エドワード・ドレー、ダーキン・ヤン、ジェームズ・ライド、マイケル・ピーターセン、他によるResearching Japanese War Crimes Records Introductory Essaysを読んで

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1997年にアイリス・チャンは日本の戦争犯罪に対するアメリカ人の考えを変化させ、なぜ日本人はナチスのように厳しく処罰されなかったのか、アメリカは日本の占領を円滑に行うために裕仁が戦争犯罪の責任を負うべきであったことを示す証拠を隠匿していたのかどうか、アメリカは人体実験に関する情報を入手するために日本の医療将校を保護していたのかどうかといった問題を提起していた。

女性の権利団体や人権団体と対立したときに、日本政府が1951年9月のサンフランシスコ平和条約の規定によって問題は解決済みであると主張し、保守的な政治家や高級官僚が歴史修正主義や日本叩きとして戦争犯罪についての批判を非難していたのは、保守党の候補者が侵略戦争を理由にして日本を批判すると選挙で勝つことができないといった戦争犯罪に対する国内の政治風土に根差していたが、その強硬路線は、日本の戦争犯罪や裕仁の役割を詳細に公言することが日本においてタブーであったことをアメリカに対して補強していた。

イアン・ブルマによれば、ヨーロッパの国々やイスラエルに謝罪していたドイツと異なり、日本は責任を果たさず、詭弁や婉曲表現を用いて、学校現場で侵略や残虐行為という歴史的事実を軽視し、関係諸国に謝罪しておらず、日本の保守強硬派のコメンテーターは戦争犯罪が日本国民を陥れるために誇張されたものであると主張していた。

1990年代に、冷戦初期にアメリカがソ連との対立について日本側の協力を必要としていたことや日本の商業的な利益に譲歩していたことを理由にして、日本の戦争犯罪が処罰を回避していたことが指摘されており、GHQによる裕仁の処遇は、1940年代の後半からあらゆる場で、日本ではよく論じられており、特にアメリカでは1990年代の初めから議論の対象となっていた。

中国や旧ソ連によって保管されていた日本軍の文書は、ほとんど例外なく、西側諸国にとっては入手不可能なものであり、僅かばかりの資料でさえ、多くの点で信憑性に欠ける共産主義者によるプロパガンダに溢れており、その判断の背景として、スターリン主義者が見せしめの裁判を行っていたので、西側の人々が証拠の信憑性を疑っていたことが挙げられていた。現時点で機密扱いの文書の量は未知であり、1990年代の後半まで人々は、アメリカが日本の戦争犯罪に関する文書を機密扱いにするのかどうかや、もし機密扱いにするならば、それは裁判を逃れていた日本人に関与していたのかどうかについて関心を抱いていた。

日本の戦争犯罪について歴史家の仕事は4つの大きなカテゴリーに分類される傾向があり、アジア全体に対する日本の残虐行為、捕虜や民間労働者に対する虐待、戦時中の生物化学兵器プログラム、慰安婦と呼ばれる強制売春が挙げられていた。そして近年になって多くの歴史家が麻薬密売や財産の盗取のような犯罪活動を調査し始めていた。

他方で中国、北朝鮮、ソ連は、日本が開発したものと類似していた生物兵器をアメリカが朝鮮戦争中に使用していたことを指摘していたが、これらの指摘は冷戦時代のプロパガンダとして却下されており、近年その主張が共産主義者のプロパガンダであることを示すソビエト側の文書が例として挙げられていた。

関東軍が人間を被験者にしており、全体の軍事予算が非常に高額であったことを考慮すると、軍部の中枢や裕仁が生物兵器に対して責任を負うべきであったとの主張が存在しており、常石敬一は、戦時中の日本の医療関係者全体が共犯関係にあり、生物兵器に関与した人々が日本で高い地位を独占することを許容してきたことについて、戦後の医療関係者が沈黙していたことを批判していた。

1945年に日本がベトナムから大量の米を徴用していたことが、ベトナム北部に大規模な飢餓をもたらしており、香港では軍票によって人々の貯蓄を収奪していた。スターリング・シーグレイブやペギー・シーグレイブによれば、日本の天皇家がアジアの占領地域から金や財産を強奪していた黄金の百合と呼ばれる組織の存在が確認されており、裕仁が占領していた国々から数千億ドルの価値がある金、プラチナ、ダイヤモンド、美術品、宗教的工芸品、他の財産を組織的に略奪していたのみならず、アメリカの投資家を保護することを考慮して、戦争が日本を破綻させたことを強調し、全ての補償を行うことを免除させることを、ハーバート・フーヴァー‎やダグラス・マッカーサーと議論していたとの指摘がなされていたが、これらの視点は個人の証言に依存しており、著作の信頼性に問題が残っているとの歴史家による指摘も存在していた。

2003年5月にナチス・日本帝国政府戦争犯罪記録省庁間作業部会は、日本帝国政府戦争犯罪情報公開法の下、強制労働や奴隷労働との関連を含む、連合国の捕虜や民間人抑留者に対する日本の虐待、戦時中の日本による生物化学兵器の開発及び利用、徴集され売春婦になることを強制された慰安婦を日本軍が利用していたこと、戦犯裁判に関連した連合国の政策や日本の戦犯に恩赦を与えた決定に調査をフォーカスしていた。

1945年11月1日のマレー・サンダースのレポートは、日本の関係者とのインタビューや実験記録に立脚しており、破棄されたと噂されていた証拠書類を除外することによって、日本の公式見解に近い見解を採用し、裕仁が人体実験を知らなかったと主張することを通じて、裕仁を弁護したい人々の利益になることを肯定していた。

GHQ/SCAPのレポートは裕仁が石井による生物兵器の研究を支援していたと述べていたが、細菌研究が平房区で行われていたと主張する海軍情報局の技術情報センターのレポートは裕仁が石井のプロジェクトを禁止していたと述べていた。

2005年の初めにCIAは日本の有力者に関係した文書の機密を公開していた。そしてアメリカの情報部門が、日本の保守派や軍の将校を共産主義の台頭に抵抗するためのプロジェクトに従事させており、保守強硬派のアジェンダを追求しているグループに対しても物質的ないし金銭的な援助を与えていたことが明らかにされていた。

占領当局が、時として証拠書類も存在していたが、軍事法廷におけるBC級戦犯のメンバーを多くの場合において起訴しなかったのは、戦後の国際政治、GHQ/SCAPの法務局が利用可能であったリソースが欠如していたこと、戦争から離れることを望んでいたアメリカの世論と比較して、それほど法的視点を考慮していなかったからであった。また憲兵隊やA級戦犯を支援していた人々の大多数は告発されていなかった。アメリカは特定の方法でこれらの日本人の活動を支援していた。

ダグラス・マッカーサーはOSSやその後身であるCIAを軽蔑しており、1950年までGHQの情報部門であるG-2はCIAが日本で自由に活動することを妨げていたが、日本におけるCIAのプレゼンスは急速に拡大し、冷戦が進行するにつれてCIAは日本における一大情報機関になっていた。

田中隆吉によれば、有末精三は三国同盟の推進勢力であり、日本を破滅的な戦争に導いた天皇周辺の軍の将校グループにおける中心的な人物であり、GHQ/SCAPの高官によれば、A級戦犯として起訴されるだろうと考えられていたが、G-2によって、戦争の遂行に深く関与した有末は逮捕されず、戦犯として起訴されなかった。

CIAの個人別ファイルは、幾人もの有名な戦犯や戦犯を疑われた人々によって行われていた作戦をG-2が支援していたことを確認していた。有末機関と河辺機関は、大きな犯罪活動によって戦時中の記録が傷付けられた多くの人々と大規模にコンタクトを取り、G-2は反共産主義を支持している日本人の傷付いた過去を見逃していた。児玉誉士夫と辻政信はG-2がエージェントの過去を意図的に見逃した例であった。

CIAの文書は、辻がシンガポール華僑虐殺事件の拡大に関与していたことを示す多くの証拠や、マレー半島で華僑を殺害する指令に関した連署を示しており、おそらく日本に抵抗する5,000名から25,000名の中国人やマレー人がシンガポール華僑虐殺事件で殺害されていた。

有末は、アメリカとの緊密な協力によって日本が再軍備することを主張し、G-2とのコネを獲得することによって彼の影響力を維持することを望んでいたが、裏目に出て河辺とも疎遠になり、児玉誉士夫や渡辺渡のみが古いインテリジェンスを支えていた。

アメリカが日本の戦犯を採用したことはG-2に限ったことではなく、アメリカは社会的地位のある元軍人を積極的に利用していた。1950年代後半にCIAとコンタクトを確立した賀屋興宣は重要な例であった。賀屋は将来の首相である岸信介に最も信頼されたアドバイザーの1人であった。

CIAによれば、アレン・ダレスに会うことを望んでいた賀屋は一流の情報提供者であったが、CIAはA級戦犯がDCIと協議することについて敏感になっていた。1959年に賀屋を直接インタビューした後で、日本のCIAは賀屋が公言していたアメリカ支持の姿勢は十分に真実味があったと述べていた。

