでハイになる気分を味わってみたいと思った。

「みんな飲んでるんだよ。ほら、見てみなよ。」

男はトイレの方向を指差した。
そう言えば、クラブに来た時から気になっていたのだが、男性用も女性用も列を成して客が並んでいるのだ。

「人前で飲んじゃダメだよ。トイレに入ってひとりで飲むんだ。これはエチケットだからね。」

みんなエクスタシーを飲むために並んでいるのだと言う。

「これ、一錠いくら?」
「15ポンド」
「2500円ぐらいか・・。じゃあ、1錠頂戴。」

男は、ニコリと笑ってこう言った。

「まずは半分で良いからね。ハイな気分が終わりかけたら、もう半分を飲むんだ。」
「ふ〜ん。」

私は、ペットボトルを掴んで、そのエチケットを実行することになった。トイレに入ると、みんな入れ替わりでドアの向こうに入る。すると、20秒もしないうちに出てくる。用を足してはいないのだ。いや、用と言うのはエクスタシーを飲むということなのだろう。それなら用は足しているということになる。
そして、私の番になった。少しドキドキするも、お酒を飲んで気持ちが良くなるということを味わえるなら、こんな便利なことはない。
男に言われたとおり錠剤を半分に割り、水と共に一気に流し込んだ。

「ハヴァ・グッタイム!」

次の客と入れ替わる。未知のゾーンに足を踏み入れると人は怯える。しかし、額に銃口を突きつけられたわけではないのだ。それよりも自分の知らない自分に出会えることに興味を持った。傷さえ無ければ痛みはない。天国が目の前にあると言われて足を向けない人がいるだろうか。幸せの足し算が始まるのだ。

私は40歳から50歳までタバコを吸った。理由はない。ただ、肺に入れることだけはしなかったのだ。タバコを指に挟んでいるだけで落ち着くことができた。不思議なものだ。遡ると、高校生の時一度だけタバコを吸った事がある。それも一口。もちろん肺に入れる勇気などなかった。その時の罪悪感と言えば、このエクスタシーなど比ではなかった。そのくらい自然に受け入れたのだ。そのまま私は元の席に座った。30分経っても何の変化もない。スタッフは楽しそうに踊っている。

「何だ。ガセじゃないか・・。」

2500円分ドキドキさせてもらったと思えば良い。そして、さらに10分が経過した時だった。何かが突然変わったのだ。体が軽くなってフワフワとして行く。それは衝撃的だった。脳に掛けてあった鎖が外れたのが分かったのだ。見る見る楽しくなって行く。スタッフの居るホールへ行きたくなった。そう思った時には、もう席を立っていた。

「ハイ!ASKA、楽しそうじゃん。」
「そう、楽しい。オレはみんなのことが大好きだ!」
「私たちも、そうだよ!」

日頃、口にしない言葉が堰を切ったように飛び出してくる。どれもが正直な言葉たちだ。照れがない。全てから解放されているのだ。私は幸せの定義とは解放だと思っている。どんなに自由な生活を送っていても、私たちはある一定のルールの中でそれを送っている。
例えば、

「今日からあなたは何をやってもいいよ。全てにおいて許される。正も悪もない。全てがあなたの自由だから。」

と、言われたとしよう。その時あなたは、人間生活、理性、社会のルールから解き放たれて全ての自由を勝ち取り、最高の幸せを感じるはずだ。そんな感覚になり、心は満ち溢れたのだ。スタッフたちとハグをする。隣で踊っていた見知らぬ女性や男性たちともハグをする。周りに居る誰もが良い人に感じた。それがエクスタシーによるものだとは思ったが、こんなに素直になれるなんて最高じゃないか。同時に、

「お酒に酔うってこんなに楽しいのか。素晴らしい!」

私は、人生を半分損して生きて来たような気持ちになった。胸の内を打ち明けるというのは、こんなにも幸せなことなのか。気持ちはどんどん高揚し、当時ロンドンで大流行していたリバレンスの曲「サルバメア」がクラブ中いっぱいに鳴り響き、私は満悦至極した。しかし、ほど間もなくしてハイな気分が薄れてきたのだ。その曲を境に潮が引いて行くように急に寂しくなってゆく。ハイな気分は2時間強続いたことになる。

「ああ、これか・・。」

直ぐに残りの半錠を入れたポケットを弄ったが、無い。どうやら踊っているうちに落としてしまったらしい。私はよくポケットに手を入れる癖があったので、手を入れたり出したりしているうちに無くしてしまったのだろう。しかし、最高の2時間を過ごすことができたのだから、もうそれは良い。そういう諦めがついたのも、また来れば良いと思ったからである。
部屋に戻ってから、

「あれは何だったのだろう」

と、考える。実はその昔、確かに経験したことのある感覚だったのだ。お酒に酔ったという感覚ではないが、あのフワフワと雲の上に居る状態は何だろう。眠れない、眠りたくないという気持ちが身体を支配していた。そのまま、眠りの浅いところを波打つように行ったり来たりしていたのだが、ようやく記憶の場所にたどり着いた。

「あの時のマラソンだ!」

札幌の高校に通っていた時だ。1年生の時だった。学校生全員でフルマラソンをしたことがある。正確には、42.195キロメートルを完歩するというイベントだったのだが、運動部に所属している身では「歩く」という選択技は用意されなかった。何時間かかっても「走り抜く」ということしか与えられていなかったのだ。生徒の多くは最初から歩いている。ダメになればバスが拾ってくれるというので、さほど覚悟がいるほどではなかったろう。しかし、私たち運動部はそれが許されない立場に居た。

「一緒に走ろうな。」

と、言い合った友人とも逸れ、すでに10キロを越えていた。少しずつ苦しくなる。

「これは、どこかでバスに乗せられてしまいそうだ。」

剣道部の顧問の顔が過る。

「いや、頑張らねば。」

走るのを止めた生徒を追い抜いて行く。自分が何番ぐらいで通過しているのかは分からないが、最終ゴールまで案内された看板を見ながら、何キロ地点に居るのかを走りながら計算していた。脇腹こそ痛くなることはなかったが、足が重たくなって行くのが分かる。20キロを過ぎた辺りだった。

「あと、半分以上もあるのか・・。」

苦しい。それでも足は動かしていなければならない。そして、それは間もなく起こった。確かにラインのようなものがあって、そこを越えたのだ。突然身体が軽くなって、フワフワとしてきた。走っていることに多幸感を感じているのだ。

「何だ。これは・・。」

先ほどまでの苦しさが無い。消えた。幸せ一杯だった。

「このままなら何キロでも走れる。100キロだって問題ない!」

走るスピードも2倍になった。ランナーズハイだ。人間はどんなことをやるにしても、力の80パーセントを出し切ったところでリミッターがかかってしまうようになっている。脳が身体を壊させないよう危険信号を発令し、これ以上は無理だと思わせてしまうのだ。つまり、80パーセントを100パーセントと感じるようにできている。そして脳の指令に逆らい、そこを無理に越えると鎖が外れる。残りの20パーセントを使える状態になるのだ。その瞬間身体と気持ちは無敵になる。オリンピックなどでドーピングという言葉を耳にするが、この20パーセントの力を薬で引き出すことを言う。ナチュラルな状態で20パーセントを引き出す。これがスポーツの世界。風邪薬さえも飲めないのだ。
走っているうちに、その20パーセントゾーンに突入した。
しかし、

「100キロも軽い。」

と、思えた気持ちは35キロくらいを超えた地点でだんだんと消滅し、急に身体が重くなってきた。15キロ近くはランナーズハイで乗り切ったことになる。ゴールは4時間台半ばだったと記憶している。あのフワフワ感をクラブで再体験したのだった。
翌日、スタッフに昨晩のことを伝えた。

「ASKA! エクスタシー飲んだの!? あれ最高でしょう?イギリスでは病院で処方してるんだよ。」
「ええ?病院にあるの?」
「正式名称はMDMA。」
「MDMAね。良いこと聞いた。」

そして、私たち CHAGE&ASKAはイギリスを離れ帰国した。
日本に戻ってからは取材ラッシュだった。アジアアーティスト初のアンプラグドライブ出演というタイトルは大きかった。取材陣もレギュラーではない人が増えて行く。椅子があれば座る人が居る。座る人が居れば会話がある。会話は音だ。音は音楽でなければならない。音楽は人と人をつなぐ。こうやって仲間は増えて行った。

間もなくして私は行動に出た。私には東京の脳神経外科で看護師をしている従兄弟がいた。連絡をしたのだ。

「久しぶり。」
「アンプラグド、おめでとう。」
「おお、ありがと。ねぇ、いきなりなんだけど、MDMAという薬を処方してくれないか。」
「MD・・何?」
「MDMA。」
「10錠くらい欲しいんだ。」
「分かった。医師に聞いてみるよ。」
「悪い。頼んだ。」

何の悪気も罪悪感も無かった。日本でも処方しているだとか、していないだとか聞いていたので、確かめる気持ちもあって連絡してみたのだ。

「あれがあれば、もうお酒飲めなくて良い。」

それから数日後、従兄弟から電話があった。

「兄ちゃん、あれ。MDMAね。処方できない。」
「何で?」
「あれ、覚醒剤と同じ麻薬指定されてる薬らしいよ。」
「そんなことない。ロンドンでは普通に処方されてる薬だよ。」
「とにかく医師が出せないって言ってるから、ごめん。」
「そうか・・。仕方ないな。」

「意外と難しいんだな」日本では忘れるしかない。それでも、あれが麻薬であるはずがない。あんなに正直に気持ちを打ち明けられて素直になれる薬なのだ。

私はMDMAの類似モノもあるはずだとネットで検索をした。 MDMAではMDAしか引っかからない。MDAも同様のものらしい。MDMAの紹介や体験談などを語ったページばかりで、販売しているところには辿り着かなかった。次にエクスタシーで検索した。最初にヒットしたのは「EXTCY」という赤い錠剤だった。値段もロンドンのエクスタシーとさほど変わらない。効能は「ネットでは薬事法に触れるので説明できない」と書かれていた。しかし、それを使用した人の発言では「幸せな気持ちで満たされた」と書いてあった。やはり、同種のモノだ。

「エックスティシーか・・。」

だが、購入は止めた。本名を使えば身は隠せても、相手には記録が残るだろう。後々のことを考えるとクリックする気は失せてしまったのだ。

「また、ロンドンに行くことはあるだろうし、そのときやれば良い」

その後は何も無かったかのように音楽活動に専念した。

僕に似たやつら

誰が何と言おうと
カーネギーの法則さ

悩みはひとつじゃない
レゴブロックのようになって
固まり合っている

外すんだ ひとつずつ
悩みなんて
うかつでもろいもんさ

ひとつ鍵が外れたら
一気に心は軽くなる

サザランドアベニューを覚えているかい
ふたりで待ち合わせしたロンドンの一角さ

濡れた君の唇を奪ったのは
間違いなく僕のひとりだった

僕にはいくつも顔があって
どれも同じ顔をしてる

フォグライトに照らされた街並みがとてもきれいだった
唇を奪ったのは罪だったかもしれない

月夜の晩はほどよく影が浮かび上がって
あちらこちらでつぎつぎと事件が起こる

僕によく似たやつらが通る

月夜の晩には
犯人不明の事件が起こる

3.kicks

日本に戻ってから思い出すロンドンは日増しに色濃くなっていた。エクスタシーではない。クラブシーンだ。これまでの自分の音楽は、一般的にラブソングを耳障りの良いメロディで歌う歌手と決めつけられている感があった。ラブソングは自分のベーシックだが、ライブではそうではないシャウト系の楽曲も多い。90年代半ばからバンドサウンドが主流になってきていることを感じていた私は、より一層シャウト系のサウンドに目を向けた。1997年のソロライブ「コンサートツアーID」では、バンドと一体となった男臭のするステージとなった。新しいモノが見え始めている。そのライブの終わりに、

「みなさん、次にお邪魔するときには隣にもうひとり居ますんでよろしく。」

と、締めくくった。いや、締めくくってしまったのだ。
世の中の流れを敏感に感じ取った活動をしたいと願うのは、どのアーティストも同じだろう。この時期CHAGE&ASKAでそれができるであろうか・・。オーディエンスは変わらないモノを求めると言いながら、意外性を求める。
良い意味で「期待を裏切る」というやつだ。ライブ曲を並べてみる。ライブの構成に入ってみたのだ。だが、やはり意外性を体感させることのできる並びにはならない。「CODE NAME 2 SISTER MOON」が最新のアルバムだったが、バンドサウンドを迎え撃つ楽曲は並ばなかった。

「世の中の流行に沿ってリスナーも動いている。いまCHAGE&ASKAをやるのは非常に危険だ。『何か違う』という印象を与えてしまうかもしれない。
まず、バンドサウンドを感じさせるアルバムを作らねば。」

ステージプランナーの久保、総合プロデューサーの渡部、音楽プロデューサーの北里、CHAGE。大いに悩んだ。私はクラブシーンの影響もあり、ソロ楽曲の駒は揃っていくのだが、CHAGE&ASKA用の楽曲は進まなかった。

その頃、ASKAバンドのメンバーと日々音楽談義をしていた。CHAGE&ASKAに欠けていたのはこれだった。顔を付き合わせて音楽の話をすることがなかったのだ。スタッフはそれを願ったが、それは実現しなかった。結局、ツアー発表のギリギリ間際になって、今回のツアーは見送ろうという判断を下した。断腸の思いだったが、CHAGE&ASKAをこれからも継続させるためには正しい判断だった。今振り返っても、あの時の判断に間違いはなかったと言える。

その後、直ぐにソロ活動を発表した。「次はふたりでお邪魔する」と公言しておきながらソロに切り替えることで、多くの批判を浴びることになるだろうと予測してはいたが、予測以上にそれは強かった。しかし、リスナーに気弱なところや本当の理由は語れない。批判を押しのける形でのソロ活動となった。

私は、書き始めていた楽曲を引っ下げてスタジオに入った。曲のテイストから、このアルバムはロンドンで録音しようという結論に達した。楽曲のベースメントは日本で録音し、オーバーダビング系はロンドンで行なうという手法だ。ライブを意識したクラブサウンドとロックの融合だ。その変貌に固定リスナーは困惑するかもしれない。しかし、ソロアルバムはあくまで実験だ。後に名盤と呼ばれるアルバムになることを信じて作業に励んだ。

ロンドン滞在中クラブに行くこともなく、リリース予定に間に合う最後の日までスタジオに入った。そしてアルバム「Kicks」(刺激)が出来上がった。ライブリハーサルではオーディエンスの顔が浮かぶ。賛否の否はあるだろうが、装甲車のように否をなぎ倒して行く構えでツアーに臨んだ。ライブはどの会場も盛り上がった。新しい手応えだ。前回の「IDライブ」の反響がそうさせたのか、この「kicksライブ」頃から一気に男性客が増えた。同性に指示されることは大きな喜びだ。そして、ロンドンからライブ撮影チームがやって来た。大阪城ホール4日間の後半日、3日目、4日目がライブ映像のシューティング日となっていたのだ。しかし、この日のライブがその後のアーティスト活動を大きく左右する出来事となってしまうことになるとは思っていなかった。

1日、2日目はいつもと変わりのないライブだった。中1日が喉を休ませるためのスケジュール構成になっていた。ところが、その休みの日に風邪を引いてしまったのだ。シャウト曲が並んだステージであったため、元々喉にかける負担は大きかった。そんな時に風邪を引いてしまったのだ。ロンドンからの撮影チームは綿密な打ち合わせを終えており、すでに設営に入っている。風邪を引いたからと言って、今更ライブを飛ばすわけにはとてもいかない。3日目のシューティング日のリハーサルは、少しでも喉を温めるため念入りに行った。普通は喉を庇って消耗しないようにやるのだろうが、私の場合は違っていた。歌って、歌って喉を開いて行く。リハーサルと本番の区別が無い。これはデビュー当時からのスタイルだった。その日は特に力を入れた。リハーサル終了間際でようやく声は出始めた。そのライブでは会場の真ん中から登場する演出になっていた。心中穏やかではないままライブは始まった。1曲目にオーディエンスのど真ん中で「同じ時代を」のフレーズをアコースティックギター1本で歌い、花道をエンドステージ中央に向かう。ところが、リハーサルで開きかけていた喉が開演までに冷えて元に戻ってしまっていたのだ。声が出ない。ライブは始まっている。だが、そんなことで躊躇してはいられないのだ。オーディエンスが見守る中、ライブは進んで行った。声が思うように操れない。それでもシャウトした。ステージ上で与えられた唯一の防御策は「怯まないで歌う」ということだけなのだ。最悪のコンディションだが、時間の進む方向どおりにシャウトを続けた。翌日も同じように酷かった。あのライブを作品としてリリースしたのは、それでも気迫が乗り移っていたと確信したからだ。

あばよ

柔らかい音を織って
メロディと奇妙な出会いをする

青春の意味を計ることが出来ない人には
世情の汚れを落とす淡い石鹸と優美な希望をあげよう

僕は歌うたいだ
僕は歴史の不透明だ

僕の内部は空洞で
いつもからんころんと鳴っている

それがどうした
ひもじいか

「いつまでも青春」
なんてフレーズは
「バケツをひっくり返したような雨」

使い古された比喩のようで恥ずかしい

僕の名は確実に歳をとる
未来の名がいつか屈辱されたときには
「おーまいがっと」と呟けばいいさ

どこまでやれるか
誰かが決めることじゃない

夕焼けに染まった夕立あとの地面に昇り立つ陽炎の中で
「あばよ」と笑って去ればいい

4.ピンチとチャンス

風邪はライブの2日間だけだったかのように、その日が過ぎると嘘のように治った。6日後の横浜アリーナでは、いつもどおりのライブができたが、体力の消耗が激しかった。必要以上に力まないと声が出ないのだ。自分自身に違和感を感じながらのライブだった。そして、ツアーは終了。

数日間の休養を取った後、CHAGE&ASKAの楽曲制作に入った。ピアノの前で声を出し始めるのだが、ハイトーンが出ない。いつもは力むことなく「ラ」まで声が出るのだが、どんなに頑張っても「ファ」までしか出ない。こんな日もあるのかと、その日は作曲を諦めた。翌日も、そして更に翌日も事態は変わらなかった。声が出ないのだ。一般のカラオケで歌っている人の方が勝っている。私は病院へ向かった。多くの声楽家などが訪れる病院だ。

「先生、ポリープはありませんか?」

できるだけ慎重に視てもらおうと、大きく口を開け声帯を開け閉めした。

「無いねぇ。少し赤いけど問題は無いよ。」
「右側が完全に利き声帯だね。左右の声帯のバランスが非常に悪い。」

それは以前から知っていた。長年の歌手生活の中でそれがさらに進んでいたのだ。思い当たることがある。昔から高音を出そうとすると、左に顔を傾けるのだ。これは単なる癖だと思い込んでいたが、右側の声帯を使うための無意識な動作だったようだ。右側の発達に比べ、左の声帯が極めて幼いということだった。先日の風邪を押した無理なライブの所為で、右側の声帯がやられてしまったのだ。もう元には戻らないかもしれないと気弱になった。そして、声の出ない日々は続いた。

その昔、ギターで作曲が出来なくなってしまったときに、同じような思いをしたことがある。あのときは、どうせ活動を諦めるのだったら悔いの無いよう、作曲法を変えてみようと思い、弾けもしないのに鍵盤楽器を買ったのだ。鍵盤ではコードが分からないため、指先2本で音を弄った。それから少しずつ鍵盤を押さえる指の数が増え、やっと作曲出来るくらいに動かせるようになった。初めてピアノで作った曲が「ムーンライトブルース」だ。その後、慣れてくると楽曲の量産体制に入った。調子の良し悪しなど関係なく、どんな時も曲ができた。ギターでは上手く聞こえなかった分数コードが、はっきりと聴こえるのだ。これは大きかった。少しずつ鍵盤が分かってくると、見たままがコードだというところに落ち着いた。ギターでは曲が出来ないというピンチを鍵盤でチャンスに変えたのだ。

声の出ないピンチをチャンスに変える方法はないかと考えた。キーを下げなければ、いままでの歌は歌えなくなってしまう。どんなに首を傾けても出ないものは出ない。

「右側か・・。」

その時、頭の中で閃いたものがあった。

「左の声帯が幼いって言ってたよな・・。」

幼いなら、成長させれば良い。早速、その日から左の声帯で歌う練習が始まった。まずは普通に歌ってみる。すると、確かに右側から息が出ているような感覚があるのだ。意識しながら歌う。なんとか左にシフト出来ないものかと躍起になった。それを初めて5日目。ようやく左で歌う感覚が生まれてきた。ただ、声が細いのだ。喋る時も意識して左の声帯を使った。成長していないだけに、音程が取りづらい。気がつけば右の声帯で歌おうとしている。それを意識して左に変える。そんな日々が続いた。翌年の99年にはCHAGE&ASKAの20周年を迎えることになる。どうしても、左の声帯を成長さなければならないのだ。高い声が出ている時は左の声帯を上手く使っている時。馬力のある低い声の成分を感じる時は右の声帯を使っている時。20周年はファンクラブ会員限定のアコースティックライブとなった。声の調子がそうさせた訳ではない。アンプラグドのあの感触を今一度というコンセプトだった。99年6月に行われたライブだったが、リハーサルの時には両方の声帯が鳴ってしまう状態だった。それでも左で歌うことが随分自然になってきている。オーディエンスは敏感だ。この年のライブ頃から私の声の調子がオーディエンスに語られるようになって行った。私が左の声帯にシフトしていることを知っているのは極身内の人間だけだ。同99年「電光石火」。2000年、福岡で行われた「COUNTDOWN 千年夜一夜ライブ 」など、発声を模索しながらのライブが続いた。

僕のジャム

簡単なことさ
喜びと怒りと哀しみと楽しみ

それから手のひらいっぱいの
夢と希望を

大きな日曜日に放り込んで
ゆっくりゆっくりかき混ぜる

月曜のへたを取り
火曜に砂糖をまぶして火にかける

少々の水曜の
アクが浮かんできても

アクは気にせず木曜の鍋で沸騰させる
金曜にレモンを加え

土曜の瓶に詰め込んで蓋をする

あとは幸せ考えてたら
ほら僕のジャムのできあがり

簡単なことさ

5.韓国ライブ

2000年。韓国でライブをやることになった。突然、韓国政府から招待されたのだ。日韓の音楽の架け橋になるアーティストをずっと探していたのだと言う。韓国側の関係者は、数年に渡り日本のいろんなミュージシャンのライブに足を運んでいた。私たちに白羽の矢が立ったのは、福岡のCOUNTDOWN LIVEだった。私たちは韓国政府に招かれ、大統領官邸「青瓦台」で大統領令夫人と会うことになる。

「コンサート頑張ってくださいね。応援していますよ。」

優しい眼差しで声をかけてくださった。

当時、日本と韓国は2002年に合同で開催されるサーカーのワールドカップを成功させるために国同士が動き出した。それまで歴史問題で距離のあった両国ではあったが、スポーツや音楽などの民間交流にそれは託された。政治では埋まらない溝を文化で埋めようという試みだったのだ。
私には以前から不思議に思っていることがあった。私ひとりではそうはならない。CHAGEひとりでもそうはならない。しかし、二人が並ぶと相手が扉を開いてくれるのだ。中国でもそうだった。放送局のトップと面談したときだった。トップは三人だけで話がしたいと言う。スタッフも通訳も席を外してくれと言う。私たちはひとつの部屋へ誘導された。何故三人だけなのだろうか。ソファに座る。そして、とても穏やかな口調でこう言われたのだ。

「私は日本人が大嫌いです。」

流暢な日本語で冒頭から否定されたのだ。私たちは息を飲んだ。どうにも反応が出来ない。私はきゅっと口を結んで笑顔を返すのがやっとだった。歴史は根深い。話は続けられた。どんなことを言われても真摯に対応しようと思った。今、試されている。アジアに試されている。

「これは生理的なことだからしょうがない。しかし、あなたたちだけは不思議とそうじゃない。私にも分からない。中国でのコンサートを全面的に応援します。」

椅子から立って握手を求められたのだ。日に照らされた荒れ地に恵みの雨が降り注いだような瞬間だった。最初にやるのは本当に大変だ。相手国のスタッフとコミュニケーションを取りながら人間関係を一から積み上げて行かなくてはならない。マスコミも味方につけなければならない。勇気と覚悟、情熱と敬意で臨んだ。しかし、何よりも懸念しなくてはならないことがひとつあった。失敗するかもしれないということだ。ライブは出来ても成功は約束されていない。常にリスクに対するダメージコントロールを考えながらの異国ライブだった。失敗はその後の日本での活動に大きく響いてしまう。いつも、いつもスタッフの苦労は計り知れなかった。間もなく韓国が門を開きそうだという情報は入ってきていたが、乗り越えるバリケードは高いだろう。これまでの苦労を考えると、韓国ライブに関しては手を挙げる気持ちにはなっていなかった。寧ろ、誰かが敷いてくれたレールの上を後から走って行くことを望んでいた。かける労力も金銭も、圧倒的に楽だからである。ところが、前触れも無く韓国政府に招待され、我々が赴くとその場で日韓の親善大使に任命された。二度目に訪韓した際には、日本の音楽協会が足を運んでも会えなかった、南北会談の影の立役者パク・チオンさんが我々を迎えてくれたのだ。取材の最中などにも顔を出してくれた。自分の足は自分できちんと使わねばならない。韓国女性基金団体が、私たちCHAGE&ASKAを見つけてくれたことに心から応えようと思った。

女性基金団体と言えばこういうことがあった。取材の時だった。ジャーナリストが慰安婦問題を突きつけてきたのだ。一瞬言葉を失った。その時だった。女性基金のスタッフが咄嗟に飛び込んで庇ってくれた。「取材では慰安婦問題には触れない」という約束が交わされていたのだ。しかし、突発的に起こった出来事を打ち消すことは、もはやできなかった。発言を求められる場がそこに生まれてしまったのだ。我々はクレームをつけるスタッフを制して、世代の歴史観を自分たちの言葉で説明した。話が終わった時だった。スタッフのひとりが涙をポロポロ流しながら手を握ってきたのだ。春先のような手の温もりだった。

帰国すると、我々のプロデューサーである渡部はその足で日本音楽事業協会。通称「音事協」へ報告に行った。それまで「音事協」では韓国音楽協会と一緒になり、韓国ライブを実現させる第一号日本人アーティストを数年間かけ、水面下で探し合っていたのだ。取り分け韓国は慎重になっていた。

後に韓国スタッフが話してくれたのだが、私たちCHAGE&ASKA、そして渡部の日本でのすべての行動は「KCIA」(韓国中央情報部)に監視されていたのだった。出生、生い立ち。全て調べられていた。スキャンダラスなことが、ひとつもあってはならなかったのだ。約1ヶ月間の監視だったという。私には心当たりがあった。実は韓国政府に招待される少し前に、私の自宅側に無線機を積んだ車が1週間ほど停まっていたのだ。気になった私は知り合いの警察官に頼んで、毎日3時間おきに家の周りをパトロールしてもらった。韓国はそれほど慎重になって、日韓幕開けのアーティストを探していたのだ。その後、私たちは無事記者会見を終え、韓国でライブをやることを正式に発表した。ただ、大きな問題があった。韓国では日本楽曲のCD発売が解禁になっていなかったのだ。オンエアーもされていない。台湾ではライブ直前に解禁になった。韓国ではそうはならなかった。楽曲プロモーションが出来ない。アンダーグラウンドでは広がっていたのだが、所詮アンダーグラウンドはアンダーグラウンド。メジャー展開でのコンサートプロモーションが出来ない。急遽、我々は国外でリリースしていた「Something There」とアルバム「One Voice」をプロモーションの軸に切り替え、洋楽アーティストとして乗り込んで行った。日本国内で英語曲をリリースしたとき、多くの批判を浴びたが、あれがなければ韓国ライブのプロモーションは何も出来ないままで終わっていた。ライブは8月26,27日の2日間、1万人収容のオリンピック公園チャムシル体操競技場で行われることになった。このライブには口にできない秘話がある。これは我々が活動を引退した時に話すこととしよう。

そういうこと

そういうことで
そうしておいて

そうでなければ
そうなんだ

そうしたら
そうは言えまい

そういうわけで
そうなった

本当のことを嘘のように言い
嘘のことを本当のように言う

口に出したら
ただの負け

つまり
そういうことだ

6.リアルキャスト解散

異国でのライブを楽しむことに喜びを感じてくれるファンが、日本から約5千人、韓国へと足を運んだ。テレビや新聞などでは「半分が日本人だった」と伝えたが、それは大きな間違いだ。2日間で5千人なのだ。1万人の会場は2千5百人の日本人と7千5百人の韓国人客で、両日席が埋まった。
韓国ライブのすぐ後、それまで経営してきたリアルキャストは事情によって解散した。止むことのできない事情があった。写真雑誌「FLASH」の報道で「韓国ライブが失敗した」と事実のように語られてしまったのだ。韓国ライブはスポンサー「NEC」「JAL」の協力を得て大成功を収めた。「FLASH」は「ライブの失敗で会社が大赤字を出したのが会社解散の原因」だと書いた。
韓国ライブのDVDをリリースしなかったことが、そう思わせた原因だったのかもしれない。我々は、あの歴史的なライブをビジネスにしてはならないと考えた。自分たちのアーティストプロモーションに利用してはならないと思ったのだ。ライブから15年が経った。そろそろ全編を公開しても良い時期に入ったのではないかと考えている。憶測だけで書かれた記事が業界や世間へ、それが本当のことのように広がってしまった。ワイドショーなども信じる始末なのだ。どこも何も調べてはいない。

我々リアルキャストの株主は、CHAGE,ASKA,YAMAHAで構成されていた。2000年5月にYAMAHAがレコード会社を設立することになったのだ。私はレコード会社設立に反対だった。しかし、話は軽快に進んで行った。レコード会社の役員にはリアルキャストの渡部もいた。レコード会社設立に伴って、 YAMAHAに移籍して欲しいと声をかけられた。私は「キャニオンレコード」から「東芝EMI」に移籍したばかりの身であったので、それを丁寧にお断りした。その後、「三顧の礼」ではないが、幾度となくそのやりとりは交わされた。移籍交渉をしてくる相手はデビュー間もない頃からのYAMAHAのスタッフだ。散々お世話になった。そんなスタッフの交渉にいつまでも首を横に振ることはできなかった。

「分かりました。まずはソロということでいいですか?新会社だからと言って、ミスは許されません。ソロで事故が起こった場合は、すぐに他のメジャーレーベルに移籍します。母体であるCHAGE&ASKAで怪我するわけにはいかないのです。」

全て納得したという発言を聞き、先のことを約束として「東芝EMI」からYAMAHAへ移籍することになった。「未来の音楽業界は冷える」「そのうちコピーの時代に突入し、やがて何らかの方法で音源がリスナーの元へ送信されるようになる」「このまま、この状態が進んで行けば『1曲10円』または『ただ』になって行くだろう。そうなれば、アーティストは消えて行く」と、ライブなどでも公言してきただけに、心中、新会社移籍は不安だった。しかし、新しいところには活気もある。ASKAソロをYAMAHAレーベル第1弾にしたいと言う。まだ、シングル曲も出来てない時であった。机上の空論ではあったが、戦略などを含めた宣伝展開など初々しくも頼もしく感じた。間もなくして、私は「good time」という楽曲を仕上げた。

リリース後、一部のファンからは「勢いがない」「暗い」など、手痛い批評も浴びたが、私の楽曲のなかでは、最もよくできた楽曲のひとつとして捉えている。今も尚、その気持ちは変わらない。ミックスダウン前に、いわゆる完パケ前にタイアップが付いた。日本テレビ「知ってるつもり」のエンディングテーマだ。通常1クール(3ヶ月)なのだが、2クールのタイアップとなった。出足は好調のように感じられた。ただ、気になることがあった。「リリース前の数ヶ月間、ラジオなどでは流れまくります。」と言われた割に反応が無い。新曲のリリースになると友人知人から、必ず「聴いた」という連絡が入るのだ。2000年と言えば、まだやっとネットが広がり始めた頃。ネット上の反応は気にしないように言われたが「新曲を聴いた」という反応がネット上に無かったことには一抹の不安を覚えた。ラジオ局にはすでに配り終えていると言う。なのに、ローテーションされている気配が無い。リリース直前に分かったことだが、ラジオ局には確かに配られていた。ただ、上層部に配られていて、いちばん肝心な現場にシングル「good time」が無かったのだ。これではかからないはずだ。

そして、リリース日。友人から「シングルがショップに置いてない」という連絡が入った。買えないと言う。1週間経っても事態は変わらなかった。ネットやファンから貰う手紙にも同じようなことが書いてある。驚いたことに、ショップではインディーズ扱いになっていたのだ。只事ではない。担当を呼んで説明を求めた。担当は、ポツリポツリと語り始めた。元々2万5千枚しか用意していなかったことは、少し前に聞かされていた。余りの底枚数にショックだった。イニシャル(レコードショップの売り上げ予想予約)が付かないと言う。インディーズ扱いでは仕方がない。それでも「何故だろう」という疑問は深くなって行った。そして、更に悪いことが起こっていた。流通を怠ったのだと言う。ショップがバックオーダーをする手法がなかったということが原因だった。1枚バックオーダーをするのに、宅急便を使わなければならなかったのだ。送料だけでショップの売り上げはマイナスとなる。どこからもバックオーダーは無かった。結局「good time」は2万5千枚で終了となった。今でこそ、しっかりとした基盤を築いてるYAMAHAだが、新会社設立当時には、そういうことがあったのだ。事態を重症と受け止めた私は、約束どおり移籍の意を伝えた。

これがソロで良かった。これがCHAGE&ASKAのリリースであったなら、語るに落ちる不名誉な記録だ。そして、YAMAHAを離れるにあたり重篤な問題があった。我々の事務所社長であり、プロデューサーでもあるリアルキャストの渡部がYAMAHAレーベルの役員になっていたからだ。責任の所在は当然渡部にも行く。株式も含めてYAMAHAから完全離脱した後、渡部が社長であるリアルキャストを存続させるわけには行かなくなった。誰々の所為にはしたくなかったのだ。誰かが責任を取るという方法は選ばず、みんなで会社を解散しようということになった。これが会社解散の理由だ。我々はリアルキャスト時代に、別会社として立ち上げていたロックダムに一時預かりのような形で事務所移籍をした。渡部もYAMAHAの役員を辞め、兼ねてからヘッドハンティングされていた会社の代表となった。 

自分が自分であるために

したがって
もはや痛みは無い

新聞に載らない歴史など
誰も興味はもたないのだ

事のついでに
生きてやろうか

失ったものを
懐かしいと言うな

椅子に座ったまま老いるのは嫌だ
立って周りを見渡しながら老いるのだ

ここは素敵だぞ
いつだってそう言っていたい

あかんべーを忘れるな
自分が自分であるために

7.GHB

相変わらず声の調子、歌唱法はなかなか安定しなかったが、休むことはしなかった。いろんな人から休養を勧められたが、このまま休むと歌うたいの声ではなくなるような気がしてならなかったのだ。ツアーは84本、71本、51本と4年間で3ツアーを決行した。ツアー毎に左の声帯は成長している。高音はもう問題ない。ただ、私がいちばん得意とするミックスボイスを使うときに、一瞬中高域で声が割れる。いちばん多用するところだ。調子には波があった。前日に調子が良いと、翌日はつい右の声帯を使ってしまうのだ。ライブに集中するのか、喉に集中するのか。今は喉に集中しなくてはならないのは分かっているのだが、ライブに気が入るとつい右を使ってしまう。そうすると声が割れる。一長一短だった。しかし、それも2006年を境に安定してきた。意識しなくとも左で歌うようになっていたのだ。これで声が割れることは無くなった。

90年代初頭、大阪でライブをやっていた時に同じく、大相撲大阪場所が行われていた。ライブ終了後、知人の相撲取りに連れられて夜の街に繰り出した。街はバブルで浮かれていた。その店のオーナーは柳田という人物だった。トロピカルな店構えをしており、そこそこ席は埋まっていた。知人の紹介でもあり、私は直ぐに柳田と親しくなった。柳田は大阪のライブの度に顔を出してくれた。決まってその夜は食事を共にした。人当たりの良いおっちゃんは話しやすかった。その後、交際は数年続く。後にこの人物とは事件を共有することになる。

98年、喉を壊していた私は、そのうちオフステージの付き合いも悪くなりホテルに籠るようになっていた。寝つきも悪い。そのころ医者から睡眠導入剤「エリミン」を処方された。それを飲むと10分ほどで効果が現れるのだ。有り難かった。
そんな話を友人としていたら、

「GHBというのがありますよ。」

と言う。

「何?GHBって。」
「アフリカ産で、小さじ擦り切れ一杯を水やジュースに溶かして飲めば爆睡できるんです。」

俄然、興味を持った。

「どのくらい眠れる?」
「3時間きっかりで目が覚めるんですけど、10時間分の睡眠がとれるんですよ。」
「それって、最高じゃないか。」
「オレ、今度購入しようと思ってるんですけど、一緒にオーダーします?」
「頼む、頼む。すごく興味がある。」

ネットで検索すると、常用性はないと書いてある。身体に良いことばかりが説明されていた。

それから3週間ほどして、それは届いた。箱を開けると幅はCDくらいのサイズで縦10センチくらいの円柱型の入れ物に入っていた。容器には「gamma-Hydroxybutyric acid」と書いてある。
「ガンマヒドロキシ酪酸」
元々脳内にある物質GABAに変化する。副作用は「若返り」。アルコールと併用すると、効果が3倍になり昏睡状態に陥るため、併用は避けるようにと書いてあった。

白い粉末状のものが容器一杯に詰めてあった。その夜、私は言われたとおり、付属されていたスプーン一杯を水に溶かし、それを飲んでみた。食塩水のような味だった。15分くらい経った頃だろうか。目が泳いできたのが分かる。景色が揺らぐのだ。と、同時に幸せな気持ちで満たされた。

「これって、あのエクスタシーの時と似てるじゃないか。」

忘れていた感覚が呼び戻ってきた。それから私はそのままベッドに入った。すぐに意識はなくなり、目が覚めた時には頭がすっきりしていた。枕元の時計を見ると、きっかり3時間が経っている。

「すごい!効能どおりだ。」

そのように、一瞬は目が覚めるのだが、そのまま朝までぐっすりと寝直すことが出来た。私は、毎晩のようにそれを摂取した。なにせ、副作用が「若返り」なのである。

しかし、それは長くは続かなかった。アメリカのFDA(アメリカ食品医薬品局)が、世界へ向けて発売を禁止したのだ。アメリカ内で GHBを飲まされた女性が昏睡状態になってしまい、レイプされたのが切っ掛けとなった。日本では2001年11月に麻薬指定となった。現在、ヨーロッパの医者たちが集まってGHBの解放をFDAに要求している。身体に良いものとして判断しているからだ。

希望

守るべきものを考えてみたのだが
思考はメダカのようになって泳いで行った

思いつく言葉を並べてみたのだが
間違いだったと言わなくてはならなくなった

不正解は不誠実だ

生きる方向は時間の進む方向と一緒
感触はないが感じることはできる
裂け目が開くように夜が明け
私は時間の隙間に潜り込む

どんなときもちゃんとそこにあるのは分かっているのだ
希望だけは始末できない

8.勘違い

2006年のツアー「My Game is ASKA」の時だっただろうか。札幌での出来事だった。私は中学1年夏から高校2年の夏まで北海道の千歳に住んでいたこともあり、札幌でのライブの時は、友人で楽屋がいっぱいになる。その日もそうだった。アポイントを取っていない友人が、突然訪ねてくるのだ。友人と話をしている時、イベンターが割って入った。

「ASKAさん。斎藤さんという方がお見えになっていますが・・。」
「ああ、斎藤ね。構いません。入れて下さい。」

中学2年の時からの千歳の大親友が、楽屋を訪ねてきた。そいつとは、2015年5月25日から31日まで、沖縄、そして与那国島にある海底遺跡をスキューバダイビングで見てきたばかり。本当にもう長い友人だ。そんな久しぶりの友人たちとライブ後に立ち話をするのが楽しみのひとつになっている。いつもそれは1時間ほど続く。CHAGE&ASKAで訪れる際には「付き合っていられない」とばかり、CHAGEは先にホテルへ帰る。いつものことだ。話が終わると、皆友人たちはひとりひとり楽屋を後にする。少しずつ数が少なくなって行く。

途中から気になっていたのだが「あの人は誰だろう?」という面会人が、楽屋の隅にいる。とうとう最後の面会人となった。どう声をかけて良いやらわからない。

「えー・・失礼ですが?」
「斎藤と申します。関係者口で名前を言ったら入れてもらえたんで。」

斎藤違いだ・・。確かに自分が楽屋に通すよう許可した。千歳の斎藤だとばかり思っていた。

「ああ、そうですか・・。」
「この子が熱烈なファンなんですよ。写真一枚いいですか?」

ここまで来て「勘違いだ。帰ってくれ」とは言えない。1時間以上も待っていたのだ。

「分かりました。ここへは事前にアポイントがないと入れないんです。」
「そうですかぁ。分かりました。」

その夜、札幌で店をやっている友人が、どうしても連れて行きたい店があるというので、バンドメンバーを誘い行動を共にした。それは、すすきのにあるビルの地下1階にあった。思うに「ASKAを必ず連れてくる」とかなんとか、言っていたのだろう。友人の顔を立てるくらいは構わないだろうと思った。特別大きな店ではなかったが、深々と座れるソファが店内を占有していた。お客さんは入っており、エントランスから入って中央奥にある柱の隣しか空いていない。我々は5人で訪れたため、ソファは狭く感じていた。すると、隣のお客さんから声をかけられた。

「ASKAさんじゃないですか!」

あれ・・。この人、さっきの・・。

「あ、斉藤さん。」

こんな偶然があるのか・・。本当に、驚いたのだ。

「先ほどは失礼いたしました。狭いでしょ?こっち、こっちで一緒に飲みましょう。」

私は、こういう押しに弱いのだ。すぐ隣に座っているのに無視はできない。

「ここ、オレの店なんですよ。」
「ええ?そうなんですか。」
「いやぁ、今日のコンサート良かったなぁ。」

少しお酒も入っているのか、饒舌だった。それからバンドのメンバーも会話に加わり、席を共にする形となった。

「オレ、漁師やってるんですよ。」
「え?店やってるんでしょ?」
「そう、この店もやってるの。」
「漁師さんで、店持ちですか。」

斉藤の話は独特の間が面白く。皆一緒になって笑った。

「ね、直ぐに海産物送るから、ちょっと送り先書いて。」
「いやいや、良いですよ。ありがとうございます。」
「書いてってば。今日のお詫びも兼ねてるから。」
「いやいや、大丈夫です。」
「それでは、オレの気がすまないから。」

押しには弱い・・。この人は引かないだろう。
その時、私は事務所の住所が出てこなかった。事務所の住所などを書く機会がないため番地までは知らなかったのだ。同時に、事務所に魚が届いても迷惑になるだろうと思い、仕方なく自宅の住所を書いた。電話番号は事務所にした。

東京に戻り、3日ほど経つとクール宅急便が届いた。送り名は「斉藤和夫」となっている。

「和夫って言うんだ・・。」

二段重ねになった発泡スチロール箱の中には、北海道から海産物がびっしりと詰められていた。私は迷ったが、やはりお礼の電話はしなくてはならないだろう。家の電話を使おうとしたのだが、教えた番号とは違う。警戒したと受け取られると嫌な気持ちにさせるだろう。私は携帯から電話をした。

「いいから、いいから。今度札幌に来たときには、また一緒に飲もうねぇ。」
「ええ・・。その時にはまた。」

それから斉藤は、ちょくちょく電話をかけてくるようになった。雰囲気を作るのが上手い人で、こちらもついつい乗ってしまう。飲んでいる席からの電話が多かった。そして2009年、「CONCERT TOUR WALK」で再会することになる。

ライブはいつもどおりだった。食事後、電話が鳴る。

「ASKA? 斉藤だけど、ちょっと一緒に飲まない?」

別に予定の無かった私は、勘違いから知り合う切っ掛けとなった、その千歳の斉藤やバンドメンバーを連れて合流した。指定された場所にタクシーで向かうと、信号機の側にもう斉藤は立っていた。

「久しぶり。ってな感じじゃないか。電話で話してるもんね。」

と、私が言う。

「そうだね。こっちこっち。」

前回遭遇した店ではなかった。

「ここ、オレの店なんだよ。」
「はい?ここもそうなんだ?」

斉藤も友人連れだった。

「いやー、魚が捕れなくってさー。」
「それで、こっちで稼いでるんだ?」
「そう。」

すすきのに2軒も店を持っていることに驚いた。漁師さんというのは稼いでいるものなんだなと感心したのだ。実業家として成功しているのかもしれない。いったい、どれくらいの大きさの船に乗ってるんだろう・・。メンバーにも気を遣ってくれる。メンバーが楽しそうだと私も嬉しい。1時間ほど居ただろうか。

「斉藤さん、そろそろ帰るよ。」
「すみません。ここ会計お願いします。」

すかさず、斉藤が、

「ここはいいから。オレに奢らせて。」
「いやいや、困る。ちゃんと取ってもらわなきゃ。」

私は、タニマチのような付き合い方はしたくなかった。自分の分は自分で払う。従来、奢られるのが苦手なのだ。

「そっか。悪いねぇ。ありがとう。」

店を出てメンバーはホテルへ。私は札幌に持っているマンションへと帰った。

そのマンションでは、度々作曲合宿が行われる。メンバーと泊まり込みで音楽漬けになるのだ。「UNI-VERS」「SCRAMBLE」「いろんな人が歌ってきたように」他、未発表曲など、みんなここで作られた。私のメロディの思いつきで、アレンジも同時進行で進んで行く。ギターの鈴川は食事も担当してくれる。これがプロ並みで、食事も作曲合宿の醍醐味だ。そんな札幌滞在中に偶然斉藤から電話が鳴った。不思議と滞在中に連絡がある。

「斉藤さん、本当は航空会社にでも勤めてるんじゃないの?」
「なんで?」
「あんまりにビンゴだからさ。いま札幌にいるんだ。メンバーも一緒だよ。」
「それなら、出てきてくれなきゃ。」

メンバーに聞く。

「ちょっと休憩しようか。缶詰状態だもんな。」
「顔出して帰ってこよう。続きはその後で。」

指定された店に行くと、斉藤はひとりだった。

「よう、ASKA。」
「斉藤さん、鼻が利くねぇ。」
「ここ斉藤さんの店だったりして。」
「そうだよ。」

メンバーも驚いてる。

「店、何軒持ってるの?」
「わっかんねぇ。」
「船には乗ってないんじゃいの?」
「ああ。しばらく乗ってないなぁ。」

この時、何かが変だと思わなければならなかったのだ。ひとりの漁師が、すすきのに分からないほど店が持てる訳がない。話の中で著名なベテランシンガーの名前なども飛び出した。

「ええ?○○さんと知り合いなんだ?」
「ああ、一昨日も飲んだばっかり。あいつ、カラオケが好きで止まんねぇんだよ。ずーっとひとりで歌ってる。」

この人、何者なんだろう・・。話は面白いし、気は優しいし、まぁただのよく言う芸能人好きなのかもしれないなと思ったのだ。

小一時間ほどして、帰ることになった。

「ASKA、オレの車使って。」
「いやいや、タクシーで帰る。」
「もう、運転手に言ってあっから。」

運転手・・。外に出ると白のメルセデスの前で、スーツを着た青年が立っていた。

「困ったなぁ。」
「大丈夫。こいつもじっと待ってるより、運転してた方が楽なんだから。」
「ASKA、マンションでしょ?」

我々は、送ってもらうことになった。

「いつまで、居るの?」
「明後日ぐらいかな。オレはもう一泊する予定だけど。」
「それじゃ、そのときまた連絡するよ。」

部屋に戻ってからの話は斉藤の素性についてとなった。

「ただ者じゃないよね。」
「この不景気なときに、羽振り良すぎだと思いませんか?」
「確かに・・。」
「でも、○○さんや○○さんも知ってるって言うし、危険な感じはしないですよね。」
「ヤクザだったりして。」
「いやー、そりゃないだろ。あのキャラは。宝くじでも当てたんじゃないか。」

斉藤談義は尽きなかった。

「さ、そろそろ続きやろっか。」

予定の日数を終え、とっ散らかった部屋は元どおりに片付き、メンバーは東京に戻った。
私ひとりが残る意味はさしてないのだが、この部屋の空間が好きなので、いつも最後はひとりになってから帰る。
友人が遊びに来ることも珍しくはなかったのだ。その夜は、ひとりだった。11時過ぎに電話が鳴った。斉藤だ。

「ASKA、何してるのー?」
「いや、別に。ボーっとしてた。」
「出て来ない?」
「いいけど。今日はちょっと眠たいかな。」
「少し。少しで良いから。」

私は伝えられた住所を書き留め、そこに向かった。斉藤は今日もひとりだった。女の子が隣に着く。

「ここも斉藤さんの店?」
「そう。」

もう驚きはしなかったが、疑問があった。斉藤はいつも女の子をからかって遊んでいるのだが、女の子はオーナーと会話している風ではないのだ。
俗に言う「タメ口」で対応している。緊張も何もしていない。ひとりのお客と接しているようにしか見えない。
しかし、斉藤は自分の店だと言う。本人が言ってるのだから、そうなのだろう。その夜は、また送ってもらうことになった。車に乗り込むと私は運転手の青年に言った。

「悪いねぇ。ごめんね。」
「いえいえ、自分光栄っす。」

いかにも若者らしい、口ぶりだった。

「斉藤さん、稼いでるんだねぇ。」
「いやー、最近はしのぎが厳しいっすよ。」

しのぎ・・。しのぎってなんだっけ・・。時々聞く言葉ではあるが、イメージが沸かなかった。

「『しのぎを削る』とか言うよなぁ。」

部屋に戻り、やけに「しのぎ」が気になるので、パソコンの電源を入れた。検索をする。

「しのぎ」
{シノギとはヤクザ・暴力団の収入や収入を得るための手段のこと}

嘘だろ・・。斉藤。ヤクザ・・。オレの店。しのぎ・・。

「オレの店」とは「オレの管轄する店」という意味・・?

あの日、

「店、何軒持ってるの?」
と聞いたとき、
「わっかんねぇ。」

と、答えた。
張り詰めた袋に針を刺して、圧を抜かなくてはならないような気持ちになった。小学校の同級生で、一緒に剣道をやっていた友人がヤクザになった。あいつが死んでからもう何年になるのだろうか・・。そんなことを考えていた。だが、斎藤がヤクザと確定した訳ではない。そんな素振りは見せられていない。「しのぎ」には、別の意味もあるかもしれない。今は直接何か惹起されたわけでもないし、あまり考えるのはよそうと思った。

それから少しして、こういうことがあった。

「ASKAちゃん。斉藤だけど。」
「久しぶり。」
「今度、また店を出すんだけど、花をお願いしてもいいかな。」
「ごめん。斉藤さん。そういうのやってないんだよ。」
「そうか。分かったよ。また札幌においでね。」
「ああ。ありがとう。」

偶に、地方でお店の前に「ASKA」や「CHAGE&ASKA」で花が飾られていることがあるが、あれは勝手に名前を使われているだけで、我々とはまったく関係がない。冠婚葬祭以外で花を出すことはない。



ひと時の静
ひと日の動
百年の闇
千年の光
一億光年の歌

僕は宇宙にさまようひとつの星屑
誰に向かって歌えばいいのか

9.飯島愛

仕事柄と言っては同業者からクレームが付くだろうが、私は完全な夜型人間だ。物事の発想や創作のほとんどは、真夜中の部屋で生まれる。仕事部屋は完全防音なので、それを知っている友人は朝方4時だろうが5時だろうが、気兼ねなく電話を掛けてくる。「飯島愛」もそうだった。決まって真夜中だった。電話に出ると、普通「もしもし」から会話が始まるのだが、彼女は「ねぇ、今日ちょっとさぁ。」や「今ねぇ。」など、突然喋ってくる。彼女と会話が始まると、普通に1時間くらい電話を握っている。私は、殆ど相づちを打つくらいで、多くは彼女の話を聞いていた。99年の「電光石火ツアー」を観に来てくれたのが切っ掛けで友達になった。彼女の人の心理を読み取る力や洞察力など、本当に驚かされることが多かった。芸能界を辞めることを考えていたときなどは3時間以上説得したものだ。

「私、ほらこれと言って何も芸があるわけじゃないでしょ。今だけというか、今ギリギリなんだよね。マジもう飽きられるから。」
「オレは、飯島愛のポジションって他に居ないと思うんだよね。いいじゃん、好きなこと言ってりゃ。もったいないって。」
「いえいえ、これからは実業家よ。」
「愛ちん、何するんだ?」
「例えば、飯島愛のポルノショップって面白いと思わない?」
「そんなの芸能活動続けながらできるじゃないか。」
「いえ、本気でやるのよ。タレントショップみたいのじゃないんだから。」

彼女は自分でも言っていた。

「私、学歴は無いけど、知恵で勝負だから。」

本当に頭の回転の速い人だった。中学時代には都内の実力テストで11番になったことがあるということも話してくれた。そんな彼女から楽曲の依頼があった。
著書「プラトニックセックス」が映画化されるという。その中で主人公が愛して止まなかった曲という設定で、サウンドトラック用のインストルメント曲が欲しいという。

「なんか、いろいろ聴いたんだけど、これっていうのがないのよねぇ」
「出来れば新曲が良いんだけど、いまある曲でも構わないから何か無い?バラードで、アカデミックな曲が欲しいんだけど。」
「どのくらい時間ある?」
「もう撮影に入っちゃうから、直ぐにでも欲しい。」
「新曲っちゃ新曲なんだけど、次のシングルに決まってる曲があってね。その曲のメロディが気に入ってて、インストを作りたいと思ってたところなんだけど聴いてみるかい?」
「じゃ、それ頂戴。」
「聴いた方が良いだろ?」
「良くなるって勘がするのよ。決まりそれ。」
「事務所や監督と話した方が良いんじゃないか?」
「とにかく決まり。私が決定だから。それから、クレジット隠さない?」
「なんで?」
「飯島愛と友達ってカッコ悪いと思うのよね。」
「そんなことない。むしろオレは尊敬してる部分が大きい。堂々と言えるな。」
「いや、隠した方が良いって。アーティストイメージ良くないから。」
「あはは。分かった。プロデューサーは愛ちんだから任せるよ。」

こういう経緯でCHAGE&ASKAの「C-46」という楽曲は、映画「プラトニックセックス」のメインテーマ曲「from silence」となった。アーティスト表記は当時ツアータイトルであった「NOT AT ALL」にした。

2007年の夏だった。珍しく昼間から電話をかけてきたので覚えている。声がいつもの飯島じゃない。

「どうしよう。私盗聴されてる。」
「どうした?」
「私の行動、発言全部筒抜けになってる」
「相手は誰だか分かってる?」
「分かってる。」
「この相談も、聞かれてるんじゃないか?」
「聞かれてる。」

完全に声が脅えてる。なんとか落ち着かせようとした。

「ASKAさん、盗聴発見器持ってるって言ったよね?」
「あるよ。」

ツアー先のホテルに泊まるときに、発見器を鞄に詰めることがある。実際、それで発見したこともある。九州のホテルでは、カメラが仕掛けられていた。真夜中にホテルのマネージャーを呼んで認めさせた。赤外線ワイヤレスカメラだった。飯島とはそんな話もしていたことがあったのだ。

「わかった。知り合いの刑事さんと愛ちんのところへ行くよ。」

剣道仲間の牧田刑事だった。私は牧田さんと初対戦したときに1本も取れなかった。ボコボコにやられたのだ。上段構えをする人だった。私は、過去上段には一度も負けたことがなかったのだ。そんなことは生まれて初めてのことだった。都内の警察大会で優勝したことのある人だった。きっとあの人なら秘密も守ってくれる。

「なるべく早く、3人のスケジュールを合わせようか。」

牧田さんに事情を説明すると、次の非番の日をくれた。私も飯島もそれに合わせた。

飯島の部屋は渋谷の高台にある高層ビルの最上階にあった。部屋の玄関を入ると、ゆったりと幅を取った長めの廊下。その奥のドアを開けると広いリビングがあった。

「すごいねぇ。街並み全部見下ろせるじゃん。」
「それで決めたの。」
「女の子ひとりでこれは広すぎるんじゃないか?」

率直な感想だった。

「私、部屋に居るのが好きで、あんまり外に出ないの。」

意外だった。どこにでも顔を出しているイメージがあったからだ。飯島に牧田さんを紹介し、早速探索に入った。私が探していると、牧田さんが声をかけてきた。

「ASKA君、そこには無いから。」
「そうなんですか?」
「盗聴マイクやカメラなんていうのは、仕掛けるところがだいたい決まってるんだよ。今いちばん危ないのがネジ。」
「ネジ?」
「我々も使うんだが、ネジの真ん中にレンズが付いててね。じっと覗き込んでも。まず分からない。」
「へえ。」

飯島と顔を見合わせた。流石プロだ。しばらくして飯島が牧田さんに歩み寄る。

「牧田さん、昨夜天井裏を人が歩いてる音がしたから、すでに外されてると思います。」
「オレたちが来るのを知っててもおかしくないもんな。」
「愛ちゃん、脚立ある?」

牧田さんが聞く。脚立は無いだろうと思っていたら。

「あ、はい。あります。」

工具やら何やらすべてあった。こういうところが何だか笑えるのだ。
牧田さんは脚立を部屋の中央に置くと、天井の蓋を開けた。

「ああ、これ持って来いの天井裏だね。」

私も交代で天井裏を覗いてみた。人が腰を少しかがめば歩けるくらい高く広いスペースがあった。
一通り探索して、牧田さんは飯島と喋っている。

「愛ちゃん、昨夜の天井裏のことは分からないけど、いまこの部屋に盗聴機は無い。心配しなくてもいい。」

飯島は不服そうな顔をしながらも、安堵のため息をついた。

「それよりも、愛ちゃん寝なさい。」
「え?」
「寝てないだろ?」
「もう、二日以上寝てないんです。」
「心の病気、一歩手前だよ。」

無理もない。誰かに監視されていながらの生活だったのだ。

「愛ちゃんね。オレはイメージだけであなたを誤解してた。こんな良い子だと思わなかった。ASKA君に頼まれたから来たんだけど、これから何かあったら、すぐにでも連絡しなさい。」

牧田さんは、一枚の名刺を飯島に渡した。2時間ほどの出来事だったが、牧田さんが飯島を理解してくれたことが嬉しかった。

飯島は「Youtube」がまだ話題になってない頃から「これからは素人が作る映像の時代よ」と、言っていた。

「私、バンバン動画を撮ってるの。」
「どうするんだ?それ。」
「いまからはブログでもどこでも、ウェブで公開するようになるから。」

それがインターネットの主流になるのだと言う。実際、いまそうなっている。そして、撮り溜めて行った動画のテープが整理しきれないくらい増えたのだと言う。その盗聴騒ぎの時だった。誰かが部屋に侵入した形跡があると連絡してきたのだ。

「部屋の物の位置が変わってたり、撮り溜めたテープが無いの。」
「間違いない?」
「間違いない。」
「思い当たる人は?」
「ごめん。それは言えない。盗聴を疑ってる人がひとりだけいるんだ。」

話が現実味を帯びて来ている。その後、飯島はホテルに泊まったり、友人宅を泊まり歩いていた。それから半年以上連絡は無かったと記憶している。

彼女の死はあまりにも突然だった。本当に「イイヤツ」だった。大好きな友人だった。亡くなる数日前に、元気なメールを交わしていたのだ。

「ASKAちゃん、何やってるのー?」
「いま香港。」
「あら、お仕事やってるのね。頑張ってね。バイビー。」

この数日後に肺炎でこの世を去るなんて・・。
未だに、突然真夜中に電話がかかってくるような気がしてならない。

「ゴメーン。実は死んでないのぉ。隠れちゃったー。」

なんてことを言って来そうだ。もし、そうだとしたら怒らないから電話して来なね。愛ちん。

そんな彼女が、ある時期からパソコンに過敏になった。パソコンに脅えていたのだ。

「ね、パソコンって怖いんだよ。何でもできるって知ってる?」
「できるだろうね。」
「電源切ってても、遠隔で盗聴できちゃうんだよ。ASKAちゃん、気をつけた方がいいよ。これ忠告。マジだから。」

私は笑いながらそれを聞いていたのだが、その後私の人生を変えてしまう出来事が起こる。

今更言うことではないが「週刊誌」や「スポーツ紙」「インターネット」は本当に残酷な一面を持っている。何もないところから話を作りあげる。飯島のドライバーだった人物が私のドライバーと同一人物で、その人物がいろいろ告白したなどと週刊誌に書かれ広まってしまっているが、そもそも私には過去ドライバーなどいない。そんな人物など存在しないのだ。

妻が私の暴力に耐え切れず警察に密告しただとか、ヤクザに和解金を払って手打ちしただとか、チクって脅えて暮らしているだとか、コップを投げつけて暴れただとか、妻に土下座しただとか、CHAGEに「そんな変なもの止めろ!」と、言われただとか、新宿のニューハーフと交際していただとか・・。そのニューハーフの名が「夏樹」?是非、目の前に連れてきて頂きたい。また、銀座のホステスに事務所が手切れ金を200万払っただとか、麻布で女子アナをナンパしただとか・・。「女性自身」などは、私に「10円禿げができている」だとか、最も写りの悪い写真を選び、それを加工し、横に引き伸ばして激太りなどと書いた。全くタチが悪い。どれもこれも全部メディアの作り事だ。どれひとつ認めるものはない。私が何も発言しなかったことから「これはやり易い」と、思ったのかもしれないが、発言する時期ではないと控えていただけだ。バカバカしい記事は無視するが、今後度を超えるようなら、しかるべき対処をする。

あなた

あなたはあなたであることを
あなたは知らなかった

あなたは僕のメリーポピンズで
いつも驚きを振りまいた

郊外電車のように
カタコトと人生を走り

明日のような顔をして
昨日を悔やんでた

あなたが誰であり何なのか
僕には最後まで分からなかった

夢はかたち
見えないかたち

夜空いちめんに蒔いた
星屑の瞬きのように語ったお話は何だったのだろうか

夢の材料は確かにあった
それは僕にも見えていた気がする

遠い遠い空の向こうに
やがて僕も行くだろう

そのとき聞きたいことがある

10.盗聴

時同じく、女友達が「ネット盗聴」「集団ストーカー」被害に遭っていた。誰に相談しても信じてくれないのだという。私もそうだった。「単なる気のせいだ」と、言ってしまったのだ。「何をやっても聞かれている」「生活のすべてを見られている」と言って聞かなかった。「もう、生きていけない」と言っていた。本気だったのだ。間もなくして彼女は自分の命を絶った。私は友人のサインに気づいてあげることができなかった。ある日、彼女の友人と名乗る女性が、友人を介して私と連絡を取りたいと言ってきたのだ。私は、その女性と数時間電話で話をすることになる。いろんなことが分かった。俄には信じがたいが「集団盗聴盗撮」「ネットストーカー」に巻き込まれていたのだった。ネット検索をしてみたら、事実「集団盗聴」「集団ストーカー」に苦しんでいる人たちが多く存在していた。私は亡き友人を死に追いやった犯人を突き止めようと、パソコンの前に座り続けた。いくつかの手がかりになる情報を得たからだ。単なる自殺で終わる話ではない。これは殺人だ。知人の警察官に事実を伝え相談したが、証拠が出て来ない限りお手上げなのだと言う。

ある日のことだ。情報を元にネットサーフィンをしていたら、気になるページがあった。私が、その日に電話で喋ったことや、行動に酷似したことが、克明に書かれているのだ。毎日、毎日それは続いた。電話の内容などはすぐに書き込まれていく。偶然だとは思えない。

「盗聴・・?」

周りに話しても誰も信じようとはしない。誰かに監視されている。

そんな時、ロックダムの社長尾崎が私の部屋に来た。大事な話をする前に、現在の状況を伝え、お互い携帯電話の電源を切ってからテーブルに着いた。2時間ほどの会話だった。

翌朝、携帯にメッセージが入っており、その留守録を聞いてみた。するとそこには、前日尾崎と打ち合わせしていた会話が残されていたのだ。

「これ、オレたちだ!」

昨日の会話だ。第三者にも確認してもらった。

「これ尾崎さんの声じゃん。」

あの時電話は確かに切って合ったので、ふいに電話の録音ボタンを押したとしても機能するすはずがない。着信履歴を確かめると、見覚えのない番号があった。午前8時頃の着信だったと記憶している。

「080○4○3○204」

と、記録されている。メッセージが残された時間だ。私は、折り返し電話をした。

「もしもし。電話をいただいた者なのですが。」
「えっ!? 何ですか・・?」
「いま、電話を頂きましたよね?」
「・・。いえ、してませんけど。」
「着信で折り返し電話差し上げているのですが。」
「いえいえ、知りません。」

相手がしらばっくれる以上、話しても無駄なので取り敢えず電話は切った。変だ。着信をそのまま折り返したのだ。相手は、不意に間違って繋がってしまったのではない。ひとつずつナンバーを押しながらかけてきたのだ。そうでなければ、相手の携帯に私の携帯ナンバーが保存されてあったと考えても良い。どちらにしても目的を持ってかけて来たのだ。例えば、間違えて繋がっただけなら、盗聴したものが流れるはずはない。その瞬間の相手の雑踏が録音されるだけだ。そうではなく、前日の部屋での会話を送ってきた。真意は解らない。ひとつ言えることは。発信ダイヤル設定をオフに仕損なったか、オフにすることを忘れて電話をしてきたということだ。盗聴は、この人物に限りなく間違いはないのだが、ただ決定的な証拠がない。私はこの電話番号を記録保存した。そのうち携帯を持っていると家の中の会話も書き込まれるようになった。家族との会話が公開されるのだ。ツイッターだが、そこにリンクを張っている連中のところはどれも盗聴の内容で埋められていた。

ある朝、携帯の前で、

「オマエら、いい加減にしろ!何が楽しいんだ!」

こう、怒鳴ってみた。すると、

「さあ、今日なんと神のお声を頂きました。」

と、書いてくる始末なのだ。電話の電源を切っていてもダメだった。また、友人に送ったメールの内容を読んだ感想をことごとく書かれる。同級生で刑事の友人に相談をした。

「考えすぎだ。そんな事例はない。偶々行動や発言がリンクしているんだろう。日本のデジタル電話の波形は解読できない。」

と言う。会社の連中も真に受けない。これだ。友人が死んだのは・・。
誰にも信じてもらえなかった、そして他人には相談できない、何か耐えがたいものを盗聴盗撮され、生きて行く力を奪われた。追い詰められたのだ。だから「もう生きて行けない」と言ったのだ。その集団盗聴盗撮の犯罪に気がついた私が次のターゲットになった。携帯の前でまた怒鳴る。

「オマエら殺人しておいて、またやるつもりなのか!」
「あれは違う。本当に事故だ。」

と、書いてくる。
その後、間もなく携帯を使うとき以外はバッテリーを外すという生活をした。しかし、

「それで逃れられると思うなよ。次の手がある。それがダメならもうひとつ手がある」

そんな生活が2年近く続き、私は心が弱ってきているのが分かった。初めてカウンセリングというものを受けることになる。話を聞いてくれるので心は安らぎを覚えたが、精神薬を処方されてしまった。しかし、私はそれを飲まなかった。精神薬というのは、健常者が飲んでしまうと、脳への刺激で本当に精神病になってしまうからだ。そんな中のコンサートツアーは本当に苦しかった。ホテルでの行動もすべて公開されるのだ。部屋に迎え入れたゲストの名前なども書き込まれる。自宅の仕事部屋に特殊なものが仕掛けられているのかもしれないと思い、ついに仕事部屋の壁を壊して大改造することになった。2010年3月。改造の間、仕事場として西新宿のマンションの1室を借りることになる。ここがすべての始まりだった。

大阪で知り合った柳田が、このマンションから歩いてすぐのところで生活をしていた。大阪のパブを止め、東京に引っ越してきていた。生活を構えて、もう10年ほどなるだろうか。時々電話では話をしていた。私は相変わらずの盗聴盗撮でヘトヘトになっていた。何よりも辛かったのは、誰も信じないということだ。信じさせるためには証拠集めをするしかない。証拠はCD-Rに30枚ほどになっていた。私は一度だけ部屋で大声を出したことがある。自分でも驚くほどの声だった。これに反応すれば証拠となる。思った通り、その叫び声はサンプリングされて、今、大手ゲーム会社のゲームで使われている。あの時の自分の声だ。間違いはない。ゲーム会社はその事実を知らないだろう。盗聴はひとりふたりの個人的なレベルではない。ある動画サイトのプログラマが中心となってやっているのだ。私は訴えを起こすために著名な弁護士を集めてもらった。しかし、今まで起こってきたことを手順良く説明するためには、どう説明すれば良いのか分からなくなっていた。それほど証拠が増えていたからだ。

「腕利きの弁護士らしいな。」

また書き込まれる。ネットを見なければ良いと人は言う。しかし、見なくても24時間ずっと監視されていることは大きなストレスだった。自殺は肯定しないが、追い詰められたことによる発作的な行動は理解できる。

部屋で独り言を言う。

「オレは死なないからな。」

するとすぐに、

「オマエは死なせん。」

と、書いてくる。
「オマエは死なせん」ということは、過去死なせたことがあるということではないか。西新宿のマンションでもそれは続いた。精神的に追い込むつもりだ。ある日、あらゆる盗聴サイトをネットで調べていたら、ショックなアプリがあった。

「Flexispy.A」
フレキシースパイA。電話、メール。これらがすべて外部サーバーに送信されるというアプリ。携帯の持ち主は、これがいつインストールされているのかわからない。携帯電話やスマートフォン自体が盗聴盗撮機となるのだ。アンイストールはできない。それを仕込んだ者が記録したパスワードを打ち込まなくてはならないのだ。また同様に。

「SpyPhone」

スパイフォンなどというのもあった。機能は同じだ。携帯を切っていてもマイクだけは生きていているのだ。通信記録は一切残らない。これを封じるには、やはりバッテリーを外すしかなかった。

その後、新しい携帯を持ったが、電話を変えても番号が知られるまでに二日とかからなかった。私は、留守録を聞くときにバッテリーを装着し、話し終わると、また直ぐに外した。携帯電話を使えない日々は不便だった。

「ごめん、この電話盗聴されてるから大事なことは言わないように。」

と、相手に伝えてから会話をする毎日だった。
しかし、それもつかの間だった。バッテリーを外しても、また始まったのだ。

「方法はあると言ったろう。」

火災報知器から観られているのではないかと思い、ブレイカーを落としてみる。調べてみると、火災報知器が盗撮器になっていることも珍しくない。目覚まし時計、ボールペン、コンセント、計算機、インターホンなどあらゆるものを疑った。
それでも、

「こいつ、何をさっきからうろうろしてるんだ?」
と、書いてくる。

観られてる。どこだ・・。

その日、私は盗聴機探索で有名な会社に連絡して部屋内を調べてもらうこととなった。翌日、来てくれると言う。この2年間の出来事から明日解放されるかもしれないという思いになり、波が引くように身体の力が抜けた。その日は水底の石のようになって寝た。

この西新宿の高層マンション最上階から景色を眺めていると、起こっている出来事など、どうでも良いと思えてしまいそうだった。しかし、「オマエは死なせない」「死ぬまで続く」と書いてくる。
翌中2時。部屋のベルが鳴った。モニターにはスーツを着た男と女が映っている。私は彼らを部屋に迎え入れ、これまでの2年間のことを大筋で伝えた。

「私ども、いろいろ忙しくやらせていただいておりますが、案件のほとんどはお客様が過敏になって引き起こす勘違というケースが多いのです。」
「そうですか。それでも安心を得たいのでよろしくお願いいたします。」
「わかりました。」

男は鞄からパソコンと発見器を取り出した。発見器の先に長いアンテナを装備し、パソコンには受信したものが波のようになって映し出されている。部屋は2LDK。リビングだけでも100平米強あった。男は時々難しい表情を浮かべながら、隅から隅まで丁寧にアンテナを這わせる。約1時間かけて全部屋の探索が行われた。そして、

「心配いりません。盗聴器は掛けられておりません。」

自信を持った口調で男が言う。

やはり、盗聴は携帯電話で間違いなさそうだ。しかし、バッテリーを外している時も盗聴されていたのだ。その時だった。飯島の言葉を思い出した。パソコンのことだ。

「電源切ってても、遠隔で盗聴できちゃうんだよ。」
「パソコンだ・・。パソコンの中央上部に付いてるウェブカメラを遠隔操作されてるんだ。」

ネットで調べてみると、すでに被害は起こっていた。遠隔でカメラのスイッチを入れれば当然音声のスイッチも入る。スイッチが入った瞬間に、パソコンに付いてるカメラのレンズは青く光るのだが、光らないように設定できることも知った。

「それで逃れられると思うなよ。次の手がある。それがダメならもうひとつ手がある」

ようやくこの意味がわかった。携帯電話盗聴の次の手段だ。私は早速パソコンに付いているレンズにテープを貼って盗撮を塞いだ。セキュリティソフトは入れていたが、購入時の初期設定のままで細かな設定はしていなかった。従来そういう作業は苦手なのだが、やらねばならないところへ来ている。ひとつひとつ設定をして行く。設定の最中に彼らがどう反応しているのか掲示板を見た。私が主に疑っていたところは、ある人物のブログとツイッター。そして、もうふたつのツイッターと、ある掲示板の5カ所だけだった。リンクを辿って行けば、かなりの人数でやっていることだろう。掲示板では、

「隊長!Aが強力になって行っています!」

細かい設定をしていることを言っている。数時間かけて設定は終わった。
その夜、留守録に友人からのメッセージが残されていたので、折り返し電話をした。いまの状況を伝えたのだ。

「そいつら暇だよねぇ。他にやることないんだろうね。」

友人は、盗聴しているやつらを挑発する。
私も同じように、

「ああ。いま弁護士を立てて訴えようとしてるとこなんだ。相手はもう分かってるから時間の問題だ。」

そんな話を続け挑発した。そして電話を切った後だった。掲示板では、

「緊急です!これより○○大会を開催いたします。ルールはいつもどおり。ターゲットに対し、いちばん早かったものが優勝です。」

と、書き込まれていた。瞬時に思った。ターゲットとは私のことだ。パソコンに何かあるのだと思った。私はマンションの管理人に連絡をし、サーバー会社の電話番号を聞いた。

「すみません。私○○マンションの○○号室に住む者なのですが、いまから回線に異常が発生すると思いますので記録をお願いいたします。」
「こちら記録などということはできないのですが・・。」
「とにかく、回線に何かが起きるんです。」
「はぁ?」

ダメだ。意味が伝わらない。私はすぐに繋いであったランケーブルを引き抜いた。それから数時間、ひっそりとした部屋でソファに埋まった。朝5時に近づいていた頃だったと思う。時間も経った。思い過ごしかもしれない。私はパソコンの電源を入れた。そして、ランケーブルを接続してみようと思った。外はもう白々としている。日を跨いで気持ちに油断もあった。その時だった。ケーブルを繋いだ瞬間にパソコンが飛んだのだ。一瞬の出来事だった。画面は真っ黒になり、もうスイッチも入らない。やはり大会とはこのことだった。挑発したことが原因だ。

その部屋には、壊されたパソコンと仕事用でネット接続をしていないパソコン。それと、非常用にもう一台のパソコンがあった。12インチの小型パソコンだ。そのパソコンにケーブルを繋ぎ掲示板を見に行った。そこには、たった今祭りが終わった後のような空気が漂っていた。

「今回の優勝は○○さんでした。記録は○○秒です。おめでとうございました。」

掲示板は

「あー、また○○さんだ。おめでとうございます。」
「やっぱり、○○さんでしたか」

など、○○を讃える言葉で埋められていた。この掲示板では有名人らしい。何故、私が危険を察知しランケーブルを即座に引き抜いたか。実はパソコンをこういう形で壊されるのは過去3,4回あったのだ。強い証拠となるページを保存すると、数時間後にパソコンが壊れる。毎回、壊れ方は同じだった。また、CD-Rに証拠を焼こうとすると、アプリケーションが機能しなくなる。それらの現象はすべてネットに接続しているときに起こった。その後、大事な証拠を記録するときは、ランケーブルを抜いてからそれを行った。

そのときの○○大会の優勝者は○○というニックネームを使っている。誰しもニックネームを決める時、小さなことだが考えるものだ。そして一度決めたら愛着も沸く。○○が長い間そのニックネームを使っていることを知った。私はそのニックネームを筆頭に思いつく限りの言葉を並べた。
検索をかけたのだ。

「○○、プログラマ、○○大会、優勝。」

他、ここでは書けないが3ワード。
すると、わずかな件数がヒットした。そのひとつをクリックする。
驚いた・・。
インターネットでは有名なIT企業の代表のブログなのだ。ポータルサイトも持っている若手実業家だ。そのブログに数個のリンクがあり、そのひとつをクリックしたら女性が書いているブログに入って行った。どちらも書いてある内容に手掛かりとなるようなものはなかった。また、○○は別のサイトも持っており、そこには家族の写真などがコメントとともに掲載されていた。私は画像検索で彼の顔を片っぱしから確認した。彼のインタビューなどを読んでみると○○大会が行われていたその掲示板の創設者たちのひとりだったのだ。そして、そこの掲示板には固定で存在していたことが判明した。やはりプログラマだったのだ。私には一度顔を見るとなかなか忘れないという特技がある。その顔をしっかりと脳裏に焼きつけた。

翌日、もういちどそのブログを訪れてみた。すると、そこにはこう書いてあったのだ。

「今日、朝方あいつが来てるんだけど何だろう。気持ち悪いな。何で解ったんだろう。」

その書き込みのコメント欄には、

「私のところにも来てるの。」

と、書いてあった。確かに2カ所にしか行かなかった。私のIPアドレスを知っているのだ。私はそのページを仕事用のパソコンでネット接続し、ダウンロード後PDFファイルに変換し、パスワードを掛け保存した。大事な証拠だ。また何かあった時のために、スクリーンショット(画面写真)も撮っておいた。この代表が関与していることは間違いないと確信したからだ。

翌日、保存したPDFファイルをCD-Rに焼こうと開いてみた。しかし、開く際にパスワードを要求して来ないのだ。

「あれ?パスワードを掛けたはず・・。」

驚いたことに、開いたファイルは自分のパソコンに入れていた別の写真に入れ替わっていた。スクリーンショットも同様だった。全てが入れ替わっていたのだ。昨日、保存したファイルがパソコン上のどこにも無い。証拠保存後、そのパソコンのネット接続を外すのを忘れた。○○が危険を察知して、ファイルを取り戻しに来たのだ。パスワードを解読することぐらいはプログラマなら容易いことだ。パスワードは6桁までなら、簡単に解読できる。そういうソフトもあるからだ。7桁からは、やや困難になる。
パスワードは大文字小文字を含んだ12桁以上であらなければならない。12桁以上になると、数千万の投資費用がかかるからだ。その時私が打ち込んだパスワードは6桁だった。私はケーブルを外し忘れたことを悔やんだ。

その後も止まない盗聴盗撮。ある日私はひとつの行動に出た。携帯とパソコンをすべて部屋に置き、ホテルで歌詞を書く作業をやってみたのだ。予約は公衆電話から。ホテルには偽名で泊まった。歌詞は捗らなかった。彼らがどういう状態になっているのか、気になって仕方がなかった。私は歌詞を書く作業を止め、朝方ベッドに入った。

そのホテルは昼12時がチェックアウトタイムだ。カバンにはほとんど何も入れるものは無く、極めて軽装でフロントに向かった。一応、目立た無いよう帽子だけは被っていた。会計を済ませ、正面エントランスの方ではないところから出た。タクシーを拾うために通りへ向かう。その時だった。斜め横から男が付いてきた。最初は気にしなかったのだが、あまりにこちらを凝視しているので振り返った。男は慌てて顔を背ける。私は顔を元に戻し、不意を突くようにもう一度振り返る。その時ついに目が合った。相手が目を逸らすまでほんの一瞬ではあったが、相手の顔を正確にロックしたのだ。

「あいつ○○じゃないか!」

先日、写真を纏めて見て脳裏に焼き付けたばかりなので、間違えることはない。男は顎に手を当てたり、横を向いたりしかめ面をしたり、上を見たり・・。私はしっかりと確認していることを伝えるために、ずっと顔を見ていた。相手は顔を合わせようとしない。普通、これだけ見つめられたら、誰しも気になってチラリと見返すだろう。十分視界に入っているからだ。歩道の真ん中に意味なく突っ立ってこちらを観察していたのに、こちらが見ている間、目を合わせようとしない。私が帽子を被っていたので、確認していたのだろう。もう一度、目が合うのを待った。そして、ついに目が合った。私を見た。目が合うと、慌てて目を逸らす。○○の代表に間違いはない。私は睨みつけるように○○をずっと見ていた。

そしてタクシーに乗り込み、自宅ではなく西新宿のマンションに向かった。
自宅のパソコンを全て西新宿のマンションに持って行ってしまっていたからだ。車中、考えていた。

「なぜ、居場所が分かったのだろう・・。」

謎はすぐに解けた。夜中にホテルの部屋から携帯の留守録を聞いたのだ。それ以外の行動は無かった。そんなことにアクセスできるようなスキルを持った者は少ない。今では位置情報を提供することなど、どこの会社でもやっているが、そのころはまだ数も少なく稚拙な機能だった、しかし、○○の会社は携帯端末などの位置情報を高度な技術で提供していた位置情報提供会社の草分け的な存在だったのだ。
私は部屋に戻ると掲示板を見た。そこには、昨夜私が居なくなったことで、捜索が行われていた書き込みがあった。

「Aの居所がわかりません。」
「誰か、何とか居場所を突き止めろ。」
「目黒に居る気配もありません。」

夜通し捜していたのだ。その代表と掲示板の者たちは別グループということになる。

翌日、私はパソコンの前でこう言った。

「顔も全部確認した。○○の社長か。パソコンを弁償するだけでは済まない。殺人も犯している。法的な措置に入る。」

脅しではない。今まで取り溜めた証拠の整理に入った。

そして、二日後ツイッターでは○○が引退することを表明した。そのツイッターでは○○がIT企業の代表であることは、はっきりしていた。何からの引退か分からないのだ。ただ「引退」という言葉を使って引退を表明している。私に素性がバレたことがショックだったのだろう。

「いやだ!なぜ引退しちゃうんですか?」
「もう、本当に止めちゃうんですか?」

など、書き込みは溢れた。若手アニメーターの集まるツイッターだった。

「オレは辞める。しかし、これからは君たちを裏から応援する。」

○○は、そう書き込んだ。

「情報は与えるから、これからもオマエたちはやれ。」

と、いうことだ。殺人幇助だ。
一方、○○大会が行われた掲示板では、

「この度○○さんが引退されました。いままでありがとうございました。」

と、書かれていた。
また、

「引退はオマエの所為だからな。」
「そうだA。オマエの所為だ。」
「絶対に許さん。」

すべてが繋がった。掲示板の○○。ツイッターの○○。同一人物だ。
IT企業○○の代表なのだ。あれ以降今日までパソコンが壊されたことはない。

間もなくして、友人の刑事から連絡が入った。

「オマエの言うとおりじゃった。携帯盗聴を避けるために、オレたちも大事な会議の時は、携帯を会議室に持ち込まないようにという指示がでた。」

警察も情報を抜かれていたのだ。例えば、ある集団に警察が踏み込むことになったとしよう。警察は、踏み込む日時の会議をする。それさえ分かれば、集団は一切の証拠を始末しておくことが出来る。未然に防ぐことができる。

ある日、私はすでに特定できていた別の犯人の○○のところへメールをした。○○がメールアドレスを公開していたからだ。

「今日は朝から気持ちが穏やかです。どうですか。遊びに来ませんか?住所はもうご存知でしょう?」

そう書いて送った。普通であれば「どちら様ですか?」くらいの返信はするだろう。無記名であったり、アドレスを伏せたメールではないのだから。何のリアクションもなかった。後に、彼は「(返信するのが)怖かった」と、語った。その経緯については後で紹介する。

しかし○○は、私からのメールを受け取った後、すぐに、

「なんと今日、涙が出るようなメールをいただきました。今更無理です!」

と、ツイートした。あくまで偶然を押し通せるようにメールでの返信はせず、ツイッター上に書き込んだのだ。しかし、もう無理だ。○○のことは早くから特定していた。○○は、盗聴で得た私と真澄の会話を、大晦日に予告放送したこともあったのだ。○○が予告をしていたのでCD-Rに保存してある。私は弁護士に○○が中心人物だというメールを送った。そして、それから直ぐ、

「私はなんというか、ただ総合司会のような役なんです!」

と、書いてきた。その時、弁護士に使ったメールはウェブメールだった。それも見られていたということは、モニタリングされているという可能性が高い。私は、自分のパソコンの環境設定にある共有モードを確かめた。すると、思った通り共有モードにチェックマークが入っていた。私のパソコンの画面を遠隔操作で共有モードにされていたのだ。慌てて共有モードのチェックを外そうと試みたのだが、グレイアウト(白みがかること)していて外せない設定にされていた。私のスキルでこれを外すのは無理だ。通常ならクリックひとつで「オン」「オフ」ができるのだ。それができない設定にされていた。そんなこともあり、私がどのページを観覧しているのか、誰にどのようなメールを書いているのかなど、すべてリアルタイムで見られていたことを知った。「あれ」は偶然ではなかったのだ。「あれ」とは何度も起こった現象のことだ。私は、何度かウェブメールを使って、弁護士に彼らの実態、行為に証拠を添えてメールを書いた。通常、使用しているパソコンからのeメールは、サーバーにアクセスされ全てを読まれているという確証があった。ウェブメールなら安全だと思っていたからだ。「これぞ、証拠だ」という、彼らにとって致命的なメールを5回ほど送ろうとしたことがある。そして、それを送信しようとした瞬間にメールがフリーズしたり、パソコンがシャットダウンするのだ。決まって彼らの失態を押さえて書いた時のメールだった。また、弁護士のところへ証拠を添付したメールが、やっと届いた時のことである。送信した時間と受信した時間にズレがあった。そして、その添付ファイルが「どうやっても解凍できない」のだと弁護士が言う。MacとWindows間であったため、私はそのファイルを両方で開くことのできる拡張子に変換して送った。開けられないはずはないのだ。確かめたところ、私が変換したものではない拡張子に変えられて届いていた。DATファイル。特殊な拡張子だ。メールソフト「Outlook」から送信した場合に、時にそのような現象が起こることは発表されているが、私のメールソフトは、それではない。中継地点で何者かの手によってDATファイルに変換されたのだ。

グレイアウトした共有モードのチェックを外すには、パソコンをまたインストールし直さなくてはならない。何度やっても直ぐにハッキング、クラッキングされる。再インストールする気は失せた。

ある日、私は自分の携帯電話を切って、自宅の電話から自分の携帯電話に電話したことがある。通常であれば、すぐ留守録になるはずだ。すると、数回コール音がした後、何者かが電話に出た。

「オマエは誰だ!」

私が、そう怒鳴ると電話は切れた。これは盗聴チェックの方法だった。インターネットの探偵サイトで、このやり方が紹介されてあったからだ。もう一度かけ直すと、今度はすぐに留守録になった。私が番号を掛け間違えたわけではない。短縮ダイヤルを使ったからだ。
また、厚生年金会館で10daysライブをやっていた時のことだった。盗聴盗撮が激化していたので、心休まることができず、私は家ではなく、家から1分ほどのところに持っていたマンションで寝泊りをしていた。
ライブ9日目の時だった。その日の前日も、犯人を追いかけていたので朝になってしまった。一睡もしなかったのだ。そして、午前11時頃だっただろうか。マンションに1本の電話がかかってきた。マンションの電話番号を知っているのは家族だけだった。スタッフが迎えに来る1時間ほど前の電話だったので、家族のモーニングコールだと思ったのだ。男の声だった。

「もしもし。」
「あのう、そちらはどなたのお宅ですか?」

と、言う。

「どういうご用件ですか?」
「いえいえ、大丈夫です。失礼します。」
「ちょっと、待ってください。どちら様ですか?」
「・・。あのぉ、私○○宅急便の配達の者なのですが、奥様が前回分のお支払いをされていないので、請求に伺いたいと思いまして。」

変だ。このマンションに電話がかかってくることが変なのだ。しかし、支払いをしていないとなれば、こちらも丁寧になる。

「ああ、そうですか。申し訳ありません。いくらですか?」
「○○円です。」
「わかりました。妻に確認いたしますので電話番号を教えてください。折り返しお電話差し上げます。」

この部屋に電話がかかってくるのは明らかに変であるため、相手の電話番号を聞き出そうと思い「こちらからかける」と、言ったのだ。

「番号を教えてください。」
「いえいえ、結構です。また配達の際に寄らせていただきますので、その時にいただきます。」

なら、なぜに電話をしてきている。自宅ではないところにだ。私がマンションを所有しているのを彼たちは知っていた。ただ、部屋がどこなのかを知らなかったのだ。何らかの方法で番号を入手し、私の声と居所を探るための電話だった。それに気がついた私は続けた。

「折り返し電話をしますので、番号を教えてください。」
「いえ、こちらから電話いたしますので結構です。」

すでに変だ。「配達の際にいただきます」と言ったばかりじゃないか。私は続けた。

「妻に確認したいと言ってるのですよ。教えてください。」
「本当に、大丈夫ですから。」
「大丈夫ではありません。教えてください。」

相手は、こちらの剣幕に押されたのか、しぶしぶ番号を言った。

「○○○○-○072です。」

相手が苦笑い顔で喋っているのが伝わってくる。側に誰かいる気配もした。

「どちらの営業所ですか?」
「いつものところです。」
「『いつもの』では分かりません。どちらですか?」
「・・。○○営業所です。」

私はメモを取った。

「繰り返します。○○○○-○072ですね?」
「はい。そうです。」

やりとりから「この番号は嘘に違いない」と、確信した。そして、そのままその番号に電話をした。すると、すぐにアナウンスが流れた。

「おかけになった電話番号は現在使用されておりません。」

掛け間違えたのかもしれない。もう一度、確認しながら電話をする。やはり、同じアナウンスが流れた。私はネットでこの区域を配達している営業所を調べた。その営業所は、確かに存在したが配達管内ではなかった。私は、自宅の配達管内の営業所に電話をして確認した。そして、あった出来事を伝えた。

「いま、配達員が外に出ておりますので、担当員に確認後、ご連絡差し上げます。」

そして、翌日電話はかかってきた。そのような電話はしていないと言う。思ったとおりだ。なぜ、私が電話をしてきた相手に、そこまでしつこく食い下がったのかには理由があった。聞き覚えのある声だったからだ。ある○○という集団は、ネットラジオをやっていた。そこでは私の日常の発言を取り上げて放送を行っていたのだ。数回、聞いたことがあった。録音もした。そして、ある日を境に、その放送は不自然な行動をとった。私が、ラジオを聴こうと思いアクセスすると、聞き取れない小さな声でパーソナリテイに誰かが何かを告げた。そして数秒間、こそこそと耳打ちしているような音声が流れた。そして、

「みなさん、突然ですが今日の放送は終了させていただきます。」

アクセスをしたことに気づいたのだ。その後も、同じだった。私が、アクセスすると、放送は終了してしまう。そのラジオで喋っていた人物と担当員と名乗って電話してきた人物の声が同じだったので食い下がったのだ。その日、そのネットラジオを聞いている者たちが並行して書き込んでいるスレッドを見た。前日の書き込みが残っていた。配達員と名乗った者が電話をしてきた時間帯の書き込みだ。

「だから、やめておけって言ったろう。」
「バレてやんの。」
「いくらなんでも、突撃はマズイだろwww」

放送中ではない時の書き込みだ。私とのやりとりを、仲間内にはリアルタイムで聞かせていたのだろう。妻に未払いのことを確認したら、実際その事実はあった。彼たちは妻の電話も盗聴していたのだ。

