最近の社会状況を理解するためにーアメリカ、フランス、ドイツのWikipediaの「ニュー・ケインジアン経済学」、「新しい新古典派総合」、「新古典派総合」、「新しい古典派マクロ経済学」、「AD-ASモデル」、「ポスト・ポリティクス」、「メタ・ポリティクス」、「ポスト・デモクラシー」、「第二の近代」の項目を読んで考えたこと

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オールド・メディアやインターネット・メディアを参考にする限り、ブレクシットの要因として、1. ラディカルと中道派の軋み、2. ロンドン・スコットランドと他の地方との異存、3. 老人と若者の相違をクローズ・アップする報道が大勢を占めているようだが、これらの枠組みは少なくとも国内のスピンがうまく機能した結果であるとの見方に説得力を与えてくれている議論を以下に抜粋する。そしてブレクシットが抱えている問題はそのまま日本の問題に投影されていることになる。

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ポスト・デモクラシーという語はウォーリック大学の政治学者であるコリン・クラウチによって『コウピング・ウィズ・ポスト・デモクラシー』といったタイトルの著作の中で2000年に作られた造語であった。ポスト・デモクラシーはしっかりと機能している民主主義システム(選挙が行われることによって政権が交代し、また言論の自由が存在している状況)によってもたらされる状態を示していたが、そのような民主主義の事例はまだ限定的であった。またこの議論の前提として器の小さいエリートが問題になる決定を行い民主主義の制度を濫用していることが指摘されていた。クラウチはロンドンのシンクタンクであるポリシーネットワークにおける『イズ・ゼア・ア・リベラリズム・ビヨンド・ソーシャル・デモクラシー?』といった論文や『ザ・ストレインジ・ノン・デス・オブ・ネオリベラリズム』といった著作の中でポスト・デモクラシーに関するアイデアを深化させていた。

バランスを欠いたディベート:多くの民主的な国々において、政党の立場は非常に似通っていた。このことは有権者にとって選択できるものがないことを意味していた。その影響は政治的キャンペーンが立場の違いを強調するための広告のように映っていることにあった。また政治家の私生活も選挙の重要な道具になっていた。そして時折「センシティブ」な問題が争点から外されることがあった。イギリスの保守派のジャーナリストであるピーター・オボーンは2005年総選挙のドキュメンタリーを通じて、争点を限定的にして多くの浮動票をターゲットにしたことを理由にして総選挙が民主的なものではなかったと論じていた。

公共部門と民間部門の交錯:政治とビジネスの間の金銭的な癒着が大きな問題であった。ロビー企業を通じて多国籍企業はその国の住民より上手に法律をくぐり抜けることが可能であった。そして企業と国家は緊密な関係にあり、その理由として企業が雇用に大きな影響を及ぼしている点で国家が企業を必要としていることが指摘されていた。しかし製造プロセスの多くがアウトソーシングされており、企業が他国に逃げることが容易であるため、労働者は低賃金労働に従事することになり、さらに納税の主役は企業から個人に移り、その目的は企業にとって有利な条件を生み出すことにあった。そして政治家と経営者が政府からビジネスへ他方でビジネスから政府へジョブをスイッチすることは非常にありふれた光景になっていた。

私有化:公共サービスを民営化することを推進する「新しい公共経営」(ネオリベラリズム流の)の考え方が広まっていたが、民営化された組織は民主的な手段によってコントロールすることが困難であった。

結果として:

政治家は国民投票や世論調査における好ましくない結果をよく無視していた。2005年にフランスとオランダの国民が欧州憲法に対してノーを突きつけたときに、少し修正を加えただけで、フランスやオランダはこの条約を批准していた。

排外主義の政党の登場は国民の不満を利用したものであった。

解決の道:

クラウチによれば、ソーシャルメディアには重要な役割があり、有権者が公のディベートに対して積極的に参加する可能性を広げていることが指摘されていた。この延長として有権者は特定の利害を擁護するグループに参加する必要に迫られるかもしれなかった。また市民が意思決定する場をその手に取り戻す必要が存在していた。クラウチはこのような市民参加をポスト・ポストデモクラシーと呼んでいた。

オキュパイ・ウォールストリートは組織化されないある種の抵抗運動であり、金融業界に関する不満から生じていた。

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ポスト・デモクラシーは民主主義のルールに則った状況を意味していたが、実際は民主主義のルールの適用を制限しているように考えられていた。例えば経済学者であるセルジュ・ラトゥーシュによれば、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー――格差拡大の政策を生む政治構造』を引き合いに出しながら、ポスト・デモクラシーは「私たちが今日経験しているようにメディアやロビー活動によって巧みに操作されながらでっち上げられた民主主義」を示していた[1]。

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イギリスの政治学者であるコリン・クラウチ[1]はポスト・デモクラシーを次のように定義していた。

「選挙を経験しない専門家の役割[...]、選挙期間中の公開討論はスピンドクターによってコントロールされており、その内容はエンターテイメントに堕しており、矮小化された問題のみを論じており、その論点はそのスピンドクターによって周到に選び抜かれていた」[2]。

グローバル企業と国家の連携がポスト・デモクラシーを進展させていた。クラウチによれば、国際協調を通じた賃金、労働権、環境基準の調整が企業活動のグローバル化より遅れていることが主要な問題であることが認識されていた。多国籍企業が税制や労働環境に満足しなければ、職場を海外に移転することをカードにして揺さぶりをかける可能性が指摘されていた。このような揺さぶりの舞台(底辺への競争)は政府の決定に対して企業の影響が市民の影響より強いことを背景にしていた[4]。主要な論点は西洋の民主主義がポスト・デモクラシーの状態に近づいており、その後「恵まれたエリートの影響力」[5]が増大する点にあった。

他の論点として1980年代から政府が民営化を促進しながら市民の責任を重くする新自由主義を採用していたことが指摘されていた。クラウチは次のような事例を示していた。「国家が市民の生活に対する関心を失い、市民の無関心を助長するならば、気付かれないように企業はこのような状況を活用してセルフ・サービス方式を普及させていた。新自由主義の根底にある見通しの甘さはこのような状況を認識していないことにあった」[6]。

リッツィーとシャールはポスト・デモクラシーを「完全な民主主義という枠組みにおける擬似民主主義として認識することを通じて」説明していた[7]。

クラウチはポスト・デモクラシーという語が状況を適切に表現していると考えていた。「この状況のような民主主義においてある種の怠慢、葛藤、失望感が広がっており、強力な利益集団の代表達は[...]大多数の市民よりはるかに積極的に行動しており、エリートは国民の要求を操るための方法を学習しており、市民に対して選挙に行くように広告キャンペーンを通じて「上から」説得していた。」[8] またクラウチはポスト・デモクラシーが非民主的な状況とは異なっていることを指摘していた。

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示しているもう1つの側面は「市場経済や自由競争のレトリックを口実にして特定の実業家に政治的な特権を付与していること」にあった[13]。そしてこのような特権の付与は「民主主義にとって深刻な問題」になっていた[14]。

クラウチは「ポスト・デモクラシーへの道」を回避するために3つのステップを指摘していた。それは「まず経済界のエリートによる支配を制限する手段を確立し、次に経済に左右される政治の状況を改革し、最後に一般人の活動の可能性を広げること」であった[17]。最後の点を言い換えるとそれは「新たなアイデンティティ」[18]を形成することであり、例えば地域の寄合いを通じて関係者の活動の可能性を広げることを含んでいた。民主主義のリバイバルに対する希望は一般人のアイデンティティに影響を及ぼす新しいタイプの社会的ムーブメントに内在していた。このムーブメントは成果を上げるためのロビー活動を通じた「ポスト・デモクラティック」な仕組みを活用しなければならなかった。そして政党は民主主義のリバイバルのための核となる部分を残す必要性に直面していた。また政党による支援はクラウチによれば民主的な変化にとって必要なものであった[20]。クラウチは「動物愛護のための過激なキャンペーン、アンチ・キャピタリストやアンチ・グローバリゼーションのアクティビスト、レイシズム団体、リンチと変わらない犯罪撲滅キャンペーン」に反対していた[21]。

政治学者であるローランド・ロスは自治体レベルでの市民の関与を深め、民営化された施設を再度公営化するようにパブリックスペースを国家を通じて再生し、アクターに参加を促すことを提案していた[23]。ダニエル・ライトチヒは市民の判断、リキッド・デモクラシー、セルフ・マネジメントへの回帰、より小さな行政単位、子供の頃からの社会参加の機会の拡大、対抗的な公共圏の構築に言及していた[24]。

ポスト・デモクラシー特有の傾向は国際的な統合の帰結から生じており、そこにはまだ共通の議論の土壌も国際紛争を民主的に解決するためのコンセンサスを形成する土台も存在していなかった。この事例は欧州連合になり、実際のところ欧州連合は民主主義の赤字を部分的に抱えていた。そして政治的な運動は欧州連合の政治システム特に欧州憲法における民主主義の赤字を具体的に改善する[28]ことを十分に考慮していなかった。

インタビューの中でクラウチはオバマの運動が「民主主義の内部崩壊についての私の主張を否定することになった」と述べていた。「そして「確かにオバマは民主党の候補者であったが、実際のところオバマは若者をホワイトハウスへ送ろうとする運動の中に位置付けられており、将来に対する希望であった」[29]。

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前回同様これが全てであるとは言及しないが、アメリカ、フランス、ドイツのWikipediaの「ニュー・ケインジアン経済学」、「新しい新古典派総合」、「新古典派総合」、「新しい古典派マクロ経済学」、「AD-ASモデル」、「ポスト・ポリティクス」、「メタ・ポリティクス」、「ポスト・デモクラシー」、「第二の近代」を訳すことにより上記の知見をサポートすることにする。URLは以下に示されるとおりになる。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_Keynesian_economics

ニュー・ケインジアン経済学

ニュー・ケインジアン経済学はケインジアン経済学に対してミクロ経済学的基礎を与えるマクロ経済学の学派であった。そしてニュー・ケインジアン経済学は新しい古典派によるケインジアンマクロ経済学に対する批判を受け止めていた。

また2つの大きな仮定がマクロ経済学に対するニュー・ケインジアンのアプローチを特徴付けていた。つまり新しい古典派のようにニュー・ケインジアンによるマクロ分析は家計と企業が合理的に期待を抱くことを前提にしていた。しかし両者はニュー・ケインジアンが多様な市場の失敗を想定している点で異なっており、ニュー・ケインジアンは価格や賃金が経済状況に合わせて瞬時に調整されない「粘着性」を有していることを背景にした不完全競争を想定していた。

ニュー・ケインジアンのモデルが想定している賃金や価格の粘着性や多様な市場の失敗は経済が完全雇用を達成することに失敗していることを包含していた。したがってニュー・ケインジアンは政府や中央銀行によるマクロ経済の安定化(財政政策や金融政策の活用)が自由放任主義の政策より効率的にマクロの指標を改善することができると主張していた。

1 ニュー・ケインジアン経済学の展開

1.1 1970年代

ニュー・ケインジアン経済学の最初のウェーブは1970年代後半に登場していた。情報の粘着性に関する最初のモデルはスタンレー・フィッシャーの1977年の論文である『ロングターム・コントラクツ・ラショナル・エクスペクテーションズ・アンド・ザ・オプティマル・マネー・サプライ・ルール』[2]によって示されていた。スタンレー・フィッシャーは「タイムラグのある」ないし「オーバーラップする」契約モデルを採用していた。そこでは経済に2つの労働組合が存在していることが想定されており、順繰りに賃金が定められており、ある労働組合の番になるとその後の2つの期間分の賃金が決定されていた。また名目賃金が生涯を通じて一定であるようなジョン・B・テイラーのモデルとの違いはスタンレー・フィッシャーによる2本の論文つまり1979年の『スタッガード・ウェイジ・セッティング・イン・ア・マクロモデル』[3]と1980年の『アグリゲイト・ダイナミクス・アンド・スタッガード・コントラクツ』[4]の中に示されていた。テイラーとフィッシャーによる契約の概念によれば、ある労働組合は最新の情報を活用して現在の賃金を定めており、他の労働組合は古い情報に基づきながら賃金を定めていた。テイラーのモデルは名目賃金の粘着性に加えて情報の粘着性を採用しており、名目賃金は2つの期間を超えて一定であった。この初期のニュー・ケインジアンによる理論は、名目賃金を固定しながら金融当局(中央銀行)が失業率をコントロールできるとの前提に基づいていた。賃金が名目レートで固定されているので、金融当局はマネーサプライを調節することによって実質賃金(インフレを考慮した賃金)をコントロールすることができ、したがって失業率を調整していた[5]。

1.2 1980年代

1.2.1 メニュー・コストと不完全競争

1980年代に価格の粘着性を説明するために不完全競争の枠組みにおけるメニュー・コストを用いることが研究されていた[6]。価格の調節に相反する一括費用(メニュー・コスト)の概念は価格変更の頻度に対するインフレの影響に関する論文を通じてシェシンスキーとワイス(1977年)によって導入されていた[7]。名目賃金の硬直性についての一般理論としてメニュー・コストを適用するアイデアは1985年から1986年にかけて数人の経済学者によって提案されていた。そしてジョージ・アカロフやジャネット・イエレンはもし便益が大きくなければ限定合理性を通じて企業は価格の変更を望まないだろうといったアイデアを採用していた[8][9]。つまり限定合理性は本来なら変動するはずの名目価格や名目賃金の硬直化を促していた。グレゴリー・マンキューはメニュー・コストを取り上げながら、価格の硬直性がもたらす取引量の変化を通じた経済厚生に対する影響にフォーカスしていた[10]。またマイケル・パーキンも同じアイデアを提唱していた[11]。このアプローチは名目価格の硬直性に着目していたけれども、オリヴィエ・ブランチャードや清滝信宏による『モノポリスティック・コンペティション・アンド・イフェクツ・オブ・アグリゲイト・ディマンド』を通じて名目価格の硬直性は賃金や価格全般に拡張されていた[12]。ヒュー・ディクソンやクラウス・ハンセンは、メニュー・コストが経済の小さなセクターに適用されるケースでも名目価格の硬直性は残りのセクターに影響を及ぼしており、価格全般が需要の変化にあまり反応しない背景を示していた[13]。

そして複数の研究がメニュー・コストがトータルとして然程大きくないことを示唆していたが、ローレンス・ボールやデビッド・ローマーは1990年に実質価格の硬直性が大きな不均衡を生み出すほどの名目価格の硬直性と相互作用している可能性があることを示していた[14]。経済環境の変化に対して企業がゆったりと実質価格を調整しているときに実質価格の硬直化が生じていた。例えば企業が市場を支配しているか要素投入に対するコストが契約を通じて一定期間固定されているならば、その企業は実質価格の硬直性に直面していた[15]。ボールやローマーによれば、労働市場における実質価格の硬直性が企業のコストを高い水準で維持させており、企業が価格を切り下げることを躊躇わせていることが指摘されていた。つまり価格変更にともなうメニュー・コストに関連した実質価格の硬直化による損失は企業が需給ギャップに合わせて価格を切り下げる蓋然性を低減させていた[16]。

仮に価格全般が完全にフレキシブルであっても、不完全競争は乗数効果の面で財政政策に影響を与える可能性を包含していた。ヒュー・ディクソンやグレゴリー・マンキューは財政政策における乗数効果が生産物市場における不完全競争の程度に応じて増大する可能性があることを示す一般均衡モデルを別々に発展させていた[17][18]。これは生産物市場における不完全競争が実質賃金を押し下げ、家計が余暇から労働へ時間を振り向ける傾向があることを理由にしていた。概して政府支出が増加するときの課税の拡大は労働と余暇双方の減少の要因になっており(ここで労働と余暇が正常財であることを仮定している)、生産物市場における不完全競争の程度が大きくなるにつれて実質賃金が低下すると、余暇の減少は拡大し(つまり労働が拡大することによる)労働の減少は縮小していた。したがって財政政策の乗数は1より小さいものの不完全競争の程度に応じて増加する傾向を示していた。

1.2.2 ギジェルモ・カルボによるスタッガード・コントラクツ・モデル

1983年にギジェルモ・カルボは『スタッガード・プライシーズ・イン・ア・ユーティリティ・マキシマイジング・フレームワーク』を発表していた[19]。その元論文は連続時間を採用していたが今日では離散時間を用いている。カルボのモデルはニュー・ケインジアン流に名目価格の硬直性をモデル化するための一般的な方法を示していた。そこでは企業が任意の期間においてその価格リストを改訂する確率(危険率 h)と価格がその期間において改定されない確率(生存率 1-h)が与えられていた。その確率(h)は時として「カルボ確率」と呼ばれていた。契約期間が事前に知らされているテイラーによるモデルと対照的に、カルボ・モデルにおける重要な特徴はプライス・セッターが名目価格が改定されない期間を知らないことにあった。

