ワシントン・コンセンサスの何が問題か、パート2ーアメリカ、フランス、ドイツのWikipediaの「ワシントン・コンセンサス」の項目を読んで考えたこと

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ウィリアム・プファフによれば、外交問題に対してアメリカの主流派メディアはワシントンの意思に基づいた形式的な中道主義の立場をとることが慣例になり、アメリカにおける国際情勢の報道はほぼ完全に大企業の利益を代弁するワシントン主導になり、ワシントンが意図的に情報を与えない回答をし、メディアからの不快な見解に横槍を入れていることが常態化しているとされる現状や、Fairness & Accuracy In Reporting (FAIR)によれば、主流派メディアは政府と敵対関係にあると主張しているにもかかわらず、実際のところワシントンの公式見解に追随しており、議論の幅が、民主党や共和党による立場の違いといった比較的狭い範囲に落ち込んでいるとされる現状が示唆することは、日本国内の主流派メディアについても同様のことを推察できるが、一般のアメリカ人がワシントンの外交政策に対してほとんど関心をもっていないとされている構造的背景を説明しており、それは、アメリカのメディアに対して暗黙の規制をかけて、大企業の利益に偏らない公共の利益を増加させることに貢献することがなかった市場の失敗の例につながるかもしれないが、加えてメディアが伝えないことの中に重大な問題が存在していることも世界的な社会問題に含まれるだろうと考えることがあった。

ワシントンが要求している構造改革プログラムはワシントン・コンセンサスの延長であると考えることが可能であるが、それはアメリカの政治に対する経済力を背景にした覇権的な政治プログラムであり、IMF、世界銀行、アメリカ財務省、多くのワシントンのシンクタンクにより組織されており、サプライサイドの政策、自由貿易、輸出志向の経済政策を含んだニューライト(レーガノミクス、サッチャリズム)以降ずっと継続してきたものであると言及されているが、そのことを主流派メディアで目にする機会が少なかったのは前述のような報道に対する社会厚生を損ねる暗黙の規制が存在しているからであろうか。

ジョセフ・E・スティグリッツによればワシントン・コンセンサスの結果として、西アフリカにおいて国家の役割の縮小を通じ、民間セクターが対応する業績を上げなかったのみならず、数少ない豊かな農家による独占体制が構築されていたこと、ロシアにおける民営化が寡占の出現と市場の歪みや所得の不平等を生み出していたこと、トリクルダウン理論と反対に発展途上国における経済成長が社会的不平等を悪化させていたこと、IMFが金融危機に直面した国々に対して十分な社会政策を採用せずむしろ食糧補助金の廃止を求めていたことは、IMFがワシントン・コンセンサスを目的として理解するよりむしろ手段として理解していたことや、ワシントン・コンセンサスが完全競争や完全情報を含む理想論に基づいており、発展途上国にとってはほとんどその現実との関連がなかったことの結果になるとされており、政策を適切に実施するとは単なる手続きの問題ではなくその趣旨を十分に反映させることが求められている現状を、日本国内における制度の運用と対比させることがあった。

マイケル・スペンスによれば、貧困を削減するために強い国家が必要であるとされており、そしてIMFによれば、不況を避けるために財政赤字を含む予算を編成し、社会保障のために支出を増加し、資本移動に対して課税する必要があることが認識されており、一部に関して勧告を促していたことは、エコノミストや政策立案者たちによれば、ワシントン・コンセンサスが不完全であり、「第一世代」のマクロ経済的そして貿易に関する改革から離れて生産性を向上する改革や貧困層を直接支援するプログラムに強くフォーカスすることへシフトする必要があることに対する合意が存在していたからであり、投資環境を改善し、官僚的形式主義を取り除き(特に小規模な企業において)、制度を強化し(司法システムのような分野において)、メキシコやブラジルのような国々で採用された条件付き所得移転プログラムを通じて直接貧困と闘い、初等・中等教育の質を高め、技術を開発し吸収する国の効率を向上させ、ラテンアメリカの先住民やアフリカ系人口集団を含む歴史的に恵まれない集団の特別なニーズにどれだけ対応できるかといった現在の「第二世代の」ワシントン・コンセンサスを巡る議論にシフトしているからであろうと考えることがあった。

2009年のG20ロンドン・サミットでゴードン・ブラウンが「古いワシントン・コンセンサスは終焉を迎えた」と述べていことや、ジョン・ウィリアムソン自身がワシントン・ポストに対し「ワシントン・コンセンサスが新自由主義として解釈されるならば、(ゴードン・ブラウンの見解は)正しいと思っている」と述べていたことは、前述の議論の背景を説明する言葉になるが、2010年のG20ソウル・サミットがソウル開発コンセンサスにおける合意に達したとき、フィナンシャルタイムズ紙が「文書は終焉を迎えて久しいワシントン・コンセンサスの棺に別の釘を打ち込んでいるにすぎないだろう」と述べていたことを併せて考慮すると、現在のワシントン・コンセンサスを巡る議論は過渡期に相当しているがゆえに、さまざまな状況に展開することが想定されるものの、ダニ・ロドリックによれば、原理主義的な貿易の自由化が経済発展に好ましい影響を及ぼすだろうとは考えられず、一般的なコンセンサスとして、市場原理主義は力を失っているので、2008年の世界金融危機を通じて基本的にはワシントン・コンセンサスは終焉を迎えていたとされる見方に説得力があると思われることがあった。

実証分析を通じて、その量的影響は自由貿易の支持派や反対派によって主張されているよりはるかに小さいとされる見解がある一方で、自由貿易の支持者による「参加国の企業に利益を促し、アメリカの消費者に恩恵をもたらし、安価な外国製品を享受する」との見解で用いられている便益を、例えばラルフ・ネーダーによる「メキシコのような安い労働市場に生産拠点を移すことによって、メキシコの労働者を搾取し、アメリカの労働者階級に害をなす」との見解で用いられている損失と適切に比較することが求められているが、アメリカやヨーロッパからの補助金付きの大量の農産物が、経済的に農業に依存する多くの発展途上国の市場に溢れているとの指摘を考慮すると、自由貿易の思想と現実に進行しているグローバル化による格差の拡大が整合性の取れないものとして説明されているのではなかろうかとの見方に説得力があるかもしれないと考えることがあった。

ノーム・チョムスキー、タリク・アリ、スーザン・ジョージ、ナオミ・クラインのような世界のグローバル化に対する批評家たちは、ワシントン・コンセンサスの処方箋を、先進国の企業による搾取の対象として、発展途上国の経済における労働市場を開放させているにすぎないとみなしており、労働は、ビザや就労許可の要件のために自由に移動することを許されていないことから、発展途上国の経済における安い労働力を用いて財が生産され、第三世界の労働者たちは依然として貧しいままであり、先進国の労働者たちは失業に直面し、多国籍企業の豊かな所有者たちはさらに豊かになっているとの彼らの見解が、ラテンアメリカに大きな経済のブームをもたらさず、深刻な経済危機や対外債務を残したことの背景に付け加えられるかもしれないが、多くの発展途上国におけるインフレーションは現在数十年間にわたって最も低いレベルにあり(ラテンアメリカの多くでは一桁になる)、外国投資によって生み出された工場の労働者たちは彼らの自国の労働条件よりも高い賃金とより良い労働環境を手にしていると見られており、ラテンアメリカの多くにおける経済成長は歴史的に高い水準にあり、経済規模と比較した債務残高は概して数年前より低い水準にあったとされる見方が一方で存在していることと適切に比較される必要もあるだろう。

実際のところマクロ経済の指標の改善にもかかわらず、貧困と不平等はラテンアメリカで高い水準に留まっており、約3人に1人の人々つまり全体で1億6500万人の人々が1日につき$2以下で生活しており、同様の割合の人口が電気や基本的な衛生に対するアクセスを有しておらず、推定1000万人の子供が栄養失調に苦しんでいた事実や、国家主導の輸入代替や市場志向型の自由化の時代にあっても経済的に不平等な地域であり続けていた事実を考慮すると、ホルヘ・タイアナが2005年8月16日に国営通信であるテラムとのインタビューの中でワシントン・コンセンサスを批判しており、「南半球のかなりの数の政府が1990年代にこれらの政策を採用したときの前提を再検討している」と述べていたことが、前述の「第一世代の」ワシントン・コンセンサスに対するいくつかの改善点へと導くことになったのであろうかと考えることがあった。