彼たちは、このゲームのことを「狩り」と、呼んでいた。彼たちの仲間内の歌手が活動していた。初めてそのPV(プロモーションヴィデオ)を観たときに嫌悪感を覚えた。私は、そのPVが気になりダウンロードした。そして何度も再生した。そのPVは文字を効果的に使ってあったが、その文字が気になるのだ。私は、そのタイトルをアルファベットで書き出して、その書かれたモノを今度は逆から読んでみた。唖然とした。死んだ女性のイニシャルから始まる読み方になっている。そして、彼女の部屋が「○Hズバリ狩り区」と読めるように書かれている。それが、タイトルになっているのだ。楽曲自体はポップな仕上がりになっていた。しかし、PVの後半にどう受け取っても、意味のない静止画像が差し込まれている。私は、そこを拡大して何度も観た。そこには女性の裸体が小さな写真で並んでいた。コマ送りのようになって挿入されていた。明らかに盗撮写真だ。そのシンガーと殺人集団の関係は歴然としている。そして、間も無くそのPVは作り直された。現在そのPVは写真の部分だけをカットされたものがウェブ上にある。私がコピーしているのは、編集前のPVだ。これは6年間取り溜めた証拠の一部にしか過ぎない。

いったいどれだけの人数が集まり、「狩り」ゲームをやっているのだろうか。殺人を犯してしまったことを知られたことに、彼たちは怯えていた。私が、いつ誰にそれを喋るのか恐れていたのだ。そのため交代制で24時間私を監視していた。そして、それはやがてゲームのようなモノに変化して行った。盗聴盗撮は2008年から2014年までの6年間続いた。当時、私は過度のストレスに陥り、生活スタイルはすっかり変化していた。

仕草

目に映っていた景色がすっと逸れることがある

それは思い出せないことを
無言の言葉で思い出そうとすることに少し似ている

立ちつくすと
つい空を見上げてしまうのはなぜだ

そんな時
僕は自分のアイデンティティを失いそうになる

記憶は罪だ
嫌なことを心のほうきが掃いてく

宝石を真似たガラスの石
美術品のような平たい河原の石

似ているということで
それに価値が生まれるということがある

夕暮れはどんどん早くなり
太陽は横向きのバーコードのようにしましまになって墜ちて行く

風景は輪郭を失いはじめ
もういいかげんにいいだろう 
ばかやろうと
昼間を慌てて脱いで行く

すべてに理由はない
46億年の仕草を繰り返しているだけなのだ

11.覚せい剤

私は留置場を出た後、千葉の病院に入院した。私は病気ではないので、裁判では「在宅」(自宅で過ごすこと)を貰ったのだが、私は敢えて病院を選んだ。そこは通常2週間から3週間で退院となるシステムだが、私は裁判官の心象を良くするため、弁護士が作成した「治療に専念する」という声明文を出した。そして、裁判が終わるまで約7週間の入院を希望した。週刊誌が書いたような病気であるとか、症状が重かったなどというわけではない。その病院では、私が盗聴のことを説明したために、患者に見られる顕著な症状と見なされ、妄想を鎮静させるための薬を投薬されてしまった。朝昼晩、3回投薬される。とても強い薬だった。思考が働かなくなる。殆どの覚せい剤患者には幻覚、幻聴、妄想があるので、私もそうだと思われてしまった。私の盗聴盗撮は症状によるものではない。盗聴盗撮は覚せい剤を知る2年以上前から始まっていたからだ。盗聴盗撮グループにとって、私が覚せい剤を始めたのは好都合だった。すべて妄想で片付けられてしまうからである。

2010年6月。西新宿のマンションに柳田が遊びに来た。すぐ側に住んでいたために、犬の散歩がてら、ちょくちょくマンションに寄るようになっていた。盗聴がまだ誰だかわからなかった頃、毎日、毎日寝ずに犯人を追いかけていたのだ。まだ相手がプログラマだということは分かっていなかった。携帯が怪しいと思っていた頃だ。柳田は東京に出てきてから風俗店を経営していた。

「風俗始めてすぐ、ヤクザが場所代払えって脅しに来たんですわ。喧嘩はハッタリと度胸ですやん。怒鳴って『帰れっ!』て言うてやりましたわ。」
「あはは。柳田さん強いじゃん。」
「それから、そのヤクザと友達になりましてね。時々店に来てくれはるんです。」

話をしているうちにあくびを繰り返していた私は、デスクの上にあった袋を破ってそれを飲んだ。

「何ですの?それ。」
「これ、安息香酸ナトリウムカフェイン。アンナカと言ってね、眠気が押さえられるんだ。」

2008年。盗聴を追いかけ始め出した頃に、

「目が覚める薬を下さい。」

と、言って処方してもらった薬だった。後に、週刊誌にはアンナカ中毒のように書かれたが、2016年の今日まで3回だけしか処方してもらっていない。病院に記録を求めたら1回分しかなかった。私の記憶では3回だ。

「それよりも柳田さん、3CPPって手に入るかな?」

3CPPとは、エクスタシーのような多幸感を持つと言われている。それは白い結晶のようなものだった。2003年頃、友人宅だった。仲間5人で集まった時、その中のひとりが3CPPとやらを持ってきていた。その場の雰囲気で私も混じり何となく吸引してみた。まだ、「脱法」などという言葉はなく、違法でなければ合法という時代だった。なので私の中ではそれがドラッグの類いには映らなかった。ドラッグとは、人生を奪ってゆくような取り返しのつかないものという意識しかなかったからだ。高校生が隠れてタバコを吸うのと変わらない。ロンドンの時の幸せな状態になれるのかと思ったのだ。しかし、ほんの一瞬フワっとしただけで、そうはならなかった。私には目が覚める感覚の方が強かった。報道では私には第2の女がいると書かれた。その女が、薬をやったのは、私が取り調べで喋った「2010年よりももっと前だった」と喋った。その女友だちはその時の3CPPのことを言ったのだ。2006年にその3CPPも禁止された。アンナカでは効きの弱い私は、柳田の前でその時の3CPPを思い出したのだ。付け加えて、アンナカが劇薬のように報道されたが、そうではない。1包、0,4g。副作用などない。週刊文春が「馬に打つ興奮剤」などと煽ったが、バケツ一杯打ってのこと。風邪薬でもバケツ一杯飲めば、どうにかなってしまう。アンナカと私を悪く印象付けさせるための心象操作なのだ。文春には悪意しかない。1回目の記事で「覚せい剤」と書いてしまった。私が「あれはアンナカ」と答えたために「これはマズイ」と考えた文春は、今度は「アンナカ」を劇薬、そして私を「アンナカ中毒」に仕立てる必要があった。確かにアンナカは劇薬指定になっている。だが、それは「注意が必要」という観点からの劇薬指定なのだ。私は処方を受けた病院名まで答えたが、処方が3回では中毒にすることはできない。なので、その病院には裏を取りに行かず、ただ劇薬として世間に広めたのだ。記事には「アンナカ」を劇薬として説明していた医師の証言を掲載していたが、あれこそが、さも事実のように思わせるために用いる手法だ。「親しい関係者」「捜査当局の関係者」という実態のない週刊誌の手口だ。

柳田に3CPPを頼んだ時には、それが規制対象になっていることは知っていた。しかし、ネットなどではまだ多くのサイトが普通に販売していたので、特別罪悪感はなかった。私はただ「目が覚める」のが欲しかった。必要だった。3CPPを知らない柳田にそれを説明する。

「ほな、連絡してみましょうか?」

携帯を取り出してどこかに電話し始めた。

「もしもし、私ですが。つかぬ事をお聞きしますが3CPPってあります?」

それは突然だった。

「はい?今無い。冷たいやつならある。」

電話のマイクを塞いで、私に問いかける。

「冷たいやつならあるらしいです。」

私には振って欲しくなかった。早く電話を切って欲しかった私は、同じ類いのようなものだろうと思い、

「うん、うん。」

と、頷いた。

「1?2?3?」

と、指を立てて私に尋ねる。量を聞いているのだろう。私は咄嗟に「纏めて買った方が良い」と思い「3」と指を立てた。

「ほな、先方さんからお金預かりますんで。それじゃ。」
「柳田さん。冷たいのって何?」
「さぁ、何でしょう?明日、手に入るらしいですわ。」
「お金用意しなきゃ。」
「30万ですって。」
「30万!?」

そんな量はいらない。

「1で良いよ。1で。」

もう一度、電話をかけ直してもらった。話を聞いていると「1」では量が相当少ないらしい。結局「3」買うことになった。友人の話を思い出していた。

「あいつ数万円って言ってたはず・・。」

規制後に値が上がったのかもしれない。どれだけの量が来るのか想像がつかなかった。

翌日、柳田がやって来た。ポケットから大きなティッシュが丸まったものを無造作に出す。それは、その中に入っていた。

「3CPPもありましたわ。3CPPが1。冷たいのが2。」

3CPPが大きなビニール袋。冷たいのが小さな袋に入っていた。袋の外からでは見分けがつかない。柳田はガラスのパイプも持ってきてくれた。

「これで吸うと良いらしいです。」

耐熱用のガラスなのだろう。細い管の先が葡萄くらいの大きさの丸い形をしていた。3CPPを吸ってみる。一瞬フワっとしてすぐ消えた。やはり、一瞬にして目が覚める。これが欲しかったのだ。次に冷たいのを吸ってみた。すると、ゾクっとして髪の毛が逆立つのが分かった。それから、4,5口両方が混ざったのを吸った。確かに、視界がキラキラして目が冴えている。私はアイテムを得たように強気になった。その夜、盗聴盗撮犯を朝まで追った。

翌々日。身体に異変が起きた。朝から身体が怠い。じっとりとした汗を掻いている。横になったまま、何もする気が起きない。気がつけばストンと落ちている。眠くて、眠くて辛い。耐えられない怠さだった。私はそれが、クスリの抜けてゆく時の症状だとは思いもしなかった。

「そうだ。3CPPを吸おう。」

袋から3CPPの粉を摘み、ガラスパイプに落とす。それを吸う。しかし、気持ち目が覚めるだけで、身体の怠さは変わらないのだ。

「ダメだ・・。何だこれ。」

次に、冷たいのを吸ってみた。先日の髪の毛が逆立つ感覚はなかったが、身体が急に楽になったのだ。二口、三口吸うと、どんどん楽になる。その日も、朝まで証拠集めをした。

それから3週間ほどして柳田が遊びに来た。

「柳田さん、冷たいのが効くね。これ良いね。」
「ASKAさん、それシャブですわ。」
「え?シャブって、スピードでしょ?」
「聞いたら『冷たいの』『早いの』って言うらしいです。」

頭がパニックになった。柳田の話は本当だった。
「シャブ」「エス」「スピード」「アイス」「氷砂糖」「早いの」「冷たいの」「クリスタル」これらが覚せい剤の俗称だった。

覚せい剤という名に野次馬的な興味はあったが、それは怖いもの見たさに似たものであって、それをやろうなどとは思わない。3CPPも白い結晶であった。そういうものはみな似ているのだと思った。覚せい剤の知識がなかった。天国に行くほどぶっ飛んだり、興奮して包丁を持って暴れたり、無敵になったり、自分の身体を傷つけたり、身体から虫が這い出てくるような幻覚を見たり・・。そういうものだと認識していたのだ。私は、その「冷たいの」が気持ち良いとは微塵も思わなかった。口の中に苦味しか残らない。ただ、思ったように起きていられるのだ。「冷たいの」と「覚せい剤」が結びつかなかった。
こんなに簡単に手に入るものだとは思わなかったからだ。耐性がつくのが恐ろしく早い。私はすでに3週間も使用してしまっていた。何と言っても、薬の切れ目にやってくるあの怠さが恐怖なのだ。2010年の出来事である。警察の調書では「96年に一度だけエクスタシーというものを飲んだことがある」と答えた。しかし、報道では「20年前からドラッグをやり続けていた」と書かれた。私は、担当刑事に詰め寄った。

「20年間やっていると発表したらしいですね。どういうことですか?事実と違うじゃないですか。」

刑事は、

「私たちは、そんなことを言ってはいないんだよ。あれはウチの広報がマスコミに間違えて発表してしまった。」

と、説明した。取調官がマスコミに対応するのではないのだ。なので、間違いが起こりやすい。改善を要求したい。

革命

あっちは晴れ
こっちは雨
いたるところに墓がある

からだに革命が起こってしまった

僕にはふたつの拳がある
ひとつはあいつを殴るため
ひとつは自分を殴るため

歌は雑踏の沈黙の中で生まれ
赤ずきんのように健気に振る舞う

僕はお菓子の家に住み
魔女の水を飲んでいる

あっちは晴れ
こっちは雨
いたるところに墓がある

12.音楽関係者

翌年11年。柳田が脳梗塞で倒れた。昼間渋谷の公園通りで倒れ、そのまま病院に担ぎ込まれたのだという。幸い症状は軽く、言葉もはっきりしている。ただ、しばらく動けないとのことだ。柳田には申し訳ないが「冷たいの」を止める切っ掛けができた。しかし、あの怠さがやってくるのかと思うと恐怖を覚えた。そしてそれはやってきた。二日間ほど、こんこんと眠るのだ。起き上がることができない。何をする気も起きないのだ。そこを越えれば元の身体に戻れる。ちゃんと普通の生活に戻れる。逮捕後、私が病院で叫び声を上げていただとか、奇行があったとか書いている週刊誌があったが、すべて作り事だ。50日間の取り調べがあったのだ。50日後に、そんなことは起こらない。また、逮捕時にろれつが回っていなかっただとか、ふらふらだったとか書かれていたが、あれも全部嘘だ。
こんなやり取りもあった。

「刑事さん、逮捕の時僕はろれつが回っていませんでしたか?」
「いいや、しっかり喋ってたよ。どうして?」
「警察発表でそうなっています。」

接見に来てくれていた弁護士から話を聞いたのだ。

「我々もマスコミには困ってるんだ。嘘ばかり流してるから。発表などしてないよ。あなたの奥さんが密告したなどと書いた週刊誌には、広報が直接訂正の要求を出したよ。まったくどこもデタラメばっかり書いてる。」

また、保釈の時に私が頭を下げただけで何もコメントをしなったことから、

「しっかり喋ることができないからだ。」

と書かれたが、あれも違う。大勢の報道陣が並ぶ前で、しかもあんなに距離がある前で、届かない話を長々と大声でしたくなかっただけなのだ。
一礼に気持ちを込めた。

13年1月1日。柳田が倒れたその後はクリーンな身体で生活をしていた。盗聴盗撮は続いていた。掲示板では私の行動を予測してお金を賭け合っていた。年末のことだった。夜、私が家を出ようとすると、

「さ、みなさん始まりますよ!」

と、私の行動を公開している。ライブ中継するつもりなのだ。それに気づいた私が外出を止めると、

「何でだよ!ここまで来てそれはないだろ!こちとら金が底をついて来てるんだよ!行けよ!」
「あ〜あ・・。今日は無しか。」
「ドタキャンはねーだろ。」

そんな書き込みで埋められた。
当初、

「オマエは死なせん。」

と、言っていた彼らは、

「頼む。もう、早く死んでくれ。」

と、書いてくるようになった。素性、所在、事実を知られたことが許せないのだ。彼らのブログやツイッターは「ぎなた読み」を更に進化させた独特の読み方があった。「ぎなた読み」とは「弁慶が、なぎなたを持って」と読むところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と、間違えて読んだことから「ぎなた読み」と言われている。有名な「ぎなた読み」には、「ここではきものを脱いでください。」と、言うのがある。「ここで履き物を脱いでください」と「ここでは着物を脱いでください」という「ぎなた読み」だ。漢字違いも同種とされている。日本人は漢字を見たら、その瞬間並んだ漢字だけで意味を読み取るようになっている。視覚から意味を汲み取ってしまうからだ。例えば、敢えて意味違いを起こさせるように「車で待とう」を「来るまで待とう」と書く。盗聴盗撮犯のぎなた読みはかなり進化している。「間違えて読んだ」の「ん」はアルファベットの「h」に似ているところから「間違えてよ。エッチだ。」と読むことができるのだ。その時々において読み方は変化する。ひらがなの「う」は上部の「ゝ」(てん)と下部の「つ」で構成されている。「う」の一文字で「ゝ上つ下」「てんじょうつか」「天井通過」と読むことができる。私は、長い間かけてそれらを読めるようになっていた。暗号文のようなものだ。ある日、私は真澄と逢っている時にライブで放送されていた事を知った。電話もパソコンもバッテリーも外していたのに盗聴されていたのだ。私はインターホンへのアクセスを疑った。実際にインターホン盗聴の事実はあるからだ。私は真澄の部屋に入ると、まず最初にブレイカーのインターホンを切る事が習慣になっていた。私は「ぎなた読み」から、全ての電気器具を疑った。電子レンジから漏れるマイクロ波、デジタルテレビ、エアコンセンサー・・。盗聴手段は至る所に転がっている。
私が、直接メールをしたその犯人の○○のブログでは、

「いろいろ書きたいことがあるのですが、あいつが見ているので書けません。どういう訳か内容も理解されているみたいなので。」

そう、記してあった。彼は今、東京を離れ長崎で生活している。余談だが、彼らは集団名を公表しており、数年前に別件で逮捕されている。言わば、そういう行為を楽しもうという集団なのだ。新聞にも載ったので内容を書けば覚えている方もおられると思う。実は、彼にはロックダムの社長だった尾崎が会いに行ったことがある。尾崎は自分の素性を明かさなかった。名前さえも名乗らなかった。会話はなく、殆どが沈黙だったそうだ。その時に私が送ったメールのことに触れた。彼は「(返信するのが)怖かった」と、語ったのだ。しかし、その夜彼のツイッターでは「今度はアスカのモノマネを披露しまーす!」と書いてあったのだ。もちろん保存している。

話を戻そう。ネットで盗聴盗撮を語り合っている文面は、他者には理解できず世の中に広がらない。彼らとて広がることはもはや不味いのだ。私はここ数日寝ていなかった。盗聴盗撮の事実を周りが信じようとしないため、証拠集めに躍起になっていた。みなさんは携帯電話やスマートフォン、パソコンの盗聴盗撮が、どれだけ簡単にやれるのか、きっと知らない。
プログラマやパソコン上級者の手に掛かれば、難しいことではないのだ。そして私の場合、それはゲームのようなものになり、確約されたルールの中で行われた。私はできる限りのことをした。私の身体の体内時計はすっかり壊れてしまっていた。私には時々変更される「ぎなた読み」のルールが知らされないため、毎度変更されると解読にはかなりの時間がかかった。昼夜問わず時間を費やした。ある掲示板の運営をやっている人物も、自ら(このゲームに)参加していたことがあると告白していた。それは、以前別のサイトでそうである事実を発見していたので、すかさず保存していたのだ。すると、翌日、

「だから、削除しろ!って言ってあっただろうが!」

と、仲間割れが始まった。彼の元で仕事をしているプログラマが集まり、私の話をしているページも見つけた。何から何まで私のことだった。私はそれをCD-Rに焼いた。そして翌日、そのページに続きがあることが分かり、そこに張ってあったリンクを辿った。すると、

「このページは存在しません。早ぇな、オマエ。」

と書いてあった。それも保存した。証拠集めは戦いだった。眠気は約束を守らず突然襲って来る。重要な場面で襲って来る。もう体力の限界だった。それでもやらなければならない。相手は複数のグループだ。ひとりで対抗するには完全に無理があった。私は、理解者、仲間を作らなくてはならないのだ。相手は、私が孤軍奮闘していることを知っている。今から思えば、この時の精神状態は普通ではなかった。常軌を逸していた。「決定的な証拠を手に入れてみせる」。この境地に陥ってしまったことが、今回の事件を招いた。クスリに頼ったのだ。私は咄嗟に札幌の斎藤に電話をした。本当にそれは衝動的だった。その行為は列車に飛び込む自殺者のようだった。

「おうASKA。ひっさしぶりだなぁ。どうした元旦から。」
「斎藤さん、身体がキツイ。疲れの取れるヤツないかな?」

言葉はとても荒々しかった。少し間があって、

「あるよ。今自宅かい?」
「そう。」
「音楽関係の仕事をしてる奴がいるんだ。30分以内に電話するから待ってて。」

電話を切った後、気は塞いだ。これまで一生懸命開いてきた花を、自ら散らそうとしている。おそらく覚せい剤、もしくはそれに近いモノだろう。暗黒の未来へ少しずつ足を踏み込んでいる。15分もせずに電話が鳴った。知らない番号からだ。普通、知らない番号からの電話には出ない。しかし、斉藤と関係のある電話であることは間違いない。

「もしもし。」

初めての声だ。声は続いた。

「和夫ちゃんから話聞いた。どれだけ要るの?」

話は通っていた。

「30万ほど。」
「30万ったら、何グラム?」
「何グラムと言うのは分かりません。30万円分。」

今から届けると言う。21時を過ぎていた。向こうにも都合があるのだろう。早くて明日だと思っていた。困った。この時間に、柳田に電話して取りに行ってもらうことはできない。しばらく考えた後、私は自分で取りに行くことを決意した。斉藤も「ASKA」という固有名詞だけは出していないだろう。変装すればいい。電話のやりとりで、もう盗聴集団には気づかれてしまっている。どうすればいい・・。ともかく、相手とは時間の約束までしてしまった。頭の中が整理できない。

冷たい風で駐車場の隅はめぐらされていた。電話で指定された場所だった。一台の白いメルセデスがエンジンをかけて停まっている。ふたりの人影が映った。「あれだ・・」私は帽子を被り眼鏡を付け、自分の車から降りてその車のドアを軽くノックした。

「乗って。」

私は後部座席に乗り込んだ。運転席にはスーツを着た男。助手席にはコートを着込んだ男が座っている。ドラマや映画、ドギュメントシーンのようだ。自分の心音が聞こえる。もう引き返せない。とんでもなことをしている。柳田の時とは訳が違う。声で気づかれないよう、言葉は切り詰めて使おうと思った。助手席の男が封筒を差し出した。

「はい。これ。」

私も封筒に入れた30万円を渡す。

「量とか、モノが悪かったら言ってね。こういうの信用だから。」

「量」だの「質」だの、そんなものは私には分からない。

「ありがとうございます。」

使った言葉はこの一言だった。即座に車から降りて自分の車に向かう。夜は口を結び、風だけが舞っていた。ハンドルを握る手に力が入っているのが分かる。私はエンジンをかけると直ぐにその場を去った。

取引とは言っているが、男は売人ではなかった。斎藤の顔を立てて持って来てくれているのだ。4月。3回目の時だった。男は駐車場ではなく、道路沿いに立っていた。車を横付けすると、車内に乗り込んできた。
駐車場にはカメラも設置されているし、同じ状況を作っては怪しまれるとのことだった。私はそのまま駒沢から池尻まで送ることになった。その間の出来事である。男が喋りかけてきた。

「○○プロダクションの○○を知ってる?」

業界のことを話してきた。音楽業界の人物とは聞いていたが、なぜ私に業界の話をしてくるのだろう。

「いや、知らないですね。」
「オレ、ASKAちゃんの歌好きなんだよねぇ。」

名前を言った。なぜだ・・。私がASKAだと知っているのだ。私は凍りついた。斎藤が喋ったに違いない。

「オレ、○○プロダクションをやってるんだ。」
「そうなんですか。」
「音楽業界、大変だから辛いよ。」
「そうですね。」

池尻までの約10分が長かった。
男は「吉野」と名乗った。その後、ちょくちょくショートメールが送られてくるようになった。日常的なことである。時には、

「いま『PRIDE』を聴いてます。泣けてきます。」

というようなメールも来た。

「何かありましたか?」

と、送ってみた。すぐに返って来た。

「仕事で、いろいろあってね。」

時々交わすメールの中で、いろんなことがわかってきた。北海道は小樽の出身。同じ年生まれ。

「ASKAちゃんは剣道だよね。オレはスピードスケートをやってた。」
「へえ。意外だ。」
「高校の時は記録も持ってた。いまはこんなに太っちゃったけど。」

私たちは普通に連絡を取り合う関係にまで、近くなって行った。

知り合って半年が過ぎようとしていた。夜中に電話があった。

「吉野さん、どうした?」
「うちの新人で、どうしても売ってあげたい子がいるんだけど、ちょっと意見を聞かせてくれないかな?」
「オレ、何にもできないよ。」
「プロモーションヴィデオを観て欲しいのさ。」

7月。
先にも書いたが、私は自宅から歩いて1分もかからないところに、マンションを持っている。音楽スタジオを経営しているので、その打ち合わせや取材などをするときに利用している。吉野のところの所属アーティストのプロモーションヴィデオをちゃんと観てあげなければという思いから、その日はその部屋を使った。

「悪いねぇ。」
「いやいや、新人にはいつでも興味あるから大丈夫。」
「『Youtube』に上がってるから、それ観て欲しいんだよね。」

私は吉野の言うままに、バンド名、楽曲を検索欄に入れた。
80年代風のロックバンドであった。メロディも歌詞もそこそこ。どこと言って特徴はない。神秘化させたいのかルックスはしっかり確認できない作りになっていた。

「どう?」

こんな風に感じた時の批評はいつも難しい。どのバンドも会社も、メジャーを目指して一生懸命に制作したものであることは間違いないからだ。

「う〜ん。今じゃないかもしれない。でも、よく作ってあるね。」

そう答えるのが精一杯だった。

「ASKAちゃん。プロデュースお願いできない?」

私はよほど興味が湧いたり、友人アーティストたち以外のプロデュースはお断りしている。

「ごめん。いま自分のことでいっぱいなんだ。」
「せめて楽曲は無理かなぁ?」
「その楽曲がいっぱい、いっぱい。」

私は盗聴が始まってから楽曲制作がストップしていた。作曲していても、彼らに聴かれている。録音されているという思いが作業を集中させないのだ。何よりも「ぎなた読み」の解読に時間を費やしていたからだ。私はこの頃カバーアルバムを続けてリリースした。カバーアルバムは新しいオリジナルアルバムがあってこそ成立するアイテムだ。活動に余裕があってこそ意味を持つ。すっかり作業の止まってしまった私を、このまま停滞させてはならないとスタッフは考えた。スタッフは私にスタジオワークをさせようとカバーアルバムを勧めてきた。スタッフの気持ちは痛いほど分かった。私は悩んだ末にそれを受け入れることにした。我々の計画表ではアルバム「SCRAMBLE」はカバーアルバムの前にリリースする予定になっていたのだ。足並みが違うと見える景色はガラリと変わって見えてしまう。我々の活動方針に疑問を持たれた方は多かったと思う。「なぜ、いまカバーアルバムなんだ!?」すべて承知の上でリリースした。カバーアルバムと言えども、スタジオに入れば一心不乱となって作業に没頭できた。しかし、やはり新曲ではないという思いが精神に重圧をかけた。そんなことを浮かべながら吉野の話を聞いていた。そしてプロデュースの依頼を断った。その日は、業界の話や音楽の話で時間は過ぎた。誰しもが自分の人生の未来に賭けている。必要とされることは有難いことだ。感謝しなくてはならない。そういう思いで吉野を見送った。

それから間もなくして、また吉野から電話があった。

「急で申し訳ないんだけど、ライブをお願いできないかな?予定していたアーティストが飛んじゃって切羽詰まってるんだ。」

できることなら助けてあげたいが、ライブ活動はツアーが基本となっている。テレビ以外でのワンショットはあり得ない。そのスタイルを丁寧に説明した。しぶしぶだったが諦めてくれた。こういうこともあり、私は吉野が音楽関係者であることに一切の疑問は持たなかった。

秋だった。その日私は吉野をまた池尻まで送っていた。車中、会話の中で気になることがあった。馴染みのない言葉を使うのだ。

「○○に、ちんころされてさ。」

「ちんころ」とは「チクる」という意味である。久しぶりに聞いた。著書「インタビュー」の中で書いたやくざになった幼い頃からの友人が使っていた言葉だ。覚えてはいないが、他に幾つか理解できない言葉があった。話は別の話題に移った。

「○○の時は大変だった。」
「何が?」
「クスリを調達するのがさ。」

吉野は私だけではない、以前から運び屋的なことをやっていたのだ。私は正体を聞くのが怖かった。音楽関係者であることに間違いはないだろう。だが、違う。どこか違う。私は、思い切って聞いた。
「吉野さん、組に入ってるの?」
「入ってるよ。バリバリだよ。ほれ。」

私に手を見せた。小指がなかった。それまで、まったく気がつかなかったのだ。

「吉野さんマズイわ。このご時世付き合えない。」
「あっはっは。いま厳しいからなぁ。」

あれ以来、斎藤には会っていないし、話もしていない。それから吉野の電話には出ないようになった。7,8回かかってきて、やっと1回折り返すぐらいだった。これが吉野の心象を悪くしたのだ。そのうち、留守録では「何シカトしてるんだよ!」と、声を荒げるようになっていた

翌年1月。久しぶりに吉野から電話があった。穏やかな声だった。
会話の流れで、翌日会うことになってしまった。随分、嫌な思いもさせただろう。マンションなら誰にも見られない。そう思ったのだ。昼の2時に会うことになった。クスリの話は出なかったが、おそらく持ってくるだろう。私の防御壁は脆くなっていた。あのクスリは人間を変えてしまう。いつでも止められるが、止め続けることが困難だ。奥へ奥へと誘われる。目の前に餌をぶら下げられているような気がした。もう要らないと言えば良かったのだ。しかし、そうは言わなかった。心のどこかで必要だと感じていたからだ。ひとりで盗聴集団と戦うにはあれが必要だと思ってしまっていたのだ。頼っていた。もちろん大間違いだ。しかし、その頃はそう思い込んでいた。だが、どこかで理性も働いている。もう今回で止めよう。きっと今回で吉野とは会わなくなるだろうという気がしていた。

翌日、私は先にマンションに居た。14時。チャイムが鳴った。モニターを確認して解錠する。
まず私は、

「久しぶり。ごめん、ご無沙汰しちゃって。」

と言った。

「ホント、久しぶり。」

ソファに腰を下ろした吉野は、いつもの感じじゃない。私もそうだった。話が弾まないのだ。少し経って、吉野は思い出したようにポケットを弄った。いつもの封筒が出てきた。お金を渡す。中を確認することはしなかった。すると、

「ね、オレにも吸わしてよ。」

と吉野が言う。そこに吸引器具は無かった。

「ああ、良いよ。じゃぁ家に取りに行って来る。」

以前、吉野からもらったガラスパイプを取りに帰った。ライターとパイプをポケットに入れマンションに戻る。封筒を開け、アンナ力と呼び合っていた覚せい剤をパイプに入れ吉野に差し出した。吉野は数回吸うと私にパイプを手渡した。私は別に眠たい状態ではなかったが、渡された残りの一口を吸った。その時、

「止めなよ。そんなもの。」

と、突然言うのだ。私は意味が分からなくて、

「ああ?」

と、聞き返した。会話、行為の流れが不自然過ぎる。もう、音楽の話をする間柄ではない。付き合いで一番難しいことは、付き合いを終わらせることなのだ。時計の音だけが部屋に響いていた。

「吉野さん、オレこれで最後にするわ。」
「そうだね。止めた方が良いよ。さて、帰る。」

短い時間だった。これで良かったのだ。すべてには種類というものがあり、見えないものの手によって区別されている。今日私たちは区別されたのだ。

答え

季節の中の僕は迷うためにいるのだろうか
小さな世界を支えているのは誰だ

世界とは僕のことだという思いは
いつかどこかで疑問にかわり

疑問は想像の象徴のようになって
自分の足元を見えなくした

正しいということは
間違ってはいないということだけなのだ

空の真ん中とはどこだ
太陽が瞼を下ろしそうじゃないか

アーサー・コナン・ドイルの落とし穴には
いつも鮮やかな答えがある

13.恐喝

2月になって一枚のDVDが届いた。吉野からだ。吉野の電話には一切出ないようになっていた。

「なんだろ?」

私はパソコンのディスクドライブに、そのDVDを押し込んだ。すると、薄暗い廊下をゆらゆらと揺れながら進んで行く絵が映った。歩きながら撮影されているのだ。その瞬間、私は戦慄が走った。私のマンションの廊下だ。その後、すぐに場面は切り替わり、私がガラスパイプを咥えてるシーンになった。

「止めなよ。そんなもの。」
「ああ?」

という音声も記録されていた。私は最後まで観ることはせず、途中でそれを取り出した。何のつもりなのだろうか。私はDVDにハサミを入れた。こんなものが自分の手元にあってはならないと思ったのだ。そう言えば、あの時「オレにも吸わせてよ」と吉野が言い、私は自宅にパイプを取りに帰った。その間に撮影していたのだ。すぐに、吉野に電話をした。

「あれ、どういう意味!?」
「あ、届いた?ASKAちゃん無防備だからこういうこともあるということを教えようと思ってさ。」
「あれは盗撮だ。あの日、吉野さんの動きが変だった。ロボットみたいだなと思ったよ。」
「気がついてたんだ?」
「とにかく、すぐ消去して欲しい!マスターを含めた全部を!」

強い口調になっていた。

「わかった。わかった。そうするから。」

しかし、そうはならなかった。3月の上旬になって吉野から電話が入ったのだ。

「あれ、世の中に出ちゃうと困るでしょ?」
「いや、困らない。あれただのアンナカだから。」

以前より、もしこんなことが表に出そうになったら、あれは「アンナカ」と言おうということで、両者約束し合っていたのだ。

「ちょっと、助けて欲しいんだよね。」
「何を?」
「何をって、自分で考えてよ。」
「考えられない。」

とうとう来た。
以前、あるミュージシャン○○の弱みを握って、友人が○○から3億円取ったと言っていたのだ。私は、そのミュージシャンと面識はないが、名前を書けば誰もが知っている。「自分はそんなことしないから安心して」とも言っていた。

「今あの画像ね、あの友人のところに保管してあるんだけど、ちょっと話しない?」

場所を指定してきた。会わないわけにはいかない。

「ちょっと待って。場所はオレが決める。」

相手に場所を任せると「ヤクザと一緒にいる場面」というのを盗撮されかねない。会う日は設定した。場所はその日の当日直前に伝えることにした。私は敢えて、人通りの多い混雑した場所を選んだ。そういう場所なら、カメラのセッティングもできないし、相手も冷静になって話しをしなければならないだろうと考えたからだ。
○○ホテルのラウンジにした。時間は16時。私は15時半に到着すると、地下駐車場で待機した。するとすぐに電話が入った。もうロビーに居るという。慌てて駆け上がり、先にラウンジに着く。席も係りに案内される席ではなく、自分で決めた。

「何?話って。」
「今まで仕入れていたところが摘発されて、オレの身が危ないのさ。それで、助けて欲しいんだよね。」
「何を?オレにできることないじゃん。」
「居場所も転々としてるし、お金が無くなってね。逃走資金を工面してくれないかな。」
「逃走資金?そういう金は無い。」

逃走と言うからには、もう存在が特定されているということ。しかし、話をしているとそんな風でもない。

「ASKAだって危ないんだぞ。オレが喋っちゃったら終わりだよ。」
「その時は、しょうがないんじゃない。」
「何で、そんなに落ち着いていられるわけ?」

動揺しなかっただけだ。摘発話も逃走資金も嘘だと思ったからだ。

「あのビデオ公開されたら困るだろ?」
「そりゃ、困るね。」
「オレの知り合いが言うには、5千万にはなると言ってたぞ。」

どうしたら5千万になるのかは言わない。そこは相手も考えているのだ。直接交渉はしてこない。恐喝してこないのだ。

「例えば、マスコミが買うだろうよ。」

それでも返事はしなかった。吉野は続けた。

「どっちにしろ、暴力団と関わりがあるっていうのはマズイんじゃないのか?」
「本当に知らなかったわけだから、そうなったらそうなったで経緯を正直に話す。」

結局、この日はなんの落とし所も無いまま話は終わった。

5月に入って吉野から連絡が入った。

「考えてくれた?」
「お金は無理だよ。」
「わかった。腹割って話そう。実は組の金を使い込んだ。使い込んだと言っても、事業投資なんだけどね。勝手にやっちゃったのさ。投資の回収ができるのは2年後でね。組の口座に金を補填しなくてはならない。」
「それが5千万か・・?」
「そう。頼む。貸してくれ。2年後には返済するからさ。」
「ごめん。無理だ。」

返済などするわけがない。それよりも、一度払ってしまうと永遠に貪られる。

「あの画像、本当に出ちゃっても良いの?」

頼まれてるのか、脅されてるのか分からなくなっていた。私は駆け引きの中で脅しがいちばん嫌いなのだ。どんな深刻な問題を抱えたとしても、脅された瞬間に私のシャッターは降りる。相手の言いなりになるということが、たまらなく格好悪く感じるのだ。私には「脅しにだけは屈しない」というバカな美学がある。今回は、その美学のために人生を棒に振った。きっと、それはこれからも変わらない。

最近、立ちくらみが激しい。立ちくらみは子供の頃からあったのだが、近頃その時間が長い。目の前が真っ青になり、そして暗くなっていく。何かに持たれかかったり掴んでいなくては倒れてしまいそうになるのだ。8月には6年ぶりのCHAGE&ASKAのコンサートが代々木第1体育館で4日間行われる。みんな、とても楽しみにしてくれている。すでに予約の段階でソールドアウトになっていた。公式発表は3日間だったが、そんなことも予想して、もう一日会場を押さえていたのだ。身体も3月からはクリーンになっている。ライブへの期待は高まっていた。しかし、私自身気になる出来事が起こった。私は友人の不幸事で葬儀に出席するために羽田のロビーを歩いていた。その時だった。歩きながら脳貧血を起してしまったのだ。掴む物も何もなかったので後ろ向きに倒れてしまった。咄嗟に体を捻ったので頭を打つ事はなかったのだが、初めての事であったために自分の身体の調子を疑った。急遽、精密検査を受けておこうということになった。
脳神経外科だった。検査は朝から1日行われた。細部の細部まで調べるのだ。
後日、診断結果が出た。

「一過性脳虚血症」。
「脳の血液が不足し、酸素や栄養が脳に回らない状態になる。このままこれが進行してゆくと脳梗塞になる。」

とのことだった。代々木ライブが懸念された。私は「何があってもステージに立つ」と言い張った。しかし、6月に入ってから会社と医師の間で話し合いが行われ、コンサート中止が発表された。

7月に入ると、吉野の電話が頻繁になった。私は電話に出なかった。留守録を聞くと酔って荒れている。私はすべての会話を録音しておこうと思い、ハンディレコーダーを入手した。吉野と話をする時はレコーダーをセットした上で折り返し電話をする事に決めたのだ。
そして、それを実行した。

「あれが世の中に出て困るのはASKAなんだよ。」
「そうだね。」
「3千万で良いから貸してくれないかね。」
「何度も言うけど、そういう金は無い。」
「札幌のマンションを抵当に入れて金借りれば良いじゃないか。」

そういう問題ではない。話が無茶苦茶なのだ。しかし、決して脅してはこない。恐喝してこない。

「じゃぁ、好きにして良いっていうことだね。」
「そうは言わないな。」

のらりくらりと話を躱す。

「わかった。そっちが困るだけだからな。」

すべての留守録、会話は記録して弁護士のところに保管してある。
後に、これを聞いた警察からこれは立派な恐喝なので、被害届を出すように言われたが、いまのところその行為には及んでいない。まだ時効は成立していないので、これを読んだ吉野から何らかのアクションがあった場合には行動に移す。と、釘を刺しておこう。

雨が降るなら天気は悪い。きっと何かが起こるだろう。思考には未来の予言のようなものが含まれているので、悪いことは考えないようにしようと思い込む。しかし、人の心はそこまで強くはないし忠実ではない。そんなことよりも、たとえどんなことがあっても、みんながそばに居てくれるような本当の歌を作りたい。

どんなことがあっても

そんなところで何してんだよ
風吹く先端で 希望によりかかってさ

分かっちゃいるのに わざと誤解して
染みのついた心で未来を語るなよ

そんな言葉が聞こえてきそうな空
Oh クラウディスカイ

僕の喜ぶ答えを君が言うなら
君は間違ってる 僕と同じように

このまま速さを変えないまま
歩いて行くんだ あの信号の向こうへ

一度も止まらずに渡れたなら
今日はきっといいこと ありそうな気がする

声を投げたら返ってきそうな空
Oh クラウディスカイ

いつか本当の歌を作ってみたい
どんなことがあっても そばに居てくれるような

自分の決めたルールで
あの信号の向こうへ

声を投げたら返ってきそうな空
Oh クラウディスカイ

いつか本当の歌を作ってみたい
どんなことがあっても そばに居てくれるような
どんなことがあっても そばに居てくれるような

14.週刊文春

7月24日
渡部が家にやって来た。2000年にリアルキャストを離れ、他の会社で代表をやっていた渡部。渡部に戻ってきてもらったのは2012年の夏だった。マネージャーでありプロデューサーとして迎えた。12年間のブランクがあったが、持前の勘の良さとフレキシブルな対応力でその間はすぐに埋まった。私の部屋のドアを開けるなりこう言った。

「ASKA、どういうこと!?」

その日は、楽曲制作用に使用するメインパソコンを新しく購入したため、朝から設定などを行っていたのだ。

「え?何が?」

新聞のコピーを渡された。東スポだった。「大物ミュージシャンX」が薬物中毒。
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全国区の知名度を誇り、熱狂的なファンを多く抱える超大物シンガーXが現在、深刻な麻薬中毒に陥っていることが本紙の取材で明らかになった。その症状は重度で、専門的な更生保護施設に入らなければならないレベルだという。もちろん、音楽活動はすべて中止。しかもこの衝撃情報は、捜査当局もつかんでおり、逮捕を視野に内偵を進めている。だが、問題はそれだけではない。Xは、薬物常用の証拠をつかんだ反社会的勢力から脅されるという絶体絶命のピンチに立たされているのだ。
「Xの悲劇は何も反社会的勢力に脅されているからではありません。中毒がシャレにならないんです。もう精神にも異常をきたし始めている。音楽活動どころじゃない。更生保護施設に入るしかないだろう。」
-------------------東京スポーツ新聞より引用-----------------
東スポらしい書き方だった。私は4月に渡部、社長の尾崎、CHAGE、そして弁護士でもあり役員でもある石田を集めて、音楽関係者から金を貸してくれと迫られていると話をした。アンナカを吸っているところを隠し撮りされたのだと説明した。一見、覚せい剤に見えてしまうから始末が悪いのだと言った。覚せい剤だとは言えない。もう止めてから2ヶ月が経っている。何があっても大丈夫だ。映像の公開など出来るわけがない。公開すれば、自分自身が捕まってしまうからだ。その日は、様子を見ようということで話は終わった。その4人以外誰にも相談してはいなかった。出来ることなら自分の手だけで片付けたいと思っていた。上の記事はネット用の記事だが、私が手渡された東スポの本誌に掲載されていた記事は、どの角度から読んでも私のことだった。私は反社会勢力について説明をした。

「これ、音楽関係者でプロダクションを経営している奴だって前に説明したよね。実はそれがヤクザだった。」
「まだ、付き合いあるの?」
「いや、それが分かってからは態度を変えた。」
「この業界、そっち系の臭いのする人が偶にいるから気をつけた方がいいよ。お金は絶対に貸さない方が良い。」
「そう。断ったらこうなった。」
「覚せい剤じゃないよね?」

不意に扉を叩かれた。しかし、認めるわけにはいかない。「当初、覚せい剤だとは知らないで使用してしまった」などという、言い訳がましい説明など意味はない。これまで誰にもそんな素振りを見せたことは一度足りともなかった。心は台風のさ中に揺れている公園のブランコのようになっていた。安心させてあげなければ。私は精一杯言った。

「ないない。心配しなくても良いよ。それよりもオレ更生保護施設に入んなきゃいけないの?」

東スポが、あんな書き方をしてくれたおかげで助かった。深刻な中毒とはかけ離れて元気だったからだ。
渡部は安心したように

「更生施設に入いりたい?」
「ダメだよ。パソコンの設定も終わってないんだし。」

賢明に隠した。

そして間もなくカウンセリングの医者には一連の話をした。医者は、その話を受け流すわけにはいかないと言う。疑いを持ったのだ。

「私やスタッフ、家族を安心させるために、週一回検査キットで尿検査をしましょう。」

と言い、直ぐに検査キットを2箱持ってきた。その頃、私はクリーンな身体だったので、それを受け入れて毎週木曜日に検査の結果を写真に撮り医師の元へ送っていた。覚せい剤反応があるときは、キットの紙の部分に線が現れない仕組みになっていた。もちろん、毎回線は現れた。家宅捜査時に検査キットが押収されたのは、そういう理由だ。私が逮捕を恐れて裏のルートから検査キットを入手し、自分でこっそりと確認していたかのように報道されたが、そういうことではない。

7月も終わる頃。お昼だった。スタジオに向かうために駐車場で車に乗り込もうとしたときに一人の男が近づいてきた。

「文春ですが、東スポはご覧になられましたか?」
「はい。見ました。」
「暴力団に脅かされてるとのことですが。」
「いえいえ。お金を貸してくれと言われてるだけです。」
「お身体は、もう大丈夫なのですか?」
「大丈夫です。こんな感じです。」

と、両腕を上げて拳を作った。無視すれば良かったのだ。その夜ポストには、山本と名乗る記者の手紙と名刺が入っていた。手紙には10を超える質問が連ねてあった。質問には答えなかった。

そして、間も無く記事が出た。「シャブ&ASKA」。上手いとも何とも思わない。品もセンスも無い低俗な表現だ。記事は悪意で埋められていた。間違いだらけなのだ。吉野本人が文春に記事を売ったのなら、ここまで間違いだらけの記事にはならない。「北海道時代の同級生」。いきなり冒頭から滑っている。吉野ではない誰かから文春はネタを買ったのだ。そう言えば、吉野は私が録音しておいた留守録の中で第三者の名前を出していた。

「ちくしょう!○○の野郎に騙された!」

吉野は○○と二人で画策し、私からお金を取ろうと考えていた。あるミュージシャンから3億円せしめた男だ。しかし、今回それに失敗した。そして、その友人の○○はネタを売り歩いて行くことになるのだが、高額であったために他の週刊誌は見送った。文春だけが食いついたのだ。そして吉野から聞いたうろ覚えの○○の話しを真に受け、文春は記事にしたのだ。覚せい剤を私がやってしまったことと、動画があること以外は、すべて間違った記事になっていた。記事では、さもライターの山本が動画を観たように描写してあったが、文春は観てはいないのだ。
どうか、みなさん一緒に呆れて欲しい。方々裏を取って書いたようになっていたが、○○からの話しか聞いていない。そして、可哀想なことに吉野は、その時の文春からの報酬の半分を貰うことができなかった。独り占めされたのだ。そのことは留守録に入っていた。そして「○○の野郎に騙された!」と怒鳴っていたのだ。これによって文春のニュースソースはバレた。

その後、写真誌「FLASH」や「女性自身」が、後を追うように私の記事を書いてきた。私に覚せい剤を3年間売ったヤクザの売人の告白だという。全くの事実無根で、あれこそ多大な金額で訴えても良かったのだが、その2誌だけ訴えると文春が真実味を帯びてしまうので思い止まった。

パソコンを新しくしてから、部屋での楽曲制作は量産体制に入る兆しが見え始めていた。盗聴をしている奴等には、「新曲を盗作するなら盗作してみろ!」と開き直ったのだ。相変わらず盗聴は続いていた。ツイッターや掲示板では、一連の騒動を受けて「さあ、面白くなってまいりました。」と、書いていた。IT企業代表の○○は、バレたことが、よほどショックだったのか飽きたのか、すっかり身を潜めている。

間もなくして、私は文春の山本と話をしなければならないと思った。山本自身が私のキャラクターを自分が書いた通りに思い込んでいると思ったからだ。それほど酷い人間像に仕立て上げられていた。覚せい剤と動画の存在以外は、私の知らないことばかりだったのだ。人権侵害だ。私は覚せい剤報道よりも、醜い人間像に仕立て上げられたことの方に怒りを覚えた。このままでは第2号、3号もあり得ると考えた。早めに手を打たなければならない。読んだ人は鵜呑みにするだろう。私もその頃、文春は比較的まともな週刊誌だろうと、世間と同じになって騙されていた。私は、取材ではなく男同士の話をしたくなった。名刺の携帯に電話をする。留守録になっていたのでメッセージを入れると、しばらくして山本から電話があった。

「山本さん、取材ではなく男同士の話をしませんか?」
「分かりました。私も、もやもやしていますので是非お願いいたします。」
「これはふたりだけの話にしたいので、誰にも告げず私の家にきてください。」
「分かりました。そうします。」

18時にチャイムが鳴った。最初、山本はまるでブルスリーの映画「死亡遊戯」のように表情が硬直してカチンカチンに緊張している様子だったので、まずはこちらから笑顔で握手を求めた。2時間ほど話をした。
私はひとつだけ嘘をついた。何度も繰り返すが、覚せい剤だと認めるわけにはいかなかったのだ。当たり前だ。誰が週刊誌相手に「実はそうです」などと言うだろうか。まともな否定だ。あとは終始文春の間違いを指摘した。

「山本さん、僕はあの日ろれつが回っていませんでしたか?」
「・・。」
「『こんな感じなんれすっ!』なんて言いましたか?」
「・・。」
「そのヤクザに『勝手にしろ!』なんて怒鳴ったり悪態ついたりなんかしてませんよ。」
「・・。」

悪意さえあれば、記事などどうとでもなる。「そう見えた」「そう思った」ということを強調すれば良いのだ。記事の中で、よく「親しい関係者」や「捜査当局の関係者」「○○に近い音楽関係者」などが登場するが、まず作り事だと思って良い。そもそも、本当に親しければ当人を庇うし、今日こういう取材を受けたということを連絡してくる。翌日、山本から電話があった。昨日のことをキャップに喋ってしまったのだと言う。誰にも喋らないとう約束は、すでに破られてしまった。「キャップの中山が挨拶に伺いたいと言っている」と言う。私はもう怒っても仕方がないので、それを受け入れることにした。挨拶ぐらいなら構わないだろうと許したのだ。あの日、山本が自分の書いた記事について、私に深く謝罪をしたからだ。謝罪を受けたからには、これ以上責めるのは止めようと考えた。それよりも、これからは良い関係になって付き合って行こうと投げかけたのだ。文春は2号目で、私が「『お任せします』と言ったから書いた」と、書いた。嘘だ。それは、1号目のときに山本が私に謝罪をしたので、謝罪文は載せないにしろ、訂正文はあるかもしれないと期待して言ったのだ。最終ページにひっそりと掲載されるかもしれない。それはそれで、もう良いと思い「お任せします」と、言った。文春はその隠し録音で掲載した2号目の話のときに、私がさもその言葉を言ったように書いた。1号目と2号目の都合の良いところだけを繋げたのだ。小学校の低学年でも、そんな勘違いはしない。本当にやり方が汚い。これがひとりの人間であるならば友人などできないだろう。小馬鹿にされて笑われているだろう。私たちは、そんな本を読んでいた。

2回目の当日。再度私の家に訪れることになった時、こちらも何かがあっては不味いと思い、渡部にそれを伝え同席してもらった。当日、山本は中山を引き連れてやってきたが、それは挨拶ではなかった。いきなり取材口調になった。渡部が慌てて間に入いる。

「すみませんが、これは取材ではありません。ASKAの気持ちで場を設けました。取材ならお受けすることはできません。お断りいたします。」

きっぱりと言った。しかし、すでに文春の隠し録音は始まっていた。私は、先日の話を繰り返した。取材ではないということで始まった。その日も、覚せい剤ではないということを強調した。当然だ。そして話も終わる頃に中山が「斉藤和夫」の存在を質問して来た。別に認めても構わなかった。知り合いであることは間違いない。ただ、斉藤が自分のことを「漁師だ」と自己紹介してきた話を、帰り際にまた最初から説明するのが煩わしかった。もう話疲れしていたからだ。面倒に感じた私は「知りません」とだけ答えた。それだけだ。目など泳いでない。「そう見えた」と強調するのは彼らが記事を書く際の手口だ。数日後、その隠し録りしたモノを記事にしたと山本が連絡して来たのだ。やり方が卑怯で姑息で悪どすぎる。山本は、一回目の時、

「ASKAさんの男気に感服いたしました。」
「もう、2号目はないですよね?」
「ありません。」

そう、言い残して帰った。しかし、2号目は出た。記事発売後、私は山本にメールを出した。

「あの掲載は、了解を得ずに「隠し録り」をされたものです。
相手の許可なくプライバシーを公開したのです。
これは違法です」

そして山本から返事が来た。

「今後、御社が小誌を提訴する可能性も充分おありだと思いますので、そのあたりは私の独断で明言はできません。飛鳥さんも事務所に所属しておられるのでお分かりだと思いますが、このような事態になってしまった以上、私個人というより今後は会社の判断になってしまいます。」

逃げた。実に都合の良い記事だった。前号の自分たちが掲載した間違いだらけの記事には一切触れていないのだ。私がリップサービスで「文春と言えば、しっかりとしたポジションがあるじゃないですか」などと喋ったことは、ちゃっかり記述している。お笑いだ。その上、隠し録音したものを自社のネット有料会員へ5編に渡って無断公開した。盗聴したものを世間にばら撒いたのと同じ行為だ。これは立派な犯罪なのだ。有料会員になどなるはずもない私は、それを聞いてはいないが、社長の尾崎が確認した。文春のこれまでのやり方を振り返れば「これは取材ではありません、お断りします。」の部分は決して流してはいないだろう。また、その日文春には「誰にも口外しない」という約束で、私が元気であることの証明も兼ね、友人ミュージシャンと共作したデモ段階の楽曲を聴かせた。我々が時間をかけて制作した自信作だ。山本は、私が留置されているところへ、手紙を寄越した。「涙が出そうになりました」と書いてきた。しかし、文春はこの隠し録りで得たその未発表楽曲をフルサイズで許可なく有料会員に公開した。一切のエクスキューズも無しにだ。モラルも当然、極めて悪質な著作権侵害だ。そんなことが許されるとでも思ったのだろうか。ジャーナリスムにおいて事件性のあるものを独断で記事にするのなら分かる。こと、その未発表楽曲に於いては事件性など孕んではいない。完全なる違法行為だ。これで、我々が敗訴するようなことになるなら、この日本国の司法制度は機能をなさないということになる。ためらいもなく約束を破る。自分らの利益のためには手段を選ばない。下世話でハレンチな行為、この上ない。これは時期をみて必ず法的な処置をとる。並び[FLASH]「女性自身」にも名誉毀損で多大な損害賠償金を請求する。私の勝訴は約束されている。文春に於いて、この私の法に訴えるという手段は勝訴するのが目的ではない。こういう悪行を行う悪徳週刊誌であるということを世間に知らしめるのが目的だ。その後も直接メールや手紙で、

「応援している。本誌に気持ちを語って欲しい。力になりたい。」

と送ってきた。漫才の閉め言葉「もう、ええわ!」を呉れてあげたい。文春にはお伝えしなければならないことがある。それはこうだ。貴社の利益に協力するつもりは一切ない。そして、これだけははっきりしておきたい。私は裏社会との黒い交際などというものはない。接点は持ってしまったが、騙されただけだ。裏社会からネタを高額で買って記事にした文春の行為は咎められないのだろうか。正座した社会から文春は一直線に糾弾されるべきだ。行為のすべてを利用された。今回の私の事件で「真実を伝える情報誌」のような顔を世間にアピールしたが、知って欲しい。自分がやられたからと言って、非売運動を投げかけるような幼稚な真似はしない。そのようなみっともない行為はしない。伝えなければならないのは、文春が闇社会と繋がって連絡を取り合っていたという事実だ。調査済みだ。こちらにはその事実を記録したものがある。上記したことが証明するように、文春は極めて悪徳で極悪な週刊誌だ。私は、基本的に週刊誌の取材は受けないスタンスだ。これを書くと媚を売っているようで非常に抵抗があるが、以前「週刊○○」の取材を受けたことがある。その時の、驚くほどの紳士的な対応と記事の忠実性から週刊誌というものに偏見を持ってはならないと意識を変えた。大きな間違いだった。週刊文春は真逆の週刊誌だ。決して近寄ってはならない。それを知った上で読んで頂きたい。私の勇気は遥か無残に打ち砕かれた。

さて、これを書いたことで、これから私は文春のターゲットとなるだろう。悪意の対象とされるだろう。しかし、私には歌がある。歌は魂と情熱の結晶だ。純粋に取り組んでいる。恨みや憎しみに情熱や純粋が負けることはない。電車の中刷り広告や新聞のラテ欄の見出しで、私は一時的なダメージを受けるだろう。しかし、ネットの拡散の威力を見くびってはいけない。週刊誌はその名のごとく記事に持続性はない。だが、ネット上のこの文章が消えることはない。日々、広がって行く。やがて裁判を迎えれば、この本は一気に脚光を浴びる。話題になれば他の大勢のメディアが取り上げるだろう。そうなれば、さらに読者は増える。私がこれ以上語る必要はなくなる。後は、悪徳週刊誌の名が一人歩きするだけだ。この本を削除して欲しいならば、相談には乗ろう。そのくらいの許容は持ち合わせている。ネットによって、ひとり対企業が戦える時代になった。1アーティストを執拗に責め続けるのは、みっともない姿を自ら世間に晒け出すことになるだけだ。そうなった時には、今度は私から言ってあげよう。

「応援している。私に気持ちを語って欲しい。力になりたい。」

2016年01月05日
私は、上の流れに間違いが起こらないよう、03日文春の山本に、この「週刊文春」の章だけをメールで送った。お互い、誤解や間違いなど相違点があってはならないからだ。本来なら、そういうことをする必要はないのだが、私は文春とは違う。すべてストレートで行きたい。その夜、山本から返事が届いた。まず最初に「お会いしたい」と言ってきたので、それを断った。「事実誤認の部分がある」のだと言う。近々、この文章をネットに掲載することをも伝えた。そして、事実誤認の箇所を文書で取り交わすという約束をした。どこが違うのか知りたかった。その後、何も返事がなく、文春はこの文章を元に会議に入った。文春お抱えの顧問弁護士らと打ち合わせをしたのである。05日、山本からメールが届いた。「事実誤認の部分が多すぎて、とても文書では送れない」のだと言う。変じゃないか。最初のメールで「事実誤認の部分がある」と言ったのは、山本だった。「部分がある」ということは、日本語では「数カ所ある」と受け取るのが普通だ。会議後に「事実誤認が多すぎて文書では送れない」と、発言を変えてきた。おそらく、言い訳のための会議をしていたのであろう。作戦会議をしていたのだ。これの掲載後、文春は私を陥れるために特集記事を組むかもしれない。あらゆる手を使って来るだろう。構わない。動じない。私は、すべて本当のことを書いた。文春が反論記事を書いてきたときには、どちらを信じるか、皆さんの判断にお任せしたい。私は、反論記事が出た方がありがたいと思っている。これに興味を持った読者が増えるからだ。人には種類があるように、文字にも種類がある。文春など読んでいると、文春のような種類の人間が形成されてしまう。私は、二度と読むことはないだろう。「私は」だ。皆さんに文春を笑って読める懐の深さがあるならば、どうぞ楽しんでいただきたい。文春も歴史を持った週刊誌だ。それは認めている。文春には、この危機を乗り越えて欲しい。文春は相手を間違えた。ただ、それだけのことだ。

信じることが楽さ

潮が満ちるときに 人は鳴き声を上げて
潮が引くときに 人はこの世を去る

僕は迷いもなく 遠い星を数えて
深い深い夜を 愛おしく思う

昨日が行きて また今日が来るのさ
何をなくした

疑うことは寂しいことなんだ
人を信じることが楽さ

くじを引くように いくつも道を探して
走り終えないうちに 答えを求めちゃう

忘れてしまった 遠い約束事を
誰に謝れば 僕はいいのか

どんなに離れても 僕は帰って来る
その繰り返し

両手でポケットを まさぐって歩く
道はいつでも僕に新しい

悲しみの言葉を 綴ることのないよう
水たまり避けながら 行くことが苦手で

疑うことは寂しいことなんだ
人を信じることが楽さ

15.エクスタシー

2013年11月27日。
楽曲制作の進み具合が良い。この調子で行けば新曲は40曲を超えるだろう。こんな量産体制は鍵盤楽器を覚えた頃以来だ。あの時と違うのは、歌詞も出来ているということだ。これまで、私のデモトラックに歌詞が付いていることは考えられなかった。

その日は。朝起きて何気に衣装部屋へ入り、服を眺めていた。ふと皮のジャケットが目に入り、

「これ、いつ買ったやつだろう。」

と、手に取り袖を通してみたのだ。意味なくポケットに手を入れてみた。すると四角いビニールのようなモノが手に当たる。予備のボタンが入っているのだと思った。それをポケットから取り出す。すると、そこには覚せい剤が入っていたのだ。思い出した。以前、小分けしてどこに置いたかわからなくなっていたやつだ。あの時、無くしては不味いと随分探し回った。こんなところにあったのだ。その時捨てればよかったのだが、今では手に入れるのが困難なモノ。私はその時履いていたスウェットのポケットにそれを仕舞い込んだ。私は、そのまま地下の仕事部屋の書斎に入った。それを取り出すとしばらく眺めた。音楽は精神の喜びだ。自分をここまで育ててくれたのは音楽というデモクラシーだ。人としてのあり方という抽象的な正義は法律によって縁取られている。行為は火種だ。一度炎になると有が連鎖してゆく。天使と悪魔は兄弟だ。岩のような隔たりでふたつに分けられているのではない。どこから天使でどこから悪魔なのか、ふたつはグラデーションのように繋がっているだけなのだ。私は釣り糸に釣られた魚ように抵抗していた。しかし、脳に記録されてしまったものは悪魔の滴りのような音を立てて全てを支配して来る。判断は存分に踏みにじられ、心の屋根が剥がされてゆくのが分かる。自分はこんなにも脆いのか。私は目の前にあったプロポリスのスポイドのゴムの部分を外し、パイプを作った。いつだったか、これはパイプになると思ったことがあったのだ。そのスポイドの先をビニール袋に入れ、騒がない結晶をパイプの先端に押し込んだ。そしてそれを捻るように引き抜くと、忠実な兵隊のようになったライターで炙った。薬物の怖いところは常用性もあるだろうが、強い意志を難なく飲み込んでしまうところにある。約8ヶ月ぶりだった。久しぶりだった。一口吸うと髪の毛が逆立つのが分かる。二口目からは、もうそれは起こらない。そしてその日、盗聴していた彼たちのツイッターやブログでは号外が出た。

「お帰り。」「戻って来ると信じてた。」「やっぱり、止められないんだねぇ。」「エスには勝てないねぇ。」
「エス」というのは覚せい剤の俗称だ。いったい、いつまで盗聴盗撮を続けるつもりなのか。収まらない感情が湧いた。

元々量が少なかったため、それはすぐに無くなった。しかし、そんな量ではあったが、身体は摂取していた頃の身体に戻ってしまった。やらなければいいのだ。そうすれば彼たちを喜ばすこともないだろう。だが、やっていようと、やらないでいようと私の私生活はゲームにされている。私はパソコンの前で、これ見よがしに吸引をした。これで証拠が取れるならば、それで良いと思ったからだ。私がそれを使用すると、瞬時に「今、ツコタ」と書き込まれた。ターボライターの音を聞いているのだ。「ツコタ」とは「使った」という意味である。(このゲームで)「アイツは眠らずの薬を持ってるからなぁ」と書かれる。「ネズ」とも呼ばれていた。「眠らない人」というニックネームだ。先日、確認したのだが、それまで私がCD-Rに保存してきたページは、すべてが削除されていた。現在では、書き換えられたものが存在するのかもしれない。私が友人の死について証拠集めをしていた時、友人が自殺する前の数ヶ月。2008年の後半から2009年の初頭のページは削除されていた。なので、その時期の証拠だけがないのだ。しかし、その掲示板以外で、殺人と関係性のある書き込みやページの消し忘れが多々残っていた。全てを記録した。自殺した友人はゲームにされ、追い詰められていた。その削除された掲示板では、自殺した友人を噂し合って楽しんでいたのだろう。すでに削除されているページだが、実のところ、本当は削除されていないと思っている。警察などが、どこをどう調べても辿り着かないサーバーやフォルダに現存しているのだと思っている。そういう光景に出会ったことがあるからだ。いつか、ボロを出すだろう。彼たちの仲間意識は永遠ではない。そのうち、必ず仲違いを起こす。そして、いつかこの事実を語る人物が現れてくるだろう。

何度も繰り返すが、私は覚せい剤が気持ち良いと思ったことはない。目が冴えて起きていられるのだ。「必ず、この殺人盗聴ゲームを暴いて見せる」。そんな一心だった。6年間苦しませられて来たのだ。スタッフは私が病気だと言う。どれだけ説明しても、まともに向き合おうとしない。私ひとりで戦って行くしかないのだ。後で分かったことなのだが、社長から私の主要スタッフに「盗聴話には一切反応しないように」という指示が出ていた。どうりで、誰も動かないわけだ。ネットでは、

「オマエじゃ、無理だよ。」
「スキルが違うんだから諦めろ。」
「追いかけてないで、自分の仕事をしろよ。」
「いつまでも死人縛りするんじゃねぇよ」

こう、書き込んでくる。「死人縛り」というのは、私が友人の死を戦いの材料にしているという意味だ。彼たちのアキレス腱は死人を出してしまったという事なのだ。私の発言を恐れている。それに関しては異常なほど敏感になっている。私がこれを書いたことで、彼らが報復をしてきたときには、躊躇せず実名、証拠、資料を世の中に公開する。ひとりの人間を死に追い込んだ殺人集団だ。おそらく、この文章が公開されれば、ネット上は「ASKAはポン中で頭がおかしくなっているんだろう」や「盗聴盗撮なんてあるわけがない」など、起こった事実を茶化したような書き込みが溢れるだろう。彼たちの仕業だと思ってまず間違いない。総力をあげて火消しにかかるだろう。彼たちは幾つかの組織に別れたグループだ。人海戦術でネットに書き込むのは目に見えている。どうか騙されないでほしい。彼らこそが殺人集団だ。

私のパソコン歴は長い。しかし、それは操作する事ができるというだけで、パソコンのことは何も知らない。無知と言っても良い。
何事にも「専門」「土俵」と、いうのがある。楽曲を生み出すことについては、彼たちは私に勝てない。同様に、コンピュータ関係ではプログラマ相手に私が戦えるわけがない。私に残されているのは、プログラマたちのイージーミスを待って、それをすかさず保存するということだけなのだ。ひたすら時間を費やしてそれが起こるのを待つ。イージーミスとは、私を「AS」や「ASKA」そして本名を書いて噂をしているページの消し忘れや、仕事の内容について我々しか知り得ない情報を書いてしまっている記録だ。辛抱強く張っていれば、必ず彼たちの仲間内の誰かがそういうミスを犯していた。

こういうこともあった。私は、東北の大震災の時にチャリティで「上を向いて歩こう」と「廃墟の鳩」の録音をした。当初、「上を向いて歩こう」が先行リリースの予定であったが、著作者との話し合いに時間がかかり、リリースが暗礁に乗り上げた。急遽、スタッフ間での打ち合わせとなった。場所は、私の家の仕事部屋だ。長い話となった。幸い2曲録音してあったために、2曲目に録音してあった「廃墟の鳩」が第一弾リリースに決定した。急いでいた。少しでも早く大変な目に遭われた方々の力になりたいと思ったからだ。そして数時間後、盗聴チームのツイッターを見たら、「なんだ。結局『廃墟』かよ」と書かれてあった。私が、観覧していることを、彼たちは知っている。もう、開き直っているのだ。6年間に集めた証拠のCD-Rは相当量に増えていた。確かに、私のこの執着は周りから見れば異常な行動に見えただろう。自分でもそう思う。時間がある限り「ぎなた読み」の解読をやっていたのだ。相手のグループの幾つかは特定できている。しかし、向こうは組織だ。自分たちのフィールドだ。例えイージーミスを犯したとしても、書き換え、削除、そしてしらばっくれる事ができる。警察のサイバーにも相談したが、残念ながら警察では太刀打ちできない。頼るところはどこにもない。それでも裁判に備えて証拠は増やしておかなくてはならない。1日も早く「心穏やかに生活したい」「音楽をしたい」。そればかりを考えていた。

私は、ロンドンのクラブで体験したあのエクスタシーの解放感を思い出していた。以前は、この国でも処方されていた薬だ。

「こんな時こそ必要じゃないか」。

そんな風に、私の思考は間違った方に動いた。どんな理由であれ、ダメなものはダメなのだ。それが法律だ。しかし、私は柳田に電話をしてしまった。私には強さも弱さもある。弱さが顔を出した瞬間だった。

「おう ASKA。久しぶり。何年ぶりやろ。連絡来るのをずっと待ってましたわ。」
「ごめんごめん。柳田さん今日会えるかな?」
「夕方には行きますわ。」
「じゃ、待ってます。」

とうとう連絡をしてしまった。運命が仕上げに来ている。いつも柳田への謝礼は私から渡した。1回3万円だった。決して要求されたものではない。私の所為で売人とされ、実刑3年を受けることになった柳田には、本当に申し訳なく思っている。

3月下旬。私がこうなったのはどうしてだろうと思っていた。全ては96年のロンドンでの、あの1回から始まっている。報道では警察の間違った発表で、96年からずっとドラッグをやっていたように書かれてしまった。一度植えつけられてしまった情報を塗り替えるのは困難だ。それには警察の広報の訂正が必要だ。

私は柳田にマンションへ来てもらうよう頼んだ。電話だと盗聴されてしまうからだ。

「何ですの?今日は。」
「柳田さん、以前エックスティシーというのがネットにあったんだけど、それ手に入らないかな?」

違法でない方が良いと思ったからだ。他に違法なものをやっているという負い目が私にはあった。

文春の記者を家に招いた事件以来、私の発言、行動は全てにおいて否定されてしまうようになっていた。私のアイデアや勘は次々に押さえつけられた。医者が私へ下した「鬱病」を、周りが信じてしまっていたからだ。実は「鬱病」は、アルバム「SCRAMBLE」の制作中に別の医者から言い渡された病名だった。精神科医に盗聴話をしたために、医者からそう判断されたのだ。

「精神が病んでいては、物事を順序良く並べたり纏めることができません。アルバムやコンサートなどは、絶対にできません。断言します。今すぐ活動の中止を勧めます。」

私は逆らった。そして、私は「SCRAMBLE」を作り終えて見せた。全国プロモーションも積極的にやった。「盗聴盗撮」を口にしただけで杓子定規のように「精神病」とされてしまうことには大きな反発がある。同じような思いをしている人が全国にはいるだろう。精神分裂病とされてしまっている。気の毒な話だ。もっと「現実」「事実」を患者の立場に立って診るべきだ。様々なデータ、経験則により、私を「精神病」と判断したのであろうが、物事には例外というものが必ずある。私は例外だ。時代、テクノロジーは遥かに進んでいる。盗聴盗撮の事実はあるのだ。

集団に監視されているということで、私の精神は疲労していたが、精神力は人並み以上にあると信じている。「SCRAMBLE」が完成した時、いちばん驚いたのは医者だった。そして、「コンサートはやれるわけがない。責任は持てない」と語った。私は、その懸念された「ロケットツアー」を一気に駆け抜けた。私は病気ではない。見えない相手と戦っているだけだ。

「ほな、電話してみますわ。」

柳田は二つ折りになっているガラケーを開け、相手先に電話をした。

「エックスティシーってありますか?いま無い?後で電話する?ほな、待ってます。」

私たちは、電話を待った。

「エックスティシーは何個要りますの?」
「10個あれば十分。」

15分ほどして電話がかかってきた。

「ああ、そうですか。10個下さい。え?10個ではダメ?ちょっと聞いてみます。」

一度電話を切って、柳田は尋ねてきた。

「10個ではダメらしいです。最低でも50個かららしいですわ。」

私は、それはエックスティシーではなく、エクスタシーではないかと思った。それにしても50個は多すぎる。しかし、そうでなければ手に入らないのだ。

「分かった。それで良いです。」

それじゃと、電話をする。

「50個で良いと言うてはります。え?100個?」

電話を置いて私に問いかけてきた。

「今度は、100個でなければ売らない言うてます。」
「1個、いくら?」
「1個いかほどですか? 5千円?」

100個で50万じゃないか。しかし、私はしぶしぶOKをした。

「100個もどうしますの?」
「柳田さん、半分上げるよ。」
「いや、私は一切やりませんわ。」
「そうだよね。オレも100個など要らない。10個でも多いぐらいだから。」

ロンドンのクラブで体験した解放感は厳然と身体の中に残っていた。あの多幸感、解放感。一度脳が覚えた刺激は二度と忘れることがないとはこのことだろう。少し、少しの時間でいい。その時、私の自分自身への制御は働かなかった。もう一度言う。弱さだ。

柳田は、その日の夜に持ってくるという。運命に人生を捧げたような気持ちになっていた。「冷たいの」という俗称で抵抗なく使用してしまった覚せい剤は、自分自身のどこかに被害者意識があった。「騙された」と思っていたからだ。しかし「MDMA」は最初から違法だという認識がある。それでも入手しようとしている。これは免れもなく罪だ。外国には混ざり物ではない純度の高いMDMAを医療薬として処方しているところもあるらしいが、ここは日本だ。心は大きく揺れ動いていた。

夜8時過ぎに電話が入った。

「いま駐車場の前です。」

私は、慌てて部屋を出た。柳田はお菓子の入ったコンビニの袋を私に手渡した。お金を渡す。

「タクシー待たせてますから、これで失礼します。」

柳田はすぐに帰って行った。部屋にはバンドメンバーが居た。デモを制作していたのだ。私はそのコンビニの袋を書斎に置いた。その日、作業は朝の4時頃に終わった。私は書斎に置いてあったコンビニの袋からお菓子を取り出し、箱を開けた。その中にはビニールに、はち切れんばかりのエックスティシーが詰まっていた。間違いなくMDMAだろう。パッケージされていなかったからだ。ネットで観たエックスティシーは2錠1組にパッケージされていた。

「いまから飲めば、6時過ぎにはしらふになるのか。」

それから眠れば良い。私は1錠をコーラで飲んだ。それは40分を過ぎた頃やってきた。目頭が熱くなってきたのだ。しかし、その状態が10分ほど続いたかと思うと、すぐに元どおりになってしまった。こういうストリートものは、1錠毎の成分にムラがあって当たり外れがあると聞いたことがある。その日のエクスタシーはハズレだった。

翌週、また真夜中に飲んでみた。やはり40分ほど経つと目頭が熱くなって終わってしまうのだ。あの頃のものとは成分が違うような気がした。2個飲んだ日もあったのだ。結局、逮捕まで8錠を使用していた。

逮捕後、真澄の毛髪からMDMAが検出されたと聞いた。大間違いだ。真澄は何も知らない。真澄には見せたこともない。もう数年前、一度だけ知人から貰った「気分がリラックスできる」というナチュラルハーブを半分にして分け合ったことがある。最初、真澄は抵抗したが、私が安全であることを強調したために、しかたなく付き合った。しかし、その時真澄が嘔吐したので、それ以来一切真澄には何も与えていない。私がMDMAを大量に持っていたことで、一緒にやったに違いないと疑われたのだ。1回目の毛髪検査が間違っていたのだと思う。現に2回目の検査では何も検出されなかった。私の調べた限り、検査を2回行うということは極めて異例のことだ。1回目の検査後、それを行わなくてはならない理由があったのだ。もうすでに、何の罪もない一般女性の名前や顔を発表してしまっている。今更「無実」では、大失態となる。
または、真澄の供述に信憑性を感じた警察が、犯罪者にしてはならないと考え、公正な判断をするために再度検査を行ったか。私には、そのどちらかの判断はできない。

私の取り調べを行った刑事は、私のことを最後まで「あなた」と呼んだ。感情的になる場面もあったが、決して高圧的な態度は取らなかった。
50日間の取り調べでは、終始紳士的に接してくれた。刑事である自分の職業に誇りを持っていた。自分の職業に誇りを持つことは、なにより素敵なことだ。今振り返れば、私はあの日逮捕されて良かったのだと思っている。あれがなければ、私は確実に薬物中毒になっていただろう。しかし、全てを失ってしまったこの状況下では、さすがに感謝という言葉は、まだ使えない自分がどこかにいる。その代わりに、これからも歌を歌うことができるようにと、神様の描いたシナリオだったのかもしれないという気持ちからの感謝は生まれている。そして警察には心よりお願いしたいことがある。私の書斎でMDMAを砕いた粉末状のものが発見されたと発表した。その発表により、私が真澄に一服盛るための手段であったかのような記事が世間に広まってしまった。しかし、後に科研の検査で、それがMDMAではなかったことが証明された。なぜ、その事実を発表してくれなかったのか残念でしょうがない。世間には私が一服盛ったというイメージが植え付けられてしまった。

この本を書く上で、間違ったことを書いてはならないと思い、真澄とメールのやり取りをした。取材をしたのだ。ある日、真澄は,

「あなたたちは打ち合わせをしている。あまりに同じことを言いすぎている。細部まで同じだ」

と、迫られたのだと言う。打ち合わせなどしていない。お互い、記憶の限り正直に語っていただけだ。あまりに同じことを言いすぎたために、何度も何度も同じ質問を繰り返された。それがいちばん苦痛だった。

「なぜ、真澄さんのことになると、そこまでムキになって否定するんですか?」

と、言われたが、事実真澄は何もやっていないからだ。強調するのは至極当然のことだった。それが、逆に疑いを持たれた原因となった。そして、真澄とのメールのやり取りの中で、看過できない話が出てきた。真澄は、検事調べのときに付き添った刑事から「あなたはやっていないと思います」と、言われたという。しかし、結局犯罪者とされてしまった。その刑事は、何かを知っていたのだろうか?なぜその言葉を投げかけたのかの真意を知りたい。

風景が僕をためしている

「あんまり遠くの方へ 行ってはいけませんよ」
「帰る道をきっと間違えてしまうから」 
僕は言いつけを守った

鏡の前に立って右手を上げた
左手の逆さの国

同じ本を読んでみた 引き込まれるのはなぜだ
同じ道を歩いて行くのは 小さなためらいばかりが
心に強く生まれてしまうのに

いつしか広い道へ出るようになった
角があれば好きに曲がるようになった 
僕は選ぶようになった

ゆるりと見上げる登り坂がある
陽気な勇気ちからで

ここを越えたところに いつだって何かがある
たとえ痛みが待っていようとも 空に近づいてゆける
心の街が見られるはずだから

風に追われた 風に押された
風景が僕をためしている

ここを越えたところに いつだって何かがある
たとえ痛みが待っていようとも 空に近づいてゆける
心の街が見られるはずだから

16.逮捕

2014年5月17日。私の前に立ち塞がった男たちは真っ直ぐ私を見つめ微動だにしない。見つめ返した私の目には日光が集まっていた。

「どなたですか?」
「警察です。」

私服警察だった。刑事だ。私はタクシーを拾うはずであった場所に止められていた一台の車に乗せられた。私が車に乗ると、男たちは更に人数が増え集まってきた。8人ほどいる。真澄のマンションにはエントランスが二カ所あるので、両方のエントランスで待機していたのだろう。私は後部座席右隅に乗せられた。そう言えば真澄が、

「最近、朝会社に行く時変な男の人たちが居るの。マスコミとか音楽関係者、芸能人のマネージャーという感じではないの。」

と言っていたことがあった。すでに張り込みをしていたのだ。助手席に乗った刑事が携帯電話を取り出して言い放った。

「7時○○分。容疑者確保。容疑者確保。」

全てを失う時間の始まりだった。

「どういうことですか?」
「裁判所からおふたりに逮捕状が出ております。」

何も書かれていない本を黙って読んでいるかのように、私は落ち着いていた。落ち着いていたというよりも、思考が働かなくなっていたのだ。

「罪状はなんですか?」
「覚せい剤、および麻薬取締り法違反です。」

ガラス越しに見る外の風景は、いつもと変わらない街並みだった。

「いまから、持物を確認させていただきます。コートを脱いで下さい。」

スプリングコートを脱いで渡す。刑事はポケットに手を入れ、中を弄っている。

「カバンを見せて下さい。」

お気に入りのポルシェのカバンだった。白の手袋をした刑事がカバンの中からひとつずつ私物を取り出し、撫でるように確かめている。私は他人事のようにそれを見つめていた。カバンの底のゴミまで丁寧に拾っている。何も出てこない。相手が少し焦り始めたのが空気で読めた。このようなケースでは、ほぼ間違いなく物証がでて来るからだ。

「何にもありませんよ。」

私が言う。本当にそうなのだ。私は真澄と会うとき、絶対に覚せい剤はやらないと決めていた。嵌ってしまうと二度と抜け出せなくなることを知っていたからだ。2010年秋、真澄の部屋に3CPPを数回持って行ったことがある。当時パイプを1本しか持っていなかった。そのパイプでは覚せい剤も吸引していたために、パイプの底に極わずか付着していた覚せい剤と3CPPの混ざり合ったものが、部屋のエアコンフィルターに付着してしまったのだろうが、4年前の数回のできごと。ガラスパイプに付着した程度のものが検出されるものだろうか?その時、真澄が3CPPをとても嫌がったので、もうそれ以降持って行くことはしなかった。そしてカバンのチェックは終わった。

「ズボンのポケットを確かめさせて下さい。」

捜査員が焦り出したのがわかる。捜査員が私のズボンのポケットに手を入れる。逮捕状が出ていなければ「失礼だ」と、拒否しただろう。もちろん何にも入っていない。次に財布を求められた。これは少し問題だった。私は日頃よく金縛りに遭ったりするので、厄避けのために財布の中に塩を入れて持ち歩いていたのだ。ティッシュに包んだビニールのパケの中に入れていた。刑事はそれを見つけると一瞬攻撃的な沈黙を放った。

「これはなんですか?」
「塩です。」
「そうですか。塩でしょうねぇ。」

追い詰めるように丁寧な言い方をする。

「いまからこの液体に、その塩とやらを入れます。これが青色に変化したらこれは違法薬物ということです。いいですか、よく見ていてください。」

刑事はそれをひとつまみ摘むと、液体の中に落とした。全員が固唾を飲んで見つめた。液体の中に白いものが散らばる。小さな龍のようになって溶けてゆく。反応はない。無反応だ。車中に脱力感が充満した。その空気を切り替えるように、

「いまから署までご同行願います。」

その日私には大事な約束があった。昼の12時にどうしても会わなければならない人たちがいたのだ。もう1週間ほど前からの約束だった。大阪から駆けつけている。

「困ります。今日人と会う約束があります。」
「無理です。」
「それが終われば、必ず出頭します。逃げることはありません。」
「無理です。」

取り付く島がなかった。助手席に乗っていた刑事が電話をかけている。

「これより家宅捜査お願いいたします。」

私の自宅では家宅捜査をするために警察が待機していたのだ。私は弁護士に連絡を入れ、そのまま湾岸警察署に連行された。

そこは6畳ぐらいの一室だった。私は椅子に座らせられた。スチールの机の上にはコンビニで貰う袋のようなものが、空気を詰めた風船のようになって転がっている。それには黒のマジックで「フェニルメチルアミノプロパン」と書いてあった。知らない言葉だった。
ひとりの刑事が部屋に入って来た。その袋を指差し、

「フェニルメチルアミノプロパン。これ意味分かるね?」
「いえ、分かりません。」
「覚せい剤ということです。真澄さんの出したゴミの中から採取したものです。」
「これから尿を採ります。」

私はトイレに連れて行かれた。トイレから出て紙コップを渡す。
そしてそのまま私は留置された。50日間の長い取り調べとなった。

オレンジの海

僕らが生まれたあの頃は 空き地だらけの遊び場所
夕暮れに鳴り響く工場の 
サイレンの音合図に僕らは家に帰った

砂利道走って 温かいご飯まで
空にはオレンジの海

生きてるっていうことは 模様がいっぱい
スーツを壁に掛けながら 写真見てる

折り紙たたんで紙の鳥 お腹が上手く膨らまない
真夜中に動き出すおもちゃたち 
息を潜めて待ったけど何も起こらなかった

地球が丸いって いつ知ったのだろう
夜行列車が声を上げる

生きてるっていうことは 模様がいっぱい
パソコンのキーを叩いて 明日に追われる

玄関前の道に 水を振り撒いて
父親の帰る時間を ずっと待ってた

生きてるっていうことは 模様がいっぱい
机のデジタル時計 今を刻む

生きてるっていうことは 模様がいっぱい
机のデジタル時計 今を刻む

17.裁判

私は病院を退院後、約2ヶ月間群馬県の藤岡ダルクへ入った。ダルクとは民間の薬物依存症リハビリ施設で「どんな薬物依存者でも必ず回復できる」という希望のメッセージを伝える活動を行っているところだ。全国に施設がある。私には薬物依存の症状はなかった。ダルク入りを拒んだが、担当医師から強制的に入寮させられた。そこは山中にある元ホテルを改造したところだった。スタッフも薬物依存から立ち直った者ばかりだ。入居者とスタッフの信頼関係は厚かった。週刊誌によると、私が2ヶ月でダルクを逃げ出したと書いてあったが、最初から2ヶ月間で決まっていたのだ。正月は家で過ごしたかったからだ。以後、今までずっと家に居る。1ヶ月に1度、身体を壊している母を見舞いに福岡に帰るのと、大阪在住の弁護士に会いに行く時以外は、ずっと家にいる。

楽曲制作に明け暮れる毎日だ。外で生活しているなどと書かれているが、モニターや監視カメラに映るマスコミ相手に返答するわけがない。また、娘は結婚もしていないし、離婚もしていない。アメリカに行ってもいない。親の目からではなく、1アーティストの視線から驚くような楽曲を書くようになった。「ダルク」のクリスマスパーティで、田代まさし氏の呼びかけにより、私が「SAY YES」を歌ったなどという事実もない。1000人を超えるパーティ参加者のひとり足りとも、そんな発言はしていない。飲み屋で私がしつこくOLに迫っていただとか、18年間コールガールたちと関係があっただとか、全くもってバカバカしい。真澄が私に「愛人手当を出さなきゃね。と言われた」という事実もない。彼女が夜中じゅう踊りまくっていたなどというのも嘘だ。男性の膝の上に乗って猫撫で声を出していたなどという話も作り上げられたモノだ。私ならまだしも、一般人をどこまで苦しめるつもりなのか。昼のワイドショー○○などは大きな賠償金額を請求されても当然な内容の放送をした。メディアの自覚を持て。私の目に飛び込んできた記事は何もかも嘘なのだ。すべてメディアのでっち上げた事実だ。どこかのメディアが作文した記事を、裏も取らずそのまま引用して行くから始末が悪い。

私にはもう20年来お付き合いさせて頂いている○○という大企業の代表がいる。いつも日本の未来を本気で考えている方だ。その代表が主催するパーティに何度も出席させて頂いた。この国を動かしているベンチャー企業の代表や多くの政治家などが集まる。私も1アーティストの立場から発言させて頂いた。パーティでは、時に党の違う政治家などが熱く語り合う。とても勉強になった。そのパーティでは、その代表の下で働いている清楚な女性社員たちが一生懸命アテンドをしてくれる。社風であろう。見事に教育されていて、嫌な思いは一度もしたことはない。素晴らしい社員たちばかりだ。週刊誌には、そのパーティのことを「女体盛り接待」などと書いていたところがあるが、とんでもない。目の覚めるような集まりだ。私は、その代表を心から尊敬している。その真正な集まりを揶揄するような記事に出会すと、自分のことのように腹ただしくなる。
私の目に止まっていないデタラメの記事はまだまだあるだろう。

だが、私にはメディアを喜ばせる失敗がひとつあった。公判での出来事だ。私は病院で投薬されていた薬のせいで思考がままならず、終始ボーっとしていた。予め打ち合わせをしておいた顧問弁護士の反対尋問でさえ、答えが出てこないのだ。そのため声も小さかった。そして検事質問に移った。これは、何を聞いてくるか分からない。ありのままを正直に答えるしかない。そしてそれは最後に起こった。

「それでは、最後にいたします。真澄さんのことは好きですか?」

嫌いなわけがないのだ。こうなったからと言って嫌いになる理由はない。「好きか」「嫌いか」という二択で迫られたのだ。

「好きです。」

と、答えた。それは恋愛感情という偏った方向からの答えではない。嫌いではないから「好きだ」と答えた。

「どんな存在ですか?」

これもそうだった。私を大事にしてくれる全ての人の中のひとりだ。
近くで、励ましてもくれた。私はこれまでの事を振り返り、

「大事な人です。」

とだけ答えた。
メディアは裁判そのものの内容よりも、ここを強調して「未練がある」「未練がましい」と報道した。メディアには格好の材料となった。

また、第2の女についても語っておきたい。前述したが、その昔一度だけ3CPPを一緒にやったことのある友人だ。久しぶりに会おうかということになった。その時、あの日の3CPPを思い出した。なぜか、ふと手元にあったモノを持って行ってあげよう思ったのだ。珍しいものだ。案外、喜ぶかもしれないなどと、バカなことを考えてしまった。彼女なら秘密も守れる。私は彼女のスケジュールを聞き、彼女がこんこんと眠られる日があることを確認して持って行った。やってはならないことだった。彼女はそれを3CPPか何か、または合法のハーブ類だと思ったのだ。

「これは何?」
「覚せい剤。」
「嘘だね。」
「本当だよ。」
「ありえない。」

私が持って行ったものは信頼していた。マズイものはやらない人だという信用もあったのだろう。彼女の家に行くのは初めてだった。新しい土地に立ったマンションだったので、ナビに載っていなく探すのに時間がかかった。盗聴されているので電話を持って行ってなかったのだ。電話さえあれば電話でナビゲートしてもらえた。その日の会話は、私の盗聴の話で終わった。短い時間だった。彼女は信じてくれた。後に、その日張り込んでいた刑事に話を聞くと、家を出て彼女の家から帰って来るまで2時間ほどだったと聞かされた。

同様に語られたモデルの存在については真澄の友人が憶測で語った話がマスコミに流れた。裁判で真澄はそれを問われ「悩みの種だった」と答えた。真澄と一緒に居る時に限ってメールや電話が入ったりしたからだ。真澄との間でモデルの話になると、私はいつも笑って対応していた。そんな存在ではない。事実マスコミも懸命になって追っかけたが、それ以上はネタにできなかった。特定さえもされなかった。思うに裁判でそんな話題が出ること自体が変なのだ。裁判は真澄の薬物疑惑であって、痴話話を公開するところではない。焦点がずれていると言わざるを得ない。

また、逮捕時に容疑を否認し続けていると報道されたが、それも間違いで、第一回目の取り調べでは概ね認めている。ただ「アンナ力だと思っていた」との発言があった。それは、やがて続いて逮捕されるであろう吉野との薄っぺらい打ち合わせだった。吉野は取り調べで「あれはアンナカ、合法ハーブだった」と終始言い通した。警察は覚せい剤であったことを、とうとう立証できず吉野は不起訴となった。私がアンナカだったという約束事を撤回したのには理由がある。嘘をつき続けることはできないと思ったからだ。心の真ん中に立ちつづけることは難しい。心の中にも時間はあって、それは時間とともに変化してゆく。変化は自然であり、自然の中で自己を調節する。私の調節は正直になろうということだった。

ダルクを退寮して自宅に戻っていたある日、真澄の弁護士から内容証明、質問状が届いた。真澄を弁護したいのはわかるが、まるで私が真澄に一服盛ったような書き方をしてあったので憤慨した。真澄の弁護側は一貫して責任は私にあるとの弁護方針を打ち立てた。そのとおり、責任は私にある。すべて、私が招いてしまったことだ。真澄のメールも不味かった。どこかで私のことを疑っていたのだろう。「あんなひどいことするんだ。娘には絶対しないことを」「された私が一番分かる。バッグから出してトイレに行くところを見た」。私はこのメールに「嘘だね。想像で語るのは止めて欲しい」とだけ返した。弁護団は真澄の送ったメールを盾に無罪を主張した。あのメールは、私に対して薬物の疑いを持った真澄がカマをかけた文章の一節だった。その後、真澄は法廷で「カマをかけました」と発言した。
また、真澄は初公判で

「私は、覚せい剤を使用したことはありません。第三者に使用させられたものです。」

と、答えた。
そして、裁判官に

「第三者とは誰ですか?」

と、問われ、

「私の周りで覚せい剤をしたのはASKAさんしかしないので、第三者とはASKAさんです。」

と、返した。真澄が、私がやったと答えたのも無理はない。自分はやっていないからだ。後は私しかいない。私は入院先のテレビで、それを複雑な気持ちで観ていた。しかし、後に真澄は弁護団のアドバイスを振り切り、

「ASKAさんは、そういうことをする人ではありません。」

と、答えた。真澄の勇気に感謝した。今尚、解せないことがある。真澄の尿から覚せい剤が検出されたことだけがどうしてもわからない。私のなかでは、それはありえないからだ。真澄は、思いつく限りの事を語った。しかし、どれも信憑性に欠けるものだと判断されてしまった。例を並べすぎたのだと思う。「分からないものは分からない」と押し通せば良かったのだ。

真澄の公判が迫ったころ、私は真澄と連絡を取らなければと思い、電話、メールをした。しかし、どれも受信拒否になっていた。後で、知ったことなのだが、パソコン以外電話などいろんな物を警察に押収されていたからだった。万策尽きたかと諦めかけた。その時、昔使っていたウェブメールを思い出したのだ。アクセスしてみたところ、まだアカウントは生きていた。そこでやっとコンタクトが取れたのだ。
以降、私と真澄、真澄の弁護士とのやりとりとなる。

18.メール

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真澄へ

ひさしぶり。メールしかコンタクトを取る方法がないのでそうします。
先日、真澄の弁護士さんから文書が届きました。内容もそうですが、高圧的な言葉が並んでいて、「これがこの人たちのやり方なのか」と。もちろん、真澄が言ってることだとは思っていません。
それを読んだこちらの弁護士も憤慨して「絶対に返事をしないでください」と、言われました。が、しています。真澄が罪を被ってしまったことが辛くて、辛くてなりません。
ごく微量、本当に確認できるかできないかの覚せい剤反応が尿からあったと聞きました。また、髪の毛からはMDMAが検出されたとのこと。オレたち二人でMDMAなんかやってないもんね。
あんな錠剤を、真澄に知らせずに飲ませることなんて不可能。
エアコンから反応が出たのは、昔オレが吸ったせい。尿から出たことだけが分かりません。いろんなケースを考えたけど、やっぱりそれだけが分かりません。
弁護士さんの文書に回答しなかったのは、あまりにも屈辱的な内容で埋められていて、ずばり故意にやった犯人的な書き方をされていたからです。
それでも、真澄のためになることならば、証人でもなんでもやるという気持ちを伝えました。しかし、先ほども書きましたが、こちらの弁護士から「やる必要はありません。あんな文章に応える必要はありません。」と、却下されてしまいました。
応えられなかったことを、未だに苦しんでいます。
オレは一生罪を背負うことになります。
控訴で全てがひっくり返りますように。 Aska
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askaさんへ

askaさん、メールありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。

控訴中なので、askaさんからメールをいただいたことは、
弁護士の先生に内容を口頭でお伝えして、あとで裁判所に口裏合わせととらえられないように慎重に返信文を考えていました。

このメールはaskaさんが書かれたものですか?
私の知っているaskaさんは、このような内容を書かれるとは、とても思えません。ちょっと複雑な気持ちになりました。

弁護士さんの文面が高圧的で非礼だったから。
askaさんの弁護士さんに却下されたから返事を出さなかった。
私の人生がかかっていることなのにあり得ないと思ったからです。
いつものaskaさんなら、誰が何と言おうと自分の意志を貫く人だからです。

もうすぐ控訴ですが、
明日4月9日までに裁判所へ書面を提出しなければいけなくて、
先生方は私の無実を証明するためにと一生懸命がんばってくださっています。
ただ、askaさんに聞かないと証明できないことだらけで、
法廷で証言していただきたいと願っています。

ただ、まずは書面の提出が必要なのですが、
私とaskaさんとのメールのやり取りでは、
口裏合わせをしたと捉えられる可能性が大きくて、
なんの証拠にもならないので、
私の弁護士の黒木先生宛にメールを出していただけませんか。

本当は、
先生方が送った書面の内容に全てお答えいただきたいところですが、
せめてエアコンの部分だけでも、
時間がないので、今日中に先生にメールをお願いいたします。

もし返信を頂けなかった場合は、
askaさんから頂いたメールをそのまま提出するしかないかなと思ってます。
でも無実を証明するためとはいえ、私はそれだけはしたくないです。

askaさんはすぐに保釈されましたが、私が勾留されている5ヶ月もの間、
askaさんとの口裏合わせを懸念されて、弁護士さん以外の誰とも話すことが許されず、支えになってくれる人がいなかった中で、先生方は暑いなか毎日のように面会に来てくださり私を励ましてくださいました。
私が保釈されたときも、たくさんのマスコミが宿泊先まで追いかけてきたのですが、家族ぐるみで守ってくださいました。
もうすぐ1年になりますが、ずっと変わらず助けてくださっています。
本当にいつも明るくて楽しい素敵な先生方です。

askaさん、私はいまだに自分でマンションの契約もできず住むところも定まらない状況です。
仕事にも就くことができないのでハローワークに通ってますが、
名字が珍しすぎるので、名前を呼ばれると周りの人に注目されてしまって、用事のない限りは人目を避けて暮らしています。
名前が呼ばれる病院や銀行に行くのも前のようにはできていません・・・。
でも無実になったら、私も、青森の家族も、堂々と生活ができるようになります。

お願いです。
今日中に黒木先生に、
エアコンから何で検出されたかということについてメールをしてください。
メールをしていただけない場合は、
いただいたメールをこのまま裁判所に提出することになってしまいます。
何度もしつこくごめんなさい。
でも控訴で全てがひっくり返るために必要なことです。
よろしくお願いします。

黒木先生アドレスです。
○○@k○○-law.jp
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真澄へ
                     
返信ありがとう。
もう二度とコンタクト取れないと思ってた。
真実はひとつしかないんだから、口裏を合わせたと思われることを恐れないでいよう。

真澄が罪を背負ったらオレは一生苦しんで行かなければならない。
いまからすぐ黒木先生にメールするね。

思ったことと、有ったことだけを書いてみます。

すべて、オレがやったことなのに何で真澄が罪を問われちゃうんだろう・・。
神様は一番大事なところを見てないんだな。
時間無いからすぐやるね。   aska
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黒木先生へ

こんばんは。

連絡は取らないよう弁護士から言われていたのですが、真澄の控訴も近づいてまいりました。
何とか、お役に立てないかという思いでご連絡させていただきました。

黒木先生。真澄は無実です。

まず、警察がゴミ袋から入手した覚せい剤は、私のポケットやパソコンに付着していたものを真澄が見つけ、ティッシュで拭き取り、そのまま捨ててしまったやつです。逮捕直前はズボンや上着のポケット、カバンなど毎回確認してから真澄と逢っていました。

一昨年の文春騒動直後から、真澄は私の薬物疑惑に神経質になり、私に「信じてるから」と。「もし、そうだったとしたら二度とやらないこと」を誓わさせました。
結果、私は裏切ることとなってしまったわけです・・。
本当に申し訳なく思っています。

逮捕当日、真澄の身体からごくごく僅か、反応があるか無いかの覚せい剤反応が出たと聞きました。
考えられるのは私しかありませんが、なぜそうなったのかどうしてもわからないのです。

髪の毛からMDMA反応が出てるとも聞きました。
私たちはMDMAを一緒にやったことはありません。あんな大粒の錠剤を黙って飲ませることも不可能です。
髪の毛は体内に蓄積されてなければ反応は出ないと言います。ということは何度も摂取したということになります。
断じてありません。真澄が受け入れるわけがありません。
二度目の毛髪検査では、何も検出されなかったとのこと。
それが真実です。

また、部屋の換気扇から反応が出たのは私です。
以前、もう5年以上前になるかと思いますが、私が数回部屋で吸ったものです。
そのとき、真澄から「それは何なの?」と聞かれ、当時併用して吸っていた「3CPPというやつだよ。違法じゃないから」
と、説明しておりました。

このような具合で、どこかが何かの拍子で捻れて今回の事件になってしまっています。
警察の科学捜査を否定するつもりはありません。

しかし、分からないものは分からないとお答えするしかありません。
繰り返しますが、真澄は無実です。

このまま彼女が罪を背負ってしまうようなことになったなら、私は一生苦しんで行かなければなりません。
薬物に対して強く拒否反応を見せていた真澄が薬物の汚名を着せられることは、本人がいちばん耐え難いことと思います。

どうかよろしくお願いいたします。  
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真澄へ

きっと、裁判で読まれるだろうと思い簡潔なメールにしました。
内容に嘘は無いから、真実は伝わると思います。
しかし、警察には警察のプライドがあるので、更に疑問をついて来るでしょう。

真澄にはどう謝っても済む問題ではありません。
もう、○○さんのところで働くのは無理ですか?
いまのところ部屋は前のままですか?