1959年2月6日に賀屋はダレスに、日本は共産主義の浸透に関して脆弱であり、共産主義の浸透に対する抵抗を成功させることが仕事であると述べていた。そしてCIAと自民党の安全保障調査会との間でインテリジェンスを共有することをダレスに依頼していた。ダレスは異論を唱えていたが、CIAは日本で共産主義が浸透することを妨げる支援になると考えていた。その会合は反体制運動に関してCIAと日本人が協力することに合意しており、その細目に従って日本におけるCIAの工作が通知されることに同意していた。賀屋は、共産主義の脅威を取り除き、日米関係を強化するための取り組みにおいて成功を収めていた。

ダレスは個人的に主導して、賀屋をCIAの情報提供者にしていた。8月にダレスは賀屋に機密扱いの手紙を送り、日本の政治家に対するCIAのコミットメントを確認していた。その中でダレスは、日米関係を良好に維持するために行う全てのことについて懸念があると述べており、11月にCIA本部は賀屋の活動の進捗や、それを背景にしてエージェントが政治家と共に活動することに対して関心を抱いているのかどうかについて照会を行っていた。しかし8月から11月にかけて日本のCIAは賀屋について考えを改め始めていた。そして賀屋の政敵がその関係に気付いたときの政治的影響を恐れて、CIAは賀屋に対して手紙を返すように求めていた。

1965年12月にCIA本部が権限を与え、その3年後にCIAは、首相である佐藤栄作が掌握していた自民党のアドバイザーであった賀屋が自民党の情報を収集することや沖縄の選挙に反対する秘密活動を受け入れる可能性があり、賀屋に対するコンタクトが継続されるだろうといったことを報告していた。そして当時の沖縄は日本への返還に対する議論で混乱していた。

ヨーロッパでクラウス・バルビー、オットー・フォン・ボルシュビンク、ラインハルト・ゲーレンを利用していたアメリカ陸軍の情報部門が戦犯や戦犯を疑われた人々を利用して極東で情報を収集していたことに驚きはなかった。意図的にヨーロッパと極東の間でインテリジェンスを利用していたことに対する証拠は存在していなかったが、双方の地域において共産主義の拡大に対する恐怖が道徳的ないし政治的関心を煽っていたことは明らかであった。

諜報部員を利用することにおいて、G-2は社会的地位のある日本の保守派をターゲットにしており、それはウィロビーたちが諜報活動が可能であると考えていた唯一のグループであった。日本のスパイはもちろん諜報活動にとって不可欠であったが、CIAの見方によれば、G-2の将校は、作戦に対するリスクや重要性に関わらず、あらゆる潜在的なスパイを利用する意思を有していたように思われていた。

政策形成、諜報活動、犯罪行為といった分野におけるいくつかの基本的な問題が、日本政府と平和条約を交渉していたときのGHQ/SCAPの長期的な諜報戦略にどのように影響していたのかはまだ明らかではなかった。この文書における状況証拠は、ウィロビーが重要人物である日本人を戦犯として逮捕させることを妨げていたことを示唆していた。もしウィロビーが実際に戦争犯罪の調査を妨害していたならば、何をCIAはそれについて知っていたのか。事実、ウィロビーの指示に基づき、G-2は、ドーリットル隊のパイロットを死刑にする指示に署名し戦後にアメリカに協力するスパイになっていたと伝えられていた下村定を擁護していた。G-2は日本で下村を逮捕させるために中国での取り調べを妨害し、彼が収監された後に彼の釈放を主張し、その後すぐ彼を釈放させていた。CIAの個人別ファイルは、1950年代から1960年代にかけて首相になり戦犯を疑われていた岸信介のような社会的な地位のある右派とCIAがどのように関係していたのかについて僅かのことしか明らかにしていなかった。1994年10月9日のニューヨーク・タイムズ紙によれば、50年代、60年代に、CIAは日本の右派に対して数百万ドルを支援していた。現時点で文書による証拠は確認されていなかったけれども、CIAと国務省の元高官はCIAと自民党の間の関係を認めていた。また文書は、どのように朝鮮戦争が戦争犯罪に対するCIAの態度に影響を及ぼしていたのかについて明らかにしていなかった。

これが全てであるとは言及しないが、"Researching Japanese War Crimes Records Introductory Essays"の一部を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

http://www.archives.gov/iwg/japanese-war-crimes/introductory-essays.pdf

日本の戦争犯罪に関する記録に対する調査

序論

1 イントロダクション

エドワード・ドレー

第二次世界大戦以後の数十年間アメリカ人とほとんど無関係であった日本の戦争犯罪は、1931年から1945年におけるアジアや太平洋において行われていた。アジアの人々に対する日本の戦争犯罪は戦後のアメリカにおいて大きな問題となったことがなく、日本によって収容された元アメリカ人捕虜を除いて、日本の戦時における残虐行為に対する記憶は年月とともに薄れていく状況であった[1]。

日本の戦争犯罪に対するアメリカ人の考えは、1997年にアイリス・チャンが『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』を出版した後、大きく変化することになった[2]。1937年の南京における中国人の犠牲者に対するチャンの遺言は戦争犯罪の恐怖やその範囲を詳細に記しており、日本政府や日本人が戦時中の残虐行為に対して集団的健忘症に罹っていたことを示していた。ベストセラーとなった著作は、中国、朝鮮、フィリピン、東南アジア、その他太平洋地域における戦時中の日本人の行動に対する新たな関心を喚起していた。

『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』はさらなる説明を必要とする多くの問題を提起していた。なぜ日本人はナチスのように厳しく処罰されなかったのか。アメリカは日本の占領を円滑に行うために裕仁が戦争犯罪の責任を負うべきであったことを示す証拠を隠匿していたのかどうか。アメリカは人体実験に関する情報を入手するために日本の医療将校を保護していたのかどうか。

またチャンは、マイクロフィルム化する前に押収された戦時中の記録を「説明抜きに無責任に」日本に返還していたことについて、日本の犯罪の程度を決定することを不可能にしていたアメリカ政府の責任を追及していた[3]。そして他の人々は、疑いの余地なく日本の犯罪を立証し、日本政府や日本社会による高度なレベルの犯罪を示唆する高度な機密文書をアメリカ政府が保管していることを確信していた。

私はこの論考に対して洞察に溢れるコメントを与えてくれたキャロル・グラックとゲルハルト・ワインバーグに感謝している。

これらの問題は関係者に対して、メリーランド州のカレッジパークにあるアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)や他のアメリカ政府機関が保有している日本の戦時中の記録を調査することを促していた。日本の戦争犯罪や犯罪行為を示す完全な文書は利用不可能であると思われており、関係者による隠蔽工作を匂わせていた。研究者たちは、求めている記録を発見する代わりに、要求されている情報は存在していないとの知らせを受け取ることや、記録が「安全保障上の理由によって開示できない」ことを示すカードに遭遇したときに、アメリカ政府が意図的に暗い機密を隠蔽していたとの疑念を抱くことになった。

チャンの主張によって、日本の犯罪に目を向け被害者に正義と補償をもたらすために奮闘していた全く異なるグループが、それらの問題に対する答えや文書を探ることに対して刺激を受けていた。最新の証拠を与えられ、日本の戦争犯罪に対するアメリカ側の意識の高まりによって、被害者や支持者は、以前以上に強固な決意と高まった人気や政治的援助を伴いながら、真相を追及していた。

日本人によって捕虜にされたアメリカの軍人は正義と補償を求める主張を再度行い、長期にわたる収容の間に被った制度化された残虐行為に対する、日本政府による公式の謝罪を求めていた。他の人々は、彼らが日本軍の731部隊に支援された非道な人体実験の被害者であったことを主張しており、731部隊の医師や専門家が、石井四郎中将[4]の指示の下で、生物兵器を開発するために軍に支援された人体実験を行っていたと述べていた[5]。

軍の慰安所で若い女性に売春を強要する日本軍のシステムに対する論争、いわゆる「慰安婦」問題は特に韓国で沸騰寸前であった。1994年のジョージ・ヒックスによる『性の奴隷 従軍慰安婦』は英語でその問題に言及しており、売春を強要された女性が日本から補償を引き出すための苦労を示していた[6]。1990年代の後半までに「慰安婦」の窮状はアメリカの新聞の一面に登場するようになり、戦時中の人権侵害を日本政府が認めることを求める女性の権利団体や他のグループからの関心を惹くようになっていた。

日本による占領と1937年から1945年に至る戦争の間に最悪の略奪行為の被害を間違いなく被っていた中国は、日本による中国の占領を特徴付けていた略奪、放火、広範な殺害行為に対する日本政府の姿勢を繰り返し批判していた。1990年代に同様に、日本の人体実験による中国の被害者、満州にあった日本の捕虜収容所に収容されていたアメリカの軍人、中国系アメリカ人は、チャンの著作の中に鬱積した憤りを見出していた。

また日本は戦時中の奴隷労働や強制労働の釈明を行うことを求められていた。戦時中の日本政府は、朝鮮、中国、あらゆるアジアから労働者を強制的に連れ去り、炭鉱での危険な労働や厳しい建設業のための無給労働をさせるために日本に連れて来ていた。アメリカの戦争捕虜は、捕虜の権利を定めたジュネーブ条約に照らせば、違法で残酷な労働に従事していた。日本政府がこれらの犯罪を認めなかったことに対する抗議の声に、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人が加わっていた。