1.2.3 協調の失敗

協調の失敗は不況や失業を説明する潜在力を有していたニュー・ケインジアン経済学におけるもう1つの重要な概念であった[21]。いったん不況になると例え人々が労働の意欲を有しており仕事のある人々が購買意欲を有していたとしても工場がアイドル状態になる可能性が存在していた。この筋書きによれば、経済的な陰りは協調の失敗の産物であり、見えざる手が生産と消費における最適なフローを調整することに失敗していたことが指摘されていた[22]。ラッセル・クーパーとアンドリュー・ジョンによる1988年の論文である『コーディネーティング・コーディネーション・フェイラーズ・イン・ケインジアン・モデルズ』はお互いの状況を改善する(少なくとも悪化させない)ために個々の経済主体が協調する可能性を示す複数均衡を有するモデルにおける協調を一般化していた[20][23]。クーパーとジョンによる研究はマッチング理論を包含した協調の失敗における事例をピーター・ダイヤモンドが1982年に示したココナッツ・モデルのような初期の研究に依存していた[24]。ダイヤモンドのモデルにおいて生産者は他の生産者が生産していれば生産に着手する傾向にあった。そして潜在的な取引企業の増加は取引相手を見つける蓋然性を高めていた。協調の失敗における他の事例として、ダイヤモンドのモデルは複数均衡を前提にしており、ある経済主体の経済厚生が他の経済主体による意思決定に依存していることが指摘されていた[25]。またダイヤモンドのモデルは多くの人や企業が参入すればするほど市場がうまく機能するようになるといった「市場厚の外部性」を示していた[26]。さらなる協調の失敗の事例として「自己実現性」が指摘されていた。もし企業が需要の落ち込みを予想しているならば雇用の削減に踏み切る可能性があり、その結果としての求人数の不足は労働者に不安をもたらし消費を一層落ち込ませる可能性を高めていた。つまり需要の落ち込みは企業にとって想定内であったが、その原因は企業の行動(想定)に起因していた。

協調の失敗のモデルにおいて、代表的企業(ei)はあらゆる企業(ē)の平均的な生産に依拠しながら生産を行っていた。代表的企業が平均的な企業と同じロットを生産するとき(ei=ē)、経済は45度線上にあり均衡していた。そして決定曲線は45度線と3箇所で交錯していた。企業は最適解である点Bで協調しながら生産する可能性を有しながらも、協調が存在しなければ、企業は効率性が劣る他の均衡点で生産する可能性も有していた[20]。

1.2.4 労働市場の失敗:効率賃金

ニュー・ケインジアンは労働市場の失敗を明示していた。ワルラス市場において失業者は労働者に対する需要が供給と釣り合うまで賃金を切り下げられていた[27]。市場がワルラス的であるならば、失業者のオーダーはジョブ・チェンジする労働者のオーダーに限定されており、低すぎる賃金では労働者が集まらないことが理由であった[28]。ニュー・ケインジアンは市場が自発的失業を促している背景を分析する理論を構築していた[29]。ニュー・ケインジアンによる理論の中で特筆すべきは効率賃金理論であり、短期的な失業の増加がトレンドになり長期的失業を高止まりさせるように、過去の失業に起因する長期的な影響を説明していた[30]。

シャピロ=スティグリッツのモデルによれば、労働者はサボタージュしないレベルの賃金を支払われており、その高賃金が失業を生じさせていた。サボタージュさせない条件を示す曲線(NSC曲線)は完全雇用に近づくにつれ無限大に発散していた。

効率賃金モデルにおいて労働者は労働市場の需給に合わせたレベルよりむしろ生産性を最大化するレベルの賃金を支払われていた[31]。例えば途上国の企業が労働者が生産性を高めるのに十分なリソースを有していることを保証する賃金以上の賃金を支払う可能性が指摘されていた[32]。また企業が忠誠心やモラルを高め生産性を向上させるために高い賃金を支払う可能性も指摘されていた[33]。さらに企業がサボタージュを回避するために市場の需給による賃金以上の賃金を支払う可能性も指摘されていた[34]。カール・シャピロとジョセフ・スティグリッツによる1984年の『イークウィリブリアム・アンエンプロイメント・アズ・ア・ワーカー・ディシプリン・デバイス』は企業が労働者の取組みをモニターしたりサボタージュしている労働者に解雇をチラつかせたりしなければ被雇用者が勤勉に仕事をしないモデルを呈示していた[35][36]。仮に経済が完全雇用の状態にあるのならばサボタージュによって解雇された労働者は単に新たなジョブに移るだけであった[37]。個々の企業は労働者がサボタージュやジョブ・チェンジのリスクより仕事をキープすることを歓迎していることを保証する賃金にプレミアムを加えて労働者に対して賃金を支払っていた。個々の企業は市場の需給による賃金以上の賃金を支払っているので、アグリゲートされた労働市場は需給調整に失敗していた。このメカニズムは失業者をプールさせており、解雇を増加させていた。労働者は収入低下のリスクに加えて失業者のプールにスタックされ続けるリスクに直面していた。しかし市場の需給による賃金以上の賃金をキープすることは確かに失業者を生じさせていたけれども労働者をサボタージュさせないインセンティブを与えていた[38]。

1.3 1990年代

1.3.1 新しい新古典派総合

1. 1990年代の初頭に経済学者たちは1980年代に進化していたニュー・ケインジアン経済学とリアルビジネスサイクル理論の中身を統合し始めていた。リアルビジネスサイクル理論は経時的変化を組み込んだ動学でありながら完全競争を仮定しており、ニュー・ケインジアンのモデルは経時的変化を組み込んでいない静学でありながら不完全競争に依拠していた。新しい新古典派総合はリアルビジネスサイクル理論の動学とニュー・ケインジアンのモデルにおける不完全競争や名目価格の硬直性を統合させていた。タック・ユンはカルボ型のモデルを採用しながら新しい新古典派総合を初めて実現していた研究者の1人であった[39]。グッドフレンドやキングは異時点間の最適化、合理的期待、不完全競争、メニュー・コスト等を考慮した価格調整のように新しい新古典派総合の核になる4つの要素を列挙していた[40][41]。グッドフレンドやキングによれば、コンセンサスモデルは政策的な含意を生み出しており、金融政策が短期的な実質GDPに影響を及ぼす可能性を有していながらも長期的な実質GDPに影響を及ぼすことを示しておらず、貨幣は短期において中立的ではなかったが長期において中立的であることが指摘されていた。そしてインフレは経済厚生に対してマイナスの影響を及ぼしており、インフレ・ターゲットのような政策を通じて中央銀行がクレディビリティを維持することが肝要とされていた。

1.3.2 テイラー・ルール

1993年に[42]ジョン・B・テイラーは、インフレ、GDP、他の条件における変動に応じて中央銀行が名目金利を調整すべきであるといった金融政策におけるルールであるテイラー・ルールのアイデアを定式化していた。特にテイラー・ルールによればインフレ率が1%上昇するたびに中央銀行は名目金利を1%以上上昇させることが想定されていた。そしてテイラー・ルールにおけるこのような想定はテイラー原理と呼ばれていた。

オリジナルのテイラー・ルールによれば名目金利は望ましいインフレ率と実際のインフレ率との差や実際のGDPと潜在GDPとの差に応じて調整されることが期待されていた。

eqn58.png

この式において、itは政策金利であり短期名目金利であり(アメリカにおけるフェデラル・ファンド金利やイギリスにおけるBOEBR)、πtはGDPデフレーターを用いたインフレ率であり、πt*は望ましいインフレ率であり、rt*は想定される実質金利の均衡であり、ytは実質GDPの対数であり、ytは線形のトレンドを通じて決定されていた潜在GDPの対数であった。

1.3.3 ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブ

ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブは1995年のロバーツの議論に由来しており、ニュー・ケインジアンのDSGEモデルの中で用いられていた[44]。ニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブによれば現在のインフレは現在のGDPと将来のインフレに対する期待に依拠していた。このフィリップス・カーブは価格決定に関するカルボ型の動学モデルから導出されていた。

eqn59.png

将来のインフレに対する現在の期待がβ*Ett+1]として表されており、βはその割引率を示していた。定数κはGDPに対するインフレの変化を示しており、全期間における価格変動の確率hを通じて定められていた。

eqn60.png

名目価格の硬直性が小さければ(hが大きければ)現在のインフレに対するGDPの影響が増大することが示されていた。

金融政策に対する科学的アプローチ

1990年代に展開していたさまざまなアイデアが金融政策を分析するためのニュー・ケインジアンによる動学的確率的一般均衡(DSGE)を展開することを通じて統合されていた。DSGEモデルはジャーナル・オブ・エコノミック・リテラチャー誌におけるリチャード・クラリダ、ジョルディ・ガリ、マーク・ガートラーによる研究を通じてニュー・ケインジアンのモデルに依拠した3本の方程式に集約されていた[45][46]。DSGEモデルは最適化されたダイナミック・コンサンプション・ファンクション(家計におけるオイラー方程式)に由来する動学的IS曲線とニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブやテイラー・ルールからなる2本の方程式を統合していた。

eqn61.png

これらの3本の方程式は政策上の問題を理論的に分析することを考慮した比較的シンプルなモデルであった。しかしDSGEモデルはある面で単純化されすぎており(例えば資本や投資が登場していないことが指摘されていた)、現状を経験的にうまく説明していなかった。

1.4 2000年代

2000年代になってニュー・ケインジアン経済学における幾つかの進歩が見受けられていた。

1.4.1 不完全競争労働市場の導入

1990年代のモデルは生産物市場における価格の粘着性にフォーカスしており、2000年にクリストファー・エルツェッグ、デール・ヘンダーソン、アンドリュー・レビンはグループ化されていない労働市場に対するブランチャード=清滝モデルを採用しており、そのブランチャード=清滝モデルをニュー・ケインジアンのDSGEモデルに統合していた[47]。

1.4.2 複雑なDSGEモデルの展開

データと親和性があり政策に有用となるモデルにするために非常に複雑なニュー・ケインジアンのモデルは幾つかの特性を進化させていた。そして極めて重要な論文がフランク・スメッツやラファエル・ウーターズ[48][49]さらにローレンス・J・クリスティアーノ、マーティン・アイヘンバウム、チャールズ・エヴァンス[50]によって発表されていた。これらのモデルにおける共通点は次のようなものであった。

習慣の継続:消費の限界効用は過去の消費に基づいていた。

物価スライド制を伴う生産物市場におけるカルボ型の価格決定:賃金や価格が需給に合わせて調整されない中インフレに合わせて上昇していった。

資本調整コストと可変資本稼働率

新たなショック
1. 消費の限界効用に影響を及ぼす需要ショック
2. 限界費用に対する望ましい価格マークアップに影響を及ぼすマークアップ・ショック

テイラー・ルールに基づいた金融政策

ベイズ推定モデル

1.4.3 情報の粘着性

フィッシャーのモデルにおける情報の粘着性のようなアイデアはグレゴリー・マンキューやリカルド・レイスによって進化を遂げていた[51]。そしてマンキューやレイスはフィッシャーのモデルに次のような特性を組み込んでいた。各期間を通じて賃金や価格を変更することに対して一定の確率が与えられていた。そしてマンキューやレイスによれば四半期ごとのデータを通じてその確率が25%になるだろうといったことが想定されていた。つまり各四半期を通じてランダムに選ばれた企業や組合の25%が現在の情報に依拠して現在ないし将来の価格を変更するであろうといったことが前提とされていた。したがって仮の話になるが私たちは現在を次のように把握しており、価格の25%が利用可能な最新の情報に基づいており、残りの価格は過去の情報に依拠していた。マンキューやレイスによれば情報の粘着性を採用したモデルは長引くインフレをうまく説明していた。

情報の粘着性を採用したモデルは名目価格の硬直性を採用していなかった。企業や組合は各期間を通じて異なった価格や賃金を自由に選択していた。つまり情報は粘着的であったが価格は粘着的ではなかった。したがって企業が業績の向上を通じて現在ないし将来の価格を変更することを想定するならば、現在ないし将来において最適になると思われる価格の推移も選択されるであろう。そしてこの想定はあらゆる期間を通じてばらばらな価格を設定するケースを包含しており、価格決定に関する経験的な事実と相違していた[52][53]。他方でアメリカ[54]、ユーロゾーン[55]、イギリス[56]等の国々における価格の硬直性が研究されていた。これらの研究によれば、価格変更が頻繁に生じるセクターがある一方、ずっと価格が固定されているセクターも存在していた。情報の粘着性を採用したモデルにおける価格の硬直性の欠落は多くの経済における価格の振舞いと一致していなかった。そしてこの研究を通じて価格の硬直性と情報の粘着性を融合させた「デュアル・スティッキネス」が定式化されていた[53][57]。

2 政策的な含意

ニュー・ケインジアンは長期における古典派の二分法つまりマネーサプライの変動が中立的であることについて新しい新古典派と意見が一致していた。しかしニュー・ケインジアンのモデルによれば価格が硬直的であるために、マネーサプライの増大(もしくは金利の低下)が短期的にGDPを増加させ失業率を低下させることが指摘されていた。さらに一部のニュー・ケインジアンのモデルによればいくつかの条件を通じて貨幣の中立性が成立しないケースがあることが指摘されていた[58]。

しかし一方でニュー・ケインジアンは短期的なGDPや雇用のゲインを求めて金融政策を拡大することに賛同しておらず、つまりそれがインフレ期待を上昇させることを通じて将来に問題を先送りしていることが理由として指摘されていた。その代わりにニュー・ケインジアンは経済安定化のために金融政策を活用することを主張していた。つまり一時的なブームを生み出すために突然マネーサプライを増大させることは推奨されておらず、言い換えると膨らんだインフレ期待を鎮めるための景気後退が伴うことであろうことが理由として指摘されていた。

しかし経済が予想外の外的ショックに見舞われたときに金融政策を通じたショックによりマクロ経済に対する影響を相殺することは良いアイデアであると見做されていた。仮に予想外のショックがGDPやインフレを低下させる傾向にあるならば(消費需要の落ち込みのように)、金融政策を通じた相殺はこの良い事例であった。このようなケースにおいてマネーサプライの増加(金利を下げること等)はGDPの増大をもたらしており、インフレやインフレ期待を安定化させていた。

ニュー・ケインジアンによるDSGEモデルにおける最適な金融政策の研究はテイラー・ルールにおける金利の役割にフォーカスしており、どのように中央銀行がインフレやGDPの変動に応じて名目金利を調整しているのかについて論じていた。(より正確に言えば最適なルールは通常GDPギャップにおける変動に対してそのつど生じていた。) またニュー・ケインジアンによるいくつかの単純なDSGEモデルにおいて、安定したインフレがGDPや雇用を望ましい水準で安定させていることからインフレの安定化が望まれていることが示されていた。ブランチャードやガリはこの性質を「神のなせる偶然」と呼んでいた[59]。

しかしブランチャードやガリによれば、複数の不完全市場(雇用調整における摩擦的失業や価格の硬直性による)において「神のなせる偶然」は存在しておらず、その代わりにインフレの安定化と雇用の安定化におけるトレードオフが生じていた[60]。一部のマクロ経済学者によればニュー・ケインジアンによるモデルは四半期ごとの政策提言に対して辛うじて役に立つこともある状態であり、見解の不一致を抱えていた[61]。

近年「神のなせる偶然」は標準的なニュー・ケインジアンによる非線形モデルにおいて成立しなくなってきていることが示されていた[62]。この特徴は金融当局がインフレ目標をゼロに設定しているときにのみ成立していた。他のインフレ目標が設定されているときには、賃金の硬直性のような不完全市場の要因が存在していないときでさえインフレの安定化と雇用の安定化におけるトレードオフが生じており、「神のなせる偶然」はもはや存在していなかった。

3 他のマクロ経済学との関係

長年にわたりケインジアンに倣うかその反面ケインジアンと対立していた「新しい」マクロ経済学が影響力を与えていた[63]。ポール・サミュエルソンはケインズ経済学を新古典派経済学と統合するために「新古典派総合」という語を用いていた。このアイデアは政府と中央銀行が共に完全雇用を目指していることを包含しており、希少性を理論の中心に組み込んだ新古典派による概念を用いていた。そしてジョン・ヒックスによるIS-LMモデルは新古典派総合を核に据えていた。

消費と投資のミクロ的基礎を強調していたジェームズ・トービンやフランコ・モジリアーニのような経済学者による研究はネオ・ケインジアニズムと呼ばれていた。ネオ・ケインジアニズムはポール・デヴィッドソンによるポスト・ケインジアニズムと対照的であり、デヴィッドソンは民間設備投資に関連した減価償却における不確実性の役割を強調していた。

ニュー・ケインジアニズムはロバート・ルーカスや新しい古典派に対するリアクションであった[64]。新しい古典派は「合理的期待」の概念に基づいてケインジアニズムの矛盾を批判していた。また新しい古典派は合理的期待とただ1つの市場均衡(完全雇用の)を統合していた。ニュー・ケインジアンは価格の硬直性が市場価格の均衡を阻害することを示す「ミクロ的基礎」に依拠しており、合理的期待による均衡が1つに定まることが条件とされていないことを指摘していた。

新古典派総合は財政・金融政策が完全雇用を維持するために有用であろうことを期待しており、新しい古典派は価格や賃金の調整が短期的に完全雇用を達成するであろうと想定していた。他方でニュー・ケインジアンは価格が短期において「硬直的」であることを理由にして完全雇用を「長期において」達成されるものと見做していた。

そして2008年のリーマン・ショックを通じて世界銀行やIMFのような国際機関、国際貿易システム、マクロ政策(金融・財政政策のミックス)の協調の意義をケインズが強調していたことが指摘されていた。またIMFのエコノミスト[65]やドナルド・マークウェル[66]による研究にこのような政策の協調が反映されていた。

https://de.wikipedia.org/wiki/Neukeynesianismus

ニュー・ケインジアニズム

ニュー・ケインジアニズムはケインズ流の価格決定つまり賃金の硬直性を新古典派の均衡モデルと組み合わせた経済理論であった。ニュー・ケインジアニズムはミクロ的基礎を採用したモデル(新しい新古典派総合)を通じてそれまでの新古典派総合を塗り替えていた。そして金融政策とりわけ金利政策の有効性を強調していた[1]。