メールを返信してくれて本当に良かった。
少しでも役に立てたら幸せです。

控訴、 頑張ってください。Aska
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askaさん

弁護士さんにメールを送っていただいて本当にありがとうございました。
黒木先生からも返信があると思いますので、
ご対応いただけますようにどうかお願いします。

仕事は、今のままではグループ会社でも、もう難しい状況です。
他の会社はもっと難しいと思います。

お部屋は社宅だったので解約して、
今はウィークリーマンションを転々としています。

やっぱりこれから控訴があるので、
メールのやり取りを控えなければいけないと思いますが、
弁護士さんとのやり取りは、引き続きお願いします。

不安がひとつ解消されました。
ありがとうございます。
                           真澄
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ASKAさま。

当方からのお願いに対して、メールを頂戴しましたこと、依頼者の真澄さんに代わってお礼申し上げます。

ご承知のことと存じますが、真澄さんの事件では、一審での有罪判決に対して、当方から控訴しております。
今の予定では、本日、4月9日が控訴趣意書の提出期限と定められ、5月14日に第1回の審理が行われることになっています。時間がありません。

控訴審といいますのは、一審とは全く構造が違っていて、まずは一審の判決のどこがどう間違っているのかを、詳しく述べた「控訴趣意書」を提出しなければなりません。その提出期限が今日、4月9日なのです。

真澄さんの控訴趣意は、概ね、大兄の証人調べをしなかったという「審理不尽」の申し立てと、事実関係を間違って認定したという「事実誤認」の申し立ての2本柱になる見込みです。

大兄にお送りした、当方からの内容証明郵便にも書かせていただいておりますが、真澄さんは無実を叫び続けており、私たち弁護人も彼女の主張が正しいものだと信じて行動しております。そして、控訴審で無罪判決を得るためには、大兄の協力が不可欠であると認識しております。真実を語っていただきたい、ただそれだけです。

あまり時間がありません。5月14日までには当方から、高等裁判所に対して、事実取り調べの請求、つまり大兄の証人調べの請求をしておかねばなりません。その際に大兄にどのような供述をしていただけるのかを、事前にお会いして、確認させていただく作業が必要となるのです。

つきましては、大兄との面談を希望いたしますので、なんとか実現してくださるようお願いいたします。
大兄からいただいたメールの冒頭に、弁護士さんから連絡を取らないように言われているとの文言がありましたが、その先生とも再度協議していただいて、面談を実現させていただけるようお願いいたします。もちろん、面談していただく際には、大兄の弁護士さんにも同席していただくことで構いません。場所の設定やマスコミ対策については、協議させていただきながら、最善の注意を払います。

真澄さんの裁判は、主任弁護人に女性の弁護士を当てています。真澄さんの悩み事を真摯に理解しているつもりです。

大兄のメールにもある通り、真澄さんは大兄が薬物に手を染めることを極端に嫌っておりました。その上で、大兄を諌めてきました。
薬物は完全に否定して、その使用を容認することは一切ありません。大兄が使用することについてでさえ潔癖で、いわんや自分自身がその使用に手を染めるなどという事態は、まったく考えられないことでした。

まずは私たち真澄さんの弁護士と会ってください。そして、真澄さんの言っていることが真実である証明を高等裁判所でしていただきたいのです。
以上、お願いであります。了解の返信をいだけることを信じております。
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黒木様。

メールありがとうございます。お返事が遅くなりました。申し訳ありません。

今回の間近に迫っている控訴審、他人事ではないので気になって気になって仕方ありません。
いま私が喋られることは、メールで送らせていただいたあの内容がすべてです。

黒木先生にお会いしたいと思っております。
真澄の無実を証明するお手伝いができればなんでもやりたいと思っております。

ただ、ご存知のように私にも弁護士がおりまして、連絡は取らないということで約束しておりました。
信頼関係で成り立っておりますので、連絡は取った、相手の弁護士に会う、証人として出廷するでは納得の範囲を越えることが予想されます。

黒木先生から神本先生に連絡が行くのは覚悟の上で真澄に連絡をいたしました。
まずは、お会いするということだけではだめでしょうか?

その席で、何か突破口のようなものが見つかれば幸いです。
ありがとうございました。  aska
----------------------------------------------------------
真澄へ

真澄とのやり取りを時間系列にして弁護士に送りました。
黒木先生との面会が現実のものとなりますように。

無実になる突破口が見つかればと思っています。
それじゃ、これでしばらくメールはお休みにします。
祈ってるから。   Aska

askaさんへ

askaさん、弁護士さんにご相談いただきありがとうございます。

私の立場とは違って、
いろいろと周りの方のご意見やご事情もあるということはわかってますが、面会しても、しなくても、証人としての出廷を決めるのは裁判所です。
でも私のこれからの何十年がかかってますので、私は面会を願ってます。

今日も近所の勝負の神様が祭られているお寺に、
お参りと、askaさんから返信があったことのお礼にいってきました。

控訴がんばります。
                          真澄
------------------------------------------------------------

みなさんには、これらが口裏を合わせたメールのやりとりに見えるだろうか。2015年7月16日。真澄に控訴審判決が下った。裁判長は一審判決を支持し、真澄の控訴を棄却した。懲役2年執行猶予3年となった。初犯の場合、普通使用者でも1年6ヶ月だ。真澄が、最後まで否定し続けたのを理由に、裁判官は罪を重くした。使用していないのにだ。これは冤罪だ。テレビや新聞などで耳にする言葉だが、まさか自分の人生において冤罪などというものに遭遇することになるとは思わなかった。第1回毛髪検査において陽性反応が出たと発表した。しかし、2回目では陰性だった。毛髪からの覚せい剤反応は地層のように検出されるので、いくら髪の毛を洗おうとも、時間が経とうとも、髪の毛を切らない限りそれは検出される。
裁判所はなぜこれに疑問を持たなかったのだろうか。3回目の検査要求は却下された。いちばん大事な機会を設けてもらえなかった。なぜだろう・・。

また、真澄側は証言を得るために、私の証言請求を何度も繰り返したが、裁判官はそれを却下した。公正な判断を必要とする場面で、それを「必要なし」と、判断されたのだ。私は証言を求められたら、迷わず足を運んでいただろう。今になって思うことがある。尿検査のことだ。通常、目の前で本人立会いのもと、尿に試験薬を浸けて陽性となるのを確認させられるのだと思っていた。私は、後日取り調べのときに「反応は陽性だった」とだけ聞かされたのだった。ただ、私の場合は真澄に会う前日に使用しており、反応が出たのを受け入れることはできる。

真澄の場合は、取り調べの時に「先ほどの尿だ」と言われた尿が試験薬によって変化して行くのを見たという。なぜ、尿を採ったその場でそれをやらなかったのだろうか。また、エアコンフィルターから反応が出たことにも疑いがある。整理整頓、綺麗好きの真澄は、私が最後に吸った5年前からは、フィルターを何度も水洗い、または洗剤で掃除をしており反応が出るわけがないと主張している。警察の捜査を否定するつもりはないが、疑問は強い。真澄裁判は断じて冤罪だと提言する。

19.後記

と、ここまで書きましたが、これは出版が決まっていたわけではありません。書いているうちに本のような文体になっていっただけです。自分の中に流れていた心理や行動、事実を明確にしたいとの思いから私自身のために書きました。こうやって文字にして行くと、いろんなことを多く思い出せました。警察の調書で喋ったことと細部が違っているのです。違っているというよりも「細部がはっきりとしてきた」の方が正しい表現でしょう。嘘を吐いたわけではありません。心理と情景、その時の会話を上手く思い出せなかったのです。ここまで書いても霧がかった部分はまだあります。
それでも、最後まで書くことができて本当に良かった。へたな言い訳にならないよう、自分の悪いところもすべて書ききったつもりです。

私は、今回何の罪もないひとりの女性を巻き込み、犯罪者にしてしまいました。一度判決が下ってしまった以上、私がこれを書いたところで、再審、そして逆転が起こるとは実のところ思っておりません。男性であろうと、女性であろうと、他人を巻き込んでしまったという責任の重圧は、私の空から太陽が消え去ってしまったような気持ちになっています。「メールのやり取りなど見たくなかった」と思われる方も多かったでしょう。十分理解しております。「一般人でもあることだし、時が経てば世の中の人は名前さえも忘れるよ」と思われるでしょう。私もそう思いました。しかし、そうではありませんでした。彼女の本名は珍しく、この国にひとりしか存在しないため、住まいの契約、就職などインターネットの検索だけで何もかもが不採用となってしまっています。私は私の責任に於いて、あの事件が冤罪であることを、少しでも多くの方たちに知ってもらい、彼女の未来のお手伝いをしなくてはならない責任と立場に立っています。そのためには無実性を発揮することのできるあのメールのやり取りを公開せざるを得ませんでした。これは、私の性格、性分であるため、そこから逃れることはできません。

先ほど、逆転は無理だと思っていると書きましたが、千に一度のチャンスで、再審が行われる切っ掛けになることに賭けています。
これを公開することで、(特にメールのやり取りなど)大事な家族が胸を痛めてしまうことになることだけが、私の心痛です。

この本は「皆様への謝罪」「どうしてこういうことになったのかの経緯」
「冤罪の訴え」という三つのテーマから構成されていますが、どれもが繋がっています。この本の冒頭でも書きましたが、自分に都合の良い語りにならないようにするには、どれも省くことはできませんでした。この本の宿命です。どうかご理解いただけますようにという思いでいっぱいです。

「ゲートウェイドラッグ」という言葉があります。薬物への入り口です。私はその入り口を知らずに潜ってしまいました。言い分はあれども許されるものではありません。殺人には同情がありますが、薬物に同情はありません。私は留置されていた時、名前で呼ばれず「700番」と呼ばれていました。屈辱的な時間でした。しかし、そういうものなのでしょう。当然のことです。信用を損なう行動をとり、またご心配をおかけし、皆様には本当に申し訳ありませんでした。

私は小学4年生の頃からの偏頭痛持ちです。今日までその偏頭痛を止めるために、あらゆる薬を飲んできました。そのため、薬を身体に入れることには何の抵抗もありませんでした。

「薬は痛みを止めるために飲むのですよ。我慢する必要はありません。」

こんな風に病院で説明された時には、どれほど心が救われたか。
なので、眠い時にはアンナカを処方していただき、眠れない時には睡眠導入剤をいただき、花粉症では1回で症状が止まる、極わずかステロイド成分を含んだ注射をしていただきました。薬は身体に良くないといいます。本当にそうなのでしょう。しかし、これだけ薬を飲んできた私ですが、とても元気です。特別頑丈に出来ているようです。元々、花粉症以外全くのアレルギー体質ではないので、副作用というものを経験したことがありません。そのため薬への抵抗がなかったのは確かです。ただ、それらはすべてルールの中に収まった薬でのことです。私はルールから逸脱した薬を使用してしまいました。それによって失ったものは大きく、信用の回復には相当の時間が必要となりました。一度脳が覚えた刺激は、二度と忘れることができないと言われています。なので、再犯が起こるのだと言われています。私は、これからその一度覚えた刺激と戦って行かなければなりません。

これは持論ですが、物事には馴れというものがあります。馴れとは反応が鈍くなるということです。いまでは覚せい剤がどんなものであったかという記憶も薄れています。ただ、それが目の前に出てきた時にどうなるのかは分かりません。そうならないように、ひたすら戦って行くしか防御の方法はありません。加えて、盗聴と盗撮が一切無くなりましたので「あれが必要だ」という気持ちも失せています。私が気づかないだけで、盗聴盗撮はまだ続いているのかもしれませんが、私が見張っていたところでは、今その影はありません。

もうひとつ。今回、私は週刊誌によって反社会勢力との黒い交際を事実のように書かれてしまい、それが日本中、いやアジア中に広まってしまいました。私は、あくまで音楽関係者という認識でした。相手がそうであるとわかった瞬間に私が態度を変えたことで、相手の恨みを買ってしまいました。あの時の行動、選択に間違いはなかったと思っています。私はいま、音楽業界から制裁処分を受けています。メディアへの露出は協定により一切断たれています。「このまま引退することが当然だ」というコメンテータの発言も耳に入りました。作り事だらけの週刊誌の内容を真に受けての発言なので、心は痛みましたが、怒りは生まれていません。私の人生です。誰に決められるものではありません。もっと早く誤解を解く行動を取らなければならなかったのでしょうが、1年半前では言い訳にしか聞こえなかったでしょう。「沈黙は金なり」と言いますが、このまま黙っていては反社会勢力との繋がりが事実となってしまいます。誤解を受けたままステージに立つことはできません。いつ活動を再開できるのかは、まだ霧の中ですが、一生を賭けた音楽生活。ここで歩みを止めるわけには行きません。日々進んでいる、生まれている楽曲を早く皆さんの元へ届けることができますようにという願いで毎日を過ごしております。

現在、レコード会社との契約はありません。自費出版でも構わないと思っています。1年間で最低でも2枚のアルバムを発表したいと考えております。いろんなことが起こりました。仕方の無いことだと受け止めています。「Youtube」で、みなさんからの「ASKAさんへ」を拝見いたしました。
「ニコニコ動画」で流れるみなさんのコメントも読ませていただきました。
ありがとう。ありがとう。心からありがとう。どんなことがあってもそばにいてくれるような歌を作り続けたい一心です。

条件反射制御法というのがあります。精神科医の平井愼二先生が発見した薬物に対する欲求の完全消去法です。治らないと言われている薬物治療の希望の光です。人間は思考の動物だと思っていたのですが、そうではないようです。無意識の行動を第一次信号系。思考によっての行動を第二次信号系といいます。
条件反射制御法によると、普段人間は「第一次信号系で行動する」となっています。つまり、考えて行動していないというのです。思考の第二次信号系で定義づけられたものは、やがて「それはそういうものだ」とフォーマットされ、第一次信号系にデータが移行されます。移行された瞬間から、思考しない行動の連鎖が始まります。何回やっても上手くいかなかったことが、やがて考えなくても自然に上手く行くことを例にすれば分かりやすいでしょう。いま私は「薬物はダメだ」と第二次信号系に働きかけ制御しています。いつかそれが当たり前にダメなものとして第一次信号系に移行されることを待っています。違法薬物とは知らないで始めたモノが、脳に染み付いた代償はあまりに大きすぎました。これからみなさんの信用を得るためにも、条件反射制御法を続けていこうと思っています。
最後に、先日平井先生と電話でお話をしました。平井先生は、この本を読みました。そして、
「あなたは精神病ではありません。」と、仰って下さいました。私は、やっと「精神病」という病名から解放されました。何よりも心強い言葉となりました。ありがとうございました。                  
 ASKA

20.追記

一部のマスコミのみなさんへ。
これを公開したことでの反響は大きいでしょう。私は、決心してこれを公開しました。今後、この事件に関して追従する取材は一切受けるつもりはありません。これ以上語るつもりはありません。自宅へは来ないでください。一日中、インターホンを鳴らされ続けるストレスは、当事者でなければご理解いただけないでしょう。福岡の実家に向かうことも止めてください。現在、年老いた私の母は重度の病を患っております。居間から玄関まで歩いて行くことも重労なのです。父は、そんな母の介護に一生懸命です。書籍が売れる、視聴率が得られるということだけで、一般人である両親や、家族、そして今回罪を着せられてしまった女性を苦しめることだけは止めてください。一切の責任は私にあります。
今、私は私の犯した罪を全面に受け止め、悔い改め、新しい朝に向かって歩こうとしております。マスコミの方々の心の中にも良心があることは十分理解しております。どうか私以外の人たちを苦しめることだけは止めてください。心からのお願いです。長文にお付き合いくださいましてありがとうございました。      ASKA

これは。12月1日に公開する予定でいましたが、盗聴盗撮の証拠資料をいつでも出せる状態でなければならないと考えました。それを用意している最中の出来事です。私には、台湾で俳優をやっている友人がいます。ロニーと言います。彼が私の家に遊びに来た時に、起こったことの全てを話しました。彼は。元海軍兵士で情報機関に所属しておりましたので、パソコンには精通しており、プログラマと同等のスキルを持っています。私に起こった出来事について「ASKAの思い違いではない。実際、盗聴盗撮は氾濫している。そして、アジア中のメディアによって作られてしまったイメージを回復させるためにも、この文章を翻訳してアジア圏で紹介するべきだ。中国圏は私がやる。」と、言ってくれました。この話をした場所は、私の仕事部屋でした。後は、メールのやり取りだけです。盗聴盗撮が収まったと思っていましたので、あらゆることを話しました。この本では書かなかった事実もあるのですが、ロニーには全てを語りました。
15年11月26日。ロニーから連絡がありました。先ほど、匿名メールを受け取ったのだと。以下、ロニーから送られてきたメールです。

I got a message. こういうメッセージを受け取りました。

Unknown:Ronnie? ロニーか?
Me:yes. そうだ。
Unknown:I know you. オレはオマエを知ってるぞ。
Me:I know. I'm famous. もちろん。みんなオレのことは知ってるからね。。
Unknown:stop helping A. ASKAを助けるのは止めろ。
Me:oh! find me finally. へぇ。とうとうオレを見つけたか。
Unknown:I know your house,phone,car. オレは、オマエの家も電話も車も知っている。
Me:okay,thank you be my fan,do you need my sign?  ごくろうなこった。オレのサインでも欲しいのかい?
Me:I'm telling you now,I know the skill,and I know how to break. これだけは言っておこう。オレにはオマエを特定するスキルもある。邪魔はさせない。
Me: if I guess right,博勝案. オレが思うに、オマエはブロード操作集団だ。
Me:right?its C4ISR. そうだろう?オマエは(ASKAを追い込んだ)ハッカー集団だ。
Me:come on,I can find you all as well. かかって来い。オレはオマエを見つけ出してみせる。
Unknown:ok,don't break,I will stop. 分かった。それは止めておけ。だが、オレはオマエを(ASKAを助けることを)ストップさせてみせる。

ロニーの解析によると、日本から送られて来たメールだったとのことです。
これには続きがあります。そのメールはロニーが読んで、私に送信してきた直後に消滅していたとのことです。相手は証拠を残さないよう、そういう設定をした上でロニーにメールを送りつけてきたのです。これは「消えるメール」と呼ばれていて、当初プログラマたちが使っていた手法です。今では一般にも広がり「消えるメール」のソフト、アプリなどが多く出回っています。これに懐疑的になられた方は、どうぞ「消えるメール」で、検索してみてください。溢れるほど出て来ます。ロニーは、そのメールをすかさずコピーしておいたので、証拠を残すことに成功しているとのことです。次回は、すぐに追跡すると言っています。プロキシやどこかのサーバーを踏み台にして正体を隠せることが完全ではないことは、彼らがいちばんよく分かっているはずです。彼らは墓穴を掘りました。これで私をヤク中扱いにすることはできなくなりました。

盗聴盗撮集団に告ぐ。
私は、君たちがいちばん恐れていることを、この本の中では書かなかった。書かないであげたのだ。命拾いしただろう?
いますぐ、私への行為を止めなさい。止めないのであれば、君たちの犯した事実を世間に公表することになる。そうなれば警察も再捜査に乗り出すだろう。証拠?私が6年間取り溜めた証拠の中のひとつの写真を公開しようか?と、思ったが寸前のところで思い止まった。先ほど、一度は証拠の写真を貼り付けたのだが、窮鼠猫を噛む状態になることは私も望んでいない。なので、今それを削除した。君たちが私のことを語り合っていた盗聴の完全なる証拠となるスレッドだ。同じURLで違う内容のものが存在している。私が、コピーをした直後に君たちが慌てて内容を書き換えたものだ。私は、君たちの組織のスタッフのひとりを見つけ出し、それを見せた。彼は絶句していた。「こういうことは絶対にありえない」との証言も得ている。その書き込みは両スレッドともダウンロードに成功している。君たちが行った証拠隠滅だ。覚えはあるだろう?(私への報復を)やれるものならやってみればいい。脅しは性格上本意ではないが、君たちが続けるのであれば、私も行動に移せざるをえない。私は、君たちに時間を与えるつもりはない。この場で直ぐに止めることを強く要求する。これは最終警告だ。  ASKA

千葉日報もそうなのだが、「乗務中に放尿」といった見出しで記事にして金銭を稼ぐシゴトってのは、どうかと考えさせられた。

筆者が子供の頃(昭和50年代)は酔っぱらいに限らずこの手の話はザラだった気がしている。平成の今でも田舎でハイキングしているときなど、この手の話はたぶんザラだろう、そうでないと困る人々は読売やNHKにも多数含まれているんじゃないだろうか。

「女性や都市環境・景観に配慮して」との美名の下、生理現象を何でもかんでも狙い撃ちして「汗やにおい」を商業的に排除するにとどまらず、「立ちション」をここまで悪人に仕立てあげるメディアの連中をどうにかするほうが話が先だろう。

こんな記事書いてお仕事してますってのは多分同窓の早稲田の連中も多いんだろうなと考えるとげんなりすると同時に、馬鹿野郎!!と言いたくなってしまうのは時期が時期だからだろうか。

# 追記

朝日、毎日、日経、東京、他地方紙もそろって自然現象に伴う「立ちション」を記事に取り上げている現状を眺めると、なんでこんなことを全ての全国紙が一律に報道しているのかといった日本のメディア関係者のアブノーマルさ加減が浮かび上がってくるのみならず、他方で鉄道会社側が示しているモラルとお詫びで現場関係者の尿意を抑えることはできないといった現実の問題が残り続けていることも付け加えておきたい。

The Beginning of the End

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「終わりの始まり」といったフレーズは20世紀後半の欧米の映画・テレビ番組・文学作品・音楽で使い古された言い回しになるが、その背景として、ナチスの台頭を許容したワイマール共和国の崩壊を叙述するのみならず、推論に用いる理論体系や科学的アプローチまで否定してしまったポストモダニズムやある種のフレンチ・セオリーが広く浸透していたことが挙げられるかもしれない。

そして現在の欧米においてポストモダニズムの終焉が論じられている中、日本の人文科学・社会科学は少なくともマッカーシズム以前のアメリカによる占領政策を通じて教授会の自治が再度保証されることになった戦後以降長らく停滞を続けており、その理由は大学における徒弟制度が後押ししている面もあるのだが、いずれにせよ「終わりの始まり」の終焉が論じられたことはなかったと記憶している。

論理を飛躍させるなら、その結果として例えば1980年代後半のバブルの絶頂期に見られる「終わりの始まり」に類するものが姿や領域を変えて繰り返し登場していることをちょいちょい目の当たりにしていると感じることになったのは気のせいであろうか。

で、今話題になっている改憲案だが、南麻布の日米合同委員会に参加しているメンバーが陰に陽にパニッシュメントとインセンティブを与えながら素案を論じていくのだろうといったことを想像することがあり、すると改憲案の最初のドラフトが英文で記述されているといったケースもあるだろうなといったことを憶測することもあり、国内の報道におけるトーンやトピックスの選び方もその視点から眺めてしまいがちになってしまうのも気のせいであろうか。

乱筆失礼!

オールド・メディアやインターネット・メディアを参考にする限り、ブレクシットの要因として、1. ラディカルと中道派の軋み、2. ロンドン・スコットランドと他の地方との異存、3. 老人と若者の相違をクローズ・アップする報道が大勢を占めているようだが、これらの枠組みは少なくとも国内のスピンがうまく機能した結果であるとの見方に説得力を与えてくれている議論を以下に抜粋する。そしてブレクシットが抱えている問題はそのまま日本の問題に投影されていることになる。

...

ポスト・デモクラシーという語はウォーリック大学の政治学者であるコリン・クラウチによって『コウピング・ウィズ・ポスト・デモクラシー』といったタイトルの著作の中で2000年に作られた造語であった。ポスト・デモクラシーはしっかりと機能している民主主義システム(選挙が行われることによって政権が交代し、また言論の自由が存在している状況)によってもたらされる状態を示していたが、そのような民主主義の事例はまだ限定的であった。またこの議論の前提として器の小さいエリートが問題になる決定を行い民主主義の制度を濫用していることが指摘されていた。クラウチはロンドンのシンクタンクであるポリシーネットワークにおける『イズ・ゼア・ア・リベラリズム・ビヨンド・ソーシャル・デモクラシー?』といった論文や『ザ・ストレインジ・ノン・デス・オブ・ネオリベラリズム』といった著作の中でポスト・デモクラシーに関するアイデアを深化させていた。

バランスを欠いたディベート:多くの民主的な国々において、政党の立場は非常に似通っていた。このことは有権者にとって選択できるものがないことを意味していた。その影響は政治的キャンペーンが立場の違いを強調するための広告のように映っていることにあった。また政治家の私生活も選挙の重要な道具になっていた。そして時折「センシティブ」な問題が争点から外されることがあった。イギリスの保守派のジャーナリストであるピーター・オボーンは2005年総選挙のドキュメンタリーを通じて、争点を限定的にして多くの浮動票をターゲットにしたことを理由にして総選挙が民主的なものではなかったと論じていた。

公共部門と民間部門の交錯:政治とビジネスの間の金銭的な癒着が大きな問題であった。ロビー企業を通じて多国籍企業はその国の住民より上手に法律をくぐり抜けることが可能であった。そして企業と国家は緊密な関係にあり、その理由として企業が雇用に大きな影響を及ぼしている点で国家が企業を必要としていることが指摘されていた。しかし製造プロセスの多くがアウトソーシングされており、企業が他国に逃げることが容易であるため、労働者は低賃金労働に従事することになり、さらに納税の主役は企業から個人に移り、その目的は企業にとって有利な条件を生み出すことにあった。そして政治家と経営者が政府からビジネスへ他方でビジネスから政府へジョブをスイッチすることは非常にありふれた光景になっていた。

私有化:公共サービスを民営化することを推進する「新しい公共経営」(ネオリベラリズム流の)の考え方が広まっていたが、民営化された組織は民主的な手段によってコントロールすることが困難であった。

結果として:

政治家は国民投票や世論調査における好ましくない結果をよく無視していた。2005年にフランスとオランダの国民が欧州憲法に対してノーを突きつけたときに、少し修正を加えただけで、フランスやオランダはこの条約を批准していた。

排外主義の政党の登場は国民の不満を利用したものであった。

解決の道:

クラウチによれば、ソーシャルメディアには重要な役割があり、有権者が公のディベートに対して積極的に参加する可能性を広げていることが指摘されていた。この延長として有権者は特定の利害を擁護するグループに参加する必要に迫られるかもしれなかった。また市民が意思決定する場をその手に取り戻す必要が存在していた。クラウチはこのような市民参加をポスト・ポストデモクラシーと呼んでいた。

オキュパイ・ウォールストリートは組織化されないある種の抵抗運動であり、金融業界に関する不満から生じていた。

...

ポスト・デモクラシーは民主主義のルールに則った状況を意味していたが、実際は民主主義のルールの適用を制限しているように考えられていた。例えば経済学者であるセルジュ・ラトゥーシュによれば、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー――格差拡大の政策を生む政治構造』を引き合いに出しながら、ポスト・デモクラシーは「私たちが今日経験しているようにメディアやロビー活動によって巧みに操作されながらでっち上げられた民主主義」を示していた[1]。

...

イギリスの政治学者であるコリン・クラウチ[1]はポスト・デモクラシーを次のように定義していた。

「選挙を経験しない専門家の役割[...]、選挙期間中の公開討論はスピンドクターによってコントロールされており、その内容はエンターテイメントに堕しており、矮小化された問題のみを論じており、その論点はそのスピンドクターによって周到に選び抜かれていた」[2]。

グローバル企業と国家の連携がポスト・デモクラシーを進展させていた。クラウチによれば、国際協調を通じた賃金、労働権、環境基準の調整が企業活動のグローバル化より遅れていることが主要な問題であることが認識されていた。多国籍企業が税制や労働環境に満足しなければ、職場を海外に移転することをカードにして揺さぶりをかける可能性が指摘されていた。このような揺さぶりの舞台(底辺への競争)は政府の決定に対して企業の影響が市民の影響より強いことを背景にしていた[4]。主要な論点は西洋の民主主義がポスト・デモクラシーの状態に近づいており、その後「恵まれたエリートの影響力」[5]が増大する点にあった。

他の論点として1980年代から政府が民営化を促進しながら市民の責任を重くする新自由主義を採用していたことが指摘されていた。クラウチは次のような事例を示していた。「国家が市民の生活に対する関心を失い、市民の無関心を助長するならば、気付かれないように企業はこのような状況を活用してセルフ・サービス方式を普及させていた。新自由主義の根底にある見通しの甘さはこのような状況を認識していないことにあった」[6]。

リッツィーとシャールはポスト・デモクラシーを「完全な民主主義という枠組みにおける擬似民主主義として認識することを通じて」説明していた[7]。

クラウチはポスト・デモクラシーという語が状況を適切に表現していると考えていた。「この状況のような民主主義においてある種の怠慢、葛藤、失望感が広がっており、強力な利益集団の代表達は[...]大多数の市民よりはるかに積極的に行動しており、エリートは国民の要求を操るための方法を学習しており、市民に対して選挙に行くように広告キャンペーンを通じて「上から」説得していた。」[8] またクラウチはポスト・デモクラシーが非民主的な状況とは異なっていることを指摘していた。

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示しているもう1つの側面は「市場経済や自由競争のレトリックを口実にして特定の実業家に政治的な特権を付与していること」にあった[13]。そしてこのような特権の付与は「民主主義にとって深刻な問題」になっていた[14]。

クラウチは「ポスト・デモクラシーへの道」を回避するために3つのステップを指摘していた。それは「まず経済界のエリートによる支配を制限する手段を確立し、次に経済に左右される政治の状況を改革し、最後に一般人の活動の可能性を広げること」であった[17]。最後の点を言い換えるとそれは「新たなアイデンティティ」[18]を形成することであり、例えば地域の寄合いを通じて関係者の活動の可能性を広げることを含んでいた。民主主義のリバイバルに対する希望は一般人のアイデンティティに影響を及ぼす新しいタイプの社会的ムーブメントに内在していた。このムーブメントは成果を上げるためのロビー活動を通じた「ポスト・デモクラティック」な仕組みを活用しなければならなかった。そして政党は民主主義のリバイバルのための核となる部分を残す必要性に直面していた。また政党による支援はクラウチによれば民主的な変化にとって必要なものであった[20]。クラウチは「動物愛護のための過激なキャンペーン、アンチ・キャピタリストやアンチ・グローバリゼーションのアクティビスト、レイシズム団体、リンチと変わらない犯罪撲滅キャンペーン」に反対していた[21]。

政治学者であるローランド・ロスは自治体レベルでの市民の関与を深め、民営化された施設を再度公営化するようにパブリックスペースを国家を通じて再生し、アクターに参加を促すことを提案していた[23]。ダニエル・ライトチヒは市民の判断、リキッド・デモクラシー、セルフ・マネジメントへの回帰、より小さな行政単位、子供の頃からの社会参加の機会の拡大、対抗的な公共圏の構築に言及していた[24]。

ポスト・デモクラシー特有の傾向は国際的な統合の帰結から生じており、そこにはまだ共通の議論の土壌も国際紛争を民主的に解決するためのコンセンサスを形成する土台も存在していなかった。この事例は欧州連合になり、実際のところ欧州連合は民主主義の赤字を部分的に抱えていた。そして政治的な運動は欧州連合の政治システム特に欧州憲法における民主主義の赤字を具体的に改善する[28]ことを十分に考慮していなかった。

インタビューの中でクラウチはオバマの運動が「民主主義の内部崩壊についての私の主張を否定することになった」と述べていた。「そして「確かにオバマは民主党の候補者であったが、実際のところオバマは若者をホワイトハウスへ送ろうとする運動の中に位置付けられており、将来に対する希望であった」[29]。

...

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカ、フランス、ドイツのWikipediaの「ニュー・ケインジアン経済学」、「新しい新古典派総合」、「新古典派総合」、「新しい古典派マクロ経済学」、「AD-ASモデル」、「ポスト・ポリティクス」、「メタ・ポリティクス」、「ポスト・デモクラシー」、「第二の近代」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_Keynesian_economics

ニュー・ケインジアン経済学

ニュー・ケインジアン経済学はケインジアン経済学に対してミクロ経済学的基礎を与えるマクロ経済学の学派であった。そしてニュー・ケインジアン経済学は新しい古典派によるケインジアンマクロ経済学に対する批判を受け止めていた。

また2つの大きな仮定がマクロ経済学に対するニュー・ケインジアンのアプローチを特徴付けていた。つまり新しい古典派のようにニュー・ケインジアンによるマクロ分析は家計と企業が合理的に期待を抱くことを前提にしていた。しかし両者はニュー・ケインジアンが多様な市場の失敗を想定している点で異なっており、ニュー・ケインジアンは価格や賃金が経済状況に合わせて瞬時に調整されない「粘着性」を有していることを背景にした不完全競争を想定していた。

ニュー・ケインジアンのモデルが想定している賃金や価格の粘着性や多様な市場の失敗は経済が完全雇用を達成することに失敗していることを包含していた。したがってニュー・ケインジアンは政府や中央銀行によるマクロ経済の安定化(財政政策や金融政策の活用)が自由放任主義の政策より効率的にマクロの指標を改善することができると主張していた。

1 ニュー・ケインジアン経済学の展開

1.1 1970年代

ニュー・ケインジアン経済学の最初のウェーブは1970年代後半に登場していた。情報の粘着性に関する最初のモデルはスタンレー・フィッシャーの1977年の論文である『ロングターム・コントラクツ・ラショナル・エクスペクテーションズ・アンド・ザ・オプティマル・マネー・サプライ・ルール』[2]によって示されていた。スタンレー・フィッシャーは「タイムラグのある」ないし「オーバーラップする」契約モデルを採用していた。そこでは経済に2つの労働組合が存在していることが想定されており、順繰りに賃金が定められており、ある労働組合の番になるとその後の2つの期間分の賃金が決定されていた。また名目賃金が生涯を通じて一定であるようなジョン・B・テイラーのモデルとの違いはスタンレー・フィッシャーによる2本の論文つまり1979年の『スタッガード・ウェイジ・セッティング・イン・ア・マクロモデル』[3]と1980年の『アグリゲイト・ダイナミクス・アンド・スタッガード・コントラクツ』[4]の中に示されていた。テイラーとフィッシャーによる契約の概念によれば、ある労働組合は最新の情報を活用して現在の賃金を定めており、他の労働組合は古い情報に基づきながら賃金を定めていた。テイラーのモデルは名目賃金の粘着性に加えて情報の粘着性を採用しており、名目賃金は2つの期間を超えて一定であった。この初期のニュー・ケインジアンによる理論は、名目賃金を固定しながら金融当局(中央銀行)が失業率をコントロールできるとの前提に基づいていた。賃金が名目レートで固定されているので、金融当局はマネーサプライを調節することによって実質賃金(インフレを考慮した賃金)をコントロールすることができ、したがって失業率を調整していた[5]。

1.2 1980年代

1.2.1 メニュー・コストと不完全競争

1980年代に価格の粘着性を説明するために不完全競争の枠組みにおけるメニュー・コストを用いることが研究されていた[6]。価格の調節に相反する一括費用(メニュー・コスト)の概念は価格変更の頻度に対するインフレの影響に関する論文を通じてシェシンスキーとワイス(1977年)によって導入されていた[7]。名目賃金の硬直性についての一般理論としてメニュー・コストを適用するアイデアは1985年から1986年にかけて数人の経済学者によって提案されていた。そしてジョージ・アカロフやジャネット・イエレンはもし便益が大きくなければ限定合理性を通じて企業は価格の変更を望まないだろうといったアイデアを採用していた[8][9]。つまり限定合理性は本来なら変動するはずの名目価格や名目賃金の硬直化を促していた。グレゴリー・マンキューはメニュー・コストを取り上げながら、価格の硬直性がもたらす取引量の変化を通じた経済厚生に対する影響にフォーカスしていた[10]。またマイケル・パーキンも同じアイデアを提唱していた[11]。このアプローチは名目価格の硬直性に着目していたけれども、オリヴィエ・ブランチャードや清滝信宏による『モノポリスティック・コンペティション・アンド・イフェクツ・オブ・アグリゲイト・ディマンド』を通じて名目価格の硬直性は賃金や価格全般に拡張されていた[12]。ヒュー・ディクソンやクラウス・ハンセンは、メニュー・コストが経済の小さなセクターに適用されるケースでも名目価格の硬直性は残りのセクターに影響を及ぼしており、価格全般が需要の変化にあまり反応しない背景を示していた[13]。

そして複数の研究がメニュー・コストがトータルとして然程大きくないことを示唆していたが、ローレンス・ボールやデビッド・ローマーは1990年に実質価格の硬直性が大きな不均衡を生み出すほどの名目価格の硬直性と相互作用している可能性があることを示していた[14]。経済環境の変化に対して企業がゆったりと実質価格を調整しているときに実質価格の硬直化が生じていた。例えば企業が市場を支配しているか要素投入に対するコストが契約を通じて一定期間固定されているならば、その企業は実質価格の硬直性に直面していた[15]。ボールやローマーによれば、労働市場における実質価格の硬直性が企業のコストを高い水準で維持させており、企業が価格を切り下げることを躊躇わせていることが指摘されていた。つまり価格変更にともなうメニュー・コストに関連した実質価格の硬直化による損失は企業が需給ギャップに合わせて価格を切り下げる蓋然性を低減させていた[16]。

仮に価格全般が完全にフレキシブルであっても、不完全競争は乗数効果の面で財政政策に影響を与える可能性を包含していた。ヒュー・ディクソンやグレゴリー・マンキューは財政政策における乗数効果が生産物市場における不完全競争の程度に応じて増大する可能性があることを示す一般均衡モデルを別々に発展させていた[17][18]。これは生産物市場における不完全競争が実質賃金を押し下げ、家計が余暇から労働へ時間を振り向ける傾向があることを理由にしていた。概して政府支出が増加するときの課税の拡大は労働と余暇双方の減少の要因になっており(ここで労働と余暇が正常財であることを仮定している)、生産物市場における不完全競争の程度が大きくなるにつれて実質賃金が低下すると、余暇の減少は拡大し(つまり労働が拡大することによる)労働の減少は縮小していた。したがって財政政策の乗数は1より小さいものの不完全競争の程度に応じて増加する傾向を示していた。

1.2.2 ギジェルモ・カルボによるスタッガード・コントラクツ・モデル

1983年にギジェルモ・カルボは『スタッガード・プライシーズ・イン・ア・ユーティリティ・マキシマイジング・フレームワーク』を発表していた[19]。その元論文は連続時間を採用していたが今日では離散時間を用いている。カルボのモデルはニュー・ケインジアン流に名目価格の硬直性をモデル化するための一般的な方法を示していた。そこでは企業が任意の期間においてその価格リストを改訂する確率(危険率 h)と価格がその期間において改定されない確率(生存率 1-h)が与えられていた。その確率(h)は時として「カルボ確率」と呼ばれていた。契約期間が事前に知らされているテイラーによるモデルと対照的に、カルボ・モデルにおける重要な特徴はプライス・セッターが名目価格が改定されない期間を知らないことにあった。

1.2.3 協調の失敗

協調の失敗は不況や失業を説明する潜在力を有していたニュー・ケインジアン経済学におけるもう1つの重要な概念であった[21]。いったん不況になると例え人々が労働の意欲を有しており仕事のある人々が購買意欲を有していたとしても工場がアイドル状態になる可能性が存在していた。この筋書きによれば、経済的な陰りは協調の失敗の産物であり、見えざる手が生産と消費における最適なフローを調整することに失敗していたことが指摘されていた[22]。ラッセル・クーパーとアンドリュー・ジョンによる1988年の論文である『コーディネーティング・コーディネーション・フェイラーズ・イン・ケインジアン・モデルズ』はお互いの状況を改善する(少なくとも悪化させない)ために個々の経済主体が協調する可能性を示す複数均衡を有するモデルにおける協調を一般化していた[20][23]。クーパーとジョンによる研究はマッチング理論を包含した協調の失敗における事例をピーター・ダイヤモンドが1982年に示したココナッツ・モデルのような初期の研究に依存していた[24]。ダイヤモンドのモデルにおいて生産者は他の生産者が生産していれば生産に着手する傾向にあった。そして潜在的な取引企業の増加は取引相手を見つける蓋然性を高めていた。協調の失敗における他の事例として、ダイヤモンドのモデルは複数均衡を前提にしており、ある経済主体の経済厚生が他の経済主体による意思決定に依存していることが指摘されていた[25]。またダイヤモンドのモデルは多くの人や企業が参入すればするほど市場がうまく機能するようになるといった「市場厚の外部性」を示していた[26]。さらなる協調の失敗の事例として「自己実現性」が指摘されていた。もし企業が需要の落ち込みを予想しているならば雇用の削減に踏み切る可能性があり、その結果としての求人数の不足は労働者に不安をもたらし消費を一層落ち込ませる可能性を高めていた。つまり需要の落ち込みは企業にとって想定内であったが、その原因は企業の行動(想定)に起因していた。

協調の失敗のモデルにおいて、代表的企業(ei)はあらゆる企業(ē)の平均的な生産に依拠しながら生産を行っていた。代表的企業が平均的な企業と同じロットを生産するとき(ei=ē)、経済は45度線上にあり均衡していた。そして決定曲線は45度線と3箇所で交錯していた。企業は最適解である点Bで協調しながら生産する可能性を有しながらも、協調が存在しなければ、企業は効率性が劣る他の均衡点で生産する可能性も有していた[20]。

1.2.4 労働市場の失敗:効率賃金

ニュー・ケインジアンは労働市場の失敗を明示していた。ワルラス市場において失業者は労働者に対する需要が供給と釣り合うまで賃金を切り下げられていた[27]。市場がワルラス的であるならば、失業者のオーダーはジョブ・チェンジする労働者のオーダーに限定されており、低すぎる賃金では労働者が集まらないことが理由であった[28]。ニュー・ケインジアンは市場が自発的失業を促している背景を分析する理論を構築していた[29]。ニュー・ケインジアンによる理論の中で特筆すべきは効率賃金理論であり、短期的な失業の増加がトレンドになり長期的失業を高止まりさせるように、過去の失業に起因する長期的な影響を説明していた[30]。

シャピロ=スティグリッツのモデルによれば、労働者はサボタージュしないレベルの賃金を支払われており、その高賃金が失業を生じさせていた。サボタージュさせない条件を示す曲線(NSC曲線)は完全雇用に近づくにつれ無限大に発散していた。

効率賃金モデルにおいて労働者は労働市場の需給に合わせたレベルよりむしろ生産性を最大化するレベルの賃金を支払われていた[31]。例えば途上国の企業が労働者が生産性を高めるのに十分なリソースを有していることを保証する賃金以上の賃金を支払う可能性が指摘されていた[32]。また企業が忠誠心やモラルを高め生産性を向上させるために高い賃金を支払う可能性も指摘されていた[33]。さらに企業がサボタージュを回避するために市場の需給による賃金以上の賃金を支払う可能性も指摘されていた[34]。カール・シャピロとジョセフ・スティグリッツによる1984年の『イークウィリブリアム・アンエンプロイメント・アズ・ア・ワーカー・ディシプリン・デバイス』は企業が労働者の取組みをモニターしたりサボタージュしている労働者に解雇をチラつかせたりしなければ被雇用者が勤勉に仕事をしないモデルを呈示していた[35][36]。仮に経済が完全雇用の状態にあるのならばサボタージュによって解雇された労働者は単に新たなジョブに移るだけであった[37]。個々の企業は労働者がサボタージュやジョブ・チェンジのリスクより仕事をキープすることを歓迎していることを保証する賃金にプレミアムを加えて労働者に対して賃金を支払っていた。個々の企業は市場の需給による賃金以上の賃金を支払っているので、アグリゲートされた労働市場は需給調整に失敗していた。このメカニズムは失業者をプールさせており、解雇を増加させていた。労働者は収入低下のリスクに加えて失業者のプールにスタックされ続けるリスクに直面していた。しかし市場の需給による賃金以上の賃金をキープすることは確かに失業者を生じさせていたけれども労働者をサボタージュさせないインセンティブを与えていた[38]。

1.3 1990年代

1.3.1 新しい新古典派総合

1. 1990年代の初頭に経済学者たちは1980年代に進化していたニュー・ケインジアン経済学とリアルビジネスサイクル理論の中身を統合し始めていた。リアルビジネスサイクル理論は経時的変化を組み込んだ動学でありながら完全競争を仮定しており、ニュー・ケインジアンのモデルは経時的変化を組み込んでいない静学でありながら不完全競争に依拠していた。新しい新古典派総合はリアルビジネスサイクル理論の動学とニュー・ケインジアンのモデルにおける不完全競争や名目価格の硬直性を統合させていた。タック・ユンはカルボ型のモデルを採用しながら新しい新古典派総合を初めて実現していた研究者の1人であった[39]。グッドフレンドやキングは異時点間の最適化、合理的期待、不完全競争、メニュー・コスト等を考慮した価格調整のように新しい新古典派総合の核になる4つの要素を列挙していた[40][41]。グッドフレンドやキングによれば、コンセンサスモデルは政策的な含意を生み出しており、金融政策が短期的な実質GDPに影響を及ぼす可能性を有していながらも長期的な実質GDPに影響を及ぼすことを示しておらず、貨幣は短期において中立的ではなかったが長期において中立的であることが指摘されていた。そしてインフレは経済厚生に対してマイナスの影響を及ぼしており、インフレ・ターゲットのような政策を通じて中央銀行がクレディビリティを維持することが肝要とされていた。

1.3.2 テイラー・ルール

1993年に[42]ジョン・B・テイラーは、インフレ、GDP、他の条件における変動に応じて中央銀行が名目金利を調整すべきであるといった金融政策におけるルールであるテイラー・ルールのアイデアを定式化していた。特にテイラー・ルールによればインフレ率が1%上昇するたびに中央銀行は名目金利を1%以上上昇させることが想定されていた。そしてテイラー・ルールにおけるこのような想定はテイラー原理と呼ばれていた。

オリジナルのテイラー・ルールによれば名目金利は望ましいインフレ率と実際のインフレ率との差や実際のGDPと潜在GDPとの差に応じて調整されることが期待されていた。

eqn58.png

この式において、itは政策金利であり短期名目金利であり(アメリカにおけるフェデラル・ファンド金利やイギリスにおけるBOEBR)、πtはGDPデフレーターを用いたインフレ率であり、πt*は望ましいインフレ率であり、rt*は想定される実質金利の均衡であり、ytは実質GDPの対数であり、ytは線形のトレンドを通じて決定されていた潜在GDPの対数であった。

1.3.3 ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブ

ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブは1995年のロバーツの議論に由来しており、ニュー・ケインジアンのDSGEモデルの中で用いられていた[44]。ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブによれば現在のインフレは現在のGDPと将来のインフレに対する期待に依拠していた。このフィリップス・カーブは価格決定に関するカルボ型の動学モデルから導出されていた。

eqn59.png

将来のインフレに対する現在の期待がβ*Ett+1]として表されており、βはその割引率を示していた。定数κはGDPに対するインフレの変化を示しており、全期間における価格変動の確率hを通じて定められていた。

eqn60.png

名目価格の硬直性が小さければ(hが大きければ)現在のインフレに対するGDPの影響が増大することが示されていた。

金融政策に対する科学的アプローチ

1990年代に展開していたさまざまなアイデアが金融政策を分析するためのニュー・ケインジアンによる動学的確率的一般均衡(DSGE)を展開することを通じて統合されていた。DSGEモデルはジャーナル・オブ・エコノミック・リテラチャー誌におけるリチャード・クラリダ、ジョルディ・ガリ、マーク・ガートラーによる研究を通じてニュー・ケインジアンのモデルに依拠した3本の方程式に集約されていた[45][46]。DSGEモデルは最適化されたダイナミック・コンサンプション・ファンクション(家計におけるオイラー方程式)に由来する動学的IS曲線とニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブやテイラー・ルールからなる2本の方程式を統合していた。

eqn61.png

これらの3本の方程式は政策上の問題を理論的に分析することを考慮した比較的シンプルなモデルであった。しかしDSGEモデルはある面で単純化されすぎており(例えば資本や投資が登場していないことが指摘されていた)、現状を経験的にうまく説明していなかった。

1.4 2000年代

2000年代になってニュー・ケインジアン経済学における幾つかの進歩が見受けられていた。

1.4.1 不完全競争労働市場の導入

1990年代のモデルは生産物市場における価格の粘着性にフォーカスしており、2000年にクリストファー・エルツェッグ、デール・ヘンダーソン、アンドリュー・レビンはグループ化されていない労働市場に対するブランチャード=清滝モデルを採用しており、そのブランチャード=清滝モデルをニュー・ケインジアンのDSGEモデルに統合していた[47]。

1.4.2 複雑なDSGEモデルの展開

データと親和性があり政策に有用となるモデルにするために非常に複雑なニュー・ケインジアンのモデルは幾つかの特性を進化させていた。そして極めて重要な論文がフランク・スメッツやラファエル・ウーターズ[48][49]さらにローレンス・J・クリスティアーノ、マーティン・アイヘンバウム、チャールズ・エヴァンス[50]によって発表されていた。これらのモデルにおける共通点は次のようなものであった。

習慣の継続:消費の限界効用は過去の消費に基づいていた。

物価スライド制を伴う生産物市場におけるカルボ型の価格決定:賃金や価格が需給に合わせて調整されない中インフレに合わせて上昇していった。

資本調整コストと可変資本稼働率

新たなショック
1. 消費の限界効用に影響を及ぼす需要ショック
2. 限界費用に対する望ましい価格マークアップに影響を及ぼすマークアップ・ショック

テイラー・ルールに基づいた金融政策

ベイズ推定モデル

1.4.3 情報の粘着性

フィッシャーのモデルにおける情報の粘着性のようなアイデアはグレゴリー・マンキューやリカルド・レイスによって進化を遂げていた[51]。そしてマンキューやレイスはフィッシャーのモデルに次のような特性を組み込んでいた。各期間を通じて賃金や価格を変更することに対して一定の確率が与えられていた。そしてマンキューやレイスによれば四半期ごとのデータを通じてその確率が25%になるだろうといったことが想定されていた。つまり各四半期を通じてランダムに選ばれた企業や組合の25%が現在の情報に依拠して現在ないし将来の価格を変更するであろうといったことが前提とされていた。したがって仮の話になるが私たちは現在を次のように把握しており、価格の25%が利用可能な最新の情報に基づいており、残りの価格は過去の情報に依拠していた。マンキューやレイスによれば情報の粘着性を採用したモデルは長引くインフレをうまく説明していた。

情報の粘着性を採用したモデルは名目価格の硬直性を採用していなかった。企業や組合は各期間を通じて異なった価格や賃金を自由に選択していた。つまり情報は粘着的であったが価格は粘着的ではなかった。したがって企業が業績の向上を通じて現在ないし将来の価格を変更することを想定するならば、現在ないし将来において最適になると思われる価格の推移も選択されるであろう。そしてこの想定はあらゆる期間を通じてばらばらな価格を設定するケースを包含しており、価格決定に関する経験的な事実と相違していた[52][53]。他方でアメリカ[54]、ユーロゾーン[55]、イギリス[56]等の国々における価格の硬直性が研究されていた。これらの研究によれば、価格変更が頻繁に生じるセクターがある一方、ずっと価格が固定されているセクターも存在していた。情報の粘着性を採用したモデルにおける価格の硬直性の欠落は多くの経済における価格の振舞いと一致していなかった。そしてこの研究を通じて価格の硬直性と情報の粘着性を融合させた「デュアル・スティッキネス」が定式化されていた[53][57]。

2 政策的な含意

ニュー・ケインジアンは長期における古典派の二分法つまりマネーサプライの変動が中立的であることについて新しい新古典派と意見が一致していた。しかしニュー・ケインジアンのモデルによれば価格が硬直的であるために、マネーサプライの増大(もしくは金利の低下)が短期的にGDPを増加させ失業率を低下させることが指摘されていた。さらに一部のニュー・ケインジアンのモデルによればいくつかの条件を通じて貨幣の中立性が成立しないケースがあることが指摘されていた[58]。

しかし一方でニュー・ケインジアンは短期的なGDPや雇用のゲインを求めて金融政策を拡大することに賛同しておらず、つまりそれがインフレ期待を上昇させることを通じて将来に問題を先送りしていることが理由として指摘されていた。その代わりにニュー・ケインジアンは経済安定化のために金融政策を活用することを主張していた。つまり一時的なブームを生み出すために突然マネーサプライを増大させることは推奨されておらず、言い換えると膨らんだインフレ期待を鎮めるための景気後退が伴うことであろうことが理由として指摘されていた。

しかし経済が予想外の外的ショックに見舞われたときに金融政策を通じたショックによりマクロ経済に対する影響を相殺することは良いアイデアであると見做されていた。仮に予想外のショックがGDPやインフレを低下させる傾向にあるならば(消費需要の落ち込みのように)、金融政策を通じた相殺はこの良い事例であった。このようなケースにおいてマネーサプライの増加(金利を下げること等)はGDPの増大をもたらしており、インフレやインフレ期待を安定化させていた。

ニュー・ケインジアンによるDSGEモデルにおける最適な金融政策の研究はテイラー・ルールにおける金利の役割にフォーカスしており、どのように中央銀行がインフレやGDPの変動に応じて名目金利を調整しているのかについて論じていた。(より正確に言えば最適なルールは通常GDPギャップにおける変動に対してそのつど生じていた。) またニュー・ケインジアンによるいくつかの単純なDSGEモデルにおいて、安定したインフレがGDPや雇用を望ましい水準で安定させていることからインフレの安定化が望まれていることが示されていた。ブランチャードやガリはこの性質を「神のなせる偶然」と呼んでいた[59]。

しかしブランチャードやガリによれば、複数の不完全市場(雇用調整における摩擦的失業や価格の硬直性による)において「神のなせる偶然」は存在しておらず、その代わりにインフレの安定化と雇用の安定化におけるトレードオフが生じていた[60]。一部のマクロ経済学者によればニュー・ケインジアンによるモデルは四半期ごとの政策提言に対して辛うじて役に立つこともある状態であり、見解の不一致を抱えていた[61]。

近年「神のなせる偶然」は標準的なニュー・ケインジアンによる非線形モデルにおいて成立しなくなってきていることが示されていた[62]。この特徴は金融当局がインフレ目標をゼロに設定しているときにのみ成立していた。他のインフレ目標が設定されているときには、賃金の硬直性のような不完全市場の要因が存在していないときでさえインフレの安定化と雇用の安定化におけるトレードオフが生じており、「神のなせる偶然」はもはや存在していなかった。

3 他のマクロ経済学との関係

長年にわたりケインジアンに倣うかその反面ケインジアンと対立していた「新しい」マクロ経済学が影響力を与えていた[63]。ポール・サミュエルソンはケインズ経済学を新古典派経済学と統合するために「新古典派総合」という語を用いていた。このアイデアは政府と中央銀行が共に完全雇用を目指していることを包含しており、希少性を理論の中心に組み込んだ新古典派による概念を用いていた。そしてジョン・ヒックスによるIS-LMモデルは新古典派総合を核に据えていた。

消費と投資のミクロ的基礎を強調していたジェームズ・トービンやフランコ・モジリアーニのような経済学者による研究はネオ・ケインジアニズムと呼ばれていた。ネオ・ケインジアニズムはポール・デヴィッドソンによるポスト・ケインジアニズムと対照的であり、デヴィッドソンは民間設備投資に関連した減価償却における不確実性の役割を強調していた。

ニュー・ケインジアニズムはロバート・ルーカスや新しい古典派に対するリアクションであった[64]。新しい古典派は「合理的期待」の概念に基づいてケインジアニズムの矛盾を批判していた。また新しい古典派は合理的期待とただ1つの市場均衡(完全雇用の)を統合していた。ニュー・ケインジアンは価格の硬直性が市場価格の均衡を阻害することを示す「ミクロ的基礎」に依拠しており、合理的期待による均衡が1つに定まることが条件とされていないことを指摘していた。

新古典派総合は財政・金融政策が完全雇用を維持するために有用であろうことを期待しており、新しい古典派は価格や賃金の調整が短期的に完全雇用を達成するであろうと想定していた。他方でニュー・ケインジアンは価格が短期において「硬直的」であることを理由にして完全雇用を「長期において」達成されるものと見做していた。

そして2008年のリーマン・ショックを通じて世界銀行やIMFのような国際機関、国際貿易システム、マクロ政策(金融・財政政策のミックス)の協調の意義をケインズが強調していたことが指摘されていた。またIMFのエコノミスト[65]やドナルド・マークウェル[66]による研究にこのような政策の協調が反映されていた。

https://de.wikipedia.org/wiki/Neukeynesianismus

ニュー・ケインジアニズム

ニュー・ケインジアニズムはケインズ流の価格決定つまり賃金の硬直性を新古典派の均衡モデルと組み合わせた経済理論であった。ニュー・ケインジアニズムはミクロ的基礎を採用したモデル(新しい新古典派総合)を通じてそれまでの新古典派総合を塗り替えていた。そして金融政策とりわけ金利政策の有効性を強調していた[1]。

ニュー・ケインジアニズムは1980年代に始まり、国際マクロ経済学の主流となっていった[2]。1970年代のケインズ主義とマネタリズムの間の国民経済論争を経て、1980年代以降のニュー・ケインジアニズム、新しいケインジアニズム(合理的期待を考慮した新古典派の価格均衡モデル)、新しい古典派経済学(完全市場の想定を緩めている)の間に論争が生じていた[3]。

1 ニュー・ケインジアニズム以前の時代

ジョン・メイナード・ケインズは1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著しており、世界的な経済危機のその後を理論化していた。しかしこの著作は経済学者の間でも理解しにくいことで知られていた。1937年にジョン・R・ヒックスはIS-LMモデルを通じて一般理論の解釈を単純化していた。IS-LMモデル(後に修正されながら発展していった)は新古典派総合の一部を形成しており、多くの経済学者によって取り上げられており、1930年代の失策を回避することが可能であったことが指摘されており、新古典派の思想から影響を受けているとも考えられていた。新古典派総合における折衷主義によれば、長期においては新古典派の理論に意味があったが、短期においてはケインズ流の介入主義に価値があるとされていた。そして調整期間の後にフレキシブルな価格や賃金を採用している市場は完全雇用やパレート最適な状態に向かうとされていた。しかし価格や賃金の硬直性は必要とされている調整メカニズムを阻害しており、失業にともなう経済危機を先送りしていることが指摘されていた。他方で新古典派総合はケインズによる概念をカバーしており、数十年にわたり主流派の経済理論であり続けていた[4]。

しかし1970年代にスタグフレーションが生じたことについて、新古典派総合はそのインフレの上昇を説明することができなかった。他方マネタリズムはマネーサプライがインフレに作用するとの解釈を通じて主流派の経済理論に上りつめていた[4]。マネタリズムによれば名目GDPの増加に対してマネーサプライの増加を比例させるならば経済成長と適度なインフレが安定した水準で推移することが指摘されていた。しかしマネーサプライをコントロールするためには貨幣の流通速度を想定することが必要とされていた。貨幣の流通速度は過去のデータを用いた線形モデルによって推計されていた。しかし金融システムの規制緩和、マネー・マーケット・アカウントの導入、金融革新を通じて、1980年代以降の貨幣の流通速度は予測不能になり時として激しい変動を示していた。その結果として名目GDPとマネーサプライの相関は消えてしまっていた。この事実はマネタリー・ターゲットの有用性に疑問を投げかけており、多くの経済学者がマネタリズムから離れていった[5]。そして1980年代には新しい古典派マクロ経済学が主流になっており、合理的期待形成仮説や効率的市場仮説がマネタリズムより市場原理に適っていることが主張されていた[6]。合理的期待形成仮説を研究していたロバート・E・ルーカスは1980年代にケインジアニズムの終焉を宣言していた。

「自己の研究をケインジアンのものと見做す40才以下の経済学者はほとんど見受けられなかった。実際のところ人々はケインジアンと見做されることに対する苛立ちを隠していなかった。研究会の場で人々はケインジアンの理論構成をシリアスに受け止めておらず、聴衆はお互いにくすくす笑うだけであった。」

ちょうどこの頃ニュー・ケインジアン経済学の研究が始まっていた。そしてそれまでのフィリップス・カーブはインフレ期待を考慮したニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブに拡張されていた。また新古典派総合に代わってミクロ的基礎を強調したマクロモデルが展開されていた[1]。ニュー・ケインジアニズムが今日の北米のマクロ経済学を席巻している背景として、新しい古典派やマネタリズムが多くの経験的なエビデンスと矛盾しており、DSGEモデルのようなニュー・ケインジアンのモデルが現状を他のモデルよりうまく説明している事実が指摘されていた[7]。

2 名目価格の硬直性におけるミクロ的基礎

ニュー・ケインジアニズムはDSGEモデルに依拠していたが、新しい古典派のマクロ経済学とは基本的に異なっていた。そしてリアルビジネスサイクル理論(新しい古典派のマクロ経済学)はインフレ、失業、GDPを包含しない完全競争という現実的でない仮定に依拠していた[8]。そのためニュー・ケインジアンのモデルは企業が市場に反応した価格調整をすぐに行わず(価格の粘着性)、労働市場の変化に対して賃金の調整をすぐに行わないこと(賃金の粘着性)を考慮していた。古典的なケインジアニズムにおける賃金の硬直性は例えば労働者の名目賃金に対する想定に依拠していた。ロバート・E・ルーカスはこの想定を批判しており、その理由として人間の行動についてアドホックな前提しか示していないことが指摘されていた。とりわけルーカスによって提唱された新しい古典派マクロ経済学は市場参加者による合理的期待に依拠しており、価格や賃金が完全にフレキシブルであり、経済的変動が外生的に生じるのみであり、非自発的失業は考慮されていなかった。ニュー・ケインジアニズムは確かに合理的期待に依拠していたものの、それとは異なる合理的根拠を提示しており、他方で価格の硬直性を肯定していた[1][2]。

賃金はしばしば長期にわたって硬直的であった。

消費習慣はゆったりとした変化を示していた。

情報は入手困難な性質を示していた。

企業による投資は調整コストを生じさせる一因になっていた。

価格変更は調整コストを生じさせる一因になっていた(メニュー・コスト)。

例えば供給契約や団体協約のような契約上の義務によって価格はタイムラグを伴いながら調整されていた(スタッガード・プライシング)。

ヒステリシス(経済学における履歴効果)。

協調の失敗[9]。

新古典派の理論と異なり完全市場に依拠しておらず、つまり完全市場が現実に置いて稀であることを理由にしており、独占競争に根拠を求めていた。

3 広範な市場の失敗

ニュー・ケインジアンのモデルを通じて広範な市場の失敗が時折り取り上げられていたことが指摘されていた。

不完全な信用市場[10][11]。

モラル・ハザード[12]やマッチング理論における諸問題[13]による失業。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Nouvelle_économie_keynésienne

ニュー・ケインジアン経済学

ニュー・ケインジアン経済学は新しい古典派経済学に対する反応として1980年代に生じていた。もし新古典派の一般均衡理論との関連でニュー・ケインジアン経済学を理解するならば、完全情報の想定を緩めている点に特徴が見出されていた。さらにケインジアンの経済政策(財政赤字や低金利)[1]が市場を機能させることについての構造的な問題を十分に考慮していない点に対して批判的であった。

新しい古典派と対照的にニュー・ケインジアンは市場が需給に応じてすぐに調整されるとは考えていなかった。実際のところニュー・ケインジアンにとって賃金や価格はフレキシブルではなく硬直的なものであった。そして賃金や価格の粘着性は不完全情報に由来していることが指摘されていた[2]。ニュー・ケインジアンの視点は経済をよく機能させるために国家の機能を市場に代替していくことに対してプライオリティを置いていなかった。

代表的なニュー・ケインジアンの中にジョセフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ、ジェームズ・マーリーズ、マイケル・スペンス、ジャネット・イエレン、グレゴリー・マンキュー、IMFのチーフエコノミストであるオリヴィエ・ブランチャード、クリントン政権の財務副長官であったローレンス・サマーズ、ベン・バーナンキ(FRBの元議長であり、2013年にジャネット・イエレンとバトンタッチした)が含まれていた。

1 共通の枠組み

グレゴリー・マンキュー[5]にとって「新しい新古典派総合の核は短期における価格の「硬直性」や多くの市場における不完全性による資源の最適配分から派生したDSGEモデルを通じて経済を認識していることにあった」。

新しい古典派経済学にとって「ビジネスサイクルは予想外の金融ショックないし実物ショックをを通じて説明されており」[6]、ニュー・ケインジアン経済学にとって「景気後退は規模が大きい複数の市場の失敗によって引き起こされており、あるケースにおいて経済に対する政府の介入が肯定されていた」ことが指摘されていた[5]。また新しい古典派と異なりマネタリストのように[5]、ニュー・ケインジアンは金融政策が短期の雇用やGDPに影響を及ぼす蓋然性を想定していた。

協調の失敗に関連した市場の不完全性を抱える中で景気後退の要因は複数存在していた。

その1つはカタログの改定費(メニュー・コスト)であった。つまり価格を調整し続けることが困難であり、度重なる価格変更が企業や顧客の手間になるといった外部性を伴っていることが指摘されていた。

もう1つの問題は不完全情報に関連しており、情報の非対称やアドバース・セレクションがアカロフによって研究されており、シグナリングを通じてその解が与えられていた。

2 労働市場

ケインジアンのようにニュー・ケインジアンは労働市場の不均衡にかなりの関心を抱いていた。そしてニュー・ケインジアン経済学はいくつかの概念を発展させていた。

その1つは効率的賃金仮説であった。この仮説は経済学者であるカール・シャピロやジョセフ・スティグリッツによって1984年に[8]労働市場における失業を説明するために検討されていた。効率的賃金仮説によれば、市場の不均衡は情報に対するアクセスの問題に起因しており、雇用者が業務における従業員の取組みを完全に知り得ることができないといったことを包含していた。そして従業員に最大限に尽力してもらうために、雇用者がライバル企業より若干上回る賃金を従業員に提示する必要が存在しており、このマーケットで決定される額を上回る賃金は効率的賃金と呼ばれていた。また従業員は賃金がよい企業に残留するための取組みに関心を抱いているであろうことが想定されていた。その反対に従業員の賃金が市場清算価格であったならば、従業員にとって転職を通じて失うものは何もなく、従業員の取組みは待遇のよい企業に残留することだけに「縛られることもない」であろう。そして留保賃金といったものが存在しており、それによれば労働あたりの賃金は従業員の生産性と相関していた。

もう1つはインサイダー・アウトサイダー理論であった。このモデルは安定した雇用契約(フランスにおける無期限雇用契約)を交わしている従業員のようなインサイダーと不安定な雇用契約を交わしている従業員や失業者のようなアウトサイダーを対比させていた。この理論はポール・オスターマンによる二元論に依拠した労働市場を描き出していた。労働市場にまだ慣れていない若年層(18才から24才)の非熟練のアウトサイダーはインサイダーより低い賃金で就労する傾向にあり(若年層の留保賃金はより低い)、実際のところ私たちはアウトサイダーに十分なチャンスを与えてこなかった。

3 批判

もしニュー・ケインジアンがレッセフェールを求める新しい古典派に反論するならば、それ[9]は「ピュロスの勝利」でしかないと考えられており、その理由として市場の機能を歪めて認識している新しい古典派の厳格さに対してニュー・ケインジアンによる分析が異議を唱えていることが指摘されていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_neoclassical_synthesis

新しい新古典派総合

新しい新古典派総合は短期の変動を説明するためのコンセンサスとして近代のマクロ経済学の底流にある思想、新しい古典派経済学、ニュー・ケインジアン経済学を融合したものであった[1]。この新しい新古典派総合は新古典派経済学をケインジアンマクロ経済学と統合した新古典派総合と類似していた[2]。新しい新古典派総合は多くの現代の主流派経済学に対して理論的な基盤を提供していた。また新しい新古典派総合は連銀や他の中央銀行の業務における理論的な基盤の核を形成していた[3]。

新しい新古典派総合以前におけるマクロ経済学は小さな規模のモデルを通じた市場の不完全性に対するニュー・ケインジアンの研究とGDPの変動を説明している技術変化や一般均衡理論を包含したリアルビジネスサイクル理論に二分されていた[4]。新しい新古典派総合はニュー・ケインジアンと新しい古典派に由来していた。新しい古典派経済学はリアルビジネスサイクル理論の背後にある方法論を研究しており、ニュー・ケインジアン経済学は名目価格の硬直性(頻繁な価格変更というよりむしろ期間を置きながらのゆったりとした価格変更)を研究の対象にしていた[2]。

1 4つの要素

グッドフレンドとキングは新しい新古典派総合の核になる4つの要素をリストに挙げており[6]、異時点間の最適化、合理的期待形成、不完全競争、価格調整のコスト(メニュー・コスト)が列挙されていた[7]。またグッドフレンドとキングは新しい新古典派総合が政策上の含意を包含していることを指摘していた[6]。そして新しい古典派と対照的に、金融政策が短期の実質GDPに影響を及ぼす可能性を認めながらも長期におけるトレードオフが存在しておらず、つまり貨幣が短期において中立的でないものの長期においては中立的であることが指摘されていた。そしてインフレは負の厚生効果を有しており、インフレ・ターゲットのようなルールを通じて中央銀行が信用を維持することが重要な役割を担っていた。

2 5つの原則

近年マイケル・ウッドフォード(経済学者)は5つの要素を用いて新しい新古典派総合を描写しようとしていた。第一にウッドフォードは異時点間の一般均衡の基礎についてのコンセンサスが存在していると述べていた。そのベースは経済の変化による短期ないし長期のインパクトが単一のフレームワークを通じて検討されることを許容しており、ミクロとマクロの視点はもはや分離されていなかった。新しい新古典派総合の登場は部分的には新しい古典派に対するニュー・ケインジアンの勝利であり、短期におけるマクロの動学をモデル化するケインジアンの願望を内在させていた[8]。

第二に新しい新古典派総合は観察されたデータを用いることの意義を認識していたものの、経済学者は一般的な関係に注目することよりむしろ理論に依拠したモデルの方にフォーカスしていた[9]。第三に新しい新古典派総合はルーカス批判に焦点を当てており、合理的期待を用いていたが、粘着的価格や価格の硬直性を通じて、初期の新しい古典派によって示されていた貨幣の中立性を支持していなかった[10]。

第四に新しい新古典派総合はさまざまなショックが産出量の変動の原因になっていることの蓋然性を容認していた。この視点は貨幣量の変動が短期の実物経済に影響を及ぼすといったマネタリストの視点や需要が変動しながらも供給が安定しているといったケインジアンの視点とは異なっていた[11]。オールド・ケインジアンのモデルは計測された産出量と潜在産出量のトレンドの差として産出量ギャップを認識していた[5]。他方で産出量の変動を説明するためにリアルビジネスサイクル理論は産出量ギャップの可能性を考慮しておらず、ショック後の効率的な資源配分を想定した産出量の変動を検討していた。しかしケインジアンはリアルビジネスサイクル理論を否定しており、それは効率的な資源配分を仮定した産出量の変動が経済全体の変動を説明するほど十分に大きくないことを理由にしていた[12]。

そして新しい新古典派総合は新しい古典派とニュー・ケインジアンの論点を統合していた。新しい新古典派総合において産出量ギャップは是認されており、実際の産出量と効率的な資源配分を仮定した産出量の差として認識されていた。効率的な資源配分を仮定した産出量の想定は潜在産出量が綿々と成長する訳ではなくショックに応じて増減する可能性を内包していた[5][11]。また中央銀行が金融政策を通じてインフレをコントロールすることが可能であるとの認識が容認されていた。この認識は部分的にはマネタリストの勝利であったが、新しい新古典派総合はケインジアニズムに由来するフィリップス・カーブの進化を包含していた[13]。

https://en.wikipedia.org/wiki/Neoclassical_synthesis

新古典派総合

新古典派総合はジョン・メイナード・ケインズによるマクロ経済思想を新古典派経済学の中に取り込む第二次世界大戦以降の経済学の潮流であった。主流派の経済学はマクロ経済学におけるケインジアンとミクロ経済学における新古典派の統合を通じて収拾されていた[1]。

新古典派総合は主にジョン・ヒックスによって進歩を遂げ数理経済学者であるポール・サミュエルソンによって世に広められていき、サミュエルソンは新古典派総合という語を造りだし、部分的にはテクニカルライティングやテキストブックである『経済学』を通じて「新古典派総合」を浸透させていった[2][3]。新古典派総合の展開プロセスはケインズによる『一般理論』の公表を経てジョン・ヒックスによる1937年の論文に初登場したIS-LMモデル(財市場と貨幣市場の均衡モデル)を通じて形成されていた[4]。

新古典派総合は市場の需給モデルをケインズ理論に適用することから始まっていた。そして新古典派総合は意思決定プロセスにおいて重要な役割を担っているインセンティブやコストを包含していた。その具体例として個人の需要における消費者理論があり、この消費者理論は(コストとしての)価格と所得がどのように需要量に影響を及ぼすのかといったことを示していた。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_classical_macroeconomics

新しい古典派マクロ経済学

新しい古典派マクロ経済学は新古典派のフレームワークを分析するマクロ経済学の学派であった。そして新しい古典派マクロ経済学は合理的期待のようなミクロ経済学に依拠した基礎の意義を強調していた。

新しい古典派マクロ経済学はマクロ経済分析に対して新古典派ミクロ経済学を通じて基礎を提示していた。この新しい古典派マクロ経済学は初期のケインジアンに類似したマクロ経済学のモデルを成立させるために価格の粘着性や不完全競争のようなミクロ的基礎を用いていたニュー・ケインジアンと対照的であった[1]。

1 歴史

古典派経済学は近代経済学の始まりを示す語であった。1776年にアダム・スミスによって著された『諸国民の富』が古典派経済学の誕生を示していると考えられていた。その核となるアイデアは資源配分に最適であり修正を加え続ける市場の力を前提にしていた。またあらゆる個人が経済活動を最大化することが想定されていた。

そしてカール・メンガー、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、レオン・ワルラスによって19世紀後半のヨーロッパで引き起こされた限界革命が新古典派経済学として知られる潮流を生み出していた。この新古典派経済学の体系はアルフレッド・マーシャルによって詳述されていた。しかしワルラスの一般均衡が数学的な厳密さと公理からの演繹的な推論に依拠した科学としての経済学を方向付けており、ワルラスによる研究は新古典派経済学の核になり、今日でも主流派の経済学のテキストブックに取り上げられていた。

新古典派経済学は世界恐慌まで主流派であり続けていた。しかしその後1936年のジョン・メイナード・ケインズによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』の出版を経て、いくつかの新古典派経済学の前提が否定されるようになっていった。ケインズはマクロ経済学のパフォーマンスを示す集計量に依拠したフレームワークを提示しており、現在行われているようなミクロとマクロの区別を方向付けていた。またケインズ理論の功績は経済活動を「アニマル・スピリット」によって突き動かされるものとして認識している点にあった。この点でケインズ理論は人間の経済的役割をいわゆる(欲望を最大化する)合理的な経済主体に限定していた。

そして第二次世界大戦を通じてアメリカや西ヨーロッパにおいてケインズ政策が浸透するようになった。1970年代まで続いた主流派としてのケインズ経済学の地位は元アメリカ大統領であるリチャード・ニクソンや経済学者であるミルトン・フリードマンによる「我々は今や皆がケインジアンである」との発言にも示されていた。

そして厄介な問題が1970年代と1980年代初頭にスタグフレーションが引き起こされるにつれて表面化していた。スタグフレーションは失業とインフレが同時に高止まりすることを意味していた。ケインジアンはスタグフレーションの出現に戸惑っており、フィリップス・カーブが高いレベルのインフレと失業を想定していなかったことがその背景に存在していた。

1.1 スタグフレーションに対するレスポンス

ケインズ経済学がスタグレーションを説明することに失敗していたことに対応して、新しい古典派経済学が1970年代に登場していた。ロバート・ルーカスやミルトン・フリードマンのような新しい古典派やマネタリストによる批判がケインズ経済学に再考を促していた。とりわけルーカスはケインズモデルに疑問を投げかけるルーカス批判を行っていた。このルーカス批判はマクロモデルがミクロ経済学に依拠すべきであることを強調していた。

1970年代のケインズ経済学の明白な失敗を経て、新しい古典派はしばらくの間マクロ経済学の主流派になっていた。

2 分析の方法

新しい古典派による視点は経済成長の変動要因を3つに分類しており、生産性ファクター、資本ファクター、労働ファクターが挙げられていた。そして新しい古典派による視点やリアルビジネスサイクル理論を通じて分析がなされており、実体経済の変動が説明されていた。

生産性ファクターは集計された生産効率を意味していた。また世界恐慌との関連で生産性ファクターは経済が利用可能な資本や労働における遊休率を示していた。

資本ファクターは異時点間の消費における限界代替率と資本の限界生産力のギャップを包含していた。そして資本(貯蓄)課税のように資本蓄積や貯蓄の形成に作用した結果としての「社会的便益の」損失の存在が指摘されていた。

労働ファクターは余暇に対する消費の限界代替率と労働の限界生産性との比を意味しており、雇用の負担を増加させる労働税(労働市場におけるある種の軋轢)のように作用していることが指摘されていた。

3 論拠と前提

新しい古典派経済学はワルラスの法則に依拠していた。あらゆる経済主体は合理的期待に依拠した効用を最大化することを前提にしていた。そして経済は価格や賃金の調整による完全雇用における単一の均衡をつねに想定していた。つまり市場はいつも清算されていた。

新しい古典派経済学は代表的個人モデルを採用していた。代表的個人モデルは新古典派から厳しく批判されており、カーマン(1992年)によって指摘されているようにそのミクロ的行動とマクロ的プロセスの不整合が理由とされていた。

合理的期待の概念は当初ジョン・ミュースによって用いられており、その後ルーカスを経て世に広められていった。新しい古典派モデルの1つにリアルビジネスサイクル理論があり、エドワード・C・プレスコットやフィン・E・キッドランドによって展開されていった。

4 レガシー

正統派の新しい古典派モデルに関して現実を説明しながら予測することにおけるパフォーマンスが劣っていることが指摘されていた。新しい古典派モデルは現実の景気循環のサイクルと変動の大きさを両立させながら説明することに失敗していた。そして予期せぬ貨幣的変動のみが景気循環や失業に影響を及ぼすといった結論は経験的な事実と一致していなかった[2][3][4][5][6]。

また主流派経済学は新しい新古典派総合に移行していった。新しい古典派を含む多くの経済学者はいくつかの理由から賃金や価格が需給の長期均衡へスムーズに移行しないといったニュー・ケインジアンのアイデアを容認していた。そして金融政策が短期的に有効であるといったマネタリストやニュー・ケインジアンの視点も容認していた[7]。新しい古典派マクロ経済学は合理的期待形成仮説や異時点間の最適化といったアイデアをニュー・ケインジアン経済学に援用していた[8]。

ピーター・ガルバックスによれば[9]評論家たちは新しい古典派マクロ経済学に対して表面的で不十分な理解しか持ち合わせておらず、新しい古典派の前提における一定の特徴に注意すべきであることが指摘されていた。そして価格が完全にフレキシブルであり、世界や市場の期待が完全に合理的であり、実物経済のショックがランダムに生じるならば、金融政策は失業やGDPに影響を及ぼさず、実物経済をコントロールする政策はインフレ率の変化にしかならないことも指摘されていた。しかしこのような前提が成立しないケースでは金融政策は有効であった。また同様のケースではランダムな財政政策も有効であった。仮に政府が市場をコントロールする手段を有しているならば、ケインズ風に実物経済をコントロールすることは可能であった。そして実際のところ新しい古典派マクロ経済学は経済政策を有効にするための条件を強調しながらも無効にするための条件をなおざりにしていた。またランダムな財政政策の効果に対する誘惑が忘れ去られることはなかったが、新しい古典派によって経済政策の活躍の場は狭められていた。ケインズがランダムな財政出動の効果を肯定している一方で、財政政策の効果は新しい古典派においても新しい古典派が認めた条件を満たしているときのみ肯定されていた。

リアルビジネスサイクル理論に貢献しているベルント・ルッケは新しい古典派マクロ経済学モデルを「経済のカリカチュア」と呼んでおり、その前提が市場の失敗の蓋然性や非合理な行動を除外しており、価格がいつも完全にフレキシブルであり、市場が常に均衡していることを理由にしていた。そして現在の新しい古典派マクロ経済学のミッションはどの程度この経済のカリカチュアが景気循環を十分に予測することができるのかを研究することにあった[10]。

https://de.wikipedia.org/wiki/Neue_Klassische_Makroökonomik

新しい古典派マクロ経済学

新しい古典派経済学はとりわけロバート・E・ルーカス、トーマス・サージェント、ニール・ウォーレスによって研究されており、新古典派の理論を通じてミクロ的に基礎付けされたモデルを採用していた。その主な前提は合理的期待形成や絶えず市場が清算された状態にあることを包含していた。そして新しい古典派経済学は金融政策が想定の範囲内であれば無効であると論じていた。1970年代の論争がケインジアニズムとマネタリズムの論戦によって特徴付けられている一方、1980年代以降の論争はニュー・ケインジアニズムと新しい古典派マクロ経済学のそれに移行していた[1]。

1 前提

新しい古典派マクロ経済学は以下の前提に依拠していた[1]。

市場の清算が完全な価格のフレキシビリティに立脚していた。

失業は調整コストを通じた一時的なものであった(自然失業のみ存在していた)。そして長期において非自発的失業は想定されていなかった。

合理的期待形成仮説によれば経済主体があらゆる利用可能な情報を効率的に活用することが念頭に置かれていた。

完全な貨幣の中立性:想定内の金融政策は名目価格と名目賃金に対してのみ作用していたが、GDPや雇用に影響を及ぼすことはなかった。

大きなショックや想定外の財政・金融政策を通じたランダムな変動が不完全情報に依拠しながら生じていた。

2 他の学派との関係

ある経済学者はマネタリズムの派生を含む新しい古典派マクロ経済学を研究しており、他の経済学者は新しい古典派マクロ経済学内の差がマネタリズムとケインジアニズムの差より大きかったと論じていた[1]。

市場の清算が想定されており、新古典派総合やニュー・ケインジアニズムと対比させながら金融・財政政策の無効が論じられており、短期における金融政策の有効性が述べられていた。他方でニュー・ケインジアニズムは合理的期待形成や新しい古典派マクロ経済学に依拠したミクロ的基礎を包含していた。

3 評価

新しい古典派マクロ経済学はマクロ経済学の展開において重要な役割を担っていた。とりわけマクロ経済学のミクロ的基礎は経済主体の合理的行動に依拠しており、モデルにインフレ期待の影響を組み込んでいた。これらの要素はニュー・ケインジアニズム(新しい新古典派総合)に包含されていた。

そして実際のところ新しい古典派マクロ経済学におけるリアルビジネスサイクル理論は実体経済のトレンドを予測することに失敗していた。このリアルビジネスサイクル理論は改良を加えられながらニュー・ケインジアンのモデルに受け継がれていった[2][3][4]。

現在概して新しい古典派マクロ経済学の研究者を含む経済学者の中にコンセンサスが存在しており、それは賃金や価格が需給均衡を達成するのに十分なほど素早く調整されるといったことはないといったものであった。したがって金融政策の効果に対するいくつかの仮説は今日その支持基盤を失っていた[5]。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Nouvelle_économie_classique

新しい古典派経済学

新しい古典派経済学は1970年代に展開されたある経済思想の潮流を示していた。新しい古典派経済学はケインジアニズムを否定しており、全体として新古典派経済学に依拠していた。新しい古典派経済学の特徴はミクロ的基礎付けにあり、ミクロ経済学によってモデル化された経済主体の行動からマクロモデルを導き出していた。

新しい古典派の前提は次のようなものであった。

(効用を最大化する)経済主体の合理性。

合理的期待形成。

つねに経済は唯一の均衡にあり(完全雇用を果たしながら)、この均衡は価格と賃金の調整メカニズムによって達成されていた。

リアルビジネスサイクル理論は新しい古典派における核になる理論であった。

新しい古典派の経済学者を以下に列挙する。

ロバート・ルーカス(1995年ノーベル経済学賞受賞)
フィン・E・キドランド(2004年ノーベル経済学賞受賞)
エドワード・C・プレスコット(2004年ノーベル経済学賞受賞)
ロバート・バロー
ニール・ウォーレス
トーマス・サージェント(2011年ノーベル経済学賞受賞)

https://en.wikipedia.org/wiki/AD-AS_model

AD-ASモデル

AD-ASモデルないし総需要・総供給モデルは総需要と総供給の関係を通じて価格と産出量を分析するマクロ経済モデルになる。AD-ASモデルはジョン・メイナード・ケインズによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』に依拠していた。AD-ASモデルはマクロ経済学における単純化された例の1つであり、リバタリアンでありマネタリストでありレッセ・フェールの信奉者であるミルトン・フリードマンからポストケインジアンであり政府による介入主義者であるジョーン・ロビンソンまで幅広く採用されていた。

