福島の事故における日本のメディア、行政の担当者、専門家の対応を考慮する際、現代哲学におけるどの問題が共起されるのかーフランス、ドイツのWikipediaの「ポストモダン」や「ポスト構造主義」等の項目を読んで考えたこと

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ポストモダンの哲学は西洋のモダニティにおける伝統や合理性に対する強い批判を展開しており、カントやヘーゲルの哲学に見受けられる普遍的で合理的なシステムの探求に見られる啓蒙時代から受け継いだヨーロッパの哲学やイデオロギーにおける伝統を打ち破っていた。

ジャック・デリダはロゴス中心主義と呼ばれているものを脱構築することを提案しており、ロゴス中心主義はつまり非合理であるもの全てに対し理性が勝り、その理性は非合理なものを定義し、それを拒絶する権利を思いのままに行使していたとされ、そこには理性の優位性のみならず西洋の理性の優位性が含まれ、理性の優位性は男性の優位性へと置き換わっていったとされていた。

そしてポストモダンの哲学は西洋の形而上学や人文主義を支配する二項対立、例えば真と偽、精神と身体、社会と個人、自由と決定論、存在と無、支配と服従、男性と女性を問題にしており、これらの前提はニュアンス、区別、微妙な差を考慮していないとして批判されていた。

ドゥルーズ派の差異に関して、それは主にニーチェ派の永劫回帰とベルクソン派の多様性から生じており、フィリップ・サージェントによれば、ドゥルーズは弁証法的反論に対する還元できない差異を考慮していた。『ニーチェと哲学』の中でドゥルーズはヘーゲル派の弁証法に反対するニーチェを演じようとし、いわばロゴス、合理性、概念の中で決して還元できない差異を考慮しており、差異は実証的であり、複数性を示していた。

デリダ派の差延はシェリング、ハイデッガー、バタイユの試みの延長線上にあり、ヘーゲルのシステムを逸脱する絶対的否定は知識体系の内側に存在しており、デリダによれば、ヘーゲルは哲学的ロゴス自身の内に差異を考えさせる契機を残存させていた。

デリダは脱構築の創始者であり、エクリチュールに表れる不在や痕跡よりむしろ音声に表れる存在やロゴスを西洋の哲学が重視してきたことを批判しており、ロゴス中心主義を脱構築することを主張し、痕跡から切り離されたネットワークとしての人間の文化を形式化しようとしていた。

脱構築は、論理的整合性と概念的な対立や差異における弁証法的分解つまり同一性への分解を求める全てのテクストにおける意味の空間を開放する差延を明らかにすることを目的としていた。

リオタールによれば、近代の哲学は真実に対するその主張を論理や経験に基づいてではなく、ウィトゲンシュタインが言語ゲームと呼んだ知識や世界に関する容認された歴史に基づいて正当化しており、ポストモダンの状況ではこれらのメタナラティブはもはや真実に対する主張を正当化しないと主張していた。そして近代におけるメタナラティブの崩壊に続いて、絶対的な真実を主張するものではない永続的に変化する関係からなる世界が示唆されていた。

ポストモダンの哲学は『論理哲学論考』以降の分析哲学に対するルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる批判や『科学革命の構造』におけるトーマス・クーンの著作によって影響を受けており、分析哲学に対する合理的な拒絶を示していた。

リチャード・ローティはドナルド・デイヴィッドソンによってなされた概念的枠組と経験的内容における二元論に対して批判を行い、真実は妥当性や現実に対する表象の中に存在しておらず、社会的実践に属しており、言語は特定の期間における私たちの関心に仕えるものであり、現在使われていない語彙を含んでいるため古代の言語は時として現代語に翻訳できないことがあると主張していた。

他方で1997年10月にフレンチ・セオリーのフランス・メディアにおける隆盛とその扇動に対する批判や議論を基にしてアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンが『「知」の欺瞞』を出版するまで、アメリカにおける知的運動とフランスの哲学者たちの影響力はフランスではほとんど知られていなかった。ソーカルやブリクモンは言語学者であるノーム・チョムスキーや哲学者であるジャック・ブーヴレスを含む他の知識人たちによって支持されていたが、問題を呈された哲学者たちはその方法を批判し、物理学者であるアラン・ソーカルの置かれた状況が物理学や数学における用語を象徴や隠喩として用いることを許さなかったのだろうと主張していた。

またブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」ーー科学人類学は警告する』によれば、近代にもポストモダンにも反対することによって、ノンモダンと呼ばれるものが哲学の伝統の中に加えられていた。

ロマーン・ヤーコブソンやフェルディナン・ド・ソシュールの古典的な構造主義の時代の差異はポスト構造主義者たちによって明確に異なったものとして認識されており、古典的な構造主義者たちの理論的もしくは方法論的前提を引き継がず、歴史の不連続が古典的な構造主義者たち以上に強調されていた。

しばしば構造主義者によるアプローチとの関連でシニフィアンとシニフィエの関係が問題とされ、意味における前提の形成や意味の形成における不安定性や可変性を考慮せざるを得ないことを、デリダ派の脱構築やフーコー派の言説分析において、ポスト構造主義者たちは主張していた。