ニュー・ケインジアニズムは1980年代に始まり、国際マクロ経済学の主流となっていった[2]。1970年代のケインズ主義とマネタリズムの間の国民経済論争を経て、1980年代以降のニュー・ケインジアニズム、新しいケインジアニズム(合理的期待を考慮した新古典派の価格均衡モデル)、新しい古典派経済学(完全市場の想定を緩めている)の間に論争が生じていた[3]。

1 ニュー・ケインジアニズム以前の時代

ジョン・メイナード・ケインズは1936年に『雇用・利子および貨幣の一般理論』を著しており、世界的な経済危機のその後を理論化していた。しかしこの著作は経済学者の間でも理解しにくいことで知られていた。1937年にジョン・R・ヒックスはIS-LMモデルを通じて一般理論の解釈を単純化していた。IS-LMモデル(後に修正されながら発展していった)は新古典派総合の一部を形成しており、多くの経済学者によって取り上げられており、1930年代の失策を回避することが可能であったことが指摘されており、新古典派の思想から影響を受けているとも考えられていた。新古典派総合における折衷主義によれば、長期においては新古典派の理論に意味があったが、短期においてはケインズ流の介入主義に価値があるとされていた。そして調整期間の後にフレキシブルな価格や賃金を採用している市場は完全雇用やパレート最適な状態に向かうとされていた。しかし価格や賃金の硬直性は必要とされている調整メカニズムを阻害しており、失業にともなう経済危機を先送りしていることが指摘されていた。他方で新古典派総合はケインズによる概念をカバーしており、数十年にわたり主流派の経済理論であり続けていた[4]。

しかし1970年代にスタグフレーションが生じたことについて、新古典派総合はそのインフレの上昇を説明することができなかった。他方マネタリズムはマネーサプライがインフレに作用するとの解釈を通じて主流派の経済理論に上りつめていた[4]。マネタリズムによれば名目GDPの増加に対してマネーサプライの増加を比例させるならば経済成長と適度なインフレが安定した水準で推移することが指摘されていた。しかしマネーサプライをコントロールするためには貨幣の流通速度を想定することが必要とされていた。貨幣の流通速度は過去のデータを用いた線形モデルによって推計されていた。しかし金融システムの規制緩和、マネー・マーケット・アカウントの導入、金融革新を通じて、1980年代以降の貨幣の流通速度は予測不能になり時として激しい変動を示していた。その結果として名目GDPとマネーサプライの相関は消えてしまっていた。この事実はマネタリー・ターゲットの有用性に疑問を投げかけており、多くの経済学者がマネタリズムから離れていった[5]。そして1980年代には新しい古典派マクロ経済学が主流になっており、合理的期待形成仮説や効率的市場仮説がマネタリズムより市場原理に適っていることが主張されていた[6]。合理的期待形成仮説を研究していたロバート・E・ルーカスは1980年代にケインジアニズムの終焉を宣言していた。

「自己の研究をケインジアンのものと見做す40才以下の経済学者はほとんど見受けられなかった。実際のところ人々はケインジアンと見做されることに対する苛立ちを隠していなかった。研究会の場で人々はケインジアンの理論構成をシリアスに受け止めておらず、聴衆はお互いにくすくす笑うだけであった。」

ちょうどこの頃ニュー・ケインジアン経済学の研究が始まっていた。そしてそれまでのフィリップス・カーブはインフレ期待を考慮したニュー・ケインジアンのフィリップス・カーブに拡張されていた。また新古典派総合に代わってミクロ的基礎を強調したマクロモデルが展開されていた[1]。ニュー・ケインジアニズムが今日の北米のマクロ経済学を席巻している背景として、新しい古典派やマネタリズムが多くの経験的なエビデンスと矛盾しており、DSGEモデルのようなニュー・ケインジアンのモデルが現状を他のモデルよりうまく説明している事実が指摘されていた[7]。

2 名目価格の硬直性におけるミクロ的基礎

ニュー・ケインジアニズムはDSGEモデルに依拠していたが、新しい古典派のマクロ経済学とは基本的に異なっていた。そしてリアルビジネスサイクル理論(新しい古典派のマクロ経済学)はインフレ、失業、GDPを包含しない完全競争という現実的でない仮定に依拠していた[8]。そのためニュー・ケインジアンのモデルは企業が市場に反応した価格調整をすぐに行わず(価格の粘着性)、労働市場の変化に対して賃金の調整をすぐに行わないこと(賃金の粘着性)を考慮していた。古典的なケインジアニズムにおける賃金の硬直性は例えば労働者の名目賃金に対する想定に依拠していた。ロバート・E・ルーカスはこの想定を批判しており、その理由として人間の行動についてアドホックな前提しか示していないことが指摘されていた。とりわけルーカスによって提唱された新しい古典派マクロ経済学は市場参加者による合理的期待に依拠しており、価格や賃金が完全にフレキシブルであり、経済的変動が外生的に生じるのみであり、非自発的失業は考慮されていなかった。ニュー・ケインジアニズムは確かに合理的期待に依拠していたものの、それとは異なる合理的根拠を提示しており、他方で価格の硬直性を肯定していた[1][2]。

賃金はしばしば長期にわたって硬直的であった。

消費習慣はゆったりとした変化を示していた。

情報は入手困難な性質を示していた。

企業による投資は調整コストを生じさせる一因になっていた。

価格変更は調整コストを生じさせる一因になっていた(メニュー・コスト)。

例えば供給契約や団体協約のような契約上の義務によって価格はタイムラグを伴いながら調整されていた(スタッガード・プライシング)。

ヒステリシス(経済学における履歴効果)。

協調の失敗[9]。

新古典派の理論と異なり完全市場に依拠しておらず、つまり完全市場が現実に置いて稀であることを理由にしており、独占競争に根拠を求めていた。

3 広範な市場の失敗

ニュー・ケインジアンのモデルを通じて広範な市場の失敗が時折り取り上げられていたことが指摘されていた。

不完全な信用市場[10][11]。

モラル・ハザード[12]やマッチング理論における諸問題[13]による失業。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Nouvelle_économie_keynésienne

ニュー・ケインジアン経済学

ニュー・ケインジアン経済学は新しい古典派経済学に対する反応として1980年代に生じていた。もし新古典派の一般均衡理論との関連でニュー・ケインジアン経済学を理解するならば、完全情報の想定を緩めている点に特徴が見出されていた。さらにケインジアンの経済政策(財政赤字や低金利)[1]が市場を機能させることについての構造的な問題を十分に考慮していない点に対して批判的であった。

新しい古典派と対照的にニュー・ケインジアンは市場が需給に応じてすぐに調整されるとは考えていなかった。実際のところニュー・ケインジアンにとって賃金や価格はフレキシブルではなく硬直的なものであった。そして賃金や価格の粘着性は不完全情報に由来していることが指摘されていた[2]。ニュー・ケインジアンの視点は経済をよく機能させるために国家の機能を市場に代替していくことに対してプライオリティを置いていなかった。

代表的なニュー・ケインジアンの中にジョセフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ、ジェームズ・マーリーズ、マイケル・スペンス、ジャネット・イエレン、グレゴリー・マンキュー、IMFのチーフエコノミストであるオリヴィエ・ブランチャード、クリントン政権の財務副長官であったローレンス・サマーズ、ベン・バーナンキ(FRBの元議長であり、2013年にジャネット・イエレンとバトンタッチした)が含まれていた。

1 共通の枠組み

グレゴリー・マンキュー[5]にとって「新しい新古典派総合の核は短期における価格の「硬直性」や多くの市場における不完全性による資源の最適配分から派生したDSGEモデルを通じて経済を認識していることにあった」。

新しい古典派経済学にとって「ビジネスサイクルは予想外の金融ショックないし実物ショックをを通じて説明されており」[6]、ニュー・ケインジアン経済学にとって「景気後退は規模が大きい複数の市場の失敗によって引き起こされており、あるケースにおいて経済に対する政府の介入が肯定されていた」ことが指摘されていた[5]。また新しい古典派と異なりマネタリストのように[5]、ニュー・ケインジアンは金融政策が短期の雇用やGDPに影響を及ぼす蓋然性を想定していた。

協調の失敗に関連した市場の不完全性を抱える中で景気後退の要因は複数存在していた。

その1つはカタログの改定費(メニュー・コスト)であった。つまり価格を調整し続けることが困難であり、度重なる価格変更が企業や顧客の手間になるといった外部性を伴っていることが指摘されていた。

もう1つの問題は不完全情報に関連しており、情報の非対称やアドバース・セレクションがアカロフによって研究されており、シグナリングを通じてその解が与えられていた。

2 労働市場

ケインジアンのようにニュー・ケインジアンは労働市場の不均衡にかなりの関心を抱いていた。そしてニュー・ケインジアン経済学はいくつかの概念を発展させていた。

その1つは効率的賃金仮説であった。この仮説は経済学者であるカール・シャピロやジョセフ・スティグリッツによって1984年に[8]労働市場における失業を説明するために検討されていた。効率的賃金仮説によれば、市場の不均衡は情報に対するアクセスの問題に起因しており、雇用者が業務における従業員の取組みを完全に知り得ることができないといったことを包含していた。そして従業員に最大限に尽力してもらうために、雇用者がライバル企業より若干上回る賃金を従業員に提示する必要が存在しており、このマーケットで決定される額を上回る賃金は効率的賃金と呼ばれていた。また従業員は賃金がよい企業に残留するための取組みに関心を抱いているであろうことが想定されていた。その反対に従業員の賃金が市場清算価格であったならば、従業員にとって転職を通じて失うものは何もなく、従業員の取組みは待遇のよい企業に残留することだけに「縛られることもない」であろう。そして留保賃金といったものが存在しており、それによれば労働あたりの賃金は従業員の生産性と相関していた。

もう1つはインサイダー・アウトサイダー理論であった。このモデルは安定した雇用契約(フランスにおける無期限雇用契約)を交わしている従業員のようなインサイダーと不安定な雇用契約を交わしている従業員や失業者のようなアウトサイダーを対比させていた。この理論はポール・オスターマンによる二元論に依拠した労働市場を描き出していた。労働市場にまだ慣れていない若年層(18才から24才)の非熟練のアウトサイダーはインサイダーより低い賃金で就労する傾向にあり(若年層の留保賃金はより低い)、実際のところ私たちはアウトサイダーに十分なチャンスを与えてこなかった。

3 批判

もしニュー・ケインジアンがレッセフェールを求める新しい古典派に反論するならば、それ[9]は「ピュロスの勝利」でしかないと考えられており、その理由として市場の機能を歪めて認識している新しい古典派の厳格さに対してニュー・ケインジアンによる分析が異議を唱えていることが指摘されていた。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_neoclassical_synthesis

新しい新古典派総合

新しい新古典派総合は短期の変動を説明するためのコンセンサスとして近代のマクロ経済学の底流にある思想、新しい古典派経済学、ニュー・ケインジアン経済学を融合したものであった[1]。この新しい新古典派総合は新古典派経済学をケインジアンマクロ経済学と統合した新古典派総合と類似していた[2]。新しい新古典派総合は多くの現代の主流派経済学に対して理論的な基盤を提供していた。また新しい新古典派総合は連銀や他の中央銀行の業務における理論的な基盤の核を形成していた[3]。

新しい新古典派総合以前におけるマクロ経済学は小さな規模のモデルを通じた市場の不完全性に対するニュー・ケインジアンの研究とGDPの変動を説明している技術変化や一般均衡理論を包含したリアルビジネスサイクル理論に二分されていた[4]。新しい新古典派総合はニュー・ケインジアンと新しい古典派に由来していた。新しい古典派経済学はリアルビジネスサイクル理論の背後にある方法論を研究しており、ニュー・ケインジアン経済学は名目価格の硬直性(頻繁な価格変更というよりむしろ期間を置きながらのゆったりとした価格変更)を研究の対象にしていた[2]。

1 4つの要素

グッドフレンドとキングは新しい新古典派総合の核になる4つの要素をリストに挙げており[6]、異時点間の最適化、合理的期待形成、不完全競争、価格調整のコスト(メニュー・コスト)が列挙されていた[7]。またグッドフレンドとキングは新しい新古典派総合が政策上の含意を包含していることを指摘していた[6]。そして新しい古典派と対照的に、金融政策が短期の実質GDPに影響を及ぼす可能性を認めながらも長期におけるトレードオフが存在しておらず、つまり貨幣が短期において中立的でないものの長期においては中立的であることが指摘されていた。そしてインフレは負の厚生効果を有しており、インフレ・ターゲットのようなルールを通じて中央銀行が信用を維持することが重要な役割を担っていた。

2 5つの原則

近年マイケル・ウッドフォード(経済学者)は5つの要素を用いて新しい新古典派総合を描写しようとしていた。第一にウッドフォードは異時点間の一般均衡の基礎についてのコンセンサスが存在していると述べていた。そのベースは経済の変化による短期ないし長期のインパクトが単一のフレームワークを通じて検討されることを許容しており、ミクロとマクロの視点はもはや分離されていなかった。新しい新古典派総合の登場は部分的には新しい古典派に対するニュー・ケインジアンの勝利であり、短期におけるマクロの動学をモデル化するケインジアンの願望を内在させていた[8]。

第二に新しい新古典派総合は観察されたデータを用いることの意義を認識していたものの、経済学者は一般的な関係に注目することよりむしろ理論に依拠したモデルの方にフォーカスしていた[9]。第三に新しい新古典派総合はルーカス批判に焦点を当てており、合理的期待を用いていたが、粘着的価格や価格の硬直性を通じて、初期の新しい古典派によって示されていた貨幣の中立性を支持していなかった[10]。

第四に新しい新古典派総合はさまざまなショックが産出量の変動の原因になっていることの蓋然性を容認していた。この視点は貨幣量の変動が短期の実物経済に影響を及ぼすといったマネタリストの視点や需要が変動しながらも供給が安定しているといったケインジアンの視点とは異なっていた[11]。オールド・ケインジアンのモデルは計測された産出量と潜在産出量のトレンドの差として産出量ギャップを認識していた[5]。他方で産出量の変動を説明するためにリアルビジネスサイクル理論は産出量ギャップの可能性を考慮しておらず、ショック後の効率的な資源配分を想定した産出量の変動を検討していた。しかしケインジアンはリアルビジネスサイクル理論を否定しており、それは効率的な資源配分を仮定した産出量の変動が経済全体の変動を説明するほど十分に大きくないことを理由にしていた[12]。

そして新しい新古典派総合は新しい古典派とニュー・ケインジアンの論点を統合していた。新しい新古典派総合において産出量ギャップは是認されており、実際の産出量と効率的な資源配分を仮定した産出量の差として認識されていた。効率的な資源配分を仮定した産出量の想定は潜在産出量が綿々と成長する訳ではなくショックに応じて増減する可能性を内包していた[5][11]。また中央銀行が金融政策を通じてインフレをコントロールすることが可能であるとの認識が容認されていた。この認識は部分的にはマネタリストの勝利であったが、新しい新古典派総合はケインジアニズムに由来するフィリップス・カーブの進化を包含していた[13]。

https://en.wikipedia.org/wiki/Neoclassical_synthesis

新古典派総合

新古典派総合はジョン・メイナード・ケインズによるマクロ経済思想を新古典派経済学の中に取り込む第二次世界大戦以降の経済学の潮流であった。主流派の経済学はマクロ経済学におけるケインジアンとミクロ経済学における新古典派の統合を通じて収拾されていた[1]。

新古典派総合は主にジョン・ヒックスによって進歩を遂げ数理経済学者であるポール・サミュエルソンによって世に広められていき、サミュエルソンは新古典派総合という語を造りだし、部分的にはテクニカルライティングやテキストブックである『経済学』を通じて「新古典派総合」を浸透させていった[2][3]。新古典派総合の展開プロセスはケインズによる『一般理論』の公表を経てジョン・ヒックスによる1937年の論文に初登場したIS-LMモデル(財市場と貨幣市場の均衡モデル)を通じて形成されていた[4]。

新古典派総合は市場の需給モデルをケインズ理論に適用することから始まっていた。そして新古典派総合は意思決定プロセスにおいて重要な役割を担っているインセンティブやコストを包含していた。その具体例として個人の需要における消費者理論があり、この消費者理論は(コストとしての)価格と所得がどのように需要量に影響を及ぼすのかといったことを示していた。

https://en.wikipedia.org/wiki/New_classical_macroeconomics

新しい古典派マクロ経済学

新しい古典派マクロ経済学は新古典派のフレームワークを分析するマクロ経済学の学派であった。そして新しい古典派マクロ経済学は合理的期待のようなミクロ経済学に依拠した基礎の意義を強調していた。

新しい古典派マクロ経済学はマクロ経済分析に対して新古典派ミクロ経済学を通じて基礎を提示していた。この新しい古典派マクロ経済学は初期のケインジアンに類似したマクロ経済学のモデルを成立させるために価格の粘着性や不完全競争のようなミクロ的基礎を用いていたニュー・ケインジアンと対照的であった[1]。

1 歴史

古典派経済学は近代経済学の始まりを示す語であった。1776年にアダム・スミスによって著された『諸国民の富』が古典派経済学の誕生を示していると考えられていた。その核となるアイデアは資源配分に最適であり修正を加え続ける市場の力を前提にしていた。またあらゆる個人が経済活動を最大化することが想定されていた。

そしてカール・メンガー、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、レオン・ワルラスによって19世紀後半のヨーロッパで引き起こされた限界革命が新古典派経済学として知られる潮流を生み出していた。この新古典派経済学の体系はアルフレッド・マーシャルによって詳述されていた。しかしワルラスの一般均衡が数学的な厳密さと公理からの演繹的な推論に依拠した科学としての経済学を方向付けており、ワルラスによる研究は新古典派経済学の核になり、今日でも主流派の経済学のテキストブックに取り上げられていた。