従来の「総需要・総供給モデル」は幅広く認知されたケインジアニズムをビジュアルで示していた。供給が需要を生み出すといったセイの法則に依拠している古典派の需給モデルは総供給曲線をつねに垂直に描いていた(長期の話ではない)。

1 モデル

AD-ASモデルは景気循環についてのケインズ・モデルを示していた。総需要曲線や総供給曲線のシフトは外生的な要因が実質GDPと価格水準に与える影響を想定するために用いられていた。またAD-ASモデルは動学(価格水準や実質GDPのような要素が時系列でどのように変動するかを示すモデル)の一部に組み込まれていた。そしてAD-ASモデルはインフレと失業の関係を示すフィリップス・カーブに関連していた。

2 総需要曲線

総需要曲線はIS-LM曲線上の均衡所得の推移と価格水準との関係によって定義されていた。右下がりのAD曲線はIS-LMモデルから導き出されていた。

総需要曲線は財市場と資産市場が同時に均衡している価格水準と産出量の水準の組合せを示していた。LM曲線がLM'曲線に右下方にシフトしたときのIS曲線とLM曲線を示している図によれば、財市場と貨幣市場が同時に清算されるE'に新たな均衡がシフトすることが示されており、シフトしたGDPであるY'はより低い価格水準P'に対応していた。したがって価格水準の低下は均衡支出の増加を導いていた。

総需要曲線の定式化

eqn62.png

Yは実質GDP、Mは名目マネーサプライ、Pは価格水準、Gは実質政府支出、Tは外生的な実質課税額、Z1はIS曲線のシフト(支出に対する外生的な影響)やLM曲線のシフト(貨幣需要に対する外生的な影響)に作用する外生変数を示していた。実質マネーサプライは総需要に対してポシティブに作用しており、実質政府支出も同様であった(独立変数が一定方向に変化するとき総需要も同方向に変化していた)が、税は総需要に対してネガティブに作用していた。

IS-LM分析では実質所得が横軸になり、利子率が縦軸であった。

AD-AS分析では実質所得が横軸になり、価格水準が縦軸であった。

3 総需要曲線のスロープ

総需要曲線のスロープは財市場と資産市場の均衡を考慮しながら実質残高が消費支出の均衡に影響を及ぼすさじ加減を反映していた。そして実質残高の増加は均衡所得と均衡支出を増大させ、貨幣需要の利子弾力性を低減させ、投資需要の利子弾力性を増大させていた。また実質残高の増大は所得と支出の水準を増大させ、乗数を増大させ、貨幣需要の所得弾力性を低減させていた。

この含意として、貨幣需要の利子弾力性が小さく、投資需要の利子弾力性が大きいほど、総需要曲線は水平に近づいていった。また乗数が大きく、貨幣需要の利子弾力性が小さいほど、総需要曲線は水平に近づいていった。

4 総需要曲線に対するマネーストックの拡大の影響

名目マネーストックの増大は各価格水準に対する実質マネーストックを増大させており、資産市場における金利の低下は実質残高の増大を後押ししていた。またマネーストックの拡大は総需要を刺激しており、均衡所得と均衡支出を増大させていた。つまり図を用いるならば、総需要曲線はマネーストックの拡大に応じて右方にシフトしていた。

5 総供給曲線

総供給曲線は労働市場の均衡ないし不均衡を反映しており、総供給曲線はさまざまな価格水準において企業がどれほど生産しているのかを示していた。そして総供給曲線は個々の価格水準に対して企業が生産する予定の産出量を表していた。

ケインジアンの総供給曲線によれば、ある部分ではAS曲線は水平に近く、不況期の価格を前提にした財の需要量がどれほど多くとも、企業は供給を行うだろうといったことが想定されていた。このケインジアンの総供給曲線は失業が存在しており、企業が現在の賃金で望むがままの労働力を補うことができ、一切設備を増強することなく増産することができる(例えばアイドル状態の設備が多数存在している)といったことを前提にしていた。したがって生産に関する平均費用は生産量の変化にかかわらず一定であることが想定されていた。これらの想定はケインジアンが政府の介入を肯定するための根拠になっていた。また経済の総生産は価格水準を低下させることなく減少することが想定されていた。そしてケインジアンによる賃金の下方硬直性に関する経済的リアリティーは政府による刺激策の必要性を示していた。つまり総供給を拡大させるように低く賃金を調整できないため、政府が介入する必要が存在していた。ケインジアンの総供給曲線は総供給が価格水準の変化に応じて変化するカーブを描いていた。そのカーブは企業の生産に関する収穫逓減の法則に従っており、企業が成長するにつれて設備のキャパを改善すればするほどコストがかさむことが想定されていた。収穫逓減は天然資源の希少性にも依拠しており、その希少性は増産がコストの上昇につながることを示していた。ケインジアンの総供給曲線におけるバーティカルな部分は経済の物理的な限界に対応しており、ある限界を超えると増産が不可能になることが想定されていた。

古典的な総供給曲線は短期の総供給曲線とバーティカルな長期の総供給曲線で構成されていた。短期の総供給曲線はある価格水準で財・サービスを提供する産出の想定をビジュアル化していた。ここでいう「短期」は最終財の価格のみが調整され、労働や資本といった要素価格が調整されない期間を示していた。そして「長期」は要素価格がすでに調整されている期間を表していた。短期の総供給曲線は収穫逓減の法則や資源の希少性を理由にしてケインジアンの総供給曲線と同様に右上がりのカーブであった。長期の総供給曲線はバーティカルであり、要素価格がすでに調整済みであることが背景に存在していた。完全雇用から離れたポイントで生産を行うと要素価格が上昇し、短期の総供給曲線を内側にシフトさせ、均衡は完全雇用を達成するどこかのポイントで生じていた。しかしマネタリストによれば、ケインジアンに好まれる需要サイドの刺激策は単にインフレを引き起こすだけであった。また総需要曲線が外側にシフトするときに一般価格水準が上昇していた。そしてこの上昇した価格水準は家計や生産要素のオーナーが財・サービスの価格の上昇を求めることの要因になっていた。要素価格の上昇は企業の生産コストを押し上げ、短期の総需要は逆に内側にシフトすることを惹起されていた。つまりその理論的な帰結はインフレであった[1]。

5.1 総供給曲線のシフト

長期の総供給曲線が存在していないケインジアンのモデルや短期の総供給曲線に関する古典派のモデルは同じ要因から影響を受けていた。生産コストを変動させる要因は生産コストが低減すればカーブを外側へそして増加すれば内側にシフトさせていた。短期の生産コストに作用する要因は税や補助金、賃金、原材料の価格を包含していた。この短期の生産コストに作用する要因が短期の総供給曲線をシフトさせていた。また労働と資本の量と質の変化は長短期の総供給曲線に影響を及ぼしていた。労働や資本の量の増加はそれらの価格の下落に対応していた。そして労働や資本の質の向上は労働者や機械あたりの産出量の増大を促していた。

古典派における長期の総供給曲線は潜在産出量に作用する因子から影響を受けていた。このような因子は労働や資本の量と質の変化をその核に据えていた。

6 古典派やケインジアンにおける財政・金融政策

ケインジアンのケース:財政を拡大させ、政府支出の増加や減税を政策として採用するならば、総需要曲線が右方にシフトすることが想定されていた。この右方シフトは均衡産出量や雇用の増加を含意していた。

古典派のケース:産出量の水準が完全雇用のとき総供給曲線はバーティカルであった。そして企業は価格水準の如何にかかわらず均衡産出量の水準をキープしていた。

財政の拡大は総需要曲線を右方にシフトさせ、財に対する需要を増加させていたが、企業は利用可能な労働力を確保できないので産出量を増大させることに問題を抱えていた。企業がより多くの労働者を雇用する際に賃金や生産コストの上昇に直面することになり、結果として製品の価格が上昇することが促されていた。そして価格の上昇は実質マネーストックを減少させ金利の上昇や支出の減少を促していた。

労働市場の供給過剰をともなう総供給曲線つまり短期の総供給曲線は以下のように示されていた。

eqn63.png

Wは名目賃金率(短期の下方硬直性により外生的に与えられる)、Peは想定された(期待)価格水準、Z2は労働需要曲線の位置に影響を及ぼす外生変数のベクトル(資本ストックや技術の水準)を示していた。そして実質賃金は企業の雇用や総供給に対してネガティブに作用していた。価格の推移を読み間違えた企業による生産計画のミステイクを背景にすると想定された価格水準は総供給に対してポジティブに作用していた。

長期の総供給曲線は資本ストックが常に最適化されるような時間の流れと関係しておらず(ミクロ経済学で用いる「最適化」の意味)、賃金が労働市場を均衡させるように調整され価格に対する想定が適切であるような時間の流れに関連していた。また名目賃金率は外生的であり、総供給方程式の独立変数として作用していなかった。そして長期の総供給曲線は以下のように示されていた。

eqn64.png

長期の総供給曲線は産出量の水準が完全雇用のときにバーティカルであった。長期においてZ2は労働供給曲線の位置に作用する因子(例えば人口)を包含しており、労働市場の均衡における労働供給曲線の位置が雇用に影響していることを背景にしていた。

7 総需要曲線や総供給曲線のシフト

総需要曲線や総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示す。またその反対の外生的な因子は左方に曲線をシフトさせていた。

7.1 総需要曲線のシフト

総需要曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。そして総需要曲線の右方シフトの結果として価格水準は上昇するであろう。また短期において総供給曲線がバーティカルであるよりむしろ右上がりであるならば、実質産出量が増大することが想定されるが、長期において完全雇用が達成され総供給曲線がバーティカルであるならば、実質産出量が一定で変動しないことが想定されていた。

IS曲線に依拠した総需要曲線の右方シフト

消費支出の外生的な増大

物的な資本に対する投資支出の外生的な増大

意図された在庫投資の外生的な増大

財・サービスに対する政府支出の外生的な増大

政府から国民への移転支出の外生的な増大

課税額の外生的な減少

自国の輸出の外生的な増大

自国の輸入の外生的な減少

LM曲線に依拠した総需要曲線の右方シフト

名目マネーサプライの外生的な増大

マネーサプライに対する需要つまり流動性選好の外生的な減少

7.2 総供給曲線のシフト

短期の総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。そして総供給曲線の右方シフトの結果として価格水準は減少し実質GDPは増大するであろう。

賃金率の外生的な減少

物的資本ストックの増大

技術進歩 -- 資本や労働から産出する技術の進展

また長期の総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。

人口の増大

物的資本ストックの増大

技術進歩

7.3 推移プロセス -- 動学

経済が定常状態から最も離れているときに定常状態に戻るムーブメントが最も早くなることが指摘されていた。

つまり総供給がショックを受けると総供給は定常状態から離れるが、供給はゆっくりと定常均衡にシフトし、初めに大きな変動が生じた後、定常状態に達するまで小さな変動が続いていた。均衡に戻る変動は定常状態から最も離れているときに最も大きく、均衡に近づくにつれて小さくなっていった。

一例を挙げれば、生産者は生産要素(土地、労働、資本のような)の増大として石油価格の急騰を理解していた。この急騰はインフレ期待を上昇させることを通じて供給曲線を上方にシフトさせていた。このシフトは総供給曲線を定常状態を戻すようなゆっくりとした調整プロセスにあった。インフレがゆっくりと落ち込んでいくにしたがって総供給曲線は定常状態へと回帰していった。

8 マネタリズム

貨幣数量説によれば価格水準は貨幣数量に左右されていた。ミルトン・フリードマンは産出量や価格の変動に影響を及ぼす金融政策や貨幣の役割を強調したマネタリストと呼ばれる経済学者のリーダーとして認知されていた。貨幣数量説は短期の供給曲線がバーティカルになることを想定しない厳密な貨幣数量説に対して否定的であった。つまりフリードマンや他のマネタリストは短期と長期における貨幣数量の影響について異なった見解を有していた。フリードマン達は長期における貨幣の影響が中立的になることを主張していた。そして名目マネーストックの変動は実質マネーストックに一切影響を及ぼさず価格を変動させるだけであることが論じられていた。しかし短期においてフリードマン達はマネーストックの変動や金融政策が実質値に影響を及ぼす可能性があることについて言及していた。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Modèle_OG-DG

AD-ASモデル

AD-ASモデルは経済を説明するモデルであった。そして総需要・総供給モデルは時として準需要・準供給モデルと呼ばれていた。総需要・総供給モデルは財・サービス市場、貨幣市場、債券市場、労働市場における一般均衡を示していた[2]。短期において価格水準は変動せず調整されることもなかった[2]。時間の流れは基本的に短期の連続として想定されており、長期は価格水準が完全に調整された状態として理解されていた[2]。

総需要曲線

AD-ASモデルにおける総供給曲線はIS-LMモデルを通じて導かれていた。総需要曲線は一般価格水準と均衡国民所得の間の関係を描写していた。総需要曲線は右下がりになり、通貨の調整メカニズムによって一般価格水準の上昇が均衡国民所得の低下を促すことを理由にしていた[3]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-politics

ポスト・ポリティックス

ポスト・ポリティックスはポスト冷戦時代において地球規模のコンセンサス政治が登場していたことに対する批判を示しており、ベルリンの壁の崩壊を促した東ヨーロッパの共産圏の瓦解によって社会の基盤としての資本主義市場や自由主義国家を肯定するポストイデオロギーを容認するコンセンサスが形成されていたことを背景にしていた。ジャック・ランシエール、アラン・バディウ、スラヴォイ・ジジェクのようなラディカルな哲学者のグループやラディカルな平等の実現としての政治学に対する関心によって生み出された批判はポストイデオロギーを容認するコンセンサス政治が適切な政治的状況をつぶす原因になっていると主張しており、「ポスト・デモクラティック」な統治技術の確立を通じて、政治学は社会福祉行政学になっていることが指摘されていた。一方でポストモダニストによる「自己の政治学」の登場を通じて新たな「行為の政治学」が生み出されており、「行為の政治学」においては政治的価値観が道徳的価値観に入れ替わっていた(シャンタル・ムフは「道徳の領域における政治学」と呼んでいた)。

1 ポスト・ポリティカル・コンセンサスのルーツ

1.1 1989年以降のグローバルな政治状況

1989年のベルリンの壁崩壊に続く東欧の共産圏の瓦解は冷戦時代の終結に加えて東側と西側や共産主義者と資本主義者の間のイデオロギーを巡る膠着状態の幕切れを告げていた。資本主義は勝者になり、資本主義に対応した政治ドクトリンであるリベラル・デモクラシーも同様であった。危機に瀕していたシステムを一掃した共産主義国家の崩壊に伴って西側は社会民主主義やケインズ主義を放棄しながら、新自由主義に後押しされてグローバルに広がった新たな局面に直面していた。その端緒としてのフランシス・フクヤマによる『歴史の終焉』はポスト・ポリティカルでありポスト・イデオロギーの「時代風景」の登場を描いていた。そしてニューレイバーや「ラディカルな中道勢力」による第三の道を目指す政治がその先駆けとして示されていた。

1.2 知的状況

フクヤマによればさまざまな知的状況がポスト・ポリティカル・コンセンサスの形成に関連していた。脱工業化社会の社会学者であるアンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックによって提起されていた「再帰的近代化」は第三の道を目指す政治を反映した知的状況を示していた。「再帰的近代化」を通じてこれらの著者は政治活動の急務が社会福祉の問題(再分配の政治)からリスク管理(責任を分配する政治)へシフトしていたと述べていた。そしてその例として「環境の外部性」が挙げられており、それは産業の前進に伴う副産物であり望ましいものではなかった。ベックやギデンズにとってのリスク管理(責任を分配する政治)は必然の急務であり、時代に対応した新たな「社会的再帰性」を意味しており、それは手段合理性や決定的な政治衝突とは異なっており、それらのある種の利己主義がポスト冷戦における社会変化を導いていた。実際ギデンズにとってのリスク管理(責任を分配する政治)は「社会的再帰性」を念頭に置いており、社会技術に関する知識や「ポスト・トラディショナル」な社会におけるリスクの拡散を通じた個人が決定し活動できる能力の拡大を意味しており、次のような道を開いていた。 

ポスト・フォーディストによる生産(現在行われているフレキシブル生産や稟議制に基づいている)

討論や能動的信頼を通じて社会が権力と対峙していることを再構成すること(国内外の政治的な権力、専門家による権威、行政的な権力を含んでいる)。

ベックやギデンズによれば、これらの変化は政党や労働組合のような伝統的な団体を通じて組織された利害関係、階級、イデオロギーに基づく政治を時代遅れなものにしていた。私たちは新たな「自己の政治学」(ベックにおけるサブ政治やギデンズにおけるライフ・ポリティクス)の登場を目撃しており、幅広いポストモダンの転換点の一部として、以前は純粋に個人の問題として考えられてきた諸問題が政治学の舞台に姿を現していた[1]。

あらゆるコメンテーターがこの解釈に同意している訳ではなかったが、この批評のパースペクティブはポスト・ポリティカルな批評を生じさせている構成要素に包含されていると考えられていた。例えばニコラス・ローズ[2]はニューレイバーに影響されたイギリスにおける第三の道を目指す政治の登場と共に現実となった政治的主観性のカモフラージュを通じた政府による新たな「行為の政治」の役割を強調することによってベックやギデンズに反論していた(とくにそれは脱工業化社会を経験した先進国において顕著であった)。ギデンズの「社会的再帰性」に反対しており、この新たな「倫理政治」に関するローズの研究は、自律性、自由に対する希求、自己充足的な個人を強調している「国家を超えたガバナンス」といった新たな市場個人主義者(シュンペータリアン)による枠組みに対する非難を示唆していた。ローズによれば、「倫理政治」が有している基本的な特徴は政治的なアクターの政治的な感性よりむしろ倫理的な感性に関連しており、新自由主義の影響を受けながら政治学が引き受けている道徳的な役割に対応する傾向にあった。実際、イギリスのパブリック・セクターの衰退に関する研究を通じて、デイビット・マーカンド[3]はその道徳的な諸価値に言及しており、その価値観は「プライベート・セクター」からの巻き返しを通じて、サッチャーやブレア政権によって成された新自由主義的な改革や国有資産の売却を支持していた。この事実はポスト・ポリティカルな批判が対処していた重要なプロセスになり、ムフは「道徳の領域における政治学」に触れており、他方でランシエールによる政治的なるものの再構築は1980年代後半のアリストテレス的な「倫理学の」変化と共に生じていた政治哲学の脱政治化に対する挑戦でもあった[4][5]。

またベックは環境保護主義を政治のパーソナライゼーションを促進するパラダイムとして指摘しており、他方でエリック・スィンゲドーによれば、先進国に見られるように、環境に「悪い」とローカルに考えられているものによる影響に対して抵抗する個人のライフスタイルにおける選択や個人主義を強調している環境保護主義が自然と人間社会の構造的な関係における適切な政治的トピックスから注意をそらすためにうまく機能していることが指摘されていた[6]。そしてベックはリスク社会を特徴付ける地球規模の不確実性の展開の結果としてポストモダンでアイデンティティに根差した政治と関連した新たな懐疑論を歓迎していた[7]。対照的に、批評家たちは真実に対する反本質主義の立場が「大きなナラティブ」に対して作用していた深刻な結果を嘆いており(政治的目的論を参照せよ)、ポスト・ポリティカルな批評の支持者にとって、これらの大きなナラティブは政治の現実を示していた。

2 ポスト・ポリティカルな批評

ポスト・ポリティカルな批評の支持者は統一された理論を呈示していなかった。しかしムフを除いて、この批評に関連した哲学者たちは次のような共通点を有していた。

彼らがラディカルな左派の思想のリバイバルの端緒に対して近年築き上げた貢献、

アクティブでラディカルな平等(形式的な平等と対照的に公理的に与えられた平等)や人間の解放に対する関心、

広い意味での唯物論者は転向しており、後期の研究ではマルクス主義の色彩を多少なりとも残しているものの、初期の研究では皆マルクス主義から影響を受けていた。さらにマルクス主義の影響を残しながら、皆が実質的にポスト構造主義の立場から離れていた[9]。

ムフのようにランシエール、バディウ、ジジェクが一致していることは、現在のポスト・ポリティカルな危機において「適切な政治状況」をシステマティックに妨げているものが存在しており、「適切な政治状況」の再構築は政治的なるものに対する概念をラディカルに再提示することに依存するだろうといったことであった。

存在や経験の側面のみから政治を語ること、つまり「政治における事実関係」や「権力の行使と一般的な事柄に関する決定」[10]としての政治に対する関心の示し方の難しさの広がりに対して、彼らの再構成は政治の存在論つまり政治的なるものの本質に関心を寄せなければならないと論じていた[11]。彼らの各人が異なった方法で適切な政治的なるものを概念化しながら、彼らの皆が政治学が解決困難な対立感情を包含する状況に置かれていることに一致しており[12][13][14][15]、ジジェクはラディカルで先進的な視点が「政治的なるものの一部として対立感情を最初の問題として取り上げるべきだ」と論じていた[16]。定義に用いるロジックに対するコンセンサスについて、ポスト・ポリティックスが適切な政治的なるものを妨げていることが批判されていた。

2.1 政治的なるものに対するランシエールの説明

2.1.1 政治とポリス体制の比較

ランシエールは政治の概念を再度取り上げていた。ランシエールにとって、政治の概念は通常想定されているような「権力の行使や一般的な事柄に関する決定」の中になかった。むしろもし政治が共通の空間や共通の関心を共有することを事実にして出発しているならば、そしてもし「一般的な事柄に関するあらゆる決定が共通の土台の存在を求めているならば」、ランシエールによれば、適切な政治が土台を共有しながら競合する利益の代表の間に存在している固有の対立感情を描写することになることが指摘されていた[17]。

共通の土台を通じて、政治的なるものに対するランシエールの説明は適切な政治における概念(対立感情のようなもの)とランシエールがポリス体制と呼んでいるものとの間の違いから生じていた。適切な政治とポリス体制との間の根本的な違いは、ランシエールによれば、土台を共有した別々の利益の代表に現れていた。適切な政治は土台を共有した競合する性質を認め合うだけでなく引き出してさえもいた。他方でポリス体制は次のようなものであった。

「...(ポリス体制は)明確な論点、場、機能のアンサンブルやそれらに関連した特徴と力のアンサンブルとしての共同体を象徴しており、その全てが共同体のモノとプライベートなモノとの分配に配慮を加えることを前提にしており、その区別は明示されたものや暗黙のもの、ノイズや人間の言葉...等における秩序をともなう区分に依存していた。このような説明(論点、場、機能)は存在、行為、場に相応しい発言の意味を同時に決定していた。」[18]

この意味で(そしてランシエールは幾つかの重要な点でフーコーと意見を異にしていたけれども)、ポリスの概念に対するランシエールの説明はミシェル・フーコーの著作の中で与えられていた説明に類似していた。

2.1.2 感性の境界

ランシエールによる政治の概念化はフーコーの「ポリス」の概念をさらに一歩進めることを許容していた。ポリス体制の中で与えられた「構成要素」の定義が「存在、行為、発言の様式」を支配しているだけでなく[20](例えば、「場に相応しい」行動のルール)、むしろ名前が示唆しているように、特定の「感性の境界」は、理解できるものとできないもの言い換えるならばこの秩序の下で認識できるものとそれ以外との間に境界を引く行為でありポリス体制そのものであった。

この洞察は部分的には民主主義の起源に対するランシエールの問いに由来しており、部分的には対立感情の概念に対するランシエールの理論の役割に由来していた。それは「不和」と単に英語に訳される(政治における対立感情の構成要素を明示しながら)一方、フランス語の対立感情はある発言の状況における当事者間の誤解やより正確に言えばランシエールの意味において「過去をばらばらに語ること」を含意していた[21]。ランシエールの視点は誤解という事実が中立的なものではなく、むしろポリス体制の中で与えられた感性の境界が、理性的なディスコース(ユルゲン・ハーバーマスやジョン・ロールズの熟議民主主義のような)であるかもしくは動物の鳴き声であるかのように、ある見解の表明が言葉として聞こえるのかノイズとして聞こえるのかどうかを決定付けていることを強調していた。ランシエールによれば、「耳に入らない」声をラベリングする事実は(政治的な)アクターとしての声の内容を否定していることに関連していた。

2.1.3 ポリス体制の将来:過剰な構成要素、誤算、政治的主観

上述されたように、「理解」が「誤解」を伴う限り(例えばある社会的な課題が置かれた状況)、ポリス体制にとっての「適切なロジック」はランシエールによるアクティブでラディカルな平等を実現するロジックと一致していなかった。古代アテネ市民の主権の一部としてのデモを促していた不法な活動に対する説明の根拠として、ランシエールは民主主義を「権力を行使するためのばらばらの権利を有している人々にとっての特定の権力」として定義しており、「民主主義は考慮の対象外の人々にとっては矛盾に満ちた権力であり、その根拠は説明されていなかった。」[23] 適切な政治的な「行為」(バディウの言葉を借用すると)は稀なタイミングで起こり、その稀なタイミングで無党派の人々はこの権利を行使しており、その共通の利害関係において「侵害されたことに対する主張」を形成しており、「政治的主体化」の際つまり新たな政治的なアクターの誕生のときに、平等に対するロジックは適切なものに対する不平等主義を反映したポリス体制のロジックと重なっており、その声に耳を傾けることを主張している無党派の人々は感性の境界を決定する権利を侵害されており、説明責任を果たさない説明をするポリス体制によってなされた起点に該当する「誤り」を覆すことを行なっていた。

ランシエールにとって、「正当性と支配に基づく秩序の破綻」の瞬間[25]は1つの可能性であり、あらゆるポリス体制の究極の危機を前提にしていた。この主張はポリス体制との関係の性質によって無党派の人々に付与された作用によって説明されていた。ランシエールは労しながら、無党派の人々がある社会階級や排除された集団ではなく、状況に飲み込まれた混成集団であったことを強調しており、この混成集団は平等を手続き的に表現しているだけでなく、ポリス体制の中で予め与えられていたアイデンティティのように存在している新たな政治的アクターを含意しており、政治的な変動の前の段階ではこの2つの特徴はランシエールによれば政治で要求される水準に達していなかった[26][27]。その代わりに無党派の人々は「存在感なくどこにでもいる」脇役として考えられていた[28]。「...政治的なアクターはコミュニティの構成要素に包含することやその束に定義を与えている包含と排除の関係に疑念を呈している脇役のコミュニティであった。このアクターは...ある社会集団やアイデンティティに還元することができず、むしろ社会集団から外れたことを表明しているグループであった。」[29]

上記の特徴を概念化することを通じて、無党派の人々は力を生み出しており、適切なものに対するポリス体制のロジックは「これ以上何かを引き受けることが不可能な状況を前提にした」ロジックであり、「ある役割を果たし一定の空間を占有しているグループで構成される」全体像として社会を示すことが可能であることを仮定していた[30]。このロジックと反対の「全体は部分の総和に勝る」[31]といった古くからの格言を明示的ないし暗示的に示すものとして、必ずしも必要とされていない特徴を有した無党派の人々の存在が適切なものに対するポリス体制のロジックをラディカルに否定していることが指摘されていた。

2.1.4 ランシエール、ジジェク、バディウ、ムフにおける必ずしも必要とされていない特徴を有したものと普遍性

ランシエールの枠組みにはある矛盾点が存在していると思われていた。つまり政治的主体化はある場を肯定することをともなっているが、同時にその場のロジックや別の視点にとっての適切なロジックを否定していた。「コミュニティとともに」一体感を形成することを通じて一定程度「見えなかったものが見えるようになる」ことによって政治的な変動が引き起こされることを具体的に示していくことを通じてランシエールはこの問題を扱っていた[32]。ランシエールの主張によれば、明らかに普遍主義的な姿勢が社会空間をプライベートであり適切な場の集合に分割する個別主義的なロジックを否定するように機能しており、前述の矛盾点を解決していた。またランシエールによるポスト・ポリティカルなものに対する説明に関して、スラヴォイ・ジジェクは普遍的なものの役割を重視していた。ジジェクにとってある状況は以下のようなときに政治的になっていた。

...ある特定の要求...が権力を有している人々に対するグローバルないし普遍主義的な抵抗の暗示的な融合として機能し始めており、その抗議の含意はもはや単なるその要求そのものに留まらず、その特定の要求に共感するといった普遍主義的な次元を含んでいた。...ポスト・ポリティクスは特定の要求を暗示的に普遍化することを妨げるように作用していた[33]。

前述の矛盾点について、ジジェクによる「仮想化しきれない残余」[34]といった概念は普遍的なものを強調する以上に有益なことがあった。「残余」の意味はランシエールによる「余剰」と密接に関係していた。他方で「仮想化しきれないもの」といった概念は(社会空間等の公共空間を)分割することに対して強く抵抗することを含意していた(ランシエールが依拠している普遍主義的な姿勢以上に強く抵抗していた)。

この点でジジェクによる「残余」の存在論的状態はバディウによる『ノン・エクスプレッシブ・ダイアレクティクス』における特別な存在つまりジェネリックな集合に類似していた。数学における集合論に由来しており、ジェネリックな集合は「明確な説明や名前がなく分類上の位置付けを有しない数学的な対象...つまり名前を有していないことがその特徴である」に対してポール・コーエンによって与えられた名称であった。そのためそのジェネリックな集合が政治学における基本的な問題に対する対案を与えており、それはバディウによれば次のようなものであった。仮に法(ポリス体制)のロジックの紡ぎ合わせと欲望を解放するロジックとの衝突を通じて、欲望が法によって定められた存在論的宇宙を超えた何かに対して向けられているならば、政治活動における重要な問題は法や政治学の可能性に関する存在論的領域の下で規定されることのない欲望の対象を正確に表現する方法を見出すことであり、欲望の規定は欲望を否定することにつながっていた[35]。ジェネリシティ(一般性)がバディウの著作における普遍性に関連しながら、バディウによる普遍性はランシエールやジジェクにおける「余剰」や「残余」の概念を大きく発展させていた。またバディウによる普遍性はランシエールが社会全体を新たに概念化する際に適切な政治に対して現にそうしていた以上に強い方向性を示していた。もしくはジジェクは次のように述べていた。「...正統性のある政治...は一見不可能なテーマによる芸術であり、現状において「実現可能」と考えられている状況の背景を変更するものであった。」[36] したがってジジェクによれば対立感情の問題も同様に考えられていた。

余剰の概念は政治的なるものに対するムフの理論においてさまざまな目的を果たしており、それはムフやラクラウによるヘゲモニーについての概念に依存していた[37]。ディケージによれば、ラクラウやムフによるヘゲモニーは「完全に紡ぎ合わせられた社会ないし完全に閉ざされた社会」が存在し得ないことを仮定していた[38]。この理由としてヘゲモニーは対立感情を通じてのみ実現可能であったが、対立感情は何らかの欠落や余剰を通じてのみ存在しており、この視点によれば、コンセンサスは完全に閉ざされた世界のものではなく、むしろ「仮のヘゲモニーによる一時的な帰結」として存在していた[39]。飽和状態が存在し得ないことに依拠している点で、ムフによるポスト・ポリティクスに対する批判はランシエール、バディウ、ジジェクによる批判と重なる面を有していた。しかし飽和状態に対するムフの抵抗はポスト構造主義者の政治論やそれに付随する反本質主義によって示されていた。この点で政治的なるものに対するムフの理論はランシエール、バディウ、ジジェクと大きく異なっており、ランシエール、バディウ、ジジェクは影響を受けているポスト構造主義からの距離に配慮しており、少なくともポスト・ポリティカルな時代背景の確立に対する貢献を理由にしたものではなかった[40]。またムフによる理論は普遍主義的な態度をムフが示していなかったことを表していた。実際のところ、上述されているように、政治的なるものは普遍的なるものの代わりに対するヘゲモニーを巡る衝突であった。したがって正統性のある普遍性は存在し得ないものであった[41]。

2.1.5 飽和状態とポスト・ポリティクス

現在の危機は平等を否定しない条件下のポスト・ポリティカルな状況として特徴付けられており、その反対にポスト・ポリティクスの中心である先進国のリベラル・デモクラシーにおいては形式的平等が勝利を勝ち取っており、コミットし熟議するメカニズムを通じたデモクラシーの「成熟」が課題として残っていた。そして上述の哲学的展望からポスト・ポリティクスは、飽和状態を論じることや余剰を否定することを強調するグラデーションとして特徴付けられていた。したがって現在のリベラル・デモクラシーの危機において全てを民主的に組み込む方向性は飽和状態を付随するものであった[42][43]。他方で形式的平等の達成についての議論は「余剰」の事実を無視していた。コンセンサスに基づく受容と排除のストラテジーにもかかわらず、「余剰」の事実が現在明らかに示されており、第一に現実社会や物質的不平等の深化を通じて、第二にポスト・デモクラシーにおけるコミットメントについて条件付けられた状況に抵抗する適切な政治的態度を通じてなされており[44]、つまりそれはポスト・ポリティカルなコンセンサスについての承諾に対する抵抗であった。

3 ポスト・ポリティクスと環境

ジジェクやバディウが明らかに認識していたように、ポスト・ポリティカルなシナリオは環境分野でも進んでいた[45][46]。この認識によれば、環境地理学者であるエリック・スィンゲドーは環境政治学においてポスト・ポリティカルな状況の現れを認める研究を主導していた。

3.1 環境政治学におけるポスト・ポリティカルな状況の現れ

3.1.1 ポスト・イデオロギーにおけるコンセンサス

前述のようにポスト・ポリティカルな外観はコンセンサスによる抑制的な役割によって特徴付けられていた。市場とリベラルな状況が原理を形成し、現在におけるグローバルな「メタレベル」のコンセンサスはコスモポリタニズムや人道主義を(政治的なるものよりむしろ)対応している道徳的な価値システムに関する中心的で異論の余地のないドグマとして認識していた[47]。地球サミット(1992年)から約20年間にわたって、持続可能性は道徳的な秩序におけるこのような新たなドグマとして確立されることにとどまっていなかった。ドグマを形成しながら、グローバルなコンセンサスは現在におけるポスト・イデオロギー時代の「イデオロギー」の1例として歩み出しており、スィンゲドーが述べているように、持続可能性は適切な政治的対立を欠落しているため、達成目標に合意しない選択肢を持ち合わせていないことを背景に抱えていた[48]。

持続可能性の言説を通じた自然に対するある描写に関するスィンゲドーの分析はその理由を説明していた。スィンゲドーは持続可能性を通じた政治的な論争の対象になっている自然が人間の介入によって「調和を乱されて」存在論的に安定を前提にしたラディカルに保守的な存在として取り扱われていると論じていた。現実の自然における複数性、複雑性、予見不可能性を否定することを通じて、持続可能性は自然を「暗号に変えて」おり、どのような種類の社会環境の中で暮らしたいのかといった適切な政治的問いに対する論争を回避する(市場に基づいた)現状維持の解答を呈示していた[49]。 

3.1.2 管理主義とテクノクラシー

ポスト・ポリティカルな状況は専門家の登場によって特徴付けられていた[50]。ある程度の民主的な方法に立脚していたものの(ギデンズによる社会的再帰性についての論文によって示されている熟議を伴う関与を通じて[51])、専門家による決定が適切な政治的論争に取って代わるようになっていった。

この傾向は環境分野において特に顕著であった。ゲルト・フーミンネやカレン・フランソワによれば[52]、環境分野で増大している科学による「植民化」以上の関心は科学におけるラディカルなノンポリ化のロジックが植民化を進めていることにあった。ブルーノ・ラトゥールを引き合いに出しながら、フーミンネやフランソワの著作は科学に基づいた著作を問題の俎上に上げており、科学は「事実」を産み出している物質的世界を中立的に表現している訳でもなく、自然を表現する科学の正当性が緻密な検討を逃れるはずもなかった。それと対照的に、「...近代憲法における事実と評価の区別が現実を形成するプロセスを曖昧にするように作用しており」[53]、ポスト・ポリティカルな状況の形成を促しながら、政治は「コンセンサスに依拠した社会科学的な知識によって要素が決定されたプロセスの管理」に矮小化されていた[54]。環境政治学において、「意見の不一致が許容されていたが、技術の選択、組織の軌道修正、管理上の問題、タイミングの選び方においてだけ通用するものであった。」[55] グローバルな気候変動への対応に関して、気候学者による解釈を巡る論争が「気候における正義」についての疑問から注意を逸らしていることがその例であった。

そのため国家を超越した統治[56]へ向かう新自由主義的な移行を伴いながら始まったテクノクラートによる「ポスト・デモクラティック」な潮流はコンセンサスによる政治によって擁護されていた。そして特に環境分野は新自由主義的な統治における試行錯誤のための特別な領域になっていたため、ポスト・ポリティカルな潮流からの影響を非常に受け易かった。環境政策における新自由主義的なシフトは1990年代にニュー・パブリック・マネジメント(NPM)からの影響の増大[57]や新たな環境政策手法(NEPIs)に対する選好の増加によって特徴付けられていた。他方で特段示すべき内容は費用便益分析(CBA)のような量的分析が優勢であることや単位変更、会計、監査、性能測定に対する「ポスト・デモクラティック」な関心とミッチェル・ディーン[58]が呼んでいたものの例としての新たな炭素市場における規制機関の広がりだけであった。

また後者の関心についてバーバラ・クルックシャンク[59]やディーンは新たな「市民権のテクノロジー」と「ポスト・デモクラティック」な状況を結びつけていた。生権力の形態として、新たな「市民権のテクノロジー」が国家によって意図的に形成されてきた道徳的に責任があり自律的な主体に「規制する能力」[60]を移すように機能していた[61][62]。ウルリッヒ・ベックのようなコメンテーター達はこの新たな「市民権のテクノロジー」が誘導している政治を個人に引き付けることについての一歩進んだ可能性に対するパラダイムとしての環境保護主義を歓迎していた[63]。しかしスィンゲドーによれば、先進国によく見られるように環境保護主義が個人に立脚した道徳的な選択を強調していたこと(ライフスタイルのような)が人間社会と自然との構造的な関係についての適切な政治的問題から離れたところに注意を促すように機能している可能性が指摘されていた[64]。

3.1.3 特定の利益を巡る交渉としての政治

ジジェク[65]やランシエール[66]が論じているようにポスト・ポリティクスにおいて、特定のグループによるある政治的主張はそのグループにおける潜在的に普遍的な特徴を否定されていた。そしてウースターリンクやスィンゲドーがポスト・ポリティカルな議論をブリュッセル空港に関連した騒音公害を巡る論争に適用していたことがその例であった。騒音公害による地域差を包含した衝撃は住民同士の関係にひびを入れることになり、グローバルな「ジャストインタイム生産システム」(利潤追求の極みのひな形)に対抗する普遍的な主張が表面化する可能性を排除していた[67]。

3.1.4 ポピュリズムや適切な政治的なるもののリバイバル

適切な政治的なるものの残余としてのポピュリズムはポスト・ポリティカルな状況を示す前触れであった[68]。まずポスト・ポリティカルなコンセンサスは適切な政治的なるものに対する代わりとしてのポピュリストによる意思表明を指向していた[69]。そしてコンセンサスに依拠した政治の限界に対する人々のフラストレーションが、コンセンサスに依拠した秩序を脱政治化する試みに際して、ポピュリストの手によって具体化した代案に譲る形となっていた[70]。

ポピュリズムにおける最も際立った特徴の1つは共通した外部の脅威ないし敵を想起させることにあった。敵を想起させることを通じた同質化の影響によってポピュリストによる意思表明の核となる「国民」に対する反動的で硬直的な架空の概念が形成されていた。スィンゲドーによれば[71]、気候変動に関する政治において「国民」は人為的な気候変動に対処する能力や責任の違いを考慮されることなく共通の苦境に直面している一体化された「人間」になっていた。気候変動を巡る言説における警鐘的なトーンを分析した他の研究者によれば[72][73]、スィンゲドーは想起された終末論的な虚構が外部の脅威を形成しながらエリート主導で十字軍的な行動を促していたことを強調していた(エリート主導の十字軍的な行動はポピュリズムの古典的な特徴を備えていた)。そのため環境保護主義的なコンセンサスはポピュリストによる側面を含んでいるものであった。

他方でジジェクが示しているように[74]、コンセンサスに対する不満は極右運動を好む傾向があり、極右のポピュリストによる戦術は上述された適切な政治的なるものに代替する同様の必要性に対応しており、極右の暴力的な意思表明は対立感情を煽る適切な政治的プロセスを模倣していた。他方でコンセンサスに基づく企業戦略[75]とジジェクが「ポピュリストによる誘惑」と呼んでいるものの双方に抵抗している適切な政治的主張は暴力や暴動としてのみ表面化していた[76]。環境分野における「資源を巡る紛争」に対するメディアの報道は、中立性を装った適切な政治的側面(もちろんポピュリストによる側面を伴うかもしれないし、必ずしも進歩的である訳でないかもしれないが)をよく表しているかもしれない論争の好例であった[77]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Post-Politik

ポスト・ポリティクス

ポスト・ポリティクスは政治を脱政治学化した体裁を整えていた。そして議論の枠組みは既に想定されていたものであった。

その概念はフランスの政治哲学においてジャック・ランシエールによって深化されており、ルイ・アルチュセールに由来しており、適切に導かれ、国家によって政治的な力を律せられた「ポスト・デモクラシー」の概念と類似していた[1]。

1 語法

スラヴォイ・ジジェクによれば、ポスト・ポリティクスはあるプロセスであり、特定の利益を巡る交渉についてのプロセスを伴っており、[...]多少なりともの妥協を包含していた。公開討論や政治問題の形成が論点の対象ではなくて、(グローバル資本主義における)枠組みの中で機能している特定のイデオロギーにとらわれない理念が議論の対象であった。そして特定の政治的主張を行うための多くの専門家や(グローバルに活動する)ソーシャルワーカー他が問題に関与しているため、問題を普遍化する行為や中立的に作用する行為の蓋然性が否定されていた。「普遍的な関心は特定のグループによってそのグループの問題に収斂されていた」(ジジェク)。また問題の前提を普遍化する行為は特定のグループの利害関係抜きに形成されることはなかった。このことはジジェクによって明らかにされた訳ではなく、(パラドキシカルであるが)システムや組織内のグループを通じて示されていた。特定のグループによる要求は単純な主張を通じて論じられており、それが意味している中身が問われることはなかった。ポスト・ポリティクスは問題の(奥にある)前提を普遍化することに対して抵抗しようとしていた。例えば「新たな税制」を求める声に対して、公共の問題としての視点よりむしろ特定の視点からの普遍性が叫ばれており、その状況は政治的に扱われたものであった。

ポスト・ポリティクスにおけるもう1つの特徴は、行政の政策を「特定の利害を反映した」政策として「純粋に」行政の利害を反映した政策と見做している点にあった。そして一切の(不可避の)政治的な論争(ポレモス)なしに「最善の解決法」(ロゴス)を見出すことが重要であった。しかし政治学において財・サービスの分配や再分配の問題の帰結として、ポレモスのないロゴスは存在しておらず、また利害や特定の視点を形成することのない政策も存在していなかった。ジジェクによる選択肢は「正統性のある政治が一見不可能なテーマによる芸術であり」、「現状において「実現可能」と考えられている状況の背景を変更すること」にあった[2]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Metapolitics

メタ・ポリティクス

メタ・ポリティクスは政治に対するメタ言語学であった。そしてそれは政治そのものとの政治的なダイアローグであった。この意味でメタ・ポリティクスはさまざまな形の問いかけを意味しており、政治や政治的なるものに関する言説に対してオルタナティブな方法を採用していた。このメタ・ポリティクスは政治的な問いかけや政治そのものに関する分析的・規範的言語に影響を与える自意識の役割を前提にしていた。つまりメタ・ポリティクスは政治が政治と対話する方法についてのダイアローグであった。

もし研究者が言語を研究の対象にし分析を加えて説明するならば、その研究のために用いられる言語はメタ言語であった。現在メタ・ポリティクスという語は主体に関するポストモダンの議論やポストモダンの議論と政治学との関係に関連させてしばしば用いられていた[2]。広い意味でメタ・ポリティクスは国家と個人の関係を研究する方法論であった[3]。

現代の視点

メタ・ポリティクスにおける2名の重要な現代の思想家はアラン・バディウとジャック・ランシエールであった。バディウによるメタ・ポリティクスを論じながら、ブルーノ・ボスティールズは次のように述べていた。

「バディウは、言うまでもないことだが「政治的なるもの」でなく「政治」を思考のアクティブな姿ないし思想のプラクティスとして把握することを提唱することを通じて、ハンナ・アーレントやクロード・ルフォールに連なったグループに関連した政治哲学の伝統に対して反論していた。そしてバディウは民主主義、正義、テルミドーリアニズムに対する事例を研究する以前に、師であるルイ・アルチュセール、その同時代のジャック・ランシエール、シルヴァン・ラザロによる仕事の内容を「メタ・ポリティカルに」指向する議論の周辺を評価していた。」[4]

https://fr.wikipedia.org/wiki/Métapolitique

メタ・ポリティクス

「メタ」(ギリシア語の「向こうにある」)や「ポリティクス」(ギリシア語の「ポリス」であり、都市、政権を意味していた)という語の合成であるメタ・ポリティクスは文字通りに解釈すれば「政権の向こうに存在するもの」を意味していた。アリストテレスの時代(前4世紀)から用いられている「形而上学」といった語との違いに関して、18世紀までドイツやフランスの哲学者の目に触れられていなかったことが指摘されていた。しかし権力に関連しており長期政権を指向している政治の向こうに存在している活動や思考の場を示しているメタ・ポリティクスという語の実際の意味は20世紀後半に登場しており、イタリアのマルクス主義者であるアントニオ・グラムシの著作に依拠していた。

1 近代の概念の起源

フランスにおけるメタ・ポリティクスの概念はドイツの哲学者であるクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(1762-1836)やアウグスト・ルートヴィヒ・シュレッツァー(1735-1809)の語を援用していたジョゼフ・ド・メーストルの著作の中に初めて登場していた。

「私はドイツの哲学者たちが形而下学というよりむしろ形而上学としての政治的なるもののためにメタ・ポリティクスという語を考案しているのを耳にしたことがある。この新たな語は政治における形而上学を表現するために考案されており、一語であるがゆえに関心を集めやすいことが背景に存在していた。」[1]

レイモン・アベリオの難解な視点によって部分的に援用されている伝統的な意味において、国際政治学の発展はプロトタイプの神や政治の超越をなぞらえており、その意味を把握し具体化し将来を見据えるために認識し解釈することが問題であった。仮に世界を含めた維持可能な調和や善良な知性が存在していないならば、生活している個々ないし全員のために、メタ・ポリティクスのみが人間に対して社会を普遍的なロゴス(エコロジー経済学を含む)と対応させることを許容していた。

形而上学における概念がプラトンに関係しているように、メタ・ポリティクスにおける概念はソクラテスに関連しており、ソクラテスは教育を受けた市民による真の民主主義を通じた良い統治の原則を初めて明らかにしていた。

2 メタ・ポリティクスと右翼におけるグラムシズム

全く別の文脈において、イタリアの反体制派の共産主義者であるアントニオ・グラムシ(1920-30年代)の指摘から派生したメタ・ポリティクスの概念は1970年代に「新右翼」と呼ばれる思想の潮流によって発展していた。その政策は(政治における)実際の権力を手中に収める前にイデオロギーや文化の土俵で活動することから始まっていた[2]。

この政策は共同体や市民社会の価値観・思想に浸透していくことを含んでおり、手段やターゲットにする政治家を考慮しておらず、「グレーセ・ポリティーク」(ニーチェ)の延長にあり、歴史的な影響を追求する傾向にあった。

メタ・ポリティクスは「政治家による」政策を超越しており、その視点によれば政策には何らかの誇張があり、それはもはや政治のフィールドから離れたものであった。メタ・ポリティカルな政策は以前の価値観が流行り廃りを経て長期の影響をもたらす世界観を浸透させていた。またこの政策は短期の権力を手中に収めることと両立していなかった。仮に時代の精神の兆候として変化が求められていないならば、その定義によってメタ・ポリティクスは何らかのイデオロギーに基づいた動機をもたず、現在の政治に関心を寄せることを想定していなかった。

フランスにおけるメタ・ポリティクスの理論はアラン・ド・ブノワ、ジャック・マルロー、ピエール・ル・ビガンと共にヨーロッパの文明を研究の対象にしていた。

特にメタ・ポリティクスはイタリアの共産主義者であるアントニオ・グラムシの思想から影響を受けており、グラムシは「有機的知識人」による文化闘争を長期にわたる政治活動の成就の前提にしていた。

「グラムシアンの理論は基本的に市民社会を経済的基盤の状態に還元する古典的なマルクス主義と異なっていた。グラムシアンによれば、経済のカテゴリーは1つのセクターに過ぎず、文化のカテゴリーが権力を巡る闘争に影響を及ぼしていることが指摘されていた。文化は政治権力を批判することを通じた知的手段によって変化をもたらす必要がある基盤を構成していた。」[3]

メタ・ポリティクスを否定せずに、アラン・ド・ブノワは知的影響力や思想の影響力を技術進歩のような現代における変化の要因と比較し相対化していた。

「もちろん現在の世界において過去の役割と比較できる役割を思想が維持しているのか否かについては疑問の余地が残っていた。知識人が少なくともフランスを含む国々において真の意味での道徳的影響力を有している時代は明らかに過ぎ去っていた。大学はメディアを通じてその特権の多くを失っていた。そしてテレビのようなメインストリーム・メディアは込み入った思想を伝えることが苦手であった。このような時代において最も決定的な社会変革が古典的な政治の主体でなく技術革新によってもたらされていることは明らかであった。それでも思想には意義があり、その思想が価値観やグローバル社会に依拠した価値システムに影響を及ぼしていたことを理由にしていた。この時代の最大の特徴の1つであるネットワークの多元化がその思想の広がりを促す可能性を内在させていた[4]。」

3 アラン・バディウとメタ・ポリティクス

近年メタ・ポリティクスの概念が毛沢東主義者であるアラン・バディウによって取り扱われていた。

「メタ・ポリティクスを通じて、私は哲学が現実の政治思想から導き出している影響を理解していた。メタ・ポリティクスは政治に思想の影響がないことを望む政治哲学と対立しており、政治的なるものを考えるために哲学に回帰することになるだろう。」[5]

http://de.wikipedia.org/wiki/Metapolitik

メタ・ポリティクス

メタ・ポリティクス(ギリシア語の「向こうにある」と「政治」)は政治学や純粋な哲学的国家論であり、特定の国家の立場を通じて対象にされることもなければ、それらと関連することもなかった。

1 さまざまな思想

メタ・ポリティクスという語はフランス語圏のジョゼフ・ド・メーストルの著作の中に初めて登場していた。1985年の講演の中に「メタ・ポリティクス」というタイトルが含まれており、国際政治、環境政策、人類の発展における問題を扱っていた。

1.1 アラン・バディウのメタ・ポリティクス

『ユーバー・メタ・ポリティーク』という著作を通じてアラン・バディウは政治学における「解放のための」存在論に取り組んでいた。メタ・ポリティクスを通じて政治学は現実を検証する思想として理解されていた。バディウにとって政治の基本は民主主義にあり、民主主義は工場や土地の占有のような政治上の動きを通じて形成されていた。したがってバディウは制度化された民主主義を政治的特徴を喪失したものとして示していた。正義と平等は制度化された政治を通じて脱政治化され解体されており、個人の活動にしか実現されていない状況であった。バディウはアリストテレスの言葉である「平等を求める人々はたいてい暴動を掻き立てる」といった一節を引き合いに出しながら「平等を求める人々」と制度化された政治を比較していた[1]。

1.2 新右翼の思想

右翼メディア-特に『ユンゲ・フライハイト』誌-の言説分析からデュースブルク・インスティトゥート・フューア・シュプラーハ・ウント・ゾツィアールフォルシュング(DISS)までをカバーしながらアラン・ド・ブノワのような新右翼の思想家は「文化闘争」や「右からの文化革命」といった枠組みの中でメタ・ポリティクスの概念を用いながら「生命の意味より軽い存在はないとの前提を組み込んだ主張にともなうインターディスコースの発生」を説明していた。そして『ガイスト・ディー・ヴェルト・レギールト』といったアルミン・モーラーによる表現活動の後、右派の立場から精神的な土台を与えられた「グラムシズム」が形成されていった。シャルル・シャンプティエやアラン・ド・ブノワによれば、歴史は「たしかに人間の意思や活動から展開しているのだが、これらの意思や活動はその意味を与える前提によってすでに定められた枠組みの中で機能していた。」 フランスにおける新右翼はド・ブノワによれば「集合意識」としての国民や国家を想起させる神話や思想の形でリバイブしており、「新たな統合を通じた生命や意味を柱としながら」、「思想のつながり」を通じた「世界観」を与えていた。ロジャー・グリフィンはそこにある潮流を見出しており、それは「ファシズムから本物のメタ・ポリティカルな姿への移り変わり」を示していた。カールハインツ・ヴァイスマンによって『クリティコン』誌に公表された構想つまり『ユンゲ・フライハイト』誌における活動や「資本主義を通じて情報やライフスタイルに影響を与えるために」政治性を帯びる以前の枠組みによってもたらされる場は、DISSによれば、文化的なヘゲモニーを獲得することを狙ったメタ・ポリティカルな政策として認識されていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-democracy

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーという語はウォーリック大学の政治学者であるコリン・クラウチによって『コウピング・ウィズ・ポスト・デモクラシー』といったタイトルの著作の中で2000年に作られた造語であった。ポスト・デモクラシーはしっかりと機能している民主主義システム(選挙が行われることによって政権が交代し、また言論の自由が存在している状況)によってもたらされる状態を示していたが、そのような民主主義の事例はまだ限定的であった。またこの議論の前提として器の小さいエリートが問題になる決定を行い民主主義の制度を濫用していることが指摘されていた。クラウチはロンドンのシンクタンクであるポリシーネットワークにおける『イズ・ゼア・ア・リベラリズム・ビヨンド・ソーシャル・デモクラシー?』といった論文や『ザ・ストレインジ・ノン・デス・オブ・ネオリベラリズム』といった著作の中でポスト・デモクラシーに関するアイデアを深化させていた。

ポスト・デモクラシーという語は21世紀における民主主義の進化を説明するために登場していた。この語は論争を呼んでおり、その基盤の一部を喪失しながらある種の貴族社会を指向していると認識されている民主主義に対して関心を惹きつけていることが理由として指摘されていた。

1 背景

クラウチは次のような背景を示していた。

共通の目標の喪失:脱工業化社会に生きる人々にとって、特に下層階級の人々がグループに帰属することがますます困難になっており、結果としてそのような人々を代表する政党に焦点を当てることも困難になっていた。例えば労働者、農家、起業家はもはや政治活動に魅力を感じておらず、このことはグループの成員としての共通の目標が喪失されていることを意味していた。

グローバル化:グローバル化の影響は国家が自国の経済政策を機能させる力を損なわせていた。そのため大規模な貿易協定や超国家連合(例えばEU)が政策を形成するために用いられていたが、このような政治が民主的な手段によってコントロールされることは非常に困難なことであった。

バランスを欠いたディベート:多くの民主的な国々において、政党の立場は非常に似通っていた。このことは有権者にとって選択できるものがないことを意味していた。その影響は政治的キャンペーンが立場の違いを強調するための広告のように映っていることにあった。また政治家の私生活も選挙の重要な道具になっていた。そして時折「センシティブ」な問題が争点から外されることがあった。イギリスの保守派のジャーナリストであるピーター・オボーンは2005年総選挙のドキュメンタリーを通じて、争点を限定的にして多くの浮動票をターゲットにしたことを理由にして総選挙が民主的なものではなかったと論じていた。

公共部門と民間部門の交錯:政治とビジネスの間の金銭的な癒着が大きな問題であった。ロビー企業を通じて多国籍企業はその国の住民より上手に法律をくぐり抜けることが可能であった。そして企業と国家は緊密な関係にあり、その理由として企業が雇用に大きな影響を及ぼしている点で国家が企業を必要としていることが指摘されていた。しかし製造プロセスの多くがアウトソーシングされており、企業が他国に逃げることが容易であるため、労働者は低賃金労働に従事することになり、さらに納税の主役は企業から個人に移り、その目的は企業にとって有利な条件を生み出すことにあった。そして政治家と経営者が政府からビジネスへ他方でビジネスから政府へジョブをスイッチすることは非常にありふれた光景になっていた。

私有化:公共サービスを民営化することを推進する「新しい公共経営」(ネオリベラリズム流の)の考え方が広まっていたが、民営化された組織は民主的な手段によってコントロールすることが困難であった。

2 結果

結果として:

ほとんどの有権者が投票する権利を十分に活用していないか、投票に多くを期待していなかった。

政治家は国民投票や世論調査における好ましくない結果をよく無視していた。2005年にフランスとオランダの国民が欧州憲法に対してノーを突きつけたときに、少し修正を加えただけで、フランスやオランダはこの条約を批准していた。

排外主義の政党の登場は国民の不満を利用したものであった。

そして外国政府が主権国家の内政に影響を及ぼす可能性が存在していた。クラウチによれば、ユーロ危機の処理はポスト・デモクラシーにおいて物事が機能するための方法論を示す好例になっていた。ヨーロッパのリーダー達はイタリアの新政権に対して何とか守らせるべきものを守らせようとしており、特にギリシアでは国民に対する遥かに厳しい措置が取られていた。

3 解決の道

クラウチによれば、ソーシャルメディアには重要な役割があり、有権者が公のディベートに対して積極的に参加する可能性を広げていることが指摘されていた。この延長として有権者は特定の利害を擁護するグループに参加する必要に迫られるかもしれなかった。また市民が意思決定する場をその手に取り戻す必要が存在していた。クラウチはこのような市民参加をポスト・ポストデモクラシーと呼んでいた。

オキュパイ・ウォールストリートは組織化されないある種の抵抗運動であり、金融業界に関する不満から生じていた。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Post-démocratie

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーは民主主義のルールに則った状況を意味していたが、実際は民主主義のルールの適用を制限しているように考えられていた。例えば経済学者であるセルジュ・ラトゥーシュによれば、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー――格差拡大の政策を生む政治構造』を引き合いに出しながら、ポスト・デモクラシーは「私たちが今日経験しているようにメディアやロビー活動によって巧みに操作されながらでっち上げられた民主主義」を示していた[1]。

1 語の定義の試み

この語は21世紀における民主主義の進化の状況を説明するために登場していた。

この語は論争を引き起こしており、ある種の貴族主義的なルールを指向するために民主主義のルールの一部が喪失されていったことが理由として指摘されていた。

民主的な社会はそのための5つの基準と比較されていた:

自由な選挙を通じて権力を行使するリーダーシップを選択すること。

政治的な対立陣営や表現の自由の存在。

法に則った司法システムの存在。

少なくとも2つの選択肢(「実際に」民主主義を体現しているもの)を有していること。

自由で独立したメディアの存在。

これらの基準は次のように纏めることが可能であった:

代表者の選挙。

市民権を得ている人々や市民権を得ていない人々に対して法が保護している権利。

バランスの取れたディベートを認めること。

ポスト・デモクラシーは次のように纏められることが可能であった。

国民を代表していない人々を選択する選挙。

国家や権力によって尊重されていない法的権利。

少数のテーマに限定しており、ある一定の議論にしか賛同しないバランスを欠いたディベート。

2 スーブレイニストのビジョン

ポスト・デモクラシーを考察するもう1つのアプローチは、市民の論点がもはやローカルでなくグローバルのレベルで論じられていることに対して肯定的に反論することであった。

国家を超越した政治主体

多国籍企業の管理

スーブレイニストは民主的な議論のための理想的なレイヤーは国家であると考えていた。

3 事例

議会の事例:他の場所で決定された法の適用。

司法の事例:政府内の司法的な手段、意図されていない目的で活用されている国際仲裁裁判所。

排除された人々:民主主義のレベルを示すインデックスとして。

ディベートの内容:民主主義の健全性を示すインデックスとして。

民主主義に対する指標:民主主義のあらゆる側面を評価するために検証可能な基準を制定すること。

同じ視点から同じ情報しか解説していない独立系メディアの拡大。

http://de.wikipedia.org/wiki/Postdemokratie

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーは市民の参加(インプット)ではなく公共の福祉のために奉仕しながら公平な分配の基準を満たす成果(アウトプット)だけを問題にしていた政治システムを分析していた。集団に対する拘束力を有する決定について民主的なプロセスは脇役としての意味しか与えられていなかった。そして公共の福祉を尊重する政治を通じて多数決や民主的にコントロールされた決定が適切になされているときに民主的なプロセスに価値があると思われていた。

多元論と対照的にポスト・デモクラシーでは、公共の福祉の内容を客観的に認識することが可能であり、民主的なプロセスを通じて利害の対立を調整せずに経営管理の視点を通じて問題を解決することを前提としていた。

選挙で選ばれた代表達はその権限(責任も含めて)を専門家、委員会、民間企業に委ねていた。市民は主権者としてみなされておらず、専門家による決定を受け入れる必要があったが、同時に有能な存在でなければならず、グローバル市場の前提であり正義を実現するものとして実際は公共の福祉を口実にした専門家からの要求を受け入れていた。

1 コリン・クラウチ

イギリスの政治学者であるコリン・クラウチ[1]はポスト・デモクラシーを次のように定義していた。

「選挙を経験しない専門家の役割[...]、選挙期間中の公開討論はスピンドクターによってコントロールされており、その内容はエンターテイメントに堕しており、矮小化された問題のみを論じており、その論点はそのスピンドクターによって周到に選び抜かれていた」[2]。

クラウチによる民主主義の定義によれば「大多数の人々が真剣なディベートや論点の形成に関与しており、世論調査の回答に対して消極的でなく、ある意味で政治評論家の役割を果たしており、次に現れるであろう政治的課題に取り組んでいること」が想定されていた[3]。

グローバル企業と国家の連携がポスト・デモクラシーを進展させていた。クラウチによれば、国際協調を通じた賃金、労働権、環境基準の調整が企業活動のグローバル化より遅れていることが主要な問題であることが認識されていた。多国籍企業が税制や労働環境に満足しなければ、職場を海外に移転することをカードにして揺さぶりをかける可能性が指摘されていた。このような揺さぶりの舞台(底辺への競争)は政府の決定に対して企業の影響が市民の影響より強いことを背景にしていた[4]。主要な論点は西洋の民主主義がポスト・デモクラシーの状態に近づいており、その後「恵まれたエリートの影響力」[5]が増大する点にあった。

他の論点として1980年代から政府が民営化を促進しながら市民の責任を重くする新自由主義を採用していたことが指摘されていた。クラウチは次のような事例を示していた。「国家が市民の生活に対する関心を失い、市民の無関心を助長するならば、気付かれないように企業はこのような状況を活用してセルフ・サービス方式を普及させていた。新自由主義の根底にある見通しの甘さはこのような状況を認識していないことにあった」[6]。

リッツィーとシャールはポスト・デモクラシーを「完全な民主主義という枠組みにおける擬似民主主義として認識することを通じて」説明していた[7]。

クラウチはポスト・デモクラシーという語が状況を適切に表現していると考えていた。「この状況のような民主主義においてある種の怠慢、葛藤、失望感が広がっており、強力な利益集団の代表達は[...]大多数の市民よりはるかに積極的に行動しており、エリートは国民の要求を操るための方法を学習しており、市民に対して選挙に行くように広告キャンペーンを通じて「上から」説得していた。」[8] またクラウチはポスト・デモクラシーが非民主的な状況とは異なっていることを指摘していた。

1.1 政治的なコミュニケーションの変質

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示している他の特徴は広告業界やテレビの商業主義を通じた「政治的なコミュニケーションの変質」[9]にあった。メディア関連企業はある側面では「営利部門の担い手」[10]でしかなく、他方で「メディアに対する支配力はごく少数の人間に集中していた」[11]。その一例としてシルビオ・ベルルスコーニやルパート・マードックが指摘されていた。「このような状況は政策決定者が一般人とのコミュニケーションの問題を解決することを容易にしており、民主主義にとってよかれと思ってなされたことがかえって損害をもたらすケースを示唆していた」[12]。

1.2 少数者に付与された特権

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示しているもう1つの側面は「市場経済や自由競争のレトリックを口実にして特定の実業家に政治的な特権を付与していること」にあった[13]。そしてこのような特権の付与は「民主主義にとって深刻な問題」になっていた[14]。

1.3 階級の喪失

ポスト・デモクラシーの兆候は多くの人々によって「社会階級が消滅した」と考えられていたことを通じて確認されていた[15]。社会階級の消失は「伝統的な労働者階級が衰退していること」[14]や「他の階級が連帯しないこと」[16]に依拠していたが、欧米における富の格差は十分に認識されていた。

1.4 クラウチによる処方箋

クラウチは「ポスト・デモクラシーへの道」を回避するために3つのステップを指摘していた。それは「まず経済界のエリートによる支配を制限する手段を確立し、次に経済に左右される政治の状況を改革し、最後に一般人の活動の可能性を広げること」であった[17]。最後の点を言い換えるとそれは「新たなアイデンティティ」[18]を形成することであり、例えば地域の寄合いを通じて関係者の活動の可能性を広げることを含んでいた。民主主義のリバイバルに対する希望は一般人のアイデンティティに影響を及ぼす新しいタイプの社会的ムーブメントに内在していた。このムーブメントは成果を上げるためのロビー活動を通じた「ポスト・デモクラティック」な仕組みを活用しなければならなかった。そして政党は民主主義のリバイバルのための核となる部分を残す必要性に直面していた。また政党による支援はクラウチによれば民主的な変化にとって必要なものであった[20]。クラウチは「動物愛護のための過激なキャンペーン、アンチ・キャピタリストやアンチ・グローバリゼーションのアクティビスト、レイシズム団体、リンチと変わらない犯罪撲滅キャンペーン」に反対していた[21]。

これらの新たなムーブメントは「民主主義の活力」や「エリートによって操られる以前の政治[...]」に貢献すると考えられていた[22]。

1.5 ポスト・デモクラシーの派生

政治学者であるローランド・ロスは自治体レベルでの市民の関与を深め、民営化された施設を再度公営化するようにパブリックスペースを国家を通じて再生し、アクターに参加を促すことを提案していた[23]。ダニエル・ライトチヒは市民の判断、リキッド・デモクラシー、セルフ・マネジメントへの回帰、より小さな行政単位、子供の頃からの社会参加の機会の拡大、対抗的な公共圏の構築に言及していた[24]。

1.6 事例

クラウチによればニューレイバーは「ポスト・デモクラティックな政党」の例であった[25]。サッチャリズムによる新自由主義的な政策の継続を通じて「政党は[...]労働者階級からの社会的関心を失っていった」[25]。その例外は特定の女性差別に対する対応であった(「第三の道」を参照せよ)。クラウチによればオランダでは労働党が「オランダの奇跡」を実現していた[26]。しかしクラウチによれば「フォルタイン党が庶民に向けた「分かりやすさ」に対して抵抗しないオランダのリーダーが数多くの妥協を繰り返していたとオランダ人が考えるようになっていたこと」を通じて、2002年の選挙でフォルタイン党は成功を収めていた。「そして誰も特定の階級の利益を擁護しようとしていなかったことを背景にして、たった1つの表現を通じた「分かりやすさ」によって、移民やエスニック・マイノリティを排斥する「人々」や「国民」を動員していた」[27]。クラウチはベルルスコーニによるフォルツァ・イタリアを21世紀に特有の政党として分類していた。

ポスト・デモクラシー特有の傾向は国際的な統合の帰結から生じており、そこにはまだ共通の議論の土壌も国際紛争を民主的に解決するためのコンセンサスを形成する土台も存在していなかった。この事例は欧州連合になり、実際のところ欧州連合は民主主義の赤字を部分的に抱えていた。そして政治的な運動は欧州連合の政治システム特に欧州憲法における民主主義の赤字を具体的に改善する[28]ことを十分に考慮していなかった。

1.7 評価

インタビューの中でクラウチはオバマの運動が「民主主義の内部崩壊についての私の主張を否定することになった」と述べていた。「そして「確かにオバマは民主党の候補者であったが、実際のところオバマは若者をホワイトハウスへ送ろうとする運動の中に位置付けられており、将来に対する希望であった」[29]。

南ドイツ新聞の書評を担当しているイェンス・クリスチャン・ラーベは民主主義が本質的にエリートに起因する問題を抱えていると主張していた。そして連邦憲法裁判所を引き合いに出していた。イェンス・クリスチャン・ラーベは「ポスト・デモクラシーにおける[...]二重の現象つまり連邦憲法裁判所における規範に則した政治の理解と現実に則した政治の理解が二重に生じていたこと」を批判していた[30]。

またユルゲン・カウベはクラウチによる規範的なアプローチを批判していた。つまりクラウチはフォーディスト社会を理想としており、現在の多国籍企業によるインパクトを過大評価していると考えられていた[31]。ユルゲン・カウベはクラウチが示しているような民主主義のモデルを幻想の産物と考えていた。クラウチは著作の序章でその理想とするものが多大な労力を必要としていることを認めていた。しかしクラウチはハードルを少なくすることが発展に伴う負の側面を見逃すことになると主張していた[32]。

クラウス・オッフェはクラウチが「個々の国家や政治を極度に細分化しながら分析していたこと」[33]を批判していた。

パウル・ノルテは人々がクラウチによる批判を「歴史的に[...]そして長く語り継がれる民主主義の物語の中で理解している」と考えていた[34]。そして今日の民主主義は進歩していた。それは「リベラルや保守の視点」でもなければ「「左派やポスト・デモクラシー」の視点でもなく、それは薄暗い明かりの中に民主主義が照らし出されていることを理由にしており、困難な風景が忍び寄っていた」[35]。ノルテはさまざまな事柄の反映として「複数の民主主義」に依拠している今日に言及していた。「歴史的には熟議民主主義を指向していると考えられていた」[37]。

ディルク・イェルケによれば民主主義の危機はポスト・デモクラシーないし「民主主義の変質」として説明されていた。多くの批評家が「ファシリテーション、市民フォーラム、コンセンサス会議のような新たな参加の枠組みの形成を求めていた」[38]。イェルケは教育水準の高い中産階級のみがこれらの新たな機会を活用しており、「増加している底辺層」は参加の機会を活用していないことを論じていた。「結局のところ、全ての市民が社会参加に必要とされているリソースを有している訳ではなかった。特に時間、専門知識の基礎、レトリックの能力、自信の表れについてそうであった」[39]。イェルケは「社会の風通しを良くし、民主主義の不全に直面していたあらゆる人々を政治的なプロセスに取り込めるかどうか」が重要であると締め括っていた[40]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Second_modernity

第二の近代

第二の近代はドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックによる造語であり、モダニティ以後の時代を示していた。

モダニティは工業化社会を推し進め農村社会を崩壊させており、第二の近代は工業化社会を新しく柔軟なネットワーク社会や情報化社会へ転換させていた(フェ・チュアンキー、2011年)。

1 リスク社会

第二の近代はリスクに対する新たな意識によって特徴付けられており、あらゆる生命つまり植物、動物、人間に対するリスクは人間の希少性から派生した問題に対するモダニティの成功によって生み出されていた(キャリアー、ノルドマン、2011年)。自然や社会のリスクから保護すると想定されていたシステムは人間由来の新たなリスクを副産物としてグローバルにますます生み出していると考えられていた(フェ・チュアンキー、2012年)。そのようなシステムは問題の一部であり解決のための存在ではなかった。近代化と情報化の進歩はサイバー犯罪のような新たな社会的危機を生み出しており(フェ・チュアンキー、2012年)、科学の進歩はクローニングや遺伝子組換のような新たな分野を切り開いており、そこでの意思決定は長期的な影響を十分に検討することなく行われていた(アラン、アダム、カーター、1999年)。

近代化の反作用がもたらすジレンマを認識しながら、ベックはもはや国家の利益を国家の力だけで十分に追求できない世界の困難を「コスモポリタン・レアール・ポリティーク」が克服するであろうことを示唆していた(ベック、2006年)。

2 知識社会

第二の近代は知識社会に関連しており、知識の複数性によって特徴付けられていた(キャリアー、ノルドマン)。知識社会はIT社会がもたらしている不確実性のような知識に依存したリスクを特徴としていた(ハーディング、2008年)。

3 抵抗

第二の近代に対する様々な抵抗が生じており、欧州懐疑主義はその一例であった(マルケッティ、ヴィドヴィチ、2010年)。

ベックは第二の近代に対する抵抗やその副産物としてITの活用やイデオロギーの統合の中にアルカイダを認識していた(ベック、2006年)。

http://de.wikipedia.org/wiki/Zweite_Moderne

第二の近代

第二の近代という語はハインリッヒ・クロッツによって1990年代初頭の現代美術と建築における第一の近代の秩序の表面的な崩壊を示すために生み出されていた。

この語はドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックによってグローバル化を通じて経済的・政治的に変質した世界を示すために用いられていた。

1 第一の近代

第一の近代は啓蒙時代から工業化以後の官僚体制までを示していた。第一の近代は18世紀から始まり、市民社会や国民国家が形成された時代であった。また第一の近代はマックス・ヴェーバー(『遺稿集 経済と社会』、1922年)やフェルディナント・テンニース(ガイスト・デア・ノイツァイト、1935年)のような社会学者たちによって明示されていた。

2 第二の近代

第二の近代を巡る理論は個人主義、合理主義、フォーディズムのような近代の原理をラディカルにする傾向を示唆していた。20世紀の後半に始まった第二の近代はグローバル社会の登場や雇用環境の問題をともなうグローバル化のプロセスを包含していた。また第二の近代はデジタル革命に対する文化的な反応として認識されていた。

第一の近代と第二の近代の違いとして「グローバル化」に手を施すことが不可能である状況が指摘されていた。またグローバル化に顕著な特徴は国民国家のような第一の近代における制度の軋轢が増していくことにあった。そしてグローバル化の進展とともに、トランスナショナルな組織がますます力を増しており、国民国家は力を失い主権を喪失していくプロセスにあった。このような状況は多くの問題を生み出しており、今日の至るところで経験されていた。

グローバル化の問題は現実社会の納税者とバーチャル世界の納税者との対立にも現れており、国民国家の力の縮小は社会的不平等の拡大を促しており、社会統合の喪失を招いていた。

第二の近代における問題はグローバル化、流動化、失業、環境汚染、政治・社会・文化のシステムにおける機能の喪失に対する解決の方法を見出すことにあった。

第二の近代に対する厳密な定義は現在のところ定まっておらず、発展途上の段階にあった。第二の近代が示す内容は、それが比較的新しいプロセスであるためさらなる研究を必要としているのかどうかや、近代の初期に存在していなかった要因としてのグローバル化にフォーカスしてもよいのか、そしてローマの観念論やドイツの観念論における200年前の批評を適用しても構わないのかどうかに依存していた。

ウルリッヒ・ベックは新たな問題についての言及を先鋭化させていた。欧米の資本主義社会で浮かび上がってきた新たな問題がダニエル・ベルやアンソニー・ギデンズのような社会学者によって指摘されていた。そのキーワードは例えばユルゲン・ハーバーマスによる「ノイエン・ウンユーバーズィヒトリヒトカイト」、ウルリッヒ・ベックによる「リスク社会」、リチャード・セネットによる「フレキシブル・パーソン」であった。ウルリッヒ・ベックやエディツィオーン・ツヴァイト・モデルネの著者たちによれば、人類は目標を達成するであろうし、人類の将来はグローバル化のような昨今の問題に対して理性に基づいて進歩を遂げていくであろうとの期待が存在していた。

「第二の近代」という語は社会科学において広がりを示していなかった。しかし上述のような広範な事例が多くの社会学者によって指摘されていた。多くの経済学者はグローバル化の影響を肯定的に捉えていた。

# 補足

 2011年もそれ以前もそうであったが、行政の担当者、メディア、専門家、業者に加えて被災者と支援者が抱えている闇が根深いことが顕在化されていくプロセスにあることを目の当たりにしている。

グッドチャイルドによれば、モダニズムは分断され均一的な都市の風景を生み出しており、その都市計画は都市のエコシステムから切り離された対象としてその建築物を扱っていた。モダニストによる都市計画の問題の1つは居住者の視点や世論の動向を軽視している点にあり、第二次世界大戦以降の都市が直面している問題であるスラム、過密化、悪化したインフラ、汚染、病気について詳しく知らない裕福なエキスパートといったマイノリティによる都市計画がマジョリティに押し付けられていたことが指摘されていた。これらの問題はモダニズムが解決するはずの都市の問題であったが、たいていの場合、都市計画における全てに対応するはずのアプローチは失敗しており、他方で住民は建築のエキスパートにのみ委ねられていた過去の決定の内容に関心を示し始めていた。そしてアーヴィングによれば、1960年代の都市計画における伝統的なエリート主義やテクノクラートによるアプローチに対抗するために住民参加型の都市計画が登場していた。さらに1960年代の都市計画の担当者によるモダニズムの欠点に対する歴史的評価によって、都市計画の関係者を拡大することを狙った住民参加型の都市計画が支援されていた。

そしてポスト構造主義者の著作は知識に対する体系的な視点の中に多様な分野からの主張をまとめていたが、学際的な構造主義者は、学際性を主張しているにもかかわらず、専門分野の枠組みを好ましく考えており、研究対象を分析するためのアプローチに対して他分野からの視点を介在させない専門分野の独立性に固執する傾向にあった。また構造主義者と異なりポスト構造主義者は、ある現象に対する複数の関係から成り立っているシステムを絶対視しておらず、独立した自己充足的な要素から成り立っている現実を反映したものというよりむしろある主張の狙いの帰結として複数の関係やシステムを認識する傾向にあった。

ポストモダニズムは第二次世界大戦後に認識されていたモダニズムの失敗に対する反応から生じており、モダニズムの芸術におけるラディカルなプロジェクトが全体主義に結びつきながら主流の文化に融合されていったことが指摘されていた。ポストモダニズムと呼ばれるものの萌芽は1940年代に散見されており、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが有名であった。しかし今日の多くの研究者は、1950年代後半にポストモダニズムがモダニズムと齟齬をきたし始めており、1960年代に優勢な地位を占めていったことに対して意見が一致していた。その後ポストモダニズムは、異論があるものの、芸術、文学、映画、音楽、ドラマ、建築、哲学において支配的になっていった。

そして1990年代後半以降の大衆文化やアカデミズムの世界においてポストモダニズムが廃れてきているとの考えが広まり始めていた。しかしポストモダニズムを継承する時代の名称や枠組みを定める取り組みはほとんどなく、提唱されていた名称も多数派からの支持を得ていなかった。

何が時代を形成しているのかについてのコンセンサスが得られておらず、時代自体がまだ始まりの段階にあった。しかしながらポスト・ポストモダニズムの枠組みを定める取り組みにおける共通のテーマは、信頼、対話、成果、誠意がポストモダンのアイロニーを超越して機能することにあった。

ポストミレニアリズムという語は2000年にアメリカの人文系の研究者であるエリック・ガンズによって紹介されており、倫理学や政治社会学におけるポストモダニズムに続く時代が示されていた。ガンズはアウシュビッツや広島の経験によって明らかになった加害者と被害者の倫理観の対立に基づく被害者を過度に偏重した考え方とポストモダニズムを密接に結びつけていた。ガンズの視点によれば、ポストモダニズムの倫理観は被害者の周辺に視点をおき、加害者側のユートピアを軽蔑することから生じていた。この意味におけるポストモダニズムは、近代のユートピアや全体主義に反対することについては有益であったが、和解のために長期的に役に立つ資本主義やリベラル・デモクラシーについて有益とならず被害者を過度に偏重した政治観によって特徴付けられていた。ポストモダニズムと比較して、ポストミレニアリズムは被害者を過度に偏重した立場をとらないことによって特徴付けられており、被害者を過度に偏重しないダイアローグを採用していた。

2006年にイギリスの研究者であるアラン・カービィはスードモダニズムと呼ばれているポスト・ポストモダニズムに対して社会文化的な評価を行なっていた。カービィはインターネットによって実現された文化の1つである世界一斉に表向き何かに直接関与する行為によって生じているうんざり感や中身の浅薄さとスードモダニズムとを関連付けており、スードモダニズムの時代において、人々はスマートフォンを利用し、クリックし、文字を入力し、サイトを眺め、選択肢から何かを選び、サイトを移動し、ダウンロードするだけになってしまったと述べていた。

スードモダニズムにおける典型的な知的状況は無知、熱狂、不安として描かれており、実質を伴わず「超」の語がついただけの現状を生み出すだけであった。どうでもいいことに世界一斉に参加してメディアに簡単に煽られてしまう浅薄さによって生じていた帰結はモダニズム特有の強迫観念的な細かさやポストモダニズム特有のナルシシズムと入れ替わった有意義な情報や意思を伝えることも感情的な交流をすることもない状況でしかなかった。カービィは美学的に価値のある結果がスードモダニズムから生じることはないと認識していた。

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはメタモダニズムをポスト・ポストモダニズムを巡る論争の行き着く場所として提案していた。ノーツ・オン・メタモダニズムの中で彼らは1980年代や1990年代のポストモダンの視点を生かしながら典型的な近代へ回帰する姿勢によって2000年代が特徴付けられていたと論じていた。彼らによれば、メタモダニズムの感性は、気候変動、金融危機、政情不安、デジタル革命のような現在のグローバルな状況に対する文化的な反応の特徴である多くの知識をもちながら知らないことも多く、プラグマティックな理想主義を示しているものとして考えられていた。彼らはポストモダン文化における相対主義、アイロニー、ゴチャ混ぜの文化が終焉を迎えており、積極的に関与し、共感し、中身を伝えることに価値を認めるポスト・イデオロギーの状況が生じていると述べていた。

バーミューレンとファン・デン・アッカーはメタモダニズムを多くの点の間を揺り動く振り子のようにモダニズムとポストモダニズムの間を揺れ動く心構えの構造として示していた。アートニュースの紙面におけるキム・レヴィンによれば、この揺れ動きは期待と落胆、誠意とアイロニー、愛情と反感、個人的な問題と政治的な問題、技術的観点とマニアの視点に対して等しく懐疑的な心構えを示していると思われていた。メタモダニズムの時代を迎えて、バーミューレンはかつてのメタナラティブが問題を抱えながらも必要とされており、理想がこれまでの歴史から信頼するに値しない幻滅の対象としてしか認識されない必然性はなく、愛情が馬鹿げた思い込みと必然的に同一である訳でもなかったことを示していた。

2006年にアムステルダム市立美術館とアムステル大学はダニエル・バーンバウムやアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を開催しており、その入門編としてメディアでの言説に対抗しながら、本物のよさ、積極的な自己表現、芸術の自己肯定のような伝統的なモダニストの価値観への回帰としての絵画のリバイバルについての講演を行なっていた。

スタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるチャールズ・トムソンやビリー・チャイルディッシュはリモダニズムの時代を切り開いていた。2000年3月1日にリモダニストによるマニフェストが公表されており、それは芸術の理想、本物のよさ、積極的な自己表現を肯定しており、絵画に力点を置きながらも芸術に新たな精神を取り込んでいた。その前提はモダニストによる理想がまだ十分に生かされていないことであり、その目標はその理想が誤用されている現状においてその役割を回復させ、再度定義させ、リバイバルさせることにあった。リモダニズムは真実、知識、その内容を肯定しており、形式主義に疑念を抱いていた。

そのイントロとしてポストモダンの戯言によってモダニズムはその意味を見失っていたといった言葉が紹介されていた。そしてニヒリズム、科学的唯物論、方向性の定まらない破壊に対抗して勇気、個性、一般性、コミュニケーション、人間性を強調した14の視点を示していた。その中の7番目の視点は次のようなものであった。

精神性の追求は魂の旅であり、最初にやるべきことは真実と向き合うために暗黙の意味を列挙することであった。真実は今実際に存在しているものであり、願望とは異なっていた。精神性を追求する芸術家であることは、善悪、美醜、迷いや自信をはっきりと述べることを意味していた。

そのまとめとして、きちんとした心がある人々にとって、支配階級であるエリートによって創作された芸術が明らかにしているように、現在発表されている芸術が理性による成果の失敗を示していることは明白であり、その解決法は精神性を追求しているルネサンスにあり、他に芸術が歩むべき道は存在しておらず、スタッキズムからの提案は精神性を追求するルネサンスを今すぐに始めることであった。

2002年1月にマニフィコ・アーツはニューメキシコ大学の大学院生による「リモ:リモダニズム」と題された展覧会を開催していた。芸術家による講演会の場で、カリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーはリモダニズムは後向きではなく常に前を向いていると述べていた。展示会の寄稿文の中でラドリーは以下のように記していた。

...芸術家の主張に自信が取り戻されており、芸術家が皮肉、冷笑、教訓に煩わされることなく個性を追求することが可能であるといった視点が蘇っていた。その狙いは存在の意味を再び取り上げ、美の意味を練り直し、共感することの必要性を再度取り上げることにあった。

展覧会のキュレーターであるヨシミ・ハヤシは次のように述べていた。

リモはモダニズム、アバンギャルド、ポストモダニズム由来の考え方を混在させており、芸術に対するオルタナティブと主流派のアプローチを統合していた。リモでは多文化主義、アイロニー、高尚さ、アイデンティティに関する問題が取り扱われていたが、それのみで芸術を確立している訳ではなかった。伝統に対する再考と再定義は単なる脱構築によって成された訳ではなく、概念の接点を探しつなげることによって成されていた。定義によればリモは基本的に細胞に例えられており、そのルーツは芸術の周縁部分に由来していた。

2008年8月27日にジェシー・リチャーズはリモダニスト・フィルム・マニフェストを発表しており、そのマニフェストは映画における新たな精神性を追求しており、映画製作に直感を導入しており、リモダニストによる映画をむき出しで必要最小限で叙情的でパンクの要素を含む映画製作であると表現していた。

その後の2009年にマングビーイング誌におけるリモダニストによる映画についてのエッセイの中で、リチャーズはプロと関連させながらリモダニズムを論じていた。

一般的にリモダニズムはアマチュアによる挑戦を肯定しており、プロを考察の対象として特殊な立場に置いていた。つまりこれまでのプロは失敗をなくすために励む存在であり、それゆえプロフェッショナルであったが、私はそうは考えていない。そして仮にプロが絶えず成長する可能性を有する存在であるのならば、私はそのプロを支持したい。絵を描き、演技をし、他の芸術家のためのモデルになり、宗教の仲立ちをし、意識のレベルに影響することを行い、他者を不快にさせることに対しても一歩足を踏み出し、外の世界での生活に触れ合い、見知らぬ大海に飛び込むことを実際に自分でやる映画製作者を支持したい。私はそれらがプロにとっての挑戦だろうと考えている。

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムが無意味であり、蒙昧主義にすぎないとの主張を包含していた。例えばノーム・チョムスキーは分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にしてポストモダニズムが無意味であると主張していた。チョムスキーは「理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのか...と尋ねられたときに、なぜポストモダニストの知識人は他分野の研究者のように答えようとしないのか」と尋ねていた。そして「仮にその答えがないのであれば、私は情熱に対する類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい」と続けていた。またキリスト教徒の哲学者であるウィリアム・レーン・クレイグは「私たちがポストモダンの文化の中で暮らしているというアイデアは幻想である。実際ポストモダンの文化はあり得ないものであった。そして人々に馴染まれるものではなかった。また科学、工学、技術の問題になると人々は相対主義の立場ではなかった。むしろ宗教や倫理の問題になったときに相対主義の立場を採用していた。そしてこの話から導き出されることはこのような立場はポストモダニズムではなくモダニズムであるということだ」と述べていた。

例えばイギリスの歴史家であるペリー・アンダーソンのような人々は、ポストモダニズムという語が有しているさまざまな意味が互いに矛盾し合っており、ポストモダニストを分析することが現代文化に対する洞察をもたらすだろうと述べていた。またカヤ・イルマズはポストモダニズムという語の定義が明確でなく筋が通っていないことを示していた。イルマズによれば、理論自体が反基礎付け主義であるためにポストモダニズムという語が基礎を有していないことが指摘されていた。

フレドリック・ジェイムソンによれば、ポストモダニティにおいて物事の尺度が喪失されており、ポストモダンの主体が我を見失ってしまうほどの多くの事柄の中に私たちが埋没してしまっていることが指摘されていた。この新たなグローバル空間はポストモダニティの正念場でもあった。ジェイムソンが認識しているポストモダンの他の特徴はグローバル空間における存在のある側面として示されていた。またポストモダンの時代は文化の社会的機能を変化させていた。ジェイムソンによれば、近代の文化は中途半端に自律的で、現実を超えた存在を仮定していたが、ポストモダンの文化はその自律性を奪っており、文化人の営みが社会全体を消費するまでに拡大しており、あらゆる人々が文化人になっていたことが指摘されていた。そして評論における物事の尺度であり左派の理論が依拠している巨大な資本という存在の蚊帳の外に文化が位置しているといった仮定は時代遅れになっていた。また多国籍資本の驚異的な拡大が資本主義に染まっていない地域(自然であれ意識であれ)を植民地化し尽くしてしまい、植民化される側は評論家にとって都合がよい状況を与えていたことが指摘されていた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「ポストモダニズム」、「ポスト・ポストモダニズム」、「メタモダニズム」、「リモダニズム」、「ポストモダニズムに対する批判」、「ポストモダニティ」、「ミシェル・フーコー」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Postmodernism

ポストモダニズム

ポストモダニズムは芸術、建築、モダニズムに対する批評をテーマにした20世紀後半のムーブメントの総称であった[1][2]。ポストモダニズムは文化、文学、芸術、哲学、歴史、経済学、建築、フィクション、批評における懐疑的な解釈を包含していた。脱構築やポスト構造主義とよく結び付けられる背景として、その語が20世紀のポスト構造主義的な思想の潮流とともに大きな人気を博していたことが指摘されていた。

ポストモダニズムという語は、モダニズム、つまりそれまでのスタイルを形成していた伝統的な要素に抵抗する芸術、音楽、文学のムーブメントを示していた[3]。

1 歴史

ポストモダンという語が初めて用いられたのは1870年代頃であり、ジョン・ワトキンス・チャップマンはフランスの印象主義から逃れる運動の一環として「絵画をテーマにしたポストモダンスタイル」を提示していた[4]。ザ・ヒバート・ジャーナル(哲学の季刊誌)に掲載された1914年の記事においてJ・M・トンプソンは、ポストモダンという語を宗教を批評する際の判断における変化を示すために用いていた。「ポストモダニズムの存在理由は、カトリックの伝統やカトリックの感情に対して神学が宗教をテーマとして取り上げるように、モダニズムに対する批評を徹底することによって、モダニズムにおける二項対立から逃れることにあった。」[5]

1921年や1925年にポストモダニズムという語は芸術や音楽における新たなスタイルを示すために用いられていた。1942年にH・R・ヘイズは新たな文学のスタイルとしてその語を用いていた。一方この語は1939年に歴史の潮流に対する包括的な理論として初めてアーノルド・J・トインビーによって採用されていた。「私たちが直面しているポストモダンの時代は1914年から1918年までの戦争によってすでに始まっていた。」[6]

1949年にポストモダニズムという語は近代建築に対する批判を示すために用いられており、その語はポストモダン建築をリードしており[7]、国際性を主張していた近代建築運動に対して呼応したものであった。建築におけるポストモダニズムは装飾を再評価し、都市建築において周囲の建造物を考慮し、装飾の歴史的な意味を重視し、直角や直方体に拘らない特徴を有していた。

1971年にICA(インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート、ロンドン)で行われた講演の中で、メル・ボックナーは芸術における「ポストモダニズム」を解説しており、それが「初めて芸術のベースとしてセンスデータや単一の視点に依存することを否定しており、批評として芸術を捉えていた」ジャスパー・ジョーンズから始まっていたことを指摘していた[8]。

近年、ウォルター・トルーエット・アンダーソンはポストモダニズムを4つの世界観の1つとして示しており、(a)真実が社会的に形成されたものであると見做しているポストモダンのアイロニストの立場、(b)真実が確立された方法論やよく練られた研究を通じて得られるとする科学的合理性を重視する立場、(c)真実が欧米の文明の遺産の中から得られるとする社会的伝統を重視する立場、(d)真実が自然との調和を保つことによって得られるとし、内なる自分を精神的に探求する新ロマン主義の立場を挙げていた[9]。