他方で「第一世代の」ワシントン・コンセンサスにせよ「第二世代の」コンセンサスにせよ、たまたま現在存在していたにすぎない既得権益に配慮した制度であり、政治的権力を獲得し、地域において労働搾取を維持することに対して強い関心を有している小規模で、裕福で、地域に根差したエリートの繁栄を確保するメカニズムであるとの批判や、スティグリッツによる「第一世代の」ワシントン・コンセンサスに基づく政策の背景にある市場原理主義的なイデオロギーが終焉を迎えたものとしての認識は妥当であろうと考えることがあり、前回の記事でも述べた通り間違った経済政策の歴史を学ぶ必要性に変化が生じている訳ではない。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカ、フランス、ドイツのWikipediaの「ワシントン・コンセンサス」の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://en.wikipedia.org/wiki/Washington_Consensus

ワシントン・コンセンサス

ワシントン・コンセンサスといった用語は1989年にエコノミストであるジョン・ウィリアムソンによって造られ、ワシントンD.C.に基づいた機関である国際通貨基金(IMF)、世界銀行、アメリカ財務省によって危機に直面した発展途上国の経済を促進させるための「標準的な」改革パッケージを構成すると考えられていた比較的特定化された経済政策の処方箋のセットを説明していた[1]。処方箋は、マクロ経済の安定化、貿易や投資における経済の開放、国内経済における市場の拡大のような分野における政策を含んでいた。

ウィリアムソンの研究の後、ワシントン・コンセンサスといった用語は副次的なより広い意味で一般的に用いられるようになり、強い市場ベースのアプローチに対するより全体的な方向性(時として軽視の意味を込めて市場原理主義や新自由主義と呼ばれている)を参照していた。一部の著者たちが示唆するように、政策の処方箋が(用語の意味を広く解釈するのかそれとも狭く解釈するのかを含めて)特に影響力を有していた時代に普及していた歴史的意味を込めて、ワシントン・コンセンサスといった用語は時として同様に用いられていた。彼の10項目に及ぶ狭く定義された処方箋は主に「存在意義とメリットがある」状態をもたらしていたが(当然広く解釈されている)、「より広い新自由主義のマニフェストは(ワシントンにおける)や他のいかなる場所においてもコンセンサスを得ておらず」、コンセンサスの意義は失われてしまったと今では合理的に語られるようになっていたことをウィリアムソン自身は論じていた。

ワシントン・コンセンサスに関する議論は長い間続いていた。前述されたより広い定義とより狭い定義との対照性に直面して、この問題は用語によって何が意味されているのかについて合意がなされていなかったことを部分的に反映していた(明確なことだが、コンセンサスに対して重要な勧告を含めること(もしくは拒否すること)をさまざな形で主張する国々における成功や失敗に関しかなりの議論があったが、ほとんどはコンセンサスに至らなかった)。しかし同様に内在する実質的な違いもあった。この記事で論じられている批評の一部は、例えば、グローバル・マーケットに発展途上国を開放することに対するワシントン・コンセンサスの強調や、国家の重要な機能を犠牲にして、彼らが国内の市場要因の影響力を強化することを過度に強調したものとして眺めているものに反対していた。以下で論じられる他のコメンテーターにとって、社会的に最も弱い立場にある人々のための機会を改善するための制度構築や目標に向かう努力のような分野を含めて、問題点は、コンセンサスの中で語られているものより語られていないもののほうに多く存在していた。これらの分野の議論にもかかわらず、かなり多くの著者たちや開発組織は今日では、すべての場面に当てはまる唯一の対処法よりむしろ、個々の国々の特定の状況に当てはまる戦略の必要性といったより一般的な提案を受け入れていた。

1 歴史

1.1 用語の本来の意味:ウィリアムソンによる10のポイント

ワシントン・コンセンサスという概念と名前は、ワシントンD.C.にある国際的な経済シンクタンクである国際経済研究所のエコノミストであるジョン・ウィリアムソンによって1989年に発表された[1]。国際通貨基金、世界銀行、アメリカ財務省のようなワシントンに本拠を置く機関による政策の助言における一般的に共有されたテーマを要約するためにウィリアムソンはその用語を用い、それは1980年代の経済・金融危機からラテンアメリカを回復させるために必要であると信じられてきた。

本来ウィリアムソンによって述べられていたコンセンサスは比較的特定された政策勧告の10に及ぶ広範なセットを含んでいた[1]。

GDPと比較して大きい財政赤字を避けるような財政政策の規律。

公共支出を補助金(特に無差別な補助金)から初等教育、医療サービス、インフラ投資のような重要な成長指向、貧困対策指向の広範な提供に向けること。

税制改革に関し、課税ベースを拡大し、適度な限界税率を採用すること。

利子率は市場によって決定され、実質ベースでプラスであること(しかし適度であること)。

競争に基づく変動為替レートの採用。

貿易の自由化:量的制限(認可等)を取り除くことを特に強調した輸入の自由化、低率で比較的均一な関税による貿易の保護。

国内への外国からの直接投資の自由化。

国営企業の民営化。

規制緩和:安全、環境や消費者保護の立場、金融機関の健全性の監督を正当化するものを除いて、市場参入を妨げ、競争を制限する規制の廃止。

財産権の法的保障。

ウィリアムソンによる対処法は政策課題を進める上でワシントンに本拠を置く機関の役割を強調しているが、多くの著者たちは、ラテンアメリカの政策立案者たちは彼らの国々に対する彼ら自身の分析に本来基づいた彼ら自身の政策改革のパッケージを有していることを強調していた。このように『市場対国家』の著者であるジョゼフ・スタニスローとダニエル・ヤーギンによれば、ワシントン・コンセンサスの中に記述されている政策の処方箋は「地域の中と外で生じたものに対応して、ラテンアメリカの中でラテンアメリカ人によって展開されていた」[2]。ジョセフ・スティグリッツは「ワシントン・コンセンサスに基づく政策はラテンアメリカの実際の問題に対処するために設計されており、非常に意味がある」と記していた(しかしスティグリッツはその時発展途上国に適用されたIMFの政策を辛口に批評していた)[3]。政策が本来外部からもたらされるワシントン・コンセンサスという用語によって伝えられる含意を眺めると、スタニスローやヤーギンは、用語の生みの親であるジョン・ウィリアムソンが「それ以来その用語を後悔しており」、「外交的なスローガンでないと考えることが難しくなった」と述べていたと伝えていた[4]。

ナンシー・バーズオール、アウグスト・デラ・トーレ、フェリペ・バレンシア・カイセドによる2010年の論文は同様に、本来のコンセンサスの中にある政策は主にラテンアメリカの政治家やテクノクラートによってもたらされたものであり、ウィリアムソンの役割は政策のパッケージを形成するよりむしろ、初めて1つの場に10のポイントを集めたことにあったことを示唆していた[5]。

2002年のウィリアムソン自身の言葉:

用語の生みの親にとって「ワシントン・コンセンサス」というフレーズがブランド名に被害を与えたことを否定することは困難であった(ナイム,2002)。世界中の人々が、これがワシントンに本拠を置く国際金融機関によって不運な国々に課され、それらの国々に危機と惨事を導いた一連の新自由主義的政策を意味していたことを信じているように思われていた。そして口角泡を飛ばすことなくその用語を口にできない人々が存在していた。

私自身の見解はもちろん全く異なっている。ワシントン・コンセンサスに集約しようとした基本的な考え方は、ルーラが当選するために支持を集めたように、過去10年においてより広範な支持を獲得し続けていた。大部分において、それらは存在意義やメリットを有しており、そういう理由でそれらはコンセンサスを強制していた[6]。