女性の権利団体や人権団体と対立したときに、日本政府は、これらの問題は1951年9月のサンフランシスコ平和条約の規定によって解決済みであると主張していた[7]。この問題についてこれ以上述べる必要性は存在していなかった。日本政府が戦時中の全ての責任を認めることを拒否しただけでなく、一部の保守的な政治家や高級官僚は歴史修正主義や日本叩きとして戦争犯罪についての批判を非難していた。もちろん戦争犯罪に対する国内の政治風土も存在していたが(保守党の候補者は侵略戦争を理由にして日本を批判すると選挙で勝つことができなかった)、強硬路線を採用する日本の公式見解は、日本の戦争犯罪や裕仁の役割を詳細に公言することが日本においてタブーであったことをアメリカに対して補強していた。

イアン・ブルマの『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(1994)はドイツと日本の戦争犯罪に対する戦後の対応を比較していた[8]。ブルマによれば、ドイツはナチス政権が犯した悪に対する責任を公式に受け入れ、学校の教科書や授業において下劣なナチスの歴史を論じることによって、将来の世代を教育していた。ドイツはヨーロッパの国々やイスラエルに謝罪していた。その反対に、日本は責任を果たさず、詭弁や婉曲表現を用いて、学校現場で侵略や残虐行為という歴史的事実を軽視し、関係諸国に謝罪していなかった。さらに悪いことに、日本の保守強硬派のコメンテーターは、仮に存在していたにせよ、その戦争犯罪は日本国民を陥れるために誇張されたものであると主張していた。

ドイツ人が行ったように、日本人は戦時中の行動に対峙してこなかったけれども、日本政府の否認は、アカデミズムで人気を博していた保守強硬的な反応を助長させていた。ダーキン・ヤンが第2章の中で指摘しているように、日本の研究者や特定の利益団体は日本の戦争犯罪について学術的に厳格に追及していた。大半の著作は翻訳されていなかったので、欧米にほとんどインパクトを与えていなかったけれども、そのような視点は日本の主流的なメディアに定期的に登場していた。有名な例外は、本多勝一の写真や中国における日本軍の残虐行為を描き出し大きな論争を引き起こした記述になり、それは1972年に日本で公表されていたが、1999年まで英語に翻訳されていなかった。日本の作家や歴史家はメディアで自由に意見を述べており、それらは広く読まれ、さまざまなメディアでオープンに議論されていた。

1990年代における日本の戦争犯罪に対する懸念は、日本の戦争犯罪が処罰を回避しているとの考えを補強しており、それは、冷戦初期にアメリカが、ソ連との対立について日本側の協力を必要としていたことや、日本の商業的な利益に譲歩していたことを理由にしていた。不幸にも一部の日本の戦争犯罪者は処罰されていなかった。おそらく最も悪評を買っていたのは731部隊の石井中将であり、残忍な人体実験の詳細をアメリカ政府に渡す代わりに、明白に論争の種であった戦後の訴追を逃れていた。他の人々は、訴追されていなかったものの、戦後の3人の日本の首相が戦争犯罪を犯していたと考えており、鳩山一郎(1954–1956)、池田勇人(1960–1964)、岸信介(1957)が挙げられていた。また有罪とされたA級戦犯であり、戦時中の外交官であり外務大臣であった重光葵は1954年に外務大臣として地位を回復していた。GHQによる裕仁の処遇は、1940年代の後半からあらゆる場で、日本ではよく論じられており、特にアメリカでは1990年代の初めから議論の対象となっていた。

多くの悪評を買った戦争犯罪者は処罰されておらず、繁栄し特権的な地位を謳歌していたけれども、数千件に及ぶ日本の戦争犯罪が起訴されていたことを認識することは重要であった。28名のA級戦犯は、平和に対する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪によって起訴されており、東條英機のような日本の戦時中のリーダーの大多数を含んでいた。ニュルンベルク裁判と比較される東京裁判は、1946年5月に開始され、1948年11月に終結し、被告の内25名を有罪としていた。東條を含む7名が絞首刑に処され、16名が終身刑に処され(その内4名が獄中死していた)、2名が有期禁固刑に処されていた。残り3名の内2名が手続き中に病死し、1名が訴追免除されていた。1956年までに日本政府は収監されていた全ての人々を仮釈放し、1958年4月に外務省は無条件で彼らを釈放していた。また連合国はアジア太平洋地域全体で戦争犯罪に関する裁判を行っていた。アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、オランダ人、フランス人、フィリピン人、中国人が1945年10月から1956年4月にかけて49ヶ所の地域で裁判を行っていた。イギリス人は東南アジアにおいて戦争犯罪を犯した多くの日本人を起訴しており、それはクウェー川を渡河する鉄橋を包含する泰緬鉄道の建設に関わった人々を含んでいた。オーストラリアの検察官は、オランダ領東インドのアンボイナやニューブリテン島のラバウルで多数の日本人に対して裁判を行うために、イギリスやアメリカの判事とともに任務を遂行していた。中国は、南京大虐殺に関与した人々を含む少なくとも800名の被告に対して裁判を行っていた。フランスとオランダは数百名以上に対して裁判を行っていた。フランス人は、軍部のために数十名の女性に売春を強要したジャワ在住の日本の民間人に対して裁判を行っており、オランダ人は、現地の人々やオランダ人の捕虜を殺害したことを理由にして、日本人に対して死刑を宣告していた[9]。また1949年後半にハバロフスクで、ソ連は生物兵器に関する戦争犯罪について12名の日本人に対して裁判を行っており、6名が731部隊のメンバーで、2名が独立した生物兵器に関する部隊であった100部隊のメンバーで、4名がそれ以外であり、後に中国に対する戦争犯罪の嫌疑をかけられた数百名の元軍人を移送し、中国は1950年代中頃に判決を下していた。BC級戦犯として、通例の犯罪、戦時国際法に対する違反、暴行、殺人、捕虜に対する虐待といった罪状を問われていた5,379名の日本人、173名の台湾人、148名の朝鮮人の内、約4,300名が有罪とされ、約1,000名が死刑を宣告され、数百名が終身刑を宣告されていた[10]。

これらの裁判に関わる文書はこれまでに1つの文書にまとめられてこなかった。連合国は当然それぞれの裁判のために日本の文書を集めており、その記録を保管していた。中国や旧ソ連によって保管されていた日本軍の部隊の記録や文書は、ほとんど例外なく、西側諸国にとっては入手不可能なものであり、それは冷戦がもたらす現実を背景にしていた。冷戦時に西側にもたらされた僅かばかりの資料でさえ、多くの点で信憑性に欠ける共産主義者によるプロパガンダに溢れていた。例えばソビエトがハバロフスクにおける1949年12月の裁判に関して1950年に公式の裁判記録を公表したとき、それらは731部隊が関連した文書を含んでいたが、長期間にわたってスターリン主義者が見せしめの裁判を行っていたので、西側の多くの人々は証拠の信憑性を疑っていた[11]。1991年12月における旧ソ連の崩壊や米中関係の改善によって、戦争犯罪についての情報が幾分入手しやすくなったが、まだ非常に限定的であった。そして日本側の入念な努力が731部隊や他の戦争犯罪に関する大部分の文書を隠匿しており、現時点で機密扱いの文書の量は未知であった。1990年代の後半まで多くの人々は、アメリカが日本の戦争犯罪に関する文書を機密扱いにするのかどうかや、もし機密扱いにするならば、それは裁判を逃れていた日本人に関与していたのかどうかについて関心を抱いていた。

特別に関心があるトピック

情報公開法に照らして機密文書を調査する際にIWGのガイドラインを遵守することに加えて、行政機関は、南京での暴行、「慰安婦」、捕虜や民間人に対する虐待、人体実験、731部隊、戦争犯罪人として裕仁を起訴しない決定をアメリカが下したことに関する記録のように、民間人に被害をもたらした日本の残虐行為についての情報を含んでいるかもしれない記録に特別な関心を寄せていた。しかしながら、第二次世界大戦以後において日本の戦争犯罪に関して全ての分野において徹底的な調査が行われていなかったことを記すことは重要であった。例えば「慰安婦」問題が現在大きな意味を有している一方で、アメリカ政府は戦中から戦後にかけて慰安婦に関連した記録を組織的に収集してこなかった[18]。結果としてアーカイブには慰安婦に関連した文書がほとんど存在していなかった。同じことは南京における暴行に関する記録にも当てはまっていた。

南京での残虐行為は、アメリカが参戦する4年前に生じていた。当時アメリカ政府は中国において大規模な軍事や外交に関する情報ネットワークを有していなかった。僅かばかりの熟練した軍や大使館の関係者は時として間接的にその事件を伝えており、センセーショナルな報道と比較すると、アメリカの公式文書は僅かであった。結果として、南京における暴行に対して責任を有していると思われる日本軍の司令官に対する戦後のA級戦争犯罪裁判の中で生じた記録を除外すると、国立公文書館にはこのテーマに関する文書がほとんど存在していなかった。