哲学におけるポストモダニズムや社会・文化の分析は批評の意味を拡大しており、文学、建築、デザインの原点になっており、マーケティング・ビジネスや歴史、法、文化の解釈においてはっきりとした姿を示しており、それらは20世紀後半に生じていた。これらの展開、つまり1950年代や1960年代から始まり、1968年の社会革命をピークとしていた西洋の価値体系(愛、結婚、大衆文化、工業化からサービス化への経済シフト)に対する再評価はポストモダニティという語によって示されており、ポストモダンの思想に影響を及ぼした人の中に、ある視点や政治的・社会的動向から言葉の意味が一般的に影響を受けているといったポストモダニズムを論じていたパウル・リュッツェラー(セントルイスの)が含まれていた。またポストモダニズムはポストモダニズムを展開させたポスト構造主義といった語と交換可能であり、ポストモダニズムやポストモダニストによる思想を適切に把握するためには、ポスト構造主義者やその支持者たちによる思想を理解することが求められていた。そしてポスト構造主義は構造主義の時代の後に生じていたポストモダニズムに類似していた。ポスト構造主義は逆説的であるが構造主義を通じて分析している新たなアプローチによって特徴付けられていた[10]。「ポストモダニスト」という語はある政治的・社会的ムーブメントを部分的に表現しており、「ポストモダン」という語は1950年代以降のムーブメントを示しており、そのムーブメントを現代史の一部に組み込んでいた。

2 芸術への影響

2.1 建築

建築におけるポストモダニズムは近代建築における失敗した理想主義や停滞していた状況に対する自然な反応として始まっていた。ヴァルター・グロピウスやル・コルビュジエによって提唱されていた近代建築は理想的な完成型を追求しており、形と機能の調和を狙っており[11]、「浅薄な装飾」を否定していた[12][13]。モダニズムに対する批評家は、一般論としての完成像やミニマリズムを構成す要素が主観的な存在であり、近代のアナクロニズムであることを指摘しており、近代の哲学の業績に対して疑念を呈していた[14]。マイケル・グレイヴスやロバート・ヴェンチューリの作品を例に挙げればポストモダン建築は、建築で利用可能なあらゆる方法論、素材、色を活用しておらず、形としての「純粋さ」や「完成された」建築を追求することを否定していた。

モダニストであるルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは「より少ないことは、より豊かなこと」であるといった言葉で知られており、ヴェンチューリは「少ないほど、退屈である」との皮肉で知られていた。ポストモダニストの建築は、古く「絶対的な」モダニズムに対して疑念を呈するための美に関するムーブメントの1つであり、個人的な嗜好や客観的で究極的な真実や原理の多様性を求めるものであった。

批評、懐疑主義、全体とのずれを強調することを主張することの中に、ポストモダニズムの美の特徴が現れていた。この意味でこの語を用いている人々の中に、チャールズ・ジェンクスがおり、アーキテクチュアル・デザイン・マガジンによればチャールズ・ジェンクスは「その後の30年間におけるポストモダニズムを示しており」、「80年代におけるポストモダニズムを体現している国際的に評価された批評家」であった[15]。

2.2 都市計画

ポストモダニズムは都市計画が社会的背景や合理性と無関係に広く採用している「全体主義的な特徴」を否定していた。この意味でポストモダニズムはモダニズムの後継ではなかった。1920年代以降の近代化のムーブメントは大量生産という新たなモデルに依拠したデザインや都市計画を求めており、大規模なソリューション、美の標準化、プレハブ工法によるデザインを採用していた(グッドチャイルド、1990年)。さらにモダニズムは個の違いを認識することに失敗しており、均一な光景を目標とした都市の生活を生み出していた(シモンセン、1990年、57)。モダニズムを通じて都市計画はカオス・不安定・変化の中で安定感があり、システマティックであり、合理性を追求した建築を確立しようとする20世紀のムーブメントを代表していた(アーヴィング、1993年、475)。ポストモダニズム以前の都市計画のプランナーは、唯一の「正しい方法」を通じて新たな建築物の設計を実現することに対して自負を抱いている「最も妥当なエキスパート」として認識されていた(アーヴィング、1993年)。そして同時に1945年以降の都市計画はデベロッパーや企業の利潤を確保するための手段の1つになっていた(アーヴィング、1993年、479)。

モダニズムによれば都市計画は分断され均一的な都市の風景を生み出しており、都市のエコシステムから切り離された対象としてその建築物を扱っていた(グッドチャイルド、1990年)。モダニストによる都市計画の問題の1つは居住者の視点や世論の動向を軽視している点にあり、第二次世界大戦以降の現実の「都市」が直面している問題、例えばスラム、過密化、悪化したインフラ、汚染、病気(アーヴィング、1993年)について詳しく知らない裕福なエキスパートといったマイノリティによる都市計画がマジョリティに押し付けられていたことが指摘されていた。これらの問題は正確にはモダニズムが「解決する」はずの「都市の問題」であり、たいていの場合、都市計画における「総合的で」「全てに対応するはずの」アプローチは失敗しており、他方で住民は建築のエキスパートにのみ委ねられていた過去の決定の内容に関心を示し始めていた。そして1960年代の都市計画における伝統的なエリート主義やテクノクラートによるアプローチに対抗するために住民参加型の都市計画が登場していた(アーヴィング、1993年、ハートゥカ、ドーヘ、2007年)。さらに1960年代の都市計画の担当者によるモダニズムの「欠点」に対する歴史的評価によって、都市計画の関係者を拡大することを狙った住民参加型の都市計画が支援されていた(ハートゥカ、ドーヘ、2007年、21)。

1961年のジェイン・ジェイコブズの著作である『アメリカ大都市の死と生』はモダニズムの枠組みの中で発達してきた都市計画に対する批判であり、都市計画におけるモダニズムからポストモダニズムへの移行を示していた(アーヴィング、1993年、479)。しかしモダニズムからポストモダニズムへの移行は1972年7月15日の午後3時32分に生じたのだと言われており、その理由としてプルーイット・アイゴーつまりル・コルビュジエの言葉である「住宅は住むための機械である」といった思想から影響を受けた建築家であるミノル・ヤマサキによって設計されたセントルイスの低所得者向けの住宅が無人化したことが挙げられていた(アーヴィング、1993年、480)。その後ポストモダニズムは多様性を考慮しながら、不確実性、柔軟性、変化をもたらしていった(ハートゥカ、ドーヘ、2007年)。ポストモダンの都市計画は複数性を許容しており、マイノリティや立場が弱いグループの主張を容認するために社会的な差異に対する認識を促していった(グッドチャイルド、1990年)。モダニティの枠組みに収まった都市計画についての言説には注意することが重要であり、確かに資本の論理によって展開していたが、事実としてポストモダニティは異なった状況の下で発展していった。モダニティは一般大衆と標準化された生産や消費を歓迎するフォーディズムそしてケインジアンのパラダイムの背後にある資本主義の倫理によって形成されており、一方ポストモダニティは資本蓄積、労働市場、組織のフレキシブルな姿から生じていた(アーヴィング、1993年、60)。そして「ネオコンの」ポストモダニズムと「抵抗する」ポストモダニズムの間にも差異が存在していた。「ネオコンの」ポストモダニズムはモダニズムを否定しており、新たな文化に統合するために失われた伝統や歴史を取り戻そうとしていたが、「抵抗する」ポストモダニズムはモダニズムを再構築し、失われた伝統や歴史に回帰することなくその原点を批判していた(アーヴィング、1993年、60)。ポストモダニズムの帰結として都市計画の担当者は都市計画を行う唯一の「正しい方法」に対して固執することなく多彩なスタイルや多様な「都市計画の方法論」を受け入れていった(アーヴィング、474)[16][17][18][19]。

2.3 文学

文学におけるポストモダニズムは1972年に登場しており、「ジャーナル・オブ・ポストモダン・リテラチャー・アンド・カルチャー」といったサブタイトルが付いたバウンダリー2の創刊号によって示されていた。デヴィッド・アンティン、チャールズ・オルソン、ジョン・ケージ、ブラック・マウンテン・カレッジの人々は当時のポストモダニズムを知的ないし芸術的に表現する代表的な人物であった[20]。そしてバウンダリー2は今日のポストモダニストに対して影響力を有していた[21]。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編である『『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メルナール』(1939年)はポストモダニズムを想定していたと考えられており[22]、究極のパロディであると考えられていた[23]。またサミュエル・ベケットはポストモダニズムの重要な先駆者であると考えられていた。そしてポストモダン文学に関連している作家の中に、ウラジーミル・ナボコフ、ウィリアム・ギャディス、ジョン・ホークス、ウィリアム・バロウズ、ジャンニナ・ブラスキ、カート・ヴォネガット、ジョン・バース、ドナルド・バーセルミ、E・L・ドクトロウ、ジャージ・コジンスキー、ドン・デリーロ、トマス・ピンチョン[24](ピンチョンの作品は「ハイモダン」として考えられていた[25])、イシュマエル・リード、キャシー・アッカー、アナ・リディア・ベガ、ポール・オースターが含まれていた。

1971年にアラブ系アメリカ人の研究者であるイーハブ・ハッサンはポストモダンの視点から文学を批評した初期の作品である『ザ・ディスメンバーメント・オブ・オーフィアス:トゥウォード・ア・ポストモダン・リテラチャー』を発表し、その作品の中でマルキ・ド・サド、フランツ・カフカ、アーネスト・ヘミングウェイ、ベケットらによる「沈黙の文学」や不条理演劇ないしヌーヴォー・ロマンの展開を表現していた。また『ポストモダニスト・フィクション』(1987年)の中で、ブライアン・マクヘイルはモダニズムからポストモダニズムへのシフトを描いており、ポストモダン以前の作品は認識論による支配によって特徴付けられていたが、ポストモダンの作品はモダニズムから発展していたものの主に形而上学に対する疑念に関連していると主張していた。そして次の著作である『コンストラクティング・ポストモダニズム』(1992年)を通じて、マクヘイルはポストモダンの著作やSFで知られている現代作家の作品に対する解釈を提示していた。マクヘイルの『何がポストモダニズムであるのか』(2007年)[26]は、ポストモダニズムを論じるときに現在時制の代わりに過去時制を用いる方が適当であるといったレイモンド・フェダマンの指摘に沿ったものであった。

2.4 音楽

ポストモダンの音楽はポストモダン期の音楽であり、ポストモダニズムが有する美学的ないし哲学的トレンドに沿った音楽であった。名が示すとおり、ポストモダニストによるムーブメントは部分的にモダニストによる理想に対抗しながら形成されていった。このためポストモダンの音楽はモダニストによる音楽に対する批判として定義されており、作品はモダニストによるものかポストモダニストによるものかの何れかであった。ジョナサン・クレイマーは、ポストモダニズム(音楽における)は表面上のスタイルや時代(つまり環境)の問題と言うよりむしろ考え方の問題であることを指摘していた。

ミニマリズムが登場した1960年代にポストモダンはクラシック音楽に対して影響を及ぼしていた。テリー・ライリー、ヘンリク・グレツキ、ブラッドリー・ジョセフ、ジョン・クーリッジ・アダムズ、ジョージ・クラム、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラス、マイケル・ナイマン、ルー・ハリソンといった作曲家達はエリート意識に対抗して、シンプルなテクスチュアや適度に協和したハーモニーを有する音楽を作曲することによって、調性を放棄したモダニズムによる不協和音に抵抗しており、よく知られているようにジョン・ケージはモダニズムに共通した客観性に対するメタナラティブに疑念を呈していた。一部の作曲家達はポピュラーミュージックや民族音楽の考え方から広く影響を受けていた。

クラシック音楽に対するポストモダンの影響は音楽のスタイルのみに限定されず、ポストモダン期の音楽全般を対象にしていた。そしてポストモダニティがポストモダニズムを生み出したように、ポストモダンの音楽が生み出されていた。またポストモダンの音楽はモダニズムに抗うポストモダンの芸術に固有な側面(以下は訳者の注になるが、言い換えるならば芸術家にとっての副業の問題)を共有していた。その一例はTシャツを販売しているロックバンドになり、一見するとそれは本来の音楽活動に付随したビジネスであるのだが、Tシャツはバンドの音楽以上にポピュラーな存在であり、バンドの音楽以上に「クール」に思われていた。

しばしば古典派音楽やロマン派音楽に分類される作曲の枠組みに回帰しながらも、全てのポストモダンの作曲家がモダニズムの楽理を回避している訳ではなかった。例えばオランダの作曲家であるルイ・アンドリーセンの作品は反ロマン主義としての実験音楽の特徴を示していた。モダニズムの完成度の限界やその見かけの厳格さに対して妥協しながらも表現の自由を追求することは作曲におけるポストモダンの影響の特徴であった。

3 影響力のあるポストモダンの哲学者

マルティン・ハイデッガー(1889-1976)

「主観」や「客観」といった概念の哲学的基盤を否定し、正反対の論理的基盤によってその両者が影響を及ぼし合っていると主張していた。それらを理解するためにこのパラドックスを認める代わりに、ハイデッガーは「解釈学的循環」と呼ばれる理解のプロセスを通じてそれらを把握していた。ハイデッガーは歴史的事実や概念の文化的構築を強調しており、時間と無関係に存在している内在的理解の必要性を主張していた。ここでハイデッガーは、ソクラテス以前の哲学の中に示されていたもののプラトン以後陰りを示していた現存在に対する疑念を再度取り上げることが現代の哲学の仕事であると明言していた。この仕事は現存在や思想史において忘却されたものを突き詰めることによって部分的に果たされていたが、それは何が人間の類似点に対する基礎的条件を構成しているのかについて私たちが再度考えなければならないことを意味していた。しかしこのためには、歴史と無関係に自己に対して言及するときに、以下に述べるような人間の姿(について必ずしも固定した考え方ではないが実在を示しているもの)を容認する思考、感情、実践に関わることが求められており、その人間の姿は一般的な人間であることだけでなくその後の成長に伴う個々の人間の違いを含めた可能な経験や可能な存在を許容するものであった。そのような結論はハイデッガーをフッサールの現象学から自由にさせており、その代わりに(時代に逆行しているが)形而上学の問題への回帰を促していたが、この回帰は一般的に物自体と現象もしくは物自体と実際に現れている物(クオリアを参照せよ)を区別していなかった。そして現存在になるプロセスを取り上げることは物自体と現象のギャップに対する橋渡しとなっていた。これによればハイデッガーはロマン主義の哲学者であるフリードリヒ・ニーチェから影響を受けていた。合理主義、経験主義、方法論的自然主義が内在している主体と客体もしくは感覚と知識の区別に対するハイデッガーの批評はポストモダニズムの思想家に影響を与えており、事実が思考のプロセスと別に存在しているといった考え方を否定しており(しかしハイデッガーは唯名論者ではなかった)、哲学や科学での前提は社会の期待からの影響を受けており、概念は、歴史的な精神や変化する経験(ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ハインリヒ・フォン・クライスト、コンストラクティビズムを参照せよ)から独立した論理的前提の派生物であることよりむしろ、実際に生じた歴史的な実践を表現したものであり、プラグマティストや悲観主義者の考えによれば、存在(拡大解釈すれば現実そのもの)は、控え目で肯定的で認められている状態、結果、実体そのものよりむしろ、行動、方法、方向性、可能性、疑問の提示であった(プロセス哲学、形而上学におけるダイナミズム。プラグマティズム、生気論を参照せよ)。

ジャック・デリダ(1930-2004)

テクストの構造的問題や哲学に対するその影響を再検討し、分析のためのアプローチとしての形而上学に疑念を呈し、ハイデッガーが用いた脱構築を出発点にして、デリダ流の脱構築はよく知られるようになっていった。デリダはハイデッガーのように前提と結論や表象の元と表象そのものの間の循環論法を示しているエポケーとアポリアのような哲学における懐疑論やソクラテス以前の哲学に関連したギリシア哲学に言及していたが、ジル・ドゥルーズに類似したアプローチでプラトン、アリストテレス、デカルトによる哲学を根本から再検討していた。

ミシェル・フーコー(1926-1984)

フーコーは、社会秩序の内部における意味、権力、社会的行動の関係を示すために(『言葉と物』、『知の考古学』、『監獄の誕生』、『性の歴史』を参照せよ)「エピステーメー」や「系譜学」のような概念を再検討していた。認識論におけるモダニストの視点と反対に、フーコーは、合理的な判断、社会的実践、「生権力」と呼ばれるものが不可分な関係にあるだけでなく、相互に関連した決定因子でもあると主張していた。フーコーは多くの進歩的な政治的動機を抱えており、極左のメンバーとの個人的な結びつきを保ちながら、当時の左翼の思想家と議論を交わしており、マルクス主義、左派のリバタリアニズム(例えば、ノーム・チョムスキー)の支持者、ヒューマニズム(例えば、ユルゲン・ハーバーマス)との緊張感を抱えながら、啓蒙時代の自由、解放運動、自己決定、人間の本性を示している考え方を否定していた。その代わりにフーコーは、そのような産物が文化的ヘゲモニー、文化的暴力、文化的疎外を助長していたシステムに着目していた。啓蒙時代のヒューマニズムが有する「肯定的な」主張を否定しながら、フーコーはジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリとともに反精神医学運動を精力的に行い、施設に依存した精神医学の現状を鑑みながら、精神分析の中心でありフロイトが示している抑圧された感情(フロイトが示している抑圧された感情といった概念は1960年代や1970年代にフランスで影響力を有していた)が誤りであったと主張していた。フーコーは論争を呼ぶ発言で知られており、彼の「言葉は悩みの種である」との発言は社会的な慣習を支える権力構造を損なうかもしれない無意味で誤った風潮を助長するように「言葉」が作用していることを意味していたが、そのような権力構造が権利の解放運動を支援しマイノリティを尊重しているときでさえもフーコーは同様の主張をしていた。そしてフーコーの著作はポストモダンの研究に大きな影響を与えていた。

ジャン=フランソワ・リオタール(1924-1998)

リオタールの思想は『ポストモダンの条件』の中でモダニズムを通じて人間科学が前提にしている考え方の危機を示しており、それらの問題は「コンピューター」化し「テレマティクス」化した時代の到来によって顕在化していた(情報革命を参照せよ)。アカデミズムにおけるこの危機は、研究の成果を肯定している暗黙の前提や価値観がもはや妥当でないかもしれないとの主張によって、18世紀後半以降の研究を正当化している価値観に対する疑念を呈していた(特に社会科学や人文科学において顕著であったが、リオタールは数学を例に挙げていた)。現実世界の問題に対する外形的な解釈は、結論の自動的な演繹、情報の蓄積、そしてそれらの検索と複雑に関連しており、そのような知識は情報の枠組みに含まれている知識人の手からますます「離れて」いった。知識は生産者と消費者の間で取引される商品に姿を変えており、それ自体が目的であるか自由や社会的便益をもたらすツールであることを否定しており、ヒューマニズムを肯定し超然とした側面を有することを否定されており、知識と教育の関係が遍在的で、具体的で、前提を課さない「データ」の交換として認識されていた[27]。そしてさまざまな学問分野でなされている主張の「多様性」が統合化された原理や洞察を欠いており、データベースを活用する研究が含意している内容の画一性を論じながら、研究の対象がますます専門分化を深めていったことを指摘していた。アカデミズムを擁護する価値観の前提はリオタールが人間の目的、人間の理性、人間の進歩に関する架空の想定であると考えていたものであり、この架空の産物をリオタールは「メタナラティブ」と呼んでいた。これらのメタナラティブは西洋の社会に深く浸透していたが、大学における急速な情報化の進展によってその基盤を揺るがされていた。知識人の洞察つまり人間の利益と真理に忠実であることを融和させた多様な知識を追求する理性から機械化されたデータベースや市場へと権威がシフトしていったことが、リオタールの視点によれば、知識の「正当化」の実態や人生、社会、価値に関する知識の理論的根拠を説明していた。現在の私たちは、コレクティブ・アイデンティティを規定する言語に表れない価値観に縛られることによってではなく、さまざまな「言語ゲーム」に自然に対応することを通じて行動する環境に置かれていた(リオタールはジョン・ラングショー・オースティンの発話行為に関する理論を援用していた)。この問題を解決するために、リオタールはユルゲン・ハーバーマスのようなヒューマニズムの立場を擁護している新カント派の哲学者の思想に認められている普遍性やコンセンサスの前提を否定しており、先験的な形而上学における調和を追求することよりむしろ、言語ゲームにおいてプラグマティックな評価を受けるための試行錯誤や多様性を維持することを主張していた。

リチャード・ローティ(1931-2007)

『哲学と自然の鏡』を通じてリチャード・ローティは、現代の分析哲学が科学の方法論を誤用していることを指摘していた。さらにローティは、現象から認知者と観察者が独立していることや意識との関連で自然現象を認知することを前提にしていた表象主義における伝統的な認識論の視点を批判していた。プラグマティストの枠組みにおける反基礎付け主義や反本質主義の支持者のようにローティは、規約主義や相対主義におけるポストモダンを支持していたが、他方で社会自由主義に関する活動についてのポストモダンを批判していた。

ジャン・ボードリヤール(1929-2007)

シミュラクラ現象によれば、デジタル技術を通じてコミュニケーションや意味付けが行われている時代においては、記号の交換可能性によって現実が単純化されていた。ボードリヤールによれば、主体が(政治的、文学的、芸術的、個人的な)産物から切り離され、その産物が主体を支配しておらず固定的な背景も有していない状況が想定されていた。そのためそれらの産物は産業化された社会における無関心や消極性を誘因していた。またボードリヤールによれば、読者や視聴者に直接的に影響を与えることがない外観はその外観と外観の中身との違いを感じさせておらず、皮肉なことであるが、存在しているはずの人間がその姿を消し去っており、バーチャルな世界は外観のみによって構成されていた。

フレドリック・ジェイムソン(1934-)

ホイットニー美術館でのレクチャーを通じて、ポストモダニズムを歴史、知的なトレンド、社会現象として最初に理論的に展開し、後に『ポストモダニズム・オア・ザ・カルチュラル・ロジック・オブ・レイト・キャピタリズム』(1991年)を記していた。折衷主義を採用していたが、ジェイムソンは、時代区分が人文科学における批評の前提に影響を与えていることを検証していた。ジェイムソンはモダニティの文化的運動における原動力としてユートピアニズムの意義を示しており、ポストモダニティの分析においてモダニティの運動を否定することから生じる政治的・実存的不確かさを指摘していた。スーザン・ソンタグと同様に、ジェイムソンは20世紀における大陸ヨーロッパの左派の思想をアメリカの読者に紹介しており、特にフランクフルト学派、構造主義、ポスト構造主義に関連した人々の思想が顕著であった。したがってアングロアメリカのアカデミズムの言葉でそれらの思想を「解釈している」ジェイムソンの仕事はそれらの思想を批評することと同等の意義を有していた。

ダグラス・ケルナー(1943-)

ポストモダニズムから誕生したジャーナルである『アナリシス・オブ・ザ・ジャーニー』の中で、ケルナーは「近代の理論における前提や方法」を捨て去らなければならないと主張していた。ポストモダニズムの流儀で定義されたケルナーの用語は進歩、変革、調整を基盤としていた。ケルナーは現実の経験や事例を考慮した理論で用いられている語を幅広く分析していた。ケルナーはそれらの分析に科学技術社会論(STS)を用いており、STSがなければ理論が完成しないと主張していた。その議論の射程はポストモダニズムの範囲を超えており、STSを核にしたカルチュラル・スタディーズを通じて解釈されていた。そしてアメリカ同時多発テロ事件がケルナーの解釈に影響を与えていた。その影響は計画的な襲撃と世界貿易センターと呼ばれた「グローバリゼーションの象徴」の崩壊といった事実に依拠した多数の表象であった。そしてポストモダニズムに対する多くの適切な定義や懸念が彼の解釈を確かなものにしていた。またケルナーはアメリカ同時多発テロ事件の影響を理解する上での問題を検証し続けていた。ケルナーは他者には理解できるが当事者には理解できないアイロニーといったポストモダンの限定的な枠組みを通じてのみ同時多発テロ事件が理解されることが可能であるのか否かといった疑問を呈していた[28]。さらにケルナーはポストモダンと整合する記号論の考え方を展開させていた。同時多発テロ事件の影響やポストモダンを通じて解釈されたシンボルを参考にしながら、ケルナーは人がその人生やその1ページを理解するために用いる「記号論の体系」のように同時多発テロ事件を表現し続けていた。記号が人の文化を理解するために必要であるといったケルナーの考え方は多くの文化が実存の代わりに記号を用いていたことから引き出されていた。そしてケルナーは多くのポストモダニズムの研究者がその考えに囚われていることを認めていた。またケルナーはボードリヤールやマルクス主義の考え方の中に可能性を見出していた。そして同時にケルナーはマルクス主義の終焉やその意義が失われていたことを認めていた。

ケルナーが示していた結論は明白であり、それはどんな現実の経験や記号が既に知られている現実と重なるのかについて今日用いられているポストモダニズムが決定的に関与しているであろうといったことであった[29]。

4 脱構築

最もよく知られたポストモダニストによる考え方の1つに「脱構築」があり、それはジャック・デリダによって提唱された哲学のテーマであり、文芸批評であり、テクスト分析であった。「脱構築」によるアプローチは、前提、イデオロギー上の基盤、ハイアラーキーによって支配された価値観、枠組みの中にあるテクストに対する既存の解釈に疑念を呈する分析を含んでいた。脱構築によるアプローチは、著者の見解のようなテクストの前提から引き出される著者の文化、イデオロギー、道徳的姿勢や知識に依拠することなく緻密にテクストを読み込む方法論を採用していた。またデリダは「テクスト以外には何も存在していない」と述べていた[30]。デリダは言語による世界は脱構築されたテクストの基本原理(文法)から影響を受けていることを示唆していた。デリダの方法論は、与えられたテクストの意味に対してある側面では異なっているが別の側面では類似している解釈やテクストの意味に限定された二項対立が内包している問題を認識することを含んでいた。デリダの哲学は建築では脱構築主義と呼ばれており、建築物のデザインにおける破片のような形状、要素の歪みやアンバランスさによって特徴付けられていたポストモダンのムーブメントに影響を与えていた。そして『コーラ・ル・ワークス』といった建築家のピーター・アイゼンマンとの共同プロジェクトの後、デリダはこのムーブメントに関与することから遠ざかることになった[31]。

5 ポストモダニズムと構造主義

構造主義は1950年代のフランスの研究者によって展開された哲学的な潮流であり、部分的にはフランスの実存主義に由来していた。構造主義はモダニズムの表出としても認識されていた。「ポスト構造主義者」は構造主義の厳密な解釈や適用から離れた立場の思想家であった。多くのアメリカの研究者はポスト構造主義をより広範に捉えており、ポスト構造主義がよく定義されていないもののポストモダンの一部であると認識していたが、多くのポスト構造主義者はその認識は間違っていると主張していた。構造主義者と呼ばれている思想家の中には、人類学者であるクロード・レヴィ=ストロース、言語学者であるフェルディナン・ド・ソシュール、マルクス主義の哲学者であるルイ・アルチュセール、記号学者であるアルジルダス・グレマスが含まれていた。精神分析学者であるジャック・ラカンや文学者であるロラン・バルトの初期の著作も同様に構造主義に分類されることがあった。構造主義から始まりポスト構造主義者になった人々の中に、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズがおり、他のポスト構造主義者の中に、ジャック・デリダ、ピエール・ブルデュー、ジャン=フランソワ・リオタール、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスス、リュス・イリガライが含まれていた。彼らが影響を与えたアメリカの知識人の中に、ジュディス・バトラー、ジョン・フィスク、ロザリンド・クラウス、アヴィタル・ロネル、ヘイデン・ホワイトが含まれていた。

ポスト構造主義は、一般に共有された公理や方法論によって定義づけられるものではなく、日々の出来事から抽象的な理論に至るまで、ある文化の側面が他の側面をどのように決定づけているのかを示すことによって定められていた。ポスト構造主義の思想家は還元主義、随伴現象説、そして因果関係が階層構造を形成しているといった考え方を否定していた。構造主義者と同様に、ポスト構造主義者は、人々のアイデンティティ、価値観、経済状況が固有の特徴を形成していくことよりむしろお互いに影響を及ぼし合っているといった仮定を議論の出発点にしていた[32]。そしてフランスの構造主義者は相対主義や社会構築主義を提唱していることを自認していた。しかしそれにもかかわらずフランスの構造主義者は、どのように研究の対象が基本的な関係の集合として還元主義的に示されているのかを研究する傾向にあった(その例として『神話論理』におけるクロード・レヴィ=ストロースの神話変換の定式が挙げられる[33])。ポスト構造主義の思想家は物が最低限持っていなければならない性質と他の物に対する依存を区別する実存に対して疑念を呈していた。

5.1 ポスト構造主義

ポスト構造主義者は一般的に原始的な文化、言語、アリストテレスの心理学、観念論における「基本的な関係」の定式化を否定していた。またポスト構造主義の運動に関連していた思想家における別の共通点は、絶対主義や、原始的な文化、言語、心理の内部における作用以上に大きな影響を与えている官僚主義や工業化の進展に伴う構造的なバイアス[34]を内在させている構造主義者による科学的な主張に対する批判的な視点にあった。そのような現実は、価値観やパラダイムから独立して存在するシステムとして、構造主義者の方法論を通じて詳細に分析されておらず、原因と結果の相互作用として理解されていた[35]。したがって多くのポスト構造主義者は、システムの機能に対して構造主義者より幅広い解釈を採用しており、循環論法的な側面やあいまいな側面を時として批判していた。ポスト構造主義者は、それらを詳細に分析した上で、構造主義者による現象、現実、真実を示す主張が逆説的な循環論法による論証に依存していると反論していた。そして研究を通じて新たな視点が影響力をもち、その新たな理論が実現されていくことに見られる客観性の獲得のプロセスよりむしろ、その理論の中に登場する潜在的な循環論法やパラドックスのパターンを見出すことが重要であった。またある視点によれば、ポスト構造主義者はマルティン・ハイデッガーによる哲学の流れを組みながら、フリードリヒ・ニーチェの著作がもつ含意を敷衍していた。

ポスト構造主義者の著作は、経験、身体、社会、経済と知識との関係や知識に対する体系的な視点の中に多様な分野からの主張をまとめている傾向にあり、その体系的な視点に対してポスト構造主義の主張が関与しているとみなされていた。そして多少なりとも学際的な構造主義者は、学際性を主張しているにもかかわらず、専門分野の枠組みを好ましく考えており、研究対象を分析するためのアプローチに対して他分野からの視点を介在させない専門分野の独立性に固執する傾向にあった。構造主義者と異なりポスト構造主義者は、ある現象に対する「複数の関係」から成り立っているシステムを絶対視しておらず、独立した自己充足的な要素から成り立っている現実を反映したものというよりむしろある主張の狙いの帰結として「その関係」やシステムを認識する傾向にあった。どちらかと言えば一部の客観的な事実を取り上げてもそうであるが、ポスト構造主義の理論は社会秩序に関する統制における広範であいまいなパターンを示していたが、そのパターンを理論として無条件にまとめ上げることは不可能であった。このため一部のポスト構造主義者は反知性主義や反哲学を理由にしてリアリスト、自然主義者、本質主義者から批判されていた。構造主義者と比較してポスト構造主義者は、理論の前提が全体に対するバイアスや権力の影響から独立していることに対して懐疑的であり、社会に対する分析、記号論、哲学における推論において「純粋に理論的」で「科学的」なアプローチを否定する傾向にあった。ポスト構造主義者によれば、理論を通じて人間社会や心理学におけるいかなる現象も基本的なシステムや抽象化されたパターンに分解することは不可能であり、抽象化されたシステムを基本的な性質を保持した副産物として処理することも不可能であり、体系化された理論、現象、価値観がお互いの一部分を形成していた。

6 ポスト・ポストモダニズム

近年になってメタモダニズム、ポスト・ポストモダニズムや「ポストモダニズムの終焉」が幅広く論じられていた。2007年に「アフター・ポストモダニズム」と題されたザ・ジャーナル・トゥエンティース・センチュリー・リテラチャーの特別号のイントロダクションの中でアンドリュー・ホーボレックは「ポストモダニズムの終焉に言及することはありふれた批評の姿になっている」と述べていた。一部の評論家はポストモダニズムを通じて文化や社会を記述することを目的とした理論の限界を示しており、著名な研究者の中にラウル・エシェルマン(パフォーマティズム)、ジル・リポヴェツキー(ハイパーモダニティ)、ニコラ・ブリオー(アフターモダン)、アラン・カービィ(以前はスードモダニズムと呼ばれていたディジモダニズム)が含まれていた。これらの新しい理論や名称は今までのところ幅広く認められていた訳ではなかった。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催されていた「ポストモダニズムースタイルと破壊 1970-1990」(ロンドン、2011年9月24日-2012年1月15日)はポストモダニズムを歴史上の運動として記録した最初の展覧会であった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-postmodernism

ポスト・ポストモダニズム

ポスト・ポストモダニズムは、批評理論、哲学、建築、芸術、文学、文化における幅広い展開を示しており、それはポストモダニズムの影響を受けており、ポストモダニズムから生じていた。そして他の類似の語はメタモダニズムであった。

1 歴史

多くの研究者は、モダニズムが19世紀後半に始まり、20世紀中頃まで西洋文化の知的サークルに文化的な影響を与え続けてきたことに対して意見が一致していた[1]。あらゆる節目を通じて明らかなように、モダニズムは多くの問題を含む視点を抱えており、統一された個々の集合として定義することが不可能であった。しかしその主な特徴は、人間関係における確からしさ、芸術の抽象化、理想主義の追求についての研究に見られるように、「ラディカルな美学、テクニカルな実験、時間軸よりむしろ空間軸、自意識の反映」[2]を強調していたと考えられていた。これらの特徴はポストモダニズムにおいて除外されており、アイロニーの対象として考えられていた。

ポストモダニズムは第二次世界大戦後に認識されていたモダニズムの失敗に対する反応から生じており、モダニズムの芸術におけるラディカルなプロジェクトが全体主義に結びつきながら主流の文化に融合されていったことが指摘されていた[3]。ポストモダニズムと呼ばれるものの萌芽は1940年代に散見されており、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが有名であった[4]。しかし今日の多くの研究者は、1950年代後半にポストモダニズムがモダニズムと齟齬をきたし始めており、1960年代に優勢な地位を占めていったことに対して意見が一致していた[5]。その後ポストモダニズムは、異論があるものの、芸術、文学、映画、音楽、ドラマ、建築、哲学において支配的になっていった。ポストモダニズムの特徴は、スタイル、台詞の引用、語り方においてアイロニックな演劇[6]、西洋の文化のメタナラティブに対する懐疑主義やニヒリズム[7]、真実を犠牲にした現実の選択(正確に言えば「真実」は何によって成立しているのかといった根本的なことに対する問題意識)[8]、スキゾフレニアに類似した意識の状態を含むさまざまな現実の相互作用から影響を受けている[10]主体の局所的な「ウェイニング・オブ・アフェクト」[9]を含んでいると考えられていた。

そして1990年代後半以降の大衆文化やアカデミズムの世界においてポストモダニズムが「廃れてきている」との考えが広まり始めていた[11]。しかしポストモダニズムを継承する時代の名称や枠組みを定める取り組みはほとんどなく、提唱されていた名称も多数派からの支持を得ていなかった。

2 定義

何が時代を形成しているのかについてのコンセンサスが得られておらず、時代自体がまだ始まりの段階にあった。しかしながらポスト・ポストモダニズムの枠組みを定める取り組みにおける共通のテーマは、信頼、対話、成果、誠意がポストモダンのアイロニーを超越して機能することにあった。その深さ、焦点、範囲に違いがあるものの以下にその定義を時系列順に並べることにする。

1995年に都市計画家であるトム・ターナーは、ポスト・ポストモダンを都市計画に適用することについて本一冊分の主張を述べていた[12]。ターナーは「何でもあり」というポストモダンの立場を批判しており、「建造環境のエキスパートが推論に信頼を加えるポスト・ポストモダニズムの夜明けを目の当たりにしていた」ことを示唆していた[13]。特にターナーは都市計画において時間を超越した構造や形についてのパターンの活用を主張していた。そのようなパターンとしてターナーは、老荘思想に影響されたアメリカの建築家であるクリストファー・アレクサンダーによる作品、ゲシュタルト心理学、心理学者であるカール・ユングの思考の枠組みを引用していた。名称に関して、ターナーは「ポスト・ポストモダニズムを採用しながらも、さらに良い名称を求める」ことを促していた[14]。

ロシアのポストモダニズムに関する1999年の著作の中で、ロシア系アメリカ人であるミハイル・エプシュテインは、ポストモダニズムが「「ポストモダニティ」と呼ばれている大きな歴史の産物であった」と述べていた[15]。エプシュテインは、結局のところポストモダニストの美学はありきたりなものになり、アイロニーと異なる新たな詩歌のための基礎を固めるであろうと考え、そのことを「超」といった接頭語を用いて示していた。

「ポストモダニズム」に続く新たな時代を示す名称を考慮するときに、「超」といった接頭語が顕著になるだろうと考えられていた。20世紀の後半は「ポスト」といった語が顕著であり、そのことは「真実」や「客観性」、「精神」や「主観性」、「ユートピア」や「理想」、「原点」や「オリジナリティ」、「誠実」や「感傷」のようなモダニティにおける概念の崩壊を意味していた。そしてこれらの概念の全てが「超主観性」、「超理想主義」、「トランスオリジナリティ」、「超叙情性」、「トランスセンチメンタリティ」等といった形で現在再登場していた[16]。

例としてエプシュテインは現代のロシアの詩人であるティムール・キビーロフの作品を引用していた[17]。

「ポストミレニアリズム」という語は2000年にアメリカの人文系の研究者であるエリック・ガンズによって紹介されており[18]、倫理学や政治社会学におけるポストモダニズムに続く時代が示されていた。ガンズはアウシュビッツや広島の経験によって明らかになった加害者と被害者の倫理観の対立に基づく「被害者を過度に偏重した考え方」とポストモダニズムを密接に結びつけていた。ガンズの視点によれば、ポストモダニズムの倫理観は被害者の周辺に視点をおき、加害者側のユートピアを軽蔑することから生じていた。この意味におけるポストモダニズムは、近代のユートピアや全体主義に反対することについては有益であったが、和解のために長期的に役に立つ資本主義やリベラル・デモクラシーについて有益とならず被害者を過度に偏重した政治観によって特徴付けられていた。ポストモダニズムと比較して、ポストミレニアリズムは被害者を過度に偏重した立場をとらないことによって特徴付けられており、「被害者を過度に偏重しないダイアローグ」を採用していた[19]。ガンズはウェブ上のクロニクルズ・オブ・ラブ・アンド・リゼントメントを通じてポストミレニアリズムの考え方をさらに発展させており[21]、その語はジェネラティブ・アンソロポロジーに対する理論や歴史観と密接に結びついていた[22]。

2006年にイギリスの研究者であるアラン・カービィは「スードモダニズム」と呼ばれているポスト・ポストモダニズムに対して社会文化的な評価を行なっていた[23]。カービィはインターネットによって実現された文化の1つである世界一斉に表向き何かに直接関与する行為によって生じているうんざり感や中身の浅薄さとスードモダニズムとを関連付けており、「スードモダニズムの時代において、人々はスマートフォンを利用し、クリックし、文字を入力し、サイトを眺め、選択肢から何かを選び、サイトを移動し、ダウンロードするだけになってしまった」と述べていた[23]。

スードモダニズムにおける「典型的な知的状況」は「無知、熱狂、不安」として描かれており、実質を伴わず「超」の語がついただけの現状を生み出すだけであった。どうでもいいことに世界一斉に参加してメディアに簡単に煽られてしまう浅薄さによって生じた帰結は「モダニズム特有の強迫観念的な細かさやポストモダニズム特有のナルシシズム」と入れ替わった「有意義な情報や意思を伝えることも感情的な交流をすることもない状況」でしかなかった。カービィは美学的に価値のある結果が「スードモダニズム」から生じることはないと認識していた。スードモダニズムのくだらなさの例として、カービィはテレビ、双方向型ニュース、一部のウィキペディアでのデマ、ドキュソープ、マイケル・ムーアやモーガン・スパーロックの映画を引き合いに出していた[23]。2009年に出版された『ディジモダニズム:ハウ・ニュー・テクノロジーズ・ディスマントル・ザ・ポストモダン・アンド・リコンフィギュア・アワー・カルチャー』の中で、カービィはポストモダニズム後の文化に対する視点を仄めかしていた。

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはポスト・ポストモダニズムに関する議論を収斂させるためにメタモダニズムという語[24]を用いていた。『ノーツ・オン・メタモダニズム』という記事の中で、彼らは近代の視点とポストモダンの視点の間で揺れ動いている感性の登場によって2000年代が特徴付けられていると述べていた。メタモダンに影響された感性の例として、バーミューレンとファン・デン・アッカーは気候変動、金融危機、政情不安に対する反応によって示されている「多くの知識をもちながら知らないことも多い」、「プラグマティックな理想主義」、「節度を意識している熱狂」を引き合いに出していた。

美学的視点からメタモダニズムはヘルツォーク&ド・ムーロンによる建築、ミシェル・ゴンドリー、スパイク・ジョーンズ、ウェス・アンダーソンによる映画、ココロージー、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ、ジョルジュ・レンツ、デヴェンドラ・バンハートによる音楽、ピーター・ドイグ、オラファー・エリアソン、ラグナル・キャルタンソン、セイラ・カメリッチ、ポーラ・ドープフナーによる作品、村上春樹、ロベルト・ボラーニョ、デヴィッド・フォスター・ウォレス、ジョナサン・フランゼンによる著作のように多様な芸術として示されており、絶え間ない想念の揺れ動きや近代とポストモダンに対する態度や考え方における真ん中の立ち位置によって特徴付けられており、それらのどれにも属さない感性を示唆しており、意味を求めながら意味を疑い、希望と悲嘆を抱え、誠意とアイロニーを同居させ、多くの知識を持ちながら知らないことも多く、構築と破壊を同時に行いながら、普遍的な真実の追求と相対主義の対立の克服を示していた[25]。

接頭語である「メタ」は思索的な立場ではなくプラトンが述べていた中間者に関係しており、議論の両端を揺れ動く態度を示していた[26]。

「一般的に「ポスト・ポストモダニズム」はポストモダニズムに対峙する概念と考えられていたが、ムハンマド・ジアウル・ハックは、ポスト・ポストモダニズムがポストモダニズムと対立する時代を示している訳ではなく、それがポストモダニズムの副産物であることを示しており、両者を区別するものは「想像力」にあった。言い換えるならばポスト・ポストモダニズムは、哲学、批評、構造デザイン、芸術、文化、文学におけるポストモダンの拡張を含んでおり、新機軸を打ち立てるために制度として確立された制約を打破することを目指していた[27]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Metamodernism

メタモダニズム

メタモダニズムはポストモダニズムに対する反応として生じていた哲学、美学、文化の潮流の1つであった。ある定義によればメタモダニズムはモダニズムとポストモダニズムの対立を克服しており、メタモダニズムはポスト・ポストモダニズムに類似していた。

1 語の史的展開

メタモダニズムという語は1975年前後に登場しており、ザーヴァルザーダは1950年代中頃からアメリカ文学に生じているある種の美学や視点を示すためにその語を用いていた[1]。

1999年までにメタモダニズムは「モダニティやポストモダニティにおける妥当性を保ちながら、超越し、解体し、ひっくり返し、抜け道を探し、よく調査し、棚上げする」ための「モダニズムやポストモダニズムの拡張やそれらに対する疑念」として描かれていた[2]。そして2002年に文学のメタモダニズムは「モダニズムを通じた今後の...そして出発点として不滅の」美学として示されていた[3][4]。メタモダニズムとモダニズムの関係は「対立関係を超越しており、モダニズムの射程から外れた主体に焦点を当てるためにモダニストの方法論に再度対峙していく」ものとして示されていた[3]。

2007年の時点ではメタモダニズムはポストモダニズムと部分的に重なり合い、ある部分ではその派生であったが、別の部分ではポストモダニズムに対する反応として示されており、「相互の関連や永続的な変化といった枠組みの中でのみ現代文化や現代文学の特徴を理解することができるといった視点を肯定していた。」[5]

1.1 バーミューレンとファン・デン・アッカー

2010年にティモーテウス・バーミューレンとロビン・ファン・デン・アッカーはメタモダニズムをポスト・ポストモダニズムを巡る論争の行き着く場所として提案していた[6][7]。ノーツ・オン・メタモダニズムの中で彼らは1980年代や1990年代のポストモダンの視点を生かしながら典型的な近代へ回帰する姿勢によって2000年代が特徴付けられていたと論じていた。彼らによれば、メタモダニズムの感性は、気候変動、金融危機、政情不安、デジタル革命のような現在のグローバルな状況に対する文化的な反応の特徴である「ある面では多くの知識をもちながら知らないことも多く、プラグマティックな理想主義を示しているものとして考えられていた」[6]。彼らは「ポストモダン文化における相対主義、アイロニー、ゴチャ混ぜの文化」が終焉を迎えており、積極的に関与し、共感し、中身を伝えることに価値を認めるポスト・イデオロギーの状況が生じていると述べていた[8]。

「メタ」という接頭語は思索的な立場を示している訳ではなく、プラトンが述べていた中間者に関係しており、議論の両端を揺れ動く態度を示していた[6]。バーミューレンとファン・デン・アッカーはメタモダニズムを「多くの点の間を揺り動く振り子」のようにモダニズムとポストモダニズムの間を揺れ動く「心構えの構造」として示していた[9]。アートニュースの紙面におけるキム・レヴィンによれば、この揺れ動きは「期待と落胆、誠意とアイロニー、愛情と反感、個人的な問題と政治的な問題、技術的観点とマニアの視点に対して等しく懐疑的な心構えを示している」と思われていた[8]。メタモダニズムの時代を迎えて、バーミューレンは「かつてのメタナラティブが問題を抱えながらも必要とされており、理想がこれまでの歴史から信頼するに値しない幻滅の対象としてしか認識されない必然性はなく、愛情が馬鹿げた思い込みと必然的に同一である訳でもなかった」ことを示していた[10]。

バーミューレンは「メタモダニズムは枠組みの中の存在論を示唆している哲学と言うより、政治経済から芸術まで私たちの身の回りで何が起こっているのかを説明するオープンソースのドキュメントのような試みである」と述べていた[10]。ロマン主義の感性に回帰することがメタモダニズムの主な特徴であり、バーミューレンとファン・デン・アッカーによるヘルツォーク&ド・ムーロンの建築物や、バス・ヤン・アデル、ピーター・ドイグ、オラファー・エリアソン、ケイ・ドナチー、チャールズ・エイブリー、ラグナル・キャルタンソンのような芸術家の作品の中にメタモダニズムを認めることが可能であった[6]。

2 文化的な支持

2011年11月にニューヨークにあるミュージアム・オブ・アーツ・アンド・デザインはバーミューレンとファン・デン・アッカーによる影響を示しており、ピルヴィ・タカラ、グイド・ヴァン・デル・ワーブ、ベンジャミン・マーティン、マリーヒェン・ダンツの作品を扱った『ノー・モア・モダン:ノーツ・オン・メタモダニズム』といったタイトルの展覧会を開催していた[11]。

2012年3月にベルリンにあるギャラリー・ターニャ・ワーグナーはバーミューレンとファン・デン・アッカーと共同でディスカッシング・メタモダニズムを企画しており、メタモダニズムを扱ったヨーロッパで初めての展覧会を開催していた[12][13][14]。その展覧会は、ウルフ・アムアインド、ヤエル・バルタナ、モニカ・ボンヴィチーニ、マリーヒェン・ダンツ、アナベル・ダウ、ポーラ・ドープフナー、オラファー・エリアソン、モナ・ハトゥム、アンディ・ホールデン、セイラ・カメリッチ、ラグナル・キャルタンソン、クリス・レムサル、イッサ・サント、デビッド・ソープ、アンジェリカ・J・トロイナースキ、ルーク・ターナー、ナスティア・ロンッコの作品を扱っていた[14]。

映画を通じて「独特の」感性を表現することについて、研究者であるジェームズ・マクダウェルは、ウェス・アンダーソン、ミシェル・ゴンドリー、スパイク・ジョーンズ、ミランダ・ジュライ、チャーリー・カウフマンの作品を「新しい意味での誠意」をベースにしながら「アイロニーと誠意」のバランスを保っている心構えを表しているメタモダンの構造を具体化したものであると述べていた[9]。

アメリカン・ブック・レビューの2013年号はメタモダニズムを扱っており、ロベルト・ボラーニョ、デイヴ・エガーズ、ジョナサン・フランゼン、村上春樹、ザディー・スミス、デヴィッド・フォスター・ウォレスをメタモダニストとして認める一連のエッセイを含めていた[15][16]。PMLAの2014年の論文の中で、文学者であるデイビッド・ジェームズやウルミラ・セシャジリは「トム・マッカーシーのような21世紀の作家を論じながら、メタモダニストの著作が初期の文化的ムーブメントによる美学の遺産を取り入れながら適応しており、他方でその遺産に反応しながら問題を複雑にしている」と述べていた[17]。

大学の教員でありアートパルスで執筆しているスティーブン・クヌーセンは、メタモダニズムが「ばらばらな他のテクストとの関係からあらゆるものの意味を定めることに対するリオタールの苦悩やポスト構造主義者による主観性の脱構築に共感を寄せており、他方で本物の主張やクリエイターを積極的に擁護しており、モダニズムの美点に回帰していた」と記していた[18]。

2014年5月にカントリー・ミュージックのスターギル・シンプソンはカントリー・ミュージック・テレビジョンの中で『メタモダン・サウンズ・イン・カントリー・ミュージック』というアルバムがメタモダニズムについての記事をハフィントンポストで書いているセス・アブラムソンから部分的な影響を受けていると語っていた[19][20]。シンプソンは「技術の変遷が今まで以上に早くなっているにもかかわらず、アブラムソンはノスタルジーを感じさせるような環境で暮らしている」と述べていた[19]。J・T・ウェルシュによれば、「アブラムソンはこれまでの知的財産がモダニズムやポストモダニズムの影響によって分断されていた現状を超越する方法論として「メタ」という接頭語を理解していた」[21]。

2.1 メタモダニスト・マニフェスト

2011年にルーク・ターナーはメタモダニスト・マニフェストを発表していた[21]。マニフェストは「さまざまな主張の中での揺れ動きは当然のことである」と認識しており、その揺れ動きは「1世紀に及ぶモダニストの認識の甘さとアイロニーとの対立から生じていた惰性的な議論に」終焉を求めていた[21][22]。そして代わりにそのマニフェストは「ばらばらな複数の土台を求めることによって、誠意とアイロニーを同居させ、多くの知識をもちながら知らないことも多く、普遍性を否定しながら普遍性を求め、楽観的な態度を取りながら懐疑的な姿勢でもある揺れ動く心構え」としてのメタモダニズムを論じていた[23]。またそのマニフェストはバーミューレンとファン・デン・アッカーの作品を引き合いに出し、「私たちは開拓を継続し、揺れ動き続けなければならない」と締めくくっていた[24][10]。その後ターナーはマニフェストに対して俳優であるシャイア・ラブーフが芸術面で貢献していたことに言及していた[25][26]。

2014年の初めにシャイア・ラブーフはターナーやナスティア・ロンッコとの共同制作を始めており、デイズドによれば『名声や名誉の危うさを考察するためのプラットフォーム』と題されており、共同制作者によればメタモダニストによるパフォーマンスアートとして認識されていた[27]。これは『#アイ・アム・ソーリー』と題されていたロサンゼルス - ギャラリーでのパフォーマンスを含んでおり、ラブーフは6日間静かに座りながら観客の前で泣き続け、タキシードを着用しながら『私はもう有名人ではない』と記された茶色の紙袋を頭に被っていた[28]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Remodernism

リモダニズム

リモダニズムは特に初期のモダニズムのある側面を取り上げており、ポストモダニズムに倣いながらもポストモダニズムを対比する視点を有していた。リモダニズムの支持者はリモダニズムが前衛的でラディカルな側面を有しているものの単なる反動ではないことを主張していた[1][2]。

2000年にスタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるビリー・チャイルディッシュとチャールズ・トムソンはリモダニズムを取り上げており、その声明によれば、シニカルで精神的に荒廃していたポストモダニズムに代わって、リモダニズムが芸術、文化、社会に新たな精神を取り込むための試みであることが述べられていた。2002年に開催されたリモダニズムの展覧会に向けてカリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーによるエッセイが寄せられており、アイロニーやシニシズムによる限界を超えた新たな芸術が存在しており、新たな美の感性が存在していることが示されていた。

2006年にアムステルダム市立美術館とアムステル大学はダニエル・バーンバウムやアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を開催しており、その入門編としてメディアでの言説に対抗しながら、本物のよさ、積極的な自己表現、芸術の自己肯定のような伝統的なモダニストの価値観への回帰としての絵画のリバイバルについての講演を行なっていた[4]。2008年にロンドンイブニングスタンダードの評論家であるベン・ルイスは3つのターナー賞にリモダニズムを採用しており、20世紀初頭の形式主義のリバイバルとしてその3つのターナー賞を位置づけていた。ベン・ルイスは節度、寛大な態度、本物の感情に基づく美学といった価値観を支持していた[5]。

1 歴史

スタッキズムと呼ばれるムーブメントの創始者であるチャールズ・トムソンやビリー・チャイルディッシュはリモダニズムの時代を切り開いていた[3]。2000年3月1日にリモダニストによるマニフェストが公表されており、それは芸術の理想、本物のよさ、積極的な自己表現を肯定しており、絵画に力点を置きながらも「芸術に新たな精神を」取り込んでいた。その前提はモダニストによる理想がまだ十分に生かされていないことであり、その目標はその理想が誤用されている現状においてその役割を回復させ、再度定義させ、リバイバルさせることにあった。リモダニズムは真実、知識、その内容を肯定しており、形式主義に疑念を抱いていた。

そのイントロとして「ポストモダンの戯言によってモダニズムはその意味を見失っていた」といった言葉が紹介されていた。そしてニヒリズム、科学的唯物論、方向性の定まらない破壊に対抗して勇気、個性、一般性、コミュニケーション、人間性を強調した14の視点を示していた。その中の7番目の視点は次のようなものであった。

精神性の追求は魂の旅であり、最初にやるべきことは真実と向き合うために暗黙の意味を列挙することであった。真実は今実際に存在しているものであり、願望とは異なっていた。精神性を追求する芸術家であることは、善悪、美醜、迷いや自信をはっきりと述べることを意味しており、それは私たち自身と他者との関係さらに神との関係を知ることを含んでいた。

9番目の視点によれば、「精神性を追求する芸術は宗教と異なっており、精神性を追求することは自身を理解することや芸術家の明晰さや芸術の高い完成度を通じてその哲学を見出すことを念頭に置きながら人間性を追求することを意味していた。」 12番目の視点によれば、「神」という語の用法はギリシア語の「神によって所有された」を意味する「情熱」と結び付けられていた。

そのまとめとして、「きちんとした心がある人々にとって、支配階級であるエリートによって創作された芸術が明らかにしているように、現在発表されている芸術が理性による成果の失敗を示していることは明白であり」、その解決法は精神性を追求しているルネサンスにあり、「他に芸術が歩むべき道は存在しておらず、スタッキズムからの提案は精神性を追求するルネサンスを今すぐに始めることであった。」[6]

チャイルディッシュやトムソンはリモダニズムのマニフェストをニコラス・セロタ卿、テート・ギャラリーの理事に送っていたが、「あなた方は私があなた方の手紙やリモダニズムのマニフェストにコメントしないことを知っても特段驚くことはないでしょう」との返事があったのみであった[8][9]。

2000年3月にスタッキストは、『ザ・レジグネイション・オブ・サー・ニコラス・セロタ』と題した展示によって彼らがリモダニストによる初めての芸術グループであることを宣言していた。4月にリモダニズムは『ザ・ガルフ・ニューズ(UAE)』に引用されていた[10]。5月にオブザーバー紙はスタッキストによる展覧会を告知していた。「リモダニズムと呼ばれる芸術的ムーブメントに関わっているグループは明白な概念論に反対しており、形のある絵画を通じて感情や精神性の完成度を高めることを主張する展覧会のチケットの販売に経済面で依存していた。」[11]

6月にトムソンやチャイルディッシュはインスティチュート・オブ・アイデアズによって主催されたケンジントンにあるサロン・デ・ザールでスタッキズムやリモダニズムについての講演を行っていた[12]。同月に「スチューデンツ・フォー・スタッキズム」は「リモダニストによる講演会」を行なっていた。ザ・インスティチュート・オブ・リモダニズムはカテレ・アーマディによって設立されていた。

2001年にトムソンはイギリスの総選挙に立候補しており、「スタッキスト党は政治の場にスタッキズムやリモダニズムの考え方を導入する目的で結成された」と述べていた[13]。

2002年1月にマニフィコ・アーツはニューメキシコ大学の大学院生による「リモ:リモダニズム」[14]と題された展覧会を開催していた。芸術家による講演会の場で、カリフォルニア大学バークレー校の教員であるケビン・ラドリーは「リモダニズムは後向きではなく常に前を向いている」と述べていた[2]。展示会の寄稿文の中でラドリーは以下のように記していた。

...芸術家の主張に自信が取り戻されており、芸術家が皮肉、冷笑、教訓に煩わされることなく個性を追求することが可能であるといった視点が蘇っていた。その狙いは存在の意味を再び取り上げ、美の意味を練り直し、共感することの必要性を再度取り上げることにあった[15]。

展覧会のキュレーターであるヨシミ・ハヤシは次のように述べていた。

「リモ」はモダニズム、アバンギャルド、ポストモダニズム由来の考え方を混在させており、芸術に対するオルタナティブと主流派のアプローチを統合していた。「リモ」では多文化主義、アイロニー、高尚さ、アイデンティティに関する問題が取り扱われていたが、それのみで芸術を確立している訳ではなかった。伝統に対する再考と再定義は単なる脱構築によって成された訳ではなく、概念の接点を探しつなげることによって成されていた。定義によれば「リモ」は基本的に細胞に例えられており、そのルーツは芸術の周縁部分に由来していた[16]。

2003年に独立団体であるザ・スタッキスト・フォトグラファーズがアンディ・ブロックとラリー・ダンスタンによってリモダニズムに対する賛同を目的として設立されていた[17]。

2004年にアイルランドのクリエイター集団であるザ・デファスニスツはリモダニストのグループであることを宣言していた[18]。リモダニストの美術館であるザ・ディートリック・ギャラリーはケンタッキー州のルイビルに設立されていた。アメリカの映画製作者およびカメラマンであるジェシー・リチャーズとハリス・スミスはリモダニストの映画や写真についての新たなグループを共同設立しており、感情が意味するものを強調しており、ヌーベルバーグ、ノー・ウェーブ、表現主義、超越を映画製作の要素に組み込んでいた。

スタッキズムの芸術家であるビル・ルイスは2004年のリバプール・ビエンナーレでのBBCによるインタビューの中で、リモダニズムは「厳密な意味での芸術的ムーブメントではなく」、新たなパラダイムへ芸術を押し進めるためにモダニズムの原点に回帰することを意味していると述べていた[1]。リモダナイズすることは「再び原点に戻ること」であり、絵画から始まり...そして芸術がどこへ向かうのかを俯瞰することであった[1]。ビル・ルイスは、リモダナイズすることはポストモダンに対する自然な反応であると言われているが、「語の本当の意味においては」ラディカルな内容を指していると述べていた[1]。ニューヨークのスタッキズムの芸術家であるテリー・マークスは、リモダニズムを通じてモダニズムが良い方向へ向かうことになったのだが、そこから「純粋な理念」へ方向転換して未開拓のオルタナティブを目指すための原点に回帰する必要があり、「より多くの人々が享受でき、より具体的な創作を追求し、私たちをどこに導くのかを示すことがその目標に含まれている」と述べていた[19]。

2004年にルーク・ヘイトンはザ・フューチャー・マガジンの中で、「リモダニズムは私たちがその芸術に対して好みを述べることを許容しているのではないか」と述べていた[20]。フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノスは「リモダニズムにとっても芸術家が魂を掲げることにとっても2004年が記念すべき年であった」と宣言していた[21]。

2005年8月に『アドレシング・ザ・シャドウ・アンド・メイキング・フレンズ・ウィズ・ワイルド・ドッグズ』と題された展覧会(スタッキストによるリモダニズムのマニフェストに由来している)がニューヨークのCBGBの313ギャラリーで開催されていた[22]。芸術家でありブロガーであるマーク・バレンは、「1970年代の半ばにパンクはCBGBと呼ばれていたニューヨークの湿っぽい場所にある小さなナイトクラブから生まれていた。そしてテレヴィジョン、ラモーンズ、パティ・スミスのようなロッカー達が商業ロックの流れに対して正面攻撃を加えていたときに、すべてが始まっていた。現在、音楽における第二の抵抗運動としてリモダニズムがパンクの聖地から商業ロックの流れに対して攻撃を加えようとしている」と述べていた[22]。

2006年5月10日にアムステル大学市立近代美術館とアムステル大学はアートフォーラムの編集者であるダニエル・バーンバウムやグッゲンハイム美術館のアシスタント・キュレーターであるアリソン・ジンジェラスによるリモダニズムについての講演会を行なっていた[4]。その要旨は次のように示される。

近年私たちは絵画に対する関心がこれまでとは別の形で再度高まっているのを目の当たりにしており、私たちは芸術の自己肯定、本物のよさ、積極的な自己表現のような伝統的なモダニストの価値観に回帰する古代からの営みのリバイバルを経験しているのであろうか。仮に私たちがモダニズム(リモダニズム)への回帰を話題にできるなら、これは芸術における立ち位置が真ん中にある学際的な試みをどこへ向かわせるのであろうか[4]。

2006年8月に「ザ・リモダニスツ・オブ・デヴィアントアート」と呼ばれるインターネット上のグループがクレイ・マーティンによって設立されていた。このグループはデヴィアントアート・ドットコムで活動する芸術家によって構成されていた。

2006年に芸術家であるマット・ブレイは「俺はスタッキストであるとは思われたくなく、たぶんいてもいなくても構わないピエロのような存在だろう。ザ・スタッキストは一番名の通ったリモダニストのグループだし、そのマニフェストに心が惹かれている。そして彼らには感謝している」と述べていた[23]。2007年5月にマット・ブレイはパンクのアダム・ブレイと一緒にイギリスのフォークストンでザ・マッド・モンク・コレクティブを立ち上げており、リモダニズムを広めていた[24]。

2008年1月にイブニングスタンダード紙の評論家であるベン・ルイスは、2008年が「モダニストのリバイバルを表現するための新たな語である『リモダニズム』」を経験する年になるだろうと述べており[25]、マーク・レッキー、ルナ・イスラム、ゴシュカ・マキュガを「20世紀初頭の形式主義のリバイバル」としてターナー賞にノミネートしており、「心が感じられるささやかで寛大な美学であること」を理由にしてマキュガを賞賛しており、それこそが今日必要とされていると述べていた[5]。2009年4月にベン・ルイスは「ノスタルジックな」16mmフィルムを用いるルーマニアの芸術家であるカタリナ・ニクレスクをモダニズムの余韻を嗜好する芸術の大きな流れの中に位置付けており「それをリモダニズムと呼ぼう」と述べていた[26]。

2008年8月27日にジェシー・リチャーズはリモダニスト・フィルム・マニフェストを発表しており、そのマニフェストは「映画における新たな精神性」を追求しており、映画製作に直感を導入しており、リモダニストによる映画を「むき出しで、必要最小限で、叙情的で、パンクの要素を含む映画製作である」と表現していた。そしてそのマニフェストはデジタル映像を用いた映画製作者であるスタンリー・キューブリックやドグマ95を批判していた。4番目の視点は次のようなものであった。

日本の意識の1つである侘・寂(不完全さを活かした美)や物の哀れ(移り行く物に対する感慨・過ぎ行く物に対するほろ苦い感情)は存在の真実を示すことの可能性を有しており、そのことはリモダニストによる映画が制作されるときにに常に念頭に置かれていた[27]。

その後の2009年にマングビーイング誌におけるリモダニストによる映画についてのエッセイの中で、リチャーズはプロと関連させながらリモダニズムを論じていた。

一般的にリモダニズムはアマチュアによる挑戦を肯定しており、プロを考察の対象として特殊な立場に置いていた。つまりこれまでのプロは失敗をなくすために励む存在であり、それゆえ「プロフェッショナル」であったが、私はそうは考えていない。そして仮にプロが絶えず成長する可能性を有する存在であるのならば、私はそのプロを支持したい。絵を描き、演技をし(内向的であるならば特に)、他の芸術家のためのモデルになり、宗教の仲立ちをし、意識のレベルに影響することを行い、他者を不快にさせることに対しても一歩足を踏み出し、外の世界での生活に触れ合い、見知らぬ大海に飛び込むことを実際に自分でやる映画製作者を支持したい。私はそれらがプロにとっての挑戦だろうと考えている[28]。

2009年にニック・クリストスとフロリダ・アトランティック大学の学生がマイアミ・スタッキスト・グループを設立していた。クリストスは「スタッキズムはモダニズムのルネサンスであり、リモダニズムである」と述べていた[29]。

7 批判

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムが無意味であり、蒙昧主義にすぎないとの主張を包含していた。例えばノーム・チョムスキーは分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にしてポストモダニズムが無意味であると主張していた。チョムスキーは、「理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのか...」と尋ねられたときに、なぜポストモダニストの知識人は他分野の研究者のように答えようとしないのかと尋ねていた。「仮にその答えがないのであれば、私は「情熱に対する」類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい」[36]。キリスト教徒の哲学者であるウィリアム・レーン・クレイグは「私たちがポストモダンの文化の中で暮らしているというアイデアは幻想である。実際ポストモダンの文化はあり得ないものであった。そして人々に馴染まれるものではなかった。また科学、工学、技術の問題になると人々は相対主義の立場ではなかった。むしろ宗教や倫理の問題になったときに相対主義の立場を採用していた。そしてこの話から導き出されることはこのような立場はポストモダニズムではなくモダニズムであるということだ」と述べていた[37]。

ポストモダニズムに対する表立ったアカデミズムからの批判は例えば『ビヨンド・ザ・ホウクス・アンド・ファッショナブル・ナンセンス』のような作品の中に確認されている。

そしてアメリカのアカデミズムは大陸の哲学、特にフレンチ・セオリーを採用している研究者に対して「ポストモダニスト」のレッテルを貼る傾向にあった。そのような傾向はアメリカの比較文学部に由来しているかもしれなかった[38]。構造主義者やポストモダニストの世界観が同時に心理、社会、環境の領域を十分に説明できるほど融通がきくものではないと主張することによって「ポストモダニスト」と考えられていたフェリックス・ガタリがその理論の前提を否定していたことは興味深いことであった[39]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Criticism_of_postmodernism

ポストモダニズムに対する批判

ポストモダニズムに対する批判は多様であり、ポストモダニズムに意味がなく、蒙昧主義を後押ししているに過ぎないとの考えを含めていた。

1 あいまいさ

哲学者であるノーム・チョムスキーはポストモダニズムが分析や経験を通じた知識に貢献していないことを理由にして意味がないと主張していた。チョムスキーはなぜポストモダニストである知識人が他分野の研究者のように問いに答えようとしないのかと尋ねていた。

その問いとは、理論の原理は何か、どの事実に基づいているのか、何が明らかにされていないのかといったことであり、これらの問いは誰が投げ掛けても正当なものであった。仮にその答えがないのであれば、私は「情熱に対する」類似の状況におけるヒュームからのアドバイスを送りたい[2]。

類似の立場から、リチャード・ドーキンスはアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンによる『「知」の欺瞞』を肯定的に評価していた[3]。

あなたが主張することがないにもかかわらず、アカデミズムの世界で成功し、弟子を集め、あなたの記述に対して世界中の学生から黄色の蛍光ペンでアンダーラインを引いてもらいたいと願う知的欺瞞を抱えているとしよう。あなたはどんな種類の文学のスタイルを確立しようとするだろうか。もちろん明快な答えがないことはあなたに中身がないことを示すことになろう。

ドーキンスはフェリックス・ガタリからの引用を「中身がないこと」の例として用いていた。

「ポストモダニズム」という用語が無意味なバズワードでしかないことが示唆されていた。例えば、ディック・ヘブディジは『ハイディング・イン・ザ・ライト』の中で次のように記していた。

人々が「ポストモダン」の枠組みの中に、インテリア、建物のデザイン、映画における物語空間、作品の構成や「スクラッチ」ビデオ、テレビコマーシャルや芸術のドキュメンタリー、間テクスト性、ファッション誌や批評誌におけるページのレイアウト、認識論における反目的論、「存在に対する形而上学」への批評、感情の意味を弱めること、中年の幻滅に対抗しようとするベビーブーマーである戦後世代の失意や不健全さ、反動の中の「苦境」、ひとまとまりの比喩、上辺だけの表現や関係の増加、日用品に対する愛着に対する新たな局面、イメージ、内輪の習わし、スタイルに魅了されること、文化・政治・存在の細分化、主体を「話題から外すこと」、「メタナラティブに対する警戒」、力の複数性によって一元的な力を置き換えること、「意味の内面を解体すること」、文化的なハイアラーキーの崩壊、個の自滅の脅威に対する不安、大学の没落、新たに細分化されたテクノロジーの影響、メディア・消費者・多国籍を包含する局面への社会経済のシフト、「場に囚われない」感覚や「場に囚われない」意識の放棄、一時的な座標空間に対する代替物を含めるならば、私たちがバズワードに囲まれていることは明白であった[4]。

例えばイギリスの歴史家であるペリー・アンダーソンのような人々は、「ポストモダニズム」という語が有しているさまざまな意味が互いに矛盾し合っており、ポストモダニストを分析することが現代文化に対する洞察をもたらすだろうと述べていた[5]。またカヤ・イルマズはポストモダニズムという語の定義が明確でなく筋が通っていないことを示していた。イルマズによれば、理論自体が反基礎付け主義であるためにポストモダニズムという語が基礎を有していないことが指摘されていた[6]。

2 道徳的相対主義

ある評論家はポストモダン社会が道徳的相対主義の言い換えであり、行動の逸脱を促していると解釈していた[7][8][9]。右派の作家であるチャールズ・コルソンは道徳的相対主義や状況倫理にあふれる不可知論と同様に不信の目でポストモダニズムの時代を眺めていた[10]。ジョシュ・マクドウェルとボブ・ホステトラーはポストモダニズムに対して次のような定義を与えており、「客観的な意味において真実は存在しておらず発見されるのではなくでっち上げられるといった信念に基づいた世界観」があり、真実は「一部の文化によってでっち上げられ、その文化でしか通用しなかった。そのため真実を語ろうとすることは力技であり、他の文化を支配する試みでもあった。」[11]

多くの哲学的ムーブメントは存在の健全な説明としてのモダニティやポストモダニティを否定していた。その一部は文化的ないし宗教的右派と関連しており、その右派はポストモダニティが基礎となる精神ないし当然の真実を否定しており物質的な満足を強調しながら内なるバランスや精神性を否定してきたと認識していた。これらの多くは、受け入れがたいポストモダンの条件[12]である「客観的な真実を放棄する」傾向を批判しており、真実を与えるメタナラティブを示すことを意図する傾向にあった。

3 マルクス主義による批判

カリニコスはボードリヤールやリオタールのようなポストモダンの思想家を批判しており、ポストモダニズムが「1968年5月の失望に終わった革命世代が「新たな中産階級」を形成していることを反映しており、知的ないし文化的な現象よりむしろ政治的なフラストレーションや社会的流動性の低下の兆しとして解釈されることが妥当である」と論じていた[13]。

美術史家であり社会主義労働者党のメンバーであるジョン・モリニューは「ブルジョア歴史家による古くからの主張の繰り返し」であることを理由にしてポストモダニストを批判していた[14]。

アメリカ文学の評論家でありマルクス主義者であるフレドリック・ジェイムソンはポストモダニズムを批判しており、資本主義やグローバル化の進展を支えるメタナラティブに関与することを否定しており、ポストモダニズムが「文化における後期資本主義のようなもの」であると主張していた。そしてポストモダニズムが支配と搾取につながっていると主張していた[15]。

ザ・アメリカン・インターナショナル・ソーシャリスト・オーガニゼーションのメンバーであるシェリー・ウルフは2009年の『セクシュアリティ・アンド・ソーシャリズム』の中でゲイ解放のための手段としてのポストモダニズムを否定していた[16]。

4 アート・バラックス

アート・バラックスは1999年4月のアート・レビューにおけるブライアン・アシュビーによる記事であった[17]。アシュビーは「ポストモダン」芸術における言語の意義を指摘していた[17]。アシュビーによるポストモダン芸術は「インスタレーション、写真、コンセプチュアル・アート、映像」の形式を採用していた。タイトルに含まれるバラックスはナンセンスに関連していた。

5 ソーカル事件

ニューヨーク大学の物理学教員であるアラン・ソーカルは事件を引き起こしており、ポストモダニストによる論文に類似したスタイルで意図的にナンセンスな論文を投稿していた。その論文は『ソーシャル・テキスト』誌によって受理され掲載されていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Postmodernity

ポストモダニティ

ポストモダニティは一般に経済や文化の姿やモダニティの後に存在している社会状況を説明するために用いられてきた。ある学派は20世紀後半の80年代から90年代初頭にかけてモダニティが終焉を迎えポストモダニティに移行したと主張していたが、他の学派はモダニティがポストモダニティによる展開を包含していると述べ、さらに他の学派はモダニティが第二次世界大戦によって終焉を迎えていたと主張していた。ポストモダンの条件はモダニズムの精神に反して自律的に機能する能力を奪う文化として特徴付けられていた[1]。

ポストモダニティはポストモダン社会つまりポストモダンを生み出している社会状況やポストモダン社会と関連している存在の現れ方に対する個々の反応を示していた。多くのコンテクストにおいて、ポストモダニティはポストモダニズム、芸術、文学、文化、社会におけるポストモダンの特徴と区別されていた。

1 語の用法

ポストモダニティはポストモダンを生み出す社会状況や条件であり、ポストモダン芸術ではモダンに対する反応であった。モダニティは進歩主義時代、産業革命、啓蒙時代と重なる時代として定義されていた。哲学や批評においてポストモダニティはモダニティの後に存在している社会状況やモダニティの終焉の要因となる歴史的状況を示していた。この用法は哲学者であるジャン・フランソワ・リオタールやジャン・ボードリヤールに由来していた。

ハーバーマスによれば、近代の「プロジェクト」は社会活動や芸術活動に合理性やハイアラーキーを導入することによって進歩を促していた(ポスト工業化、情報化時代を参照せよ)。リオタールは進歩の追求による確かな変化によって特徴付けられた文化の姿としてモダニティを位置づけていた。ポストモダニティは確かな変化が現れており進歩の概念が廃れきった状況を示していた。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる絶対的な知の可能性に対する批判によれば、リオタールは実証主義、マルクス主義、構造主義のようなメタナラティブが進歩のための方法論として機能していないことを論じていた。

文学研究者であるフレドリック・ジェイムソンや地理学者であるデヴィッド・ハーヴェイはポストモダニティを「後期資本主義」や「フレキシブルな資本蓄積」、金融資本主義以降のヒトやモノが自由に移動する資本主義、ハーヴェイが「時間と空間の凝縮」と呼んでいるものと同一視していた。彼らはポストモダニティが第二次世界大戦以降の経済秩序とされるブレトンウッズ体制の崩壊と重なっていることを示唆していた(消費主義や批評理論を参照せよ)。

アウシュビッツや広島のような惨事を導いたヒューマニティの欠陥を取り上げてモダニティが完全な失敗であったと捉えている人々はポストモダニティをあるべき姿であると認識していた。近代のプロジェクトに自身を含めている多くの哲学者はポストモダニズムの帰結を示唆するためにポストモダニティを用いていた。ユルゲン・ハーバーマスを含む多くの研究者は近代のプロジェクトが未完に終わり普遍性が不要とされる反啓蒙主義の現れとしてポストモダニティを認識していた。このコンテクストでポストモダンの思想の帰結であるポストモダニティはネガティブな用語として用いられていた。

2 ポストモダニズム

ポストモダニティは制度や作品の変化(ギデンズ、1990年)やグローバルな視点を通じて特に1950年代の欧米における社会経済の推移に関連した状況を示しており、ポストモダニズムは美学、文学、政治哲学、社会哲学、特に1920年代の新たな芸術的ムーブメント以降の「文化的ないし知的現象」を含んでいた。ポストモダニティやポストモダニズムといった語は哲学者、社会科学者、そして現代文化、経済学、20世紀後半から21世紀初頭の生活を反映した社会の側面を批評する評論家によって用いられており、権威の分断化や知識の商品化を含んでいた(モダニティを参照せよ)。

そしてポストモダニティと批評理論、社会学と哲学の関係が問題になっていた。「ポストモダニティ」や「ポストモダニズム」といった語を区別することは難しく、ポストモダニティはポストモダニズムの帰結であった。そのプロセスは多様な政治的影響を内包しており、「反イデオロギー」がフェミニスト運動、人種差別撤廃運動、ゲイ・ライツ・ムーブメント、20世紀後半の多くのアナーキズム、平和運動、反グローバリゼーション運動とのハイブリッドと関連していた。これらの運動はポストモダンのムーブメントを肯定していなかったけれども、コアとなるアイデアのいくつかをポストモダンのムーブメントから借用していた。

3 歴史

リオタールやボードリヤールのような研究者はモダニティが20世紀後半に終焉を迎えていたと想定し、モダニティ以後をポストモダニティとして定義していたが、バウマンやギデンズのような研究者はモダニティの意味を拡張しながら、ポストモダニティによって示されているその後の展開を解釈していた。他の研究者はモダニティが1900年代のビクトリア朝時代に終焉を迎えていたと述べていた[2]。

ポストモダニティは1940年代後半や1950年代の初期から冷戦の終結にかけての段階(限られた帯域のアナログメディアが少数のメディアとして権威を維持していた時代であった)や冷戦の終結以降の段階(ケーブルテレビやデジタル時代の「新たなメディア」の普及によって特徴付けられた時代)といった2つの局面を通じて説明されていた。

ポストモダニティの最初の段階はモダニティの終焉と重なり、近代の一部として認識されていた(分類学や時代区分を参照せよ)。テレビが主なニュースの情報源になり、製造業が欧米の経済におけるその意義を低下させ、貿易が話題の中心を占めつつあった。1967年から1969年の先進国において文化が急速に発展し、それは社会の中でポストモダニティを経験しながら成長したベビーブーマーが政治、文化、教育の権力構造に参加することを求め始めていた時期でもあった。非暴力や文化的な活動からテロまでを含んでいるデモや抵抗運動は前の世代による政治や議論の設定に対する若い世代の異議申立てを示していた。アルジェリア戦争やベトナム戦争、人種差別を容認する法律、女性差別を助長する法律、離婚の制限に対する抵抗、マリファナや麻薬の使用の増加、ロックを含む音楽やドラマにおけるポップカルチャー、オーディオ・テレビ・ラジオの普及が幅広い文化のコンテクストの中で顕在化していた。60年代後半から70年代初頭の特徴は、メディア文化に囲まれた生活の帰結に注目しながら、マスメディア文化に参加することが社会規範の権威を揺るがすことを通じて自由をもたらしていたと述べていた哲学者であるマーシャル・マクルーハンの著作の中に示されていた。

ポストモダニティの次の段階は「デジタル化」によって特徴付けられており、ファックス、モデム、ケーブル、高速回線のインターネットといったコミュニケーションの手段がパーソナル化やデジタル化の影響力を増大させ、ポストモダニティの状況を劇的に変化させており、デジタル情報を通じて個人の力がこれまでメディアが有していたあらゆる側面に対して現実の力として作用していた。このことは知的財産権を巡る製作者と消費者の衝突を促しており、ニューエコノミーの支持者は情報コストの激しい低下が社会を根本的に変化させるだろうと述べていた。

そしてデジタル化ないしエスター・ダイソンによるデジタル化がポストモダニティと異なる状況として登場してきたことが指摘されていた。この立場の論者は、ポピュラー・カルチャーのアイテム、ウェブ、知識をインデックス化している検索エンジンの活用やテレコミュニケーション可能な力がヘンリー・ジェンキンスによる「参加型文化」の登場やAppleのiPodのようなデバイスの普及を通じた「過度の一極集中」を生み出していると論じていた。

この時代におけるシンプルではっきりとした境界線は1991年のソ連崩壊や中国の自由化であった。1989年にフランシス・フクヤマはベルリンの壁の崩壊を予想させる『歴史の終焉』を発表していた。フランシス・フクヤマによれば、政治哲学の問題は解決されており、価値観を巡る大規模な戦争はもはやあり得ないものであり、その理由として「あらゆる対立が解消され、あらゆる人間が円満な状況を必要としていること」が挙げられていた。そしてこれはある種の「エンディズム」であり、1984年にアーサー・ダントーはアンディ・ウォーホルによるブリロ・ボックスが形式主義を否定して芸術が終焉を迎えたことを歓迎していた。

4 論評

4.1 哲学と批評理論の区別

ポストモダニティに対する論争にはよく混同される2つの要素が存在していた。(1)現代社会の特徴と(2)現代社会に対する評論の特徴であった。前者は20世紀後半に端を発した変化の特徴であった。そして3つの代表的な分析が存在していた。カリニコス(1991年)やカルフーン(1995年)のような研究者は現代社会の特徴に対して保守的な立場を示しており、社会経済的変化の意義や程度を軽視しており、過去との連続性を強調していた。次にある領域の研究者は「近代」のプロジェクトが依然として「モダニティ」の段階のままである現在を分析しようとしていた。この意味での現在はウルリッヒ・ベックによれば「第二の」ないし「リスク」社会と呼ばれ(1986年)、ギデンズによれば「後期の」ないし「高度な」モダニティとして示されており(1990年・1991年)、ジグムント・バウマンによれば「リキッド」モダニティであり(2000年)、カステルによれば「ネットワーク」社会であった(1996年・1997年)。さらに別の研究者は現代社会がモダニティと異なるポストモダンの段階に移行していると論じていた。この立場を採用している研究者はリオタールやボードリヤールであった。

別の問題は評論の特徴に起因しており、モダニズムが普遍主義を示しておりポストモダニズムが相対主義を示していることを前提にしていたために、その普遍主義と相対主義の間における論争がしばしば生じていた。セイラ・ベンハビブ(1995年)やジュディス・バトラー(1995年)はこの論争をフェミニスト政治学と関連させ、ベンハビブはポストモダン批評が3つの要素から構成されていると論じており、主体やアイデンティティに対する反基礎付け主義者の考え方、目的論や社会の進歩といった概念や歴史の終焉、客観的な真理を求める形而上学の終焉を挙げていた。ベンハビブはこれらの視点に反論しており、これらの視点がフェミニスト政治学の基盤を損なっており、保護団体の可能性、自己の意味、解放の名の下に女性史が簒奪されてきたことを考慮していないと主張していた。規範としての理想の否定はユートピアの可能性、倫理の中心、民主主義に根差した活動を否定することにつながっていた。

バトラーはベンハビブに対してポストモダニズムという語の用法が反基礎付け主義やポスト構造主義を超えた妄想を含んでいると述べていた。

そして多くの視点がポストモダニズムに依拠していた。ディスコースが全てであり、ディスコースが全てを構成しているある種の一元論であるかのようであった。主体が喪失され、私が「私」に言及することができなかった。現実は存在しておらず、表象のみが存在していた。これらの論拠はポストモダニズムやポスト構造主義にあり、互いに関連し合い、脱構築とも関連し、フランスのフェミニズム、脱構築、ラカンの精神分析、フーコディアンの分析、ローティの対話主義、カルチュラル・スタディーズとして認識されていた。実際にはこれらのムーブメントは矛盾し合っていた。フランスにおけるラカンの精神分析はポスト構造主義と対立しており、フーコディアンはデリディアンとほとんど関連しておらず...リオタールはポストモダニズムという語を擁護していたが、それはその他大勢の自称ポストモダニストが行なっていることと異なっていた。またリオタールの研究はデリダのそれと異なっていた。

バトラーは、一方でどのように哲学が権力関係に関与しているのかを示しており、他方で問いの始まりが「普遍性」や「客観性」を疑うことであることを理由にして主体に対する批評が話の始まりであって終わりではないと述べているポスト構造主義者を支持しているポストモダニストによる批評の特徴を論争の対象にしていた。

ベンハビブとバトラーの論争はポストモダニティの定義自体が議論の対象であることから示されるようにポストモダニストに対する単純な定義が存在していないことを示していた。ミシェル・フーコーはインタビューの中でポストモダニズムのレッテルを貼られることを拒否していたが、ベンハビブを含む多くの人々は、啓蒙運動における普遍的な規範に疑念を呈することによってユートピアを示している「近代」の評論を否定していることを理由にしてフーコーが「ポストモダン」の評論を支持していると考えていた。ギデンズ(1990年)はこのように定義された「近代の」評論の特徴を認めておらず、啓蒙時代の普遍性に対する評論が近代の哲学者とりわけニーチェにとって主要な問題であったことを指摘していた。

4.2 ポストモダン社会

ジェイムソンはポストモダニティとモダニティの違いを示唆している多くの現象を認識していた。ジェイムソンは「新たなタイプの浅薄さ」や「深みのなさ」について言及しており、(解釈学、論理学、フロイトの抑圧、本物と偽物に対する実存主義者による区別、シニフィアンとシニフィエに対する記号論による区別において)「内側」と「外側」の視点を通じて人々や物事を説明しているモデルを否定していた。

そしてモダニストの「ユートピアに対する姿勢」やファン・ゴッホにおいてそうであるが芸術において苦悩を美に昇華することが否定されており、他方でポストモダニズムのムーブメントを通じて物質世界が「根本的な変化」を経験しており、「テキストや見てくれのごった煮になって」しまっていた(ジェイムソン、1993年)。モダンアートが世界を取り戻し、それを理想に据えて、魂をもたらすことを希求する一方で(グラフによれば、科学や宗教の没落が世界における価値を退廃させていた)、ポストモダンアートは世界に破滅を与えており、ポストモダンの破滅は、趣旨としては破滅と無関係であるのだが、見る側の視点を崩壊させていた。グラフは科学や合理主義の登場によって損なわれていた意味を与えるために宗教の代わりにアートを用いることの中にアート特有の変化を訴求するミッションを位置付けていたが、他方でポストモダンにおけるアートの役割が不毛であると認識していた。

さらにジェイムソンはポストモダンの特徴を「ウェイニング・オブ・アフェクト」として示しており、あらゆる感情がポストモダンが支配する時代から失われている訳ではなく、ポストモダンの時代がある特定の感情を失っていることを示しており、それは例えば「(あなたの方に振り向いてくれる)ランボーのマジカル・フラワーズ」のようなものであった。ジェイムソンは「その人の流儀が通用しない」「ごった煮となった権威の没落におけるパロディ」がそのごった煮に普遍性を与えていることを示唆していた。

ジェイムソンによれば、ポストモダニティにおいて物事の尺度が「喪失されて」おり、私たちが「ポストモダンの主体が我を見失ってしまうほどの多くの事柄の中に埋没してしまっている」ことが指摘されていた。この「新たなグローバル空間」はポストモダニティの「正念場」でもあった。ジェイムソンが認識しているポストモダンの他の特徴は「グローバル空間における存在のある側面として示されていた」。またポストモダンの時代は文化の社会的機能を変化させていた。ジェイムソンによれば、近代の文化は「中途半端に自律的」で、「現実を超えた存在」を仮定していたが、ポストモダンの文化はその自律性を奪っており、文化人の営みが社会全体を消費するまでに拡大しており、あらゆる人々が「文化人」になっていたことが指摘されていた。そして「評論における物事の尺度」であり左派の理論が依拠している「巨大な資本という存在」の蚊帳の外に文化が位置しているといった仮定は時代遅れになっていた。また多国籍資本の驚異的な拡大が資本主義に染まっていない地域(自然であれ意識であれ)を植民地化し尽くしてしまい、植民化される側は評論家にとって都合がよい状況を与えていた(ジェイムソン、1993年、54)。

4.3 社会科学

ポストモダン社会学は20世紀後半の先進国の生活に着目しており、マスメディアと大量生産・大量消費、グローバル・エコノミーの登場、製造業からサービス業へのシフトを視野に収めていた。ジェイムソンやハーヴェイはその生活を消費主義として描いており、製造、流通、その結果としての幅広い普及に要するコストは安価になっていたが、社会におけるつながりやコミュニティは一層希薄になっていた。他の思想家によれば、ポストモダニティは大量生産・ポピュリズムを前提とした社会におけるマスメディアに対する当然の反応であることが指摘されていた。アラスデア・マッキンタイアの著作はマーフィー(2003年)やビールスキス(2005年)のような著者によるポストモダニズムを紹介しており、マーフィーやビールスキスにとってアリストテレスの哲学に対するマッキンタイアによるポストモダン流の解釈は資本蓄積を加速させているある種の消費主義に対する抵抗として映っていた。

ポストモダニティに対する社会学的な視点は迅速な移動手段、コミュニケーションの範囲の拡大、断念せざるを得なかった大量生産のための標準化に原因を求めており、それらは以前より幅広い資本に価値を置き、その価値が多様な形で蓄積されることを許容するシステムを生み出していた。ハーヴェイによれば、ポストモダニティは「フォーディズム」からの脱却であり、それはアントニオ・グラムシによる造語であるが、1930年代初頭から1970年代までのOECD諸国においてケインズ政策を採用していた時代の産業の規制や資本蓄積のプロセスを説明していた。ハーヴェイにとってのフォーディズムは、アントニオ・グラムシによる語が大量生産や労使関係の方法に関連している点でケインズ主義と関係していたが、経済政策や産業の規制と関係していた。したがってポスト・フォーディズムはハーヴェイの視点によればポストモダニティの基本的な側面の1つを構成していた。

ポストモダニティの産物はテレビやポピュラー・カルチャーによる支配、情報に接する利便性の拡大、マスメディアの役割の拡大を含んでいた。またポストモダニティは環境保護や反戦運動に見られるような進歩の名の下の犠牲に対する抵抗運動を示していた。工業化におけるポストモダニティはフェミニズムや多文化主義のようなムーブメントと同様に公民権運動や他の抵抗運動に焦点を当てていた。政治におけるポストモダンは抑圧や疎外(性や民族における)に対するさまざまな抵抗運動を通じた公民権や政治活動の可能性や多様な場によって特徴付けられていたが、政治におけるモダニストは階級闘争に囚われたままであった。

ミシェル・マフェゾリのような研究者は、ポストモダニティが存在を支える枠組みを崩壊させており、個人主義の弱体化や新部族主義の登場をもたらすだろうと考えていた。

現在の経済状況や技術環境はメディアによって支配されたばらばらな社会を生み出しており、その内容は見せかけにすぎず、相互言及的なアイデアの集合であり、意味に関して客観的な実体のない中身を真似し合う状況であった。意思の疎通、製造プロセス、輸送手段におけるイノベーションによってもたらされたグローバリゼーションはばらばらな近代的生活に拍車をかける推進力のようなものであり、政治・意見交換・知的活動の中心が欠落しており、文化的な複数性を有しており、相互に関連したグローバル・コミュニティを生み出していた。ポストモダニストの視点によれば、客観的とは言いがたい間主観的な知識が支配的な言説になり、情報の普及の偏りによって人々と情報や消費者と生産者の関係が根本的に変化していることが指摘されていた。

『スペース・オブ・ホープ』の中でハーヴェイは、政治におけるポストモダンは(マルキストの意味で)弱者の問題やフォーディズムの時代以上に重要になっていた現在の政治に対する批評の意識に間接的に関係していた。ハーヴェイにとって階級闘争は解決に程遠いものであった(彼の説明によればポストモダニストはこの問題を無視していたのだが)。グローバリゼーションによって権利が保護されない低賃金労働の問題に労働組合が取り組むことが一層困難になっていたのだが、欧米の消費者が支払っている商品の価格と東南アジアの労働者が稼いでいる低賃金のギャップによって企業の収益は一層大きなものになっていた。