1.2 用語の広い意味

ウィリアムソンは、その用語が彼の元々の意味とは異なる意味で一般的に用いられていることを認識していた。より広い市場原理主義(もしくは新自由主義)に基づく政策課題を扱うための当初の対処法の後一般的になったその用語の代替的な使用に彼は反対していた[7]。

私はもちろん、私の用語が資本の自由化(...意識的に除外していた)、マネタリズム、サプライサイド経済学、最小国家(福祉の提供や所得の再分配を除外した国家)のような政策を含める意図をもっておらず、それらを私は本質的に新自由主義の考え方とみなしていた。もしそのようにその用語が解釈されるならば、私たちはみなそう意識することができるが、私たちは少なくともこれらの考え方がワシントンではめったに支配的になることがなく、そこであれどこであれコンセンサスを強制したことはないといった良識を有している...[6]。

具体的にはウィリアムソンは、彼の10の処方箋の内最初の3つは経済コミュニティーの中では議論の余地がないと論じていたが、一方他はいくらかの論争を引き起こしていることを認識していた。彼は、最も論争を引き起こしていない処方箋の1つである、支出をインフラ、医療、教育へ向けることがしばしば無視されていると主張していた。彼は同様に、その処方箋が政府のある機能を縮小する(生産的な企業を所有者にする)ことを強調している一方、同様に教育や健康を支援するような他のアクションを実施する政府の能力を強化していると論じていた。ウィリアムソンは、市場原理主義を支持せず、もし正確に実施されるなら、コンセンサスによる処方箋は貧困層に対して有益となるだろうと考えていると述べていた[8]。2003年にペドロ=パブロ・クチンスキーと編集した著作の中で、ウィリアムソンは拡大された改革計画を打ち出し、経済危機の証拠、「第二世代の」改革、不平等や社会問題に言及する政策を強調していた(クチンスキー,ウィリアムソン,2003)。

ワシントン・コンセンサスという用語は、1970年代のケインズ主義に代えて自由市場政策に全般的にシフトすることを把握するために用いられていた。この広い意味では、ワシントン・コンセンサスは時として約1980年頃に始まったと考えられていた[9][10]。特にもし用語を広い意味で解釈するならば、多くのコメンテーターたちはそのコンセンサスは1990年代に最も影響力があったと考えていた。一部はそのコンセンサスは世紀の変わり目に終焉を迎え、少なくとも約2000年以降影響力が小さくなったと主張していた[5][11]。さらに一般的なことを言えば、コメンテーターたちはそのコンセンサスは2008年から2009年の世界的な金融危機の頃まで影響力を保持していたことを示唆していた[10]。市場の失敗に対して政府が実施する強力な介入により、多くのジャーナリスト、政治家、世界銀行のような国際機関の高官はワシントン・コンセンサスは終焉を迎えたと言い始めていた[12][13]。これらはイギリス前首相であるゴードン・ブラウンを含み、彼は2009年のG20ロンドン・サミットで「古いワシントン・コンセンサスは終焉を迎えた」と述べていた[14]。ウィリアムソンは2009年4月にワシントン・ポストから、ワシントン・コンセンサスは終焉を迎えたとのゴードン・ブラウンに彼が同意するかどうかを尋ねられ、こう回答した。

それは人がワシントン・コンセンサスによって何を意味するかに依存している。もし人が私によって輪郭を示された10のポイントを意味しているならば、それは明らかに正しくない。もし人が著名なジョセフ・スティグリッツを含む多くの人々が新自由主義のような意味を押しつける解釈を用いているならば、私はそれは正しいと思っている[15]。

2010年のG20ソウル・サミットがソウル開発コンセンサスにおける合意に達したことを発表した後、フィナンシャルタイムズ紙は「開発に対するその実践的かつ多元的な視点は十分に魅力的である。しかし文書は終焉を迎えて久しいワシントン・コンセンサスの棺に別の釘を打ち込んでいるにすぎないだろう」と述べていた[16]。

2 背景

IMFや世界銀行から融資を受けるために条件として課された改革のパッケージのさまざまな部分を実施しようと多くの国々が労力を重ねていた[9]。これらの改革の成果は非常に議論を呼んでいた。一部の批評家は改革が不安定化につながったという主張を強調していた[17]。一部の批評家は同様に、アルゼンチン経済危機(1999–2002)のような特定の経済危機に対して、ラテンアメリカの経済的不平等を悪化させるとして、ワシントン・コンセンサスを批判していた。ワシントン・コンセンサスに対する批判はしばしば社会主義や反グローバリズムとして片付けられてきた。これらの理念はこれらの政策を批判していた一方、そのコンセンサスに対する経済学からの一般的な批判が現在広く確立しており、例えばハーバード大学の国際政治経済学の教授であるダニ・ロドリックの論文である『さようならワシントン・コンセンサス、ようこそワシントンの困惑へ』などで概説されていた[18]。

そのコンセンサスを形成していた機関は主にグローバル化をめぐる政治的圧力により2000年代にはこれらの政策に対する主張を軟化させ始めていたが、一般的なコンセンサスとしてのこれらの考え方に対する言及は、市場原理主義が力を失っていたので、2008年の世界金融危機の頃には基本的に終焉を迎えていた。しかし、コアとなる特定の政策の大半が今なお一般的に好意的にみなされているものの、その政策は深刻な経済危機を防止することも緩和することもないと見られていることが留意されるべきである。1990年代後半のアジア通貨危機の間に韓国が受け入れることを強制された新しい種類の介入プログラムを造り上げた韓国とIMFの作業の中でこのことはおそらく最も顕著であった。ワシントン・コンセンサスに基づくその介入は「アジアの連鎖反応」を止めたためにその時は賞賛されていたが、結局のところそのプログラムはさらに懐疑的に見られるようになっていた。

ウィリアムソン自身は多くの国々における成長、雇用、貧困の削減に対する全体的な結果を「控え目に言っても、失望に耐えない」とまとめていた。彼はこの限定的な影響を3つの要因に帰していた。(a) コンセンサス自体は経済危機を回避するためのメカニズムを特に強調しておらず、そのことは非常に有害となりうることを示していた。(b) 彼の記事に記載されていた政策と、さらに有力な理由になる、実際に実施された政策の双方を通じた改革は不完全であった。(c) 採用された改革は所得分配を目標にした改善について不十分な意欲しか示しておらず、この方向性に沿ったより強力な努力によって実施される必要があった。しかし元々の10の処方箋を放棄するための議論よりむしろ、ウィリアムソンはそれらが「存在意義とメリットを有しており」、「議論する必要はない」と結論づけていた[6]。ウィリアムソンや他のアナリストたちは、チリのような関連する政策の変更を一貫して採用している多くの国々における経済のパフォーマンスの長期における改善を指摘していた。

ウィリアムソンが指摘していたように、用語は市場原理主義や新自由主義に対する同意語として元々の意図に対してより広い意味で用いられるようになった。このより広い意味で、ウィリアムソンはジョージ・ソロスやノーベル賞受賞者であるジョセフ・E・スティグリッツのような人々によって批判されていたと述べていた[8]。ワシントン・コンセンサスは同様にラテンアメリカの政治家のような他者やエリック・レイナートのような正統でない経済学者たちによって批判されていた[19]。その用語は一般的に新自由主義政策に関連しており、国々の国家主権に関わりながら、自由市場、国家に対する制約、アメリカの影響力の役割の拡大やより広範なグローバル化についての幅広い議論の中に描かれていた。

「安定化、民営化、自由化」は発展途上国で最初の経験を積んだテクノクラートや彼が助言した政治的リーダーの世代にとってのスローガンになっていた[18]。—ダニ・ロドリック、ハーバード大学国際政治経済学教授、12月6日、JELにて。