戦後直後にアメリカ人の関心は、真珠湾攻撃、アメリカ人の捕虜に対する虐待に関与した人々、暴行(特にフィリピンの女性に対する)や白人女性に対する強制売春を含む戦争犯罪に関連していた政府高官に対する日本の責任に向かっていた。1960年代に機密解除された記録の普及によって、帝国陸軍の売春宿システムが知らされることになった。しかしながら売春宿ネットワーク(特に中国)や売春宿に対する旧日本軍による正式な支援の規模はよく理解されていなかった。公娼は戦前の日本では合法であり、連合国の高官は、母国で行っていることを拡大したものとして、この国境を超えたシステムの一部を眺めていた。軍が占領したあらゆるところで生じていた暴行や悪評を買っていた犯罪を理由にして、連合国は日本兵を起訴することを「慰安婦」の状況を調査することよりも優先しており、慰安婦はプロの売春婦として認識されており、日本軍の雇用によって売春を強要された意図せざる被害者として認識されていなかった。例えば、日本政府を軍の売春宿と関連付ける重要な文書である"Amenities in the Japanese Armed Forces"は、1945年にATISによって翻訳され、1960年代に機密解除されていた[19]。数年間一般に公開されていたが、1990年代に「慰安婦」問題がこれらの犯罪に対して関心を集めるまで、それはほとんど注目されていなかった。

731部隊に関して研究者は、石井中将の人体実験や捕虜に対する虐待に関連して新たな機密文書を見出してこなかった。僅かながらも新しく公開された文書は収容者に対する日本の虐待について既存の文書に対して新たな証拠を付け加えていた。捕虜にされたアメリカ軍人に対して行われたと伝えられている731部隊の人体実験に対する問題に関して、複数の情報機関が、インテリジェンス、軍事、外交の記録を通じて徹底的に調査を行っていたが、決定的な証拠を見出してこなかった。このことは驚くべきことではなく、アメリカの捕虜に対して行われたと伝えられていた人体実験について、1970年代、1980年代、1990年代の初めに、議会が繰り返し照会を行ったことによって、アメリカ軍や他の政府機関の記録についての大規模な調査がようやく開始されていた。言い換えれば、特にアメリカの戦争捕虜に対して行われた日本の戦争犯罪に対する議会の関心が、アメリカ政府が保管していた731部隊に関する文書の存在を明らかにしており、それらの文書を一般に公開させることを促していた。

最後に、日本政府に配慮して、アメリカ政府が戦争犯罪に関する文書を隠匿していたとの主張が存在していた。IWGが課したガイドラインに従って、あらゆる外部からの政治的妨害から独立して、複数の政府機関によって機密文書に対する徹底的な調査が行われていた。それらの調査はそのような主張を支持する証拠を一切見出していなかった。処罰に関して複数の欠陥が存在しており、石井の事例が最も明白であり、裕仁の戦争責任に対する問題がアメリカや他のあらゆる場において論争の原因になっていた。しかしアメリカのアーカイブはこれらの論争に対していかなる新たな情報も与えてこなかった。この結果は有罪を示唆する文書が隠匿されていたと主張していた人々を満足させるものではなかったが、これまで関心がなかった人々は、IWGが日本の戦争犯罪に関した機密文書を公開し、一般の人々に対して証拠を利用可能にしたことをプラスに評価していた。また日本、中国、旧ソ連におけるアーカイブは、日本の残虐行為に対する理解を再解釈させることを促すかもしれない文書が存在している可能性を与えていた。

1 シェルダン・ハリス教授のような数名の研究者は1980年代に日本軍の731部隊の活動について調査を行っていた。

2 アイリス・チャン、『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』(同時代社、2007年)。

3 チャン、原著の177ページ。

4 日本の氏名は名字の後にファーストネームを記していた。

5 シェルダン・ハリス、『死の工場―隠蔽された731部隊』(柏書房、1999年)。ハリスは1994年に第一版を出版していた。

6 ジョージ・ヒックス、『性の奴隷 従軍慰安婦』(三一書房、1995年)。

7 条約は1952年4月28日に発効していた。

8 イアン・ブルマ、『戦争の記憶―日本人とドイツ人』(阪急コミュニケーションズ、1994年)。

9 Robert Barr Smith, "Japanese War Crime Trials," World War II (September 1996)。

10 Philip R. Piccigallo, The Japanese on Trial (Austin, TX: University of Texas Press, 1979)はBC級戦犯を取り扱っていた。

11 Materials on the Trial of Former Servicemen of the Japanese Army Charged with Manufacturing and Employing Bacteriological Weapons (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1950)。

18 1948年2月にオランダ人は、12名の日本人に対して、オランダ領東インドにある捕虜収容所に収容されたオランダ人の女性に対する強制売春について裁判を行っていた。Narrelle Morris, review of Yuki Tanaka, Japan’s Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution During World War II and the U.S. Occupation(New York: Routledge, 2002)、http://wwwsshe.murdoch.edu.au/intersections/issue9/morris_review.html/。

19 連合国翻訳通訳部、"Amenities in the Japanese Armed Forces," Research Report 120, 15 Nov. 1945, 9–20、Formerly Security-Classified Intelligence Reference Publications ("P" File) Received from U.S. Military Attachés, Military and Civilian Agencies of the United States, Foreign Governments and Other Sources,1940–1945, NA, RG 165, Records of the War Department General and Special Staffs, entry 79, box 342。

2 日本の戦争犯罪に対する証拠書類と研究:中間報告

ダーキン・ヤン

歴史家が問題を明らかにしその問題にアプローチする方法は、ほとんどいつも社会における政治的ないし知的状況によって影響されていた。そして歴史家が集めた証拠のタイプが結論の説得力を決定付けていた。証拠と未解決問題はあらゆる歴史家の仕事である史料編纂において2本の柱を形成していた。第二次世界大戦における日本の戦争犯罪の研究も例外ではなかった。この章は、最近の成果を検証し、このような史料編纂が置かれた状況の中にこれらの仕事を位置付けていた[1]。特に、歴史研究における新たな証拠のインパクトや証拠書類の利用可能性に影響を及ぼす要因を研究していた。そうする中で、最近特に関心を集めているいくつかの歴史的なトピックにおける学問の現状を明らかにしていた。

意外な新事実と論争

利用可能な証拠書類は第二次世界大戦中の日本の戦争犯罪に対する何を明らかにしているのか。新たな文書の発見は歴史家の仕事に対してどのような影響を及ぼすのか。日本の戦争犯罪について多くの仕事はいくつかの大きなカテゴリーに分類される傾向があり、(1)アジア全体に対する日本の残虐行為、(2)捕虜や民間労働者に対する虐待、(3)戦時中の生物化学兵器プログラム、(4)いわゆる「慰安婦」と呼ばれる強制売春が挙げられていた。そして近年になって多くの歴史家が麻薬密売や財産の盗取のような他の犯罪活動を調査し始めていた。これらのカテゴリーはしばしば重なり合っていたけれども、それらは日本の戦争犯罪に関して公表された歴史の大部分を構成しており、注目するに値していた。

生物化学兵器プログラム

中国政府は日本軍が生物化学兵器を使用していたと繰り返し主張しており、東京裁判でその主張を繰り返していたが、その件は起訴されていなかった[67]。同様にアメリカ軍も日本の生物化学兵器に関心を抱いていた。しかしそのような兵器に関する軍事行動の性質を考慮すると、決定的な証拠を入手することは困難であった。生物化学兵器について東京裁判では一切日本人が起訴されていなかったけれども、一部の人々がBC級戦犯として他の場所で起訴されていた。実際、第39師団第231連隊長である梶浦銀次郎は、戦闘中に毒ガスを用いたことにより、1947年に中国の軍事法廷で終身刑の判決を受けており、ソビエト政府は生物兵器に関与した12名の日本人将校を起訴し、日本語、英語、中国語、朝鮮語を含むいくつかの言語で裁判の記録を実質的に公開していた[69]。その公表は満州で入手された日本の文書のコピーを含んでいたけれども、その裁判は国際的な関心を集めることに失敗しており、その信憑性は西側にとって疑問の余地が残るものであった。また中国、北朝鮮、ソ連は、日本が開発したものと類似していた生物兵器をアメリカが朝鮮戦争中に使用していたことを指摘していた。これらの指摘は冷戦時代のプロパガンダとして却下されていた[70]。

誰が生物兵器に対して責任を負うべきかといった問題は決定的な証拠を欠いていた。関東軍が人間を被験者にしており、その全体の軍事予算が非常に高額であった(当時の1千万円、現在の90億円)ことを考慮すると、一部の人々は、当時の人体実験について知っていたかどうかに関わらず、東京の軍部の中枢や裕仁が責任を負うべきであったと主張していた[85]。常石敬一のような日本の研究者は長らく戦時中の日本の医療関係者全体の共犯性を強調しており、それに関与した人々が日本で高い地位を独占することを許容してきた戦後の医療関係者の沈黙を批判していた。

他のトピック

アジアに対する残虐行為、連合国の捕虜や民間人に対する虐待、生物化学兵器、従軍「慰安婦」といった日本の戦争犯罪に関する4つの分野における研究に加えて、他のテーマが近年関心を集めていた。