5 批判

ポストモダンに対する批判は大きく4つに分かれており、モダニズムを否定する視点を理由にしたポストモダニティに対する批判、ポストモダニティが近代のプロジェクトに含まれる公共性や合理性を欠いていると考えているモダニストによる批判、ポストモダニズムに対する理解に依拠した変化を求めているポストモダニティの内部からの批判、現在の社会を鑑みるとポストモダニティが過去のものになっているといった批判であった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Michel_Foucault

ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコー(1926年10月15日-1984年6月25日)はフランスの哲学者、思想史の研究者、社会理論の研究者、文学研究者、文芸評論家であった。フーコーの理論は権力と知識の関係に言及しており、どのように権力と知識が組織的に社会統治の道具として用いられてきたのかを示していた。ポスト構造主義者ないしポストモダニストと呼ばれているフーコーはこの呼び名を承諾しておらず、彼の思想がモダニティにおける批評史に分類されることを好んでいた。フーコーの思想は研究者とアクティビスト・グループの双方に大きな影響を与えていた。

ポワチエの上流階級の家庭に生まれ、フーコーはアンリ4世高校で教育を受け、その後エコール・ノルマルで学び、哲学に対する関心が強くなり、ジャン・イポリットやルイ・アルチュセールといった師から影響を受けていた。民間外交官として外国で数年過ごした後、フーコーはフランスに戻り、最初の著作である『狂気の歴史』を発表していた。1960年から1966年にかけてオーベルニュ大学に職を得た後、フーコーは2冊の著作を仕上げ、『臨床医学の誕生』や『言葉と物』がそれらであり、構造主義や後に距離を置くことになる社会人類学に対する関心を示していた。これらの著作は「考古学」と名付けられ歴史を研究するためのアプローチの例を示していた。

1955年から1968年にかけてフーコーはフランスに戻る前にチュニス大学で講義をしており、その後ヴァンセンヌ実験大学の哲学科の教員になった。1970年にフーコーはコレージュ・ド・フランスの教員になり、生涯を通じそのメンバーシップを保持していた。またフーコーは多くの左派グループのアクティビストでもあり、反レイシズム運動、人権擁護運動、刑法改正運動に関わっていた。さらにフーコーは『知の考古学』、『監獄の誕生』、『性の歴史』を発表していた。これらの著作を通じてフーコーは社会的な言説の変化において権力が担っている役割にフォーカスした考古学的ないし系図的アプローチを採用していた。その後パリでフーコーはエイズに付随した神経組織の病気で死去することになり、エイズで亡くなった最初のフランスの公人になり、フーコーのパートナーであるダニエル・ドフェールはエイズ基金を設立していた。

1 若い頃

1.1 青年期:1926年-1946年

ポール=ミシェル・フーコーは1926年10月15日にフランス西部のポワチエで保守的な中産階級の家庭の二番目の子供として誕生していた。フーコーは父であるポール・フーコーに因んで名付けられており、それが家庭の伝統であったが、母は二つの名前から成るファーストネームである「ミシェル」を主張しており、学校では「ポール」であったが、生涯を通じてフーコーは「ミシェル」を好んでいた[3]。フーコーの父(1893年-1959年)は地元の外科医であり、ポワチエに移る前にフォンテーヌブローで生まれており、そこで開業しながら、地元の女性であるアン・マラペールと結婚していた[4]。アン・マラペールは外科医であるプロスペル・マラペールの娘であり、プロスペル・マラペールは開業医でありポワティエ大学の医学部で解剖学を教えていた[5]。ポール・フーコーは義理の父の病院を引き継ぎ、アン・マラペールはヴォンドゥーヴル=デュ=ポワトの村にあるル・ピロワールと呼ばれる19世紀の大きな住居を守っていた[6]。3人の子供であるフランシーヌと名付けられた娘とポール=ミシェルやデニスと名付けられた2人の息子と同様に、彼らは全員金髪で明るい青い目をしていた[7]。子供たちは表面的にはカトリック教徒として育てられており、サン・ポルチェールの教会のミサに参加しており、短期の間ミシェルは侍祭の役を務める少年であったが、家族は敬虔ではなかった[8]。

その後の人生を通じてフーコーは少年時代についてほとんど語ることがなかった[10]。「非行少年」であったと述べながら、フーコーは彼の父が厳しい罰を与えるいじめを行なっていたと主張していた[11]。1930年にフーコーは地元のアンリ4世高校で2年早く学校生活を始めていた。フーコーは2年間でリセに入る前の初等教育を終えており、リセには1936年まで在籍していた。そして同じ学校での中等教育を4年間で終えており、フランス語、ギリシア語、ラテン語、歴史を得意としながらも、数学が苦手であった[12]。1939年に第二次世界大戦が始まり、1945年までフランスはナチスドイツに占領されていた。フーコーの両親はドイツによる占領とヴィシー政権に反対していたが、レジスタンスには参加していなかった[13]。1940年にフーコーの母はイエズス会によって運営されていた厳格なカトリックの機関であるサン・スタニスラス学院にフーコーを通わせていた。フーコーはそこでの生活を「厳しい試練」と表現していたが、特に哲学、歴史、文学において優れた成績であった[14]。1942年にフーコーは最終学年になり、哲学の研究に専念しながら、1943年にバカロレアに合格した[15]。

地元のアンリ4世高校に戻り、1年間フーコーは歴史と哲学を研究しており[16]、哲学者であるルイ・ジラールから助力を得ていた[17]。そしてフーコーを外科医にさせる父の希望を否定しており、1945年にフーコーはパリに行き、アンリ4世高校として知られている最も有名な中等学校の1つに通っていた。またフーコーは哲学者であるジャン・イポリットの下で研究しており、ジャン・イポリットはヘーゲルやカール・マルクスの弁証法と実存主義を融合させる19世紀ドイツの哲学者であるヘーゲルの研究の専門家であり、実存主義者であった。これらの思想はフーコーに影響を与えており、哲学は歴史の研究を通じて研究されなければならないといったイポリットの信念をフーコーは受け継いでいた[18]。

1.2 エコール・ノルマル:1946年-1951年

優秀な成績で1946年の秋にフーコーはエコール・ノルマル(ENS)に入学していた。入学のためにフーコーはジョルジュ・カンギレムとピエール・マクシム・シュールから口頭試問を受けていた。ENSに入学した100名の内、フーコーは入学試験の結果では上から4番目で、高い競争率を経験していた。多くのクラスメイトと同じ様にフーコーはユルム街の寄宿舎で暮らしていた[19]。フーコーは人気がない学生で、1人で過ごすことが多く、貪欲に読書をしていた。フーコーの友人たちは暴力やグロテスクなものに対するフーコーの執着心に感づいていた。フーコーはスペインの芸術家であるフランシスコ・デ・ゴヤがナポレオン戦争の時に描いた拷問や戦争の挿し絵を使って寝室を装飾しており、時として仲間を短剣で追い回していた[20]。伝聞によればフーコーは自殺に失敗しており、それを理由にしてフーコーの父はサンタンヌ病院の精神科医であるジャン・ディレイの所にフーコーを連れていった。自傷行為や自殺行為が後をひき、フーコーは何度かそれらを繰り返しており、後年の著作の中で自殺行為を肯定していた[21]。ENSの医師はフーコーの精神状態を鑑定しており、フーコーの自殺の傾向がホモセクシュアリティに対する悩みに起因しており、同性間の行為が当時のフランスでタブーであったことが背景に存在していた[22]。またフーコーは薬物の使用を含めてパリのゲイとの行為に耽ることがあった。伝記作家のジェームス・ミラーによれば、フーコーは危険な行為のスリルを楽しんでいた[23]。

さまざまなテーマを研究しているにもかかわらず、フーコーの関心は哲学にあり、ヘーゲルやマルクスだけでなく、イマヌエル・カント、エトムント・フッサール、特にマルティン・ハイデッガーを読み込んでいた[24]。フーコーは哲学者であるガストン・バシュラールの著作を読み始めており、科学史の研究に関心を示していた[25]。1948年に哲学者であるルイ・アルチュセールがENSのチューターになった。マルキストであるルイ・アルチュセールはフーコーや他の多くの学生達に影響を与えており、彼らをフランス共産党(PCF)に勧誘していた。1950年にフーコーはフランス共産党に入党していたが、特別な活動をしていた訳ではなく、マルキストの視点を取り入れたこともなく、階級闘争のようなマルキストの教義に対して反論していた[26]。フーコーはすぐに共産党で経験した偏狭さに不満を抱くようになっていた。個人的にフーコーは同性愛恐怖症を経験しており、ソ連共産党幹部暗殺計画を通じて示されていた反ユダヤ主義に恐怖を感じていた。1953年にフーコーは共産党から離党したが、アルチュセールとの親交はそのままであった[27]。1950年に1回失敗したけれども、1951年の2回目に哲学のアグレガシオンに合格した[28]。医学的な観点から兵役を免除された後、フーコーはティエール財団で博士号のために研究する決意を固めており、それは心理学における哲学にフォーカスしたものであった[29]。

1.3 初期のキャリア:1951年-1955年

その後数年、フーコーはさまざまな研究と教育に携わっていた[30]。1951年から1955年にかけてフーコーはアルチュセールの招きでENSの哲学の講師を務めていた[31]。パリでフーコーは兄弟とアパートをシェアしており、フーコーの兄弟は外科医になる研修を受けていたが、フーコーは1週間の内3日間は北部の都市であるリールに通勤しており、1953年から1954年までリール・ノール・ド・フランス大学で心理学を教えていた[32]。フーコーの講義は多くの学生から好意的に見られていた[33]。一方でフーコーは学位論文を執筆しており、イワン・パブロフ、ジャン・ピアジェ、カール・ヤスパースのような心理学者の著作を読み込むために毎日フランス国立図書館に通っていた[34]。サンタンヌ病院の精神科での研究を引き受け、フーコーは非公式のインターンになり、医師と患者の関係について研究しており、脳波検査室での研究を支援していた[35]。フーコーは精神科医であるジークムント・フロイトによる理論の多くを採用しており、自己の夢に対して精神分析を行い、仲間にロールシャッハ・テストを行なっていた[36]。

またアヴァンギャルドなパリ市民を自認しており、フーコーは作曲家であるジャン・バラケとのロマンスに浸っていた。彼らは人間の思考力の限界を拡大し、最も素晴らしい作品を制作しようとしていた。重度の薬物依存であり、彼らはサドマゾの関係にあった[37]。1953年8月にフーコーとバラケはイタリアで休暇を過ごしており、ドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェによる4編のエッセイから構成されていた『反時代的考察』(1873-1876)に耽っていた。後にニーチェの著作を「啓示である」と表現したフーコーは著作を深く読み込むことが自身に影響を与えていたと感じており、読書が転機になっていた[38]。そして1953年にフーコーはサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』のパリ公演を観劇したときに新たな自己を見出していた[39]。

文学に関心があり、フーコーは『新フランス評論』における哲学者であるモーリス・ブランショによる書評の熱心な読者であった。ブランショの文体や批評理論に魅了されており、後期の作品の中でフーコーは自身を「取材・検討する」ブランショのアプローチを取り入れていた[40]。またフーコーはヘルマン・ブロッホによる『ウェルギリウスの死』(1945年)に出会い、それはフーコーとバラケを魅了していた。バラケは『ウェルギリウスの死』をエピック・オペラにしようとしていたが、フーコーは人生を肯定した死の描写を理由にしてブロッホの文章を賞賛していた[41]。フーコーとバラケはマルキ・ド・サド、フランツ・カフカ、ジャン・ジュネのような作家の作品に対しても関心を抱いており、それらは性と暴力をテーマにしていた[42]。

そしてスイスの精神科医であるルートヴィヒ・ビンスワンガーの著作に関心を示しており、フーコーは友人であるジャクリーヌ・ヴェルドーがその作品をフランス語に翻訳することを支援していた。特にフーコーは自殺するに至ったエレン・ウェストに対するビンスワンガーの研究に関心を抱いていた[44]。1954年にフーコーはビンスワンガーの論文である『夢と実存』のイントロダクションを執筆しており、夢が「世界の誕生」と「剥き出しの感情」で構成されており、理性の奥深い欲望を表していると主張していた[45]。同じ年にフーコーは最初の著作である『精神疾患と心理学』を出版しており、その著作の中でマルキストやハイデッガリアンの思想からの影響を示しており、パブロフの反射理論による心理学からフロイトによる古典的な精神分析まで幅広いテーマを扱っていた。エミール・デュルケームやマーガレット・ミードのような社会学者や人類学者の著作を引き合いに出しながら、フーコーは病気が文化と関連しているといった理論を示していた[46]。伝記作家であるジェームス・ミラーによれば、その著作は「博識と明白な知性」を示していたが、フーコーがその後の著作で示している「ある種の情熱」に欠けていた[47]。著作は評論として見向きもされていなかったが、当時ただ1つからレビューを受けていた[48]。フーコーはそのことから影響を受けて、英語への翻訳と再版を思いとどまろうとしていたが、そうはならなかった[49]。

1.4 スウェーデン、ポーランド、西ドイツ:1955年-1960年

フーコーはその後の5年間を海外で過ごしており、初めはスウェーデンのウプサラ大学で民間外交官として勤務しており、その仕事は宗教史を専門にしているジョルジュ・デュメジルの知人を通じたものであった[50]。ウプサラでフーコーはフランス文学の助手に着任しており、同時にメゾン・ド・フランスのディレクターとして勤務しており、それをきっかけにして民間外交官のキャリアを切り開いていた[51]。北欧の薄暗く長い冬を気に入っていなかったが、フーコーは生化学者であるジャン・フランソワ・ミケルや物理学者であるジャック・パーペ=レピーヌと親しくなり、さまざまな人々とロマンスに耽っていた。ウプサラではフーコーは大酒飲みで知られており、ジャガーを乗り回していた[52]。1956年の春にバラケはフーコーとの関係を終わりにし、「狂気のなせる混乱」から逃れたいと告げていた[53]。ウプサラでフーコーは大学のカロリーナ・レディヴィヴァ・ライブラリーで長時間を過ごしており、医学史の研究のためにビブリオテーカ・ワレリアーナ・コレクションを利用していた[54]。医学論文を執筆し終え、フーコーはウプサラ大学に論文が受理されることを願っていたが、科学史を専門にしているステン・リンドロスは否定的な見解を示し、推論の一般化が多く歴史としては中途半端であると主張していた。ステン・リンドロスはウプサラ大学で博士号を出すことに反対しており、それを理由にしてフーコーはスウェーデンを去ることになった[55]。

デュメジルに認められて、1958年10月にフーコーはポーランドのワルシャワに到着し、ワルシャワ大学のフランス語センターに着任した[56]。第二次世界大戦の荒廃に伴う物資やサービスの欠乏により、フーコーはポーランドでの生活における困難に直面していた。学生が共産主義のポーランド統一労働者党による支配に抗議していたポーランド十月革命の結末を目の当たりにして、フーコーは多くのポーランド人がソ連の傀儡としてのポーランド政府を軽蔑していたことを感じ取っており、システムが「誤って」機能していると考えていた[57]。大学を自由の場として考えており、フーコーは自由に講義ができる国に移ることになった。その評判を示すことによって、フーコーは事実上の文化担当官に着任していた[58]。フランスやスウェーデンでは同性愛は合法であったが、ポーランドでは社会的に肩身が狭いものであり、フーコーは多くの男性と交友しており、1人はフーコーを罠にかけるためのポーランドのエージェントであり、そのことがフランス大使館に悪影響を及ぼしていた。外交上のスキャンダルに苦しめられて、フーコーはポーランドから次の地へ移ることになった[59]。さまざまな立場が西ドイツにはあり、フーコーはハンブルクに移りウプサラやワルシャワで担当していたコースを受け持つことになった[60]。そしてレーパーバーンで多くの時間を過ごしており、フーコーは女装の趣味を有する人々との交友を広げていた[61]。

2 円熟期のキャリア

2.1 『狂気の歴史』(1960年)

西ドイツでフーコーは博士論文を仕上げ、その学位論文である『狂気の歴史』は医学史に対する彼の研究に依拠していた。その著作はどのように西欧社会が狂気を取り扱ってきたのかを論じており、その西欧社会は精神疾患の人々から完全に切り離されたものであったと論じていた。フーコーは3つのフェーズを通じた狂気の概念の展開をトレースしており、それらはルネサンス、17世紀から18世紀、近代を指していた。その著作はフランスの詩人であり劇作家であるアントナン・アルトーの作品を想起させており、アントナン・アルトーは当時のフーコーの思想に大きな影響を及ぼしていた[63]。

『狂気の歴史』は包括的な著作であり、それは943ページからなり、付録と参考文献一覧が付随していた[64]。フーコーはパリ大学に学位論文を提出していたが、博士号を授与するための学則は主要な論文と補足的な論文の双方を提出することを求めていた[65]。当時のフランスで博士号を取得することは多段階のステップを必要としていた。最初のステップはラポーターと著作のスポンサーを探すことであり、フーコーはジョルジュ・カンギレムを選んでいた[66]。二番目のステップは出版社を探すことであり、『狂気の歴史』はガリマール出版社に拒否された後にフランス大学出版局を通じてフーコーが選んだプロン出版社から1961年5月にフランス語で出版されることになった[67]。1964年に簡約版がペーパーバックで出版され、翌年英語に翻訳されることになった[68]。

『狂気の歴史』はフランスでの出来事にフォーカスした外国誌やフランスでさまざまな受けとめ方をされていた。ブローショ、ミシェル・シェール、ロラン・バルト、ガストン・バシュラール、フェルナン・ブローデルによって賞賛されていたが、フーコーを悩ませていたことに『狂気の歴史』が左派による論壇から無視されていたことが挙げられていた[69]。『狂気の歴史』は形而上学を支持していたことを理由にして1963年3月のパリ大学での講義の中で若手の哲学者であるジャック・デリダによって批判されていた。悪意に満ちた返事に対して、フーコーはデリダの論点を無視することで対抗しており、デリダの主張はルネ・デカルトに対するフーコーの解釈を批判することに焦点を絞っていた。1981年に和解するまで2人は険悪なままであった[70]。英語圏では『狂気の歴史』は1960年代の反精神医学運動に大きな影響を与えていた。フーコーは反精神医学運動に対して入り混じったアプローチを採っており、多くの反精神医学者に影響を及ぼしていたが、彼らの多くが『狂気の歴史』を誤解していると主張していた[71]。

フーコーの副論文はドイツの哲学者であるイマヌエル・カントによる『実用的見地における人間学』(1798年)を翻訳し注釈を付したものであった。カントのテクストにおける考古学といったテクストの時代設定を論じたフーコーによる議論で構成されており、フーコーは哲学的に大きく影響を受けていたニーチェを想起しながら論文を纏めていた[72]。この著作におけるラポーターは昔のチューターとENSのディレクターであるイポリットになり、イポリットはドイツの哲学者によく知られた存在であった[64]。これらの2つの論文がレビューされた後、フーコーはディフェンスを組み立て、1961年5月20日に口頭審査を受けることになった[73]。フーコーの著作をレビューした研究者はフーコーの主論文の型破りな特徴に懸念を示しており、レビュアーであるアンリ・グイエはフーコーの主論文が歴史におけるお約束の原稿でないことを指摘しており、その著作が十分な各論を展開しないで包括的な一般化を行っており、フーコーが「寓意を用いて論理を展開している」ことを付け加えていた[74]。しかしレビュアーはそれらの論文が優れていることを認めており、「留保を付けながら」、フーコーに博士号を授与していた[75]。

2.2 オーベルニュ大学、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』:1960年-1966年

1960年10月にフーコーはオーベルニュ大学の哲学の講座でテニュアを得て、毎週パリからクレルモン=フェランへ通勤しており[76]、パリのファンレイ街の高層住宅で暮らしていた[77]。哲学科で心理学を教えることを担当しており、フーコーはオーベルニュ大学では「面白い」が「やや型にはまった」教員と考えられていた[78]。哲学科はジュール・ヴュイユマンによって運営されており、ジュール・ヴュイユマンはフーコーとすぐに親しくなっていた[79]。1962年にヴュイユマンがコレージュ・ド・フランスの教員に選任された後、フーコーはヴュイユマンの仕事を引き継いでいた[80]。このポジションに就いてからフーコーはあるスタッフを嫌っており、その軽視されていたスタッフの中にフランス共産党の幹部であるロジェ・ガロディが含まれていた。フーコーはガロディによって大学での人生が危うくなっており、ガロディをポワチエに移籍させていた[81]。またフーコーは哲学者であるダニエル・ドフェールのために大学での仕事を確保したために論争を引き起こしており、ダニエル・ドフェールと一夫一婦制の枠に収まらない関係を続けていた[82]。

フーコーは文学に対する関心を失っておらず、文学雑誌である『テル・ケル』や『新フランス評論』にレビューを載せており、『クリティーク』の編集委員を務めていた[83]。1963年5月にフーコーは詩人、作家、脚本家であるレーモン・ルーセルに捧げた著作を出版していた。それは2ヶ月で書き上げられており、ガリマール出版社から出版され、伝記作家であるデイビット・メイシーによってルーセルの著作との「特別な関係」から生じた「内輪の著作」として紹介されていた。その著作は1983年に『死と迷宮:レーモン・ルーセルの世界』として英語で出版されていた[84]。レビューはほとんどなく、それはほぼ無視されていた[85]。同じ年にフーコーは『狂気の歴史――古典主義時代における』の続編である『ネサーンス・ドゥ・ラ・クリーニク』を発表しており、後にそれは『臨床医学の誕生』として翻訳されていた。前作より短く、『臨床医学の誕生』は18世紀後半から19世紀初頭の医学界の変遷にフォーカスしていた[86]。前作のように『ネサーンス・ドゥ・ラ・クリーニク』は批評の対象から外されていたが、後に一時の熱狂を獲得することになった[85]。またフーコーは1963年11月から1964年3月まで国民教育大臣であるクリスティアン・フーシェによって指揮された大学改革を議論するために招集された「18人委員会」の委員に選ばれていた。大学改革は1967年に行われており、スタッフによるストライキや学生による抗議活動に発展していた[87]。

1966年4月にガリマール出版社はフーコーの『言葉と物』を出版しており、後に英語に翻訳していた[88]。どのように人間が知の対象になっていったのかを研究しながら、『言葉と物』は、あらゆる時代の歴史が科学のディスコースとして容認できるものを形成している真実の背後にある特定の状況を示唆していることを論じていた。フーコーはこれらの真実の背後にある特定の状況がある時代のエピステーメーから次の時代のエピステーメーへと変化してきたと述べていた[89]。専門家向きの著作であったけれども、それはメディアから注目を集めて、フランスのベストセラーになった[90]。新たな思想家がジャン=ポール・サルトルによって人気を博していた実存主義を一掃したことから、構造主義に対する関心が高まり、フーコーは研究者であるジャック・ラカン、クロード・レヴィ=ストロース、ロラン・バルトと共に行動していた。当初はこういった説明を容認していたが、フーコーはすぐにそうした説明を激しく否定していた[91]。フーコーとサルトルはメディア上で互いを批判し合っており、サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「中産階級」に立脚したフーコーの思想を批判していたが、フーコーは「マルクス主義は19世紀の思想としては妥当であったのだが、現在は死に絶えているに等しい」と述べることによってマルキストの信念に対して反論していた[92]。

2.3 チュニス大学とヴァンセンヌ大学:1966年-1970年

1966年9月にフーコーは北アフリカのチュニス大学で心理学を教えることになった。その決定は主にドフェールが兵役でチュニジアに赴任することを理由にしていた。フーコーはチュニスからシディ・ブ・サイドまで数キロメートル移動しており、シディ・ブ・サイドには研究者仲間のジェラルド・デレダルが奥さんと共に暮らしていた。到着してすぐにフーコーはチュニジアが「歴史に恵まれた国」であることに触れており、「ハンニバルやアウグスティヌスが暮らしていた土地でもあるので、永住する価値がある」と述べていた[94]。フーコーの講義は人気があり、出席者が多かった。多くの学生がフーコーの講義に夢中になり、保守派の政治観であると考えていたものに対して批判的になり、フーコーを「ド・ゴール派のテクノクラシーの代表」として眺めていたが、フーコーは自身を左派として捉えていた[95]。

フーコーは1967年の反政府・親パレスチナの暴動がチュニスに衝撃を与えた頃のチュニスに滞在しており、その暴動は1年間続いていた。多数の抗議者による暴力、極右、反ユダヤ主義に対して批判的であったけれども、フーコーは自身の立場を用いて過激派左翼の学生の一部がアジで逮捕され拷問にあうことから救おうとしていた。フーコーは自宅の庭に学生の印刷物を隠して、学生に対する裁判で学生を擁護するために証言しようとしていたが、裁判が非公開になったためにそれはなくなった[96]。チュニスに滞在している間フーコーは執筆し続けていた。シュルレアリスムの画家であるルネ・マグリットとの文通に触発されて、フーコーは印象派の画家であるエドゥアール・マネについての本を執筆し始めていたが、それは未完に終わった[97]。

1968年にフーコーはパリに戻り、ヴォージラール通り沿いのアパートに引っ越していた[98]。フランスの五月革命以後、国民教育大臣であるエドガー・フォーレは自治を拡大した新たな大学を設立することによる教育改革を決定していた。この改革で最も有名なものはパリ郊外のヴァンセンヌにあるヴァンセンヌ実験大学であった。著名な研究者のグループに対してヴァンセンヌ実験大学を運営するための教員を選ぶようにとの要請があり、カンギレムは哲学部長としてフーコーを推薦していた[99]。ヴァンセンヌでテニュアを持った教員になり、フーコーの希望はその学部で「今のフランス哲学でのベスト」の布陣を敷くことであり、ミシェル・セール、ジュディス・ミラー、アラン・バディウ、ジャック・ランシエール、フランソワ・ルニョー、アンリ・ウェーバー、エティエンヌ・バリバール、フランソワ・シャトレを採用しており、彼らの多くはマルキストや極右活動家であった[100]。

1969年1月から大学での講義が始まったのだが、学生やフーコーを含むスタッフが占拠や警察との衝突に巻き込まれて、逮捕されてしまっていた[101]。2月にフーコーはミュチュアリテのカルチェラタンでの抗議活動に対する警察の挑発を非難する演説を行なっていた[102]。そのような活動はフーコーによる極左に対する支援として特徴付けられており[103]、確かにドフェールの影響であり、ドフェールはヴァンセンヌ実験大学社会学部で職を得ており、毛沢東主義者であった[104]。フーコーの哲学科で提供しているコースの多くはマルクス・レーニン主義を指向していたが、フーコー自身はニーチェの『形而上学の終焉』や『セクシュアリティの言説』のコースを担当しており、それらは人気が高く、定員を大幅に超過していた[105]。右派のプレスがこの新しい組織や制度を批判していたけれども、新しい国民教育大臣であるオリヴィエ・ギシャールはその理念の歪みや無試験であることに立腹しており、学生は何ら考えることなく学位を与えられていた。オリヴィエ・ギシャールは学位の国家認定を拒否しており、フーコーは公開の場で反論していた[106]。

3 その後の生活

3.1 コレージュ・ド・フランスと『監獄の誕生』:1970年-1975年

フーコーはヴァンセンヌ実験大学を離れることを希望して、コレージュ・ド・フランスの一員となった。フーコーはその一員となることに関して『思考システムの歴史』と呼ばれる講座を担当することを希望しており、そのフーコーの案はデュメジル、イポリット、ヴュイユマンから支持されることになった。1969年11月に公募が始まり、フーコーはコレージュの一員に選ばれることになったが、ラージ・マイノリティはその選出に反対していた[107]。1970年12月の講義がその初回になり、『言説表現の秩序』として出版されていた[108]。フーコーは年12週の講義を担当し、以後それが続くことになり、当時フーコーが研究していたトピックスを取り上げていた。フーコーの講義は「パリっ子の知的生活におけるひとコマ」になり、頻繁に定員を超えていた[109]。毎週月曜日にフーコーは学生向けのゼミを開いており、その多くが「フーコディアン」になり、フーコーと共に研究していた。フーコーは学生との共同研究を楽しんでおり、共同で多くの短編を出版していた[110]。コレージュでの研究はフーコーの活躍の場を広げることになり、ブラジル、日本、カナダ、アメリカで14年以上講演を行なっていた[111]。

1971年5月にフーコーは歴史家であるピエール・ヴィダル=ナケやジャーナリストであるジャン=マリー・ドームナクと共に監獄情報グループ(GIP)を共同設立していた。GIPの目的は監獄の劣悪な環境を調査し公開し、フランス社会で囚人や元囚人が発言権をもてるようにすることであった。彼らは刑罰のシステムに批判的であり、刑罰のシステムが軽犯罪を重罪に変えてしまうと考えていた[112]。GIPは記者会見を行い、他の刑務所の暴動に伴った1971年12月のトゥール刑務所の暴動についての出来事に対して抗議をしており、それを理由にして彼らは警察によるガサ入れや逮捕を味わうことになった[113]。GIPはフランス全土で活動しており、メンバーは2,000人から3,000人前後いたが、1974年以前に解散することになった[114]。死刑に反対するキャンペーンを行い、フーコーは処刑された殺人の加害者であるピエール・リヴィエールの事例についての短編を共著していた[115]。刑罰のシステムを研究しながら、1975年にフーコーは『監獄の誕生』を出版しており、西欧における監獄システムの歴史を描き出していた。伝記作家であるディディエ・エリボンは『監獄の誕生』をフーコーの著作の中で「最も秀逸なもの」として示しており、評論家の中でも好意的に受けとめられていた[116]。

またフーコーは反レイシズム運動に参加しており、1971年11月に明らかなレイシストがアラブからの移民であるドゥジュラリ・ベン・アリを殺害したことに対して抗議するリーダーの1人になった。この運動においてフーコーはかつてのライバルであるサルトル、ジャーナリストであるクロード・モーリアック、作家の1人であるジャン・ジュネとともに活動していた。この運動はル・コミテ・ドゥ・デファンス・ドゥ・ラ・ヴィ・エ・デ・ドゥロワ・デ・トラヴァイユール・イミグレ(CDVDTI)を形成していたが、フーコーが多くのアラブ人労働者や毛沢東主義者による反イスラエル感情に反論していたので、その会合にはある緊張が存在していた[117]。1972年12月に警察がアラブ人労働者であるモハメド・ディアブを殺害したことに対する抗議活動で、フーコーとジュネは逮捕されており、その経緯が広く世に知られることになった[118]。またフーコーはアージャンス・ドゥ・プレス・リベラシォン(APL)の設立に関与しており、それは左派のジャーナリストのグループであり、メインストリーム・メディアで無視されているニュースを伝えることを目的にしていた。1973年に彼らは日刊紙のリベラシオンを設立し、フーコーは彼らがニュースを収集し報道を提供するためにフランスをカバーするリベラシオン委員会を創設することを提案しており、『プー・ユヌ・クローニク・ドゥ・ラ・メモワール・ウーヴリエール』として知られるコラムを投稿し、労働者が意見を表明することを受け入れていた。フーコーは新聞に活動的なジャーナリズムを求めていたがその活動を擁護し切れないと考えてからリベラシオンに幻滅しており、その理由として報道が事実を歪めていることを指摘しており、1980年までコラムを投稿することはなかった[119]。

3.2 『性の歴史』とイラン革命:1976年-1979年

1976年にガリマール出版社はフーコーによる『性の歴史』を出版しており、その小著はフーコーが「抑圧に対する仮説」と呼んでいる枠組みを探求していた。その著作は権力の概念を巡る分析を展開しており、フーコーは精神分析や権力に対するマルキストの理論を否定していた。フーコーはそれらのテーマに対する7分冊の内の初めの1冊として『性の歴史』を位置付けていた[120]。それはベストセラーになりプレスから好意的な評価を受けていたが、一方で知識層の無関心がフーコーの悩みであり、彼らの多くはフーコーの仮説に対して誤解を抱いていた[122]。フーコーはシニアスタッフであるピエラ・ノヴァから不快感を与えられガリマール出版社に対して不満を抱くなるようになった[122]。ポール・ベイヌとフランソワ・ヴァールとともにフーコーはソイル社を通じて『デ・トラヴォー』として知られる専門書の新たなシリーズに着手しており、フランスにおけるアカデミズムの改善を願っていた[123]。またフーコーはエルキュリーヌ・バルバンによる手記の序文を書いていた[124]。

フーコーは政治的なアクティビストであり続け、国内外の政府による人権侵害を注視していた。フーコーはスペイン政府が公正な裁判を行わずに11名の過激派を処刑したことに対する1975年の抗議活動において中心的な役割を果たしていた。彼らは記者会見を行うために6名の仲間とともにマドリードに到着したが逮捕されパリに送還されることになった[126]。1977年にクラウス・クロワッサンを西ドイツに引き渡すことに抗議していたときに、フーコーは機動隊との衝突で肋骨を骨折していた[127]。また1977年7月にソ連の共産党書記長であるレオニード・ブレジネフがパリを訪問したことに合わせて、フーコーは東側の反体制派の集会を組織しており[128]、1979年にはベトナムの反体制派がフランスに亡命することに対して賛同を示す運動を展開していた[129]。

1977年にイタリアの新聞であるコリエーレ・デラ・セラはフーコーにコラムを依頼していた。そしてフーコーはイラン革命におけるブラック・フライデーの直後になる1978年にテヘランに渡っていた。イラン革命の展開を記事にしながら、フーコーはムハンマド・カゼム・シャリアトマダリやメフディー・バーザルガーンのような対抗勢力のリーダーに会うことを通じてイスラム主義に対する国民的な支持を見出していた[130]。フランスに帰国するとフーコーはルーホッラー・ホメイニーと会ったことのあるジャーナリストの1人になっており、それは再度テヘランを訪問する以前のことであった。フーコーによる記事はホメイニーによるイスラム主義運動に対する敬意を示しており、それを理由にリベラル派のイラン反体制派やフランスのメディアから批判を受けることになった。それに対するフーコーの回答はイスラム教が中東において大きな政治的影響力を有するべきであり欧米は敵対的な姿勢よりむしろ敬意をもってイスラム教に接するべきであるといったことであった[131]。1978年4月にフーコーは日本を訪問しており、上野原にある青苔寺で大森曹玄を通じて禅宗を研究していた[111]。

3.3 晩年:1980年-1984年

力関係に対する批判を継続していたけれども、フーコーは1981年の総選挙によって成立したフランソワ・ミッテランによる社会党政権に対する支援を自重しながら表明していた[132]。しかし社会党政権に対するフーコーの支援は社会党政権が1982年に行われた連帯によるデモに対するポーランド政府による弾圧を非難することを拒んだとき以降変質していった。フーコーと社会学者であるピエール・ブルデューはミッテランの不作為を非難する文書を執筆しており、それはリベラシオン紙上で公表され、フーコー達は社会党政権の不作為に対する幅広い抗議活動に参加していた[133]。フーコーは連帯に対する支援を継続しており、仲間であるシモーヌ・シニョレとともに「世界の医療団」のメンバーとしてポーランドに渡り、アウシュビッツ強制収容所を訪問していた[134]。またフーコーは学術調査を継続しており、1984年6月にガリマール出版社は『性の歴史』の第2巻と第3巻を出版していた。第2巻の『快楽の活用』は倫理に関連した古代ギリシアの一般市民の道徳によって規定されている「テクニーク・ドゥ・ソワ」を扱っており、第3巻の『自己への配慮』は西暦200年までのギリシアやローマのテクストにおける同様のテーマを探求していた。第4巻の『肉の告白』は初期のキリスト教における同じテーマを追求していたが、フーコーの死によって未完で終わった135]。

1980年10月にフーコーはUCバークレーの客員教授になり、「真実と主観性」について講義を行い、11月にはニューヨーク大学のヒューマニティーズ・インスティチュートで講義を担当していた。アメリカの知的サークルにおけるフーコーの人気はタイム誌によって取り上げられており、その当時1981年にフーコーはUCLAで講義を行なっており、1982年にはバーモント大学、1983年には再度バークレーで講義を担当しており、その講義は学生で満員であった[136]。カリフォルニアにいた頃フーコーはサンフランシスコ・ベイエリアのゲイ・シーンでよく夜を過ごし、サドマゾ・クラブによく通い、常連との関係が深かった。フーコーはゲイメディアにおけるインタビューの中でサドマゾを肯定しており、それを「新たな楽しみの一環」として認識していた[137]。この当時の関係を通じてフーコーはHIVに感染し、それがAIDSに至っていた。当時はそのウイルスについて分かっていることがほとんどなく、最初の症例は1980年になって漸く認識され始めていた[138]。1983年の夏にフーコーはよく空咳をしており、パリの友人は心配していたが、フーコー自身は単なる肺感染のせいだと主張していた[139]。入院して漸くフーコーは正式な病名を知らされ、抗生物質を処方される中、コレージュ・ド・フランスで連続最終講義を行なっていた[140]。フーコーはサルペトリエール病院に入院しており、『狂気の歴史』の中でその病院を研究していたのだが、1984年6月9日に敗血症に付随した神経症状を呈していた。そして6月25日にフーコーは病院で永眠につくことになった[141]。

6月26日にリベラシオン紙はフーコーの他界を公表しており、それがAIDSによってもたらされていたことに言及していた。翌日ルモンドはHIV/AIDSに言及していないがフーコーの家族によって明らかにされていた経緯についての記事を報じていた[142]。6月29日にフーコーの葬儀が行われ、棺は病院の安置室から運ばれていた。アクティビストや研究者を含む数百人が参列しており、ジル・ドゥルーズは『性の歴史』からの一節を引用しながら式辞を述べていた[143]。その亡骸はささやかにヴォンドゥーヴルの地に埋葬されていた[144]。その後フーコーのパートナーであったダニエル・ドフェールはフランスのHIV/AIDSに関する最初の組織であるAIDESを創設しており、その名称はフランス語で「援助(複数形)」を意味する「aides」と頭字語であるAIDSの語呂合わせに由来していた[145]。フーコーの一周忌にドフェールはカリフォルニアを拠点にしているゲイ・マガジンである『ジ・アドヴォカット』を通じてフーコーの死がエイズに関連していたことを公表していた[146]。

4 私生活

フーコーを最初に取り上げた伝記作家であるディディエ・エリボンはフーコーを「複雑で多面性のある個性の持ち主」として描いており、「常に1つの表情の下に別の表情が隠れている」とコメントしていた[147]。またエリボンはフーコーが「研究に対する大きな潜在能力」を顕在化させていると記していた[148]。ENSでのフーコーのクラスメートはフーコーを「常にごった煮を抱えた理解しづらい人物」もしくは「感情に突き動かされる労働者」と評していた[149]。しかしフーコーのパーソナリティーは年を取るにつれて変化を示しており、エリボンによればフーコーは「若さにもがいて」いたが、1960年代以降「輝き」を示してリラックスしながら周囲に幸せを与え始めており、一緒に仕事をしている人々によればダンディな存在であった[150]。1969年にエリボンはフーコーが「闘う知識人」の思想を体現していると記していた[151]。

フーコーはクラシックのファンで、特にヨハン・ゼバスティアン・バッハやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを好んでいた[152]。またフーコーはタートルネックのセーターを着ることでよく知られていた[153]。フーコーの死後、友人であるジョルジュ・デュメジルはフーコーのことを「深い思いやりをもちながら」、「文字通りの限界を知らない知性」を示してきた人間として描いていた[154]。

政治に関してフーコーは生涯を通じて左派の立場であったが、そのスタンスはしばしば変化していた。1950年代の前半においてフーコーはフランス共産党のメンバーであったが、正統派マルクス主義の視点に立ったことは一度もなく、3年後に共産党を去り、その理由として共産党内のハイアラーキーにおけるユダヤ人とLGBTに対する偏見に嫌悪感を抱いていたことが挙げられていた。当時ポーランド統一労働者党によって支配されていた社会主義国家であるポーランドでの勤務を経てフーコーは共産主義者のイデオロギーに対して一層幻滅することになった。その帰結として1960年代前半にフーコーは「強烈な反共産主義者」であるとして批判されていたが[155]、多くの学生や同僚とともにマルクス主義の運動に深く関与していた。

5 思想

フーコーの同僚であるピエール・ブルデューはフーコーの思想を「社会の限界を超える逸脱者の旅であり、いつも知識と権力を結びつけていた」と纏めていた[156]。

レディング大学の哲学者であるフィリップ・ストークスは、フーコーの仕事が「薄暗く悲観主義的」なものであるが、それは楽観論の余地を残していたと述べており、その理由として権力によって支配されている領域を強調するためにどのように哲学の訓練が活用されることができるのかをそれが示していることを挙げていた。ストークスによれば、哲学の訓練を通じて、私たちはどのように支配されているのかを理解することができるようになり、権力によって支配されるリスクを最小化する社会構造を構築するための努力を積み重ねることが可能になるといったことが指摘されていた[157]。この延長線上に細部に注意を払うことが含まれており、この細部が人々に個性をもたらしていた[158]。

5.1 文学

哲学に関する著作に加えて、フーコーは文学の仕事もしていた。1963年に『死と迷路 レーモン・ルーセルの世界』が出版され、1986年に英語に翻訳されていた。それは文学におけるフーコーの唯一の単行本であった。その著作についてフーコーは「イージーに楽しみながら短期間で書き上げることができた」と述べていた[159]。フーコーは実験的作品に関する最初の著者の1人であるレーモン・ルーセルのテクストを参照しながら理論、評論、心理学を探求していた。

6 影響

権力や言説に対するフーコーの議論は多くの評論家を触発しており、彼らは権力構造に対するフーコーの分析が不平等に対する闘いを支援していると考えていた。また彼らは、言説分析を通じてハイアラーキーが明らかにされ、ハイアラーキーを正当化している知識の該当分野を分析することによってそれに対する疑念が提起されるかもしれないと主張していた。このことはフーコーの仕事が批評理論に関連していることの表れの1つであった[160]。

2007年にフーコーはフランスの哲学者における「ISI Web of Science」によって人文科学における最も引用された研究者として認められており、「近代の学問に対してこれが示していることはその読者が価値を決定することであり、その評価は読者の視点によって賞賛から失望までさまざまなものになるであろうことが想像されている」とコメントされていた[161]。

6.1 批判

哲学者であるユルゲン・ハーバーマスはフーコーのことを隠れた規範主義者と呼んでおり、フーコーが脱構築している啓蒙時代の原理に暗に依拠していると批判していた(フーコーとハーバーマスの論争を参照せよ)。ハーバーマスが論じている問題の中心はフーコーが研究のアプローチに関してカントとニーチェの哲学の双方を維持しようとしていることの方法にあった。

哲学者であるリチャード・ローティはフーコーの『知の考古学』が基本的に悲観論であり、知の「新たな」理論や知そのものを打ち立てることに失敗していると論じていた。そしてむしろフーコーは歴史を理解することに関するいくつかの貴重な格言を与えており、そのことに関してローティはこう述べていた。

私が理解する限り、フーコーが成し遂げたことは過去を鋭く再度描写したことであり、史料編纂における古い仮定によってトラップに引っ掛かることを避ける方法についての有益なヒントを通じてその描写を補完していたことであった。具体的に言えばそれらのヒントは主に次のようなものであり、「歴史における進歩や意味を期待しないこと、過去の研究や文化のあらゆる要素に関する歴史を合理性や自由の帰結として認識しないこと、そのような研究の本質やその研究の目的を特徴付けるために哲学のボキャブラリーを用いないこと、現在の姿が過去の目標に対する手掛かりを与えていると考えないこと」であった[162]。

哲学者であるロジャー・スクルートンはフーコーが「まやかし」であり、その理由としてフーコーが「よく検討されていない前提を苦労を経た結論として示すために」哲学においてよく知られた問題を探求していたことを挙げていた[163]。

1988年にドイツの歴史家であるハンス=ウルリヒ・ヴェーラーはフーコーのことを激しく批判していた。ヴェーラーはフーコーのことを人文科学や社会科学から良い評価を間違って受けた間違った哲学者と見做していた。ヴェーラーによればフーコーの著作は経験的な歴史の側面において不十分であっただけでなく、しばしば矛盾を含んでおり、明晰さに欠けていた。例えばフーコーによる権力の概念は「しっかりと区分されておらず」、「学界」におけるフーコーの議論はヴェーラーによればフーコーが権威、影響力、権力、暴力、正当性を適切に区別していないときにのみ成立していることを指摘していた[165]。さらにフーコーの議論が論拠となるソースの一方的な選択に基づいており(監獄や精神病棟)、例えば工場のような対象を無視していると論じていた。またヴェーラーはフーコーの「フランス中心主義」を批判しており、その理由としてフーコーがマックス・ヴェーバーやノルベルト・エリアスのようなドイツ系の研究者を考慮に入れていなかったことを挙げていた。そしてヴェーラーはフーコーが「いわゆる実証研究における無数の不備を理由に挙げながら...知的な意味で誠実でなく、実証的に信頼できず、隠れた規範主義者であり、ポストモダニズムに魅了させる研究者」であるとして批判していた[166]。

啓蒙時代が始まる17世紀以降に自然法はその意義を認識され、その基盤は社会人類学にあり、「人間の本質」について言及していた。この人間像は、楽観主義(『統治二論』におけるジョン・ロック、社会契約論[人は生まれながらにして自由である...]におけるジャン=ジャック・ルソー)や悲観主義(トーマス・ホッブズやシャルル・ド・モンテスキュー‎)のいずれかを想定していた。そしていずれにせよ啓蒙時代の自然法では神の意志ではなく節度のある理性を想定していた。

前者では、「自然状態」が保たれるならば、楽観主義は自由で平等な人間の性質に由来しており、そのための基盤が求められていた。ルソーはあらゆる国家秩序のための基盤、「一般意志」における法の意味を認識しており、一般意志は国民の多数の意思と区別されなければならなかった。法は国家の横暴と対立する公益に含まれる自由に基づいていた。市民は生まれながらの自由を保護するために社会契約を結んでいた。そして絶対王政の支配からの解放が根底に存在していた。

後者では、悲観主義は悪意に満ちた人間に由来していた。悲観主義によれば人間は自然状態で他の人間に害をもたらしていた。そのため人間は人間から保護されなければならなかった。国家と法は社会の存立条件を保障しており、悪意に満ちた人間の自由を制限しており、一般市民のために個人の自由を抑圧しながら人間の自由を保護していた。したがってこの思想はパラドックスであり、前提条件を考慮する必要が存在していた。そしてこの悲観主義は保守派の思想の原型になっていた。

国家権力の正当性や法の妥当性の根拠は社会人類学から導かれており、それは国家組織の基盤になっており、あらゆる国家の行為についても同様であった。そして社会や人間の本性に関する想定を前提にして、法は効力を有していた。また規範の強制力は経験的な事実を背景にしていた。

自然法思想の基本構造は数百年にわたり大きく変化することがなかった。しかしその基盤となる人間像は変化していた。楽観的な視点や悲観的な視点に加えて、それらを融合した視点が登場しており、双方の視点が融合されていた(ジャン=ジャック・ルソーも同様であった)。

そして時代の変化とともにさまざまな形で自然法が登場していた。第二次世界大戦後、自然法は一方でラートブルフの定式の中に、他方で家族法に関する連邦裁判所の判決の中に登場していた。連邦通常裁判所民事判例集(BGHZ)の11や65において、その判決はドイツの家族像に関する非常に保守的な特徴を形成しており、男性と女性の間に存在している「当然の」差別の温床になっており、「あらゆる法に対して影響力を有した形で登場して」いた(ウヴェ・ベーゼルの『ユーリスティッシェ・ヴェルトクンデ(法の世界観)』、1984年、p72を参照)。

イマヌエル・カントの法哲学は1797年の『人倫の形而上学』の中に示されており、当時展開されていた社会人類学から法の内容や妥当性に対するいかなる推論をも導かないことによって、啓蒙時代の自然法によるアプローチと区別されていた。

デイヴィッド・ヒュームと同じくカントにとって「あるがままの姿とあるべき姿」の間に差が存在しており、それゆえ経験から示される人間の本性(あるがままの姿)からいかなる法や道徳におけるルール(あるべき姿)も導かれなかった(ヒュームの法則を参照せよ)。この点において自然法との違いが存在しており、法は(実践)理性に由来していた。そして経験主義と形而上学は法哲学において厳格に区別されていた。

自然法に対してカントは法の妥当性の基盤としての(政治的ないし物理的な)力を否定していた。カントにとって法はこの意味で偶然の産物や政治的産物(リアリズム法学における)ではなかった。またあらゆる法が正しいわけではないので、法の内容は特別な体裁を整えていなければならなかった。つまり法の内容は定言命法に従って(オトフリート・ヘッフェ)認識論にのみ基づいて決定されていた。少々奇妙だがこれと対照的に、カントによる抵抗権の否定は正当化できない規範に対する認識論を否定していた。

法実証主義は法に対する実証的な分析であった。この視点によれば、実定法のみがテーマとして取り上げられており、形而上学的に説明されるあるべき姿は除外されていた。そして国家権力(もしくは別の機関)による規範以外の法は存在していなかった。法規範は定められたプロセスを通じて形成されていた。したがって法実証主義は自然法の対極にあり、「排中律‎」とは異なっていた。

有名な法実証主義者の中には、ジェレミ・ベンサム、ジョン・オースティン、H・L・A・ハート(『法の概念』)、ジョセフ・ラズ、ノーベルト・ヘルスター、ハンス・ケルゼン(『純粋法学』)が含まれていた。

ハートによれば、法規範には2つのタイプがあり、一次的ルールは実体法を含み、二次的ルールは一次的ルールの形成を対象にしていた。一次的ルールは二次的ルールを満たしているときのみ有効であった。したがって、二次的ルールが有効であるための根拠に対する問題が生じており、正当化された規範が求められていた。ハンス・ケルゼンはいわゆる根本規範を通じてこの根拠に対する問題を解決していた。

近年、法実証主義はかなりの批判を浴びていた。その批判はアングロ・サクソンの国々で特に見受けられていた。第二次世界大戦について、新カント派のグスタフ・ラートブルフは、ナチスの犯罪に対して法実証主義が責任を有している(ラートブルフの定式に対する、H・L・A・ハートの『実証主義と法・道徳分離論』、71、ハーバード・ロー・レビュー 593(1958年)を参照せよ)と述べており、ドイツ連邦共和国基本法は純粋な法実証主義の概念に根差したものにはならなかった(法実証主義を拒絶していた)。したがって司法や行政は、ドイツ連邦共和国基本法の第20条第3項によって、法律のみならず「法と正義」によって支配されていた。1970年代から主にアメリカのロナルド・ドウォーキン(『権利論』)やドイツのロバート・アレクシー(『ベグリッフェ・ウント・ゲルトゥング・デス・レヒツ』)は純粋な法実証主義に対して反論を行っており、解釈を積極的に支持し、解釈は「ルール」や「権利」と同列であり、国家に対して国民はその解釈を引き合いに出すことが可能であり、解釈は国家の法律に対する抵抗権の根拠になっていた。しかしこの主張は部分的に法実証主義に反論しているにすぎず、大半の法実証主義は認識論における問題を取り上げるのみであり、「正しい法」に向きあっていなかった。

リアリズム法学が法を認識するときに、法は政治的な力の行使のための手段として眺められていた。そのため法は現実を反映しており、個人の利害によって変更される可能性が存在していた。法の目的は正義や「正しさ」を強調しておらず、特定の(政治的)目的を反映していた。

リアリズム法学の一例はニッコロ・マキャヴェッリ(『君主論』)やトマス・ホッブズ(『リヴァイアサン』)であり、彼らは人間を悲観的に眺めていた。

「真理でなく権威が法を作る」といった言葉はホッブズによるものであった。絶対王政の国家は、共同体の人々をその共同体の人々から守るために(人間は人間にとっての狼である)、全ての力を集めなければならなかった。国家のみがどの法を適用するのかを決定していた。そして実定法のみが存在していた。

このケースにおいて人間は悪であった。そのためマキャヴェッリにとって、貴族の力を支援している法は狡猾さの産物として認識されていた。

近年この見解は、アメリカ連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアのそれであり、「ザ・パス・オブ・ザ・ロー」(10、ハーバード・ロー・レビュー、457(1897年))の中に見受けられ、悪意のある人間が想定され、裁判所が論争中の法的論点を整理するときのように、法や正義の内容に対する関心を低下させていることが指摘されていた。これは論理的整合性を有した法的概念であり、「実際に裁判所が行っていることに対する想定は法に対する1つの考え方であった。」

ホームズの立場はシニカルなものではなく現実に根差したものであった。法は狡猾さの産物であり、国によって異なっていた。そのため法の執行に合わせて法的概念を定めることが必要であった。

この視点は法実証主義と並んでアングロ・サクソンにおける法哲学の大きな潮流であった。

近年、法実証主義や分析哲学に基づいて学際的に法理論が展開しており、それらは非常に多様であり、共通項を見出すことは不可能であった。そしてそれらは規範や社会を取り巻く状況から独立したシステムとしての法を論じている点で共通したアプローチを採用していた。またこれらは法に対する言説分析やシステム理論を包含していた(以下を参照せよ)。

そして規範に対する研究や言語哲学、意味論、記号論を通じた解釈がその出発点になっていた。またこれらは認識論や形式論を通じて法を理解することに立脚していた。ハンス=ヨアヒム・コッホやヘルムート・リュスマンは「法的根拠」に対するアプローチを展開していた。

これらの法理論は(実証主義では)明示できない非科学的なアプローチを採用している法の正当性を問題としておらず、法的概念や法的ルールの構造に対する研究、公理から派生されたシステマティックな秩序の問題を取り扱っていた。そしてユルゲン・レーディッヒ、アイク・フォン・サヴィニー、ノーベルト・ヘルスター、ロバート・アレクシーがその代表者として挙げられており、立法についての学説を形成していた。

したがってテーマは絶対的なものではなく、むしろ新たな展開を歓迎しており、法に対して意味を形成していれば、自然科学や医学からのアプローチも採用していた。

法に対する言説分析は新しいアプローチであり、いわゆる言説分析を基盤にしており、『コミュニケイション的行為の理論』の中でユルゲン・ハーバーマスによって展開されており、『事実性と妥当性――法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究』の中で完成度を高めていた。

言説分析の核心はいわゆる「理想的言論の状況」の形成にあり、すべての参加者が事実に触れることができ、平等に発言することができ、お互いに結果を共有しており、特定の言説によって形成される価値を考慮して、平等な「価値」のために一切不利に扱われることのない事実に即した主張に価値を置いていた。

そして法の価値は言説に依存した参加者のコンセンサスから影響を受けていた。

言説分析は社会的規範の価値に対するアプローチであり、現代の多元的な社会を想定していたが、あらゆるケースに該当するモデルを採用しておらず、あらゆる関係者がケースバイケースで議論に参加しながら、その結果を尊重することを必要としていた。

そしてこのアプローチは法に対して広く適用されていた。また司法を取り巻く状況について、合意つまり当事者間の「和解」を通じて解決される法廷外の紛争において言説分析における「理想的言論の状況」がほとんど実現されていないことが指摘されていた。さらに立法に関して別の問題が示されていた。

ロバート・アレクシーは『法的論証理論』の中で、司法判断が事実に即して適切に示されなければならないといった司法における言説に対して大きな期待を寄せていなかった。そして彼は多元的な言説を通じて立法や司法判断を認識していた。

最近100年の間に、法規制、司法的解決ないし行政上の決定による正義の実現に対してさまざまなアプローチが登場していた。

交換的正義と配分的正義の分類はアリストテレス(『ニコマコス倫理学、第5巻』)に由来していた。

交換的正義は権利の主体を同じ様に扱う状況を想定しており、それは、特に私法においては契約を通じて、他方で不法行為や不当利得に関する法を通じて実現されていた。相互の契約法(「合意は拘束する」)の意味における正義が求められており、権利の主体に及ぼされる損害に対して適切な補償が必要とされていた。

配分的正義は秩序を超越しており、公法のように、国民と国家のために存在していた。共同体における資産と負債の分配は合意による正義に基づく要求を満たしていなければならなかった。問題は例えば市民と企業の税負担や収入に応じた税を含んでおり、個々のケースを考慮しなければならなかった。またそれは平等の原則に関する問題を扱っていた。

そして正義の実現に対するプロセスが問題であった。裁判官の決定は「公正」であるべきであり、その関係者の利害関係や状況が「公正さ」を示さねばならなかった。国家は許容される目標のみ追求することが許されており、許容される手段のみを用いることが許されていた。しかしそれは公共部門に対してだけではなく、他の部門も同様であり、そうでなければ民間部門が他の民間部門に実際に力を行使するときに問題が生じる可能性が存在していた。現行法ではこのプロセスを比例原則として言及していた。

近年ジョン・ロールズによる『正義の理論』が注目を集めており、それはアングロ・サクソンの世界で優勢であった功利主義と異なり、正義を公正さの観点から眺めていた。

彼の理論は原初状態から始まっており、そこでは個々人について完全な平等が必要とされていた。そしてこの状態で社会契約が交わされていた。また不平等の原因は「無知のヴェール」によって覆い隠されていた。

ロールズは正義に関する2つの原理を主張していた。

各人は可能な限り幅広い市民権や自由を保持していなければならなかった。この原理は絶対的であったが、誰の権利も侵害していなかった。

また社会を構成するメンバー全員のためになるときのみに、社会的経済的不平等が正当化されていた。この基準は功利主義における「最大多数の最大幸福」ではなく、社会を構成するメンバー全員の福利であった。その社会的不平等はもっとも不遇な立場にあるメンバーを尊重しなければならなかった。そしてその不遇な立場にある人々に不利益をもたらしてはならなかった。またその不遇な立場にある人々の利益を向上させるときにのみ、不平等の利益が正当化されていた。したがってあらゆるメンバーが社会的な利益を有する立場に平等にアクセスできることを条件にしていた。

他方で法の経済分析によれば、合理的に振舞う人間は費用と便益の比較考量を通じて法的な決定を行っていた。例えば、効果のない方法でしか追求している目的を実現できないときのみに、合理的に振舞う人間は訴訟を用いていた。この場合の「効果」は投入する手段(資源)と具体的に達成される成果との比較の上で決定されていた。例えば、保護するべき羊が牧草地の草を食べ尽くす前に柵を設けることが隣に対して訴訟を起こすことよりも安価であれば、隣を尊重し、経済的に合理的な振舞いによって柵を設置するだろう。また、立法的な措置が有効であり目的を達成するために適しているか否かに対しても同様に、法の経済分析が役に立っていた。例えば環境法は経済的に振舞う汚染者に対して行動を変更することを促していた。しかし法の経済分析は環境法における規範に疑念を呈していた。果たして規範を逸脱することが汚染者にとって規範を遵守することより高く付くことになるのであろうか。そうでなければ、経済的に説明される規範の欠陥が環境汚染を促すことになるであろう。

規範に対する法の経済分析は法によって福利を向上させることを促していた。そして一般的な福利を向上させる法規範のみが「正当」であった。その出発点は「シカゴ学派」と呼ばれる経済学であった。個々のケースにおける「効率性」が「法理として」(アイデンミュラーの論文、1995年)認識されており、経済的な効率性が法秩序全体に対して求められていた。したがって法はある特定の社会目標つまり国民経済を向上させる目標を含んでいた。ポズナーは財産権にのみその正当性を認めており、財の分配に関する法が個々の社会的要求に依存せず経済的な便益を最大化させることに役立っていると考えていた。

当事者(訴訟を起こすべきか、不法行為に関わるべきかを考慮している)や裁判官の決定(訴訟を受理するべきか、棄却するべきかを考慮している)と同様に、行政が規範を遵守する判断を下すときに経済理論を援用できる可能性が存在していた。コッホやリュスマンによれば「司法的な根拠」に対する「便益」が法的な判断の際に考慮されていた。

特に社会全体に影響を及ぼす立法者の経済的な特徴が含意を形成していた。

法的責任に対するリスク(特に不法行為に伴う損害、善意取得、契約締結上の過失を通じた)を管理することによる「便益」は、例えば夫婦の観点から俯瞰するか裁判官の観点から俯瞰するかに依存することがない離婚による「便益」と比較すると小さいものであった。そして法の経済分析は経済法の中に明示されていた。例えばマイケル・アダムス(ベトリープス・ベラーター、1989年、781)による法の研究はよく知られており、マイケル・アダムスは契約の締結における当事者の「非対称な」利用可能情報を考慮した約款規制法を研究していた。

そして近年、法の経済分析の対象に公法が加えられており、行政法が注目されていた。

しかしアメリカにおいて法の経済分析は批判の対象となっていた。

法の経済分析に対する批判として、人間が経済合理性にのみ基づいて行動している訳ではないことが指摘されていた。そして法の経済分析は重要な点を欠落させており、それは法の経済分析が合理的行動のような経済的側面に限定されていることを理由にしていた。つまり問題を狭めて、法の内容や正当性をすべて経済効率に起因させていることが問題であった。モデルが取り上げていない側面として、例えば法感情(その法哲学はエルンスト・ブロッホに由来していた)や、法的な関係の形成による力の増大(政治的な力であれ経済的な力であれ個人の力であれ)を指向する意思が指摘されていた。そして宗教的な性格を有する人間は経済的便益を最大化せず、神の視線を意識するであろうとの視点が存在していた。しかし法の経済分析の研究者は、それらの説明には手段としての貨幣が果たす役割に着目した視点が欠落しており、数理経済学が説明するような想定が依然として存在していると理解していた。

また事例ごとに基準となる「便益」を定め、特定のアプローチを採用し比較することにも問題が存在していた。

法治国家は政治的な代表を制定した法によって民主的に選ぶことを内包していた。大多数の欧米の近代国家の基礎になっているモンテスキューによる権力分立の理論は三権(行政、立法、司法)の区別と相互牽制を含めていた。例えば議会民主制において立法府(議会)が行政府(政府)の権力を牽制しており、政府は勝手に行動できず、議会の意向を絶えず確認しなければならず、それは民意の表れであることが指摘されていた。同様に司法は行政的な決定に歯止めをかけていた(特にカナダにおいては「権利および自由に関するカナダ憲章」に基づいていた)。したがって法治国家は基本的権利を軽視する絶対王政、王権神授説、独裁制と対立していた。そして法治国家の憲法は必ずしも成文の体裁をとっていなかった。例えばイギリスの憲法は慣習を基にしており、成文規定を有していなかった。このような法体系において、政治的な代表は慣習法を尊重しなければならず、それは成文法と同様であった。

歴史を遡れば、法治国家は制度化されたシステムであり、公権力は法を遵守しなければならなかった。オーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンは20世紀初頭のドイツ由来の法治国家の概念を再度定義し、「国家の法規範は公権力を制限する目的で階層化されていた。」

このモデルでは、各規範は上位にある規範を満たすことによってその正当性を維持していた。

そして規範のハイアラーキーは法治国家を維持するシステムの一部であると考えられていた。

規範のハイアラーキーを通じて、国家のさまざまな機関の権限は明確に定義されており、制定された規範は上位に位置する法規範を遵守しているときにしか効力を有していなかった。このピラミッドの頂点にある憲法は法や規制による国際協調を念頭に置いており、ピラミッドの底部には行政的な決定や私人間の契約が存在していた。

法システムは法的主体にとって不可欠の存在であった。個人同様に国家は合法性の原理を軽視することができなかった。上位にある規範を尊重しないあらゆる規範や決定は法的制裁を招きやすかった。そして法を制定する権限を有する国家は、法的ルールを順守することによって、規制する権能に対する承認を受ける必要があった。

規範のハイアラーキーは規範を遵守する法的主体を平等に扱うことを想定していた。

法の下の平等ないし政治的権利の平等は法治国家であるための二番目の条件であった。実際法の下の平等は法的規範が上位の規範を満たしていないときにあらゆる個人や組織が法的規範の適用に異議を申し立てることができることを含意していた。したがって個人や組織は法的主体としての地位を有していた。まず自然人、次に法人に対してその言及がなされていた。

国家は法人に含まれ、国家による決定は法人と同じく合法性の原理に支配されていた。合法性の原理の遵守は立憲主義を尊重する合法性の原理に従わせることを通じて公権力の行動に枠をはめていた。この点において国家より上位に位置する法的な制約は大きな力を有していた。制定されたルールや決定は上位にある規範(法、国際的な合意、憲法)を尊重しなければならず、裁判所から特別の扱いを受けたり、慣習法の適用を除外されることもできなかった。私法における自然人や法人は公権力の決定に異論を申し立てることができ、制定された規範を通じて対抗することも可能であった。この点において裁判所の役割は重要なものであり、裁判所の独立は絶対不可欠であった。

実際に法治国家は、人々の紛争を解決する権限を有しており独立した司法の存在を想定しており、規範のハイアラーキーに由来する合法性の原理を尊重しており、合法性の原理は法人を特別扱いすることを認めていなかった。

そして法治国家は権力分立や司法の独立を想定していた。実際には司法機関は国家の一部を構成していたため、立法府や行政府から司法が独立していることによって法規範の適用における公平性を担保していた。

また裁判所は合法性を判断する規範を尊重しており、それはハイアラーキーの上部に位置するルールに適合するか否かを含めていた。

国際協定に照らして国内の規範の妥当性を認めることは、矛盾があるときに裁判官がその規範を適用しないことを許容しており、これは国際協定を通じた審査であった。また憲法に対する法の妥当性は、付託されていれば憲法院によって審査されることになり、これはすなわち合憲性の審査であった。したがって法治国家は国際協定を通じた審査や合憲性審査の存在を想定していた。

法治国家は理論的なモデルであったが、他方で政治的なテーマでもあり、今日では民主制の大きな特徴であると考えられていた。法を通じて政治や社会における組織のルールを優先するならば、それは合法性の原理を遵守していなければならなかった。そして法治国家はこのモデルを採用している各国の裁判所の役割を拡大させていた。

一方で法治国家はしばしば民主主義と混同されていた。実際には各レジームがどの程度法治国家を尊重しているのかがどの程度民主主義を尊重しているのかと必然的に関連している訳ではなかった。

例えばロシアがツァーリズムからソビエト体制に移行したときに法治国家の枠組みを強化したように、フランスは革命期から帝政期に移行したときに法治国家の枠組みを揺るぎないものにしていた。

『法の精神』の中でモンテスキューは、王が既存の法や行動の範囲を規定する不文憲法を尊重している点で、君主制を独裁制と区別していた。この点において君主制は独裁制より法治国家の色彩が強かった。

また現代の中国は法治国家の体裁を緩やかに採用していたが、そのレジームが民主主義へ向かうとは思われていなかった。

規範のハイアラーキーは法学者であるハンス・ケルゼン(1881-1973)によって提唱され、ハンス・ケルゼンは『純粋法学』の著者であり、法実証主義の提唱者であり、道徳や自然法に依存しない法の基盤を築き(価値中立、つまり想定された主観や道徳的な先入観から独立した)、法律学を展開させていた。ケルゼンによれば、あらゆる法規範は上位にある規範を遵守することで正当性を獲得しており、そこにハイアラーキーが形成されていた。規範の影響が大きければ、その数が減少し、規範の位置付け(通達、規則、法律、憲法)がピラミッド状であることから、この理論は規範のピラミッドとも呼ばれていた。

規範のハイアラーキーは一面では「固定化」されており、それは下位にある規範が上位にある規範を遵守しなければならなかったことを背景にしていたが、他方で「変更可能」な存在であり、それは、上位にある規範によって制定されたルールによって、規範が修正される可能性を存在させていたことを背景にしていた。そして憲法はピラミッドの頂点にあり法システムの内部に存在している規範であった。また憲法は上位にある規範やその時に存在していない規範に由来する内容を除いて法的義務を有していなかったので、そこにケルゼンは「根本規範」の概念を想定し、根本規範は法理論と矛盾しない性質を与えるために想定された方法論で構成されていた。

規範のハイアラーキーについての理論は「硬性」憲法にしか適用されていなかった。「軟性」憲法を採用している国家において一般的に憲法は、法律と同様に慣習法を採用する機関によって起草され投票を経て修正されていた。そして「硬性」憲法と「軟性」憲法は同一の法的価値を有しており、憲法は法律より下位に存在していなかった。他方で「硬性」憲法を採用している国家において、憲法は特定の機関(政府やワークグループ)によって起草され立法府による投票を経て、国民投票によって採択されていた。その改正手続は一般的に特定の機関や国民を介在させており、それらが憲法制定権力を有していた。また硬性憲法は特別な法的効力を有しており、それは他の規範より上位にあり、尊重されなければならなかった。

規範のハイアラーキーを研究している法学者の多くは合憲性審査基準の中に補助的な審査基準を含めており、無神論者にとって、その審査基準は「自然法」と呼ばれており、信仰を有する人々にとって、それは「神の法」と呼ばれていた。

違法性の抗弁は一般の裁判官によって行われていた。ある法規範に対する違憲性の懸念が訴訟を促し、その抗弁が検討に付されていた。このケースにおいて裁判官が抗弁された規範が違憲であると判断するならば、その規範を適用しない可能性が存在していた。しかしその規範が無効になることはなく、最高裁判所によるものでない限り、その判例が他の裁判所によって採用される可能性もなかった。このタイプの抗弁は例えばアメリカで見られていた。

問題に該当する規範が違憲であることを示しその法律効果を無効にするために、特別な機関が設置されていた。

1958年以前の憲法では、憲法や国際条約が法律より優越されながらも、立法府が最高機関であった。またいかなる裁判所も憲法や国際条約が有する超立法的性質を明示することがなかった。しかし1958年以後、憲法が法律より優越されることが、立法府が根本規範を遵守していることを審査する憲法院によって明示されることになった。

学説における重要な判決はフランス法が容認しているEU法のハイアラーキーに含まれていた。

そして、2004年6月10日のLCENに関する憲法院の決定は「EU法を国内法に置き換えることが憲法上の要請であり、明文の規定を考慮すると、憲法に反するときしかEU法は国内法の障害とならない」ことを示していた。

規範のハイアラーキーはEU法の将来の変化にしたがって判例を変更するかもしれない判決に影響を及ぼしていた。

現在の判例はフランスで批准されている国際法に対する憲法の優越に価値を認めており、1998年10月30日のサランとルヴァシェールのコンセイユ・デタの判決は原則に回帰していた。「フランス憲法55条によって示される国際条約に付与されている優越は、国内法の枠組みの中では、憲法の規定に対して適用されることがなかった。」

憲法は規範のハイアラーキーの頂点に位置していたが、そのハイアラーキーの基盤も構成していた。そして、法律はハイアラーキーの上位にあり効力を有するルールを遵守していた。また権力は権力が生み出す規範より上位の規範にしたがっていた。したがって立法権を有する機関は憲法にしたがっており、行政権は法律を遵守せねばならず、規範のハイアラーキーに含まれていた。このシステムは法治国家として認められており、法治国家はあらゆる個人や法人が法を遵守することを含意していた。

ロベスピエールやサン=ジュストは、立法権に対して司法権が干渉するように民主主義の枠組みの中で法律を用いることや、権力の分立を容認していなかった。そして上位にある規範を適用することを必要としていた(憲法のように)。

アメリカにおいて判例は大きな価値を有しており、裁判官(最高裁判所を除いて)は国民によって選任されており、彼らは国家や裁判所のルールを順守していた。

そして憲法が国際法より優位にあるとの判決によって国境を超えた訴訟が懸念されていた。これはキューバについて当てはまり、キューバは「知性の産物は制約を受けることがなく、あらゆる人々の財産である」ことを理由にして、著作物に対して金銭的な支払いを行うことを容認していなかった。

法律より国際条約や国際協定が優越されることはニコロ判決(1989年10月20日)によって認められており、「法律遮蔽」の理論を放棄し、国際条約に対する事後的な法律の規定を国際条約の下に置いていた(1968年5月、フランスのデュラム小麦における製造業者組合についての判決)。コンセイユ・デタはEU法の派生法に対してニコロ判決を敷衍させており、法律よりEU法(1990年9月24日、ボワデ判決)や欧州連合指令(1992年2月28日、S・A・ロスマン判決もしくはS・A・フィリップ・モリス判決)を優越させていた。しかしながら国際条約に対する憲法の優越(規範のハイアラーキーの頂点にある)は再度明示されていた(1998年10月30日、サランとルヴァシェールの判決)。他方で欧州司法裁判所の判決(ECJ、1978年3月9日、シンメンタール判決)は、国内法よりEU法や派生法を優越させており、国内の憲法も同様に扱っていた。しかし現在この判決はフランスの憲法に当てはまっていなかった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、ドイツ、フランスのWikipediaの「法哲学」、「法治国家」、「規範のハイアラーキー」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://de.wikipedia.org/wiki/Rechtsphilosophie

法哲学

法哲学は哲学の一部であり、法に関する基本的な問題を取り扱っていた。法哲学の問題には次のようなものが存在していた。

何が法であるのか。

「正義」と「法」はどのような関係にあるのか。

法規範と社会規範は道徳に対してどのような関係にあるのか。

法の中身はどのようなものか。

法規範はどのように生じたのか。

法が有する影響力の根拠は何であるのか(法的拘束力について)。

「法哲学」と「法」はどのような関係にあるのか。

法と道徳の関係、法規範の構造、法的拘束力に関するいくつかの問題は、19世紀中頃以降の法哲学と歩みを共にしていた。そして数世紀にわたる「一般法学」は、法哲学とは別の分野を形成していた。また法哲学と法理論の関係が細部にわたって議論されていた。

この「法哲学」の項目は、(ヨーロッパの法秩序やアングロアメリカの法のような)西洋の法システムにおける法哲学を取り扱い、他の法システムを取り扱わない(イスラム法の貢献など)。

1 テーマとその射程

法哲学は哲学の知識や方法論を援用しており、特に科学哲学や論理学、法を対象とした言語学や記号学を援用していた。ユルゲン・ハーバーマスやロバート・アレクシーによれば最近の事例として法的推論に対して言説理論を援用することが挙げられていた。そして近年、法理論についての言及が増加していたことから、法理論と法哲学を区別することが困難になっていた。

法哲学が扱うテーマは単なる法の応用分野(法律学の方法論)や法制度に対する社会的アプローチ(法社会学を参照せよ)に収まっていなかった。歴史的観点から法制史が法の展開を検証していた。また対照的に法理は現在の実定法における構造や要素を説明していた。

法哲学が扱うテーマは多岐にわたっていた。

法の概念。

社会に影響する法の意味。

法の中身に対する論評(ルドルフ・シュタムラーの意味で「正しい法」を見出すこと)。

どういった前提のもとで法規範が拘束力を有するのか(法的効力)。

何が法規範に拘束力をもたらすのか。

特に法の概念を巡る論争に、他の分野や基礎法学由来の考え方がつねに導入されていた。そのため他の哲学、法学、社会科学から厳密に区別することは不可能であった。

法哲学や政治学といった分野は国家理論(政治哲学)としての側面を有していた。そしてそれは法哲学が国家哲学以上の存在であり、法理論として法が研究されており、国家との関連のみに収まっていなかったことを理由にしていた。その一方で、個々の法哲学や個々の法理論は国家に関する基本的な仮定(国家の形態、統治、立法過程)を想定しており、その仮定は法の基盤や機能を説明していた。全体主義国家において法は民主主義国家とは別の機能を有しており、別の形式や内容を体現していた。

2 法哲学の方向性

次のように法哲学の方向性は示されていた。

2.1 自然法

自然法の思想家はさまざまな方法で数世紀にわたり自然法を議論していた。特に啓蒙時代が始まる17世紀以降に、自然法はその意義を認識され始めていた。

自然法の議論はつねに経験に依存していた。その基盤は社会人類学にあり、「人間の本質」について言及していた。この人間像は、楽観主義(『統治二論』におけるジョン・ロック、社会契約論[人は生まれながらにして自由である...]におけるジャン=ジャック・ルソー)や悲観主義(トーマス・ホッブズやシャルル・ド・モンテスキュー‎)のいずれかを想定していた。そしていずれにせよ啓蒙時代の自然法では神の意志ではなく節度のある理性を想定していた。

前者では、「自然状態」が保たれるならば、楽観主義は自由で平等な人間の性質に由来しており、そのための基盤が求められていた。ルソーはあらゆる国家秩序のための基盤、「一般意志」における法の意味を認識しており、一般意志は国民の多数の意思と区別されなければならなかった。法は国家の横暴と対立する公益に含まれる自由に基づいていた。市民は生まれながらの自由を保護するために社会契約を結んでいた。そして絶対王政の支配からの解放が根底に存在していた。

後者では、悲観主義は悪意に満ちた人間の性質に由来していた。悲観主義によれば人間は自然状態で他の人間に害をもたらしていた。そのため人間は人間から保護されなければならなかった。国家と法は社会の存立条件を保障しており、悪意に満ちた人間の自由を制限しており、一般市民のために個人の自由を抑圧しながら人間の自由を保護していた。したがってこの思想はパラドックスであり、前提条件を考慮する必要が存在していた。そしてこの悲観主義は保守派の思想の原型になっていた。

国家権力の正当性や法の妥当性の根拠は社会人類学から導かれており、それは国家組織の基盤になっており、あらゆる国家の行為についても同様であった。そして社会や人間の本性に関する想定を前提にして、法は効力を有していた。また規範の強制力は経験的な事実を背景にしていた。

自然法思想の基本構造は数百年にわたり大きく変化することがなかった。しかしその基盤となる人間像は変化していた。楽観的な視点や悲観的な視点に加えて、それらを融合した視点が登場しており、双方の視点が融合されていた(ジャン=ジャック・ルソーも同様であった)。

さらに関連した代表的な人物の中にクリスティアン・トマジウス、クリスチャン・ウォルフ、ザミュエル・フォン・プーフェンドルフが含まれていた。エルンスト・ブロッホは、マルクス主義に由来する「自然法や人間を尊重する考え方」において、人は生まれながらにして「自由で平等である」といった見解に反対しており、「生まれながらの権利など存在しておらず、すべてが獲得されたものであるか、闘争を通じて獲得されたものであると主張していた」。

そして時代の変化とともにさまざまな形で自然法が登場していた。第二次世界大戦後、自然法は一方でラートブルフの定式の中に、他方で家族法に関する連邦裁判所の判決の中に登場していた。連邦通常裁判所民事判例集(BGHZ)の11や65において、その判決はドイツの家族像に関する非常に保守的な特徴を形成しており、男性と女性の間に存在している「当然の」差別の温床になっており、「あらゆる法に対して影響力を有した形で登場して」いた(ウヴェ・ベーゼルの『ユーリスティッシェ・ヴェルトクンデ(法の世界観)』、1984年、p72を参照)。

2.2 カント

イマヌエル・カントの法哲学は1797年の『人倫の形而上学』の中に示されており、当時展開されていた社会人類学から法の内容や妥当性に対するいかなる推論をも導かないことによって、啓蒙時代の自然法によるアプローチと区別されていた。

デイヴィッド・ヒュームと同じくカントにとって「あるがままの姿とあるべき姿」の間に差が存在しており、それゆえ経験から示される人間の本性(あるがままの姿)からいかなる法や道徳におけるルール(あるべき姿)も導かれなかった(ヒュームの法則を参照せよ)。この点において自然法との違いが存在しており、法は(実践)理性に由来していた。そして経験主義と形而上学は法哲学において厳格に区別されていた。

自然法に対してカントは法の妥当性の基盤としての(政治的ないし物理的な)力を否定していた。カントにとって法はこの意味で偶然の産物や政治的産物(リアリズム法学における)ではなかった。またあらゆる法が正しいわけではないので、法の内容は特別な体裁を整えていなければならなかった。つまり法の内容は定言命法に従って(オトフリート・ヘッフェ)認識論にのみ基づいて決定されていた。少々奇妙だがこれと対照的に、カントによる抵抗権の否定は正当化できない規範に対する認識論を否定していた。

2.3 ヘーゲル

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、絶対的に正しい方法を通じた「客観的精神」の概念によって、彼の「法哲学」の中に自由の概念を位置付け、社会における自由意志の実現に言及していた(『法の哲学』)。ヘーゲルの法思想は、自治を相互に承認することから展開されており、さまざまな方法で、ノーベルト・ヘルスター、ギュンター・ヤコブス、クルト・ゼールマン達に影響を及ぼしていた。ヘーゲルによる法解釈は法治国家を論ずる思想の伝統に連なっていた。

2.4 ラートブルフ

グスタフ・ラートブルフの『法哲学』(1932年)は法哲学のモデルであり、民主的な憲法にしたがったドイツ法の枠組みの中で教えられていた。

ラートブルフの法哲学は新カント派に由来しており、あるがままの姿とあるべき姿に隔たりが存在していることに由来していた。したがって価値は明示されておらず、人が価値を認識するのみであった。そしてラートブルフはさらなる方法論を主張しており、法を含む科学は自然や理想的な価値から経験科学へとシフトしていた。また法哲学は哲学の一部であった。

ラートブルフにとって法の理念は正義を体現したものであった。これは平等、合目的性、法的安定性を含んでいた。

有名なラートブルフの定式によれば、「法が不正であるときに、実定法を優先させることを念頭におきながら、正義と法的安定性との対立が解決されなければならなかった。そして正義が「悪法」に屈服し、正義の対極にある法が許容できるレベルを超えているケースにおいて、法は効力を有さなかった。」 また法に関する「最低限の倫理」について言及がなされていた。

2.5 法実証主義

法実証主義は法に対する実証的な分析であった。この視点によれば、実定法のみがテーマとして取り上げられており、形而上学的に説明されるあるべき姿は除外されていた。そして国家権力(もしくは別の機関)による規範以外の法は存在していなかった。法規範は定められたプロセスを通じて形成されていた。したがって法実証主義は自然法の対極にあり、「排中律‎」とは異なっていた。

有名な法実証主義者の中には、ジェレミ・ベンサム、ジョン・オースティン、H・L・A・ハート(『法の概念』)、ジョセフ・ラズ、ノーベルト・ヘルスター、ハンス・ケルゼン(『純粋法学』)が含まれていた。

ハートによれば、法規範には2つのタイプがあり、一次的ルールは実体法を含み、二次的ルールは一次的ルールの形成を対象にしていた。一次的ルールは二次的ルールを満たしているときのみ有効であった。したがって、二次的ルールが有効であるための根拠に対する問題が生じており、正当化された規範が求められていた。ハンス・ケルゼンはいわゆる根本規範を通じてこの根拠に対する問題を解決していた。

近年、法実証主義はかなりの批判を浴びていた。その批判はアングロ・サクソンの国々で特に見受けられていた。第二次世界大戦について、新カント派のグスタフ・ラートブルフは、ナチスの犯罪に対して法実証主義が責任を有している(ラートブルフの定式に対する、H・L・A・ハートの『実証主義と法・道徳分離論』、71、ハーバード・ロー・レビュー 593(1958年)を参照せよ)と述べており、ドイツ連邦共和国基本法は純粋な法実証主義の概念に根差したものにはならなかった(法実証主義を拒絶していた)。したがって司法や行政は、ドイツ連邦共和国基本法の第20条第3項によって、法律のみならず「法と正義」によって支配されていた。1970年代から主にアメリカのロナルド・ドウォーキン(『権利論』)やドイツのロバート・アレクシー(『ベグリッフェ・ウント・ゲルトゥング・デス・レヒツ』)は純粋な法実証主義に対して反論を行っており、解釈を積極的に支持し、解釈は「ルール」や「権利」と同列であり、国家に対して国民はその解釈を引き合いに出すことが可能であり、解釈は国家の法律に対する抵抗権の根拠になっていた。しかしこの主張は部分的に法実証主義に反論しているにすぎず、大半の法実証主義は認識論における問題を取り上げるのみであり、「正しい法」に向きあっていなかった。

2.6 リアリズム法学

リアリズム法学が法を認識するときに、法は政治的な力の行使のための手段として眺められていた。そのため法は現実を反映しており、個人の利害によって変更される可能性が存在していた。法の目的は正義や「正しさ」を強調しておらず、特定の(政治的)目的を反映していた。

リアリズム法学の一例はニッコロ・マキャヴェッリ(『君主論』)やトマス・ホッブズ(『リヴァイアサン』)であり、両者は人間を悲観的に眺めていた。

「真理でなく権威が法を作る」といった言葉はホッブズによるものであった。絶対王政の国家は、共同体の人々をその共同体の人々から守るために(人間は人間にとっての狼である)、全ての力を集めなければならなかった。国家のみがどの法を適用するのかを決定していた。そして実定法のみが存在していた。

このケースにおいて人間は悪であった。そのためマキャヴェッリにとって、貴族の力を支援している法は狡猾さの産物として認識されていた。

近年この見解は、アメリカ連邦最高裁判所判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアのそれであり、「ザ・パス・オブ・ザ・ロー」(10、ハーバード・ロー・レビュー、457(1897年))の中に見受けられ、悪意のある人間が想定され、裁判所が論争中の法的論点を整理するときのように、法や正義の内容に対する関心を低下させていることが指摘されていた。これは論理的整合性を有した法的概念であり、「実際に裁判所が行っていることに対する想定は法に対する1つの考え方であった。」

ホームズの立場はシニカルなものではなく現実に根差したものであった。法は狡猾さの産物であり、国によって異なっていた。そのため法の執行に合わせて法的概念を定めることが必要であった。

この視点は法実証主義と並んでアングロ・サクソンにおける法哲学の大きな潮流であった。

3 現在における法理論の方向性

3.1 概説

近年、法実証主義や分析哲学に基づいて学際的に法理論が展開しており、それらは非常に多様であり、共通項を見出すことは不可能であった。そしてそれらは規範や社会を取り巻く状況から独立したシステムとしての法を論じている点で共通したアプローチを採用していた。またこれらは法に対する言説分析やシステム理論を包含していた(以下を参照せよ)。

そして規範に対する研究や言語哲学、意味論、記号論を通じた解釈がその出発点になっていた。またこれらは認識論や形式論を通じて法を理解することに立脚していた。ハンス=ヨアヒム・コッホやヘルムート・リュスマンは「法的根拠」に対するアプローチを展開していた。

これらの法理論は(実証主義では)明示できない非科学的なアプローチを採用している法の正当性を問題としておらず、法的概念や法的ルールの構造に対する研究、公理から派生されたシステマティックな秩序の問題を取り扱っていた。そしてユルゲン・レーディッヒ、アイク・フォン・サヴィニー、ノーベルト・ヘルスター、ロバート・アレクシーがその代表者として挙げられており、立法についての学説を形成していた。

したがってテーマは絶対的なものではなく、むしろ新たな展開を歓迎しており、法に対して意味を形成していれば、自然科学や医学からのアプローチも採用していた。

3.2 法に対する言説分析

法に対する言説分析は新しいアプローチであり、いわゆる言説分析を基盤にしており、『コミュニケイション的行為の理論』の中でユルゲン・ハーバーマスによって展開されており、『事実性と妥当性――法と民主的法治国家の討議理論にかんする研究』の中で完成度を高めていた。

言説分析の核心はいわゆる「理想的言論の状況」の形成にあり、すべての参加者が事実に触れることができ、平等に発言することができ、お互いに結果を共有しており、特定の言説によって形成される価値を考慮して、平等な「価値」のために一切不利に扱われることのない事実に即した主張に価値を置いていた。

そして法の価値は言説に依存した参加者のコンセンサスから影響を受けていた。

言説分析は社会的規範の価値に対するアプローチであり、現代の多元的な社会を想定していたが、あらゆるケースに該当するモデルを採用しておらず、あらゆる関係者がケースバイケースで議論に参加しながら、その結果を尊重することを必要としていた。

そしてこのアプローチは法に対して広く適用されていた。また司法を取り巻く状況について、合意つまり当事者間の「和解」を通じて解決される法廷外の紛争において言説分析における「理想的言論の状況」がほとんど実現されていないことが指摘されていた。さらに立法に関して別の問題が示されていた。

ロバート・アレクシーは『法的論証理論』の中で、司法判断が事実に即して適切に示されなければならないといった司法における言説に対して大きな期待を寄せていなかった。そして彼は多元的な言説を通じて立法や司法判断を認識していた。

3.3 オートポイエーシス的システムとしての法

近年における法理論の新たな展開は「オートポイエーシス的システム」として法を解釈したものになり、ニクラス・ルーマンによる社会システム理論に基づいていた。そしてルーマンは『社会の法』の中でその理論を示していた。またそこでは法社会学が問題とされており、隣接分野と法理論との関連が示されていた。

ルーマンによる法の社会学的解釈(例えばシステム)は実際のアクター(ステークホルダー、法学者、法律家、裁判官)をアクションの担い手としていた。彼の理論は高度に抽象化され、法の執行に対する視点を存在させていた。またアクター間の「コミュニケーション」が法システムの中に含まれ、ルーマンは「合法」と「違法」の差を「法システム」の中に含めていた。

結果として、法システム(アクター間のコミュニケーション)の自己再生産が行われていた。そしてこの法システムは絶えず更新されていた。つまり法規範が適用され、その法規範が妥当であるケースとそうでないケースがあり、法規範に変更が加えられ、判決が言い渡され、行政文書が公開されていた。このプロセスは言い換えるならば絶えざる「自触媒反応」ないしは法のオートポイエーシスとして示されていた。

ルーマンは概念としてサイバネティックスのモデルを用いており、従来とは別の意味で生物学のシステムを利用しており、特に「生命」や新陳代謝の一環としてエコロジーのモデルを通じて抽象的な説明を行なっていた。「生命」の自己再生(自己参照)は個体にフォーカスせず、生命の「コミュニケーション」や化学反応に注目していた。

他方でそのような説明が不完全であるとの批判が存在していた。個々の当事者/アクター/法曹関係者を考慮しないことによって、この法理論は法を自己目的化したものとして把握していた。根本的な規範は人間の尊厳の尊重を含んでいたが、それはただの抽象的な原理ではなく、その価値観を個々人のためにケースごとに明示しなければならなかった。この問題は根本的な法を研究する際に特に重要であったが、法理論の認識価値を損なわせる方へ作用していた。

ニクラス・ルーマンによる部分的に高度で抽象的な用語を用いた全体像は社会システムや法システムについての理論を示していた。

3.4 正義の理論

最近100年の間に、法規制、司法的解決ないし行政上の決定による正義の実現に対してさまざまなアプローチが登場していた。

交換的正義と配分的正義の分類はアリストテレス(『ニコマコス倫理学、第5巻』)に由来していた。

交換的正義は権利の主体を同じ様に扱う状況を想定しており、それは、特に私法においては契約を通じて、他方で不法行為や不当利得に関する法を通じて実現されていた。相互の契約法(「合意は拘束する」)の意味における正義が求められており、権利の主体に及ぼされる損害に対して適切な補償が必要とされていた。

配分的正義は秩序を超越しており、公法のように、国民と国家のために存在していた。共同体における資産と負債の分配は合意による正義に基づく要求を満たしていなければならなかった。問題は例えば市民と企業の税負担や収入に応じた税を含んでおり、個々のケースを考慮しなければならなかった。またそれは平等の原則に関する問題を扱っていた。

そして正義の実現に対するプロセスが問題であった。裁判官の決定は「公正」であるべきであり、その関係者の利害関係や状況が「公正さ」を示さねばならなかった。国家は許容される目標のみ追求することが許されており、許容される手段のみを用いることが許されていた。しかしそれは公共部門に対してだけではなく、他の部門も同様であり、そうでなければ民間部門が他の民間部門に実際に力を行使するときに問題が生じる可能性が存在していた。現行法ではこのプロセスを比例原則として言及していた。

近年ジョン・ロールズによる『正義の理論』が注目を集めており、それはアングロ・サクソンの世界で優勢であった功利主義と異なり、正義を公正さの観点から眺めていた。

彼の理論は原初状態から始まっており、そこでは個々人について完全な平等が必要とされていた。そしてこの状態で社会契約が交わされていた。また不平等の原因は「無知のヴェール」によって覆い隠されていた。

ロールズは正義に関する2つの原理を主張していた。

各人は可能な限り幅広い市民権や自由を保持していなければならなかった。この原理は絶対的であったが、誰の権利も侵害していなかった。

また社会を構成するメンバー全員のためになるときのみに、社会的経済的不平等が正当化されていた。この基準は功利主義における「最大多数の最大幸福」ではなく、社会を構成するメンバー全員の福利であった。その社会的不平等はもっとも不遇な立場にあるメンバーを尊重しなければならなかった。そしてその不遇な立場にある人々に不利益をもたらしてはならなかった。またその不遇な立場にある人々の利益を向上させるときにのみ、不平等の利益が正当化されていた。したがってあらゆるメンバーが社会的な利益を有する立場に平等にアクセスできることを条件にしていた。