意見が経済学者の間で異なる一方、ロドリックは事実におけるパラドックスであると彼が主張するものについて指摘していた。中国やインドが限られた範囲で自由市場の力に対する経済的依存度を増している一方、彼らの全般的な経済政策はワシントン・コンセンサスに基づいた主な勧告と正反対であった。両国は1990年代を通じて高いレベルの保護主義、民営化に積極的でない姿勢、大規模な産業政策の立案、緩慢な財政・金融政策を採用していた。もし両国が失敗していたならば、両国は勧告されるワシントン・コンセンサスに基づく政策を支持する強い証拠を示していただろう。しかしながら両国は成功していることが判明していた[20]。ロドリックによれば「支持者や懐疑論者によって示される教訓は異なっている一方、誰も本当にこれ以上ワシントン・コンセンサスを信じていないことは明白だった。問題は今やワシントン・コンセンサスが終焉を迎えたのか、まだ有効であるのかではなく、何がワシントン・コンセンサスに取って代わるのかになった」[18]。

1990年代の中国やインドにおけるロドリックの説明は普遍的に受け入れられていなかった。とりわけこれらの政策は国内外において市場の力に大きく依存する方向へ舵を切っていたことを含んでいた[21]。

2003年にペドロ・パブロ・クチンスキーとともに編集した著作の中でジョン・ウィリアムソンは、経済危機の証明、「第二世代の」改革、不平等や社会問題に対処する政策を強調し、改革計画の拡大を打ち出していた。

3 マクロ経済の改革

政府によるワシントン・コンセンサスの広範な普及は、1980年代を通じラテンアメリカや他の発展途上の地域を襲ったマクロ経済上の危機に対する大規模な反応だった。危機の理由は複数存在しており、OPECの出現による輸入石油価格の高騰、対外債務の増加、アメリカの金利の高騰(国際的な要因になるが)、上記の問題に対する結果としての追加的な対外債権へのアクセスを失ったことが挙げられていた。数十年間ラテンアメリカや他の場所の多くの発展途上国によって追求されてきた輸入代替政策は、輸入石油に対する追加的な費用に対しすばやく支払うための輸出を拡大するには準備不足の経済だった(対照的により輸出指向型の戦略を続けていた東アジアの多くの国々はさらに輸出を拡大することを比較的容易にしており、経済的、社会的混乱を少なくして外的ショックに対応していた)。さらに外部から借り入れることも容易に輸出から利益を上げることもできず、多くのラテンアメリカの国々は大きな財政規律を通じて国内需要全体を縮小することに対する維持可能な選択肢を獲得しておらず、一方並行して、保護主義を縮小し、経済の輸出志向を強化する政策を採用していた[22]。

4 貿易の自由化

ウィリアムソンによるワシントン・コンセンサスは主に貿易改革の一方的なプロセスを想定しており、それによって国々は(特に)関税や非関税障壁を低下させていた。ラテンアメリカを含む多くの国々はその後数年にわたって非常に一方的な貿易の自由化を実施しており、より大きな輸入競争に経済を開放し、同時にGDPにおける輸出品のシェアを増加させていた(並行して世界の貿易に占めるラテンアメリカのシェアは同様に増加していた)。

ウィリアムソンによるワシントン・コンセンサスに関連した別の議題は、世界(WTO)や地域レベルであれ、多国間貿易自由化のためのさまざまなプログラムに関心があり、北米自由貿易協定(NAFTA)や米・中米・ドミニカ共和国自由貿易協定(DR-CAFTA)を含んでいた。

4.1 NAFTAやDR-CAFTA

1990年代初頭のアメリカ大陸における地域貿易の自由化について、アメリカ大統領であるジョージ・H・W・ブッシュは北米自由貿易協定(NAFTA)として知られるようになるアメリカ・メキシコ・カナダによる自由貿易についての提案を策定し始めていた。NAFTAは後にブッシュの後継者であるビル・クリントンによって法案に署名され、北米の3ヶ国はお互いの財に対する関税を縮小し、徐々に廃止することに合意しており、その政策はそのコンセンサスに完全に沿ったものだった。大統領であるジョージ・W・ブッシュはNAFTAを支持し続け、彼の政権はドミニカ共和国や中央アメリカと米・中米・ドミニカ共和国自由貿易協定として知られる類似の協定を交渉し、それは2005年にアメリカ議会で承認された。

NAFTAやDR-CAFTAの支持者たちは、それらが参加国の企業に利益を促し、アメリカの消費者に恩恵をもたらし、安価な外国製品を提供することを指摘していた。政治的左派(特に労働組合運動における同盟やラルフ・ネーダーのような反グローバリゼーション左派を含む)と政治的右派(特にパトリック・J・ブキャナンによって示されたナショナリストや移民排斥主義者の主張)の双方を含む批評家は、メキシコのような安い労働市場に生産拠点を移すことによってアメリカの労働者階級に害をなすとして協定を批判しており、そのような移転はメキシコの労働者を搾取する結果となると伝えていた。逆にアメリカからの補助金付きの大量の農産物が経済的に農業に依存している多くの国々の市場に溢れていた。

実証研究はアメリカ経済に対するこれらの貿易協定の量的影響は支持者や批判者による予測よりもはるかに小さいことを見出していた[23]。

民主党の大統領であるビル・クリントンがNAFTAに署名し、共和党の大統領であるジョージ・W・ブッシュがCAFTAに署名する一方、これらの協定に対するアメリカ議会のその後の支持は党派色の強いものだった。ほとんどの共和党員はその協定に賛成であり、ほとんどの民主党員はその協定に反対しているか、修正を求めており、例えば環境保護や労働者の権利に関して強力な規程を付け加えていた。

5 ワシントン・コンセンサスに基づく政策に対する批判

ほとんどの批判は貿易の自由化や補助金の撤廃に焦点を当てており、批判は特に農業部門を強調していた。しかしかなり天然資源を保有する国々での批判は産業の民営化やこれらの資源の搾取に焦点を当てる傾向があった。

その政策はもともと主にラテンアメリカに対する保守的な対応として考えられていたが、2010年のように、いくつかのラテンアメリカの国々は社会主義者や他の左派政権によって率いられ、アルゼンチンやベネズエラを含むいくつかの国々はワシントン・コンセンサスに反対する政策(ある程度は採用されていた)を肯定する運動を続けていた。ブラジル、チリ、ペルーを含む左派政権である他のラテンアメリカの国々はウィリアムソンのリストに含まれる政策群を採用していたが、これらがしばしば関連している市場原理主義を批判していた。同様にジョセフ・スティグリッツやダニ・ロドリックのような一部のアメリカの経済学者はIMFによって実際に行われていた政策を批判しており、彼らは、IMFやアメリカ財務省の「原理主義的な」政策として示されるものに対して、時として、スティグリッツが個々の経済に対する「すべての場面に当てはまる唯一の対処法」と呼んでいる政策を理由にして、疑問を投げかけていた。スティグリッツによれば、IMFによって提案される対処法は非常に単純すぎており、優先順位を付け、副作用を確認することなく、安定化、自由化、民営化を1回行えばすぐに効き目が現れるといったものではなかった[24]。

改革は彼らが意図した通りにいつも機能しなかった。一般的に成長はラテンアメリカではかなり改善されているが、大半の国々では改革者たちがもともと期待していた以下の成果に止まった(上述される「移行の危機」は以前の社会主義経済の一部で期待されたより深く長く続くものになった)。1990年代におけるサハラ以南のアフリカでのサクセスストーリーは比較的少数のやや極端な例になり、彼ら自身による市場志向の改革は大陸が巻き込まれた増大する公衆衛生上の緊急事態に対処する方法を示唆するものではなかった。批評家は一方、失望させる結果は標準的な改革に対する計画の不適切さに関する懸念の正しさを立証していると主張していた[25]。—ハーバード大学教授、ダニ・ロドリック