アジアの占領地域における経済問題が日本で比較的よく研究されている分野であった。1945年に日本がベトナムから大量の米を徴用していたことが、ベトナム北部に大規模な飢餓をもたらしたことで知られており、約200万人の人々が亡くなっていた[112]。また日本の研究者は、香港のような占領地域に居住していた多くの人々の貯蓄を収奪した軍票の研究を行っていた[113]。日本の占領当局によって徴用されたと伝えられていた秘密資金がどうなったのかについては未解明のままであった。これについて全てが強奪されたものではなかったが、かなりの部分が略奪されたものであった。今日に至るまで東南アジアでは、隠された日本の財産に関する物語がなお反響を呼んでいた。人気のある歴史作家であるスターリング・シーグレイブやペギー・シーグレイブは、日本の天皇家がアジアの占領地域から金や他の財産を強奪していたとする組織(コードネーム「黄金の百合」)の存在を主張していた。多くの秘密文書を入手していたと主張していた著者たちは、多くの重要な秘密文書の秘密を解除することを拒絶したアメリカ政府を批判していた[114]。証拠を無視し、個人の証言に依存する彼らの傾向は、歴史家の視点によれば、著作の信頼性を損なっていた。

65 例えば、"Japanese Use the Chinese as ‘Guinea Pigs’ to Test Germ Warfare," Rocky Mountain Medical Journal 39, no. 8 (August 1942): 571–72。日本の歴史家である吉見義明がマッカーサー記念館で発見したアメリカの文書によれば、アメリカ陸軍の参謀総長が東京裁判の検察官に対して、毒ガスの使用は国際法に違反していないとの陸軍の立場を伝えていた。45 (December 2004): 23。

68 Zhongyang Dang’anguan et al., Xijunzhan yu duqizhan, 621–24。

69 Materials on the Trial of Former Servicemen of the Japanese Army, Charged with Manufacturing and Employing Bacteriological Weapons (Moscow: Foreign Languages Publishing House, 1950)。

70 この主張に関して、Stephen Endicott and Edward Hagerman, The United States and Biological Warfare: Secrets From The Early Cold War and Korea (Bloomington, Indiana: Indiana University Press, 1998)を参照せよ。他の人々は近年、その主張が共産主義者のプロパガンダであることを示すソビエト側の文書を例として挙げていた。New Evidence on the Korean WarやDeceiving the Deceivers: Moscow, Beijing, Pyongyang, and the Allegations of Bacteriological Weapons Use in Korea, Cold War International History Project Bulletin 11 (Winter 1998): 176–99を参照せよ。

85 吉見義明、伊香俊哉、『七三一部隊と天皇・陸軍中央』(東京、岩波書店, 1995年)、粟屋憲太郎、吉見義明、『毒ガス戦関係資料』(東京、不二出版、1989年)、吉見義明、松野誠也、『毒ガス戦関係資料II』(東京、不二出版、1997年)。

114 彼らは、裕仁が第二次世界大戦中に占領していた国々から数千億ドルの価値がある金、プラチナ、ダイヤモンド、美術品、宗教的工芸品、他の財産を組織的に略奪していたのみならず、アメリカの投資家を保護することを考慮して、戦争が日本を破綻させたことを強調し、全ての補償を行うことを免除させることを、元アメリカ大統領であるハーバート・フーヴァー‎や連合国最高司令官であるダグラス・マッカーサーと議論していたと主張していた。The Yamato Dynasty: The Secret History of Japan’s Imperial Family (New York: Broadway Books, 1999)やGold Warriors: America’s Secret Recovery of Yamashita’s Gold (London: Verso, 2003)を参照せよ。900MBの文書や他の証拠を含んでいる2枚のCD-ROMは購入可能であった。

3 日本の戦争犯罪に関してアメリカ国立公文書館に保存され最近機密解除された記録

ジェームズ・ライド

2003年5月にナチス・日本帝国政府戦争犯罪記録省庁間作業部会(IWG)は、日本帝国政府戦争犯罪情報公開法(JIGDA)の下で、機密解除され公開された約10万ページに対して体系的な調査を始めていた。特に調査は次の問題に関連した文書を特定することにフォーカスしていた。

・強制労働や奴隷労働とのあらゆる関連を含む、連合国の捕虜や民間人抑留者に対する日本の虐待

・戦時中の日本による生物化学兵器の開発及び利用、特に石井四郎中将の役割や731部隊によって行われた生物兵器の実験

・占領地から徴集され売春婦になることを強制された「慰安婦」を日本軍が利用していたこと

・戦犯裁判に関連した連合国の政策や、後に日本の戦犯に恩赦を与えた決定

アメリカ国務省の記録 - RG 59

IWGによって公開された国務省の新たな記録の分量は、前述のOSSファイルよりかなり少ないものであった。これらの記録は、タイで収容されたアメリカ人の捕虜に関連した国務省特別戦争問題部からのファイルを含んでいた。その記録は捕虜収容所における情報を与えており、戦争末期に移送された捕虜に関連した多くの資料を含んでいた。しかしこれらの新たな文書の多くは、RG 226といった記録の中ですでに利用可能なOSSレポートで構成されていた[33]。

最後に戦争犯罪に関連した特別報告は1950年代における日本の戦犯に対する恩赦について論じていたいくつかの文書を含んでいた。これらの大部分は、アメリカ国務省の高官と東京裁判における他のメンバーの代表者や時には日本の高官の間における会合に関連した会話のメモで構成されていた。ある文書は、裕仁や4名の大将をC級戦犯として裁くソ連の提案を扱う方法についてのオーストラリアの外交官との会話を要約した1950年2月におけるメモであった。アメリカ人やオーストラリア人の双方が戦争犯罪についての問題を除外することを望んでいると表明しており、議論の大半は、ソビエトが示す新たな証拠が何であれそれらを検証せずに、どのように東京裁判がソビエトの提案を除外することができるのかについてフォーカスしていた[37]。

33 例えば、OSS reports on Thai railroad traffic in NA, RG 59, lot file 58D7, box 89, folder: Americans in Thailand (location: 250/49/22/1)を参照せよ。

37 Memorandum of Conversation re: Soviet War Criminals Proposal, 8 February 1950, NA, RG 59, lot file 61D33, box 23, folder: War crimes–Emperor (Japanese) (location: 250/49/25/5)。

4 国立公文書館における日本の戦争犯罪についての記録:研究の皮切り

国立公文書記録管理局(NARA)のスタッフによる

ケーススタディ:日本の生物兵器プログラムに対する知見を求めて

1932年の日本の満州占領から1945年の降伏に至るまで、日本の科学者は動物や人間に対して生物兵器の実験を行っていた。隔離された秘密の軍事基地で、彼らは帝国政府から高度で大規模な支援を受けていた。強力な占領当局による支配の下で、多数の被験者に加えて、満州は人目から逃れることができる場所を日本の研究者に提供していた。

1945年11月1日に中佐であるマレー・サンダースによって行われた日本の生物兵器プログラムに対する戦後の最初の詳細な研究は、石井の指示で1930年代初頭に日本軍が大規模な生物兵器の実験を行っていたことを記していた。1935年に満州の日本人に対して生物兵器を使用していたと伝えられた後、もし戦争になればソ連が再度生物兵器を使用するだろうといったことを日本人は恐れていたとサンダースは記していた。彼はそのレポートを日本の関係者とのインタビューや実験記録に立脚しており、戦争中に破棄されたと噂されていた証拠書類に立脚していなかった。そうすることで、彼は日本の公式見解に近い見解を採用し、裕仁は人体実験を知らなかったと主張することによって、裕仁を弁護したいと願う人々の利益になるように行動していた。また彼のレポートは、日本の生物兵器に対する関与、人体実験については言うまでもなく行われた実験のタイプ、日本が開発した兵器の広がりの歴史を含んでいた[56]。

一方で日本の生物兵器に対する開発能力や犯罪行為に関するアメリカ側の知識の蓄積が拡大し続けていた。1947年8月に海軍情報局の技術情報センターは、日本が中国人の被験者に対して免疫に関する実験を行い、その細菌研究は平房区で行われていたと主張する"Naval Aspects of Biological Warfare"との表題のレポートを編集していた。特にこのレポートは、アメリカ人やロシア人の捕虜が血液サンプルを提供させられていた一方、死刑を宣告された満州の捕虜に対して不快な人体実験が行われていたことを主張していた。裕仁が石井による生物兵器の研究を支援していたと主張する戦後のGHQ/SCAPのレポートと反対に、このレポートは裕仁が石井のプロジェクトを禁止していたと述べていた[66]。

56 NA, RG 165, Records of the War Department General and Special Staffs, entry 488, New Developments Division, Security-Classified Correspondence, File of Dr. G. W. Merck, Special Consultant to the Secretary of War, 1942–46, box 181, file "Final Board Report" (location: 390/40/1/5)。

66 NA, RG 330, Records of the Office of the Secretary of Defense, Central Decimal Files, 1943–53, Confidential through Top Secret Subject Correspondence File, entry 199, box 103, folder CD 23-1-4 (3 of 7) (location: 190/25/17/7)。