3.5 法の経済分析

「法の経済分析」によって法理論は新たな展開を示しており、特にアメリカで顕著であった。またそれは「法と経済学」として知られていた。そのアプローチは法に対して経済学の理論を適用していた。そしてこの10年から15年にかけて経済法をテーマとしたドイツ語の出版物の数が増加していた。

アメリカの経済学者であるロナルド・コースの理論(『ザ・プロブレム・オブ・ソーシャル・コスト』、ジャーナル・オブ・ロー・アンド・エコノミクス 3 [1960]、p.1 ff)やリチャード・ポズナーの理論(『法の経済分析』、1973年、初版、ボストン、リトル・ブラウン)がその例であった。

ここでは経済的な決定に類似した法的な決定が合理的な費用便益分析によって説明されていた。この理論は合理的に振舞うホモ・エコノミクスを想定しており、矛盾のない選好に基づいた便益を意図的に最適化していた。そしてホモ・エコノミクスは決定を行う状況において限られた知識を活用していた。そこでホモ・エコノミクスは知れば知るほど「自信」を深め、知らなければ一層の「不安」を感じると想定されていた。

このように合理的に振舞う人間は費用と便益の比較考量を通じて法的な決定を行っていた。例えば、効果のない方法でしか追求している目的を実現できないときのみに、合理的に振舞う人間は訴訟を用いていた。この場合の「効果」は投入する手段(資源)と具体的に達成される成果との比較の上で決定されていた。例えば、保護するべき羊が牧草地の草を食べ尽くす前に柵を設けることが隣に対して訴訟を起こすことよりも安価であれば、隣を尊重し、経済的に合理的な振舞いによって柵を設置するだろう。また、立法的な措置が有効であり目的を達成するために適しているか否かに対しても同様に、法の経済分析が役に立っていた。例えば環境法は経済的に振舞う汚染者に対して行動を変更することを促していた。しかし法の経済分析は環境法における規範に疑念を呈していた。果たして規範を逸脱することが汚染者にとって規範を遵守することより高く付くことになるのであろうか。そうでなければ、経済的に説明される規範の欠陥が環境汚染を促すことになるであろう。

規範に対する法の経済分析は法によって福利を向上させることを促していた。そして一般的な福利を向上させる法規範のみが「正当」であった。その出発点は「シカゴ学派」と呼ばれる経済学であった。個々のケースにおける「効率性」が「法理として」(アイデンミュラーの論文、1995年)認識されており、経済的な効率性が法秩序全体に対して求められていた。したがって法はある特定の社会目標つまり国民経済を向上させる目標を含んでいた。ポズナーは財産権にのみその正当性を認めており、財の分配に関する法が個々の社会的要求に依存せず経済的な便益を最大化させることに役立っていると考えていた。

3.5.1 経済分析の応用

当事者(訴訟を起こすべきか、不法行為に関わるべきかを考慮している)や裁判官の決定(訴訟を受理するべきか、棄却するべきかを考慮している)と同様に、行政が規範を遵守する判断を下すときに経済理論を援用できる可能性が存在していた。コッホやリュスマンによれば「司法的な根拠」に対する「便益」が法的な判断の際に考慮されていた。

特に社会全体に影響を及ぼす立法者の経済的な特徴が含意を形成していた。

法的責任に対するリスク(特に不法行為に伴う損害、善意取得、契約締結上の過失を通じた)を管理することによる「便益」は、例えば夫婦の観点から俯瞰するか裁判官の観点から俯瞰するかに依存することがない離婚による「便益」と比較すると小さいものであった。そして法の経済分析は経済法の中に明示されていた。例えばマイケル・アダムス(ベトリープス・ベラーター、1989年、781)による法の研究はよく知られており、マイケル・アダムスは契約の締結における当事者の「非対称な」利用可能情報を考慮した約款規制法を研究していた。

そして近年、法の経済分析の対象に公法が加えられており、行政法が注目されていた。

3.5,2 法の経済分析に対する批判

しかしアメリカにおいて法の経済分析は批判の対象となっていた。

法の経済分析に対する批判として、人間が経済合理性にのみ基づいて行動している訳ではないことが指摘されていた。そして法の経済分析は重要な点を欠落させており、それは法の経済分析が合理的行動のような経済的側面に限定されていることを理由にしていた。つまり問題を狭めて、法の内容や正当性をすべて経済効率に起因させていることが問題であった。モデルが取り上げていない側面として、例えば法感情(その法哲学はエルンスト・ブロッホに由来していた)や、法的な関係の形成による力の増大(政治的な力であれ経済的な力であれ個人の力であれ)を指向する意思が指摘されていた。そして宗教的な性格を有する人間は経済的便益を最大化せず、神の視線を意識するであろうとの視点が存在していた。しかし法の経済分析の研究者は、それらの説明には手段としての貨幣が果たす役割に着目した視点が欠落しており、数理経済学が説明するような想定が依然として存在していると理解していた。

また事例ごとに基準となる「便益」を定め、特定のアプローチを採用し比較することにも問題が存在していた。

http://fr.wikipedia.org/wiki/État_de_droit

法治国家

法治国家もしくは法の支配は、あらゆる人々が権利だけでなく義務を有し、「権利を有している」といった認識によって、個人の権利や公権力に対して法を遵守させることを尊重する法的な立場であった[1][2]。それは規範のハイアラーキー、権力分立、基本的権利の尊重に関連し、また立憲主義とも関連していた。法治国家の概念と国家の存在理由を示す概念は伝統的に対立しており、あらゆる法治国家や類似したアクターは何よりも国益を優先させる傾向にあった。

法治国家は政治的な代表を制定した法によって民主的に選ぶことを内包していた。大多数の欧米の近代国家の基礎になっているモンテスキューによる権力分立の理論は三権(行政、立法、司法)の区別と相互牽制を含めていた。例えば議会民主制において立法府(議会)が行政府(政府)の権力を牽制しており、政府は勝手に行動できず、議会の意向を絶えず確認しなければならず、それは民意の表れであることが指摘されていた。同様に司法は行政的な決定に歯止めをかけていた(特にカナダにおいては「権利および自由に関するカナダ憲章」に基づいていた)。したがって法治国家は基本的権利を軽視する絶対王政、王権神授説、独裁制と対立していた。そして法治国家の憲法は必ずしも成文の体裁をとっていなかった。例えばイギリスの憲法は慣習を基にしており、成文規定を有していなかった。このような法体系において、政治的な代表は慣習法を尊重しなければならず、それは成文法と同様であった。

1 ケルゼンの理論、法治国家と規範のハイアラーキー

歴史を遡れば、法治国家は制度化されたシステムであり、公権力は法を遵守しなければならなかった。オーストリアの法学者であるハンス・ケルゼンは20世紀初頭のドイツ由来の法治国家の概念を再度定義し、「国家の法規範は公権力を制限する目的で階層化されていた。」

このモデルでは、各規範は上位にある規範を満たすことによってその正当性を維持していた。

1.1 規範のハイアラーキーに対する尊重

規範のハイアラーキーは法治国家を維持するシステムの一部であると考えられていた。

規範のハイアラーキーを通じて、国家のさまざまな機関の権限は明確に定義されており、制定された規範は上位に位置する法規範を遵守しているときにしか効力を有していなかった。このピラミッドの頂点にある憲法は法や規制による国際協調を念頭に置いており、ピラミッドの底部には行政的な決定や私人間の契約が存在していた。

法システムは法的主体にとって不可欠の存在であった。個人同様に国家は合法性の原理を軽視することができなかった。上位にある規範を尊重しないあらゆる規範や決定は法的制裁を招きやすかった。そして法を制定する権限を有する国家は、法的ルールを順守することによって、規制する権能に対する承認を受ける必要があった。

規範のハイアラーキーは規範を遵守する法的主体を平等に扱うことを想定していた。

1.2 法の下の平等

法の下の平等ないし政治的権利の平等は法治国家であるための二番目の条件であった。実際法の下の平等は法的規範が上位の規範を満たしていないときにあらゆる個人や組織が法的規範の適用に異議を申し立てることができることを含意していた。したがって個人や組織は法的主体としての地位を有していた。まず自然人、次に法人に対してその言及がなされていた。

国家は法人に含まれ、国家による決定は法人と同じく合法性の原理に支配されていた。合法性の原理の遵守は立憲主義を尊重する合法性の原理に従わせることを通じて公権力の行動に枠をはめていた。この点において国家より上位に位置する法的な制約は大きな力を有していた。制定されたルールや決定は上位にある規範(法、国際的な合意、憲法)を尊重しなければならず、裁判所から特別の扱いを受けたり、慣習法の適用を除外されることもできなかった。私法における自然人や法人は公権力の決定に異論を申し立てることができ、制定された規範を通じて対抗することも可能であった。この点において裁判所の役割は重要なものであり、裁判所の独立は絶対不可欠であった。

1.3 司法の独立

実際に法治国家は、人々の紛争を解決する権限を有しており独立した司法の存在を想定しており、規範のハイアラーキーに由来する合法性の原理を尊重しており、合法性の原理は法人を特別扱いすることを認めていなかった。

そして法治国家は権力分立や司法の独立を想定していた。実際には司法機関は国家の一部を構成していたため、立法府や行政府から司法が独立していることによって法規範の適用における公平性を担保していた。

1.4 規範を比較するときの問題

また裁判所は合法性を判断する規範を尊重しており、それはハイアラーキーの上部に位置するルールに適合するか否かを含めていた。

国際協定に照らして国内の規範の妥当性を認めることは、矛盾があるときに裁判官がその規範を適用しないことを許容しており、これは国際協定を通じた審査であった。また憲法に対する法の妥当性は、付託されていれば憲法院によって審査されることになり、これはすなわち合憲性の審査であった。したがって法治国家は国際協定を通じた審査や合憲性審査の存在を想定していた。

1.5 注釈

法治国家は理論的なモデルであったが、他方で政治的なテーマでもあり、今日では民主制の大きな特徴であると考えられていた。法を通じて政治や社会における組織のルールを優先するならば、それは合法性の原理を遵守していなければならなかった。そして法治国家はこのモデルを採用している各国の裁判所の役割を拡大させていた。

2 法治国家と民主主義

一方で法治国家はしばしば民主主義と混同されていた。実際には各レジームがどの程度法治国家を尊重しているのかがどの程度民主主義を尊重しているのかと必然的に関連している訳ではなかった。

例えばロシアがツァーリズムからソビエト体制に移行したときに法治国家の枠組みを強化したように、フランスは革命期から帝政期に移行したときに法治国家を揺るぎないものにしていた。

『法の精神』の中でモンテスキューは、王が既存の法や行動の範囲を規定する不文憲法を尊重している点で、君主制を独裁制と区別していた。この点において君主制は独裁制より法治国家の色彩が強かった。

また現代の中国は法治国家の体裁を緩やかに採用していたが、そのレジームが民主主義へ向かうとは思われていなかった。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Hiérarchie_des_normes

規範のハイアラーキー

規範のハイアラーキーはハンス・ケルゼンによって提唱された概念であった。そして法規範のハイアラーキーに対して様々な解釈が論じられていた。このハイアラーキーはそれを裁判官が尊重するときにしか意味を有していなかった。ハンス・ケルゼンは頂点に憲法を据えてこのハイアラーキーを理解していた。そして法規範の審査は2つに分類され、違法性の抗弁による審査と違憲立法審査が存在していた。

1 概略

規範のハイアラーキーは法学者であるハンス・ケルゼン(1881-1973)によって提唱され、ハンス・ケルゼンは『純粋法学』の著者であり、法実証主義の提唱者であり、道徳や自然法に依存しない法の基盤を築き(価値中立、つまり想定された主観や道徳的な先入観から独立した)、法律学を展開させていた。ケルゼンによれば、あらゆる法規範は上位にある規範を遵守することで正当性を獲得しており、そこにハイアラーキーが形成されていた。規範の影響が大きければ、その数が減少し、規範の位置付け(通達、規則、法律、憲法)がピラミッド状であることから、この理論は規範のピラミッドとも呼ばれていた。

規範のハイアラーキーは一面では「固定化」されており、それは下位にある規範が上位にある規範を遵守しなければならなかったことを背景にしていたが、他方で「変更可能」な存在であり、それは、上位にある規範によって制定されたルールによって、規範が修正される可能性を存在させていたことを背景にしていた。そして憲法はピラミッドの頂点にあり法システムの内部に存在している規範であった。また憲法は上位にある規範やその時に存在していない規範に由来する内容を除いて法的義務を有していなかったので、そこにケルゼンは「根本規範」の概念を想定し、根本規範は法理論と矛盾しない性質を与えるために想定された方法論で構成されていた。

規範のハイアラーキーについての理論は「硬性」憲法にしか適用されていなかった。「軟性」憲法を採用している国家において一般的に憲法は、法律と同様に慣習法を採用する機関によって起草され投票を経て修正されていた。そして「硬性」憲法と「軟性」憲法は同一の法的価値を有しており、憲法は法律より下位に存在していなかった。他方で「硬性」憲法を採用している国家において、憲法は特定の機関(政府やワークグループ)によって起草され立法府による投票を経て、国民投票によって採択されていた。その改正手続は一般的に特定の機関や国民を介在させており、それらが憲法制定権力を有していた。また硬性憲法は特別な法的効力を有しており、それは他の規範より上位にあり、尊重されなければならなかった。

規範のハイアラーキーを研究している法学者の多くは合憲性審査基準の中に補助的な審査基準を含めており、無神論者にとって、その審査基準は「自然法」と呼ばれており、信仰を有する人々にとって、それは「神の法」と呼ばれていた。

2 審査のさまざまな形態

規範に対する審査は多くの形態を有していた。

2.1 違法性の抗弁

違法性の抗弁は一般の裁判官によって行われていた。ある法規範に対する違憲性の懸念が訴訟を促し、その抗弁が検討に付されていた。このケースにおいて裁判官が抗弁された規範が違憲であると判断するならば、その規範を適用しない可能性が存在していた。しかしその規範が無効になることはなく、最高裁判所によるものでない限り、その判例が他の裁判所によって採用される可能性もなかった。このタイプの抗弁は例えばアメリカで見られていた。

2.2 違憲立法審査

問題に該当する規範が違憲であることを示しその法律効果を無効にするために、特別な機関が設置されていた。

2.2.1 フランスのケース

フランスでは、法律が部分的ないし全体的に合憲であるか否かを審査し宣言するために、1958年に憲法院が創設されていた。審査は法律がまだ公布されていないときにのみ行われていた。憲法院の創設以前は、憲法は理論的な意味でしか最高法規としての地位を有しておらず、行政裁判官は法律の合憲性を審査することを認められていなかった(「法律遮蔽」を形成したコンセイユ・デタにおける1936年のアリギ判決)。

2008年7月23日の憲法改正は、事前審査に加えて、優先的憲法問題(QPC)のメカニズムによって事後の違憲立法審査を認めていた。そしてあらゆる裁判官が合憲性の問題に直面することになった。合憲性の問題はコンセイユ・デタ(行政訴訟に関して)や破毀院(司法訴訟に関して)に送られ、訴訟は留保されていた。そしてこの2つの最高裁判所は憲法院で受理する裁判官に合憲性の問題を移送していた。ここでの問題点は違法性の抗弁とは異なり先決性にあった。

憲法院がその公布前しか法律を審査することができないことに加え、今日の憲法裁判官はレファレンダムによって決定された法律の合憲性を審査しなかった。しかし新たな第11条によれば、2008年7月の憲法改正に基づき、レファレンダムによる法律は憲法を遵守していることを審査されなければならなかった(まだその効力は発生していない)。

最後に違憲立法審査は法律の合憲性に対する審査であり、アリギ判決ではまだ判例変更にまで言及がなされていなかった。そしてそれはコンセイユ・デタ(CE)が後法に対する条約の優越を承認する1989年まで(1989年のニコロ判決)待たねばならなかった(一方破毀院は1975年5月24日のジャック・バブル判決以降それを承認していた)。

3 各国の様相

3.1 フランス

1958年以前の憲法では、憲法や国際条約が法律より優越されながらも、立法府が最高機関であった。またいかなる裁判所も憲法や国際条約が有する超立法的性質を明示することがなかった。しかし1958年以後、憲法が法律より優越されることが、立法府が根本規範を遵守していることを審査する憲法院によって明示されることになった。

3.1.1 フランス法のスキーム

狭義の合憲性審査基準は、1958年憲法、1946年憲法の前文、1789年の人間と市民の権利の宣言、環境憲章(2005年5月以後の)、共和国の諸法律によって承認された基本原則(1971年の結社の自由判決を参照せよ)、憲法的価値を有する規範(例えば憲法の規定と矛盾しない法律に対して憲法上の根拠を与える抵触法)、憲法の原則を含んでいた。しかしこの見解は批判されており、その理由は、それらがコンスルの仕事であり、フランスの憲法典の中にいかなる根拠も有していなかったことにあった。

広義の合憲性審査基準は、憲法的価値を有する規範、組織法律、1998年のヌーメア協定に基づく原則を含んでいた。法律的観点から、議会(国民議会、元老院、上下両院合同会議)内部のルールが含まれることが明白であったが、憲法院は現在のところそのルールを含めることを否定していた。

「合憲性審査基準」といった用語はエクス・マルセイユ第三大学のルイ・ファヴォルーによって示されていた。この言葉は合憲性審査基準が規範のハイアラーキーにおいて憲法と同様のレベルに至っているといった事実を反映していた。

しかしこのスキームは特にジョルジュ・ヴェデルによって批判されており、憲法院が「憲法の一語一句」のみを適用することが求められていた。

条約適合性審査基準は国際法、具体的には慣習法を除いた国際条約や国際協定によって構成されていたが(EC、1997年6月6日、アクアローネ)、(EU加盟国としてのフランスにおける)EU法、つまり条約や派生法、指令や規則も同様であった。

そしてフランスでは規範に関する文書のデジタル化が進められていたが、2005年の定義によれば法律やデクレしか対象になっておらず、それは欧州指令を含んでおらず、その範囲は制限されたものであった。

3.1.2 規範とEU法とのハイアラーキー

学説における重要な判決はフランス法が容認しているEU法のハイアラーキーに含まれていた。

そして、2004年6月10日のLCENに関する憲法院の決定は「EU法を国内法に置き換えることが憲法上の要請であり、明文の規定を考慮すると、憲法に反するときしかEU法は国内法の障害とならない」ことを示していた。

規範のハイアラーキーはEU法の将来の変化にしたがって判例を変更するかもしれない判決に影響を及ぼしていた。

現在の判例はフランスで批准されている国際法に対する憲法の優越に価値を認めており、1998年10月30日のサランとルヴァシェールのコンセイユ・デタの判決は原則に回帰していた。「フランス憲法55条によって示される国際条約に付与されている優越は、国内法の枠組みの中では、憲法の規定に対して適用されることがなかった。」

4 備考

憲法は規範のハイアラーキーの頂点に位置していたが、そのハイアラーキーの基盤も構成していた。そして、法律はハイアラーキーの上位にあり効力を有するルールを遵守していた。また権力は権力が生み出す規範より上位の規範にしたがっていた。したがって立法権を有する機関は憲法にしたがっており、行政権は法律を遵守せねばならず、規範のハイアラーキーに含まれていた。このシステムは法治国家として認められており、法治国家はあらゆる個人や法人が法を遵守することを含意していた。

憲法の優越はしばしば限定的な方法で実現されていた。法システムは立法手続における違憲立法審査を含んでいたが、公布されており違憲である法律の適用を防止する手段を提供していなかった。フランスでは違憲立法審査が法律公布の前に憲法院によって行われており、訴訟当事者が法律の適用に対抗するために憲法に立脚すること(「合憲性審査基準」に該当する要素に基づいて)は不可能であった。その可能性は、基本原則を尊重する手段、立法権の行使による損害に対する司法権の行使、法律に対する継続的異議申し立ての可能性の中に見出すことが可能であった。こういった状況は2008年7月に生じており、1990年や1993年の段階では合憲性の優先問題はまだ見受けられていなかった。

ロベスピエールやサン=ジュストは、立法権に対して司法権が干渉するように民主主義の枠組みの中で法律を用いることや、権力の分立を容認していなかった。そして上位にある規範を適用することを必要としていた(憲法のように)。

アメリカにおいて判例は大きな価値を有しており、裁判官(最高裁判所を除いて)は国民によって選任されており、彼らは国家や裁判所のルールを順守していた。

そして憲法が国際法より優位にあるとの判決によって国境を超えた訴訟が懸念されていた。これはキューバについて当てはまり、キューバは「知性の産物は制約を受けることがなく、あらゆる人々の財産である」ことを理由にして、著作物に対して金銭的な支払いを行うことを容認していなかった。

法律より国際条約や国際協定が優越されることはニコロ判決(1989年10月20日)によって認められており、「法律遮蔽」の理論を放棄し、国際条約に対する事後的な法律の規定を国際条約の下に置いていた(1968年5月、フランスのデュラム小麦における製造業者組合についての判決)。コンセイユ・デタはEU法の派生法に対してニコロ判決を敷衍させており、法律よりEU法(1990年9月24日、ボワデ判決)や欧州連合指令(1992年2月28日、S・A・ロスマン判決もしくはS・A・フィリップ・モリス判決)を優越させていた。しかしながら国際条約に対する憲法の優越(規範のハイアラーキーの頂点にある)は再度明示されていた(1998年10月30日、サランとルヴァシェールの判決)。他方で欧州司法裁判所の判決(ECJ、1978年3月9日、シンメンタール判決)は、国内法よりEU法や派生法を優越させており、国内の憲法も同様に扱っていた。しかし現在この判決はフランスの憲法に当てはまっていなかった。

ヨーロッパの民主主義は国際公法の普遍的な解釈を支持する傾向にあったが、インド、イスラエル、アメリカを含む民主主義は、国際公法を領土に対する権利のように普遍的なものや条約や慣習から派生したものと見做す一方で、特定の側面を国際公法の対象として眺めていなかった。植民地時代を経験した途上国の民主主義は、しばしば内政不干渉を主張していたが、国連に見られるような多国間のレベルでの国際公法を支持しており、人権の基準、特定の制度、武力の使用、軍縮の義務、国連憲章の各条項を尊重していた。

国際公法は統治機構のない法的環境の中に存在していたので、規範に関してコースの定理が示唆している性質を有しており、国際情勢が変化しているならば、規範からの逸脱によって、その規範自体が慣習国際法の概念に従って実際に変化するかもしれなかった。例えば、第一次世界大戦以前の無制限潜水艦作戦は国際法の違反やドイツに対するアメリカの宣戦布告のための表面的な開戦事由として考えられていたが、ニュルンベルク裁判において、その行為が1936年に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約に対する明白な違反を構成しているにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を命じたドイツ海軍の元帥であるカール・デーニッツに対する告訴が取り下げられていた。

国連総会の決議は法的拘束力を認められておらず、勧告のみであり、1950年11月3日に採択された国連決議第377号による平和のための結集決議を通じて、国連総会は、安全保障理事会が常任理事国の拒否権によって事態を処理することに失敗したときに、平和の破壊や侵略行為に対して、国連憲章に従って、国連総会が武力を使用する権限を有していることを宣言していた。そしてソ連は、国連決議第377号の決議Aが与えた国連憲章の解釈に唯一反対した安全保障理事会の常任理事国であった。

紛争の平和的解決を勧告している国連憲章の第6章の下で、安全保障理事会は結果として決議を可決することが可能であったが、それらは拘束力を有しておらず、国連憲章の第7章の下で、平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動に関して、拘束力を有し、経済制裁、軍事行動、国連の支援を通じた武力の使用を認める決議を採択することが可能であった。

他方で第7章と無関係に可決された決議が拘束力を有する可能性があることが主張されており、その法的根拠は第24条第2項の下での理事会の広範な権限にあり、このような決議の義務的特徴はICJによるナミビア事件についての勧告的意見によって支持されていた。

また相互の合意に基づいて国家はオランダのハーグにあるICJの仲裁を求めて紛争を付託することが可能であった。ICJが扱う事件は数年かかり、仲裁を通じてなされた決定は仲裁に関する合意の性質に応じて拘束力を有していたり有していなかったりしていたが、係争から生じた決定は事前にICJが常に関係国を拘束していることを主張していた。

高次の法による支配は、法が普遍的な公正の原則、道徳、正義に適合していないならば、いかなる法も政府によって執行されてはならないことを意味していた。したがって、政府が明白に定義され適切に制定された法的ルールを順守して行動していても、多くのオブザーバーによって不公正と見做される結果を生じさせているならば、高次の法による支配が、政治的ないし経済的意思決定を制限するための現実的な法的指針として機能を果たしていた。

高次の法は国際公法の中に確立された神の法、自然法、基本的な法的価値観として解釈され、その選択はどういった観点によるのかに依存していた。しかし高次の法は明確に法の上に存在する法であり、コモン・ローと大陸法の司法権に対して同じ法的価値を有していたが、コモン・ローと関連している自然法と対立していた。

高次の法による支配は、法の支配に対する英米圏の学説、コモン・ローを採用している国々の伝統、法治国家に対するドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシアの学説の間における相互理解を橋渡しする高次の法理論を具体化するためのアプローチであった。大陸法の学説はドイツの法哲学を通じたヨーロッパ大陸の法思想の産物であり、法治国家の名称は、政府による権力の行使が、国家によって確立され常に変化する法よりむしろ、高次の法によって検証され続ける国家を常に意味していた。

南北戦争以前にアフリカ系アメリカ人は、主人と奴隷の関係を規定する公式な効力を有する法に準じて、白人系アメリカ人と同等の権利や自由を法的に否定されていた。これらの法は、執行にあたって完全に適法であり、当時のアメリカ政府によるこれらの法の執行は相当数の住民の基本的人権を侵害していた。ウィリアム・H・スワードは、奴隷制が憲法より高次の法の下で禁じられていると明確に言及していた。

一部の国々では、政治のリーダーは法の支配が手続上の概念であると主張していた。そのために彼らは、あらゆる政府がその国民から基本的な自由を奪い、適切に執行された法手続に従っている限り生命の権利を侵害してもよいと主張していた。例えばニュルンベルク裁判では、第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人やジプシーに対する犯罪を正当化するために、ナチス・ドイツの元リーダーは、ヒトラーが権力を握っていたときに効力を有していた法を一つとして破っていなかったことを抗弁していた。高次の法による支配によってのみ、連合国検察はそのような抗弁を正当に論破することが可能であった。

また他の国々では、逆に政治のリーダーは、全ての成文法が道徳、公正さ、正義といった普遍的な原則に沿って維持されなければならないことを主張していた。これらのリーダーは、誰もが法に従わなければならないといった原理の必然的な帰結として、法の支配が政府に対して法の下で全ての人々を平等に取り扱うことを求めていることを主張していた。しかし政府がある階級に属する個人や一般的な人権について十分なレベルの人権尊重、個人の尊厳、自治権を否定するたびに、平等に取り扱われる権利が侵害される傾向にあった。そのために平等権、自治権、個人の尊厳、人権尊重に関する不文の自明な原則が政府によって制定された従来の成文法を支配していることが言及されていた。これらの原則はしばしば自然法として言及されていた。これらの原則は同様に高次の法理の基礎を構成していた。

18世紀後半にアメリカやフランスで憲法が採用された後、イマヌエル・カントによって初めて法治国家に関する学説が紹介されていた。カントのアプローチは高次の法に関する原則を用いて形成された成文憲法の優越性に基づいていた。この優越性は、市民の幸福や繁栄のための基礎的な条件としての恒久的に平和な生活を求めるカントの考え方を実践に移すことを意味していた。

国家の憲法が市民の倫理に基づいており、市民の倫理が憲法の本質に基づいていたことを示すことによって、カントは高次の法を執行するための手段としての立憲主義の問題点を明確に指摘していた。

ワレリー・ゾリキンによれば、法治国家は合法的で公正な社会なくして存在することができず、国家は社会によって達成された成熟の程度を反映したものであった。

ジェームズ・M・ブキャナンによれば、立憲政治の枠組みの中であらゆる政府による介入や規制は3つの仮定によって条件付けられていなければならず、市場経済を機能させることに対するあらゆる失敗が政府の介入によって修正されることが可能であり、政治を職業としている人々や官職についている人々が、個人の経済的利益と無関係に、公共の利益を利他的に支持しており、政府がさらなる介入や支配を目指すことが社会的ないし経済的生活に対して影響を及ぼさないことが挙げられていた。

そしてブキャナンによれば、国家が知識に関して国家を構成する個人より優れているといった考え方は拒否されており、カントに沿って、少なくとも数世代の人々によって用いられることを考慮されていた高次の法としての憲法が、経済的意思決定のために、その憲法自身を修正することが可能であらねばならない一方で、個人の利益と対立する国家や社会の利益と、個人の自由や幸福に関して憲法上の権利のバランスを保っているとされていた。

自然法理論は国家の法を制定する力を誘導し、善なるものを促すための道徳的な方向を定めようとしており、人間の法体系の外部にある客観的な道徳的秩序といった概念が自然法の根底に存在しており、時として不正なる法は法にあらずという格言と同等に考えられていたが、ジョン・フィニスによれば、この格言は古典的なトマス主義の指針としては貧弱であったとされていた。

自然法と対照的に法実証主義は、法と道徳の間に必然的な関連はなく、法の力はいくつかの必要最低限な社会的事実に基づいているにすぎないと述べていた。しかしいかなる法実証主義者も、そのために法が何であれ遵守されなければならないものであるとは主張しておらず、法の遵守は全く別の問題であると考えていた。

ジョン・オースティンによれば、何が法であるのかに対する功利主義的な解答は、罰則によって裏付けられた服従する人々に対する主権者からの命令であったが、現代の法実証主義はこの見解を捨て去り、H・L・A・ハートはその過剰な単純化を批判していた。

ハンス・ケルゼンは20世紀における傑出した法学者の1人として考えられており、ヨーロッパやラテンアメリカに影響を与えていたが、コモン・ローを採用していた国々にはそれ程影響を与えていなかった。そしてハンス・ケルゼンの純粋法学は法学を政治学から切り離しており、法的規範の拘束力が形而上学上の存在を引き合いに出すことなしに理解されることが可能であると主張していた。

しかしH・L・A・ハートは法が社会的ルールを体系化したものとして理解されるべきであると主張しており、制裁が法にとって不可欠な存在であり、法のような社会規範が規範とならない社会的事実に基づけられることはできないとするケルゼンの見解を拒絶していた。

ジョセフ・ラズ、ジョン・ガードナー、レスリー・グリーンを含む現代の有力な実証主義者は、法と道徳の間に必然的な関連がないといった見解を拒否していた。ラズが指摘しているように、法制度を担う人々が暴行や殺人を犯すはずがないといった前提が現実と異なっていることは周知の事実であった。

そしてジョセフ・ラズは実証主義を擁護していたが、ハートのアプローチを批判しており、法が道徳的な裏付けを参照することなしに純粋な社会的事実を通じて確認される権威であることを主張していた。

しかしロナルド・ドウォーキンは、ハートや道徳の問題として法を取り扱うことを拒否したことに対して実証主義者を批判しており、法は解釈の後に得られる概念であり、慣習としての伝統を考慮しながら、法的紛争に対して最も妥当な解決を見出すことを裁判官に求めることを主張していた。ドウォーキンによれば、法は、社会的事実に全く基づいておらず、私たちが直感的に合法であるとみなしている制度的事実や法の執行を道徳的に最も正当化することを含んでいた。そして自然法理論と法実証主義の間に位置しているコンストラクティヴィストによる理論を支持していた。

リアリズム法学は北欧やアメリカの研究者に人気がある見解であり、現実の世界における法の執行が現在の法を決定づけるものであり、立法者、裁判官、行政官が法を通じて個人的な嗜好や偏見を実現することによって、法が力を行使していると主張していた。そしてあらゆる法が人間によって制定され、したがって人間の弱点の影響を受けやすいといった立場を基盤にしていた。

またカール・ルウェリンによれば、法は人間のバイアスに基づいた結果を形成する可能性がある裁判官の個人的な嗜好や偏見以上のものではないと考えられていた。

そしてジョン・ロールズは、もし私たちが無知のヴェールに覆われているならば、社会を構成する基本的な制度を設計するために、どのような正義の原理を私たちが選択するだろうかと尋ねていた。もし私たちが人種、性別、資産状況、階級といった要素を全く知らないならば、私たちは私たちの嗜好からバイアスを受けなかったであろう。この原初状態から、ロールズは私たちが言論の自由や投票の自由等のような全ての人々に対する同一の政治的自由を獲得するだろうといったことを主張していた。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカのWikipediaの「国際公法」、「国際法理論」、「高次の法による支配」、「法哲学」、「法の抵触」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Public_international_law

国際公法

国際公法は、主権国家やローマ教皇庁、政府間組織などの法的主体の構造や行動に関係していた。また国際法は多少なりとも多国籍企業や個人に影響を与えており、その影響は国内の法解釈や法執行の枠組みを超えて進化していた。国際貿易の拡大、世界規模での環境破壊、人権侵害に対する意識、急激で大規模な国際取引の増加、国境を超えたコミュニケーションの高まりによって、国際公法はその運用の機会や重要性を高めていた。

研究の対象は2つの大きな分野を合わせたものであった。全ての人に対する法である万民法と国際的な協定である諸民族間の法は異なった基盤であり、混同されるべきではなかった。

国際公法は、法の抵触を解決することに関する「国際私法」と混同されるべきではなかった。一般的な意味において、国際法は「国家や政府間組織の行動と、自然人や法人の関係同様に内々の関係を処理し、一般的に運用するための規則や原理によって構成されていた」[1]。

1 歴史

1648年に締結されたヴェストファーレン条約から始まり、17世紀、18世紀、19世紀は「国民国家」の主権の概念を構築し、それは政府による中央集権体制によって支配された国家によって構成されていた。人々が明確な国家のアイデンティティを有する特定の国家の市民として自身を眺めていたので、ナショナリズムの概念はますます重要になっていた。19世紀半ばまでに、国民国家間の関係は、力による場合を除くならば執行できず、名誉や信義の問題を除くならば拘束しない、他の国家に対して特定の方法で行動するための条約や協定によって支配されていた。しかし条約のみでは効果がなくなり、戦争は、市民に対して顕著であったが、一層破壊的になり、文化が成熟した人々はそれらの恐怖を非難し、特に戦時における国家の行動を規制することを主張していた。

おそらく近代の国際公法の最初の文書は、南北戦争における戦闘員の行動に適用するために、1863年にアメリカ議会によって制定されたリーバー法になり、戦時の規則や規約に関する文書であると考えられており、あらゆる文明国によって順守され、国際公法の萌芽でもあった。リーバー法の一部は以下の通りであった。

「近代の文明国によって理解されるように軍事力の必要性は、戦争の終結を確認するために不可欠であり、近代法や戦争についての慣行に従った合法的な対応の中に含まれていた。軍事力の必要性は、武装した敵や、戦時の武器を通じた争いの中で、偶発性を避けられず、他の人々の生命や身体に直接的に被害を生じさせることを許容していた。軍事力の必要性は、あらゆる武装した敵や、敵国の政府にとって意味があり、特に自国にとって危険なあらゆる敵を捕虜にすることを許容していた。軍事力の必要性は、財産に対してあらゆる侵害を行い、交通、移動、通信の経路を妨害し、敵のあらゆる生活手段を奪い、敵国が生存や軍の安全のために必要としているもの全てを強制収容し、戦争を開始する協定の中で明白に宣言され、近代の戦時国際法によって存在していると想定された信義を除外して相手を欺くことを許容していた。(しかし)この説明において、戦争において互いに武器を用いる人々は、互いや神に対して責任がある道徳な存在であることを止めていなかった。軍事力の必要性は残酷さを許容しておらず、それは、苦しみや復讐のために苦しみを与えるものではなく、戦争を除外して負傷を与えるものではなく、自白を引き出すために拷問を課すものでもなかった。軍事力の必要性はあらゆる場における毒物の使用を許容しておらず、都市を理不尽に廃墟にすることも許容していなかった。軍事力の必要性は相手を欺くこと許容していたが、背信行為を否定していた。そして一般的に、軍事力の必要性は平和に戻ることを不必要に困難にする戦闘行為を含んでいなかった。」

戦争に関する成文化されていない規則や条項に対する最初の声明は、戦争犯罪に関して、ジョージア州のアンダーソンビルでの残酷で劣悪な状況に置かれたアメリカの捕虜収容所に対して最初の訴追を行なっており、審理の後、収容所における南部連合の司令官は絞首刑に処され、南部連合の兵士は南北戦争の結果として死刑に処されていた。

その後他の州はその行動に制限を課すことに同意し、多くの協定や団体が互いに対してその行動を制限するために成立し、それらは1899年の常設仲裁裁判所、1907年に改定されたハーグ条約やジュネーブ条約、1921年に設立された常設国際司法裁判所、ジェノサイド条約、1990年代後半に設立された国際刑事裁判所を含んでいたが、それらによって制限されるものではなかった。国際法は比較的新しい分野の法であり、応用分野におけるその展開と発展はしばしば論争の対象であった。

2 国際法の法源

国際司法裁判所規程第38条の下で、国際公法は3つの主な法源を有しており、それは国際条約、慣習、法の一般原則であった。さらに判例や学説は「法準則を決定する補充的な手段」として適用されていた。

国際的な条約法は、国家が条約の中で互いに対して明示的にそして自発的に受け入れる義務で構成されていた。慣習国際法は法的確信を伴う一貫した国家による行動すなわち一貫した国家実行が法的義務によって求められていることに対する国家の確信から演繹されていた。学説や国際法廷の判決は伝統的に、国家の行動に対する直接的な証拠に加えて慣習に対する説得力のある法源として見られていた。慣習国際法を成文化する試みは、国連による支援の下で国際法委員会(ILC)を形成したことを伴いながら、第二次世界大戦後に支持を拡大していた。成文化された慣習法は、条約による合意に基づいた慣習として拘束力を有していると理解されていた。そのような条約の当事者ではなく国家に対して、ILCの仕事は国家に対して適用される慣習として容認されているかもしれなかった。法の一般原則は世界の主な法制度によって一般的に容認されていた。国際法における特定の規範は、一切の例外を許容せずにあらゆる国を含むものとして、絶対的な規範(強行規範)に対する拘束力を有していた。

3 国際条約

国際条約の正確な意味や国内法の適用についての議論において、法が意味するものを決定することは裁判所の責任であった。国際法において解釈は、それを主張している人々の活動領域の中にあったが、条約の条項や当事者間の合意によって、ICJのような司法機関に付与される可能性が存在していた。自己のために法を解釈することは一般的に国家の責任であったが、外交のプロセスや国家を超えた司法機関を利用することの可能性は、その目的を達成するために常に機能していた。条約に関連している限り、条約法に関するウィーン条約は以下の解釈に関するトピックを取り上げていた。‎

「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」(第31条第1項)

これは実際には解釈における3つの異なった学説の間の妥協であった。

限定的なアプローチである文書に基づくアプローチは文書の「通常の意味」に基づいており、実際の文書を重視していた。

主観的アプローチが考慮しているものは、i.条約の背後にある考え、ii.「文脈に含まれる」条約、iii.文書が書かれたときに作者が意図していたことであった。

3番目のアプローチは「その趣旨及び目的に照らした」解釈、すなわち「実用的な解釈」とも呼ばれていた条約の目的に最も適した解釈に基づいていた。

これらは解釈に関する一般的な規則であり、特定のルールが国際法の特定の分野においては存在していた。

4 国家の地位や責任

国際公法は、国際法システムにおける主要なアクターとしての国家を認識するためのフレームワークや基準を確立していた。国家の存在が領土に対する管轄権を前提としているので、国際法は領土の獲得、国家に対する免責、互いの行動における国家の法的責任を取り扱っていた。また国際法は国境の内側にいる個人の処遇に関係していた。したがって集団の権利、外国人の処遇、難民の権利、国際犯罪、国籍の問題、人権を一般的に取り扱う総括的なレジームが存在していた。さらにそれは、国際平和と安全保障の維持、軍備管理、紛争の平和的解決、国際関係における武器の使用に対する制限といった重要な機能を含んでいた。法が戦争の勃発を止めることができないときでさえ、それは戦闘行為や捕虜の取り扱いを支配する原則を展開していた。そして国際法は、地球環境、海洋や宇宙のようなグローバル・コモンズ、国際通信、国際貿易に関した問題に適用するために用いられていた。

理論的には全ての国が主権を有し、平等であった。主権の概念の結果として、国際法の価値や権威は、国際法の形成、遵守、執行における国家の自発的な参加に依存していた。例外が存在しているかもしれないが、高次の法の主体を支持することよりむしろ、自己の利益に基づいて多くの国々が他の国々に対して法的に関与していることが、多くの国際法学者によって想定されていた。D・W・グレイグが記したように、「国際法は国際関係に作用している政治的要因から切り離すことはできなかった」[2]。

伝統的に主権国家や教皇庁は国際法における唯一の主体であった。近年において国際機関が多様化し、その国際機関も同様に時として国際法における主体として認識されていた。国際人権法、国際人道法、国際貿易法(例えばNAFTA第11章)は企業や特定の個人を含んでいた。

4.1 国家主権

国際法と国家主権との対立は学会、外交、政治における論争の対象であった。確かに、国際法や国際基準に照らして、国家の国内の行動を判断する大きな流れが存在していた。現在多くの人々が国民国家を世界における最も重要な単位として眺めており、国家のみが国際法に対して自発的に関与することを選択してもよく、国家のコミットメントに対する解釈になると、国家は国家自身の意図に従う権利を有していると考られていた。特定の研究者や政治のリーダーは、国際法の発展が、政府から権力を奪い、国連や世界銀行のような国際的な主体に権力を譲ることになるので、国民国家を危機に陥れるだろうと感じており、単なる国家間の合意とは別に存在し、国内法の制定や司法プロセスと並行している国際法の制定や司法のプロセスを認識していた。このことは特に、国家が文明国によって遵守される行動基準から逸脱していたときに生じていた。

多くの国々が領土に対する主権を強調しており、国家が国内において自由に主権を有していると考えていた。他方で他の国家はこの見解に反対していた。多くのヨーロッパの国々を含めて、この見解に反対しているグループは、全ての文明国がジェノサイド、奴隷貿易、侵略戦争、拷問、海賊行為を禁止することを含めた行動規範を有しており、これらの普遍的な規範に対する違反が、個人の被害者に対するだけでなく、人類全体に対する犯罪であると主張していた。この見解に同意している国家や個人は、国際法に違反したことに対して責任を有する個人が「海賊や奴隷業者のように人類全体の敵になっており」[3]、普遍的な管轄権の執行を通じて、基本的にいかなる裁判においても公平な裁判を通じて起訴されるべきであると主張していた。

ヨーロッパの民主主義は国際法の普遍的な解釈を支持する傾向にあったが、多くの他の民主主義は国際法に対して異なった見解を有していた。インド、イスラエル、アメリカを含むいくつかの民主主義は、柔軟なアプローチを採用しており、普遍的なものとしての領土に対する権利のように国際公法の一部の側面を認めており、他の側面を条約や慣習から派生したものとして見做しており、特定の側面を国際公法の対象として全く眺めていなかった。過去の植民地時代の歴史に起因している途上国の民主主義はしばしば内政不干渉を主張しており、人権の基準や特定の制度を特に尊重していたが、国連に見られる二国間ないし多国間のレベルでの国際法を強く支持しており、武力の使用、軍縮の義務、国連憲章の各条項を特に尊重していた。

9 国際裁判とその判決の執行

国際法は紛争の解決や強制的な刑事システムのための義務的な司法システムを設けていなかったので、国内の法制度における違反を処理することほど容易ではなかった。しかし、その違反が国際社会の注目を集めるための手段や、その違反を解決するための手段が存在していた。例えば貿易や人権のような特定の分野において国際法には司法ないし準司法的な裁判所が存在していた。例えば国連の設立は、安全保障理事会を通じて国連憲章に違反する加盟国に対して国際社会が国際法を執行する手段を与えていた。

国際法は最も重要な「統治機構」(例えば国際規範を遵守することを外部から強制する力)のない法的環境の中に存在していたので、国際法の「執行」は国内法の施行と異なっていた。多くの場合において国際法の執行は、規範に関してコースの定理が示唆している性質を有していた。他の場合において、特に国際情勢が変化しているならば、規範からの逸脱が実際のリスクを生じさせていた。このことによって、強大な国家が継続して国際法の特定の側面を無視するならば、規範は慣習国際法の概念に従って実際に変化するかもしれなかった。例えば、第一次世界大戦以前の無制限潜水艦作戦は、国際法の違反やドイツに対するアメリカの宣戦布告のための表面的な開戦事由として考えられていた。しかし第二次世界大戦までに国際法の手続は、ニュルンベルク裁判において、その行為が1936年に締結された第二次ロンドン海軍軍縮条約に対する明白な違反を構成しているにもかかわらず、無制限潜水艦作戦を命じたドイツ海軍の元帥であるカール・デーニッツに対する告訴を取り下げることにまで拡大していた。

9.1 国家による執行

特定の規範を維持したいという国家の意向とは別に、国際法の執行は、一貫した行動を取り、義務を遵守することを国家が他の国家に課していることの圧力から生じていた。あらゆる法体系と同様に、国際法の義務に対する多くの違反は見逃されていた。さらに言及を加えるならば、国際司法の決定[5][6]、仲裁[7]、制裁[8]、戦争を含む武力の使用[9]に対する服従は外交や国家の評判に対する影響を通じてなされていた。実際に国際法に対する違反は一般的であったけれども、国家は国際的な義務を無視する言動を避けようとしていた。経済関係ないし外交関係の断絶や報復行為を通じて、国家は一方的に相手国に対して制裁を採用するかもしれなかった。いくつかのケースでは、国際法が国内法と交差する複雑な分野であったけれども、国内の裁判所が外国(国際私法における)に対して損害を理由に判決を与えていた。

武力攻撃が発生した場合に全ての国家が個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることは、国民国家によるウェストファリアシステムの中に暗示されており、国連憲章の第51条の中に明示されていた。国連憲章の第51条は、安全保障理事会が平和の維持に必要な措置をとるまでの間(もしくはなくても)、国家の自衛権を保障していた。

9.2 国際的な主体による執行

国連加盟国による国連憲章に対する違反に対して、国連総会において侵害された国家によって問題提起される可能性が存在していた。国連総会の決議は法的拘束力を認められておらず、「勧告」のみであり、1950年11月3日に採択された国連決議第377号による平和のための結集決議を通じて、国連総会は、安全保障理事会が常任理事国の拒否権によって事態を処理することに失敗したときに、平和の破壊や侵略行為に対して、国連憲章に従って、国連総会が武力を使用する権限を有していることを宣言していた。国連決議第377号の決議Aを採用することによって、国連総会は同様に、穏やかな「平和に対する脅威」を構成する状況において、経済制裁や外交的な制裁のような他の集団的措置を求めることができることを宣言していた。

平和のための結集決議は、安全保障理事会でソビエトの拒否権を回避するために、朝鮮戦争の直後である1950年にアメリカによって発議されていた。決議の法的意味は不明確であり、拘束力のある決議を発布することはできなかった。そして国連総会に新たな力を与える議論を通じて決議案を提出することは「七理事国」によって一度も主張されたことがなかった。その代わりに安全保障理事会が膠着したときに、国連憲章に従って、すでに国連総会が影響するものについて、平和のための結集決議は単に宣言しているだけであると主張されていた[11][12][13][14]。ソ連は、国連決議第377号の決議Aが与えた国連憲章の解釈に唯一反対した安全保障理事会の常任理事国であった。

国連憲章に対する違反についての懸念は安全保障理事会の理事国によって同様に提起されることが可能であった。「紛争の平和的解決」を勧告している国連憲章の第6章の下で、安全保障理事会は結果として決議を可決することが可能であった。そのような決議は理事会の決定を表現していたけれども、それらの決議は国際法の下で拘束力を有していなかった。稀に安全保障理事会は、「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」に関して、国際法の下で法的拘束力を有し、経済制裁、軍事行動、国連の支援を通じた同様の武力の使用を認める、国連憲章の第7章の下で決議を採択することが可能であった。

第7章と無関係に可決された決議が拘束力を有する可能性があることが主張されており、その法的根拠は第24条第2項の下での理事会の広範な権限にあり、それは「前記の義務を果たすに当っては(国際の平和及び安全に関する主要な責任を負わせる)、安全保障理事会は国際連合の目的及び原則に従って行動しなければならない」と述べていた。このような決議の義務的特徴はICJによるナミビア事件についての勧告的意見によって支持されていた。このような決議の拘束力に関する特徴はその文言や意図の解釈から推測されることが可能であった。

また相互の合意に基づいて国家はオランダのハーグにあるICJの仲裁を求めて紛争を付託することが可能であった。決定を執行する手段を一切有していなかったけれども、これらの審理における裁判所の判決は拘束力を有していた。裁判所は、国連憲章に従って権限を与えられていた主体が何であれ、その要求に対して、法的問題について勧告的意見を与えることが認められていた。そして裁判所がもたらしたいくつかの勧告は裁判所の法的権限や管轄権に関して論争を残していた。

しばしば非常に複雑な問題であるため、ICJが扱う事件は(1945年に常設国際司法裁判所が創設されて以来150件以下であった)数年かかり、数千ページに及ぶ訴訟手続、証拠、最も優秀な国際法学者による学説を含んでいた。2009年6月の時点でICJでの係争中の事件は15件存在していた。仲裁を通じてなされた決定は仲裁に関する合意の性質に応じて拘束力を有していたり有していなかったりしていたが、係争から生じた決定は事前にICJが常に関係国を拘束していることを主張していた。

国家や国際機関は通常、国際法に対する違反を主張する地位を有する唯一の主体であったが、市民的及び政治的権利に関する国際規約のようないくつかの条約は、国際人権委員会に要請することを加盟国によって違反された権利を有する個人に対して許容する選択議定書を有していた。投資協定は一般的な個人や投資主体による履行の規定を設けていた[15]。そして主権を有する政府と外国人との商業協定が国際的に履行されていた[16]。

10 国際法理論

http://en.wikipedia.org/wiki/International_Legal_Theory

国際法理論

国際法理論は、国際公法や制度の内容、形成、実効性を説明し分析し、それを展開するために用いられていたさまざまな理論的ないし方法論的アプローチを含んでいた。いくつかのアプローチは、なぜ国家は法の遵守をもたらす強制力がないにもかかわらず国際法を遵守するのかといった法の遵守に焦点を当てていた。他のアプローチは、なぜ国家は世界立法府が存在していないにもかかわらず行動の自由を制限する国際法規範を自発的に採用しているのかといった国際的なルールの形成に焦点を当てていた。他の展望は政策中心であり、既存のルールを批判し、その方法を提示する理論的なフレームワークや手段を形成していた。これらのアプローチのいくつかは、国内法理論に基づいており、他は学際的であり、一方また別のアプローチは国際法を分析するために展開されていた。

1 国際法に対する古典的アプローチ

1.1 自然法

初期の多くの国際法学者は自然法に委ねられていると考えられていた公理的な原理に関心を抱いていた。16世紀の自然法学者であり、サラマンカ大学の神学部正教授であったフランシスコ・デ・ビトリアは、公正な戦争、南北アメリカに対するスペインの影響、ネイティブ・アメリカンの権利に焦点を当てていた。

1.2 折衷主義的ないしグローティウスのアプローチ

オランダの神学者であり、人文主義者であり、法学者であるフーゴー・グローティウスは近代国際法の発展に対して重要な役割を果たしていた。聖書やセントオーガスティンの公正な戦争論から見解を引き出した彼の1625年の著作である『戦争と平和の法』の中で(3冊の著作)、彼は、政治の主体間の関係がコミットメントの遵守を基礎にした「合意は拘束する」といった原則に基づく社会共同体によって設けられた万民法によって支配されるべきであることを主張していた。その中でクリスチャン・フォン・ヴォルフは、国際社会が世界共同体であるべきであり、加盟国に対して権限を保有していると主張していた。エムリッシュ・ヴァッテルはこの見解を拒否し、その代わりに18世紀の自然法によって示されていたような国家の平等を主張していた。『国際法』の中で、ヴァッテルは、万民法が一方で慣習や法によって、他方で自然法によって構成されていることを示していた。

17世紀に特に法的平等、領土に対する主権、国家の独立を示していたグローティウスや折衷主義の基本原則はヨーロッパの政治ないし法制度の基本原理になり、1648年のヴェストファーレン条約の中に明記されていた。

1.3 法実証主義

初期の実証主義学派は国際法の法源として慣習や条約の重要性を強調していた。初期の実証主義者であるアルベリコ・ジェンティーリは実定法が大多数の人々に共通している合意によって決定されていたことを前提とする歴史的事例を用いていた。他の実証主義学派の研究者であるリチャード・ズーチは1650年に『宣戦講和の法、または諸国民間の法』を出版していた。

法実証主義は18世紀に支配的な法理論になり、国際法哲学の中にその方法論を見出していた。当時コーネリアス・ヴァン・バインケルスフークは、国際法の基礎が慣習やさまざまな国家によって合意された条約であることを主張していた。ジョン・ジェイコブ・モーザーは国家が国際法を遵守する意義を強調していた。ゲオルク・フリードリヒ・フォン・マルテンスは『ヨーロッパにおける近代国際法概説』という実定国際法に対する最初の体系的な手引きを出版していた。19世紀に実証主義の法理論はナショナリズムやヘーゲル哲学によってさらに支配的なっていった。国際商法は国内法の一部になり、国際私法が国際公法から分離されていた。実証主義は法として認識されるかもしれない国際的な慣行の幅を狭めており、道徳観や倫理間を超えた合理性を肯定していた。1815年のウィーン会議は、ヨーロッパの状況に基づいた政治ないし国際法のシステムを公式に認知していたことを特徴としていた。

近代法実証主義者は国家の意思から生じたルールからなるシステムとして国際法を考えていた。現在の国際法は、「あるべき」法と区別されなければならない「事実に基づく」現実であった。古典的な実証主義は法的正当性に対する厳格な検証を求めていた。文書を伴い、体系的で、歴史的な基礎を有していない超法規的な主張は法的分析と無関係であると思われていた。ハードローのみが存在しており、ソフトローは存在していなかった[1]。実証主義者の法理論に対する批判はその厳格さ、解釈を考慮せずに国家の合意に焦点を当てること、国際規範に従っている限り国家の行動に関する道徳的判断を許容しないという事実を含んでいた。

2 国際関係論 - 国際法に基づくアプローチ

法学者は政治学や国際関係論の分野における4つの主要な学派に分かれており、何故そしてどの様に法制度が存在しており、何故効力を有しているのかを説明することを目的として、法的ルールや制度の中身を学際的なアプローチを通じて検証するために、リアリズム、リベラリズム、インスティチューショナリズム、コンストラクティビズムが挙げられていた[2]。これらの考え方は国際法を再構築することを研究者に促していた[3]。

2.1 リアリズム

リアリズムは、アナーキーな国際システムにおいて、国家がその領土やその存在を維持するために相対的なパワーを最大化するための生存競争を永続することを避けられないことを主張していた。パワーを最大化することに対する国家の関心に対応し、生存競争に勝ち残る見込みがある場合においてのみ、国際協調が可能であるので、国家は規範に対するコミットメントを基礎にして協調を追求していなかった[4]。リアリズムの法学者によれば、国家は、パワーを増大させ、弱小な国家を従属させることを制度化するか、故意に有利な条件のために違反しても構わない国際法規範のみを採用していた[5]。したがって国際法は国家のパワーや自治に影響を及ぼさない周辺的な問題のみを取り上げるかもしれなかった。その結果としてリアリストにとって国際法は「損なわれやすい義務を包む薄いネット」のようなものであった[6]。

リアリストのアプローチによれば、一部の研究者は、「明白なルールを周知し、その遵守を監視し、違反を罰する共通の手続を制度化し、安定的なパワーバランスに強制力をもたせる」限りにおいて、国際法規範が効力を有する「執行の理論」を提案していた[7]。したがって互恵と制裁の役割が強調されていた。例えばモローは以下のように記していた。

近代の国際政治は一般的に国民国家の上にいかなる権力も認めていなかった。国家間の協定は合意した国家によってのみ執行力を有していた。アナーキーの仮定は戦時における国際法違反を制限するための協定にとってのパラドックスを示していた。(...) 互恵は国際政治における協定を履行するための主要なツールとして活用されていた。協定の履行は当事国に委ねられていた。損害を被った当事国は協定の違反に対する制裁によって対応するオプションを有していた。相互に対する制裁の脅威は国際法違反を抑止するために十分なものである可能性があり、そのような協定は国際政治において履行される可能性が存在していた[8]。

2.2 リベラリズム

リベラルな国際関係論に基づくと、一部の研究者は、国際法に対する国家の立場は国内政治、特に法の支配に対する主要な国内の個人や集団の選好によって決定されていると主張していた。したがって民主的な政府を有する民主主義国家は、非民主主義国家より国内法や国際法による規制を受け入れる蓋然性が高く、国際法を遵守することを受け入れる蓋然性も高かった。さらに民主的な社会は、国家間の関係、国家を超えた関係、政府を超えた関係による複雑なネットワークを通じて繋がっており、外交政策に関する官僚や市民社会は、国際法規範の形成や遵守を通じて、国家を超えた協調を促進することに関心を抱いていた[9]。したがって民主主義国家間において国際法規範を採用し遵守することは、非民主主義国家における国際法の遵守より容易であるはずであった。この点に関して、スローターは以下のように記していた。

リベラルな国家間で締結されている協定は、相互の信頼や協定の履行を促す調整の中で締結される可能性が高かった。しかし特に、これらが関係国における個人や集団のネットワークを参加させる協定であり、これらの国家が国内の司法によって担保される法の支配にコミットしているとの前提は、国内の裁判所を通じたさらなる「上意下達の」執行を促すはずであった。この執行の形態は、国家の責務、互恵、対抗措置を含む伝統的な「水平的」形態と対照的であった[10]。

2.3 合理的選択とゲーム理論

法に対するこのアプローチは、市場の内外の最適化された行動に対する法的な含意を確認するための理論や経済学に適用されていた。経済学は限定された状況での合理的選択を研究していた[11]。合理的選択は個々のアクターが自身の効用を最大化することを求めることを前提にしていた[12]。ここで採用された経済理論の多くは、伝統的な新古典派経済学であった。その経済学はアクターの相互作用を評価するミクロ経済学を含んでいた[13]。経済学の取引コストは、ミクロ経済学における情報を収集し、交渉し、協定を遵守させるコストを含めていた。ゲーム理論は、どのように行動を最適化するアクターが利得を増大させる行動を取ることに失敗していたのかを示していた[14]。公共選択は市場の外部における問題に対して経済学を用いていた。これらの分析ツールは法を説明し評価するために用いられていた。これらのツールを用いて、法は経済的効率性を通じて検証されていた[15]。また経済理論は法の改善を提案するために用いられていた。このアプローチは富を最大化させる法の採択を促していた。このアプローチの潜在的な応用例は文字ベースの解釈から始まるだろうとされていた。そして次の懸念は、実際に「市場」がうまく機能しているのかどうかに対して存在していた。三番目に不完全市場を改善する方法が提案されていた。このアプローチは一般的な法的問題を分析するために用いられる可能性があり、このアプローチが高度に限定的なルールを与え、そのルールを与えるための理論的根拠を与えているからであった。このアプローチは、完全競争が存在し、個人が効用を最大化する仮定に依存していた。これらの条件の存在を経験的に決定することは総じて困難であった。

2.4 国際法手続

古典的な国際法手続は、どのように国際法が実際に運用され、国際政治の中で機能し、国際法の研究が進展していったのかを研究するための方法であった[16]。「そして国際法手続は、ルールとその内容に対する論評というよりむしろ、どのように国際法が外交政策の担当者によって実際に用いられているのかについて焦点を当てていた」[17]。国際法手続は「国際関係論を研究しているリアリスト」と共に展開していき[18]、リアリストは冷戦が始まると共にどれほど国際法が国際情勢に影響を与えているのかについての認識を抱いていた。国際法手続は1968年のチェイス、エールリッヒ、ローウェンフェルドによる『国際法手続』の事例集の中で正当な理論と見做されており、そこでアメリカの法手続のための方法論は国際法手続を創設するために変化していった[19]。国際法手続は国際法手続が機能する方法や外国の機関が国際法を組み込む公式ないし非公式な方法を説明していた[17]。また国際法手続は、どの程度個人が国際紛争における人権侵害に対して責任を有しているのかを評価していた[20]。国際法手続は国際法が意思決定者の行動を決定付けないことを認識していた一方、国際法が正当化、言動の制限、計画を準備することの手段になっていたことを示唆していた[20]。国際法手続が方法論に関して規範的性質を欠如していることに対する批判は新たな国際法手続を生み出していた[21]。新たな国際法手続(NLP)は手続としての法とそれぞれの社会の価値観としての法の双方を組み込んでいた。アメリカの法体系と異なり、新たな国際法手続は「フェミニズム、共和主義、法と経済学、人権、平和、環境保護のようなリベラリズム」のような民主主義以外の規範的価値観を念頭に置いていた[22]。新たな国際法手続は価値観の進化に柔軟に適合していくことに関して独特であった。時間を超えた法的基準の変化に対応するために、新たな国際法手続の方法論の各要素は重要な役割を担っていた。新たな国際法手続は、紛争時に生じることや生じるであろうことを主張することによって、国際法手続からの新たな展開を示していた。

3 政策に対する展望

3.1 ニューヘブン・アプローチ

ニューヘブン学派は、マイレス・S・マクドゥーガル、ハロルド・D・ラスウェル、W・マイケル・リースマンによって切り開かれた国際法における政策に対する展望であった[23]。その系譜はロスコー・パウンドによる法社会学やリアリズム法学者の改革主義に根差していた。ニューヘブン・アプローチによれば、法哲学は社会的な選択を行うための理論であった。国際法は、法的機関による支配によって生じた行動の一定のパターンについて、関連するアクターの期待を反映していた。主な法的ないし知的課題は、アクターの社会的目標に対して最大限に達成され同時に秩序を維持する方法で、政策を決定し実施することであった[24]。これらの社会的規範の目標やニューヘブン・アプローチの価値観は、富、啓発、スキル、幸福、好意、敬意、正直さのようなアクターの内部で共有された価値観を高めることを含んでいた[25]。ニューヘブン学派の法哲学の目的は、最適な秩序の中にある共有された価値観を高め、国際的な秩序を縮小させるシステムとして、国際法を解釈することであった。

3.2 批判法学

批判法学(CLS)は1970年代のアメリカの法理論として登場していた。批判法学は高度に理論的な観点から国際法を分析する方法として今日まで存在していた[26]。批判法学の方法論は、国際法の性質が政治や力の伝統的な構造から抜け出せなかった文言によって決定づけられているので、限定されていることを示していた[27]。批判法学の研究者は、これらの力の構造が法律用語の中に(男性対女性、多数派対少数派、等)存在している二元論の中に見出されることを主張していた[28]。国際法の政治的側面を認識すると、これらの研究者は、国際法の普遍性は達成不可能であると主張していた[29]。この方法論に対する批判は、批判法学を徹底的に適用することが現実に不可能であることを示唆していた。しかしながら文言に対する深い分析や批判法学が明らかにしている不公平を理由にして、批判法学は国際法に対する他のアプローチ(フェミニストや文化相対主義者等による)を発展させていた[30]。

3.3 セントラル・ケース・アプローチ

セントラル・ケース・アプローチは人権状況を俯瞰する方法論であった。このアプローチはある普遍的な権利の存在を容認していた[31]。このアプローチは、人権が認められる仮定に基づいた理想状態を想定することによって、人権問題や実情を反映した基準を分析していた。セントラル・ケース・アプローチは、どの程度そしてどのような方法で、現状が理想(もしくはセントラル・ケース)から逸脱していったのかについて探求していた[32]。セントラル・ケース・アプローチは分析に関する伝統的な二元論以上に複雑な性質を考慮していた[33]。二元論において、人権は単に侵害されるか遵守されるかのいずれかであった[34]。二元論は、表面的にそして単純に状況を把握しているに過ぎない人権侵害の重大さの程度を考慮していなかった。ジョン・フィニスは法体系を評価するために利用されるセントラル・ケースの概念を発展させていた[35]。タイ・ヘン・チェンは人権に対してセントラル・ケースの概念を初めて適用していた。もし意思決定者によってセントラル・ケース・アプローチが用いられているならば、そのアプローチは人権侵害の防止に効力を有する可能性が存在していた。セントラル・ケース・アプローチは人権侵害に加えて社会の政治的ないし社会的状況を考慮に入れていた[32]。この考慮はセントラル・ケース・アプローチが人権侵害の動向やその理由を示すことを可能にしていた。セントラル・ケースにおける分析は人権侵害のさまざまな程度を示しており、政策決定者が緊急に対処する必要がある人権侵害の最も深刻な状況に注目することを可能にしていた。セントラル・ケース・アプローチは刻々と変化する状況に対する正確なイメージを与えていた[36]。二元論がある時点で人権が侵害されているかどうかを決定している一方で、セントラル・ケース・アプローチは人権状況に微妙な差異を与える政治的ないし社会的状況におけるシフトを示すことを可能にしていた[36]。

3.4 フェミニズム法理論

フェミニズム法理論はそれが家父長的であることを主張することによって法律用語を批判しており、法律用語は男性を規範としてそして女性を規範からの逸脱として表現していた。フェミニズム法理論の支持者は、女性を法律用語の内部に包含し、法を完全に再構築するために、法律用語を変えることを提案しており、正義と平等に対する広範な目標を達成することを可能にしていた。フェミニストの方法論は、国際法を記した文言におけるバイアスや、男性より弱い立場にあり法の下で保護される必要がある女性という概念を明らかにすることを求めていた。フェミニストであるヒラリー・チャールズワースは、男性や国際法から保護される必要がある被害者としての女性を示している文言を批判していた。さらにヒラリー・チャールズワースは、支配的な文言のアイロニーが、女性を保護することを目的としている一方で、女性の名誉を保護することを強調していたが、女性の社会的、文化的、経済的権利を保護することを強調していないことを含意していたことに言及していた。

3.5 LGBT法理論

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(LGBT)に関する国際法理論は、国際法の欠点が認識されるようにクィア理論に統合して国際法理論を展開させた学派であった。現在、国際人権規約が平等や平等な機会を享受する人々を一般化することを始めている一方で、過去において、性の認識やジェンダーについてのアイデンティティに関するあらゆる議論が大部分においてタブーであった。LGBT国際法理論は、国際法の枠組みの中にクィア理論を統合することと同様に、LGBTの権利を包含し意識すること(さらに個人を保護すること)を中心に据えていた。LGBT理論がさらなる研究成果を挙げていたように、国際裁判所や国際機関(特に欧州連合理事会や国連)は、性別に基づいた職場差別、同性愛結婚による家族の定義から派生した問題、性の認識に問題を抱えたトランスセクシュアルの立場、一般的な健康支援やHIV/エイズ危機に関するLGBTの権利を認識する必要性、国連の中に(アドバイザーとして)LGBT支援グループを包含すること、同性愛に関わる人々に対する迫害を諸問題の中に含めていた[37]。研究者であるナンシー・レヴィットによれば、ゲイに関する法理論の課題は2つ存在していた。平等や従属理論に対する脆弱性を取り除くことや、LGBT国際法理論の要である幅広い文化的背景において、その価値が認められていないにせよ、許容されるセクシュアル・マイノリティを代表する方法論を発展させることであった[38]。

3.6 古代ローマにおける国際法

ローマ時代における国際法の概念は複雑なものであった。というのは、共和政ローマやそれ以降の帝国が歴史的に長期にわたって支配を続けていただけでなく、「国際法」という用語が正しい用語であるかどうかについての議論がいまだ結論に達していなかったからであった[39]。多くの研究者は国際法を「主権を有する領域国家の間における関係を支配する法」として定義していた[40]。ローマ法の中に同様の法を見出す取組みは、万民法の中にその出発地点を見出していた[41]。万民法は、当時の多くの国家に見られる法制度(奴隷制のような)のようなものに対するローマ人の認識から始まっていた[42]。この法は実際には私法に該当し、ローマ人の国家が国家でなく個人としての外国人を取り扱う方法を主に決定していた[42]。しかし212年に市民権が帝国内の全自由民に与えられると、万民法は本来の定義を維持することを止めて、国家全体に適用されていた[40]。そのため近代国際法の外観がこの変化の中に見出されることが可能であった。国際法の起源や近代国際法との関連は現時点では解明しきれていないトピックであった。

3.7 第三世界

国際法に対する第三世界からのアプローチ(TWAIL)は、「現在の法」に対して疑念を呈する厳密な意味での「方法」ではない、国際法に対する重要なアプローチであった。むしろ、それは特別な関心の対象や研究に必要な分析ツールによって統合された法に対するアプローチであった。TWAILは国際法と植民地の人々との衝突の歴史から引き出されたアプローチであった。TWAILは、ポストコロニアル研究、フェミニズム理論、批判法学、マルクス理論、批判的人種理論と多くの概念を共有していた。TWAILは研究において、第一世界と第三世界の綱引きや、第三世界の人々を従属させ抑圧することを正当化する国際法の役割を優先させていた。TWAILの研究者は、「第三世界」を統合された合理的な場として示すことを避けようとしており、発展途上や周縁化を共有している国民を示すためにその用語を用いていた。

現代のTWAILは、ジョルジュ・アビ=サーブ、F・ガルシア=アマドール・R・P・アナンド、モハメド・ベジャウイ、タスリム・O・エリアスのような法律家による著作に起源を有していた。長年にわたって欧米の研究者は第三世界の立場に理解を示しており、学術的な知識に対して重要な貢献をしており、C・H・アレクサンドロヴィッチ、リチャード・フォーク、ニコ・シュライバー、PJ・I・M・デ・ワールトのような研究者を含んでいた。デイヴィッド・ケネディやマルティ・コスケンニエミも同様に貢献していた。現在に至るまでに研究者の緩やかなネットワークとしてのTWAILは数度の会議を開催していた。

ジョンソンによる2009年の論文は、HIVに対する南部アフリカ開発共同体(SADC)議員フォーラムのモデル法が同時に国際人権法と対応しており、地域の特徴を反映している伝染病に対するリーダーシップと法哲学との連携を通じて、TWAILの目標に近づくことが可能であったと主張していた[43]。

アル・アッタールやミラーによる2010年の論文は、米州ボリバル同盟(ALBA)がTWAILを発展させるための潜在的な力を有しており、ALBAを「補完性や人間の連帯に関する概念に根差した国際法についての統合的な反論を有しているもの」として示していることを主張していた[44]。2011年の春にトレード・ロー・アンド・ディベロップメントはTWAILに関する特別号を出版していた[45]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Rule_according_to_higher_law

高次の法による支配

高次の法による支配は、もし法が普遍的な公正の原則(成文であれ不文であれ)、道徳、正義に適合していないならば、いかなる法も政府によって執行されてはならないことを意味していた[1]。したがって、政府が明白に定義され適切に制定された法的ルールを順守して行動していても、多くのオブザーバーによって不公正と見做される結果を生じさせているならば、高次の法による支配が、政治的ないし経済的意思決定を制限するための現実的な法的指針として機能を果たしていた[2]。

「高次の法」はこの文脈において、国際法の中に確立された神の法、自然法、基本的な法的価値観として解釈され、その選択はどういった観点によるのかに依存していた。しかし高次の法は明確に法の上に存在する法であった[3]。そして高次の法は、コモン・ローと大陸法の司法権に対して同じ法的価値を有しており、コモン・ローと関連している自然法と対立していた[4]。「理想としての法の支配と確立された立憲政治との必然的関係を考慮することは、全ての国家が同一の憲法構造を保持することが可能であることを暗示している訳ではなかった」[5]。

高次の法による支配は、法の支配に対する英米圏の学説、コモン・ローを採用している国々の伝統、法治国家に対するドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ロシアの学説の間における相互理解(普遍的な法的価値観に関する)を橋渡しする高次の法理論を具体化するためのアプローチであった[6]。大陸法の学説はドイツの法哲学を通じたヨーロッパ大陸の法思想の産物であった。法治国家の名称は英語に翻訳されたものであり、政府による権力の行使が、国家によって確立され常に変化する法よりむしろ、高次の法によって検証され続ける国家を常に意味していた。アマルティア・センは、古代インドにおける法哲学者が、単に制度や規則を評価する問題でなく社会自体を評価する問題であるといった意味で、古典サンスクリット語の「ニヤーヤ」という用語を用いていたことに言及していた[7]。

1 事例

南北戦争以前にアフリカ系アメリカ人は、主人と奴隷の関係を規定する公式な効力を有する法に準じて、白人系アメリカ人と同等の権利や自由を法的に否定されていた。これらの法は、執行にあたって完全に適法であり、当時のアメリカ政府によるこれらの法の執行は相当数の住民の基本的人権を侵害していた。ウィリアム・H・スワードは、奴隷制が「憲法より高次の法」の下で禁じられていると明確に言及していた。

一般的に言えば、「正当に制定された不公正な法」が制定されることは、法の支配の原則に対するその国の政治的リーダーシップが採用する見解に依存していた。

一部の国々では、政治のリーダーは法の支配が手続上の概念であると主張していた。そのために彼らは、あらゆる政府がその国民から基本的な自由を奪い、適切に執行された法手続に従っている限り生命の権利を侵害してもよいと主張していた。例えばニュルンベルク裁判では、第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人やジプシーに対する犯罪を正当化するために、ナチス・ドイツの元リーダーは、ヒトラーが権力を握っていたときに効力を有していた法を一つとして破っていなかったことを抗弁していた。高次の法による支配によってのみ、連合国検察はそのような抗弁を正当に論破することが可能であった[8]。

他の国々では、逆に政治のリーダーは、全ての成文法が道徳、公正さ、正義といった普遍的な原則に沿って維持されなければならないことを主張していた。これらのリーダーは、「誰もが法に従わなければならない」といった原理の必然的な帰結として、法の支配が政府に対して法の下で全ての人々を平等に取り扱うことを求めていることを主張していた。しかし政府がある階級に属する個人や一般的な人権について十分なレベルの人権尊重、個人の尊厳、自治権を否定するたびに、平等に取り扱われる権利が侵害される傾向にあった[9]。そのために平等権、自治権、個人の尊厳、人権尊重に関する不文の自明な原則が政府によって制定された従来の成文法を支配していることが言及されていた。これらの原則はしばしば「自然法」として言及されていた。これらの原則は同様に「高次の法理」の基礎を構成していた。

2 高次の法を執行する立憲政治

18世紀後半にアメリカやフランスで憲法が採用された後、ドイツの哲学者であるイマヌエル・カントによって初めて法治国家に関する学説が紹介されていた。カントのアプローチは高次の法に関する原則を用いて形成された成文憲法の優越性に基づいていた。この優越性は、市民の幸福や繁栄のための基礎的な条件としての恒久的に平和な生活を求めるカントの考え方を実践に移すことを意味していた。カントはその学説を立憲主義や立憲政治のみに基づかせていた。

カントは次のように高次の法を執行するための手段としての立憲主義の問題点を明確に指摘していた。「国家の憲法は市民の倫理に基づいており、市民の倫理は憲法の本質に基づいていた。」 カントの考え方は21世紀の憲法理論の基礎を成していた。法治国家の考え方は例えばイマヌエル・カントの『人倫の形而上学の基礎付け』によって紹介された考え方に基づいていた。

「普遍的であり恒久的に平和な生活を確立することは、純粋理性の枠組みの中の法理論の一部であるだけでなく、それ自体で絶対的であり最も重要な目標でもあった。この目標を達成するために、国家は共通の憲法に基づいた財産権を法的に保障された中で生活している多数の人々で構成されるコミュニティであらねばならなかった。憲法の優越性は...公法の庇護の下で人々の生活を最も公正に守るといった絶対的な理想を達成することから論理的に引き出されなければならなかった。」[10]

19世紀にアレクサンドル2世の大改革による変化の結果として生じたロシアの法制度は、現在もそうであるが、本質的にドイツ法の伝統に基づいていた。ドイツ法の伝統からロシアは法治国家の考え方を採用していた。法治国家に類似した英語の表現は「法の支配」であった[11]。ロシアにおける法治国家の概念は国家の最高法規としての成文憲法(憲法による支配)を採用していた。基礎を支えているが定義されていない原則は、共産主義政権崩壊後のロシアの憲法の特徴を示している最も重要な条項の中に表れていた。「ロシア連邦は統治の形態として共和制を採用した民主的な連邦制の法治国家であった。」 同様にウクライナの憲法の特徴を示している最も重要な条項は「ウクライナは主権国家であり、独立国家であり、民主主義国家であり、社会国家であり、法治国家である」と宣言していた。したがって「法治国家」という言葉に意味を与えることは理論のための理論ではなかった。

2003年にロシアの憲法裁判所長官であるワレリー・ゾリキンは「法治国家になることが長らく私たちの最も重要な目標であり、私たちは過去数年間にわたってこの方向に向けて着実な進歩を続けてきた。しかし現在私たちがこの目標を達成したと述べることは誰もできなかった。そのような法治国家は合法的で公正な社会なくして存在することができなかった。この点で私たちの生活とは別に、国家は社会によって達成された成熟の程度を反映したものであった。」[12]

ロシアにおける法治国家の概念は、経済学の枠組みで高次の法理を執行する立憲経済学の大部分を採用していた。

経済学者であるジェームズ・M・ブキャナンは、立憲政治の枠組みの中であらゆる政府による介入や規制は以下の3つの仮定によって条件付けられていなければならないと主張していた。第一に、市場経済を機能させることに対するあらゆる失敗が政府の介入によって修正されることが可能であり、第二に、政治を職業としている人々や官職についている人々が、個人の経済的利益と無関係に、公共の利益を利他的に支持しており、第三に、政府がさらなる介入や支配を目指すことが社会的ないし経済的生活に対して影響を及ぼさないことであった。

ブキャナンは「国家が知識に関して国家を構成する個人より優れているといった考え方」を拒否していた。そしてその哲学的な立場は立憲経済学のトピックを取り扱っていた。立憲経済学によるアプローチは経済学と憲法的分析を組み合わせることを許容しており、一面的な理解を回避していた。カントに沿ってブキャナンは、少なくとも数世代の人々によって用いられることを考慮されていた高次の法としての憲法が、経済的意思決定のために、その憲法自身を修正することが可能であらねばならない一方で、個人の利益と対立する国家や社会の利益と、個人の自由や幸福に関して憲法上の権利のバランスを保っていると考えていた。

またブキャナンは憲法規範の根底にある道徳的な原則を保護する意義について言及していた。そしてブキャナンは、「憲法上の市民権に関わる倫理は、現在の体制によって課された枠組みの中において他の人々と相互作用している倫理的行動と直接対応することがなく、個人は、標準的な倫理の意味において、完全に合理的に考え行動しているかもしれなかったが、憲法上の市民権の要求を倫理的に満たすことに失敗していたかもしれなかった」と述べていた[13]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Jurisprudence

法哲学

法哲学は法学であり法に関する理論であった。法哲学の研究者(法に関する社会理論の研究者を含む)は、自然法、法的推論、法制度を深く理解することを望んでいた。近代の法哲学は18世紀に始まっており、自然法、大陸法、国際公法において最も重要な原則に焦点を当てていた[1]。一般的な法哲学は、研究者が抱いている疑問のタイプや、どのようにこれらの疑問が解決されるのかに関する法哲学の理論の双方によって、いくつかのカテゴリーに分割されていた。現代における一般的な法哲学は2つの大まかなグループに属する問題に焦点を当てていた[2]。

(1) 法や法制度内部の問題。

(2) 政治情勢や経済情勢に関連した社会制度としての法の問題。

これらの問題に対する解答は一般的な法哲学に関する思想における4つの学派に分かれていた[2]。

自然法は、立法者の力が合理的で客観的な制限に縛られているとの考え方を示していた。法の基盤は人間の理性を通じて理解されており、人間の手による法の制定はその力の源泉を自然法を通じて獲得していた[2]。

自然法と対照的に法実証主義は、法と道徳の間に必然的な関連はなく、法の力はいくつかの必要最低限な社会的事実に基づいているにすぎないと述べていた。法実証主義者はこれらの社会的事実を正義や善といった価値から切り離していた[3]。

リアリズム法学は法哲学における三番目の理論であり、現実の世界における法の執行が現在の法を決定づけるものであり、立法者、裁判官、行政官が法を通じて個人的な嗜好や偏見を実現することによって、法が力を行使していると主張していた。同様のアプローチは法社会学の視点を通じて多くの方法で展開されていた。

批判法学は最も新しい法哲学であり、1970年代から発展していた。批判法学は、法が大きく矛盾した存在であり、支配的な社会集団の政策目標の具体化として分析され得ることを示す否定的な見解であった[4]。

また現代の法哲学者であるロナルド・ドウォーキンの著作が著名であり、ロナルド・ドウォーキンは、自然法理論と法実証主義の間に位置しているコンストラクティヴィストによる理論を支持していた[5]。

この英語による用語はラテン語の法哲学に基づいており、"juris"は法を意味する"jus"の所有格であり、"prudentia"は哲学を意味していた(それは分別、洞察、配慮、慎重さであり、妥当な判断を下すことを示しており、現実の問題を解決することに対する注意を含んでいた)。現在"prudence"という用語に関して「分別に関する知識やスキル」といった意味は廃れていたが、1628年に初めて法哲学という言葉が英語で登場していた[6]。この法哲学という用語はフランス語の"jurisprudence"由来である可能性が存在しており、そうであれば1628年より早く登場したことになる。

1 法哲学の歴史

その起源においてこの学問分野は祖先の慣習に関する法(伝統的な法)や「父から息子へ」口頭で継承された口述の法や慣習を研究の対象としており、古代ローマにおいて法哲学はこの意味をすでに採用していた。古代ローマの執政官は、起訴され得る犯罪を毎年布告するか、特殊な事例を法令に追加するかのいずれかによって、特殊な事件を起訴することが可能であるのかどうかを判断することによって法を確立していた。そして判事は事件に関する事実に従って判決を下していた。

彼らの判決は伝統的な慣習を単純に解釈したものと考えられていたが、個々の事件について何が伝統的に法的慣習の中に含まれているのかを再考することとは別に、より公平な解釈を目指し、法を新たな社会状況に適合させていた。法は新たに適合し続ける制度(法的概念における)に基づいて執行されていたが、伝統的な枠組みの中に収まったままであった。紀元前3世紀に古代ローマの執政官は知識人の共同体と入れ替わっていた。知識人の共同体への参加は能力や経験を証明することによって条件付けられていた。

ローマ帝国においては法学校が開設されており、次第に学術的になっていった。初期のローマ帝国から3世紀に至るまでプロクルス派やサビヌス派が法に関する研究を行なっていた。その研究内容は古代において前例がないほど深いものであった。

3世紀以降、法哲学はより官僚的色彩を強くしており、ほとんど有名な研究者は現れなかった。東ローマ帝国の時代に(5世紀)、法学は再び深化し、この文化的運動からユスティニアヌスのローマ法大全が生まれていた。

2 自然法

自然法理論は、自然に内在している法が存在しており、制定された法が可能な限り自然と一致していると主張していた。この見解は、不正なる法は法にあらずという格言によってしばしば説明されており、「不正なる法は法にあらず」において「不正なる」は自然法の対立概念として示されていた。自然法は道徳と密接に関連しており、歴史的に説得力がある見方によれば、神の意思と関連していた。その概念を非常に単純化すると、自然法理論は国家の法を制定する力を誘導し、「善なるもの」を促すための道徳的な方向を定めようとしていた。人間の法体系の外部にある客観的な道徳的秩序といった概念が自然法の根底に存在していた。何が正しくて何が間違っているのかはフォーカスされた利益に従って変化する可能性が存在していた。自然法は時として「不正なる法は法にあらず」という格言と同等に考えられていたが、ジョン・フィニスのように現代の自然法学者において最も評価が高い人々は、この格言は古典的なトマス主義の指針としては貧弱であったと主張していた。

3 分析法学

分析法学は、法体系の側面を説明するときに、視点や記述に用いられる言語を中立的に用いることを意味していた。分析法学は、何が法であり、何が法であるべきかを融合させた自然法を拒否する哲学的議論であった[26]。デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』[27]において、そのために私たちが行動を決定しなければならないと世界が示すための行程にあることを人々が常に表明していると主張していた。しかし純粋なロジックの問題として、何かが争点となるので、私たちが何かをしなければならないと結論付けることは不可能であった。したがって世界の在り方を分析することは規範と評価を厳密に分離して取り扱われなければならなかった。

分析法学において最も重要な問題は、「何が法であるのか」「何が法学であるのか」「法と力ないし社会学との関係は一体何であるのか」「法と道徳との関係は一体何であるのか」であった。法実証主義は支配的な理論であったが、独自の解釈を与える多くの批評家に囲まれていた。

法実証主義者

実証主義は単に、法が「断定された」何かであることを意味しており、法は社会的に受け入れられたルールに従って正当に制定されていた。法実証主義は2つの大きな原則に従っていると考えられていた。第一に、法は正義、道徳、他の規範となる目標を実現することを目指していたが、それらの目標に対する成否は法の正当性を決定付けていなかった。法が社会に受け入れられる方法で適切に制定されているならば、他の基準によってその正当性を担保されているか否かに関わらず、法は正当な法であった。第二に、法は秩序や社会の統治をもたらすルールの集合以上の存在ではなかった。しかしいかなる法実証主義者も、そのために法が何であれ遵守されなければならないものであるとは主張していなかった。そしてこれは全く別の問題であると考えられていた。

現行法(lex lata)は歴史的なそして社会的な背景によって決定されていた。

あるべき法(lex ferenda)は道徳的な配慮によって決定されていた。

ベンサムやオースティン

一番初期の法実証主義者の1人としてジェレミ・ベンサムが挙げられていた。ベンサムは初期の忠実な功利主義者の1人であり(ヒュームとともに)、刑務所に対する熱心な改革者であり、民主主義の支持者であり、強固な無神論者であった。法や法哲学に対するベンサムの見解は弟子であるジョン・オースティンによって広められることになった。1829年からオースティンはロンドン大学の法学教授となっていた。「何が法であるのか」に対するオースティンによる功利主義的な解答は、法は「罰則によって裏付けられた服従する人々に対する主権者からの命令」であった[28]。現代の法実証主義はこの見解を捨て去り、特にH・L・A・ハートはその過剰な単純化を批判していた。

ハンス・ケルゼン

ハンス・ケルゼンは20世紀における傑出した法学者の1人として考えられており、ヨーロッパやラテンアメリカに影響を与えていたが、コモン・ローを採用していた国々にはそれ程影響を与えていなかった。ハンス・ケルゼンの純粋法学は、強制力のある規範を評価することを拒絶していたが、法を強制力のある規範として示すことを目指していた。それは「法学」を「政治学」から切り離していた。純粋法学の中心は法学者によって仮定された規範である「根本規範」にあり、憲法に始まる法体系におけるあらゆる「下位」規範が根本規範から「拘束力」を引き出していると理解されていた。ケルゼンは、表面的な「法的」性質の中に確認できる法的規範の拘束力が、神、擬人化された自然、擬人化された国家(当時重要であった)のような形而上学上の存在を引き合いに出すことなしに理解されることが可能であると主張していた。

H・L・A・ハート

英語圏の重要な研究者の中にH・L・A・ハートがおり、法は社会的ルールを体系化したものとして理解されるべきであると主張していた。ハートは、制裁が法にとって不可欠な存在であり、法のような社会規範が規範とならない社会的事実に基づけられることはできないとするケルゼンの見解を拒絶していた。ハートは『法の概念』を通じて20世紀における重要な論争として分析法学を取り上げていた[29]。オックスフォード大学の法哲学の教授として、ハートは法が「ルールの体系」に他ならないと主張していた。

ハートは、ルールが一次的ルール(人の行為に対するルール)と二次的ルール(一次的ルールを管轄するために当局者に対して向けられたルール)に分割されることに言及していた。また二次的ルールは、裁定のルール(法的紛争を解決するための)、変更のルール(法が変更されることを許容する)、承認のルール(法が妥当であると認められることを許容する)に分割されていた。「承認のルール」は、当局者(特に裁判官)による慣行がある一定の行動や決定を法源として認めていたことを含んでいた。1981年に(第二版は2007年に)ハートに関する著作がニール・マコーミックによって記されており、彼の理論(2007年に出版された著作が例として挙げられる)を展開させるための重要な批評が与えられていた。他の重要な批評はロナルド・ドウォーキン、ジョン・フィニス、ジョセフ・ラズによってなされていた。

近年法の性質に関する議論が精緻さを増してきていた。重要な議論の1つは法実証主義の中に存在していた。ある学派は時として排除的法実証主義と呼ばれており、規範に対する法的妥当性が道徳的な正しさに依存することがないといった見解に関連していた。2番目の学派は包含的法実証主義と呼ばれており、その主な支持者はウィル・ワルチャウであり、道徳的考慮が規範に対する法的妥当性を決定付ける可能性が存在していていたが、常にそうである訳ではないといった見解に関連していた。

ジョセフ・ラズ

ある哲学者たちは、実証主義が法と道徳の間に「必然的な関連がない」といった理論であることを主張していたが、ジョセフ・ラズ、ジョン・ガードナー、レスリー・グリーンを含む現代の有力な実証主義者はこの見解を拒否していた。ラズが指摘しているように、法制度に起因していないだろうと一般的に考えられている(例えば、法制度を担う人々が暴行や殺人を犯すはずがないといった)前提が現実と異なっていることは周知の事実であった。

ジョセフ・ラズは実証主義を擁護していたが、『法の権威』におけるハートのアプローチを批判していた[31]。ラズは、法が道徳的な裏付けを参照することなしに純粋な社会的事実を通じて確認される権威であることを主張していた。権威を超えたルールの分類は法哲学に対してよりも社会学に対して委ねられていた[32]。

ロナルド・ドウォーキン

『法の帝国』の中で、ドウォーキンは、ハートや道徳の問題として法を取り扱うことを拒否したことに対して実証主義者を批判していた。ドウォーキンは、法は「解釈の後に」得られる概念であり、慣習としての伝統を考慮しながら、法的紛争に対して最も妥当な解決を見出すことを裁判官に求めることを主張していた。ドウォーキンによれば、法は社会的事実に全く基づいておらず、私たちが直感的に合法であるとみなしている制度的事実や法の執行を道徳的に最も正当化することを含んでいた。ドウォーキンの見解によれば人は、人が社会において法の執行を正当化することに対する道徳的観点を知るまで、社会が執行されている法制度を有しているのかどうかや、個々の法が何であるのかを知ることができなかった。法実証主義者やリアリズム法学者と対照的に、誰も法の執行を最大限に正当化することを知っていないかもしれないので、社会における誰もが法が何であるのかを知らないかもしれないといったことはドウォーキンの見解と一致していた。

ドウォーキンによる純一性としての法によれば、解釈は2つの次元を有していた。解釈を考慮するために、法令や判例の文言を解釈することが正当化の基準に合致していなければならなかった。正当化される解釈に関してドウォーキンは、正確な解釈がコミュニティの政治に光を照らし、可能な限り最善のことを成していると主張していた。しかし多くの研究者は、あらゆるコミュニティにおける複雑な法の執行に対して唯一の正当化がなされることに対して疑念を呈しており、他の研究者は、仮に存在するにせよ、法の執行がコミュニティの法の一部として考慮されるべきであることに対して疑念を呈していた。

リアリズム法学

リアリズム法学は北欧やアメリカの研究者に人気がある見解であった。懐疑的な立場から、法は、ルールや学説が成文法や条約上で述べていることよりもむしろ、裁判所、法律事務所、警察署に属する人々の個人的な嗜好や偏見によって理解され、決定されてきたと主張していた。リアリズム法学は法社会学と親和性が高かった。リアリズム法学の基本的な考え方は、あらゆる法が人間によって制定され、したがって人間の弱点の影響を受けやすいといった立場を基盤にしていた。

最高裁判事であるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアをアメリカのリアリズム法学の提唱者としてきたことは今日一般的であった(他に、ロスコー・パウンド、カール・ルウェリン、最高裁判事であるベンジャミン・カードーゾを含んでいた)。他のアメリカのリアリズム法学の提唱者であるカール・ルウェリンは同様に、法が人間のバイアスに基づいた結果を形成する可能性がある裁判官の個人的な嗜好や偏見以上のものではないと考えていた[34]。北欧におけるリアリズム法学は主にアクセル・ヘーガーシュトレームによる仕事であると考えられていた。その人気の凋落にもかかわらず、リアリズム法学は今日の法哲学に幅広い影響を与えており、批判法学、フェミニズム法理論、批判的人種理論、法社会学、法と経済学を含んでいた。