批判は1990年代の経済成長に関する世界銀行の研究に対して行われていた。『改革の10年から学ぶこと』(2005)はワシントン・コンセンサスのもともとの考え方からどれほどかけ離れた議論が行われてきたかを示していた。世界銀行のアフリカ担当副総裁であるゴビン・ナンカーニはこう序文に記していた。「唯一の普遍的なルールといったものは存在していない....私たちはルールや達成しにくい「最善の実施状況」を模索することから離れる必要がある....」(p. xiii)。世界銀行は、謙虚さ、政策の多様性、選択的で適度な改革、実験性を必要としていることを強調していた[27]。

『改革から学ぶこと』という世界銀行のレポートは1990年代に行われた一部の開発を示していた。共産主義から市場経済に移行している一部の国々(しかしすべてではない)の産出において深く長期化した崩壊の過程が存在していた(中欧や東欧の国々の多くは対照的に比較的早く調整を行っていた)。10年以上もの移行過程において、以前の共産主義の国々の一部、特に旧ソ連の一部は1990年の産出水準に追いついていなかった。政治改革の努力や政治的、外的環境の変化にもかかわらず、多くのサハラ以南のアフリカ諸国は1990年代に経済を軌道に乗せることに失敗し、多量の対外援助の流入に頼っていた。ウガンダ、タンザニア、モザンビークはいくらかの成功を示した諸国に含まれていたが、安定した成功ではなかった。ラテンアメリカ、東アジア、ロシア、トルコにおいては成功をともなうが痛ましい金融危機が存在していた。1990年代前半のラテンアメリカの回復は後半の危機によって中断されていた。1950-80年代における世界経済の戦後の急速な拡大や幕開けと比較すると、ラテンアメリカにおける1人あたりのGDPの成長は小さいものだった。「ラテンアメリカの経済改革におけるイメージキャラクター」として描かれていたアルゼンチンは2002年に崩壊を迎えていた[27][28]。

世界的な金融危機の他の結果の中には、定型的なアプローチより適した地域開発のモデルの意義に対する信念を強化していたことが挙げられていた。この学派の思想の要素として、国家はそれ自身の発展や改革の経路を見出す必要があることを示唆している「北京モデル」の考えが挙げられていた。

5.1 反グローバリゼーション運動

ノーム・チョムスキー、タリク・アリ、スーザン・ジョージ、ナオミ・クラインのような貿易自由化の批評家たちはワシントン・コンセンサスを先進国の企業による搾取の対象として発展途上国の経済における労働市場を開放することであるとみなしていた。関税や他の貿易障壁の縮小は市場の力により国境を越えた財の自由な移動を許容していたが、労働はビザや就労許可の要件のために自由に移動することが許されていなかった。このことは発展途上国の経済における安い労働力を用いて財が生産され、その後豊かな世界経済に輸出されるといった経済環境を生み出しており、批評家たちはそこに大企業によって蓄積される安価な賃金に対して不釣り合いで膨大な上乗せ価格が存在していると主張していた。批判は、貿易自由化以前と比較しその賃金の上昇はインフレによって相殺されているので、第三世界の労働者たちは貧しいままであり、先進国の労働者たちは失業に直面している一方で、多国籍企業の豊かな所有者たちはさらに豊かになっていったといったことになる。

反グローバリゼーションの批評家たちは、世界銀行や国際通貨基金を通じたり政治的圧力や賄賂によって、先進国が、批評家たちがそのコンセンサスの新自由主義的政策として描かれているものを、経済的に脆弱な国々に課していると主張していた。彼らは、ワシントン・コンセンサスは事実ラテンアメリカに大きな経済のブームをもたらしておらず、むしろ深刻な経済危機や先進国に恩義を感じている国に対し与えられていた損害を与えうる対外債務を導いていた。

多くの政策の実施(例えば、国有企業の民営化、税制改革、規制緩和)は、政治的権力を獲得し、同様に地域における事実上の労働搾取を維持することに強い関心を有している小規模で、裕福で、地域に根差したエリートの繁栄を確保するメカニズムであるとして批判されていた。

上述された批判に対するいくつかの特定の事実に基づく前提は、ワシントン・コンセンサスの支持者たちもしくは事実すべての批評家によって受け入れられていなかった。いくつか例を挙げれば[29]、多くの発展途上国におけるインフレーションは現在数十年間にわたって最も低いレベルにある(ラテンアメリカの多くでは一桁になる)。外国投資によって生み出された工場の労働者たちは彼らの自国の労働条件よりも高い賃金とより良い労働環境を手にしていると一般的に見られている。過去数年におけるラテンアメリカの多くにおける経済成長は歴史的に高い水準にあり、経済規模と比較した債務残高は概して数年前より低い水準にあった。

これらのマクロ経済の指標の改善にもかかわらず、貧困と不平等はラテンアメリカで高い水準に留まっていた。約3人に1人の人々つまり全体で1億6500万人の人々が1日につき$2以下で生活していた。約3分の1の人口が電気や基本的な衛生に対するアクセスを有しておらず、推定1000万人の子供が栄養失調に苦しんでいた。しかしながらこれらの問題は新しいものであった。1950年にラテンアメリカは世界で最も経済的に不平等な地域であり、国家主導の輸入代替や市場志向型の自由化の時代にあってもそうであり続けていた[30]。

一部のラテンアメリカの社会主義的政治のリーダーは反対の声を上げ、ワシントン・コンセンサスに対する有名な批評家になっており、例えばベネズエラ大統領のウゴ・チャベス、キューバの元国家評議会議長であるフィデル・カストロ、ボリビア大統領のエボ・モラレス、エクアドル大統領のラファエル・コレアが挙げられる。アルゼンチンでも同様に最近のペロン党政権のネストル・キルチネルは少なくともいくつかのワシントン・コンセンサスに基づく政策を否定する政策を実施していた(継続中の議論を参照せよ)。

ラテンアメリカの他の左派は違ったアプローチを採用していた。チリの社会党、ペルーのアラン・ガルシア、ウルグアイのタバレ・バスケス、ブラジルのルーラによって導かれた政府はワシントン・コンセンサスで説明される経済政策の継続を実際強力に維持していた(債務支払い、外国投資の保護、金融改革等)。しかしこの種の政府は同時に、教育改革や子供を学校に通わせている貧しい家庭への補助金のように貧困層を援助し、生産性を改善する狙いを有する措置によってこれらの政策を補完していた。

5.2 ネオ・ケインジアンによる批判

ワシントン・コンセンサスに対するネオ・ケインジアンやポスト・ケインジアンの批評家たちは、基礎となる政策が不適当に実施されており、あまりにも厳格すぎて成功することができないと主張していた。例えば柔軟な労働法は新規の雇用を創出すると想定されていたが、経済的な証拠はこの点において否定的であった。さらに一部は、政策のパッケージは国々の間における経済的そして文化的違いを考慮していないと主張していた。一部の批評家は、急激な経済成長の時期においてはそうであるが、たいていの場合、特に経済危機の時期においてはそうでないように、この一連の政策は実施されるべきであると主張していた。

『外交政策』の編集長であるモイセス・ナイムは当初は「コンセンサス」など存在していなかったと論じていた。彼は何が「適当な経済政策」かについてエコノミストの間で大きな違いが存在しており、これゆえコンセンサスの考え方も同様に欠陥を抱えていたと主張していた。

6 アルゼンチン

1999–2002年のアルゼンチンにおける経済危機はしばしば、ワシントン・コンセンサスの援用によってもたらされた経済的惨状の例として示されていた。アルゼンチンの筆頭外務副大臣であるホルヘ・タイアナは2005年8月16日に国営通信であるテラムとのインタビューの中でワシントン・コンセンサスを批判していた。そのような政策に対する本当のコンセンサスが存在していたことはないと彼は述べ、今日「南半球のかなりの数の政府が1990年代にこれらの政策を採用したときの前提を再検討している」と述べ、政府は生産的な雇用と本当の富の創出を保障する発展モデルを模索していると付け加えていた[2]。