社会構造、知識体系、言説といったポスト構造主義者たちの前提は力の形成に関連しており、そのことはその妥当性や階層秩序を確立し、それに対する力関係を生み出し、その力関係を安定化させていった。したがって多くのポスト構造主義者たちにおける問題は創造的で新たな位置付けのために力の秩序が用いられることを可能にすることであり、カルチュラル・スタディーズを通じて分析されるように、マスメディア、大衆文化、日々の実践の分析が同様に重要な役割を担っており、ポストコロニアル理論やクィア理論においても、問題は意味における言説の力関係についての脱構築に向けられていた。

ポスト構造主義者たちのアプローチは隠喩、主題、合理性といったある古典的な概念に対する批判において意見が一致しており、全体主義、父権主義、差別主義、自民族中心主義を批判していた。

デリダの『グラマトロジーについて』は直接の会話において相手の固有の意図を理解できることは根拠のない間違った主張であるといったことを示そうとしており、『声と現象』は他者において記号化される行為や評価される行為によって時間の遅れが生じることを指摘していた。

ラカンはフロイトの理論を背景にして言語のように無意識が構造化されていることを強調し、精神的な出来事に対応する要素をシニフィエと呼び、欲動を背景にした小文字の他者と対照的に権威を象徴的に示す大文字の他者のように社会的な規範、法、権威、イデオロギーが関連している現象を考察していた。

象徴に関するラカンの考え方はルイ・アルチュセールによって補強され、幻想が有する役割に対する彼の発言はカルチュラル・スタディーズやビジュアル・スタディーズにおいて中心となる意味について新たな理論を構築することを促し、彼の思想の賛同者としてスロベニアの哲学者であるスラヴォイ・ジジェクがいた。

フーコーによれば、時代を特定した知の枠組はエピステーメーといった用語に縮約され、1970年代後半に彼の言説分析はカルチュラル・スタディーズ、歴史学、文学に波及し、主題や著者を古典的な解釈学の知識の中心に据えたアプローチと対照的に、著者の主題でなくその意図を中心に据えていた。そして著者の主題の確立は言説に関連した歴史的なそして文化的な変遷の結果であった。

言説は文化的知識の全体像であり、発話やテクストの形式で氷山の一角として姿を現すに過ぎず、思考や知覚は言説の秩序を通じて既に特徴付けられたものであり、知識の中にある形成されたエピステーメーを分析することや他方で自己認識や社会の秩序のメカニズムを把握することは文書を通じて可能であり、社会はテクストや文化的な創造物の上に形成されていた。

フーコーの後期の著作は特に自己への配慮をテーマにしており、それを彼はストア学派の理論に基づいて「セルフケア」と呼んでいた。

ポスト構造主義はさまざまな立場の人々によって批判されており、ユルゲン・ハーバーマスやマンフレッド・フランクによる反対やアラン・ソーカルによる実験が有名な例であった。

前回同様これが全てであるとは言及しないが、フランス、ドイツのWikipediaの「ポストモダン」や「ポスト構造主義」等の項目を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Philosophie_postmoderne

ポストモダンの哲学

ポストモダンの哲学は特にフランスで1960年代に登場した多数の言説や業績の集合であった(「フレンチ・セオリー」[1]と呼ばれるアメリカでの理論を含む)。時代がその状況(ポストモダニティ)に直面しているといった概念を受け継ぎ、哲学者であるジャン=フランソワ・リオタール[2]によって広められたこの名称は、西洋のモダニティにおける伝統や合理性に対する強い批判を展開し、特にマルクス主義により影響を受けたテクストや歴史、キェルケゴール派やニーチェ派による合理性に対する批判、フッサールやハイデッガーの現象学、フロイトやラカンの心理学、レヴィ=ストロースの構造主義に対して、言語学や文芸批評によって問題を投げ掛ける新しい方法を提示した思想を統合したものであった[3]。

この名称の背景にはしばしばフーコー、ドゥルーズ、デリダ[4]といった哲学者たちのみならず、フランスではアルチュセール、カストリアディス、リオタール、ボードリヤール、ガタリ、イリガライ、バディウ、ナンシー、ラクー=ラバルト、ジュリア・クリステヴァ、アメリカではファイヤアーベント、カベル、ローティ、ジェイムソン、バトラー、ロネル、イタリアではヴァッティモ、ペルニオーラ、アガンベン、ドイツではスローターダイク、スロベニアではジジェク[5]も含まれており、彼らは自由やさらに西洋のモダニティにおけるイデオロギー上の伝統が直面している分断を批判し、それに対し不信の念を抱く姿勢を共有していた。しかしながらこれらの思想をある名の下に統合することは多くの異論を伴っていた。たとえばフーコーは個人的に「ポストモダン」といった名称を拒絶しており、むしろモダニティをそれに対して求めていた[6]。