新古典派経済学は世界恐慌まで主流派であり続けていた。しかしその後1936年のジョン・メイナード・ケインズによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』の出版を経て、いくつかの新古典派経済学の前提が否定されるようになっていった。ケインズはマクロ経済学のパフォーマンスを示す集計量に依拠したフレームワークを提示しており、現在行われているようなミクロとマクロの区別を方向付けていた。またケインズ理論の功績は経済活動を「アニマル・スピリット」によって突き動かされるものとして認識している点にあった。この点でケインズ理論は人間の経済的役割をいわゆる(欲望を最大化する)合理的な経済主体に限定していた。

そして第二次世界大戦を通じてアメリカや西ヨーロッパにおいてケインズ政策が浸透するようになった。1970年代まで続いた主流派としてのケインズ経済学の地位は元アメリカ大統領であるリチャード・ニクソンや経済学者であるミルトン・フリードマンによる「我々は今や皆がケインジアンである」との発言にも示されていた。

そして厄介な問題が1970年代と1980年代初頭にスタグフレーションが引き起こされるにつれて表面化していた。スタグフレーションは失業とインフレが同時に高止まりすることを意味していた。ケインジアンはスタグフレーションの出現に戸惑っており、フィリップス・カーブが高いレベルのインフレと失業を想定していなかったことがその背景に存在していた。

1.1 スタグフレーションに対するレスポンス

ケインズ経済学がスタグレーションを説明することに失敗していたことに対応して、新しい古典派経済学が1970年代に登場していた。ロバート・ルーカスやミルトン・フリードマンのような新しい古典派やマネタリストによる批判がケインズ経済学に再考を促していた。とりわけルーカスはケインズモデルに疑問を投げかけるルーカス批判を行っていた。このルーカス批判はマクロモデルがミクロ経済学に依拠すべきであることを強調していた。

1970年代のケインズ経済学の明白な失敗を経て、新しい古典派はしばらくの間マクロ経済学の主流派になっていた。

2 分析の方法

新しい古典派による視点は経済成長の変動要因を3つに分類しており、生産性ファクター、資本ファクター、労働ファクターが挙げられていた。そして新しい古典派による視点やリアルビジネスサイクル理論を通じて分析がなされており、実体経済の変動が説明されていた。

生産性ファクターは集計された生産効率を意味していた。また世界恐慌との関連で生産性ファクターは経済が利用可能な資本や労働における遊休率を示していた。

資本ファクターは異時点間の消費における限界代替率と資本の限界生産力のギャップを包含していた。そして資本(貯蓄)課税のように資本蓄積や貯蓄の形成に作用した結果としての「社会的便益の」損失の存在が指摘されていた。

労働ファクターは余暇に対する消費の限界代替率と労働の限界生産性との比を意味しており、雇用の負担を増加させる労働税(労働市場におけるある種の軋轢)のように作用していることが指摘されていた。

3 論拠と前提

新しい古典派経済学はワルラスの法則に依拠していた。あらゆる経済主体は合理的期待に依拠した効用を最大化することを前提にしていた。そして経済は価格や賃金の調整による完全雇用における単一の均衡をつねに想定していた。つまり市場はいつも清算されていた。

新しい古典派経済学は代表的個人モデルを採用していた。代表的個人モデルは新古典派から厳しく批判されており、カーマン(1992年)によって指摘されているようにそのミクロ的行動とマクロ的プロセスの不整合が理由とされていた。

合理的期待の概念は当初ジョン・ミュースによって用いられており、その後ルーカスを経て世に広められていった。新しい古典派モデルの1つにリアルビジネスサイクル理論があり、エドワード・C・プレスコットやフィン・E・キッドランドによって展開されていった。

4 レガシー

正統派の新しい古典派モデルに関して現実を説明しながら予測することにおけるパフォーマンスが劣っていることが指摘されていた。新しい古典派モデルは現実の景気循環のサイクルと変動の大きさを両立させながら説明することに失敗していた。そして予期せぬ貨幣的変動のみが景気循環や失業に影響を及ぼすといった結論は経験的な事実と一致していなかった[2][3][4][5][6]。

また主流派経済学は新しい新古典派総合に移行していった。新しい古典派を含む多くの経済学者はいくつかの理由から賃金や価格が需給の長期均衡へスムーズに移行しないといったニュー・ケインジアンのアイデアを容認していた。そして金融政策が短期的に有効であるといったマネタリストやニュー・ケインジアンの視点も容認していた[7]。新しい古典派マクロ経済学は合理的期待形成仮説や異時点間の最適化といったアイデアをニュー・ケインジアン経済学に援用していた[8]。

ピーター・ガルバックスによれば[9]評論家たちは新しい古典派マクロ経済学に対して表面的で不十分な理解しか持ち合わせておらず、新しい古典派の前提における一定の特徴に注意すべきであることが指摘されていた。そして価格が完全にフレキシブルであり、世界や市場の期待が完全に合理的であり、実物経済のショックがランダムに生じるならば、金融政策は失業やGDPに影響を及ぼさず、実物経済をコントロールする政策はインフレ率の変化にしかならないことも指摘されていた。しかしこのような前提が成立しないケースでは金融政策は有効であった。また同様のケースではランダムな財政政策も有効であった。仮に政府が市場をコントロールする手段を有しているならば、ケインズ風に実物経済をコントロールすることは可能であった。そして実際のところ新しい古典派マクロ経済学は経済政策を有効にするための条件を強調しながらも無効にするための条件をなおざりにしていた。またランダムな財政政策の効果に対する誘惑が忘れ去られることはなかったが、新しい古典派によって経済政策の活躍の場は狭められていた。ケインズがランダムな財政出動の効果を肯定している一方で、財政政策の効果は新しい古典派においても新しい古典派が認めた条件を満たしているときのみ肯定されていた。

リアルビジネスサイクル理論に貢献しているベルント・ルッケは新しい古典派マクロ経済学モデルを「経済のカリカチュア」と呼んでおり、その前提が市場の失敗の蓋然性や非合理な行動を除外しており、価格がいつも完全にフレキシブルであり、市場が常に均衡していることを理由にしていた。そして現在の新しい古典派マクロ経済学のミッションはどの程度この経済のカリカチュアが景気循環を十分に予測することができるのかを研究することにあった[10]。

https://de.wikipedia.org/wiki/Neue_Klassische_Makroökonomik

新しい古典派マクロ経済学

新しい古典派経済学はとりわけロバート・E・ルーカス、トーマス・サージェント、ニール・ウォーレスによって研究されており、新古典派の理論を通じてミクロ的に基礎付けされたモデルを採用していた。その主な前提は合理的期待形成や絶えず市場が清算された状態にあることを包含していた。そして新しい古典派経済学は金融政策が想定の範囲内であれば無効であると論じていた。1970年代の論争がケインジアニズムとマネタリズムの論戦によって特徴付けられている一方、1980年代以降の論争はニュー・ケインジアニズムと新しい古典派マクロ経済学のそれに移行していた[1]。

1 前提

新しい古典派マクロ経済学は以下の前提に依拠していた[1]。

市場の清算が完全な価格のフレキシビリティに立脚していた。

失業は調整コストを通じた一時的なものであった(自然失業のみ存在していた)。そして長期において非自発的失業は想定されていなかった。

合理的期待形成仮説によれば経済主体があらゆる利用可能な情報を効率的に活用することが念頭に置かれていた。

完全な貨幣の中立性:想定内の金融政策は名目価格と名目賃金に対してのみ作用していたが、GDPや雇用に影響を及ぼすことはなかった。

大きなショックや想定外の財政・金融政策を通じたランダムな変動が不完全情報に依拠しながら生じていた。

2 他の学派との関係

ある経済学者はマネタリズムの派生を含む新しい古典派マクロ経済学を研究しており、他の経済学者は新しい古典派マクロ経済学内の差がマネタリズムとケインジアニズムの差より大きかったと論じていた[1]。

市場の清算が想定されており、新古典派総合やニュー・ケインジアニズムと対比させながら金融・財政政策の無効が論じられており、短期における金融政策の有効性が述べられていた。他方でニュー・ケインジアニズムは合理的期待形成や新しい古典派マクロ経済学に依拠したミクロ的基礎を包含していた。

3 評価

新しい古典派マクロ経済学はマクロ経済学の展開において重要な役割を担っていた。とりわけマクロ経済学のミクロ的基礎は経済主体の合理的行動に依拠しており、モデルにインフレ期待の影響を組み込んでいた。これらの要素はニュー・ケインジアニズム(新しい新古典派総合)に包含されていた。

そして実際のところ新しい古典派マクロ経済学におけるリアルビジネスサイクル理論は実体経済のトレンドを予測することに失敗していた。このリアルビジネスサイクル理論は改良を加えられながらニュー・ケインジアンのモデルに受け継がれていった[2][3][4]。

現在概して新しい古典派マクロ経済学の研究者を含む経済学者の中にコンセンサスが存在しており、それは賃金や価格が需給均衡を達成するのに十分なほど素早く調整されるといったことはないといったものであった。したがって金融政策の効果に対するいくつかの仮説は今日その支持基盤を失っていた[5]。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Nouvelle_économie_classique

新しい古典派経済学

新しい古典派経済学は1970年代に展開されたある経済思想の潮流を示していた。新しい古典派経済学はケインジアニズムを否定しており、全体として新古典派経済学に依拠していた。新しい古典派経済学の特徴はミクロ的基礎付けにあり、ミクロ経済学によってモデル化された経済主体の行動からマクロモデルを導き出していた。

新しい古典派の前提は次のようなものであった。

(効用を最大化する)経済主体の合理性。

合理的期待形成。

つねに経済は唯一の均衡にあり(完全雇用を果たしながら)、この均衡は価格と賃金の調整メカニズムによって達成されていた。

リアルビジネスサイクル理論は新しい古典派における核になる理論であった。

新しい古典派の経済学者を以下に列挙する。

ロバート・ルーカス(1995年ノーベル経済学賞受賞)
フィン・E・キドランド(2004年ノーベル経済学賞受賞)
エドワード・C・プレスコット(2004年ノーベル経済学賞受賞)
ロバート・バロー
ニール・ウォーレス
トーマス・サージェント(2011年ノーベル経済学賞受賞)

https://en.wikipedia.org/wiki/AD-AS_model

AD-ASモデル

AD-ASモデルないし総需要・総供給モデルは総需要と総供給の関係を通じて価格と産出量を分析するマクロ経済モデルになる。AD-ASモデルはジョン・メイナード・ケインズによる『雇用・利子および貨幣の一般理論』に依拠していた。AD-ASモデルはマクロ経済学における単純化された例の1つであり、リバタリアンでありマネタリストでありレッセ・フェールの信奉者であるミルトン・フリードマンからポストケインジアンであり政府による介入主義者であるジョーン・ロビンソンまで幅広く採用されていた。

従来の「総需要・総供給モデル」は幅広く認知されたケインジアニズムをビジュアルで示していた。供給が需要を生み出すといったセイの法則に依拠している古典派の需給モデルは総供給曲線をつねに垂直に描いていた(長期の話ではない)。

1 モデル

AD-ASモデルは景気循環についてのケインズ・モデルを示していた。総需要曲線や総供給曲線のシフトは外生的な要因が実質GDPと価格水準に与える影響を想定するために用いられていた。またAD-ASモデルは動学(価格水準や実質GDPのような要素が時系列でどのように変動するかを示すモデル)の一部に組み込まれていた。そしてAD-ASモデルはインフレと失業の関係を示すフィリップス・カーブに関連していた。

2 総需要曲線

総需要曲線はIS-LM曲線上の均衡所得の推移と価格水準との関係によって定義されていた。右下がりのAD曲線はIS-LMモデルから導き出されていた。

総需要曲線は財市場と資産市場が同時に均衡している価格水準と産出量の水準の組合せを示していた。LM曲線がLM'曲線に右下方にシフトしたときのIS曲線とLM曲線を示している図によれば、財市場と貨幣市場が同時に清算されるE'に新たな均衡がシフトすることが示されており、シフトしたGDPであるY'はより低い価格水準P'に対応していた。したがって価格水準の低下は均衡支出の増加を導いていた。

総需要曲線の定式化

eqn62.png

Yは実質GDP、Mは名目マネーサプライ、Pは価格水準、Gは実質政府支出、Tは外生的な実質課税額、Z1はIS曲線のシフト(支出に対する外生的な影響)やLM曲線のシフト(貨幣需要に対する外生的な影響)に作用する外生変数を示していた。実質マネーサプライは総需要に対してポシティブに作用しており、実質政府支出も同様であった(独立変数が一定方向に変化するとき総需要も同方向に変化していた)が、税は総需要に対してネガティブに作用していた。

IS-LM分析では実質所得が横軸になり、利子率が縦軸であった。

AD-AS分析では実質所得が横軸になり、価格水準が縦軸であった。

3 総需要曲線のスロープ

総需要曲線のスロープは財市場と資産市場の均衡を考慮しながら実質残高が消費支出の均衡に影響を及ぼすさじ加減を反映していた。そして実質残高の増加は均衡所得と均衡支出を増大させ、貨幣需要の利子弾力性を低減させ、投資需要の利子弾力性を増大させていた。また実質残高の増大は所得と支出の水準を増大させ、乗数を増大させ、貨幣需要の所得弾力性を低減させていた。

この含意として、貨幣需要の利子弾力性が小さく、投資需要の利子弾力性が大きいほど、総需要曲線は水平に近づいていった。また乗数が大きく、貨幣需要の利子弾力性が小さいほど、総需要曲線は水平に近づいていった。

4 総需要曲線に対するマネーストックの拡大の影響

名目マネーストックの増大は各価格水準に対する実質マネーストックを増大させており、資産市場における金利の低下は実質残高の増大を後押ししていた。またマネーストックの拡大は総需要を刺激しており、均衡所得と均衡支出を増大させていた。つまり図を用いるならば、総需要曲線はマネーストックの拡大に応じて右方にシフトしていた。

5 総供給曲線

総供給曲線は労働市場の均衡ないし不均衡を反映しており、総供給曲線はさまざまな価格水準において企業がどれほど生産しているのかを示していた。そして総供給曲線は個々の価格水準に対して企業が生産する予定の産出量を表していた。

ケインジアンの総供給曲線によれば、ある部分ではAS曲線は水平に近く、不況期の価格を前提にした財の需要量がどれほど多くとも、企業は供給を行うだろうといったことが想定されていた。このケインジアンの総供給曲線は失業が存在しており、企業が現在の賃金で望むがままの労働力を補うことができ、一切設備を増強することなく増産することができる(例えばアイドル状態の設備が多数存在している)といったことを前提にしていた。したがって生産に関する平均費用は生産量の変化にかかわらず一定であることが想定されていた。これらの想定はケインジアンが政府の介入を肯定するための根拠になっていた。また経済の総生産は価格水準を低下させることなく減少することが想定されていた。そしてケインジアンによる賃金の下方硬直性に関する経済的リアリティーは政府による刺激策の必要性を示していた。つまり総供給を拡大させるように低く賃金を調整できないため、政府が介入する必要が存在していた。ケインジアンの総供給曲線は総供給が価格水準の変化に応じて変化するカーブを描いていた。そのカーブは企業の生産に関する収穫逓減の法則に従っており、企業が成長するにつれて設備のキャパを改善すればするほどコストがかさむことが想定されていた。収穫逓減は天然資源の希少性にも依拠しており、その希少性は増産がコストの上昇につながることを示していた。ケインジアンの総供給曲線におけるバーティカルな部分は経済の物理的な限界に対応しており、ある限界を超えると増産が不可能になることが想定されていた。

古典的な総供給曲線は短期の総供給曲線とバーティカルな長期の総供給曲線で構成されていた。短期の総供給曲線はある価格水準で財・サービスを提供する産出の想定をビジュアル化していた。ここでいう「短期」は最終財の価格のみが調整され、労働や資本といった要素価格が調整されない期間を示していた。そして「長期」は要素価格がすでに調整されている期間を表していた。短期の総供給曲線は収穫逓減の法則や資源の希少性を理由にしてケインジアンの総供給曲線と同様に右上がりのカーブであった。長期の総供給曲線はバーティカルであり、要素価格がすでに調整済みであることが背景に存在していた。完全雇用から離れたポイントで生産を行うと要素価格が上昇し、短期の総供給曲線を内側にシフトさせ、均衡は完全雇用を達成するどこかのポイントで生じていた。しかしマネタリストによれば、ケインジアンに好まれる需要サイドの刺激策は単にインフレを引き起こすだけであった。また総需要曲線が外側にシフトするときに一般価格水準が上昇していた。そしてこの上昇した価格水準は家計や生産要素のオーナーが財・サービスの価格の上昇を求めることの要因になっていた。要素価格の上昇は企業の生産コストを押し上げ、短期の総需要は逆に内側にシフトすることを惹起されていた。つまりその理論的な帰結はインフレであった[1]。

5.1 総供給曲線のシフト

長期の総供給曲線が存在していないケインジアンのモデルや短期の総供給曲線に関する古典派のモデルは同じ要因から影響を受けていた。生産コストを変動させる要因は生産コストが低減すればカーブを外側へそして増加すれば内側にシフトさせていた。短期の生産コストに作用する要因は税や補助金、賃金、原材料の価格を包含していた。この短期の生産コストに作用する要因が短期の総供給曲線をシフトさせていた。また労働と資本の量と質の変化は長短期の総供給曲線に影響を及ぼしていた。労働や資本の量の増加はそれらの価格の下落に対応していた。そして労働や資本の質の向上は労働者や機械あたりの産出量の増大を促していた。