しかしながら多くのエコノミストは、アルゼンチンの失敗がワシントン・コンセンサスに密着していたからであるとの見方に疑念を抱いていた。財政収支を効果的にコントールすることに失敗し、一層競争性を失わせていった独特の固定為替レート体制の採用(ドル等との交換性を維持する)はコンセンサスの中心的な条件に反しており、マクロ経済の崩壊に道を開いていた。初期のメネムとカバロ政権における市場志向の政策は一方ですぐに国内の政治的制約に直面し力を失っていった(メネムの再選を考慮した対応を含んでいる)[31]。

1998年10月にIMFは理事会の年次総会にアルゼンチン大統領であるカルロス・メネムを招き、アルゼンチンの経験について話を聞いた[32]。メネム政権の経済政策(ドル等との交換性を維持する)の立案者であり、メネム大統領の経済相(1991–1996)であるドミンゴ・カバロは、アルゼンチンは当時「IMF、世界銀行、アメリカ政府の最も良い教え子として考えられていた」と主張していた。

1998年後半にアルゼンチンはブレイディ構想の中で債務を再建した国々の中で最も成功した経済であるとワシントンの中で考えられていた。ワシントン・コンセンサスのスポンサーのいずれもアルゼンチンの経済改革が10の勧告と異なっていると指摘することに関心をもっていなかった。反対にアルゼンチンはIMF、世界銀行、アメリカ政府の最も良い教え子として考えられていた。—ドミンゴ・カバロ、前アルゼンチン経済相(1991–1996)[33]。

固定為替レートのメカニズムに対する信任にともない生じた問題は1990年代の経済成長に関する世界銀行のレポートの中で議論されていた。『改革の10年から学ぶこと』は期待が「政府によってプラスの影響を受けているかどうか」について疑念を投げかけていた。1990年代初頭に、外国為替問題から政府の裁量を完全に取り除くことを市場の参加者に再確認させるために、国家は固定為替レートか変動為替レートに移行すべきであるといった見解が存在していた。アルゼンチンの崩壊後、一部のオブザーバーは大きなペナルティを課すメカニズムを創出することにより政府の裁量を取り除くことは反対に実際期待を損なってしまうかもしれないと考えていた。ベラスコとニュート(2003)[34]は、「もし世界が不確実であり、裁量の欠如が大きな損失を招く状況が存在しているならば、事前にコミットする仕組みは事態を悪化させてしまうことになるだろう」と主張していた[35]。レポート(金融自由化:何が正しく、何が悪かったのか[35])の第7章で、世界銀行はアルゼンチンで何が悪かったのかを分析しており、経験からの教訓を要約し、将来の政策に対する示唆を描いていた[35]。

IMFの独立評価機関はアルゼンチンの教訓の再検討に言及しており、以下のように要約していた。

アルゼンチンの危機はIMFにとって多くの教訓を示唆しており、その一部はすでに学び取られ、改訂された政策や手続きに組み込まれていた。この評価は、監視やプログラムの設計、危機管理、意思決定のプロセスの分野における10の教訓を示唆していた[36]。

マーク・ワイズブロットは最近、前大統領であるネストル・キルチネルの下でのアルゼンチンはワシントン・コンセンサスの採用を中止しており、このことは経済に対して重要な改善を促していたと述べていた。そして一部はエクアドルがすぐに続くかもしれないと付け加えていた[37]。しかし(しばしば本質的に公益事業体のような外国からの投資を受けた企業を対象にしていた)価格コントロールや同様の行政措置に対するキルチネルの信頼は明らかにワシントン・コンセンサスの精神に反しており、事実彼の政権は極端に引き締められた財政政策に反対しており、競争的な変動為替レートを維持していた。アルゼンチンはすぐに危機から立ち直り、債務を放棄し、一次産品の偶然のブームを支援し、長期にわたる維持可能性に対して未解決の問題を残すことになった[38]。エコノミストは、ネストル・キルチネル政権がアルゼンチンにおけるポピュリズム政権の長い歴史の一幕として終わるだろうと述べていた[39]。2008年10月にキルチネルの妻であり大統領の後継者であるクリスティーナ・キルチネルは、メネムとカバロにより実施された民営化されたシステムから年金基金を国有化する意思を発表した[40]。そして経済的パフォーマンスに対する不正確なプラスの評価を生じさせるためにキルチネルの下での(最も悪評を買ったのはインフレに対してだが)政府統計の操作に対する批判が生じていた[41]。

2003年に当時のアルゼンチンの大統領であるネストル・キルチネルとブラジルの大統領であるルーラ・ダ・シルヴァは、ワシントン・コンセンサスの政策に反対するマニフェストである「ブエノスアイレス・コンセンサス」に署名していた[42]。しかし懐疑的な政治のオブザーバーは、公的発言としてのルーラのレトリックは彼の政権が実際に実施した政策と区別されるべきであると述べていた[43]。このことは、ルーラ・ダ・シルヴァが2年先にIMFにブラジルの債務のすべてを支払い、2005年にキルチネルの政府も同様のことを行ったことを伝えていた。

7 マラウイの農業助成金

ワシントン・コンセンサスに対する一部の批評家は、パッケージの処方箋にある欠陥を例示している農業補助金に関するマラウイの経験を引用していた。数十年間、世界銀行や債権国はアフリカの農業国であるマラウイに農家への政府による肥料補助金を削減するように圧力をかけていた。世界銀行の専門家は同様にマラウイの農家に対して輸出するために換金作物を栽培するようシフトし、食料を輸入するために外貨収入を利用するよう促していた[44]。長年にわたりマラウイは飢餓の危機に瀕しており、特に2005年におけるトウモロコシの壊滅的な減収の後、1300万人の内ほとんど500万人の人々が緊急食料援助を必要としていた。マラウイの新大統領であるビング・ワ・ムタリカは当時政策を逆にすることを決定していた。手厚い肥料補助金(種子あたり小さな額になる)の導入は良い雨量に助けられながら2006年や2007年において記録的なトウモロコシを生産するよう農家を支援しており、トウモロコシの生産量は2005年の120万トンから2006年の270万トン、2007年の340万トンへと跳ね上がっていた。蔓延する子供の飢餓は大幅に下落し、マラウイは最近緊急食料援助を断っていた。

世界開発センターのために用意されたマラウイの経験に対する論評に[45]、開発経済学者であるヴィジャヤ・ラマチャンドランやピーター・ティマーは、アフリカの一部(そしてインドネシア)における肥料補助金は実質的にコストを上回る便益をもたらす可能性があると論じていた。しかし彼らは補助金が運用される方法が長期的な成功にとって重要になることに着目しており、肥料の分配が独占的になることを許容していることに対して警告を発していた。ラマチャンドランやティマーは同様に肥料補助金以上のものをアフリカの農家が必要としており、具体的にはより良い輸送手段やエネルギーインフラと同様に新しい肥料や新しい種子を開発するためのより良い研究を必要としていることを強調していた。世界銀行は現在時々ではあるが繰り返し、貧困層向けにそして民間市場を育成する方法で実施される肥料補助金の一時的な利用を支援していた。「マラウイの銀行の関係者たちは、マラウイの政策を一般的には支持しているが、結局のところ補助金を終える戦略を有していないために政府を批判しており、その2007年のトウモロコシの生産量の推定値がかさ上げされているか否かについて疑念を投げかけており、どのように補助金が実施されるかについて多くの改善の余地があると述べていた。」[44]

8 継続する論争

ほとんどのラテンアメリカの国々は高い貧困と失業率に苦しみ続けていた。チリはコンセンサスのサクセスストーリーの例として見られており、エルサルバドルやウルグアイのような国々も同様に経済発展に関しいくつかの肯定的な徴候を示していた。比較的あまり高くない成長率にもかかわらず、ブラジルは近年貧困の削減について目覚ましい進歩を示していた。

ジョセフ・スティグリッツは、チリのサクセスストーリーは多くが重要な産業、特に銅産業を国有化していることや資本移動を安定化させる通貨介入によっていると論じていた。しかし多くの他のエコノミストは、チリの経済的成功は主に健全なマクロ経済と市場志向の政策の組合せによるものであると論じていた(しかしより良い公立学校のシステムを含む国の比較的強い公的機関を同様に賞賛に値している)[46]。