ポストモダンの哲学はしばしば芸術運動であるポストモダニズムと混同されていた[7]。

1 共通の特徴と差異の特徴

1.1 共通の特徴

1.1.1 その起源と展開

ポストモダンの哲学は1950年代から1970年代さらには1980年代にかけて行われた批判的研究の集合であり、それは近代哲学の普遍主義や合理主義への偏りを部分的に拒絶し、より良い分析のためにそれらと距離を置くことを求めていた。それらは19世紀末から20世紀初頭の偉大な思想家たちに(マルクス[9]、ニーチェ[10]、フロイト[11]、ハイデッガー[12])問題を投げ掛ける研究や運動に当てはまり、ポスト構造主義、脱構築、多文化主義、そして哲学、文学、政治、科学等に関する言説の伝統的な展開に対して問題を示す文学論の一部が挙げられていた。

1.1.2 批評の態度と考え方

ポストモダンの研究は一般的に主題や理性による支配と例えばカントやヘーゲルの哲学に見受けられる普遍的で合理的なシステムの探求のような啓蒙時代から受け継いだヨーロッパの哲学やイデオロギーにおける伝統を打ち破っていた。この意味でジャック・デリダは「ロゴス中心主義」と呼ばれているものを脱構築することを提案しており[13]、そのロゴス中心主義はつまり「非合理」であるもの全てに対し理性が勝り、その理性は「非合理」なものを定義し、それを拒絶する権利を通常思いのままに行使していたとされていた[14]。デリダによればこのロゴス中心主義は常に「自民族中心主義」と重ね合わせられていた(理性の優位性のみならず「西洋の」理性の優位性が含まれていた)。それはそれから「ファロゴセントリズム」[15]になり、そこでロゴス、理性の優位性は男性の優位性へと置き換わっていった。

ポストモダンの哲学は西洋の形而上学や人文主義を支配するニ分法(二項対立)[16]に対して警戒しており、例えば真と偽、精神と身体、社会と個人、自由と決定論、存在と無、支配と服従、男性と女性が挙げられていた[17]。西洋の思想におけるこれらの前提はニュアンス、区別、微妙な差を考慮するために批判されていた。

さらにポストモダンの哲学者たち(特にフーコーやアガンベン)はその時代における言説の形成や「真実」であると普遍的に受け入れられている見解を構築する言説を個人に対して内面化することにおける力の関係の意味を強調していた。

ポストモダンの哲学といった思想は、特にフランスの著作を理解することを通じて、基本的にはアメリカによって形成されており、その思想の集合は「フレンチ・セオリー」といった用語によって認められていた[18]。

1.2 差異の哲学

1.2.1 概説

ポストモダンの哲学に影響を与えた最初の哲学者たちはジャン・フランソワ・リオタール[19]、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダ[4]であった。彼らはこの風潮を肯定せず、否定していたけれども[20]、アレックス・カリニコスによれば、「それが栄える知的環境を創造することを手助けしていた」[21]。

これらの哲学者たちが異なった観点に立っていることが見出されるならば、しかしながら彼らは基本的な考え方を共有しているものの、(フーコー、ドゥルーズの)差異、(デリダの)差延、(リオタールの)争異が存在していた。差異の概念はこれらの哲学者たちによって異なっており、したがってそれらの特定の差異を再び問題として取り上げることはしないが、この差異の概念は、共通の核があらゆる客体化を避け、実社会や意味の領域の中にそれら自身を位置付ける役割を果たしていた。

1.2.2 ドゥルーズ:差異

ドゥルーズ派の差異は主にニーチェ派の永劫回帰とベルクソン派の多様性から生じた省察であった[22]。フィリップ・サージェントによれば、ドゥルーズは「弁証法的反論に対する還元できない差異」を考慮していた[23]。『ニーチェと哲学』(1962年)の中でドゥルーズはヘーゲル派の弁証法に反対するニーチェを演じようとし、いわばロゴス、合理性、概念の中で決して還元できない差異を考慮しており、他方で差異は「否定の仕事」(訳者注:「否定表現が文章の意味にもたらす作用」といった意味で、例えばニュアンスを捨象し、断定的な側面を取り上げること等がある)から逃れ、純粋に実証的であり、複数性を有していた。

1.2.3 デリダ:差延

デリダ派の差延は2つの大きな論拠に基づいており、それはドゥルーズと異なっており、ドゥルーズが最も反対していたものと同じであり、ハイデッガーの『同一性と差異』(諸問題ⅠとⅡ、ガリマール出版社、1990年)やヘーゲルとシェリングの時代の反論が挙げられていた[24]。実際デリダ派は差延のプロセスを考慮しようとし、それはいわば差異を生じる分化や現時点との区別のプロセスであり、その試みはシェリング、ハイデッガー、バタイユの試み(至高性の概念)の延長線上にあり、ヘーゲルのシステムを逸脱するこの絶対的否定はこのシステムの外部やこのシステムに反対して存在しているのではなく、このシステムの内側に存在していた。デリダによれば、ヘーゲルは哲学的ロゴス自身の内にこのモデルを残存させており、差異を考えさせる契機を残存させていた:

「[...]おそらく哲学はこの曖昧さを仮定し、考慮に加えなければならず、哲学的な意味での純粋性の内に思索におけるその二重性や差異を受け入れなければならなかった。ヘーゲルが成した以上に深化していないならば、私たちは試みの段階にあると思われていた。」

— デリダ、『エクリチュールと差異』「暴力と形而上学」、スイユ、1967年、p.166

フィリップ・サージェントはドゥルーズ派に反対する言説の中で「デリダは思考における還元できない差異としての「弁証法的反論」に疑念を抱いていた」と述べたが、そのことはしかしながら差異の別の側面としてその弁証法的反論を形成し、それに対応していた:ドゥルーズやデリダのアプローチは、それらが対立するのと同じぐらい補完し合い、共通の「目標」や異なる前提から始まった類似の目標を共有していた。あらゆる真の差異がある真の差異に回帰していた:結局のところ同一性を肯定し、真実に到達することを主張する哲学に対してしか対立が存在しておらず、一方異なった形で(ヘーゲルの方法と同一ではなく)「差異」を主張する哲学は再び合流していた。

またデリダは脱構築の創始者であり、彼はテクスト批評の形式でその哲学を実践していた。エクリチュールに表れる不在や痕跡よりむしろ音声に表れる存在やロゴスを西洋の哲学が重視してきたことを彼は批判していた。したがってデリダは、例えば不在の痕跡によって印を付記されているならば現在のロゴスにおける西洋の理想はこの理想の表現によって損なわれることを主張することによって、ロゴス中心主義を脱構築することを主張していた。このパラドックスを強調するために、デリダは不在の表現を多く抱える痕跡や文章から切り離されたネットワークとして人間の文化を再度形式化しようとしていた。

脱構築は、論理的整合性と概念的な対立や差異における弁証法的分解つまり同一性への分解を求める全てのテクストにおける意味の(もしくは無意味の)空間を開放する差延を明らかにする(したがって客観化されないものを客観化する直観に隠されている)ことを主な目的としていた。

1.2.4 リオタール:争異

リオタールの著作は主に人間の文化の役割や特に「ポスト工業化」やポストモダンの状況に移行するためにモダニティから私たちが離れるときにどのようにこの役割は変化するのかについて関心を抱いていた。リオタールは、近代の哲学は真実に対するその主張を論理や経験に基づいてではなく(自己正当化として)、むしろウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」と呼んだ知識や世界に関する容認された歴史(もしくはメタナラティブ)に基づいて正当化していた。リオタールはポストモダンの状況ではこれらのメタナラティブはもはや「真実に対する主張」を正当化しないと主張していた。そして近代におけるメタナラティブの崩壊に続いて、人は新しい言語ゲームを展開し、そのゲームは絶対的な真実を主張するものではなく、むしろ永続的に変化する関係(人と人との関係や人と世界との関係)の世界を良しとするだろうといったことを彼は示唆していた[25]。

1.2.5 フーコー:エピステーメーの特異性

フーコーは構造主義に基づいて歴史的展望におけるポストモダンの哲学のアプローチを採用していたが、同時に歴史の形を作り直し、西洋の思想における哲学的構造を揺すぶることにおいて、彼は構造主義を拒否していた。また彼は力の行使によって知識が決定され、修正されるプロセスを検証していた。

デリダとフーコーはポストモダンの哲学者として引用されていたけれども、彼らは繰り返し互いの見解に対して反対していた[26]。そしてリオタールのように彼らは絶対的真実や普遍的真実に対する主張に対して懐疑的であった。しかしリオタールと異なり彼らは新しい言語ゲームから解放されるとの主張に対してむしろ悲観的であるように思われていた。そういった理由で一部の人々は彼らをポストモダニストというよりむしろポスト構造主義者として眺めていた。

1.3 アメリカにおけるポストモダニズム

1.3.1 ポストモダンの哲学とポスト分析哲学

『論理哲学論考』以降の分析哲学[27]に対するルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによる批判や『科学革命の構造』におけるトーマス・クーンの著作によって、ポストモダンの哲学は同様にある程度影響を受けており、分析哲学に対する合理的な拒絶を一般的に示していた[28]。

1.3.2 ローティ

リチャード・ローティはアメリカのポストモダニストの中で最も有名であった。W・V・O・クワインによる分析命題と統合命題の区別に対する批判やウィルフリド・セラーズによる「所与の神話」に対する批判の統合は現実や外部世界の鏡としての思考や言語の概念を放棄させることを許容させると当初分析哲学者であったローティは考えていた。さらにドナルド・デイヴィッドソンによってなされた概念的枠組と経験的内容における二元論に対して批判を始め、彼は私たちの独自の概念が適切な方法で世界と関連付けられているのかといった問題や、それを成した方法と別の方法によって比較しながら世界を記述する方法を私たちは正当化できるのかといった問題を投げ掛けていた。そして真実は妥当性や現実に対する表象の中に存在しておらず、社会的実践に属しており、言語は特定の期間における私たちの関心に仕えるものである(現在使われていない語彙を含んでいるので古代の言語は時として現代語に翻訳できない)といったことを彼は主張していた。ドナルド・デイヴィッドソンは一般的にはポストモダニストとして考えられていなかったが、ローティや彼自身は彼らの哲学の間には小さな違いしか存在していないと考えていた。