古典派における長期の総供給曲線は潜在産出量に作用する因子から影響を受けていた。このような因子は労働や資本の量と質の変化をその核に据えていた。

6 古典派やケインジアンにおける財政・金融政策

ケインジアンのケース:財政を拡大させ、政府支出の増加や減税を政策として採用するならば、総需要曲線が右方にシフトすることが想定されていた。この右方シフトは均衡産出量や雇用の増加を含意していた。

古典派のケース:産出量の水準が完全雇用のとき総供給曲線はバーティカルであった。そして企業は価格水準の如何にかかわらず均衡産出量の水準をキープしていた。

財政の拡大は総需要曲線を右方にシフトさせ、財に対する需要を増加させていたが、企業は利用可能な労働力を確保できないので産出量を増大させることに問題を抱えていた。企業がより多くの労働者を雇用する際に賃金や生産コストの上昇に直面することになり、結果として製品の価格が上昇することが促されていた。そして価格の上昇は実質マネーストックを減少させ金利の上昇や支出の減少を促していた。

労働市場の供給過剰をともなう総供給曲線つまり短期の総供給曲線は以下のように示されていた。

eqn63.png

Wは名目賃金率(短期の下方硬直性により外生的に与えられる)、Peは想定された(期待)価格水準、Z2は労働需要曲線の位置に影響を及ぼす外生変数のベクトル(資本ストックや技術の水準)を示していた。そして実質賃金は企業の雇用や総供給に対してネガティブに作用していた。価格の推移を読み間違えた企業による生産計画のミステイクを背景にすると想定された価格水準は総供給に対してポジティブに作用していた。

長期の総供給曲線は資本ストックが常に最適化されるような時間の流れと関係しておらず(ミクロ経済学で用いる「最適化」の意味)、賃金が労働市場を均衡させるように調整され価格に対する想定が適切であるような時間の流れに関連していた。また名目賃金率は外生的であり、総供給方程式の独立変数として作用していなかった。そして長期の総供給曲線は以下のように示されていた。

eqn64.png

長期の総供給曲線は産出量の水準が完全雇用のときにバーティカルであった。長期においてZ2は労働供給曲線の位置に作用する因子(例えば人口)を包含しており、労働市場の均衡における労働供給曲線の位置が雇用に影響していることを背景にしていた。

7 総需要曲線や総供給曲線のシフト

総需要曲線や総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示す。またその反対の外生的な因子は左方に曲線をシフトさせていた。

7.1 総需要曲線のシフト

総需要曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。そして総需要曲線の右方シフトの結果として価格水準は上昇するであろう。また短期において総供給曲線がバーティカルであるよりむしろ右上がりであるならば、実質産出量が増大することが想定されるが、長期において完全雇用が達成され総供給曲線がバーティカルであるならば、実質産出量が一定で変動しないことが想定されていた。

IS曲線に依拠した総需要曲線の右方シフト

消費支出の外生的な増大

物的な資本に対する投資支出の外生的な増大

意図された在庫投資の外生的な増大

財・サービスに対する政府支出の外生的な増大

政府から国民への移転支出の外生的な増大

課税額の外生的な減少

自国の輸出の外生的な増大

自国の輸入の外生的な減少

LM曲線に依拠した総需要曲線の右方シフト

名目マネーサプライの外生的な増大

マネーサプライに対する需要つまり流動性選好の外生的な減少

7.2 総供給曲線のシフト

短期の総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。そして総供給曲線の右方シフトの結果として価格水準は減少し実質GDPは増大するであろう。

賃金率の外生的な減少

物的資本ストックの増大

技術進歩 -- 資本や労働から産出する技術の進展

また長期の総供給曲線を右方にシフトさせる外生的な因子を以下に示すことにする。

人口の増大

物的資本ストックの増大

技術進歩

7.3 推移プロセス -- 動学

経済が定常状態から最も離れているときに定常状態に戻るムーブメントが最も早くなることが指摘されていた。

つまり総供給がショックを受けると総供給は定常状態から離れるが、供給はゆっくりと定常均衡にシフトし、初めに大きな変動が生じた後、定常状態に達するまで小さな変動が続いていた。均衡に戻る変動は定常状態から最も離れているときに最も大きく、均衡に近づくにつれて小さくなっていった。

一例を挙げれば、生産者は生産要素(土地、労働、資本のような)の増大として石油価格の急騰を理解していた。この急騰はインフレ期待を上昇させることを通じて供給曲線を上方にシフトさせていた。このシフトは総供給曲線を定常状態を戻すようなゆっくりとした調整プロセスにあった。インフレがゆっくりと落ち込んでいくにしたがって総供給曲線は定常状態へと回帰していった。

8 マネタリズム

貨幣数量説によれば価格水準は貨幣数量に左右されていた。ミルトン・フリードマンは産出量や価格の変動に影響を及ぼす金融政策や貨幣の役割を強調したマネタリストと呼ばれる経済学者のリーダーとして認知されていた。貨幣数量説は短期の供給曲線がバーティカルになることを想定しない厳密な貨幣数量説に対して否定的であった。つまりフリードマンや他のマネタリストは短期と長期における貨幣数量の影響について異なった見解を有していた。フリードマン達は長期における貨幣の影響が中立的になることを主張していた。そして名目マネーストックの変動は実質マネーストックに一切影響を及ぼさず価格を変動させるだけであることが論じられていた。しかし短期においてフリードマン達はマネーストックの変動や金融政策が実質値に影響を及ぼす可能性があることについて言及していた。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Modèle_OG-DG

AD-ASモデル

AD-ASモデルは経済を説明するモデルであった。そして総需要・総供給モデルは時として準需要・準供給モデルと呼ばれていた。総需要・総供給モデルは財・サービス市場、貨幣市場、債券市場、労働市場における一般均衡を示していた[2]。短期において価格水準は変動せず調整されることもなかった[2]。時間の流れは基本的に短期の連続として想定されており、長期は価格水準が完全に調整された状態として理解されていた[2]。

総需要曲線

AD-ASモデルにおける総供給曲線はIS-LMモデルを通じて導かれていた。総需要曲線は一般価格水準と均衡国民所得の間の関係を描写していた。総需要曲線は右下がりになり、通貨の調整メカニズムによって一般価格水準の上昇が均衡国民所得の低下を促すことを理由にしていた[3]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-politics

ポスト・ポリティックス

ポスト・ポリティックスはポスト冷戦時代において地球規模のコンセンサス政治が登場していたことに対する批判を示しており、ベルリンの壁の崩壊を促した東ヨーロッパの共産圏の瓦解によって社会の基盤としての資本主義市場や自由主義国家を肯定するポストイデオロギーを容認するコンセンサスが形成されていたことを背景にしていた。ジャック・ランシエール、アラン・バディウ、スラヴォイ・ジジェクのようなラディカルな哲学者のグループやラディカルな平等の実現としての政治学に対する関心によって生み出された批判はポストイデオロギーを容認するコンセンサス政治が適切な政治的状況をつぶす原因になっていると主張しており、「ポスト・デモクラティック」な統治技術の確立を通じて、政治学は社会福祉行政学になっていることが指摘されていた。一方でポストモダニストによる「自己の政治学」の登場を通じて新たな「行為の政治学」が生み出されており、「行為の政治学」においては政治的価値観が道徳的価値観に入れ替わっていた(シャンタル・ムフは「道徳の領域における政治学」と呼んでいた)。

1 ポスト・ポリティカル・コンセンサスのルーツ

1.1 1989年以降のグローバルな政治状況

1989年のベルリンの壁崩壊に続く東欧の共産圏の瓦解は冷戦時代の終結に加えて東側と西側や共産主義者と資本主義者の間のイデオロギーを巡る膠着状態の幕切れを告げていた。資本主義は勝者になり、資本主義に対応した政治ドクトリンであるリベラル・デモクラシーも同様であった。危機に瀕していたシステムを一掃した共産主義国家の崩壊に伴って西側は社会民主主義やケインズ主義を放棄しながら、新自由主義に後押しされてグローバルに広がった新たな局面に直面していた。その端緒としてのフランシス・フクヤマによる『歴史の終焉』はポスト・ポリティカルでありポスト・イデオロギーの「時代風景」の登場を描いていた。そしてニューレイバーや「ラディカルな中道勢力」による第三の道を目指す政治がその先駆けとして示されていた。

1.2 知的状況

フクヤマによればさまざまな知的状況がポスト・ポリティカル・コンセンサスの形成に関連していた。脱工業化社会の社会学者であるアンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックによって提起されていた「再帰的近代化」は第三の道を目指す政治を反映した知的状況を示していた。「再帰的近代化」を通じてこれらの著者は政治活動の急務が社会福祉の問題(再分配の政治)からリスク管理(責任を分配する政治)へシフトしていたと述べていた。そしてその例として「環境の外部性」が挙げられており、それは産業の前進に伴う副産物であり望ましいものではなかった。ベックやギデンズにとってのリスク管理(責任を分配する政治)は必然の急務であり、時代に対応した新たな「社会的再帰性」を意味しており、それは手段合理性や決定的な政治衝突とは異なっており、それらのある種の利己主義がポスト冷戦における社会変化を導いていた。実際ギデンズにとってのリスク管理(責任を分配する政治)は「社会的再帰性」を念頭に置いており、社会技術に関する知識や「ポスト・トラディショナル」な社会におけるリスクの拡散を通じた個人が決定し活動できる能力の拡大を意味しており、次のような道を開いていた。 

ポスト・フォーディストによる生産(現在行われているフレキシブル生産や稟議制に基づいている)

討論や能動的信頼を通じて社会が権力と対峙していることを再構成すること(国内外の政治的な権力、専門家による権威、行政的な権力を含んでいる)。

ベックやギデンズによれば、これらの変化は政党や労働組合のような伝統的な団体を通じて組織された利害関係、階級、イデオロギーに基づく政治を時代遅れなものにしていた。私たちは新たな「自己の政治学」(ベックにおけるサブ政治やギデンズにおけるライフ・ポリティクス)の登場を目撃しており、幅広いポストモダンの転換点の一部として、以前は純粋に個人の問題として考えられてきた諸問題が政治学の舞台に姿を現していた[1]。

あらゆるコメンテーターがこの解釈に同意している訳ではなかったが、この批評のパースペクティブはポスト・ポリティカルな批評を生じさせている構成要素に包含されていると考えられていた。例えばニコラス・ローズ[2]はニューレイバーに影響されたイギリスにおける第三の道を目指す政治の登場と共に現実となった政治的主観性のカモフラージュを通じた政府による新たな「行為の政治」の役割を強調することによってベックやギデンズに反論していた(とくにそれは脱工業化社会を経験した先進国において顕著であった)。ギデンズの「社会的再帰性」に反対しており、この新たな「倫理政治」に関するローズの研究は、自律性、自由に対する希求、自己充足的な個人を強調している「国家を超えたガバナンス」といった新たな市場個人主義者(シュンペータリアン)による枠組みに対する非難を示唆していた。ローズによれば、「倫理政治」が有している基本的な特徴は政治的なアクターの政治的な感性よりむしろ倫理的な感性に関連しており、新自由主義の影響を受けながら政治学が引き受けている道徳的な役割に対応する傾向にあった。実際、イギリスのパブリック・セクターの衰退に関する研究を通じて、デイビット・マーカンド[3]はその道徳的な諸価値に言及しており、その価値観は「プライベート・セクター」からの巻き返しを通じて、サッチャーやブレア政権によって成された新自由主義的な改革や国有資産の売却を支持していた。この事実はポスト・ポリティカルな批判が対処していた重要なプロセスになり、ムフは「道徳の領域における政治学」に触れており、他方でランシエールによる政治的なるものの再構築は1980年代後半のアリストテレス的な「倫理学の」変化と共に生じていた政治哲学の脱政治化に対する挑戦でもあった[4][5]。

またベックは環境保護主義を政治のパーソナライゼーションを促進するパラダイムとして指摘しており、他方でエリック・スィンゲドーによれば、先進国に見られるように、環境に「悪い」とローカルに考えられているものによる影響に対して抵抗する個人のライフスタイルにおける選択や個人主義を強調している環境保護主義が自然と人間社会の構造的な関係における適切な政治的トピックスから注意をそらすためにうまく機能していることが指摘されていた[6]。そしてベックはリスク社会を特徴付ける地球規模の不確実性の展開の結果としてポストモダンでアイデンティティに根差した政治と関連した新たな懐疑論を歓迎していた[7]。対照的に、批評家たちは真実に対する反本質主義の立場が「大きなナラティブ」に対して作用していた深刻な結果を嘆いており(政治的目的論を参照せよ)、ポスト・ポリティカルな批評の支持者にとって、これらの大きなナラティブは政治の現実を示していた。

2 ポスト・ポリティカルな批評

ポスト・ポリティカルな批評の支持者は統一された理論を呈示していなかった。しかしムフを除いて、この批評に関連した哲学者たちは次のような共通点を有していた。

彼らがラディカルな左派の思想のリバイバルの端緒に対して近年築き上げた貢献、

アクティブでラディカルな平等(形式的な平等と対照的に公理的に与えられた平等)や人間の解放に対する関心、

広い意味での唯物論者は転向しており、後期の研究ではマルクス主義の色彩を多少なりとも残しているものの、初期の研究では皆マルクス主義から影響を受けていた。さらにマルクス主義の影響を残しながら、皆が実質的にポスト構造主義の立場から離れていた[9]。

ムフのようにランシエール、バディウ、ジジェクが一致していることは、現在のポスト・ポリティカルな危機において「適切な政治状況」をシステマティックに妨げているものが存在しており、「適切な政治状況」の再構築は政治的なるものに対する概念をラディカルに再提示することに依存するだろうといったことであった。

存在や経験の側面のみから政治を語ること、つまり「政治における事実関係」や「権力の行使と一般的な事柄に関する決定」[10]としての政治に対する関心の示し方の難しさの広がりに対して、彼らの再構成は政治の存在論つまり政治的なるものの本質に関心を寄せなければならないと論じていた[11]。彼らの各人が異なった方法で適切な政治的なるものを概念化しながら、彼らの皆が政治学が解決困難な対立感情を包含する状況に置かれていることに一致しており[12][13][14][15]、ジジェクはラディカルで先進的な視点が「政治的なるものの一部として対立感情を最初の問題として取り上げるべきだ」と論じていた[16]。定義に用いるロジックに対するコンセンサスについて、ポスト・ポリティックスが適切な政治的なるものを妨げていることが批判されていた。

2.1 政治的なるものに対するランシエールの説明

2.1.1 政治とポリス体制の比較

ランシエールは政治の概念を再度取り上げていた。ランシエールにとって、政治の概念は通常想定されているような「権力の行使や一般的な事柄に関する決定」の中になかった。むしろもし政治が共通の空間や共通の関心を共有することを事実にして出発しているならば、そしてもし「一般的な事柄に関するあらゆる決定が共通の土台の存在を求めているならば」、ランシエールによれば、適切な政治が土台を共有しながら競合する利益の代表の間に存在している固有の対立感情を描写することになることが指摘されていた[17]。

共通の土台を通じて、政治的なるものに対するランシエールの説明は適切な政治における概念(対立感情のようなもの)とランシエールがポリス体制と呼んでいるものとの間の違いから生じていた。適切な政治とポリス体制との間の根本的な違いは、ランシエールによれば、土台を共有した別々の利益の代表に現れていた。適切な政治は土台を共有した競合する性質を認め合うだけでなく引き出してさえもいた。他方でポリス体制は次のようなものであった。

「...(ポリス体制は)明確な論点、場、機能のアンサンブルやそれらに関連した特徴と力のアンサンブルとしての共同体を象徴しており、その全てが共同体のモノとプライベートなモノとの分配に配慮を加えることを前提にしており、その区別は明示されたものや暗黙のもの、ノイズや人間の言葉...等における秩序をともなう区分に依存していた。このような説明(論点、場、機能)は存在、行為、場に相応しい発言の意味を同時に決定していた。」[18]

この意味で(そしてランシエールは幾つかの重要な点でフーコーと意見を異にしていたけれども)、ポリスの概念に対するランシエールの説明はミシェル・フーコーの著作の中で与えられていた説明に類似していた。

2.1.2 感性の境界

ランシエールによる政治の概念化はフーコーの「ポリス」の概念をさらに一歩進めることを許容していた。ポリス体制の中で与えられた「構成要素」の定義が「存在、行為、発言の様式」を支配しているだけでなく[20](例えば、「場に相応しい」行動のルール)、むしろ名前が示唆しているように、特定の「感性の境界」は、理解できるものとできないもの言い換えるならばこの秩序の下で認識できるものとそれ以外との間に境界を引く行為でありポリス体制そのものであった。

この洞察は部分的には民主主義の起源に対するランシエールの問いに由来しており、部分的には対立感情の概念に対するランシエールの理論の役割に由来していた。それは「不和」と単に英語に訳される(政治における対立感情の構成要素を明示しながら)一方、フランス語の対立感情はある発言の状況における当事者間の誤解やより正確に言えばランシエールの意味において「過去をばらばらに語ること」を含意していた[21]。ランシエールの視点は誤解という事実が中立的なものではなく、むしろポリス体制の中で与えられた感性の境界が、理性的なディスコース(ユルゲン・ハーバーマスやジョン・ロールズの熟議民主主義のような)であるかもしくは動物の鳴き声であるかのように、ある見解の表明が言葉として聞こえるのかノイズとして聞こえるのかどうかを決定付けていることを強調していた。ランシエールによれば、「耳に入らない」声をラベリングする事実は(政治的な)アクターとしての声の内容を否定していることに関連していた。