8 CIAの個人別ファイル、アメリカ陸軍、占領下の日本におけるインテリジェンスが十分に機能しなかったこと

マイケル・ピーターセン

2005年の初めにCIAは、第二次世界大戦時の日本の有力者に関係しており、日本にあるアメリカ陸軍の情報部門の上層部によって監督されていた極東における大規模なインテリジェンスを明らかにする文書の機密を解除し、公開していた。日本の陸海軍の元将校によって指示され、緩く連携し、絶えず変化していた複数の諜報グループは、少将であるチャールズ・ウィロビーの指揮の下、GHQの情報部門であるG-2のために働いていた。アメリカの諜報部員は、アジアに対する欧米のヘゲモニーに反対し容赦ない戦争を計画し遂行した懲りない日本の保守派や軍の将校を、地域におけるアメリカの安全保障を高め、共産主義の台頭に抵抗するためのプロジェクトに従事させていた。そうする中で、反共産主義という最も曖昧な目標をアメリカの高官と共有し、しばしば変化し競合していたが本質的には保守強硬派のアジェンダを追求していたグループに対して、アメリカは物質的ないし金銭的な援助を与えていた。そしてさらに軍の情報部門によって直接的ないし間接的に採用されていた日本のエージェントは、過去において犯罪を犯していたか、もしくは犯罪を疑われる立場であった。

日本帝国政府戦争犯罪情報公開法以前には、日本の陸軍や海軍の将校に対するG-2の関与について断片的な証拠が存在するだけであり、社会的な地位のある右派と関連したG-2の活動を示す証拠書類は一貫性がなく、不十分であった。アメリカ国立公文書館記録管理局(NARA)にあるGHQ/SCAPについての記録に関する文書は、実質的に存在していなかった。証拠書類を欠く中で、歴史家は、軍事的なインテリジェンスに対する専門的な勘や協力者による記憶とインタビューに頼らざるを得ず、それらは話半分で、彼らは恥ずべき詳細において虚偽を申し立てる傾向にあった。それらは部分的に広範で正確な結論を引き出すことが可能であったけれども、文書が入手閲覧不可であったことは、それらの知見が推測に過ぎない可能性があることを意味していた。いわゆる「地下」組織に所属する多くの人物、彼らの資金源、秘密のオペレーションに関する詳細、それに関与した日本の有力者の巧みな二枚舌に関する詳細な議論は、手の届かないところに存在していた。彼らの仕事は、大きな注目を集めたナチスの戦犯のように、情報を集めるために、アメリカが戦犯や戦犯の疑いのある人々を利用していたことに対する実質的な評価を含んでいなかった[1]。

戦争犯罪の定義は一部の日本人にとって論争の対象であった。この章では、日本の戦犯は東京裁判で有罪と宣告された人々や他の軍事法廷におけるBC級戦犯として定義されていた[2]。他の軍事法廷におけるBC級戦犯は曖昧としており、過去において目立った戦争犯罪を犯していた人々や、連合国によってしばらく拘束されていた被疑者を含んでいた。占領当局はしばしば犯罪の容疑で他の軍事法廷におけるBC級戦犯のメンバーを拘束しており、時として証拠書類も存在していたが、多くの場合において拘禁者を起訴していなかった。その理由は多岐にわたり複雑であり、それは、戦後の国際政治、GHQ/SCAPの法務局が利用可能であったリソースが欠如していたこと、戦争から離れることを望んでいたアメリカの世論と比較して、それほど法的視点を考慮していなかったからであった。冷戦がアメリカの政策決定者の関心を集めていたので、裁判の対象であった人々はその関心から除外され、一方新たな証拠を集めることが年々困難になっていき、潜在的な被告も亡くなっていった。最後にこれに関連したカテゴリーは、例えば憲兵隊(日本の軍事警察)のように戦争犯罪で悪評を買った組織のメンバーや、A級戦犯を支援していた人々を含んでいた[3]。このような人々の大多数は告発されていなかった。特定の方法で、アメリカは問題を抱えながら全ての3つのカテゴリーにおける日本人の活動を支援していた。これらすべての人々がナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報公開法における関係者とされていた。

同様にCIAの文書は、冷戦初期の日本におけるCIAの作戦の拡大に対する理解を促しているため、注目に値するものであった。ダグラス・マッカーサー元帥は戦略情報局(OSS)やその後身であるCIAを軽蔑していた。マッカーサーの支援で、1950年までGHQの情報部門であったG-2はCIAが日本で自由に活動することを妨げていた[4]。しかしその年の初めまでに、CIAは、日本や他の外国機関のみならずG-2の活動をも監視する情報収集機関を組織し始めていた。日本におけるCIAのプレゼンスは急速に拡大し、冷戦が進行するにつれて深まり、占領が終了した1952年までに、CIAは日本における一大情報機関になっていた。この拡大に関する詳細の一部は現在でも追跡することが可能であった。

GHQ/SCAPとCIAの組織的な競合は、2つの組織の関係に大きく影響していた。CIAによって収集された情報に基づいていたため、以下の話はCIAの観点から語られており、G-2の関心、根拠、意思決定のプロセスを反映していなかった。それにもかかわらず、この文書のパッケージはこのテーマに関して利用可能な最大限の情報を提供していた。この章は、CIAが最近機密解除した文書や、アメリカ占領当局と、多くが過去において戦犯であり名を知られていたギャング、右派の元日本軍の将校、そして政治家とのインテリジェンスを通じた関係を明らかにしたことに対して部分的に評価を与えるものであった。文書は、冷戦初期の日本における道徳的にグレーな諜報活動に対する詳細な調査を提供しており、極東においてG-2によって利用されていた容疑がある人々を明らかにしていた。

ウィロビー、日本でのインテリジェンス、タケマツ作戦

第二次世界大戦を経て、元日本軍の将校や保守強硬派は、戦前の天皇制を維持し(アメリカの占領による制限の中でできる限り)、日本軍を再建するための緩やかなネットワークを形成していた。このネットワークは部分的には、終戦期の大本営の参謀本部第2部長であった有末精三によって形成されていた。1917年に精力的で抜け目のない有末は任官していた。1929年から1931年まで彼はイタリアのトリノにある陸軍大学に通い、さまざまなイタリアの歩兵連隊について学んでいた。1936年から1939年まで、有末はイタリア大使館付武官を経て大佐になっていた。1939年から1945年までに有末は数多くのポストを経験し、北支那方面軍参謀に属していた。彼は中将に昇進し、結局のところ大本営の参謀本部第2部長になっていた[5]。

G-2と異なる立場であるGHQ/SCAPの高官は有末がA級戦犯として起訴されるだろうと考えていた。イタリアでの武官として、彼は日独伊三国軍事同盟を巡る交渉において重要な役割を担っていた。事実、最近公開されたCIAの個人別ファイルの中にあるアメリカ陸軍の文書は、戦後一部の日本人が、なぜ「戦争の遂行に深く関与した」有末が逮捕されず、戦犯として起訴されていないのかについて疑問を感じていたことを明らかにしていた[9]。これらの文書によれば、有末は日本を破滅的な戦争に導いた天皇周辺の軍の将校グループにおける中心的な人物であった。東京裁判の検察側の重要証人であった田中隆吉少将は、「有末は三国同盟に関して[首相である]平沼の意思の背景にあった推進勢力であった」と述べていた[10]。

戦犯とインテリジェンス

秘密を保持することにおいて日本人の諜報部員や軍の関係者を利用することに対する作戦上の問題は多数存在していた。さらなる弊害は(戦争犯罪との関連の点で)これらの作戦から派生した問題であった。有末機関と河辺機関は、大きな犯罪活動によって戦時中の記録が傷付けられた多くの人々と大規模にコンタクトを取り、彼らの多くはG-2によって資金援助されていた作戦に関わっていた。CIAの個人別ファイルは、幾人もの有名な戦犯や戦犯を疑われた人々によって行われていた作戦をG-2が支援していたことを確認していた。直接ないし間接的に反共産主義を支持している日本人の傷付いた過去をG-2が見逃す用意があったことを、それらは明らかにしていた。児玉誉士夫と辻政信は、G-2がエージェントの過去を意図的に見逃した有名な例の内の2名であった。

辻政信

太平洋戦争で最も悪評を買い不起訴であった戦犯の1人をアメリカ側の諜報活動に採用したことに有末が責任を有していたことをCIAの文書は示していた。歴史家によって「狂信的なイデオロギーの指導者で残忍な参謀であった」と評される大佐である辻政信は、1930年に石川県で生まれていた[64]。1931年に彼は陸軍大学を卒業し、1939年の悲惨なノモンハン事件のときの関東軍の参謀であった[65]。彼は太平洋戦争前に大本営で有末と顔見知りになっていた[66]。辻は後に、バターン死の行進、中国、フィリピン、シンガポールの民間人の大虐殺、同様にシンガポール華僑虐殺事件を命じていたと評されており、日本がシンガポールを占領している間に死刑執行されたアメリカのパイロットを食していたと伝えられていた。CIAの文書は、辻がシンガポール華僑虐殺事件の拡大に関与していたことを示す多くの証拠を呈示しており、マレー半島で華僑を殺害する指令に連署していたことを示していた[67]。また戦争末期に日本軍を再興するための資金として、日本陸軍がフランス領インドシナから3トンの金を没収していた可能性を、アメリカの当局は調査していた。東南アジアに長くいた辻が部下にこの一部を分け与え、彼らにそれを連合国の目から隠すように命じていたことを、複数のレポートが示していた[68]。