ウィリアムソンによって提唱されたワシントン・コンセンサスとワシントンに支持されている実際に実施された政策との間の矛盾が主張されていた。例えば、ワシントン・コンセンサスは教育投資に対する必要性に言及しているが、国際通貨基金によって促された財政規律に対する政策は、実際に時として基礎教育のような分野を含む社会プログラムに対する公的支出を各国々に削減させるよう導いていた。IMFの仕事に通じている人々は、ある段階で破綻に近い国々は収入の範囲で暮らしていくためにある方法でもしくは別の方法で公的支出を削減しなければならないと回答していた[47]。ワシントンは異なった公的支出の優先順位の中での賢明な選択を論じるかもしれないが、最も重要な分析において国内の選挙で選ばれた政治リーダーは最終的に厳しい政治的選択をしなければならなかった。

9 ワシントンコンセンサスを超えて

エコノミストや政策立案者たちの大多数は、ウィリアムソンによってもともと提唱されていたワシントン・コンセンサスにおける誤りは、そこで語られていたもののよりそこで語られていないものほうがその関連性が強いといったことを論じていた[48]。この見解は、ブラジル、チリ、ペルー、ウルグアイのような国々は近年主に左派を中心にした政党によって支配されてきたが、彼らのレトリックが何であれ、実際にはワシントン・コンセンサスの重要な要素を放棄してはいなかったと主張していた。財政と金融の規律を通じてマクロ経済の安定化を達成した国々はそれを放棄することに批判的だった。近年のブラジル大統領(そして労働者党のリーダー)であるルーラは、ハイパーインフレーションの退治[49]は国の貧困層向けの福祉に対して近年最も重要で肯定的な貢献の1つであったと明示していた。またこれらの国々は実際に1950年代から1980年代までに追求されていた専制政治の政策に戻ることに賛成することはなく、グローバルな貿易と国際投資へとより開放する志向を否定することもなかった。

しかしこれらのエコノミストや政策立案者たちは圧倒的に、ワシントン・コンセンサスが不完全であり、ラテンアメリカや他の地域の国々は「第一世代」のマクロ経済的そして貿易に関する改革から離れて生産性を向上する改革や貧困層を直接支援するプログラムに強くフォーカスすることへシフトする必要があることに同意していた[50]。このことは、投資環境を改善し、官僚的形式主義を取り除き(特に小規模な企業において)、制度を強化し(司法システムのような分野において)、メキシコやブラジルのような国々で採用された条件付き所得移転プログラムを通じて直接貧困と闘い、初等・中等教育の質を高め、技術を開発し吸収する国の効率を向上させ、ラテンアメリカの先住民やアフリカ系人口集団を含む歴史的に恵まれない集団の特別なニーズに対応することを含んでいた。

10 外交政策と関連した用語(2008)のもう1つの用法

2008年初頭、「ワシントン・コンセンサス」という用語は、一般的にはアメリカの外交政策にそして特定的には中東政策に対するアメリカの主流派メディアの報道を分析するための手段として異なった意味で用いられていた。「繰り返しのことだが、非常に希な例外として、メディアが疑問を抱かずに繰り返し失敗していることに、いつの時代においてもアメリカ政府の公式見解である「ワシントン・コンセンサス」に疑念を抱くことが挙げられる」[51]。シンジケーティッド・コラムニストのウィリアム・プファフによれば、外交問題に対するアメリカの主流派メディアの中にあるワシントンの意思に基づいた中道主義は例外というよりむしろ慣例であった。「アメリカにおける国際情勢の報道はほぼ完全にワシントン主導であった。それは、外交問題についての疑問とは国内政治やしっかりとした政策の位置づけに基づいて立案されたワシントンの疑問であることを示していた。このことは情報を与えない回答を促し、ワシントンにとって不要で不快である見解に水を差していた」[52]。外交政策における経済的論争のように、用語の用法は、語られるものより語られないもののほうが関連性が強いものになっていた。

別の名称になるが同様の見解は、進歩的にメディアを批判する組織であるFairness & Accuracy In Reporting (FAIR)によって行われていた。彼らは「ニュースにおいて何が間違っているのか?」といった疑問の背景にある9つの「課題分野」のうちの1つとして「公式アジェンダ」と記していた。彼らは以下のように記していた。「報道は政府と敵対関係にあると主張しているにもかかわらず、実際のところ一般的に言えばアメリカのメディアはワシントンの公式見解に追随していた。このことは特に戦時や外交政策における報道において顕著であったが、国内の論争でさえ、議論の幅は通常、民主党や共和党のリーダーシップの違いといった比較的狭い範囲に落ち込んでいた」[54]。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Consensus_de_Washington

ワシントン・コンセンサス

ワシントン・コンセンサスはワシントンに本拠を置く国際金融機関(世界銀行、国際通貨基金)やアメリカ財務省によって支持された債務問題を抱えた経済(ラテンアメリカを含む)に適用される標準的な対処法になる。それはエコノミストであるジョン・ウィリアムソン[1]によって1989年に発表された見解を具体化しており、シカゴ学派のイデオロギーによって強く感化された10の提案(以下を参照せよ)を支持していた。

1 国家の債務危機を解決する方法

ラテンアメリカにおける1980年代の「失われた10年」は深刻な経済危機である壊滅的なハイパーインフレーション、社会的崩壊、政治的不安定といった特徴を有していた。金融市場に関する対外債務の危機は、先進国へ退避した年平均250億ドルに及ぶ金融資産の(負の)純移転をともなう、ラテンアメリカからの対外投資の避難を示していた[2]。

景気後退やハイパーインフレーションにともなう債務危機に直面した国家に勧告された改革の「パッケージ」は、10の提案を行ったエコノミストであるジョン・ウィリアムソンの1989年の発表の中にまとめられていた。

厳格な財政規律。

この財政規律は、投資に対する高い収益率や所得不平等を改善する機会(基本的な医療サービス、初等教育、インフラ整備)を提供する分野に公共支出を振り分けることを含んでいた。

税制改革(課税ベースの拡大、より低い限界税率)。

金利の自由化。

競争的な為替レート。

対外貿易の自由化。

対外直接投資に対する障壁の撤廃。

国家による独占、資本参加、事業の民営化は、イデオロギー的には適切でない株主の例としてみなされ、現実的にはその影響力を考慮していた。

市場の規制緩和(参入・退出障壁の撤廃)。

知的財産権を含む所有権の保護。

このプログラムに賛成する議論の1つは、肥大化し、時には腐敗した政府を再建することを含めていた。

2 批判

国際通貨基金や世界銀行は、これらの原則に基づいた政策を遵守する政府に対し融資を効果的に与えていた。

ソビエトの共産主義の崩壊にともなうイデオロギー的な世界危機を追い風として、自由市場に感化されたこれらの提案は、(選択的ではあるが)多くの国々で、異なった成功の度合いを示しながらも実施されていた。

エコノミストたちのコンセンサスから離れ、ワシントン・コンセンサスはジャグディーシュ・バグワティーやノーベル賞受賞者であるジョセフ・スティグリッツのように多数のエコノミストたちによって否定されている点を含んでおり、スティグリッツは『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』という著作の中で厳しく批判していた。ワシントン・コンセンサスは同様に反グローバル主義者たちからも批判されていた。共産主義者による反対の枠組みが実質的に廃れている一方、そのコンセンサスに対する代わりの声が状況を打破するために長い葛藤を続けていた。

原理主義的な規制のない資本主義と共産主義の間で混合された見解として描かれる代替案はポスト・ケインジアンやグローバルな正義によって進化を遂げていた。「世界中で中所得国である10ヶ国が1994年から1999年の間に深刻な金融危機を経験しており、生活水準を低下させ、時には政府が崩壊し、数百万人の人々の苦境を悪化させていた。意思決定者たちは突然金融危機の波及の恐れに直面し、エコノミストたちは規制緩和や自由化のペースやそれに隷従された状況に疑念を呈していた。」[3]