2.1.3 ポリス体制の将来:過剰な構成要素、誤算、政治的主観

上述されたように、「理解」が「誤解」を伴う限り(例えばある社会的な課題が置かれた状況)、ポリス体制にとっての「適切なロジック」はランシエールによるアクティブでラディカルな平等を実現するロジックと一致していなかった。古代アテネ市民の主権の一部としてのデモを促していた不法な活動に対する説明の根拠として、ランシエールは民主主義を「権力を行使するためのばらばらの権利を有している人々にとっての特定の権力」として定義しており、「民主主義は考慮の対象外の人々にとっては矛盾に満ちた権力であり、その根拠は説明されていなかった。」[23] 適切な政治的な「行為」(バディウの言葉を借用すると)は稀なタイミングで起こり、その稀なタイミングで無党派の人々はこの権利を行使しており、その共通の利害関係において「侵害されたことに対する主張」を形成しており、「政治的主体化」の際つまり新たな政治的なアクターの誕生のときに、平等に対するロジックは適切なものに対する不平等主義を反映したポリス体制のロジックと重なっており、その声に耳を傾けることを主張している無党派の人々は感性の境界を決定する権利を侵害されており、説明責任を果たさない説明をするポリス体制によってなされた起点に該当する「誤り」を覆すことを行なっていた。

ランシエールにとって、「正当性と支配に基づく秩序の破綻」の瞬間[25]は1つの可能性であり、あらゆるポリス体制の究極の危機を前提にしていた。この主張はポリス体制との関係の性質によって無党派の人々に付与された作用によって説明されていた。ランシエールは労しながら、無党派の人々がある社会階級や排除された集団ではなく、状況に飲み込まれた混成集団であったことを強調しており、この混成集団は平等を手続き的に表現しているだけでなく、ポリス体制の中で予め与えられていたアイデンティティのように存在している新たな政治的アクターを含意しており、政治的な変動の前の段階ではこの2つの特徴はランシエールによれば政治で要求される水準に達していなかった[26][27]。その代わりに無党派の人々は「存在感なくどこにでもいる」脇役として考えられていた[28]。「...政治的なアクターはコミュニティの構成要素に包含することやその束に定義を与えている包含と排除の関係に疑念を呈している脇役のコミュニティであった。このアクターは...ある社会集団やアイデンティティに還元することができず、むしろ社会集団から外れたことを表明しているグループであった。」[29]

上記の特徴を概念化することを通じて、無党派の人々は力を生み出しており、適切なものに対するポリス体制のロジックは「これ以上何かを引き受けることが不可能な状況を前提にした」ロジックであり、「ある役割を果たし一定の空間を占有しているグループで構成される」全体像として社会を示すことが可能であることを仮定していた[30]。このロジックと反対の「全体は部分の総和に勝る」[31]といった古くからの格言を明示的ないし暗示的に示すものとして、必ずしも必要とされていない特徴を有した無党派の人々の存在が適切なものに対するポリス体制のロジックをラディカルに否定していることが指摘されていた。

2.1.4 ランシエール、ジジェク、バディウ、ムフにおける必ずしも必要とされていない特徴を有したものと普遍性

ランシエールの枠組みにはある矛盾点が存在していると思われていた。つまり政治的主体化はある場を肯定することをともなっているが、同時にその場のロジックや別の視点にとっての適切なロジックを否定していた。「コミュニティとともに」一体感を形成することを通じて一定程度「見えなかったものが見えるようになる」ことによって政治的な変動が引き起こされることを具体的に示していくことを通じてランシエールはこの問題を扱っていた[32]。ランシエールの主張によれば、明らかに普遍主義的な姿勢が社会空間をプライベートであり適切な場の集合に分割する個別主義的なロジックを否定するように機能しており、前述の矛盾点を解決していた。またランシエールによるポスト・ポリティカルなものに対する説明に関して、スラヴォイ・ジジェクは普遍的なものの役割を重視していた。ジジェクにとってある状況は以下のようなときに政治的になっていた。

...ある特定の要求...が権力を有している人々に対するグローバルないし普遍主義的な抵抗の暗示的な融合として機能し始めており、その抗議の含意はもはや単なるその要求そのものに留まらず、その特定の要求に共感するといった普遍主義的な次元を含んでいた。...ポスト・ポリティクスは特定の要求を暗示的に普遍化することを妨げるように作用していた[33]。

前述の矛盾点について、ジジェクによる「仮想化しきれない残余」[34]といった概念は普遍的なものを強調する以上に有益なことがあった。「残余」の意味はランシエールによる「余剰」と密接に関係していた。他方で「仮想化しきれないもの」といった概念は(社会空間等の公共空間を)分割することに対して強く抵抗することを含意していた(ランシエールが依拠している普遍主義的な姿勢以上に強く抵抗していた)。

この点でジジェクによる「残余」の存在論的状態はバディウによる『ノン・エクスプレッシブ・ダイアレクティクス』における特別な存在つまりジェネリックな集合に類似していた。数学における集合論に由来しており、ジェネリックな集合は「明確な説明や名前がなく分類上の位置付けを有しない数学的な対象...つまり名前を有していないことがその特徴である」に対してポール・コーエンによって与えられた名称であった。そのためそのジェネリックな集合が政治学における基本的な問題に対する対案を与えており、それはバディウによれば次のようなものであった。仮に法(ポリス体制)のロジックの紡ぎ合わせと欲望を解放するロジックとの衝突を通じて、欲望が法によって定められた存在論的宇宙を超えた何かに対して向けられているならば、政治活動における重要な問題は法や政治学の可能性に関する存在論的領域の下で規定されることのない欲望の対象を正確に表現する方法を見出すことであり、欲望の規定は欲望を否定することにつながっていた[35]。ジェネリシティ(一般性)がバディウの著作における普遍性に関連しながら、バディウによる普遍性はランシエールやジジェクにおける「余剰」や「残余」の概念を大きく発展させていた。またバディウによる普遍性はランシエールが社会全体を新たに概念化する際に適切な政治に対して現にそうしていた以上に強い方向性を示していた。もしくはジジェクは次のように述べていた。「...正統性のある政治...は一見不可能なテーマによる芸術であり、現状において「実現可能」と考えられている状況の背景を変更するものであった。」[36] したがってジジェクによれば対立感情の問題も同様に考えられていた。

余剰の概念は政治的なるものに対するムフの理論においてさまざまな目的を果たしており、それはムフやラクラウによるヘゲモニーについての概念に依存していた[37]。ディケージによれば、ラクラウやムフによるヘゲモニーは「完全に紡ぎ合わせられた社会ないし完全に閉ざされた社会」が存在し得ないことを仮定していた[38]。この理由としてヘゲモニーは対立感情を通じてのみ実現可能であったが、対立感情は何らかの欠落や余剰を通じてのみ存在しており、この視点によれば、コンセンサスは完全に閉ざされた世界のものではなく、むしろ「仮のヘゲモニーによる一時的な帰結」として存在していた[39]。飽和状態が存在し得ないことに依拠している点で、ムフによるポスト・ポリティクスに対する批判はランシエール、バディウ、ジジェクによる批判と重なる面を有していた。しかし飽和状態に対するムフの抵抗はポスト構造主義者の政治論やそれに付随する反本質主義によって示されていた。この点で政治的なるものに対するムフの理論はランシエール、バディウ、ジジェクと大きく異なっており、ランシエール、バディウ、ジジェクは影響を受けているポスト構造主義からの距離に配慮しており、少なくともポスト・ポリティカルな時代背景の確立に対する貢献を理由にしたものではなかった[40]。またムフによる理論は普遍主義的な態度をムフが示していなかったことを表していた。実際のところ、上述されているように、政治的なるものは普遍的なるものの代わりに対するヘゲモニーを巡る衝突であった。したがって正統性のある普遍性は存在し得ないものであった[41]。

2.1.5 飽和状態とポスト・ポリティクス

現在の危機は平等を否定しない条件下のポスト・ポリティカルな状況として特徴付けられており、その反対にポスト・ポリティクスの中心である先進国のリベラル・デモクラシーにおいては形式的平等が勝利を勝ち取っており、コミットし熟議するメカニズムを通じたデモクラシーの「成熟」が課題として残っていた。そして上述の哲学的展望からポスト・ポリティクスは、飽和状態を論じることや余剰を否定することを強調するグラデーションとして特徴付けられていた。したがって現在のリベラル・デモクラシーの危機において全てを民主的に組み込む方向性は飽和状態を付随するものであった[42][43]。他方で形式的平等の達成についての議論は「余剰」の事実を無視していた。コンセンサスに基づく受容と排除のストラテジーにもかかわらず、「余剰」の事実が現在明らかに示されており、第一に現実社会や物質的不平等の深化を通じて、第二にポスト・デモクラシーにおけるコミットメントについて条件付けられた状況に抵抗する適切な政治的態度を通じてなされており[44]、つまりそれはポスト・ポリティカルなコンセンサスについての承諾に対する抵抗であった。

3 ポスト・ポリティクスと環境

ジジェクやバディウが明らかに認識していたように、ポスト・ポリティカルなシナリオは環境分野でも進んでいた[45][46]。この認識によれば、環境地理学者であるエリック・スィンゲドーは環境政治学においてポスト・ポリティカルな状況の現れを認める研究を主導していた。

3.1 環境政治学におけるポスト・ポリティカルな状況の現れ

3.1.1 ポスト・イデオロギーにおけるコンセンサス

前述のようにポスト・ポリティカルな外観はコンセンサスによる抑制的な役割によって特徴付けられていた。市場とリベラルな状況が原理を形成し、現在におけるグローバルな「メタレベル」のコンセンサスはコスモポリタニズムや人道主義を(政治的なるものよりむしろ)対応している道徳的な価値システムに関する中心的で異論の余地のないドグマとして認識していた[47]。地球サミット(1992年)から約20年間にわたって、持続可能性は道徳的な秩序におけるこのような新たなドグマとして確立されることにとどまっていなかった。ドグマを形成しながら、グローバルなコンセンサスは現在におけるポスト・イデオロギー時代の「イデオロギー」の1例として歩み出しており、スィンゲドーが述べているように、持続可能性は適切な政治的対立を欠落しているため、達成目標に合意しない選択肢を持ち合わせていないことを背景に抱えていた[48]。

持続可能性の言説を通じた自然に対するある描写に関するスィンゲドーの分析はその理由を説明していた。スィンゲドーは持続可能性を通じた政治的な論争の対象になっている自然が人間の介入によって「調和を乱されて」存在論的に安定を前提にしたラディカルに保守的な存在として取り扱われていると論じていた。現実の自然における複数性、複雑性、予見不可能性を否定することを通じて、持続可能性は自然を「暗号に変えて」おり、どのような種類の社会環境の中で暮らしたいのかといった適切な政治的問いに対する論争を回避する(市場に基づいた)現状維持の解答を呈示していた[49]。 

3.1.2 管理主義とテクノクラシー

ポスト・ポリティカルな状況は専門家の登場によって特徴付けられていた[50]。ある程度の民主的な方法に立脚していたものの(ギデンズによる社会的再帰性についての論文によって示されている熟議を伴う関与を通じて[51])、専門家による決定が適切な政治的論争に取って代わるようになっていった。

この傾向は環境分野において特に顕著であった。ゲルト・フーミンネやカレン・フランソワによれば[52]、環境分野で増大している科学による「植民化」以上の関心は科学におけるラディカルなノンポリ化のロジックが植民化を進めていることにあった。ブルーノ・ラトゥールを引き合いに出しながら、フーミンネやフランソワの著作は科学に基づいた著作を問題の俎上に上げており、科学は「事実」を産み出している物質的世界を中立的に表現している訳でもなく、自然を表現する科学の正当性が緻密な検討を逃れるはずもなかった。それと対照的に、「...近代憲法における事実と評価の区別が現実を形成するプロセスを曖昧にするように作用しており」[53]、ポスト・ポリティカルな状況の形成を促しながら、政治は「コンセンサスに依拠した社会科学的な知識によって要素が決定されたプロセスの管理」に矮小化されていた[54]。環境政治学において、「意見の不一致が許容されていたが、技術の選択、組織の軌道修正、管理上の問題、タイミングの選び方においてだけ通用するものであった。」[55] グローバルな気候変動への対応に関して、気候学者による解釈を巡る論争が「気候における正義」についての疑問から注意を逸らしていることがその例であった。

そのため国家を超越した統治[56]へ向かう新自由主義的な移行を伴いながら始まったテクノクラートによる「ポスト・デモクラティック」な潮流はコンセンサスによる政治によって擁護されていた。そして特に環境分野は新自由主義的な統治における試行錯誤のための特別な領域になっていたため、ポスト・ポリティカルな潮流からの影響を非常に受け易かった。環境政策における新自由主義的なシフトは1990年代にニュー・パブリック・マネジメント(NPM)からの影響の増大[57]や新たな環境政策手法(NEPIs)に対する選好の増加によって特徴付けられていた。他方で特段示すべき内容は費用便益分析(CBA)のような量的分析が優勢であることや単位変更、会計、監査、性能測定に対する「ポスト・デモクラティック」な関心とミッチェル・ディーン[58]が呼んでいたものの例としての新たな炭素市場における規制機関の広がりだけであった。

また後者の関心についてバーバラ・クルックシャンク[59]やディーンは新たな「市民権のテクノロジー」と「ポスト・デモクラティック」な状況を結びつけていた。生権力の形態として、新たな「市民権のテクノロジー」が国家によって意図的に形成されてきた道徳的に責任があり自律的な主体に「規制する能力」[60]を移すように機能していた[61][62]。ウルリッヒ・ベックのようなコメンテーター達はこの新たな「市民権のテクノロジー」が誘導している政治を個人に引き付けることについての一歩進んだ可能性に対するパラダイムとしての環境保護主義を歓迎していた[63]。しかしスィンゲドーによれば、先進国によく見られるように環境保護主義が個人に立脚した道徳的な選択を強調していたこと(ライフスタイルのような)が人間社会と自然との構造的な関係についての適切な政治的問題から離れたところに注意を促すように機能している可能性が指摘されていた[64]。

3.1.3 特定の利益を巡る交渉としての政治

ジジェク[65]やランシエール[66]が論じているようにポスト・ポリティクスにおいて、特定のグループによるある政治的主張はそのグループにおける潜在的に普遍的な特徴を否定されていた。そしてウースターリンクやスィンゲドーがポスト・ポリティカルな議論をブリュッセル空港に関連した騒音公害を巡る論争に適用していたことがその例であった。騒音公害による地域差を包含した衝撃は住民同士の関係にひびを入れることになり、グローバルな「ジャストインタイム生産システム」(利潤追求の極みのひな形)に対抗する普遍的な主張が表面化する可能性を排除していた[67]。

3.1.4 ポピュリズムや適切な政治的なるもののリバイバル

適切な政治的なるものの残余としてのポピュリズムはポスト・ポリティカルな状況を示す前触れであった[68]。まずポスト・ポリティカルなコンセンサスは適切な政治的なるものに対する代わりとしてのポピュリストによる意思表明を指向していた[69]。そしてコンセンサスに依拠した政治の限界に対する人々のフラストレーションが、コンセンサスに依拠した秩序を脱政治化する試みに際して、ポピュリストの手によって具体化した代案に譲る形となっていた[70]。

ポピュリズムにおける最も際立った特徴の1つは共通した外部の脅威ないし敵を想起させることにあった。敵を想起させることを通じた同質化の影響によってポピュリストによる意思表明の核となる「国民」に対する反動的で硬直的な架空の概念が形成されていた。スィンゲドーによれば[71]、気候変動に関する政治において「国民」は人為的な気候変動に対処する能力や責任の違いを考慮されることなく共通の苦境に直面している一体化された「人間」になっていた。気候変動を巡る言説における警鐘的なトーンを分析した他の研究者によれば[72][73]、スィンゲドーは想起された終末論的な虚構が外部の脅威を形成しながらエリート主導で十字軍的な行動を促していたことを強調していた(エリート主導の十字軍的な行動はポピュリズムの古典的な特徴を備えていた)。そのため環境保護主義的なコンセンサスはポピュリストによる側面を含んでいるものであった。

他方でジジェクが示しているように[74]、コンセンサスに対する不満は極右運動を好む傾向があり、極右のポピュリストによる戦術は上述された適切な政治的なるものに代替する同様の必要性に対応しており、極右の暴力的な意思表明は対立感情を煽る適切な政治的プロセスを模倣していた。他方でコンセンサスに基づく企業戦略[75]とジジェクが「ポピュリストによる誘惑」と呼んでいるものの双方に抵抗している適切な政治的主張は暴力や暴動としてのみ表面化していた[76]。環境分野における「資源を巡る紛争」に対するメディアの報道は、中立性を装った適切な政治的側面(もちろんポピュリストによる側面を伴うかもしれないし、必ずしも進歩的である訳でないかもしれないが)をよく表しているかもしれない論争の好例であった[77]。

http://de.wikipedia.org/wiki/Post-Politik

ポスト・ポリティクス

ポスト・ポリティクスは政治を脱政治学化した体裁を整えていた。そして議論の枠組みは既に想定されていたものであった。

その概念はフランスの政治哲学においてジャック・ランシエールによって深化されており、ルイ・アルチュセールに由来しており、適切に導かれ、国家によって政治的な力を律せられた「ポスト・デモクラシー」の概念と類似していた[1]。