歴史法学派

歴史法学はゲルマン法の法典化に対するドイツにおける論争を通じて有名になっていた。『立法と法科学に関する現代の課題』の中でフリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーは、ドイツ人の伝統、慣習、信念が法典に対して信頼を置いていないため、ドイツが法典化を支援する法律用語を有していないと主張していた。歴史法学者は、法が社会から生じていると考えていた。

4 規範的法哲学

「何が法であるのか」といった問題に加えて、法哲学は法についての規範的理論に関連していた。法の目的は何であるのか。道徳や政治学は法の基礎に何をもたらしているのか。何が法の固有の機能であるのか。どんな種類の行為が処罰の対象であるべきであり、どんな種類の処罰が許容されるべきであるのか。何が正義であるのか。どんな権利を私たちは保持しているのか。法に従う義務は存在しているのか。どのような価値を法の支配がもたらしているのか。その学説と研究者を以下に記すことにする。

徳法学

徳倫理学のような規範倫理学は道徳性の役割を強調していた。徳法学は法が市民の手によって道徳性を向上させるといった見解であった。歴史的にこのアプローチは主にアリストテレスや後のトマス・アクィナスに関連していた。現代の徳法学は徳倫理学における哲学上の業績によって触発されていた。

義務論

義務論は「道徳的義務に関する理論」であった[36]。哲学者であるイマヌエル・カントは法についての義務論を構築していた。カントは、私たちが従っているあらゆるルールが普遍的に適用されることが可能であらねばならず、皆がそのルールに従うことを私たちが許容しなければならないと主張していた。現代の義務論的アプローチは法哲学者であるロナルド・ドウォーキンの業績の中に確認することが可能であった。

功利主義

功利主義は、法が最大多数の最大幸福を生み出すように制定されなければならないといった立場であった。歴史的に法に関する功利主義の思想家は哲学者であるジェレミ・ベンサムに関連していた。ジョン・スチュアート・ミルはベンサムの弟子であり、19世紀後半における功利主義の擁護者であった[37]。現代の法哲学において功利主義的なアプローチは法と経済学を研究していた人々によって支持されていた。同様にライサンダー・スプーナーを参照せよ。

ジョン・ロールズ

ジョン・ロールズはアメリカの哲学者であり、ハーバード大学の政治哲学の教授であり、『正義論』(1971)、『政治的リベラリズム』、『公正としての正義 再説』、『万民の法』の著者であった。ロールズは20世紀を代表する英語圏の政治哲学者の1人であると広く考えられていた。ロールズの正義論は、もし私たちが「無知のヴェール」に覆われているならば、私たちの社会を構成する基本的な制度を設計するために、どのような正義の原理を私たちが選択するだろうかと私たちに尋ねていた。もし私たちが人種、性別、資産状況、階級といった私たちを特徴付ける要素を全く知らないならば、私たちは私たちの嗜好からバイアスを受けなかったであろう。この「原初状態」からロールズは、私たちが言論の自由や投票の自由等のような全ての人々に対する同一の政治的自由を獲得するだろうといったことを主張していた。また私たちは、法制度が特に貧困者を含む全ての社会の構成員の経済厚生の向上に対する十分なインセンティブを与えているので、生じた不平等が許容される法制度を選択することになるだろう。これはロールズの有名な「格差原理」であった。選択における原初状態の公正さが原初状態において選択された原則の公正さを担保している意味において、正義は公正であった。

法哲学に対する規範的アプローチは他に多数存在しており、批判法学や法哲学におけるリバタリアニズムを含んでいた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Private_international_law

法の抵触

法の抵触(国際私法)は、どの法体系やどの管轄権が該当する紛争に適用されるのかを決定する手続規則の総体であった。「外国が関係する」要素がイギリス、アメリカ、オーストラリア、カナダといった管轄権を有する複数の国に存在しているけれども、法的紛争が異なった国の当事者によって合意された契約のような「外国が関係する」要素を扱っているときに、そのルールが一般的に適用されていた。

法の抵触という用語は、法的紛争の帰結がどの法が適用されるのかに依存している状況やこれらの法の衝突を解決するコモン・ローの裁判から生じていた。大陸法の枠組みにおいて法律家や法学の研究者は国際私法のような法の抵触に言及していた。国際私法は国際公法と現実において何ら関連しておらず、その代わりとして国ごとに異なる現地の法を特徴にしていた。

国際私法には3つの視点が存在していた。

管轄裁判所が紛争を解決する管轄権を有しているか否かといったこと。

紛争を解決するために適用される法の選択。

判決を出す裁判における管轄権の内部において外部の管轄裁判所からの判断を許容し執行する能力。

1 用語

法の抵触、私的国際法、国際私法といった異なった名称は一般的に交換可能であったが、それらは全体像を見る限り正確ではなく、適切に説明していなかった。法の抵触といった用語はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアといったコモン・ローの司法機関の中で用いられていた。私的国際法はイタリア、ギリシア、スペイン語圏、ポルトガル語圏と同様にフランスで用いられていた。国際私法はドイツ、ロシア、スコットランド(オーストリア、リヒテンシュタイン、スイスと同様に)で用いられていた。

アメリカやオーストラリアのような連邦国家における法の抵触がその抵触に対する解決を必要としていた連邦制において、その抵触は単なる国際問題を含んでいなかったので、法の抵触といった用語が好まれていた。したがって法の抵触は、関連する法体系が国際的であるか否かに関わらず、法の相違に言及するために好まれた用語であった。しかしながら法の抵触は、「抵触」よりむしろ競合する法体系の衝突を解決することに言及するときに、誤解を招く恐れがあった。英語における私的国際法という用語はアメリカの法学者であるジョセフ・ストーリによって創り出されていたが、コモン・ローの研究者によって実質的に放棄させられ、民法の研究者によって採用されていた。

2 歴史

英米法の伝統における法の抵触の最初の例はギリシア法に遡ることが可能であった。古代ギリシアは複数の国家に及ぶ問題を取り扱っていたが、抵触法を制定していなかった。ギリシア法は全ての国家の市民にとって平等に適用可能であったので、紛争の解決は国際的な紛争に対する裁判所の設置から地域の国内法の適用に至るまで様々であった[1]。

さらなる議論はローマ法に遡ることが可能であった。ローマの市民法は市民でない人々に適用されることができず、特別法廷が複数の国家に及ぶ事件に対する管轄権を有していた。これらの特別法廷の裁判官は外国人係法務官と呼ばれていた。外国人係法務官は適用すべき法の管轄を決定していなかった。その代わりに外国人係法務官は「万民法」を「適用」していた。万民法は国際的な規範に基づいた法について緩やかに定義されたものであった。したがって外国人係法務官は個々の事件に対する新たな実体法を制定していた[2]。今日実体法は抵触法の問題に対する「明文化された」解決方法として認識されていた。

近代における法の抵触は一般的に中世後期のイタリア北部、特にジェノヴァ、ピサ、ヴェネツィアのような交易都市で始まったと考えられていた。異なった都市に属する貿易業者間の商取引に関わる問題を裁判する必要性は法に対する理論を発達させ、ある都市の法は影響を及ぼす人に「関する」人法として考えられており、他の都市の法は物法として考えられており、商行為が行われた都市の法を適用していた(所在地法を参照せよ)。

また海事法は国際法上のルールの原動力になっており、契約の履行、難破船の船員や財産の保護、港湾の維持管理を含んでいた[3]。

1834年にジョセフ・ストーリが『法の抵触註解』を発表した19世紀のアメリカにおいて、抵触法の現代版が登場していた。ストーリの著作はA・V・ダイシーのようにイギリスにおける抵触法の展開に大きな影響を及ぼしていた。そしてイングランド法の多くがイギリス連邦の大多数に対する法の抵触の基礎になっていた。

しかしながら20世紀半ばのアメリカにおいてストーリの著作は人気を博さなくなっていた。伝統的な法の抵触のルールは、第二次産業革命によって高度に流動化した社会からの要請に対して対応し切れていない非常に厳格なものとして広く認識されていた。そしてそれらのルールは多くの取り組みによって変更を加えられ、その取り組みの内、最も重要なものは、法学者であるブレイナード・カリーによって研究された政府の利益を分析したものであった。カリーを通じて、アメリカにおける法の抵触のルールは国際水準に耐え得るルールから大きく乖離していった。

3 抵触の段階

まず裁判所は管轄権を有しているかどうかを決定しなければならず、もし管轄権を有しているのならば、フォーラム・ショッピングの問題を抱えているが、裁判が適切な裁判地で行われているのかどうかを決定しなければならなかった。

次のステップは、付随する問題を生じさせるかもしれないが、訴訟を法的カテゴリーの中に分類することであった(例えば手続法と実体法の区別が必要であった)。

個々の法的カテゴリーは、競合する法のどれが個々の問題に適用されるべきかを決定するために、法を選択していた。この重要な要素は反致に関するルールになるかもしれなかった。

一旦準拠法が決定されると、その準拠法が管轄裁判所において明示され、判決を下すために適用されなければならなかった。

その後当事国は、国際間で共有する作業に関与している判決を執行しなければならなかった。

抵触法が発展途上の国々にとって、管轄権の決定はその場しのぎで行われる傾向があり、法の選択は私法の分野に分類され、法廷地法や現地の法を適用する傾向にあった。抵触法が成熟している国々にとって、抵触法は現地の私法から離れ、用語と概念の双方において国際的な視点を採用していた。例えばEUでは、あらゆる管轄権の問題がブリュッセルⅠ規則によって規定され、例えば加盟国における他の係争中の訴訟にブリュッセルⅠ規則を適用しており、その解釈は現地の裁判所よりむしろ欧州司法裁判所によって決定されていた。抵触法に関するルールにおける他の要素は、国家の枠組みを超えて形成され、条約や協定を通じて執行されていた。これらのルールは主権の問題と直接関係しており、締結国の裁判所において法をその領域外から適用しているので、私法と言うよりかは公法としての色彩を帯びており、その理由として、個々の国家が現地の裁判所を管轄とすることや、現地の法が現地の裁判所に適用されることを現地の人々が期待していることに対して妥協を促していたことが挙げられていた。このような公共的な側面は、ヨーロッパという共同体かもしくは、裁判所が憲法制定権のある国家や領域間のみならず州や連邦裁判所間、そして連邦外の他国由来の関連する法の間における管轄権や法の抵触の問題に取り組まなければならなかったアメリカ、カナダ、オーストラリアといった連邦国家に対して適用されるべきかどうかという憲法的意味を有していた[4]。

4 法の選択

法の選択の問題に直面していた裁判所は2段階のプロセスを辿っていた。

裁判所はあらゆる手続の問題(自明であるが法の選択の問題を含んでいる)に対して法廷地法を適用していた。

それは、法的問題を潜在的に関連している国家の法に関連させる要因であると考えられており、最も関連している法を適用しており、例えば、当事者の本国法や当事者の住所地の法が法律上の身分や行為能力を定義しており、目的物の所在地の法が所有権に関するあらゆる問題を判断するために適用されており、物理的に取引が行われた場所の法や行為地法が、問題が明文化されているときに、しばしば判決を左右する法になっていたが、準拠法がより一般的に選択されていた。

5 婚姻に関する法の抵触

離婚のケースで、裁判所が夫婦の財産を分割するときに、離婚する夫婦が現地におり、財産が現地にあるならば、裁判所は国内法である法廷地法を適用するだろう。現地の法が一夫多妻を許容しているならば、この問題は一層複雑になる。例えばカナダのサスカチュワン州は同時に複数の配偶者を許容している州として存在していた[5]。各州が同様の夫婦の財産に関わる法を有していたが、複数の州が連邦における一夫多妻に関する法を認めていないならば、何が生じるであろうか。このケースでは、彼らの地元の州が一夫多妻を許容しているかどうかに依存しているが、配偶者が複数の配偶者から同時に夫婦の財産を与えれたり与えたりする一方、その他の人々は唯一人の配偶者から夫婦の財産を与えられたり与えたりしていた。例えば、婚姻した場所が離婚手続をする場所と異なるとき、当事者の国籍と住所が一致していないとき、外国の管轄権の中に財産があるとき、当事者が婚姻期間中に何度も住居を移動していたときに、外国由来の要素が混在しているならば、この問題は一層複雑になっていた。配偶者が外国法の適用を求めるたびに、当事者が法の抵触の問題の概要や外国法の翻訳を伝えられるので、離婚手続はしばしば遅滞することになった。

異なった管轄権が異なったルールを適用していた。法の抵触を分析し始める前に、裁判所は、財産契約が当事者間の関係を支配しているかどうかを判断しなければならなかった。財産契約はその履行が求められる国で要求されているあらゆる手続を満たしていなければならなかった。

商業契約や婚前契約が一般的に遵守されるべき法的手続を求めていない一方、婚姻した夫婦が財産契約を結ぶときには厳格な要件が課されており、それは公証、証人、形式に対する特別な知識を含んでいた。ある国々では国内の裁判所にその概要を提出しなければならず、その際に用いる用語は判事によって「指定」されていた。このことは、不当な影響力が当事者の配偶者によって行使されないことを保証するためになされていた。配偶者間における裁判所に対する財産契約に関して、裁判所は一般的に以下の要素を認めており、それは、署名、法手続、その意思、その後の意思、自由意志、抑圧されていないこと、合理性や公平性、配慮、振る舞い、信頼、書面に対する後の評価、適用される契約の交渉経過を含んでいた。

有効な契約がない場合に、法の抵触のルールが機能することになった。

動産と不動産。一般的に適用可能な婚姻法は財産の性質に依存していた。配偶者の住所変更を考慮しなければ、目的物の所在地の法が不動産に対して適用され、また婚姻上の住所における法が動産に対して適用されていた。

完全に変更可能な立場を支持する学説(フル・ミュータビリティ・ドクトリン)。配偶者間の財産の帰属は、その最後の住所や婚姻の前後に獲得されていたかどうかによって決定されていた[6]。これはイギリスの規範であり、深刻な不公平が厳格な適用から生じるケースを例外にしていた。このケースにおいて、裁判所は新たに獲得された財産が婚姻以前に所有されていた財産に関係しているかどうかを検証していた。

変更不可能な立場を支持する学説(インミュータビリティ・ドクトリン)。婚姻時における当事者間の属人法は、居住地や国籍の変更に関わらず、新たに取得された財産を含むあらゆる財産を規定していた。これはフランス、ドイツ、ベルギーのような大陸法のアプローチであった。特定の留保を伴っているが、婚姻を通じた財産に関する1976年のハーグ条約の第7条を参照せよ。またイスラエルでは、「合意によって決定され、合意の際の居住地の法に従ってその財産の帰属を変更しているならば、配偶者間の財産の帰属は挙式時の居住地の法によって規定されていた。」[7] イスラエルが変更不可能な立場を支持する学説(インミュータビリティ・ドクトリン)を適用していることが、動産と不動産を区別していなかったことに注意せよ。そして動産と不動産の双方が婚姻時の居住地の法によって規定されていた。

部分的に変更可能な立場を支持する学説(パーシャル・ミュータビリティ)もしくは新たに取得された財産に関するミュータビリティ。これは夫婦財産の分割に関する法の抵触に対するアメリカのアプローチであった。婚姻中に取得されたあらゆる動産が、財産取得時の当事者の居住地の法によって規定され、以前の居住地や経由地の法によっては規定されていなかった。そして婚姻以前に取得された財産は婚姻時の当事者の居住地の法によって規定されていた。したがって、もし購入時の場所で財産に対する権利が与えられていたならば、その権利が後の居住地の変更によって影響されることはなかった。

法廷地法。例え外国からの要素を考慮する必要が存在していたにせよ、多くの場合において、裁判所は、当事者のあらゆる財産に対して現地の法を適用することによって、複雑な問題を回避していた。このことは、世界中の法が婚姻に関して基本的に類似しているとの仮定に基づいていた。パートナーシップが裁判所の管轄に含まれているので、その管轄権を有する法があらゆる側面に適用されていた。

法廷地法があらゆる手続法による救済に対して適用されていたことに注意せよ(実体法による救済とは異なっていた)。したがって出訴期限法と同様に公判前の救済、手続、形式を付与する能力に対する問題は「手続上の」問題として分類されており、常に離婚訴訟が係属している国内法の対象であった。

6 未婚のカップルの場合の法の抵触

国際的に認知された法的立場を有する婚姻と異なり、未婚のカップルの法的地位を認知する国際的な条約は存在していなかった。もし未婚のカップルが異なった国々に住居を移していたならば、そのカップルが最後に居住していた場所の法がそのカップルに対して適用されていた。この原則は、その関係における地位、権利、義務、国境を超えた動産や不動産を法的に取り扱っていた。その例外として、もし未婚のカップルが異なった国々に資産を所有していたならば、そのカップルは所有している動産や不動産の帰属を決定するために、それぞれの国における訴訟を必要としていたことが挙げられていた。

未婚のカップルに対する有効な協定がないので、法の抵触はこのように機能していた。

完全に変更可能な立場を支持する学説(フル・ミュータビリティ・ドクトリン)。未婚のカップルにおける財産関係は、以前に獲得されていたかどうかやその関係の後に獲得されていたかどうかに関わらず、最後の居住地によって決定されていた。

7 紛争前の条項

多くの契約や法的拘束力を有する合意は、管轄権や訴訟が係属する裁判所を当事者が選択する仲裁条項を含んでいた(管轄裁判所指定条項)。そして法律条項の選択は、裁判所がどの法を紛争における個々の側面に適用すべきかを決定するかもしれなかった。このことは契約自由の原則と対応していた。当事者がその取引に対して最も適切な法を選択することを、当事者自治の原則が許容していたことを、裁判官は認めていた。明らかに主観的な意思を司法が認めることは、伝統的に各要素と関係した事実に依存していたことを例外にしていたが、それは実際にはうまく機能していなかった。

8 外国法の地位

一般的に裁判所が外国法を適用する場合には、その外国法が外国法の専門家によって明示されていなければならなかった。裁判所は外国法を専門としておらず、どのように外国法が外国の裁判所において適用されているのかを熟知していないので、それは単なる訴訟ではなかった。そのような外国法は、主権の問題を抱えた法というよりむしろ、単なる証拠として考えられていた。仮に現地の裁判所が実際に外国法の域外適用を認めていたとしても、それは主権より小さなものであり、潜在的に違憲である方法で作用していた。この問題に対する理論的な解決は次のようなものであった。

(a) 個々の裁判所は、公正な結果を達するために必要な他国の法を適用するための、固有の管轄権を有していた。

(b) 現地の裁判所は外国法を適用するための独自の法的権利を有していた。この説明は維持可能な性質を示しており、法的拘束力のある判例を適用する州でさえ、紛争から生じたいかなる判例も将来の紛争に対して適用されていなかった。全て現地の事件で構成される枠組みの中で将来の訴訟を拘束する判決理由は存在しないであろう。

(c) 外国法を適用する裁判所は域外適用を許容するものではなく、「法の抵触」を通じて、その状況が外国法の適用を伴うことを許容していた。この主張を理解するには、まず最初にルールを域外適用することを定義しなければならなかった。ルールの域外適用は2つの異なる考え方の影響を受けていた。

一方でルールの域外適用は、現地の裁判所が法廷地法以外のルールを適用する状況を説明するために用いられていた。

他方でルールの域外適用は、そのルールが領土を超えて生じる状況に適用されることを意味する可能性が存在していた。この状況の例として、運転手と被害者の双方がイギリスの市民であったが、運転手の保険会社がアメリカ企業であったために、訴訟がアメリカでなされていたが、ロンドンでの自動車事故に対してアメリカの裁判所がイギリスの不法行為法や判例法を適用していたことが挙げられていた。事件がアメリカの裁判官がイギリス法を適用するイギリスの領土で生じていたので、アメリカの裁判官が外国法の域外適用を許容している訳ではないと主張することも可能であった。事実アメリカ法を適用するならば、アメリカの裁判官が域外適用で事件を処理しているとの主張も存在していた。

一旦準拠法が決定されれば、法廷地法を上書きするルールに反している場合を除いて、準拠法が尊重されていた。個々の裁判官は公序良俗の原則の番人であり、当事者は自身の行為によって、労働法、保険、競争規制、事業者のルール、禁輸、輸出入規制、証券取引規制のような分野を全般的に支えている地方自治体の法における基本原則を否定することができなかった。さらに、準拠法の適用が道徳にそぐわない結果をもたらすか、適用領域が限られた法を域外適用することを避けるために、法廷地法が用いられていた。

いくつかの国々では、外国法が「満足できる基準」を満たしていないならば、現地の法が適用されても構わないことを裁判所が決定する事例が時折見受けられていた。イギリスでは、根拠がないならば、外国法が準拠法と同等に推認されていた。同様に、明確な根拠がなければ、裁判官はその反対に、訴訟理由が生じた場所が特定の基本的な保護を与えることを想定しており、例えば、外国の裁判所が他人の過失により負傷した人を救済することが挙げられていた。最後にいくつかのアメリカの裁判所は、「法制度を有さない未開の場所」で負傷が生じたならば、アメリカの現地の法が適用されることを支持していた[8]。

もし事件が国の裁判所よりむしろ仲裁裁判所に持ち込まれていたならば、管轄裁判所指定条項によって、商業目的を否定しているときに、仲裁人は当事者による法の選択について現地の強制的な対応を適用しない決定を行っても構わなかった。しかし関連した公共秩序が適用されるべきであるという理由で、仲裁判断は、執行が一方の当事者によって求められた国における異議申立てを受ける可能性も存在していた。もし現地の仲裁が否定され、仲裁の場所と当事者によってなされた合意の間に本質的な関連がなかったならば、執行が求められる裁判所が仲裁を受け入れることが可能であった。しかしもし上訴が仲裁がなされた州の裁判所に対してなされたのであれば、裁判官は法廷地法の強行法規を無視することができなかった。

9 調和策

他国の法制度に対立するものとしてある国の法制度を適用することは、全体的に満足のいくアプローチではなかったかもしれなかった。当事者の利益が、国境を超えた現実を念頭においた法を適用することによって、常に適切に保護される可能性が存在していた。ハーグ国際私法会議は国際私法の統一を目的とした国際機関であった。ハーグ国際私法会議での協議は近年、電子商取引や名誉毀損に関する国境を超えた管轄権の範囲を取り扱っていた。そして国際契約法が必要とされていることを認識していた。例えば多くの国々は国際物品売買契約に関する国際連合条約を批准しており、 契約債務の準拠法に関するローマ条約は大まかな統一性を与えており、国境を超えた商行為を促進するインターネットや他の技術を生み出すための営みを肯定しているユニドロワ国際商事契約原則に対する支持が存在していた。しかし他の法はそれほど役割を果たしておらず、主な傾向は超国家的なシステムよりむしろ法廷地法の役割に留まっていた。直接的な影響をもたらす統一的なルールを生み出すことが可能である機関を有していたEUでさえ、共通市場を支える普遍的なシステムを形成することに失敗していた。それにもかかわらずアムステルダム条約は、超国家的な影響を有しているこの分野におけるブリュッセルⅠ規則に基づいて法を制定する機関に権限を付与していなかった。第177条は裁判所に解釈を行うための管轄権を与え、その原則を適用しており、したがって政治的意思が存在しているならば、その統一性が徐々に法の文言の中に現れる可能性を存在させていた。加盟国の国内の裁判所がこれらの文言を適用することにおいて矛盾を生じさせていないかどうかは推測の範囲内に留まっていた。

1997年にアイリス・チャンは日本の戦争犯罪に対するアメリカ人の考えを変化させ、なぜ日本人はナチスのように厳しく処罰されなかったのか、アメリカは日本の占領を円滑に行うために裕仁が戦争犯罪の責任を負うべきであったことを示す証拠を隠匿していたのかどうか、アメリカは人体実験に関する情報を入手するために日本の医療将校を保護していたのかどうかといった問題を提起していた。

女性の権利団体や人権団体と対立したときに、日本政府が1951年9月のサンフランシスコ平和条約の規定によって問題は解決済みであると主張し、保守的な政治家や高級官僚が歴史修正主義や日本叩きとして戦争犯罪についての批判を非難していたのは、保守党の候補者が侵略戦争を理由にして日本を批判すると選挙で勝つことができないといった戦争犯罪に対する国内の政治風土に根差していたが、その強硬路線は、日本の戦争犯罪や裕仁の役割を詳細に公言することが日本においてタブーであったことをアメリカに対して補強していた。

イアン・ブルマによれば、ヨーロッパの国々やイスラエルに謝罪していたドイツと異なり、日本は責任を果たさず、詭弁や婉曲表現を用いて、学校現場で侵略や残虐行為という歴史的事実を軽視し、関係諸国に謝罪しておらず、日本の保守強硬派のコメンテーターは戦争犯罪が日本国民を陥れるために誇張されたものであると主張していた。

1990年代に、冷戦初期にアメリカがソ連との対立について日本側の協力を必要としていたことや日本の商業的な利益に譲歩していたことを理由にして、日本の戦争犯罪が処罰を回避していたことが指摘されており、GHQによる裕仁の処遇は、1940年代の後半からあらゆる場で、日本ではよく論じられており、特にアメリカでは1990年代の初めから議論の対象となっていた。

中国や旧ソ連によって保管されていた日本軍の文書は、ほとんど例外なく、西側諸国にとっては入手不可能なものであり、僅かばかりの資料でさえ、多くの点で信憑性に欠ける共産主義者によるプロパガンダに溢れており、その判断の背景として、スターリン主義者が見せしめの裁判を行っていたので、西側の人々が証拠の信憑性を疑っていたことが挙げられていた。現時点で機密扱いの文書の量は未知であり、1990年代の後半まで人々は、アメリカが日本の戦争犯罪に関する文書を機密扱いにするのかどうかや、もし機密扱いにするならば、それは裁判を逃れていた日本人に関与していたのかどうかについて関心を抱いていた。

日本の戦争犯罪について歴史家の仕事は4つの大きなカテゴリーに分類される傾向があり、アジア全体に対する日本の残虐行為、捕虜や民間労働者に対する虐待、戦時中の生物化学兵器プログラム、慰安婦と呼ばれる強制売春が挙げられていた。そして近年になって多くの歴史家が麻薬密売や財産の盗取のような犯罪活動を調査し始めていた。

他方で中国、北朝鮮、ソ連は、日本が開発したものと類似していた生物兵器をアメリカが朝鮮戦争中に使用していたことを指摘していたが、これらの指摘は冷戦時代のプロパガンダとして却下されており、近年その主張が共産主義者のプロパガンダであることを示すソビエト側の文書が例として挙げられていた。

関東軍が人間を被験者にしており、全体の軍事予算が非常に高額であったことを考慮すると、軍部の中枢や裕仁が生物兵器に対して責任を負うべきであったとの主張が存在しており、常石敬一は、戦時中の日本の医療関係者全体が共犯関係にあり、生物兵器に関与した人々が日本で高い地位を独占することを許容してきたことについて、戦後の医療関係者が沈黙していたことを批判していた。

1945年に日本がベトナムから大量の米を徴用していたことが、ベトナム北部に大規模な飢餓をもたらしており、香港では軍票によって人々の貯蓄を収奪していた。スターリング・シーグレイブやペギー・シーグレイブによれば、日本の天皇家がアジアの占領地域から金や財産を強奪していた黄金の百合と呼ばれる組織の存在が確認されており、裕仁が占領していた国々から数千億ドルの価値がある金、プラチナ、ダイヤモンド、美術品、宗教的工芸品、他の財産を組織的に略奪していたのみならず、アメリカの投資家を保護することを考慮して、戦争が日本を破綻させたことを強調し、全ての補償を行うことを免除させることを、ハーバート・フーヴァー‎やダグラス・マッカーサーと議論していたとの指摘がなされていたが、これらの視点は個人の証言に依存しており、著作の信頼性に問題が残っているとの歴史家による指摘も存在していた。

2003年5月にナチス・日本帝国政府戦争犯罪記録省庁間作業部会は、日本帝国政府戦争犯罪情報公開法の下、強制労働や奴隷労働との関連を含む、連合国の捕虜や民間人抑留者に対する日本の虐待、戦時中の日本による生物化学兵器の開発及び利用、徴集され売春婦になることを強制された慰安婦を日本軍が利用していたこと、戦犯裁判に関連した連合国の政策や日本の戦犯に恩赦を与えた決定に調査をフォーカスしていた。

1945年11月1日のマレー・サンダースのレポートは、日本の関係者とのインタビューや実験記録に立脚しており、破棄されたと噂されていた証拠書類を除外することによって、日本の公式見解に近い見解を採用し、裕仁が人体実験を知らなかったと主張することを通じて、裕仁を弁護したい人々の利益になることを肯定していた。

GHQ/SCAPのレポートは裕仁が石井による生物兵器の研究を支援していたと述べていたが、細菌研究が平房区で行われていたと主張する海軍情報局の技術情報センターのレポートは裕仁が石井のプロジェクトを禁止していたと述べていた。

2005年の初めにCIAは日本の有力者に関係した文書の機密を公開していた。そしてアメリカの情報部門が、日本の保守派や軍の将校を共産主義の台頭に抵抗するためのプロジェクトに従事させており、保守強硬派のアジェンダを追求しているグループに対しても物質的ないし金銭的な援助を与えていたことが明らかにされていた。

占領当局が、時として証拠書類も存在していたが、軍事法廷におけるBC級戦犯のメンバーを多くの場合において起訴しなかったのは、戦後の国際政治、GHQ/SCAPの法務局が利用可能であったリソースが欠如していたこと、戦争から離れることを望んでいたアメリカの世論と比較して、それほど法的視点を考慮していなかったからであった。また憲兵隊やA級戦犯を支援していた人々の大多数は告発されていなかった。アメリカは特定の方法でこれらの日本人の活動を支援していた。

ダグラス・マッカーサーはOSSやその後身であるCIAを軽蔑しており、1950年までGHQの情報部門であるG-2はCIAが日本で自由に活動することを妨げていたが、日本におけるCIAのプレゼンスは急速に拡大し、冷戦が進行するにつれてCIAは日本における一大情報機関になっていた。

田中隆吉によれば、有末精三は三国同盟の推進勢力であり、日本を破滅的な戦争に導いた天皇周辺の軍の将校グループにおける中心的な人物であり、GHQ/SCAPの高官によれば、A級戦犯として起訴されるだろうと考えられていたが、G-2によって、戦争の遂行に深く関与した有末は逮捕されず、戦犯として起訴されなかった。

CIAの個人別ファイルは、幾人もの有名な戦犯や戦犯を疑われた人々によって行われていた作戦をG-2が支援していたことを確認していた。有末機関と河辺機関は、大きな犯罪活動によって戦時中の記録が傷付けられた多くの人々と大規模にコンタクトを取り、G-2は反共産主義を支持している日本人の傷付いた過去を見逃していた。児玉誉士夫と辻政信はG-2がエージェントの過去を意図的に見逃した例であった。

CIAの文書は、辻がシンガポール華僑虐殺事件の拡大に関与していたことを示す多くの証拠や、マレー半島で華僑を殺害する指令に関した連署を示しており、おそらく日本に抵抗する5,000名から25,000名の中国人やマレー人がシンガポール華僑虐殺事件で殺害されていた。

有末は、アメリカとの緊密な協力によって日本が再軍備することを主張し、G-2とのコネを獲得することによって彼の影響力を維持することを望んでいたが、裏目に出て河辺とも疎遠になり、児玉誉士夫や渡辺渡のみが古いインテリジェンスを支えていた。

アメリカが日本の戦犯を採用したことはG-2に限ったことではなく、アメリカは社会的地位のある元軍人を積極的に利用していた。1950年代後半にCIAとコンタクトを確立した賀屋興宣は重要な例であった。賀屋は将来の首相である岸信介に最も信頼されたアドバイザーの1人であった。

CIAによれば、アレン・ダレスに会うことを望んでいた賀屋は一流の情報提供者であったが、CIAはA級戦犯がDCIと協議することについて敏感になっていた。1959年に賀屋を直接インタビューした後で、日本のCIAは賀屋が公言していたアメリカ支持の姿勢は十分に真実味があったと述べていた。

1959年2月6日に賀屋はダレスに、日本は共産主義の浸透に関して脆弱であり、共産主義の浸透に対する抵抗を成功させることが仕事であると述べていた。そしてCIAと自民党の安全保障調査会との間でインテリジェンスを共有することをダレスに依頼していた。ダレスは異論を唱えていたが、CIAは日本で共産主義が浸透することを妨げる支援になると考えていた。その会合は反体制運動に関してCIAと日本人が協力することに合意しており、その細目に従って日本におけるCIAの工作が通知されることに同意していた。賀屋は、共産主義の脅威を取り除き、日米関係を強化するための取り組みにおいて成功を収めていた。

ダレスは個人的に主導して、賀屋をCIAの情報提供者にしていた。8月にダレスは賀屋に機密扱いの手紙を送り、日本の政治家に対するCIAのコミットメントを確認していた。その中でダレスは、日米関係を良好に維持するために行う全てのことについて懸念があると述べており、11月にCIA本部は賀屋の活動の進捗や、それを背景にしてエージェントが政治家と共に活動することに対して関心を抱いているのかどうかについて照会を行っていた。しかし8月から11月にかけて日本のCIAは賀屋について考えを改め始めていた。そして賀屋の政敵がその関係に気付いたときの政治的影響を恐れて、CIAは賀屋に対して手紙を返すように求めていた。

1965年12月にCIA本部が権限を与え、その3年後にCIAは、首相である佐藤栄作が掌握していた自民党のアドバイザーであった賀屋が自民党の情報を収集することや沖縄の選挙に反対する秘密活動を受け入れる可能性があり、賀屋に対するコンタクトが継続されるだろうといったことを報告していた。そして当時の沖縄は日本への返還に対する議論で混乱していた。

ヨーロッパでクラウス・バルビー、オットー・フォン・ボルシュビンク、ラインハルト・ゲーレンを利用していたアメリカ陸軍の情報部門が戦犯や戦犯を疑われた人々を利用して極東で情報を収集していたことに驚きはなかった。意図的にヨーロッパと極東の間でインテリジェンスを利用していたことに対する証拠は存在していなかったが、双方の地域において共産主義の拡大に対する恐怖が道徳的ないし政治的関心を煽っていたことは明らかであった。

諜報部員を利用することにおいて、G-2は社会的地位のある日本の保守派をターゲットにしており、それはウィロビーたちが諜報活動が可能であると考えていた唯一のグループであった。日本のスパイはもちろん諜報活動にとって不可欠であったが、CIAの見方によれば、G-2の将校は、作戦に対するリスクや重要性に関わらず、あらゆる潜在的なスパイを利用する意思を有していたように思われていた。

政策形成、諜報活動、犯罪行為といった分野におけるいくつかの基本的な問題が、日本政府と平和条約を交渉していたときのGHQ/SCAPの長期的な諜報戦略にどのように影響していたのかはまだ明らかではなかった。この文書における状況証拠は、ウィロビーが重要人物である日本人を戦犯として逮捕させることを妨げていたことを示唆していた。もしウィロビーが実際に戦争犯罪の調査を妨害していたならば、何をCIAはそれについて知っていたのか。事実、ウィロビーの指示に基づき、G-2は、ドーリットル隊のパイロットを死刑にする指示に署名し戦後にアメリカに協力するスパイになっていたと伝えられていた下村定を擁護していた。G-2は日本で下村を逮捕させるために中国での取り調べを妨害し、彼が収監された後に彼の釈放を主張し、その後すぐ彼を釈放させていた。CIAの個人別ファイルは、1950年代から1960年代にかけて首相になり戦犯を疑われていた岸信介のような社会的な地位のある右派とCIAがどのように関係していたのかについて僅かのことしか明らかにしていなかった。1994年10月9日のニューヨーク・タイムズ紙によれば、50年代、60年代に、CIAは日本の右派に対して数百万ドルを支援していた。現時点で文書による証拠は確認されていなかったけれども、CIAと国務省の元高官はCIAと自民党の間の関係を認めていた。また文書は、どのように朝鮮戦争が戦争犯罪に対するCIAの態度に影響を及ぼしていたのかについて明らかにしていなかった。

これが全てであるとは言及しないが、"Researching Japanese War Crimes Records Introductory Essays"の一部を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://www.archives.gov/iwg/japanese-war-crimes/introductory-essays.pdf

日本の戦争犯罪に関する記録に対する調査

序論

1 イントロダクション

エドワード・ドレー

第二次世界大戦以後の数十年間アメリカ人とほとんど無関係であった日本の戦争犯罪は、1931年から1945年におけるアジアや太平洋において行われていた。アジアの人々に対する日本の戦争犯罪は戦後のアメリカにおいて大きな問題となったことがなく、日本によって収容された元アメリカ人捕虜を除いて、日本の戦時における残虐行為に対する記憶は年月とともに薄れていく状況であった[1]。

日本の戦争犯罪に対するアメリカ人の考えは、1997年にアイリス・チャンが『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』を出版した後、大きく変化することになった[2]。1937年の南京における中国人の犠牲者に対するチャンの遺言は戦争犯罪の恐怖やその範囲を詳細に記しており、日本政府や日本人が戦時中の残虐行為に対して集団的健忘症に罹っていたことを示していた。ベストセラーとなった著作は、中国、朝鮮、フィリピン、東南アジア、その他太平洋地域における戦時中の日本人の行動に対する新たな関心を喚起していた。

『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』はさらなる説明を必要とする多くの問題を提起していた。なぜ日本人はナチスのように厳しく処罰されなかったのか。アメリカは日本の占領を円滑に行うために裕仁が戦争犯罪の責任を負うべきであったことを示す証拠を隠匿していたのかどうか。アメリカは人体実験に関する情報を入手するために日本の医療将校を保護していたのかどうか。

またチャンは、マイクロフィルム化する前に押収された戦時中の記録を「説明抜きに無責任に」日本に返還していたことについて、日本の犯罪の程度を決定することを不可能にしていたアメリカ政府の責任を追及していた[3]。そして他の人々は、疑いの余地なく日本の犯罪を立証し、日本政府や日本社会による高度なレベルの犯罪を示唆する高度な機密文書をアメリカ政府が保管していることを確信していた。

私はこの論考に対して洞察に溢れるコメントを与えてくれたキャロル・グラックとゲルハルト・ワインバーグに感謝している。

これらの問題は関係者に対して、メリーランド州のカレッジパークにあるアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)や他のアメリカ政府機関が保有している日本の戦時中の記録を調査することを促していた。日本の戦争犯罪や犯罪行為を示す完全な文書は利用不可能であると思われており、関係者による隠蔽工作を匂わせていた。研究者たちは、求めている記録を発見する代わりに、要求されている情報は存在していないとの知らせを受け取ることや、記録が「安全保障上の理由によって開示できない」ことを示すカードに遭遇したときに、アメリカ政府が意図的に暗い機密を隠蔽していたとの疑念を抱くことになった。

チャンの主張によって、日本の犯罪に目を向け被害者に正義と補償をもたらすために奮闘していた全く異なるグループが、それらの問題に対する答えや文書を探ることに対して刺激を受けていた。最新の証拠を与えられ、日本の戦争犯罪に対するアメリカ側の意識の高まりによって、被害者や支持者は、以前以上に強固な決意と高まった人気や政治的援助を伴いながら、真相を追及していた。

日本人によって捕虜にされたアメリカの軍人は正義と補償を求める主張を再度行い、長期にわたる収容の間に被った制度化された残虐行為に対する、日本政府による公式の謝罪を求めていた。他の人々は、彼らが日本軍の731部隊に支援された非道な人体実験の被害者であったことを主張しており、731部隊の医師や専門家が、石井四郎中将[4]の指示の下で、生物兵器を開発するために軍に支援された人体実験を行っていたと述べていた[5]。

軍の慰安所で若い女性に売春を強要する日本軍のシステムに対する論争、いわゆる「慰安婦」問題は特に韓国で沸騰寸前であった。1994年のジョージ・ヒックスによる『性の奴隷 従軍慰安婦』は英語でその問題に言及しており、売春を強要された女性が日本から補償を引き出すための苦労を示していた[6]。1990年代の後半までに「慰安婦」の窮状はアメリカの新聞の一面に登場するようになり、戦時中の人権侵害を日本政府が認めることを求める女性の権利団体や他のグループからの関心を惹くようになっていた。

日本による占領と1937年から1945年に至る戦争の間に最悪の略奪行為の被害を間違いなく被っていた中国は、日本による中国の占領を特徴付けていた略奪、放火、広範な殺害行為に対する日本政府の姿勢を繰り返し批判していた。1990年代に同様に、日本の人体実験による中国の被害者、満州にあった日本の捕虜収容所に収容されていたアメリカの軍人、中国系アメリカ人は、チャンの著作の中に鬱積した憤りを見出していた。

また日本は戦時中の奴隷労働や強制労働の釈明を行うことを求められていた。戦時中の日本政府は、朝鮮、中国、あらゆるアジアから労働者を強制的に連れ去り、炭鉱での危険な労働や厳しい建設業のための無給労働をさせるために日本に連れて来ていた。アメリカの戦争捕虜は、捕虜の権利を定めたジュネーブ条約に照らせば、違法で残酷な労働に従事していた。日本政府がこれらの犯罪を認めなかったことに対する抗議の声に、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人が加わっていた。

女性の権利団体や人権団体と対立したときに、日本政府は、これらの問題は1951年9月のサンフランシスコ平和条約の規定によって解決済みであると主張していた[7]。この問題についてこれ以上述べる必要性は存在していなかった。日本政府が戦時中の全ての責任を認めることを拒否しただけでなく、一部の保守的な政治家や高級官僚は歴史修正主義や日本叩きとして戦争犯罪についての批判を非難していた。もちろん戦争犯罪に対する国内の政治風土も存在していたが(保守党の候補者は侵略戦争を理由にして日本を批判すると選挙で勝つことができなかった)、強硬路線を採用する日本の公式見解は、日本の戦争犯罪や裕仁の役割を詳細に公言することが日本においてタブーであったことをアメリカに対して補強していた。

イアン・ブルマの『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(1994)はドイツと日本の戦争犯罪に対する戦後の対応を比較していた[8]。ブルマによれば、ドイツはナチス政権が犯した悪に対する責任を公式に受け入れ、学校の教科書や授業において下劣なナチスの歴史を論じることによって、将来の世代を教育していた。ドイツはヨーロッパの国々やイスラエルに謝罪していた。その反対に、日本は責任を果たさず、詭弁や婉曲表現を用いて、学校現場で侵略や残虐行為という歴史的事実を軽視し、関係諸国に謝罪していなかった。さらに悪いことに、日本の保守強硬派のコメンテーターは、仮に存在していたにせよ、その戦争犯罪は日本国民を陥れるために誇張されたものであると主張していた。

ドイツ人が行ったように、日本人は戦時中の行動に対峙してこなかったけれども、日本政府の否認は、アカデミズムで人気を博していた保守強硬的な反応を助長させていた。ダーキン・ヤンが第2章の中で指摘しているように、日本の研究者や特定の利益団体は日本の戦争犯罪について学術的に厳格に追及していた。大半の著作は翻訳されていなかったので、欧米にほとんどインパクトを与えていなかったけれども、そのような視点は日本の主流的なメディアに定期的に登場していた。有名な例外は、本多勝一の写真や中国における日本軍の残虐行為を描き出し大きな論争を引き起こした記述になり、それは1972年に日本で公表されていたが、1999年まで英語に翻訳されていなかった。日本の作家や歴史家はメディアで自由に意見を述べており、それらは広く読まれ、さまざまなメディアでオープンに議論されていた。

1990年代における日本の戦争犯罪に対する懸念は、日本の戦争犯罪が処罰を回避しているとの考えを補強しており、それは、冷戦初期にアメリカが、ソ連との対立について日本側の協力を必要としていたことや、日本の商業的な利益に譲歩していたことを理由にしていた。不幸にも一部の日本の戦争犯罪者は処罰されていなかった。おそらく最も悪評を買っていたのは731部隊の石井中将であり、残忍な人体実験の詳細をアメリカ政府に渡す代わりに、明白に論争の種であった戦後の訴追を逃れていた。他の人々は、訴追されていなかったものの、戦後の3人の日本の首相が戦争犯罪を犯していたと考えており、鳩山一郎(1954–1956)、池田勇人(1960–1964)、岸信介(1957)が挙げられていた。また有罪とされたA級戦犯であり、戦時中の外交官であり外務大臣であった重光葵は1954年に外務大臣として地位を回復していた。GHQによる裕仁の処遇は、1940年代の後半からあらゆる場で、日本ではよく論じられており、特にアメリカでは1990年代の初めから議論の対象となっていた。

多くの悪評を買った戦争犯罪者は処罰されておらず、繁栄し特権的な地位を謳歌していたけれども、数千件に及ぶ日本の戦争犯罪が起訴されていたことを認識することは重要であった。28名のA級戦犯は、平和に対する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪によって起訴されており、東條英機のような日本の戦時中のリーダーの大多数を含んでいた。ニュルンベルク裁判と比較される東京裁判は、1946年5月に開始され、1948年11月に終結し、被告の内25名を有罪としていた。東條を含む7名が絞首刑に処され、16名が終身刑に処され(その内4名が獄中死していた)、2名が有期禁固刑に処されていた。残り3名の内2名が手続き中に病死し、1名が訴追免除されていた。1956年までに日本政府は収監されていた全ての人々を仮釈放し、1958年4月に外務省は無条件で彼らを釈放していた。また連合国はアジア太平洋地域全体で戦争犯罪に関する裁判を行っていた。アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、フランス人、フィリピン人、中国人が1945年10月から1956年4月にかけて49ヶ所の地域で裁判を行っていた。イギリス人は東南アジアにおいて戦争犯罪を犯した多くの日本人を起訴しており、それはクウェー川を渡河する鉄橋を包含する泰緬鉄道の建設に関わった人々を含んでいた。オーストラリアの検察官は、オランダ領東インドのアンボイナやニューブリテン島のラバウルで多数の日本人に対して裁判を行うために、イギリスやアメリカの判事とともに任務を遂行していた。中国は、南京大虐殺に関与した人々を含む少なくとも800名の被告に対して裁判を行っていた。フランスとオランダは数百名以上に対して裁判を行っていた。フランス人は、軍部のために数十名の女性に売春を強要したジャワ在住の日本の民間人に対して裁判を行っており、オランダ人は、現地の人々やオランダ人の捕虜を殺害したことを理由にして、日本人に対して死刑を宣告していた[9]。また1949年後半にハバロフスクで、ソ連は生物兵器に関する戦争犯罪について12名の日本人に対して裁判を行っており、6名が731部隊のメンバーで、2名が独立した生物兵器に関する部隊であった100部隊のメンバーで、4名がそれ以外であり、後に中国に対する戦争犯罪の嫌疑をかけられた数百名の元軍人を移送し、中国は1950年代中頃に判決を下していた。BC級戦犯として、通例の犯罪、戦時国際法に対する違反、暴行、殺人、捕虜に対する虐待といった罪状を問われていた5,379名の日本人、173名の台湾人、148名の朝鮮人の内、約4,300名が有罪とされ、約1,000名が死刑を宣告され、数百名が終身刑を宣告されていた[10]。

これらの裁判に関わる文書はこれまでに1つの文書にまとめられてこなかった。連合国は当然それぞれの裁判のために日本の文書を集めており、その記録を保管していた。中国や旧ソ連によって保管されていた日本軍の部隊の記録や文書は、ほとんど例外なく、西側諸国にとっては入手不可能なものであり、それは冷戦がもたらす現実を背景にしていた。冷戦時に西側にもたらされた僅かばかりの資料でさえ、多くの点で信憑性に欠ける共産主義者によるプロパガンダに溢れていた。例えばソビエトがハバロフスクにおける1949年12月の裁判に関して1950年に公式の裁判記録を公表したとき、それらは731部隊が関連した文書を含んでいたが、長期間にわたってスターリン主義者が見せしめの裁判を行っていたので、西側の多くの人々は証拠の信憑性を疑っていた[11]。1991年12月における旧ソ連の崩壊や米中関係の改善によって、戦争犯罪についての情報が幾分入手しやすくなったが、まだ非常に限定的であった。そして日本側の入念な努力が731部隊や他の戦争犯罪に関する大部分の文書を隠匿しており、現時点で機密扱いの文書の量は未知であった。1990年代の後半まで多くの人々は、アメリカが日本の戦争犯罪に関する文書を機密扱いにするのかどうかや、もし機密扱いにするならば、それは裁判を逃れていた日本人に関与していたのかどうかについて関心を抱いていた。

特別に関心があるトピック

情報公開法に照らして機密文書を調査する際にIWGのガイドラインを遵守することに加えて、行政機関は、南京での暴行、「慰安婦」、捕虜や民間人に対する虐待、人体実験、731部隊、戦争犯罪人として裕仁を起訴しない決定をアメリカが下したことに関する記録のように、民間人に被害をもたらした日本の残虐行為についての情報を含んでいるかもしれない記録に特別な関心を寄せていた。しかしながら、第二次世界大戦以後において日本の戦争犯罪に関して全ての分野において徹底的な調査が行われていなかったことを記すことは重要であった。例えば「慰安婦」問題が現在大きな意味を有している一方で、アメリカ政府は戦中から戦後にかけて慰安婦に関連した記録を組織的に収集してこなかった[18]。結果としてアーカイブには慰安婦に関連した文書がほとんど存在していなかった。同じことは南京における暴行に関する記録にも当てはまっていた。

南京での残虐行為は、アメリカが参戦する4年前に生じていた。当時アメリカ政府は中国において大規模な軍事や外交に関する情報ネットワークを有していなかった。僅かばかりの熟練した軍や大使館の関係者は時として間接的にその事件を伝えており、センセーショナルな報道と比較すると、アメリカの公式文書は僅かであった。結果として、南京における暴行に対して責任を有していると思われる日本軍の司令官に対する戦後のA級戦争犯罪裁判の中で生じた記録を除外すると、国立公文書館にはこのテーマに関する文書がほとんど存在していなかった。

戦後直後にアメリカ人の関心は、真珠湾攻撃、アメリカ人の捕虜に対する虐待に関与した人々、暴行(特にフィリピンの女性に対する)や白人女性に対する強制売春を含む戦争犯罪に関連していた政府高官に対する日本の責任に向かっていた。1960年代に機密解除された記録の普及によって、帝国陸軍の売春宿システムが知らされることになった。しかしながら売春宿ネットワーク(特に中国)や売春宿に対する旧日本軍による正式な支援の規模はよく理解されていなかった。公娼は戦前の日本では合法であり、連合国の高官は、母国で行っていることを拡大したものとして、この国境を超えたシステムの一部を眺めていた。軍が占領したあらゆるところで生じていた暴行や悪評を買っていた犯罪を理由にして、連合国は日本兵を起訴することを「慰安婦」の状況を調査することよりも優先しており、慰安婦はプロの売春婦として認識されており、日本軍の雇用によって売春を強要された意図せざる被害者として認識されていなかった。例えば、日本政府を軍の売春宿と関連付ける重要な文書である"Amenities in the Japanese Armed Forces"は、1945年にATISによって翻訳され、1960年代に機密解除されていた[19]。数年間一般に公開されていたが、1990年代に「慰安婦」問題がこれらの犯罪に対して関心を集めるまで、それはほとんど注目されていなかった。

731部隊に関して研究者は、石井中将の人体実験や捕虜に対する虐待に関連して新たな機密文書を見出してこなかった。僅かながらも新しく公開された文書は収容者に対する日本の虐待について既存の文書に対して新たな証拠を付け加えていた。捕虜にされたアメリカ軍人に対して行われたと伝えられている731部隊の人体実験に対する問題に関して、複数の情報機関が、インテリジェンス、軍事、外交の記録を通じて徹底的に調査を行っていたが、決定的な証拠を見出してこなかった。このことは驚くべきことではなく、アメリカの捕虜に対して行われたと伝えられていた人体実験について、1970年代、1980年代、1990年代の初めに、議会が繰り返し照会を行ったことによって、アメリカ軍や他の政府機関の記録についての大規模な調査がようやく開始されていた。言い換えれば、特にアメリカの戦争捕虜に対して行われた日本の戦争犯罪に対する議会の関心が、アメリカ政府が保管していた731部隊に関する文書の存在を明らかにしており、それらの文書を一般に公開させることを促していた。

最後に、日本政府に配慮して、アメリカ政府が戦争犯罪に関する文書を隠匿していたとの主張が存在していた。IWGが課したガイドラインに従って、あらゆる外部からの政治的妨害から独立して、複数の政府機関によって機密文書に対する徹底的な調査が行われていた。それらの調査はそのような主張を支持する証拠を一切見出していなかった。処罰に関して複数の欠陥が存在しており、石井の事例が最も明白であり、裕仁の戦争責任に対する問題がアメリカや他のあらゆる場において論争の原因になっていた。しかしアメリカのアーカイブはこれらの論争に対していかなる新たな情報も与えてこなかった。この結果は有罪を示唆する文書が隠匿されていたと主張していた人々を満足させるものではなかったが、これまで関心がなかった人々は、IWGが日本の戦争犯罪に関した機密文書を公開し、一般の人々に対して証拠を利用可能にしたことをプラスに評価していた。また日本、中国、旧ソ連におけるアーカイブは、日本の残虐行為に対する理解を再解釈させることを促すかもしれない文書が存在している可能性を与えていた。

1 シェルダン・ハリス教授のような数名の研究者は1980年代に日本軍の731部隊の活動について調査を行っていた。

2 アイリス・チャン、『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』(同時代社、2007年)。

3 チャン、原著の177ページ。

4 日本の氏名は名字の後にファーストネームを記していた。

5 シェルダン・ハリス、『死の工場―隠蔽された731部隊』(柏書房、1999年)。ハリスは1994年に第一版を出版していた。

6 ジョージ・ヒックス、『性の奴隷 従軍慰安婦』(三一書房、1995年)。

7 条約は1952年4月28日に発効していた。

8 イアン・ブルマ、『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(阪急コミュニケーションズ、1994年)。

9 Robert Barr Smith, "Japanese War Crime Trials," World War II (September 1996)。

10 Philip R. Piccigallo, The Japanese on Trial (Austin, TX: University of Texas Press, 1979)はBC級戦犯を取り扱っていた。

11 Materials on the Trial of Former Servicemen of the Japanese Army Charged with Manufacturing and Employing Bacteriological Weapons (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1950)。

18 1948年2月にオランダ人は、12名の日本人に対して、オランダ領東インドにある捕虜収容所に収容されたオランダ人の女性に対する強制売春について裁判を行っていた。Narrelle Morris, review of Yuki Tanaka, Japan’s Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution During World War II and the U.S. Occupation(New York: Routledge, 2002)、http://wwwsshe.murdoch.edu.au/intersections/issue9/morris_review.html/。

19 連合国翻訳通訳部、"Amenities in the Japanese Armed Forces," Research Report 120, 15 Nov. 1945, 9–20、Formerly Security-Classified Intelligence Reference Publications ("P" File) Received from U.S. Military Attachés, Military and Civilian Agencies of the United States, Foreign Governments and Other Sources,1940–1945, NA, RG 165, Records of the War Department General and Special Staffs, entry 79, box 342。

2 日本の戦争犯罪に対する証拠書類と研究:中間報告

ダーキン・ヤン

歴史家が問題を明らかにしその問題にアプローチする方法は、ほとんどいつも社会における政治的ないし知的状況によって影響されていた。そして歴史家が集めた証拠のタイプが結論の説得力を決定付けていた。証拠と未解決問題はあらゆる歴史家の仕事である史料編纂において2本の柱を形成していた。第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の研究も例外ではなかった。この章は、最近の成果を検証し、このような史料編纂が置かれた状況の中にこれらの仕事を位置付けていた[1]。特に、歴史研究における新たな証拠のインパクトや証拠書類の利用可能性に影響を及ぼす要因を研究していた。そうする中で、最近特に関心を集めているいくつかの歴史的なトピックにおける学問の現状を明らかにしていた。

意外な新事実と論争

利用可能な証拠書類は第二次世界大戦中の日本の戦争犯罪に対する何を明らかにしているのか。新たな文書の発見は歴史家の仕事に対してどのような影響を及ぼすのか。日本の戦争犯罪について多くの仕事はいくつかの大きなカテゴリーに分類される傾向があり、(1)アジア全体に対する日本の残虐行為、(2)捕虜や民間労働者に対する虐待、(3)戦時中の生物化学兵器プログラム、(4)いわゆる「慰安婦」と呼ばれる強制売春が挙げられていた。そして近年になって多くの歴史家が麻薬密売や財産の盗取のような他の犯罪活動を調査し始めていた。これらのカテゴリーはしばしば重なり合っていたけれども、それらは日本の戦争犯罪に関して公表された歴史の大部分を構成しており、注目するに値していた。

生物化学兵器プログラム

中国政府は日本軍が生物化学兵器を使用していたと繰り返し主張しており、東京裁判でその主張を繰り返していたが、その件は起訴されていなかった[67]。同様にアメリカ軍も日本の生物化学兵器に関心を抱いていた。しかしそのような兵器に関する軍事行動の性質を考慮すると、決定的な証拠を入手することは困難であった。生物化学兵器について東京裁判では一切日本人が起訴されていなかったけれども、一部の人々がBC級戦犯として他の場所で起訴されていた。実際、第39師団第231連隊長である梶浦銀次郎は、戦闘中に毒ガスを用いたことにより、1947年に中国の軍事法廷で終身刑の判決を受けており、ソビエト政府は生物兵器に関与した12名の日本人将校を起訴し、日本語、英語、中国語、朝鮮語を含むいくつかの言語で裁判の記録を実質的に公開していた[69]。その公表は満州で入手された日本の文書のコピーを含んでいたけれども、その裁判は国際的な関心を集めることに失敗しており、その信憑性は西側にとって疑問の余地が残るものであった。また中国、北朝鮮、ソ連は、日本が開発したものと類似していた生物兵器をアメリカが朝鮮戦争中に使用していたことを指摘していた。これらの指摘は冷戦時代のプロパガンダとして却下されていた[70]。

誰が生物兵器に対して責任を負うべきかといった問題は決定的な証拠を欠いていた。関東軍が人間を被験者にしており、その全体の軍事予算が非常に高額であった(当時の1千万円、現在の90億円)ことを考慮すると、一部の人々は、当時の人体実験について知っていたかどうかに関わらず、東京の軍部の中枢や裕仁が責任を負うべきであったと主張していた[85]。常石敬一のような日本の研究者は長らく戦時中の日本の医療関係者全体の共犯性を強調しており、それに関与した人々が日本で高い地位を独占することを許容してきた戦後の医療関係者の沈黙を批判していた。

他のトピック

アジアに対する残虐行為、連合国の捕虜や民間人に対する虐待、生物化学兵器、従軍「慰安婦」といった日本の戦争犯罪に関する4つの分野における研究に加えて、他のテーマが近年関心を集めていた。

アジアの占領地域における経済問題が日本で比較的よく研究されている分野であった。1945年に日本がベトナムから大量の米を徴用していたことが、ベトナム北部に大規模な飢餓をもたらしたことで知られており、約200万人の人々が亡くなっていた[112]。また日本の研究者は、香港のような占領地域に居住していた多くの人々の貯蓄を収奪した軍票の研究を行っていた[113]。日本の占領当局によって徴用されたと伝えられていた秘密資金がどうなったのかについては未解明のままであった。これについて全てが強奪されたものではなかったが、かなりの部分が略奪されたものであった。今日に至るまで東南アジアでは、隠された日本の財産に関する物語がなお反響を呼んでいた。人気のある歴史作家であるスターリング・シーグレイブやペギー・シーグレイブは、日本の天皇家がアジアの占領地域から金や他の財産を強奪していたとする組織(コードネーム「黄金の百合」)の存在を主張していた。多くの秘密文書を入手していたと主張していた著者たちは、多くの重要な秘密文書の秘密を解除することを拒絶したアメリカ政府を批判していた[114]。証拠を無視し、個人の証言に依存する彼らの傾向は、歴史家の視点によれば、著作の信頼性を損なっていた。

65 例えば、"Japanese Use the Chinese as ‘Guinea Pigs’ to Test Germ Warfare," Rocky Mountain Medical Journal 39, no. 8 (August 1942): 571–72。日本の歴史家である吉見義明がマッカーサー記念館で発見したアメリカの文書によれば、アメリカ陸軍の参謀総長が東京裁判の検察官に対して、毒ガスの使用は国際法に違反していないとの陸軍の立場を伝えていた。45 (December 2004): 23。

68 Zhongyang Dang’anguan et al., Xijunzhan yu duqizhan, 621–24。

69 Materials on the Trial of Former Servicemen of the Japanese Army, Charged with Manufacturing and Employing Bacteriological Weapons (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1950)。

70 この主張に関して、Stephen Endicott and Edward Hagerman, The United States and Biological Warfare: Secrets From The Early Cold War and Korea (Bloomington, Indiana: Indiana University Press, 1998)を参照せよ。他の人々は近年、その主張が共産主義者のプロパガンダであることを示すソビエト側の文書を例として挙げていた。New Evidence on the Korean WarやDeceiving the Deceivers: Moscow, Beijing, Pyongyang, and the Allegations of Bacteriological Weapons Use in Korea, Cold War International History Project Bulletin 11 (Winter 1998): 176–99を参照せよ。

85 吉見義明、伊香俊哉、『七三一部隊と天皇・陸軍中央』(東京、岩波書店, 1995年)、粟屋憲太郎、吉見義明、『毒ガス戦関係資料』(東京、不二出版、1989年)、吉見義明、松野誠也、『毒ガス戦関係資料II』(東京、不二出版、1997年)。

114 彼らは、裕仁が第二次世界大戦中に占領していた国々から数千億ドルの価値がある金、プラチナ、ダイヤモンド、美術品、宗教的工芸品、他の財産を組織的に略奪していたのみならず、アメリカの投資家を保護することを考慮して、戦争が日本を破綻させたことを強調し、全ての補償を行うことを免除させることを、元アメリカ大統領であるハーバート・フーヴァー‎や連合国最高司令官であるダグラス・マッカーサーと議論していたと主張していた。The Yamato Dynasty: The Secret History of Japan’s Imperial Family (New York: Broadway Books, 1999)やGold Warriors: America’s Secret Recovery of Yamashita’s Gold (London: Verso, 2003)を参照せよ。900MBの文書や他の証拠を含んでいる2枚のCD-ROMは購入可能であった。

3 日本の戦争犯罪に関してアメリカ国立公文書館に保存され最近機密解除された記録

ジェームズ・ライド

2003年5月にナチス・日本帝国政府戦争犯罪記録省庁間作業部会(IWG)は、日本帝国政府戦争犯罪情報公開法(JIGDA)の下で、機密解除され公開された約10万ページに対して体系的な調査を始めていた。特に調査は次の問題に関連した文書を特定することにフォーカスしていた。

・強制労働や奴隷労働とのあらゆる関連を含む、連合国の捕虜や民間人抑留者に対する日本の虐待

・戦時中の日本による生物化学兵器の開発及び利用、特に石井四郎中将の役割や731部隊によって行われた生物兵器の実験

・占領地から徴集され売春婦になることを強制された「慰安婦」を日本軍が利用していたこと

・戦犯裁判に関連した連合国の政策や、後に日本の戦犯に恩赦を与えた決定

アメリカ国務省の記録 - RG 59

IWGによって公開された国務省の新たな記録の分量は、前述のOSSファイルよりかなり少ないものであった。これらの記録は、タイで収容されたアメリカ人の捕虜に関連した国務省特別戦争問題部からのファイルを含んでいた。その記録は捕虜収容所における情報を与えており、戦争末期に移送された捕虜に関連した多くの資料を含んでいた。しかしこれらの新たな文書の多くは、RG 226といった記録の中ですでに利用可能なOSSレポートで構成されていた[33]。

最後に戦争犯罪に関連した特別報告は1950年代における日本の戦犯に対する恩赦について論じていたいくつかの文書を含んでいた。これらの大部分は、アメリカ国務省の高官と東京裁判における他のメンバーの代表者や時には日本の高官の間における会合に関連した会話のメモで構成されていた。ある文書は、裕仁や4名の大将をC級戦犯として裁くソ連の提案を扱う方法についてのオーストラリアの外交官との会話を要約した1950年2月におけるメモであった。アメリカ人やオーストラリア人の双方が戦争犯罪についての問題を除外することを望んでいると表明しており、議論の大半は、ソビエトが示す新たな証拠が何であれそれらを検証せずに、どのように東京裁判がソビエトの提案を除外することができるのかについてフォーカスしていた[37]。

33 例えば、OSS reports on Thai railroad traffic in NA, RG 59, lot file 58D7, box 89, folder: Americans in Thailand (location: 250/49/22/1)を参照せよ。

37 Memorandum of Conversation re: Soviet War Criminals Proposal, 8 February 1950, NA, RG 59, lot file 61D33, box 23, folder: War crimes–Emperor (Japanese) (location: 250/49/25/5)。

4 国立公文書館における日本の戦争犯罪についての記録:研究の皮切り

国立公文書記録管理局(NARA)のスタッフによる

ケーススタディ:日本の生物兵器プログラムに対する知見を求めて

1932年の日本の満州占領から1945年の降伏に至るまで、日本の科学者は動物や人間に対して生物兵器の実験を行っていた。隔離された秘密の軍事基地で、彼らは帝国政府から高度で大規模な支援を受けていた。強力な占領当局による支配の下で、多数の被験者に加えて、満州は人目から逃れることができる場所を日本の研究者に提供していた。

1945年11月1日に中佐であるマレー・サンダースによって行われた日本の生物兵器プログラムに対する戦後の最初の詳細な研究は、石井の指示で1930年代初頭に日本軍が大規模な生物兵器の実験を行っていたことを記していた。1935年に満州の日本人に対して生物兵器を使用していたと伝えられた後、もし戦争になればソ連が再度生物兵器を使用するだろうといったことを日本人は恐れていたとサンダースは記していた。彼はそのレポートを日本の関係者とのインタビューや実験記録に立脚しており、戦争中に破棄されたと噂されていた証拠書類に立脚していなかった。そうすることで、彼は日本の公式見解に近い見解を採用し、裕仁は人体実験を知らなかったと主張することによって、裕仁を弁護したいと願う人々の利益になるように行動していた。また彼のレポートは、日本の生物兵器に対する関与、人体実験については言うまでもなく行われた実験のタイプ、日本が開発した兵器の広がりの歴史を含んでいた[56]。

一方で日本の生物兵器に対する開発能力や犯罪行為に関するアメリカ側の知識の蓄積が拡大し続けていた。1947年8月に海軍情報局の技術情報センターは、日本が中国人の被験者に対して免疫に関する実験を行い、その細菌研究は平房区で行われていたと主張する"Naval Aspects of Biological Warfare"との表題のレポートを編集していた。特にこのレポートは、アメリカ人やロシア人の捕虜が血液サンプルを提供させられていた一方、死刑を宣告された満州の捕虜に対して不快な人体実験が行われていたことを主張していた。裕仁が石井による生物兵器の研究を支援していたと主張する戦後のGHQ/SCAPのレポートと反対に、このレポートは裕仁が石井のプロジェクトを禁止していたと述べていた[66]。

56 NA, RG 165, Records of the War Department General and Special Staffs, entry 488, New Developments Division, Security-Classified Correspondence, File of Dr. G. W. Merck, Special Consultant to the Secretary of War, 1942–46, box 181, file "Final Board Report" (location: 390/40/1/5)。

66 NA, RG 330, Records of the Office of the Secretary of Defense, Central Decimal Files, 1943–53, Confidential through Top Secret Subject Correspondence File, entry 199, box 103, folder CD 23-1-4 (3 of 7) (location: 190/25/17/7)。

8 CIAの個人別ファイル、アメリカ陸軍、占領下の日本におけるインテリジェンスが十分に機能しなかったこと

マイケル・ピーターセン

2005年の初めにCIAは、第二次世界大戦時の日本の有力者に関係しており、日本にあるアメリカ陸軍の情報部門の上層部によって監督されていた極東における大規模なインテリジェンスを明らかにする文書の機密を解除し、公開していた。日本の陸海軍の元将校によって指示され、緩く連携し、絶えず変化していた複数の諜報グループは、少将であるチャールズ・ウィロビーの指揮の下、GHQの情報部門であるG-2のために働いていた。アメリカの諜報部員は、アジアに対する欧米のヘゲモニーに反対し容赦ない戦争を計画し遂行した懲りない日本の保守派や軍の将校を、地域におけるアメリカの安全保障を高め、共産主義の台頭に抵抗するためのプロジェクトに従事させていた。そうする中で、反共産主義という最も曖昧な目標をアメリカの高官と共有し、しばしば変化し競合していたが本質的には保守強硬派のアジェンダを追求していたグループに対して、アメリカは物質的ないし金銭的な援助を与えていた。そしてさらに軍の情報部門によって直接的ないし間接的に採用されていた日本のエージェントは、過去において犯罪を犯していたか、もしくは犯罪を疑われる立場であった。

日本帝国政府戦争犯罪情報公開法以前には、日本の陸軍や海軍の将校に対するG-2の関与について断片的な証拠が存在するだけであり、社会的な地位のある右派と関連したG-2の活動を示す証拠書類は一貫性がなく、不十分であった。アメリカ国立公文書館記録管理局(NARA)にあるGHQ/SCAPについての記録に関する文書は、実質的に存在していなかった。証拠書類を欠く中で、歴史家は、軍事的なインテリジェンスに対する専門的な勘や協力者による記憶とインタビューに頼らざるを得ず、それらは話半分で、彼らは恥ずべき詳細において虚偽を申し立てる傾向にあった。それらは部分的に広範で正確な結論を引き出すことが可能であったけれども、文書が入手閲覧不可であったことは、それらの知見が推測に過ぎない可能性があることを意味していた。いわゆる「地下」組織に所属する多くの人物、彼らの資金源、秘密のオペレーションに関する詳細、それに関与した日本の有力者の巧みな二枚舌に関する詳細な議論は、手の届かないところに存在していた。彼らの仕事は、大きな注目を集めたナチスの戦犯のように、情報を集めるために、アメリカが戦犯や戦犯の疑いのある人々を利用していたことに対する実質的な評価を含んでいなかった[1]。

戦争犯罪の定義は一部の日本人にとって論争の対象であった。この章では、日本の戦犯は東京裁判で有罪と宣告された人々や他の軍事法廷におけるBC級戦犯として定義されていた[2]。他の軍事法廷におけるBC級戦犯は曖昧としており、過去において目立った戦争犯罪を犯していた人々や、連合国によってしばらく拘束されていた被疑者を含んでいた。占領当局はしばしば犯罪の容疑で他の軍事法廷におけるBC級戦犯のメンバーを拘束しており、時として証拠書類も存在していたが、多くの場合において拘禁者を起訴していなかった。その理由は多岐にわたり複雑であり、それは、戦後の国際政治、GHQ/SCAPの法務局が利用可能であったリソースが欠如していたこと、戦争から離れることを望んでいたアメリカの世論と比較して、それほど法的視点を考慮していなかったからであった。冷戦がアメリカの政策決定者の関心を集めていたので、裁判の対象であった人々はその関心から除外され、一方新たな証拠を集めることが年々困難になっていき、潜在的な被告も亡くなっていった。最後にこれに関連したカテゴリーは、例えば憲兵隊(日本の軍事警察)のように戦争犯罪で悪評を買った組織のメンバーや、A級戦犯を支援していた人々を含んでいた[3]。このような人々の大多数は告発されていなかった。特定の方法で、アメリカは問題を抱えながら全ての3つのカテゴリーにおける日本人の活動を支援していた。これらすべての人々がナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報公開法における関係者とされていた。

同様にCIAの文書は、冷戦初期の日本におけるCIAの作戦の拡大に対する理解を促しているため、注目に値するものであった。ダグラス・マッカーサー元帥は戦略情報局(OSS)やその後身であるCIAを軽蔑していた。マッカーサーの支援で、1950年までGHQの情報部門であったG-2はCIAが日本で自由に活動することを妨げていた[4]。しかしその年の初めまでに、CIAは、日本や他の外国機関のみならずG-2の活動をも監視する情報収集機関を組織し始めていた。日本におけるCIAのプレゼンスは急速に拡大し、冷戦が進行するにつれて深まり、占領が終了した1952年までに、CIAは日本における一大情報機関になっていた。この拡大に関する詳細の一部は現在でも追跡することが可能であった。

GHQ/SCAPとCIAの組織的な競合は、2つの組織の関係に大きく影響していた。CIAによって収集された情報に基づいていたため、以下の話はCIAの観点から語られており、G-2の関心、根拠、意思決定のプロセスを反映していなかった。それにもかかわらず、この文書のパッケージはこのテーマに関して利用可能な最大限の情報を提供していた。この章は、CIAが最近機密解除した文書や、アメリカ占領当局と、多くが過去において戦犯であり名を知られていたギャング、右派の元日本軍の将校、そして政治家とのインテリジェンスを通じた関係を明らかにしたことに対して部分的に評価を与えるものであった。文書は、冷戦初期の日本における道徳的にグレーな諜報活動に対する詳細な調査を提供しており、極東においてG-2によって利用されていた容疑がある人々を明らかにしていた。

ウィロビー、日本でのインテリジェンス、タケマツ作戦

第二次世界大戦を経て、元日本軍の将校や保守強硬派は、戦前の天皇制を維持し(アメリカの占領による制限の中でできる限り)、日本軍を再建するための緩やかなネットワークを形成していた。このネットワークは部分的には、終戦期の大本営の参謀本部第2部長であった有末精三によって形成されていた。1917年に精力的で抜け目のない有末は任官していた。1929年から1931年まで彼はイタリアのトリノにある陸軍大学に通い、さまざまなイタリアの歩兵連隊について学んでいた。1936年から1939年まで、有末はイタリア大使館付武官を経て大佐になっていた。1939年から1945年までに有末は数多くのポストを経験し、北支那方面軍参謀に属していた。彼は中将に昇進し、結局のところ大本営の参謀本部第2部長になっていた[5]。

G-2と異なる立場であるGHQ/SCAPの高官は有末がA級戦犯として起訴されるだろうと考えていた。イタリアでの武官として、彼は日独伊三国軍事同盟を巡る交渉において重要な役割を担っていた。事実、最近公開されたCIAの個人別ファイルの中にあるアメリカ陸軍の文書は、戦後一部の日本人が、なぜ「戦争の遂行に深く関与した」有末が逮捕されず、戦犯として起訴されていないのかについて疑問を感じていたことを明らかにしていた[9]。これらの文書によれば、有末は日本を破滅的な戦争に導いた天皇周辺の軍の将校グループにおける中心的な人物であった。東京裁判の検察側の重要証人であった田中隆吉少将は、「有末は三国同盟に関して[首相である]平沼の意思の背景にあった推進勢力であった」と述べていた[10]。

戦犯とインテリジェンス

秘密を保持することにおいて日本人の諜報部員や軍の関係者を利用することに対する作戦上の問題は多数存在していた。さらなる弊害は(戦争犯罪との関連の点で)これらの作戦から派生した問題であった。有末機関と河辺機関は、大きな犯罪活動によって戦時中の記録が傷付けられた多くの人々と大規模にコンタクトを取り、彼らの多くはG-2によって資金援助されていた作戦に関わっていた。CIAの個人別ファイルは、幾人もの有名な戦犯や戦犯を疑われた人々によって行われていた作戦をG-2が支援していたことを確認していた。直接ないし間接的に反共産主義を支持している日本人の傷付いた過去をG-2が見逃す用意があったことを、それらは明らかにしていた。児玉誉士夫と辻政信は、G-2がエージェントの過去を意図的に見逃した有名な例の内の2名であった。

辻政信

太平洋戦争で最も悪評を買い不起訴であった戦犯の1人をアメリカ側の諜報活動に採用したことに有末が責任を有していたことをCIAの文書は示していた。歴史家によって「狂信的なイデオロギーの指導者で残忍な参謀であった」と評される大佐である辻政信は、1930年に石川県で生まれていた[64]。1931年に彼は陸軍大学を卒業し、1939年の悲惨なノモンハン事件のときの関東軍の参謀であった[65]。彼は太平洋戦争前に大本営で有末と顔見知りになっていた[66]。辻は後に、バターン死の行進、中国、フィリピン、シンガポールの民間人の大虐殺、同様にシンガポール華僑虐殺事件を命じていたと評されており、日本がシンガポールを占領している間に死刑執行されたアメリカのパイロットを食していたと伝えられていた。CIAの文書は、辻がシンガポール華僑虐殺事件の拡大に関与していたことを示す多くの証拠を呈示しており、マレー半島で華僑を殺害する指令に連署していたことを示していた[67]。また戦争末期に日本軍を再興するための資金として、日本陸軍がフランス領インドシナから3トンの金を没収していた可能性を、アメリカの当局は調査していた。東南アジアに長くいた辻が部下にこの一部を分け与え、彼らにそれを連合国の目から隠すように命じていたことを、複数のレポートが示していた[68]。

1952年までに、辻はアメリカとの協調が日本を速やかに再軍備するための最善の方法であると確信しており、軍の元同僚からの非難に晒された立場にあった[82]。服部卓四郎はその中に含まれていなかった。児玉誉士夫達に支援された2人は日本独自の軍を再建する代わりにアメリカ軍の保護に依存する吉田茂の政策を快く思っていなかった。服部は、追放された人々や保守派に対する首相の反感を理由にして、吉田を長い間嫌っていた。1952年7月に服部は、吉田を殺害し、共感を覚える鳩山一郎や緒方竹虎を首相に据えるクーデターを目論んでいた。当初の熱狂にもかかわらず、辻は保守的な自由党が権力を握っている限り、服部がクーデターを思い止まるだろうと考えており、それは、日本で最も有名な戦犯の1人によって保護されたアメリカに対する最も忠実な政治的協力者という皮肉を子孫に残すことになった。それにもかかわらず、このグループは他の政府要人を殺害することを計画しており、吉田にそのメッセージを送っていた(216-217ページを参照せよ)[83]。1954年に鳩山は吉田を退陣させることに成功していたが、仮にそうだとしても服部や辻が吉田の退陣に対してどのような役割を担っていたのかについては不明であった。1952年に辻は国会議員に選出され、政治における華やかなキャリアが始まっていた。

占領後:CIAと日本のスパイ

1950年から1951年には、日本のインテリジェンスはすでに分裂していた。有力なインテリジェンスのリーダーの大半が有末と袂を分かっており、有末の気取った利己的な性格は多くの人々にとって阻害要因となっていたが、G-2と有末の頻繁なコンタクトが他の人々の上に彼を君臨させており、そのことは唯一の懸念材料であった。支持が徐々に減っていき、有末は、アメリカとの緊密な協力によって日本が再軍備することを主張し、G-2とのコネを獲得することによって、彼の影響力を維持することを望んでいた。この計画は裏目に出て、河辺とも疎遠になった。児玉誉士夫や渡辺渡のみが古いインテリジェンスを支えていた。

アメリカが日本の戦犯を採用したことはG-2に限ったことではなく、アメリカは社会的地位のある元軍人を積極的に利用していた。1950年代後半にCIAとコンタクトを確立した賀屋興宣は重要な例であった。賀屋は1937年の第1次近衛内閣の大蔵大臣であり、東條内閣で再度大蔵大臣に就任していた。彼は極東における日本のヘゲモニーの正当性を主張しており、真珠湾攻撃直前に「イギリスやアメリカを東アジアから撤退させること」が日本の目標であると公言していた[98]。戦後の東京裁判は、侵略戦争遂行に関していくつかの法廷と同様に、彼をA級戦犯として起訴し(戦争遂行に関する謀議)、終身刑を言い渡していた。1955年9月に彼は仮釈放され、1957年に恩赦されていた[94]。1958年に、保守的な日本人から支持されていた賀屋は国会議員に選出され、自民党(LDP)のリーダーになっていた。さらに彼は将来の首相である岸信介に最も信頼されたアドバイザーの1人であった。彼は国会議員に選出された直後に、自民党の安全保障調査会に加わっていた。反共産主義者である賀屋はその役割を完全にこなしているように思われていた。彼は日本の国家安全保障に関する問題に深く精通しており、釈放直後に、アメリカと日本の同盟関係の強化を主張していた[95]。

1959年の2月に賀屋は、国務省や海軍の政策立案に関する部局を含むいくつかの政府機関出身の議員と日本の安全保障について議論するために、アメリカに渡航していた。特に賀屋はCIA長官であるアレン・ダレスに会うことを望んでいた。日米安全保障条約を改定することに対する日本の世論を考慮すると、彼の海外視察は日米関係における敏感な点を扱っていた。CIAによれば、国際情勢に精通しており、アメリカとの協調を歓迎しており、自民党内で最も影響力の大きい政治家の1人であった賀屋は、潜在的に一流の情報提供者であった。しかしCIAはA級戦犯が中央情報長官(DCI)と協議することについて当然のことながら敏感になっていた。彼らは「賀屋が公職に復帰してから適切に振舞わない」恐れはほとんどないと判断していた[96]。1959年に彼を直接インタビューした後で、日本におけるCIAのエージェントは、賀屋は「大きな影響力を有し、精力的であり、おそらくそれ以上の存在になるだろうし、動機が何であれ、彼が公言していたアメリカ支持の姿勢は十分に真実味があった」と述べていた[97]。

1959年2月6日に日本大使館付書記官に随行された賀屋は、中央情報長官(DCI)の執務室を訪問し、日本は共産主義の浸透に関して脆弱であり、共産主義の浸透に対する抵抗を成功させることが仕事であるとダレスに述べていた。賀屋は、CIAと自民党の安全保障調査会との間でインテリジェンスを共有することをダレスに依頼していた。ダレスは異論を唱えていたが、その提案をCIAは日本で共産主義が浸透することを妨げる支援になると考えていた。その会合において「皆が、反体制運動に関してCIAと日本人が協力することは最も望ましいことであり、このテーマはCIAにとって大きな利益の1つであったことに合意していた」ことが確認されていた。また、その協力に関連した細目が実際に作成されるべきであり、それに従って日本におけるCIAの工作が通知されることに、双方が合意していた[98]。賀屋は、共産主義の脅威を取り除き、日米関係を強化するための取り組みにおいて成功を収めていた。

ダレスは個人的に主導して、賀屋をCIAの情報提供者にしていた。その6ヶ月後の8月に、彼は賀屋に機密扱いの手紙を送り、日本の政治家に対するCIAのコミットメントを確認していた。その中でダレスは、日米関係を良好に維持するために行う「全てのことについて懸念がある」と述べていた。特に彼は「両国間の関係に影響を及ぼす国際情勢や日本の状況の双方に対するあなたの考えを知ることに私は非常に関心を抱いている...」と記していた[99]。11月にCIA本部はダレスの手紙の後に、賀屋の活動の進捗や、それを背景にしてエージェントが政治家と共に活動することに対して関心を抱いているのかどうかについて照会を行っていた[100]。しかし8月から11月にかけて日本のCIAは賀屋について考えを改め始めていた。

1960年代初頭までに日本における諜報部員は、賀屋を以前に考えていたほど信頼できない人物として結論付けていた。1959年の夏から秋にかけて、彼らは諜報活動を通じて賀屋を詳細に観察しており、彼が以前ほど影響力を有しておらず、深刻な火種になるかもしれないことに気付いていた。彼らは、なぜ彼らが賀屋を利用したくないのかについて、中央情報長官(DCI)を含む上層部に説明することを気詰まりな仕事であると考えていた。

[賀屋との]最近のコンタクトの中で、[賀屋が]非常に強く手前味噌を述べ、どれほどよく東西間の緊張を理解しているのか、どのように彼が「1人で」安全保障条約の改定の裏で自民党全体を操縦することができるのかについてアメリカ側を感心させようとする傾向があることに私たちは気が付いていた。私たちが現代の[議会政治]の機微や政治活動の方法を理解していると考えている「保守的な」政治家として、[賀屋は]堂々とし過ぎていた...これを記している時点で私たちは、この関係から生じるさまざまなことについて楽観的になれなかった。

日本のエージェントは、賀屋とのコンタクトは彼らの主導によってのみ続けられるべきであり、彼を情報提供者として活用するべきではないと判断していた[101]。

このエピソードの後、1961年の香港でCIAは賀屋と偶然会合することになったが、1964年中頃まで彼に対してさらなる関心を抱くことはなかった。その年の夏に情報部門は日本において左派の脅威と見做しているものについて議論するために、仲介者を通じて彼とコンタクトを取っていた。この時点で賀屋を評価していたCIAのエージェントは、賀屋は「非常に信用でき安全保障についての意識があり、この評価に対する証拠は、第二世界大戦以降の日本の政治スキームの中で、彼が行ってきた指導的な役割の中に見出される」と主張していた[102]。CIA本部はこの評価を認め、1965年12月に彼を利用する作戦上の権限を与えていた[103]。3年後にCIAは、首相である佐藤栄作が掌握していた自民党のアドバイザーであった賀屋が自民党の情報を収集することや沖縄の選挙に反対する秘密活動を受け入れる可能性があり、彼に対するコンタクトがこれらの目的に一致する形で継続されるだろうといったことを報告していた[104]。不幸にもこの点について賀屋の活動に関して利用できる文書はこれ以上存在していなかった。1975年に、活動的でなくなったことを理由にして、CIAは賀屋を利用する作戦上の権限を取り消していた。そしてその2年後に彼は亡くなっていた。

日本における情報収集の教訓

CIAによって公開された個人別ファイルは冷戦初期の東アジアにおける情報収集についてかなりの程度を明らかにしており、このテーマについて記された歴史家の結論を確認していた。そして諜報活動を行った日本人がアメリカの利益と関係していない動機を有していたことは驚くべきことではなかった。不幸にも、ヨーロッパでクラウス・バルビー、オットー・フォン・ボルシュビンク、ラインハルト・ゲーレンを利用していたアメリカ陸軍の情報部門が、戦犯や戦犯を疑われた人々を利用して極東で情報を収集していたことに驚きはなかった。意図的にヨーロッパと極東の間でインテリジェンスを利用していたことに対する証拠は存在していなかったが、双方の地域において共産主義の拡大に対する恐怖が道徳的ないし政治的関心を煽っていたことは明らかであった。

とりわけGHQは安定を必要としていた。諜報部員を利用することにおいて、G-2は社会的地位のある日本の保守派をターゲットにしており、それはウィロビーたちが諜報活動が可能であると考えていた唯一のグループであった。日本のスパイはもちろん諜報活動にとって不可欠であったが、CIAの見方によれば、G-2の将校は、作戦に対するリスクや重要性に関わらず、あらゆる潜在的なスパイを利用する意思を有していたように思われていた。そのような人々を広く利用したことはアメリカの諜報活動に対して数多くの問題をもたらしており、その全てが当時明確に理解されていた訳ではなかった。

日本に対するCIAの個人別ファイルは、過去において疑問が残る情報提供者について情報部門の考えを示していた。CIAのアナリストは、アメリカの利益に反している限り、そのような間違った結果を日本人にでっち上げさせるさまざまな動機や、諜報活動の結果に対する懸念を示していた。G-2が採用した日本人の情報提供者に対するCIAの批判は、関与した個人が戦犯や戦犯を疑われた人々であったことではなく、彼らが間違った情報を渡していたことにあった。CIAのアナリストはアメリカの利益に反する日本人について政治思想、イデオロギー、個人的な仔細をすぐに確認していたが、過去の犯罪者や潜在的な情報提供者に対しては穏やかに懸念を表明する程度であった。事実、彼らは、評価の対象になった情報提供者の潜在的な犯罪行為について僅かな評価しか与えていなかった。日本人の工作員の過去を無視することによる潜在的な安全保障上のリスクは、さらなる研究を行う価値を残していた。

この新たな情報にもかかわらず、政策形成、諜報活動、犯罪行為といった分野におけるいくつかの基本的な問題は未解決のままであった。これらの関係が、日本政府と平和条約を交渉していたときのGHQ/SCAPの長期的な諜報戦略にどのように影響していたのかはまだ明らかではなかった。この文書における状況証拠は、ウィロビーが重要人物である日本人を戦犯として逮捕させることを妨げていたことを示唆していた。もしウィロビーが実際に戦争犯罪の調査を妨害していたならば、何かあるならば、何をCIAはそれについて知っていたのか[105]。CIAの個人別ファイルは、1950年代から1960年代にかけて首相になり戦犯を疑われていた岸信介のような社会的な地位のある右派とCIAがどのように関係していたのかについて僅かのことしか明らかにしていなかった[106]。どの程度CIAが犯罪者や犯罪者に類似した人々とコンタクトを取っていたのかについては隠されたままであり、これらの関係がインテリジェンスにもたらす恩恵も隠されたままであった。また文書は、どのように朝鮮戦争が戦争犯罪に対するCIAの態度に影響を及ぼしていたのかについても明らかにしていなかった。しかし、これらの問題に対する疑問を残していたけれども、ナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報公開法の下でCIAによって公開された記録は、冷戦初期の日米関係に関するテーマに対して広範で新しいアプローチを取る可能性を示唆していた。

1 例えば、Stephen Mercado, The Shadow Warriors of Nakano: A History of the Imperial Japanese Army’s Elite Intelligence School (Washington, DC: Brassey’s, 2002)、マイケル・シャラー、『アジアにおける冷戦の起源――アメリカの対日占領』(木鐸社、1996年)、竹前栄治、『GHQ』(岩波書店、1983年)、John Welfield, An Empire in Eclipse: Japan and the Postwar American Alliance System, A Study in the Interaction of Domestic Politics and Foreign Policy (Atlantic Highlands, NJ: Athlone Press, 1985)、Richard Breitman, et al., U.S. Intelligence and the Nazis (Washington, DC: National Archives Trust Fund Board for the Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group, 2004)を参照せよ。

2 東京裁判や他の軍事法廷による戦争犯罪の定義は一部の人々にとって論争の対象であった。これは特に東京裁判におけるA級戦犯に対して当てはまっていた。歴史的な論争は当然如く裁判所における起訴を巡って生じており、特に侵略戦争を遂行した謀議に対する告発が例として挙げられていた。確かに被告の選定はある意味で物議をかもす独善的なものであったが、法廷による決定は、当時の時代背景を考慮すれば、軍事法廷に対する証拠について容認された基準に基づいて合意されており、ドイツにおけるニュルンベルク裁判をモデルにしていた。東京裁判は多数の問題を抱えていたが、法的問題として捉えるならば、有罪を示す証拠が起訴手続きに基づいている限り、その結果は合法的であった。不法行為には広範な前例があり、容易に犯罪であると識別できるB項やC項に対する被告の裁判は、同じレベルの批判を誘発していなかった。ジョン・ダワー、『昭和――戦争と平和の日本』(みすず書房、2010年)、461-469を参照せよ。

3 確かに、アジア太平洋地域で日本人によって行われた犯罪の大半は正規軍の人員によって行われていたが、憲兵隊は中国やマレー半島で犯罪行為を犯したことで悪評を買っていた。また多くのアメリカの捕虜は侮蔑しながら彼らを取り扱った憲兵隊のメンバーを思い出していた。日本の憲兵隊について多くの研究が存在していたけれども、英語の学術文書は利用不可能であった。

4 竹前、英語版の167ページ。

5 Arisue Biographical Sketch, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 7, folder: Arisue, Seizo。

9 G-2 Intelligence Section Notes, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 7, folder: Arisue, Seizo。

10 Tanaka Ryukichi Statement, NA, RG 331, International Prosecution Section, entry 319, numerical case files, box 31, folder: Cases 155–159。また田中は有末が中国でのアヘン貿易に関連していたと考えていた。皮肉だが、田中は戦後の諜報活動を行うために有末と緊密に行動していた。

63 児玉に関するCIAの個人別ファイルの中の文書は、CIAが児玉達を通じたロッキード事件に気付いていたのかについて明らかにしていなかった。

64 ダワー、『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』の原著の511-512ページ。

65 Saburo Hayashi and Alvin Coox, Kogun: The Japanese Army in the Pacific War (Quantico, Va: The Marine Corps Association, 1959), 238。

66 ダワー、『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』の原著の511-512ページ。

67 CIA Report, date unclear (likely April 1952), in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。おそらく日本に抵抗する5,000名から25,000名の中国人やマレー人がシンガポール華僑虐殺事件で殺害されていた。

68 Gold, 22 May 1946, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu Vol. I。

69 Undated CIA Report, in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu, Vol. I。

70 CIA Report, date unclear (likely April 1952), in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。

82 Japanese I.S. Personalities, 9 March 1951, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu。

83 Coup d’etat Allegedly Being Planned by Ex-Militarists and Ultranationalists, 31 October 1952, Activities of Hattori Takushiro, 10 December 1953, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name