1.3.3 カルチュラル・スタディーズとフレンチ・セオリー

http://fr.wikipedia.org/wiki/Cultural_studies

カルチュラル・スタディーズ

カルチュラル・スタディーズは社会学、文化人類学、哲学、民俗学、文学、メディア論、芸術等が交差する研究分野であった。学際的な観点から、それらは特に文化と力の関係に関連するものにおける批判において「専門化に対する対抗」として登場していた。アカデミックな文化に反して、カルチュラル・スタディーズは大衆文化、マイノリティ、抵抗する人々等における「横断的な」アプローチを採用していた。

1 カルチュラル・スタディーズの起源

この研究の動向は1960年代のイギリスに始まり、バーミンガムで1964年にリチャード・ホガートが現代文化研究センター(CCCS)を創立していた。その創立者に加えて一般的にこの動向にスチュアート・ホール(CCCSのセンター長でリチャード・ホガートの後継者)、シャーロット・ブランスドン、フィル・コーエン、アンジェラ・マクロービー、デビッド・モーリー、エドワード・トンプソン、レイモンド・ウィリアムズが関連していた。

1970年代にカルチュラル・スタディーズがアメリカに紹介され、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーのような哲学者の著作の中に示される表現とフレンチ・セオリーとの関係が研究されていた[1]。

1990年代以降カルチュラル・スタディーズは国際化していた。多くの動向がヨーロッパに登場し、ドイツにおけるカルチュラル・スタディーズやオランダにおけるカルチュラル・スタディーズが挙げられていた。

ジャン=クロード・パスロンは最初にフランスにカルチュラル・スタディーズを紹介し、その翻訳に貢献し、リチャード・ホガートの『読み書き能力の効用』の前文を記していた。しかしアメリカのカルチュラル・スタディーズにフレンチ・セオリーが適用されていたにもかかわらず、カルチュラル・スタディーズがフランスで発展したのは最近になってのことだった。

2 カルチュラル・スタディーズの射程を広げること

R・ホガートは緻密で具体的な「大衆階級」の生活を研究し、その力点は私生活、国内集団の価値観、直接的な快楽に対する嗜好に置かれていた。この研究における問題は特に社会によって課されるモデルからの解放における困難さに存在していた。

もし「カルチュラル・スタディーズ」の最初の研究が1990年代の大衆文化に関連していたならば、この研究の対象分野はパフォーマンス・スタディーズ、ビジュアル・スタディーズ、ポストコロニアル研究、ジェンダー研究に拡大し、人文科学における「文化的転回」とともに発展していたことになる[2]。

http://fr.wikipedia.org/wiki/French_Theory

フレンチ・セオリー

フレンチ・セオリーは、1960年代にフランスで、1970年代にアメリカで始まった哲学、文学、社会学における集成であった。フレンチ・セオリーは1980年代にアメリカの人文学部でブームになり、カルチュラル・スタディーズ、ジェンダー研究、ポストコロニアル研究の登場に貢献していた。またフレンチ・セオリーは芸術やアクティビズムに強い影響を与えていた。

フレンチ・セオリーの主な哲学者たちの中に、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ジャン・ボードリヤール、ジャック・ラカン、フェリックス・ガタリ、ジャン=フランソワ・リオタール、ルイ・アルチュセール、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスス、クロード・レヴィ=ストロース、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、リュス・イリガライ、モニック・ウィティッグ、ジャック・ランシエールが挙げられていた。

1997年10月にフレンチ・セオリーのフランス・メディアにおける隆盛とその扇動に対する批判や議論を基にしてアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンが『「知」の欺瞞』を出版するまで、アメリカにおける知的運動とフランスの哲学者たちの影響力はフランスではほとんど知られていなかった。

フレンチ・セオリーを頻繁に参照したアメリカの哲学者たちの中に、ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァク、スタンリー・フィッシュ、エドワード・サイード、リチャード・ローティ、フレドリック・ジェイムソン、アヴァイタル・ロネルが挙げられていた。

1 アメリカの理論

フレンチ・セオリーという語におけるこれらの哲学者たちの分類はフランスにおいて非常に恣意的なものであった。同一の哲学の学派の中に集成することはその相違点やそれぞれの著作における理論の多様性を打ち消していた。フランソワ・キュセによれば、唯一の明白な類似点は批判的なアプローチと思われていることであった:

主題、表象、歴史的連続性に対する批判。

フロイト、ニーチェ、ハイデッガーを再検討すること。

ドイツの哲学の伝統である「批評」自体に対する批評。

キュセによれば、フレンチ・セオリーは多くの要因の集成から生まれていた:

その理論が容易に理解されうるアメリカの大学において既に存在している知的なもしくは政治的動向。

特定の出版の方法(著作を完全に翻訳することよりむしろ大学の出版物やアングラにおける冊子)、フランスの哲学者たちを交えたインタビューの優越性(均一な集成であるといった印象を与える)、翻訳にともなう困難、ジャーナルにおける引用から離れた用法等を通じて、それらを再構成し、それらの背景から離れることによって、フランス独自の概念をアメリカナイゼーションしたこと。

2 ポストモダニズムとポスト構造主義

ポストモダンの哲学はポスト構造主義に非常によく似ていた。両者を同一のものとしてみるか、基本的に異なったものとしてみるかは、これらの問題に対する個人の関わりに一般的には依存していた。ポストモダニズムやポスト構造主義に反対する人々はしばしば両者を1つのものとしてみなしていた。他方でこれらの学説の支持者たちはよりわずかな区別を行なっていた。

ジャック・デリダは1967年に『エクリチュールと差異』(特に「力と意味」と題された論文)の中で構造主義から出発し、エクリチュールや文の発見による彼自身の理論の中でその構造主義を適切にやり過ごしていた。

ミシェル・フーコーによる『言葉と物』といった著作は構造主義に関連していたけれども、フーコー自身は構造主義という知的動向を代表することを否定していた[29]。

3 ポストモダンの哲学に対する批判

ポストモダンの哲学によって採用された文章を書くための方法は物理学者であるアラン・ソーカルやジャン・ブリクモンによって激しく批判されていた。哲学や社会学における文脈で物理科学の用語を(彼によれば不適切な乱用であった)使用することに問題を呈するために、アラン・ソーカルは「ポストモダン」として考えられる著作や論文からの引用で構成された間違った論文を造り上げた。彼はこの論文をソーシャル・テキスト誌に送り、それは掲載されることになった。彼は次の論文の中でその欺瞞を明らかにした。この発表が「ソーカル事件」として知られる論争を引き起こしていた。『「知」の欺瞞』(1997年)の2人の著者たちは言語学者であるノーム・チョムスキーや哲学者であるジャック・ブーヴレスを含む他の知識人たちによって彼らの仕事について支持されていた。問題を呈された哲学者たちはその方法を批判し、物理学者であるアラン・ソーカルの置かれた状況が物理学や数学における用語を象徴や隠喩として用いることを許さなかったのだろうと主張していた。

ブルーノ・ラトゥールは1991年に『虚構の「近代」ーー科学人類学は警告する』を出版し、近代にもポストモダンにも反対することによって、彼が「ノンモダン」と呼ぶものを哲学の伝統の中に加えていった。

http://de.wikipedia.org/wiki/Poststrukturalismus

ポスト構造主義

ポスト構造主義という用語はさまざまな人文科学や社会科学におけるアプローチや方法を示しており、それは1960年代末にフランスに初めて登場し、言語的実践と社会的現実との関係を批判的に検討していた。さらに言語は現実を反映していないだけでなく、その分類や区別によって現実を生み出しているといった洞察が重要であった。典型的には社会における客観主義者の見解から離れることがこの見解と関連しており、それは社会的実践を必要なものとして考えており、社会の発展におけるさまざまな可能性(偶然性)が強調されていた。

ポスト構造主義の思想家として、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ジャン=フランソワ・リオタール、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ルイ・アルチュセール、ジャン・ボードリヤール、スラヴォイ・ジジェク、エルネスト・ラクラウ、ジュリア・クリステヴァ、シャンタル・ムフ、ジュディス・バトラー、エレーヌ・シクススが挙げられていた。

1 哲学史的位置付け

「ポスト構造主義」という用語は哲学史的名称であった。この縮約された用語に影響された思想家たちにとって、重要な共通の命題のみが表現されていた。この理由は、多くのポスト構造主義者たちが代わりに広まった哲学の位置付けでなく特定の方法や知的もしくは分析的態度が問題であることに気付いていたことを強調していたからであった。

ロマーン・ヤーコブソンやフェルディナン・ド・ソシュールの古典的な構造主義の時代の差異は個々のポスト構造主義者たちによって明確に異なったものとして認識されていた。古典的な構造主義者たちの理論的もしくは方法論的前提を引き継がないと決定することによって、たいていこの区別は見受けられていた。特にクロード・レヴィ=ストロースを育んだように、このことはとりわけ文化横断的、歴史横断的、厳格で抽象的な原理に関係していた。一般的に歴史の不連続が古典的な構造主義者たち以上に強調されていた。

しばしば構造主義者によるアプローチとの関連で特に記号論、(言語的な)記号(シニフィアン)と意味(シニフィエ)の関係が問題とされ、言語的そして言説的構造の可変性に対して注意が向けられていた。したがって、意味の単位が常に以前と関連した差異(デリダの差延を参照せよ)の結果としてのみ形成されることが可能であり[1]、そのことを通じて意味における前提の形成や同時にそのことに伴う意味の形成におけるより強い不安定性や可変性を考慮せざるを得ないことを、特にデリダ派の脱構築やフーコー派の言説分析において、多くのポスト構造主義者たちは主張していた。