1 語法

スラヴォイ・ジジェクによれば、ポスト・ポリティクスはあるプロセスであり、特定の利益を巡る交渉についてのプロセスを伴っており、[...]多少なりともの妥協を包含していた。公開討論や政治問題の形成が論点の対象ではなくて、(グローバル資本主義における)枠組みの中で機能している特定のイデオロギーにとらわれない理念が議論の対象であった。そして特定の政治的主張を行うための多くの専門家や(グローバルに活動する)ソーシャルワーカー他が問題に関与しているため、問題を普遍化する行為や中立的に作用する行為の蓋然性が否定されていた。「普遍的な関心は特定のグループによってそのグループの問題に収斂されていた」(ジジェク)。また問題の前提を普遍化する行為は特定のグループの利害関係抜きに形成されることはなかった。このことはジジェクによって明らかにされた訳ではなく、(パラドキシカルであるが)システムや組織内のグループを通じて示されていた。特定のグループによる要求は単純な主張を通じて論じられており、それが意味している中身が問われることはなかった。ポスト・ポリティクスは問題の(奥にある)前提を普遍化することに対して抵抗しようとしていた。例えば「新たな税制」を求める声に対して、公共の問題としての視点よりむしろ特定の視点からの普遍性が叫ばれており、その状況は政治的に扱われたものであった。

ポスト・ポリティクスにおけるもう1つの特徴は、行政の政策を「特定の利害を反映した」政策として「純粋に」行政の利害を反映した政策と見做している点にあった。そして一切の(不可避の)政治的な論争(ポレモス)なしに「最善の解決法」(ロゴス)を見出すことが重要であった。しかし政治学において財・サービスの分配や再分配の問題の帰結として、ポレモスのないロゴスは存在しておらず、また利害や特定の視点を形成することのない政策も存在していなかった。ジジェクによる選択肢は「正統性のある政治が一見不可能なテーマによる芸術であり」、「現状において「実現可能」と考えられている状況の背景を変更すること」にあった[2]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Metapolitics

メタ・ポリティクス

メタ・ポリティクスは政治に対するメタ言語学であった。そしてそれは政治そのものとの政治的なダイアローグであった。この意味でメタ・ポリティクスはさまざまな形の問いかけを意味しており、政治や政治的なるものに関する言説に対してオルタナティブな方法を採用していた。このメタ・ポリティクスは政治的な問いかけや政治そのものに関する分析的・規範的言語に影響を与える自意識の役割を前提にしていた。つまりメタ・ポリティクスは政治が政治と対話する方法についてのダイアローグであった。

もし研究者が言語を研究の対象にし分析を加えて説明するならば、その研究のために用いられる言語はメタ言語であった。現在メタ・ポリティクスという語は主体に関するポストモダンの議論やポストモダンの議論と政治学との関係に関連させてしばしば用いられていた[2]。広い意味でメタ・ポリティクスは国家と個人の関係を研究する方法論であった[3]。

現代の視点

メタ・ポリティクスにおける2名の重要な現代の思想家はアラン・バディウとジャック・ランシエールであった。バディウによるメタ・ポリティクスを論じながら、ブルーノ・ボスティールズは次のように述べていた。

「バディウは、言うまでもないことだが「政治的なるもの」でなく「政治」を思考のアクティブな姿ないし思想のプラクティスとして把握することを提唱することを通じて、ハンナ・アーレントやクロード・ルフォールに連なったグループに関連した政治哲学の伝統に対して反論していた。そしてバディウは民主主義、正義、テルミドーリアニズムに対する事例を研究する以前に、師であるルイ・アルチュセール、その同時代のジャック・ランシエール、シルヴァン・ラザロによる仕事の内容を「メタ・ポリティカルに」指向する議論の周辺を評価していた。」[4]

https://fr.wikipedia.org/wiki/Métapolitique

メタ・ポリティクス

「メタ」(ギリシア語の「向こうにある」)や「ポリティクス」(ギリシア語の「ポリス」であり、都市、政権を意味していた)という語の合成であるメタ・ポリティクスは文字通りに解釈すれば「政権の向こうに存在するもの」を意味していた。アリストテレスの時代(前4世紀)から用いられている「形而上学」といった語との違いに関して、18世紀までドイツやフランスの哲学者の目に触れられていなかったことが指摘されていた。しかし権力に関連しており長期政権を指向している政治の向こうに存在している活動や思考の場を示しているメタ・ポリティクスという語の実際の意味は20世紀後半に登場しており、イタリアのマルクス主義者であるアントニオ・グラムシの著作に依拠していた。

1 近代の概念の起源

フランスにおけるメタ・ポリティクスの概念はドイツの哲学者であるクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(1762-1836)やアウグスト・ルートヴィヒ・シュレッツァー(1735-1809)の語を援用していたジョゼフ・ド・メーストルの著作の中に初めて登場していた。

「私はドイツの哲学者たちが形而下学というよりむしろ形而上学としての政治的なるもののためにメタ・ポリティクスという語を考案しているのを耳にしたことがある。この新たな語は政治における形而上学を表現するために考案されており、一語であるがゆえに関心を集めやすいことが背景に存在していた。」[1]

レイモン・アベリオの難解な視点によって部分的に援用されている伝統的な意味において、国際政治学の発展はプロトタイプの神や政治の超越をなぞらえており、その意味を把握し具体化し将来を見据えるために認識し解釈することが問題であった。仮に世界を含めた維持可能な調和や善良な知性が存在していないならば、生活している個々ないし全員のために、メタ・ポリティクスのみが人間に対して社会を普遍的なロゴス(エコロジー経済学を含む)と対応させることを許容していた。

形而上学における概念がプラトンに関係しているように、メタ・ポリティクスにおける概念はソクラテスに関連しており、ソクラテスは教育を受けた市民による真の民主主義を通じた良い統治の原則を初めて明らかにしていた。

2 メタ・ポリティクスと右翼におけるグラムシズム

全く別の文脈において、イタリアの反体制派の共産主義者であるアントニオ・グラムシ(1920-30年代)の指摘から派生したメタ・ポリティクスの概念は1970年代に「新右翼」と呼ばれる思想の潮流によって発展していた。その政策は(政治における)実際の権力を手中に収める前にイデオロギーや文化の土俵で活動することから始まっていた[2]。

この政策は共同体や市民社会の価値観・思想に浸透していくことを含んでおり、手段やターゲットにする政治家を考慮しておらず、「グレーセ・ポリティーク」(ニーチェ)の延長にあり、歴史的な影響を追求する傾向にあった。

メタ・ポリティクスは「政治家による」政策を超越しており、その視点によれば政策には何らかの誇張があり、それはもはや政治のフィールドから離れたものであった。メタ・ポリティカルな政策は以前の価値観が流行り廃りを経て長期の影響をもたらす世界観を浸透させていた。またこの政策は短期の権力を手中に収めることと両立していなかった。仮に時代の精神の兆候として変化が求められていないならば、その定義によってメタ・ポリティクスは何らかのイデオロギーに基づいた動機をもたず、現在の政治に関心を寄せることを想定していなかった。

フランスにおけるメタ・ポリティクスの理論はアラン・ド・ブノワ、ジャック・マルロー、ピエール・ル・ビガンと共にヨーロッパの文明を研究の対象にしていた。

特にメタ・ポリティクスはイタリアの共産主義者であるアントニオ・グラムシの思想から影響を受けており、グラムシは「有機的知識人」による文化闘争を長期にわたる政治活動の成就の前提にしていた。

「グラムシアンの理論は基本的に市民社会を経済的基盤の状態に還元する古典的なマルクス主義と異なっていた。グラムシアンによれば、経済のカテゴリーは1つのセクターに過ぎず、文化のカテゴリーが権力を巡る闘争に影響を及ぼしていることが指摘されていた。文化は政治権力を批判することを通じた知的手段によって変化をもたらす必要がある基盤を構成していた。」[3]

メタ・ポリティクスを否定せずに、アラン・ド・ブノワは知的影響力や思想の影響力を技術進歩のような現代における変化の要因と比較し相対化していた。

「もちろん現在の世界において過去の役割と比較できる役割を思想が維持しているのか否かについては疑問の余地が残っていた。知識人が少なくともフランスを含む国々において真の意味での道徳的影響力を有している時代は明らかに過ぎ去っていた。大学はメディアを通じてその特権の多くを失っていた。そしてテレビのようなメインストリーム・メディアは込み入った思想を伝えることが苦手であった。このような時代において最も決定的な社会変革が古典的な政治の主体でなく技術革新によってもたらされていることは明らかであった。それでも思想には意義があり、その思想が価値観やグローバル社会に依拠した価値システムに影響を及ぼしていたことを理由にしていた。この時代の最大の特徴の1つであるネットワークの多元化がその思想の広がりを促す可能性を内在させていた[4]。」

3 アラン・バディウとメタ・ポリティクス

近年メタ・ポリティクスの概念が毛沢東主義者であるアラン・バディウによって取り扱われていた。

「メタ・ポリティクスを通じて、私は哲学が現実の政治思想から導き出している影響を理解していた。メタ・ポリティクスは政治に思想の影響がないことを望む政治哲学と対立しており、政治的なるものを考えるために哲学に回帰することになるだろう。」[5]

http://de.wikipedia.org/wiki/Metapolitik

メタ・ポリティクス

メタ・ポリティクス(ギリシア語の「向こうにある」と「政治」)は政治学や純粋な哲学的国家論であり、特定の国家の立場を通じて対象にされることもなければ、それらと関連することもなかった。

1 さまざまな思想

メタ・ポリティクスという語はフランス語圏のジョゼフ・ド・メーストルの著作の中に初めて登場していた。1985年の講演の中に「メタ・ポリティクス」というタイトルが含まれており、国際政治、環境政策、人類の発展における問題を扱っていた。

1.1 アラン・バディウのメタ・ポリティクス

『ユーバー・メタ・ポリティーク』という著作を通じてアラン・バディウは政治学における「解放のための」存在論に取り組んでいた。メタ・ポリティクスを通じて政治学は現実を検証する思想として理解されていた。バディウにとって政治の基本は民主主義にあり、民主主義は工場や土地の占有のような政治上の動きを通じて形成されていた。したがってバディウは制度化された民主主義を政治的特徴を喪失したものとして示していた。正義と平等は制度化された政治を通じて脱政治化され解体されており、個人の活動にしか実現されていない状況であった。バディウはアリストテレスの言葉である「平等を求める人々はたいてい暴動を掻き立てる」といった一節を引き合いに出しながら「平等を求める人々」と制度化された政治を比較していた[1]。

1.2 新右翼の思想

右翼メディア-特に『ユンゲ・フライハイト』誌-の言説分析からデュースブルク・インスティトゥート・フューア・シュプラーハ・ウント・ゾツィアールフォルシュング(DISS)までをカバーしながらアラン・ド・ブノワのような新右翼の思想家は「文化闘争」や「右からの文化革命」といった枠組みの中でメタ・ポリティクスの概念を用いながら「生命の意味より軽い存在はないとの前提を組み込んだ主張にともなうインターディスコースの発生」を説明していた。そして『ガイスト・ディー・ヴェルト・レギールト』といったアルミン・モーラーによる表現活動の後、右派の立場から精神的な土台を与えられた「グラムシズム」が形成されていった。シャルル・シャンプティエやアラン・ド・ブノワによれば、歴史は「たしかに人間の意思や活動から展開しているのだが、これらの意思や活動はその意味を与える前提によってすでに定められた枠組みの中で機能していた。」 フランスにおける新右翼はド・ブノワによれば「集合意識」としての国民や国家を想起させる神話や思想の形でリバイブしており、「新たな統合を通じた生命や意味を柱としながら」、「思想のつながり」を通じた「世界観」を与えていた。ロジャー・グリフィンはそこにある潮流を見出しており、それは「ファシズムから本物のメタ・ポリティカルな姿への移り変わり」を示していた。カールハインツ・ヴァイスマンによって『クリティコン』誌に公表された構想つまり『ユンゲ・フライハイト』誌における活動や「資本主義を通じて情報やライフスタイルに影響を与えるために」政治性を帯びる以前の枠組みによってもたらされる場は、DISSによれば、文化的なヘゲモニーを獲得することを狙ったメタ・ポリティカルな政策として認識されていた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Post-democracy

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーという語はウォーリック大学の政治学者であるコリン・クラウチによって『コウピング・ウィズ・ポスト・デモクラシー』といったタイトルの著作の中で2000年に作られた造語であった。ポスト・デモクラシーはしっかりと機能している民主主義システム(選挙が行われることによって政権が交代し、また言論の自由が存在している状況)によってもたらされる状態を示していたが、そのような民主主義の事例はまだ限定的であった。またこの議論の前提として器の小さいエリートが問題になる決定を行い民主主義の制度を濫用していることが指摘されていた。クラウチはロンドンのシンクタンクであるポリシーネットワークにおける『イズ・ゼア・ア・リベラリズム・ビヨンド・ソーシャル・デモクラシー?』といった論文や『ザ・ストレインジ・ノン・デス・オブ・ネオリベラリズム』といった著作の中でポスト・デモクラシーに関するアイデアを深化させていた。

ポスト・デモクラシーという語は21世紀における民主主義の進化を説明するために登場していた。この語は論争を呼んでおり、その基盤の一部を喪失しながらある種の貴族社会を指向していると認識されている民主主義に対して関心を惹きつけていることが理由として指摘されていた。

1 背景

クラウチは次のような背景を示していた。

共通の目標の喪失:脱工業化社会に生きる人々にとって、特に下層階級の人々がグループに帰属することがますます困難になっており、結果としてそのような人々を代表する政党に焦点を当てることも困難になっていた。例えば労働者、農家、起業家はもはや政治活動に魅力を感じておらず、このことはグループの成員としての共通の目標が喪失されていることを意味していた。

グローバル化:グローバル化の影響は国家が自国の経済政策を機能させる力を損なわせていた。そのため大規模な貿易協定や超国家連合(例えばEU)が政策を形成するために用いられていたが、このような政治が民主的な手段によってコントロールされることは非常に困難なことであった。

バランスを欠いたディベート:多くの民主的な国々において、政党の立場は非常に似通っていた。このことは有権者にとって選択できるものがないことを意味していた。その影響は政治的キャンペーンが立場の違いを強調するための広告のように映っていることにあった。また政治家の私生活も選挙の重要な道具になっていた。そして時折「センシティブ」な問題が争点から外されることがあった。イギリスの保守派のジャーナリストであるピーター・オボーンは2005年総選挙のドキュメンタリーを通じて、争点を限定的にして多くの浮動票をターゲットにしたことを理由にして総選挙が民主的なものではなかったと論じていた。

公共部門と民間部門の交錯:政治とビジネスの間の金銭的な癒着が大きな問題であった。ロビー企業を通じて多国籍企業はその国の住民より上手に法律をくぐり抜けることが可能であった。そして企業と国家は緊密な関係にあり、その理由として企業が雇用に大きな影響を及ぼしている点で国家が企業を必要としていることが指摘されていた。しかし製造プロセスの多くがアウトソーシングされており、企業が他国に逃げることが容易であるため、労働者は低賃金労働に従事することになり、さらに納税の主役は企業から個人に移り、その目的は企業にとって有利な条件を生み出すことにあった。そして政治家と経営者が政府からビジネスへ他方でビジネスから政府へジョブをスイッチすることは非常にありふれた光景になっていた。

私有化:公共サービスを民営化することを推進する「新しい公共経営」(ネオリベラリズム流の)の考え方が広まっていたが、民営化された組織は民主的な手段によってコントロールすることが困難であった。

2 結果

結果として:

ほとんどの有権者が投票する権利を十分に活用していないか、投票に多くを期待していなかった。

政治家は国民投票や世論調査における好ましくない結果をよく無視していた。2005年にフランスとオランダの国民が欧州憲法に対してノーを突きつけたときに、少し修正を加えただけで、フランスやオランダはこの条約を批准していた。

排外主義の政党の登場は国民の不満を利用したものであった。

そして外国政府が主権国家の内政に影響を及ぼす可能性が存在していた。クラウチによれば、ユーロ危機の処理はポスト・デモクラシーにおいて物事が機能するための方法論を示す好例になっていた。ヨーロッパのリーダー達はイタリアの新政権に対して何とか守らせるべきものを守らせようとしており、特にギリシアでは国民に対する遥かに厳しい措置が取られていた。

3 解決の道

クラウチによれば、ソーシャルメディアには重要な役割があり、有権者が公のディベートに対して積極的に参加する可能性を広げていることが指摘されていた。この延長として有権者は特定の利害を擁護するグループに参加する必要に迫られるかもしれなかった。また市民が意思決定する場をその手に取り戻す必要が存在していた。クラウチはこのような市民参加をポスト・ポストデモクラシーと呼んでいた。

オキュパイ・ウォールストリートは組織化されないある種の抵抗運動であり、金融業界に関する不満から生じていた。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Post-démocratie

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーは民主主義のルールに則った状況を意味していたが、実際は民主主義のルールの適用を制限しているように考えられていた。例えば経済学者であるセルジュ・ラトゥーシュによれば、コリン・クラウチの『ポスト・デモクラシー――格差拡大の政策を生む政治構造』を引き合いに出しながら、ポスト・デモクラシーは「私たちが今日経験しているようにメディアやロビー活動によって巧みに操作されながらでっち上げられた民主主義」を示していた[1]。

1 語の定義の試み

この語は21世紀における民主主義の進化の状況を説明するために登場していた。

この語は論争を引き起こしており、ある種の貴族主義的なルールを指向するために民主主義のルールの一部が喪失されていったことが理由として指摘されていた。

民主的な社会はそのための5つの基準と比較されていた:

自由な選挙を通じて権力を行使するリーダーシップを選択すること。

政治的な対立陣営や表現の自由の存在。

法に則った司法システムの存在。

少なくとも2つの選択肢(「実際に」民主主義を体現しているもの)を有していること。

自由で独立したメディアの存在。

これらの基準は次のように纏めることが可能であった:

代表者の選挙。

市民権を得ている人々や市民権を得ていない人々に対して法が保護している権利。

バランスの取れたディベートを認めること。

ポスト・デモクラシーは次のように纏められることが可能であった。

国民を代表していない人々を選択する選挙。

国家や権力によって尊重されていない法的権利。

少数のテーマに限定しており、ある一定の議論にしか賛同しないバランスを欠いたディベート。

2 スーブレイニストのビジョン

ポスト・デモクラシーを考察するもう1つのアプローチは、市民の論点がもはやローカルでなくグローバルのレベルで論じられていることに対して肯定的に反論することであった。

国家を超越した政治主体

多国籍企業の管理

スーブレイニストは民主的な議論のための理想的なレイヤーは国家であると考えていた。

3 事例

議会の事例:他の場所で決定された法の適用。

司法の事例:政府内の司法的な手段、意図されていない目的で活用されている国際仲裁裁判所。

排除された人々:民主主義のレベルを示すインデックスとして。

ディベートの内容:民主主義の健全性を示すインデックスとして。

民主主義に対する指標:民主主義のあらゆる側面を評価するために検証可能な基準を制定すること。

同じ視点から同じ情報しか解説していない独立系メディアの拡大。

http://de.wikipedia.org/wiki/Postdemokratie

ポスト・デモクラシー

ポスト・デモクラシーは市民の参加(インプット)ではなく公共の福祉のために奉仕しながら公平な分配の基準を満たす成果(アウトプット)だけを問題にしていた政治システムを分析していた。集団に対する拘束力を有する決定について民主的なプロセスは脇役としての意味しか与えられていなかった。そして公共の福祉を尊重する政治を通じて多数決や民主的にコントロールされた決定が適切になされているときに民主的なプロセスに価値があると思われていた。

多元論と対照的にポスト・デモクラシーでは、公共の福祉の内容を客観的に認識することが可能であり、民主的なプロセスを通じて利害の対立を調整せずに経営管理の視点を通じて問題を解決することを前提としていた。

選挙で選ばれた代表達はその権限(責任も含めて)を専門家、委員会、民間企業に委ねていた。市民は主権者としてみなされておらず、専門家による決定を受け入れる必要があったが、同時に有能な存在でなければならず、グローバル市場の前提であり正義を実現するものとして実際は公共の福祉を口実にした専門家からの要求を受け入れていた。

1 コリン・クラウチ

イギリスの政治学者であるコリン・クラウチ[1]はポスト・デモクラシーを次のように定義していた。

「選挙を経験しない専門家の役割[...]、選挙期間中の公開討論はスピンドクターによってコントロールされており、その内容はエンターテイメントに堕しており、矮小化された問題のみを論じており、その論点はそのスピンドクターによって周到に選び抜かれていた」[2]。

クラウチによる民主主義の定義によれば「大多数の人々が真剣なディベートや論点の形成に関与しており、世論調査の回答に対して消極的でなく、ある意味で政治評論家の役割を果たしており、次に現れるであろう政治的課題に取り組んでいること」が想定されていた[3]。

グローバル企業と国家の連携がポスト・デモクラシーを進展させていた。クラウチによれば、国際協調を通じた賃金、労働権、環境基準の調整が企業活動のグローバル化より遅れていることが主要な問題であることが認識されていた。多国籍企業が税制や労働環境に満足しなければ、職場を海外に移転することをカードにして揺さぶりをかける可能性が指摘されていた。このような揺さぶりの舞台(底辺への競争)は政府の決定に対して企業の影響が市民の影響より強いことを背景にしていた[4]。主要な論点は西洋の民主主義がポスト・デモクラシーの状態に近づいており、その後「恵まれたエリートの影響力」[5]が増大する点にあった。

他の論点として1980年代から政府が民営化を促進しながら市民の責任を重くする新自由主義を採用していたことが指摘されていた。クラウチは次のような事例を示していた。「国家が市民の生活に対する関心を失い、市民の無関心を助長するならば、気付かれないように企業はこのような状況を活用してセルフ・サービス方式を普及させていた。新自由主義の根底にある見通しの甘さはこのような状況を認識していないことにあった」[6]。

リッツィーとシャールはポスト・デモクラシーを「完全な民主主義という枠組みにおける擬似民主主義として認識することを通じて」説明していた[7]。

クラウチはポスト・デモクラシーという語が状況を適切に表現していると考えていた。「この状況のような民主主義においてある種の怠慢、葛藤、失望感が広がっており、強力な利益集団の代表達は[...]大多数の市民よりはるかに積極的に行動しており、エリートは国民の要求を操るための方法を学習しており、市民に対して選挙に行くように広告キャンペーンを通じて「上から」説得していた。」[8] またクラウチはポスト・デモクラシーが非民主的な状況とは異なっていることを指摘していた。

1.1 政治的なコミュニケーションの変質

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示している他の特徴は広告業界やテレビの商業主義を通じた「政治的なコミュニケーションの変質」[9]にあった。メディア関連企業はある側面では「営利部門の担い手」[10]でしかなく、他方で「メディアに対する支配力はごく少数の人間に集中していた」[11]。その一例としてシルビオ・ベルルスコーニやルパート・マードックが指摘されていた。「このような状況は政策決定者が一般人とのコミュニケーションの問題を解決することを容易にしており、民主主義にとってよかれと思ってなされたことがかえって損害をもたらすケースを示唆していた」[12]。

1.2 少数者に付与された特権

クラウチによれば、ポスト・デモクラシーが示しているもう1つの側面は「市場経済や自由競争のレトリックを口実にして特定の実業家に政治的な特権を付与していること」にあった[13]。そしてこのような特権の付与は「民主主義にとって深刻な問題」になっていた[14]。

1.3 階級の喪失

ポスト・デモクラシーの兆候は多くの人々によって「社会階級が消滅した」と考えられていたことを通じて確認されていた[15]。社会階級の消失は「伝統的な労働者階級が衰退していること」[14]や「他の階級が連帯しないこと」[16]に依拠していたが、欧米における富の格差は十分に認識されていた。

1.4 クラウチによる処方箋

クラウチは「ポスト・デモクラシーへの道」を回避するために3つのステップを指摘していた。それは「まず経済界のエリートによる支配を制限する手段を確立し、次に経済に左右される政治の状況を改革し、最後に一般人の活動の可能性を広げること」であった[17]。最後の点を言い換えるとそれは「新たなアイデンティティ」[18]を形成することであり、例えば地域の寄合いを通じて関係者の活動の可能性を広げることを含んでいた。民主主義のリバイバルに対する希望は一般人のアイデンティティに影響を及ぼす新しいタイプの社会的ムーブメントに内在していた。このムーブメントは成果を上げるためのロビー活動を通じた「ポスト・デモクラティック」な仕組みを活用しなければならなかった。そして政党は民主主義のリバイバルのための核となる部分を残す必要性に直面していた。また政党による支援はクラウチによれば民主的な変化にとって必要なものであった[20]。クラウチは「動物愛護のための過激なキャンペーン、アンチ・キャピタリストやアンチ・グローバリゼーションのアクティビスト、レイシズム団体、リンチと変わらない犯罪撲滅キャンペーン」に反対していた[21]。

これらの新たなムーブメントは「民主主義の活力」や「エリートによって操られる以前の政治[...]」に貢献すると考えられていた[22]。

1.5 ポスト・デモクラシーの派生

政治学者であるローランド・ロスは自治体レベルでの市民の関与を深め、民営化された施設を再度公営化するようにパブリックスペースを国家を通じて再生し、アクターに参加を促すことを提案していた[23]。ダニエル・ライトチヒは市民の判断、リキッド・デモクラシー、セルフ・マネジメントへの回帰、より小さな行政単位、子供の頃からの社会参加の機会の拡大、対抗的な公共圏の構築に言及していた[24]。

1.6 事例

クラウチによればニューレイバーは「ポスト・デモクラティックな政党」の例であった[25]。サッチャリズムによる新自由主義的な政策の継続を通じて「政党は[...]労働者階級からの社会的関心を失っていった」[25]。その例外は特定の女性差別に対する対応であった(「第三の道」を参照せよ)。クラウチによればオランダでは労働党が「オランダの奇跡」を実現していた[26]。しかしクラウチによれば「フォルタイン党が庶民に向けた「分かりやすさ」に対して抵抗しないオランダのリーダーが数多くの妥協を繰り返していたとオランダ人が考えるようになっていたこと」を通じて、2002年の選挙でフォルタイン党は成功を収めていた。「そして誰も特定の階級の利益を擁護しようとしていなかったことを背景にして、たった1つの表現を通じた「分かりやすさ」によって、移民やエスニック・マイノリティを排斥する「人々」や「国民」を動員していた」[27]。クラウチはベルルスコーニによるフォルツァ・イタリアを21世紀に特有の政党として分類していた。

ポスト・デモクラシー特有の傾向は国際的な統合の帰結から生じており、そこにはまだ共通の議論の土壌も国際紛争を民主的に解決するためのコンセンサスを形成する土台も存在していなかった。この事例は欧州連合になり、実際のところ欧州連合は民主主義の赤字を部分的に抱えていた。そして政治的な運動は欧州連合の政治システム特に欧州憲法における民主主義の赤字を具体的に改善する[28]ことを十分に考慮していなかった。

1.7 評価

インタビューの中でクラウチはオバマの運動が「民主主義の内部崩壊についての私の主張を否定することになった」と述べていた。「そして「確かにオバマは民主党の候補者であったが、実際のところオバマは若者をホワイトハウスへ送ろうとする運動の中に位置付けられており、将来に対する希望であった」[29]。

南ドイツ新聞の書評を担当しているイェンス・クリスチャン・ラーベは民主主義が本質的にエリートに起因する問題を抱えていると主張していた。そして連邦憲法裁判所を引き合いに出していた。イェンス・クリスチャン・ラーベは「ポスト・デモクラシーにおける[...]二重の現象つまり連邦憲法裁判所における規範に則した政治の理解と現実に則した政治の理解が二重に生じていたこと」を批判していた[30]。

またユルゲン・カウベはクラウチによる規範的なアプローチを批判していた。つまりクラウチはフォーディスト社会を理想としており、現在の多国籍企業によるインパクトを過大評価していると考えられていた[31]。ユルゲン・カウベはクラウチが示しているような民主主義のモデルを幻想の産物と考えていた。クラウチは著作の序章でその理想とするものが多大な労力を必要としていることを認めていた。しかしクラウチはハードルを少なくすることが発展に伴う負の側面を見逃すことになると主張していた[32]。

クラウス・オッフェはクラウチが「個々の国家や政治を極度に細分化しながら分析していたこと」[33]を批判していた。

パウル・ノルテは人々がクラウチによる批判を「歴史的に[...]そして長く語り継がれる民主主義の物語の中で理解している」と考えていた[34]。そして今日の民主主義は進歩していた。それは「リベラルや保守の視点」でもなければ「「左派やポスト・デモクラシー」の視点でもなく、それは薄暗い明かりの中に民主主義が照らし出されていることを理由にしており、困難な風景が忍び寄っていた」[35]。ノルテはさまざまな事柄の反映として「複数の民主主義」に依拠している今日に言及していた。「歴史的には熟議民主主義を指向していると考えられていた」[37]。

ディルク・イェルケによれば民主主義の危機はポスト・デモクラシーないし「民主主義の変質」として説明されていた。多くの批評家が「ファシリテーション、市民フォーラム、コンセンサス会議のような新たな参加の枠組みの形成を求めていた」[38]。イェルケは教育水準の高い中産階級のみがこれらの新たな機会を活用しており、「増加している底辺層」は参加の機会を活用していないことを論じていた。「結局のところ、全ての市民が社会参加に必要とされているリソースを有している訳ではなかった。特に時間、専門知識の基礎、レトリックの能力、自信の表れについてそうであった」[39]。イェルケは「社会の風通しを良くし、民主主義の不全に直面していたあらゆる人々を政治的なプロセスに取り込めるかどうか」が重要であると締め括っていた[40]。

http://en.wikipedia.org/wiki/Second_modernity

第二の近代

第二の近代はドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックによる造語であり、モダニティ以後の時代を示していた。

モダニティは工業化社会を推し進め農村社会を崩壊させており、第二の近代は工業化社会を新しく柔軟なネットワーク社会や情報化社会へ転換させていた(フェ・チュアンキー、2011年)。

1 リスク社会

第二の近代はリスクに対する新たな意識によって特徴付けられており、あらゆる生命つまり植物、動物、人間に対するリスクは人間の希少性から派生した問題に対するモダニティの成功によって生み出されていた(キャリアー、ノルドマン、2011年)。自然や社会のリスクから保護すると想定されていたシステムは人間由来の新たなリスクを副産物としてグローバルにますます生み出していると考えられていた(フェ・チュアンキー、2012年)。そのようなシステムは問題の一部であり解決のための存在ではなかった。近代化と情報化の進歩はサイバー犯罪のような新たな社会的危機を生み出しており(フェ・チュアンキー、2012年)、科学の進歩はクローニングや遺伝子組換のような新たな分野を切り開いており、そこでの意思決定は長期的な影響を十分に検討することなく行われていた(アラン、アダム、カーター、1999年)。

近代化の反作用がもたらすジレンマを認識しながら、ベックはもはや国家の利益を国家の力だけで十分に追求できない世界の困難を「コスモポリタン・レアール・ポリティーク」が克服するであろうことを示唆していた(ベック、2006年)。

2 知識社会

第二の近代は知識社会に関連しており、知識の複数性によって特徴付けられていた(キャリアー、ノルドマン)。知識社会はIT社会がもたらしている不確実性のような知識に依存したリスクを特徴としていた(ハーディング、2008年)。

3 抵抗

第二の近代に対する様々な抵抗が生じており、欧州懐疑主義はその一例であった(マルケッティ、ヴィドヴィチ、2010年)。

ベックは第二の近代に対する抵抗やその副産物としてITの活用やイデオロギーの統合の中にアルカイダを認識していた(ベック、2006年)。

http://de.wikipedia.org/wiki/Zweite_Moderne

第二の近代

第二の近代という語はハインリッヒ・クロッツによって1990年代初頭の現代美術と建築における第一の近代の秩序の表面的な崩壊を示すために生み出されていた。

この語はドイツの社会学者であるウルリッヒ・ベックによってグローバル化を通じて経済的・政治的に変質した世界を示すために用いられていた。

1 第一の近代

第一の近代は啓蒙時代から工業化以後の官僚体制までを示していた。第一の近代は18世紀から始まり、市民社会や国民国家が形成された時代であった。また第一の近代はマックス・ヴェーバー(『遺稿集 経済と社会』、1922年)やフェルディナント・テンニース(ガイスト・デア・ノイツァイト、1935年)のような社会学者たちによって明示されていた。

2 第二の近代

第二の近代を巡る理論は個人主義、合理主義、フォーディズムのような近代の原理をラディカルにする傾向を示唆していた。20世紀の後半に始まった第二の近代はグローバル社会の登場や雇用環境の問題をともなうグローバル化のプロセスを包含していた。また第二の近代はデジタル革命に対する文化的な反応として認識されていた。

第一の近代と第二の近代の違いとして「グローバル化」に手を施すことが不可能である状況が指摘されていた。またグローバル化に顕著な特徴は国民国家のような第一の近代における制度の軋轢が増していくことにあった。そしてグローバル化の進展とともに、トランスナショナルな組織がますます力を増しており、国民国家は力を失い主権を喪失していくプロセスにあった。このような状況は多くの問題を生み出しており、今日の至るところで経験されていた。

グローバル化の問題は現実社会の納税者とバーチャル世界の納税者との対立にも現れており、国民国家の力の縮小は社会的不平等の拡大を促しており、社会統合の喪失を招いていた。

第二の近代における問題はグローバル化、流動化、失業、環境汚染、政治・社会・文化のシステムにおける機能の喪失に対する解決の方法を見出すことにあった。

第二の近代に対する厳密な定義は現在のところ定まっておらず、発展途上の段階にあった。第二の近代が示す内容は、それが比較的新しいプロセスであるためさらなる研究を必要としているのかどうかや、近代の初期に存在していなかった要因としてのグローバル化にフォーカスしてもよいのか、そしてローマの観念論やドイツの観念論における200年前の批評を適用しても構わないのかどうかに依存していた。

ウルリッヒ・ベックは新たな問題についての言及を先鋭化させていた。欧米の資本主義社会で浮かび上がってきた新たな問題がダニエル・ベルやアンソニー・ギデンズのような社会学者によって指摘されていた。そのキーワードは例えばユルゲン・ハーバーマスによる「ノイエン・ウンユーバーズィヒトリヒトカイト」、ウルリッヒ・ベックによる「リスク社会」、リチャード・セネットによる「フレキシブル・パーソン」であった。ウルリッヒ・ベックやエディツィオーン・ツヴァイト・モデルネの著者たちによれば、人類は目標を達成するであろうし、人類の将来はグローバル化のような昨今の問題に対して理性に基づいて進歩を遂げていくであろうとの期待が存在していた。

「第二の近代」という語は社会科学において広がりを示していなかった。しかし上述のような広範な事例が多くの社会学者によって指摘されていた。多くの経済学者はグローバル化の影響を肯定的に捉えていた。

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このページは、Suzuki TakashiがJune 26, 2016 3:35 PMに書いた記事です。

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