1952年までに、辻はアメリカとの協調が日本を速やかに再軍備するための最善の方法であると確信しており、軍の元同僚からの非難に晒された立場にあった[82]。服部卓四郎はその中に含まれていなかった。児玉誉士夫達に支援された2人は日本独自の軍を再建する代わりにアメリカ軍の保護に依存する吉田茂の政策を快く思っていなかった。服部は、追放された人々や保守派に対する首相の反感を理由にして、吉田を長い間嫌っていた。1952年7月に服部は、吉田を殺害し、共感を覚える鳩山一郎や緒方竹虎を首相に据えるクーデターを目論んでいた。当初の熱狂にもかかわらず、辻は保守的な自由党が権力を握っている限り、服部がクーデターを思い止まるだろうと考えており、それは、日本で最も有名な戦犯の1人によって保護されたアメリカに対する最も忠実な政治的協力者という皮肉を子孫に残すことになった。それにもかかわらず、このグループは他の政府要人を殺害することを計画しており、吉田にそのメッセージを送っていた(216-217ページを参照せよ)[83]。1954年に鳩山は吉田を退陣させることに成功していたが、仮にそうだとしても服部や辻が吉田の退陣に対してどのような役割を担っていたのかについては不明であった。1952年に辻は国会議員に選出され、政治における華やかなキャリアが始まっていた。

占領後:CIAと日本のスパイ

1950年から1951年には、日本のインテリジェンスはすでに分裂していた。有力なインテリジェンスのリーダーの大半が有末と袂を分かっており、有末の気取った利己的な性格は多くの人々にとって阻害要因となっていたが、G-2と有末の頻繁なコンタクトが他の人々の上に彼を君臨させており、そのことは唯一の懸念材料であった。支持が徐々に減っていき、有末は、アメリカとの緊密な協力によって日本が再軍備することを主張し、G-2とのコネを獲得することによって、彼の影響力を維持することを望んでいた。この計画は裏目に出て、河辺とも疎遠になった。児玉誉士夫や渡辺渡のみが古いインテリジェンスを支えていた。

アメリカが日本の戦犯を採用したことはG-2に限ったことではなく、アメリカは社会的地位のある元軍人を積極的に利用していた。1950年代後半にCIAとコンタクトを確立した賀屋興宣は重要な例であった。賀屋は1937年の第1次近衛内閣の大蔵大臣であり、東條内閣で再度大蔵大臣に就任していた。彼は極東における日本のヘゲモニーの正当性を主張しており、真珠湾攻撃直前に「イギリスやアメリカを東アジアから撤退させること」が日本の目標であると公言していた[98]。戦後の東京裁判は、侵略戦争遂行に関していくつかの法廷と同様に、彼をA級戦犯として起訴し(戦争遂行に関する謀議)、終身刑を言い渡していた。1955年9月に彼は仮釈放され、1957年に恩赦されていた[94]。1958年に、保守的な日本人から支持されていた賀屋は国会議員に選出され、自民党(LDP)のリーダーになっていた。さらに彼は将来の首相である岸信介に最も信頼されたアドバイザーの1人であった。彼は国会議員に選出された直後に、自民党の安全保障調査会に加わっていた。反共産主義者である賀屋はその役割を完全にこなしているように思われていた。彼は日本の国家安全保障に関する問題に深く精通しており、釈放直後に、アメリカと日本の同盟関係の強化を主張していた[95]。

1959年の2月に賀屋は、国務省や海軍の政策立案に関する部局を含むいくつかの政府機関出身の議員と日本の安全保障について議論するために、アメリカに渡航していた。特に賀屋はCIA長官であるアレン・ダレスに会うことを望んでいた。日米安全保障条約を改定することに対する日本の世論を考慮すると、彼の海外視察は日米関係における敏感な点を扱っていた。CIAによれば、国際情勢に精通しており、アメリカとの協調を歓迎しており、自民党内で最も影響力の大きい政治家の1人であった賀屋は、潜在的に一流の情報提供者であった。しかしCIAはA級戦犯が中央情報長官(DCI)と協議することについて当然のことながら敏感になっていた。彼らは「賀屋が公職に復帰してから適切に振舞わない」恐れはほとんどないと判断していた[96]。1959年に彼を直接インタビューした後で、日本におけるCIAのエージェントは、賀屋は「大きな影響力を有し、精力的であり、おそらくそれ以上の存在になるだろうし、動機が何であれ、彼が公言していたアメリカ支持の姿勢は十分に真実味があった」と述べていた[97]。

1959年2月6日に日本大使館付書記官に随行された賀屋は、中央情報長官(DCI)の執務室を訪問し、日本は共産主義の浸透に関して脆弱であり、共産主義の浸透に対する抵抗を成功させることが仕事であるとダレスに述べていた。賀屋は、CIAと自民党の安全保障調査会との間でインテリジェンスを共有することをダレスに依頼していた。ダレスは異論を唱えていたが、その提案をCIAは日本で共産主義が浸透することを妨げる支援になると考えていた。その会合において「皆が、反体制運動に関してCIAと日本人が協力することは最も望ましいことであり、このテーマはCIAにとって大きな利益の1つであったことに合意していた」ことが確認されていた。また、その協力に関連した細目が実際に作成されるべきであり、それに従って日本におけるCIAの工作が通知されることに、双方が合意していた[98]。賀屋は、共産主義の脅威を取り除き、日米関係を強化するための取り組みにおいて成功を収めていた。

ダレスは個人的に主導して、賀屋をCIAの情報提供者にしていた。その6ヶ月後の8月に、彼は賀屋に機密扱いの手紙を送り、日本の政治家に対するCIAのコミットメントを確認していた。その中でダレスは、日米関係を良好に維持するために行う「全てのことについて懸念がある」と述べていた。特に彼は「両国間の関係に影響を及ぼす国際情勢や日本の状況の双方に対するあなたの考えを知ることに私は非常に関心を抱いている...」と記していた[99]。11月にCIA本部はダレスの手紙の後に、賀屋の活動の進捗や、それを背景にしてエージェントが政治家と共に活動することに対して関心を抱いているのかどうかについて照会を行っていた[100]。しかし8月から11月にかけて日本のCIAは賀屋について考えを改め始めていた。

1960年代初頭までに日本における諜報部員は、賀屋を以前に考えていたほど信頼できない人物として結論付けていた。1959年の夏から秋にかけて、彼らは諜報活動を通じて賀屋を詳細に観察しており、彼が以前ほど影響力を有しておらず、深刻な火種になるかもしれないことに気付いていた。彼らは、なぜ彼らが賀屋を利用したくないのかについて、中央情報長官(DCI)を含む上層部に説明することを気詰まりな仕事であると考えていた。

[賀屋との]最近のコンタクトの中で、[賀屋が]非常に強く手前味噌を述べ、どれほどよく東西間の緊張を理解しているのか、どのように彼が「1人で」安全保障条約の改定の裏で自民党全体を操縦することができるのかについてアメリカ側を感心させようとする傾向があることに私たちは気が付いていた。私たちが現代の[議会政治]の機微や政治活動の方法を理解していると考えている「保守的な」政治家として、[賀屋は]堂々とし過ぎていた...これを記している時点で私たちは、この関係から生じるさまざまなことについて楽観的になれなかった。

日本のエージェントは、賀屋とのコンタクトは彼らの主導によってのみ続けられるべきであり、彼を情報提供者として活用するべきではないと判断していた[101]。

このエピソードの後、1961年の香港でCIAは賀屋と偶然会合することになったが、1964年中頃まで彼に対してさらなる関心を抱くことはなかった。その年の夏に情報部門は日本において左派の脅威と見做しているものについて議論するために、仲介者を通じて彼とコンタクトを取っていた。この時点で賀屋を評価していたCIAのエージェントは、賀屋は「非常に信用でき安全保障についての意識があり、この評価に対する証拠は、第二世界大戦以降の日本の政治スキームの中で、彼が行ってきた指導的な役割の中に見出される」と主張していた[102]。CIA本部はこの評価を認め、1965年12月に彼を利用する作戦上の権限を与えていた[103]。3年後にCIAは、首相である佐藤栄作が掌握していた自民党のアドバイザーであった賀屋が自民党の情報を収集することや沖縄の選挙に反対する秘密活動を受け入れる可能性があり、彼に対するコンタクトがこれらの目的に一致する形で継続されるだろうといったことを報告していた[104]。不幸にもこの点について賀屋の活動に関して利用できる文書はこれ以上存在していなかった。1975年に、活動的でなくなったことを理由にして、CIAは賀屋を利用する作戦上の権限を取り消していた。そしてその2年後に彼は亡くなっていた。

日本における情報収集の教訓

CIAによって公開された個人別ファイルは冷戦初期の東アジアにおける情報収集についてかなりの程度を明らかにしており、このテーマについて記された歴史家の結論を確認していた。そして諜報活動を行った日本人がアメリカの利益と関係していない動機を有していたことは驚くべきことではなかった。不幸にも、ヨーロッパでクラウス・バルビー、オットー・フォン・ボルシュビンク、ラインハルト・ゲーレンを利用していたアメリカ陸軍の情報部門が、戦犯や戦犯を疑われた人々を利用して極東で情報を収集していたことに驚きはなかった。意図的にヨーロッパと極東の間でインテリジェンスを利用していたことに対する証拠は存在していなかったが、双方の地域において共産主義の拡大に対する恐怖が道徳的ないし政治的関心を煽っていたことは明らかであった。