社会構造、知識体系、文化の形成(言説)といった大半のポスト構造主義者たちの前提は基本的に力の形成に関連しており、そのことはその妥当性や階層秩序を確立し、それに対する力関係を生み出し、その力関係を安定化させていった。したがって多くのポスト構造主義者たちにおける主要な動機は、解体(弱体化)や介入主義者による(侵入的な)実践を通じて力の秩序が変更され、少なくとも創造的な新しい位置付けのために力の秩序が用いられることを可能にすることであった。それゆえ特にカルチュラル・スタディーズを通じて分析されるように、マスメディア、大衆文化、日々の実践の分析が同様に重要な役割を担っていた。この文脈における重要な思想家たちはバーミンガム現代文化研究センターにおけるスチュアート・ホールとジョン・フィスクであった。ポストコロニアル理論やクィア理論においてさえも問題は中心的な意味における言説の力関係についての脱構築に向けられていた。

多くのポスト構造主義者たちのアプローチは隠喩、主題、合理性といったある古典的な概念に対する批判において意見が一致していた[2]。したがって伝統的にこれらの用語に関連した立場はしばしば全体主義的、父権主義的、差別主義的、自民族中心主義的、「実体論的」または「自然主義的」(「書くことが有する自然固有の性質としてのアイデンティティ」における意味で)または西洋の「ロゴス中心主義」の主張であるとして批判されていた。

いくつかのポスト構造主義のテクストにおける共通の言葉は以下のとおりであった:曖昧さ、差延、(共有された)自己、「大文字の他者」等。

2 社会史的背景

ポスト構造主義の成立に関して人文主義(ジャン=ポール・サルトルの意味で)やマルクス主義が影響を及ぼしていた。初期のポスト構造主義者たちの見解ではそれはこれらの理論と関係しており、さらに多くの問題を残していた。2つの理論は不十分な問題に対して登場し、その問題は、ソビエト社会主義における全体主義の構造に直面し、スターリニズムに反対し、革命の主題であった労働階級の喪失に直面し、「社会民主主義」、ポストコロニアリズムにおける社会運動の弱さ、エコロジーにおける新たな緊急性を表現すること、都市部の青少年の自己破壊、新たな自信を創りだす運動の展開、「反対運動」にあまり満足していない現状:女性運動、アフリカ系市民の社会運動、ゲイやレズビアンの市民社会運動、市民権運動を前にして呈されていた。

3 ポスト構造主義の異なったアプローチ

3.1 ジャック・デリダ 文字学

ジャック・デリダは特に大きな影響力のある哲学者であった。彼は彼の方法を(彼は「実践」を好んでいたが)脱構築と呼んでいた。

直接の会話において相手の固有の意図を理解できることは根拠のない間違った主張であるといったことを、彼の初期の傑作である『グラマトロジーについて』は示そうとしていた。実際このことは見過ごされたままであり、「最期の手記」の形で存在していた。とりわけ古典的な言語の理論が研究の対象であった。

同様に、個(ある個人の意図)と一般(他者の意図)は直接的に必要なものであるといったことを、彼の初期の基礎となる著作である『声と現象』は示そうとしていた。この理由として他者においては記号化される行為や評価される行為によって時間の遅れが生じることが挙げられていた。

同様にこのような差異は、なぜ言語的な区別における原則の前にある主題に関する知識が自身に与えられることができず、(理想的な方法で)理論的な結果の推量に使われることができるのかを明らかにしていた。このことを初期のデリダはデカルトの「我、思う」のシーンに対して示そうとしていた。彼の初期の論文はジークムント・フロイト、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、フェルディナン・ド・ソシュール、エマニュエル・レヴィナスと議論を交わしていた。後者はデリダの批評を(特に彼の論文である「暴力と形而上学」の中で)部分的にだが初めて有名にしていた。

デリダの後期の仕事は哲学におけるほとんど全ての分野に充てられていた。試験段階の後、彼の後期の著作は実際の政治問題を全面に押し出していた。

デリダの相手は他に、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ミシェル・フーコー、リュス・イリガライ、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・ラカン、エルネスト・ラクラウ、ジャン=フランソワ・リオタールであった。

3.2 ジャック・ラカン 精神分析学

フランスでの精神分析の発展に中心的な役割を果たしたフランスの精神分析医であるジャック・ラカンは構造主義の方法を参照しジークムント・フロイトの著作を再度読み込むことに専心し、基本的なオントロジーの影響を考慮し、数学のトポロジーに関する後期の著作でグラフモデルを無意識のプロセスを表現するために用いていた。