3 国際金融機関の立場の変化

ワシントン・コンセンサスの実施に責任がある国際的金融機関(IMFや世界銀行)は2000年代後半から彼らの主張や政策に変更を加えていた。

2007年の世界銀行による世界開発報告によれば、ワシントン・コンセンサスに随う主要な機関の1つが政府の介入の必要性を認めていた[4]。2008年のマイケル・スペンスを議長にする成長と開発に関する委員会のレポートは、貧困を削減するために強い国家が必要とされていると結論づけていた[5]。

2008年の危機を通じてIMFは、不況を避けるために財政赤字を含む予算の編成を国家に求めていた。2008年から2009年までの間におけるIMFの19のプランの内16において、社会保障のための支出を増加させることが勧告されていた。結局のところIMFの専務理事は、資本移動の自由が経済を危機に直面させ、資本移動に対し課税する必要があるかもしれないと認識していた[5]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Washington_Consensus

ワシントン・コンセンサス

ワシントン・コンセンサスという用語は多くの経済政策を指しており、まず開発経済の分野において政府は経済的安定と成長を促す必要があった。この考え方は長い間IMFや世界銀行によって擁護され、支持されてきた。

1 歴史

ラテンアメリカの債務危機の結果として、IMFや世界銀行は債務の支払いを再建する政策を採用していた。このことを背景にこれらの国々が構造改革を実施することを条件にして、IMFはラテンアメリカの国々に融資を行ってきた。構造改革プログラムの実施を通じて、彼らはラテンアメリカの経済エリートと定期的に協議することを促してきた。

これらの構造改革プログラムはワシントン・コンセンサスの実施として理解されており、それはアメリカの政治に対する経済力を背景にした覇権的な政治プログラムであり、IMF、世界銀行、アメリカ財務省、多くのワシントンのシンクタンクにより組織されていた。経済政策に対する覇権的な考えは、サプライサイドの政策、自由貿易、輸出志向の経済政策のような考えに対する「ニューライト」(レーガノミクス、サッチャリズム)の隆盛以降ずっと継続していた[1]。個々の対処法はワシントン・コンセンサスに対応する構造改革のための政策を課していた[2]。

財政、信用、金融政策を通じた政府支出に対する需要抑制と削減。

為替レートの調整(切り下げ)や経済における資源の利用の効率性を改善すること(合理化や費用をそれほど要しない経済)。

貿易障壁や為替コントロールを撤廃し、輸出インセンティブを高めることによる貿易の自由化。

市場と価格に対する規制緩和(しばしば生活必需品に対する補助金の廃止を意味している)。

歳出削減。

国有企業の民営化。

官僚制。

補助金の削減。

ワシントンにおける政治的コンセンサスは、マクロ経済の安定を達成し、ラテンアメリカ諸国における極端な保護主義を抑制し、グローバルな貿易と対外投資の潜在的発展を促すための分かりやすい方法を示していた。さらに1990年代においてワシントンでは、グローバル化や改革が高い経済成長を達成するのみならず、貧困を大幅に削減し、所得分布を平準化することも期待されていた。

これらの要望と1980年代の新自由主義的政策との間には一致点があり、そのことは規制の手を離れるものであった[3]。

ワシントン・コンセンサスという用語は1990年にワシントンD.C.で開かれた会議においてジョン・ウィリアムソンが提唱した概念であった。そこでラテンアメリカやカリブ海の政策担当者たち(国際機関やアカデミズムの関係者たち)は、ラテンアメリカの経済政策における進歩を評価しようとしていた。ジョン・ウィリアムソンは、ワシントン・コンセンサスという用語が今日の用法と反対しており、市場原理主義を意味していなかったことを強調していた[4]。

「私はもちろん、私の用語が資本の自由化(...意識的に除外していた)、マネタリズム、サプライサイド経済学、最小国家(福祉の提供や所得の再分配を除外した国家)のような政策を含める意図をもっておらず、それらを私は本質的に新自由主義の考え方とみなしていた。」

ワシントン・コンセンサスはテキーラ危機や直後に生じたアジア通貨危機の中で窮地に直面し、それは金融危機が新しい様相を呈していたからであるが、健全なマクロ指標を示す国々(GDPの成長率、インフレ、公的支出の予算に占めるバランス)において、それはさらにIMFの構造改革の模範国とみなされていたが、特に経験したことのない様相と関連しているとも思われていた[5]。

2 批判

エルナンド・デ・ソトは資本の自由に関する著作の中でこれらの対処法の適用だけでは不十分であると説明していた。ラテンアメリカに欠けているものとして繁栄を創造するために定められた財産権、契約する権利、企業構造が挙げられていた。

ジョセフ・E・スティグリッツはグローバリズムに関する著作の中でワシントン・コンセンサスの処方箋を批判していた。彼は「これらの勧告はもし適切に実施されるならば非常に有益であるが[...]、IMFはこれらのガイドラインをそれ自体を目的として理解するよりむしろ衡平で維持可能な成長のための手段として考慮していた」と記していた[6]。彼は「経済理論が重要で有益な代替手段を展開しているにもかかわらず、IMFがこれらの目標に盲目的であった」ことを批判していた[7]。グローバリズムに関する最近の著作の中で彼は、ワシントン・コンセンサスは完全競争や完全情報を含む理想論に基づいており「特に発展途上国にとって現実から程遠く、関連性がほとんどないものであった」と批判していた[8]。中国のようなこれらの勧告に応じない国々は経済的に非常にプラスの発展をしており、アフリカやラテンアメリカのような勧告を受け入れた国々はより低い成長率を示していた。スティグリッツは4つの主要な批判を展開していた[9]。

国家の役割の縮小は常に、民間セクターが対応する業績を上げることにつながっている訳ではない。したがって西アフリカにおける販売手数料の廃止は、十分な輸送手段を所有している数少ない豊かな農家が独占体制を築き上げることを促していた。他の農家の状況はそれによって大幅に悪化していた。

国家の役割の縮小によって新興市場はすべての潜在的供給者たちに開かれることが確認されるはずであったが、これによりロシアにおける民営化は、良く機能する市場の出現よりむしろ、寡占の出現とそれにともなう市場の歪みや所得の不平等を生み出していた。

ワシントン・コンセンサスは批判抜きに、あらゆる人口における経済成長が達成されるだろうということを仮定していた(トリクルダウン理論)。対照的にスティグリッツは、特に発展途上国における経済成長は政治的不安定の結果として社会的不平等を悪化させることを促し、経済を損なうだろうと記していた。十分な社会政策によって、この事態を避けることが可能であった。極端な例として彼は、IMFが金融危機に直面した国々に対して食糧補助金の廃止を求めていたことに言及していた。

各国の信用状態は同様に経済危機にあると認識していた国々の財政に極端な厳格さを求めていた。危機は悪化し、不況になだれ込む恐れも存在していた。

スティグリッツは2007年の金融危機の経験をワシントン・コンセンサスに基づく政策や「背景にある市場原理主義的なイデオロギー」が「終焉を迎えた」ものとして認識していた[10]。

ダニ・ロドリックは、財産権、強い通貨、政府の支払い能力、市場に基づいたインセンティブのようなワシントン・コンセンサスの背景にある原則は成長の達成に必要なものであるが、ワシントン・コンセンサスに基づく具体的なアクション・プランを通じて達成することはないだろうといったことを強調していた。それ程成功していないラテンアメリカの多くの国々と中国や韓国のような繁栄しているアジアの国々との間には、追求される具体的な開発戦略において大きな違いが存在していた。ロドリックは例えば、原理主義的な貿易の自由化が経済発展に好ましい影響を及ぼすだろうとは考えていなかった。産業政策が開放にともなう多くの成功を示すケースの前提になっているかもしれなかった。そのためロドリックは発展途上国に制度的柔軟さを許容することを論じていた。ワシントン・コンセンサスのパッケージにおける対処法はめったに特定の地域の状況や制約に完全に合致することはなかった[11]。

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