とりわけGHQは安定を必要としていた。諜報部員を利用することにおいて、G-2は社会的地位のある日本の保守派をターゲットにしており、それはウィロビーたちが諜報活動が可能であると考えていた唯一のグループであった。日本のスパイはもちろん諜報活動にとって不可欠であったが、CIAの見方によれば、G-2の将校は、作戦に対するリスクや重要性に関わらず、あらゆる潜在的なスパイを利用する意思を有していたように思われていた。そのような人々を広く利用したことはアメリカの諜報活動に対して数多くの問題をもたらしており、その全てが当時明確に理解されていた訳ではなかった。

日本に対するCIAの個人別ファイルは、過去において疑問が残る情報提供者について情報部門の考えを示していた。CIAのアナリストは、アメリカの利益に反している限り、そのような間違った結果を日本人にでっち上げさせるさまざまな動機や、諜報活動の結果に対する懸念を示していた。G-2が採用した日本人の情報提供者に対するCIAの批判は、関与した個人が戦犯や戦犯を疑われた人々であったことではなく、彼らが間違った情報を渡していたことにあった。CIAのアナリストはアメリカの利益に反する日本人について政治思想、イデオロギー、個人的な仔細をすぐに確認していたが、過去の犯罪者や潜在的な情報提供者に対しては穏やかに懸念を表明する程度であった。事実、彼らは、評価の対象になった情報提供者の潜在的な犯罪行為について僅かな評価しか与えていなかった。日本人の工作員の過去を無視することによる潜在的な安全保障上のリスクは、さらなる研究を行う価値を残していた。

この新たな情報にもかかわらず、政策形成、諜報活動、犯罪行為といった分野におけるいくつかの基本的な問題は未解決のままであった。これらの関係が、日本政府と平和条約を交渉していたときのGHQ/SCAPの長期的な諜報戦略にどのように影響していたのかはまだ明らかではなかった。この文書における状況証拠は、ウィロビーが重要人物である日本人を戦犯として逮捕させることを妨げていたことを示唆していた。もしウィロビーが実際に戦争犯罪の調査を妨害していたならば、何かあるならば、何をCIAはそれについて知っていたのか[105]。CIAの個人別ファイルは、1950年代から1960年代にかけて首相になり戦犯を疑われていた岸信介のような社会的な地位のある右派とCIAがどのように関係していたのかについて僅かのことしか明らかにしていなかった[106]。どの程度CIAが犯罪者や犯罪者に類似した人々とコンタクトを取っていたのかについては隠されたままであり、これらの関係がインテリジェンスにもたらす恩恵も隠されたままであった。また文書は、どのように朝鮮戦争が戦争犯罪に対するCIAの態度に影響を及ぼしていたのかについても明らかにしていなかった。しかし、これらの問題に対する疑問を残していたけれども、ナチス・日本帝国政府戦争犯罪情報公開法の下でCIAによって公開された記録は、冷戦初期の日米関係に関するテーマに対して広範で新しいアプローチを取る可能性を示唆していた。

1 例えば、Stephen Mercado, The Shadow Warriors of Nakano: A History of the Imperial Japanese Army’s Elite Intelligence School (Washington, DC: Brassey’s, 2002)、マイケル・シャラー、『アジアにおける冷戦の起源――アメリカの対日占領』(木鐸社、1996年)、竹前栄治、『GHQ』(岩波書店、1983年)、John Welfield, An Empire in Eclipse: Japan and the Postwar American Alliance System, A Study in the Interaction of Domestic Politics and Foreign Policy (Atlantic Highlands, NJ: Athlone Press, 1985)、Richard Breitman, et al., U.S. Intelligence and the Nazis (Washington, DC: National Archives Trust Fund Board for the Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Interagency Working Group, 2004)を参照せよ。

2 東京裁判や他の軍事法廷による戦争犯罪の定義は一部の人々にとって論争の対象であった。これは特に東京裁判におけるA級戦犯に対して当てはまっていた。歴史的な論争は当然如く裁判所における起訴を巡って生じており、特に侵略戦争を遂行した謀議に対する告発が例として挙げられていた。確かに被告の選定はある意味で物議をかもす独善的なものであったが、法廷による決定は、当時の時代背景を考慮すれば、軍事法廷に対する証拠について容認された基準に基づいて合意されており、ドイツにおけるニュルンベルク裁判をモデルにしていた。東京裁判は多数の問題を抱えていたが、法的問題として捉えるならば、有罪を示す証拠が起訴手続きに基づいている限り、その結果は合法的であった。不法行為には広範な前例があり、容易に犯罪であると識別できるB項やC項に対する被告の裁判は、同じレベルの批判を誘発していなかった。ジョン・ダワー、『昭和――戦争と平和の日本』(みすず書房、2010年)、461-469を参照せよ。

3 確かに、アジア太平洋地域で日本人によって行われた犯罪の大半は正規軍の人員によって行われていたが、憲兵隊は中国やマレー半島で犯罪行為を犯したことで悪評を買っていた。また多くのアメリカの捕虜は侮蔑しながら彼らを取り扱った憲兵隊のメンバーを思い出していた。日本の憲兵隊について多くの研究が存在していたけれども、英語の学術文書は利用不可能であった。

4 竹前、英語版の167ページ。

5 Arisue Biographical Sketch, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 7, folder: Arisue, Seizo。

9 G-2 Intelligence Section Notes, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 7, folder: Arisue, Seizo。

10 Tanaka Ryukichi Statement, NA, RG 331, International Prosecution Section, entry 319, numerical case files, box 31, folder: Cases 155–159。また田中は有末が中国でのアヘン貿易に関連していたと考えていた。皮肉だが、田中は戦後の諜報活動を行うために有末と緊密に行動していた。

63 児玉に関するCIAの個人別ファイルの中の文書は、CIAが児玉達を通じたロッキード事件に気付いていたのかについて明らかにしていなかった。

64 ダワー、『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』の原著の511-512ページ。

65 Saburo Hayashi and Alvin Coox, Kogun: The Japanese Army in the Pacific War (Quantico, Va: The Marine Corps Association, 1959), 238。

66 ダワー、『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人(上・下)』の原著の511-512ページ。

67 CIA Report, date unclear (likely April 1952), in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。おそらく日本に抵抗する5,000名から25,000名の中国人やマレー人がシンガポール華僑虐殺事件で殺害されていた。

68 Gold, 22 May 1946, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu Vol. I。

69 Undated CIA Report, in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu, Vol. I。

70 CIA Report, date unclear (likely April 1952), in NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。

82 Japanese I.S. Personalities, 9 March 1951, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 9, folder: Tsuji, Masanobu。

83 Coup d’etat Allegedly Being Planned by Ex-Militarists and Ultranationalists, 31 October 1952, Activities of Hattori Takushiro, 10 December 1953, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Hattori, Takushiro, Vol. I。

95 CIA Cable 7082, 22 January 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori. ishi had been imprisoned from 1945 through 1948 on suspicion of war crimes。

96 CIA Cable 26893, 22 December 1958, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

97 CIA Cable 7144, 27 January 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

98 Memorandum for the Record, Visit of Mr. Kaya Okinori, 6 February 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

99 Dulles to Kaya, 13 August 1959, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。賀屋の政敵がその関係に気付いたときの政治的影響を恐れて、CIAは賀屋に対して手紙を返すように求めていた。

100 Dispatch, Acting Chief Far East to Chief of Station [redacted], 10 November 1959, Posonnet/1 NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

101 Dispatch, Chief of Station [redacted] to Chief, Far East Section, Posonnet/1, 12 January 1960, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

102 CIA Personal Record Questionnaire (PRQ), 22 November 1965, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

103 CIA Memorandum, Chief, Far East Division, 6 December 1965 NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。

104 CIA Report FJTA 55122, 25 September 1968, NA, RG 263, entry ZZ-18, CIA Name File, box 6, folder: Kaya, Okinori。当時北ベトナムへのB-52による爆撃において重要な地域にあった沖縄は、日本への返還に対する議論で混乱していた。

105 事実、ウィロビーの指示に基づき、G-2は、ドーリットル隊のパイロットを死刑にする指示に署名し戦後にアメリカに協力するスパイになっていたと伝えられていた下村定を擁護していた。G-2は日本で下村を逮捕させるために中国での取り調べを妨害し、彼が収監された後に彼の釈放を主張し、その後すぐ彼を釈放させていた。Shimomura’s file in NA, RG 319, Assistant Chief of Staff, G-2, Intelligence, Records of the Investigative Records Repository Personal Name File, entry 134B, box 211, folder: Shimomura, Sadamuを参照せよ。

106 この疑わしい関係に対する報道が1994年後半にアメリカで公開されていた。1994年10月9日のニューヨーク・タイムズ紙の"C.I.A. Spent Millions to Support Japanese Right in 50s and 60s"、「(邦訳)50年代、60年代に、CIAが日本の右派に対して数百万ドルを支援していた」を参照せよ。現時点で文書による証拠は確認されていなかったけれども、CIAと国務省の元高官はCIAと自民党の間の関係を認めていた。

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