ラカンは錯誤や冗談に関するフロイトの理論を背景にして「言語のように」無意識が構造化されていることを強調していた。無意識の仕事は隠喩、換喩、置換、推移といった言語的な法則にしたがって生じていた。精神的な出来事に対応する要素を彼はシニフィエと呼んでいたが、言語のように構造化された象徴の世界に加えて、表象と現実が精神の世界において中心的な役割を果たしていた。実際の構造の影響や精神分析療法が言語の分野において生じていた。欲動を背景にして決定的な役割を果たす「小文字の他者」や「対象a」と対照的に権威を象徴的に示す「大文字の他者」(「父の名」を参照せよ)といった用語において示される言語や象徴に関してラカンは社会的な規範、法、権威、イデオロギーが関連している現象を考察していた。

象徴に関するラカンの考え方はマルクス主義者のアプローチに対するイデオロギーやイデオロギー上の「願望」による分析を背景にして特にルイ・アルチュセールによって補強されていた。欲動として眺めることや精神的であるが社会的な出来事に対して幻想が有する重要な役割に対する彼の発言はカルチュラル・スタディーズやビジュアル・スタディーズの分野においてより中心的な意味について新たな理論を構築することに賛同していた。ラカンの思想の主な代表者としてスロベニアの哲学者であるスラヴォイ・ジジェクがいた。

3.3 ミシェル・フーコー 言説分析

部分的に構造主義に関連しているがミシェル・フーコーによって展開された言説分析はポスト構造主義者のツールとして基礎となるものであった。フーコーによれば1990年代の言説分析は比較的限定的に使われた方法として展開していった。

それらは差し当たりフーコーの主著である『知の考古学』において展開されていた。これは『言葉と物』における「人文科学的な」知識体系の誕生、疎外のメカニズム、同時に病気と狂気の定義に対する彼の具体的な研究に続き、この疎外行為は同時に固有のアイデンティティ、健康、合理性に関する社会の自己防衛を安定なものへ変えていった。その中で既に暗黙に用いられていた方法は部分的には批評に対する回答の中でフーコーによって言説分析として明示されていた。さらに構造の分析や知識体系を確立するための条件が問題とされ、それは知識の要素を許容することやその重要性に関する固有の伝統そして所与の「言説の規則性」に関連していた。それらの時代を特定した知の枠組は「エピステーメー」といった用語に縮約されていた。全体的な意味を用いることが可能で、意思の伝達が生じうるために、規則や規範のような文脈上の要素は不可欠なものとして理解されていた。特に言説以前の枠組が考慮され、それが規則を確立する戦略や規則の関係を位置付ける戦術に対する力関係によって構造上の組織のようなものを関連付け、そのレベルをフーコーは「マイクロポリティクス」と記述していた。

1970年代後半にこの方法はカルチュラル・スタディーズ、歴史学、文学に導入されていた。それらは主題や著者を古典的な解釈学の知識の中心に据えたアプローチと比べて際立っていた。中心には著者の主題でなくその意図が存在していた。著者といった考え方の導入はより大きな言説のユニットに印を付けるためだけに存在していた。著者の主題の確立は言説に関連した歴史的なそして文化的な変遷の結果であった[3]。特に著者の概念は所有権の概念に一致していた[4]。

著者たちの代わりに、フーコーは知識体系の構造を考慮の対象とし、それは彼にその用語の可能性を与えていた。言説においてそのために選ばれた用語は統合され、それは言説以前の文化的知識を構成するための条件、特に支配と制限を受けた知識体系に言及していた。「言説」は文化的知識の全体像であり、それは発話やテクストの形式で氷山の一角として姿を現すに過ぎなかった。思考や知覚はフーコーの仮定によれば言説の秩序を通じて既に特徴付けられたものであった。真実や現実は文化的な意思表明や、真実を確立し、意思表明によって「それを聞くことができる」と示す闘争の実践によって成立していた。知識は一般的に文書においてのみ利用することが可能であったが、このことはその中にある形成された言説(エピステーメー)を分析することを可能にしていた。自己認識や社会の秩序のメカニズムは少なくとも間接的に把握可能であった。また社会はテクストや文化的な創造物の上に形成されていた。

著者といった考え方を方法論として取り出すことはフーコーによる主題の批評に従えば特別な例として説明されていた。主題はフーコーによれば自己の言説に関する利用可能な戦略の中で主題自身を設計しており、その中で自己の位置付けに関する創造的な戦術によってさまざまな集合の形を取りながらそれは利用することが可能になっていた。この動きにおいてそれはフーコーにとって問題であり、それは古典的で実体論的な主題という用語を通じて早くから制約を受けていたからであった。フーコーの後期の著作は特に自己への配慮をテーマにしており、それを彼はストア学派の理論に基づいて「セルフケア」と呼んでいた。

4 批判

ポスト構造主義はあらゆる方向同様にさまざまな立場からの個々の代表者たちによって批判されていた。ユルゲン・ハーバーマス[5]やマンフレッド・フランク[6]による反対やアラン・ソーカルによる実験が有名な例であった:これはある雑誌で起こり、それはポスト構造主義的な理論の形成を支援していたおり、その雑誌がある論文を公表し、それはポスト構造主義の文章の固有のスタイルに支持されたものであったが、その論文は無意味な内容しか含んでおらず、ソーカルによって知的誠実さを欠落した論文であることが示されることとなった。

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